公開日 2007年03月04日
キラキラ輝く太陽と地上の間には何もなくて、コバルトブルーの海、透過素材のビーチパラソルと椰子の木がつくる影のなかでぐてっと寝そべりながら、極上のミステリーを読み明かす。のどの渇きを覚えた頃に、キンと冷えたビールと甘ったるい南洋の果実が届けられる。
時計は持たない。時間を知る手かがりは水平線に沈むオレンジ色の夕陽だけ・・・みたいな。そんなイメージが頭に浮かぶと、いくらぬぐってもぬぐい去れない。
仕事は手につかなくなり、帰宅途中にキョーエイのビール売り場で「コロナビール」をカゴに入れてしまう。こんなメヒコ産瓶ビールの栓をシュワッとあけて飲み干しても、ボクの中の渇きを癒せるものではないが、そんな無駄な抵抗を試みる自分がかわいいと納得させる。
ビーチにハマッている人間は、ボクの周囲には少なくない。彼女たちはバリに夢中になったり、タイに繰り返し出かけたりする。バリ好きはバリ島にしか興味がない。日本の女性があのような王侯貴族な気分を味わえるのはバリ島をおいて他にないからだ。エステ、スパ、マッサージ、アロマ、雑貨、ダンス、アート、クラブ、マッシュルーム・・・。癒しをビジネスにする手法に満ち溢れた島で、浅黒いバリボーイたちの痺れるような甘い囁きを耳元にうける。あの「もてはやされ感」に陶酔を覚えない人はおかしい、というのはバリマニアの弁である。
一方のタイに出かける友人は、島を転々としている。サムイ、パンガン、タオ、チャン、クラビ・・・。どの島もいくつかの階層にあわせたサービスがある。金持ちは金持ちなりに、プアーはプアーなりに。彼女たちは地上のどこかに理想の理想郷があると信じる求道者のようでもある。どの島も好き、でもきっともっといい島が私を待ってるに違いないってね。
じゃあボクはというと、たいした思想もない単なるビーチ好きなのです。
ボクがビーチリゾートに求める条件は3つしかない。
1. ビーチに街が隣接していること。
2. 水が透明であること。
3. ホテルがオン・ザ・ビーチであること。
単純なんだけど、この3つの条件を備えているビーチって、ホント少ないんです。
だいたい主張に矛盾があるというのは自覚している。ビーチに街が隣接し、水が透明なわけないって、世界中のビーチフリークに怒られそうだ。
あと、ボク的には、ホテルとビーチを隔てた車道が一本あるだけで興ざめなのです。海に出かけるのが気の遠くなるような面倒くささを伴う。ところがホテルがオン・ザ・ビーチに並んでるのってね、あるようでないのです。ものすごい辺境島のボロ・バンガローか、ものすごい開発された島の大資本系ホテルのどっちか。
ボクは貧乏旅行とラグジュアリーの中間、つまりほどよい心地よさしか求めないから、両方バツ。ああ、中産階級というのはほんと満たされない存在である。でもね、パーフェクトはなくても、「まあまあだな〜」くらいはあっていいと思う。しかし、まあまあの場所すらめったにないのですよ。
「地球の歩き方リゾート編」とか「るるぶワールドガイド」とかを読みあさって、巻頭カラーページのエメラルドグリーンの海にしばし見とれ、今度こそ理想のビーチにめぐり合えるんだと期待をして訪れても、やっぱり何かが違う。
それはつまらない理由なんです。
砂浜に海草がたまりすぎてた、ビーチに大音量のスピーカーが置かれてた、料理のダシが合わなかった、レンタバイクがなかった、モンスーンの時期がずれた・・・その程度のことなんだけど、何かが自分とスイングしていない。いまだに理想のビーチにめぐりあえない自分に、ちょっとイラッとしたりする。
さて、であります。
そのような理想のビーチを探し求めるボクの前に、ひとすじの光明が見えたのであります。その島はフィリピンの中央部にあって、「世界のベストビーチ第一位に選ばれた」との白砂ビーチがあるのだそうです。いったいどこの誰がどのような基準で選んだのかは知らないけれど、 (ガイドブックにも、全然情報の出元は書いてない)そのようなウワサだけは確かにある。
島には飛行場がなく、最寄りの島へ行くのも首都マニラの国際空港で国内線に乗り換えないといけない。うん、この不便さが真のリゾート島には必要なのです。飛行機が直接降り立つ島は、どんどん荒れていくものです。人が増え、自然が処理できる限界以上の排泄物や汚水を人間が生み出せば、おのずと海水は透明さを失っていくのです。
おまけにお国はフィリピンときた。いまだに北部ルソン島の山中には新人民解放軍がいて、南部ミンダナオ島にはモロ民族解放戦線が陣取り、西のスルー海には海賊がうじゃうじゃいるこの国である。しょっちゅうスーパーマーケットが爆破されているのである。セブ島以外の政情不安定な島なら、旅人に荒らされてない楽園があってしかるべきである。
フィリピン行きの飛行機は、関空のモノレールの中からして雰囲気が違っていた。
たまたまフィリピン航空のスッチーやパーサーと同じモノレールに乗ったのだが、いきなり車内でいちゃいちゃしはじめたのである。なんか2人して、髪の毛をこねくり回しあってる! フツーのカップルがやってたら何でもない光景なんだろうけど、タイトスカートの制服姿のスッチーが男性に髪の毛をいじられ腰をくねらせていると、妙にいやらしい!
てゆーか、どんな教育しとんだこの航空会社は、と人生航路的な怒りに満ちる。搭乗待合ロビーとて普通ではない、1人も普通の人がいない。ダンサー風のラメの入ったパンツスーツのおねえさん、裏社会を知り尽くした感じのレイバン黒サングラスのおにいさん、ホステス風日本語で叫ぶケバいおばさん、200パーセント裏稼業の人間だと目つきで主張するおじさん。あと、昭和の博物館から抜け出してきたようなレトロな日本人のおじいさんが、けっこう多い。
笠智衆のごとき白シャツにレトロなネクタイをまとっている。うーんタイムスリップ感覚。
ぼくは今からどこへ行こうとしているのか、不安定な気分。軽いめまいすら覚えるのである。
マニラ国際空港は、次々と降り立つ国際便と入国管理官の数がアンバランスであり、膨大な人数が入国カウンターで列をなしていた。この混雑ぶり、旅だねって感じがしてうれしい。昔のアジアの国際空港って、みんなこんな雰囲気だったと思う。入国するまでに1時間待ちなんて当たり前。旅人はそうやって鍛えられたものです。今じゃどこの空港も近代化され、ホンポンと入国スタンプを押してもらえるようになった。その点、このフィリピンという国、なかなか悪くないのである。役人が役人らしくふてぶてしい顔をしている。日本みたいに、「公務員はよりよい公共サービスを目指します」なんて押し付けがましいことは言わない。「クソ暑いなか、我慢してスタンプ押してやってるんだぜ」というイラついた顔をしている。これまた旅らしくて趣ぶかい。
国内線の乗換え口まで歩く。外は灼熱である。気温は軽く35度はあるだろう。日本からわずか3時間少々のフライトで、春先から真夏への移動である。しかも、ミクロネシアあたりの軽々しい夏とは明らかに違う、スモッグに満ちた不穏な空気につつまれている。「TUBE」が歌う夏と、鈴木光司が描写する夏ほどの落差のある暑さ。
国内線はビーチ行きの飛行機ではないので、地元の商用客の人が大半を占めている。何組かは外国人がいるが、ことごとく白人男に地元女の組み合わせ。日本男と地元女のカップルも2組いる。日本の男性は、1人はハゲ、1人はデブである。 ところが、連れ合いの女性はフィリピンのアイドルかと思わせるほどの美貌とスタイル。 これが資本主義が世界の果てに描いた男女の姿なのかと、しばし自問自答する。
1時間のフライトののち、ローカルを絵に描いたようなカリボ空港に到着。空港の周りは何もない。ちゃちな果物屋とボロいカフェがあるだけだ。外に出たとたん島の名前を連呼するオヤジが数名。ほいほい着いていくと乗合タクシーのワゴン車がお待ちかね。うん、いいね。ビーチへの道は、このように旅人を自動的に運んでくれなくちゃいけない。
見わたすかぎりの畑道をワゴン車は時速120キロぐらいでぶっとばす。後ろの席に、先ほどのデブの日本人とアイドル顔のフィリピン女性が乗り込む。デブの日本人は彼女を日本に連れて行きたがっている。彼女はその話を理解しているくせに、微妙にかわそうとしている。デブとアイドルの恋の駆け引きを1時間半ほど強制的に聞かされ、ようやく目的の島へと向かう船着場に到着。タクシーを降りたとたん、屈強な体躯のおにいさんがスッと現れボクの荷物を奪う。
「カッモーン」とボクを手招きすると、そのままジャブジャブと海の中に入っていく。後を追いかける。港といってもハシケがあるわけじゃなく、海岸沖の砂地にボートが乗り上げているのだ。
乗船客はみな靴を脱いで、ズボンのスソをまくりあげ、海の中に入っていく。それでも太ももくらいの深さの所に船は停泊してるから、スボンはびしょ濡れになる。 荷物持ちのおにいちゃんは、女性を1人ずつ肩に乗せ、船まで運ぶ。あんまし見たことない光景である。
エンジンがバリバリっと大音量でかかる。
舟の胴体の両側に長さ10メートルほどの竹をしたがえたバンカ船は、フィリピン独特の船文化である。竹が波を切りながら、やじろべえのようにバランスを取って進む。30分ほどの船旅の間に夕日はとっぷりと暮れ、海上は漆黒の闇におおわれる。洋上に光るものは何もなく、墨汁のような海に、これまた黒い帆船がたくさん浮かんでいる。
ここはスルー海、世界遺産の海であり、海賊たちが跋扈する海である。何があっても不思議じゃない。遠くのカンテラの光が近づけば、縞シャツに胸毛をはだけた男たちが船になだれ込み、 荒縄でしばられて金銀財宝を奪われる事だってあるのだ。・・・と、ロマンティックな海洋冒険気分にひたっていたら、隣に座ったフィリピンの男の子がケータイで話をはじめた。エンジン音に負けないように大声で何かをがなりたてている。一方で隣のおばさんもケータイでメールを打ちはじめた。ケータイの電波は、世界遺産の海賊海まで追っかけてくるのである。きっと海の荒くれ者どももケータイで連絡とりあってるんだろうな。さみしいね。
360度の闇の中に、さらに濃い闇が浮かぶ。そこだけ背景の星が消されているから島影だとわかる。やがて大きな岬を回りこむと、島のフチに沿って白やオレンヂの光が海の星のように瞬いている。人工の照明である。近づくにつれ、その数の多さに圧倒される。数百、数千の白熱電球や蛍光灯、たいまつの炎がゆれている。さまざまな音楽が海風に混じっている。ロック、レゲエ、ポップス、ヴォサノバ。トランスミュージックの繰り返される打ち込みのリズム。
ときおり人間の叫び声が混じる。煙がもうもうと上がっている。肉や魚を焼くにおいが海上にまで充満している。周囲の暗闇との対比があまりに強烈なため、退廃感がいっそう強まる。ふと「地獄の黙示録」にこんなシーンはなかっただろうか、と思う。こんな孤島で、毎夜どのような宴が繰り広げられているというのか。ここは究極の楽園か、それともまたもや微妙に失敗気味のビーチなのか。
ビーチにハマッている人間は、ボクの周囲には少なくない。彼女たちはバリに夢中になったり、タイに繰り返し出かけたりする。バリ好きはバリ島にしか興味がない。日本の女性があのような王侯貴族な気分を味わえるのはバリ島をおいて他にないからだ。エステ、スパ、マッサージ、アロマ、雑貨、ダンス、アート、クラブ、マッシュルーム・・・。癒しをビジネスにする手法に満ち溢れた島で、浅黒いバリボーイたちの痺れるような甘い囁きを耳元にうける。あの「もてはやされ感」に陶酔を覚えない人はおかしい、というのはバリマニアの弁である。
一方のタイに出かける友人は、島を転々としている。サムイ、パンガン、タオ、チャン、クラビ・・・。どの島もいくつかの階層にあわせたサービスがある。金持ちは金持ちなりに、プアーはプアーなりに。彼女たちは地上のどこかに理想の理想郷があると信じる求道者のようでもある。どの島も好き、でもきっともっといい島が私を待ってるに違いないってね。
じゃあボクはというと、たいした思想もない単なるビーチ好きなのです。
ボクがビーチリゾートに求める条件は3つしかない。
1. ビーチに街が隣接していること。
2. 水が透明であること。
3. ホテルがオン・ザ・ビーチであること。
単純なんだけど、この3つの条件を備えているビーチって、ホント少ないんです。
だいたい主張に矛盾があるというのは自覚している。ビーチに街が隣接し、水が透明なわけないって、世界中のビーチフリークに怒られそうだ。
あと、ボク的には、ホテルとビーチを隔てた車道が一本あるだけで興ざめなのです。海に出かけるのが気の遠くなるような面倒くささを伴う。ところがホテルがオン・ザ・ビーチに並んでるのってね、あるようでないのです。ものすごい辺境島のボロ・バンガローか、ものすごい開発された島の大資本系ホテルのどっちか。
ボクは貧乏旅行とラグジュアリーの中間、つまりほどよい心地よさしか求めないから、両方バツ。ああ、中産階級というのはほんと満たされない存在である。でもね、パーフェクトはなくても、「まあまあだな〜」くらいはあっていいと思う。しかし、まあまあの場所すらめったにないのですよ。
「地球の歩き方リゾート編」とか「るるぶワールドガイド」とかを読みあさって、巻頭カラーページのエメラルドグリーンの海にしばし見とれ、今度こそ理想のビーチにめぐり合えるんだと期待をして訪れても、やっぱり何かが違う。
それはつまらない理由なんです。
砂浜に海草がたまりすぎてた、ビーチに大音量のスピーカーが置かれてた、料理のダシが合わなかった、レンタバイクがなかった、モンスーンの時期がずれた・・・その程度のことなんだけど、何かが自分とスイングしていない。いまだに理想のビーチにめぐりあえない自分に、ちょっとイラッとしたりする。
さて、であります。
そのような理想のビーチを探し求めるボクの前に、ひとすじの光明が見えたのであります。その島はフィリピンの中央部にあって、「世界のベストビーチ第一位に選ばれた」との白砂ビーチがあるのだそうです。いったいどこの誰がどのような基準で選んだのかは知らないけれど、 (ガイドブックにも、全然情報の出元は書いてない)そのようなウワサだけは確かにある。
島には飛行場がなく、最寄りの島へ行くのも首都マニラの国際空港で国内線に乗り換えないといけない。うん、この不便さが真のリゾート島には必要なのです。飛行機が直接降り立つ島は、どんどん荒れていくものです。人が増え、自然が処理できる限界以上の排泄物や汚水を人間が生み出せば、おのずと海水は透明さを失っていくのです。
おまけにお国はフィリピンときた。いまだに北部ルソン島の山中には新人民解放軍がいて、南部ミンダナオ島にはモロ民族解放戦線が陣取り、西のスルー海には海賊がうじゃうじゃいるこの国である。しょっちゅうスーパーマーケットが爆破されているのである。セブ島以外の政情不安定な島なら、旅人に荒らされてない楽園があってしかるべきである。
フィリピン行きの飛行機は、関空のモノレールの中からして雰囲気が違っていた。
たまたまフィリピン航空のスッチーやパーサーと同じモノレールに乗ったのだが、いきなり車内でいちゃいちゃしはじめたのである。なんか2人して、髪の毛をこねくり回しあってる! フツーのカップルがやってたら何でもない光景なんだろうけど、タイトスカートの制服姿のスッチーが男性に髪の毛をいじられ腰をくねらせていると、妙にいやらしい!
てゆーか、どんな教育しとんだこの航空会社は、と人生航路的な怒りに満ちる。搭乗待合ロビーとて普通ではない、1人も普通の人がいない。ダンサー風のラメの入ったパンツスーツのおねえさん、裏社会を知り尽くした感じのレイバン黒サングラスのおにいさん、ホステス風日本語で叫ぶケバいおばさん、200パーセント裏稼業の人間だと目つきで主張するおじさん。あと、昭和の博物館から抜け出してきたようなレトロな日本人のおじいさんが、けっこう多い。
笠智衆のごとき白シャツにレトロなネクタイをまとっている。うーんタイムスリップ感覚。
ぼくは今からどこへ行こうとしているのか、不安定な気分。軽いめまいすら覚えるのである。
マニラ国際空港は、次々と降り立つ国際便と入国管理官の数がアンバランスであり、膨大な人数が入国カウンターで列をなしていた。この混雑ぶり、旅だねって感じがしてうれしい。昔のアジアの国際空港って、みんなこんな雰囲気だったと思う。入国するまでに1時間待ちなんて当たり前。旅人はそうやって鍛えられたものです。今じゃどこの空港も近代化され、ホンポンと入国スタンプを押してもらえるようになった。その点、このフィリピンという国、なかなか悪くないのである。役人が役人らしくふてぶてしい顔をしている。日本みたいに、「公務員はよりよい公共サービスを目指します」なんて押し付けがましいことは言わない。「クソ暑いなか、我慢してスタンプ押してやってるんだぜ」というイラついた顔をしている。これまた旅らしくて趣ぶかい。
国内線の乗換え口まで歩く。外は灼熱である。気温は軽く35度はあるだろう。日本からわずか3時間少々のフライトで、春先から真夏への移動である。しかも、ミクロネシアあたりの軽々しい夏とは明らかに違う、スモッグに満ちた不穏な空気につつまれている。「TUBE」が歌う夏と、鈴木光司が描写する夏ほどの落差のある暑さ。
国内線はビーチ行きの飛行機ではないので、地元の商用客の人が大半を占めている。何組かは外国人がいるが、ことごとく白人男に地元女の組み合わせ。日本男と地元女のカップルも2組いる。日本の男性は、1人はハゲ、1人はデブである。 ところが、連れ合いの女性はフィリピンのアイドルかと思わせるほどの美貌とスタイル。 これが資本主義が世界の果てに描いた男女の姿なのかと、しばし自問自答する。
1時間のフライトののち、ローカルを絵に描いたようなカリボ空港に到着。空港の周りは何もない。ちゃちな果物屋とボロいカフェがあるだけだ。外に出たとたん島の名前を連呼するオヤジが数名。ほいほい着いていくと乗合タクシーのワゴン車がお待ちかね。うん、いいね。ビーチへの道は、このように旅人を自動的に運んでくれなくちゃいけない。
見わたすかぎりの畑道をワゴン車は時速120キロぐらいでぶっとばす。後ろの席に、先ほどのデブの日本人とアイドル顔のフィリピン女性が乗り込む。デブの日本人は彼女を日本に連れて行きたがっている。彼女はその話を理解しているくせに、微妙にかわそうとしている。デブとアイドルの恋の駆け引きを1時間半ほど強制的に聞かされ、ようやく目的の島へと向かう船着場に到着。タクシーを降りたとたん、屈強な体躯のおにいさんがスッと現れボクの荷物を奪う。
「カッモーン」とボクを手招きすると、そのままジャブジャブと海の中に入っていく。後を追いかける。港といってもハシケがあるわけじゃなく、海岸沖の砂地にボートが乗り上げているのだ。
乗船客はみな靴を脱いで、ズボンのスソをまくりあげ、海の中に入っていく。それでも太ももくらいの深さの所に船は停泊してるから、スボンはびしょ濡れになる。 荷物持ちのおにいちゃんは、女性を1人ずつ肩に乗せ、船まで運ぶ。あんまし見たことない光景である。
エンジンがバリバリっと大音量でかかる。
舟の胴体の両側に長さ10メートルほどの竹をしたがえたバンカ船は、フィリピン独特の船文化である。竹が波を切りながら、やじろべえのようにバランスを取って進む。30分ほどの船旅の間に夕日はとっぷりと暮れ、海上は漆黒の闇におおわれる。洋上に光るものは何もなく、墨汁のような海に、これまた黒い帆船がたくさん浮かんでいる。
ここはスルー海、世界遺産の海であり、海賊たちが跋扈する海である。何があっても不思議じゃない。遠くのカンテラの光が近づけば、縞シャツに胸毛をはだけた男たちが船になだれ込み、 荒縄でしばられて金銀財宝を奪われる事だってあるのだ。・・・と、ロマンティックな海洋冒険気分にひたっていたら、隣に座ったフィリピンの男の子がケータイで話をはじめた。エンジン音に負けないように大声で何かをがなりたてている。一方で隣のおばさんもケータイでメールを打ちはじめた。ケータイの電波は、世界遺産の海賊海まで追っかけてくるのである。きっと海の荒くれ者どももケータイで連絡とりあってるんだろうな。さみしいね。
360度の闇の中に、さらに濃い闇が浮かぶ。そこだけ背景の星が消されているから島影だとわかる。やがて大きな岬を回りこむと、島のフチに沿って白やオレンヂの光が海の星のように瞬いている。人工の照明である。近づくにつれ、その数の多さに圧倒される。数百、数千の白熱電球や蛍光灯、たいまつの炎がゆれている。さまざまな音楽が海風に混じっている。ロック、レゲエ、ポップス、ヴォサノバ。トランスミュージックの繰り返される打ち込みのリズム。
ときおり人間の叫び声が混じる。煙がもうもうと上がっている。肉や魚を焼くにおいが海上にまで充満している。周囲の暗闇との対比があまりに強烈なため、退廃感がいっそう強まる。ふと「地獄の黙示録」にこんなシーンはなかっただろうか、と思う。こんな孤島で、毎夜どのような宴が繰り広げられているというのか。ここは究極の楽園か、それともまたもや微妙に失敗気味のビーチなのか。