公開日 2015年06月23日
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
高速バスで神戸空港まで行き、昼頃に発つスカイマークの長崎空港便に乗った。神戸から長崎までは空路52分という短い空の旅だ。ふだんは片道6900円ほどの低価格で購入できる路線だが、さすがにGW期間中とあって運賃は1万円ほどになっていた。
長崎空港から市内中心部の「新地」までは、高速道路を経由するリムジンバスで35分。片道800円で往復だと1200円とお得になる。朝めしつき6000円也のビジネスホテルにチェックインしてベッドに寝ころぶと、足元にある窓に向こうに、霧に包まれた坂道の街が幻想的に映っている。うむ、人生で何度も訪れることもないであろう長崎だから、観光でもせねばなるまい。長崎まで来て街歩きをしないなんて、人間としていかがなものか。などと自分にプレッシャーを与えていたら、だんだん外に出るのがおっくうになってきて、雨も降ってるしさぁと、半分は天気のせいにして、昼の3時からぐうたら寝てしまった。
目が覚めると時計の針は深夜0時。昼間から8時間も寝てしまったがために、二度と眠りにつけない。腹が減ったが、遠くまで出かけるのも面倒くさく、ホテル横のコンビニでインスタントそばと白めしを買ってきて、お湯を沸かして食べる。そういえば、長崎に行くからと何人かの九州ランナーたちに告げると、ていねいに名物料理や有名店のリストを送ってくれた。おかけで、長崎市内のグルメ情報は頭に入っている。トルコライスに皿うどんにちゃんぽんに、茶碗蒸し(巨大な丼に入ってるらしい)やミルクセーキ(凍ってるらしい)・・・。しかし、深夜1時にビジネスホテルの窓辺で食べているのは日本中どこにでもあるセブンプレミアムの天ぷらそばである。見知らぬ土地を歩いては見聞を広めようという前向きな心を失ったとき、人は老いてゆくのであろうか・・・などと考えつつ、生ぬるいそばをすする。結局朝まで眠れなかったが、8時間寝てるので良しとしておこう。
長崎港の海辺にある水辺の森公園が、「長崎橘湾岸スーパーマラニック」のスタート地点である。白亜の豪華客船が埠頭にどどんと浮かんでいる。出発を前にしたランナーたちが、再会の時を楽しんでいる。博多弁や長崎弁に熊本弁・・・九州イントネーションがここでは標準語なのだ。初開催から20回を重ねる伝統のマラニックには、走りの奥義を究めたような、ベテラン風情の九州ランナーたちが集結している。使い古され擦り切れたリュックには、「萩往還マラニック」で支給されたネーム入りワッペンがつけられている。このワッペンがついている人は、まあ徹夜走なんてのは屁のカッパという傑物たちである。
「長崎橘湾岸スーパーマラニック」は、春と秋、年2回開催されている。春は長崎市をスタートし、長崎の海岸線をぐるりと一周して、雲仙のふもとにある小浜温泉までの173kmのコース。秋は、小浜温泉を発って島原半島の南を半周し、雲仙普賢岳近くまで登る山越えを100km。そして、2年に1度「ダブル」と呼ばれる273kmのロング大会が開催され、春・秋の両コースを一度に踏破する。「ダブル」にエントリーするには、主には春・秋の完走実績など参加資格が必要である。
さて長い走り旅の時間が迫ってきた。スタート時刻は朝10時である。スタートの垂れ幕近くに選手が集まりはじめてはいるが、1分前になっても準備している人がいたりして、緊張感とは無縁のゆらりとした感じで走りだす。
すでに3時間前には、第1集団が出発している。ランナーの走力によって7時、10時、13時と、3時間おきにスタート時刻をずらしてある。7時スタートは過去の完走記録がゆっくりめの人。13時スタートは100kmサブテンクラスの速い人。中クラスの人と、実力のよくわからない初参加の人は10時はじまりだ。限られた人数のボランティアスタッフによってエイドのサービスをしてくれる際に、先頭と最後尾ランナーの距離が間延びして、1カ所のエイド設置時間が長くなりすぎないための工夫である。
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道がよくわからないので2kmほど集団で進み長崎の繁華街を抜けると、急傾斜の坂道に突入した。標高330mの稲佐山の頂上までは麓から5km。ゆっくり走っていてもゼーゼー息が青く感じられる。さすが伝説のマラニック大会である。出だしからランナーとしての脚力を値踏みされているようだ。一本道なので迷うことはないと独走し、先頭を切って山頂公園に着いたものの、チェックポイントがどこにあるのかさっぱりわからない。
当大会では、コース中に6カ所のチェックポイントが設けられていて、各ポイントで形状の異なるパンチ穴を専用のシートに打ち込んでいくのだ。たとえゴールをしても、6つとも穴が開いてないと完走とは認められない。
しばらく探してもチェックポイントが見つからないので、観念してベンチに腰掛け、後続のランナーを待つ。道に迷ったら、ウロウロせずにランナーを待て。これは、今までコースアウトを続けてきたぼくが見いだしたジャーニーランの鉄則である。
後続の集団がやってきたので、チェックポイントの場所を聞くと、指を1本立てて上空を指す。「なんと?」とうろたえていると、ランナーみなが円筒状の建物に入っていく。螺旋階段をぐるぐる回転しながら建物を4階分ほど登ると屋上に出る。ここにチェックポイントがあるという。見晴らしのいい展望屋上の手すりに、ぷらーんぷらーんとパンチ穴を開けるホッチキス的な文房具が揺れている。
「うーむ、このコースは1人ではとても走れないぞ」と改めて自戒する。チェックポイントの在りかををあらかじめ知っておかなければ進みようがない。ということで5人ほどの集団の後ろにつかせてもらうことにする。
10kmばかりを延々と下り、いったん標高0mの長崎市街地に下ると、間髪を容れず270mの山登りに取りかかる。20kmしか進んでない割に太腿はパンパンで乳酸たまりまくりだ。30kmで峠道を下り終え、角力灘沿いに漁港が連なる街路に出る。海辺の道が平坦とは限らない。50〜100m級の小山をいくつも越えていく。そしてカンの鈍いぼくも、薄々気づくのである。「この173km、ほとんど坂道ばっかしかも!」
長崎港の湾口にかかる女神大橋は長さ1289mの美しい斜張橋。橋の上からは、傾斜地にすり鉢状に広がる長崎市街の様子を遠望できる。ここが45km地点、ちょうど5時間が経過。山をたくさん越えて、かーなり走ったわりに、スタート地点とたいして離れていない場所に戻ってきたことを知り、軽くショックを受ける。
女神大橋のたもとのエイドでそうめんをいただき、細長い野母崎半島の旅に出る。岬の先端まで片道25km、見通しのいい広いバイパスのような道をゆく。右手の海上に、幾何学的な島影が見えてくる。今は廃墟と化した炭坑の島、軍艦島だ。ふむふむ、あんなちっこい突起物みたいな所にかつては5000人もが住み、高層ビルやらジェットコースターが建てられてたのか。
野母崎の漁港の街を抜けると、岬の最高地点である標高198mの権現山への急坂へ。山頂にチェックポイントがあると大会の公式マップに示されている。ここまでのノリからして、頂上には展望台か何かがあって、そのてっぺんにパンチ穴開けマシンがあるんだろうなと予想しながら、太腿の筋肉を軋ませて、妥協なく登りも走る。山頂の駐車場にエイドが用意されていたが、チェックポイントは更にその先200mの所だと言う。そして、予想どおり展望台のてっぺんにパンチ穴くんがあった。だいぶこのマラニックのオキテに慣れてきたぞ、ふふん。要するに、コースは最初から最後まで坂道であり、チェックポイントは、山の頂上のそのまた先の、人工的に造られた展望台や灯台の最上階へと階段を登っていけば「ある」のだ。マラニックという言葉が連想させるほど楽しく、るんるんなコースではないのである。いや、ふつうのウルトラマラソンやジャーニーランの大会と比較しても、屈指の難易度を誇るコースなのである。
今まで参加経験のあるランナーからは「楽しいよ」という話しか聞いてなかった。でもよく考えれば、ジャーニーランナーの「楽しい」は、ふつうの人間の楽しいとは違う。よりサディスティクで、より過酷な物を「楽しい」と思いこむ変態たちなのである。今ごろそんなことに気づいても遅いのである。
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権現山を下ると日が暮れてきた。81kmの樺島灯台公園(標高120m)へは、灯台の照明は遠くに見えているのに、走っても走っても近づかないという印象で、細かなアップダウンの連続にヘバりはじめる。この辺りから走りを楽しむ余裕はなくなり、ひたすら98km地点にある中間エイド「川原老人の家」まで残り何kmだろうかと、そればかりを頭で暗算していた。標高250mの峠をひとつ越え、だらだら坂を下ってようやく川原エイドに着いたのは午後11時である。98kmに13時間かかったことになる。
川原エイドは、手前の調理場に食事スペースが設けられ、ボランティアの方々が料理をたくさん作ってくれている。奥まった場所には板張りの大広間があり、先着のランナーたちがぐったり寝そべって仮眠をとっている。大会の特別ルールで、この川原エイドをランナーが再出発できるのは、スタート時間の最終組(13時発)の先頭ランナーが到着してからである。先着ランナーは、それまでは待機となる。例年、最終組のトップ選手は深夜0時前後に到着するので、それまで1時間くらいは休憩できる。
玄関先でほぼ全裸になり、クールミントなウエットティッシュで全身を拭く。このエイドにシャワーはないのである。デポした荷物に入れておいたシャツとパンツに着替え、大広間にごろりと横になる。熱を持った脚がジンジンと痺れ、走りつづけてきた興奮が冷めないからか、まったく仮眠に入れない。広間のあちこちで大イビキをかいているランナーたちはさすがである。こういう場面で、30分でも1時間でも深く眠れたら、朝まで体力が持つことをぼくは知っている。だけど眠れないのだからどうしようもない。
天井を眺めて葛藤しているうち、深夜0時30分頃に、最終組の先頭ランナーが着いてしまった。このエイドで夜明け近くまで休息を取るという選択肢もあったが、眠気が起こる予兆がない。睡眠を取れないのに留まっていても意味がない。走りを再開することにする。
街灯のほとんどない暗い峠道をゆく。川原エイドでは眠くなかったのに、走りだすと猛烈な睡魔がやってきた。おまけにすごく寒い。バス停のベンチや公衆便所で寝ようと試みたが、寒すぎて眠りに落ちられない。
幾つめかの峠道で、立ちションをしようとして道路を外れ、路肩の向こうの森の方に入ろうとしたら、腰の辺りにバリッと鈍い痛みがはしる。何だろうと思って手を当ててみると、ピンと張られた有刺鉄線に身体ごと突っ込んでいたことがわかった。多少は痛かったのだが、眠気の方が勝っていて、大したことはない。そこいらでションベンしてまた走りだす。
深夜3時頃に、後ろの方から大騒ぎしながらやってくる男女あり。
「せやから気持ち悪いねんてー、ゲェゲェ」
「自販あるで。ビックル飲めや。乳酸菌、胃腸にええで」
「それよりあたしビールがええわ。さっきビール飲んだらスッとしたねん、ゲェゲェ」
「タコ姐、もう何十?もずーっと文句ばっかり言うとるわぁ」
何となく懐かしく、耳馴染みのある会話を交わしているのは「明石のタコ姐」と「おっちゃん」だ。「明石のタコ姐」は、当大会の上級者コースである「橘湾ダブル・273km」の女性コース新記録を持つ実力者、「おっちゃん」も超ロング走の世界で名高いスピードランナー。「おっちゃん」という名前は、顔がおっちゃん顔なだけで、実際はそれほどのお年寄りではない。トランスエゾ・ジャーニーランや関スパの名コンビであり、関西を代表するウルトラランナーである御両名は、深夜の漫才を展開しながら、コースをかなり外れた先に光り輝くビールの自販機めがけて突進していった(この辺の漁村は、夜中でもビール自販機が動いている)。真夜中にゲロ吐きながら走って、延々と喋り続けながら、ビール飲んで胃腸障害を治そうとする。凡人には遠く及ばないバイタリティである。
そしていっそう凡人なぼくは、睡魔にやられて蛇行歩きをし、それでも明け方までに100m級の山を6個越える。
朝日が射してくると、体温が戻り眠気から解放される。ふと腰元に目をやると、ランニングパンツの右骨盤の前部分があられもなく破れ、布地がドス黒く変色している。破れた穴からなかを覗いてみると、皮膚が10cmにわたってザックリ切れ、深い裂傷を負っている。パンツも皮膚も血まみれだ。あ、夜中に有刺鉄線に突っ込んでいったのって、こんなに激しかったんじゃ。傷はヒリヒリするが、足の裏の痛みの方が勝っていてあまり感じない。大仁田厚みたいでカッコいいなあと思ったりする。寝ぼけているのです。
130kmを過ぎると本格的に脚が動かなくなり、そこからの150m級の山3つは、ほぼ歩いて登る。今シーズン初めての100?超級レースである。脚ができていないのは明白である。
海辺から標高150mまでの急傾斜に、じゃがいもを栽培するだんだん畑が層をなす光景は圧巻だ。収穫の最盛期なのか、ベテラン農家のお年寄りがトラクターを操り、タオルを頭に巻いた青年団風がトラックにコンテナを載せ、小学生のお手伝いボーイズがポリバケツに入れたじゃがいもを運ぶ。何百人もの人が収穫作業をしている。蒼天の空、紫紺の海、その横で展開される自然と人間の営み。オゥ、ウツクシイデスネ、と長崎の異人さんになった気分でつぶやく。苦しいながらも景色を楽しむ情緒を取り戻したようだ。ゴールまで残り30kmとなって、心に余裕が生まれたのかもしれない。
このあたりからは、福岡のトレイルランナーである石田さん(THE BOOMの宮沢和史似の男前)に励まされながら、ゴールを目指す。互いに足の裏を傷めており、下り坂ではヒーヒーうめいている。それぞれの境遇を話し合うことで、激痛を紛らわせながら前進する。1人で走ると頭の中は「痛い、痛い」で支配される。こういう時くらいは、親切なランナーに助けられるのもよしとしよう。
今朝スタートした80kmや55km部門のランナーたちが追い越していく。長崎、福岡、熊本のランナーたちは、みな陽気である。特に女性ランナーはガンガン走りながらも、大声で喋りまくっている。40〜60km走ってきたはずなのにまるで疲労の色を感じさせない。この近辺のウルトラランナーたちは、「橘湾」から超ロング走をはじめる人も少なくないらしく、坂道だらけの当コースがウルトラの基準になっているため、他の大会に出ると平坦さに驚く・・・という。納得できるお話だ。
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波もなく穏やかな橘湾をなだらかに右カーブした対岸に、ゴール会場のある小浜温泉の大ぶりな建物群が見えてくる。温泉旅館なんだろね。
ラスト17kmは当大会唯一の平坦な道である。最後だけは楽させてもらえるんだね、鬼にも人の心はあったんだねと感謝していたら甘かった。平坦ロードは、雲ひとつないド晴天の太陽を遮る木立ひとつない海岸道なのであった。熱い直射日光に容赦なく肌が焼かれる。
小浜温泉の市街地に入ると、至る所から白い蒸気がもうもうと立ち上がっている。旅館から張り出した赤錆びた給湯施設だけでなく、側溝の穴や、用水路の表面からも、硫黄臭のきつい煙があがる。
ゴールの南本町公民館は、小浜温泉のいちばん南外れにある。街の入口から3kmは走らなければならない。いやいや、もう本当に遠かったです。夕方4時半にゴール。173kmを走ってタイムは30時間28分。「まじめに走ったのか?」と言われそうなくらい時間がかかったが、リタイアせずによく走りきったと思う。それほどコースが厳しかった。そしてぼくの脚が未完成だった。
ゴール後は、南本町公民館の裏手、徒歩2分のところにある旅館・小浜荘で温泉に浸かれる。1人400円也、小さいながらも露天風呂があって気持ちよかです。
汗を流して一服したら、いや一服する間もなく、今宵の宿泊先である国民宿舎望洋荘で夜の7時から宴のはじまり。参加者100人超の大宴会である。遠来のランナーの多くは、この宿で宿泊し、酔いつぶれて爆睡する。海の幸たっぷりの食事にお酒は飲み放題。どういう理由だか知らないが、口の周りに黒マジックでヒゲを書いた泥棒スタイルの「明石のタコ姐」と「おっちゃん」名コンビの司会で、初出場ランナー、初完走ランナー、初リタイアランナーが次々に指名され、ステージ前に呼び出されて、挨拶をさせられる。ぼくは、長い歴史を誇る橘湾岸マラニックに「徳島県から初出場」ということで、うやうやしくご紹介頂きスピーチを強いられる。急な指名に困っている若手を肴に、ベテランランナーたちがウハウハ酒を飲む。
飲み会は一次会、二次会と深夜まで続き、「明日は朝3時半から朝練ね」と告げられて解散。173kmも走った翌日の早朝からまた走るのか?と驚いたが、「朝練」とは飲み会のことを指しているのだとか。きっと冗談だろうと思っていたら、本当に朝3時30分キッカリにビールを半ダースずつ抱えた重鎮たちが談話室に集まりはじめ、蒲鉾をアテに宴会が始まったのには驚いた。タフネスという言葉はこの人たちのためにあるのだ。
さて、「長崎橘湾岸スーパーマラニック・春の大会」173km部門を完走してしまったがために、2年に1度開催される秋の「橘湾ダブル273km(実測276km)」の参加資格を得てしまった。173kmだけでもヘロヘロなのに、今回のゴール地点からさらに500mと750mの山越えが2つある273kmなんて走れるのだろうか。走れるかどうかはさておき、参加するしか道がないような気がするのは、ぼくが強迫観念の病に罹っているからだろうか。