バカロードその98 四国の先っぽの先っちょまで 後編

公開日 2016年09月08日

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文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)  

(前回まで=四国のいちばん端っこまで走ってみようと発作的に思いつき、吉野川河口から愛媛県佐田岬の先端まで300km走にでかけた。天気はやや荒れ模様ですが)
 桜三里からの峠道を下りきると東温市の田舎道。追い風に体を運ばれながら、西へ西へと進む。
 いよいよ雨は本降りになり、気まぐれに谷筋を抜ける突風が木の葉やゴミを空中に舞い上げる。

 道沿いに点在する農家の、農機具を納めている納屋やビニールハウスがべろんべろんに崩壊しかけている。風に引っぺがされたタテヨコ1mもある納屋のトタン板が、縦回転で道路を横断する。こんなの突き刺されば血まみれお陀仏だ。
 どこかでゴミ集積箱が壊れたのだろう。空き缶を満載した70リッター入りのポリ袋が何袋も、集団となって車道上をずずーっと移動している。斬新な現代アートみたいだね。避けて通れなくなった自動車が渋滞を起こしはじめたので、仕方なく車道に出て散乱したゴミ袋を拾ってまわる。雷鳴とどろく風雨のなか、傘もささない短パン男がゴミ袋を拾ってまわる。つげ義春の漫画然としたシュールな絵柄である。
 雨降り序盤は、民家の軒先を借りてシャツや靴下を脱いでは手絞りしていたが、すれ違う車のタイヤがはねた泥水を頭からぶっかけられてるうちにどうでもよくなってきた。田んぼから溢れ出した水は、歩道で川となり、避ける余地もないので、ジャブジャブと足を突っ込んで走る。
 吉野川河口から200km。日暮れどきになって、伊予市の市街地にさしかかるとザーザー降りはいっそう強く、50m先が白くかすんで見えない。あらかじめ調べてあったのだが、伊予市の中心部には日帰り入浴できる「天然の湯 いよ温泉」がある。天気予報では、夜半から晴れと出ているので、温泉で雨宿りといたしますか。
 飲食店が立ち並ぶ裏路地っぽい小道に「いよ温泉」はあった。全身びしょ濡れで水滴したたり落ちるため、玄関の外で服を脱いで水気を切る。脱いだ靴に、手前のコンビニで買った新聞紙を丸めて詰めこむ。
 脱衣所のテレビでは、地元のニュース番組が「今日、佐田岬では風速30mの瞬間最大風速を記録した」と報じている。到着日が1日ずれてたら飛ばされてたな。
 浴場には小ぶりながら露天風呂がついている。よし、ここで雨足が弱まるまで待つぞと耐久戦の構えを取る。とはいえ、雨宿りという立派な言い訳があるのでのんびり休憩できていいや、とダラけ気分上々なのだが、こういう時ほど自然は人間の思い通りにはならない。露天風呂に陣取って30分もすると、雨はピタリと止んでしまった。ならば、風呂場でゴロ寝している理由は1つも見あたらない。
 まったく気が進まないが、ボトボトに濡れたシャツとパンツと靴下を身につけ、新聞紙の効果なく水たまりみたいなシューズに足を突っ込んで、夜道を南へと走りだす。
 スマホの電話が鳴る。電話の主は、四国随一、いや日本最強クラスの超長距離ランナーである河内勇人さんである。さくら道国際ネイチャーランやスパルタスロンで上位に食い込む河内さんは、その実力もさることながら、ウルトラ業界での人望が厚い。250kmレースや24時間走を「競技」として真剣に取り組んでいる日本中の変態アスリートたちに慕われている存在である。そして7年前、ぼくをスパルタスロンという人生の泥沼(6連敗中)に引きずりこんだ張本人である。
 伊予市在住の河内さんに、いよ温泉の脱衣所から「徳島から200km走ってきました。佐田岬まで行きます。今、伊予市で雨宿り休憩中」とメールしておいたのだ。ゴールデンウィーク最中の家庭人に連絡するのは不躾だよなとPC宛てに送った。連休明けにでも見て、ウケてくれたらいいな。ところが、即刻電話をもらってしまった。アー、しまったな。
 「今、どこ?」と聞かれたので、「伊予市の中心から2km行ったとこです」と答える。
 「キロ何分で走りよん?」と聞くので、「キロ10分です」と答える。
 「ふーん、わかった」と電話は切れる。
 いったい何がわかったのであろうか。
         □
 街灯のない暗い峠を越え、下りきった所で海岸線に出る。白波がうっすら浮かび、道路下の岸壁に打ちつけている。瀬戸内海の西側一帯を成す伊予灘と呼ばれる海だ。佐田岬へのつけ根へと続く国道378号線は、夕陽の沈む景色の美しさから「夕やけ小やけライン」とも命名されている。
 海と陸の境界線に沿って、遠くまで人工の灯りが続いている。佐田岬の先端は100km向こうだから、ここから見えてはないだろう。
 伊予市街から10kmほど離れたところで、後方から猛烈な勢いでハンドライトの光が近づいてくるのに気づく。まさかというか、やっぱし来たかー。河内さんである。しかもヤル気まんまんな雰囲気である。なんと朝までつき合ってくれると言う。
 ううむ、徹夜走なんて急に始められるもんなの? 夜中に不意に届いたメールに即座に反応して、服を着替えて家を飛び出し、朝まで走ろうなんて思えるもんなの?
 本当に強いランナーって、こういう所から精神の造りが頑丈なのだろうか。きっとそうなのだろう。
 最強ランナーの伴走を受けてダラダラ走は許されず、真面目に走ってはみるものの、既に200kmを超え、なおかつ温泉で弛緩した足の裏はぶよぶよと浮腫んで痛みがひどく、キロ9分ペースでもゼエゼエ言ってます。
 夕やけ小やけラインの沿道には見所が多い。「しずむ夕日が立ちどまる町」というキャッチコピーで街おこしを計る双海、「日本一海に近い駅」として青春18きっぷのポスター写真が印象深い下灘駅、猫の島として一躍ブームとなっている青島への定期船が出ている長浜港、カクレクマノミの研究で世界的な注目を集めた女子高生が通う長浜高校。いずれにせよ、今は深夜1時。どの観光地も街も、寝静まっている。
 河内さんが、超長距離レースを生き残るための秘密特訓を教えてくれる。「無給水で数十キロ走り、走りながら飲み水なしでハンバーガーを飲み込んで、胃を鍛える」とか、「練習でフルマラソンの距離を無給水で走れたらサブスリーできる」とか無給水ネタが多いです。いつも水不足のロバのようにヒーヒー鳴いては、エイドで腹が膨れるほど水を飲むぼくにはできなさそうな課題だ。
 河内さんが背負っていたリュックの中身を見せてくれる。そこには、半年前、肺がんを患い四十代半ばの若さで亡くなられたランナー・白潟道博さんの「さくら道国際ネイチャーラン」の完走証が入っていた。この完走証は、檜の木板に名前やタイムが刻印され、ずっしり重量のあるもので、その面構えから選手たちには「まな板」と呼ばれている。遺族の方より形見分けとして託されたものだ。
 河内さんの計らいとはいえ、天国にいる白潟さんに、ぼくの徹夜走につき合わせてることになる。どうも夜中に急に呼び出してすみません!
 白潟さんと出会ったのは「川の道フットレース」の400km地点だった。潰れ切って、道ばたで倒れていた僕の横を、白潟さんが通りかかった。それからずいぶん長い距離を、励ましの声をかけてもらいながら併走してくれた。ランナーとして超一級の実力者なのに、ぜんぜん偉ぶったりすることなく、鈍足ランナーに対して同じ目線で接する優しい人だった。
 肺がんに罹ったことがわかっても、それでも白潟さんはスパルタスロンを完走した。ステージ4に進み、他の臓器にまでがんが転移したけれど、あちこちの大会に顔を出しては、ランナーたちを励ましていた。
 何度挑戦してもスパルタスロンを完走できないぼくに、「坂東さんが完走したら、自分の事みたいに嬉しくて、たぶん泣くと思う。だから前半は飛ばさず自重するように」と指導してくれたのに、ぼくはまたスタートから突っ込み、潰れ、リタイアした。申し訳ない。
 愛媛県生まれの白潟さんの名前が刻まれた「まな板」とともに、ぼくたちはキロ9分で伊予灘の道を走り続ける。
 夕方まで大嵐だった空は嘘のように晴れわたり、マメ電球くらい明るい星々が瞬いている。
 「あ、流れ星!見た?」と河内さんが目を輝かせている。こんなロマンチックな夜に、海辺を駆け抜けるわれら中年男子・・・どんなもんなんでしょうか。
 夜がしらじらと明けてきた頃に、八幡浜方面と佐田岬方面への分岐点に着く。ぼくは佐田岬へ、河内さんは始発電車の出る八幡浜へと走りだす。
   □
 四国の西岸から九州に向かって手を伸ばすように、東西50kmにわたって伸びる佐田岬。瀬戸内海と太平洋を隔てる天然の防波堤のような造りをしている。
 伊予灘に面した北岸は「鼻」や「崎」と呼ばれる1kmほどの断崖状に削られた岬が、屏風状に続いている。「鼻」と「鼻」に囲まれた湾には、申しわけ程度の小さな防波堤が築かれ、天然の良港を形成している。階段状の斜面にへばりついた住宅は、人ひとりが通れる小径と急階段に隔てられ、パズルを組み合わせるように土地を分割しあっている。
 一方、南岸は宇和海に面し、北岸同様に切れ落ちた崖ではあるものの、その斜面の多くは柑橘類の畑に開かれている。人力ではとても荷出しできそうにない急斜面に、運搬用のモノレールが張り巡らされている。北岸との海流の違いは歴然で、南の海岸沿いには穏やかな砂浜が広がっている。
 陸地部分の南北の直線距離はおおむね3kmほどで、狭い部分では1km幅ほどしかない。その中央部を標高400m級の山々が連なっている。尾根の中腹を、見晴らしよく貫いているのが「佐田岬メロディーライン」と名づけられた国道197号線。左右いずれかに海岸線を遠望しながら、岬の先端へうねうねと続く。
 佐田岬メロディーラインは、伊方町役場のある伊方港の町並みを眼下にしながら徐々に高度をあげていく。人口約1万人という町の規模には不釣り合いな、高層建築の建物がたくさん見える。原発マネーといわれる電源3法の交付金や固定資産税が、この町を豊かにしているのだろうか。
 道路沿いに民家は皆無だが、その代わりに立派な石碑のモニュメントが点在している。いずれも朝日が気持ちよく射す場所に設けられているので、ところどころで石碑にもたれて居眠りをする。きれいに磨き上げられてる石碑もあれば、草むして人々の記憶から忘れ去られようとしている石碑もある。朽ちかけた石碑に刻まれた人の名。この地に根を張り、農地を開墾し、電気や水道を引くために、オリャオリャと議会を仕切って、中央省庁の狸たちと丁々発止やりあったブルドーザーみたいな人がいたんだろうな。
 われわれの電気使いまくりな上等生活も、この名もなき(いや、石碑があるから庶民よりは有名な人でしょう)オッサン方の艱難辛苦のうえにあるのでしょう。
 おっと、時なる人物の石碑も登場したよ。青色発光ダイオードの発明・開発によりノーベル物理学賞を受賞した中村修二さんのだ。「中村修二博士 生誕の地」とある。ううぬ、今どき「生誕」とはどこぞの教祖さまか、アイドルグループの誕生日のことしか言わんと思うが。いつも舌鋒鋭く、小難しそうな中村さんが、この石碑を見てのけ反り、ニヒルに笑ってOKしたのかなと想像する
 中村修二記念碑の横には、古代遺跡を模した感じの建築デザインの、大げさな展望休憩所があり、夜中にはLEDでブルーにライトアップされるとのこと。だだっ広い駐車場に入ってくる車はまばらで、休憩に立ち寄ったサイクリング客たちは、スマホで撮影する場所を探していたが見つからず、日陰に座りこんでぼっーと遠くを見つめている
 2カ所ある道の駅では、たくさんのファミリー客やカップルが、たいして見学する場所がないのか、所在なさげにジェラートを舐めながら、駐車場をぶらついている。
 九州へのフェリー航路がある三崎港が近づく。バイクのツーリング集団や自転車のロードバイクチームが、続々と追い越していく。いちばん近い街である八幡浜から40kmも離れた場所にある港だ。うらぶれた最果ての地の、海鳥ヒュルルといななく港町でも現れるのかと思えば、実際は若者で溢れかえる賑わしい町だった。
 フェリーやバスの待合所や観光案内所を兼ねたターミナルの建物は、白黒の外壁と天然木の柱や梁が組み合わされた都会的な建築物だ。かたわらの芝生の広場では、九州の高校名をプリントしたジャージ姿の部活チームが、いくつもの輪になってお弁当を食べている。ツアーバスから降りたご婦人方の団体は、休憩所のテラス席をキープしようと、持ち物をイスに置くなど抜かりなさを発揮している。
 三崎港から大分の佐賀関港へはフェリーで片道1時間10分、1時間に1本ペースで、1日に26便も行き来している。ここいらに住んでる人にとっては、九州はご近所そのもの、徳島なんて地の果ても果ての存在なんだろう。
             □
 人の匂いが溢れているのは三崎港のある町まで。そこから岬の先端まで16km間は、交通量はまばらになり、お店も見かけない。グワングワンとうなりを上げる発電用の風車を見上げながら、つんのめるほどの急坂を下る。海っぺりの山すその狭い土地に家屋が並ぶ三崎漁港の集落に入る。
 小ぶりな入り江に造られた漁港には50艘ほどの漁船が係留されている。製氷倉庫の建物3階分の壁いっぱいに巨大な「岬あじ」と「岬さば」の魚の絵が描かれている。漁協の出荷倉庫の前で、フォークリフトが忙しそうに出入りし、さばいた魚の臓物や血の処理をしている。
 陸揚げさけた漁船の向こうに、6階建てのピンクの建物が見えてくる。どうやらそこが今夜泊まる「民宿大岩」のようだが、民宿のイメージとは掛け離れた派手な建物である。
 夕方4時。7km先の佐田岬まで日の沈まないうちに行けそうだ。とりあえず民宿にチェックインし、荷物を部屋に置き、着ていた物をぜんぶ洗濯機に投げ入れ、最上階の展望風呂で猛烈シャワーを浴びて新しいシャツに着替え、空身になって岬先端に向かう。
 道のぐねり方は一段と激しい。次第に山が開け見通しが良くなり、右側の海へと崖がスパッと切れ落ちている。「先っぽに近づいている」という雰囲気が高まってくる。
 5km進むと車道は観光客用のパーキングで行き止まりとなり、そこから岬の端っこにある灯台までは遊歩道が伸びている。遊歩道入口にはコンクリート造りのモニュメントが立っていて「灯台まで1800mです。がんばりましょう!」と書いてある。
 遊歩道の脇に陣取った物売りのおばあちゃんが、「今から行くん?」と尋ねてきたので「うん」と答えると、「今から行くん?」ともういっかい聞かれる。なんだこのばーさん?と思いながら「うん」と二度目の返事をする。
 前方からは、岬見物を終えた観光客がすずなりで歩いてくるが、心なしか顔色が暗い。下をうつむいたままの夫婦に会話はなく、カップルは口汚く罵りあっている。こんな地の果てまでやってきて、仲たがいするなんて最悪の休日じゃないか。ファミリー客の子供たちは元気に駆け回っているが、パパやママの息づかいは荒い。
 小路をジグザクに標高差80m分ほど下って波打ち際までいったん降り、灯台のある小山の長い階段を登る。ちょっとした低山登山レベルの負荷だ。のんびり岬めぐりのお散歩を楽しみましょ、くらいの気持ちで歩きだしたとしたら、いささかハードな道だ。だから復路の人たちの表情、怒りや悲しみに満ちていたのですね。
 佐田岬灯台からは、九州大分の山並みが手が届くほどの近さに見える。直線距離でおよそ10kmしかないとか。四国を横断するってことは、九州まで走るってことなんだなあ。人間の足って1歩は数十センチに過ぎないのに、繰り返せばどこまでも遠くまでいけるんだよなあ・・・とぼんやり思う。
 夕日は水平線近くまで落ちている。徳島だと海から上がる日の出は見えるけど、夕日が海に沈んでく様子は目にしないよな。あー、何となくありがたやありがたや。
 しかし片道1800mの遊歩道なのに、ずいぶん時間かかってしまった。展望台で素朴な思考にふけっていたら、薄暗くなってきた。物売りのばあちゃんが「今から行くん」と二度聞きした理由がわかった。急がないと日が暮れてしまうと親切に教えてくれてたんだな。煙たがってごめんなさい。