バカロードその103 スパルタスロンその2 フカフカ枕に顔を埋めて

公開日 2017年01月25日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

(前号まで=2500年前のペルシア戦争時、ギリシャ・アテナイ国兵士が援軍を求めてスパルタ国まで駆けたという逸話を元に、247kmを36時間以内に走るレース・スパルタスロン。6度続けてリタイア中のぼくは、7度目の挑戦真っ最中。80km関門を8時間17分で通過し、足切り時間まで1時間以上の貯金ができた。ところが急速に体調が悪化し、歩くのがやっとという状況に陥る)

□【第一関門コリントス】80kmに到達。8時間16分55秒
 ふどう畑を貫く農道はS字カーブを描き、太陽が傾いていく先へと、光を映してまぶしく延びている。ときおり農園の番犬たちが道ばたまで駆け寄ってきてはバウバウと吠えたてる。「ワンワンワン!」と日本語で応酬すると、不思議そうな顔をして、ぼっーとこちらを見つめている。
 体調が戻るまではと歩き始めて30分。「苦しくても一歩でも前に」というカッコいい精神状態ではなく、走るのがツラくて逃げてるだけ。後ろを振り返ればたくさんのランナーが足取りも軽く近づいてくる。追い抜かれざまに見る彼らの横顔と瞳は「いよいよレースはこれからなのだ」という精気に溢れている。仕方なくちょっとだけ走ってみるが、フラ~とめまいがして、また歩く。
 伝統あるこのレースには、いにしえからの参加ランナーたちが口頭伝承する鉄則が多くある。その初級編でかつ重要なひとつは、
 「コリントス(80km地点)を過ぎてからが、本当のスパルタスロンの始まり」である。
 「コリントスまではスピードレース、コリントスからは根性比べ」という人もいる。
 いずれにせよこの247kmの道程において、80km地点をひとつめの局面変化のポイントとするのは、参加者みな異論がない。
80kmまでは100kmサブテン程度のスピード持久力と酷暑に耐える力を必要とされ、80kmからはどんな困難にも打ち勝ち、道を切り開いていく精神力や自己コントロール力が問われる。
 ああ、それなのにそれなのに。今ぼくは、白目をむいて失神するほどでもない軽微な体調不良を言いわけに、ぶどう畑の一本道をたらたらと歩いている。この局面で最も必要とされる精神力も根性も、ぼくの中にはカケラも見あたりません。
 畑を抜けると、ヤシの木が連なる小さな街に入り、ヤンチャ小僧どもの声援を受ける。街のちょうど真ん中あたりの芝生広場の前にエイドが用意されている。むかし、このエイドで食べたスイカがすごく美味しくて、いっぺんに5切れほども平らげて消化不良をおこし動けなくなったことがある。今年は2切れまでにして、歩きながらちょっとずつ食べようなどと色々考えていたが、エイドの机の上には乾いたお菓子しかなかった。
 
□90kmを通過、9時間40分04秒(この10kmを1時間23分09秒)。
 高速道路と交差する高架橋を越えると、だらだらと長い坂道がはじまる。オリーブの木々が生い茂る畑の脇で、1度目の壮大な嘔吐をする。喉の奥から噴き出した吐瀉物は、遺跡の多いこの辺りで何世紀前から降り積もったかわからない砂礫を盛大に濡らす。
 ふらつく足で道路に戻るが、目の前が白くかすんで見え、またまた吐き気がして道から離脱、そしてまたゲロの嵐。1kmほどの坂道を登りきるのに何十分もかかった。吐くのに時間をとられすぎて、いっこうに進まない。
 93km地点にある街は、「古代コリントス」と呼ばれる遺跡の縁に栄えた観光の街だ。花々で飾られたツーリスト向けの民宿やカフェが、石畳の広場を中心に軒を連ねている。広場にはたくさんのテーブルが出され、人びとは食事やお酒を楽しんでいる。今から夜中まで長い宴がはじまるのだろうか。長い旅の途中で、ふらりと立ち寄れたらどんなに素敵な街だろう。
 この広場に美味しいスイーツ屋さんがあると聞いていたので、余裕があれば街の人に教えてもらって、ジェラートを両手に持ってなめなめしながら走ろうと考えていたが、その食欲はない。山の端に近くなった夕陽に向かって街を素通りする。
 
□100kmを通過、11時間06分43秒(この10kmを1時間26分39秒)。
 この10km間に20回くらい吐く。吐きすぎると体内からエネルギー源となる食物や水分が抜けてしまい、四肢に力が入らなくなる。走り出しの1歩目となる太腿が上がらないのだ。
 無理矢理にでも何かを摂取しなければならないのだが、水やコーラは飲んだらムカムカしてすぐ戻してしまうし、エイドの食料はパサパサの固いパンか塩辛いポテチみたいなのしかなく、潤いのない口の中や喉元を通る気がしない。
 100kmの計測ラインらしき所を11時間06分で通過する。歩きまくっているわりにはタイムはいい。計測ラインの向こうにあるエイドの机上にエメラルドグリーン色をした果実を見つけたときには、叫びたくなるくらい嬉しかった。ぶどうだ! しかも何房も、大皿にたっぷり盛られている。ヤッター! やっと口に入れる気にさせるものがあった。
 ぼくはギリシャ産のぶどうが大好きなのである。スーパーや露店の八百屋さんなら200円も出せば買い物袋にずっしりいっぱいになるほど安くて、味といえば日本の高級品種シャインマスカットほどの甘みと酸味を兼ね備えているのだ。皮ごとポリポリ食べられるので、ホテルでテレビ見ながら一晩で2kg分も食べ続けたことがある。
 脱水症状が現れる震える指先でぶどうを一房いただく。
 いや、いただこうとした瞬間、エイドにいたおばさんが「ダメよ!」という感じでぼくの伸ばした手を鋭く制するではないか。
 エッ、なんで?
 「そのぶどう、くれませんか?」と英語で伝え、懇願する表情をして見せる。
 ところがおばさんは、ギリシャ語と大げさな身ぶり手ぶりで、
 「このぶとうを食べたら、あなたの胃が悪くなるに決まってる!だからダメよ!」と言って、ぶどうがたっぷり盛られた大皿を持ち上げて、後ろに隠してしまった。
 なんでーーー。
 今、この瞬間まででーんと並べられていたぶどう。巡りあった瞬間に、なぜ引き離されてしまうのでしょうか。
 ぶどうは完熟してなかったんだろうか。見た目、そのようには見えなかった。
 先行したランナーが口にした途端、腹痛を訴えて七転八倒したのだろうか。いや、食べた瞬間に消化不良を起こしたりはしないだろう。
 おばちゃんが隠した真相を知るすべはない。ギリシャ語で込み入った会話ができるはずもない。絶望的な気持ちでエイドをあとにする。
 
 102km地点にある大きな街ZEVGOLATIO(読み方わからず)は、おとぎ話に登場するような可愛いい街である。曲がりくねった街路の両側には、白壁に茶色いレンガ屋根を乗せた家々が並び、白いひさしの奥には、カフェや一杯飲み屋、雑貨店などがギリシャの田舎町に暮らす人びとの営みをかいま見せる。カリオストロ公の城下町で、ルパンと次元がミートボールスパゲティを食べたお店みたいな、大衆的で賑やかな雰囲気だ。近代化する気のない南ヨーロッパの庶民の街って感じ。老後はここで暮らそう。
 街の中央に三叉路があり、突き当たりのレストラン脇の歩道を占拠して、マッサージスペースつきの大きなエイドが設けられている。あずけてあったヘッドランプを受け取り装着しようとして力尽きて歩道の上に倒れ込む。1分、1分だけでも横になったら、体力は劇的に回復しないだろうかと一縷の望みを託すが効果はない。
 ZEVGOLATIOの街を抜けるまでに、何度となく空き地を見つけては寝込む。倒れているところをレースの救護車両に見つかり、急ブレーキかけて停まった車を降りて駆け寄ってきたお兄さんに「アーユーOK?」と強制終了させられそうになったので、「今ストレッチしてたところなんですよ。元気です!」と嘘をついて難を逃れる。
 ぼくが動くかどうか救護車両の中からずっと見られているので、仕方なく立ち上がり、「さぁやるかー」というポーズをとって、車の脇を駆け抜ける。
 街を抜けて人気のない広い谷筋の道路に出ると、先行したランナーのうち潰れてしまった人が横倒しになっている様子がポツポツ見られる。
 今回初参加という日本人の若いスピードランナー2人が「潰れました。スパルタ舐めてました。マジで厳しいっす」とふらふらになっているので、いちおう先輩ぶって「大丈夫!ここから粘ったらぜったいゴールできる!まだ1時間も余裕あるけんっ!限界と思っても20分休んだら復活するし!ぜったいゴールするぞー!」などと叫びながら3人でチョロチョロと走る。
午後7時、薄明かりの空はすでに暗く沈み、ランナーたちのかざすヘッドランプの光が路面に揺れている。
 
□110kmを通過、12時間56分35秒(この10kmを1時間49分52秒)。
 10kmに2時間近くかかりはじめている。空き地を見つけるたびに横になって、2分、3分と休んでるんだから、そりゃ遅くなるに決まってる。こういったコマ切れの休憩を挟んでも一向に回復しそうにないので、思い切って長く休むという賭けに出ることにする。
 行く手には暗い山の影が迫っている。これから10km余り、勾配はさほどではないが長い登りが続くのだ。
中腹あたりに街の灯りが見える。山の斜面に街が刻まれている。煉瓦造りの家々の合間をくねくね縫ってつづく街路を登っていく。突き当たりの小ぶりなレストランの前にエイドが開かれている。辺りを見回してみるが、身体を横たえて休めそうな場所は見あたらない。
 エイドでお世話をしてくれているスタッフの中に、日本人女性の顔が見える。大会の受付会場や開会式で、主催者の説明をギリシャ語から日本語へと通訳してくれていた方だ。
 「どこか横になれる場所はないですか?」と尋ねると、彼女は「ちょっと待って」と言い残し、背後のレストランに入っていく。すぐに戻ってきた彼女は「お店の床に寝られるそうですが、それでもいいですか?」
 申し分ないし、ありがたい。彼女が「何分したら起こしに来ましょうか?」と確認してくれるので、「5分でお願いします」と答える。
 レストランに入ると、すでに店じまいのあとらしく、店主らしき人と近所のおじさんたちが集まり、おしゃべりをしている。「どこでもいいから寝ていきなさい」と床を示してくれる。
 ぼくはお礼を述べ、手に持った給水ボトルをテーブルに置いたが、フタを閉め忘れていて、エイドで満タンにしたばかりのコーラを真っ白なテーブルクロスの上に盛大にぶちまける。
 店主のおじさんに「こんなことやってしまった。どうしよう。ごめんなさい」と謝ると、「気にするな。とにかく君は早く寝なさい」と言い、びしょびしょになったテーブルクロスを片づけてくれる。我ながら何と迷惑な訪問者でしょうか。
 横たわると、大理石の床はひんやり冷たくて、熱く火照った身体から疲労を取り去ってくれるようだ。シューズとくつしたを脱いで床に押し当てると、気持ちいい。仰向けから腹ばいの姿勢に変えて、頬を床につける。膝から下をばたばた動かして筋肉を緩める。その光景がおもしろいのか、店にいた人や、いつの間にか集まってきた子供たちが周りを取り囲み、写真や動画を撮っているようだ。突然店に入ってきて、床で足をバタバタしている日本人・・・おもしろ動画として世界に発信されることを願います。
 「5分経ちましたけど、起きられますか?」と女性スタッフが起こしに来てくれる。「うー、あと5分」とデキの悪い中学生の朝みたいに延長を申し出る。
 店主のおじさんが「これを使いなさい」と真っ白な枕カバーに包まれた枕を持ってきてくれる。ここまでさんざ地面に直寝してきたので、髪の毛も首筋もドロドロに汚れている。「ぼくはすごく汚いんですよ」と遠慮すると、「気にするな。ゆっくり寝てくれ」と枕を頭の下にすけてくれる。洗濯糊のきいた、良い匂いのするフカフカな枕が、優しくぼくの頭を包んでいく。こんなことされると、ここから動けなくなるよー。    (つづく)