公開日 2022年11月28日
文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)
(前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発し、タンザニア、ルワンダを経て、世界最大の密林国家ザイールで偉大なるアフリカの民との遭遇に胸を踊らせる。スタートから三千六百キロ余りを踏破し、五カ国目となる中央アフリカ共和国へとにじり寄るのだった)
ザイールと中央アフリカ共和国を隔てる国境へと向かう。国境が近づくにつれ、道は苛烈なものになっていった。背丈より高い草をかき分け、強烈な太陽光線に焼かれながら前進する。突然のスコールに見舞われる。二階の風呂の底が抜けたような大スコール。ぼくのザックもシューズも、パンツの底までも、深海に囚われられたカイウサギの産毛のように、ずっしりと重く濡れてしまう。鼻や顎や耳たぶや膝がしらや、体じゅうのあらゆる突起から、ザアザアと音をたてて雨水がしたたり落ちていく。
雨が森を揺らす音。
雨が土を溶かす音。
雨がつるを流れつたう音。
地面の吸収が飽和に達すると、雨水は赤い濁流となって、道を埋め尽くす。いろいろな水の音が混ざりあった、ゴーッという抑揚のない断続音に鼓膜が慣らされていく。あたりは、井戸の底のような静けさに満ちる。
身長ほどもあるバナナの葉っぱの下にうずくまり、マッチを取り出す。手が震えて、マッチ箱半分すっても発火しない。残り少なくなった頃、ようやく煙草に火が灯る。 寒い。震えながら、眠る。
人間とは不思議な生き物だ。数カ月前に地獄だと思えたことに、今はわずかな反応すらしない。耐性ができてしまったのだ。
脱水症状に慣れ、栄養失調に慣れ、ひとに殴られることに慣れた。暑さや寒さに慣れ、濡れることや、蒸されることに慣れた。出血に慣れ、下痢に慣れ、嘔吐に慣れた。汚れることに慣れ、臭うことに慣れた。怠惰に慣れ、覚醒に慣れた。
突然、ライフル銃を持った男が、目の前に立つ。静けさが破れ、スコールの轟音が世界を揺らす。男は麻袋の紐を解き、体調五十センチくらいのまだ子供のワニを取り出す。尻尾をつかんで、ぼくの目の前でぶらんぶらんさせながら「二百ザイールで買わないか?」と言う。目を閉じたワニは、口の先から雨水をしたたらせながら、深い深い眠りについているようだった。
□
茶濁したウバンギ川を越えると、対岸は中央アフリカ共和国だ。国境商人たちを詰め込んだ乗合ボートが陸を離れる。離れゆく岸辺からザイール人たちが手を振る。偉大なるザイール。息苦しくなるほどの緑の絨毯と、優しき密林の民と、幻想の大麻草。やがてそのザイールは一本の緑の線となってしまう。
船着き場は、商人や旅人でごった返している。中央アフリカ共和国の首都バンギは、対岸のザイールとは経済の進捗が明らかに違う。路上の物売りでさえ、昨日までは見たことのないピカピカの電化製品やナイフや文房具を並べている。メインストリートに建ち並ぶ巨大なショッピングセンターや銀行のプロムナードをネクタイ姿のサラリーマンが闊歩する。ショーウインドウには色とりどりの缶詰や洗剤が積み上げられている。豹柄やシャネル柄をあしらったバティック(ろうけつ染めの布地)をヒラリ風になびかせ、美女たちが通り過ぎていく。ほんの三十分前までいたジャングルの植物の緑と赤土色から一転し、けばけばしい都会の色彩がドッと眼球に流れこむ。
フランスパン、かき氷、サモサ(揚餃子)、焼肉、アイスクリーム…。軒を連ねる青空屋台のいろいろな食い物は、ぼくに食べられるために存在している。猛烈な空腹感。狂犬病持ちの疥癬犬みたいに、舌の先からダラダラと唾が流れ落ちる。「食うぞ、おまえらみんな食ってやるぞ」とうつろに宣言する。ぼくは無防備なまま、食べ物に見とれてしまう。
とつぜん、背後から何者かに襲われる。首を締めあげられる。二の腕がガチッと喉に食い込み、強烈な力でグイグイ絞めつけられる。賊だ。しかも、街のド真ん中で大胆に襲うのだから、並の相手ではない。全身から力が失せる。もともと抵抗するパワーなどありゃしないのだ。腹がへって、力が入らない。
と、賊は、急に緊迫を解いたかと思うと「ケッケッケッケ」と笑いだした。振り返る。そこには、懐かしい顔がある。
「アホのヒグマ…」
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ヒグマ(樋熊)と最初に出会ったのは二年前の夏、蒸し暑い運送屋の十トントラックの荷台だ。
ヒマラヤに行く資金を貯めるために、ぼくは割のいい運送屋の深夜勤務をはじめた。東京の湾岸ターミナルに、一晩に何百台と集まる大型トレーラーの荷物を、ただひたすら下ろしつづける仕事だ。夜勤一日で一万二千円の日当。土日出勤すれば一万四千円。休みなく働けば月に四十万円以上になった。未成年者の給料としては破格だ。おまけに更衣室には大浴場と仮眠所がつき、社員食堂の白飯と漬物は無料だった。つまり構内に泊まりっぱなしでいたら、ほぼ金を使う必要がなく、給料のほとんどを貯められる。三カ月で百万円貯めて、あとの九カ月をその金で遊んで暮らすバックパッカーの巣窟となるのも無理はない。
しかし、労働は苛烈だった。荷台のコンテナの中は蒸し風呂のように暑く、油や繊維の臭いが充満して息苦しい。動くたびに段ボール箱に汗の飛沫が飛び散り、息があがった。金も才能もない、けど体力だけは、というわずかの自信も勤務早々に打ち砕かれていた。
彼は、コンテナいっぱいに詰まった荷物を、圧倒的なスピードで処理していた。動きは俊敏で無駄がなく、ヒラリヒラリと宙を舞う蝶のように華麗であった。ぼくはその背後に中腰でスタンバッて、彼がむんずと掴んで縦一列にローラー上に倒した荷物を、外に送り出す役目をしていた。彼の動きに着いていくので精一杯だった。対応できないと、たちまち荷物が滞ってしまう。
「オラオラオラオラ、テメエもっと動けるぞ!」と煽られる。
ぼくは血が熱く沸騰するのを感じた。この男には負けたくないと本能が反応した。スタミナのロスなんてどうでもいい。百メートルを全力疾走してるように、とにかく畜生コノヤロウという怒りで、メチャクチャに動いた。 荷台の天井まで積み上げられた荷物を、彼は全身をテコにして、クルクルと回転を効かせながら、芸術的に、しかも衝撃のないよう静かに、車内のローラーの上へと倒す。ぼくはその荷物にふられた宛先番号を天へとひっくり返しながら、車外のベルトコンベアへと流していく。延々とその作業が続く。いつしか不思議なリズムが二人を包んでいた。ぼくたちは笑いながら荷物と取っ組みあいっこをしていた。とても愉快だった。
作業を終えると荷台からポンと飛び降りた彼は、「おれはヒグマだ。登山家だ」と名乗った。ついでに「オメエ、もっと鍛えた方がいいぞ」と胸をバンとついてきた。
ムラムラとライバル魂が湧きあがった。
ぼくは十八で、彼は二十だった。
彼のような傲慢で、独善的な人物には初めて出会った。
たとえば、ヒグマと街を歩くのはとても疲れた。彼は早足の登山家・加藤文太郎(明治三十八年~昭和十一年)を崇拝し、必ず他人より数歩先を歩きたがった。ぼくはそれが許せず、ヒグマを追い越す。彼はプライドを傷つけられ再び抜き返す。新宿や池袋の雑踏を、ぼくたちはそうやって競争しながら歩いた。週末には、二人で奥多摩や丹沢にロッククライミングに出かけたが、ヒグマとの山歩きはバカバカしいの一言である。二人とも相手の背後を歩くのが屈辱なので、ザックを背負ったままクロスカントリー競争のように走ってしまう。
岩場に取りついてからも、アンザイレン(互いにロープで身体を結び合い安全確保する)した相手がミスって滑落するのを楽しんだ。自分が制したルートを相手が失敗したり、断念してエスケープするのを心から馬鹿にした。絶対に負けたくないのだ。
ヒグマは仕事中、こっちのフイをついてはよく殴りかかってきた。奇襲であろうがあるまいが、殴られた方が負けだった。ぼくは背後から彼に近づき、関節技を仕掛けた。ぼくたちの行動に意味はなく、単に相手に勝てればよかった。
ヒグマは、古いカスタムバイクを乗りまわし、バッテリーが凍結しても撮影可能な極地対応の一眼レフカメラを持っていた。片腕だけで懸垂を何度もこなし、百五十キログラムの鉄塊を気合いで持ち上げた。十八歳のときにチャリンコで日本一周したことがあり、地元新聞に大きく取り上げられた。その話をするときは、鼻をヒクヒクさせた。何かを自慢するとき、この癖を隠さなかった。
ヒグマはある日、プイッと運送屋からいなくなったかと思うと、数日後にスイスの山村からモンブラン(四八〇七メートル)に単独登頂したという報せを絵葉書で寄越した。手紙を書きながら、鼻をひくつかせている姿が目に浮かんだ。
ぼくは二カ月後に運送屋のバイトを辞め、ヒマラヤにでかけた。赤痢にかかり、毛ジラミをもらい、高山病に悩まされ、ひどい状態で歩いていたエベレスト街道の峠道で、前からゆらゆらと歩いてくるヒグマを見て、これは幻なのかと目を疑った。彼は「ふっふっふ、よくここまで来たなタコ」とこちらを見下ろした。ヨーロッパアルプスで遊んだあと、中東の砂漠を越え、エベレストを偵察しにきたのだと言う。前人未踏のエベレスト南西壁の単独登頂は、彼の人生の最大目標であった。その「敵」を目に焼きつけておくのだという。
ネパールから帰国後、ぼくは徒歩で日本縦断し、宿願のアフリカ徒歩横断へと向かった。一方ヒグマは、南米最高峰アコンカグア(六九六〇メートル)の単独登頂をめざしてリオ・デ・ジャネイロに旅立った…はずであった。そのヒグマとなぜ、こんなアフリカのど真ん中で会うのだ?
(つづく)