バカロードその113 負けっ放しもまた人生よ

公開日 2018年01月20日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく) 

  生来の短絡さというか、何をするときも取り掛かる前は「これはうまくいくに違いない」と思い込んでしまう。必ず成功すると確信しているために、リスクヘッジを一切しない。こんな問題、あんな問題が発生した時に、どう対処すべきかという想定ができない。起こってもいないことに用心深く準備するのはおっくうであり、何もしない。

 だからいざ取り掛かると、自分の能力を顧みなかったツケが波状的に押し寄せてくる。それが商売ならば、目論見はことごとく外れ、作ったものは売れ残り、目も当てられない数字が並ぶ。それが人間関係ならば、大切な人ほど去っていき、育てた人にはあんたバカねと呆れられ、人を信じて貸した金はその人とともにどこかへ消えていく。
 歳をとるごとに、持ち前の忘れっぽさに拍車がかかり、失敗しても失敗しても、失敗したことを3日で忘れるので、すぐまた「次はうまくいきそうだ」と未来を夢見て楽しい気分に浸る。そしてまた船を漕ぎ出すと、水漏れがはじまり「あーあ、こんなこと自分にできるはずないのに」と櫂を投げ出してしまう。
 さてランニングにはその人の性格が表れるというが、本当にそうだなぁと思う。特に1日じゅう走っているウルトラマラソンや、何日間もぶっ通しのジャーニーランでは、人間性そのものが噴き出してしまうので、まったく僕にとってはよろしくない。
 暑さ寒さに弱く、痛さ辛さから逃げまわり、「やってはみるけどすぐにあきらめる」という人生の価値観がモロに出てしまう。足を引きずり、シャツやシューズを血染めにし、それでもゴールを目指しているランナーがたくさんいるなかで、僕は足にちょっとだけマメができたくらいでバス停の時刻表をチェックしては、ほどよい時間にリタイアする計画を立てている(200km以上の大会では収容バスは回ってこないので、自力でどこかに帰り着かなくてはなりません)。
 2017年もそろそろ終わりが近づいてきた。今年こそすべてがうまくいくと1月頃には血気盛んに高ぶっていたが、振り返ってみれば、何もかも失敗づくしであった。過去から一切学ぶ姿勢のない自分の軽薄さを、年末の今だからこそ省みようではないか。

【別府大分毎日マラソン・大分】(2月)
 高校時代の同級生のタイラくん(羽ノ浦のスーパーニコー店長さん・アラフィフ)が、いつもフルマラソンをサブスリーで走っては、全力を出し尽くした果てにゴールで倒れて担架で運ばれるのを見てうらやましくなり、自分も生きているうちに1回だけでもサブスリーに挑戦したいと思って、身の程知らずに別大(べつだい)にエントリーしてしまった。しかし慣れないスピード練習に取り組んだせいでストレスが溜まり、絶食とドカ食いを繰り返しているうちに、ベスト体重58kgで別大に挑むはずが、大会2日前に5kgもオーバーしている。どうしても58kgにしたいものだから、前泊した別府・鉄輪温泉の宿の内湯や、100円で入れる外湯めぐりスポットに2日間で計10度入浴し、皮膚が真っ赤になるほど熱い湯船やサウナで汗を流しまくって4kgを落とした。ベスト58kgより1kg重いが許容範囲に収まった。
 ところが、本番当日を迎えるとスタート直後から体にまったくキレがなく、ぜんぜんスピードが出ない。10kmを45分13秒とサブスリーなんて問題外の遅さ。別大だとこれは最後尾に落ちていくペースだ。案のじょう、最初の折り返しですぐ後方にパトカーや収容バスが迫っているのを知る。
 ハーフを1時間37分26秒。こりゃダメだ。何がダメって喉はカラカラに乾き、汗がまったく出ず、口に猿ぐつわ噛まされたみたいに呼吸ができない。27kmで足がふらつきはじめ、33kmからの1kmに9分かかる。おお、これは箱根駅伝の中継でときおり見かける悲劇的な選手の姿なり。完全に脱水症状である。温泉めぐり10カ所、やり過ぎだったみたいです。
 やがて最後尾の集団に抜かれて、パトカーの拡声器から「はい歩道に上がってください」との指示が飛んでジエンド。サブスリーはおろか3時間30分の制限時間すらクリアできず、収容バスの乗客となった。

【川の道フットレース・東京~新潟】(5月)
 太平洋岸から日本海までの514kmレース。スタートからわずか110kmあたりで体調がひどく悪化し、両手両足ガタガタ震え、口もきけないほど衰弱した。
 時刻は深夜2時、場所は埼玉県の寄居という田舎町(設楽啓太・悠太の生誕地です)。動いている電車もバスもなく、このまま行き倒れるのかなとモウロウとしていた頃にエイドに着く。気がつくと顔が地面にくっついている。ぼくはどういう状態なの?
 スタッフの方に導かれ、エイド車両の中に誘導される。シートを横倒しにし、ヒーターをフルパワーに入れ、具合が良くなるまでここで寝ろと言う。無言で従い、うわ言をつぶやきながら吐き気に耐え、3時間ほどが経って空が薄っすら白くなる頃には、どうにか車からはい出せるほどには回復していた。
 ほとんど走れない代わりに、休憩を入れずひたすら歩く。200kmを過ぎると両足裏とも真っ赤に腫れあがる象足になり、一歩一歩に激痛が伴うが、やめようかという気分にはならない。いつものことだがビリケツ付近にいると、前からランナーが落ちてくる。皆どこかをひどく故障していて、拾った棒を支えに片足だけで歩いている人や、泣きじゃくっている人など人間模様が慌ただしい。
 四方を山に囲まれた佐久平盆地を貫く真っ直ぐな道。傍らを流れる千曲川のせせらぎに夕陽が反射する。冠雪を抱いた浅間山や、白雪連なる北アルプスの峰々から冷たい風が届く。痛々しく脚を引きずるランナーの背中がセピア色の風景に溶け込んでいく。「川の道」ってどうしてこうも哀愁に満ちてるんだろね。バカなことに必死になってる人間ってやつが素敵だからかな。
 昼と夜が5回ずつやってくる。
 気温30度を超す真昼には、コンビニで買ったアイスを頭や首に巻く。凍える夜には道に落ちているジャンパーやヤッケを何枚も拾っては重ね着する。眠気に耐えられなくなると、公衆便所の温かい便座を抱きしめて15分だけ眠る。
 そうやって最下位のあたりを順調にキープし、ゴール制限時間の132時間に対し、20分ほどの余裕を持って最後の街となる新潟市に入る。日はとっぷりと暮れている。
 ゴールの7km手前で国道を逸れて、信濃川の堤防道路に上がるコース設定だが、そのあたりで住宅街に迷い込む。抜け出そうとしても寝不足からか方向感覚がない。
 いよいよ追い詰められ、最終手段だとスマホのGPSを起動させるとバッテリーの残量が1%しかない。(この地図を目に焼きつけるんだ!)とマナコをカッと見開いた瞬間、ディスプレイは暗転する。網膜に一時保存した地図の残像を頼りに、信濃川の方へと駆けていく。夜の風景の奥に、かすかに横一線に暗い影が見えた。(土手だ!堤防だ!助かった!)。長時間迷っていたようで、時計を見ると残り7kmをキロ6分ペースでカバーしないと間に合わない。
 もう全力で走るしかない。駆ける駆ける、息を切らせて駆ける。510km歩きとおしたズタボロの脚で、この大会最速のスピードを出し、街灯のない土手や河川敷を突っ走る。
 ゴールまで残り1km。前の方からたくさんの人が駆けてくる。地元ランナーや他の選手の応援の方、エイドで助けてくれたスタッフの方もいる。僕の周りを取り囲み、伴走をしてくれる。「きっと間に合いますよ、でも油断するとアウトになるので気を抜かないで。ギリギリですよ」と引っ張ってくれる。
 大きな建物の角を曲がると、直線の向こうの温泉施設の玄関に、ゴールゲートが光り輝いている。もう間に合う、ゆっくりと噛み締めながらゴールしよう。
 131時間58分11秒78。6年前に初完走したときのタイムより100分の22秒速い自己ベスト記録だ。6年間で僕は100分の22秒進歩したってことだ。

【土佐乃国横断遠足・高知】(5月)
 高知県の室戸岬から足摺岬まで土佐湾をめぐる242kmの道。川の道フットレースの514kmを走り終えてからの中2週間レストは、回復するには短すぎる。走りだした最初の1kmが515km目に感じる。クサビカタビラを纏ったかのように全身が重く、倦怠感がひどい。キロ7分でだましだまし進んでいた脚は、70km付近で反乱を起こす。「これ以上は走りたくないし、歩きたくもない、もう何もしたくない、帰りたい」。
 すっかり嫌になって、高知龍馬空港の滑走路の先の道ばたに寝転んで、夕焼け空に離着陸する飛行機を(きれいだなあ)と下から眺めていると、20分ほどで心変わりが始まる。(せっかく走りだしたわけだし、10km先の桂浜エイドにはカツオの塩タタキがあるし、80km先の四万十町エイドには窪川ポークの生姜焼き定食が待っている。せめてそこまで歩いていこう)と思い直す。あんなに自暴自棄になってたのにさあ、食い物への欲求だけで立ち直れるものなのね。
 この大会、各エイドやゴール後に出してくれる土佐食材を使った料理の味が格別なのである。さらには、道すがらにある売店やファストフード店に、高知でしか食べられないスイーツがあることを僕は知っている。
 20km、30km先のソフトクリームやアイスクリンに誘われながら、2晩の徹夜を経て、3日目の朝に足摺岬に到着する。記録は47時間14分。ゴールすると大会スタッフの車に乗せられ、高台にあるリゾートホテル・足摺テルメのお風呂に送迎してくれる。ほこほこになった湯上がりの体に、土佐清水漁港でその朝水揚げされたばかりのカツオの刺身を生ビールで流し込む。うううっ、リタイアしなくてよかったー。

【サロマ湖100kmウルトラマラソン・北海道】(6月)
 100kmを9時間未満で走る「サブナイン」は、僕にとって大きな勲章だ。キロ5分24秒イーブンで走り通せば9時間ちょうど。自分の走力だとよっぽど頑張らないと達成できない。理想のペースは最初の50kmを4時間15分で越え、どうやってもスピードが出なくなる後半50kmを4時間45分で耐え忍ぶ前半貯金型だ。
 スタート前から降りしきるオホーツク海の冷たい雨。シューズが濡れるのが嫌で、道路にできた水たまりをよけ、蛇行したりジャンプを繰り返していると、脚がだるだるになる。しかし濡れシューズでキロ5分を維持する方が難しい気がして、忍者のように飛んだり跳ねたりがやめられない。フルマラソン地点を3時間46分で通過、無駄な動きが多いためか予定より10分遅い。
 それほどまでに努力を重ね、乾いたシューズを守り抜いていたまである。ところが、フル地点直後に用意された仮設トイレで用を足そうと駆け寄り、トイレドアの真下の草地を踏みしめた瞬間、左足が「ドボン」、勢い止まらず右足も「ドボン」。草に隠れていて見えなかったが、トイレの周囲が足首まで浸かる深い水たまりになっていたのだ。引っこ抜いたシューズから滝のように水が滴り落ちる。おいおい、なんてトラップだよ。
 意気消沈激しく、急激にスローダウンし50km通過は4時間31分。タプタプ音をたてるシューズに、もうどうにでもなれとヤケクソ気味。プールと化した歩道の真ん中をジャブジャブ直進していたら更にペースダウン。ラスト2kmは意識が飛びかけて歩いてしまい、タイムは9時間45分11秒。
 冷静になってみれば、たかだか靴が濡れた程度のこと。そんな些細なできごとで大きな心理的ダメージを受けるワタクシ本来のダメダメっぷりが全開となったレースであった。

【みちのく津軽ジャーニーラン・青森】(7月)
 「奥武蔵ウルトラ」や「川の道」の運営で定評のあるスポーツエイド・ジャパンが昨年から始めた大会。250kmと200kmの部があり、200kmの方にエントリーした。
 スタート会場は弘前駅前の公園。小雨パラパラ模様の天気は、スタートから2kmほど先の弘前城に入る頃には土砂降りとなり、一瞬のうちに城内の遊歩道が小川と化す。しばらくたつと空は晴れ渡り、雄大な岩木山の三角錐が正面に現れる。しかし40km地点の白神山地では、アスファルトに雨の王冠が咲くほどの驟雨に見舞われる。
 それからも、雲が切れて晴れる兆し→やっぱし雨→強風が吹いて衣類が乾く→にわか雨→一転カンカン照り、と繰り返しているうちに股間に異変が起こる。マタズレである。マタズレなんてウルトラマラソンにはつきもので、マタが痛い程度のことで泣きが入るような根性なしは大会に出なければよい・・・のが定石であるが、そんなんわかっていても涙が溢れるほど痛いのである。
 グレー色のパンツ表面は股間を中心に赤く血に染まり、その周辺からスソの部分まで乾いた血でドス黒く変色している。脚を交差するたびに、パリパリに乾いたパンツ内側の布地が皮膚をこそぎ落とす。パンツをめくってマタを覗いてみると、縦8センチ、横4センチ幅の皮膚がなくなっていて、ザクロのような真紅の生皮がむきだしになっている。脚を動かし続けているために、傷口がカサブタで閉じられる余地がない。カサブタにならないと血は止まらない。内股から流れ出た血はカカトまで伝い、シューズもえんじ色に血塗られる。
 流血がはじまり5、6時間が経つと、両手の指先にピリピリと痺れがくる。次にグー、パーができなくなり、痺れが両肩まで上がってくる。ほっぺたを触ると感覚がない。頭をゲンコツで叩いても自分の頭じゃないみたい。麻痺が拡がってくると歩くのもままならなくなり、1時間に1.5kmしか進まない。ふらふらしながら103kmエイドのある十三湖の中島に到着し、リタイアを告げる。
 案内された浴室にこもり、シャワーノズルの先からちょろちょろ出した水をおそるおそる股間に当てると叫び声がギャーッと漏れる。痛え、痛すぎる。ナイフで生皮をはがされてるみたいな痛さだ。
 脱いだランニングパンツにシャンプーをすり込みゴシゴシこすると、見たことないほどの量の血液の塊が排水溝へとドロドロ流れていく。パンツを何度絞っても血は止まらない。鮮血にまみれた浴室の床を見つめながら(ああ、リタイヤしてよかった・・・)と心の底から思うのでした。

【広島長崎リレーマラソン・広島~長崎】(8月)
 本誌10月号~11月号に様子を掲載させてもらったが、広島市から長崎市まで全行程423kmのうち半分の232km(福岡県直方市)までしか進めなかった。いやほんとマジで体力ねえわ。

【伊都国マラニック・福岡】(9月)
 台風直撃のあおりを食らい、103kmのコースのうち山岳部分をカットして、平地のみの52kmに短縮された。朝5時のスタート時刻はそのまま実施されたので、大半のランナーが昼前にレースを終えた。僕がゴール地点の海辺の民宿に着いたのは午前11時だが、先着ランナーによる飲み会がはじまっていた。昼2時くらいにはテーブルの上に一升瓶やワインボトルが並び、へべれけになってる方も散見される。着座したままゲロを吐いて倒れ、それでも飲みの席に復帰しようとする妖怪も目撃した。
 夕方になるとバーベキューハウスに移動し、生アコースティックギターの伴奏で大会用に創作されたマラソンソングを選手とボランティアスタッフ百数十人で熱唱。九州のランナーらは皆ソラで歌えるほどの有名ソングのようです。炭火焼肉をたらふく食うと、再び和室の大部屋に取って返し、何次回目かの飲み・・・その宴は深夜1時まで続いた。いや、僕がギブアップして寝てしまったのが深夜1時なので、宴席はもっと続いていたのかもしれない。短縮コースながら大嵐のなかを52km走った直後から14時間、酒をぶっ続けで飲むという、恐るべき九州ランナーたちの生態にド肝を抜かれる。
 九州エリアの大会に参加するたびに思い知らされるのだが、この人たちは本当に走るのと飲むのが好きなのだ。
 「お風呂に行こう」と誰かが言いだせば、200kmも彼方の温泉まで山脈を横断していくし、「飲みに行こう」と盛り上がれば徹夜で120km走って他県の飲み屋まで出かける。博多、北九州、熊本といろんな街にウルトラランナーの巣窟たる居酒屋があるのだそうだ。
 これが九州ウルトラランナーたちの日常。毎週末のように練習会と称しては100km以上走り、ゴールを居酒屋か温泉に設定して、底なしで飲み干す。レースともなれば、エイドにビールを仕込み、レースだけど立ち飲み屋に寄り道し、ゴールしたら徹夜で飲み明かす。生命体としてのエネルギー量が凄すぎて圧倒される。悩みの一つや二つはあるんだろうけど、愚痴や不満は酒の肴にはならない。ああ九州って、地上に咲いたウルトラランナーの花園なのかも。

 振り返るとこの1年、まともに走れたことがほとんどなかった。そしてまた人生も同様である。
 欲しい物は手に入らない、願ったことは叶わない、チャレンジしたら失敗する、夢はほとんど実現しない。それは今までずいぶん学んできたので、今さらショックを受けたり落ち込んだりするほどではない。
 連戦連敗が常態だと、恐れるものがなくなる。失敗に慣れると、失敗が怖くなくなるというメリットがある。人はみな失敗を恐れて二の足を踏むものだが、「どうせ失敗するんだから」と気楽に一歩を踏み出せる。だからまた来年もいろいろやってみるとしよう。

 しかし、ゴールテープなんてただの一本の布切れだろうに、走っても走っても届かないもんだね。今や幻のように遠い存在である。だからたまにゴールテープを切ると、輪にかけて何倍も嬉しいのである。リタイア続きだと、そういうお得感もありますね。