バカロードその89 6度目の挑戦

公開日 2015年12月10日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

(スパルタスロンについて。毎年9月にギリシャで行われ、距離247kmを36時間以内で走るレース。75カ所あるエイド及び大関門すべてに制限時間が設けられている。酷暑、豪雨、山岳地帯の酷寒など厳しい気象条件によって完走率は左右され、20%~60%程度と年によって大きな開きがある) 

 スタートの声は耳に届かなかった。ついさっきまで「3分前!」「1分前!」とカウントダウンコールをしていた大会役員のオジサンが何か合図してくれたはずだが、選手たちの唸り声や雄叫びにかき消されたようだ。

 ギリシャの首都アテネ市街の中心部にある小高い丘の上から、デコボコした石畳の道を350人あまりのランナーが駆け下っていく。1キロ4分台の速いペース・・・これが今から247kmも遠くまでゆく長距離レースの始まりなんだろうか。1年間この瞬間を目指して生きてきたが、いざ始まってみると想像の中の世界を夢遊しているようなフワフワした気分。
 脚が軽い。腰から下に何もついてなくて、上半身だけが勢いよく空中を移動しているみたいな感覚。「ゆっくりだ、100kmまでは体力温存だ」と言い聞かせているのに、身体は前へ前へと進んでいく。
 一国の首都のど真ん中を貫く幹線道路の、左右すべての道の交通を遮断して走るコースゆえに、ギリシャ国内の混乱や公務員のストライキの影響で、うまく安全確保がされてないのではないかと危惧していたが、取り越し苦労であった。例年以上に警察による交通整理はきちんと行われ、長時間にわたって交差点で足止めされているドライバーらからも声援を送られる。
 やがて、長いだらだら坂を登っていきはじめるが、無理にペースを保とうとせず、気楽に走れるピッチを維持する。「速くもなく、遅くもなく」を自分に言い聞かせ、スローペースを貫く。
 3~5kmおきにあるエイドでは、給水コップを2つもらい、両手に持って少しずつ飲みながら走る。42kmのフルマラソン地点までは1歩も立ち止まらないと決めている。朝、左腕に「1分1秒」と油性マジックで書いた。レースのどこかの段階で、関門時間との苦しい戦いになることはわかっている。1分の差が明暗を分ける。どんな場面でも、1分、1秒を粗末に使わないという決意だ。東洋大学陸上部の酒井監督の「その1秒をけずりだせ」をマネしているといえばマネしてます。
□10kmを通過、51分47秒。
 10kmすぎから長い下り坂に入るが、ここはスピードの出しすぎに要注意である。調子に乗って、脚の筋力を使うべきではない。着地した際に、パンパンッと足音を立てないようそろりそろりと下る。それでもペースは4分50秒台に上がっている。後方から来たランナーにどんどん追い抜かれるが気にせず自分のペースを守る。スパルタスロンは自分以外の誰かと競うような場所ではない。ギリシャの土地や風土、人々の習慣、気候、飲み物や食べ物・・・取り巻く環境の中で、自分の能力を出し切って、247kmの間に自分の身体に起こるさまざまな障害や、内側にある心の弱さを克服し、ゴールへと歩み続ける個人が試される場なのだ。
□20km通過、1時間43分(この10kmを51分32秒)。
 通過時間が速すぎることに少し戸惑う。(こんな事をやっていたらダメだ、調子に乗るな)と自重をうながす気持ちと、(いや、決して無理してない。調子がいいからそのまま行け)と攻撃的な気持ち。2つの意思の間で揺れる。公園のなかの遊歩道沿いに、地元のヤンチャな小学生、中学生たちが並び、やんやの声援を送ってくれる。毎年この20km前後で「最初のバテ」を感じてガッカリするのだが、今回それはない。疲れひとつ感じていない。
 レース3日前、日本を発つ頃は追い込みの練習と減量で疲労困憊といった状態だったが、ギリシャに入った日の夕方に10kmジョギングし、残りの日は食料の買い出しと大会受付以外は、ひたすらベッドに横たわっていた。60時間ぶっ通しで寝ていたことになる。3時間に1回は食事をした。炭水化物、フルーツ、サプリメントを摂取しつづけた。疲労はすっかり抜け落ち、スタート前夜には走りたくて走りたくて仕方のない競走馬のようないきり立ち方になってきた。おかげで興奮過多に逆ブレし、徹夜レース前というのに目がランランとしてしまい、睡眠薬代わりのアレルギー鼻炎薬を用法の3倍飲んで、ようやく眠りに落ちた。
 3日間の休息と栄養補給は功を奏すのだろうか。出だしは悪くないようだ。
 コースは海添いの工業地帯に入る。急坂ではないが、微妙な上り下りの揺さぶりがはじまる。
 朝の9時にして早くも日射しが強くなっている。気温はいつも以上に低く25度程度だが、雲ひとつない好天は、昼間にかけて強烈な直射日光を浴びせかけてくるだろう。汗をたっぷりかいてシャツが濡れているので、走りながらシャツを脱ぎ、ぞうきん絞りの要領で汗を絞り落とす。ヨーロッパの選手は、上半身裸で走っている人がけっこういる。紫外線のダメージを受けないのだろうか。裸の方が気化熱で体温を下げやすく、有利なのだろうか。一度やってみたい気もするが勇気がない。なんせ半袖から出ている腕の部分だけでも、皮膚の表面がヒリヒリ熱くなっているほどだ。
□30km通過、2時間40分(この10kmを57分04秒)。
 100kmを10時間で走るサブテンペースに対して20分の余裕を稼いでいる。スパルタスロンを完走するための理想的な展開としては、最初の大きな関門である80kmの「コリントス」に、制限時間の9時間30分に対して1時間程度の余裕を持って入ることだ。つまり8時間30分で通過すればよい。100kmサブテンペースは、この理想的展開を実現する最良のペースと言える。もちろん全力を使い切って余裕を1時間つくっても意味がない。キロ7分台で走り続けられる脚と体力を残したうえで80kmを越える、そしてタイム的にも1時間の貯金がある。そのような理想の型を、今の調子なら手中にできそうだ・・・と思えたのはこの辺りまでだった。
 35kmあたりから、喉の渇きを感じはじめる。今回、ウエストバックと給水ボトルのセットを48km地点のエイドに預けた。スタートから給水ボトルを持つかどうか直前まで迷ったが、50kmまではスピードを優先し、「丸腰」で走ることにした。そのため、手前のエイドでは念入りに、かつ余分めに水を飲んできたが、摂取量以上に汗が流れ落ちてるらしい。
 4kmほどしかないエイド間の距離が、やたらと長く感じられだした。こんな急速に脱水気味になるとは、何やってんだよー。 1年間かけて万全の準備をしてきたはずなのに、「スパルタスロンの克服=まずは脱水症と熱中症予防」という基本中の基本のところで、危機の入口に立ってしまっているのか?
□40km通過、3時間41分(この10kmを1時間01分01秒)。
 ペースが急速に落ち、キロ6分30秒前後となる。脚はまだ動いているのに、頭がフラフラして、意識が遠くなっていく。
 42.2kmのフルマラソン地点にある計測ポイントを3時間51分で通過。タイムとしてはまったく悪くなく、ここの関門時間4時間45分に対して54分もの貯金があるのに、心の中はまったく余裕がなくなっている。(少し時間をかけてでも、体調を戻す努力をしよう)と思う。
 3kmばかり長い坂が続く。1kmを歩けば10分かかる。登り坂なので走っても7分はかかるだろう。3分を捨てて、この頭がクラクラする状態を除去しよう。遮る木陰のない暑い道を、我慢して歩き続ける。(大丈夫だ、絶対に元に戻るはずだ。これは一時の症状だ)と頭で繰り返す。コップに3杯分の水をたっぷり飲み、坂道を手を振って歩く。ヨーロッパの選手も歩いているが、ストライドの長い彼らは、僕とは違って「歩き」も想定ペースのうちに入れている。彼らは登り坂をキロ7~8分で歩ける。僕はどんなに頑張っても9分~10分かかる。それでも前に進んでいるには違いない。
 1km歩くと少し意識がはっきりしだした。試しに走ってみると、キロ6分台でカバーできるまで回復している。(そうだ、あれだけ練習してきたんだから、身体に6分走が焼きついてるんだ。痛くても吐いても、僕はキロ6分で走れるんだ)。
□50km通過、4時間57分(この10kmを1時間15分59秒)。 
 GPSが示す距離とタイムだけ見れば、100kmサブテンペースを維持し、十分に安全圏にいるのだが、状況はとても悪い。この10kmに1時間15分かかっていて、止めどなく下降線を描いている。
 海底の岩場まで見通せる透明なエーゲ海の波打ち際。急角度でそそり立つ断崖の下辺に設けられた道路は、右へ左へとくねっては、細かなアップダウンを繰り返す。焼けつく日射しに炙られて、何度も気が遠くなる。このままではまずい。何かの手を打って、半熱中症から脱しないと先行きがない。
 救いは、ほとんどのエイドに氷が置かれていることだ。昔はこんなにサービスよくなかったな。コップに氷を山盛りにし、ガリガリとかじりながら走ると、内臓から血液が冷やされているのか、心持ち精神状態が安定する。その時間帯だけはキロ6分にペースが戻る。しかし効果は2kmくらいしか持たず、再びハァハァとだらしなく喘ぎながら、進まない脚をむりやり動かす。2度、3度と立ち止まっては嘔吐する。
  バテバテで走っているぼくを見かねて、後方から来たランナーがペースを落として併走し、いろんなアドバイスをくれる。
 「背中や靴下に氷を入れてください。熱中症の身体には効きますから」
 「あきらめない、あきらめない。この日のために1年間練習してきたんだから」
  スパルタスロンを走るランナーの多くは、こうやって自分以外のランナーまでゴールに連れていこうとする。決して「優しさ」などという甘い感傷から来るものではない。善人ぶっているわけでもない。「それは、そういうもの」なのだ。
 
□60km通過、6時間14分(この10kmを1時間17分27秒)。
  66km、ついに道端に倒れ込む・・・のではなく座り込む。倒れていると、大会車両に収容されてしまう可能性があるからだ。たったの、たったの66kmである。日本国内の大会なら、どうということもない距離である。いくら潰れていても、意識が飛ぶようなことはない。なぜ自分はギリシャに来たら走れないのか。なぜ毎年、一片の進歩もみせられず、同じあやまちを繰り返しているのか。
 戦意を喪失して、薄目を明けて、目の前を通り過ぎていくランナーたちを呆然と見つめる。
 ある選手は僕の名前を呼び、起こしてくれようとした。また別の選手は叱咤の言葉を投げかけて僕を奮い立たせようとしてくれた。
 (すぐ行きます、すぐ後を追いかけます)と声を出そうとするが、「うー」としか言えない。立ち上がれない。
 7分近くそこで座り込んでいた。だが、まだあきらめてはいない。
 (どのみち、大きなエイドで10分は休憩する予定だったんだ。その分を前倒しで使っただけだ)
立ち上がり、走る。ふらふらして足がもつれる。時間がないので、嘔吐は走りながら済ませる。
 
□70km通過、7時間41分(この10kmを1時間26分33秒)。
 4kmおきにあるエイドが果てしなく遠い。
 毎年、スパルタスロンを完走しているようなベテランの方に、続々と追い越される。皆、足どりも軽く、表情も声も明るい。つまり、このレース前半部分の理想的なペースを彼らはこの距離と時間のバランスで刻んでいるということだ。それなのに、同じ時刻に同じ場所にいるぼくは、もはや墜落寸前である。
 74kmのエイドに着く。この頃には、指の先まで痺れており、また思考能力もゼロに近く、手持ちのハンドボトルのキャップを回して、水を注ぎ、キャップを締める、といった動作ができなくなっていた。
 コップ2杯分の水をもらい、立ち止まることなくエイドを出る。帽子をかぶっているにもかかわらず、脳天があまりに熱いので、片方のコップの水をちょびちょび頭にかけていると、後ろから追いついてきたランナーに「そのお水もらえませんか」と言われる。エイドを発ったばかりなのに、なぜだろうとは思ったが、「次のエイドまでの繋ぎの水なんですけど、よかったらもらえない?」と再度言われる。抵抗できず、コップに入ったお水をほとんどあげてしまう。女性ランナーは「ありがとう!」と去っていった。
 次のエイドは3.5km先だ。そして、1キロに10分以上かかっている今の速度では40分はかかる。ようやく手にした水を、どうして僕は他人にあげてしまったのだろう。親切心で水を提供したわけではない。「欲しい」と強く言われて、抵抗できなかっただけなのだ。とんでもない事をしてしまったと後悔がはじまった。なぜあそこで「ちゃんとエイドで補給してください。これは僕に必要な水です」と言えなかったのか。だが、あの時点で、そんなに複雑な説明と主張をできるほどの思考力がなかったのも確かなのである。そして、それだけ衰弱している自分が既にダメなのだ。
 もう走っているとはいえないゾンビ状態で、それでも「歩いたら間に合わない」という意識だけはあり、つまずいたり、蛇行しながら走る。飲み込む唾もなく、1kmに12分かかっている。汗も出てこない。景色が斜めに見えたりしている。もうこのまま道のうえに倒れるかも知れない・・・。
 道路脇にあるガソリンスタンドから選手が飛び出してきた。北海道からいらした大先輩ランナーだ。両手にペットボトルの水を持っている。「どうぞ、よく冷えてるから、飲んで」と1本手渡してくれた。すいません、すいませんとお礼を述べる。これで死ななくてすむと安堵する。
 今(これを書いている時点)で、自分がいかに弱いのかを自覚するのであるが、僕は500mlの冷たい水を得たことで、あろうことか安心して道路脇の民家の前のタイル地の上に横になってしまうのである。つまり、心が切れてしまったのだ。そのとき、ぼくが自分で何を考えていたのか、まったく思い出せない。少しの間、気を失っていたのかもしれない。もらった水を少しだけ手の平に取り、顔をぬぐったのは覚えている。
 タイルの上で大の字になり、正気に戻ったときには5分が過ぎていた。
 まだ間に合う。4km先のコリントスの関門まで50分ある。立ち上がり、走る。長い長い坂道を必死に走っているのだが、何人ものゆっくり大股で歩いているヨーロッパの選手に追い越される。
 道が平坦になっても、いっこうにスピードを上げられない。先にリタイアした選手が、がんばれがんばれと併走してくれるが、まったくついていけない。また、気が遠くなりながら、ようやく第1関門の目印である壁画のある缶工場が見えてきた。
□80km通過、9時間19分(この10kmを1時間38分24秒)。
 最初の大きな関門である80kmのコリントスに、関門閉鎖の9分前にたどり着く。
 関門のタイム計測ラインを越えると、大会役員っぽいおじさんが、頭や背中から水をぶっかけてくれる。が、水は生ぬるく、ただびしょ濡れになっただけだった。
 貯金タイムが9分あれば、これからの走り方次第で、いくらでも巻き返せる余地はある。この80km関門を越えた先では、キロ8分から9分程度で制限時間設定がされているからだ。
 というのに僕は、このエイドで身体を横たえることしか考えられなくなっていた。どこか日陰で倒れられる場所をと見渡したが、エイドの周囲には砂利か土の地面しかない。びしょ濡れのシャツで横になるとドロドロになりそうなので、エイド預けの荷物を置いているビニールシートの上に倒れ込む。
 他の選手の応援に来ていた方が心配をしてのぞき込んでいる。「飲み物は?食べ物は?」と必要なモノを尋ねてくれるが、うまく返事ができない。「氷を・・・」とだけ言えた。すぐに氷入りの水をコップに入れて持ってきてくれたが、口に持っていく余力がなく、腹の上でコップを両手で支える。少しでも体温を下げなければという意識だけあって、氷水をピチャピチャと胸や腹にかける。
 もう立ち上がれそうにないのだが、「絶対に前に進まなくてはいけない」という気持ちはある。
 びしょ濡れになった重い靴を、交換用のシューズに換えるために上半身を起こし、靴ひもについたタイム計測用のチップを外そうとしてみたが、指が思うように動かず、靴ひもがもつれたりして、計測チップが外れない。時間がどんどん経っていく。見かねた応援の方が、靴ひもを外し、チップをつけ直してくれる。
 関門閉鎖まで残り1分。立ち上がり、エイドを出る。ふらふらして、走れない。
 4、5人の選手に抜かれたあとは、前にも後ろにも誰も見えなくなった。夕暮れのぶどう畑のなかの細い道を、感情とぼしく歩きつづける。
 84kmのエイドに着いたときは、すでに撤収の片付けが終わりかけで、ギリシャ人のスタッフの皆さんは帰り支度をしていた。閉鎖時間をすでに10分は過ぎている。
 スパルタスロンでは、全コース中6カ所ある大きな関門以外のエイドでは、多少時間制限を過ぎていても、スタッフの方が「行け、行け」と見逃してくれる場合がある。たとえ10分遅れようと、前に進む意思があるランナーには「行きなさい」と大目に見てくれることもあるのだ。
 エイドの係員に止められることはなかったが、僕は自分でリタイアを申告した。レースに出発する前、最も尊敬するランナーの方からメールをいただいた。「絶対に自分からゼッケンを外さないでください」と書いてくれていたのに、僕はパイプ椅子に腰かけて、自分の手でゼッケンを取った。
             □
 スパルタスロンで6連続リタイアという、どうしようもない記録を作ってしまった。これだけ弱いと、もはや参加する資格などないと言えるだろう。僕よりも遙かに肉体的なハンデを背負った人や、年齢を重ねた人も完走している。一方で、数多くのエリートランナーがリタイアをしている。
 このレースに懸ける思いの強い人がゴールをしている。次々と襲ってくるマイナス要因を「リタイアする理由」として捉えず、その時点で自分に残された能力を信じ、走るのを止めなかった人がゴールをしている。それは嫌というほどわかっていて、「そっち側」の人間になりたいと願い、走り続けているのだがダメだ。
  走りにはその人の人生観や人間性が表れるという。そんなのは過剰な思い入れから生まれた押しつけがましい格言のように思っていた。でも、このスパルタに来て、いろんな人の走りを見ていると、本当にそうなのかもしれないと思える。ならば、1度もゴールに立てず、ばかりかこのレースの半ばまでも達することのできない僕は、どんな人間なのだろうか。負けても負けても、また負ける。負け続けたままいくのだろうか。それでは情けなさすぎる。