バカロードその117 歩いても走っても 楽しいものは楽しいのです

公開日 2018年05月17日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく) 

 1月にオートバイで転倒し、骨折あちこち7カ所。走ると骨がズレるとビビらされ、ひたすら歩く。
 早朝12km、職場への通勤往復8km、毎日およそ20kmを4時間かけて。ランニングの練習なら平日は長くても2時間程度だから、倍ほどの時間を体を動かすことに努める。

 ジョギングを再開したのは事故から40日ほどたって。おっかなびっくり5kmだけ。どんなにそろそろペースでも、やっぱし走るのは格別。空を駆けていくシベリアからの野鳥の群れや、海岸に打ち寄せる波濤の頂点でターンを繰り返すサーファーたち・・・目に映る風景の色彩の強さが、以前よりも増したようだ。
 2月の海部川風流マラソンまでは、10kmLSDを3本できただけだった。キロ7分ペースがやっとこさ。もともと42kmをすべて歩いて6時間内完走する腹づもりだったので、駆け足ができたのは大きなアドバンテージである。関門が危うくなっても、ちょこちょこ走って間に合わせられるから。
 マラソン当日。スタートブロックに並ぶと、甘ぼやーんとした幸せ感が心に流れ込んでくる。ランナーは、サブスリーやサブフォーなどの大きな区切りを乗り越えようとしたり、今より若い過去の自分を超えようと自己ベストを目指したりと、最良の時を求めて頑張るものだけど、やっぱりとどのつまりは、理由なんて何でもいいから、ただ走れているだけで幸せなのだ。タイムとか順位とかは後づけの目標なのであって、実のところは広い公園に連れてこられた5歳児のように、目の前の原っぱをテンション高く走り回りたいだけなのだ。
 号砲が鳴る。まぜのおかの管理棟がある丘の上までは、周りの邪魔にならないように端っこをちょこちょこゆく。例年はゼエゼエ息を切らして登る急坂に感じていたが、気負わなければ大した傾斜でないんだなあと知る。坂のテッペンからは重力に逆らわない。着地の衝撃がホネに響くので、前足をそっと地面に置きながら静かに下る。
 何十人と抜かされながらも、周りの速いペースに影響され、そこそこ走れているので気分が良い。4kmの海部川橋を越えて、堤防上の道に出ると足が軽くてくるくるとよく回転する。こりゃ練習の手を抜いたときの「さぼりバネ」って現象なのかな。脚にも心肺にも疲労がない状態。過去データをリセットして、初期化されたパソコンのよう。サクサクと軽快に動く。そのうち鉄ゲタはいたみたいに脚が重くなるのはミエミエですな。今はこの軽快感を満喫するとしよう。
 15kmの折り返し手前で、サブスリーを狙う集団と1kmしか離れてないので嬉しくなる。ハーフ通過が1時間35分、自己ベストが出そうな良いペースだ。マラソンってのは本当に謎めいている。月間400km、500kmと練習しまくっても一向に走力は上がらないのに、10kmジョグ3回でなぜこんなに調子いいのかな。
 大里松原の並木道に入る39kmのちっちゃい坂以降は、思いどおりに脚が動かなくなり、がっくりペースは落ちる。練習不足だから仕方ないよね。
 ゴールタイムは3時間19分06秒。フルマラソン52本目にして初めて3時間20分を切れた。ぜんぜん自己ベストなんて狙ってもなくて、完走できさえすればいいと楽しく走っていたら、素敵なオマケのプレゼントである。しかし、ほぼランニング練習なしで好タイムが出るってのは、どういう身体反応なんだろ。長々とウォーキングを続けたのがプラスになったのだろうか。自分なりに理由を考察してみた。
①長時間、体を動かしつづけることに慣れた。
 フルマラソンの30km、35kmでずっしりくる疲労感がやってこなかった。毎日4時間歩いていたため、連続して脚を動かすことに慣れたのかもしれない。
②慢性疲労が抜けきって、ダメージゼロの状態でスタートラインについた。
 月間500kmほど走っていると、毎朝が抜けきらない疲労との戦いである。布団から上半身を起こすのすら難儀する。起床後、まともに体を動かせるまで1時間はかかる。走るのをやめて2週間あたりで、この慢性疲労が消失した。
③速く歩くために、ウォーキングフォームの巧緻性を考えたことが、走りに好影響を与えた。
 海部川風流マラソンを歩きで完走(6時間)するために、キロ8分30秒から9分で歩けるよう試行錯誤した。速く歩くコツは「一生懸命がんばって歩く」のではなく「正しいフォームで静かに歩く」ことが大事だと知った。要点は、脚をしなやかなムチと考え力をこめないこと。全身の起動ポイントを骨盤の両脇にある股関節だと考えることである。これらは「大転子ウォーキング」(みやすのんき著)に学んだ。この早歩きの動きが、効率よいランニングフォームへと応用できたのかもしれない。
④厚底でやわらかいクッションのシューズで歩いていた。
 骨折直後から半月ほどは、地面との着地衝撃が上半身の患部まで響き、ビジネス革靴や薄底のランニングシューズでは歩けなかった。そのため、手持ちのシューズでいちばん靴底のやわらかい「On」のクラウドフライヤーという空気グニョグニョの靴をはいてウォーキングをしていた。薄底シューズは地面からの反力で加速するが、グニョグニョ靴で体を前に持っていくには、効率のよい骨格の移動しかない。これもプラスに働いたのかもしれない。
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 いずれにせよ「かもしれない」な想像であって、走る練習なんてしない方がいいという論拠ではない。
 ぼくのタイムがサブスリー達成といったハイレベルな物であれば、原因と結果の因果関係を立証しやすくなるが、3時間20分切り程度なら単に「疲労が抜けただけ」なのかもしれん。この疲労抜け感による好結果が、100kmや250kmの超長距離レースまで波及するのかは、やってみなければわからない。
 何はともあれ、42kmのゴールテープを切れたことが嬉しい。走っている最中の苦しさなんて、走れないことの辛さに比べたら屁でもないと、骨折が教えてくれた。ホネさんありがとう。
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 フルマラソンを完走できたことで、翌々週に控えた204kmの長距離レースに出られるメドが立った。100kmを超えるレースは、ランナーの責任感や身の処し方によって大会側に迷惑をかけてしまうことがある。怪我をごまかして出場し、病院沙汰を起こしてしまうのはよろしくない。海部川を完走できないようなら参加を取りやめようと考えていたが、ためらう必要はなくなった。
 「小江戸大江戸200kフットレース」は今年で第8回目を迎える。「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」と謳われる埼玉県川越市をスタート・ゴールの地としている。前半は、荒川沿いを北上しUターンして川越市に戻る91.3キロの「小江戸コース」。後半は東京へと南下し、都心の見所をめぐる112.9キロの「大江戸ナイトランコース」と命名されている。
 ランナーはいずれかのコースを選び参加できる。また、前後半通しの204.2キロ「小江戸大江戸コース」や、204キロを経たのちに更に28.5キロを往復する232.7キロの「小江戸大江戸230kmコース」がある。ちなみに後者は「エキスパートコース」とランナーたちに呼ばれているが正式名称ではない模様。
 204キロの制限時間は36時間。「さくら道国際ネイチャーラン」などいわゆるガチンコ250kmレースの制限時間が36時間であることを考えると、ランナーには優しいタイム設定となっている。
 参加者数は、ぼくが出場する小江戸大江戸204kmに390人。エキスパート233kmに42人、小江戸91kmに66人、大江戸113kmに162人。いずれもエントリー開始から数分で受付終了するほとの人気大会である。
 主催である「NPO法人 小江戸大江戸トレニックワールド」は、超長距離走の歴史を刻んでこられたランナーの方々が運営する団体だ。だから、事前に送付される解読しやすいコースマップはじめ、エイドのサービス内容や、温かくも骨のあるランナーへの声がけなど、何もかもがランナー目線で大会が作り上げられている。
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 スタート会場の川越・蓮馨寺の境内は、旧交を温めあう約500人のランナーの声々が青空に響き渡っている。
 受付票と交換に、大量のおみやげ物が手渡される。デザインセンスのよいTシャツ、川越名物の芋菓子や煎餅やクッキーが何種類も。さらには1kg入のマルトデキストリンや携帯用ゼリー、それにゴール後の温泉無料入浴券まで。お土産でパンパンに膨らんだリュックを、境内の建物の一角にあずける。スタートから91km先、再び蓮馨寺に戻ってきた際に、このデポ荷物から夜間走行用の防寒装備を取り出すのだ。
 スタート時刻は朝8時。といっても一斉に出発するわけではない。ランナーは1人ずつゲートの左右に設置された計測機にリストバンドのチップを「ピッ」とかざしていく。最初のランナーがゲートを通過してから最後尾のランナーまで5分少々かかるようである。いちおう自己記録や順位はネットタイムで計算されるので、我先にと飛びだす必要はない。上位でゴールする一流選手らは、どちらかといえば最後方にいるようだ。人がまばらな最前方で独走するよりは、スタートから何十キロかは前の選手たちを追い越し、声がけしながら進むのが気分的に楽なのだろう。
 小路の両側からたくさんの声援を受け、蔵造りの街並みが続く「川越一番街商店街」の通りに出る。早朝のため店々はシャッターを下ろしているが、古都の雰囲気は十分に味わえる。
 いくつかの信号で止まりながら街を抜けると、のどかな田園地帯に入り、14キロ地点で荒川土手の自転車道にあがる。荒川は埼玉県の秩父山中から流れ出し、東京湾へと注ぐ全長173キロの超大河である。過去、何度も参加した「川の道フットレース」のコースと一部分が重なっており、感傷的な気分にひたる。
 後方から追い上げてきた選手が笑顔も爽やかに話しかけてくれたので、ランニング談義を交わしながら距離を稼ぐ。風景が変化しない土手道なので助かる。最初はフルマラソンを完走するのが目標だったのに、いつの間にやらこんな距離を走ることになって、やれやれ・・・といったウルトラあるあるなお話。10km近くおしゃべりに興じていて、ふとその選手のゼッケンを見ると「00」ゼロゼロ数字が並んでいる。この大会では昨年の成績順にゼッケンナンバーが割り振られる。なんでこんな若いナンバーの人が、ぼくと並走してんの?と聞けば、昨年の204kmの部の優勝者だという。おまけに昨年はさくら道国際ネイチャーでも優勝したという。いやはや油断したぜ。一流ランナー殿をしゃべりで引き止めてしもた。「お邪魔してしまいました。マイペースでいってくださいよ」とお願いすると、いやこのペースで十分だという。そういや超長距離に強いランナーって、序盤にぶっ飛ばすんじゃなくて、キロ5分30秒から6分で20時間~30時間と維持できる人なんだよな。まさにこの御方はそんな方でしょうか。33kmのエイドでお別れしたが、後にリザルト表を見ると2位の選手を2時間以上離しブッチギリで優勝されていた。
 52kmエイドは埼玉県寄居町の浄恩寺の境内にある。小江戸大江戸コースでは、スタート・中間地点・ゴールの蓮馨寺はじめ、東京都内で最初のエイドとなる成願寺(中野区)など、要所のエイドが寺社内に設けられている。そのためコースの大部分で「次は○○寺」と、常にお寺を目指している感覚がある。それが独特の風情を醸し出している、ような気がする。
 エイド間の距離はまちまちだが、平均すれば20kmごと。ちょうどお腹が空いてくる絶妙な間隔である。エイド手前の5kmくらいから「次はナニ食べようか」と到着が待ち遠しくてならない。それぞれ特色のある食べ物が用意されている。うどん、ラーメン、カレー、いなり寿司、粗挽きウインナー、サンドイッチ・・・手づくりの温かみのある料理たち。種類豊富な生フルーツも山盛りになっている。皮ごとポリポリかじられるブドウが甘くて、糖分が全身の細胞に染みわたるようだ。
 コースの最北端にあたる寄居町から大きく反転し、東京都心へと続く国道254号線を南下する。「池袋65km」という標識が現れると、東京までの意外な近さにほっと安堵する。
 なだらかな起伏のある高原状の台地をゆく。周囲に住宅はほとんどなく、大規模な工場群が左右を囲む。自動車メーカーの本田技研の組み立て工場は、美術館のようなアーティスティックな外観をしている。「寄居町」といえばマラソン日本新を出した設楽悠太の出身地であり、「HONDA」といえば彼の所属企業である。(悠太くんは地元企業に就職したのか。いい子だなあ)とか、どーでもいい感想を抱きながら変化に乏しいバイパス道を進む。
 スタートから60kmを経て、右腕が外れ落ちそうな感覚がつきまといはじめる。骨折カ所が右胸の前側(鎖骨)と後ろ側(肋骨3本)にあるため、腕の重量に前後の筋肉が耐えられなくなっているのだ。こうなることを予想して、鎖骨バンド(固定具)を装着しているので、キュッときつく絞り直す。スタート前は、この一見ブラジャー的な外観の鎖骨バンドを着けるかどうか大いに迷ったが、着けておいて正解だった。縛りあげれば、腕の重みをそこそこ緩和してくれるのである。
 80kmを過ぎた頃に夕日が落ちる。ハンドライトを持って川越市郊外の狭い歩道をゆく。歩道の路面は老朽化していて、ひび割れたり隆起している部分が多い。スタートしてから転倒だけはしまいと地面と睨めっこしながらここまで来た。くっつきかけた骨をまた折ったら、整形外科の先生に何とお叱りを受けるやら。事故の翌日からこそこそ走ったせいで、骨の断面が離れてしまったと呆れられた前科があるのだ。
 ところが中間地点の蓮馨寺も近くなり、周りに商店が現れだしたため集中力が散漫になった。凸凹のひどい歩道エリアを脱し、整った路面になったと安心した先にわずかな突起があった。つんのめって立て直せず、今から自分はコケると自覚したので、右の鎖骨とアバラを右腕で守る。右ヒジと右ヒザを地面で痛打。起き上がるとヒザには3カ所裂傷を負い、血がどっくんどっくん流れている。ふくらはぎ用の黒色ゲーターをしていたので、血はゲーターに染み込んでいき大惨事には見えない。痛みよりも、自分のマヌケさに嫌気がさす。
 スタート地点の川越・蓮馨寺に戻る。ここまでの91.3kmに10時間21分31秒かかる。
 荷物置き場は室内休憩所にもなっている。明るい室内でいると、血まみれのヒザがグロくて周りを引かせてしまいそうなので、境内の暗がりにそそくさと移動する。リュックには手袋から目出し帽まで防寒セットをひとまとめにしている。翌朝の東京都心は5度以下まで冷え込むらしい。だけど現時点では季節外れの暑さで、長そでや長ズボンを着込むべきか悩む。この先コンビニはたっぷりあるだろうから、寒けりゃ500円カッパを買えばいいやと、半袖シャツのまま再出発すると決める。
 地べたに座ってごそごそと荷物を引っかきまわしていると、大会代表の太田さんが声をかけてくれる。
 「怪我しているランナーがいるから救急車を呼んだほうがいいと報告があってきてみたら、誰かと思えば坂東君かい」。太田さんはこの大会を創られた方。5年ほど前、スパルタスロンで似たような場所でリタイアし、片田舎町のバーみたいな店でヤケ酒をオゴって頂いた大先輩である。「ぜんぜん大丈夫でえす。血が吹き出しているので派手に見えているだけです」とお詫びする。
 すると今度は、7年前の北米大陸横断レースで70日間サポートをしてくださった、人生の大恩人である菅原さんが現れる。「怪我してるの? 坂東君なら心配ないね」と腰掛け用にとブルーシートをそっと敷いてくれる。
 それからも、いろんなランナーやスタッフの方が心配して見舞ってくれる。何年かぶりに再会した懐かしい顔が多い。小江戸大江戸は、自分自身のランニング史を噛みしめられる、タイムマシンみたいな場所でもあるんだなあ。
 大仁田厚の有刺鉄線デスマッチより大したことないですよ、ブッチャーにフォークで刺されたテリー・ファンクくらいのダメージですよ、と昭和風の軽口を叩きながら、夜の川越街道へと走りだす。さあ今宵は東京観光としゃれこもう、がんばるべっ。 (つづく)