バカロードその130 16歳の逃走その5 その先には何もない

公開日 2019年04月08日

文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

(前号まで=高校2年生の春休み、ぼくは3日間走り続けて真夜中の高知駅にたどり着いた。駅で野宿していたぼくに声をかけたのは黒シャツの男。いつ果てるとも知らぬ長い夜は、男の哀しい物語とともに夜明けを迎え、ぼくは虚無的な心を抱えて再び旅を再開する)

 黄色い太陽に揺らめく高知の街を、ただ呆然と歩き回り、結局、高知駅に戻ってきた。アノできごとはここから始まった。
 段ボール箱にくるまって寝ていたぼくは、黒シャツ男アル・パチーノにさらわれた。「ブローニュの森」という名のバーは、全裸の男たちが身をくねらせ、男女が唇を吸い合う怪しの空間。耽美な江戸川乱歩的奇譚世界を経由して、霧雨に覆われた街をタクシーに乗せられ、アル・パチーノの根城へと向かった。大人の性の凶暴と哀愁を知らされた幻想のような一夜を過ごした。
 そのできごとすべてが、深夜0時すぎから10時間ほどの間に起こったこととは思えなかった。ぼくを貫く地軸のS極とN極は、一晩で逆転した。男と出会う前のぼくと、今のぼくは別人である。頭の上から成層圏まで続く大気の重さが、ずっしりのしかかっているようだ。
 春休み中にも関わらず、高知駅前の広場には制服を着た女子高校生がさんざめいている。黒目がちな彼女たちとすれ違うと、柑橘系の南国の香りがした。ぼくと同じ15、16歳のはずの彼女たちが、なんだか眩しくて、すごく遠い存在に思えた。同じ空間にいるのに、ぼくだけ別の次元の住人のようだ。
 あってないような元々の予定は、更に狂いが生じていて、走って四国一周をするのなら足摺岬へと足を向けるべきなのだが、もはやどうでもよくなっていた。
 目的をもって旅する意味などあるだろうか。そんなしごく真っ当で、論理に逸脱のない時間が、ぼくに必要だろうか。アメリカン・ニューシネマに描かれる哀しい主人公たちのように終着点のない疾走をしたい。「明日に向かって撃て」のブッチ・キャシディ&サンダンス・キッド、あるいは「俺たちに明日はない」のボニー・パーカー&クラウド・バロウ、そして「タクシー・ドライバー」のトラヴィス・ビックル。陰りのあるヒーローたちは衝動的に生き、砂漠の砂をジャリジャリと踏みしめて、湿度ゼロパーセントの乾いた死を選びとる。
 春休みはまだ一週間もある。
 改札口の上に掲げられた時刻表を見上げる。行く先は自分で選ばないでおこう。いちばん最初に出発する列車に乗るのだ。各駅停車の琴平行きが5分後に出る。あわてて切符を買い、列車にすべりこむ。
 旧式のディーゼル車はゆるやかに発車し、ガタゴトと呑気に市街地を抜けていく。3分おきに頻繁に停まる駅々で、乗客は徐々に降りていくが、誰も乗ってはこない。穏やかな田園風景の中をしばらく進んだのちに、山岳地帯に入る。急峻な崖が迫る大歩危峡にさしかかる頃には、乗客はほとんどおらず、車内には口をおっ広げて眠りこけている老夫婦とぼくだけになった。
 満を持してリュックからハーモニカを取り出す。長さ10センチほどのフェンダー製の小さなハーモニカは、実家のある阿南市から東新町の楽器店「仁木文化堂」まで汽車に乗って遠征し、買い求めたものだ。旅といえばボブ・ディランであり、ボブ・ディランといえばハーモニカはセットである。
 唇にあてがい、息を吹き込む。「ヒュー、ブー」と情けない音が漏れる。イメージどおりに吹けないものかとしばらく悪戦苦闘してみたが、どうにも吹けない。ぼくはボブ・ディランの歌を知らず、ハーモニカの吹き方もぜんぜんわからないのだった。
 (まあ旅を続けるうちに、吹けるようになるだろう)とていねいにリュックにしまいこんだ。
       □
 琴平駅のプラットホームは、夕日色に覆われていた。
 駅前の広場にある地図を眺めれば、この地を訪れた人すべてが金刀比羅宮を目指す前提にあるようだ。あと何時間かで日が暮れそうだが、このまま金刀比羅宮を目指すことにする。長い参道にさしかかると、ほとんどの土産物店や飲食店が店じまいの支度の最中であったり、シャッターを下ろしていたりで見るべきものはなく、本宮へと続く石畳を寄り道せず歩く。
 商店街のつきあたりから石段が始まる。一段飛ばしで駆け上がってみる。百段ほどで息が荒くなるが、そのうち心臓の鼓動と呼吸の調子が合って、ペースを徐々に上げていく。足の裏を覆い尽くしていたマメは、昨日一晩で皮膚が固まり、160km走ったダメージは消えている。快調だ、どこまで走り続けられるか試したい。
 やがて日は落ち、風景が淡い藍色に覆われる。階段を登る人も下る人も、誰もいない。水銀灯や灯籠に灯りがともり、振り返ると木立の合間から、琴平の街の光が眼下に拡がりはじめる。
 石段が尽きた先に、立派な本宮が現れる。てっきり本宮は山頂にあるものと思いこんでいたのだが、そこは山の中腹だった。境内の後ろには、黒くて深い森の影が迫っている。
 中途半端な場所で引き返すのは気持ちが悪い。いちばん高いところまで行きたくなる。本宮を右に回り込むと、奥社に向かって細い参道が延びていて、行ける所まで進み切ると、急な斜面に山道が森の奥へと延びていた。そこからは光源ひとつなく、真っ暗闇となる。荒れだした山道はかすかな踏み跡へと変わり、やがて踏み跡を見失うと、松やクヌギの根が縦横に張った雑木林に迷い込む。
 枯れ葉が堆積した湿った山腹を、ただがむしゃらに上へ上へと登る。木のつるに行く手を阻まれ、根っこに足をとられて何度も転倒する。ぐっしょり濡れたスボン、尻もちをついたケツのあたりは泥まみれ。尖った木の枝に傷つけられた腕を舐めると血の味がする。それでも、自分より上に黒々とした山の端の気配がある限り、登ることはやめない。
 今、自分はどこにいるのだろう。この山の名前も高さも知らない。行く手に頂上という着地点があるのか、そこにいつたどりつけるのか、見当もつかない。こんなのはメチャクチャだ。それなのに後戻りする気はまるで起こらない。この先にはたぶん何もないのに、どこに行こうとしているのだろう。 (つづく)