公開日 2021年03月19日
文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)
(前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる"ぼく"は十九歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発した。小さな村でマラリアに倒れ、村人に介抱される。一時は死線をさまよったが、二カ月の療養期間を経て再び歩きだす。スタートから千百キロを超え、タンザニア北部、ナイル川源流のビクトリア湖岸を西へ西へと向かう)
漁業が盛んなビクトリア湖岸に広がる肥沃な平原地帯を離れ、アップダウンのある灌木帯に突入する。米や魚にありつける機会はマレになり、主食はサトウキビ、バナナ、キャッサバイモのローテーションだ。
街道沿いにずらりと、茅ぶき屋根のサトウキビ屋が軒を連ねている。長さ二メートルと背丈よりも高いサトウキビは、一本二シリング(日本円にして二円)だ。それを三本ほどまとめ買いし、ナイフで五十センチ大にカットして、リュックの左右に突き刺しておく。
サトウキビは表面の頑丈な皮を割いて、芯の部分をかじると甘い砂糖水が口中にジュバジュバあふれる。水分をすべて吸い終わった繊維質の芯をペッペと吐き出す。一日で口にする食料がサトウキビだけという日もあるが、豊富な糖分と水分が補給できるので、飢えや乾きに瀕することはない。
バナナ屋に出くわすと小躍りしたくなる。貴重なカロリー源である。長さが一メートルにもなる巨大な房は、木刀のようにカッチカチだ。ぶんぶん振り回すと、牛を追っ払える。生のままで噛じることは不可能。皮をそぎ落として、バナナの葉で蒸し焼きにするか、鍋で煮込むかして食べる。たいていのバナナ屋の横では、この蒸し・煮込みバナナを皿に入れて出してくれる。これも一皿二円。贅沢しても、一日の食費は十円かからない。
毎日だいたい十五時間歩き、四十五キロほど前進していく。一日じゅう動きつづけ、少量の食事しかとれないため、摂取したものはすべて身体に取り込む。食事のあとは、小腸の繊毛がうなりをあげて吸収している感じがする。小便やウンコはめったに出ない。実に経済的である。
真昼の太陽の下、サトウキビ屋の前であぐらをかき、サトウキビをバリバリかじっていると、ドブロク酒で酔っぱらい気味の店のオヤジが肩をツンツン突いて、横に並んで座る。「兄弟も一杯やろうぜ」と上機嫌だ。
手にした一枚のチラシを見せる。
「この人は、アンタの知り合いかい?」と聞く。
モノクロで印刷されたチラシには、
《ジーザス・クライスト、アフリカ大陸を横断する!》
との見出しが踊っている。ビザンティン時代の宗教画のような、前時代的な挿絵が描かれている。聖衣をまとった白人神父がジャングルの小道を歩き、彼の足元には村人たちがひざまずき、うっとり潤んだ瞳を向けている。
《フランスの高名な神父○○氏が、布教のためにアフリカ大陸を徒歩で横断しようとしている。四千マイルの道のりを、ジーザスの教えを説きながら自らの足で踏破する》
英語とフランス語で説明が続く。
《偉大なる彼の旅をサポートするために、心からの寄付を! 一マイルにつき五ドル、全行程で二万ドルの旅の資金が必要です》
二万ドル、イコール三百万円! これが旅行費用だとしたら大サギだな。
「オヤジ、この人はアフリカを旅するために三百万シリング必要なんだって。三百万といえば、このサトウキビ百五十万本分だ」
「ほう、すごいな。そりゃ」
オヤジは目をまるくする。
「神父さんは、かなりの大食らいだ。お前と同じでな、ヒャッヒャッヒャ」
□
ここまで通過してきたタンザニア北部の村々では、そうとうな寒村でもキリスト教の教会が設けられている。どこの教派に属するかは、ぼくの知識ではわからない。教会といっても聖堂があるわけではなく、質素な土壁の小屋の前に広場があり、椰子の木を切り出して削った長イスが十脚ほど並んでいる。日曜になると村人が集まって礼拝が行われ、ゴスペル調の歌をうたったりする。
ぼくが村に着くと、子供たちに手を引っ張られて最初に案内されるのが教会だ。神父さんはイコール村の名士であり、英語かフランス語を解するからだ。
彼らはおおむね身だしなみが整った紳士であり、未知の文化に興味が強く、議論好きである。
「友よ、日本は仏教国だと聞いたが、ジーザスを信じる人はいないのかね」
「日本は仏教徒が多いわけではありません。結婚式はキリスト教、新年には神道、お葬式では仏教と、時と場合によって手を合わせる対象が変わるんです」
神父は首をひねる。
「私には理解できないね。いろいろな宗教が地球上に存在しているのは事実だが、それぞれの神の教えは違うはずだ。日本人は、すべての神を信じているのですか」
「逆ですね。多くの日本人はどの神様も信じていないから、何にでも手を合わせるのです」
「何も信じていない?」
「あえて言うなら資本主義(キャピタリズム)を受け入れているかもしれません」
「キャピタリズムの神は誰かね」
「お金です」
「お金は神ではないよ」
「でも、みんなお金のことを頼りにしています」
「友よ。私は日本でジーザスの布教をしたい。神とお金は絶対的に違うのだと伝えたい」
神父の宗教談義から解放されたのは、夜鳩が鳴く頃だ。ロウソクが消され、ようやく眠りにつける。やれやれ。
・・・・・。
トントントン。
タンタンタンタン。
バッタンバッタン。
ドォーンドォーンドォーン。
アーアーアーアー。
う、うるせー!
神父め、ジキジキおっぱじめたな!
ジキジキとは性交のことだ。「ジキジキ」という言葉は、東はバングラデシュにはじまり、インド亜大陸、中近東、東アフリカへと、大海と大陸をまたにかけて共通語として愛用されている。セックスという言葉には淫靡で秘匿すべき印象があるが、「ジキジキ」には、カラッと明るく開放的で、力強い生のイメージがある。サバンナの太陽や、密林の木漏れ日の下に、ジキジキはよく似合う。この行為の先に、人間の誕生や、生命の謳歌があるのだと思わされる。
だからジキジキは嫌いではない。だけど、民家泊まりではさんざ悩ませられる。家主らは客人の存在を気にしない。隙間だらけの板張りの壁一枚を隔てて、ドッタンバッタンが繰り広げられる。あるいは、六畳ほどの土間にムシロを敷いて雑魚寝という状態で、一メートルほどの距離をおいて実施されるのである。
甘美な声ではない。野獣の咆哮のような声にエロスは伴わない。明かり取りの窓から射す月の光に浮かぶのは、なまめかしい蠕動ではなく、直線的な前後運動だ。そして、おおむね五分で終了する。
自然体といえば自然そのものの営みの姿であるが、二十歳のぼくには刺激が強く、脳髄はギンギンに冴えわたる。
翌朝、寝不足で寝ぼけマナコのぼくに神父は言う。
「さわやかな朝だね」
「ええ、そのようですね、神父」
「ところで友よ」
「何でしょうか」
「日本の電気製品は素晴らしいと聞いた。ぜひ送ってもらえないだろうか」
□
目立つ産業ひとつないこんな土地にも開発の触手は伸びている。道路を行き交う工事車両には、中国人らしき人たちの姿が見える。新たに造られた道が平原をまっすぐ切り裂き、地平線へと伸びている。森の木々を根こそぎ切り倒し、下草を焼き、熱したアスファルトを敷き詰める。あたりは石油の匂いで充満している。ここに生命の繁栄はない。焼け出されたハリネズミや肉食獣の死体が転がっている。
三十匹ものハエが顔の周りを飛び交い、気が狂いそうになる。手にしたタオルをヌンチャクのようにぐるぐる回し、ハエを追っ払いながら歩く。乾ききった荒野に突然現れた血と肉の塊(ぼく)に、ハエは興奮し、歓喜しているようだ。わずかな水分を求めて、目や鼻や口の中へとカミカゼ特攻をかけてくる。タオル攻撃を逃れると、リュックの後ろ側にいったん逃れ、再び上空に舞い上がっては集団で攻撃をかけてくる。
逆襲してやろうかと、口の中に飛び込んできたハエを噛み潰してやる。甘い味がした。食えないわけではなさそうだ。
「キーン」
突如、高周波数の金属音が耳をつく。
何だ? 耳鳴りのようでもあるし、ラジオのノイズのようでもある。あたりを見回しても発信源が認められない。
「キーン」
かつて一度も聴いたことのない奇妙な音。それはしばらくの間、灌木の茂みの中から背後へ、そして頭上へとつきまとってきた。
ふいに、一昨日の夜の記憶がよみがえる。バイパス道路沿いの宿場町の酒場で、テーブルをともにした輸送トラックの運転手にさんざ脅されたのだ。
「ここから先は国立公園だ。ライオンはいるし危険な猛獣でいっぱいだ。なにより怖いのがツエツエバエだ、ツエツエバエに狙われたら決して手を出すな。ヤツらは攻撃的で、オマエの勝てる相手じゃない。刺されたらオシマイだからな」
この金属音はツエツエバエの羽音なのか?
その名は何度も耳にした。アフリカ赤道地帯に生息するこの凶悪バエに刺されると、日増しに衰弱していき、半年後には二度と目覚めることのない永遠の眠りにつくという。恐るべき殺傷虫だ。
メラメラと燃える太陽と、気味悪いくらい群青に冴えた空。ブスブスとくすぶる焼き畑の黒い焦げ跡。猛々しい熱波と、原色しか存在しない原野に、そいつは満を持して姿を現した。形状はハエそのものであるが、アブラゼミのようなデカさでまさにヘヴィー級の威風。腹部の黄色と紅色のまだら模様が、異様さを放っている。
ヤツは明らかにぼくを標的にしている。ツエツエバエは吸血して生きながらえているのだ。牛も山羊もいなくなった荒野に、ぼく以上の極上の獲物はいない。
焼けただれた平原の真ん中に呆然と立ち尽くす。心臓が痛いくらいに収縮する。手足の先がジンジンと麻痺する。あごの先から滴り落ちる冷や汗が、地面の赤土を濡らす。
金属音が再び近づいてくる。 (つづく)