イランと西側諸国との関係が危ういものとなりつつある。
何も起こらなければいいが、と念じる。
イランの人たちほど親切で、男気ある人たちをぼくは知らない。
文責=坂東良晃(タウトク編集人)
1989年冬はベルリンの壁が崩壊し、ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスクが銃殺刑に処された動乱の年だ。揺れる東西ヨーロッパとはまったく無関係に、冬の深夜、ぼくはトルコとイランの国境にいた。
信じられないような大雪が降っていた。砂漠に雪が降ることを、ぼくは知らなかった。
何も起こらなければいいが、と念じる。
イランの人たちほど親切で、男気ある人たちをぼくは知らない。
文責=坂東良晃(タウトク編集人)
1989年冬はベルリンの壁が崩壊し、ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスクが銃殺刑に処された動乱の年だ。揺れる東西ヨーロッパとはまったく無関係に、冬の深夜、ぼくはトルコとイランの国境にいた。
信じられないような大雪が降っていた。砂漠に雪が降ることを、ぼくは知らなかった。
1足100円の革靴は、ソールと革の部分の縫い合わせの糸がほどけ、足の指はみごとに露出していた。指先から凍った雪が侵入し、足を凍らせた。見たことのない巨大な結晶のぼたん雪が、頭や肩に重く降り積もる。
最後の街から国境までは、膝までのラッセルをしないとたどりつかないような悲惨な状況だ。「こんな思いがけない場所で凍死? ヒマラヤでもアフリカでもなく、単なる国境の街で遭難?」。そんな情けない気持ちで雪をかき分け歩く。
ぼくは、2年間もイランを目指していたのである。
80年代後半、あらゆる辺境の旅人がこう叫んでいたのである。「サンクチュアリってのはイランのことだ。すべての旅人はテヘランを目指すべきだ」。そして、突然フニャけたしまらない笑いを浮かべ、夢想の世界にひたりはじめる。よほどの忘れがたい思い出がイランにはあるというわけだ。
その頃、世界には「桃源郷」と呼ばれる街がいくつか存在した。
たとえばアフリカ中央部にあるザイールという国の巨大な大河・ザイール川沿いにあるキサンガニという街。そこには1泊100円で宿泊できる美しい西欧建築のホテルがあり、美人の給仕たちが最高のフランス料理を運んでくれ、そして旅人たちと恋に落ちるのだという。さらに。広大なザイール川の中に浮かぶ島には怪しくネオンサイン輝く魅惑の街があり、絶世のアフリカン美女たちが窓辺という窓辺から「こっちにおいで」と手招きをしている、とか。
あるいは中国とビルマの国境近くにあるガンランパという街。そこでは竹で組まれた高床式の旅籠に1泊50円で泊まれ、毎夜の南国の熟れた果実や、贅沢な肉・野菜料理が20皿も並び、酒は並々と器に注がれ、満足ゆくまで無限に飲食してもよい。エキゾチックなタイ族の美女が月夜に向かって琵琶を奏で、野生の動物たちが遠吠えで合唱する、とか。
美女を求める者はコスタリカ、モザンビーグ、ベトナムへ向かい、無法地帯を漂流したい者はパンガン、ゴア、カトマンズへ。そこにパラダイスがあると聞けば、貧乏旅行者たちは砂糖水に群がるアリのように、世界中からごそごそ集まるのだ。金はかけない。ヒッチハイクか、キセル(無賃乗車)か、自転車か、徒歩か。贅沢して三等列車の床か、トラックの荷台か・・・。どのような手段を使おうとその街に行きたい、その街に行けばどのような夢も現実となる・・・そんな憧憬の的であったのがイランの首都テヘランだったわけである。
理由は単純だった。闇両替・・・ブラックマーケットのレートが異常に高騰しているのだ。イラン・リヤルは、米ドルの公定レートに対して、15〜20倍の取引相場にまでなっていた。
つまり、こういうことだ。米ドルを持っていたら、市場価格の20分の1で値段でモノが買えるのである。しかも元々の物価が高くない国である。だから100円の定食が5円で食え、1000円の中級ホテルに50円で泊まれ、3000円のフルコース料理を150円で堪能でき、1万円のヒルトンホテルにたったの500円で泊まれる。
ボロ切れのような服をまとった貧乏旅行者といえど、数千円の軍資金さえあれば、王侯貴族のような生活ができる・・・という夢のようなお話。
「いつかテヘランに着いたら、ヒルトンに泊まって泡まみれのバスタブに浸かり、150円でフレンチ・フルコースを食べよう。そして中東一美しいと評判の国で、綺麗なお姉さんとデートしよう」
全身ダニ・南京虫に噛まれブツブツ、野生動物にも劣らぬ悪臭を放つ若者たちは、そうやって約束をし別れの時を惜しんだ。そして世界のいろんな場所から、中東の奇跡の街をえっちらおっちら目指したのだった。
風雪のトルコ・イラン国境に戻ろう。雪だるま状態になったぼくに、1人の男が声をかける。
「ヘイユー!国境はまだ遠いぞ、そのまま歩いていくつもりか? よかったら俺たちの車に乗れよ」
男が指をさす方向を見ると、幌もついていないトラックである。荷台には雪まみれになった雪だるま・・・いや人間が乗っている。そしてなぜかこっちを見て笑っている。女性も、子供も、老人もいる。男を見返す。濃いひげが顔中を覆っているが、瞳は街灯を映してキラキラ美しく輝いている。チェ・ゲバラ的美男子だと言える。 彼は再度ぼくに問う。「どこまで行くんだ?」。ぼくは返す「行く先は決めてないけど、インドまで行くつもりだ」。男は誘う「俺たちはパキスタン人だ。メッカに巡礼した帰りだ。いっしょにパキスタンまで行こう!さあ車に乗れ!」。ぼくには選択の余地もない。男に背を押され、トラックの荷台に詰め込まれる。
国境のイミグレーション、つまり出入国管理事務所は雪に覆われていた。たくさんの旅人が建物の中にいたが、イスラム系の商人や巡礼者はスムーズに通過しているようだった。パキスタン人の家族は、もちろん巡礼者のゲートに向かう。「出口で待ってるぞ」と肩を叩く。旅は道連れということなのか。
一方で、ヨーロッパからのツーリストは長い長い列を作っていた。ぼくはその最後尾に並ぶ。白人の若者たちがボヤく。「列に並んで1時間はたつけど、全然進まない。英国人なんてトルコ側に追い返されちまったぞ」。イランの国境役人は、旅行者のすべての荷物を開封し、1つ1つの物品について質問を繰り返している。ストーブの熱で全身につもった雪が溶けびしょ濡れになる。進まない列を1分に3歩ずつ前進する。国境を越えるのに一晩かかるか、と覚悟を決めかけたころ、突然ヒゲ面の役人がやってきて、ぼくに話しかける。
「お前はどこの国から来たのか?」と問う。「日本人です」と答えると、「こっちに来い」と強制的に列から引き離される。瞬時に、この数カ月の間で行った自分の悪事を振り返る。国境警備兵に拘束されるほどの犯罪はしていないはず、いやしている・・・あれがバレてるとヤバい。極度の不安に陥るが拒絶はできない。
いちばん奥の部屋に連行される。板張りのブタ箱行きを想像していたが、そこはきれいな絨毯がしかれた、いかにも上級役人の部屋であった。大きなテーブルの向こうに、仕立てのいい洋服を着た役人がおり、ぼくに目をやる。
「あなたは日本人か?」と彼も問う。工作員か何かと勘違いされてるのか? ぼくはパスポートをゴソゴソ取り出す。彼は、パスポートの表紙だけをチラリと一べつし、こう問いかける。
「あなたは『おしん』と関係はないのか? あなたの出身地は『おしん』が生まれた村とは近いのか、遠いのか?」
唐突なる質問ぼくは混乱する。「おしん」とは、あのNHK朝の連ドラのおしんのことか?
彼はやにわにズボンのすそをめくりあげる。ナイフか拳銃でも飛び出すのか?と身構えると、そこにはおしんのイラストがプリントされた「おしん靴下」が燦然と輝いている。どうやらこの国では、おしんがキャクターグッズ化されるほど流行しているのだ。イラン革命から10年、歴史は確かに転がる石のようだ。
靴下をめくりあげたままで、国境役人は語り続ける。「私は『おしん』を何度も見たよ。どんなに貧しくても、辛くても耐えるおしんの人生は素晴らしい。あのような苦労を日本人は乗り越えて現在にまで成長したのだから、日本という国も評価に値する。日本人はすばらしい民族であり、われわれと感性が似ている。イランへようこそ!」
少し涙ぐむほどの勢いで、どうやら歓迎をしてくれてるようなのだ。そして、がっちりと握手を求められる。写真を撮ろうじゃないか、なぜならお前の顔は「おしん」にそっくりじゃないか。みんなここに集まれよ。きみは真ん中に座ってくれよ。さあ撮るよ・・・。
国境役人との謎の記念撮影会が終わると、ぼくは荷物検査もフリーパスのVIP待遇で堂々イランに入国したのである。
背後から、何人もの役人が「おしーん」「おっしーん」「おすぃーん」と口々に叫んでいる。
国境の建物を出ると、パキスタン人の巡礼者家族が待ってくれていた。
「何時間もかかると思ってたのに早いな。いったいどんなテクニックを使ったんだ?」と、一目置いた表情でぼくを見る。おしんの話は内緒にしておこうと思う。
そして、大雪の中、またしても乗り合いトラックの荷台に詰め込まれ、移動が開始された。雪景色はやがて荒涼とした赤土の平原に変貌し、地平線まで続く砂漠になった。巡礼者たちの旅は過酷だった。無人の砂漠地帯は列車を使ったが、巡礼者同士でボロバスを借りることもあれば、トラックのヒッチをしそのまま荷台で毛布をかぶって寝る夜もある。皮膚という皮膚は、アカと砂が混じった泥質でおおわれた。巡礼者たちは親切で、ぼくを客人として丁重に扱いすべての食事をふるまった。モスリム(イスラム教徒)の人づきあいとは、こんなにも紳士然とし心優しきものなのだろうか。
しかし、ぼくは彼らと別れるスキを虎視眈々と狙っていたのである。このまま巡礼の旅に巻き込まれてるわけいかないのだ。首都テヘランでは、豪華なリゾートホテルの高層フロアにある、庶民の手の届かないフレンチレストランで、最高の女と最高の食事をする予定なのだ。そのためだけに3万キロ以上も移動しつづけてきたのだから。
(つづく)
最後の街から国境までは、膝までのラッセルをしないとたどりつかないような悲惨な状況だ。「こんな思いがけない場所で凍死? ヒマラヤでもアフリカでもなく、単なる国境の街で遭難?」。そんな情けない気持ちで雪をかき分け歩く。
ぼくは、2年間もイランを目指していたのである。
80年代後半、あらゆる辺境の旅人がこう叫んでいたのである。「サンクチュアリってのはイランのことだ。すべての旅人はテヘランを目指すべきだ」。そして、突然フニャけたしまらない笑いを浮かべ、夢想の世界にひたりはじめる。よほどの忘れがたい思い出がイランにはあるというわけだ。
その頃、世界には「桃源郷」と呼ばれる街がいくつか存在した。
たとえばアフリカ中央部にあるザイールという国の巨大な大河・ザイール川沿いにあるキサンガニという街。そこには1泊100円で宿泊できる美しい西欧建築のホテルがあり、美人の給仕たちが最高のフランス料理を運んでくれ、そして旅人たちと恋に落ちるのだという。さらに。広大なザイール川の中に浮かぶ島には怪しくネオンサイン輝く魅惑の街があり、絶世のアフリカン美女たちが窓辺という窓辺から「こっちにおいで」と手招きをしている、とか。
あるいは中国とビルマの国境近くにあるガンランパという街。そこでは竹で組まれた高床式の旅籠に1泊50円で泊まれ、毎夜の南国の熟れた果実や、贅沢な肉・野菜料理が20皿も並び、酒は並々と器に注がれ、満足ゆくまで無限に飲食してもよい。エキゾチックなタイ族の美女が月夜に向かって琵琶を奏で、野生の動物たちが遠吠えで合唱する、とか。
美女を求める者はコスタリカ、モザンビーグ、ベトナムへ向かい、無法地帯を漂流したい者はパンガン、ゴア、カトマンズへ。そこにパラダイスがあると聞けば、貧乏旅行者たちは砂糖水に群がるアリのように、世界中からごそごそ集まるのだ。金はかけない。ヒッチハイクか、キセル(無賃乗車)か、自転車か、徒歩か。贅沢して三等列車の床か、トラックの荷台か・・・。どのような手段を使おうとその街に行きたい、その街に行けばどのような夢も現実となる・・・そんな憧憬の的であったのがイランの首都テヘランだったわけである。
理由は単純だった。闇両替・・・ブラックマーケットのレートが異常に高騰しているのだ。イラン・リヤルは、米ドルの公定レートに対して、15〜20倍の取引相場にまでなっていた。
つまり、こういうことだ。米ドルを持っていたら、市場価格の20分の1で値段でモノが買えるのである。しかも元々の物価が高くない国である。だから100円の定食が5円で食え、1000円の中級ホテルに50円で泊まれ、3000円のフルコース料理を150円で堪能でき、1万円のヒルトンホテルにたったの500円で泊まれる。
ボロ切れのような服をまとった貧乏旅行者といえど、数千円の軍資金さえあれば、王侯貴族のような生活ができる・・・という夢のようなお話。
「いつかテヘランに着いたら、ヒルトンに泊まって泡まみれのバスタブに浸かり、150円でフレンチ・フルコースを食べよう。そして中東一美しいと評判の国で、綺麗なお姉さんとデートしよう」
全身ダニ・南京虫に噛まれブツブツ、野生動物にも劣らぬ悪臭を放つ若者たちは、そうやって約束をし別れの時を惜しんだ。そして世界のいろんな場所から、中東の奇跡の街をえっちらおっちら目指したのだった。
風雪のトルコ・イラン国境に戻ろう。雪だるま状態になったぼくに、1人の男が声をかける。
「ヘイユー!国境はまだ遠いぞ、そのまま歩いていくつもりか? よかったら俺たちの車に乗れよ」
男が指をさす方向を見ると、幌もついていないトラックである。荷台には雪まみれになった雪だるま・・・いや人間が乗っている。そしてなぜかこっちを見て笑っている。女性も、子供も、老人もいる。男を見返す。濃いひげが顔中を覆っているが、瞳は街灯を映してキラキラ美しく輝いている。チェ・ゲバラ的美男子だと言える。 彼は再度ぼくに問う。「どこまで行くんだ?」。ぼくは返す「行く先は決めてないけど、インドまで行くつもりだ」。男は誘う「俺たちはパキスタン人だ。メッカに巡礼した帰りだ。いっしょにパキスタンまで行こう!さあ車に乗れ!」。ぼくには選択の余地もない。男に背を押され、トラックの荷台に詰め込まれる。
国境のイミグレーション、つまり出入国管理事務所は雪に覆われていた。たくさんの旅人が建物の中にいたが、イスラム系の商人や巡礼者はスムーズに通過しているようだった。パキスタン人の家族は、もちろん巡礼者のゲートに向かう。「出口で待ってるぞ」と肩を叩く。旅は道連れということなのか。
一方で、ヨーロッパからのツーリストは長い長い列を作っていた。ぼくはその最後尾に並ぶ。白人の若者たちがボヤく。「列に並んで1時間はたつけど、全然進まない。英国人なんてトルコ側に追い返されちまったぞ」。イランの国境役人は、旅行者のすべての荷物を開封し、1つ1つの物品について質問を繰り返している。ストーブの熱で全身につもった雪が溶けびしょ濡れになる。進まない列を1分に3歩ずつ前進する。国境を越えるのに一晩かかるか、と覚悟を決めかけたころ、突然ヒゲ面の役人がやってきて、ぼくに話しかける。
「お前はどこの国から来たのか?」と問う。「日本人です」と答えると、「こっちに来い」と強制的に列から引き離される。瞬時に、この数カ月の間で行った自分の悪事を振り返る。国境警備兵に拘束されるほどの犯罪はしていないはず、いやしている・・・あれがバレてるとヤバい。極度の不安に陥るが拒絶はできない。
いちばん奥の部屋に連行される。板張りのブタ箱行きを想像していたが、そこはきれいな絨毯がしかれた、いかにも上級役人の部屋であった。大きなテーブルの向こうに、仕立てのいい洋服を着た役人がおり、ぼくに目をやる。
「あなたは日本人か?」と彼も問う。工作員か何かと勘違いされてるのか? ぼくはパスポートをゴソゴソ取り出す。彼は、パスポートの表紙だけをチラリと一べつし、こう問いかける。
「あなたは『おしん』と関係はないのか? あなたの出身地は『おしん』が生まれた村とは近いのか、遠いのか?」
唐突なる質問ぼくは混乱する。「おしん」とは、あのNHK朝の連ドラのおしんのことか?
彼はやにわにズボンのすそをめくりあげる。ナイフか拳銃でも飛び出すのか?と身構えると、そこにはおしんのイラストがプリントされた「おしん靴下」が燦然と輝いている。どうやらこの国では、おしんがキャクターグッズ化されるほど流行しているのだ。イラン革命から10年、歴史は確かに転がる石のようだ。
靴下をめくりあげたままで、国境役人は語り続ける。「私は『おしん』を何度も見たよ。どんなに貧しくても、辛くても耐えるおしんの人生は素晴らしい。あのような苦労を日本人は乗り越えて現在にまで成長したのだから、日本という国も評価に値する。日本人はすばらしい民族であり、われわれと感性が似ている。イランへようこそ!」
少し涙ぐむほどの勢いで、どうやら歓迎をしてくれてるようなのだ。そして、がっちりと握手を求められる。写真を撮ろうじゃないか、なぜならお前の顔は「おしん」にそっくりじゃないか。みんなここに集まれよ。きみは真ん中に座ってくれよ。さあ撮るよ・・・。
国境役人との謎の記念撮影会が終わると、ぼくは荷物検査もフリーパスのVIP待遇で堂々イランに入国したのである。
背後から、何人もの役人が「おしーん」「おっしーん」「おすぃーん」と口々に叫んでいる。
国境の建物を出ると、パキスタン人の巡礼者家族が待ってくれていた。
「何時間もかかると思ってたのに早いな。いったいどんなテクニックを使ったんだ?」と、一目置いた表情でぼくを見る。おしんの話は内緒にしておこうと思う。
そして、大雪の中、またしても乗り合いトラックの荷台に詰め込まれ、移動が開始された。雪景色はやがて荒涼とした赤土の平原に変貌し、地平線まで続く砂漠になった。巡礼者たちの旅は過酷だった。無人の砂漠地帯は列車を使ったが、巡礼者同士でボロバスを借りることもあれば、トラックのヒッチをしそのまま荷台で毛布をかぶって寝る夜もある。皮膚という皮膚は、アカと砂が混じった泥質でおおわれた。巡礼者たちは親切で、ぼくを客人として丁重に扱いすべての食事をふるまった。モスリム(イスラム教徒)の人づきあいとは、こんなにも紳士然とし心優しきものなのだろうか。
しかし、ぼくは彼らと別れるスキを虎視眈々と狙っていたのである。このまま巡礼の旅に巻き込まれてるわけいかないのだ。首都テヘランでは、豪華なリゾートホテルの高層フロアにある、庶民の手の届かないフレンチレストランで、最高の女と最高の食事をする予定なのだ。そのためだけに3万キロ以上も移動しつづけてきたのだから。
(つづく)