NEW TOPIC

2007年04月05日

フリーペーパーさらら 4月5日号発行! salala0405今回の特集は、ウワサのおいしいお惣菜。
なんと「焼いて」「このネタ(お寿司)握って〜」「揚げて」など注文してから調理してくれるお惣菜や、この時間にいったら揚げたてが買える!お店を紹介。
また、たとえ遠くてもぜひ買いに行きたい地元で大人気の極うまおかずなども紹介しています。
好評連載「徳島人の法則」は、「晩ごはんのときには、お味噌汁を飲みますか?」を大調査しました。

2007年04月03日

タウトク新企画! 徳島の歌をつくろう! tokushimasong.jpgその歌を聞けば、徳島の街の風景がアタマに浮かんできて、徳島の街の人だけが自然と口ずさめて、そして徳島ローカルで何やら異様にヒットしているミュージック!そんな音楽をつくってみんなで鼻歌フンフンうたいませんか?
名づけて『徳島ミュージックグランプリ』。
そこで、ドツくかどうか
けっこうスレスレの判断をしている。こいつをドツくか、ドツかないか。
ドツくリスクはたくさんあるけど、ドツくメリットはほとんどない。
けど、そんなことはさておき、ドツこうと思うときがある。
計算なんてしてる時間ないのです。

文責=坂東良晃(タウトク編集人)

その日、徳島駅前はつきぬけるような青空と白い雲。
眉山の緑がゆれ、乾いた風がスッとふきぬける。すがすがしい午前である。クリーニングしたてのパリッとしたシャツに、お気に入りのネクタイ。う〜んこんな日は、「仕事やるぞー」って気になるよね。
そんな爽快ウキウキ気分で駅前某所を歩いていると、ベンチに大股で座っている二十歳前後の男2人。首や腕からジャラジャラとアクセサリーをぶらさげ、キャップをかぶり、ヒゲをモッサーと生やしている。横幅が狭い商店街の通路いっぱいに足を投げ出している。おばあさんが歩きにくそうに通路の脇を通る。自転車のおじいさんが男の足を避け、よろけて倒れそうになる。
男の1人が大きな紙くずを地面に捨てた。
ぼくの頭の中で「ミシッ」となにかがきしむ音がした。口が勝手に動く。「おい、ほれ捨てんな。拾え」と言ってしまっている。あーやってしもたー。当然、若者は逆ギレを起こす。「オッサンコラ、何が言いたいんなコラ」である。おお怖い。
しかしながら、平日の朝から仕事もしてないヤツにえらそうに言われたので、ぼくは急速に機嫌が悪化していく。紙クズを拾い、片方の男のひざの上にポイッと置く。男はその紙クズを遠くに投げ捨てる。
ぼくのイライラは頂点に達し、とにかく顔をくっつけてやりたい衝動に駆られる。一方の男の股の間までにじり寄ると、2人は立ち上がり、ぼくの胸ぐらをつかむ。アイロンの入ったシャツがゆがみ、ネクタイの形が無残に崩れる。ぼくはそのまま相手のほうに真っ直ぐ突進する。男の1人はベンチに足を取られ、うしろにひっくり返る。頭突きを何発か入れる。はずみでぼくのメガネが壊れてしまう。何年も愛用しているお気に入りメガネである。
完全にキレたサラリーマン姿のオッサンというのは不気味なのだろう。男たちは「ここで待っとけよお前コラ」と言って、仲間を呼びに行くそぶりをみせ去った。念のため3分ほどそこで待ったが帰ってこなかった。
口の中がちょっと切れていて、鉄の味がした。なつかしい感じだ。

20数年前、ぼくは阿南市の高校に通っていて、駅前でよく乱闘さわぎに巻き込まれた。といっても、たいていは殴られる側である。ほんとよく殴られた。
校内暴力の全盛期である。路上では知らない者が目が合うだけで火がついた。「ガンを飛ばしたか否か」が、あいさつのはじまりである。ドツきあいは、ドツきあいなりのルールがあり、たいていは頬っぺたか鼻を殴りあいっこする。そのあたりは殴っても派手に血がでるだけで、たいした怪我にはならないからだ。
ぼくはあんまし殴られるのは好きじゃない。汽車通の女子たちが見ている前で鼻からボタボタ血を流しているのは、かっこわるい。だから、一発目に相手の眉間か、眼球か、股間を殴るのである。このさい暗黙の了解は無視である。
相手は一瞬動けなくなる。スキをつくり、駅の改札の中に逃げ込む。改札まで追ってきたら、裏の田んぼまで逃げる。これが常套手段である。殴って、逃げる。それだけ。
当時のドツきあいは、今から思えば健全であった。一戦交える前に、みな自己紹介をしていた。
「わえは□□の△△やけど、お前、わえのこと知っとんかコラ」である。「われこそ、わしが□□の△△ちゅうことを知っとんかコラ」である。
かつて日本の武将たちも、果し合いの際は同じく名乗りあったと聞く。「やあやあ、われこそは○○藩は××が末裔、□□なるぞ。主君の名誉と〜」。まあ、当時は田舎のヤンキーたちにも、サムライ魂があったということか。

十代の頃は、しょっちゅう殴られたり殴ったりしていた。社会に出てからも殴られていた。
(前職の)土建屋の荒くたい男の世界では、暴力はあいさつみたいなものである。お気に入りのメガネはつぎつぎと壊された。前歯3本は折られてしまい、さし歯になった。口の中の切れた跡があちこちで肉芽となり、今でもモノを噛むときにじゃまくさい。
暴力によって命の危険にひんしたのは、インドとアフリカだ。インドでは強盗にナイフを突きつけられ、部屋の中に監禁され、何十分間も腹を殴られつづけた。胃を殴られるとゲロをもどす。インドの本職は、どこを殴れば精神的にきついかわかっている。プロには逆らえない。もっていた金を全部とられてしまった。全部といっても2000円くらいだが。
アフリカでは、カヌーで旅している最中に、周囲を3隻のカヌーに取り囲まれ川の上で組み伏せられた。6人のデカい男たちは、カヌー強盗である。ぼくを川に投げ捨て、ぼくの所有している丸太をくり抜いたカヌー(2500円で購入)を奪おうとした。川岸から百メートル以上離れている。泥水のような川に投げ捨てられたら終わりである。だが相手は、ドツきあいには弱かった。殴りあっているうちに、さっさとあきらめてくれた。そのかわり、敵の右ストレートで前歯をみごとに折られた。近辺に歯医者がなくて、こまった。

話はさかのぼる。
恥ずかしい話だが、15の頃、親父を殴ってしまったことがある。自分のやりたいことをどうしても理解してもらえなかった。親父は、ぼくに殴られた肩のあたりの腫れが引かず、しばらく病院に通った。親父もごく普通に鉄拳制裁をする人だったが、ぼくが殴った日から、親父は少しおとなしくなった。
晩年の親父は十数年間、癒る見込みのない難病と闘っていた。亡くなる寸前まで、親父はぼくに殴られた話をよくしていた。その話をするときは、親父はうれしそうに笑っていた。ぼくはその話をされると頭が上がらなくなる。とても情けなく、恥ずかしい話だからだ。ぼくが小さくなっているのを見て、親父は得意満面になっているのだ。
病気と闘っている親父はかっこよかった。多発性骨髄腫という病気は、全身の骨が骨折寸前の痛みに襲われる。腫瘍が骨を破るほどである。実際に骨折もした。しかし親父は、絶対痛いといわない。死が近づいているのを悟っても、どこまでも音をあげない。このかっこよさに二十年早くきづいていれば、親父の言うこと全部きいてやったのにね。

このごろは暴力を見かけることがなくなった。路上でのケンカなんぞ、何年も目にした事がない。学校では、先生がゲンコツで生徒指導すると、ちょっとした事件になる。お店で傍若無人にふるまう子どもを野放しにする親、うんざりするほど見かける。「パチン」と頬を張り、しつけをほどこすことを現代の親はしない。
周りに人がいる場所、始終監視された場所でのケンカや体罰が影を潜めた分、暴力は、家庭内の老人や幼児や女性に、あるいは学校や職場でのイジメにと、より弱い立場の人に向かっている。
暴力は匿名性のある場所で栄え、陰湿さを増している。
ニンゲンは、人間であるがゆえ自らを律することができるが、一方でニンゲンは動物でもあるから、怒りや暴力は抑えることができない。ニンゲンから暴力を奪うことができた国も、時代も、宗教も、今だかつて存在しない。ならば、いろんなサベツ問題と同じく、隠してしまうのではなく、日のあたる場所に引っぱり出してしまいたい。
スーパーで大暴れするおバカなガキのアタマを一発ポカッと殴って、しつけできない親に恥をかかせる社会でないと、ニッポンの暴力はもっと暗いものになっていく。叱られずに育った若者が大量生産され、傷つきやすいがゆえに社会適合できず、生涯ニート化したり、自殺率世界一の国を作っていく。

使ってはならない暴力と、使うべき暴力がある。理不尽なことを止めさせるときに体を張れないのは情けない。そういうときは暴力を使う。たとえ自分がお縄をちょうだいしても、ぼくより立派な部下たちがカイシャを運営してくれているので、後のことは心配しないでいいだろう。どうしようもないバカに右ストレート一発くらいお見舞いできないんじゃあ、なんかね・・・イマイチな感じでしょ。

2007年03月30日

今世紀最大の進化を遂げたタウン情報トクシマ4月号! tokushima-0704特集は「トクシマのザ・ベスト・オブうまいもん150」。
イタリアン、フレンチ、中華から食べ放題まで
全22ジャンルのマチガイナイお店を150店紹介しています。
コイツは保存版!
そして、ついに開幕した
「トクシマファッショングランプリ」。
ウワサのおしゃれさんも載っている!


2007年03月29日

2007年03月24日

冬の剣山
今年の剣山は雪が少なく、気温もマイナス5度くらいと温かく、厳冬期という感じてはなかった。あまりトレーニングができないのも困ったもんである。仕方なく毎日、眉山を四つんばいで駆け上がっているのである。
tsurugi2 tsurugui1 tsurugi3

2007年03月19日

結婚しちゃお!創刊号 実売部数報告 kekkon06sokan.jpg

結婚しちゃお!創刊号 実売部数報告です。
結婚しちゃお!創刊号の売部数は、
1636部でした。
詳しくは、上部に表記してある画像をクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している「月刊タウン情報CU*」「月刊タウン情報トクシマ」「結婚しちゃお!」の実売部数を発表しております。

2007年03月17日

肯定論
なぜか仏のような澄みきった心根である。
何もハラがたたない、ありのままの今を受け入れたい気分なんである。
頭痛薬の飲みすぎだろうか。1週間に30錠は飲みすぎなんだろうねえ。

文責=坂東良晃(タウトク編集人)

毎日毎日、報道番組じゃあいろんなことが問題になっている。
いろんな立場の人が、いろんな発言をし、これではイカーン!と叫ぶ。
しかしホントにいかんのだろうか。どうでもいいことなんではないか?

■ちきゅう温暖化
地球には4万年〜10万年サイクルで氷河期がやってくる。いちばん最近の氷河期が終わったのは1万年前、現在は間氷期と呼ばれる時代である。
氷河期と氷河期のあいだにも「小氷期」と呼ばれるプチ氷河期があり、200年前まで北半球は小氷期に襲われていた。小氷期時代には、作物の不作から飢餓や疫病が蔓延し、たくさんの集落があったグリーンランドは壊滅した。あまりろくなことがないらしい。
このように長い時間をかけて、地球は温まったり冷えたりを繰り返す。次の氷河期がやってくるまでには5万年くらいあるとされる。いったん氷河期に突入すると数万年はつづくので、現在の文明はいったんそこでリセットされる。繁栄を築き上げた生命体が決定的な打撃を与えられるのは、温かい時代よりも凍った時代である。
熱帯の動植物の繁栄ぶりにくらべ、寒帯のそれはいかにも乏しい。地球の動植物は、気温の高いほうを好むのである。少しでも氷河期の到来を遅らせるために、地球を温めるのも悪くはないよねー。
それよりも「エコ商品」とかの名目で、どんどん新商品をつくりつづける製造メーカーの矛盾はどうなんだろうね。そっちの方がよっぽど地球資源の枯渇への道をつきすすめてると思われる。

■少子高齢化
狭い国土に人口が密集しすぎているのだ。
江戸時代3000万人、明治時代初期3500万人、明治後期5000万人、昭和初期7000万人。戦後の異常な出産ブームによって昭和42年には1億人を突破した。1868年からの100年間で、人口は一気に3倍も増加したのだ。
これを異常繁殖と言わざるして何とする。現在の少子化は、「神の見えざる手」による人口調整機能が働いているのだ。人口が減れば土地の価値が下がり、家が安く買える。職場の近くに住めるから都市部の通勤地獄はなくなる。自動車が減り、交通渋滞がなくなる。昔のような受験地獄とやらもなくなり、求人倍率があがって失業率が低下する。
人口密度が高すぎると、人間は他人と精神的な距離をとろうと努力する。密集した環境ではコミュニケーション過多になりストレスが増大する。そのため無関心という鎧をまとう。都市の住人、マンション住人に必要な処世術だ。
このまま少子化が進行し、5000万人程度まで人口が減れば、人間と人間の間に理想的な距離感がうまれる。そこで人口調整機能はいったん収束し、ふただび男女2人が2人の子供を産むという維持型に変化するだろう。
少子化により、若い世代が年金負担に耐えられないといっても、それは人口維持型社会になるまでのガマンだ。戦後、爆発的な人口増加により国際競争力が高まり、餓えのない立派な国家が作られた。さまざまな社会基盤も整備された。
現在の若い世代は、ぼくも含めてそのおこぼれを食らって楽ちんに生きている。だから、せめて年金負担する義務ぐらいは背負わせてやればよい。

■「下流階級」の増加
年収300万円=低所得者層などと称されるのは、世界広しといえどニッポンだけである。儲けすぎだ。
分不相応なブランドものを身につけ、車を生涯に5度ほど買い替え、住宅を1度は買う。つつましやかに一生をおくろうとするならば、そのような消費生活をする必要はない。
個人的充足感、他人に対する優越感、もっと便利にもっと楽にという欲望がそうさせる。こんな消費者たちがものすごいサイクルで買物をつづけて初めて、今の経済は維持可能型となる。しかしそんな快楽状態は長続きしないだろう。
欧州やアジアの古い街のように、1回建てた家を500年くらい修繕し続け住む覚悟があれば、生活費だけ稼げれば苦労はしない。
景気変動など気にしないところまで達観すれば、何も苦労はしない。
「下流階級」と呼ばれる、社会に無関心で向上心に著しく欠ける人たちの登場は、今の消費社会へのアンチテーゼである。資本のメカニズムが働けば働くほど、富は偏重する。「下流階級」は増大し、やがて新しい革命の火種になる。フランスの暴動はその前兆だ。少しずつしかし加速度を増しながら、その布石が打たれている。

■食品不安
人間が自分の糞尿で育てられない量や品質を農作物に求めはじめた瞬間に、食品は安全性を失ったのである。消費者が安価で美しい野菜を求めるなら、農家は農薬害虫をコントロールし、土壌を化学物質で肥やすしかない。
安価で、美しく、化学物質で汚染されない食べ物なんて、無理な注文である。消費者はムチャを言いすぎなのである。そのような身勝手な消費者がいる限り、企業の偽装表示は巧妙さを増していくだけだ。自分の排泄物で田畑を肥やす覚悟のある人だけが、安全な食料を口にしてもよい。

■敵対的買収
企業は、人間の労働力や地球資源という本来はお金には変えられないものに対し、ムリヤリ値段をつけて売り買いをしている。それが資本主義というものであり、株式会社を経営する者なら、そういった資本主義の仕組みはわかっておくべきである。
人や自然に値段がついているのだから、企業の売り買いなど簡単にできるのが自然だ。上場企業ならば自分の会社の価格を万人に公開しているようなもんだ。株券を市場に売りに出すというリスクを犯し、莫大な資金を調達するというメリットをとってきたのだから、今さらいい歳をした老人経営者たちが「会社を買わないでくれ」なーんて、何を言っているのだろうか。
本当にヘンな人が多いな、特にメディア人には。

■寄付されないほっとけない世界の貧しさ
「ほっとけない世界の貧しさ」を訴え、手首にホワイトバンドを巻くのが去年はやった。
ホワイトバンドの購入費がほとんど寄付に回されてないと知ってガッカリしたり、文句を言う人がいたが、あのCMのうさんくささを見たんなら、最初から怪しいと思わないといけない。そもそも300円程度払って、きれいにパッケージされた商品を手にし、慈善心を満足させてもらったうえで、更に寄付にまでお金が回ると考えるほうがおかしい。要するに最初から自己満足なんだから、あとでぐぢぐぢ文句は言わないこと。本当に「貧しい人たち(このフレーズ自体、上目線すぎる)」とやらに直接寄付したければ、チャラチャラしたもの買わなくても、いくらでもまっとうな寄付団体はある。

■外来品種のペットの放棄
有史以前より動植物は他の移動する物体・・・風や海流、動植物、人間によって、移動し続けてきた。すべての大陸で繁殖する人間なんてその最たるもの。馬やラクダの背に乗って、アフリカ大陸から全世界に拡散したのが人間だ。ブラックバスなどの外来品種が、ニッポンの湖沼で生態系の上位に立つことによって、希少品種の絶滅が心配されている。
しかし、なぜ動植物が絶滅寸前の希少品種になったのかといえば、人類がまとう衣類やアクセサリー、食料品として消費されてきたためだ。
あるいは人間が安全に暮らせる村・都市づくりのために、殺害捕獲され、絶滅に追い込まれてきたのである。多くの動物を肉をむさぼり食いながら、小さな虫や川魚やカニの未来を愁う。それが人間のかかえた矛盾である。

■マンション違法建築・偽造建築
一戸建てを建てる場合なら、多くの施主は時間を惜しんで建設現場を見に行く。基礎工事はちゃんとしてくれているか、間取りは注文どおりか、梁や柱をいいかげんに建てていないか。
同じ不動産物件であるマンションを買おうとするとき、飼い主はディベロッパーに対してあまりに全幅の信頼を置きすぎであったのだ。「パンフレットに安全設計だと書いてあったから信用した」ではだめなのだ。だってパンレットっていうのは、売り主が勝手に書いて、勝手に印刷したものだ。その内容が正しいかどうかなんて、第三者は誰も認定してないんだからね。相手を信じすぎだ。

■個人情報保護
個人情報など気にしない。へたに貯め込もうとするから自分の情報流出が気になる。金がなければ、何も気にならない。

■ニート
一般的には、働く気がなく、向上心を失ったダラけた人たちのことを指すが、それで食っていけるんならそれでいいんじゃないか。不労所得があり、住む家もあり、特にぜいたくもする気がないのなら、逆になぜ働く必要があるのか?
ニートが働かないおかげで、働いている人へ富(資産)が徐々に移行するのである。お金持ちが必死に働けば、ますます富がその人に集中してしまう。そりゃ困るよ。
金持ちの三代目はバカって決まっている。それも「神の見えざる手」によってバランスが計られているのだ。だから親が財を成したお家の息子さん、娘さんはニート化してもらい、働かなくてよろしい。今は食っていけても、50歳になったあたりで悲惨なことになるのは目に見えるが、若いとき楽したのだからそれでよい。
親の蓄財分が、まじめに働いている人に移行していくのだから、それでいいではないか。

■喫煙
酒がOKでタバコがNG、という理論の根拠がわからない。
酒を飲んでいる人に殴られたことはあるが、タバコを吸っている人にからまれたことはない。
酒に溺れて家庭をこわした人は知っているが、タバコに溺れて家庭をこわした人は知らない。
飲酒運転で人を殺した事例はたくさんなあるが、喫煙運転の問題はあまり聞かない。
喫煙は、呼吸器や循環器系の病気の確率をあげることは事実だろう。しかし、人間は何かをやるために何かのリスクを選ぶ。
自動車運転のリスクは年間9000人の死亡事故として現れているが、だからといって運転をやめたりはしない。
タバコよりも化粧品や食品に含まれている化学物質の方が、長期的には有害ではないと誰が言い切れるか。喫煙者はどうどうと喫煙権を主張しよう!

■ふたたび株価上昇
バブルに熱狂し、はじけて底に沈んだ15年をすっきり忘れ去ってふたたび狂える素敵なニッポン人に乾杯。

2007年03月15日

CU4月号でお気に入りのカフェを見つけちゃお! tokushima-cu200704特集1
●とくしまのカフェ&スイーツ 大好き200店
駅前カフェや海辺カフェ、隠れ家的珈琲店などから
乙女心をくすぐる苺たっぷりスイーツ、
匠の技が光る和菓子などなど…
2007年最新版の徳島人気カフェ&スイーツが勢ぞろい!
そして…
さらら 3月15日号発行しました! salala0315今回の特集は、玉子のスマイルレシピ!
朝食・メイン料理・添え物・おやつ何でもに使える
万能食材「玉子」の簡単レシピを紹介。

みそと和えて、
寿司めしと合わせて、
食パンにのせて、
いろいろ茶碗蒸し…
などなど、すぐに作れる玉子料理プラス
玉子を調理するコツも掲載しています。

2007年03月09日

イージーな場所からはじめよう
なにかをやるのに勇気とかはいらない。
そんな七面倒くさいことよりも、じぶんがアホであることに気づけばよい。
多芸多才な人物などそうはいない。普通の人は1コか2コくらいのことしかできない。
ぼくなんかそれすら満足にできたためしない。だから、その1コのことしかやることねーんだ。
そんな感じでやっていけばいいのだ。

文=坂東良晃(タウトク編集人)


ぼくは昔、ひきこもっていたことがある。
そんなに長い期間じゃない。はっきり思い出せないが、1年までは長くない。
ひきこもった理由は、自分でもよくわからない。そのときぼくは18歳であり、とりあえず何をしていいか、わからなくなってしまったのだ。
学校を辞め、仕事もせず、何もせず、遊ぶお金もなく、日のあたらない部屋でじっとしているのが、もっとも楽ちんな生き方であった。家賃1万2000円のボロアパート部屋にトイレはなく、牛乳パックの中にモヨオしたものを放出していた。食事はほとんどとらず、体脂肪がなくなり、背中で腕が組めた。相当ひどい状態であったことは確かだ。
自宅ではない都会の片隅のだったため、ほんとうに長い間誰とも話さなかった。部屋から出たときは外の景色がすごく白く見えた。人と話をしはじめたときにはロレツが回らなかった。

ひきこもり中、かろうじて、かすかに、蜘蛛の糸でつながった程度の細い希望があった。
アフリカにいってみたいということであった。ぼくは子供の頃からアフリカが好きであった。「アフリカの動物図鑑」という写真集は500回くらいながめても飽きなかった。アフリカにいけば、確かに自分の生きていられるスペースがあるんじゃないかと思っていた。
「これをやりたい」というような前向きな目標ではなかった。「それくらいしかやることがない」というたったひとつの残された選択肢であった。それ以外に、やることがないのである。だからぼくはアフリカに向かった。アフリカには1年チョイいた。濃密な1年チョイだった。そこで何があったかは長くなるのでまた話させてね。

そんな感じで10代から20代にかけてバックパッカーを4年間やった。
バックパッカーとは、何もしないでも構わない気楽な場所を見つめるために、ボロ雑巾のような身なりで、食うや食わずで過酷な移動をしつづけるという、おおきな矛盾をかかえた生物である。
バックパッカーの一日は長い。
1泊100円程度のホテルはアジアにはざらにある。特にインドや中近東には、1泊50円を切るような大部屋がある。土の上にムシロをしいただけの宿もあれば、ちゃんとしたシングルベッドをあてがってくれる宿もある。シラミとノミとダニだらけだが。
朝は眠れるだけ眠り、もうこれ以上マブタを閉じることができない!というトコまで寝る。
起きればすでに日は高い。のろのろと服を着替え、枕もとのフルーツを食べたり、 ぼーっと天井を見たり、2度読んだ小説の3度目を読みはじめたりする。
夕方くらいに服を着て、街をぶらぶら散歩する。特に用事もない。あまりに長く同じ街にいるので、いろいろな店の人と顔見知りになっている。新しい店に入るのは面倒くさいので、ほぼ毎日同じ店に入る。お茶と野菜いためを注文して、そのまま店に居座る。誰か知り合いの人が現れたら2時間くらい話しをする。お茶を5杯ほどお代わりしているうちに、深夜になり店じまいとなる。仕方なく部屋に帰り、まどろみが深くなるまでハッパの香に酔う。明け方になってようやく眠くなり、服を着替えることもなく、ごろっと横になり眠る。

こんな自堕落な生活を、何カ月もつづけるのである。な〜んにも生産もせず、労働もせず、メシを食って、本読んで寝ているだけなのだから存在意義などまったくない。生産せず消費は一人前にするという生態系に入っているのかいないのか不明生物である。
このように、バックパッカーの生活内容は「ひきこもり」と同然である。「あの人、部屋にひきこもってる」と言えば、大丈夫ですか?と心配されたりするが、 「あの人、世界を旅してるらしい」と言えば、いいねえとうらやましがってくれる人だっている。しかし、両者やってることは大差ない。

今、ニッポンのひきこもり人口は80万人とも120万人とも言われている。それぞれの人が、それぞれの理由でもってひきこもり、あるいはぼくのようにたいした理由もなく部屋と一体化する人もいるのだろう。
誰からも同情されるような辛いきっかけもあれば、そんなつまらないことで・・・と舌打ちされるも人もいるのだろう。
よく社会問題にまつりあげられるひきこもりはニートとともに「GDPを○パーセント引き下げる」などと、勝手に経済予測に組み込まれたりもしている。ひきこもりたちが、GDPに悪影響を与える以外に、どれほど社会に対して負荷を与えているのかは定かでない。
タダメシ・カラ出張・過剰な退職金などと税をムシバむ役人や議員のオッサンどもや、性的倒錯を隠して教師になるキモ男や、おせっかいこの上ない環境保護運動家とくらべて、どっちが社会的害悪なのか。

今ぼくの周りにも、部屋から出てこれない人たちが何人かいる。彼らの気持ちはさておき、家族は疲弊する。10代のうちはまだいい。20代、30代、40代と年齢を重ねてくると、親は疲れ、そして老いていく。子供がいる二階の部屋まで食事を運ぶことも重労働になってくる。近所・世間の目も、たいへんな重圧となって家族を刺す。親は、自分亡きあとの子の行く末を案じて、朝に夕に暗澹たる気持ちになる。このような状況は、決して幸せなものではない。

ひきこもっている人たちが、このタウトクのような「いざ外に出よう」的な情報誌を読む可能性は少ない。しかし、何かの手違いでこの雑誌が手元に届き、このページを読み、奇跡的にこの行まで読み進んでいるとしたら、あと少しだから、最後まで読んでください。
キミが脱出する場所は、そこの部屋の中じゃない。気楽な場所は、じつはアチコチにたくさんある。意外と楽しく、誰からも干渉されない場所がある。
蒸し暑い工場の中、鉄くずだらけの作業場の隅、まっすぐな夜の道を走る運転席の中、 単純作業がつづく深夜の構内、コンクリートを型枠に流し込む工事現場・・・。そういった場所では、律儀な人たちがキミにやるべきことを与えてくれる。今日やるべきことをやることだけを考え、なるべくきっちりやる。明日のことは明日考える。あまりしゃべる必要はない。ただもくもくと生きてみる。周囲の人たちは、わりと優しい。

それから、こういうことする人は少ないかもしれないけど、おすすめします。
すこしお金がたまったら・・・15万円くらいで十分なんだけど、お金持ちのあまり住んでない国・・・平均的に豊かじゃない国に出かけてみよう。アジアなら、バングラディシュ、ラオス、カンボジア、インド。田舎に行けば、10万円あれば1年くらい余裕で定住できる。
そして、そこで何カ月か、何年かくらしているうちに、今までとても重要だと考えていたことが、ささいな、つまらない、どうでもいいことだったと気づく日がくる。
ぼくは旅先で、たくさんの「ニッポンでは生きられない、って主張する人」たちにであった。そんな相当問題アリな人物でも、何年か旅しているうちになんとなく自然と帰れるようになるのだ。不思議なものでね、気持ちが平坦になるんだね。

ぼくは今、けっこう普通の社会生活をおくっているけど、やっぱしアフリカにでかけていったときと同じで、「これしかやることがない」という 1つの選択肢(選択肢とは言わんか・・・)のなかで生きている。それが「雑誌づくり」ということでコノ文章を書いているわけだが、やることが1つしかないと、とても気楽になる。なんも迷いがないからだ。「あーでもない、こーでもない」と考えることがまったくない。要するにアホの悟りである。

自分が死ぬまでに選ぶたったひとつの選択肢は、そうそう見つかるもんではない。多くのニッポンの若者は、自分にいろんなことが出来そうであるがゆえに、迷ったり悩んだりしている。実際はいろんなことなどできないのにね。可能性は無限なんかじゃない。超有限だ。
50歳になっても、70歳になっても、「自分の人生これでいいのかなあ」と迷っているおじさんたちもいる。どっちかいうと、その方が多い。迷ってるほうが一般的だ。
だから、キミも何年かけてもいいのだ。なにかがひらめくまで部屋ん中で考えるのもいいけど、部屋の外にもイージーな場所はたくさんある。だから、出ようかどうか考え中の人は、外に出たほうがよいとおすすめする。
気楽な場所で、気楽に考えたら、そのうち答えも見つかるだろ。

2007年03月08日

月刊タウン情報CU*2月号 実売部数報告 cu0702_busuu.jpg cu0702_suii.jpg

月刊タウン情報CU*2月号 実売部数報告です。
タウン情報CU*2月号の売部数は、
6406部でした。
詳しくは、上部に表記してある画像をクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している「月刊タウン情報CU*」「月刊タウン情報トクシマ」「結婚しちゃお!」の実売部数を発表しております。

2007年03月07日

月刊タウン情報トクシマ2月号 実売部数報告 tautoku0702_busuu.jpg tautoku0702_suii.jpg

月刊タウン情報トクシマ2月号 実売部数報告です。
タウン情報トクシマ2月号の売部数は、
8672部でした。
詳しくは、上部に表記してある画像をクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU*」「結婚しちゃお!」の実売部数を発表しております。

2007年03月04日

ビーチ漂流記壱 フィリピンのボラカイ島(にまだ着きません)
shima11年にいっかいぐらい、たまらなくビーチが恋しくなる。
キラキラ輝く太陽と地上の間には何もなくて、コバルトブルーの海、透過素材のビーチパラソルと椰子の木がつくる影のなかでぐてっと寝そべりながら、極上のミステリーを読み明かす。のどの渇きを覚えた頃に、キンと冷えたビールと甘ったるい南洋の果実が届けられる。
時計は持たない。時間を知る手かがりは水平線に沈むオレンジ色の夕陽だけ・・・みたいな。そんなイメージが頭に浮かぶと、いくらぬぐってもぬぐい去れない。
仕事は手につかなくなり、帰宅途中にキョーエイのビール売り場で「コロナビール」をカゴに入れてしまう。こんなメヒコ産瓶ビールの栓をシュワッとあけて飲み干しても、ボクの中の渇きを癒せるものではないが、そんな無駄な抵抗を試みる自分がかわいいと納得させる。
ビーチにハマッている人間は、ボクの周囲には少なくない。彼女たちはバリに夢中になったり、タイに繰り返し出かけたりする。バリ好きはバリ島にしか興味がない。日本の女性があのような王侯貴族な気分を味わえるのはバリ島をおいて他にないからだ。エステ、スパ、マッサージ、アロマ、雑貨、ダンス、アート、クラブ、マッシュルーム・・・。癒しをビジネスにする手法に満ち溢れた島で、浅黒いバリボーイたちの痺れるような甘い囁きを耳元にうける。あの「もてはやされ感」に陶酔を覚えない人はおかしい、というのはバリマニアの弁である。
一方のタイに出かける友人は、島を転々としている。サムイ、パンガン、タオ、チャン、クラビ・・・。どの島もいくつかの階層にあわせたサービスがある。金持ちは金持ちなりに、プアーはプアーなりに。彼女たちは地上のどこかに理想の理想郷があると信じる求道者のようでもある。どの島も好き、でもきっともっといい島が私を待ってるに違いないってね。
じゃあボクはというと、たいした思想もない単なるビーチ好きなのです。

ボクがビーチリゾートに求める条件は3つしかない。
1. ビーチに街が隣接していること。
2. 水が透明であること。
3. ホテルがオン・ザ・ビーチであること。
単純なんだけど、この3つの条件を備えているビーチって、ホント少ないんです。
だいたい主張に矛盾があるというのは自覚している。ビーチに街が隣接し、水が透明なわけないって、世界中のビーチフリークに怒られそうだ。
あと、ボク的には、ホテルとビーチを隔てた車道が一本あるだけで興ざめなのです。海に出かけるのが気の遠くなるような面倒くささを伴う。ところがホテルがオン・ザ・ビーチに並んでるのってね、あるようでないのです。ものすごい辺境島のボロ・バンガローか、ものすごい開発された島の大資本系ホテルのどっちか。
ボクは貧乏旅行とラグジュアリーの中間、つまりほどよい心地よさしか求めないから、両方バツ。ああ、中産階級というのはほんと満たされない存在である。でもね、パーフェクトはなくても、「まあまあだな〜」くらいはあっていいと思う。しかし、まあまあの場所すらめったにないのですよ。
「地球の歩き方リゾート編」とか「るるぶワールドガイド」とかを読みあさって、巻頭カラーページのエメラルドグリーンの海にしばし見とれ、今度こそ理想のビーチにめぐり合えるんだと期待をして訪れても、やっぱり何かが違う。
それはつまらない理由なんです。
砂浜に海草がたまりすぎてた、ビーチに大音量のスピーカーが置かれてた、料理のダシが合わなかった、レンタバイクがなかった、モンスーンの時期がずれた・・・その程度のことなんだけど、何かが自分とスイングしていない。いまだに理想のビーチにめぐりあえない自分に、ちょっとイラッとしたりする。

さて、であります。
そのような理想のビーチを探し求めるボクの前に、ひとすじの光明が見えたのであります。その島はフィリピンの中央部にあって、「世界のベストビーチ第一位に選ばれた」との白砂ビーチがあるのだそうです。いったいどこの誰がどのような基準で選んだのかは知らないけれど、 (ガイドブックにも、全然情報の出元は書いてない)そのようなウワサだけは確かにある。
島には飛行場がなく、最寄りの島へ行くのも首都マニラの国際空港で国内線に乗り換えないといけない。うん、この不便さが真のリゾート島には必要なのです。飛行機が直接降り立つ島は、どんどん荒れていくものです。人が増え、自然が処理できる限界以上の排泄物や汚水を人間が生み出せば、おのずと海水は透明さを失っていくのです。
おまけにお国はフィリピンときた。いまだに北部ルソン島の山中には新人民解放軍がいて、南部ミンダナオ島にはモロ民族解放戦線が陣取り、西のスルー海には海賊がうじゃうじゃいるこの国である。しょっちゅうスーパーマーケットが爆破されているのである。セブ島以外の政情不安定な島なら、旅人に荒らされてない楽園があってしかるべきである。

フィリピン行きの飛行機は、関空のモノレールの中からして雰囲気が違っていた。
たまたまフィリピン航空のスッチーやパーサーと同じモノレールに乗ったのだが、いきなり車内でいちゃいちゃしはじめたのである。なんか2人して、髪の毛をこねくり回しあってる! フツーのカップルがやってたら何でもない光景なんだろうけど、タイトスカートの制服姿のスッチーが男性に髪の毛をいじられ腰をくねらせていると、妙にいやらしい!
てゆーか、どんな教育しとんだこの航空会社は、と人生航路的な怒りに満ちる。搭乗待合ロビーとて普通ではない、1人も普通の人がいない。ダンサー風のラメの入ったパンツスーツのおねえさん、裏社会を知り尽くした感じのレイバン黒サングラスのおにいさん、ホステス風日本語で叫ぶケバいおばさん、200パーセント裏稼業の人間だと目つきで主張するおじさん。あと、昭和の博物館から抜け出してきたようなレトロな日本人のおじいさんが、けっこう多い。
笠智衆のごとき白シャツにレトロなネクタイをまとっている。うーんタイムスリップ感覚。
ぼくは今からどこへ行こうとしているのか、不安定な気分。軽いめまいすら覚えるのである。

マニラ国際空港は、次々と降り立つ国際便と入国管理官の数がアンバランスであり、膨大な人数が入国カウンターで列をなしていた。この混雑ぶり、旅だねって感じがしてうれしい。昔のアジアの国際空港って、みんなこんな雰囲気だったと思う。入国するまでに1時間待ちなんて当たり前。旅人はそうやって鍛えられたものです。今じゃどこの空港も近代化され、ホンポンと入国スタンプを押してもらえるようになった。その点、このフィリピンという国、なかなか悪くないのである。役人が役人らしくふてぶてしい顔をしている。日本みたいに、「公務員はよりよい公共サービスを目指します」なんて押し付けがましいことは言わない。「クソ暑いなか、我慢してスタンプ押してやってるんだぜ」というイラついた顔をしている。これまた旅らしくて趣ぶかい。
国内線の乗換え口まで歩く。外は灼熱である。気温は軽く35度はあるだろう。日本からわずか3時間少々のフライトで、春先から真夏への移動である。しかも、ミクロネシアあたりの軽々しい夏とは明らかに違う、スモッグに満ちた不穏な空気につつまれている。「TUBE」が歌う夏と、鈴木光司が描写する夏ほどの落差のある暑さ。

国内線はビーチ行きの飛行機ではないので、地元の商用客の人が大半を占めている。何組かは外国人がいるが、ことごとく白人男に地元女の組み合わせ。日本男と地元女のカップルも2組いる。日本の男性は、1人はハゲ、1人はデブである。 ところが、連れ合いの女性はフィリピンのアイドルかと思わせるほどの美貌とスタイル。 これが資本主義が世界の果てに描いた男女の姿なのかと、しばし自問自答する。
1時間のフライトののち、ローカルを絵に描いたようなカリボ空港に到着。空港の周りは何もない。ちゃちな果物屋とボロいカフェがあるだけだ。外に出たとたん島の名前を連呼するオヤジが数名。ほいほい着いていくと乗合タクシーのワゴン車がお待ちかね。うん、いいね。ビーチへの道は、このように旅人を自動的に運んでくれなくちゃいけない。
見わたすかぎりの畑道をワゴン車は時速120キロぐらいでぶっとばす。後ろの席に、先ほどのデブの日本人とアイドル顔のフィリピン女性が乗り込む。デブの日本人は彼女を日本に連れて行きたがっている。彼女はその話を理解しているくせに、微妙にかわそうとしている。デブとアイドルの恋の駆け引きを1時間半ほど強制的に聞かされ、ようやく目的の島へと向かう船着場に到着。タクシーを降りたとたん、屈強な体躯のおにいさんがスッと現れボクの荷物を奪う。
「カッモーン」とボクを手招きすると、そのままジャブジャブと海の中に入っていく。後を追いかける。港といってもハシケがあるわけじゃなく、海岸沖の砂地にボートが乗り上げているのだ。
乗船客はみな靴を脱いで、ズボンのスソをまくりあげ、海の中に入っていく。それでも太ももくらいの深さの所に船は停泊してるから、スボンはびしょ濡れになる。 荷物持ちのおにいちゃんは、女性を1人ずつ肩に乗せ、船まで運ぶ。あんまし見たことない光景である。

エンジンがバリバリっと大音量でかかる。
舟の胴体の両側に長さ10メートルほどの竹をしたがえたバンカ船は、フィリピン独特の船文化である。竹が波を切りながら、やじろべえのようにバランスを取って進む。30分ほどの船旅の間に夕日はとっぷりと暮れ、海上は漆黒の闇におおわれる。洋上に光るものは何もなく、墨汁のような海に、これまた黒い帆船がたくさん浮かんでいる。
ここはスルー海、世界遺産の海であり、海賊たちが跋扈する海である。何があっても不思議じゃない。遠くのカンテラの光が近づけば、縞シャツに胸毛をはだけた男たちが船になだれ込み、 荒縄でしばられて金銀財宝を奪われる事だってあるのだ。・・・と、ロマンティックな海洋冒険気分にひたっていたら、隣に座ったフィリピンの男の子がケータイで話をはじめた。エンジン音に負けないように大声で何かをがなりたてている。一方で隣のおばさんもケータイでメールを打ちはじめた。ケータイの電波は、世界遺産の海賊海まで追っかけてくるのである。きっと海の荒くれ者どももケータイで連絡とりあってるんだろうな。さみしいね。
360度の闇の中に、さらに濃い闇が浮かぶ。そこだけ背景の星が消されているから島影だとわかる。やがて大きな岬を回りこむと、島のフチに沿って白やオレンヂの光が海の星のように瞬いている。人工の照明である。近づくにつれ、その数の多さに圧倒される。数百、数千の白熱電球や蛍光灯、たいまつの炎がゆれている。さまざまな音楽が海風に混じっている。ロック、レゲエ、ポップス、ヴォサノバ。トランスミュージックの繰り返される打ち込みのリズム。
ときおり人間の叫び声が混じる。煙がもうもうと上がっている。肉や魚を焼くにおいが海上にまで充満している。周囲の暗闇との対比があまりに強烈なため、退廃感がいっそう強まる。ふと「地獄の黙示録」にこんなシーンはなかっただろうか、と思う。こんな孤島で、毎夜どのような宴が繰り広げられているというのか。ここは究極の楽園か、それともまたもや微妙に失敗気味のビーチなのか。
ビーチ漂流記参 フィリピンのボラカイ島(今宵は大火事なり)
shima3ビーチ通りに立ち並ぶレストランやカフェは100軒を超える。夜ともなると世界中の美食がここに終結って感じの光景が見られる。インド、イタリアン、メキシカン、ジャマイカン、ネパール、ポルトガル、タイめし、中華、和食など、まさに玉石混合、なんでもありのグルメテーマパーク的様相を示している。
ハングル語が目立つ。コリアンメニューや韓国焼肉の専門店が50メートルに1軒は店を構えている。「モンゴリアンバーベキュー」も人気だ。30種類ほどの食材を、丼に山盛りにして一気に鉄板で焼く。これが正統なモンゴル料理だとはにわかには信じがたいが・・・。
カフェやカウンターバーが多い。いくつかのカフェは、夜になるとバイキング料理店に変身する。シーフードが10品くらい、野菜サラダや、フルーツ、スープもあって、240円ほどで食べ放題だ。こりゃ安い。
ビーチに面した店はみな、砂浜にテーブルと椅子を並べキャンドルを灯す。そして、周辺のヤシの木々をライトアップするのである。ヤシの木に囲まれたスペースに1客ずつダイニングテーブルを用意する店もあり、恋人たちは海と星空を2人占めできるという趣向。シーフードや肉を網焼きする白煙がもうもうと立ちのぼる。アコースティックやロックバンドの生演奏を聴かせる店も10軒ほどあり、お金がなくてもビーチに寝っ転がって音楽を聴ける。
かくして、ビーチ通りは匂いと音楽と光にあふれる。
物売りの子供たちが、光るアクセサリーを振り回し、通りを闊歩する。誰もかれもが同じ商品を売っている。観光客に声をかけるでもなく、売り子はただ商品を振りまわしているだけ。何やってんだろ。あるいは極彩色のネオンサインの横で、物乞いの女性や子供が、路上に並ぶ。服装はボロきれであり、髪の毛は何年も洗っていない。このような乞食を、この島は排除しないのである。
おそらく大半のリゾート島なら、彼らのような存在を強引に無いものとするだろう。ぼくの目には「寛容な世界」と映るけど、ごく普通の観光客にとっては、えぐい光景かもしれない。彼らは砂浜にべったりと座り込んでいるだけで、あまり積極的にはモノを求めない。だから収入もほとんどなさそうである。いずれにしても、商売っ気のないのがこの島の住人の特長であり、そんなことで食いぶちにありつけるのだろうかと、逆に心配させられる。

何日間かホワイトビーチをうろうろしているうちに、理想のバンガローを発見した。「モナリザ・イン」はツイン1泊5600円だが、窓を開けるとすぐそこが海辺である。宿の入口に「セックス目的の旅行者お断り!」との大きな貼り紙がある。何十年も使われている磨きの入った床材が美しい。
気性の強そうな女性オーナーがホテルの隅々まで管理し、ゴミひとつない状態をキープしていることがわかる。海に面したデッキに重厚なハンモッグが吊るされていて、読書にうってつけだ。迷わずいちばん海に近い部屋にチェックインする。夕暮れどきに、水平線に沈む夕日が窓の障子をオレンジに染める。
で、出発までの数日をこのお気に入りの宿ですごすうちに、とんでもないことが起こってしまった。いつものようにお昼からジョギングと水泳と筋トレをし、夕刻のまどろみをむさぼっていると、外から絶叫とも悲鳴ともつかない声が聞こえ、目を覚ます。
ねぼけマナコでドアを開けると、外は戦場のようになっていた。宿の裏側にある市場からオレンジの火柱があがっている。乾いたヤシの木の皮が、巨大な火の粉となって強風にあおられこっちに向かって飛んでくる。その火の塊がバンガローの屋根に落ちると、たちまち屋根が猛火につつまれる。2分としないうちに、右も左も火の海と化した。
パスポートが入っているザックをつかみ部屋を逃げだすと、あたりは黒煙でつつまれている。目に激痛が走りまぶたを開けることができない。炎が熱風をなり全身をたたく。熱い。
プロパンガスのボンベに引火したのか、背後で爆発音が連続する。空から爆撃をうけているような感じ。幸いかな一番海に近い部屋だった。目は見えなくなったが、海の方向だけは把握している。
ぶじホワイトビーチに逃げたら、千人ほどの絶望的な顔をした村人や旅人が立ち尽くしている。火の粉をかぶった人が海に飛び込み、家財道具や店の商品を棚ごと背負った人たちが、白砂の上に荷物を積み上げていく。
部屋を脱出した5分後には、ぼくのいたバンガローの屋根が発火し、数分で建物全体が崩れ落ちた。村じゅうの人たちが、大声をあげながら海の水をバケツリレーで運び、鎮火させようとしているが、猛火を前にあまりに無力である。
火はつぎつぎと燃え広がり、島の集落数百軒を焼く大火事となる。
「タリパパ」と呼ばれる島最大の商店街や、島唯一の市場のすべてを焼き尽くして鎮火するまでに、それからまるまる1日を要した。荷物はみな焼けてしまった。あのとき、村人の叫び声で目が覚めなければ死んでいた。

人間の生死などどこに境目があるかわからないなと思う。火事から2日たって、まる焼けになった「モナリザ・イン」の女性オーナーに宿代を払いにいった。オーナーは瓦礫の跡片付けをしていた。そしてぼくの姿を見ると懐かしそうに微笑んだ。
「あんた生きていたんだね。心配したよ。こっちはごらんのとおり何もかもなくしてしまったよ!
お金も何も残ってないよ! けどあんたが今くれたお金で今夜の食事は豪華にできそうよ、ワッハッハ!」と近所のおばちゃんたちと「ラッキー、ラッキー」と盛り上がっている。黒炭が林立する焼け焦げた愛するホテルを前に、ふつうなら絶望しそうなものだが、前向きに生きる人間の心根というものは凄いものだと胸を打たれる。

はてさて、「たまの休暇を楽しむサラリーマンによるリゾート島紀行」だったはずのこのリポートは、
かくして壮絶な幕切れとなったわけです。さて、この島の評価はどうしよう?
ビーチの環境 ☆☆☆☆☆
食べ物 ☆☆☆☆
ホテル関係 ☆☆☆
街の楽しさ ☆☆☆
治安 ☆☆☆☆☆
こんなとこなのかなあ。ぼくとしては、アジアビーチとしては最高評価に近いです。この島は6月から雨季に入るという。といっても、雨がザーザー降りになるわけでもなく、晴れの比率がいくぶん落ちるくらいと考えておいてよさそうだ。
風はめちゃ強いらしいけど、ウインドサーファーにとっては悪くない環境だ。宿によっては料金が30パーセントほど安くなり、観光客も少なくなって実はねらい目なのだそうだ。・・・とお勧めしすぎるのもどうかと思います。雨季に行ったことないしね。みなさん試してみてください。

ビーチ漂流記弐 フィリピンのボラカイ島(天国的砂浜なり)
shima2岸辺に船が近づくと、船首が海底の砂地につっこむ。この島にも港はない。海上で船は停泊し、旅人たちは船首のタラップから海面におそるおそる足を伸ばす。水深はひざ上くらい。だが波がくれば腰までつかる。スボンはたちまち水浸しになる。しかしそんなことを構っている余裕もない。大またで陸地をめざすしか選択肢はないのである。ビーチ沿いにたくさんのかがり火や電飾が並んでいて視界の隅まで続いている。ろくなアクセスがないこの島の異常なほどの栄えっぷり。ギャップがはなはだしい。
宿の予約をしていなかったので、最悪ビーチでごろ寝と決めていたが、その心配もないようだ。各ホテルの前に「VACANT ROOM=空き室あり」の表示が出ている。おかげで、いちいちホテルのフロントまでの長いアプローチを歩き、空き室の有無を確認しなくていい。超便利!
ホテルはバックパッカー向けの安宿から高級リゾートまでそろっている。安宿はツイン1000円くらいからあり、高級リゾートといってもツイン12000円前後でラグジュアリィな部屋に泊まれる。安宿といってもアジアにありがちなあばら家のような場所ではなく大変清潔である。また、安宿と高級リゾートが、ビーチベルトに入り混じって建っており、リゾート島にありがちなビーチ沿いを高級ホテルが独占するという光景はない。ここは、きわめて平等な島なのである。
ぼくは1泊3600円の中級ホテル「アリスインワンダーランド」にチェックインする。中級といっても、中庭にバーカウンターがあり、脇には小ぶりなプールもついている。 部屋は独立型のバンガローで、ベランダにはハンモックが揺れている。朝ごはんもつく。 入口にはしっかり警備員がいてセキュリティーがよく、これで3600円なら悪くないって感じ。
宿に荷物を置くと、夜の街をあてどなく歩いてみる。幅1メートルほどの小道が、縦横に走っている。もちろん自動車は通れない。村人たちも、すれ違うときは遠慮がちに脇に寄る。裏道には、いくつかの宿の看板が路上に張り出している。それがなぜか日本の古い温泉地を思い出させる。
夜が深い。なつかしい闇である。もちろん日本にも夜は訪れるが、昔のようなホントの闇はなくなってしまった。24時間のコンビニが街を明るくし、街灯や信号は一晩じゅう道路を照らしている。便利さと安全性とひきかえに、ぼくたちは街から闇を失ってしまったのだ。夕暮れどきのさみしさや、闇の怖さ、ドキドキする気持ち。動物の本能からくる見えざるものへの畏敬の念を感じる場所がない。だが、この島には確かに心を動かす闇が存在している。民家の窓から暖かい光と、大人や子供たちの嬌声が漏れる。細い小道は、奥へ奥へとつづく。天上に鈍く光る星座の半球を、やしの木々がワサワサとさえぎる。
そのうち、ふいに賑やかな通りに出くわす。商店街だ。暗闇が一転し、色の氾濫の世界がある。可視光線にある全部の色をぶちまけたかのような、まばゆい世界。熱帯の毒々しい色の魚、南洋のパステルな果実、原色が山盛りとなった香辛料。ピンク色の豚肉が宙にぶらさがっている。何百種類もの女性用ワンピース、電球を色紙で包んだ怪しいデザインランプ。たくさんの人がいる。タトゥー屋にたむろする男、携帯電話を組み立てる若者たち、牛刀で肉を裁つおばさん。アジアのビーチらしくない街の匂いである。どこかの街に似ている気がして記憶をたどる。
たとえばカトマンズの町中に姿を現す寺社、その周りを取り囲む細い路地。あるいはインド・バラナシのガンガー沿いの迷路のような感じ。それらの街と似ているようではある。だがここには猥雑だけど性的要素はない。そして宗教的なシンボルもない。それゆえに奇妙な軽さがある。旅人が求める浮遊感はかろうじて手に入る。ズッポリのめりこむほどではない適度な無法地帯。1週間程度の有給休暇にはちょうどいい。これなら慣れるのに時間がかからない。ぼくは商店街に心地よい場所はないかと、店を一軒一軒ひやかしはじめる。

カンカン照りの島は、紺碧に揺れるスルー海の真ん中にあった。世界じゅうのビーチフリークが一生に1度は訪れるというホワイトビーチは、どこがビーチの端っこなのかと思わせるほどにだだっ広く、目がくらむほどの光線をレフ板のようにはね返す。その白砂は、カンペキとはいえない程度のオフホワイトである。
南北に約4キロメートルつづくビーチは、北側になるほど遠浅になり、砂浜の幅を広げる。干潮時には幅80メートル以上にもなる。あたり一面が白の世界となり、強烈な反射光がアゴの下やひざを焼く。反対に南側は波打ち際へのアプローチが近く、地元のカップルがデートしていたりする。
より高級リゾート的なムードを求めるなら北側がよいし、気楽に子供たちとビーチサッカーにでも興じたいなら南側がいい。この南北に長い海岸線沿いに、ビーチ通りと呼ばれる白砂の道が伸びる。この道こそが島最大の特徴だと言える。
ビーチ通り沿いには、延々とレストランやショッピング街がつづいている。ここでは、ビーチサンダルをはいてりゃ(あるいは裸足でも)、裸のままでも食事から航空券予約、 両替、ショッピング、マリンスポーツの手配、エステティックまで、なんでもできてしまうのである。
タイやインドネシアの島々で、このような環境の島をぼくは知らない。ビーチと街の間には必ず車道があったり、リゾートホテルのプールが独占していたり、ビーチを守るための鉄柵があったりする。たとえば、太平洋で最もメジャーなビーチのひとつバリ島の「クタビーチ」ならば、ビーチ横は車道が通り、ホテルや街に出るためには、騒がしい道を越えなくちゃいけない。だから、生活が何かとわずらわしいものになる。ビーチにでかけるのが一大行事となってしまうのだ。用意するもの・・・ビーチマット、タオル、紫外線ブロック、サンダル、お金、文庫本。 これらを砂浜で盗まれないように用心しながら、波とたわむれる。イマイチである。
ホワイトビーチならそんな心配はない。海パンいっちょうで裸足のままホテルの部屋からビーチにダッシュできるのである。ホワイトビーチを往復すれば8キロメートル。1時間のジョギングコースにぴったりであることも気に入る。砂浜はほどよく硬く締まっており、楽に走ることができる。ホビーキャット呼ばれる双胴の帆船が、浅瀬に何十艘と停泊している。その帆の鮮やかな色のリズムが、ランニングを飽きさせない。世界じゅうのビーチジョガーに教えたくなるほどの名コースであると断言できる。

2007年03月02日

タウトク3月号を持って旅に出ませんか? tokushima-tautoku0703
特集1
●気まま春旅
レトロな町並みや超ディープな商店街へ旅にでる
予約なしの風まかせドライブ。
知らない街を歩いて出会った風景、
地元でしか食べられないうまいものを求めて…
徳島から日帰りで行けるステキな19エリアを掲載中。


2007年03月01日

さらら 3月1日号発行しました! salala0301.jpg 今回の特集は、人間ドック!
編集スタッフが実際に人間ドックを初体験した模様を連載して6カ月。連載時、人間ドックに関する質問が読者から多数寄せられました。検査内容、料金や検査の時間、定期健診との違い、胃カメラとバリウムどっちを選ぶ人が多いの?・・・などのギモンについて編集部が再取材したものを紹介しています。

2007年02月25日

革命児の生き方
「若さゆえの無謀」というコトバの陳腐さ。
大人になれば落ち着かなきゃいけないなんて、
みな信じこまされている。そんなのダマシだ。
ハゲチャビンのおっちゃんになっても、
語る夢がある大人はみな無謀なのだ。

文=坂東良晃(タウトク編集人)


その男に出会ったのは1987年、アフリカのナイロビという街だ。

ナイロビのダウンタウンに「リバーハウス」という伝説の宿がある。
3階建ての古いアパートメントの一角が、貧乏旅行者に開放されている。2階には広い中庭があり、さんさんと太陽光がふりそそいでいる。その周囲をとりまくように部屋が並んでいる。
そこでは、ごく普通に地元のケニア人が日常生活を営んでいる。会社に出勤する人もいれば、日雇いの仕事を探している兄ちゃんもいる。とはいえ、真っ昼間からヤーマーという幻覚効果のある葉っぱをくちゃくちゃと噛み、恍惚の表情をたれ流しながら口を真っ赤にしてる住人も多く、平均すれば普通ではないのかもしれない。
夜な夜な地元のディスコに男を釣りに出かける娼婦たちも、何部屋かを借りている。
彼女たちの多くは、ナイロビ生まれではなく北部の寒村出身である。稼ぎがよいのかどうかは知らないが、美人は1人で部屋を借りているし、娼婦としてはどうなんだろ?というクラスの女性は3人くらいでルームシェアをしている。
旅人と、下町のオッチャン・オバチャンと、出稼ぎ娼婦が共同生活する不思議な空間。天気のいい日には、クリーニング屋を営むオバチャンがシーツの洗濯をはじめる。中庭いっぱいに何重にも干されたカラフルなシーツが風にそよぐ。その傍らで、ぼくは惰眠をむさぼっている。

ぼくにはやることがなくなっていた。
ぼくはそのとき二十歳で、十代の頃からはじめたひとつの大きな旅を終えていた。アフリカ大陸をインド洋岸から大西洋岸まで歩いて旅をした。6千キロを歩くのに1年かかった。
地図のない密林地帯や、涸れはてた砂と岩だけのサバンナ。厳しい旅であったが、身体の順応は早かった。餓えも、マラリアも、ボウウラの浮いた飲み水も、すぐに身体にしみついてしまった。自分の内面への旅のはずが、酔狂なピクニックになってしまった。大きな徒労感と怠惰が全身をおそっていた。
これから先、いったい何をすればいい?

そんなときである。男が宿にあらわれたのは。
一目見たときから、男はタダモノではない気配を全身から発していた。眼光はヘビのように鋭いが、正面から見れば澄み切っている。四肢の筋肉はシャープな彫物をつくり、研ぎ澄まされたアスリートのようである。ヤクザではあるまいが、身体のあちこちに古傷、生傷がある。
彼には貧乏旅行者がまとっている「ダルさ」がない。
旅人たちは、何かを探しにアフリカの辺境にやってきていた。ある者は貧しいスラムの街に、ある者は未踏のジャングルへと、地図のない場所を求め自分さがしをする。壮大なるモラトリアムである。1年、2年とつづく旅。地平線を何本越えようとも、その彼方に求めるものはないことを旅人は知り、都会へと帰る。あるいは、見つからない回答を探しつづけ、漂流人となる。自分と現実の境界線を見失い、狂う。
しかし、この男には「迷い」がまるでないのである。

男は名前を聞かれると、「オレは革命児だ」と名乗る。
他人にアドレス交換を求められると、住所の下に巨大な文字で「革命児」とだけサインをする。それでも郵便物は届くらしい。ヘンである。しかしこの果ての地で、自分を革命児だと名乗るような輩は、珍しいとは言えない。
要するに、少しオカシイのだろうと想像する。そもそも、いつ後ろから刺されるかも知れないナイロビのダウンタウンに、まともな人間がやってくるはずがない。

だが、革命児はきわめてマトモな人物であった。革命児は二十三歳という若さに似つかわしくないほど、人間愛にあふれている。困っている人がいると、相手が誰であろうとトコトン世話を焼く。
ある日、革命児と話をしていると、外から叫び声がする。ケンカか、と思った瞬間、革命児は疾風のごとく外に飛びだしていく。ここは物騒な下町である。ケンカといっても殴り合いじゃすまない。平気でナイフくらいは登場する。集団リンチ、ゴミタメの中で流血、失禁する敗者、そんな風景が日常茶飯だ。ところが、革命児は見ず知らずの地元のあんちゃんのケンカを止めに入る。革命児は、他人の事情を優先する。自分の身を守らない。

革命児が語る物語はファンタジーにあふれていた。彼が身体に負ったいくつもの傷は、ジンバブエの外人傭兵部隊に入隊したときについたものだ。
「軍隊に入ったらさあ、最初の日に人の殺し方を教えられるんだ。細い針金を相手の後ろから首に回し、ぐいっと背中でかつくだけでいいなんてね」

アラーの思想に共感する彼は、どうしてもメッカに巡礼したいと考えていた。彼の父親は日本人としては数人しかいないメッカ巡礼をはたした敬虔なイスラム教徒だという。
メッカに入るためには、サウジアラビアに入国しなければならない。ところが日本人である革命児には、なかなか入国許可がおりない。彼は、ソマリアにあるサウジ大使館の前で数週間の座り込みをし、日照りと風雨のなかで、暗唱したコーランを滔々と吟じた。大使館員はついに折れ、革命児を認めた。アラビア半島を徒歩で横断し、彼は聖地メッカへの旅を実行した。

銃撃を受けたこともある。
社会主義革命を成功させたアフリカ北部の国家・リビア。革命児はカダフィ大佐が作った革命国家を自分の目で見ようとした。当時、旅行者がリビアに入ることは不可能であった。革命児は、砂漠には国境がないと考え、何もないないはずのそこから潜入を試みた。巨大なポリタンクに飲料水を蓄え、ひたすら歩く。しかし、砂漠を行けども行けども鉄条網が張り巡らせれており、国境警備兵がいる。やがて水は涸れ生命のピンチ。強行突破を決意した革命児の足元に、兵士はマシンガンを撃ちこんだ。
子供の頃にワクワクして読んだ冒険小説のような話を、革命児はいきいきと語る。

なぜ彼は、自分を「革命児」と称するのか。
「オレはアフリカに革命を起こすんだ。南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)をぶっつぶすんだ。サベツのない世界に変えてみせる。そのためにオレは生まれてきたのだ」
傭兵としてのトレーニングも、イスラムの奉仕の思想も、世界を知る無謀な旅も、すべてはその準備のため。
ぼくは、この言葉を半分信じ、半分疑った。純粋な若者の、理想論だと思った。
彼ほどの行動力があれば、いずれ必ず南アフリカに入るだろう。そこで抵抗運動をする人々と合流して、珍しい黄色人種の人権活動家として注目を浴びるだろう。でもそれは、若さゆえの熱さ、守るもののない若者だからできる無謀なチャレンジだと、ぼくは思った。
そう。革命児だって、ぼくと同じようなものだ・・・。彼なりの自分さがしをしてるのだ。

そんな彼への評価が大間違いであったことがわかった。革命児は本気だったのだ。彼の民衆革命への志は、いまだに途絶えていなかった。
一冊の本が出版された。
「我が志アフリカにあり」朝日新聞社刊。
革命児・島岡強の半生をつづった痛快なノンフィクションである。著者である島岡由美子さんは、ぼくが出合った当時から革命児と旅をともにしていた。顔立ちは、周囲が振り返るほどのものすごい美人。しかも、活発な女性ツーリストとは対極の良家の子女タイプ。上品な物腰も、おっとりとした口調も、日曜に銀座のデパートにお出かけするような感じの洋服も、下町のボロ宿のなかで恐ろしく違和感のある女性であった。
ケンカの仲裁に飛び出していく革命児を呆然と見送りながら、「いつものことだから、あの人はそういう人だから」と不安そうに微笑んでいた。
その島岡由美子さんが書き綴った革命児の人生は、鮮烈このうえない。
タンザニアのザンジバルという島に腰をすえた革命児は、草っぱらに柔道場を開き、たくさんの若者を指導した。そして、世界選手権に出場する選手を育てるまでに至った。一方で漁業や運送業を興し、地元の職のない若者たちの働き口を作り、支援をつづけている。自分以外の誰かのために生きる、その無垢な姿勢は微塵も揺るがない。18年の時が過ぎても、革命児は昔のままの革命児なのだ。
「島岡強」でインターネット検索すれば、現在の彼の姿も見える。かつての研ぎ澄まされた虎のような顔は、柔和な大人の顔になっているが、荒々しいガキ大将ぶりは健在である。いくつになってもどこまでも戦い続けている革命児。負けちゃいられないと思う。
そんな革命児のドキュメンタリーが、「スマステ」でも放映された。突然すぎて見逃した、チクショー。誰か録画してない?