NEW TOPIC
2008年10月16日
行きつけにしたい徳島の美容室を
たくさん集めたふろく本がついています!
徳島の人気ヘアサロンはもちろん、
スタイリストさんの素顔の紹介や、
割引やサービスなどお得なクーポンまで
見どころ満載!
次の美容室を探すとき、
必ず役立つ1冊です!
2008年10月11日
2008年 徳島最新「和食・洋食・中華」の店100
1年以内にオープンした話題の新店100店を一挙大放出!ヘルシーな和食、こってり洋食、無性に食べたくなる中華、居心地重視のカフェ、粉もん大好きお好み焼、皆でカンパイ居酒屋、少し大人っぽくバー、笑顔こぼれるスイーツ…。こんなにたくさんのお店がオープン!行ったことないお店があるなら要チェック! どんどん進化していく徳島食事情からもう目がはなせない!
2008年10月07日
月刊タウン情報CU*9月号 実売部数報告です。
タウン情報CU*9月号の売部数は、
4770部でした。
詳しくは、上部に表記してある画像をクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している
「月刊タウン情報CU*」「月刊タウン情報トクシマ」「結婚しちゃお!」
の実売部数を発表しております。
月刊タウン情報トクシマ9月号 実売部数報告です。
タウン情報トクシマ9月号の売部数は、
10400部でした。
詳しくは、上部に表記してある画像をクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している
「月刊タウン情報トクシマ」
「月刊タウン情報CU*」
「結婚しちゃお!」
の実売部数を発表しております。
2008年10月02日
文=坂東良晃(タウトク編集人)
やりたいことが、うんざりするほどある。「うんざり」ってのは良くないか。しかし「うんざり」なのである。物事の進ちょくの遅さにだ。
作りたい雑誌が無限にある。しかしぜっんぜん手がつけられてない。いま手元にはじゅくじゅくに熟し切った企画書が5本、そのいずれもが「スタート!」の合図が鳴ればそくざにスプリントに移れる段階にある。いや、そんなスマートな比喩は適していない。相手に飛びかかる寸前の土佐犬が、親方に首根っこを押さえられている状態だ。ぼくは毎晩のように憤懣やるかたなく、ウーウー唸りながら布団に潜り込んで苛立ちと戦っているのだ。時計じかけのオレンジ寸前だ。
やりたいことが、うんざりするほどある。「うんざり」ってのは良くないか。しかし「うんざり」なのである。物事の進ちょくの遅さにだ。
作りたい雑誌が無限にある。しかしぜっんぜん手がつけられてない。いま手元にはじゅくじゅくに熟し切った企画書が5本、そのいずれもが「スタート!」の合図が鳴ればそくざにスプリントに移れる段階にある。いや、そんなスマートな比喩は適していない。相手に飛びかかる寸前の土佐犬が、親方に首根っこを押さえられている状態だ。ぼくは毎晩のように憤懣やるかたなく、ウーウー唸りながら布団に潜り込んで苛立ちと戦っているのだ。時計じかけのオレンジ寸前だ。
なぜ飛び出せないか。理由は1つ、メンツである。メンツといっても「俺のメンツが立たねぇ」の方ではなくて、「メンツが足りない」のメンツである。1本の商業誌を創刊するには少なくとも10名前後のスタッフが必要だ。しかもよほど個性的で、風変わりで、性格の異なる人材を組み合わせる必要がある。暴れ馬も必要、ギャガーも必要、クソ真面目も、ドヤンキーも、熱血漢も、ヲタクも必要。だが、四方八方を尽くしても10人ものバカおもしろい人は集まらない。
雑誌は人間が作る。作り手である人間の考え方や人格がモロに製品に表れてしまう。
たとえば自動車や薬品などの製品には絶対的な規格が存在し、厳然と管理すべき製造工程がある。その規律を守り通す営み、そして創意工夫によってレベルアップを図るのは、コンピューターでもなく製造ラインでもない。紛れもなく人間である。しかし、製造過程に関わるスタッフが、おのおの独自の判断で商品を作り変えることは許されない。
その点、雑誌はちがう。「規格」というものがなく、完成品に至るまでのマニュアルも法則もない。現場に立つ1人1人が現場で判断し、結果をつみあげていく。これは入場料を取って観客に見せるプロスポーツの試合や演劇など舞台のイメージに近い。サッカーや野球の試合は、どのようなゲームメイクをするか事前にプランがある。しかしいったん試合がはじまれば、その流れや結果を誰もコントロールできない。秒刻みで展開が変わり、そのたびに判断の選択肢が何万通りも発生するためだ。ゆえに想像だにしないストーリーが組み上がり、時に観客の心を揺さぶるドラマが生まれる。
雑誌は印刷物という点では工業製品の一種だが、中身は人間の思いの集合体である。毎日、何人もの人に会い、積み重ねてきた生き方、物の見方を聞き取る。その記事が締切寸前に大量に仕上がってくる。そこには何百もの人の営みが記されている。鳥肌の立つような人生、予期せぬ物語、熱くて真っ直ぐな思い・・・その瞬間あらかじめ想定した雑誌のコンセプトなんて吹っ飛んでしまうのだ。特定の思想にのっとって誰かがコントロールすることは不可能な製品、それが雑誌なんである。
そしてどんなに情熱を注いで生産しても、月刊誌なら1カ月後にはその商品は無に帰し、ふたたび新しいモノをゼロから作り直す。月刊誌は1年に12回、隔週刊誌なら24回、新製品を製造する。この短いサイクルもまた一般の商業製品とは異なる。作っても、作っても、いつも新製品を作り続けている。そんな仕事である。
もとい。
来年どうしてもやりたい仕事が数本ある。これはどうしてもやらなくてはならない。何年間も手がつけられないままに耐えてきたことだ。来年挑戦できないと暴発が起こる。1人で暴動を起こしてやる。
だがぼくが「やりたい〜!」と手足をバタバタ振ってタダこねても、人材がいなければ何一つとして日の目は見ない。「こんなおもしろい雑誌があればいい」なんて夢想などいくらでも描けるが、それを現実に変換できる人材はめったに現れない。
おもしろい人間でなければ、おもしろい雑誌は作れない。研修やトレーニングでは「おもしろい」という個性は肉づけできない。アイデアや仕掛けや言葉は天からは降ってこない。人間の内面から溢れだすものだ。だから、根っからおもしろい人の登場を日々待ち焦がれている。
ってことで、徳島で雑誌を作りたい人、ぜひ当社の求人広告をお読み下さい。
雑誌は人間が作る。作り手である人間の考え方や人格がモロに製品に表れてしまう。
たとえば自動車や薬品などの製品には絶対的な規格が存在し、厳然と管理すべき製造工程がある。その規律を守り通す営み、そして創意工夫によってレベルアップを図るのは、コンピューターでもなく製造ラインでもない。紛れもなく人間である。しかし、製造過程に関わるスタッフが、おのおの独自の判断で商品を作り変えることは許されない。
その点、雑誌はちがう。「規格」というものがなく、完成品に至るまでのマニュアルも法則もない。現場に立つ1人1人が現場で判断し、結果をつみあげていく。これは入場料を取って観客に見せるプロスポーツの試合や演劇など舞台のイメージに近い。サッカーや野球の試合は、どのようなゲームメイクをするか事前にプランがある。しかしいったん試合がはじまれば、その流れや結果を誰もコントロールできない。秒刻みで展開が変わり、そのたびに判断の選択肢が何万通りも発生するためだ。ゆえに想像だにしないストーリーが組み上がり、時に観客の心を揺さぶるドラマが生まれる。
雑誌は印刷物という点では工業製品の一種だが、中身は人間の思いの集合体である。毎日、何人もの人に会い、積み重ねてきた生き方、物の見方を聞き取る。その記事が締切寸前に大量に仕上がってくる。そこには何百もの人の営みが記されている。鳥肌の立つような人生、予期せぬ物語、熱くて真っ直ぐな思い・・・その瞬間あらかじめ想定した雑誌のコンセプトなんて吹っ飛んでしまうのだ。特定の思想にのっとって誰かがコントロールすることは不可能な製品、それが雑誌なんである。
そしてどんなに情熱を注いで生産しても、月刊誌なら1カ月後にはその商品は無に帰し、ふたたび新しいモノをゼロから作り直す。月刊誌は1年に12回、隔週刊誌なら24回、新製品を製造する。この短いサイクルもまた一般の商業製品とは異なる。作っても、作っても、いつも新製品を作り続けている。そんな仕事である。
もとい。
来年どうしてもやりたい仕事が数本ある。これはどうしてもやらなくてはならない。何年間も手がつけられないままに耐えてきたことだ。来年挑戦できないと暴発が起こる。1人で暴動を起こしてやる。
だがぼくが「やりたい〜!」と手足をバタバタ振ってタダこねても、人材がいなければ何一つとして日の目は見ない。「こんなおもしろい雑誌があればいい」なんて夢想などいくらでも描けるが、それを現実に変換できる人材はめったに現れない。
おもしろい人間でなければ、おもしろい雑誌は作れない。研修やトレーニングでは「おもしろい」という個性は肉づけできない。アイデアや仕掛けや言葉は天からは降ってこない。人間の内面から溢れだすものだ。だから、根っからおもしろい人の登場を日々待ち焦がれている。
ってことで、徳島で雑誌を作りたい人、ぜひ当社の求人広告をお読み下さい。
徳島の豊かな土地で育った数々の名産品や野菜をパスタとコラボさせちゃいました!ちりめんや阿波尾鶏、ちくわ、すだち、レンコン、みかんなどをそれぞれスパゲティ編、ペンネ&マカロニ編にわけてご紹介。さらにパスタだけに留まらず、半田そうめん編も登場し計14種類の徳島とイタリアンが夢の共演メニューがここに登場。オシャレなご当地料理にいざ挑戦!
また大好評の「嗚呼!さらら番付」では…
徳島県民に聞く!「わが家の不況のりきり術」
物価高に直撃された家計をやりくりするために生まれた、さらら読者驚きの知恵とは。
2008年09月26日
早朝6時から行列のできる産直市、開始15分で売り切れ続出の朝市?朝採れ野菜やピチピチ鮮魚などが安価で手に入るだけでなく、お店の人とのおしゃべりを楽しんだりと魅力たっぷり。徳島県内の名物市を88ヵ所集めた、完全保存版。
☆徳島発!四国・淡路・神戸の人気ショッピングモール☆
続々と登場する巨大モール、有名ブランドがお得に手に入るアウトレットモール、アミューズメントパークさながらのプレイスポットなど徳島や近県の注目のお買い物スポットを大紹介。
2008年09月13日
☆絶叫レジャー!☆
大人だからってレジャーも大人っぽくなんてつまらない!この秋はアクティブに、いつもとは違った刺激的な休日を過ごしたい♪たとえば激しいアトラクションや遊具、体ひとつで体験する壮大な自然、びっくり仰天グルメ、さらに最高にアツイお祭り。全身で驚き、全身で笑い、全身で感動すれば気分もスッキリ!今回はそんな「ありえない〜」と叫んでしまいそうなとっておきの絶叫レジャーを集めました。県内はもちろん、四国内、さらには関西まで足を伸ばしてホリデーを楽しんじゃおう!
2008年09月05日
月刊タウン情報CU*8月号 実売部数報告です。
タウン情報CU*8月号の売部数は、
5705部でした。
詳しくは、上部に表記してある画像をクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している
「月刊タウン情報CU*」「月刊タウン情報トクシマ」「結婚しちゃお!」
の実売部数を発表しております。
月刊タウン情報トクシマ8月号 実売部数報告です。
タウン情報トクシマ8月号の売部数は、
11351部でした。
詳しくは、上部に表記してある画像をクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している
「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU*」「結婚しちゃお!」
の実売部数を発表しております。
2008年08月30日
知れば知るほど奥深い徳島うどん。王道の有名店から3時間しか開いていないディープなお店88店がここに集結。超保存版のうどん巡礼マップを見ながらうどんの旅へGO!
☆続々登場!新コーナー☆
町のウワサ、気になるあのこと、地味目の調査なんでも引き受けます!「タウトク刑事」
今すぐ欲しい!秋の新作スニーカーベスト100「Hand Let's!」
人気のパティスリーのシュークリームを徹底食べ比べ!「究極の十品」
この他にも地元の人や町、モノに密着した濃ゆーいコーナーが一気にスタート。
2008年08月28日
さあ、あなたならどうする?
文=坂東良晃(タウトク編集人)
マラソン話のつづきです。
レース会場に行くと、いろんな人がいる。それこそオリンピック代表候補や県の記録を持っているトップアスリート級から、デップリとおなかが突き出たメタボ解消目的おじさん、ダイナマイト級のおしりをゆっさゆっさ揺らすビギナーおねえさん、仲間内で嬌声をあげるパワフルおばさん軍団まで多種多彩である。
マラソン話のつづきです。
レース会場に行くと、いろんな人がいる。それこそオリンピック代表候補や県の記録を持っているトップアスリート級から、デップリとおなかが突き出たメタボ解消目的おじさん、ダイナマイト級のおしりをゆっさゆっさ揺らすビギナーおねえさん、仲間内で嬌声をあげるパワフルおばさん軍団まで多種多彩である。
そして喜寿、米寿をまぢかにした人生の大先輩方も颯爽とジャージを脱ぎ捨てランニングショーツ姿になる。市民マラソン大会のおもしろさは、こういったさまざまなレベルの人たちが、それこそ何の制約もなく、自分自身でスタートの位置取りをし、号砲一発、平等にレースを競うところだ。
レース会場では、1万メートルを30分で走る猛者も、1時間30分かけて走りきるファンランナーも、同じ扱いを受ける。受付で大会記念Tシャツや弁当の引換券や入浴券を受け取る。ぬかるんだグラウンドの土の上で、シャツにゼッケンをピン止めし、少ししかない公民館のトイレや、アンモニア臭で涙が出そうな仮説トイレに長い行列を作って待つ。スタート時間の15分前にはぞろぞろと所定の位置につく。レースが開始されると、実力どおりの順番にきれいに並ぶ。実力以上のタイムは出せないし、痙攣や脱水にならない限り実力どおりのタイムが出る。レース後には主催者が用意してくれたお弁当を地ベタに座って食べ、地元の特産品セットなどをもらって帰る。
何千人も参加するマンモス大会なら、持ちタイムでスタート位置を決められることもあるし、陸連加盟ランナーが最前列へと優遇されることもあるが、そのルールも極めておおらかだ。
こんな風に年齢も性別も実力も関係なく、同じステージで競い合えるスポーツってあるんだろうか? めったにないんじゃないかと思う。喜寿・米寿クラスの先輩方も、競技のOBとして参加しているのではなく、バリバリの現役ランナーとして参戦しているのだから。
スタート位置に着くと、ぼくは必ずやることがある。「脚を見る」のである。そこには数百本、数千本のきれいな脚がある。正確に述べると、スタートラインに近い所に並ぶトップランナーほど、美しい脚をしている。そして徐々に後列に下がるほど、その脚の形は「いまいち」になっていく。ランナーたちは自分の実力にあわせて集団の中で位置取りする謙虚さを持ちあわせているのだ。
たとえばハーフマラソンの大会なら、持ちタイム1時間20分の脚と、1時間50分の脚には、大きな外見的差異が見られる。21.0975キロを1時間20分で走る人の脚は、間違いなく美しく、研ぎ澄まされている。新鮮な鶏のササミのような、健康的なピンク色をした筋繊維がつまっていることを想像させるフトモモ。その下にすらっと伸びる下肢にはムダな肉がいっさいついていない。フクラハギにはキレのある筋肉がこんもりと装備されており、折れそうなくらい細い足首との間を、密度が高そうな堅い腱がつないでいる。草原を腱の力だけで高速で走る草食動物のようなキレイなアキレス腱だ。これらは重量物で負荷をかけて筋繊維を破壊しながら太くする筋トレでは絶対作れないフォルムである。長い長い距離を、来る日も来る日も走り込んだ人だけが持つ、栄光のシルエットである。
これが持ちタイム1時間50分のレベル(つまりぼくの実力)になると、脚の形がバラバラになってくる。ガリガリに痩せた脚もあれば、ボディビルダーのような巨大な筋肉の塊をフルラハギにぶら下げている人もいる。彼らの総合的な運動能力は推して知るべくもないが、やはりマラソンランナーとしてはまだまだ突き詰めてトレーニングできる余地を残しているってことなんだろう。
そんな中で、見惚れてしまうのが60代後半からのベテランランナーたちの脚なのである。上半身だけ見れば、いくぶん肉が落ちすぎていたり、あるいはダブついていたり、また皮のたるみが目立ちはじめていたとしても、鍛え込まれた脚は輝きを失わない。
どれほどの距離をコツコツと走り続ければ、このようなスマートで無駄のない脚をモノにすることができるのか。その物言わぬ努力の様に、無条件に尊敬の念を抱く。黄金の脚をいまだ装着していないぼくには憧れの的なのである。さらには、余分な脂肪やら筋肉やらを削ぎ落としきれていない自分の脚と見比べてみて、「負けた」という劣等感を抱かせる。そして実際レースを走ってみてたら、やっぱし順位でも負かされる。
脚だけではない。鍛えられた熟年ランナーは背中が違う。背中には肉厚の筋肉がこんもりと盛り上がっている。筋肉をつけるのが最も難しいとされる広背筋が、ごく自然と鍛えられている。何万回と繰り返された腕振りの成果なのだろう。身体の背面が強い人は前傾姿勢で走り続けられるから、ランナーとしても強い。そしてふだんの立ち姿や歩く様も前傾を崩さない。その姿勢がまたイカしている。
「お年寄りを大事にしよう」という標語がある。だが実際のところ、人は自分がまだ若いって思っているうちは、お年寄りに憧れたりはしない。できるだけ若さをキープしたいと日々願っているし、女性なら実年齢より上に見られることを極度に恐れる。時には、お年寄りの古くて堅すぎる考え方を軽蔑し、うとましく感じたりもする。ぼくもそうである。モーガン・フリーマンやアート・ブレイキーを見て「あんな風に歳をとりたい」と思う瞬間があっても、それは単なる憧憬であり、自分の姿にオーバーラップさせたものではない。だが70代ランナーたちとマラソンレースという同じ土俵で勝負をし、彼らの強さを直接肌で感じると、「こういう風に歳とらなくちゃな」とシンプルに思う。
レースの前後や、走っている最中に、彼らと話をすることがある。話しかけたり、話しかけられたりする。彼らは例外なく明るく、(苦しさを克服することも含めて)レースを楽しんでおり、そして現状より1歩前に進むことを考えている。それがレースの前半なら、後半に調子を上げていく方法を模索している。それが10月の10kmレースなら、11月の10kmレースでより好タイムを叩き出すことを願っている。それが2008年の大会なら、2009年により満足のいく走りをすることを誓う。
そうやって現時点の自分よりも、あと少し物事をより良くするためにはどうすればいいか、といつも考えるのだ。そのために練習をし、参加申込み用紙にプロフィールを記入し、何千円かのお金を振り込んで、試合会場に出かける。失敗しても成功しても、素直に結果を受け入れ、反省をし、ビールを飲み、風呂につかったら、またトレーニングをはじめる。
この人たちは、言いわけってものをしないんだろうな、と思う。何かうまくいかないことを、世の中のせいにしたり、自分が所属する集団のせいにしない。できないのは自分が悪く、できたなら自分をほめてやる。それだけのことなのだ。
自分もそう遠くないうちに老後を迎える。そのときにどんな人間でありたいか。そんな疑問に、黄金の脚を持つ彼らがはっきりと答えを見せてくれる。
綿々としがみつく何かを持たない。現役時代に気に病んだ組織内の立場であったり、社会のなかで形成された対人的人格であったり。あるいは、いずれその所有権をめぐって家族が争うかもしれない預貯金や不動産であったり。自分というアイデンティティを支えるそれら外部的要因に、人生の晩年で執着するのは、いまひとつカッコ悪い。
熟年ランナーたちの背中と脚が指し示してくれるのは、自分の考え方ひとつ、カラダひとつで何かと渡り合い、あきらめず、突き詰め、楽しくやっていく生き方があるってことだ。
たまたまマラソンの話になっているから、たまたまランナーの話になっている。だけど、どの世界にも人知れずコツコツと努力をし、節制をしながら一歩前にを実践している人たちはいる。誰に頼ることなく、自分の腕一本で何かと向かい合っている人がいる。人生の晩年はそうでいたい、そうでなくちゃいけない。いや、今からでもそうありたい。「カッコいい」に年寄りも中年も若者もないはずだしな。
レース会場では、1万メートルを30分で走る猛者も、1時間30分かけて走りきるファンランナーも、同じ扱いを受ける。受付で大会記念Tシャツや弁当の引換券や入浴券を受け取る。ぬかるんだグラウンドの土の上で、シャツにゼッケンをピン止めし、少ししかない公民館のトイレや、アンモニア臭で涙が出そうな仮説トイレに長い行列を作って待つ。スタート時間の15分前にはぞろぞろと所定の位置につく。レースが開始されると、実力どおりの順番にきれいに並ぶ。実力以上のタイムは出せないし、痙攣や脱水にならない限り実力どおりのタイムが出る。レース後には主催者が用意してくれたお弁当を地ベタに座って食べ、地元の特産品セットなどをもらって帰る。
何千人も参加するマンモス大会なら、持ちタイムでスタート位置を決められることもあるし、陸連加盟ランナーが最前列へと優遇されることもあるが、そのルールも極めておおらかだ。
こんな風に年齢も性別も実力も関係なく、同じステージで競い合えるスポーツってあるんだろうか? めったにないんじゃないかと思う。喜寿・米寿クラスの先輩方も、競技のOBとして参加しているのではなく、バリバリの現役ランナーとして参戦しているのだから。
スタート位置に着くと、ぼくは必ずやることがある。「脚を見る」のである。そこには数百本、数千本のきれいな脚がある。正確に述べると、スタートラインに近い所に並ぶトップランナーほど、美しい脚をしている。そして徐々に後列に下がるほど、その脚の形は「いまいち」になっていく。ランナーたちは自分の実力にあわせて集団の中で位置取りする謙虚さを持ちあわせているのだ。
たとえばハーフマラソンの大会なら、持ちタイム1時間20分の脚と、1時間50分の脚には、大きな外見的差異が見られる。21.0975キロを1時間20分で走る人の脚は、間違いなく美しく、研ぎ澄まされている。新鮮な鶏のササミのような、健康的なピンク色をした筋繊維がつまっていることを想像させるフトモモ。その下にすらっと伸びる下肢にはムダな肉がいっさいついていない。フクラハギにはキレのある筋肉がこんもりと装備されており、折れそうなくらい細い足首との間を、密度が高そうな堅い腱がつないでいる。草原を腱の力だけで高速で走る草食動物のようなキレイなアキレス腱だ。これらは重量物で負荷をかけて筋繊維を破壊しながら太くする筋トレでは絶対作れないフォルムである。長い長い距離を、来る日も来る日も走り込んだ人だけが持つ、栄光のシルエットである。
これが持ちタイム1時間50分のレベル(つまりぼくの実力)になると、脚の形がバラバラになってくる。ガリガリに痩せた脚もあれば、ボディビルダーのような巨大な筋肉の塊をフルラハギにぶら下げている人もいる。彼らの総合的な運動能力は推して知るべくもないが、やはりマラソンランナーとしてはまだまだ突き詰めてトレーニングできる余地を残しているってことなんだろう。
そんな中で、見惚れてしまうのが60代後半からのベテランランナーたちの脚なのである。上半身だけ見れば、いくぶん肉が落ちすぎていたり、あるいはダブついていたり、また皮のたるみが目立ちはじめていたとしても、鍛え込まれた脚は輝きを失わない。
どれほどの距離をコツコツと走り続ければ、このようなスマートで無駄のない脚をモノにすることができるのか。その物言わぬ努力の様に、無条件に尊敬の念を抱く。黄金の脚をいまだ装着していないぼくには憧れの的なのである。さらには、余分な脂肪やら筋肉やらを削ぎ落としきれていない自分の脚と見比べてみて、「負けた」という劣等感を抱かせる。そして実際レースを走ってみてたら、やっぱし順位でも負かされる。
脚だけではない。鍛えられた熟年ランナーは背中が違う。背中には肉厚の筋肉がこんもりと盛り上がっている。筋肉をつけるのが最も難しいとされる広背筋が、ごく自然と鍛えられている。何万回と繰り返された腕振りの成果なのだろう。身体の背面が強い人は前傾姿勢で走り続けられるから、ランナーとしても強い。そしてふだんの立ち姿や歩く様も前傾を崩さない。その姿勢がまたイカしている。
「お年寄りを大事にしよう」という標語がある。だが実際のところ、人は自分がまだ若いって思っているうちは、お年寄りに憧れたりはしない。できるだけ若さをキープしたいと日々願っているし、女性なら実年齢より上に見られることを極度に恐れる。時には、お年寄りの古くて堅すぎる考え方を軽蔑し、うとましく感じたりもする。ぼくもそうである。モーガン・フリーマンやアート・ブレイキーを見て「あんな風に歳をとりたい」と思う瞬間があっても、それは単なる憧憬であり、自分の姿にオーバーラップさせたものではない。だが70代ランナーたちとマラソンレースという同じ土俵で勝負をし、彼らの強さを直接肌で感じると、「こういう風に歳とらなくちゃな」とシンプルに思う。
レースの前後や、走っている最中に、彼らと話をすることがある。話しかけたり、話しかけられたりする。彼らは例外なく明るく、(苦しさを克服することも含めて)レースを楽しんでおり、そして現状より1歩前に進むことを考えている。それがレースの前半なら、後半に調子を上げていく方法を模索している。それが10月の10kmレースなら、11月の10kmレースでより好タイムを叩き出すことを願っている。それが2008年の大会なら、2009年により満足のいく走りをすることを誓う。
そうやって現時点の自分よりも、あと少し物事をより良くするためにはどうすればいいか、といつも考えるのだ。そのために練習をし、参加申込み用紙にプロフィールを記入し、何千円かのお金を振り込んで、試合会場に出かける。失敗しても成功しても、素直に結果を受け入れ、反省をし、ビールを飲み、風呂につかったら、またトレーニングをはじめる。
この人たちは、言いわけってものをしないんだろうな、と思う。何かうまくいかないことを、世の中のせいにしたり、自分が所属する集団のせいにしない。できないのは自分が悪く、できたなら自分をほめてやる。それだけのことなのだ。
自分もそう遠くないうちに老後を迎える。そのときにどんな人間でありたいか。そんな疑問に、黄金の脚を持つ彼らがはっきりと答えを見せてくれる。
綿々としがみつく何かを持たない。現役時代に気に病んだ組織内の立場であったり、社会のなかで形成された対人的人格であったり。あるいは、いずれその所有権をめぐって家族が争うかもしれない預貯金や不動産であったり。自分というアイデンティティを支えるそれら外部的要因に、人生の晩年で執着するのは、いまひとつカッコ悪い。
熟年ランナーたちの背中と脚が指し示してくれるのは、自分の考え方ひとつ、カラダひとつで何かと渡り合い、あきらめず、突き詰め、楽しくやっていく生き方があるってことだ。
たまたまマラソンの話になっているから、たまたまランナーの話になっている。だけど、どの世界にも人知れずコツコツと努力をし、節制をしながら一歩前にを実践している人たちはいる。誰に頼ることなく、自分の腕一本で何かと向かい合っている人がいる。人生の晩年はそうでいたい、そうでなくちゃいけない。いや、今からでもそうありたい。「カッコいい」に年寄りも中年も若者もないはずだしな。
2008年08月11日
2008年08月07日
月刊タウン情報CU*7月号 実売部数報告です。
タウン情報CU*7月号の売部数は、
5693部でした。
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メディコムでは、自社制作している
「月刊タウン情報CU*」「月刊タウン情報トクシマ」「結婚しちゃお!」
の実売部数を発表しております。
月刊タウン情報トクシマ7月号 実売部数報告です。
タウン情報トクシマ7月号の売部数は、
9904部でした。
詳しくは、上部に表記してある画像をクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している
「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU*」「結婚しちゃお!」
の実売部数を発表しております。
2008年08月06日
タウトク8月号はこの夏を誰よりも
楽しみつくすためのミニブックふろく付きです。
徳島の一大イベントを楽しみつくす!
「阿波おどり最強ガイド」
史上最高の夏休み計画を企てブック!
「夏本2008」
2008年07月28日
この1冊でも〜っと楽しく!
地元徳島のウエディング情報が満載の
結婚しちゃお!秋号が7月26日に発売されました。
結婚式場をはじめ、衣裳店、写真館、
ジュエリー、ブライダルエージェント、
2次会・パーティ会場など
徳島のウエディング情報満載です。
2008年07月26日
キャンプ場や温泉、ラフティングなど県内のレジャースポットをどどーんと紹介。この一冊があれば「夏休みどこに出かけよう…」なんて悩む必要はありません!今年の夏は徳島で思いっきり遊び倒そう。
☆「阿波おどり最強ガイド」と、史上最強の夏休み計画「夏本」☆
今回はなんと特別ふろく付き。観光ガイドには載っていない地元民のみぞ知る楽しみ方が詰まった永久保存版の一冊。夜みんなで騒げる店、グルメやおしゃれの情報はもちろん、有名店から革命店まで揃う徳島のラーメン特集もあるので、県外の人にもオススメ!
2008年07月24日
文=坂東良晃(タウトク編集人)
すでに50キロを刻んでいた。
フルマラソン以上の距離を走るのは初めてだ。身体に異常はない。いや、ないわけではない。脚、背中、首、腕・・・ひととおり痛みが巡回し、全身が痛い。揺れつづけている内臓まで痛い。
「ウルトラマラソンは、痛みがある状態が平常だと思え」という先達の言葉を、繰り返し唱える。ボロボロになってからが始まりだとあらかじめ覚悟してある。だからどのような痛みも苦にはならない。
すでに50キロを刻んでいた。
フルマラソン以上の距離を走るのは初めてだ。身体に異常はない。いや、ないわけではない。脚、背中、首、腕・・・ひととおり痛みが巡回し、全身が痛い。揺れつづけている内臓まで痛い。
「ウルトラマラソンは、痛みがある状態が平常だと思え」という先達の言葉を、繰り返し唱える。ボロボロになってからが始まりだとあらかじめ覚悟してある。だからどのような痛みも苦にはならない。
問題は体調ではない。レースの設計ミスをやらかしてしまったのだ。ぼくは前半の50キロを、ある言葉をつぶやきながら走った。
「絶対に本気にならない、レースは55キロから、本気を出すのは70キロから」。
心拍数をあげず、イーブンペースで関門をクリアしていけばよいと。
マラソンランナーたちは、意外にこの「本気にならない」ことが難しいと知っている。走っているうちにどうしようもなく気持ちよくなってくる瞬間がある。身体が軽く、足がどんどん前に進む。もしかしたら今日は絶好調かもしれない。あんなに努力したんだから相当な実力が自分にはついたのだろう。そして知らず知らずのうちにトップスピードに達している。だがその至福の時は長くは続かない。2時間後には疲労困憊・ガス欠という巨大なツケがやってくるのだ。
長いレースを走り切るには自制心が必要である。そのために用意した言葉が、「絶対に本気にならない」であった。しかし過ぎたるは及ばざるがごとしである。念仏のように「本気を出すな」とつぶやいているいちに、自己暗示にかかってしまい、あろうことか走りながら居眠りをしてしまったのである。20キロを過ぎて、気がつくと30キロ地点に達していた。途中の記憶はところどころあるのだが、意識上では一瞬であった。ノンレム睡眠状態でウトウトしながら10キロを走ったのだ。もちろんタイムを激しく落とした。
昨晩、一睡もしなかったのが悪因である。緊張のためではない。スタート地点に向かうバスの出発時間が午前3時。ふだんはこの時間まで起きているから、寝ようとしても眠れない。そのままスタートを迎え、居眠り走という醜態をさらした。
アホな判断をもつひとつ。スタート地点で最後尾をあえて選んだのである。2000人を越すこのウルトラランナーたちのなかで、自分は最も経験の浅い、鍛えこまれていないランナーだ。ドンケツからのスタートこそ自分の実力にふさわしい、と。
スタートの号砲が鳴ってから、最後尾のぼくがスタートラインを越えるまでに2分30秒もの時間がかかった。「2分30秒もの」と、その時は考えなかった。13時間にもおよぶ長丁場のレースである。2分少々の誤差は何でもない・・・こんな大甘な考えが、後々どれほどの後悔を招いたか、その時点では知る由もなかった。
50キロまでは順調だと思えた。50キロの時間制限も楽々越えることができた。けっこう簡単なんじゃないか、自分も今日からウルトラランナーの仲間入りかよ〜、と気分をよくするほどであった。
ところがそこから地獄が待っていた。事前に大会パンフレットを読むだけではわからなかった「関門」というハードルである。
50キロから60キロ=1時間05分
60キロから70キロ=1時間10分
70キロから80キロ=1時間15分
それぞれの距離を、この時間でクリアしていかなければならない。
ちょっと説明しておくと、10キロを1時間で走ることは、ふだんなら何ということもないのである。ゆっくりと会話しながら走れるスピードだ。レース前、ぼくはそういう意識でしか、この時間設定を見ていなかったのである。しかし50キロを走り終えた「痛みがある状態が平常」な身体には、生半可ではないタイムであるってことに、今ごろ気づいたのである。
イーブンペースが保てない。
歩幅が伸びない。
前傾姿勢がとれない。
タイムを維持するために必死になる。
必死になると心拍数があがり、息が荒れる。
疲労感が急速に増す。
60キロ。関門の7分前にようやく飛び込む。ひと息つく暇はない。10キロ先の関門閉鎖の時間が迫ってくる。
走る。
走る。
走る。
息を喘がせ、5センチでも先にと脚を前に送る。だんだんと景色が目に入らなくなってくる。他のランナーたちと交わす言葉もなくなる。
「明鏡止水」とは正反対の、雑念に心が支配される。レースの後半で、何でこんなスピードマッチのようなハメに陥ってるのだ? スタートラインまでの2分30秒を無駄にしなけりゃよかった。応援の人と会話したりして余裕を見せたっけ。ああ、あの時間を取り戻したい。
徳島からわざわざ北海道の端っこまでやってきて、完走しなくちゃ何の意味があるっていうのか。この1年、毎朝10キロ走り、週末には20キロ、30キロを踏んだ。大雨に打たれ、向かい風に抑えつけられ、ギラギラ太陽に焼かれても、脚を壊しながら走ってきたではないか。動物性脂肪の食物を断ち、大好きなアイスクリームも食べず、しまりなく太った身体から脂肪分だけで17キロ落とし、マラソンの関連書物を20冊読破した。
すべてこのサロマ湖の、この100キロレースのためじゃないか。
70キロ。
制限時間の2分前に飛び込む。
1キロごとにタイム管理しなくては、とうてい間に合わなくなってきた。1キロを7分で走る。7分で押していかなければ、次の関門に間に合わない。ふだんなら口笛吹きながらでも走れるスピードなのに、今は必死の形相、一瞬でも心が折れるとアウトだ。
痛みには負けない。しかし、心肺機能の能力以上のペースで30キロを押していくのは厳しい。レースを止めようなどとはまったく思わないが、「この1キロはすこしペースを落としてもいいんじゃない?」という甘いささやきが聞こえる。そのたびに、自分で自分を鼓舞する。「負けてどうする。今、ペースを落としたらレースを捨てるようなものだ。全力で走れば関門には間に合うじゃないか」
走る。あえぐ。
あえぐ。走る。
走る。あえぐ。
まるで短距離レースを競っている感じ。この苦行があと何時間つづくのか?
周囲のランナーたちのペースも落ちている。ある人は脚が痙攣し1歩も進めなくなっている。別のランナーは関門通過をあきらめたかのように道ばたに座り込み、ぼう然とサロマの景色を眺めている。こんなに鍛えた人たちだって苦しいんだ。70キロ走って、まだ全力で走れる自分はたいしたもんじゃないかと、わが身をなぐさるてもやる。
80キロの関門はスタートからちょうど10時間で閉鎖される。残り2キロ地点で、関門の1分前にクリアできることがわかる。
大丈夫だ。このペースさえ崩さなければ、手を抜きさえしなければ、80キロを越えられる。80キロの関門を過ぎれば、ひと息つける。80キロから100キロまでは3時間もの時間設定がされている。どんな不格好でも80キロのラインを越せば、完走のお墨付きをもらえるに等しいのだ。
関門を越えたら5分だけ休憩しよう。連続30キロも全力疾走したのだから、5分くらい身体にご褒美をやってもいい。給水所に用意された冷えたスイカやオレンジをゆっくり食べよう。高校生ボランティアの励ましの声を全身に浴びよう。そしてエネルギーを蓄えたら、またゴールを目指そう。
とにかくもう大丈夫だ、間に合う。
残り1キロ。どこまでも続く直線の広い道なのに、関門が見えてこない。おかしいな、と思う。距離表示がおかしいのかな。しかしこの大会は伝統的な大会だし、距離を間違えたりはしないだろう。あと1キロを7分でカバーすればいいのだ。この苦しさをあと7分だけ我慢すればいい。
コースは広い直線道を折れ、ふいに蛇行した山道に入った。
そして、それは目の前に突然現れた。想像を超える傾斜の登りの坂道である。
「うそだろ?」である。この25キロというもの完全に平坦な道だったのである。関門まで1分という計算は、道がフラットであることを前提としていた。こんな登り坂があるなんて、冗談だろ?
残り何百メートルあるかも定かではないが、登り坂用の自重した走りをしていては間に合わない。そのままのスピードでつっこむ。
息が続かない。いや続かないでは困る。足も手も、自分のものではないくらいに動かす。今つぶれて一生後悔するくらいなら、このあとどうなってもいいから走りきってやる。身体じゅうの細胞という細胞すべてに残っている力があるなら、少しずつでもいいからエネルギーをくれ! 残りカスもないほどに真っ白に燃えてくれ! 何でもいい、あるものを全部出しきってでも走り続けろ!
周囲に何があるか、よく見えなくなってきた。
ただ登り坂があり、ただ走る。
視界の奧に、黄色い人工物が現れる。黄色い大型時計が刻々と秒数を刻んでいる。
関門だ、関門があった。
大勢の人が声も枯れんと叫ぶ。あと1分ですよ!間に合いますよ! そうだ、間に合うのだ。苦しさに妥協してはいけないのだ。力を抜けば、心が折れたら、間に合わないのだ。
関門を越える。残り38秒。
直後に黒と黄色の工事用のポールが80キロラインの上に渡される。ああ、関門ってこうやって閉じられるんだな、初めて見た。ポールの向こうで間に合わなかったランナーたちが精根尽きたようにしゃがみこむ。
道の横にブルーシートがタタミ3畳分ほど引かれている。
そうだ、ここで5分間休むんだっけ。自分でそう決めたんだから、休んでいいんだっけ。
ブルーシートに腰を下ろす。そして仰向けに寝ころぶ。
幾十にも重なる緑の木々が風に揺れる。
こずえと葉が当たるざわめきが耳に心地良い。
美しい色彩をほどこした小鳥たちが、何十羽と舞い飛ぶ。
熱された全身にそよ風がサラサラと触れ、癒してくれる。
柔らかな羽毛布団のような布地に身体じゅうがつつまれる。
気持ちいいなあ。
本当に気持ちいい。
こんな気分に今までなったことあったっけ。これは普通の気持ちよさの度合いを越してる。快楽?快感? どんな言葉でも言い表せない。ああ、この状態がずっと続けばいいのに・・・。
突然「大丈夫ですか!? 大丈夫ですか!?」という男性の声、右腕をつかんで揺り動かされる。
「あっ、眠りこんでしまっていたのか」と目を覚ます。いったい何分間、寝てしまったのだろう。腕のストップウォッチを見ると、関門通過から5分が経っている。走らなくちゃ。もうゆっくり走っても100キロ完走は確実なんだから。そう思い、立ち上がって、走り始める。
ん? 真っすぐ進まないぞ。アレ、アレ? これヤバイな。大阪国際女子マラソンの福士選手のラストみたいになってる。走るとコケるな。今まで1度も歩かなかったけど、ここまで来たらいいや。早足で歩いてでもゴールを目指そう。
歩く。
アレ? やっぱり真っすぐ歩けない。限界越えちまったのか? 確か5分前まで猛スピードで走っていたのに、この激変ぶりは何?
それから1時間以上、歩いたり、走ったり、座り込んだり、寝ころんだり、ふたたび歩いたりした。しかし、身体の中から湧きだしてくるべきエネルギーが、何も出てこない。「枯渇」という言葉以外に表しようのない状態なのだ。
天国のように美しい原生花園のお花畑、その向こうで夕陽を受けて目映いほどに光るオホーツクの海、北海道にしか存在し得ないと思わせる空色の絵の具を塗りたくったような青空。そして、ゴールを目指して走り去るランナーたちの「シャッシャッシャッ」という耳慣れた靴底の音。
80キロ通過タイム9時間59分22秒。
リタイア地点、はっきりせず。
ぼくのレースは終わった。
□
80キロの関門前後のことを思い出そうとすると、何やらオレンジ色のフィルターがかかったような映像しか頭に浮かばない。ところが通過後ブルーシートに腰を下ろしてからの異様な情景は鮮明である。もし「あの世の入口」があるとしたら、あんな感じなんだろうか。ほんならあれば臨死体験ってヤツ? んなワケないか。
今となっては「大丈夫ですか!?」と揺すり起こしてくれた男性も、実際に存在したかどうか確信を持てない。どこまでが夢で、どこからが現実なのか、境界があいまいだ。
□
人生、悔しいことはいくらでもある。しかし100キロを走りきれなかった悔しさは、身もだえするほどである。この失敗は、世の中のせいにも、身の上のせいにもできない。相手が強すぎたなんて言い訳もない。ケアレスミスも「勝負は時の運」もない。自分の能力不足、練習不足。それしか理由がないのだから。
もう一度、もう一回チャレンジしたい。
1日に100回くらい、頭の中で繰り返す。
アーッ、もう一回走りたい!
「絶対に本気にならない、レースは55キロから、本気を出すのは70キロから」。
心拍数をあげず、イーブンペースで関門をクリアしていけばよいと。
マラソンランナーたちは、意外にこの「本気にならない」ことが難しいと知っている。走っているうちにどうしようもなく気持ちよくなってくる瞬間がある。身体が軽く、足がどんどん前に進む。もしかしたら今日は絶好調かもしれない。あんなに努力したんだから相当な実力が自分にはついたのだろう。そして知らず知らずのうちにトップスピードに達している。だがその至福の時は長くは続かない。2時間後には疲労困憊・ガス欠という巨大なツケがやってくるのだ。
長いレースを走り切るには自制心が必要である。そのために用意した言葉が、「絶対に本気にならない」であった。しかし過ぎたるは及ばざるがごとしである。念仏のように「本気を出すな」とつぶやいているいちに、自己暗示にかかってしまい、あろうことか走りながら居眠りをしてしまったのである。20キロを過ぎて、気がつくと30キロ地点に達していた。途中の記憶はところどころあるのだが、意識上では一瞬であった。ノンレム睡眠状態でウトウトしながら10キロを走ったのだ。もちろんタイムを激しく落とした。
昨晩、一睡もしなかったのが悪因である。緊張のためではない。スタート地点に向かうバスの出発時間が午前3時。ふだんはこの時間まで起きているから、寝ようとしても眠れない。そのままスタートを迎え、居眠り走という醜態をさらした。
アホな判断をもつひとつ。スタート地点で最後尾をあえて選んだのである。2000人を越すこのウルトラランナーたちのなかで、自分は最も経験の浅い、鍛えこまれていないランナーだ。ドンケツからのスタートこそ自分の実力にふさわしい、と。
スタートの号砲が鳴ってから、最後尾のぼくがスタートラインを越えるまでに2分30秒もの時間がかかった。「2分30秒もの」と、その時は考えなかった。13時間にもおよぶ長丁場のレースである。2分少々の誤差は何でもない・・・こんな大甘な考えが、後々どれほどの後悔を招いたか、その時点では知る由もなかった。
50キロまでは順調だと思えた。50キロの時間制限も楽々越えることができた。けっこう簡単なんじゃないか、自分も今日からウルトラランナーの仲間入りかよ〜、と気分をよくするほどであった。
ところがそこから地獄が待っていた。事前に大会パンフレットを読むだけではわからなかった「関門」というハードルである。
50キロから60キロ=1時間05分
60キロから70キロ=1時間10分
70キロから80キロ=1時間15分
それぞれの距離を、この時間でクリアしていかなければならない。
ちょっと説明しておくと、10キロを1時間で走ることは、ふだんなら何ということもないのである。ゆっくりと会話しながら走れるスピードだ。レース前、ぼくはそういう意識でしか、この時間設定を見ていなかったのである。しかし50キロを走り終えた「痛みがある状態が平常」な身体には、生半可ではないタイムであるってことに、今ごろ気づいたのである。
イーブンペースが保てない。
歩幅が伸びない。
前傾姿勢がとれない。
タイムを維持するために必死になる。
必死になると心拍数があがり、息が荒れる。
疲労感が急速に増す。
60キロ。関門の7分前にようやく飛び込む。ひと息つく暇はない。10キロ先の関門閉鎖の時間が迫ってくる。
走る。
走る。
走る。
息を喘がせ、5センチでも先にと脚を前に送る。だんだんと景色が目に入らなくなってくる。他のランナーたちと交わす言葉もなくなる。
「明鏡止水」とは正反対の、雑念に心が支配される。レースの後半で、何でこんなスピードマッチのようなハメに陥ってるのだ? スタートラインまでの2分30秒を無駄にしなけりゃよかった。応援の人と会話したりして余裕を見せたっけ。ああ、あの時間を取り戻したい。
徳島からわざわざ北海道の端っこまでやってきて、完走しなくちゃ何の意味があるっていうのか。この1年、毎朝10キロ走り、週末には20キロ、30キロを踏んだ。大雨に打たれ、向かい風に抑えつけられ、ギラギラ太陽に焼かれても、脚を壊しながら走ってきたではないか。動物性脂肪の食物を断ち、大好きなアイスクリームも食べず、しまりなく太った身体から脂肪分だけで17キロ落とし、マラソンの関連書物を20冊読破した。
すべてこのサロマ湖の、この100キロレースのためじゃないか。
70キロ。
制限時間の2分前に飛び込む。
1キロごとにタイム管理しなくては、とうてい間に合わなくなってきた。1キロを7分で走る。7分で押していかなければ、次の関門に間に合わない。ふだんなら口笛吹きながらでも走れるスピードなのに、今は必死の形相、一瞬でも心が折れるとアウトだ。
痛みには負けない。しかし、心肺機能の能力以上のペースで30キロを押していくのは厳しい。レースを止めようなどとはまったく思わないが、「この1キロはすこしペースを落としてもいいんじゃない?」という甘いささやきが聞こえる。そのたびに、自分で自分を鼓舞する。「負けてどうする。今、ペースを落としたらレースを捨てるようなものだ。全力で走れば関門には間に合うじゃないか」
走る。あえぐ。
あえぐ。走る。
走る。あえぐ。
まるで短距離レースを競っている感じ。この苦行があと何時間つづくのか?
周囲のランナーたちのペースも落ちている。ある人は脚が痙攣し1歩も進めなくなっている。別のランナーは関門通過をあきらめたかのように道ばたに座り込み、ぼう然とサロマの景色を眺めている。こんなに鍛えた人たちだって苦しいんだ。70キロ走って、まだ全力で走れる自分はたいしたもんじゃないかと、わが身をなぐさるてもやる。
80キロの関門はスタートからちょうど10時間で閉鎖される。残り2キロ地点で、関門の1分前にクリアできることがわかる。
大丈夫だ。このペースさえ崩さなければ、手を抜きさえしなければ、80キロを越えられる。80キロの関門を過ぎれば、ひと息つける。80キロから100キロまでは3時間もの時間設定がされている。どんな不格好でも80キロのラインを越せば、完走のお墨付きをもらえるに等しいのだ。
関門を越えたら5分だけ休憩しよう。連続30キロも全力疾走したのだから、5分くらい身体にご褒美をやってもいい。給水所に用意された冷えたスイカやオレンジをゆっくり食べよう。高校生ボランティアの励ましの声を全身に浴びよう。そしてエネルギーを蓄えたら、またゴールを目指そう。
とにかくもう大丈夫だ、間に合う。
残り1キロ。どこまでも続く直線の広い道なのに、関門が見えてこない。おかしいな、と思う。距離表示がおかしいのかな。しかしこの大会は伝統的な大会だし、距離を間違えたりはしないだろう。あと1キロを7分でカバーすればいいのだ。この苦しさをあと7分だけ我慢すればいい。
コースは広い直線道を折れ、ふいに蛇行した山道に入った。
そして、それは目の前に突然現れた。想像を超える傾斜の登りの坂道である。
「うそだろ?」である。この25キロというもの完全に平坦な道だったのである。関門まで1分という計算は、道がフラットであることを前提としていた。こんな登り坂があるなんて、冗談だろ?
残り何百メートルあるかも定かではないが、登り坂用の自重した走りをしていては間に合わない。そのままのスピードでつっこむ。
息が続かない。いや続かないでは困る。足も手も、自分のものではないくらいに動かす。今つぶれて一生後悔するくらいなら、このあとどうなってもいいから走りきってやる。身体じゅうの細胞という細胞すべてに残っている力があるなら、少しずつでもいいからエネルギーをくれ! 残りカスもないほどに真っ白に燃えてくれ! 何でもいい、あるものを全部出しきってでも走り続けろ!
周囲に何があるか、よく見えなくなってきた。
ただ登り坂があり、ただ走る。
視界の奧に、黄色い人工物が現れる。黄色い大型時計が刻々と秒数を刻んでいる。
関門だ、関門があった。
大勢の人が声も枯れんと叫ぶ。あと1分ですよ!間に合いますよ! そうだ、間に合うのだ。苦しさに妥協してはいけないのだ。力を抜けば、心が折れたら、間に合わないのだ。
関門を越える。残り38秒。
直後に黒と黄色の工事用のポールが80キロラインの上に渡される。ああ、関門ってこうやって閉じられるんだな、初めて見た。ポールの向こうで間に合わなかったランナーたちが精根尽きたようにしゃがみこむ。
道の横にブルーシートがタタミ3畳分ほど引かれている。
そうだ、ここで5分間休むんだっけ。自分でそう決めたんだから、休んでいいんだっけ。
ブルーシートに腰を下ろす。そして仰向けに寝ころぶ。
幾十にも重なる緑の木々が風に揺れる。
こずえと葉が当たるざわめきが耳に心地良い。
美しい色彩をほどこした小鳥たちが、何十羽と舞い飛ぶ。
熱された全身にそよ風がサラサラと触れ、癒してくれる。
柔らかな羽毛布団のような布地に身体じゅうがつつまれる。
気持ちいいなあ。
本当に気持ちいい。
こんな気分に今までなったことあったっけ。これは普通の気持ちよさの度合いを越してる。快楽?快感? どんな言葉でも言い表せない。ああ、この状態がずっと続けばいいのに・・・。
突然「大丈夫ですか!? 大丈夫ですか!?」という男性の声、右腕をつかんで揺り動かされる。
「あっ、眠りこんでしまっていたのか」と目を覚ます。いったい何分間、寝てしまったのだろう。腕のストップウォッチを見ると、関門通過から5分が経っている。走らなくちゃ。もうゆっくり走っても100キロ完走は確実なんだから。そう思い、立ち上がって、走り始める。
ん? 真っすぐ進まないぞ。アレ、アレ? これヤバイな。大阪国際女子マラソンの福士選手のラストみたいになってる。走るとコケるな。今まで1度も歩かなかったけど、ここまで来たらいいや。早足で歩いてでもゴールを目指そう。
歩く。
アレ? やっぱり真っすぐ歩けない。限界越えちまったのか? 確か5分前まで猛スピードで走っていたのに、この激変ぶりは何?
それから1時間以上、歩いたり、走ったり、座り込んだり、寝ころんだり、ふたたび歩いたりした。しかし、身体の中から湧きだしてくるべきエネルギーが、何も出てこない。「枯渇」という言葉以外に表しようのない状態なのだ。
天国のように美しい原生花園のお花畑、その向こうで夕陽を受けて目映いほどに光るオホーツクの海、北海道にしか存在し得ないと思わせる空色の絵の具を塗りたくったような青空。そして、ゴールを目指して走り去るランナーたちの「シャッシャッシャッ」という耳慣れた靴底の音。
80キロ通過タイム9時間59分22秒。
リタイア地点、はっきりせず。
ぼくのレースは終わった。
□
80キロの関門前後のことを思い出そうとすると、何やらオレンジ色のフィルターがかかったような映像しか頭に浮かばない。ところが通過後ブルーシートに腰を下ろしてからの異様な情景は鮮明である。もし「あの世の入口」があるとしたら、あんな感じなんだろうか。ほんならあれば臨死体験ってヤツ? んなワケないか。
今となっては「大丈夫ですか!?」と揺すり起こしてくれた男性も、実際に存在したかどうか確信を持てない。どこまでが夢で、どこからが現実なのか、境界があいまいだ。
□
人生、悔しいことはいくらでもある。しかし100キロを走りきれなかった悔しさは、身もだえするほどである。この失敗は、世の中のせいにも、身の上のせいにもできない。相手が強すぎたなんて言い訳もない。ケアレスミスも「勝負は時の運」もない。自分の能力不足、練習不足。それしか理由がないのだから。
もう一度、もう一回チャレンジしたい。
1日に100回くらい、頭の中で繰り返す。
アーッ、もう一回走りたい!