バカロードその165 僕とスパルタスロンとヘンテコな14年 スパルタ2023出場に挑んだ4つの街から

公開日 2023年08月07日

文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

 

「走れないなら歩けばいい 徳島県徳島市」

 スパルタスロンとは毎年9月下旬、地中海に面したギリシャで行われる総距離246・8㎞、制限36時間の超長距離マラソンレースである。  スタート地点を首都アテネの中心部にあるアクロポリスという遺跡直下とし、ゴールを古代戦闘国家として繁栄したスパルタ市に置く。

 僕はこのスパルタスロンに2010年から挑戦をはじめ、通算成績は1完走・9リタイアという惨憺たるものではある。しかしその魔力にとらわれ、挑戦を諦められずにいる。 大会に出場するには、あらかじめ規定された成績を残す必要がある。主だったクリア値は以下だ。
 200㎞以上レースを29時間以内で完走。
 220㎞以上レースを36時間以内で完走。
 24時間レースを180㎞以上走る。
 48時間レースを280㎞以上走る。
 以上の記録を過去2年以内にマークし、その客観的証明を行う。
 コロナ禍の期間に、僕のこれら資格は消滅した。2023年9月に行われるスパルタスロンに参加するには、新たにこれらの記録を叩き出さなければならない。4年前なら「楽勝」の部類のハードルである。半分遊んでいても出せる。しかし、僕を取り巻く状況は非常に悪いものであった。
 2年近く寝たきりになってた。外を出歩くことはおろか、立ち上がるのも困難だった。
 ずっと寝てるもんだから、お布団は臭くなったねえ。いや、最低限の天日干しはしてたんですよ。しかし24時間寝てると、さすがに体臭がしみこむわ。
 運動消費カロリーゼロのくせして、キットカット、白くまアイスファミリーパック、ミカン大袋、カッパえびせん紀州梅味…と偏食は一層ひどく、2年間で体重が56㎏→86㎏と30㎏増えた。
 こんな感じなんで、働きつづけるなんてとんでもなく、もともと辞める予定だった仕事を前倒しして退職した。五十過ぎの中年が無職になってしまったのだ。
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 状況が少し好転したのは、2022年の6月ごろ。
 大学病院の治療がうまく効いて、体調が良くなったのだ。何やらネズミの細胞を体内に注入してるらしい。
 そりゃ治るもんなら、カバの歯くそだろうと、アリクイの唾液だろうと、何でも突っ込んでちょうだい。
 7月には久しぶりに太陽の下に立った。
 それで走ってみよっかなってんで、駆け出してみたんだけど、10歩も続かなかった。
 市民ランナーが昔を振り返ってよくのたまう「最初は500メートルで息が上がりました!」とゆうヤツとは違う、なんか走り方自体がわからないんですよ。手と脚がバラバラってーか、同じ動きすぎるってか。意識して走るフォームを作ろうとすると、ますますぎこちなくなって、走れなくなる。
 それで仕方なく歩きはじめたんだ。
 こっちは仕事も辞めて、時間は無限にあるので、夜明け前から歩きだしては、日没すぎても歩いてました。
 最初はまあまあ楽しかったんですよ。久々のお外だしね。しかし2週間もすると飽きたねー。見る景色は毎日変わり映えしないしさ。
 それで持て余した暇の解消のために、あいさつ運動を始めたんだ。とにかくすれ違うすべての人、お年寄りから幼児まで、のべつまくなしに爆音で「おはようございます!」「こんにちは、いい天気ですね!雨ですね!」と声をかけまくった。
 そりゃ最初はこっ恥ずかしかったですよ。なんせ社会人のときは一切定番の挨拶をしなかった人なので。←どんな人?
 なんか嫌だったんですよ。心の底から思ってないのに「おはよう」「行ってらっしゃい」「お疲れさま」って口にするのが。朝は早いに決まってるし、仕事は取材なんだから外に出ていくのは当然だし、若いヤツらがいちいち疲れるはずないだろって。 そんなへそ曲がりはさておき、ウォーキングの暇つぶしあいさつ運動、ヤバかったですわ。
 「いい話し相手が現れたぞ」って目を輝かせるおじい、おばあの餌食になりましたね。持病と病院通いの話は定番で、お得意は悪口ね。嫁の悪口、連れあいや親戚の悪口大好き。貰い手のいない独身息子への嘆きも多いね。墓じまいの相談までされたな。
 その日、ウォーキングコースにある徳島市立高校のわき道「さわやかロード」を歩いてたら、すんごい歓声が聴こえてきたの。ふだんはしんと静かなのに。そしたらグラウンド全面と体育館全フロアで校内球技大会やってたんです。まあ十代のエネルギーは凄いね。プレーしてる生徒は生き生きと躍動してるし、応援してる子たちの声やリアクションが眩しくて眩しくて。若者だけが持ちえる無限の生命力がほとばしっている。
 校庭の脇で腰掛けてダベってた10人くらいの男子に「おはようございます」って声かけたら、全員がこっち振り向いて「チワーっす!」って大声で返してくれて、なんかシンプルに感動して鳥肌立った。
 その日から青春ブームに突入して、TSUTAYAで「白線流し」「高校教師」「1リットルの涙」「サマータイムマシーンブルース」「青春デンデケデケデケ」…借りて見まくりました。
 特に「白線流し」に心打たれました。昔、観たはずなんだけど、ストーリーは全部忘れてた。いやー良かったですよ。主演の長瀬智也と酒井美紀の芝居に没入できるのは当然として、脇を固める京野ことみ、柏原崇、馬渕英里何、中村竜、全員ステキ。中でも惚れたのが町工場勤務のヤンキー役の遊井亮子ね。社会の矛盾を睨みつけるような目がケガレなくて綺麗だわあ。
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 あいさつ運動にも慣れてくると、今度は近所をぐるぐる巡るのが退屈で嫌になってきた。そこで遠征を始めたんだ。いや、こちとら歩きなんであまり遠くまでは行けませんが。自宅のある徳島市川内町から徳島空港とか鳴門海峡とか、標高538mの大麻山とか。往復で40㎞近く歩いたね。歩くの遅いし、よくへばって休憩するので、帰着が深夜になることもあった。
 基本、お金は持たずに家を出るので、給水はもっぱら公衆トイレかコインランドリーか、あるいは人の家の前にある水道蛇口からの水泥棒。夏なんでね、生ぬるくて不味いんだわ。
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 そんなことしてるうちに、ある夜、遅くに電話が鳴ったんですよ。誰かもわからない電話番号がスマホ画面に表示されてました。こんな夜中に誰なんだろ?って思ってボタン押したら、あの恐ろしい鬼からでした。
 愛媛の河内さん。
 あのさ、電話もらえるのありがたいんですけど、そっち側の風の音がビュービューやかましくて、ほとんど聴きとれないんですけど。明らかに外を走ってる最中じゃないんですかね?
 風の止む隙間に聴こえてきたのはこの質問。
 「坂東くんって、昔、スパルタの練習で佐田岬(愛媛県の四国最西端の岬)まで走ってなかった?」
 ほおほお、確かにそんな元気あり余る頃もありましたな。
 「はあ、走りましたけど」と答える。それが何か?
 「それ、レースにしてみたらどう」
 立て続けに、
 「してみたら?」
 状況がよくわからないので、中途半端な返事しかできない。もごもご言ってると、
 「また打ち合わせしよや。松山いつこれる?」
 そして、抵抗できるだけのバイタリティとディベート力に欠けるぼくは、なし崩されるがままに、愛媛に向かう羽目となってしまった。
 河内さんは、ほとんど何も決まってない段階でインターネットで発表した。そこにはこう書かれていた。
 「待望のアドベンチャーレース 坂東カップ開催!」
 はあ? 誰が待望してるってんだよ。
 いちばん嫌なのが「坂東カップ」って名称だよ。それ、まるでブラジャーのサイズみたいじゃね。…このあと、たくさん紆余曲折あるわけですが「坂東カップ」だけはかたくなに拒否して大会名称は「バカロード300」(300㎞走るって意味です)に落ち着きました、ほっ。いやいや、ほっとしてる場合じゃないって。知らん間に大会やることなってるし。自分が走れもしないのによ。
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 恐怖の電話はこれで終わらなかった。
 「来週の○日、時間あいとる~?」と今度は陽気だが、相変わらず風の音がビュービューうるさい鬼だ。ぼくは無職なので、もちろん全日予定はない。
 「はあ、あいてますけど、何か?」
 「わかった、朝にそっち行くわ。とりあえず運動できる格好だけしとって」
 「え、でも僕まだ走れませんけど」
 「大丈夫、大丈夫。ほんじゃおつかれさまー」
 出たよ。また得体の知れない深夜電話。
 仕方なく指定された朝、運動用のシャツとパンツ履いて待ってたら、僕んちにやってきました。
 「せっかくなんで、上がってください」と言うと、なぜか河内さんはせわしない。2分もしないうちに「ほんじゃ行こか」と立つ。どこ行くんですか?と聞いても教えてくれない。
 それでマンションの下に停めてあった河内さん専用タコ焼きマシン搭載の軽ワゴンに乗り込む。助手席の床には穴が空き、その部分をスーパーのチラシかなんかで隠し、ガムテープで貼りつけてある。今どきカンボジアやラオスでもこんなボロ車走ってなさそう…。
 どこ行くんすか?
 「淡路島かなあ」 とか言ってはっきりしない。
 カーナビに目的地までの距離が小さく表示されている。160㎞とあった。明らかに淡路島を通り越している。
 「160㎞って淡路島じゃないでしょ。まさか、大阪ですか? アレじゃないですよね。Y子さんがやってる24時間走の大会じゃないですよね?」
 「当たりー。大丈夫、大丈夫。ランナーにタコ焼き焼いて食べさせるのが目的やし、6時間だけ走ろう」
 でも、僕まったく走れないんですけど。
 「走れんかったら歩いたらええんよ。歩いたら」
 そして僕は大阪のどこだか知らん公園まで拉致され、主催者からその日欠席した人のゼッケンを渡されシャツにピン留めし、何が何だかわからないままスタートラインに立たされた。
 スタート直後から全員に置き去りにされて、仕方なく6時間歩きつづけた。ちょうど30㎞で時間が来た。やれやれ疲れたよ、けど久々に走る人たちとコースを共にできて楽しかったナー。
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 この日を境に、どんな効果なんだか、走ることができるようになった。全力で走ると10㎞に1時間47分かかった。これでも自分的にはスロージョグじゃない。息をゼェゼェいわせてのトップスピードなのだ。気持ち的にはキロ4分、しかし後ろに流れてく景色はスローモーションのように遅い。けどね、嬉しかったね。なんせ走れたの2年ぶりだから。どんなに遅くても、ウォーキングのオッチャンやちょこちょこ散歩する豆柴犬に軽く追い抜かされても、走るのは気持ちいい。
 8月、汗をどぼどぼかいて、毎日10㎞のタイムトライアルを繰り返した。体重は歩きはじめた2カ月前から22㎏減った。メシを食っても食っても痩せていくのだ。たいした距離走ってないのに不思議だわ。
 そして9月の「バカロード300」の当日を迎えた。話すと長いので詳細は「タウトク」2022年11月号に、大会の様子をまとめたリポートが6ページにわたって掲載されているのでぜひご覧ください。感想を述べるとこれまたクソ長くなるので、ひとことで。「ランナーよ、カッコ良すぎだろ」です。完走した人もリタイアした人も、全員が光って見えました。夕陽に飛び込んでくランナーの後ろ姿って、あんなにいいもんなのね。永く走ってきたけと、まったく気づいてなかったよ。
 そして、強くこう思いました。絶対この舞台に還ってやるって。
 3日後に迫った瀬戸内行脚(愛媛県・230㎞・10月)で、2年ぶりにレース復帰する。レースなんだから、やれるだけやってみますみたいな甘い事を言うつもりは毛頭ない。そんなゆるい姿勢で走る人を主催者の鬼は許さないだろう。本気でスパルタスロンの参加資格である36時間以内を獲りにいく。
 もちろんこのジャンルの困難さは嫌というほど知っている。230㎞という距離は、たったの1カ月ぼっちの練習で攻略できるほど甘いものじゃない。しかし、2023年のスパルタ資格の取得期限は2月25日時点までのものと厳密に定められており、獲得できる可能性があるレースは、この瀬戸内行脚と1月に沖縄である「ジャパントロフィー」の2本しかない。走れない理由をうだうだと上げてる暇はないのだ。
 僕は、僕の脚と身体の特性を知っている。潰せば潰すほど強くなるのだ。だから先週、100㎞走と160㎞走を中5日で行った。両方とも盛大に潰れた。ホントは昨日と今日200㎞走る予定だったのだが、足の裏が腫れ上がって歩くのもままならずDNS(直前逃亡)してしまった。だから不安要素がないわけではないが、もう腹はくくった。あとは突っ込むしかない。
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 思えば人生の多くの熱量を費やしてきたスパルタスロンだって、あの悪魔のささやきから始まったのだ。
 プロポーズした女性にふられた哀しさを忘れるために走りだした無欲で凡庸な市民ランナーであった僕が、某大会を終えて無防備に休憩していると、あの恐ろしい人が笑顔で近づいてきたのだ。
 もちろんその時はこの人が地獄からの使者だなんて知る由もない。
 「徳島から来たんやって? スパルタ出んのん?」
 「スパルタって何ですか?」
 「最初はちょっと走るけど、あとはレクリエーションみたいな大会よ。楽しいよ。来てみたら?」
 ふーん、楽しそう。こんな優しそうな人が声かけてくれて、誘ってまでくれて。ギリシャも30年前に旅行して以来だし、どんなに変わったか観てまわりたいな。「スパルタ」とかゆうレクリエーションも良さげだし。
 こうやって、まんまと罠にハメられた。
 そこには娯楽の要素はまるでなく、あったのは生き地獄だった。ゲロを吐き、意識は途切れ、目の前が真っ白になったらジ・エンド。毎年同じことの繰り返し。完走できるまでに10年という途方もない歳月と、4倍の季節が流れていった。
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 いつもあの鬼は笑顔で現れる。ふだんまったく接点がないのに、とつぜん目の前にフイっと登場しては、あの5文字をつぶやいて去っていく。
 「してみたら?」
 「来てみたら?」
 その瞬間から、ぼくの人生の歯車が10年分動きだす。
 今はバカロードの活動をグローバルなものにしたくてNPO法人の設立準備に取り掛かっている。軌道に載せるまでに10年はかかるだろう。また10年だよ。翻弄されすぎなんだって。あの人は誘うだけ誘って、あとは本人次第だろうよって冷てーんだから。
 とりあえず土曜日、死ぬ気で鬼の手のひらの上で暴れてきますわ。道中お会いするであろう皆さん、僕が弱気を少しでも見せたら、全力でしばいてください。
(つづく)