NEW TOPIC
2013年03月08日
月刊タウン情報トクシマ2月号 実売部数報告です。
タウトク2月号の売部数は、7,485部でした。
詳しくは、上部のファイルをクリックしてください。
メディコムは、「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU」「徳島人」「結婚しちゃお!」「徳島の家」の実売部数を創刊号から発表しつづけています。
雑誌の実売部数を発行号ごとに速報として発表している出版社は、当社以外では日本には一社もありません。実売部数は、シェア占有率を算出し、媒体影響力をはかるうえで最も重要な数値です。他の一般的な業界と同様に、出版をなりわいとする業界でも正確な情報開示がなされるような動きがあるべきだと考えています。わたしたちの取り組みは小さな一歩ですが、いつかスタンダードなものになると信じています。
月刊タウン情報CU2月号 実売部数報告です。
CU2月号の売部数は、4,024部でした。
詳しくは、上部のファイルをクリックしてください。
長らく雑誌の実売部数はシークレットとされてきました。雑誌は、その収益の多くを広告料収入に頼っているためです。実際の販売部数と大きくかけ離れ、数倍にも水増しされた「発行部数」を元に、広告料収入を得てきた経緯があります。
メディコムでは、その悪習を否定し、「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU」「徳島人」「結婚しちゃお!」「徳島の家」の実売部数を創刊号以来、発表しつづけています。
徳島人2月号 実売部数報告です。
徳島人2月号の売部数は、4,293部でした。
詳しくは、上部のファイルをクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している
「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU」「徳島人」「結婚しちゃお!」「徳島の家」の実売部数を発表しております。
結婚しちゃお!冬号 実売部数報告です。
結婚しちゃお!冬号の売部数は、713部でした。
詳しくは、上部のファイルをクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している
「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU」「徳島人」「結婚しちゃお!」「徳島の家」の実売部数を発表しております。
2013年03月07日
また、暖かくて春の旅行にぴったりの「屋久島」と「奄美大島」を紹介する「家族で行きたい 島あそび体験」では、海&山あそびや体験メニューなど、2つの島の魅力をお伝えします。
他にも見逃せないコーナーが
●「めざせ!キレイの星」では、「キレイになりたい!」という方たちに向けたビューティのお店情報がたくさん。新年度に向けて、美しさに磨きをかけよう!
-------------------------------
「くらしエンタテイメントさらら」は毎月第1・第3木曜日、徳島新聞朝刊とともにお届けしています。
次回発行は2013年3月21日(木)。お楽しみに!
2013年02月28日
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
極端な徘徊老人。
あるいは3周乗り遅れのフラワームーブメント。
哲学はなく、ただ衝動あるのみ。
走って地球一周したい。
極端な徘徊老人。
あるいは3周乗り遅れのフラワームーブメント。
哲学はなく、ただ衝動あるのみ。
走って地球一周したい。
□
スタート地点は南米最南端。南米最南端という称号がどの地を指すかといえば実ははっきりしない。アルゼンチン領の最南の街「ウシュアイア」か、さらに南方面に10キロ移動し、ビーグル水道を越えたチリ領のナバリノ島にある「カポ・デ・オルノス」という村か。 南米の先っぽのホーン岬は複雑すぎるリアス式海岸で、どこが南のはしっこなんだか特定しようがない。実際行ってみりゃ、わかるんだろうけどね。ビーグル水道といえば進化論のダーウィン先生が乗ってた「軍艦ビーグル号」が名高いけど、200年も昔にこんなとこまで船で来てたんね。
ホーン岬から太平洋岸を北上し、南北に細長いチリを縦断するとこの国だけで4400キロ。途中で飽きたらアンデス越えしてアマゾンの湿地帯を抜けるか。いずれにせよ南北アメリカ大陸の分水嶺であるパナマ地峡まで8500キロ。パナマ運河にはアメリカ橋って名のでっかい橋が架かっている。この橋の真ん中が南北アメリカ大陸の境界ってことか。
中米諸国を小刻みにステップアップすると、メキシコ、米国、カナダとたった3国で分割統治する北米大陸入り。いやはや、贅沢な領土支配っぷりだねぇ。アメリカ合衆国はキラびやかなサーフコーストつづく西海岸は避け(そんな気分じゃない)、ルーツ・オブ・アメリカを遡る東海岸か、中西部と五大湖地方を突っ切るド田舎コースか。
カナダ、アラスカを経て、北米大陸の最西端まで1万9000キロ。凍てつくアラスカ、変化のない風景の毎日を過ごすのは、相当な精神力が必要だろうね。そもそも道がなくて海沿いに小さな村落が点在しているだけ。こりゃ地獄かな。
北米大陸とユーラシア大陸が最も接近しているのはベーリング海峡。アラスカ州プリンスオブウェールズ岬からシベリア東端のデジニョフ岬までは、直線距離で86キロ。
ベーリング海峡のほぼ真ん中にダイオミード諸島がある。米国領のリトルダイオミード島と、ロシア領のビッグダイオミード島が東西に並んでいて、その2島を隔てるわずか3.6キロの水道が、北米大陸とユーラシア大陸の中間である。アメリカ合衆国とロシアという2大国の国境と、さらには日付変更線まで通っている。冷戦時代ならここが共産主義と資本主義の思想境界である。人類が設定したいろんなラインが、この狭い海に束となってうねっている。
日本人のご先祖でもあるモンゴロイドの一群が1万年前にこの海を歩いて渡り、北米大陸を開闢する礎となった。人類は、帆船と六分儀を駆使して大西洋から北米大陸に到達したのではなく、「歩いていった」のである。
ベーリング海峡は1年のうちで2月のみ全行程が凍結する。2月の気温は氷点下40度。しかし海面は完全氷結しているのではなく、浮遊する流氷の塊が常時移動している。ここを単独徒歩で抜けるのはヒマラヤの7000メートル峰登頂クラスの難易度だ。
厳冬期の徒歩横断が難しい場合、最も水温があがる真夏に泳いで渡る。米側から36キロメートル泳いでリトル島へ、リトル島は幅2キロちょい。東西世界を隔てる3.6キロを泳いでビック島へ。幅3キロのビック島西海岸から再び35キロメートル泳げばユーラシア大陸到着だ。真夏といえど水温5度、早い海流の中を泳ぎ切れるのか。ボートをチャーターし、サポートをつけるとしても難題であることに変わりはない。厳冬期よりは成功確度は高い? あきらめてカヌーで行くか・・・なんかヤだな。
ユーラシア大陸の最東端・デニジョフ岬に上陸後は一路シベリアを南下する。大陸横断のルート候補は2つ。中国・チベット自治区を経てヒマラヤ越えをし、ネパール、インドへと下るルートか。あるいは新彊ウイグル自治区からキルギス、タジク、ウズベクを抜ける中央アジアルートか。アルカイダの戦士たちが支配する地域は避けておきたいので、パキスタン北部とイラン南部は迂回したい。ってことは中央アジアルートを選ぶことになるんだろうね。地球一周には「世界の屋根」越えであるチベットルートは諦めたくないけど・・・道半ばで首ちょんぎられるのもイマイチだし悩む。
文化の坩堝であるアジア最後の地は、ヨーロッパとの境目とされるトルコのボスボラス海峡。海峡をまたぐボスポラス橋は歩行通行が禁止されてるので、ベーリング海峡以来の水泳横断しかないね。幅1キロくらいと吉野川程度、温帯だし国境衛兵もいないから、問題ないか。
欧州路に入れば、現代科学や哲学、政治・社会制度のほとんどを生み出した地、ギリシャやイタリアに興奮を抑えられないだろう。快適に心滅ぼされ、沈没しないようにしたい。後ろ髪引かれながらユーラシア大陸の最西端はポルトガルのロカ岬を目指す。有名な「ここに地終わり海始まる」の石碑がある場所だ。
ベーリング海峡からロカ岬まで1万7000キロ。いやはやユーラシアの何たるデカさよ! そして最後の大陸アフリカへと針路を南に向ける。
ユーラシアとアフリカ、2つの大陸がいちばん接近しているのはジブラルタル海峡。イベリア半島最南端のタリファ岬と、モロッコ間が最も接近しており距離15キロメートル。ジブラルタル海峡を泳いで渡る人はそう珍しくない。2大陸間を泳ぐっていう物語は、冒険心をくすぐるものがあるからね。海流の流れが激しいが、週に2度くらいは「凪」の状態になる。その日がチャンスだ。
モロッコ上陸後は、この旅においてアラスカ〜シベリア間に匹敵する難易度、サハラ砂漠の縦断が控える。車道の途絶えた砂の海を3000キロ、途方もない道程をゆく。バックパックでは消費する水と食料を背負いきれないため、リヤカーかラクダが必要になる。リヤカーのタイヤは砂地に重く沈み、一方ラクダは気性が荒く、飼い慣らすのは難しい。サハラ砂漠の中央部にあるマリ共和国は、ぼくが最も尊敬する冒険家・上温湯隆が1975年に横断を試み、夢なかばにして22歳の若さで命を落とした墓標の地だ。あえてサハラ越えをせず象牙海岸、奴隷海岸を迂回する安全策もあるが、ぼくは22歳の上温湯隆が朽ちた場所に行きたい。飢えと渇きの中で彼の目に映った世界を、見てみたい。
砂漠を抜けると一転、世界最大の流域面積を誇るコンゴ川流域の大ジャングル。そして政府の支配及ばぬ無政府地帯が国土の多くを占めるコンゴ人民共和国、アンゴラ、ナミビア。撃たれなきゃいいけど、撃たれないスベなんてあるのかねえ。
アフリカ大陸は最短ルートを選んでも9500キロ。最も困難で、苦しい旅になる。長い旅の最期の地は南アフリカ共和国の喜望峰・・・といきたい所だが、実際んところ最南端は喜望峰ではなく、アガラス岬という名も知られぬひっそりとした岬なのだ。カツオドリくらいは歓迎の嘶きをあげてくれるかな。ここがぼくにとっての「地終わる」場所だ。
4つの超大陸がたった2つの海峡、それも合わせて100キロメートルの狭い海でしか隔てられていないのが興味深い。つまり全大陸は、ほぼ連結している。
□
地球一周、4万5000キロの旅。1日50キロ走行すれば900日。実走行3年、実際にかかるのは、うまくいって4年ってとこか。
100%、誰のためにもならない行為。無益で、非生産的で、ただ走るだけ。社会的な意義はない。チャリティーを促さず、社会起業に通じず、偉大なる人類史をたどらない。戦争を肯定し、時の社会制度に準じ、雄弁なカウンターカルチャーを前に言葉を失う。
ただ無心に自分を傷める、自傷行為である。手間暇のかかる大袈裟なリストカッターだ。エグい思いをしないと、生きている実感を伴わない。身体がフラフラになってないと、生きていることを認められない。途中で破綻しようと、目的地にたどり着こうと、充足感はない。その先に何もないことを知って、頭をうなだれる。
それでも、やらなければならないリストの最上位にある。いつやれるだろうか。そんなに先のことではない。
スタート地点は南米最南端。南米最南端という称号がどの地を指すかといえば実ははっきりしない。アルゼンチン領の最南の街「ウシュアイア」か、さらに南方面に10キロ移動し、ビーグル水道を越えたチリ領のナバリノ島にある「カポ・デ・オルノス」という村か。 南米の先っぽのホーン岬は複雑すぎるリアス式海岸で、どこが南のはしっこなんだか特定しようがない。実際行ってみりゃ、わかるんだろうけどね。ビーグル水道といえば進化論のダーウィン先生が乗ってた「軍艦ビーグル号」が名高いけど、200年も昔にこんなとこまで船で来てたんね。
ホーン岬から太平洋岸を北上し、南北に細長いチリを縦断するとこの国だけで4400キロ。途中で飽きたらアンデス越えしてアマゾンの湿地帯を抜けるか。いずれにせよ南北アメリカ大陸の分水嶺であるパナマ地峡まで8500キロ。パナマ運河にはアメリカ橋って名のでっかい橋が架かっている。この橋の真ん中が南北アメリカ大陸の境界ってことか。
中米諸国を小刻みにステップアップすると、メキシコ、米国、カナダとたった3国で分割統治する北米大陸入り。いやはや、贅沢な領土支配っぷりだねぇ。アメリカ合衆国はキラびやかなサーフコーストつづく西海岸は避け(そんな気分じゃない)、ルーツ・オブ・アメリカを遡る東海岸か、中西部と五大湖地方を突っ切るド田舎コースか。
カナダ、アラスカを経て、北米大陸の最西端まで1万9000キロ。凍てつくアラスカ、変化のない風景の毎日を過ごすのは、相当な精神力が必要だろうね。そもそも道がなくて海沿いに小さな村落が点在しているだけ。こりゃ地獄かな。
北米大陸とユーラシア大陸が最も接近しているのはベーリング海峡。アラスカ州プリンスオブウェールズ岬からシベリア東端のデジニョフ岬までは、直線距離で86キロ。
ベーリング海峡のほぼ真ん中にダイオミード諸島がある。米国領のリトルダイオミード島と、ロシア領のビッグダイオミード島が東西に並んでいて、その2島を隔てるわずか3.6キロの水道が、北米大陸とユーラシア大陸の中間である。アメリカ合衆国とロシアという2大国の国境と、さらには日付変更線まで通っている。冷戦時代ならここが共産主義と資本主義の思想境界である。人類が設定したいろんなラインが、この狭い海に束となってうねっている。
日本人のご先祖でもあるモンゴロイドの一群が1万年前にこの海を歩いて渡り、北米大陸を開闢する礎となった。人類は、帆船と六分儀を駆使して大西洋から北米大陸に到達したのではなく、「歩いていった」のである。
ベーリング海峡は1年のうちで2月のみ全行程が凍結する。2月の気温は氷点下40度。しかし海面は完全氷結しているのではなく、浮遊する流氷の塊が常時移動している。ここを単独徒歩で抜けるのはヒマラヤの7000メートル峰登頂クラスの難易度だ。
厳冬期の徒歩横断が難しい場合、最も水温があがる真夏に泳いで渡る。米側から36キロメートル泳いでリトル島へ、リトル島は幅2キロちょい。東西世界を隔てる3.6キロを泳いでビック島へ。幅3キロのビック島西海岸から再び35キロメートル泳げばユーラシア大陸到着だ。真夏といえど水温5度、早い海流の中を泳ぎ切れるのか。ボートをチャーターし、サポートをつけるとしても難題であることに変わりはない。厳冬期よりは成功確度は高い? あきらめてカヌーで行くか・・・なんかヤだな。
ユーラシア大陸の最東端・デニジョフ岬に上陸後は一路シベリアを南下する。大陸横断のルート候補は2つ。中国・チベット自治区を経てヒマラヤ越えをし、ネパール、インドへと下るルートか。あるいは新彊ウイグル自治区からキルギス、タジク、ウズベクを抜ける中央アジアルートか。アルカイダの戦士たちが支配する地域は避けておきたいので、パキスタン北部とイラン南部は迂回したい。ってことは中央アジアルートを選ぶことになるんだろうね。地球一周には「世界の屋根」越えであるチベットルートは諦めたくないけど・・・道半ばで首ちょんぎられるのもイマイチだし悩む。
文化の坩堝であるアジア最後の地は、ヨーロッパとの境目とされるトルコのボスボラス海峡。海峡をまたぐボスポラス橋は歩行通行が禁止されてるので、ベーリング海峡以来の水泳横断しかないね。幅1キロくらいと吉野川程度、温帯だし国境衛兵もいないから、問題ないか。
欧州路に入れば、現代科学や哲学、政治・社会制度のほとんどを生み出した地、ギリシャやイタリアに興奮を抑えられないだろう。快適に心滅ぼされ、沈没しないようにしたい。後ろ髪引かれながらユーラシア大陸の最西端はポルトガルのロカ岬を目指す。有名な「ここに地終わり海始まる」の石碑がある場所だ。
ベーリング海峡からロカ岬まで1万7000キロ。いやはやユーラシアの何たるデカさよ! そして最後の大陸アフリカへと針路を南に向ける。
ユーラシアとアフリカ、2つの大陸がいちばん接近しているのはジブラルタル海峡。イベリア半島最南端のタリファ岬と、モロッコ間が最も接近しており距離15キロメートル。ジブラルタル海峡を泳いで渡る人はそう珍しくない。2大陸間を泳ぐっていう物語は、冒険心をくすぐるものがあるからね。海流の流れが激しいが、週に2度くらいは「凪」の状態になる。その日がチャンスだ。
モロッコ上陸後は、この旅においてアラスカ〜シベリア間に匹敵する難易度、サハラ砂漠の縦断が控える。車道の途絶えた砂の海を3000キロ、途方もない道程をゆく。バックパックでは消費する水と食料を背負いきれないため、リヤカーかラクダが必要になる。リヤカーのタイヤは砂地に重く沈み、一方ラクダは気性が荒く、飼い慣らすのは難しい。サハラ砂漠の中央部にあるマリ共和国は、ぼくが最も尊敬する冒険家・上温湯隆が1975年に横断を試み、夢なかばにして22歳の若さで命を落とした墓標の地だ。あえてサハラ越えをせず象牙海岸、奴隷海岸を迂回する安全策もあるが、ぼくは22歳の上温湯隆が朽ちた場所に行きたい。飢えと渇きの中で彼の目に映った世界を、見てみたい。
砂漠を抜けると一転、世界最大の流域面積を誇るコンゴ川流域の大ジャングル。そして政府の支配及ばぬ無政府地帯が国土の多くを占めるコンゴ人民共和国、アンゴラ、ナミビア。撃たれなきゃいいけど、撃たれないスベなんてあるのかねえ。
アフリカ大陸は最短ルートを選んでも9500キロ。最も困難で、苦しい旅になる。長い旅の最期の地は南アフリカ共和国の喜望峰・・・といきたい所だが、実際んところ最南端は喜望峰ではなく、アガラス岬という名も知られぬひっそりとした岬なのだ。カツオドリくらいは歓迎の嘶きをあげてくれるかな。ここがぼくにとっての「地終わる」場所だ。
4つの超大陸がたった2つの海峡、それも合わせて100キロメートルの狭い海でしか隔てられていないのが興味深い。つまり全大陸は、ほぼ連結している。
□
地球一周、4万5000キロの旅。1日50キロ走行すれば900日。実走行3年、実際にかかるのは、うまくいって4年ってとこか。
100%、誰のためにもならない行為。無益で、非生産的で、ただ走るだけ。社会的な意義はない。チャリティーを促さず、社会起業に通じず、偉大なる人類史をたどらない。戦争を肯定し、時の社会制度に準じ、雄弁なカウンターカルチャーを前に言葉を失う。
ただ無心に自分を傷める、自傷行為である。手間暇のかかる大袈裟なリストカッターだ。エグい思いをしないと、生きている実感を伴わない。身体がフラフラになってないと、生きていることを認められない。途中で破綻しようと、目的地にたどり着こうと、充足感はない。その先に何もないことを知って、頭をうなだれる。
それでも、やらなければならないリストの最上位にある。いつやれるだろうか。そんなに先のことではない。
2013年02月27日
約300店集まる朝市や行列ができるトマト、つみたて苺たっぷり産直スイーツなど、今徳島の産直市がすごい! さあ、お買い物のテーマパークに出掛けよう。
★テイクアウト手持ちグルメ
唐揚げ、肉まん、カツサンド…。パッと食べられる、その手軽さがいいんです。できたての旨さをテイクアウト!
★ミス制服グランプリ2013発表!
徳島でいちばんの制服美少女がついに決定! その栄光は誰の手に…!?
2013年02月21日
また月1回、徳島の季節のおでかけ情報をお届けする「ぐるっと徳島」では、阿波市をピックアップ。おいしい野菜・果物・スイーツや名湯の情報てんこ盛り!阿波市のドライブ情報が満載。
ほかにも見逃せないコーナーが
●「ウェルカムキッズ」ではスポーツ・勉強・音楽などの習い事を一所けんめい頑張る子どもたちやそれをサポートする家族を紹介。様々なスクール情報も多数!
●春に行きたいオススメのお出かけ情報を旅のプロが伝授する、「みんなで行きたい 春旅プラン」。
-------------------------------
「くらしエンタテイメントさらら」は毎月第1・第3木曜日、徳島新聞朝刊とともにお届けしています。
次回発行は2013年3月7日(木)。お楽しみに!
2013年02月14日
ここ1年間でオープンした話題のニューフェイスを一気にどどんっとご紹介。徳島インター近くに誕生した本格タイ料理店、日曜だけオープンの雑貨屋さん、量り売りスタイルが楽しいエコマーケットなど、気になるあの店この店の情報がてんこもり。
■新コーナー乱立!!
「SEVENSNEWS」
オンナが気になる地元の7大ニュースを大発表!
「CU'S SCHOOL」
文学、芸術、外国語、保健、家庭科など、アート&カルチャー系ニュースが盛りだくさん。
入学、成人、就職、結婚、出産、お年玉・・・
ちょっと待った!あなたは相場より多めに包んでいる!
■徳島市の不審者マップ公開
出没時間、風貌や服装、特徴までわかる!
■食卓を支える徳島の食品メーカー
麺、とうふ、漬け物、みそ、和菓子・・・
子どもの頃から食べてきたアノ食べ物はこの食品工場で作られていた!
2013年02月12日
徳島人1月号 実売部数報告です。
徳島人1月号の売部数は、4,260部でした。
詳しくは、上部のファイルをクリックしてください。
メディコムでは、自社制作している
「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU」「徳島人」「結婚しちゃお!」「徳島の家」の実売部数を発表しております。
月刊タウン情報トクシマ1月号 実売部数報告です。
タウトク1月号の売部数は、7,817部でした。
詳しくは、上部のファイルをクリックしてください。
メディコムは、「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU」「徳島人」「結婚しちゃお!」「徳島の家」の実売部数を創刊号から発表しつづけています。
雑誌の実売部数を発行号ごとに速報として発表している出版社は、当社以外では日本には一社もありません。実売部数は、シェア占有率を算出し、媒体影響力をはかるうえで最も重要な数値です。他の一般的な業界と同様に、出版をなりわいとする業界でも正確な情報開示がなされるような動きがあるべきだと考えています。わたしたちの取り組みは小さな一歩ですが、いつかスタンダードなものになると信じています。
月刊タウン情報CU1月号 実売部数報告です。
CU1月号の売部数は、4,247部でした。
詳しくは、上部のファイルをクリックしてください。
長らく雑誌の実売部数はシークレットとされてきました。雑誌は、その収益の多くを広告料収入に頼っているためです。実際の販売部数と大きくかけ離れ、数倍にも水増しされた「発行部数」を元に、広告料収入を得てきた経緯があります。
メディコムでは、その悪習を否定し、「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU」「徳島人」「結婚しちゃお!」「徳島の家」の実売部数を創刊号以来、発表しつづけています。
2013年02月07日
また「保険のキホン」では、知っておきたいけどよくわからない「保険」のことをわかりやすく解説。専門家のアドバイスのもと、自分に役立つ保険を選んでみよう。
2013年01月31日
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
プロレスにおけるキャラクター設定のことを、コアなファンは「ギミック」と呼ぶ。
ヤスリで歯を研ぐ銀髪鬼フレッド・ブラッシーのようなわかりやすいギミックもあれば、「あの前座レスラーは、怒らせると何をしでかすかわからない。猪木ですら恐れて近づかない」などとギミックの裏側の真相を喧伝する、という多重のギミックもある。
プロレスにおけるキャラクター設定のことを、コアなファンは「ギミック」と呼ぶ。
ヤスリで歯を研ぐ銀髪鬼フレッド・ブラッシーのようなわかりやすいギミックもあれば、「あの前座レスラーは、怒らせると何をしでかすかわからない。猪木ですら恐れて近づかない」などとギミックの裏側の真相を喧伝する、という多重のギミックもある。
タイガー・ジェット・シンが新宿の路上で猪木夫妻を襲撃したのはアングル(シナリオがあった)と言われているが、ブルーザー・ブロディが控え室でレスラーにナイフで刺されて亡くなったのは事実だ。どこまでがフィクションで、どこからがノンフィクションなのか。何十年とプロレスを見続けても、業界関係者から「ここだけの話」を耳打ちされても、ひとつの謎を解けば、また別の疑問が生じ・・・を繰り返すのがプロレス大河物語の姿である。
20年前、メキシコの国技ともいえるキャラクタープロレス、ルチャ・リブレをベースとしたみちのくプロレスが旗揚げされた。それまでの日本型プロレスの「嘘か真かわからないギミック」ではなく、誰の目から見てもギミックとはっきりわかるキャラクター設定を行った、陽気なプロレスを提供する革新的な団体であった。
「お遍路」をモチーフにしたプロレスラー・新崎人生は、最初はあいまいな設定だった。「極悪坊主」の異名でコブラクローや凶器攻撃を繰り出すルード(悪役)を演じていた。
潮目が変わったのは、デビューから1年後の東京・大田区体育館のサスケ戦だ。プロレス巡業を札所巡りになぞらえた新崎の「八十八番札所」目にあたる試合は、東北のローカル団体に過ぎなかったみちのくプロレスが東京の大バコで勝負に出た重要興行のメインイベントとして企画された。
対するサスケは、その前月まで新日本プロレスが主催する「第1回・スーパーJカップ」に出場し、ライガーやサムライといった当時トップ選手を次々と破り、準優勝をもぎ取っていた。インディー団体のレスラーが、メジャー団体の選手に勝つというのは、当時は「事件」レベルの出来事であり、なおさらサスケの存在が際だった。おまけに各試合ともテレ朝で全国放映され、サスケ人気に拍車をかけた。
この大田区の戦いで新崎は、それまでのルード(悪役)という立ち位置をかなぐり捨て、惜しみなく自らの持つレスリングテクニックを披露した。対するサスケも「明るく楽しい」ルチャドールとしてではなく、新日本プロレス練習生から這い上がってきた一レスラーとして戦った。試合では新崎の「拝みケブラーダ」も飛び出し、日本のインディープロレス史に残る好勝負となった。
大田区以降、新崎のレスラー人生は、恐ろしい勢いで動き始める。ふつうのレスラーなら10年、15年かかっても到達しえない階段を、デビューからわずか1、2年のうちに駆け上がってしまうのだ。
新崎を待ち受けていたのは米国の超メジャー団体・WWF(現在はWWE)との長期契約である。
新崎以前、日本人レスラーがWWFマットに上がった例といえば、古くはジャイアント馬場やキラー・カーンがあげられる。また藤波辰巳のスポット参戦もあった。だが全日や新日といった国内メジャー団体のプロモートを通さず、フリーに近い選手がWWFの長期出場を勝ち得たのは新崎が初ではなかったか。例外としてマサ斉藤やキム・ドクがいるが彼らは元々、全米サーキットで食っていた選手である。
この凄さを、実はプロレスファンですら理解していない人が少なくない。当時からWWFはどのプロスポーツにも先んじて、海外マーケットの開拓に熱心で、莫大な売上と利益をたたき出していた。
具体的な数字で比較してみる。ニューヨーク証券取引所に上場している現在のWWEの売上高は約500億円。香川真司のいるマンチェスターユナイテッドは400億円。イチローの所属するNYヤンキースは340億円。日本国内に目を転じれば読売巨人軍は250億円、Jリーグ最大なら浦和レッズで60億円である。
つまりWWEは、世界各局へのコンテンツ配信、PPV(ペイ・パー・ビュー)収入、CM収入などで地球最大の経営規模を誇るメジャースポーツ・ビジネス団体といえる。そのトップコンテンダーであるレスラーは、世界最高峰のスポーツプレイヤーということになる。誤解を恐れず言えば、WWEのトップレスラーであるということは、サッカーや野球のビッグクラブのレギュラークラス以上の成功者なのだ。
残念なのは、日本においてプロレスが優れたスポーツビジネスとして認知されておらず、「筋書きのある八百長」といった低俗な見方しかできない社会環境にあることだ。東アジアと北中米限定の局地的スポーツである野球プレイヤーのイチローよりも、世界110カ国以上で放映されているWWFでトップを張った新崎の方がメジャープレイヤーというべき存在だ。少なくとも世界標準の考え方では。
米国から帰国後、新崎は団体の垣根を越え、日本のトップレスラーとビッグマッチを戦っていく。東京ドームでグレート・ムタ、両国国技館でハヤブサ、再び東京ドームでジャイアント馬場、愛知県体育館で三沢光晴・・・。スタン・ハンセンやアブドーラ・ザ・ブッチャーとも戦った。新崎の年齢から逆算すれば、彼が小学生の頃にゴールデンタイムのテレビ番組で活躍していた大スターたちと、リング上で相まみえるわけだから、その心中いかなるものだっただろう。
プロレスラーとして熟練を重ね、「新崎人生」というギミックには着色がなされていく。コミックレスラーとの対戦では「しゃべらないキャラ」をコミカルに利用して笑いをとり、大物レスラーとの大一番ではアスリートライクに戦い興行の大トリを締め、そして全体的には紳士的で物静かな人格者としてリング・ウォッチャーの役割を果たしている。
万華鏡のようなレスラーの姿に触れると、冒頭に名前をあげたフレッド・ブラッシーと、彼の母親との会話が蘇る。はじめて試合会場に足を運んだフレッドの母親は、対戦相手のオデコに容赦なく噛みつき大流血させる息子に衝撃を受け、思わず問いかける。「いつもの母親思いの優しいおまえと、試合中の狂ったおまえ。どっちが本当のおまえなの?」。ブラッシーはこう答える。「どちらも本当の私ではない」。
□
20年の歳月は、プロレスを取り巻く風景を大きく変えた。
メジャーとインディーの壁は取り払われた。現IWGP王者の逸材レスラーは学生プロレス出身で、一番客を呼べる金の雨を降らすレスラーは「闘龍門」でプロレスを学んだ苦学生。ジュニアヘビーで最も身体能力の高いトンパチ・レスラーはインディーの「DDT」所属である。
「週刊ファイト」も「週刊ゴング」も廃刊された。神話やら戯曲やらを強引にリングに引っ張りあげ、観念論の世界で戯れ遊ぶプロレス記者たちはもういない。活字プロレスで育った中高年ファンは身の置き場がなくなった。
だが、格闘技経験ゼロのプロレスオタクの少年が、オリンピックでメダルを獲ったスポーツエリートと戦って勝ってしまう、といった摩訶不思議なプロレス的世界はいまだ健在である。
20年の間には、リング上で亡くなられたプロレス界の象徴たる名選手もいたし、若くして半身不随となる重傷を負った不世出の天才レスラーもいた。みちのくプロレス創業の頃から新崎とともに戦った早熟のいぶし銀レスラーは、30余歳の若さで旅立った。
ごく少ない競技人口に対して、これほどまで重大事故が起こる可能性の高いスポーツはないだろう。
言葉で本気さを訴える際に使う「命がけでやります」ではない。正真正銘の「命がけ」でレスラーたちはトップロープから5メートル下、コンクリートむき出しの場外へと飛ぶ。受け身の取れない状態で後頭部をマットに叩きつけられる。
三沢光晴やハヤブサ、愚乱・浪花と新崎との試合は、今でも動画投稿サイトで見られる。彼らの戦いは、心に沸き立つものを与えてくれる。この感じはいったい何なんだろうか。オリンピックのような純スポーツで得られる無垢な感動でもなく、徹底的に鍛え込まれたミュージカルを観たときの圧倒でもない。
薄暗いプロレスのリングが放つ摩訶不思議で人間臭く、不条理のともなった感銘は、プロレスという空間にしか存在しえない。その世界で新崎は20年、今もまだリングに立っている。
□
春になるとみちのくプロレスがやってくる。そんな気分を味わえるのは、今年が最後なのだろうか。街角に新崎のポスターが揺れ、興行が終わったあとも、取り外し忘れたポスターが風雨と日光に晒され朽ちていく。天気のいい日、交差点で停まった運転席から、半年前に終わったプロレスポスターを条件反射のように眺める。そんな平凡な観客としての日常も、いつか消えていくのだろう。
20周年記念大会のポスターに写った新崎は、少し微笑んでいる。これは菅原文太の付き人として役者を目指した青年か、四国遍路を修行して回る荒法師か、世界最大のスポーツビジネスの最前線に君臨した伝説のレスラーか、あるいはラーメンチェーン店のオーナーか。
「どれも本当の私ではない」と静かに微笑んでいる。
20年前、メキシコの国技ともいえるキャラクタープロレス、ルチャ・リブレをベースとしたみちのくプロレスが旗揚げされた。それまでの日本型プロレスの「嘘か真かわからないギミック」ではなく、誰の目から見てもギミックとはっきりわかるキャラクター設定を行った、陽気なプロレスを提供する革新的な団体であった。
「お遍路」をモチーフにしたプロレスラー・新崎人生は、最初はあいまいな設定だった。「極悪坊主」の異名でコブラクローや凶器攻撃を繰り出すルード(悪役)を演じていた。
潮目が変わったのは、デビューから1年後の東京・大田区体育館のサスケ戦だ。プロレス巡業を札所巡りになぞらえた新崎の「八十八番札所」目にあたる試合は、東北のローカル団体に過ぎなかったみちのくプロレスが東京の大バコで勝負に出た重要興行のメインイベントとして企画された。
対するサスケは、その前月まで新日本プロレスが主催する「第1回・スーパーJカップ」に出場し、ライガーやサムライといった当時トップ選手を次々と破り、準優勝をもぎ取っていた。インディー団体のレスラーが、メジャー団体の選手に勝つというのは、当時は「事件」レベルの出来事であり、なおさらサスケの存在が際だった。おまけに各試合ともテレ朝で全国放映され、サスケ人気に拍車をかけた。
この大田区の戦いで新崎は、それまでのルード(悪役)という立ち位置をかなぐり捨て、惜しみなく自らの持つレスリングテクニックを披露した。対するサスケも「明るく楽しい」ルチャドールとしてではなく、新日本プロレス練習生から這い上がってきた一レスラーとして戦った。試合では新崎の「拝みケブラーダ」も飛び出し、日本のインディープロレス史に残る好勝負となった。
大田区以降、新崎のレスラー人生は、恐ろしい勢いで動き始める。ふつうのレスラーなら10年、15年かかっても到達しえない階段を、デビューからわずか1、2年のうちに駆け上がってしまうのだ。
新崎を待ち受けていたのは米国の超メジャー団体・WWF(現在はWWE)との長期契約である。
新崎以前、日本人レスラーがWWFマットに上がった例といえば、古くはジャイアント馬場やキラー・カーンがあげられる。また藤波辰巳のスポット参戦もあった。だが全日や新日といった国内メジャー団体のプロモートを通さず、フリーに近い選手がWWFの長期出場を勝ち得たのは新崎が初ではなかったか。例外としてマサ斉藤やキム・ドクがいるが彼らは元々、全米サーキットで食っていた選手である。
この凄さを、実はプロレスファンですら理解していない人が少なくない。当時からWWFはどのプロスポーツにも先んじて、海外マーケットの開拓に熱心で、莫大な売上と利益をたたき出していた。
具体的な数字で比較してみる。ニューヨーク証券取引所に上場している現在のWWEの売上高は約500億円。香川真司のいるマンチェスターユナイテッドは400億円。イチローの所属するNYヤンキースは340億円。日本国内に目を転じれば読売巨人軍は250億円、Jリーグ最大なら浦和レッズで60億円である。
つまりWWEは、世界各局へのコンテンツ配信、PPV(ペイ・パー・ビュー)収入、CM収入などで地球最大の経営規模を誇るメジャースポーツ・ビジネス団体といえる。そのトップコンテンダーであるレスラーは、世界最高峰のスポーツプレイヤーということになる。誤解を恐れず言えば、WWEのトップレスラーであるということは、サッカーや野球のビッグクラブのレギュラークラス以上の成功者なのだ。
残念なのは、日本においてプロレスが優れたスポーツビジネスとして認知されておらず、「筋書きのある八百長」といった低俗な見方しかできない社会環境にあることだ。東アジアと北中米限定の局地的スポーツである野球プレイヤーのイチローよりも、世界110カ国以上で放映されているWWFでトップを張った新崎の方がメジャープレイヤーというべき存在だ。少なくとも世界標準の考え方では。
米国から帰国後、新崎は団体の垣根を越え、日本のトップレスラーとビッグマッチを戦っていく。東京ドームでグレート・ムタ、両国国技館でハヤブサ、再び東京ドームでジャイアント馬場、愛知県体育館で三沢光晴・・・。スタン・ハンセンやアブドーラ・ザ・ブッチャーとも戦った。新崎の年齢から逆算すれば、彼が小学生の頃にゴールデンタイムのテレビ番組で活躍していた大スターたちと、リング上で相まみえるわけだから、その心中いかなるものだっただろう。
プロレスラーとして熟練を重ね、「新崎人生」というギミックには着色がなされていく。コミックレスラーとの対戦では「しゃべらないキャラ」をコミカルに利用して笑いをとり、大物レスラーとの大一番ではアスリートライクに戦い興行の大トリを締め、そして全体的には紳士的で物静かな人格者としてリング・ウォッチャーの役割を果たしている。
万華鏡のようなレスラーの姿に触れると、冒頭に名前をあげたフレッド・ブラッシーと、彼の母親との会話が蘇る。はじめて試合会場に足を運んだフレッドの母親は、対戦相手のオデコに容赦なく噛みつき大流血させる息子に衝撃を受け、思わず問いかける。「いつもの母親思いの優しいおまえと、試合中の狂ったおまえ。どっちが本当のおまえなの?」。ブラッシーはこう答える。「どちらも本当の私ではない」。
□
20年の歳月は、プロレスを取り巻く風景を大きく変えた。
メジャーとインディーの壁は取り払われた。現IWGP王者の逸材レスラーは学生プロレス出身で、一番客を呼べる金の雨を降らすレスラーは「闘龍門」でプロレスを学んだ苦学生。ジュニアヘビーで最も身体能力の高いトンパチ・レスラーはインディーの「DDT」所属である。
「週刊ファイト」も「週刊ゴング」も廃刊された。神話やら戯曲やらを強引にリングに引っ張りあげ、観念論の世界で戯れ遊ぶプロレス記者たちはもういない。活字プロレスで育った中高年ファンは身の置き場がなくなった。
だが、格闘技経験ゼロのプロレスオタクの少年が、オリンピックでメダルを獲ったスポーツエリートと戦って勝ってしまう、といった摩訶不思議なプロレス的世界はいまだ健在である。
20年の間には、リング上で亡くなられたプロレス界の象徴たる名選手もいたし、若くして半身不随となる重傷を負った不世出の天才レスラーもいた。みちのくプロレス創業の頃から新崎とともに戦った早熟のいぶし銀レスラーは、30余歳の若さで旅立った。
ごく少ない競技人口に対して、これほどまで重大事故が起こる可能性の高いスポーツはないだろう。
言葉で本気さを訴える際に使う「命がけでやります」ではない。正真正銘の「命がけ」でレスラーたちはトップロープから5メートル下、コンクリートむき出しの場外へと飛ぶ。受け身の取れない状態で後頭部をマットに叩きつけられる。
三沢光晴やハヤブサ、愚乱・浪花と新崎との試合は、今でも動画投稿サイトで見られる。彼らの戦いは、心に沸き立つものを与えてくれる。この感じはいったい何なんだろうか。オリンピックのような純スポーツで得られる無垢な感動でもなく、徹底的に鍛え込まれたミュージカルを観たときの圧倒でもない。
薄暗いプロレスのリングが放つ摩訶不思議で人間臭く、不条理のともなった感銘は、プロレスという空間にしか存在しえない。その世界で新崎は20年、今もまだリングに立っている。
□
春になるとみちのくプロレスがやってくる。そんな気分を味わえるのは、今年が最後なのだろうか。街角に新崎のポスターが揺れ、興行が終わったあとも、取り外し忘れたポスターが風雨と日光に晒され朽ちていく。天気のいい日、交差点で停まった運転席から、半年前に終わったプロレスポスターを条件反射のように眺める。そんな平凡な観客としての日常も、いつか消えていくのだろう。
20周年記念大会のポスターに写った新崎は、少し微笑んでいる。これは菅原文太の付き人として役者を目指した青年か、四国遍路を修行して回る荒法師か、世界最大のスポーツビジネスの最前線に君臨した伝説のレスラーか、あるいはラーメンチェーン店のオーナーか。
「どれも本当の私ではない」と静かに微笑んでいる。
2013年01月29日
春号の注目は、結婚式場をはじめとするウエディング関連のお店総勢52軒の協力を得て実現したお得すぎる特典の数々!
気になるその特典の内容とは…?
県内の各市町村の名物・名店を探索! ラーメン、うどん、お好み焼きや、お持ち帰りのできるご当地バーガー、スイーツなど盛りだくさん。
★新崎人生ヒストリー
3月3日に凱旋する伝説のプロレスラー、新崎人生についてのコラム。
★バレンタインに近づきタイン
バレンタインということで、あのゲームにカップルや友達同士でチャレンジしてもらいました!
2013年01月24日
また月に1回、徳島の季節のお出かけ情報をお届けする「ぐるっと徳島」がスタート。第1回目の今回は、三好市・東みよし町のグルメ・観光・イベント情報がたくさん。冬だからこそ楽しめる、県西のおもしろスポットへ行ってみよう!
2013年01月11日
男よりも遥かに巧妙なオンナたちのアリバイ工作
Facebook、LINEなどITを駆使し、絶対に証拠を残さないという執念
■若者が店づくりをしたら理髪店はこう変わった!
徳島の散髪屋さんがすごいことになっている!
■45通の手紙を届ける地球一周の旅
会社を辞め、ペダルをこいだ3年間の旅・四宮博樹さん
■深刻!郷土料理を知らない若者世代
祖谷そば、そば米雑炊、ぼうぜの姿寿司、ずきがし・・・
徳島県内屈指の絶品和食処をはじめ、店主の一皿にかける熱い思いや器へのこだわりなど、思わず読み入ってしまうストーリーとあわせて、日本人の原点・和ごはんに触れる旅。知っておきたい和のマナーも要チェック。
■徳島お買い物マスターズ
調査すると見えてきたお買い物パターンや平均値など徳島主婦50人のお買い物事情&県内主要スーパーのセール情報を網羅。