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2007年03月09日

イージーな場所からはじめよう
なにかをやるのに勇気とかはいらない。
そんな七面倒くさいことよりも、じぶんがアホであることに気づけばよい。
多芸多才な人物などそうはいない。普通の人は1コか2コくらいのことしかできない。
ぼくなんかそれすら満足にできたためしない。だから、その1コのことしかやることねーんだ。
そんな感じでやっていけばいいのだ。

文=坂東良晃(タウトク編集人)


ぼくは昔、ひきこもっていたことがある。
そんなに長い期間じゃない。はっきり思い出せないが、1年までは長くない。
ひきこもった理由は、自分でもよくわからない。そのときぼくは18歳であり、とりあえず何をしていいか、わからなくなってしまったのだ。
学校を辞め、仕事もせず、何もせず、遊ぶお金もなく、日のあたらない部屋でじっとしているのが、もっとも楽ちんな生き方であった。家賃1万2000円のボロアパート部屋にトイレはなく、牛乳パックの中にモヨオしたものを放出していた。食事はほとんどとらず、体脂肪がなくなり、背中で腕が組めた。相当ひどい状態であったことは確かだ。
自宅ではない都会の片隅のだったため、ほんとうに長い間誰とも話さなかった。部屋から出たときは外の景色がすごく白く見えた。人と話をしはじめたときにはロレツが回らなかった。

ひきこもり中、かろうじて、かすかに、蜘蛛の糸でつながった程度の細い希望があった。
アフリカにいってみたいということであった。ぼくは子供の頃からアフリカが好きであった。「アフリカの動物図鑑」という写真集は500回くらいながめても飽きなかった。アフリカにいけば、確かに自分の生きていられるスペースがあるんじゃないかと思っていた。
「これをやりたい」というような前向きな目標ではなかった。「それくらいしかやることがない」というたったひとつの残された選択肢であった。それ以外に、やることがないのである。だからぼくはアフリカに向かった。アフリカには1年チョイいた。濃密な1年チョイだった。そこで何があったかは長くなるのでまた話させてね。

そんな感じで10代から20代にかけてバックパッカーを4年間やった。
バックパッカーとは、何もしないでも構わない気楽な場所を見つめるために、ボロ雑巾のような身なりで、食うや食わずで過酷な移動をしつづけるという、おおきな矛盾をかかえた生物である。
バックパッカーの一日は長い。
1泊100円程度のホテルはアジアにはざらにある。特にインドや中近東には、1泊50円を切るような大部屋がある。土の上にムシロをしいただけの宿もあれば、ちゃんとしたシングルベッドをあてがってくれる宿もある。シラミとノミとダニだらけだが。
朝は眠れるだけ眠り、もうこれ以上マブタを閉じることができない!というトコまで寝る。
起きればすでに日は高い。のろのろと服を着替え、枕もとのフルーツを食べたり、 ぼーっと天井を見たり、2度読んだ小説の3度目を読みはじめたりする。
夕方くらいに服を着て、街をぶらぶら散歩する。特に用事もない。あまりに長く同じ街にいるので、いろいろな店の人と顔見知りになっている。新しい店に入るのは面倒くさいので、ほぼ毎日同じ店に入る。お茶と野菜いためを注文して、そのまま店に居座る。誰か知り合いの人が現れたら2時間くらい話しをする。お茶を5杯ほどお代わりしているうちに、深夜になり店じまいとなる。仕方なく部屋に帰り、まどろみが深くなるまでハッパの香に酔う。明け方になってようやく眠くなり、服を着替えることもなく、ごろっと横になり眠る。

こんな自堕落な生活を、何カ月もつづけるのである。な〜んにも生産もせず、労働もせず、メシを食って、本読んで寝ているだけなのだから存在意義などまったくない。生産せず消費は一人前にするという生態系に入っているのかいないのか不明生物である。
このように、バックパッカーの生活内容は「ひきこもり」と同然である。「あの人、部屋にひきこもってる」と言えば、大丈夫ですか?と心配されたりするが、 「あの人、世界を旅してるらしい」と言えば、いいねえとうらやましがってくれる人だっている。しかし、両者やってることは大差ない。

今、ニッポンのひきこもり人口は80万人とも120万人とも言われている。それぞれの人が、それぞれの理由でもってひきこもり、あるいはぼくのようにたいした理由もなく部屋と一体化する人もいるのだろう。
誰からも同情されるような辛いきっかけもあれば、そんなつまらないことで・・・と舌打ちされるも人もいるのだろう。
よく社会問題にまつりあげられるひきこもりはニートとともに「GDPを○パーセント引き下げる」などと、勝手に経済予測に組み込まれたりもしている。ひきこもりたちが、GDPに悪影響を与える以外に、どれほど社会に対して負荷を与えているのかは定かでない。
タダメシ・カラ出張・過剰な退職金などと税をムシバむ役人や議員のオッサンどもや、性的倒錯を隠して教師になるキモ男や、おせっかいこの上ない環境保護運動家とくらべて、どっちが社会的害悪なのか。

今ぼくの周りにも、部屋から出てこれない人たちが何人かいる。彼らの気持ちはさておき、家族は疲弊する。10代のうちはまだいい。20代、30代、40代と年齢を重ねてくると、親は疲れ、そして老いていく。子供がいる二階の部屋まで食事を運ぶことも重労働になってくる。近所・世間の目も、たいへんな重圧となって家族を刺す。親は、自分亡きあとの子の行く末を案じて、朝に夕に暗澹たる気持ちになる。このような状況は、決して幸せなものではない。

ひきこもっている人たちが、このタウトクのような「いざ外に出よう」的な情報誌を読む可能性は少ない。しかし、何かの手違いでこの雑誌が手元に届き、このページを読み、奇跡的にこの行まで読み進んでいるとしたら、あと少しだから、最後まで読んでください。
キミが脱出する場所は、そこの部屋の中じゃない。気楽な場所は、じつはアチコチにたくさんある。意外と楽しく、誰からも干渉されない場所がある。
蒸し暑い工場の中、鉄くずだらけの作業場の隅、まっすぐな夜の道を走る運転席の中、 単純作業がつづく深夜の構内、コンクリートを型枠に流し込む工事現場・・・。そういった場所では、律儀な人たちがキミにやるべきことを与えてくれる。今日やるべきことをやることだけを考え、なるべくきっちりやる。明日のことは明日考える。あまりしゃべる必要はない。ただもくもくと生きてみる。周囲の人たちは、わりと優しい。

それから、こういうことする人は少ないかもしれないけど、おすすめします。
すこしお金がたまったら・・・15万円くらいで十分なんだけど、お金持ちのあまり住んでない国・・・平均的に豊かじゃない国に出かけてみよう。アジアなら、バングラディシュ、ラオス、カンボジア、インド。田舎に行けば、10万円あれば1年くらい余裕で定住できる。
そして、そこで何カ月か、何年かくらしているうちに、今までとても重要だと考えていたことが、ささいな、つまらない、どうでもいいことだったと気づく日がくる。
ぼくは旅先で、たくさんの「ニッポンでは生きられない、って主張する人」たちにであった。そんな相当問題アリな人物でも、何年か旅しているうちになんとなく自然と帰れるようになるのだ。不思議なものでね、気持ちが平坦になるんだね。

ぼくは今、けっこう普通の社会生活をおくっているけど、やっぱしアフリカにでかけていったときと同じで、「これしかやることがない」という 1つの選択肢(選択肢とは言わんか・・・)のなかで生きている。それが「雑誌づくり」ということでコノ文章を書いているわけだが、やることが1つしかないと、とても気楽になる。なんも迷いがないからだ。「あーでもない、こーでもない」と考えることがまったくない。要するにアホの悟りである。

自分が死ぬまでに選ぶたったひとつの選択肢は、そうそう見つかるもんではない。多くのニッポンの若者は、自分にいろんなことが出来そうであるがゆえに、迷ったり悩んだりしている。実際はいろんなことなどできないのにね。可能性は無限なんかじゃない。超有限だ。
50歳になっても、70歳になっても、「自分の人生これでいいのかなあ」と迷っているおじさんたちもいる。どっちかいうと、その方が多い。迷ってるほうが一般的だ。
だから、キミも何年かけてもいいのだ。なにかがひらめくまで部屋ん中で考えるのもいいけど、部屋の外にもイージーな場所はたくさんある。だから、出ようかどうか考え中の人は、外に出たほうがよいとおすすめする。
気楽な場所で、気楽に考えたら、そのうち答えも見つかるだろ。

2007年03月08日

月刊タウン情報CU*2月号 実売部数報告 cu0702_busuu.jpg cu0702_suii.jpg

月刊タウン情報CU*2月号 実売部数報告です。
タウン情報CU*2月号の売部数は、
6406部でした。
詳しくは、上部に表記してある画像をクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している「月刊タウン情報CU*」「月刊タウン情報トクシマ」「結婚しちゃお!」の実売部数を発表しております。

2007年03月07日

月刊タウン情報トクシマ2月号 実売部数報告 tautoku0702_busuu.jpg tautoku0702_suii.jpg

月刊タウン情報トクシマ2月号 実売部数報告です。
タウン情報トクシマ2月号の売部数は、
8672部でした。
詳しくは、上部に表記してある画像をクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU*」「結婚しちゃお!」の実売部数を発表しております。

2007年03月04日

ビーチ漂流記壱 フィリピンのボラカイ島(にまだ着きません)
shima11年にいっかいぐらい、たまらなくビーチが恋しくなる。
キラキラ輝く太陽と地上の間には何もなくて、コバルトブルーの海、透過素材のビーチパラソルと椰子の木がつくる影のなかでぐてっと寝そべりながら、極上のミステリーを読み明かす。のどの渇きを覚えた頃に、キンと冷えたビールと甘ったるい南洋の果実が届けられる。
時計は持たない。時間を知る手かがりは水平線に沈むオレンジ色の夕陽だけ・・・みたいな。そんなイメージが頭に浮かぶと、いくらぬぐってもぬぐい去れない。
仕事は手につかなくなり、帰宅途中にキョーエイのビール売り場で「コロナビール」をカゴに入れてしまう。こんなメヒコ産瓶ビールの栓をシュワッとあけて飲み干しても、ボクの中の渇きを癒せるものではないが、そんな無駄な抵抗を試みる自分がかわいいと納得させる。
ビーチにハマッている人間は、ボクの周囲には少なくない。彼女たちはバリに夢中になったり、タイに繰り返し出かけたりする。バリ好きはバリ島にしか興味がない。日本の女性があのような王侯貴族な気分を味わえるのはバリ島をおいて他にないからだ。エステ、スパ、マッサージ、アロマ、雑貨、ダンス、アート、クラブ、マッシュルーム・・・。癒しをビジネスにする手法に満ち溢れた島で、浅黒いバリボーイたちの痺れるような甘い囁きを耳元にうける。あの「もてはやされ感」に陶酔を覚えない人はおかしい、というのはバリマニアの弁である。
一方のタイに出かける友人は、島を転々としている。サムイ、パンガン、タオ、チャン、クラビ・・・。どの島もいくつかの階層にあわせたサービスがある。金持ちは金持ちなりに、プアーはプアーなりに。彼女たちは地上のどこかに理想の理想郷があると信じる求道者のようでもある。どの島も好き、でもきっともっといい島が私を待ってるに違いないってね。
じゃあボクはというと、たいした思想もない単なるビーチ好きなのです。

ボクがビーチリゾートに求める条件は3つしかない。
1. ビーチに街が隣接していること。
2. 水が透明であること。
3. ホテルがオン・ザ・ビーチであること。
単純なんだけど、この3つの条件を備えているビーチって、ホント少ないんです。
だいたい主張に矛盾があるというのは自覚している。ビーチに街が隣接し、水が透明なわけないって、世界中のビーチフリークに怒られそうだ。
あと、ボク的には、ホテルとビーチを隔てた車道が一本あるだけで興ざめなのです。海に出かけるのが気の遠くなるような面倒くささを伴う。ところがホテルがオン・ザ・ビーチに並んでるのってね、あるようでないのです。ものすごい辺境島のボロ・バンガローか、ものすごい開発された島の大資本系ホテルのどっちか。
ボクは貧乏旅行とラグジュアリーの中間、つまりほどよい心地よさしか求めないから、両方バツ。ああ、中産階級というのはほんと満たされない存在である。でもね、パーフェクトはなくても、「まあまあだな〜」くらいはあっていいと思う。しかし、まあまあの場所すらめったにないのですよ。
「地球の歩き方リゾート編」とか「るるぶワールドガイド」とかを読みあさって、巻頭カラーページのエメラルドグリーンの海にしばし見とれ、今度こそ理想のビーチにめぐり合えるんだと期待をして訪れても、やっぱり何かが違う。
それはつまらない理由なんです。
砂浜に海草がたまりすぎてた、ビーチに大音量のスピーカーが置かれてた、料理のダシが合わなかった、レンタバイクがなかった、モンスーンの時期がずれた・・・その程度のことなんだけど、何かが自分とスイングしていない。いまだに理想のビーチにめぐりあえない自分に、ちょっとイラッとしたりする。

さて、であります。
そのような理想のビーチを探し求めるボクの前に、ひとすじの光明が見えたのであります。その島はフィリピンの中央部にあって、「世界のベストビーチ第一位に選ばれた」との白砂ビーチがあるのだそうです。いったいどこの誰がどのような基準で選んだのかは知らないけれど、 (ガイドブックにも、全然情報の出元は書いてない)そのようなウワサだけは確かにある。
島には飛行場がなく、最寄りの島へ行くのも首都マニラの国際空港で国内線に乗り換えないといけない。うん、この不便さが真のリゾート島には必要なのです。飛行機が直接降り立つ島は、どんどん荒れていくものです。人が増え、自然が処理できる限界以上の排泄物や汚水を人間が生み出せば、おのずと海水は透明さを失っていくのです。
おまけにお国はフィリピンときた。いまだに北部ルソン島の山中には新人民解放軍がいて、南部ミンダナオ島にはモロ民族解放戦線が陣取り、西のスルー海には海賊がうじゃうじゃいるこの国である。しょっちゅうスーパーマーケットが爆破されているのである。セブ島以外の政情不安定な島なら、旅人に荒らされてない楽園があってしかるべきである。

フィリピン行きの飛行機は、関空のモノレールの中からして雰囲気が違っていた。
たまたまフィリピン航空のスッチーやパーサーと同じモノレールに乗ったのだが、いきなり車内でいちゃいちゃしはじめたのである。なんか2人して、髪の毛をこねくり回しあってる! フツーのカップルがやってたら何でもない光景なんだろうけど、タイトスカートの制服姿のスッチーが男性に髪の毛をいじられ腰をくねらせていると、妙にいやらしい!
てゆーか、どんな教育しとんだこの航空会社は、と人生航路的な怒りに満ちる。搭乗待合ロビーとて普通ではない、1人も普通の人がいない。ダンサー風のラメの入ったパンツスーツのおねえさん、裏社会を知り尽くした感じのレイバン黒サングラスのおにいさん、ホステス風日本語で叫ぶケバいおばさん、200パーセント裏稼業の人間だと目つきで主張するおじさん。あと、昭和の博物館から抜け出してきたようなレトロな日本人のおじいさんが、けっこう多い。
笠智衆のごとき白シャツにレトロなネクタイをまとっている。うーんタイムスリップ感覚。
ぼくは今からどこへ行こうとしているのか、不安定な気分。軽いめまいすら覚えるのである。

マニラ国際空港は、次々と降り立つ国際便と入国管理官の数がアンバランスであり、膨大な人数が入国カウンターで列をなしていた。この混雑ぶり、旅だねって感じがしてうれしい。昔のアジアの国際空港って、みんなこんな雰囲気だったと思う。入国するまでに1時間待ちなんて当たり前。旅人はそうやって鍛えられたものです。今じゃどこの空港も近代化され、ホンポンと入国スタンプを押してもらえるようになった。その点、このフィリピンという国、なかなか悪くないのである。役人が役人らしくふてぶてしい顔をしている。日本みたいに、「公務員はよりよい公共サービスを目指します」なんて押し付けがましいことは言わない。「クソ暑いなか、我慢してスタンプ押してやってるんだぜ」というイラついた顔をしている。これまた旅らしくて趣ぶかい。
国内線の乗換え口まで歩く。外は灼熱である。気温は軽く35度はあるだろう。日本からわずか3時間少々のフライトで、春先から真夏への移動である。しかも、ミクロネシアあたりの軽々しい夏とは明らかに違う、スモッグに満ちた不穏な空気につつまれている。「TUBE」が歌う夏と、鈴木光司が描写する夏ほどの落差のある暑さ。

国内線はビーチ行きの飛行機ではないので、地元の商用客の人が大半を占めている。何組かは外国人がいるが、ことごとく白人男に地元女の組み合わせ。日本男と地元女のカップルも2組いる。日本の男性は、1人はハゲ、1人はデブである。 ところが、連れ合いの女性はフィリピンのアイドルかと思わせるほどの美貌とスタイル。 これが資本主義が世界の果てに描いた男女の姿なのかと、しばし自問自答する。
1時間のフライトののち、ローカルを絵に描いたようなカリボ空港に到着。空港の周りは何もない。ちゃちな果物屋とボロいカフェがあるだけだ。外に出たとたん島の名前を連呼するオヤジが数名。ほいほい着いていくと乗合タクシーのワゴン車がお待ちかね。うん、いいね。ビーチへの道は、このように旅人を自動的に運んでくれなくちゃいけない。
見わたすかぎりの畑道をワゴン車は時速120キロぐらいでぶっとばす。後ろの席に、先ほどのデブの日本人とアイドル顔のフィリピン女性が乗り込む。デブの日本人は彼女を日本に連れて行きたがっている。彼女はその話を理解しているくせに、微妙にかわそうとしている。デブとアイドルの恋の駆け引きを1時間半ほど強制的に聞かされ、ようやく目的の島へと向かう船着場に到着。タクシーを降りたとたん、屈強な体躯のおにいさんがスッと現れボクの荷物を奪う。
「カッモーン」とボクを手招きすると、そのままジャブジャブと海の中に入っていく。後を追いかける。港といってもハシケがあるわけじゃなく、海岸沖の砂地にボートが乗り上げているのだ。
乗船客はみな靴を脱いで、ズボンのスソをまくりあげ、海の中に入っていく。それでも太ももくらいの深さの所に船は停泊してるから、スボンはびしょ濡れになる。 荷物持ちのおにいちゃんは、女性を1人ずつ肩に乗せ、船まで運ぶ。あんまし見たことない光景である。

エンジンがバリバリっと大音量でかかる。
舟の胴体の両側に長さ10メートルほどの竹をしたがえたバンカ船は、フィリピン独特の船文化である。竹が波を切りながら、やじろべえのようにバランスを取って進む。30分ほどの船旅の間に夕日はとっぷりと暮れ、海上は漆黒の闇におおわれる。洋上に光るものは何もなく、墨汁のような海に、これまた黒い帆船がたくさん浮かんでいる。
ここはスルー海、世界遺産の海であり、海賊たちが跋扈する海である。何があっても不思議じゃない。遠くのカンテラの光が近づけば、縞シャツに胸毛をはだけた男たちが船になだれ込み、 荒縄でしばられて金銀財宝を奪われる事だってあるのだ。・・・と、ロマンティックな海洋冒険気分にひたっていたら、隣に座ったフィリピンの男の子がケータイで話をはじめた。エンジン音に負けないように大声で何かをがなりたてている。一方で隣のおばさんもケータイでメールを打ちはじめた。ケータイの電波は、世界遺産の海賊海まで追っかけてくるのである。きっと海の荒くれ者どももケータイで連絡とりあってるんだろうな。さみしいね。
360度の闇の中に、さらに濃い闇が浮かぶ。そこだけ背景の星が消されているから島影だとわかる。やがて大きな岬を回りこむと、島のフチに沿って白やオレンヂの光が海の星のように瞬いている。人工の照明である。近づくにつれ、その数の多さに圧倒される。数百、数千の白熱電球や蛍光灯、たいまつの炎がゆれている。さまざまな音楽が海風に混じっている。ロック、レゲエ、ポップス、ヴォサノバ。トランスミュージックの繰り返される打ち込みのリズム。
ときおり人間の叫び声が混じる。煙がもうもうと上がっている。肉や魚を焼くにおいが海上にまで充満している。周囲の暗闇との対比があまりに強烈なため、退廃感がいっそう強まる。ふと「地獄の黙示録」にこんなシーンはなかっただろうか、と思う。こんな孤島で、毎夜どのような宴が繰り広げられているというのか。ここは究極の楽園か、それともまたもや微妙に失敗気味のビーチなのか。
ビーチ漂流記参 フィリピンのボラカイ島(今宵は大火事なり)
shima3ビーチ通りに立ち並ぶレストランやカフェは100軒を超える。夜ともなると世界中の美食がここに終結って感じの光景が見られる。インド、イタリアン、メキシカン、ジャマイカン、ネパール、ポルトガル、タイめし、中華、和食など、まさに玉石混合、なんでもありのグルメテーマパーク的様相を示している。
ハングル語が目立つ。コリアンメニューや韓国焼肉の専門店が50メートルに1軒は店を構えている。「モンゴリアンバーベキュー」も人気だ。30種類ほどの食材を、丼に山盛りにして一気に鉄板で焼く。これが正統なモンゴル料理だとはにわかには信じがたいが・・・。
カフェやカウンターバーが多い。いくつかのカフェは、夜になるとバイキング料理店に変身する。シーフードが10品くらい、野菜サラダや、フルーツ、スープもあって、240円ほどで食べ放題だ。こりゃ安い。
ビーチに面した店はみな、砂浜にテーブルと椅子を並べキャンドルを灯す。そして、周辺のヤシの木々をライトアップするのである。ヤシの木に囲まれたスペースに1客ずつダイニングテーブルを用意する店もあり、恋人たちは海と星空を2人占めできるという趣向。シーフードや肉を網焼きする白煙がもうもうと立ちのぼる。アコースティックやロックバンドの生演奏を聴かせる店も10軒ほどあり、お金がなくてもビーチに寝っ転がって音楽を聴ける。
かくして、ビーチ通りは匂いと音楽と光にあふれる。
物売りの子供たちが、光るアクセサリーを振り回し、通りを闊歩する。誰もかれもが同じ商品を売っている。観光客に声をかけるでもなく、売り子はただ商品を振りまわしているだけ。何やってんだろ。あるいは極彩色のネオンサインの横で、物乞いの女性や子供が、路上に並ぶ。服装はボロきれであり、髪の毛は何年も洗っていない。このような乞食を、この島は排除しないのである。
おそらく大半のリゾート島なら、彼らのような存在を強引に無いものとするだろう。ぼくの目には「寛容な世界」と映るけど、ごく普通の観光客にとっては、えぐい光景かもしれない。彼らは砂浜にべったりと座り込んでいるだけで、あまり積極的にはモノを求めない。だから収入もほとんどなさそうである。いずれにしても、商売っ気のないのがこの島の住人の特長であり、そんなことで食いぶちにありつけるのだろうかと、逆に心配させられる。

何日間かホワイトビーチをうろうろしているうちに、理想のバンガローを発見した。「モナリザ・イン」はツイン1泊5600円だが、窓を開けるとすぐそこが海辺である。宿の入口に「セックス目的の旅行者お断り!」との大きな貼り紙がある。何十年も使われている磨きの入った床材が美しい。
気性の強そうな女性オーナーがホテルの隅々まで管理し、ゴミひとつない状態をキープしていることがわかる。海に面したデッキに重厚なハンモッグが吊るされていて、読書にうってつけだ。迷わずいちばん海に近い部屋にチェックインする。夕暮れどきに、水平線に沈む夕日が窓の障子をオレンジに染める。
で、出発までの数日をこのお気に入りの宿ですごすうちに、とんでもないことが起こってしまった。いつものようにお昼からジョギングと水泳と筋トレをし、夕刻のまどろみをむさぼっていると、外から絶叫とも悲鳴ともつかない声が聞こえ、目を覚ます。
ねぼけマナコでドアを開けると、外は戦場のようになっていた。宿の裏側にある市場からオレンジの火柱があがっている。乾いたヤシの木の皮が、巨大な火の粉となって強風にあおられこっちに向かって飛んでくる。その火の塊がバンガローの屋根に落ちると、たちまち屋根が猛火につつまれる。2分としないうちに、右も左も火の海と化した。
パスポートが入っているザックをつかみ部屋を逃げだすと、あたりは黒煙でつつまれている。目に激痛が走りまぶたを開けることができない。炎が熱風をなり全身をたたく。熱い。
プロパンガスのボンベに引火したのか、背後で爆発音が連続する。空から爆撃をうけているような感じ。幸いかな一番海に近い部屋だった。目は見えなくなったが、海の方向だけは把握している。
ぶじホワイトビーチに逃げたら、千人ほどの絶望的な顔をした村人や旅人が立ち尽くしている。火の粉をかぶった人が海に飛び込み、家財道具や店の商品を棚ごと背負った人たちが、白砂の上に荷物を積み上げていく。
部屋を脱出した5分後には、ぼくのいたバンガローの屋根が発火し、数分で建物全体が崩れ落ちた。村じゅうの人たちが、大声をあげながら海の水をバケツリレーで運び、鎮火させようとしているが、猛火を前にあまりに無力である。
火はつぎつぎと燃え広がり、島の集落数百軒を焼く大火事となる。
「タリパパ」と呼ばれる島最大の商店街や、島唯一の市場のすべてを焼き尽くして鎮火するまでに、それからまるまる1日を要した。荷物はみな焼けてしまった。あのとき、村人の叫び声で目が覚めなければ死んでいた。

人間の生死などどこに境目があるかわからないなと思う。火事から2日たって、まる焼けになった「モナリザ・イン」の女性オーナーに宿代を払いにいった。オーナーは瓦礫の跡片付けをしていた。そしてぼくの姿を見ると懐かしそうに微笑んだ。
「あんた生きていたんだね。心配したよ。こっちはごらんのとおり何もかもなくしてしまったよ!
お金も何も残ってないよ! けどあんたが今くれたお金で今夜の食事は豪華にできそうよ、ワッハッハ!」と近所のおばちゃんたちと「ラッキー、ラッキー」と盛り上がっている。黒炭が林立する焼け焦げた愛するホテルを前に、ふつうなら絶望しそうなものだが、前向きに生きる人間の心根というものは凄いものだと胸を打たれる。

はてさて、「たまの休暇を楽しむサラリーマンによるリゾート島紀行」だったはずのこのリポートは、
かくして壮絶な幕切れとなったわけです。さて、この島の評価はどうしよう?
ビーチの環境 ☆☆☆☆☆
食べ物 ☆☆☆☆
ホテル関係 ☆☆☆
街の楽しさ ☆☆☆
治安 ☆☆☆☆☆
こんなとこなのかなあ。ぼくとしては、アジアビーチとしては最高評価に近いです。この島は6月から雨季に入るという。といっても、雨がザーザー降りになるわけでもなく、晴れの比率がいくぶん落ちるくらいと考えておいてよさそうだ。
風はめちゃ強いらしいけど、ウインドサーファーにとっては悪くない環境だ。宿によっては料金が30パーセントほど安くなり、観光客も少なくなって実はねらい目なのだそうだ。・・・とお勧めしすぎるのもどうかと思います。雨季に行ったことないしね。みなさん試してみてください。

ビーチ漂流記弐 フィリピンのボラカイ島(天国的砂浜なり)
shima2岸辺に船が近づくと、船首が海底の砂地につっこむ。この島にも港はない。海上で船は停泊し、旅人たちは船首のタラップから海面におそるおそる足を伸ばす。水深はひざ上くらい。だが波がくれば腰までつかる。スボンはたちまち水浸しになる。しかしそんなことを構っている余裕もない。大またで陸地をめざすしか選択肢はないのである。ビーチ沿いにたくさんのかがり火や電飾が並んでいて視界の隅まで続いている。ろくなアクセスがないこの島の異常なほどの栄えっぷり。ギャップがはなはだしい。
宿の予約をしていなかったので、最悪ビーチでごろ寝と決めていたが、その心配もないようだ。各ホテルの前に「VACANT ROOM=空き室あり」の表示が出ている。おかげで、いちいちホテルのフロントまでの長いアプローチを歩き、空き室の有無を確認しなくていい。超便利!
ホテルはバックパッカー向けの安宿から高級リゾートまでそろっている。安宿はツイン1000円くらいからあり、高級リゾートといってもツイン12000円前後でラグジュアリィな部屋に泊まれる。安宿といってもアジアにありがちなあばら家のような場所ではなく大変清潔である。また、安宿と高級リゾートが、ビーチベルトに入り混じって建っており、リゾート島にありがちなビーチ沿いを高級ホテルが独占するという光景はない。ここは、きわめて平等な島なのである。
ぼくは1泊3600円の中級ホテル「アリスインワンダーランド」にチェックインする。中級といっても、中庭にバーカウンターがあり、脇には小ぶりなプールもついている。 部屋は独立型のバンガローで、ベランダにはハンモックが揺れている。朝ごはんもつく。 入口にはしっかり警備員がいてセキュリティーがよく、これで3600円なら悪くないって感じ。
宿に荷物を置くと、夜の街をあてどなく歩いてみる。幅1メートルほどの小道が、縦横に走っている。もちろん自動車は通れない。村人たちも、すれ違うときは遠慮がちに脇に寄る。裏道には、いくつかの宿の看板が路上に張り出している。それがなぜか日本の古い温泉地を思い出させる。
夜が深い。なつかしい闇である。もちろん日本にも夜は訪れるが、昔のようなホントの闇はなくなってしまった。24時間のコンビニが街を明るくし、街灯や信号は一晩じゅう道路を照らしている。便利さと安全性とひきかえに、ぼくたちは街から闇を失ってしまったのだ。夕暮れどきのさみしさや、闇の怖さ、ドキドキする気持ち。動物の本能からくる見えざるものへの畏敬の念を感じる場所がない。だが、この島には確かに心を動かす闇が存在している。民家の窓から暖かい光と、大人や子供たちの嬌声が漏れる。細い小道は、奥へ奥へとつづく。天上に鈍く光る星座の半球を、やしの木々がワサワサとさえぎる。
そのうち、ふいに賑やかな通りに出くわす。商店街だ。暗闇が一転し、色の氾濫の世界がある。可視光線にある全部の色をぶちまけたかのような、まばゆい世界。熱帯の毒々しい色の魚、南洋のパステルな果実、原色が山盛りとなった香辛料。ピンク色の豚肉が宙にぶらさがっている。何百種類もの女性用ワンピース、電球を色紙で包んだ怪しいデザインランプ。たくさんの人がいる。タトゥー屋にたむろする男、携帯電話を組み立てる若者たち、牛刀で肉を裁つおばさん。アジアのビーチらしくない街の匂いである。どこかの街に似ている気がして記憶をたどる。
たとえばカトマンズの町中に姿を現す寺社、その周りを取り囲む細い路地。あるいはインド・バラナシのガンガー沿いの迷路のような感じ。それらの街と似ているようではある。だがここには猥雑だけど性的要素はない。そして宗教的なシンボルもない。それゆえに奇妙な軽さがある。旅人が求める浮遊感はかろうじて手に入る。ズッポリのめりこむほどではない適度な無法地帯。1週間程度の有給休暇にはちょうどいい。これなら慣れるのに時間がかからない。ぼくは商店街に心地よい場所はないかと、店を一軒一軒ひやかしはじめる。

カンカン照りの島は、紺碧に揺れるスルー海の真ん中にあった。世界じゅうのビーチフリークが一生に1度は訪れるというホワイトビーチは、どこがビーチの端っこなのかと思わせるほどにだだっ広く、目がくらむほどの光線をレフ板のようにはね返す。その白砂は、カンペキとはいえない程度のオフホワイトである。
南北に約4キロメートルつづくビーチは、北側になるほど遠浅になり、砂浜の幅を広げる。干潮時には幅80メートル以上にもなる。あたり一面が白の世界となり、強烈な反射光がアゴの下やひざを焼く。反対に南側は波打ち際へのアプローチが近く、地元のカップルがデートしていたりする。
より高級リゾート的なムードを求めるなら北側がよいし、気楽に子供たちとビーチサッカーにでも興じたいなら南側がいい。この南北に長い海岸線沿いに、ビーチ通りと呼ばれる白砂の道が伸びる。この道こそが島最大の特徴だと言える。
ビーチ通り沿いには、延々とレストランやショッピング街がつづいている。ここでは、ビーチサンダルをはいてりゃ(あるいは裸足でも)、裸のままでも食事から航空券予約、 両替、ショッピング、マリンスポーツの手配、エステティックまで、なんでもできてしまうのである。
タイやインドネシアの島々で、このような環境の島をぼくは知らない。ビーチと街の間には必ず車道があったり、リゾートホテルのプールが独占していたり、ビーチを守るための鉄柵があったりする。たとえば、太平洋で最もメジャーなビーチのひとつバリ島の「クタビーチ」ならば、ビーチ横は車道が通り、ホテルや街に出るためには、騒がしい道を越えなくちゃいけない。だから、生活が何かとわずらわしいものになる。ビーチにでかけるのが一大行事となってしまうのだ。用意するもの・・・ビーチマット、タオル、紫外線ブロック、サンダル、お金、文庫本。 これらを砂浜で盗まれないように用心しながら、波とたわむれる。イマイチである。
ホワイトビーチならそんな心配はない。海パンいっちょうで裸足のままホテルの部屋からビーチにダッシュできるのである。ホワイトビーチを往復すれば8キロメートル。1時間のジョギングコースにぴったりであることも気に入る。砂浜はほどよく硬く締まっており、楽に走ることができる。ホビーキャット呼ばれる双胴の帆船が、浅瀬に何十艘と停泊している。その帆の鮮やかな色のリズムが、ランニングを飽きさせない。世界じゅうのビーチジョガーに教えたくなるほどの名コースであると断言できる。

2007年03月02日

タウトク3月号を持って旅に出ませんか? tokushima-tautoku0703
特集1
●気まま春旅
レトロな町並みや超ディープな商店街へ旅にでる
予約なしの風まかせドライブ。
知らない街を歩いて出会った風景、
地元でしか食べられないうまいものを求めて…
徳島から日帰りで行けるステキな19エリアを掲載中。


2007年03月01日

さらら 3月1日号発行しました! salala0301.jpg 今回の特集は、人間ドック!
編集スタッフが実際に人間ドックを初体験した模様を連載して6カ月。連載時、人間ドックに関する質問が読者から多数寄せられました。検査内容、料金や検査の時間、定期健診との違い、胃カメラとバリウムどっちを選ぶ人が多いの?・・・などのギモンについて編集部が再取材したものを紹介しています。

2007年02月25日

革命児の生き方
「若さゆえの無謀」というコトバの陳腐さ。
大人になれば落ち着かなきゃいけないなんて、
みな信じこまされている。そんなのダマシだ。
ハゲチャビンのおっちゃんになっても、
語る夢がある大人はみな無謀なのだ。

文=坂東良晃(タウトク編集人)


その男に出会ったのは1987年、アフリカのナイロビという街だ。

ナイロビのダウンタウンに「リバーハウス」という伝説の宿がある。
3階建ての古いアパートメントの一角が、貧乏旅行者に開放されている。2階には広い中庭があり、さんさんと太陽光がふりそそいでいる。その周囲をとりまくように部屋が並んでいる。
そこでは、ごく普通に地元のケニア人が日常生活を営んでいる。会社に出勤する人もいれば、日雇いの仕事を探している兄ちゃんもいる。とはいえ、真っ昼間からヤーマーという幻覚効果のある葉っぱをくちゃくちゃと噛み、恍惚の表情をたれ流しながら口を真っ赤にしてる住人も多く、平均すれば普通ではないのかもしれない。
夜な夜な地元のディスコに男を釣りに出かける娼婦たちも、何部屋かを借りている。
彼女たちの多くは、ナイロビ生まれではなく北部の寒村出身である。稼ぎがよいのかどうかは知らないが、美人は1人で部屋を借りているし、娼婦としてはどうなんだろ?というクラスの女性は3人くらいでルームシェアをしている。
旅人と、下町のオッチャン・オバチャンと、出稼ぎ娼婦が共同生活する不思議な空間。天気のいい日には、クリーニング屋を営むオバチャンがシーツの洗濯をはじめる。中庭いっぱいに何重にも干されたカラフルなシーツが風にそよぐ。その傍らで、ぼくは惰眠をむさぼっている。

ぼくにはやることがなくなっていた。
ぼくはそのとき二十歳で、十代の頃からはじめたひとつの大きな旅を終えていた。アフリカ大陸をインド洋岸から大西洋岸まで歩いて旅をした。6千キロを歩くのに1年かかった。
地図のない密林地帯や、涸れはてた砂と岩だけのサバンナ。厳しい旅であったが、身体の順応は早かった。餓えも、マラリアも、ボウウラの浮いた飲み水も、すぐに身体にしみついてしまった。自分の内面への旅のはずが、酔狂なピクニックになってしまった。大きな徒労感と怠惰が全身をおそっていた。
これから先、いったい何をすればいい?

そんなときである。男が宿にあらわれたのは。
一目見たときから、男はタダモノではない気配を全身から発していた。眼光はヘビのように鋭いが、正面から見れば澄み切っている。四肢の筋肉はシャープな彫物をつくり、研ぎ澄まされたアスリートのようである。ヤクザではあるまいが、身体のあちこちに古傷、生傷がある。
彼には貧乏旅行者がまとっている「ダルさ」がない。
旅人たちは、何かを探しにアフリカの辺境にやってきていた。ある者は貧しいスラムの街に、ある者は未踏のジャングルへと、地図のない場所を求め自分さがしをする。壮大なるモラトリアムである。1年、2年とつづく旅。地平線を何本越えようとも、その彼方に求めるものはないことを旅人は知り、都会へと帰る。あるいは、見つからない回答を探しつづけ、漂流人となる。自分と現実の境界線を見失い、狂う。
しかし、この男には「迷い」がまるでないのである。

男は名前を聞かれると、「オレは革命児だ」と名乗る。
他人にアドレス交換を求められると、住所の下に巨大な文字で「革命児」とだけサインをする。それでも郵便物は届くらしい。ヘンである。しかしこの果ての地で、自分を革命児だと名乗るような輩は、珍しいとは言えない。
要するに、少しオカシイのだろうと想像する。そもそも、いつ後ろから刺されるかも知れないナイロビのダウンタウンに、まともな人間がやってくるはずがない。

だが、革命児はきわめてマトモな人物であった。革命児は二十三歳という若さに似つかわしくないほど、人間愛にあふれている。困っている人がいると、相手が誰であろうとトコトン世話を焼く。
ある日、革命児と話をしていると、外から叫び声がする。ケンカか、と思った瞬間、革命児は疾風のごとく外に飛びだしていく。ここは物騒な下町である。ケンカといっても殴り合いじゃすまない。平気でナイフくらいは登場する。集団リンチ、ゴミタメの中で流血、失禁する敗者、そんな風景が日常茶飯だ。ところが、革命児は見ず知らずの地元のあんちゃんのケンカを止めに入る。革命児は、他人の事情を優先する。自分の身を守らない。

革命児が語る物語はファンタジーにあふれていた。彼が身体に負ったいくつもの傷は、ジンバブエの外人傭兵部隊に入隊したときについたものだ。
「軍隊に入ったらさあ、最初の日に人の殺し方を教えられるんだ。細い針金を相手の後ろから首に回し、ぐいっと背中でかつくだけでいいなんてね」

アラーの思想に共感する彼は、どうしてもメッカに巡礼したいと考えていた。彼の父親は日本人としては数人しかいないメッカ巡礼をはたした敬虔なイスラム教徒だという。
メッカに入るためには、サウジアラビアに入国しなければならない。ところが日本人である革命児には、なかなか入国許可がおりない。彼は、ソマリアにあるサウジ大使館の前で数週間の座り込みをし、日照りと風雨のなかで、暗唱したコーランを滔々と吟じた。大使館員はついに折れ、革命児を認めた。アラビア半島を徒歩で横断し、彼は聖地メッカへの旅を実行した。

銃撃を受けたこともある。
社会主義革命を成功させたアフリカ北部の国家・リビア。革命児はカダフィ大佐が作った革命国家を自分の目で見ようとした。当時、旅行者がリビアに入ることは不可能であった。革命児は、砂漠には国境がないと考え、何もないないはずのそこから潜入を試みた。巨大なポリタンクに飲料水を蓄え、ひたすら歩く。しかし、砂漠を行けども行けども鉄条網が張り巡らせれており、国境警備兵がいる。やがて水は涸れ生命のピンチ。強行突破を決意した革命児の足元に、兵士はマシンガンを撃ちこんだ。
子供の頃にワクワクして読んだ冒険小説のような話を、革命児はいきいきと語る。

なぜ彼は、自分を「革命児」と称するのか。
「オレはアフリカに革命を起こすんだ。南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)をぶっつぶすんだ。サベツのない世界に変えてみせる。そのためにオレは生まれてきたのだ」
傭兵としてのトレーニングも、イスラムの奉仕の思想も、世界を知る無謀な旅も、すべてはその準備のため。
ぼくは、この言葉を半分信じ、半分疑った。純粋な若者の、理想論だと思った。
彼ほどの行動力があれば、いずれ必ず南アフリカに入るだろう。そこで抵抗運動をする人々と合流して、珍しい黄色人種の人権活動家として注目を浴びるだろう。でもそれは、若さゆえの熱さ、守るもののない若者だからできる無謀なチャレンジだと、ぼくは思った。
そう。革命児だって、ぼくと同じようなものだ・・・。彼なりの自分さがしをしてるのだ。

そんな彼への評価が大間違いであったことがわかった。革命児は本気だったのだ。彼の民衆革命への志は、いまだに途絶えていなかった。
一冊の本が出版された。
「我が志アフリカにあり」朝日新聞社刊。
革命児・島岡強の半生をつづった痛快なノンフィクションである。著者である島岡由美子さんは、ぼくが出合った当時から革命児と旅をともにしていた。顔立ちは、周囲が振り返るほどのものすごい美人。しかも、活発な女性ツーリストとは対極の良家の子女タイプ。上品な物腰も、おっとりとした口調も、日曜に銀座のデパートにお出かけするような感じの洋服も、下町のボロ宿のなかで恐ろしく違和感のある女性であった。
ケンカの仲裁に飛び出していく革命児を呆然と見送りながら、「いつものことだから、あの人はそういう人だから」と不安そうに微笑んでいた。
その島岡由美子さんが書き綴った革命児の人生は、鮮烈このうえない。
タンザニアのザンジバルという島に腰をすえた革命児は、草っぱらに柔道場を開き、たくさんの若者を指導した。そして、世界選手権に出場する選手を育てるまでに至った。一方で漁業や運送業を興し、地元の職のない若者たちの働き口を作り、支援をつづけている。自分以外の誰かのために生きる、その無垢な姿勢は微塵も揺るがない。18年の時が過ぎても、革命児は昔のままの革命児なのだ。
「島岡強」でインターネット検索すれば、現在の彼の姿も見える。かつての研ぎ澄まされた虎のような顔は、柔和な大人の顔になっているが、荒々しいガキ大将ぶりは健在である。いくつになってもどこまでも戦い続けている革命児。負けちゃいられないと思う。
そんな革命児のドキュメンタリーが、「スマステ」でも放映された。突然すぎて見逃した、チクショー。誰か録画してない?

2007年02月21日

雑誌をつくろう そのロク「どうやら横道にずれてます」
ヒマラヤのヒライケン語録
文=坂東良晃(タウトク編集人)

nepal2厳冬期、ヒマラヤにのこのこ出かけた。寒すぎ!
雑誌など長年作っていると、野獣的なカンが鈍くなる。
たとえば腐った肉を食べるとして、ほどよい甘みのある腐り加減なのか、それとも消化器官に深刻なダメージを与えるほどの腐り方なのか、今の自分はわからない。あるいは、水の匂いを嗅ぎ分けられなくなっている。砂漠やサバンナを歩いていると、極度に身体が乾燥する。わずかな水で生命をつなぐ生活を続けていると、枯れ谷の底に流水が存在しているのかどうか、「水の匂いや動き」を感じられるようになる。動植物や昆虫の知識がなくても、外見を見たり匂いを嗅ぐと、食べられる虫かどうか判断できるようになる。ぼくは10代の後半と20代の前半の多くを、飢えと乾きに悩まされる場所で過ごした。その頃の感覚を完全に失ってしまっている。
それではいかんのである。
物事は論理と理性で考えてはならないのである。野獣のカンで危機を察知し、獲物を猛追しなければならないのである。
社会生活の中で集団行動に慣れすぎると、個としての決断力が鈍る。人と話し合ったり、取引したり、合意したりしてるうちに、判断の50%を他人にゆだねることになってる。
それもいかんのである。
密林の奥深くで道を失ったときに、頼る人はいないのである。100%自分の経験とカンによって脱出口を見つけなければならないのである。

・・・なんていう得体の知れない心理的葛藤の果てに、ぼくはヒマラヤに向かったのであった。
ネパールにやってきたのは3回目だ。
1回目は18歳のとき。ヒマラヤ山中を目的もなくウロウロ歩いていた。調子に乗って雪解け水をガバガバ飲み、高い山に一気に登りすぎて、高山病と赤痢に罹患した。見ず知らずの旅人にまる1日背負われて下山した。ただのハタ迷惑なバカであった。
2回目は27歳のとき。自転車に乗ってネパールからアフリカまで行こうとした。首都カトマンズで台湾製の21段変速ギアつきの超高級マウンテンバイク(1万円)を購入して、さっそうと走り出した。5キロも走らないうちに変速機のパーツが壊れ、1段変速になった。そのうち右のペダルがポロッとれた。ハンマーでペダルを打ち込んでいると、その衝撃で左のペダルも取れた。そんなボロ自転車でインドまで行ったが、運悪くインドとパキスタンの紛争がはじまり、印パ国境が閉鎖された。前に進めなくなり敗退した。これまたただの時流知らずのバカであった。

そして3度目は、39歳のオヤジ年齢となったボクである。
自分の野獣性を目覚めさせる旅である。目的からしてバカだね。18歳の頃のように、昼夜問わず怒涛の峠越えをし、雪渓を雪豹のごとく渡り、クレバスを超然と飛び越え・・・というフリーダムな旅を予定していたが、ネパール観光省に入山申請しようとしたら、「1人では山に入れませんね」と冷たくあしらわれた。かつては旅行者が自由にトレッキング(山歩き)できたんだけど、今はルールが変わったんだと言う。トレッカー(登山客)は必ず地元の旅行会社を通じて政府に入山申請をし、ガイドを最低1名つけなくちゃならない、というわけだ。
なるほど、そりゃいい国策である。登山客が1人で山に入っても、地元に落とす金なんて微々たるものだ。旅行会社を通せば、いろんなマージンがいろんな業者を潤して、いろんな人が儲かって嬉しいだろう。
ってことで、ぼくは1人のネパール人青年をガイドとして雇ったのである。
その彼はやたらと男前で、歌手の平井堅をさらに濃くしたような彫り深な顔立ち。ネパールの最高学府を卒業し、日本語・英語・ヒンドゥー語がペラペラの25歳。低酸素の高地にも強い体力を有し、知的で、控えめで、礼儀正しい。そしてすごく客観的に日本人を見ていて、その観察眼がおもしろい。ヒライケンの登場により、孤独のサバイバルクライミングだったはずの山岳紀行の様相は全然変わってしまい、彼との対話で全編彩られることになったのである。

んなわけで、ボクの旅行記は以下の数行にまとめ、ヒマラヤのヒライケン君との会話について記したいと思う。
では旅行記開始。毎日、1000メートル分登ったら1000メートル下るといった峠越えを繰り返した。1日8時間、延々と急階段を上り続けるような登攀路。毎日水を4リッター飲んだが、それでも身体はどんどん痩せてく。(汗って何リッター出るの?)
4000メートル付近から高山病の症状が出はじめ、万力で締めつけられるような強烈な頭痛と、胃液オンリーのゲロに悩まされた。なぜか鼻血が止まらなくなり、鼻のまわりは凍った鼻血で真っ黒けになった。紫外線が強く、顔の皮膚がべろーんとはがれた。気温はマイナス20度まで下がり凍えたが、山の料理は美味しくカロリー補給ができたので、身体が冷め切ることはなかった。以上で旅行記終了。

■ヒマラヤのヒライケン語録1
ネパールでは裕福な家に生まれない限り、能力があっても、成功する方法は大きく3つなんです。
一つめは、中東の産油国に出稼ぎに行くこと。
二つめは、日本の大学の奨学生になって学生ビザで入国し、アルバイトで働きまくること。自動車工場なんか人気ですよ。でも奨学生になるには100万円近い準備金が必要なんです。これはネパールでは途方もない金額で、あちこちから借金しない限り、用意できないですね。
三つめは、イギリス軍かインド軍の傭兵(雇われ兵)になること。
ネパールは伝統的にゴルカ兵という優秀な兵士を持っていて、19世紀にイギリスと戦って勝ったことがあるので、今でも英軍からの評価が高いんです。カシミールやアフガニスタンやイラクの最前線にいるのは、ネパール人のような貧しい国の志願兵や傭兵です。政治家にしたら、本国の兵隊じゃないから、もし死んでしまっても自分の国の世論には影響がないから、そうなるんですね。報道ニュースで「これがイギリス軍の前線部隊です」といって、ネパール人が映されることはないですけどね。インド軍よりイギリス軍の方が給料も待遇もいいので、人気ですね。
この三つのうちどれかの方法で、数年かけてお金を貯めます。目標額は300万円とか500万円とかです。それを資金に、ネパールに戻って会社や商店を持ったり、旅行者相手のホテルを建てたりします。ネパールで何十年働いても、店を出すお金は貯まりません。

■ヒマラヤのヒライケン語録2
日本人の女の子は、声をかけられると、誰にでもついて行くって思われてます。ネパールやインドを旅行してる日本の女の子は、日本であまりモテたことないんでしょう? 日本では「ブサイク」って言うんですよね。だからきっと、こっちのナンパ好きの軽い男に「かわいい」ってホメられたり食事に誘われたりすると、すぐついて行ってしまうんでしょうね。お酒を勧めてもすぐ飲んでしまう。食事代やデート代のお金も払ってくれる。外見はすごくマジメそうに見えるのに、すぐベッドに入ってしまう。ネパールの遊び人からするとすごく都合のいい存在になっている。
あと、顔がアジア人なのに髪の毛を茶色や金色にして、あまり似合ってないからこっちの人は笑ってる。金髪でヒョウ柄の服を着ているのは「アユ」っていう人のマネをしているんでしょ? この間もタチの悪いナンパ男のバイクの後ろに乗って行ってしまった。髪の毛の色を変えてる女の人は、ナンパされるとすぐついていきますね。

■ヒマラヤのヒライケン語録3
日本人の金銭感覚はヘンですね。
日本の旅行者の口グセは「お金ない」と「(値段)高いね〜」です。たとえば、山の村でコカコーラの値段が100円と聞くと「高い!」と言います。牛やロバや人力で重い瓶ジュースを何日もかけて運び上げるのだから、運び賃がオンされて何十円かは高くなるんですけどね。それに料理が300円くらいだと、やっぱり「高いね〜」という声があがります。
でも、私たちみんな知ってるんですよ。日本では学生アルバイトの時給が800円とか、社員の初任給が十数万円とか、1回の食事に1000円くらい払うとか。なんで、そんな物価の国からやってきた人が、ネパールの旅行者向けの値段を「高い」「ぼったくり」なんて言う?
私の山岳ガイドの仕事は日当1000円です。これもネパールの給料水準と比べたらすごくいい。
でも、ガイドができる季節は1年の半分くらいだし、その期間中も予定が入るのは半分くらいだから、実際にガイドの収入があるのは、年間で90日〜120日分くらい。だから年収にしたら10万円前後。私は6000メートルを超える高山は案内しないから生命のリスクは少ないけど、それでも毎年キャンプ場や山小屋が雪崩に押しつぶされて死んでいるガイドがいる。私たちは死んでも何の保障もないんです。お金をたっぷり持っていて、何でも「高い高い」と言うメンタリティについて、本当のところが知りたい。

■ヒマラヤのヒライケン語録4
ネパールには、働く気がない日本の若い人がたくさん来ています。何十万円か持っていて、そのお金がなくならないように、できるだけ安い物を食べて、安いホテルに泊まって、何もせずにできるだけ長くいようとする。ネパールの人でも入りたくないような汚い不潔な食堂で、1食10円のごはんを食べてる。それでも「高い」と文句を言っている。お金を使いたくないから、できるだけ外に出かけないようにしたり、食べないようにしてる。なんかよくわからないですね。
こういう日本の若者は、大学に入学したのに休学したり、卒業したのに仕事してない人ですよね。日本の大学に入るのは凄くお金がかかるんでしょう?どうして何百万円もかけて大学にいって、今からお金を稼げるってときに、働かないんだろう。もったいないですね。そんなにお金がもったいないなら、大学にお金を払ったりせずに、会社を作ったり店を出したりする資金にしたらいいのに。あっ、でも仕事自体をしたくないのでしたか。
日本人でも中学校や高校を卒業して働いている人は、ネパールまで来て遊んでいる暇ないんでしょう? やっぱりそれなりに裕福な家の人が、旅行に来ているんですよね。
しかし、なぜ裕福な生まれなのに「お金ないない」と貧乏そうなフリをしているのですか。わからない。
ネパールの若者は、どうにかして働きたいから日本に潜り込んでいる。
日本人の若者は、働きたくないからネパールに来てじっーとしている。
世界はすごくヘンなことになってるし、何となく平等じゃないですね。


ヒマラヤのヒライケンは、夜ごとに思索し語る。日本人を100人以上ヒマラヤに案内した彼も、いまだ日本人の不思議な行動様式には理解しがたいものがあるようである。
ヒマラヤでは、旅行者とガイドは厳密に宿泊する場所を分け、主従関係をはっきりさせる習わしのようだが、ぼくはヒライケンの日本人観をうだうだ聞くのがおもしろくて、夜ごと彼の部屋をノックした。酸素が薄いためか炎がか細く揺れるローソク1本の灯火の中で、ぼくは彼の話を聞きながら眠りについた。
3週間近い同行の旅を終え、ぼくたちは山を降りた。騒音に溢れる首都カトマンズの路上でぼくたちは別れることになった。ヒライケンはぼくに握手を求めながら「ガイドの寝室にやって来るお客さんは初めてなので、最初はホモなんじゃないかと心配しましたよ」と言葉を残し、右手を天につきあげながら、ゆっくりとカトマンズの雑踏の中へと消えていった。

2007年02月15日

さらら2月15日号、発行! salala0215.jpg今回の特集は、「徳島人のものの呼びかた パート2」!テーマは3つ。もち米とうるち米を混ぜて炊いたものを丸めて、甘く炊いた小豆などをまぶしたもの、瞼にできる小さな腫れ物、お母さんが近所に出るときなどに利用する履物…それぞれ徳島人はどう呼んでいるのか? 500人以上の読者から寄せられたアンケート結果はいかに? 驚きの呼び方や、腫れ物を治すためのおまじない、履物の業界の呼び名など、おもしろネタも紹介!

2007年02月09日

CU*3月号で感動的においしいもんを発見! tokushima-cu073
特集1
●最近見つけた感動的においしいもん
徳島の女性が最近食べた美味しい料理、
なかでもビビっときた感動的な逸品を
写真と漫画で分かりやすくご紹介。
今まで知らなかった絶品料理を
発見できるチャンス!
そして…
結婚しちゃお!春号 発売ですtokushima-kekkon徳島のウエディング情報が300店舗掲載されている
「結婚しちゃお!春号 280yen」が2月10日に発売となります。

徳島で結婚をしたいカップルは必読の1冊。
結婚式場や写真館、貸衣装、ジュエリーショップなど
見ているだけで花嫁気分になれる情報万歳です。
さて、気になる春号の特集は…

2007年02月05日

月刊タウン情報トクシマ1月号 実売部数報告 tautoku0701_busuu.jpg tautoku0701_suii.jpg

月刊タウン情報トクシマ1月号 実売部数報告です。
タウン情報トクシマ1月号の売部数は、
10209部でした。
詳しくは、上部に表記してある画像をクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU*」の実売部数を発表しております。

2007年02月02日

月刊タウン情報CU*1月号 実売部数報告 cu0701_busuu.jpg cu0701_suii.jpg

月刊タウン情報CU*1月号 実売部数報告です。
タウン情報CU*1月号の売部数は、
6480部でした。
詳しくは、上部に表記してある画像をクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している「月刊タウン情報CU*」「月刊タウン情報トクシマ」の実売部数を発表しております。

2007年01月29日

月刊タウン情報トクシマ2月号発売! tokushima-tautoku0702寒いのに熱い!4大特集
●四国のご利益スポットで幸せになるドライブ
●今すぐ食べたい どんぶりベスト25!
●近県アイススケート場
●始める!格闘技
●歓送迎会ガイド70




2007年01月18日

さらら1月18日号発行 salala0118.jpg今回の巻頭特集は、「みんなの気持ちがこもったてづくりもの」
徳島県内の障害者支援施設や地域活動支援センターなどで作られている商品たちを紹介しました。
たとえば…毎朝5時から搾っている濃い味の牛乳(ビン詰め!)、生ゴミに混ぜて使う有機肥料、心と体に優しい手づくりヘルシーなお弁当、カバ・ブタ・子犬などの可愛い組み木、驚きの値段の野菜、なんとカブトムシの幼虫!など。思わずほしくなる、魅力的なものたちが勢ぞろいです。

2007年01月17日

徳島ウエディング 実売部数報告 t-wedding tokusimaW_busuu.jpg

徳島ウエディング 実売部数報告です。
徳島ウエディングの売部数は、
2012部でした。
詳しくは、上部に表記してある画像をクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU*」の実売部数を発表しております。
不思議の国 トルコ旅行記-後編- 1 4旅行記ラストは水の都・イスタンブールを紹介!
飛んでイスタンブール♪と口ずさむおじさま達は数知れず… 笑

世界各地から観光客が集まるイスタンブールには見所がたっくさん!
●グランドバザール(何と4000店がひしめく市場)
●エジプトバザール(香辛料の香りがプンプン)
●ガラタ搭(イスタンブールの夜景が最高にキレイに見えるスポット)
●モスク(世界で唯一6本の搭を持つブルーモスクには1日中イスラム教徒が礼拝に訪れる)
●トプカプ宮殿(世界2位の大きさを誇るエメラルドを展示)
●ボスフォラス海峡クルーズ(北は黒海まで行くことができる)


2007年01月16日

CU*2月号はいま旬の遊び場がいっぱい! cu0702特集1
女性がうれしい おでかけ先 70計画
夜景が綺麗なレストラン、爽快アイススケート、
新ショッピングスポット、秋田町の新個室など
寒さも吹っ飛ぶトキメキの遊び場を求めて
徳島はもちろん四国・関西まで巻き込んだ70箇所。
さらに...