バカロードその23 北米大陸横断レースへの道 その4 いったりきたり記

公開日 2011年03月31日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

 長く、遠くまで走りたい。だけど速くも走りたい。しかしながら速く脚を回転させ、より遠くに着地し、心拍を追い込むって作業がホトホト苦手。速いランナーは、なぜあんな優雅でゆったりしたフォームで空気を切り裂いて走れるんだろか? 須磨学園高校の西池和人、エスビー食品の竹澤健介、エチオピアのツェガェ・ケベテ。彼らの映像をコマ送りで見ると、どの瞬間を切り取っても美しい。アフリカの大地を疾駆するトムソンガゼルのように無駄な動きがない。筋肉と骨格と腱の調和がとれている。
 朝起きて、ジャージを着て、軽く流しをはじめたら、身体が空中にヒュンと浮かんで西池和人になっていた・・・という夢は何度も見るのだが、現実の朝は地球の重力に抗しがたく、キロ6分ペースですら守れない。


【淡路国生みマラソン・ハーフ】
 10月17日。今期マラソンシーズンの開幕戦。日頃ウルトラ向けの練習ばっかしやっているので(というのは言いわけでスピード練習から逃げているだけ)短い距離を心拍マックスで走れるかどうか確認したい。10キロまでは平坦な農道で42分26秒。まぁまぁかな。そこから登り坂に突入して17キロまでひたすら登る。ラスト4キロは激しく下り、登り、再び下ってゴール。ラスト1キロを4分01秒ですっ飛ばせたので後味がよい。
 ふらふらと更衣室に向かっているとゲストランナーの高石ともやさん発見!話しかけてみると、思いがけず「トランス・アメリカ・フットレース」の思い出を堰を切ったように話していただいた。満面笑顔で怒涛の弾丸トーク。次から次へとエピソードが飛び出す。いやマジでパワフルである。高石さんは、日本フォークソング界の草分けであり、日本人として初めて1000キロ級の超ウルトラレースに参戦しはじめた人。存在自体が伝説な人物が、距離わずか50センチの位置にいて、ぼくに話しかけてくれているという事実に目まいを覚える。サインをせがむと、

 もう一歩
 もう一歩
 あたらしい 君の
 夢が かなう

     高石ともや

 と記して下さった。記録・1時間35分48秒。

【阿波吉野川マラソン・ハーフ】
 10月24日。新たに完成した海岸道路を経由し、マリンピア沖洲の中をあっち行ったりこっち行ったりの新迷路コース。13キロあたりで道を間違え大幅にオーバーラン。Uターンして戻るの恥ずかしかった。それでもタイムはハーフの自己ベスト達成、バンザーイ!と万歳美女軍団と盛り上がっていたら、周囲のガーミン持ってる人たちが「距離が500〜600メートル短いわだ」と語り合っている。ま、そういう細かいことにこだわらないのが阿波吉野川マラソンの良いとこ。最近の市民マラソン大会みたいに洗練される必要はない。走友会のオッチャンたちが、ランシャツ・ランパン・ガニマタで全力走やってるような、昔のままの草レース的な大会であり続けてほしいと思います。記録・1時間31分28秒。

【関西夢街道スーパーラン・320キロ】
 10月30日。ぼくが出ていいレベルの大会じゃなかった。320キロを56時間以内、不眠不休で走る。一昨年の完走者はわずか6名、完走率が10パーセント台の年もある。出場しているランナーは全国から集まった超ウルトラ、マラニック、ジャーニーランの猛者たち。ぼくなんて末席にいることも許されませぬ。
 コースの難易度は異様に高い。三度ある山岳地帯を迷わず踏破するには、レース前に何度も試走し、道を把握しておかねばならない。なんせ一般的なトレイルの大会のような分岐点の矢印や案内表示はないし、むろん誘導員もいないし。自分で山岳地図を読み、時にはヤブこぎして山道を進む。
 ぼくといえば、スタート直後の六甲山中でさっそく道を失い、崖のフチに達しては絶望し、また迷っては崖で立ちつくすの連続。最終的にはロッククライミングの練習ゲレンデを降り、1時間以上よぶんに山道を走って六甲山から脱した頃には時すでに遅し。60キロ地点の大阪城の制限時間に100%間に合わない。潰れてもいいやとガムシャラに駆けたが(USJの駅前コンコースを全力ダッシュするのは恥ずかしかった)、関門時間を30分オーバーして終了。
 ロード系超長距離走の国内最高峰レースが「さくら道国際ネイチャーラン」だとすれば、「関スパ」はロード、トレイル、地図読みの総合力を問われる日本最高峰レースだと思う。ぼくの実力じゃ当分再挑戦はおあずけですね。修行しなおします。記録・60キロでリタイア。

【羽ノ浦マラソン・10キロ】
 11月7日。県南に伝説の「フライングロケット兄弟」がいると聞く。号砲と同時に、いや号砲の鳴るちょっと前からいささかフライング気味に100メートルスプリンターのごとく飛び出し、周囲のランナーを唖然とさせるフライングロケット兄弟(実際の兄弟ではない)。その目撃者となるべく羽ノ浦の地をめざした。
 以前から目星をつけておいたそのランナーは、やはりスタートライン上に足を添え、弾丸スタートの予感を周囲にまき散らしていた。号砲と同時に、彼はウサイン・ボルト級の爆発力で、羽ノ浦中学校の裏山に消えていった。今回はフライングなしの正々堂々スタートでちょっと物足りなかったが、県南を代表する有名ランナーの背中を一瞬かいま見られて満足。フライングロケット兄弟のTシャツがあれば入手したいな。55号バイパスを口笛を吹きながら帰った。記録・42分17秒。

【南阿波サンマラソン・ハーフ】
 11月21日。激坂の代名詞と言えば「阿波サン」。往路の登りは真夏の犬のようにゼエゼエあえぎ、復路の激下り、特にラスト5キロは実力とはかけ離れた異次元のスピードが出せる夢のコース。
 今回は、ラスト2キロを4分10秒平均でカバーし上機嫌。しかしサブスリーランナーって最初から最後までこのペースなのか、いったいどんな心臓しとんだろ。「ちゃんと練習すればサブスリーまでは誰でもいける」と教えてくれた人もいるが、ぼくにはまずムリちゃうか、と最近思っている。ムリだと思っているうちはムリなんだろうな。記録・1時間39分40秒。

【つくばマラソン・フル】
 11月28日。今シーズンの初フル。今までやったことない「前半自重」ってやつを試してみた。20キロまで4分40秒台で気持ちゆっくり入り、20キロ過ぎたら徐々に本気を出していく、という計画。予定どおり4分45秒平均で20キロまで刻み、さあこれからだってときに両脚に大根ぶら下げたみたいに重くなってきた。24キロからは5分台に落ちる。一度も本気出してないのになんでな!という叫びが心にエンドレス・リピートする。40キロ以降は歩きも同然。わざわざ茨城まで遠征して何やってんだ?と自分を責めても状況は変わらない。
 後半潰れるのはいつものこと。しかし、一度も全力で駆けず、攻めもせず、ずるずる自滅するなんてサイテー。参加費、遠征費をドブに捨てるようなもの。「前半自重や二度とせーへんぞー」と堅くつくば山に誓うのだった。記録・3時間33分41秒。

【奈良マラソン・フル】
 12月5日。1週間前のつくばマラソンで不甲斐ない走りをし、その晩ヤケ酒ウォッカ70度ガブ飲みしてから呼吸器・循環器ともに不調で、歩道橋の階段を登るだけでハァハァ動悸・息切れがする。さあ走るぞ!という気分にはほど遠いまま奈良入り。どうせ走れないなら、このさい人体実験だと前夜に巨大なドラ焼き(粒あん)を5個摂取し、人智を超えた極端なカーボローディングに有効性があるかどうか試す。
 「スタート直後からブッ飛ばして、いけるトコまでいく」という方針なき方針、4分20秒台で15キロまで維持すると、その後28キロまで不思議と大崩れせず。ドラ焼き(粒あん)の一気食い、効果アリなのか?
 しかしマラソンって不思議。体調万全で臨んだつくばより、死に体の奈良で5分も速くなる。ま、このクラスのランナーなら、体調なんて神経質に気にする程のもんじゃないってことなんだろう。
 今回初開催の奈良マラソンは、前日受付しか認めない商魂溢れる大会。奈良市内のホテルの大半はツアー会社に抑えられ、シングルルームも特別料金でバカ高い。都市型マラソンはみなこんな風な運営になっちゃうんだろうかね。道路を占拠する見返りとしては仕方あるまいか。記録・3時間28分38秒。

【防府読売マラソン・フル】
 12月19日。サブフォーレベルの市民ランナーが参加できる最高級にガチな雰囲気の大会である。スタート1時間前頃からはじまる選手のウォームアップ走のスピードに金玉縮みあがり、持ちタイム順に陸上トラックに整列するスタート方法に「競技会」の匂いを感じて、お尻のあたりがムズ痒くなる高揚を得られる。
 さてレースは、ハーフを1時間36分で通過し、「こりゃ余裕で3時間10分台出せるな〜」と余裕の金丸ダンスを辺りに見せつけていたら、34キロで失速がはじまり、最後はおなじみヘロヘロで終了。
 中3週間で3本のフルという強行軍を実施したが成果はあった。1本ごとに潰れる位置が6キロずつゴールに近づいている。ってことは、あと2本フルをこなせばゴールテープまで潰れず到達できる。何か明るい展望が開けた気分がし、帰りの新幹線でゼロじゃない方のコカコーラをちびりちびり呑りながら多幸感をむさぼる。マラソンの後に飲むコカコーラってヤバいほど精神に効きませんか? 記録・3時間25分31秒。

【大麻町ジングルベルマラソン・10キロ】
 12月23日。標高差120メートルを一気に駆け上がり、駆け下りる。クリスマス前ってことで仮装ランナー天国のこの大会。サンタにAKBに大谷焼にといろんな仮装を楽しんでいる。「沿道の応援に背中を押してもらう」ことが仮装をする大目的のひとつだと思うが、この大会は峠道コースゆえ沿道の観客は30人おるかおらんか。仮装ランナーたちはウケを狙うわけでもなく、ただ黙々と仮装する。誰に見られようと見られまいと我は仮装するのだ、という確固たる意思が見える。
 ぼくもいつの日にか仮装をして愛想を振りまきながら走る日が来るのだろうか。ぼくにとっての仮装は、ルビコン川を渡るに等しい後戻りできない世界への一歩だ。
 そーいえば最近スポーツショップに行くと、ふつうのランニング用のシャツやショート丈のランパンがほとんど置かれていない。スピードを追求するには不向きな、ガジャガジャした装飾の服がマラソンウエアコーナーを占拠している。スポーツ用品メーカーも「スポーツ」の要素はこの際、仏壇の奧にしまいこんでおいて、i-podを収納でき、蛍光色で、フードつきのワンピースみたいな美ジョガー向けウエアの開発に勤しんでいるのだろう。どうやらマラソンは別の宇宙のスポーツになりつつある。記録・43分03秒。

【宮古島ウルトラ遠足100キロ】
 1月15日。早朝5時スタート。道路に街灯はなく、ヘッドランプの光を頼りに走りだす。スタートからキロ4分50秒くらいで走っていると、7キロ地点で第2集団にいることがわかった。さらに200メートルほど彼方に先頭をいく2人が見える。「せっかく宮古島まで来たし、ここはひとつ先頭集団に加わってみるのはどうよ」なんて欲望に火が灯ると、いてもたってもいられなくなり、ペースをあげて9キロ地点で先頭に追いつく。
 この大会は去年も出場し、途中で道を間違えてリタイアした苦い経験がある。当大会には先導車両や誘導スタッフはいない。すべて自己責任である。去年間違えて進んだ道を横目に「ああ、この道で絶望したな。二度とあんな思いはしたくない」と口惜しさを噛みしめる。
 やがて信号のある交差点に差しかかったが、前をゆく2人が直進していく。おかしい、ここは左折すべき道だ。あわてて前のランナーを追いかけ、大声で話しかける。「さっきの交差点、左折だったはずですよ!」。だが彼は止まろうとはしない。「大丈夫ですよ。私は昨日も試走をしたんで、この道で間違いないです」。その自信満々さに気圧されぼくの記憶も不鮮明になる。(ほーか、ぼくの勘違いかもしれんな〜)と思い直す。
 だが走れど走れど道さらに暗く、幾度も現れる分岐点に看板の一つもない。先頭集団3名、ついに立ち往生し会議を始める。「もしかして道、間違えましたかね・・・」。
 コースアウトが判明した後は、本来の海沿いの道を求めて、光源ひとつない寂しいさとうきび畑をゆく。暴風吹きあれる畑道をいくら走っても正規コースに戻れない。焦りも手伝いペースが上がり呼吸が荒い。30分ほども迷走し、正規コース上にあるエイドの灯りが見えると同時に、気持ちが折れた。いまや旧・先頭集団ランナーのガーミンによれば6キロ余分に走ったとのこと。すでに最後尾に近い位置か。
 先頭集団にいるという得意満面のトランス状態から、道に迷った失望、「前について行かなきゃ今ごろ独走」という後悔。そして正規コースに戻り、ややメタボ気味のビッグヒップな奥様ランナーの後塵を拝するに至って、全身が哀しみに満ちる。
 嗚呼、そこから残り84キロの長いこと、ダメージの大きいこと。仕方ない、根性を鍛えるためにあきらめず完走しよう。この程度の苦境は、北米横断レースの際に起こる様々なトラブルに比べれば屁でもないはずだ。風速21メートル、化け物級の風圧に晒される宮古島を、寓話「北風と太陽」の旅人の挿絵のように、とぼとぼと走り続けた。記録・12時間55分。

【愛媛マラソン・フル】
 2月6日。街のいたる所に大会の告知ポスターが貼られ、テレビやラジオでは前宣伝や特番、CMが流されている。街全体がマラソンを盛り上げよういう気運に溢れている。コースも大胆である。松山県庁のど真ん前をスタート地点にし、名物の路面電車をはじめ車両など交通を遮断して市街中心部を走らせる。ために松山市街や郊外のバイパス道沿いの応援の賑やかさはとくしまマラソンを遙かに上回っている。こんなにも地元は熱心なのに、県外から参加のランナーが5500人中わずか600人強と人気がイマイチなのはなぜだろう。徳島からも44人と少ない。丸亀国際ハーフと同日開催の影響も大きいが、大会の魅力が広く伝わっていないのが原因だろう。
 レース前の秘かな楽しみをひとつ。毎年、大街道にある三越デパート地下食品街の「hanafru」というスイーツの店で、果物が山盛りになったホールタルトを買い、まるごと1個平らげることにしている。今年は1個で足りず2個食べた。両方で3000キロカロリーくらいかな。記録・3時間24分22秒。

【海部川風流マラソン・フル】
 2月20日。3時間20分を切るって設定タイムで走りはじめたが、最初の2キロを4分11秒、4分09秒でいってしまった。フライングロケット兄弟のマネしてどうするよ。突っこんだ代償は30キロからこんにちわとやってきて、キロ5分台に落ちこむ。そして今回も苦しさに負けて終わった。マラソンは「また今日もダメだった」の繰り返しだ。やった!とガッツポーズで終われた試しがない。これで4本続けて3時間20分台。こんな中途半端な所が上限だなんて思いたくない。もっと粘れるし、もっと耐えれるし、もっと鬼気迫れるはずなのだ。
 東京マラソンで優勝した川内優輝選手のラスト12.195キロを見せられたら、どんな言いわけも通用しない。持って生まれた才能の有無はさておき、自分の持っている力を残り1グラムもないってくらい出しきったかって点で、川内選手のようなハートで挑まないとダメだ。記録・3時間24分06秒。