公開日 2021年03月08日
文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)
(前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる"ぼく"は十九歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発したものの、五百キロ余り進んだ村でマラリアを発症する。二週間うなされて悪化の一途をたどり、首都ナイロビの国立病院に担ぎ込まれ入院する)
ナイロビの国立病院で抗マラリア剤(たぶん硫酸キニーネ)を二日間ぶっ通しで点滴され、五百ドルもぎ取られて金欠になり病院を脱出した。薄暗い安宿の大部屋に生還し、更にベッドの上で三週間、平熱と高熱の間をいったりきたりした。皮膚は黄色くなり、あばら骨が洗濯板のように浮き出した。一向に回復の兆しがないため日本に戻る決意をした。別のバックパッカーが放棄した東京~ナイロビ間の往復航空券の帰り分のチケットを、一万円ちょいで調達した。そういう怪しいチケットを専門に売りさばく手配師は、どこの国にもいるのである。
日本に帰って東京にある感染症の専門病院にかかった。詳しい検査をして言い渡された診断は、ナイロビの医師がぼくの目玉とベロをささっと見て、ものの三分で断言したのと同じで、熱帯熱マラリアと卵形マラリアの併発だった。ケニア人医師はヤブ医者ではなかったのだ。
適切な治療を受け、歴史小説を読みながら何週間かを安静に過ごし、一日五回の食事を続けた。半月もすると体力は元どおりになった。若い身体は、バカバカしいほど単純な構造をしているのだ。
筋肉や脂肪が弾力を取り戻すにつれ、自分が薄気味悪い幽霊のように思えはじめた。アフリカに惨敗しおめおめと帰国して、目標のない宙ぶらりん状態。腕ひとつ動かすのでも億劫でたまらない。
日本縦断やアフリカへの旅に出る数カ月前まで根城としていたバイト先の運送屋のロッカー室に巣食っていた友人や、家賃一万五千円の下宿の住人の多くは、そこにはいなくなっていた。
六大陸最高峰の登頂を目指して南米へと旅立った登山家や、百人の仏様を描いて個展をはじめたイラストレーター、ピンク映画の脚本を書いて三十万円のギャラを手にした脚本家・・・。ちょっと前まで地の底でくすぶっていた二十歳前後の同類たちは、立ち止まってはいなかった。誰もが皆、自分の未来に何の恐れも抱かず、小さな穴からこぼれる光源へと猛スピードで突っ込んでいっているようだった。そこにしか自分の生きる場所はないと、あっさり決断していた。居心地の良かったモラトリアムな箱庭は、既になくなっていた。
これといってやることもなく、野晒しにしてあったバイクに乗って徳島に帰ることにした。国道一号線を下り、烏帽子岩を正面に望む湘南の砂浜で野宿した。箱根で芦ノ湖を眺めたり、甲府のパチンコ屋で時間をつぶした。そして高校生の頃に登った北アルプスを見たくなり、信州に向かった。
底冷えのする上高地は、人っ子ひとりいなくて寂しい雰囲気だった。どしゃぶりの雨が降っていて、槍・穂高連峰は霧の奥に隠れていた。意地でも山を目にしてやるぞと野宿を決め、物産センターの雨除けの下で、段ボール箱を組み立てて箱の中で丸まった。凍える夜をやり過ごすと、北アルプスの連山が朝日を浴びて白く光っていた。河童橋まで全力疾走すると、息が蒸気機関車の煙みたいに後ろにたなびいた。
それから再びバイクで日本海側に出て、東尋坊をぶらついてから国道八号線を南へ下った。一年前、子犬おけけと歩いた道だ。あの頃、野宿した納屋や休憩したバス停は、おけけとの記憶がまだ真新しい。
国道沿いの雑木林の奥の、日当たりのいい畑の脇におけけの墓はあった。何も目印はないけど忘れることはない。スーパーで買っておいたおけけの好物の牛乳とサバ缶を置いた。代わりに、その辺に転がっている小石をひとつ拾ってリュックにしまった。
徳島に帰省したら、母校の先生に「顔を見せろ」と連絡をもらい高校にでかけた。登山部の顧問だった人で、ぼくの無謀な単独登山を怒ってくれていた人だ。
土曜の午後の校舎は、しんと静まり返っていた。八角堂と呼ばれる古めかしい大正モダン建築の建物の床に、高校生のとき「アフリカばんざい」と彫刻刀で刻んだ文字が残っていた。
五階建ての校舎の屋上に出る。屋上にはロッククライミングの練習に最適な壁があり、休み時間になると指先の力を鍛えるために、ヒサシにぶら下がっていたものだ。隣で煙草を吸っている不良たちに、頭のおかしいヤツだと訝しがられていた。昔そうやったように、ヒサシに飛びつき懸垂を繰り返した。冷たいコンクリートに触れている指がジンジン痺れた。
いったいぼくは何をしているのだ?
あちこちほっつき歩いても、そこには何もないことを知っている。
帰るべき場所は、アフリカ以外にない。
ぼくは、アフリカに帰るのだ。
□
日本での停滞は一カ月で充分だった。東京四谷にある汚いビルの一室で安い航空券を手配し、ナイロビ行きの飛行機に乗った。アフリカに帰還すると、マラリアに倒れた村を再出発点に歩きだした。
□
「グオオオオオオオ」
装甲車や戦車の車列が、地鳴りをあげてウガンダ方面へと猛進していく。二十台、いや三十台はいる。アスファルトに食い込むキャタピラが、赤土の砂塵を舞い上げる。粒子の細かい砂が辺りに漂い、火星の表面のように赤い世界をつくる。ぼくの腕や、顔や、Tシャツや、肺の中まで真っ赤に染めんばかりに。
奥歯でジャリジャリと砂を噛み締めながら、「ウオッホホーイ」と叫び、頭上でリュックをぶんぶん回す。装甲車のハッチから上半身を出した兵士や、幌つきの輸送トラックの荷台に陣取る兵士たちが手を振り返してくれる。満面の笑顔で、ピクニックにでかけるみたいに、彼らは戦場に向かっている。
口の中の砂を吐き出すための唾はない。細胞という細胞がカラッカラに乾いている。空になった胃袋、汗が出ずウロコ状にささくれだった皮膚、小石を絡め取って逆毛だつ髪の毛、すべてが生の喜びに溢れている。
「戻ってきたのだ」と実感する。ぼくは、熱帯の太陽の制圧下にいる。アフリカを歩いている。
身体じゅうからエネルギーがほとばしっている。幸福感と陶酔にめまいすら感じる。自分がいるべき場所に帰ってきたのだ。
ケニアから真西に進むウガンダルートは、ケニア陸軍の行軍が示すように紛争が起こっているいらしい(後で知ったことだが、この時期はウガンダ内戦の最終局面で、首都カンパラでは反政府軍によるクーデター作戦の真っ只中であった。ケニア軍は国境の平定に向かっていたようだ)。
ぼくは進路を変更し、南下に転じた。
ケニア南西部には、ナイル川の源であるビクトリア湖岸に広がる大草原地帯が広がる。ウガンダルートに比べれば三百キロの遠回りとなるが、戦乱に巻き込まれるよりはマシな選択だろう。再出発から十四日間で四百キロを歩き、タンザニアに入国した。
これといった観光地も都市もない北西部タンザニアは、まさに辺境地だった。
ケニアとの国境を越えたとたん、生活にまつわる物資が消えてしまった。青空市場にモノは少なく、痩せた野菜や、天日干しのカチカチになった小魚が、布の上に申し訳程度に並べられている。
たまに食堂というかカフェがあるが、木柱に布切れをくくりつけて、屋根と壁代わりにした粗末なものだ。メニューは、チャイ(ミルク入り紅茶)とマンダジ(小麦粉を丸く揚げたドーナツ)があればいい方。コップ水はたいてい濁っており、透明な水にはありつけない。
ケニアならどんな寒村でも通じた英語は、タンザニアの田舎村では使えない。耳で覚えたスワヒリ語で会話をする。といっても、
腹へった(ムナスキアジャーラ)
眠りたい(ンナタカクララ)
愛してる(ミミナクペンダ)
の一辺倒だ。
タンザニアでは野宿の必要がない。ムラという共同体が、客人の野宿を良しとしないのだ。
外国人など絶対訪れる機会のないこの地に、突如現れたぼくの姿は、さぞかし珍妙に映ったはずだ。長い棒の先に、汗に濡れたTシャツをくくりつけ、頭に布切れを巻いた山賊のような格好をしているからだ。
集落の入口にさしかかると、ぼくを目撃した子供たちがまず騒ぎだす。「面白いものがやってきたぞ」と歓声が上がり、リーダー格の子が集まってくる。Tシャツ旗を掲げたぼくを囲んだ子どもたちが、村の長の家へと案内してくれる。
長老から「この村で泊まってもよろしい」との許しを頂くと、村でいちばん裕福な家の主が迎えに来てくれる。裕福といっても、土壁で藁をふいた屋根、土の床であることは他の家と変わらない。土間にムシロが敷かれ、寝床をあてがわれる。
バケツ一杯の水を渡され、トイレで水浴びする。穴を掘った地面に渡し木を並べたトイレは、同時に水浴び場になっているのだ。
典型的な夜食は、ウガリ(キャッサバ芋の粉を練って蒸したもの)に、スクマと呼ばれる青菜をパーム油(アブラヤシの実を潰したオレンジ色の液体)で炒めたものが添えられる。指先でウガリと青菜をこねながら食べる。これが絶品である。
一晩を過ごして出発する前には、知っている限りのスワヒリ語を並べて礼を述べる。気持ちばかりですが、といくばくかのお金を渡そうと試みるが、必ず断られる。「そのお金は、この先も長く旅をする君のために取っておきなさい」と家のあるじは言う。
□
ぼくの内側でいろいろなことが変化した。
あまり地図を見なくなった。一日に何キロ進んで、日程どおりに行程をこなすことを自分に強いていたが、今はどうでもよくなった。アフリカ東海岸から出発した頃は、生きるか死ぬかの極限の精神状態にあった。めったに水場や食い物にありつけない環境に追い込まれていた。今は、路上やメシ屋で会った人に誘われたら、どこにでもついていく。道路から遠く離れた村に寄り道し、民家に泊めてもらう。
マラリアから回復し、アフリカに戻ってこれた。これ以上の幸福を求める必要がなくなった。アフリカという硬質な土地と戦っても跳ね除けられるに決まっている。風に吹かれて適当な方向に転がっていく枯れ草のように、行きあたりばったりでいいのだ。
□
少年は、十キロも手前の村からついてきている。ぼくが休憩をすると彼は道端に座り、歩きだすと彼も腰を上げる。振り返るたびに距離が詰まってきて、そのうち横に並んでしまう。手に持った木の枝を振り回しながら、飛んでくる虫を追っ払っている。
「ねえ君、一緒に来るのはいいけど、もう家に帰らないと日が暮れてしまうよ」
「オレの家はこの先だよ。ムズング(外国人)は、どこに寝るんだ?」
「どこでも寝れるよ。道のはじっこでも、トウモロコシ畑でも、牛のウンコの上でも、どこでも大丈夫だ」
「なら、オレの家でも寝れるか?」
「泊めてくれるのか?」
「いいよ。これから先は村はないから、メシを食って泊まっていけばいい」
幹線道路を外れて、木綿畑を貫く土の道に入る。少年は駆け足で先行し、曲がり角のたびに行く方向を指さしながら、ニッとぎこちなく笑う。
少年の家は、土壁でできた素朴な家だった。父親と兄弟たちが出迎えてくれる。「ようこそ」と言って握手を求められる。突然、奇妙な外国人が現れたのに、驚くそぶりがないのが不思議だ。
ぼくのつま先から頭の先までをひとしきり見回した父親が、あきれ気味に言う。
「ムズング(外国人)は、まず水浴びをするべきだな」。
再び少年の先導で、水浴び場に向かう。家の裏に広がる背丈のあるトウモロコシ畑を抜けると、だだっ広い平原の中に小さな泉が現れる。あっという間にパンツを脱ぎ捨てた少年は「ヒュー」っと喉を鳴らして泉にダイブする。ぼくも服を脱いで宙に舞う。どこから情報を得たのか、村の子どもたちが次々と集まってきては、どんどん飛び込んでくる。子どもたちと水面を叩いて飛沫を浴びせかけあってハシャぐ。
空全体に朱色のペンキをぶちまけたような夕焼けが広がる。ジャンプを繰り返す子供たちの影が、切り絵のように空中で静止して見える。
夜空に金星が輝き始める頃、家族で焚き火を囲んで食事がはじまる。スパイスをたっぷり効かせた小魚の油炒め、乾かした芋やバナナ、芋の粉をこねたウガリ。ぼくは芋を立て続けに十二個ほおばり、喉につまらせて家族を慌てさせる。
食事を終えると、家の隅に積み上げられた白い綿花の山に布をかけて、急ごしらえのベッドを作ってくれる。客人の様子を確認しにきた父親が、「よく休みなさい」と神妙な顔つきで去っていく。綿毛にはイモムシがたくさんいるらしく、夜中にシャツの中で這い回ったりしたが、久しぶりの柔らかい寝床に安眠をむさぼる。
目が覚めて外に出ると、朝日がヤシの木の上に登っている。ベッドが心地良すぎて寝坊してしまった。あわてて出発準備をはじめる。父親が「そんなに急がなくていい。もう一日いてもいいんだぞ」と引き止めてくれる。「ムズングはわしの息子みたいなものだ」と言いながら。とはいえ、こんな親切な家に長逗留をしては迷惑をかける。昨夜の贅沢な晩ごはんは、きっと無理をして用意してくれたのだ。
少年と父親と三人で、西に向かって歩きはじめる。代わる代わるぼくのリュックをかついでくれた親子は、地平線をひとつ越えるくらい遠くまでつき添ってくれる。別れ際に、ウガリを葉っぱで包んだ弁当を手渡してくれる。父親は「いつか手紙をくれよ」と強く手を握る。
「ポレポーレ!」(のんびりいけよ!)
そう叫ぶ二人は、丘の向こうで姿が豆粒になるまで手を振っていた。
こうやってぼくは、毎日五リットルずつ汗を流しながら、アフリカの内陸へ内陸へとジリジリ詰め寄っていったのだ。 (つづく)