NEW TOPIC
2007年05月03日
たくさんの食器を取り出しやすく収納する方法、洗ってもとれにくい泡だて器やザルの網目にくっついたものをとる方法、買い物の結び目を簡単にほどく方法など、日々の暮らしのなかで困っていることの解決策を探りました。
その道の達人に聞いたり、実際に検証してみたり…あっと驚くアイデアがいっぱいです。
ぜひ、お試しあれ!
2007年04月28日
「GWだからどこかに行きたい!」
そんなときはタウトク5月号「徳島市内のおもしろスポット200」をチェック。
時間とお金をかけて遠くにおでかけしなくても、
予約なしですぐ行けるおもっしょいところは
徳島市内にもいっぱいあるんです!
灯台元暗しとはまさにこのこと。
そして、今年もスタートしました!
かわいこちゃん発掘プロジェクト「ミス制服グランプリ2007」。
徳島イチの美女はキミだ!
2007年04月27日
創刊号から早や3号目となる本誌では、徳島と淡路島のウエディング店を311店舗をご紹介しています。プロポーズから式場選びはもちろん、新婚生活や妊娠・出産にまつわる情報も掲載されています。
では、そんな今月号の特集はこちら!
2007年04月22日
文責=坂東良晃(タウトク編集人)
ぼくは落ちているモノをよく食べる。
どこかの庭先に夏みかんや柿の木があって、果実が道路に落ちていたら失敬していただく。公道に落ちているものだから、食べてしまってもたぶん窃盗ではないと想像している。窃盗ならごめんなさい、もうしません。
自分が食べているモノを床や道路に落としても、拾って食べる。あまり汚いと思わないし、捨ててしまうのはもったいない。
ぼくは落ちているモノをよく食べる。
どこかの庭先に夏みかんや柿の木があって、果実が道路に落ちていたら失敬していただく。公道に落ちているものだから、食べてしまってもたぶん窃盗ではないと想像している。窃盗ならごめんなさい、もうしません。
自分が食べているモノを床や道路に落としても、拾って食べる。あまり汚いと思わないし、捨ててしまうのはもったいない。
戦中戦後のひもじい時期を知っている方なら、特に何も思わない行為だと思うけど、日常生活でこれをやってしまうと、周囲の人はボー然とした表情でぼくを見つめる。意表をつく行動なのだろう。それは何となくわかる。落ちているモノを拾って食っている人を見かけたことは、もう何年間もない。
食べた物を落としたら「拾って食べなさい!」と叱るのが、日本のオトン・オカンの正しい姿だと思っている。しかし最近の指導は、「そんなものは食べてはいけません。どんな病原菌やウィルスが付着し、あなたが伝染病になるかわからないのよ」がオーソドックスだ。堆肥(うんこ)で育成した野菜と、と殺した動物の肉をたらふく食べつつも、「落とす」ことには異常に敏感なのが日本型潔癖性である。食物は無菌室で育てるものではない。口に入るまでに人間があちこちの過程で関与しているのだから、多少の付着物など気にしてもしょうがないんだけどね。
食品のパックに書いてある賞味期限なんてほとんど気にしない。切れていたって腐ってなきゃ食えるし、期限内でも腐ってたら食わない。賞味期限、消費期限などハナから信用していない。たいていの食品には「いつ製造したのか」という情報すら書かれてないからである。
例えば牛乳ならば、「製造日」とは乳牛から搾乳した瞬間なのか、農家から地元JAに出荷された日なのか。はたまた乳業メーカーの加工工場で加熱処理された時間か、パック詰めされ出荷された日付か、そんなことすら食う側には教えられない。牛乳などまだわかりやすい方で、加工食品なんていったいどの段階が製造日なのか、さっぱりわからん。得体の知れない製造日を起点に、企業論理で決められた賞味期限、消費期限なんてアテにすべきじゃない。消費者は、判断を食品メーカーに依存しすぎなんである。じゃあ何を信用するのかって、自分の五感しかない。匂い、味、舌触り、見た目、それに食品素材の知識、ウィルスや菌への理解、そしてカンである。
いわゆる「5秒ルール」をまじめに研究したアメリカの理系高校生がいたらしい。5秒ルールってのは、「食べ物を床に落としても5秒以内なら食べても大丈夫!」ってラテン的発想の口頭伝承である。
その風変わりな高校生クラーク君は、学校内のいろんな床を調べまくり、「乾いた床の大半はバクテリアがいない」ことをつきとめたんだという。しかし、彼はさらに研究を深め、マジで汚れた床なら5秒ルールは適用可能かどうかを検証した。大胆にも大腸菌をあちこちの床にバラまき、グミやお菓子を置いてみたんだと。さすれば、たちまち菌が付着してしまった。つまりこういうことだ。「大腸菌まみれの床に落ちたモノは、5秒以内でも菌に汚染されている」。あたりまえ・・・だよねぇ。ぼくだって便器に落ちた大福もちは食べない。いくら好物でも。
ぼくは食べ物に執着がない。この10年以上、1日に1食である。無理をしているわけじゃない。メシを抜いてるうちにお腹が空かなくなった。朝と昼は食べない。夜に1回だけ食べる食事は、ごはんにゴマ塩をかけたり、カツオブシをまぶしたりしただけだ。これは「粗食」なのだろうか。ぼく自身は「とてもおいしい」と思って食べているので、ひもじい意識はない。
基本的には、人間ハラが減ったときにメシを食えばいいと考えている。ハラが減ってもいないのに、ごはんを食べなくてはならない理由が、実のところよくわからない。
テレビのコメンテーターは「最近の親は、朝食すら作らない人が多い」と嘆く。しかし、ぼくは朝ごはんをほとんど食べたことがない。そもそも早朝からごはんを食べている民族というのも限られてるのではないか。日本じゃ1日3食が標準的な食事回数とされている。ぼくは今まで50カ国ほどフーテン旅行したことがあるが、多くの国では1日2食だった。そして昼も夜も同じモノばかり食べている。キャッサバイモばかり、トウモロコシ粉ばかり、カレーばかり・・・といった具合だ。しかも物心ついた頃から一生を終える日まで、そればっかり食べている。だからといって健康を害した人びとがウヨウヨいるわけでもない。
日本じゃ、健康生活の定義として「1日に30品目食べましょう」なんてまことしやかに語られる。旧厚生省が言い出したスローガンらしいが、ぜいたくな話だなあと思う。そんな何十品目も食べられる裕福な国って、世界の何パーセントあるってえの?
日本でも、江戸時代半ばまでは1日2食が通常であった。明治の西欧化の過程で1日3食が普及した。おかげさまで栄養状態もよくなり、若い世代の疾病も減り、平均寿命も延びた・・・ということなのだろうが、
逆に見れば、肥満が増え、かつては存在しなかった成人病が増え、人口は爆発し、環境全体にとってはロクでもない影響を与えているんではないか。
ダイエットの情報番組では、食事回数を減らすと太りやすい体質になります・・・と繰り返し語られる。すばらしいことだなあと思う。少しの食料で太れるなんて効率がいい。「飢餓感を覚えないように、こまめに間食をし、1日に5食くらい食べると太りません」とも解説がつく。そんなに何回も食べてまでも痩せたいのかな。よくわからない理屈だ。
人間ほど矛盾にみちみちた生き物はない。あい反することを主張し、やりたがるのである。
環境問題を憂う人は多い。しかし一方で少子化対策・・・子供を産みやすく育てやすい環境づくりに躍起なのである。そもそも、人間が存在すること自体が「反地球環境的」であるから、環境派は人口の減少を喜ばなくちゃならないはずだ。人口減少に歯止めをかけるのは、年金制度を維持するため、あるいは国力や労働力の低下を防ぐってのが理由。どこまでも自己チュ〜。そして、環境破壊の親分と目されるレジ袋を憎み、エコバックをヒーローに仕立てあげ、はやし立てる。レジ袋の製造に使われる原油は1枚20ミリリットル。お買い物に往復2キロほど車に乗れば100ミリリットル以上のガソリンを消費する。わざわざ郊外までガソリン数100cc焚いて買い物に行き、エコバックを使って原油20ccを節約したい人なんてワケわかんねー。ダイエットし、エコバックを使い、1日3回正しくメシを食らう。つまりは、痩せてキレイになり、環境にもやさしくなって、食欲も満たしたい人たちがバクテリア並みに大増殖中なのだ。食わなきゃ、ペットボトルも紙パックもプラスチックトレイも過剰包装も残飯も発生しないし、家畜も死ななくてよいし、痩せるのにね。
「環境問題に関心があります。それを読者に伝えたい」という入社希望の学生がやたらと多い。ぼくはこう答える。
「弊社は、1年間にA4用紙換算で1億8000万枚、重さにして約780トンの紙を商品として売買しています。この原料は、主に東南アジア・中国・南米などから買いつけた木材です。これらの原料を製品化するために大量の電力を必要とし、購入・消費しています。生産を終え、売れ残った雑誌は廃棄しています。廃棄とは、主に中国などへの売却を指しています。その紙は再資源化されるけど、その際にも大量の化学溶剤と電力を使用します。つまり弊社は環境破壊会社です。環境破壊会社が、環境問題を読者に問うなんてムリムリムリ!」
「東洋町の高レベル放射性廃棄物最終処分場の建設反対に協力を」というお願いも多い。ぼくはこう答える。
「ぼくは消費社会のド真ん中にいます。商品製造の過程で大量の電力を消費しています。電力とは、原子力発電・火力発電・石炭火力発電によって生み出されたものです。このような経済活動のうえに、ぼく自身の生活も成り立っています。朝から晩まで大量の地球資源を使用し、恩恵を預かって生活しているぼくが、原発の製造処理工程に反対する理由も意思もないのでムリムリムリ!」
人間って、よくわからない生き物なのである。
燃費の悪い大排気量の車に乗りこんで「海をきれいに」と遠くまで石油をガンガン燃やして訴えに出かけていったり、スローライフな生活をするために山に移住し、軽トラでガンガン山を登り下りしながら、下界の消費社会を憂いだり、公共事業によって海を埋め立てた土地に立派なお家を建て、便利な暮らしを満喫しながら「子孫にきれいな水を!公共事業反対〜!」を叫ぶ。
そしてぼくは今日も、紙と木材と原油を大量消費しながら、落ちているはっさくを食らって生きる。
食べた物を落としたら「拾って食べなさい!」と叱るのが、日本のオトン・オカンの正しい姿だと思っている。しかし最近の指導は、「そんなものは食べてはいけません。どんな病原菌やウィルスが付着し、あなたが伝染病になるかわからないのよ」がオーソドックスだ。堆肥(うんこ)で育成した野菜と、と殺した動物の肉をたらふく食べつつも、「落とす」ことには異常に敏感なのが日本型潔癖性である。食物は無菌室で育てるものではない。口に入るまでに人間があちこちの過程で関与しているのだから、多少の付着物など気にしてもしょうがないんだけどね。
食品のパックに書いてある賞味期限なんてほとんど気にしない。切れていたって腐ってなきゃ食えるし、期限内でも腐ってたら食わない。賞味期限、消費期限などハナから信用していない。たいていの食品には「いつ製造したのか」という情報すら書かれてないからである。
例えば牛乳ならば、「製造日」とは乳牛から搾乳した瞬間なのか、農家から地元JAに出荷された日なのか。はたまた乳業メーカーの加工工場で加熱処理された時間か、パック詰めされ出荷された日付か、そんなことすら食う側には教えられない。牛乳などまだわかりやすい方で、加工食品なんていったいどの段階が製造日なのか、さっぱりわからん。得体の知れない製造日を起点に、企業論理で決められた賞味期限、消費期限なんてアテにすべきじゃない。消費者は、判断を食品メーカーに依存しすぎなんである。じゃあ何を信用するのかって、自分の五感しかない。匂い、味、舌触り、見た目、それに食品素材の知識、ウィルスや菌への理解、そしてカンである。
いわゆる「5秒ルール」をまじめに研究したアメリカの理系高校生がいたらしい。5秒ルールってのは、「食べ物を床に落としても5秒以内なら食べても大丈夫!」ってラテン的発想の口頭伝承である。
その風変わりな高校生クラーク君は、学校内のいろんな床を調べまくり、「乾いた床の大半はバクテリアがいない」ことをつきとめたんだという。しかし、彼はさらに研究を深め、マジで汚れた床なら5秒ルールは適用可能かどうかを検証した。大胆にも大腸菌をあちこちの床にバラまき、グミやお菓子を置いてみたんだと。さすれば、たちまち菌が付着してしまった。つまりこういうことだ。「大腸菌まみれの床に落ちたモノは、5秒以内でも菌に汚染されている」。あたりまえ・・・だよねぇ。ぼくだって便器に落ちた大福もちは食べない。いくら好物でも。
ぼくは食べ物に執着がない。この10年以上、1日に1食である。無理をしているわけじゃない。メシを抜いてるうちにお腹が空かなくなった。朝と昼は食べない。夜に1回だけ食べる食事は、ごはんにゴマ塩をかけたり、カツオブシをまぶしたりしただけだ。これは「粗食」なのだろうか。ぼく自身は「とてもおいしい」と思って食べているので、ひもじい意識はない。
基本的には、人間ハラが減ったときにメシを食えばいいと考えている。ハラが減ってもいないのに、ごはんを食べなくてはならない理由が、実のところよくわからない。
テレビのコメンテーターは「最近の親は、朝食すら作らない人が多い」と嘆く。しかし、ぼくは朝ごはんをほとんど食べたことがない。そもそも早朝からごはんを食べている民族というのも限られてるのではないか。日本じゃ1日3食が標準的な食事回数とされている。ぼくは今まで50カ国ほどフーテン旅行したことがあるが、多くの国では1日2食だった。そして昼も夜も同じモノばかり食べている。キャッサバイモばかり、トウモロコシ粉ばかり、カレーばかり・・・といった具合だ。しかも物心ついた頃から一生を終える日まで、そればっかり食べている。だからといって健康を害した人びとがウヨウヨいるわけでもない。
日本じゃ、健康生活の定義として「1日に30品目食べましょう」なんてまことしやかに語られる。旧厚生省が言い出したスローガンらしいが、ぜいたくな話だなあと思う。そんな何十品目も食べられる裕福な国って、世界の何パーセントあるってえの?
日本でも、江戸時代半ばまでは1日2食が通常であった。明治の西欧化の過程で1日3食が普及した。おかげさまで栄養状態もよくなり、若い世代の疾病も減り、平均寿命も延びた・・・ということなのだろうが、
逆に見れば、肥満が増え、かつては存在しなかった成人病が増え、人口は爆発し、環境全体にとってはロクでもない影響を与えているんではないか。
ダイエットの情報番組では、食事回数を減らすと太りやすい体質になります・・・と繰り返し語られる。すばらしいことだなあと思う。少しの食料で太れるなんて効率がいい。「飢餓感を覚えないように、こまめに間食をし、1日に5食くらい食べると太りません」とも解説がつく。そんなに何回も食べてまでも痩せたいのかな。よくわからない理屈だ。
人間ほど矛盾にみちみちた生き物はない。あい反することを主張し、やりたがるのである。
環境問題を憂う人は多い。しかし一方で少子化対策・・・子供を産みやすく育てやすい環境づくりに躍起なのである。そもそも、人間が存在すること自体が「反地球環境的」であるから、環境派は人口の減少を喜ばなくちゃならないはずだ。人口減少に歯止めをかけるのは、年金制度を維持するため、あるいは国力や労働力の低下を防ぐってのが理由。どこまでも自己チュ〜。そして、環境破壊の親分と目されるレジ袋を憎み、エコバックをヒーローに仕立てあげ、はやし立てる。レジ袋の製造に使われる原油は1枚20ミリリットル。お買い物に往復2キロほど車に乗れば100ミリリットル以上のガソリンを消費する。わざわざ郊外までガソリン数100cc焚いて買い物に行き、エコバックを使って原油20ccを節約したい人なんてワケわかんねー。ダイエットし、エコバックを使い、1日3回正しくメシを食らう。つまりは、痩せてキレイになり、環境にもやさしくなって、食欲も満たしたい人たちがバクテリア並みに大増殖中なのだ。食わなきゃ、ペットボトルも紙パックもプラスチックトレイも過剰包装も残飯も発生しないし、家畜も死ななくてよいし、痩せるのにね。
「環境問題に関心があります。それを読者に伝えたい」という入社希望の学生がやたらと多い。ぼくはこう答える。
「弊社は、1年間にA4用紙換算で1億8000万枚、重さにして約780トンの紙を商品として売買しています。この原料は、主に東南アジア・中国・南米などから買いつけた木材です。これらの原料を製品化するために大量の電力を必要とし、購入・消費しています。生産を終え、売れ残った雑誌は廃棄しています。廃棄とは、主に中国などへの売却を指しています。その紙は再資源化されるけど、その際にも大量の化学溶剤と電力を使用します。つまり弊社は環境破壊会社です。環境破壊会社が、環境問題を読者に問うなんてムリムリムリ!」
「東洋町の高レベル放射性廃棄物最終処分場の建設反対に協力を」というお願いも多い。ぼくはこう答える。
「ぼくは消費社会のド真ん中にいます。商品製造の過程で大量の電力を消費しています。電力とは、原子力発電・火力発電・石炭火力発電によって生み出されたものです。このような経済活動のうえに、ぼく自身の生活も成り立っています。朝から晩まで大量の地球資源を使用し、恩恵を預かって生活しているぼくが、原発の製造処理工程に反対する理由も意思もないのでムリムリムリ!」
人間って、よくわからない生き物なのである。
燃費の悪い大排気量の車に乗りこんで「海をきれいに」と遠くまで石油をガンガン燃やして訴えに出かけていったり、スローライフな生活をするために山に移住し、軽トラでガンガン山を登り下りしながら、下界の消費社会を憂いだり、公共事業によって海を埋め立てた土地に立派なお家を建て、便利な暮らしを満喫しながら「子孫にきれいな水を!公共事業反対〜!」を叫ぶ。
そしてぼくは今日も、紙と木材と原油を大量消費しながら、落ちているはっさくを食らって生きる。
2007年04月19日
最近カラダを動かしていないなあ…と思われる方にもおすすめしたいのが公園。今回は、「カラダを動かす・鍛える」をテーマにピックアップした徳島県内の公園7カ所をご紹介。
太ももをシェイプアップしたり、バランス感覚を養ったり、足の裏を刺激したり…いろんな工夫がいっぱいの公園の施設や遊具がいっぱい。がんばった後にひと息つけるスポットも付いています。今度の休日は、ぜひ公園へ!
「月刊タウン情報トクシマ」4月号からついに開幕しましたーッ!
毎月オレ流アタシ流の自由気ままにオシャレを楽しんでいる人が続々登場します
2007年04月15日
主要読者層である20〜39歳の女性人口が9万5951人(平成17年7月1日・県統計資料より)である徳島県において、9400部という実売部数は非常に高い対人口購買率だと考えています。
株式会社メディコムが発行する雑誌は、実売部数をすべて公開しています。
2007年04月14日
●大人の連休計画 80
いよいよゴールデンウィーク!
童心に返ってモノづくり。大人の見学&体験、
まんが、人形、石…おもしろアートの世界、
最近できたオシャレショッピングスポットなどなど。
きっと行ったことないトコ80コースとりそろえました。
そして…
2007年04月13日
2007年04月11日
月刊タウン情報CU*3月号 実売部数報告です。
タウン情報CU*3月号の売部数は、
6422部でした。
詳しくは、上部に表記してある画像をクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している「月刊タウン情報CU*」「月刊タウン情報トクシマ」「結婚しちゃお!」の実売部数を発表しております。
2007年04月06日
月刊タウン情報トクシマ3月号 実売部数報告です。
タウン情報トクシマ3月号の売部数は、
8155部でした。
詳しくは、上部に表記してある画像をクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU*」「結婚しちゃお!」の実売部数を発表しております。
2007年04月05日
なんと「焼いて」「このネタ(お寿司)握って〜」「揚げて」など注文してから調理してくれるお惣菜や、この時間にいったら揚げたてが買える!お店を紹介。
また、たとえ遠くてもぜひ買いに行きたい地元で大人気の極うまおかずなども紹介しています。
好評連載「徳島人の法則」は、「晩ごはんのときには、お味噌汁を飲みますか?」を大調査しました。
2007年04月03日
名づけて『徳島ミュージックグランプリ』。
けっこうスレスレの判断をしている。こいつをドツくか、ドツかないか。
ドツくリスクはたくさんあるけど、ドツくメリットはほとんどない。
けど、そんなことはさておき、ドツこうと思うときがある。
計算なんてしてる時間ないのです。
文責=坂東良晃(タウトク編集人)
ドツくリスクはたくさんあるけど、ドツくメリットはほとんどない。
けど、そんなことはさておき、ドツこうと思うときがある。
計算なんてしてる時間ないのです。
文責=坂東良晃(タウトク編集人)
その日、徳島駅前はつきぬけるような青空と白い雲。
眉山の緑がゆれ、乾いた風がスッとふきぬける。すがすがしい午前である。クリーニングしたてのパリッとしたシャツに、お気に入りのネクタイ。う〜んこんな日は、「仕事やるぞー」って気になるよね。
そんな爽快ウキウキ気分で駅前某所を歩いていると、ベンチに大股で座っている二十歳前後の男2人。首や腕からジャラジャラとアクセサリーをぶらさげ、キャップをかぶり、ヒゲをモッサーと生やしている。横幅が狭い商店街の通路いっぱいに足を投げ出している。おばあさんが歩きにくそうに通路の脇を通る。自転車のおじいさんが男の足を避け、よろけて倒れそうになる。
男の1人が大きな紙くずを地面に捨てた。
ぼくの頭の中で「ミシッ」となにかがきしむ音がした。口が勝手に動く。「おい、ほれ捨てんな。拾え」と言ってしまっている。あーやってしもたー。当然、若者は逆ギレを起こす。「オッサンコラ、何が言いたいんなコラ」である。おお怖い。
しかしながら、平日の朝から仕事もしてないヤツにえらそうに言われたので、ぼくは急速に機嫌が悪化していく。紙クズを拾い、片方の男のひざの上にポイッと置く。男はその紙クズを遠くに投げ捨てる。
ぼくのイライラは頂点に達し、とにかく顔をくっつけてやりたい衝動に駆られる。一方の男の股の間までにじり寄ると、2人は立ち上がり、ぼくの胸ぐらをつかむ。アイロンの入ったシャツがゆがみ、ネクタイの形が無残に崩れる。ぼくはそのまま相手のほうに真っ直ぐ突進する。男の1人はベンチに足を取られ、うしろにひっくり返る。頭突きを何発か入れる。はずみでぼくのメガネが壊れてしまう。何年も愛用しているお気に入りメガネである。
完全にキレたサラリーマン姿のオッサンというのは不気味なのだろう。男たちは「ここで待っとけよお前コラ」と言って、仲間を呼びに行くそぶりをみせ去った。念のため3分ほどそこで待ったが帰ってこなかった。
口の中がちょっと切れていて、鉄の味がした。なつかしい感じだ。
20数年前、ぼくは阿南市の高校に通っていて、駅前でよく乱闘さわぎに巻き込まれた。といっても、たいていは殴られる側である。ほんとよく殴られた。
校内暴力の全盛期である。路上では知らない者が目が合うだけで火がついた。「ガンを飛ばしたか否か」が、あいさつのはじまりである。ドツきあいは、ドツきあいなりのルールがあり、たいていは頬っぺたか鼻を殴りあいっこする。そのあたりは殴っても派手に血がでるだけで、たいした怪我にはならないからだ。
ぼくはあんまし殴られるのは好きじゃない。汽車通の女子たちが見ている前で鼻からボタボタ血を流しているのは、かっこわるい。だから、一発目に相手の眉間か、眼球か、股間を殴るのである。このさい暗黙の了解は無視である。
相手は一瞬動けなくなる。スキをつくり、駅の改札の中に逃げ込む。改札まで追ってきたら、裏の田んぼまで逃げる。これが常套手段である。殴って、逃げる。それだけ。
当時のドツきあいは、今から思えば健全であった。一戦交える前に、みな自己紹介をしていた。
「わえは□□の△△やけど、お前、わえのこと知っとんかコラ」である。「われこそ、わしが□□の△△ちゅうことを知っとんかコラ」である。
かつて日本の武将たちも、果し合いの際は同じく名乗りあったと聞く。「やあやあ、われこそは○○藩は××が末裔、□□なるぞ。主君の名誉と〜」。まあ、当時は田舎のヤンキーたちにも、サムライ魂があったということか。
十代の頃は、しょっちゅう殴られたり殴ったりしていた。社会に出てからも殴られていた。
(前職の)土建屋の荒くたい男の世界では、暴力はあいさつみたいなものである。お気に入りのメガネはつぎつぎと壊された。前歯3本は折られてしまい、さし歯になった。口の中の切れた跡があちこちで肉芽となり、今でもモノを噛むときにじゃまくさい。
暴力によって命の危険にひんしたのは、インドとアフリカだ。インドでは強盗にナイフを突きつけられ、部屋の中に監禁され、何十分間も腹を殴られつづけた。胃を殴られるとゲロをもどす。インドの本職は、どこを殴れば精神的にきついかわかっている。プロには逆らえない。もっていた金を全部とられてしまった。全部といっても2000円くらいだが。
アフリカでは、カヌーで旅している最中に、周囲を3隻のカヌーに取り囲まれ川の上で組み伏せられた。6人のデカい男たちは、カヌー強盗である。ぼくを川に投げ捨て、ぼくの所有している丸太をくり抜いたカヌー(2500円で購入)を奪おうとした。川岸から百メートル以上離れている。泥水のような川に投げ捨てられたら終わりである。だが相手は、ドツきあいには弱かった。殴りあっているうちに、さっさとあきらめてくれた。そのかわり、敵の右ストレートで前歯をみごとに折られた。近辺に歯医者がなくて、こまった。
話はさかのぼる。
恥ずかしい話だが、15の頃、親父を殴ってしまったことがある。自分のやりたいことをどうしても理解してもらえなかった。親父は、ぼくに殴られた肩のあたりの腫れが引かず、しばらく病院に通った。親父もごく普通に鉄拳制裁をする人だったが、ぼくが殴った日から、親父は少しおとなしくなった。
晩年の親父は十数年間、癒る見込みのない難病と闘っていた。亡くなる寸前まで、親父はぼくに殴られた話をよくしていた。その話をするときは、親父はうれしそうに笑っていた。ぼくはその話をされると頭が上がらなくなる。とても情けなく、恥ずかしい話だからだ。ぼくが小さくなっているのを見て、親父は得意満面になっているのだ。
病気と闘っている親父はかっこよかった。多発性骨髄腫という病気は、全身の骨が骨折寸前の痛みに襲われる。腫瘍が骨を破るほどである。実際に骨折もした。しかし親父は、絶対痛いといわない。死が近づいているのを悟っても、どこまでも音をあげない。このかっこよさに二十年早くきづいていれば、親父の言うこと全部きいてやったのにね。
このごろは暴力を見かけることがなくなった。路上でのケンカなんぞ、何年も目にした事がない。学校では、先生がゲンコツで生徒指導すると、ちょっとした事件になる。お店で傍若無人にふるまう子どもを野放しにする親、うんざりするほど見かける。「パチン」と頬を張り、しつけをほどこすことを現代の親はしない。
周りに人がいる場所、始終監視された場所でのケンカや体罰が影を潜めた分、暴力は、家庭内の老人や幼児や女性に、あるいは学校や職場でのイジメにと、より弱い立場の人に向かっている。
暴力は匿名性のある場所で栄え、陰湿さを増している。
ニンゲンは、人間であるがゆえ自らを律することができるが、一方でニンゲンは動物でもあるから、怒りや暴力は抑えることができない。ニンゲンから暴力を奪うことができた国も、時代も、宗教も、今だかつて存在しない。ならば、いろんなサベツ問題と同じく、隠してしまうのではなく、日のあたる場所に引っぱり出してしまいたい。
スーパーで大暴れするおバカなガキのアタマを一発ポカッと殴って、しつけできない親に恥をかかせる社会でないと、ニッポンの暴力はもっと暗いものになっていく。叱られずに育った若者が大量生産され、傷つきやすいがゆえに社会適合できず、生涯ニート化したり、自殺率世界一の国を作っていく。
使ってはならない暴力と、使うべき暴力がある。理不尽なことを止めさせるときに体を張れないのは情けない。そういうときは暴力を使う。たとえ自分がお縄をちょうだいしても、ぼくより立派な部下たちがカイシャを運営してくれているので、後のことは心配しないでいいだろう。どうしようもないバカに右ストレート一発くらいお見舞いできないんじゃあ、なんかね・・・イマイチな感じでしょ。
眉山の緑がゆれ、乾いた風がスッとふきぬける。すがすがしい午前である。クリーニングしたてのパリッとしたシャツに、お気に入りのネクタイ。う〜んこんな日は、「仕事やるぞー」って気になるよね。
そんな爽快ウキウキ気分で駅前某所を歩いていると、ベンチに大股で座っている二十歳前後の男2人。首や腕からジャラジャラとアクセサリーをぶらさげ、キャップをかぶり、ヒゲをモッサーと生やしている。横幅が狭い商店街の通路いっぱいに足を投げ出している。おばあさんが歩きにくそうに通路の脇を通る。自転車のおじいさんが男の足を避け、よろけて倒れそうになる。
男の1人が大きな紙くずを地面に捨てた。
ぼくの頭の中で「ミシッ」となにかがきしむ音がした。口が勝手に動く。「おい、ほれ捨てんな。拾え」と言ってしまっている。あーやってしもたー。当然、若者は逆ギレを起こす。「オッサンコラ、何が言いたいんなコラ」である。おお怖い。
しかしながら、平日の朝から仕事もしてないヤツにえらそうに言われたので、ぼくは急速に機嫌が悪化していく。紙クズを拾い、片方の男のひざの上にポイッと置く。男はその紙クズを遠くに投げ捨てる。
ぼくのイライラは頂点に達し、とにかく顔をくっつけてやりたい衝動に駆られる。一方の男の股の間までにじり寄ると、2人は立ち上がり、ぼくの胸ぐらをつかむ。アイロンの入ったシャツがゆがみ、ネクタイの形が無残に崩れる。ぼくはそのまま相手のほうに真っ直ぐ突進する。男の1人はベンチに足を取られ、うしろにひっくり返る。頭突きを何発か入れる。はずみでぼくのメガネが壊れてしまう。何年も愛用しているお気に入りメガネである。
完全にキレたサラリーマン姿のオッサンというのは不気味なのだろう。男たちは「ここで待っとけよお前コラ」と言って、仲間を呼びに行くそぶりをみせ去った。念のため3分ほどそこで待ったが帰ってこなかった。
口の中がちょっと切れていて、鉄の味がした。なつかしい感じだ。
20数年前、ぼくは阿南市の高校に通っていて、駅前でよく乱闘さわぎに巻き込まれた。といっても、たいていは殴られる側である。ほんとよく殴られた。
校内暴力の全盛期である。路上では知らない者が目が合うだけで火がついた。「ガンを飛ばしたか否か」が、あいさつのはじまりである。ドツきあいは、ドツきあいなりのルールがあり、たいていは頬っぺたか鼻を殴りあいっこする。そのあたりは殴っても派手に血がでるだけで、たいした怪我にはならないからだ。
ぼくはあんまし殴られるのは好きじゃない。汽車通の女子たちが見ている前で鼻からボタボタ血を流しているのは、かっこわるい。だから、一発目に相手の眉間か、眼球か、股間を殴るのである。このさい暗黙の了解は無視である。
相手は一瞬動けなくなる。スキをつくり、駅の改札の中に逃げ込む。改札まで追ってきたら、裏の田んぼまで逃げる。これが常套手段である。殴って、逃げる。それだけ。
当時のドツきあいは、今から思えば健全であった。一戦交える前に、みな自己紹介をしていた。
「わえは□□の△△やけど、お前、わえのこと知っとんかコラ」である。「われこそ、わしが□□の△△ちゅうことを知っとんかコラ」である。
かつて日本の武将たちも、果し合いの際は同じく名乗りあったと聞く。「やあやあ、われこそは○○藩は××が末裔、□□なるぞ。主君の名誉と〜」。まあ、当時は田舎のヤンキーたちにも、サムライ魂があったということか。
十代の頃は、しょっちゅう殴られたり殴ったりしていた。社会に出てからも殴られていた。
(前職の)土建屋の荒くたい男の世界では、暴力はあいさつみたいなものである。お気に入りのメガネはつぎつぎと壊された。前歯3本は折られてしまい、さし歯になった。口の中の切れた跡があちこちで肉芽となり、今でもモノを噛むときにじゃまくさい。
暴力によって命の危険にひんしたのは、インドとアフリカだ。インドでは強盗にナイフを突きつけられ、部屋の中に監禁され、何十分間も腹を殴られつづけた。胃を殴られるとゲロをもどす。インドの本職は、どこを殴れば精神的にきついかわかっている。プロには逆らえない。もっていた金を全部とられてしまった。全部といっても2000円くらいだが。
アフリカでは、カヌーで旅している最中に、周囲を3隻のカヌーに取り囲まれ川の上で組み伏せられた。6人のデカい男たちは、カヌー強盗である。ぼくを川に投げ捨て、ぼくの所有している丸太をくり抜いたカヌー(2500円で購入)を奪おうとした。川岸から百メートル以上離れている。泥水のような川に投げ捨てられたら終わりである。だが相手は、ドツきあいには弱かった。殴りあっているうちに、さっさとあきらめてくれた。そのかわり、敵の右ストレートで前歯をみごとに折られた。近辺に歯医者がなくて、こまった。
話はさかのぼる。
恥ずかしい話だが、15の頃、親父を殴ってしまったことがある。自分のやりたいことをどうしても理解してもらえなかった。親父は、ぼくに殴られた肩のあたりの腫れが引かず、しばらく病院に通った。親父もごく普通に鉄拳制裁をする人だったが、ぼくが殴った日から、親父は少しおとなしくなった。
晩年の親父は十数年間、癒る見込みのない難病と闘っていた。亡くなる寸前まで、親父はぼくに殴られた話をよくしていた。その話をするときは、親父はうれしそうに笑っていた。ぼくはその話をされると頭が上がらなくなる。とても情けなく、恥ずかしい話だからだ。ぼくが小さくなっているのを見て、親父は得意満面になっているのだ。
病気と闘っている親父はかっこよかった。多発性骨髄腫という病気は、全身の骨が骨折寸前の痛みに襲われる。腫瘍が骨を破るほどである。実際に骨折もした。しかし親父は、絶対痛いといわない。死が近づいているのを悟っても、どこまでも音をあげない。このかっこよさに二十年早くきづいていれば、親父の言うこと全部きいてやったのにね。
このごろは暴力を見かけることがなくなった。路上でのケンカなんぞ、何年も目にした事がない。学校では、先生がゲンコツで生徒指導すると、ちょっとした事件になる。お店で傍若無人にふるまう子どもを野放しにする親、うんざりするほど見かける。「パチン」と頬を張り、しつけをほどこすことを現代の親はしない。
周りに人がいる場所、始終監視された場所でのケンカや体罰が影を潜めた分、暴力は、家庭内の老人や幼児や女性に、あるいは学校や職場でのイジメにと、より弱い立場の人に向かっている。
暴力は匿名性のある場所で栄え、陰湿さを増している。
ニンゲンは、人間であるがゆえ自らを律することができるが、一方でニンゲンは動物でもあるから、怒りや暴力は抑えることができない。ニンゲンから暴力を奪うことができた国も、時代も、宗教も、今だかつて存在しない。ならば、いろんなサベツ問題と同じく、隠してしまうのではなく、日のあたる場所に引っぱり出してしまいたい。
スーパーで大暴れするおバカなガキのアタマを一発ポカッと殴って、しつけできない親に恥をかかせる社会でないと、ニッポンの暴力はもっと暗いものになっていく。叱られずに育った若者が大量生産され、傷つきやすいがゆえに社会適合できず、生涯ニート化したり、自殺率世界一の国を作っていく。
使ってはならない暴力と、使うべき暴力がある。理不尽なことを止めさせるときに体を張れないのは情けない。そういうときは暴力を使う。たとえ自分がお縄をちょうだいしても、ぼくより立派な部下たちがカイシャを運営してくれているので、後のことは心配しないでいいだろう。どうしようもないバカに右ストレート一発くらいお見舞いできないんじゃあ、なんかね・・・イマイチな感じでしょ。
2007年03月30日
イタリアン、フレンチ、中華から食べ放題まで
全22ジャンルのマチガイナイお店を150店紹介しています。
コイツは保存版!
そして、ついに開幕した
「トクシマファッショングランプリ」。
ウワサのおしゃれさんも載っている!