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2015年02月20日

バカロードその78遠くまで地団駄を踏みにゆくのです
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
5度目のスパルタスロン(※)なのであった。4連敗中ゆえに、参加回数を口に出すのもはばかられる。できれば人知れず内緒にしておきたいのだが、秘密にしておくほどの重大事でもない。思いつめたオッサン一名の心がささくれ立とうが自律神経がおかしなことになろうが、それでも地球は順調に回転している。
 ギリシャ入りして4日間、ホテルのベッドか海辺に敷いたゴザの上で寝そべりつづけている。4日寝太郎で疲労は完全に抜けおちたとみる。春から3000km以上走り込んでいるわりに、ケガや痛みはどこにもない。苦手とする徹夜走は何度もやった。酷暑にも、暴風雨にも耐えた。
 過去4度、大雑把だったレース中の補給についても、綿密に計画を立て物資を用意した。全25カ所にカロリー補給の食品、ダメージ回復系アミノ酸などのサプリ、さらにあらゆる体調異変に対応できる薬品セットを置いた。これを万全と言わずして何を万全とするのか。今年はダメな要素が見あたらない。今回ダメなら走るのやめる。やめてもいい。やめられるかな。
 朝7時、小雨しょぼ降るパルテノン神殿を後に、アテネの市街地へと石畳の坂を駆け下りていく。調子はどうだ。よくわからない。なんとなく体が重いけど、それは4日間運動を控え、ガツガツと食べ続けたせいだ。この重さは運動エネルギーに化け、しだいに霧散してゆくだろう。体調なんて走ってるうちにどんどん変わる。気にする必要などないのだ、と気にする。
 10km通過1時間01分。設定ペースどおりゆっくり走ってるんだけど、どういうわけか楽だって感じがしない。鼻歌まじりで50kmまで5時間の予定なんだがなぁ。鼻歌出てこんな。
 好調とも不調ともいえない微妙な感じでキロ6分を刻んでいく。「飛ばさない、飛ばさない」と呪文を唱えているのは、実際はそれ以上のスピードを出せないアセりを隠すためである。
 20kmを2時間02分、30kmは3時間05分。設定ペースすら守れない。
 小雨はやがて本降りとなった。排水溝のない路面にあふれ出した水は、川の流れとなって道路を横断する。飛び越えられる幅ではないので、仕方なくシューズをびしょ濡れにして直進する。
 40km4時間11分、50km5時間20分。ひどいタイムじゃないけど問題は余裕のなさだね。案のじょうムカムカと気持ち悪くなってきて1回目の嘔吐。スパルタスロンでのゲロなんて、小粋なイタリア料理屋におけるバースデー客へのサプライズケーキ、あるいはコンサートにおける2回までは続くアンコールに等しい。まさにお約束、驚くには値しないのである。ぼくの虚弱な胃腸は、製薬会社が苦心して開発したあらゆる整腸剤や胃粘膜保護剤、胃酸抑制剤の効能を凌駕して、ゲロの噴霧をギリシャの大地に浴びせかけるのだ。
 60km6時間34分。立体交差の道路の脇に腰かけてゲェゲェとやってるうちに、ほとんどの後続ランナーに抜き去られる。顔見知りの男性ランナーの方が「行こう!スパルタまで行こう!」と声をかけてくださる。「ちょっと3分だけ休憩してるとこです」と嘘をつく。やさしい女性ランナーの方が「私の後ろはもう人はいないわよ」と教えてくれる。
 70km7時間55分。そうとう危険水域に入ってきた。ここからは登り坂がつづくのだ。80kmの大エイドを9時間30分以内に越えないと失格なのである。10km先の関門が果てしなく遠く感じる。また今年もダメなのか。頭を抱えて「あ゛ーーーーっ」と叫ぶ。脳みそをフライパンに入れてぐちゃぐちゃにかきまわして炒めたい。オレなんで毎年こんな苦手なことをやるために、地の果てまでやってきては、吐瀉物と屈辱にまみれては、収容バスの乗客に成り下がっておるのだ? もっと自分が得意なことってなかったっけ? ほら小学校の先生が子どもたちに向かってアドバイスしてくれるじゃないですか。「何か自分の得意なことを見つけなさい」って。オレ、スパルタスロン苦手なんだよマジで。暑いのダメ、徹夜ムリ、内臓虚弱。なんでこんな不得意なことに人生の70%くらいのエネルギー費やしてんだよ。日本に帰ったら得意なジャンルに趣味を変えよう。得意なことってなんだろう・・・はて、考えてもなんも出てこないですな、ハァー。
 ネガティブスピリッツの青い炎をたぎらせていると、その怒りからか、ペースがキロ5分台に戻ってきた。チクショー、チクショーとコウメ太夫をリピートさせて関門になだれ込む。80km9時間27分、第1大エイド・コリントスの関門閉鎖3分前だ。ほぼビリなのに余裕なし子でヒィヒィだ。
 ここまで履いていたアシックス・ターサーを、エイドに預けていたホカ・オネオネというシューズに履き替える。アウトソールが4cmとブ厚く、履くだけで身長が高くなるシークレットブーツの役割も果たす超長距離向けのモテ系シューズだ。いやこの際、モテ系は関係ないか。まわりに誰もランナーいないんだからねえ。シューズ履き替えと計測チップ交換に手間取り、3分を要したため余裕時間ゼロとなる。さっさと出発しないと次の関門がすぐやってくる。スパルタスロンは全75カ所あるエイドすべてに閉鎖時間が設定されている。大半のエイドの優しきスタッフの方々は、数分の遅れを見逃してくれる大らかさを持ち合わせているが、中には時間どおり厳密に通せんぼするギリシャおじさんもいる(正義はおじさんにアリなんだけどね)。つまり、やはり決められた時間をちゃんとクリアしていかなければ完走はできないのである。
 エイドを慌てて飛び出すと、さっきまでのグロッキー状態に反し、ふつうに走れていることに驚く。息は乱れず、脚はさくさく進む。オリーブやオレンジが実る農園のなかの小道を軽快にゆく。単独ビリだったが、遠く前の方にランナーの後ろ姿も見えてきた。いけんじゃない、オレいけんじゃないと本日初のポジティブ思考局面。
 90km10時間49分。過去一度も到達したことのない古代コリントス遺跡のある街に入る。街路は花々で飾られ、カラフルな装飾のカフェが並ぶ、おとぎ話の挿絵のような場所。こうやって知らない街に自分の足で入っていく瞬間がオレ好きなんだー。
 街を抜けてオリーブ畑の細道をイギリス人のベテランランナー的風貌の方と併走していると、彼から「ビートルズを唄おう」という提案があり、数少ないレパートリーの中から「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ(愛こそがすべて)」を選び、2人でけっこうな大声でわーわー歌いながら走る。やがて彼を支援しているサポートカーが横につき、車内の皆さんと大合唱がはじまる。何だこれは、スパルタスロンに楽しい局面なんてあるのかよ。
 調子に乗りはじめれば次々と前をいくランナーを追い越す。うぉーなんか自分がデキる人みたいだ。そうかキロ7分くらいのペースでも順位はどんどん上がっていくんだ。
 100kmを12時間15分、エイド閉鎖10分前に通過。あらかじめ立てた計画より30分遅いけど、とにかく100kmまでたどりついた。前方に影をなす小山にも等しい巨大な岩塊に夕陽が落ちていく。紅色の空が世界を赤く染めていく。いつも収容車のなかから寂しく眺めていた風景を、ランナーとして路上の視点から見ているのだ。それはすごくうれしいことだ。
 商店が軒を連ねる賑やかな街に入る。子どもたちがペンとスケッチブックを手にサインを求めて近づいてくる。スパルタスロンでは珍しくない光景であり、完走経験の豊富なランナーは「たくさんサイン求められて困った」と悩ましい顔をするが、初体験のぼくは書いてみることにする。なんせ他人様からサインを求められるなんて、交通違反のお巡りさんからのを除けば、生涯で初の出来事なのだ。ちゃんと漢字の達筆でしたためてあげる。
 102km、街の中心にデンとカフェが鎮座するこれまた宮崎アニメに登場しそうな街。沿道から「ブラボーブラボー」の声援が届けば、自分が英雄になったみたいな気分にひたる。この街は大型収容バスの起点であり、80kmから102km区間にリタイアした選手を夜まで待っている。毎年ぼくは、街はずれの歩道のうえに腰掛けて、街へと駆け込んでくるランナーたちに拍手を送っていた。ついさっきまで同じ路上にいたはずなのに、力強く走っているランナーたちは生命力にあふれ、まるで別の宇宙で、別の競技をしている手の届かないスーパースターのようだった。いつもぼくはこの街で、名もなきひとりぼっちの観客だった。今は違う、今はヒーローの一味なんだよう。
 エイドに預けていたヘッドランプを装着する。夕陽の薄明かりでかろうじて輪郭が見えていた街は、郊外に出る頃にはとっぷりと闇夜に包まれた。前後にランナーがいないため、コースが合っているのかどうか不安になり、分かれ道のたびに立ち往生しては時間をムダに費やす。ぼくは夜目の効かない鳥目でもある。
 夜の到来にあわせるかのように好調さはなりを潜め、両方の足は大砲の弾を仕込まれたかのごとく、ずっしり重くなる。その変化は急速に起こる。変化が急すぎて対応に苦慮する。原因も、とるべき処置もわからない。この文章を書いてる今ならわかる。嘔吐をはじめたのが50kmあたり。その後7時間むかつきから固形物をとらず、飲んだドリンクもすぐに吐き戻すのがつづいた。議論の余地もなくハンガーノックの典型、脱水症状のはじまりはじまりである。
 前に進む気力はあるのに、動けないのにイラだつ。
 道ばたにひっくり返る。休もう、3分だけだ。まだ時間はあるはずだ。3分の間に回復させるんだ。
 3分が経っても立つ気がしない。4分、5分と時が過ぎていく。おいおい自分よ、「どんなに潰れても一歩でも前に進む」なんてほざいていたのは誰だっけ。客観的に見るところ、失神寸前までも追い込まれてないよね。意識ははっきりしてるし、ロレツも回っている。精神的にはまったく正常。つまり重度の肉体的限界には達していない。それなのになぜぼくは、道ばたに倒れているのでしょうか。 (つづく)
※スパルタスロンとは、ギリシャで毎年行われる超長距離レースである。247kmを36時間制限で走る山あり谷ありの過酷な道のり。完走率は暑い年は20%、涼しい年は60%と気候の影響を受ける。
バカロードその80真夜中のひとりごと
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
初冬。東京で行われた神宮外苑24時間チャレンジ。まもなく解体工事のはじまる国立競技場のたもと、1.3kmの周回路を24時間休みなくぐるぐる走り回る大会だ。24時間走の世界選手権の代表選考会を兼ねた当大会は、超長距離レースではめったに味わえないガチンコ感に溢れている。 
 120人ほど集まった選手の7割ほどはフルでサブスリー、100kmでサブテンの実力を有している。要するに「スピードランナーのくせに200km以上走りたいというド変態」が集まった大会と言える。24時間走の歴代チャンプだけでなく、「さくら道」や「川の道」の王者クラスも参戦。いやーまさにドリームマッチ、年末特番的な華々しい雰囲気だ。
 有名ランナーがどんだけ居ようと、走る時間がまる24時間だろうと、ぼくには関係のないこと。スタートから全力あるのみ!で10km通過45分、42kmが3時間44分。潰れるまでは全力だぁ。果たして50kmあたりで順当に脚動かないモードに突入。ヘバッてからの20時間は長いったらありゃしないね。
 深夜には寝ぼけたまま千鳥足してたら、知らぬまに斜めに走っていたらしく、道路脇の植樹帯に身体ごとつっこんだ。こんもりとした植木に上半身から刺さり、足をバタバタさせてもがくという昭和ギャグ漫画にありそうな図。後ろから来たランナーに「何やってるの?」と不思議そうな顔で質問される。「ちょっと休憩してました」と不自然な嘘をつく。尖った枝が上半身のあちこちに裂傷を負わせたらしく、シャツは血まみれ。いったい何の競技やってんでしょうか、わたしは。
 ひょこひょこ走りで23時間が経過し、ラスト1時間は再び全力疾走に切り替える。思いっきり走るのは楽しい楽しい。狭い走路の脇にたくさんの観客が身を乗りだして応援している。周回ごとに人垣のなかに突っ込んでいくダイブ感。ツール・ド・フランスの山登りステージの光景そのものだ。
 結果、171kmという平凡な記録に終わったが、まあこれでよし。つぎ走るときは、もっとツッこんでやる。負けても負けても挑戦しつづけるのみ。他には選択肢が見あたらない。
     □
 さてさて。
 市民マラソンブームの起爆剤といえる東京マラソンが2007年にはじまり、それまでは走友会に所属する健脚派の晴れ舞台であったフルマラソンが「誰でも参加できる」レベルまでハードルが下がった。練習なんかしなくても、7時間もあれば半分歩いても完走できるわけで、それはそれで休日に42kmも歩くという行為はダイエットにも効果がありそうだし、心の浄化にもつながる。きらびやかなランニングウエアやシューズを大量消費することでスポーツメーカーは潤い、宿泊施設は満室、ピストン輸送するバス会社やTシャツなどグッズを製作会社、パンフレット印刷会社にもお金が回って良いことずくめである。
 昔は水道水しか置いてなかったエイドは、いまや屋台村のごとく充実し、地元の名産に郷土料理にとグルメフェスタ並みのサービスを提供している。フルマラソン大会のサービス過剰は、ウルトラマラソンの大会にも影響を及ぼしている。「よほどの変わり者」の集まりだった世界も、ごく一般的な市民が旅行レジャー感覚で参加するようになった。定員3500人のサロマ湖ウルトラがエントリー開始から1時間で締め切られ、定員2000人の四万十ウルトラに6000人以上の応募がある。手作り感覚の大会は少数となりイベント会社が仕切らないとままならない規模になった。そして、かつては「世捨て人な超人願望者」の集団であったはずの500kmレースなども瞬時にエントリー満杯になる時代とあいなった。
 こんな国民総ウルトラランナー時代にも、あまり人が集まらない超絶厳しーい大会があるのだ(知られてないだけかもしれないけど)。
     □
 沖縄本島一周サバイバルラン。
 那覇市を起点に、沖縄本島の海沿いを時計回りにショートカットなく外辺を一周するコース。400kmという長丁場ながら制限時間はわずか72時間。なおかつ、第1関門である島最北端の辺土岬へは162kmを24時間以内にクリアしなければならない。距離と時間のバランスだけみても、国内屈指の難易度の高さと言えよう。
 そして、途中ランナーをケアするサービスは何もない。
 エイドステーションなし。
 コース途中への荷物輸送なし。
 仮眠所・宿泊施設なし。
 選手は必要な荷物をすべて携帯し400kmを走り通さねばならない。舞台は沖縄とはいえ季節は冬。夜間は防寒服が必要であり、当然ライトや反射板などは必須である。島の北半分は道沿いにコンビニや自販機がほとんどなく、重量のある水分を背負わなくてはならない。
 せめてドロップバッグサービスだけでもあれば空身に近い状態で走れるが、当大会にはない。数kgの荷物を背負うとスピードは落ち、肉体への負担は大きくなる。
 さらに途中リタイアした場合、収容バスに乗るには料金を徴収される。第1関門の162kmからスタート地点帰りは3000円、第2関門の293kmからは2000円。ただでさえリタイアをして心を痛めているところに、更なる現金支払いという仕打ちが下されるのである。なんと厳しい大会か!
 しかしあらためて考えてみたい。本来自己責任において超長距離を走るということは、こういうことなんだろう。
 日本のジャーニーラン文化を1980年代頃よりつくりあげてきたレジェンドたちは、数百?、数千?の道のりを食料自己調達、野宿があたりまえの環境で走ってきたわけである。
 至れり尽くせりの現代のレースは、ランナーに過保護すぎるのだーっ!
 と息巻きながら沖縄入りしたものの、鬼の霍乱とはこのことか。半月前にひいた風邪が治まる兆しなく、熱は38度から下がらず、大量の粘り気のあるドロドロの痰が喉に詰まって気道に空気を通すのに難儀している。鼻のかみすぎで右耳が難聴になり、ほとんど聞こえない。
 鬱屈した気分は前夜になっても晴れない。しかし、超ウルトラなんてどうせ100kmも走れば病人同様。体調が良かろうと悪かろうと10時間もすれば条件は同じ・・・と繰り返し自分に暗示をかける。
 スタート地点の沖縄国際ユースホステルは、那覇市の中心部にある。基本的にランナーは歩道を走るため、集団にならないよう5人ずつ3分おきのウエーブスタートが行われる。お昼の12時に第1陣が出発していった。
 参加者は29人で、多くの人がプレ大会や試走会を経験しており、すでにコースは熟知しているようだ。
 400kmという距離を考えれば、ゆっくりペースで走りはじめたいのが人情ってもんだが、なんせ第1関門の162km・24時間をクリアするにはキロ6分程度で進まないと間に合わないことは感覚上わかっている。案の定、ぼくの属する第6ウェーブの小集団もキロ5分台のハイペースで進んでいく。
 発熱で頭がぼーっとし、体力も落ちているぼくは、集団のペースに合わせるのでギリギリ。10kmもいかないうちに息が激しく荒れはじめ、全身に浮かんだ汗はサラダ油のようにヌルヌルしている。こんな汗、流したことないぞ。これが脂汗ってやつなのか。
 事前に「エイドはないよ」と脅されていたけど、実際は34km地点の「残波岬」の先端に沖縄そばを食べさせてくれる非公式エイドを出してくれていた。しかし4時間02分かけてそこに到達したものの固形物を食べる余力はなく、公園の芝生のうえに倒れ込むことしかできなかった。
 29人の選手のうちぼくの周囲に姿が見えるのは2、3人のみで、残波岬を出てしばらくすると全員に抜かれた。人気のない海辺の道をとぼとぼと走る。体調が良ければきっと感慨もひとしおな沖縄の海に沈む夕陽や、米国文化と琉球色が混沌となったエキゾチックな看板や、そこかしこから漏れ聴こえる沖縄民謡の調べも、何ひとつとして心に届かない。日が暮れて足下が見えにくくなるとペースはキロ8分台に落ち、どう計算しても120km以上先にある第1関門に間に合いそうにない。元よりこの遅れを取り戻そうという気力が湧かない。この時点で完走できる可能性はなくなり、しかし自らリタイアするきっかけもなく、目的を見失ったまま夜道を走りつづける。果たして人は、完走する可能性もないのに何十?も走られるものだろうか。否、である。希望があるから苦しさを乗り越えられるのだ。
     □
 絶望のなかで心はいっそうシニカルかつ虚無的になる。走るという行為はつくづく無益であって、他人を便利にする何物も生産してないなーと自省的な思いにとらわれはじめる。250kmや500kmレースに費やす恐ろしいほどの労力。この分の熱量をそのまま別の労働なりボランティア活動なりに充てれば、おおいに社会の役に立つのにな。生産性の伴う時間を削り取りながら、膨大な時間とエネルギーを自らのエゴイズムに使用している。
 仕事の合間のちょっとした息抜き程度の趣味なら、まだ日常生活にプラス効果はある気がするが、超ウルトラに費やす労力は趣味の域をはなはだしく逸脱していて、脚は壊れてコンドロイチンをガブ飲みしても軟骨の減りに追いつかず、情緒不安定にも陥り不定愁訴な患者となるわと、健康面においては良いことはない。唯一、体重20kg減という大幅ダイエットに成功したが、これも病的と言えなくはない。
 ランナーになる前に比べると、極度の甘党になったな。精魂枯れ果ててたどり着いた自販機やコンビニで飲む高糖度の炭酸飲料の美味しさったらないよな。舌が痺れて脳にぶどう糖混じりの血液の濁流が流れ込むあのドーピング的快楽。日常生活にもその甘味フラッシュバックが残り、仕事中には1時間おきのコーラ摂取が欠かせず、真夜中は頻尿トイレ起床にあわせて2倍に濃くした粉末アミノ酸ドリンクを1リッター飲み干すようになった。完全に糖尿病予備軍である。
 100km、200kmと走り終えた直後、脱水カラカラの身体に流し込む生ビールが、喉から胃に落ちてく悦楽もランナーになって知ったのはプラスポイントと言えるかな。ビールを一段と美味くするため、ゴール手前20kmほどは給水しないくらいである。アルコール分が内臓から周辺細胞へと浸潤していく感覚はステロイド駆けめぐるジャック・ハンマー。この感覚を再現するために、毎日1時間は長風呂して体重を1.5kg落とした直後に、マッサンでおなじみシングルモルトな高度数アルコールを摂取。たちまち脳細胞はパーリーナイト!って絶対身体に悪いよね。
 走っても走っても走るのやっぱ苦手だな。
 ぼくは平静時の心拍数が1分に70回とラット並みに速いのである。高橋尚子さんや前田彩里選手の心拍数が40回以内でマラソンの適性がすごいんですよ、なんて増田明美トークが飛び出すたびにがっかりする。そういうのって後天的な努力じゃどうにもなんないよねぇ。
 血圧は上が170台。降圧剤を飲んで血圧ノートをつけねばならない高血圧症である。他人が「ジョクペースでいきましょう」と楽しくおしゃべりランしてるペースでも、苦しくて苦しくて仕方がない。たまーに併走しながら「笑顔でいきましょう!」なんて爽やかさを強要してくるハイテンションなランナーいるけど、いまいましくて仕方がないな。こっちは吐き気しかしてねーんだから笑顔なんて出せるかよケッ。
 あまりに嫌々走ってる様子を見とがめて、「楽しくないのに何で走るんですか?」って何度か聞かれたことがある。うまく答えられたためしないけど、すごく苦手なことだから走っているんだと思う。
 世は個性尊重の時代だから、「好きなことをやりなさい」「得意なことをやりなさい」と強迫観念のように大人たちは子どもたちに押しつけるけど、そんな特別な才能をもって生まれた人なんて、ほとんどいない。好きなことなんて、実際にやろうとすれば大変すぎてぼくは何にもできやしなかった。
 「自分の足でどこまでも遠くまでいく」。きっと本来ぼくがやりたいことなんだろうけど、走力も根性もないから、苦しさにあえぎながら、毎回断念を繰り返している。好きなことへの適性がない悲運にうなだれるしかない。
 走ることを楽しいと思えないし、いい結果も出せないし、自分に満足できるレースなんて3年に1回くらいしかないけど、ぼくは走ることをやめないし、走り続ける。
 極限環境において人間の本性がむき出しになるのだとしたら、ぼくに元から備わっていて役立ちそうなのは嫌らしいほどの執念深さだけかな。喧嘩の敗北や商売の失敗ってのは、自分でそうジャッジするから負け&失敗なんだと思ってる。だからウルトラマラソンだって100回リタイアしても、敗北は永久には続かない。絶対にいつかうまくやりこなしてみせる。いつかみごとに勝ち切って、負けた分を全部取り返してみせるって思いこんでる。
       □
 80kmで走るのをあきらめ歩く。一歩でも前にと戦っているのではない。動くのをやめると寒くて凍えるので仕方なく歩いているだけだ。冷たい霧雨が舞い、全身を濡らす。ぼくは荷物を極限まで減らしたため、着ているTシャツと短パン以外は服を持ち合わせていない。街灯ひとつない真っ暗な道の奥にコンビニの灯りがみえる。雨をしのぐために店に入り、カップヌードルを買ってお湯を入れて食べる。信じられないほど美味しい。こうやってまた中毒がひとつ増えるのだ。そういえばもう24時間以上、何も食ってないんだもんな。
 有名な観光地の「美ら海水族館」の手前、スタートからちょうど100kmあたりで明け方近くとなり、首尾良く那覇空港行きの路線バスがやってきたので、何の迷いもなく乗った。
 やっぱり超長距離レースは苦しくて、寒くて、痛い。これが生きるということなのだろう。
 レースも人生もうまくいかないことの繰り返し。でもきっといつかはいいことがあると信じている。
※当レースは29人中完走者が4名という、やはり非常に苛烈なものとなりました。来年は過酷を求めるマゾヒスティクなランナーたちが大集合するに違いありません。
バカロードその79あぶくのごとく沈んだり浮いたり
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
(前回まで=ギリシャで行われる247km36時間制限の超長距離レース・スパルタスロンに4連敗中のぼくは、今年もしょうこりもなく出場したが、例年どおり50kmあたりから嘔吐をはじめ、105kmあたりで体が動かなくなって道ばたに倒れてしまった)
 
 後方の暗闇からヘッドランプの灯りが揺れながら近づいてくる。現れたのは恩人ともいえる方である。はじめてこのレースに出場した5年前、スパルタスロンという競技のもつ素晴らしさ、完走する価値の高さ、挑戦しつづける意味について教えてくださった。彼についていけなければ完走はできない、と思い立ち上がる。必死で後ろにつこうとするが、やはり体が動かずじりじりと離れされていく。
 110km13時間53分。余裕時間が再びゼロになる。エネルギーを体内に入れないと置かれた状況は変わらない。エイドにあったブドウを20粒ほど無理やり口に押し込み飲みくだすが、しばらく走ると吐き戻してしまった。もうぼくの周りにはランナーはいない。ここ30km間で追い越してきたランナーたちは皆リタイアしたのだろう。
 113kmのエイドに着いたときは、閉鎖時間に対してすでに5分も遅れていた。エイドの裏手にある民家の軒先に倒れ込む。動けない。2、3分そうしていたら、大会役員らしき人が横にしゃがんで話しかけてくる「まだ走るのか?」。
 「まだぼくは走ってもいいんですか?」と聞き返す。「君が走りたいなら」と真剣な顔。「はい、まだ走ります」と答えて立ち上がる。エイドに陣取った20人ばかりのスタッフが、「日本人よ、ストロングだ」と総手の声援と拍手で見送ってくれる。
 勇ましく再出発したものの、つづら折りの急坂の途中で歩くのも困難になる。ここから4km先のエイドまでよろよろと歩いて何時間かかるというのか。立ち止まったまま考えて、それから腰掛けてしばらく考えて、もういっかい道ばたに仰向けになって暗い空をぼうっと眺める。
 もがき苦しむわけでもなく、地を這いずって前進する根性も見せられず、自らギブアップしようとしている。それなのに悔しいとも悲しいとも、特別な感情が湧いてこない。1年間これに懸けてきたのにさ。どうなってんだよ自分。
 立ち上がって、元来た道を引き返す。エイドにたどり着くと、スタッフたちは驚きもせず「よくやった、よくここまで来た」と言う。巨漢のおじさんスタッフが抱擁してくれる。隣にすごい美人おねえさんスタッフがいたのになと残念に思う。
 椅子に腰をかけさせられ、ゼッケンと計測チップを外され、リタイアの署名をする。
 フタが開いたままのクーラーボックスに、飲み物を冷やすためのクラッシュアイスが山盛りになっている。これから片付け作業がはじまるんだろう。両の手のひらいっぱいに氷を取り、ガリガリとかじりつく。死肉にあさりつくハイエナみたいに氷の塊にむしゃぶりつく。枯れ果てた体に染み込んでいく。狂ったようにひたすら貪る。
 見かねたエイドのおじさんが、ぼくの肩を優しく抱いて「その氷はあまりきれくないからペットボトルの水にしときなさい」と止めてくれる。ぼくは氷の塊を決して手放そうとせず、いつまでも虫のようにかじり続ける。
          □
 レースが終わってしまった。1年間、この日に懸けてきたのに。
奥田民生が熱唱する「I'M A LOSER」が頭骨の中でわんわん反響している。枝にぶらさがった瑞々しい果実をもぎとろうと、何度ジャンプして手を伸ばしても空振りする。届かない。何にも届かない。かすりもしない。そんな映像が頭の中で繰り返される。負け、負け、負け、負け、負け。スパルタスロン5連敗、弱すぎる。
 元々、スポーツマンにあるまじき陰鬱な空気をまき散らしているタチだが、帰国後はさらに拍車がかかった。ものぐさがひどくなり、外出先でズボンのチャックが2cmくらい開いていてもキッチリ閉めようと思えない。職場ではだいたいボーッとしている割に、発作的にろくでもない事を思いつき、現状打破な行動をおっぱじめてうさんくさい目で見られる。部下には役立たず扱いされ、居場所をなくして片隅で小さくなっている。家に帰ればタタミ二畳分のスペースから移動する気力がなく、布団に横になったまま入院患者の要領でビールを口の脇からずるずるすする。
 日課であった朝のランニングにでかけなくなった。朝起きて、ランニングウエアに着替えて、外に飛び出すのは、それなりの気力が必要なのだ。
 1年365日、毎日2時間前後は走っていたから、走るのをやめると時間を持てあます。ここ何年も、仕事と走ること以外やってなかった。酒も博奕も社交も、いったん遠ざかれば元にはもどれない。
 暇を持て余し、お菓子づくりなぞをはじめてみた。調理道具や型を買いそろえ、小麦粉や米粉をこねこねし、オーブンの焼きあがりを待つ。素材の調合比率や、泡立て方、温度を細かく変えていき、有名ケーキ店並みの柔らかくて食感のいいスポンジ生地を焼けないか試行錯誤する。台所の床は粉まみれになり、オーブンは2度白煙をあげた。
 ランニングをしている頃は毎日ヘトヘトで布団にもぐり込んでいたが、走らなくなると寝つきが悪く、夜が恐ろしく長い。夜長の閑に耐えられず口径の大きい天体望遠鏡を買いこんで星の観察をはじめる。月面のクレーター、木星の縞模様、土星の輪、著名な星雲と、ビギナーらしく順に観察していく。文化系な趣味を持てた悦びにひたろうと、エスプレッソマシンでコーヒーなんぞ淹れて、マグカップ片手にベランダで小一時間を過ごしてみたりするが寒くてすぐ撤収。
 過去を清算するには断捨離に限ると、家の大そうじに取りかかり、「棺おけに入れなくていいもの」という観点でモノをゴミ袋に詰め込みだすと、押し入れが空っぽになった。ハードルあげすぎだなこりゃ。
 いろんな方面に手を伸ばしてみるが、何かが足りない。何か、というか走るのが足りない。ランニングをやめてわかったのは、走るという行為は趣味ではないってことだ。他に代替が効かないのだ。走ることに充てていた1日のうち2時間を、写経をしたり野鳥を観察して過ごしても、ああ今日ぼくは何かをやったぞ、一日を精いっぱい生きたぞ、という感じを得られないのだ。走るのが大好きなわけでもなく、走ってすがすがしい気持ちになるわけでもないのに。
 そもそもなんで自分は走ってたんだろう。目標タイムをクリアしたり、順番が何番だとか、難易度の高いレースを完走するだとか、それはそれでひとつの努力目標にはなるけど、そのために走りだしたわけじゃないよな。ランナーが100人いたら100通りの走る意味が存在している。ぼくは、その瞬間、瞬間で全力ってもんを出したいから走りだしたんだよな。ただ今という時間を、つっ走りたかった。心臓を打ち鳴らし、地面を蹴って、前に向かって突き進んでいくのだ。レースをうまくマネジメントしたいのではない。余裕をもって後半ビルドアップしたいのでもない。ヘバッてもいい。ひっくり返るまで追い込みたかったのだ。
 いつしかそんな原点を忘れて、名のあるレースに完走したいがために、「自重、自重」ばかり考えて、でも結局たいした走力ないからリタイアの繰り返し。スタートラインからリタイアするまで1度も本気で走る場面なく、不完全燃焼な排気ガスをブスブス煙らせて、収容バスの乗客になる。ほんとつまらないことを何年もやってた。
 体重80kg以上あったデブな頃、10kmを1時間20分以上かかってゴールして、芝生の上で仰向けに寝ころんだ時の満足感、今でも強烈に残っている。水色の空の色がきれかったな。
 人間以外の動物ってきっと時間の観念はないよね。「明日までには獲物を3羽つかまえておこう」とか「生きているうちに子孫を10子は残そう」なんてビジョンを持たない。今ハラが減っている、だから目の前に現れた獲物を食う。無性にヤリたい気分、だから生殖する。きっと今という点の時間でしか生きていない。人間だけが未来のことを考える。そして夢を見たり、絶望したりする。でも実際、先のことなんか小指の先ほどもわからないんだ。今やるべきことをやってないのに、未来なんてないんだ。動物のように刹那で生きていたい。この瞬間を全力で走るという単純な理屈だけに貫かれて。
 そして、また走りはじめた。
    □
 四万十川ウルトラマラソン。 もーね、メチャクチャ走ってやろうかと思ったんだ。スタートのピストル鳴ったら小学生のかけっこの勢いでぶっ飛ばすんだ。オープニングアクトをバラードから入るインディーズバンドなんてクソだろ。3キロ先で倒れてもいいから、今最大限のエネルギーを放出するんだ。前半抑えて後半は落とさないようキープなんてセオリーはゴミ箱にポイだ。キロ何分ペースとかどーでもいい。息を切らしてただ走れ。
 四万十ウルトラは15kmから21kmの間に600mの標高差の峠を越える。青い息を吐きながら峠の頂上まで全力で登る。死んでも歩かないぞ。峠の先には急激な下りが10km待っている。着地衝撃なんて知ったことか。地球が重力というアドバンテージをくれてるんだ、ありがたく受け取るぞ。パンパン足音を打ち鳴らして、出せるだけのスピードを出すんだ。
 50kmを4時間40分で通過。ふくらはぎがぴくぴくケイレンしている。攣るんなら攣ればいいさ。いけるところまでいくぞ。
 61km、唯一の大エイド・カヌー館では1秒たりとも立ち止まらない。ドロップバッグに入れた手製の「補給物資をガムテープで貼り付けた駅伝風タスキ」を取り出す。輪っか状にしたヒモに、エネルギーバーやゼリー、粒あん、鎮痛剤をガムテープで貼りつけたものだ。こいつを首からぶらさげて、走りながら補給する。マラソン会場によくいる「変なおじさん」風情だが気にはしない。大エイドの誘惑なんて断ち切ってやる。多少休憩をとった方がいいタイムが出るのかも知れない。でも休みたくない。休んで脚を回復させたくない。
 65kmあたりで完全に潰れた。潰れたあとの35kmは長かった。それでもラスト10kmは遮二無二走った。スパルタスロンの参加資格である10時間30分をぎりぎり切る10時間28分でゴールした。ああ、ぼくはまだヤツに挑戦する意思を持ち合わせているのだな。もうやめようとあれだけ思ったのにな。
 ゴールすると立ってられないくらいフラフラだった。汗まみれの服のままブルーシートに横たわり、体育館の天井を眺めながら、アボのことを思った。飼い犬のことじゃないですよ。漫画「worst」に登場するチョイ役のヤンキー高校生。現役高校生最強の男・花木九里虎に、喧嘩を売り続ける桜田朝雄(アボ)という雑魚キャラ。毎回ワンパンチでノされて、たぶん半永久的に勝てっこないのに、しつこくタイマンで挑戦しつづけるアホな男。連戦連敗、でもなぜか精神的にはまったく敗者ではない。ぼくはアボになりたいんだ。

2015年02月19日

燃えないゴミの日、忘れんけん!さらら2/19号 tokushima-salala150219■県民のお悩み解決第1弾
これで忘れん!燃えないゴミの日
月1回の回収やけん忘れたら困るんよ
■はちみつナッツを作ってみたじょ♪
■朝の食卓に「マグ蒸しパン」を
■見た目でもサプライズ!贈り物に“テトラッピング”
■ハンガー跡がつかんカットソーの干し方
■DIYで勝手口に手すりをつけました

2015年02月13日

四国のみちを歩く。徳島人3月号 1503_JIN.jpg■ここちよい消耗、ほどよい達成感
四国のみちを歩く
■徳島手打ちの名店へ
蕎麦を究める
■徳島を懐かしもうシリーズ
思い出の吉野川遊園地
■人気校に潜入取材
春の個別指導塾ガイド
■最新OA危機、セキュリティ、デザイン住宅
オフィス・住宅の環境を整える
コーヒーのある暮らし。CU3月号 tokushima-cu1503

■コーヒーのある暮らし
プロが淹れる本格派からおうちで愉しむ一杯まで。
■日々是好日 弁当図鑑
簡単にかわいく作れるアイデア満載のお弁当。
■こどもっと!
春に贈ろう、子ども向けギフト。
■ヅカトーーク
大好き! 宝塚歌劇団。

2015年02月09日

タウトク・CU・徳島人1月号 実売部数報告月刊タウン情報トクシマ1月号、月刊タウン情報CU1月号、
徳島人1月号の実売部数報告です。

タウトク1月号の売部数は、5,529部
1501_タウトク部数報告.pdf

CU1月号の売部数は、4,376部
1501_CU部数報告.pdf

徳島人1月号の売部数は、3,993部
1501_徳島人部数報告.pdf
でした。

詳しくは、リンクファイルをクリックしてください。
長らく雑誌の実売部数はシークレットとされてきました。雑誌は、その収益の多くを広告料収入に頼っているためです。実際の販売部数と大きくかけ離れ、数倍にも水増しされた「発行部数」を元に、広告料収入を得てきた経緯があります。メディコムでは、その悪習を否定し、「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU」「徳島人」「結婚しちゃお!」「徳島の家」の実売部数を創刊号から発表しつづけています。

2015年02月05日

うちんくの冷蔵庫、片付け大作戦!さらら2/5号 tokushinma-salala150205■勇気を出して、扉を開けるときがやってきた  
うちんくの冷蔵庫、片付け大作戦!
●「徳島友の会」の方に聞く、片付けの極意
〜買った食材をどういれるかが大事!〜
■めんどくさがりやさんのためのお風呂掃除術!
■風邪のひきはじめには、金柑酒!
■ホームパーティーのときのマスキングテープ使い
■喉が痛くなったときのレモンの紅茶シロップ

2015年01月28日

最新スポット×デート×居酒屋と夜店。タウトク2月号 tautoku1502■日帰りでいけるデート&ドライブ特集
話題のスポット&お店を集めました。
キッズカフェやレストランが生まれ変わった上板SA
大鳴門橋の対岸・福良はグルメスポットが集結してる
島民15人に対し猫100匹の愛媛の離島・青島
南国市「湯の駅ながおか」は産直と温泉とカフェが合体
■居酒屋&夜店 ええとこ飲み
「また行きたい」と思う素敵なお店の人気メニューベスト10を大調査。

徳島のプランナーを紹介! とくしま結婚しちゃお!春号 1502_kekkon.jpg■徳島プランナー名鑑
結婚式場のプランナー&プロデュース会社のスタッフ46名が登場!ふたりの結婚式をサポートしてくれる人たちの素顔に迫る。
■花嫁の疑問100大解決!!
「フェアって何軒まわるべき?」「結婚式のお金どうやって貯める?」など、花嫁たちの素朴な疑問を集めました。
■旦那と私の生活習慣の違い
先輩カップルたちが新婚生活をスタートして初めて知った、相手の仰天の生活習慣を大暴露!

2015年01月22日

カリフラワーに注目!さらら1/22号 tokushima-salala150122■徳島は生産量日本一って知っとった?
白さ輝くカリフラワーの魅力
●美肌と疲労回復に効くってほんま?生で食べたらどんな感じ?
●カリフラワーを良く知るおかあさんに聞く、家族に人気のレシピ!
■トレーニングで生理をハッピーに♪
●生理がユウツなひとから、尿もれに悩む人、閉経した人も

2015年01月14日

四国の温泉宿へ。徳島人2月号 1502tokushimajin■四国の温泉宿へ。
絶景自慢の宿、料理自慢の宿、宿主のあたたかな人柄が魅力の宿…たまーの贅沢、ゆるされます
■旨い!お肉屋さんの惣菜
肉がいいから必然的にレベルが高くなる
ジューシーでお手軽な美食との出会い
■介護保険制度改正を知る
■2015年の終活はじめ
■季節を問わず過ごしやすい家
徳島の家スペシャル
こぢんまりとしたお店の看板料理&ランチ。CU2月号 tokushima-cu0115

■こぢんまりとしたお店の看板料理&ランチ
数席しかない小さな空間だからこそ落ち着ける。
■極上エステ
上質を求める女性のための空間。
■ハジメル
新しい自分に出会うおけいこ・講座紹介。
■マラソン女子が大暴れ〜!
走ることは二の次! おしゃれウェアやおしゃべりを楽しみたい。

2015年01月09日

タウトク・CU・徳島人12月号 実売部数報告月刊タウン情報トクシマ12月号、月刊タウン情報CU12月号、
徳島人12月号の実売部数報告です。

タウトク12月号の売部数は、6,638部
1412_タウトク部数報告.pdf

CU12月号の売部数は、3,922部
1412_CU部数報告.pdf

徳島人12月号の売部数は、4,535部
1412_徳島人部数報告.pdf
でした。

詳しくは、リンクファイルをクリックしてください。
メディコムは、「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU」「徳島人」「結婚しちゃお!」「徳島の家」の実売部数を創刊号から発表しつづけています。

雑誌の実売部数を発行号ごとに速報として発表している出版社は、当社以外では日本には一社もありません。実売部数は、シェア占有率を算出し、媒体影響力をはかるうえで最も重要な数値です。他の一般的な業界と同様に、出版をなりわいとする業界でも正確な情報開示がなされるような動きがあるべきだと考えています。わたしたちの取り組みは小さな一歩ですが、いつかスタンダードなものになると信じています。

2015年01月08日

疑問を解決スペシャル!さらら1/8号 tokushima-salala150108■解決してスッキリした2015年にしたいけん!徳島県民の質問スペシャル
回答者求ム!徳島県民は今こんなことが知りたい
■自然と時間が生む新たな味
おうちでドライフーズ〜冬野菜編〜
野菜ソムリエに聞く、旬野菜を干しておいしくいただく方法
■自分でやるんて楽しいわ♪今年もDIY女子!
■讃岐の「あんモチ雑煮」、食べてんまい!

2014年12月25日

餅投げイベント×バル×創作たこ焼。タウトク1月号 1501_tautoku.jpg■餅投げ&餅つきイベント
たくさんキャッチできる裏技教えます!
■今夜はバル飲み!
次から次へと新店誕生
■オモシロ創作たこ焼き
押さえておくべき新店とユニークなたこ焼たち
■トクシマ振袖コレクション 
■高校ラグビー選手権大会・高校駅伝 徳島県大会

2014年12月19日

バカロードその75 ずぶ濡れで泥まみれの夏が過ぎていく 【トランス・エゾ ジャーニーラン】
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

 大人になるってのは旅する人になるということだ、と少年の頃は固く信じていた。港、港に女を待たせる星野哲朗演歌ワールドな船乗りさんか、街を終われ世間に隠れ終の棲家を求めてさすらう昭和枯れすすきな訳あり人か、街の外れでキャンプを張り年端もゆかぬ子供たちに怪しい人生観をたれるスナフキン的流浪人か。
 砂と埃にまみれたマントを羽織り、シケモクの紫煙をくゆらせては、身支度品を詰めこんだ寅さんトランクを片手に、街から街へと見知らぬ土地を渡り歩く。そんな18世紀ランボー詩情な大人のありようは、自分が大人になった21世紀には軽るーく絶滅していた。退廃した夜に出会うはずのロシア文学を読む娼婦なんて、安保闘争の終焉とともに消滅した。
 ニッポンという国は、ずいぶん健全で明るい社会になったのである。少年の頃に憧れた日陰者な大人は、本当のアンダーグラウンドへと姿を消してしまいました。
 私は何が言いたいんでしょうか。そう、このコラムはジャーニーランについて書いているのです。越境人も密航もなくなった世の中で、日々どこかの街に宿を求め、次の日には別の街へと移動する。そんなジャーニーランの世界は、子供の頃に夢見た流浪人生の疑似体験の機会を与えてくれる。見知らぬ者が各地から集まり、何十人もの大所帯でキャラバンを組む。同じ釜のメシを食い、フリチンで湯に浸かり、枕を並べて眠る。恋人や旧知の友とでもめったにしない濃密な旅が繰り返される。
 「トランス・エゾ ジャーニーラン」は、日本最北端の宗谷岬から、太平洋岸のえりも岬へ向かい、取って返して宗谷岬へ。約1100kmを14日間かけて走る。その最大の魅力は、キャラバンを構成するメンバーの多彩さだ。ランナーのみならず、彼らを支えるボランティアクルー、走りを見届けるべく合流する家族、ランニングクラブの少年少女たち、身体のケアをしてくれる大学生たち。下は小学生から上は70代まで、異なる年齢や立場の人たちが集団となって移動していく。
 今年の「トランス・エゾ」には、1097kmの宗谷岬→えりも岬往復に8名、541kmの宗谷岬→えりも岬に4名、556kmのえりも岬→宗谷岬に12名、あわせて24名が参加した。各ステージ間の距離は以下。
 1日目.宗谷岬〜幌延 75km
 2日目.幌延〜羽幌 83km
 3日目.羽幌〜北竜 85km
 4日目.北竜〜栗山 88km
 5日目.栗山〜富川 72km
 6日目.富川 〜浦河 84km
 7日目.浦河〜えりも岬 54km
 8日目.えりも岬〜忠類 82km
 9日目.忠類〜新得 88km
 10日目.新得〜富良野 80km
 11日目.富良野〜旭川 67km
 12日目.旭川〜美深 98km
 13日目.美深〜浜頓別 81km
 14日目.浜頓別〜宗谷岬 61km
 カラッカラに晴れているはずの夏の北海道は、ぼくたちの歩調につきまとうように雨雲が天を覆いつくし、この地に降る一年分の雨をまとめて出血大放出しているかのようだった。3日目には豪雨のためコース経路の国道232号線が遮断され、強行突破したランナーの目の前で土石流が道路を横断して海へとなだれ落ちた。
 えりも岬からの復路ではヒグマの気配がぷんぷん感じられた。10日目には廃線上のぬかるみ道に足サイズ40cmはあろうかというヒグマの足跡が点在していた。太平洋岸と内陸部の要衝である十勝国道・狩勝峠の三合目と四合目の間で、ぼくの前方50mの所を、体長2mほどのヒグマが道路を猛スピードで横切って森へと消えた。ちょっとタイミングがずれたら、あの地上最大の肉食獣(ドングリ食だっけ?)とサシで戦う所だったのか。
 13日目、浜頓別市街へと下る丘陵地では、ヒグマ出没の報を受けて警察車両が登場。最終ランナーに併走してヒグマから守ってくれた。ぼくたちは人工物のアスファルトの上にいることで安心しきっているが、実際は野生の臭いが濃く残る北海道の大自然の中に、丸腰でいるのである。
 ステージレースに徹夜走はない。毎日のゴール後には十分な量の食事を採り、大方の宿で良質の温泉に浸かれ、柔らかな布団で身体を休められる。とはいえ、平均79kmを14日間走りつづけることは楽ではない。多くのランナーは足の裏に巨大な血マメをつくり、スネや足首やアキレス腱を空気入れでパンパンに膨らませたように腫らせている。ふだん50km、100kmと走るのがへっちゃらな人たちが、背筋を大きく傾け、テーピングでぐるぐる巻にした脚を引きずりながらゴールを目指すさまは、憂いと切なさに満ちている。
 雨に打たれ、日に焼かれて前へ前へと一歩を出し続ける。ゴールの先には輝ける栄光はない。一般社会の評価に値するような実績にもならない。そもそも夏に1100km走るんだと他人に説明しても、奇異な目で見られるのがオチなので、あまりしゃべらないようにしている。
 14日目、この旅ではじめて訪れた完ぺきな晴天は、オホーツクの海を碧に染め、水平線の上に南樺太・サハリンの島影まで浮かび上がらせた。視界100km以上、天球の丸さまで感じさせる。去年、熱中症に負けて50kmだけ欠けた全行程を、今年はケガまみれながら走りきることができた。奇跡の光景は祝福なのだと独りよがりに解釈しておこう。
 青一色に包まれた宗谷岬の先っぽに設けられた手作りのゴールに、ランナーたちは飛び込んでいく。全ステージを完走した人も、途中でリタイアを余儀なくされた人も、それぞれのゴールを迎える。
 「トランス・エゾ」には完走賞も完走メダルも不要だ。勲章は自分の胸の内側にかけられる。自分を称えられるかどうか、その基準は「どれだけのことができたか」だ。自分が置かれた環境のなかで、不器用にもがき切れたか。長い間自分を苦しめた病気は克服できたのだろうか。怪我を負ったなかでやれる対処は全て尽くせただろうか。年齢とともに全盛期の健脚を失っている自分と正面から向かいあえただろうか。他者から見た評価ではない、自分が自分に対して与える評価だ。
 2014年の今を生きるぼくは、今持ちうる最大の力を振り絞れたのだろうか。
 宗谷丘陵からオホーツクの海へと続く急な下り坂を、青い空と海の境目に向かって駆け下りる。
 
バカロードその77 あとはどうなってもいい
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

 できない理由を並べたら100コは下らない。できる根拠は何ひとつない。でもやらなくてはならない。自分には能力がないからやめとく、と素直に屈服しない。
 やれることだけ選んでやっていてもつまらない。やれそうにない事にぶつかっていくから感情が揺れる。何にもチャレンジしないなら、一日じゅう部屋にこもってゲームでもやっている。でもそんなの2日で飽きる。
 246・8kmを36時間以内に走りきるレース・スパルタスロン。4度の失敗でわかったことがある。生半可な覚悟と準備でははじき返される。次々と襲ってくる障害に打ち勝っていかなければ前に進めない。自分の身体をきちんとコントロールできる知識と理性がないと破綻する。死力を尽くす、を文字どおり実行しなくてはゴールには届かない。
 どんなに秀でた運動能力をもっていても攻略は簡単ではない。たとえば100kmを7時間台、フルマラソンを2時間40分前後の持ちタイムの人たちも次々とリタイアする。逆に、フル3時間台後半の人が、快進撃を見せて上位に食い込むこともある。
 思うに、246・8km×36時間をつかさどる見えざる統治者は、誰に対しても平等に門戸を開けている。持って生まれた運動能力だけでは決まらない。スピードでは計れない。ド根性だけでも突破できない、何か得体の知れない法則がある。だから、ぼくのようなランナーにも1%の可能性は用意されている。壁のどこかに小さな針の穴が空いている。探し当てて、自分の手で通すのだ。
 大事なのは、1つ1つの壁に対して、「まあ何とかなる」「気合いで乗り切れる」とタカをくくらないことだ。「きっとうまくいく」と偶然を頼りにしない。たまたま好不調の波のピークにばっちりハマり、絶好調のうちに走りきれる、なんて可能性はゼロだ。困難をやりすごすことはできない。真正面から対峙し、1コ1コやっつけていくんだ。

              □
【トレーニング量を抑え、質を上げる】
 過去の経験から、月間何百km走り込もうと、完走の根拠にはならないとわかっている。レースと近似の環境で250km、36時間走るトレーニングは不可能である。気温が40度近くまで上がり、低湿度で発汗が短時間で気化していく。深夜気温0〜5度まで下がったなかで、標高差1000mの岩場を登って下る。75カ所ある関門時間をクリアするため、まとまった休憩・睡眠は一切とれない。これと同じ条件を揃えることは不可能だ。練習は、より楽な自然環境、より楽なタイム設定、より恵まれた補給物資(たとえば自販機のよく冷えたドリンクなど)のなかで行っている。距離を150km、200kmと稼けば満足感は残るが、スパルタスロン本番ほどの厳しい環境でのものではない。勘違いを起こさないようにしたい。環境の良い日本国内での走り込み実績は、あまたある完走条件のうち10%程度を満たすものだと考えるべきだ。
 直前6カ月の月間走行距離は以下。
 3月 524km
 4月 508km
 5月 654km
 6月 436km
 7月 268km
 8月 1267km
 6カ月で3657km。今年は走行距離を減らし、スピード練習に重きを置いた。大半の日は1日に10kmしか走っていない。1kmを4分30秒で息が上がらないよう、心肺と脚に覚えさせる。それにプラスして月に1〜2度の100〜200km走を実施し、体調が最悪になった状態にメンタルと肉体を慣らす。

【徹底して眠れば、疲労は抜ける】
 限界を超えてしまわない程度に、そして長引くようなケガをしない程度に、月に500km前後走り込むのは結構むずかしい。疲労を溜めこみすぎてバーンアウトするリスクがある。燃え尽き症候群は肉体の限界を越えて起こるのではなく、多分に精神的な虚脱や、脳からの「これ以上やると健康を害するから止まれ」との指令に反応したものである。実際には肉体の限界を超えたりはしない。とはいえ、バーンアウト状態になると何もかもがおっくうに感じ、朝起きるのもトイレに行くのも嫌になるほどやる気が無くなる。
 無気力に針が振れないようにするには微妙なさじ加減が必要で、「週に何km以上走るとダメ」「スピード練習を何日以上続けるとダメ」といった単純な目安はない。
 実はトレーニング量よりも休息にポイントがある気がしている。これは何日間も連続して80kmを走るジャーニーランの経験から学んだものだが、日中に80km、90kmと長距離を走っても、その夜にたっぷりと食事を取り、熱い風呂に入って冷水で脚をアイシングし、7時間以上熟睡すれば、翌日には疲労感はほとんど残らないのだ(怪我は治らないけど)。
 つまり、どんだけ長距離走り込もうとバーンアウトはしない。燃え尽きないためには、「練習時間」「仕事時間」「お家の用事」以外のすべての時間を、食事・入浴・睡眠にあてるのだ。
 サプリメントは7種類を常用している。主な目的はアミノ酸の補給と、その結果としての疲労除去と筋繊維修復。
 ?NOWスポーツ・Lグルタミン
 ?アサヒ 天然ビール酵母・エビオス錠
 ?森永製菓 ウイダー カルニチン&CLA
 ?アサヒ ディアナチュラ ストロング39種アミノマルチ
 ?興和新薬 QPコーワ・ゴールド
 ?大塚製薬 アミノバリューパウター
 ?味の素 アミノバイタル クエン酸チャージ顆粒
 これら以外もアレコレ試している。多種類を服用していると、どのサプリがどう身体に作用しているのか不明である。すべてが効いている感じもするし、ぜんぶ気休めともいえる。摂取者としてはプラシーボ効果(効いた気になることで実際に体調に好影響が現れる)でも満足だ。結果さえ伴えば、岩塩だろうと鉄サビだろうと何でもしゃぶるぞ。

【必ずやってくる危機にどう対処するか】
 レースがはじまると、次から次へと体調の異変が起こる。どうコンディションを整えようと逃げる方法はない。気温40度近いなかをハイペースで走って何ともない人もたまにはいるかもしれないが、そんな千人に一人のウルトラマンこそ他ならぬ自分だとは決して思わない。
 大きな体調悪化は4パターンに集約される。
 ?多量の発汗による脱水。体液・血液中のミネラル等のバランスの崩れ。結果としての吐き気、嘔吐、意識混濁、走行停止。または脚部からはじまり全身に起こる痙攣。こむら返り。
 ?の対策=ボトル「シンプルハイドレーション」350mlを常時持ち、3〜4kmおきのエイドで100ml飲んだうえでボトルに350mlの水分を補充。10km換算にすれば約1000mlの水分を体内に取りこめる。汗が引くであろう夜間はこれほど必要ないが、36時間の間に15〜20リッターの水分を摂取する。「シンプルハイドレーション」は、ボトル上部に引っかけがついており、手で持つ際に握力が必要なく、腰に差す場合はウエストベルトやランニングパンツに引っかける要領でざっくり挿すことができる。便利だ。
 ミネラルの喪失には、「大塚製薬 カロリーメイト・ブロック(メープル味、フルーツ味)」で対応。カリウム、鉄、マグネシウム、ビタミン類がバランス良く補給できる。
 ?運動量過多による消化器の活動量減少。胃酸過多のための吐き気、嘔吐。結果として水分、食料を消化吸収できないことによる脱水症状、あるいはカロリーの枯渇。やがて走行停止。
 ?の対策=レース3日前から胃粘膜保護剤「エーザイ・セルベール」を服用。レース中は6〜10時間の間隔で飲む。レース前日になると胃酸分泌を抑制する「第一三共ヘルスケア・ガスター10」を服用。レース中は胃粘膜保護剤とともに飲む。
 50kmを越えた辺りから、消化器官は病人同様となる。いかにごまかし、いかに正常に近い状態をキープできるかが勝負どころだ。過去、あまりに嘔吐が激しいため「吐くのに慣れるバカ練習」に励んだこともあったが、本来の「吐かずに胃腸を正常に保つ努力」に注力すべきと悟った。
 ?身体の連続使用による極度の疲労。夜間に訪れる耐えられないほどの猛烈な眠気。睡眠不足というよりも、過重な体力消耗による脳からの「運動停止サイン」による睡魔。走っていても寝落ちする程だから、当然スピードも出ない。そのまま寝込んでしまえば関門閉鎖時間はすぐやってきてリタイアに。
 ?の対策=これも過去の経験から「寝だめ」に効果がないことがわかっている。レース前日に睡眠薬飲んで12時間眠っておいても、レース中の徹夜時間帯にはフラフラになる。「運動停止サイン」が下りないようにするには、スタートから15時間以上経った時間帯でも、肉体に深刻なダメージを与えず、余裕を残しておくことである。まず、疲労除去に即効性のあるクエン酸「味の素 アミノバイタル クエン酸
チャージ顆粒」を10kmごとに1本使用。
 筋肉損傷の修復は「VESPA PRO(ベスパプロ)80ml」を。1本700円もする超高級セレブリティ・サプリメントを12本用意した。
 さらに「味の素・アミノバイタル スーパースポーツ100g」、カロリー補給は「パワーバー エナジャイズ」「明治 ザバス ピットインリキッド(ウメ風味、ピーチ風味)」「明治 ザバスピットインゼリーバー(アップル風味)」「井村屋 ちょこっとつぶあん 25g」などを6kmおきに配置。
 ?痛み。予告なく起こる筋肉損傷、関節損傷。足裏の表皮のはがれ(マメのひどいの)。股間の表皮の消失(股ずれのひどいの)。
 ?の対策=耐え難い痛みには鎮痛剤「エスエス製薬・イブA錠」。何度も使用するために第一種指定の鎮痛剤(ボルタレンやロキソニン)は回避。股間の皮膚損傷対策は皮膚保護剤「ユニリーバ・ヴァセリンペトロリュームジェリー」。足裏のマメには「テーピングテープ 非伸縮タイプ」をガチガチに巻きつけて対処する。

【焦熱対策。気化熱を徹底利用する】
 いつも熱中症でフラフラになっているぼくを気の毒に思ったか、尊敬する理論派先輩ランナー氏が懇切丁寧な長文のアドバイスを送ってくれた。氏の指導は科学的かつアカデミックな内容であり、スパルタスロンを完走するためには、ただ走るという行為をこれだけ突き詰めて考えねばならないのかと衝撃を受けるとともに、無手勝流の非科学トレーニングで完走を目指していた自分が恥ずかしくなった。
 理知と慈愛に満ちたアドバイス内容をごく単純にまとめちゃうと「体温を上げないよう、過度に発汗させないよう、全身を濡らし続ける」である。そのためには皮膚を直射日光にさらさないこと。全身を衣類で覆い、エイドのたびに水分を衣類に含ませ、次のエイドまでの3〜4km間、気化熱による体温冷却を止めることなく続けること、である。
 アドバイスを受けて、体表面を覆うグッズを揃える。頭部は白キャップと首筋を覆うカバーを装着。腕部は白ソックスのつま先部分をカットしたものをアームカバー代わりに。市販の高機能なのは皮膚を圧迫しすぎて辛い。膝下は「C3fit パフォーマンスゲイター白」を着用。これらを水で濡らしつづける。高い気温・低い湿度という条件下
では、体温上昇のペースに発汗が追いつかず、やがて汗が止まり、表面体温が急上昇して熱中症に陥りがちだ。だが逆に、体表面が常に濡れている状態をキープさえできれば、高温・低湿の条件はプラスに振れる。気化熱がもっとも効果を発揮する環境だからだ。直射日光と戦うのではなく味方につけて、体温をガンガン下げ続けるのだ。

【シューズは超攻撃的シフトに】
 スタートから80kmまでは、「アシックス・ターサージール(片足重量185g)」を使用。80km関門の閉鎖が9時間30分。100km関門が12時間25分と設定されている。が、しかしこの時間ギリギリに通過したのでは、その後たったひとつのトラブル(たとえば道を1km間違えて引き返す)でリタイアの憂き目にあう。完走を果たすには80kmを8時間30分、100kmを11時間30分以内には通過すべきだ。ためにはそれなりのスピード感が必要であり、序盤はターサーを使う。さすがに薄すぎやしないかとの懸念があったため、トランスエゾ1100kmをターサー1足で走りきった。問題なく80kmまではいけるはずだ。念のため、カカト部分には「SHOE GOO」という補修材をたっぷり盛っておく。これまた気休めだけど。
 80kmの大エイド・コリントスには2足目のシューズを送っておく。レース後半は、「HOKA ONE ONE スティンソンターマック(片足重量320g)」に交換。カカト部のアウトソールが4cm近くあり、荒れたアスファルト道や砂利道からの衝撃を和らげる。
 序盤で短距離用のターサーを使うのは危険とウラハラだが、元来スピードのないぼくは、どこかでリスクを冒す必要がある。クッション性の高いシューズでゆるゆる走っても関門に間に合わせる走力はない。80kmを8時間30分ってほとんど自己ベストのペースみたいなもんだし、残り時間5分、3分と追い込まれたときに、ロングスパートをかけられる余地が必要。ターサーと運命をともに、ターサーと一蓮托生。
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 この1年、たくさん走って、たくさん試した。身体に起こる症状に対し、自分の脳でうまくコントロールできるように、脳と身体を分離して走れるよう意識した。
 超長距離レースではリタイアもたくさんした。実感したのは、脳の自動調整システムが優れすぎているという点だ。生命が危機的状況に陥る前に、活動を停止させようとする司令塔としての機能だが、少々性能が良すぎて、いくぶん早めに停止ボタンが作動するようになっている。この停止ボタンを「押さなくていい」と言い聞かせるのは、これまた脳の仕事である。動きを勝手に止めようとする身体に「それはまだ早い。今からエネルギーを補充するからまだ動きなさい」と強制介入するのも脳だ。痛いも辛いも苦しいも脳が感じ、信号を発している。その注意深さ、慎重さといったらゴルゴ13並みである。
 だがしかし、絶対にこの厳しい壁に立ち向かい続けるのだ、絶対にあきらめないのだと、アニマル浜口並みの気合いを注入し続けるのも、自分の脳でしかない。レース前にしてすでに脳内にはさまざまなキャラクターが跋扈し、混乱の極に達している。もう何でもいい。ゴールにさえ行けたら、あとはどうなってもいい。
バカロードその76 甘いささやきが耳元をくすぐる、脳みその奥でよくない虫がざわつく
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

 大陸横断・・・なんと甘美な響きか。そこには冒険と切なさがつまっている。幾多の苦難を乗り越え、何本もの地平線の先へと旅をつづける。
 それが19世紀の北アメリカ西部開拓時代なら、幌馬車に乗りテンガロンハットをかぶった荒くれ野郎の物語かもしれぬし、それが20世紀フラワー・ムーブメントの時代なら、ハーレーを駆って明日なき疾走をはじめたピーター・フォンダとデニス・ホッパーの救いようのない不条理旅のお話かもしれない。
 どんな物語であろうと、砂ぼこり舞う荒野の一本道を、太陽や雲を追いかけながら、ひとりぼっちで移動していく行為は、孤独で寂しい。その先に何があるのかもわからないままに、ただ移動するという非生産的で非効率な時間。
 そんなことはわかっているのに夢想が止まらない。大陸という名の巨大な土の塊、自分の足で端から端まで走り切れないものか? 車輪もエンジンもついていない貧相な2本の脚で、どこまでも走ってはいけないものか。

 ランニングによる北米大陸横断レースついて調べたことがある。
 最も古いものとして、1928年に行われた「インターナショナル・トランス・コンチネンタルフットレース」が記録に残っている。この史上初の大陸横断レースこそ、参加ランナー数、イベント規模、破格の賞金額などすべての点において有史以来、最大規模のレースであった。
 この大会、現在想像しうる地味で質素なウルトラマラソンレースとはかけ離れ、超ド派手なイケイケイベントであった。主催者であるチャールズ・C・パイルという人物は、当時、映画館やスポーツ・エージェントの経営者として隆盛を極めていた。アメリカンフットボールのリーグ化や北米初のプロテニスツアーを企画するなど斬新なマネジメント手法をスポーツ界に持ち込んだ人物だ。
 そんなプロフェッショナルな興行師が仕掛けただけあって、ロサンゼルスからニューヨークまで5507kmを人間の脚で走るという壮大なレースは、後にも先にもない華やかな催しとなった。
 ランナーは、毎日決められた区間を走りタイムを競う。そのタイムの合算でランキングが決められる。優勝者には2万5000ドル、2位には1万ドル、3位には5000ドルの賞金が与えられる。このタイム積算型レースは、1903年からヨーロッパで始まった大規模な自転車レース「ツール・ド・フランス」のランニング版をイメージしたものだ。当時の2万5000ドルといえば莫大な金額である。1920年代の米国の消費者物価指数は現在の約1%である。現在の貨幣価値に換算するなら3億円にもなる賞金が、優勝者に授与されたのである。
 ランナーは毎晩、専用にしつらえられたテント村で宿泊。テント横ではツアーに同行させた芸人や女優によるステージ・ショーが繰り広げられた。行く先々で住民をショーに招いて入場収入を得る。また、イベントの協賛企業を募り広告収入で稼ぐ。今から80年以上前の企画とは思えないほどの斬新さと手配力が見られる。
 イベントの豪奢さはさておき、肝心のレースには世界中から賞金目当ての強者199人が参戦し、ロサンゼルス・ハンティントンビーチに立った。スタートから3日目までに3分の1のランナーがリタイアしたものの、ゴールのニューヨークには55人が到達した。優勝者は弱冠20歳の若者、アンドリュー・ペインだった。
 イベントの壮大さとは裏腹に、主催者チャールズ・C・パイル氏に旨味のある収益はもたらされなかったようだ。翌年、ニューヨークからロサンゼルスまでの逆コース「リターン」大会を実施したものの、彼は二度と大陸横断レースを行うことはなかった。
 パイル氏は、1937年に喜劇女優のエルビア・アルマンと結婚し、1939年にロサンゼルスにて心臓発作で亡くなるまで、ラジオ放送局関連会社の経営をしていた。その波瀾万丈の人生は、演劇「C.C. Pyle and the Bunion Derby」として、トニー賞受賞者のミシェル・クリストファーが脚本を書き、名優ポール・ニューマンがディレクションし、舞台で演じられた。
 公に参加者を募集してのレースは、大陸横断レース初開催から現在までの80余年の間に、たったの9回しか行われていない。
 右記の「トランス・コンチネンタル」から63年という長い空白期間の後、1992年、ジェシー・デル・ライリーとマイケル・ケニーという2人の若者が主催し、「トランスアメリカ・フットレース」が開催される。ロサンゼルス・ニューヨーク間4700kmを64日間、1日平均73キロを走るレースだった。
 第1回大会(92年)には、30名が参加し13人が完走した。
 第2回大会(93年)は、13人が参加し6人が完走。日本人ランナー・高石ともやさんが初参戦しみごと完走。記録上残る初めての北米横断日本人ランナーとなる。高石さんは60年全共闘時代を象徴するフォークシンガーであり、日本のフォーク黎明期を創りあげた人物だ。同時に日本国内で初めて行われたトライアスロンの大会、皆生トライアスロン81の初代優勝者でもあり、100キロ以上走りつづける超長距離ランナーの先駆けとなった。同大会は当初から運営予算に苦しんでいたが、京都に本社がある洋傘・洋品メーカーである「ムーンバット」が大会スポンサーとなり資金面を支えた。
 第3回大会(94年)では、15人が参加し5人が完走。海宝道義さんと佐藤元彦さん、2人の日本人が完走した。海宝さんは現在も「海宝ロードランニング」を主催し、多くのウルトラレースを運営しランナーを支援している。この大会は、NHKが密着取材を行い「NHKスペシャル 4700km、夢をかけた人たち〜北米大陸横断マラソン」と題する密着ドキュメンタリー番組が制作された。映像として残る貴重な素材であり、「トランスアメリカ」の存在が広くランナーの間で認知されるきっかけとなった。
 トランス・アメリカ最後の大会となった第4回大会(95年)には、14人(日本人6人)がエントリーした。完走者は10名、うち4名が日本人と強さを見せた。古家後伸昭さん、遠藤栄子さん、小野木淳さんが完走。海宝道義さんは2年連続完走の偉業を成し遂げた。レース全行程にわたる記録を完走者・小野木淳さんが「鉄人ドクターのウルトラマラソン記」(新生出版刊)にまとめており、日本語で書かれた北米横断の最も詳しい文献となっている。
 21世紀に入ると2002年および2004年に、アラン・ファース氏による主催で、ロサンゼルス・ニューヨーク間4966.8kmを71日間で走破する「ラン・アクロス・アメリカ」が2度行われた。2002年大会は、11名の出走者のうち9名が日本人、完走した8名中7名が日本人という活躍をみせる。完走者は、阪本真理子さん、越田信さん、貝畑和子さん、下島伸介さん、武石雄二さん、金井靖男さん、西昇治さん。いずれも名だたるジャーニー・ランナーである。2004年の同大会には10名のランナーが出場し6人が完走。日本人では堀口一彦さん、瀬ノ尾敬済さんが完走している。
 90年代から00年代は、世界のウルトラマラソンやアドベンチャー・レースの世界に、日本人ランナーが猛烈に参戦しはじめた時代といえる。「4デザート・レース」「トランスヨーロッパ」「スパルタスロン」などでは、日本人の参加数が急増するばかりか、優勝者を輩出するなど超長距離レースへの高い適応能力を証明している。00年代に行われた2度の北米横断レースは、その日本人パワーを象徴する大会となった。

 この大会を最後に、北米横断レースを企画する者は現れなかったが、7年の時を経てフランス人のウルトラランナー、セルジュ・ジラール氏によってロサンゼルス・ニューヨーク間レースが開催される。セルジュ・ジラール氏は、生きる伝説ともいえる存在である。1997年に北米大陸4597kmを53日で走って横断すると、99年にオーストラリア大陸3755km、2001年南米大陸5235km、2003年アフリカ大陸8295km、そして2005年にはユーラシア大陸1万9097kmを走踏した。世界で初めて全5大陸をランニングで横断するという快挙を成し遂げたスーパースターである。
2011年6月19日にロサンゼルスを出発し、8月27日にニューヨークにゴールした「LA-NY footrace」は、北米横断レースの第1回大会「インターナショナル・トランス・コンチネンタルフットレース」をリスペクトするという主旨も有し、同大会のたどったルートをある程度なぞったものとなった。約5135kmを70日かけて横断、1日平均73キロ以上の行程である。
 16名がスタートラインに立った大会は8名が完走した。越田信さんは日本人で2人目の「北米大陸を2度完走」の偉業を成し遂げた。そして連日連夜にわたって制限時間ギリギリにビリでゴールに飛び込んでは倒れ込み、ぐずぐず泣いてはスタッフやクルーの背中におぶさり運ばれながら、奇跡的な完走を果たした歴代最弱ランナーがぼく、ということになる。
 何度も死ぬかと思った。気温50度の砂漠は焼け死ぬか干涸らび死か。太腿の筋肉がバリッと音を立てて裂けたときは、痛みで気を失いそうになった。毎日毎日が生き地獄だともがき苦しんでいたのに、どうしたものか今では楽しい思い出しか残っていない。人生で使用可能な熱量の総量が決まっているとすれば、その半分くらいをこの70日間で使った。
 そんな「LA-NY footrace」から3年の歳月が流れた。2014年には「オーストラリア大陸横断レース」の開催も噂されたが、実施には至っていない。生ける伝説セルジュ・ジラール氏は、2015年にランニングと手こぎボートによる地球一周4万5000km「ワールドツアー」に出るという。
 ぼくの胃や腸のなかで「横断の虫」がざわつきはじめている。また旅に出たい、荒くれ者や毒虫や自然の猛威のまっただ中にこの身1つで立ちたい。マメだらけの脚をテープでぐるぐる巻きにして、奥歯で砂をジャリっと噛みしめて、目で見える景色の向こう側まで走っていきたい・・・という強迫神経症的な病気。
 地球儀をぐるんぐるん回しながら3コ目の横断すべき大陸を見定め、指でなでなでしている日々。

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【北米大陸横断レースの歴史】
1928年 International Transcontinental Foot Race I (出走199名/完走55名)
1929年 International Transcontinental Foot Race II (出走不明/完走19名)
1992年 Trans-America Footrace I (出走30名/完走13名)
1993年 Trans-America Footrace II (出走13名/完走6名)
1994年 Trans-America Footrace III (出走15名/完走5名)
1995年 Trans-America Footrace IV (出走14名/完走10名)
2002年 Run Across America I (出走11名/完走8名)
2004年 Run Across America II (出走10名/完走6名)
2011年 LA-NY footrace (出走16名/完走8名)

この表は、個人単独での徒歩による横断などは除外し、参加3名以上の公募レースに限っている。
現在までに北米横断レースの完走者数はのべ138名、日本人は17名である。
バカロードその74 ずぶ濡れで泥まみれの夏が過ぎていく 【九州縦断ぬかるみ走】
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

 福岡天神から鹿児島市までは最短距離で約300kmだ。うまくいけば徹夜の連走で2日。100kmずつ3分割すれば3日ってところ。
 早朝というかまだ深夜。福岡市・博多天神の繁華街を走りだした。入り組んだ路地には間口の狭い飲み屋がひしめきあっている。看板やメニュー表にはハングル語や中国語が踊る。ねっとりした空気や、歩道にウンコ座りで煙草ふかしながら語りあう店員と客の光景も、何となくアジアの裏路地っぽい。博多からの直線距離なら、東京よりもソウルや上海の方が近いんだからアジア臭も当然なんだろう。
 そんな坩堝な街は、2kmも走らないうちにごく普遍的な郊外型の街にとって代わられ、その市街地も10kmほど進めばあっけなく途切れて、うっそうとした木々に覆われた山道に突入する。深夜3時、街灯のない山峡の山道に渓流の音がゴウゴウとこだまする。右側の深い谷間には、シーズンを終えたはずの蛍の光が数十と瞬いている。
 佐賀県境の脊振峠を越え有明海沿岸へと下る国道385号線をゆく。標高500mの峠で夜が明け、吉野ヶ里の青々とした田園地帯を眼下にする。蛇行する下り坂はやがてだだっ広い平野へ。青稲が風に揺れる水田の1本道には、トラクターが盛んに行き交っている。
 50km走ったあたりで直射日光にヤラれバテはじめる。たった50kmでスタミナ切れかよ・・・ハーァとため息。走れば走るほど弱くなる、を今年も実践か。ぼくの足は、ボロ中古車のように走行距離の限界があるのかもしれない。距離を重ねれば重ねるほどガタが出る。
 体温を冷ますため、コンビニでソフトクリームの乗ったかき氷を2個胃に収める。コンビニを後にし、5kmくらい快調に走ったところで道路標識を見て、自分があらぬ方角に走っていることに気づく。交差点の一角に建つコンビニでよくやっちまう失敗。コンビニ店舗の後ろ側からやってきたにも関わらず、休憩を終えると条件反射的に正面玄関に対して左か右に走りだしてしまうバカ行動。むろん目的地とはぜんぜん別方向。
 コースアウトはなはだしく、楽しみにしていた柳川市の堀割見学もあきらめ、へんてつもない農道を進む。
 大牟田市を経て、85kmほど走って熊本県境を越えたあたりで、カンカン照りの空が黒雲に覆われると、ポツポツと雨が顔を打ちはじめる。やがて本降りになってきたのを言い訳に、100km地点のJR玉名駅で沈没。シティホテル3500円也に逃げ込む。
 2日目は朝から滝雨。島原湾沿いの国道501号線は物流の主要ルートらしく、10トントラックがひっきりなしに猛スピードで通り過ぎる。路肩はほとんどない。道路は山側から流れ込む大量の雨水で川になり、道路のわだち部分は深い水たまりとなる。大型車やスポーツカーが通り過ぎるたびに、バケツの水をザバーッと脳天からぶっかけられたように泥水を浴びる。
 シャツやソックスを脱いでは絞り、を繰り返していたが昼にはあきらめた。足の裏の皮は白くふやけてベロンベロンにめくれあがっている。洋の東西を問わず「水責め」はあまたの拷問のなかで最も苛烈なひとつとされているが、なかなか大した責め苦である。
 大雨は夜になっても勢いは衰えず。早朝から夜中まで泥水を千杯もかぶるという折檻に抵抗するすべはなく、あきらめの先に禅的な無念無想の達観に入る。この状況を苦行とせず、「現実とはそういうものだ」とありのままを受け入れるのだ。この度のジャニーランを精神修行の場とする予定はなかったのだが仕方あるめえ。
 1日がかりで65kmしか進めず、ネットで当日予約した八代市内のとても立派なホテルで泊まる。ウエディングバンケットまで備えた絨毯ふかふかのシティホテルなのに3000円台。当日予約って部屋代が安くなるんですね、勉強になりました。真夜中に全身びしょ濡れで現れた怪しい客に、カウンターの方はたじろいでおられたが、シューズを乾かすためにと古新聞をくれた。やさしい接客です。
 3日目も土砂降り。気温はいちだんと低く、レインコートを着て耐える。住宅街の合間を縫う水路は、茶色の濁流で氾濫寸前である。当然本日もまた車が浴びせる泥水をかぶりっ放しだ。昨日つちかった禅的な境地は二度と訪れず。自分が何と戦っているのか迷走し、終始うんざり気分である。行く先である鹿児島県内で土砂崩れによって鉄道が脱線したというニュースが繰り返されている。美しいはずの八代海や天草諸島の風景は、白い霞に覆われ何も見えはしない。
 九州くんだりまでやってきた目的は、酷暑対策と徹夜走トレーニングだった。しかし日程の大半を寒さに震え、深夜の氷雨からエスケープしてぬくぬくとしたホテルに連泊、って何の練習にもなってねーし。
 鹿児島県境を越えた出水市という鶴が飛来することで名高い街にて力尽きる。3日間かけて前進したのはわずか230km。ドロドロととぐろ巻く暗雲よりもさらにダークサイドな気分がぼくを覆い尽くすのだった。