編集者のあやふや人生(コラム)

  • 2012年11月25日バカロードその51 最弱ランナーの証明
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     いつもの朝練習。追い込んでもないふつうのジョグ。500メートルで息があがり、1000メートルでやめたくなる。2キロ、走るのをあきらめて歩く。しばらく歩いて、また走ってみる。キロ7分なのに苦しくて中断する。
     思い切って練習を休んでみるが、休みを2日はさんでも朝起きるとずっしりと重い。走れば疲れも取れるかとランニングシューズはいて飛び出すが、やっぱり2キロ続けて走れない。
     スパルタスロンを想定した練習をはじめて半年、月間500キロ〜700キロ走ってきたが、レース直前の9月はこんな調子で100キロもこなせなかった。
     何が起こっているのだろう。急に身体がジジイ化するわけもない。夏バテ? まさか、そんなヤワじゃない。あるいは流行の新型ウツ? それほど繊細な心の持ち主でもない。
     いろんなことが、わからない。わからないことは考えても仕方ない。
             □
     大会3日前にギリシャ・アテネに入る。空港ターミナルから外に出るとじわーっと暑い。気温は34度と日本の夏と変わりないのだが、直射日光がヒリヒリきつい。日本のお天道さんと何が違うんだろうか。露出した肌が焦げていくのがわかる。
     夜明けから日暮れまで空には雲ひとつ浮かばない。背丈の低いオリーブとミカンの木ばかりのアテネは、日射しを遮る木陰も少ない。宿舎では選手たちが「今年は暑くなるよ」と声をかけあっている。

     アクロポリスの丘にてスタートを切り、長い坂道を下りはじめると身体が軽く感じられて仕方ない。きっとこれは幻想。追い込んだ練習ができなかったから脚が勝手に暴れてるだけ。どんなに快調でもキロ6分以上には上げない。とはいえキロ6分は、ここ1ヵ月出したことないスピード。どこまで持つかはわからない。
     10キロを58分で通過。脈拍、呼吸ともに平常時のように静か。一片の疲れもない。
     20キロ1時間59分。カンペキにキロ6分を守っている、悪くない。顔見知りのランナーが「今年はぶっ飛ばさないんですね?」と追い越していく。2年前は20キロを1時間30分台で入り、みごとに潰れた。同じテツは二度と踏まない。
     30キロ3時間02分。登り坂が入ったので少し遅れたけど想定内だ。無理してペースを守るよりも、身体に同じ負荷をかけつづけることが大事。珍しくイーブンぺースで押しているさまを見た知人ランナーに「完走する気、まんまんじゃないですか」と持ち上げられる。「暴走はやめました。絶対にゴールまで行きますからね」と答える。体調すこぶる良く、余力バロメーターは満タン。この調子で80キロ先の大エイド・コリントスまで行けそうだ。うん、何ひとつ問題は感じられない。

     と、思ったのは10分前。
     異変は急にやってきた。
     32キロのエイドを過ぎた頃だ。
     あれ、あれ、あれ? 脚が動かんぞ。
     練習できなかったツケが回ってきたか。
     まだ全体の10分の1しか走ってないのにな。
     まあしばらく走ってれば、重脚にも慣れてくるだろう。
     しかしキロ6分ピッチで走れない。7分かかりだしたぞ。
     どうしよう。
     イーブンペース作戦で来たので時間貯金が10分しかない。トロトロしてると関門に引っかかる、急がないと。
     35キロ。
     あれ? 今度はフラフラしてきた。
     だめだ、走れない。
     なぜ走れないのか、理由がわからない。
     いっかい落ち着こうと思い、歩いてみる。
     落ち着け、落ち着け。
     これは一時的な現象だ。
     もう一度走りだしたら、またふつうに走れるって。
     やっぱダメだ。
     道ばたのバス停小屋に座り込む。
     おいおい、ここで終わってしまうのか?
     んなアホな。まだ、まったく走ってないんですけど。
     1度も力を込めて走ってないんですけど。
     立ち上がってみるが、頭がぐるんぐるん回る。
     3キロ先にあるエイドまでいけるかどうか自信なくなってきた。
     おーい、まだ35キロだよ〜。
     ふだんなら笑いながら走れる距離だよ〜。

     またたく間に、10分の貯金を使い果たす。
     38.8キロのエイドにたどり着くと制限時間を過ぎていた。
     飲み物を載せていたエイドの机は早くも片づけを終えていて、水をもらうのに難儀した。
     なんとか分けてもらった1.5リッター入りのペットボトルを抱え込み、路上にへたり込む。
     リタイア選手を収容するワゴンカーが道の反対側に停まっている。
     そっちに移動しろと指示されるが、思うように歩けない。
     道を横断する20メートルがやたらと遠い。
     車の後部シートに座ると、頭が重くて首で支えられない。
     グテッとうなだれたまま、ペットボトルの水をちょびちょび飲む。
     数分で1.5リッターの水を飲み干す。
     それでも足りないから500mlボトルの水を飲む。
     さらに水500mlとコーラ3杯を飲む。
     3リッターの水分を吸収すると、意識が正常になってきた。
     車のなかで20分寝ころんでると、元気そのものの体調に戻る。
     体力の限界でも何でもない、ただの脱水症状だったのだ。
     今からやり直せ、と誰か言ってくれないだろうか。きっと軽やかに再スタートできる。
     そんな仮定は立てるだけ空しい。
     いったんリングを降りたボクサーにできるのは、会場を去るだけ。
     3度目のスパルタスロンはあっけなく終わってしまった。
     3年つづけてのリタイアだ。3年は長い。高校生なら入学して卒業するまでだ。

     正午を過ぎると気温はさらに上昇し、温度計は39度を指した。
     有力選手が次々とリタイアし、80キロ関門を越えるまでに45%の選手が脱落した。スタートラインに立った310人のうち、ゴールまで届いたのは72人。完走率は23%だった。日本人参加者70人のうち完走者は13人。完走率は18.5%と歴史的な低さとなった。
             □
     「脱水症でアウト」といっても、それは表面上の現象であって、そこに至る原因があるはずだ。
     練習方法の選択ミス。それに由来する絶対的なスピード不足。
     過去2年、ぼくは80キロのコリントス関門を越えてから力尽きた。80キロを越えると夜間走+山岳越えが控え、キロ8分30秒〜キロ9分で前進する耐久レースとなる。
     自分は、スピードが要求される80キロまではクリアできるが、後の耐久戦に弱いのだと考えた。克服するにはスピードは不要。潰れそうな身体でも前進できる「ゆっくり長く走る」能力が足りないと判断した。ゆえに、キロ6分ペースで距離を伸ばすことばかりに注力した。
     ところがどうだ。あまりにキロ6分にこだわりすぎ、スピードを軽視したため速いペースに対応できなくなった。
     だらだら登り坂が多く、また気温が40度近くになる条件下でキロ6分を維持する肉体的な負荷は、日本国内でおこなう長距離練習や100キロレースならキロ5分ペースに相当する。だから、ふだんはキロ5分の練習を積み、慣れておくことで、スパルタスロンで必要なキロ6分ペースが「とても遅い」と感じる感覚を得ておかなければならなかった。
     そもそも100キロベスト記録が10時間22分のぼくが完走するには奇跡(マグレ)を願うしかない。たまたま異常気象ですごく涼しいとか、自分が自分じゃないほど絶好調だとか。神頼みの領域の話。
     実力で完走を勝ち取ろうとするなら、少なくとも100キロ9時間30分以内、なるべくなら8時間台の走力が必要だ。なおかつそのタイムは過去に出したベスト記録ではダメ。好条件の天候下で出した自己ベスト記録でもダメ。悪天候や起伏の多い山岳コースでも当たり前のように出せる記録、コンスタントに出せているアベレージ記録であるべきだ。
     スパルタスロンでは、80キロの関門を通過する際に1時間以上の貯金(通過タイム8時間30分)を持ったうえで、なおかつ体力的にも相当な余裕を残した状態であらねばならない。まずはその走力を有することが第一資格。その力もないのに、この1年というもの耐久戦向けの練習ばかりしてたのは、お門違いもいいところ。

     帰国後、ランニングをはじめた頃に戻って、短い距離からやり直すことにした。
     500メートル、1000メートルのインターバルやレペティション、3千、5千、1万メートルのタイムトライアルを繰り返す。500メートルの全力走を10本こなすと、とんでもないダメージですね。フルマラソンのタイムを伸ばそうとガチ練習してる人たちは、日々こんなにも追い込んでいるのかと敬服する。
     遅いペースに慣れてしまわないよう、LSDやジョグは封印しよう。月間走行距離を残せば練習を積んだような錯覚に陥るから、練習で長く走るのはやめにしよう。自分への甘えをぬぐい去るため、キロ4分台より遅くは走らない。
     またまた長い1年がはじまる。ここであきらめるという選択肢もあれば、あきらめないという選択肢もあるが、あきらめられそうにはない。ぼくの性格は粘着質で、爽やかさや潔さとは無縁である。何度失敗しようと、うまくいくまであきらめない。うまくいくまでやり続ければ、最後はうまくいく。
  • 2012年09月22日バカロードその50 スパルタスロン直前 攻略(予定)ノート
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     スパルタスロンが目前に迫ってきた。半年間、日々変態的なトレーニングを課し、この身と心をサディスティックに痛めつけた。スピードを出さず、ひたすらゆっくり走り続ける練習も積んだ。100キロレースは8本こなした。今年こそは、何としても、何があろうとも完走するのだ。
     過去2年間はカン違いだらけの準備と行き当たりバッタリのレース展開で、ぼろぼろになってリタイアを重ねた。今年こそは準備周到に、より知性をみなぎらせ、アリの穴すらない完ぺきなる計画を立て、無敵のスパルタ王に挑戦状を叩きつける。その計画の書をまとめる。来年、参加予定の徳島のランナーもいらっしゃると小耳にはさんだ。参考もしくは反面教師になれば幸いです。

    ■スケジュール
    9月25日(火) 関空→ドーハ(カタール)→アテネ
    9月26日(水) アテネ市グリファダ地区・選手指定宿舎「ホテル・コンゴ」宿泊
    9月27日(木) 選手登録受付、17時より大会説明会
    9月28日(金) 7時よりレーススタート(アテネ・アクロポリスの丘)
    9月29日(土) 19時レース終了(スパルタ・レオニダス像)
             20時頃スパルタ市中心部で表彰セレモニー 「ラコニア・イン」宿泊
    9月30日(日) スパルタ市長との昼食会、アテネへバス移動
    10月1日(月) 20時頃、アテネ市内で完走者表彰パーティ
    10月2日(火) アテネ→ドーハ→関空(10月3日着)

     7泊8日、参加ランナーの標準的な日程である。もしこんなに長期で有給休暇を取れない場合は、日本出発日を1日遅らせ、ゴール後のセレモニーをすべてパスして2日早く帰国する手もある。身体が動くかどうかは別問題として。

    ■総費用
     スパルタスロン参加費は400ユーロ=約4万円。ランナーには、レース前後5泊分のホテル代金(朝・夜の食事込み)、バス移動、各種パーティでの飲食などが無償で提供される。これほどランナーを優遇してくれる大会があるだろうか。ギリシャ滞在時、ぜいたくをしなければ空港からの交通費以外はいっさい費用がかからない。日本からの航空運賃とあわせても約15万円だ。
     ギリシャ市内でのランナー指定の宿泊先は、グリファダ地区という海沿いのリゾート地に建つ「コンゴ・パレス」。立派なプールを備えた豪華リゾートホテルである。ランナーは1部屋に3名ずつ割り振られる。主催者経由で延泊申込すると9000円かかるが、ネットの宿泊予約サイトからだとシングルルームなら6000円前後で泊まれる。前入りしたい人は自分でネット予約すればいい。

    ■レース参加者
     今年は34カ国から351人がエントリーしている。
     最も多いのは日本人で70人、地元ギリシャから50人。以下ドイツ41人、イタリア23人、イギリス20人、ハンガリー18人、フランス13人、オランダ12人、台湾11人、フィンランド10人、アメリカ8人、ブラジル8人、ベルギー7人。5人以下の国は、スペイン、デンマーク、ポーランド、スウェーデン、オーストリア、スイス、スロベニア、ノルウェー、中国、アルゼンチン、カナダ、イスラエル、韓国、メキシコ、エストニア、キプロス、アイルランド、ポルトガル、南アフリカ、香港、シンガポール、グアテマラ。

    ■日本からの航空便
     日本からギリシャ・アテネまでの直行便はないため、中東経由か欧州経由便を利用する。成田空港からは欧州経由が多く、関空発着は中東経由便が中心だ。関空からだとエミレーツ航空ならドバイ経由、カタール航空はドーハ経由、トルコ航空はインタンブールを経由する。運賃は、どの便も似たり寄ったりで燃油サーチャージ込みで往復で10〜11万円台だが、毎年1〜2万円くらい料金が変わる。
     エミレーツにしろカタールにしろ関空発はほぼ満席になるため、機内で横になれる期待はしない方がよい。カタール航空はエコノミークラスでも日本映画の本数が多く、邦画を3〜4本観て、うたた寝しているうちにドーハ空港に着く。イスラム圏の空港内はヒマをつぶせるような設備はなく(日本の空港よりは遙かにマシだが)、ちょっと散歩すればやることがなくなる。大会当日までは眠れるだけ眠って体力温存したいのでトランジット時間は仮眠室で寝る。仮眠室はエアコンが効きすぎており、軽量タイプの寝袋を用意しておけば快適だ。寝過ごしには注意したい。

    ■ギリシャの交通機関ストライキ対策
     政情不安定なギリシャではストライキは日常的。日本のように会社単位で行われるのではなく、公務員と民間労働者が連携し、全交通機関がストップする。タクシーすら動かないのである。空港に到着したのち敷地外に出たくとも何ひとつ乗り物はない、というおよそ先進国では考えられない、いや世界中のどの国でもありそうにない事態に直面する。さすがのインドだってリクシャーのオッチャンくらいは客待ちしてるだろう。
     この事態に移動手段として思いつくのは徒歩。だがアテネ市内まではおよそ25キロ。大会前にそんな距離を、重い荷物を持って歩きたくないという気持ちは誰しもが抱く。かといって空港からのヒッチハイクは望めない。スト破りの白タクシーも少しはいるが、競争率が高すぎて捕まえられない。
     残された手としては、困っている到着客を集めて大型バスをチャーターするか、あるいはレンタカーを借りるか。旅行会社所有のバス駐車場が空港右手にあるので、バスの運ちゃんと直接交渉して借り、割り勘する。レンタカーは1日6000円程度。左ハンドルでミッションが基本、道路は右側通行なので慣れてない人は事故に注意したい。車はたいていボロである。空港レンタカー窓口では国際運転免許証ではなく日本の免許証の提示を求められる。
     ギリシャでは「公共サービス」が機能しているという前提を捨てておく。最初から動いていないと考えておけば、不測の事態にも対応できる。たとえば、手荷物はスーツケースよりもバックパックの方がよい。移動距離が数キロなら、動かない乗り物を探すより、歩いて行動した方が結果的には速かったりする。コロコロ付きのスーツケースだとガタガタ道路は移動しにくい。

    ■レース当日までの過ごし方
     大会前日に選手受付が行われる「ホテルロンドン」へは、日本人選手指定のホテルから「トラム」と呼ばれる路面電車と徒歩で20分でいける。
     受付会場では医師の健康診断書の提出を求められる。一応ちゃんとした診断書を提出するのが筋だが、書面内容はほとんどチェックされてない感じである。
     エイドに預ける荷物の手続きもここで済ませる。ホテル内のプールサイドに全75CP(チェックポイント)のナンバーが書かれた大きな段ボール箱が置かれている。選手は、あらかじめ用意した補給物や照明具をビニル袋などに入れ、ゼッケンナンバーとCPナンバーをマジックで大書きし、自分が受け取りたいエイドの箱に放り込んでいく。しごく簡単で便利なシステムである。
     受付後、大会主催者からの説明会がある。いくつかの母国語ごとに説明テーブルが分かれ、日本語での説明もある。
     スタートまでに最低限しなければいけないのは以上。あとはホテルでゴロゴロしているか、ビーチで昼寝でもするか。路面電車を使えば、アテネ中心部の観光エリアまで乗り換えなしの1本でいけるので便利である。

    ■エイドに置くもの
    ・エイド11(42キロ) 薬品セット
    ・エイド22(80キロ) 交換シューズ?、靴下、薬品セット、着替えシャツ
    ・エイド28(100キロ) ヘッドランプ、ハンドランプ、薬品セット
    ・エイド35(123キロ) 防寒ウエア、雨具、薬品セット
    ・エイド43(148キロ) 薬品セット
    ・エイド52(171キロ) 交換シューズ?、靴下、薬品セット、着替えシャツ
    ・エイド60A(197キロ) 薬品セット
    ・エイド68(223キロ) 薬品セット
     薬品セット=鎮痛剤(イブクイック、ロキソニン)、胃腸薬(ガスター10)、ワセリン(ヴァセリン・ペトロリュームジェリー)、絆創膏。
     交換シューズを2足としたのは、前半は暑さ対策の水かぶりによってシューズが濡れた場合の交換、中盤は山岳地帯通過時の天候崩れ対策。いずれにせよ、シューズが水浸しになると、皮膚表面がふやけて肉とずれ、ひどいマメの原因となる。念のための予備である。
     ヘッドランプは「ペツル・ティカプラス2」、最大光量70ルーメン。足元を照らすハンドランプはロードバイクのヘッドランプを利用。ハンドルレバーに固定する輪っか部分を指輪のように指にはめて使う。一般的な手で握るタイプのハンドライプでは、後半握力がなくなったときに辛い。夜を越すのは1晩だけだから新品電池なら電池交換は必要ない。
     鎮痛剤はひどい故障に見舞われたときに備えて。関節痛だけじゃなく、爪がはがれたり裂傷を負ったときにも数時間は効く。身体が乾ききっているので吸収が早く、効果てきめんだ。
     胃腸薬は、前半のゲロ吐き対策。後半は胃腸が機能しなくなるので、エイドの食料を飲み込むのと同時に服用する。
     マタずれ火祭り対策のワセリンは「ヴァセリン・ペトロリュームジェリー」。米国製で熱に強く粘度が高い。ワセリンにもいろんな種類あるけど、摂氏40度程度で水状になるものは役に立たない。
     各補給物は、百円均一ショップで入手したジッパー付きのB4版ナイロン袋に入れる。ジッパーなら受け取った荷物を返却する際に手間取らない。

    ■エイドで使いたい超初歩級ギリシャ語
     こんにちは=カリメーラ
     これください=フェルテムー
     おいしい=オレオ
     ごちそうさまでした=カリホネプシ
     ありがとう=エフハリスト
     さようなら=アディーオ
     海外選手の多くは地元ギリシャ人と英語で会話しているが、少しでもギリシャ語を覚えていけばエイドのおばちゃんたちにウケると思う。

    ■持って走るもの
     ウエストベルト(ゼッケンはこれにつける)、霧吹きスプレー、関門タイム表、薬品セット、お金(2ユーロ硬貨×5)。
     各エイドに用意された飲み物は、日本のようには冷えてない。ほぼ常温である。2ユーロ硬貨は、緊急事態的に体温を下げるため冷たい飲料を胃に入れる場合に備えて。コース沿道に自販機はないが、キヨスク的な商店はある。小銭を持って商店に飛び込み、冷蔵庫からペットボトルをサッと選んで代金をパチンと置く。「お釣りは取っといて」で店を去る。きっと世間話がはじまると10分くらい店主に捕まる。
     また、エイドごとに霧吹きスプレーのボトルに水を補給し、身体に吹きかけながら気化熱で体温を下げる。

    ■シューズ
    ・スタート用=アシックス・ターサー
    ・交換用=ミズノ・ウェーブアミュレット
    ・交換用=ミズノ・ウェーブエアロ10
     ギリシャの道路には小石やアスファルトのカケラが散在している。また材質はコンクリートのように堅い。本来はソールのブ厚いシューズを選択すべきなのかもしれないが、過去2度とも慣れていないシューズを履き、カカトから出血するなど故障の原因になった。今年は、ふだん履いているシューズを持っていく。ソールがすり減ってペラペラになった靴だけど、キック力でパンパン走るわけでもなく問題ないだろう。履きつぶし寸前の相棒シューズがいちばん信頼できる。

    ■レースの組み立て方
    【0〜80キロ】
     スタート直後から絶対に飛ばさない。大レースになればなるほどボクは舞い上がり、狂ったようにオーバーペースで入る失態を何度も演じてきた。絶対にキロ6分よりペースを上げない。6分〜6分30秒を徹底厳守。ランナーズハイになったら中島みゆきの「ファイト!」を歌い暗い気分に引き戻す。
     今年の8月下旬、アテネでは気温40度を記録している。レース日も30〜35度は必至。気温以上に直射日光ビームが肌を焼く。白シャツ、白アームカバー、白キャップで肌を覆い光をはね返す。
    【80〜123キロ】
     80キロ地点にある街、コリントス。毎年20〜30%のランナーがわずか80キロでレースを終える。暑さとダラダラ坂道が制限9時間30分クリアを困難なものにする。
     コリントスに達した段階でダメージを負っていたら10分程度の休憩をとる。無理やり突き進んでもダメージは更に深刻化し、後で動けなくなるだけだ。10分の休憩を取って体調を元に戻すバカ練習はたっぷりやってきた。10分のタイムロスをおそれない。
    【123〜171キロ】
     123キロのネメアの大エイドには、パスタ、ピラフなど食料が山積みされている。胃腸障害がなければ無理にでも喉に押し込む。ここで長そで長ズボンのジャージを着る。山岳地帯に入るので天候が崩れる可能性があるので雨ガッパも準備しておく。街灯のない暗くて長いサンガス山麓へのアプローチ坂を登り、荒涼としたガレ場のつづら折れ登山道に入る。1200メートルの登りはとにかく歩く。睡魔や衰弱との戦いはここら辺がピークか。つらいかつらくないかって、もうとうに限界は超えているだろう。それでも前に進める人だけに栄光の光が射すのだ。
    【171〜246キロ】
     ここまで来れたら、あとは耐えるしかない。どんな体調不良、故障に見舞われているかによって展開は違うものになるが、どっちにしろ走力もクソもない根性の世界だ。走れなくても歩く。必死に前をめざす。脚を前に繰り出している限り1キロ8〜9分ペースは保てる。関門時間どうこうというより、今その瞬間の自分のベストを出す。自分の弱さに引っ張られず、ちょっとずつ、より困難な選択をする。「歩きたい」という誘惑に負けずに走り、「休みたい」という願望に打ち勝ち、歩く。246キロの距離や36時間のタイムリミットと戦っているのではなく、今自分がいる場所から100メートル先までをちゃんと走れるかの勝負。今までもそうだった。
    【ゴール】
     ゴールのことは、現時点では想像を絶しているのでイメージはまったく湧かない。完走者は英雄レオニダス王の巨大な像の足下に手を添える。月桂樹の冠を頂き、陶器で水を飲む。係員に足の裏を洗ってもらい、衰弱しておれば点滴を受ける。回復を待って選手専用タクシーで宿舎まで送り届けられる。今年こそそんな立場になれるだろうか。いや、絶対なるのだ!

    ■レース後
     レース全日程終了後の夜にスパルタ市の中心部にある広場で大々的な優勝者表彰セレモニーがある。広場には観客があふれ、表彰式というよりは街のお祭りといった雰囲気。ステージ上では地元の中高生らによる演奏会や、子どもたちの格闘技演舞などのお披露目がある。全ランナーの顔写真が巨大スクリーンに映し出され、優勝者インタビューが行われる。テレビで生中継され、打ち上げ花火で祝福される。スパルタランナーであることを誇りに思えるはずだ(完走できた場合・・・ですが)。

       □

     さて、完走もしたことないのに、けっこう語ってしまいました。完走もしたことないのに、ノウハウだけ積み上がりました。この情けない存在に今宵、終止符を打ってきます。何年かに1度しか出てこないクソパワー、いま覚醒させます。
  • 2012年08月31日バカロードその49 スパルタスロントレーニング30日前「潰れ」と「復活」
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     変化はぬき足さし足、地味にやってくる。
     シャツのボタンをなかなか穴に通せないので、最近はボタンしたままで洗濯機に放り込んでいる。これだと改めてボタンをする手間がかからない。効率的だ。しかし形態安定シャツはすごいね。たいして型くずれしない。
     あるいは、過去数分間の記憶を喪失している。さっき履いたはずのパンツをいつの間にか口に咥えていたりする。いつ脱いで、いつ口に咥えたというのだ。野犬かよオレ。
     はたまた、得意満面で誰かにしゃべりかけてると「何をしゃべっているのかわかりません」と眉間に皺を寄せられる。ロレツがまわってないのか。いや、それ以前にぼくは何をしゃべってたっけ?
     これはどこかで見た風景。「あしたのジョー」に登場するカーロス・リベラじゃないか。重度のパンチドランカーになりすべてを失った伊達男のあわれな姿。
     「潰れ」練習のせいだろうか。きっとやりすぎなのだろう。でもしょうがないね、だって完走したいんだもの。
     脳細胞がじわじわと死滅していっているとしても、練習だけはやめられない。

       □

     スパルタスロンを完走するには主に2つの能力が必要だ。

     ・潰れないよう、ゆっくり走り続ける。
     ・潰れたあと、ゆっくり走り続ける。

     「潰れないよう、ゆっくり走り続ける」のはキロ6分の巡航スピードをどこまで保てるかの意。こっちは本番を想定した練習がある程度できる。キロ6分で距離を伸ばしていけばいいわけだし、100キロの大会を利用してなるたけ6分をキープして走ればいい。時間はかかるけどね。
     問題は「潰れたあと、ゆっくり走り続ける」練習である。過去の経験則からして246キロを健康体のまま走りきる才はない。100キロか、120キロか、150キロか、どこかの時点で潰れる。本当の勝負はそこからだ。高らかなるファンファーレとともにレースの緞帳が上がるのは潰れた瞬間からなのだ。
     いっかい完全に潰れた状況に陥りながらも、5分〜30分程度の休憩後に劇的に元の体調レベルに戻ることを、スパルタランナーたちは「復活」と呼んでいる。瞳の焦点合わず口の横から白い泡を吹き、一刻も早く救急車を呼んだ方がいいという状態のランナーが、しばらく寝ころんだ後にむくっと蘇る様子を何度か目の当たりにした。これこそがスパルタ伝統芸「復活」なのである。
     スパルタスロンを攻め落とすには、この「復活」を会得しなければならない。
     しかし!潰れたあと走りだす練習をするためには、いったん潰れないといけないわけだが、これが難しい。
     たとえば150キロ走って生じる実際の身体変化は、150キロ走らないと再現できない。では150キロ走ればいいかというと、事はそう簡単ではない。
     超長距離走をやった場合、元どおりに走れるようになるまで相当な時間を要する。ぼくの場合、300キロ走の痛みが取れるまで1ヵ月、500キロ走なら足指のマヒが消えるまで3ヵ月、5000キロ走ってしまえば疲労骨折の修復も含めて1年かかった。
     練習できないと身体機能はたちまち衰える。心肺能力は落ち、脚の筋肉、特に速筋が消滅し、体重はメタボ増加する。100キロ以上の超長距離追い込み練習は、諸刃の剣なのだ。やれば経験は積めるが、身体が壊れてしまう。
     だけど「潰れ→復活」練習なしでスパルタスロンに出るなんて、鏡の前でシャドーボクシングやっただけでプロボクシングのリングに立つようなもんだ。無防備すぎる。
     悩ましい。ジャッキー・チェンの映画ならここいらで赤っ鼻の老師が登場し、人智を超越したトレーニングを課してくれる場面だけど、現実世界に虫のいいストーリー展開はない。自分でやり方を見つけるしかない。実際の「潰れ」は再現できないが、それに似かよった感じまで追い込むことによって「潰れ」に慣れていくのだ。

       □

     さて、改めて「潰れ」を解析しよう。
     過去レースを振り返ると、こんな感じでぼくは潰れてきた。

     「枯渇」 脱水およびエネルギー消費過多によるバーンアウト。
       ↓
     「補給」 熱量補充のための水分・食料投入。
       ↓
     「ゲロ」 胃腸衰弱により補給物を吸収できず、ゲロ吐きが止まらない。
       ↓
     「潰れ」 運動量にふさわしいエネルギーを取り込めないため徐々に衰弱する。
          目まい、虚脱、そして活動停止。

     このような状況に陥らないことはあり得ない。どんなに準備しても、必ずこうなってきた。ならば「潰れ」まで達した後に復活を遂げられることを身体に覚えさせる必要がある。「潰れ→復活」を何度か繰り返し、いろんなシチュエーションの経験を積み上げることで、潰れることはたいした問題ではない、と自分の脳に認知させる。何としても脳みそをだまさなくてはならない。

      □

     ムオンと熱い空気、気温33度、いい感じだ。追い込むには最適な日和である。暑いと追い込むのに時間がかからないから嬉しい。涼しいといくら走っても潰し切れないのだ。
     10キロを5分ペース走。自分としてはけっこう速いペース。キロ6分だと潰れるまで50キロ以上かかる。キロ4分30秒だと心肺だけが早々に限界に達してしまうが、それは今欲している「潰れ」ではない。時間効率と成果を考えればキロ5分が最適だ。
     10キロ走るごとに休憩を15分入れながら3本目。給水ゼロで脱水症状に追い込む。残り1.5キロってとこで片耳が聴こえなくなる。景色も薄ぼんやりとしてきた。
    「きたきたきた!限界きたー!」
     初期の潰れ状態に突入。すかさず堤防のコンクリート上で横になる。腕時計のラップボタンを押し、目を閉じる。そのまま5分間、身体の活動を停止する。この間、できるだけ身体を動かさない。目も閉じたままにする。動かすのは心臓と血液だけ。宇宙船で遠くまで旅するとき、液体窒素に満たされ冷凍睡眠に入るイメージ。生命活動の準停止だ。
     5分経過後に立ち上がろうとするが、ふらつきが収まらない。もう一度横になる。活動停止時間を5分上積みしたのちランニングを再開する。足がよたつくけど走れなくはない。キロ7分30秒、潰れ後としては上出来のペース。身体回復まで10分かかった。悪くない、だけど少し時間かかりすぎかもしれない。スパルタスロン本番では少なくとも5回は潰れる。復活に時間がかかりすぎれば関門ギリギリ通過の地獄絵図にはまる。
     翌日。
     水分補給なしで25キロをキロ5分20秒ペース走。内臓がカラカラに乾いた時点で、自販機で炭酸飲料を買い1000mlを一気に飲む。数分の間もなく、胃壁に嫌な感じの鈍痛が走り、胃腸全体に重い不快感が起こる。両腕に激しい脱力感、脚部から力が失われスローダウン。間断なく吐き気がに襲われる。脱水状態をカバーするために水分を大量摂取すると起こる症状。疑似的だけど胃腸障害の再現だ。道ばたに横たわり、再び5分刻みで回復を図る、5月頃は30分かけても具合が良くならなかったが、今は5〜10分で復活できる。
     いろんな実験をし、いろんな「潰し」をやってみる。
     水やスポーツドリンクに比べ、生乳・脱脂粉乳が入っていたり果汁100%の飲料はダメージを深める。少量の炭酸は問題ないが大量摂取するとキツい。乳性の炭酸飲料は最強クラスに胃にくる。パスタやパン、ポテチなど、エイドに置いてありそうなものを一気食いして走る実験もした。ぼくは固形物には強く、液体に弱いことが判明している。
     いろんな休憩の仕方を試し、「復活」を遂げるまで何分かかるか計測する。歩きながら回復を計るべきか完全停止した方がいいのか。完全停止の場合は、座った姿勢がいいのか、寝転がった方がよいのか。どうすれば復活に要する時間を短縮できるのか。
     そんなこんなの試行錯誤と人体実験によって、脳みそがジワジワ壊死し、いまやパンツをはいたまま洋式便座に腰掛けウンコを発射してパニックに陥るという極限に突入。天井の青白いLED照明を見つめながら、トイレで呆然と立ち尽くすもののあはれよ。
  • 2012年08月16日バカロードその48 愛と絆ジャパン
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     職業柄だろうか。「私は徳島が大好きです」と目を輝かせた人が、ときどきやってくる。肩書きはいろいろだ。経営者、学者、政治家志望、アーチスト、大学生、社会起業家・・・。
     「私は、徳島を愛しています」と言う。
     ふむ、たしかに愛は自由である。徳島を愛し、ラーメンを愛し、海を愛する。人によってはコウロギや渋柿や長州力を愛する。人それぞれである。ぼくは「節足動物を愛する人たち」や「女子高生のお古の制服を愛する人たち」の会にも顔を出したことがある。何を愛そうと、法に抵触しない限りにおいて、愛の対象に限界はない。愛とは人間にとって最も重要な感情の一つであり、愛なくしては人生は乾いた砂のようなものになるだろう。
     「で、ご用件は?」とたずねる。
     「私の愛する徳島にいま元気が足りない。だから徳島を元気にするために、共に頑張っていきませんか」と身を乗り出す。
     (この人、猪木なのかな?)と思う。(このまま1.2.3.ダーッ!って盛り上がったまま帰ってくれたらいいのに)とも思う。
     浮かない表情をしているぼくを見て、訪問者は問う。
     「あなたも徳島を愛してらっしゃるんですよね?」
    ( さて、ぼくは徳島を愛しているのだろうか)と0.2秒考える。そして答える。
     「あんまし愛してないですね。嫌いかというとそうでもないし、好きでも嫌いでもない感じです」と素直に胸の内を吐露する。
     すると、さっきまで愛の語り部としてマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師のような尊い瞳を潤ませていた表情が一天にわかにかき曇り、巨大疑獄の容疑者を責め立てる検察庁のキャリア検事みたいな容赦ない目つきになる。
     「それじゃどうして徳島でタウン情報誌なんか作ってるんですか?」
     さらに「徳島が好きだから、徳島を元気づけるために雑誌を出してるんじゃないんですか?」と畳みかけられる。
     うー、そんな目標掲げたことあったっけ。今まで一回も表明したことないけどな。
     「ネットで見たけど、あなたの会社は(徳島をおもしろくする会社)が社訓でしょう?」
     (あ、それ「おもしろい本をつくる会社」の間違いですけど・・・)と心でつぶやく。
     ぼくは答える。「徳島を愛してはないけど徳島で本を作ってるのは、エロ本を作ってる人が必ずしもエロい人でないのと同じ理屈です」とわかりやすく説明するが、とうてい通じる比喩ではない。
     話し合いは暗礁に乗り上げ、来客は(なんだこのバカは)とケイベツのまなざしを向ける。
    その雰囲気に耐えかねて、「で、ご用件は?」と再度たずねる。
     「徳島を元気づけるために、おたくら地元の情報誌とコラボレートしたいんです。だからうちの会社の宣伝を(タダで)してみたらどうか」とか、「徳島を変えようと立ちあがった自分をインタビューしたらどうか」とか実務的な提案を受ける。
     (あ、なるほどね)と目的に気づき、適宜対処をほどこす。

     このような野心家たちとは違い、心から純真に「徳島を変えたい」「徳島を元気づけたい」と訴える人もやってくる。
     社会起業家タイプの人は、「ある日帰省したら、中心市街地にあまりにも人が歩いてないので寂しかった。どうにか活性化させたい。街を賑やかにしたい」と着火した人が多い。
     県外の大学に進学した学生さんは、「東京や関西では徳島のことを知らない人が多くてショックを受けた。もっと徳島のことを全国、全世界に知ってもらいたい」と思いたった人が多い。「徳島を元気にするイベントをやりたい」と企画書を書いてくる若者もいる。
     真剣な相手には、こちらも正面から向いあわねば失礼だ。だからマジメに答える。
     徳島で生活してる人はすでに毎日、頑張って生きている。自分の仕事や商売に対してけっこう真剣に取り組み汗を流している。だから、ある日突然現れた人から「皆さんは元気がない、もっと元気を出そうよ」と励まされても困惑するかな。中心市街地に人が少ないといっても、終戦後から昭和中期のようにすべての目新しい商業施設や遊びが新町周辺に集中していた時代と違って、あちこちの商店街や郊外の街にカルチャーが拡散した。人が移動し、消費する場所が分散しただけで、徳島全体が冷え込んでるわけではない。地域経済の弱体化の大きな原因である人口減少と高齢化は全国の都市部と農山村部で起こっている。これは徳島という限定的な地域の「活性化」とは別次元の問題。しかし「活性化」といっても、街や地域経済に溢れる活力ってのは、日々商売や仕事に精を出している人たちの営みの総量であって、特別な奇策を用いて街が活発化するもんではない。たまーにイベント催して人が少々集まっても、その地域に住む人たちから自発的に生まれた取り組みじゃないと、すぐ立ち消えになってお仕舞い。だから、あなたの問題意識と解決策は本質からズレている・・・。
     あ、言い過ぎてしもた・・・と思った頃にはもう遅い。若者は(こういう情熱に欠けた大人が日本を悪くしてんだ。話になんねーや)と負のオーラを発しながら帰っていく。
     このような若者は毎年現れるのだけど、その後、頑張っているのだろうか。地球のどこかで徳島を有名にするための活動をしているのだろうか。ボサノヴァのかかったオシャレなカフェで、カプチーノでもすすりながらサンクチュアリ出版の本をペラペラめくって見果てぬ夢を追いかけてるんだろうか。

     どうもぼくは土地への愛着がない。
     地図に引かれた境界線で、愛したり、愛さなかったりという感情を持ったことがない。
     ぼくは阿南市で生まれたけど、それほど阿南市に思い入れがない。図々しいオバチャンたちの相手をして育ち、汽車の中でヤンキーに殴られて青春を過ごした阿南は、まあ空気はあってるけど愛してるってほどではない。愛憎折半ってところ。
     徳島県という土地全体を愛してるかと問われると、広すぎて途方もなく全体を捉え切れない。藍商が盛んな時代から商才のある人材をたくさん輩出した北方(きたがた・徳島市以北)の人は、今でも抜け目なく、交渉事に強くて根回しに長けている。親戚・近所づきあいの縁が濃く、情を露わにし、計算高くない南方(みなみがた)の人とは、別の人種に思える。だからこの人たちを総まとめにして好きなのかどうか自問しても、答えは出ない。嫌いな人も好きな人もいろいろいる。
     「阿南市」とか「徳島県」は行政区割の単位だけど、これを島嶼単位の「四国」とか、統治システム単位の「日本国」とか、文化の出流入と人種の近似でまとめた「東アジア」とか。自分の属する地理的境界は、範囲を拡大すれば太陽系から銀河系までいっちゃうけど、各単位を郷土として愛してるかと問われると、いずれも首をひねる。
     故郷の山河や民俗に触れれば心やすらぐが、国家のために命を賭すなんて愛国心は1ミリもない。高校時代には式典で日の丸に対して起立せず、君が代を歌わなかった。流行のプチ右な評論家や政治家だちは「世界中のどこの国に行っても、国旗には敬意を払い、国家は斉唱するもの。だから子供たちにはそう教えなくてはならない」と言ってはばからないが、ぼくがアジアやアフリカの旧植民地国で目にしてきた現実はそうではない。弾圧する国家には命がけで敬意を払わない、そんな勇気ある市民はいる。いきすぎた愛の強制は、いずれ破壊的な闘争心に変わるのだ。

     このごろ日本では、「愛」をうわまわる勢いで「キズナ」って言葉が勢力を拡大している。チャリティー番組はメインテーマで、J・POPミュージシャンは歌詞で、キズナを大量生産し、受け手は大量消費してきた。大震災以降はオールジャパンでキズナを賞賛する空気ができあがった。
     毎年楽しみに観戦している年末年始の駅伝中継もすっかりキズナに占拠された。アナウンサーたちは「選手たちはタスキというキズナをつないでいます!今、先輩から後輩へとキズナがつながれます。タスキという名のキズナが、いやキズナという名のタスキがわたったー!」なんて、むりやりキズナって言葉をさしこみたがるから、聞いてる方はややこしくてしょうがない。なるべく静かに選手の走りだけ見せてはもらえぬものか。
     ほぼ週イチで参加している市民マラソン大会でも「キズナ」が猛威を振るっている。スタート前の恒例行事である来賓やゲストランナーの挨拶では「ランナーと被災者のキズナ」についてしばし語られ、「私たちにできることは走ること。走って東北を元気づけましょー!」「オーッ」なんて盛り上がった状態で号砲がパンッ鳴る。家族を亡くし、帰る家を失って、今この瞬間にも困っている人たちが、よその土地できらびやかなスポーツウエアを着て走っている人を見て(見る機会もないだろけど)元気になるなんて考えられる思考の組み立て方が理解できん・・・と不可解な気持ちでスタートを切らされる。日曜日にわいわい楽しく走ってる群衆を見て、勇気がわく被災者って?
     震災以降、チャリティーゼッケンってのが流行して、あちこちの大会で採用されてる。ランナーはゼッケンに「東北に元気を、勇気を」とか「がんばれ東北」とかメッセージを書いて走るんだけど、むろん被災した人たちの目には触れない。どうしても思いを届けたいと、段ボール箱に寄せ書きやらメッセージを詰め込んで送りつける人もいる。それもまた扱いに困る。  「東北に笑顔を」「前を向こう」的なフレーズって、葬儀会場で家族を亡くした遺族の前に突然現れた見ず知らずの人が「悲しんでいるあなたたちに元気と勇気を与えたい。私の頑張る姿を見て、あなたも前を向いてください」と言い放つ不遜さとどう違うのだろう。
     FMラジオの音楽番組ではゲストのミュージシャンが「自分の歌で被災者に勇気を与えたい」と語り、試合後インタビューを受けるスポーツ選手は「自分のプレーで被災者に元気を与えたい」と言い放つ。繰り返し流されるこの類のメッセージに、耐えがたい嫌悪を感じる。
    愛とかキズナとか勇気とか、言葉はどうしてこんなに軽く、薄っぺらになってしまったのだろう。愛なんて、キズナなんて、本来は言葉に出さず、心の内にそっと秘めておくものだ。いつかその存在に気づいたときに、静かに心ふるえるものだ。何年も経ったあとでその大きさに気づかされるものだ。
     愛とキズナの大量生産工場と化したこの国の片隅で、秘かにノーのタテカンバンを掲げよう。
  • 2012年07月25日バカロードその46 雑誌つくりたい若者おらん?
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     地元の雑誌、少ないなーと思う。
     本屋さんに行くと単行本、文庫本とラインを違えて雑誌が並んでる一角というか列があるでしょう。新刊だけで数百誌並んでます。そのなかで徳島で出版されている雑誌は全誌のうち1%にも満たない分量です。
     日本国内に出回っている出版物はその99%が東京の出版社から発行されています。東京の発行点数に比べたら、大阪にも名古屋にも出版社は無いに等しいと言えます。ハンパない一極集中っぷりです。そりゃ全国に本を流通させようと思ったら、東京が便利なんだけどね。雑誌の出版という仕事は、大衆文化のうえに乗っかったものだから、やっぱメイン+サブカルチャーの先端で、政治・経済・社会変革の初動が起こる場所でこそ出版する必然が生じ、成熟していく産業ではあるんだけど。理屈ではわかってても、何となく悔しいなあと思うわけです。
     そういう地味な反撥心もありーので「タウトク」「CU」「徳島人」ほか細々と出版物を発行しているんだけど、
     「徳島みたいなド田舎に、そんなにたくさん情報あるのかよぉ、雑誌なんているのかよぉ」
     と見ず知らずの人にからまれる場面、多々あります。
     はたして徳島はさびれ果てたド田舎なんでしょうか。それは徳島という土地をどう見ているかによるわけで。ここはひとつ客観的な数値で見てみましょう。
     徳島県の県内総生産GPPは2.7兆円です。世界各国の国内総生産GDPと比べると、ケニア(2.6兆円)、ネパール(1.3兆円)、ジャマイカ(1.1兆円)、アイスランド(1.0兆円)、カンボジア(0.9兆円)あたりより経済規模は大きいのです。GDPが公表されている142カ国中では81位に相当します。けっこう上位でしょ、これ。
     また、人口が77万人まで減ったと嘆いているけど、ブータン(72万人)やルクセンブルク(51万人)よりも多いのです。徳島県より人口の少ない国家は地球上に69カ国!もあるんです。
     徳島と同等かあるいは小さい経済規模の国が、立法装置としての国民議会や諍いをジャッジする最高裁判所を持ち、ミサイルや戦闘機を要して隣国とせめぎ合い、ワールドカップの予選ではザック・ジャパンと好勝負を演じていたりします。
     たとえばケニアの首都ナイロビやネパールの首都カトマンズの街角にあるキヨスクやコンビニには、雑誌や新聞が数十誌並んでいます。これらの国では、政治経済誌もスポーツグラフィック誌もファッション誌も発行されています。もしかしたらUFOの目撃談を集めた超ミステリー誌とか、プロボクシングの専門誌とか、素粒子物理の世界をCGで見せるサイエンス誌も発行されているかもしれません。
     毎年100キロレースに参加するために訪れている沖縄県の宮古島では、日刊新聞として「宮古毎日新聞」「宮古新報」の2誌が発行されています。さらに有力地方紙の「琉球新報」「沖縄タイムス」も販売拠点があり、島の人口5万人に対して有力新聞が4紙、それなりに成り立っている様子です。だから、77万人もが暮らす徳島なら、まだまだ雑誌や新聞は発行できるって理屈が成り立ちます。単純すぎ?
     ほんじゃあ、なんで徳島には新聞も雑誌もこんな少ないんだろう。きっとマーケット規模の都合じゃなくて、作ろうという人が少ないからこうなってるんだろう、ってのがぼくの結論です。
     新聞でも雑誌でも、すごく立派で見栄えがするモノじゃないといけないという印象があって、軽々しくスタート切れそうにない感じがするからかも知れません。
     アメリカ合衆国の地方都市では、人口5〜10万人程度でもローカル新聞が発行されています。ページ数は8ページだったり12ページだったり。ライトに読める分量です。きっとそれくらいの出来事しか起こらないのだと思います。内容はすべて地域の情報です。奥さまが立派なニワトリ料理を作って近所に振る舞ったとか、リトル・リーグの少年選手がドラマチックな決勝打を放ったとか、最近は雨がぜんぜん降らなくてトウモロコシ農家が困っているとか。ぼくたちがマラソンで大陸横断しているという取材もあちこちで記事にしてくれました。
     こういうのって、いわゆるジャーナリズムとはほど遠くて、地域に住んでる人が気軽に読める娯楽ニュースの提供業と言えます。紙面の下部には街のカーディーラーやナイトパブやスシ料理店の宣伝広告が載っていて、充分ビジネスとして成り立っているように見えます。ちなみに配達は、日本のように夜も明けぬ早朝からホンダ・プレスカブ50をぶっ飛ばして配る突き詰めた感じはなくて、日光がさんさんと降り注ぐお昼ごろにのんびりと、配達車の窓から手を伸ばして道路沿いに立っているポストに突っ込んでくスタイルです。
     そんなこんなで、世界のメディア環境と比較すれば、徳島県くらいの経済規模と人口があれば、日刊新聞が10誌、雑誌なら50誌くらい発行されていても、べつだん不思議ではなのかな、と思っています。
     さすがに日刊新聞は大変すぎてやる気しないけど(労働と心労で倒れかねません)、もっと自由にバカみたいな雑誌をたくさん作りたいなあと思うわけです。カルチャーマガジンの編集部なんて、元々どこにも就職できないような遊び人が集まって、斜交いからモノを見て、クドクド御託を述べながら、好き勝手に記事を書きまくるだけの世界だったんだから。
     自由な言論があって、あんましお金がかからなくて、社会に物申したい若者が集まってつくる雑誌。そうゆうのやりたい人、もっといないだろうか。おもしろいヤツ、全国からもっと集めて、もっとふざけた本をつくりたい。
     ということでウチの会社の学生向けの求人広告はこんな←のです。こういった悲惨な求人広告を読んでもノコノコ面接にやってくるくらいのタマなら、いい記事を書いてくれるかもしれません。少しヘンテコなのを集めて、また新しい雑誌をつくろうかなと思案ちゅうです。

    -----------

    たいした会社ではありません。
    四国の小さな街で雑誌を作るという微妙な仕事をしています。
    だから「会社に就職」しないでください。

    雑誌を読むのが好きで、雑誌を作りたい人だけ集まってください。
    世間では「紙媒体はあと30年いや20年いや10年かも」などと評されています。
    だから、まかりまちがっても、あなたが60歳になるまで会社が存続するとは思えません。

    「じゃーネットやスマホにコンテンツを展開するビジネスをすれば?」ってよく言われます。
    興味ないんっすよね。
    アタマ古くさいんですよ。ただ雑誌が好きでやってるんですよ。
    ビジネスとてして「出版社」を経営してるんじゃなくて、
    ただ雑誌をおもしろがって作っているだけなんす。

    いつか完全ペーパーレス、完全デジタルな情報社会が地球を覆い尽くす日が来ても、
    人類最後の紙媒体編集者として死にたいと思うわけです。
    何万年後かに地層から掘り出されたときに、
    「助手君、見たまえ。この人骨・・・人類最後の印刷物を手にしているようだの」と博物館に展示されたい。

    聞けば聞くほど、わざわざ大学出てまで就職するには向かない会社でしょう。
    雰囲気的には、帰らぬ男を待つママがカウンターの隅で酔いつぶれている
    時代に取り残された港町の場末のスナックみたいな場所です。

    再度。
    雑誌を作りたい人だけ集まってください。
    人口80万人もいない県で、月刊誌3本、隔週刊誌1本、季刊誌3本、その他もろもろ発行しまくっている
    マーケット感覚ゼロ、損得勘定できない、あとさき顧みない、未来がまったく見えてないバカ集団です。

    それでもよければ。
  • 2012年07月25日バカロードその47 スパルタスロン・トレーニング90日前 重足サロマ
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     人にもよるけどスパルタスロンを完走してる人って、だいたい月に700〜800キロ走ってる。毎日約30キロ。仕事を持ってる人だと、まとめて3時間は確保できないから朝昼晩と3回に分けたり、週末に50〜80キロ走って帳尻をあわすようだ。
     一方ぼくは、練習量を増やしていくべき春以降も距離を稼げていない。せいぜい月に500キロ。こんな追い込み方では完走はおぼつかん! だいいちスピードが決定的に欠けてるんだから、せめて人なみに距離を踏むくらいの抵抗ってかアガキを示さないといけないわけだが、現実はお寒い。毎朝、極度の疲労感でぐったり目覚め、布団にからだがヘバりついて起きあがるのも困難。フィリップ・マーロウの「男はタフでなければ生きていけない」の台詞が頭をぐるぐる駆けめぐるが、「やっぱしぼくは超人になんかなれない」とあきらめ二度寝、三度寝をくりかえす。
     朝練20キロ。最初キロ8分、足が重くてこれ以上スピードが出ない。10キロ越えたあたりでようやくキロ6分で走れるようになり、ラスト1キロは全力走に切り替え3分50秒くらいまでスパートして終了。川原の土手にひっくり返り、カラゲロを空に向かってオェオェえずく。いちおうこれで追い込んだつもり。ボロボロ鈍重足で走ることにスパルタ練習の本質的な意味があり、いかに「潰れきった」状態に近いバッドな体調をキープするかが重要事項なのである。
     30キロ、40キロと走るときは補給が必要なので、ランニングコースの土手脇の草むらに発泡スチロール製のボックスを置く。中にはスポーツドリンクやチョコを入れておき、10キロごとに補給する。ところが最近、ボックスの中身がドロンと消えてしまう事件が多発。くそ暑い中、喉カラカラで10キロ戻ってきたら、イリュージョンのごとくアクエリアスもキットカットも消失! おいおい、ここは生き馬の目を抜く焼け跡闇市か。仕方なく給水なしで30キロ、熱中症寸前。
     ちなみに夜食に白米を食べると翌日はとても体調がよろしい。やっぱし炭水化物パワーは凄いね。ということで、基本的に炭水化物は採らないことにする。日々エネルギー枯渇させたままハラペコで走る。
     練習だけでは真に追い込めないから、6月には100キロレースを3本入れた。レースとレースの間に疲労抜き休養は入れない。するとスタートラインでは目眩がして立ってられないくらいしんどいわけだが、そのヘトヘト感が重要である。30キロあたりで一度くちゃくちゃに潰れ、残り70キロを動かない脚を前に振り出していかに前進するか。それがテーマ。
     で、しまなみ海道ではラスト20キロに4時間かかって12時間18分、隠岐の島でも後半歩きまくって11時間48分。こんなんで本当に練習になってるんだろうかという疑念も深めつつ、3戦目のサロマ湖に向かった。
       □
     曇天の空、フロントガラスにまとわりつく霧の粒。GPSの音声が、次の曲がり角が30キロ以上先だと教える。牧草地のなかを貫く一本道はただ真っ直ぐに伸び、レンタカーのハンドルを動かす必要がない。助手席に大量の食料を山積みにし、ひたすら食べ続けながら移動する。1個300キロカロリーと表示された巨大オニギリ4個目を胃におさめ5個目に突入。合間には、揚げパン、サンドイッチ、チョコ、ビスケット、大福、アイスクリームなどをコーラと牛乳で流し込む。都合4000キロカロリーは突破したかな。血液に糖分がどくどく混じり、体内に熱量が充満していく。何もしてないのに汗が噴き出してくる。
     北海道東部の中標津空港から開催地の湧別町まで約200キロ、ノンストップで運転する。マラソンで100キロ走るのはあっという間なのに、自動車で移動する時間はこのうえなく長ったらしい。
     明日のスタート地点である湧別町体育館で受付を済ませると夕方6時近い。明朝は午前2時30分起床予定。逆算すると9時間もない。宿泊はさらに40キロ離れた「瀬戸瀬温泉ホテル」である。こういう大規模な大会ではありがちだが、会場周辺の宿泊施設は旅行会社がツアー客用に全室おさえていて、予約がとれない。ツアー代金は12万円と高く、個人で手配すれば、飛行機代・レンタカー代・宿代含めて6万円程度ですむので多少の不便さは致し方ない。スタート地点付近にテントを張ったり、レンタカーで車中泊すれば移動もなく、費用もさらに安上がりだが、100キロ走る前夜くらいは布団で寝たいという甘い欲求をぬぐい捨てられない。2時間かけて宿を往復する方が楽なのか、よけいに疲れちまうのかは不明。男はタフでなければ生きていけないんだけど、ぼくはあまりタフにはできていない。
     日も暮れかけた頃、濃い霧の向こうに瀬戸瀬温泉ホテルの時代がかった鉄筋コンクリートの建物が現れる。50年以上ここで営業しているというから相当な年期物である。「自然噴出温泉純度100%」と書かれた古びた看板。まわりはうっそうとした森。とくに見学すべきものやアトラクションはなさそうだ。
     1泊素泊まり3675円。宿の大将が「夜8時から風呂の掃除するから、それまでに入ってね」と言う。む? 宿泊施設の風呂掃除ってフツー朝の8時からなんではないかと耳を疑ったが、夜8時で間違いないようである。どっちみち8時には布団にもぐり込むから構わないケドさ。
     昭和遺産に認定したいようなレトロなタイル地の浴場をひとりぼっちで満喫し、部屋に戻ると何もやることがない。自炊型の宿なので、食べ物も売ってない。布団は自分で敷く。テレビも地デジは映らない。衛星放送が4チャンネルだけ映るが、リモコンがないので画面の下についた小っちゃいボタンを押してチャンネル変えてると人差し指の爪が痛くなる。面倒くさいから森進一が「襟裳岬」を熱唱する歌謡番組をつけっぱなしで寝る。
     夜9時に入眠し朝2時に起きる。睡眠時間は5時間。大会前日なんてコーフンしすぎて一睡もできないなんて茶飯だから、よしとしよう。疲労感はまるで抜けていない。意図したとおりである。
     再び40キロ移動しスタート会場へ。トイレ行列に15分ほど並び、いよいよ順番が回ってきたので、便器にまたがり「うりゃー」と気合いを入れて気ばるが、あえなく不発に終わる。これもまた茶飯。
     トイレ待ちに時間を費やしたため最後尾近くからのスタートとなる。疲労蓄積の重い脚、5000キロカロリー分のウンコも腹の中で滞在、ゆえに軽快さとは真逆の走り。筋力衰弱しキック力を全然使えないので、カカトつけてトコトコ走る。
     10キロ通過。たった10キロなのに、ゼーゼー息が上がっている。タイムは50分くらいかなと思い腕時計を見れば1時間37秒。遅っそ〜、こりゃ先が思いやられるぞー。キロ6分ペースなら、きっとマラソンを始めたばかりの人でも無理なく走れるだろう。誰でもできることを、あきらめず、止まらず、つづける。歩幅が狭くなろうと、ピッチが遅くなろうと、ひたすらくたばった足を動かし続ける。産業革命の労働者のように、無口に、黙々と。それがスパルタへとつづく道だと信じよう。
     20キロ、2時間と38秒。イヤってほど後続ランナーに抜かれっぱなし。だが相当へたっているわりにキロ6分は維持している。悪くない、悪くない。周りが速すぎるだけだ。
     30キロ、3時間2分。もはや100キロ走り終えたみたいに足が動かん。油をさしてないボロ自転車みたい。筋肉に力が入らないから股関節やヒザに負担がかかり、バタバタとバランス悪く走る。わかっちゃいるけど修正が効かない。平坦なはずの道がダラダラ登り坂に感じられる。「ねばれ、ねばるしかない、ねばるんだ」と念仏唱えるように声に出してつぶやく。隣を走る人生の大先輩的風情のランナーがこっちを向いて「うん、ねばりましょう」とやさしく笑う。
     40キロ、4時間4分。汗が抜けきったのかフイに体が軽くなる。集団で走っているランナーを5人、10人と追い越してゆく。ペースがあがっているのかな、と思いラップタイムを見るとキロ6分のまんま。イーブンペースで進めば、こんなに前から落ちてくるもんなのね。
     50キロ、5時間5分。体調、ますます楽になってきて好調状態に突入。スピード上げようと思えば上げられそうなんだけど、やめとく。今日は速く走ることを目的としていない。このペースで100キロのゴールを迎え、そのままゴール会場を走り抜けて、追加で100キロ走り続けられる余裕度を手にしたいんだ。
     54キロ地点、グランディアホテルの大エイドに到着。たくさんの先着ランナーがパイプ椅子や地べたに腰かけ、栄養補給したりアイシングをしながら後半戦の準備をしている。ぼくは、おにぎりを1個だけもらって口に投げ込むと、一歩も立ち止まらずエイドを抜ける。きっとこの素通りで100人くらい抜いたぞー。息切れも痛みもなく走れると、気分はどんどん有頂天へと駆け上がりがちだが、戒めの念仏を再開する。「調子に乗るな。飛ばすな。筋力使うな。キック力使うな」「キロ6分以上出すな。キロ6分で250キロ走れるランナーになるんだろ?」
     60キロ、6時間8分。「魔女の森」と呼ばれる樹林帯に入る。全コース中、頭上が木々で覆われるのはここだけだ。ペースがやや落ちているが気にしない。ラップタイムを維持するために心肺機能を酷使しては意味がない。近視眼的にペースを上げてタイムを維持してはいけない。ひたすら同じ負荷をかけつづけることが大事なんだ。私設エイドを出している美人のお姉さんを発見、近づくと「何がいいですか?」と問われ、「コーラください!」と大声で直訴。すかさずお姉さん、コカコーラゼロをコップに注いでくれる。(ううっ、ゼロじゃない方のコーラください)と心で泣きゼロを飲む。
     70キロ、7時間11分。サロマ湖沿いの直線道路はひたすら長く、おしるこを提供してくれるエイドが人気の鶴雅リゾートホテルの建物を遠望するが、なかなか近づかない。ここで折れたらまたもや失敗レースだ。ここは北海道、帰り道は長い。落ち込んだ気分で帰るのはイヤだイヤだ。「さー粘るよ、粘れ、粘れ」「ここからだ、ここからだ」と、隣のおじさまランナーと合唱する。熱いね、ぼくたちオッサン。
     80キロ、8時間16分。ワッカ原生花園に入ると「やった!」と高揚した気分が押し寄せる。ゴールまで残り10キロ台のカウントダウンのはじまり。1キロ減るごとに心が軽くなっていく。89キロで折り返したランナーが、飛ぶようなスピードで駆けてくる。8時間台前半でゴールする人たちだ。あんなにも軽い脚と身体があったら100キロだって楽しく走れるんだろうね。いや、速い人は速い人で大変なんだろう。
     90キロ、9時間23分。ラスト10キロだけちょっとペースをあげてみよっかな。ここまでペースアップを我慢したんだから10キロくらいは許してやろう。全力で走るのはやっぱし楽しいもんだ。残り2キロ、直線道路に入るとゴール会場である常呂町スポーツセンターの煉瓦色の壁が、木々の奥に見えてくる。100キロの最後にいつも去来する寂しさは、小学生の頃感じた長い長い夏休みが終わってしまう気分。
     100キロ、ゴールタイムは10時間22分。まだまだ走れる。同じペースであと100キロ走れそうだ。ケシ粒ほどの光すら見えなかったスパルタスロン完走の可能性が「まったくダメってわけでもないんじゃないの死ぬ気でやれば」程度まで近づいた気がする。スパルタスロンまであと90日、もっと走ろう、もっと疲れよう。

  • 2012年05月29日バカロードその45 スパルタスロン・トレーニング 120日前
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     70年代。若きルポライター沢木耕太郎が「敗れざる者たち」で描いたのは、現役をとうの昔に引退したプロ野球選手が、復帰をめざして1日に40キロ以上のジョギングを続けている姿だった。けっして美しい物語ではない。精神に錯乱をきたした初老の男の哀れで切ない日々の繰り返しである。

      □

     どうしても、たどり着きたい場所がある。かつて世界に覇権を示し軍事国家として君臨したその地は、今は小洒落たカフェと農民が持ち寄る露天野菜市の立ち並ぶギリシャののどかな田舎町となった。スパルタ・・・たった1人の戦士の力が数百人もの兵力に匹敵したと言われる戦いのDNAは、この静かな街に住む人たちの身体のどこかに複写されているのだろうか。
     ギリシャの首都アテネを起点に、246キロ離れたスパルタの街へとゴールするレース「スパルタスロン」は、難攻不落の要塞である。
     制限時間は36時間。朝7時にスタートし、翌日の夜7時までにゴールに着かなければ失格となる。70カ所あるエイドすべてに時間制限が設けられている。 参加資格は100キロを10時間30分以内か、200キロ以上レースの時間制限内完走。この資格をクリアしたランナーが束になってかかっても完走率は30%程度だ。
     0勝2敗。ぼくのスパルタスロンでの戦績である。
     おととしと去年、2回出場して2度とも半分まですら進めなかった。1度目は91キロで時間制限にかかった。といっても関門のずいぶん手前から歩いていたけど。2度目は86キロであきらめた。走るどころか歩けなくなって、自分からリタイアを申し出た。
     負けた理由をあげるなら100個は軽い。敗北の素を並べて市場が開けるほどだ。だけど、とどのつまり、理由は1つに尽きる。
     「弱いから」。それだけである。
     強い人は、何としてもゴールまで行く。猛暑でも、土砂降りでも、気を失う寸前まで追い込まれても、強い人はゴールにたどり着く。そうじゃない人は、100個以上ある「完走できない理由」のいずれかの該当者となり、レースから去る。
     スパルタスロンの競技としての難しさはイコール克服の喜びの源泉でもある。速いだけでは完走できないし、長い距離を走れるだけでも完走できない。フルマラソンを2時間台で走る人も、フットレースで500キロを完走する人も、スパルタスロンは分厚い壁となって立ちはだかる。
     スパルタスロンというひとつの競技には、いくつもの解決すべきテーマが内在されている。スタートから80キロの関門までは、アップダウンの連続する道を1キロ6分で押していく力が必要だ。しかも、力を出し切ることなく、相当な余力をもって80キロを迎えなければならない。制限時間は9時間30分だが、ギリギリ突破するのは現実的ではない。そのあとの関門時間を考慮すると、少なくとも30分、なるべくなら1時間の余裕が欲しい。
     経験の浅いランナーの多くは、80キロまでに謎の体調不良に見舞われる。国内レースでは経験したことのない極端に乾燥した気候が、身体から水分をどんどん奪っていく。皮膚の表面に汗が浮かぶことはない。だから自分が脱水状態に陥っていると気づかない。乾ききった皮膚に強い直射日光が当たり、皮膚の表面温度が上昇する。熱くなった体温を放出できなくなり、身体がコントロールできなくなる。40キロまで物凄いスピードで走っていたランナーが、70キロあたりでゾンビのようにフラフラになっている様は珍しくない。
     80キロを越すとレースは様変わりする。ぶどう畑と荒野を抜け、1200メートル超の険しい山岳地帯を深夜に越える。疲労の極から1キロ9分のペースを守ることが困難になる。ランナーは大量の痛み止めと、それを上回る量の胃薬と整腸剤を、用法を完全に無視して喉に流し込みながら前進する。体力を使いすぎて内臓に血液がまわらない。走るためには栄養分を補給しなくてはならない。だけど衰弱した胃が受けつけず吐く。吐くと走れなくなる。だから薬剤の力を借りてでも無理やりに胃腸を働かせる。
     一昼夜かけて山岳地帯を抜けると、翌朝からは再び酷暑の地獄が待っている。消耗し、乾ききった身体にジリジリと焼けるような日射しが浴びせかけられる。このあたりの苦労は想像のらち外にある。ぼくはまだその地獄の入口までも行っていない。
     スパルタスロンのことを思い出そうとすると、自分が走っている最中の光景よりも、リタイア後に収容された大型バスの窓から見た場面ばかりが浮かぶ。エイドの脇に停車したバスは、規程時刻に届かなかった選手を順番に拾っていく。満席に近づくごとに車中にはムンとした汗の臭いが充満する。上に戻している人は珍しくない。吐き気はあっても胃のなかは空だ。胃液のすっぱい匂いが混じり合う。
     惨敗兵たちを乗せたバスは、次にリタイアするランナーを待ちながら、のろのろと移動する。車中からは、自分より前に進んでいる選手、まだあきらめていない選手の姿を見せつけられる。エイドに着くやいなや地面に尻餅をつき、そのままの姿勢で嘔吐する人。椅子に深く腰掛け、うつろな目で天を仰ぎ見る人。
     顔見知りの選手が現れても、声をかけることをためらう。「がんばれ」も「まだいける」も言葉にできない。どんなセリフも陳腐で的はずれな気がするのだ。彼らはまだ戦っている真っ最中であり、自分はすでに戦いをやめてしまった人。目の前にいる知人は、手の届かない場所にいる人。
     彼らはスタート地点とは別人の顔をしている。頬の肉がげっそりそぎ落ちている。1日半のレースで5〜10キロも体重が落ちるのである。人相が変わって当然である。
     自分よりはるかに強いランナーが、こんなにも衰弱している。その姿を見て、今の自分には無理なんだと自覚する。だけど、こうも思う。無理なんだけど、ここまで走りたい。きっと走れなくはない。
     真夜中。山岳地帯へとつづく長い長い峠の登り坂は、バスで移動していても終わりがないと思えるほど長い。収容バスが通る脇を、ヘッドランプの光を瞬かせて暗く険しい闇を黙々と走るランナー。言葉では表現しきれない、深い人間の営み。無益なもの、生産しないもの、ただ走るという行為に没頭する深い孤独。
     やがて山の天気は一瞬のうちに崩れ、豪雨が地表を叩く。行き場のない雨水が道路を川に変え、ランナーの足の甲まで水で浸す。ランナーは冷たい水流に抗うように、水しぶきをあげながら前へ前へと進む。この人たちは何と強いのか。その姿は神々しく、気高い。さっきまで自分がこのレースに参加していたとは信じられない。自分とは別次元の強さだ。

      □

     沢木耕太郎のルポルタージュを読んだのは30年も前なのに、ことあるごとに、かの選手の生きざまが頭をよぎる。「そうなりたくない」という気持ちと、「そうありたい」という気持ちが螺旋を描く。
     世の中の多くのまっとうな人は、ピリオドの打ち方を心得ている。自分でできる範囲はこれだけ、とラインを引くことができる。年齢を重ねれるほどに人生を達観し、穏やかに時を過ごす。でもぼくはラインが見えなくなった狂ったお年寄りの話が忘れられない。
     5月、67キロあった体重を61キロに絞る。あと1ヵ月でさらに6キロ落として55キロにする。全部で12キロ減量。朝は20キロのペース走。キロ5分25秒設定。重要なのは疲れないことだ。呼吸数と心拍数を平静時なみに保ちながら、楽に20キロを走り終える。追い込みはしないものの、4日目あたりから脚がずっしり重くなる。それでもペースを維持する。重くなってからの練習が実戦につながる。1日でも練習を休めば脚が軽くなってしまう。疲労が抜けた状態の練習は、役に立たない気がする。月に2度は100キロ程度のロング走をする。
     食事は1日1食のみ。ボウル1杯の野菜を食べる。喉が渇けばアサヒ・メッツコーラをガブ飲みするが、特保の価値はよくわからない。口さみしさはミンティア・ドライハードで舌を焼いて散らす。それでも腹が減ったらトマトで飢えをしのぎ、水道の蛇口を針金で縛った力石徹の地獄をしのぶ。
     スパルタスロンをライフワークにする気はない。もう二度とリタイアはしたくない。何が何でも今年、絶対にスパルタまで走りきる。脚を作り、高温に耐える身体に変え、鶏ガラ痩せになるまで絞り込む。何もかもやり尽くして、必ずスパルタのゴールにたどりつく。人生、うまくいくことなんてほとんどない。でも、たまにうまくいくことがある。それは偶然起こるんじゃなくて、針の穴を通すようなギリギリの可能性を信じて、無理やりこじ開けるものだ。
     レースまであと120日。100%無理だとは、とうてい思えない。どんな困難でも克服できる方法があるのではないかと思う。あきらめたら終わりなのだ。あきらめない限り、負けではないのである。ケンカの理屈と同じである。100回つづけて負けていても101回目に勝てば、それ以降は勝者なのだ。
  • 2012年05月21日バカロードその44  運命の反り投げ
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     ある日、無性に揚げあんぱんが食べたくなり、パン屋さんに駆け込むと、運よくラスト1個だけ棚のトレイに乗っかっている。こんな幸運はあるだろうかとにんまりする。いくつかのパンとともに購入する。
     ホンダXR230にまたがり帰路につく。車高の高いオフロードバイクから眺める街の風景が好きだ。初夏の空気がジェットヘルの隙間からなだれ込む。左ミラーにひっかけたパン屋さんの袋が風にゆらぐ。
     単気筒エンジンの鼓動が腹に響くとともに、腸管がはげしく蠕動運動しはじめる。急速に空腹感が増す。頭の中で、さっき買った揚げあんぱんのことを考える。つやつやと油をまとわせた生地はほんのり温かい。歯をたてると表面の揚げた薄皮がシャリッとはかなく音を立て、中からジューシーな粒あんがほとばしるだろう。
     渇望感はむくむく膨れあがり、抑えることのできない欲望モンスターに変わる。揚げあんぱんを口にしたくて仕方がない。食べよう、今すぐ食べよう。数秒後の悦楽を想像して、大量の唾液をごくりと飲み込む。
     左手でクラッチレバーを握り、左足を蹴り上げてギアをサードに落とす。アクセルレバーを右手でコントロールし、時速40キロ程度に安定させる。ジェットヘルのシールドを上げる。左手で薄いポリエチレン袋に入った揚げあんぱんをおもむろに取り出す。いよいよだ。口元にパンを近づけ、かじりつこうと口を大きく開ける。
     その瞬間、親指と他の4本の指の間から揚げあんぱんがつるんと滑りだす。油に覆われた生地の表面とポリエチレン袋の間の摩擦係数は限りなくゼロに近い。ぼくの握力はその繊細な力関係を掌握できなかった。揚げあんぱんは唇をかすめて、相対速度40キロで後方に飛び去る。空を舞う揚げあんぱん。
     後方を振り返ると、アスファルトの路面にきつね色のパンが1個、ちょこんと鎮座している。それは実在する光景であるにもかかわらず超理念的な美術絵画のようであり、限りなく不条理な心象風景のようだ。
     揚げあんぱんを残したままバイクは走る。この身に起こった不幸な事態が飲み込めず、思考力は無になっている。落下地点より1キロほど離れたころ、落とした揚げあんぱんがどうなっているのか気になりだす。後方から車がどんどん来ている。パンはとうの昔に、大型SUVの高性能ブリヂストンタイヤに踏みつぶされペチャンコになっているに違いない。でも、そのままではいられない。急制動を効かせ右足を地面につき鋭くUターンをする。
     500メートル、400メートルと近づいていく。心の臓が高鳴る。ゆるいカーブを描いた道路の彼方にきつね色の物体がある。近づく。横を通り過ぎる。視界の隅で揚げあんぱんの状況を読み取る。無傷だ! 車道のちょうど中央部に落下したパンは、幾台もの後続車両の左右タイヤ間をかいくぐり続けたのである。再びUターンし、周囲の視線がないことを確認したうえ、路上のパンを拾い上げる。一点の傷もない、パン職人が形成したままの姿である。砂も埃もついていない。揚げ油がすべての塵芥をはじきとばしている。
     一度は手のひらからこぼれ落ちた揚げあんぱんを、いま噛みしめる。こんな美味しいパン、今まで食べたことあっただろうか。
      □
     ぼくはときどき我に返り、幸せの偏差値が低すぎることに唖然とする。
     男として生まれたからにはもっと大きな野望や到達点がないといけないのではないかとひとしきり反省する。
     朝鼻をかんだとき巨大な鼻クソがワインのコルク栓を抜くようにポンッと取れるたびに、夜寝ようとして枕の位置と後頭部がカンペキにフィットするたびに、限りない幸福感を覚えている場合なのだろうか(ぼくは、頭に合う枕を探し求めて12種類もの素材と形状の枕を布団の周辺に並べている)。
     不幸な出来事もレベルが低い。ランニング中に野良犬の脚を蹴ったためにワンワン執拗に追いかけられたり、電線もない場所で飛行中のカラスのフンが脳天を直撃したり、トイレで便座を上げるのを忘れて腰掛け、お尻が便器にはまったりと、毎日つまらない小事件にみまわれる。後生に語り継げるほどの大事件は起こらない。誰に言っても「ふーん、ほーなんじゃ」で終わる程度の出来事ばかりである。
     自分は今、この人生を四十数年生きているけど、もっと何か大きな衝撃とか、運命の分岐点はなかったのだろうか。ドラマや小説によく登場する「あのとき、自分はこうしていたら」っていう。
      □
     あった。1度だけあった。高校二年生のときだ。
     その頃ぼくは、プロレスラーをめざしていた。
     冗談ではない。1日にヒンズースクワットを1000回、カールゴッチ式腕立てふせを300回、ジャッキー・チェン式指立て伏せを100回。スクワットは「これ以上できない、という所からの1回が本当の練習の始まりだ」というジャイアント馬場の言葉を信じ、足下に汗の水たまりができるまでやった。
     電信柱を正拳で血が滲むまで殴る練習は漫画「空手バカ一代」に教えられた。本物の格闘家なら、パンチを放った際に電線に止まったスズメが落ちると描いてあった。
     家にあった白クマのぬいぐるみをスパーリング・パートナーとし、布団をリングに見立てて実戦正式の練習も積んだ。
     NWA世界ヘビー級チャンピオン、テリー・ファンクに、「いつかあなたのようなレスラーになります」といった主旨の手紙を書き、テキサス州の自宅にエアメールを送ったこともある。本人からではなく奥様から絵はがきの返事が届いた。冗談ではないのである。
     「週刊プロレス」「月刊ゴング」「週刊ファイト」、専門誌にはすべて目を通し、プロレス業界の動きを追った。各誌の編集長であるターザン山本、竹内宏介、井上義啓の名文に心躍らせた。
     試合結果を伝える熱戦譜の欄の片隅に、ときおり各団体の練習生募集の求人が出た。
    --------------------------------------------
     □△○プロレス
     練習生募集!
     格闘技、スポーツ経験者歓迎。
     身長180センチ、体重80キロ以上。
     心身共に健康であること。
     履歴書と写真(上半身、全身)を送付のこと。
     書類審査、体力テストあり。
    --------------------------------------------
     おおむね、このような内容である。
     体力テストの課目は、たまにレスラーのインタビュー中に出てくるので大体把握している。スクワット500回とか腕立て伏せ200回あたりである。また、マット上での受け身などの実技もあり運動センスを見られる。
     体力テストに関してはぼくの毎日の練習量より少ないから合格するに違いない。問題は体格である。身長が13センチ、体重も20キロ足りない。体重は食えば太るだろうが、身長ばかりは伸ばしようがない。大相撲の新弟子検査では、背丈足らずの中学生が頭頂部にシリコンを注射するという話を聞いたことがある。ぼくも来るべき入団検査の際は、どんな汚い手を使ってでも身長を伸ばさざるをえないと決意していた。
     機が熟せばいつでも練習生に応募できるよう、高校の生徒手帳に新日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレスの道場の住所をメモした。
        □
     その日は平日で、高校の授業の6時間目はさっさと辞退し、牟岐線に乗って徳島市立体育館にむかった。新日本プロレスの試合があるのである。当時、初代タイガーマスクが爆弾小僧ダイナマイト・キッドと抗争を繰り返し、長州力がはぐれ国際軍団と電撃合体し維新軍を結成するなど、空前のプロレスブームが巻き起こっていた。同級生たちも大挙して観戦に行くと張り切っている。だが、アントニオ猪木VSストロング小林時代からプロレスを見守り続ける自分にとって、最近ファンになった同級生たちとは会話のレベルが違いすぎて、お話にならないと感じていた。地上最強の格闘技でありながら人間の生き様をリングで表現する卓抜した舞台性。反骨、エゴ、嫉妬、暴力、正義と悪・・・人の深層に流れる感情や矛盾を、レスラーは一個の肉体と、研ぎ澄まされた言葉でみせる。ぼくにとってプロレスは人生そのものなのであった。だから急造ファンのくせしてリングサイド券などを買いくさった底の浅い同級生とは格が違うのである。本物のプロレスファンは二階席の最前列から俯瞰で試合を見守るものである。
     プロレス会場を訪れ、まずやるべきことは試合前の練習を見ることである。夜6時30分からの試合開始なら、選手たちは3時頃からリングを組み立てスパーリングを始めるのだ。プロレス生観戦歴の長いぼくは、徳島県内の主要体育館ならば、どの裏口や窓が施錠しておらず潜入可能か把握している。
     すかさず徳島市立体育館の裏手に回り、館内に忍び込んで二階にあがる。一階にはすでにリングが完成し、10人ほどのレスラーがスクワットをしたり、受け身をとったり、スパーリングをしている。
     メイン照明の消えた薄暗いリングで行われるレスラーの練習は、ふだん試合で見ている様子とはまるで違う。飛んだり跳ねたりの観客を沸かせる大技はいっさい使わない。ひたすら寝技、ひたすら関節技の応酬なのだ。
     おもしろいのは、試合では毎回負けているような初老とも言えるベテラン選手が、練習では圧倒的に強いのである。ふだんはテレビにも映らない前座レスラー・・・真剣に試合するわけでもなくコミカルなしゃべりで観客の笑いを取り、メインエベンター登場前の会場を温める役割を演じているベテランたちが、試合前にはスターレスラーをマットに這わせて、いいように弄んでいる。
     前座のコミックレスラーとして通に人気の荒川真が、仰向けに寝かせた若手レスラーの上に乗り、でっぷりした腹を相手の顔にのしかけて「ほら、逃げてみろ」と遊んでいる。若手は身長190センチはあろうかという大型レスラーだが、どれだけテクニックを駆使しても、暴れても、荒川真の腹から脱出できない。もがき苦しむ若手。荒川は、腹這いのまま他のレスラーと談笑しながら、ときおり若手の肘関節を極めて「マイッタ」をとる。本当に強い男、それは試合ではなく練習場にいる。
     2階席の片隅にしゃがんで、手すりの隙間から静かに練習を見つめる。それは至福のひとときであり、誰にもじゃまされたくない静謐な空間である。
     静けさが不意に破られる。二階席の後方がふいに騒々しくなる。
     「うわープロレスの練習しょんでーか、タイガーマスクおるんちゃうんか」
     「藤波おらんのん、長州おらんのん。おらんわ、知らんヤツばっかりじょ」
     「いけいけー、ドロップキックしてくれー」
     最悪である。現れたのは紫や黒のヤン服を着た金髪ドヤンキーの一群である。
     リング上と周辺にいるレスラーの多くがこっちを振り返り、ベテランレスラーが叫ぶ。「コラ、おまえら出て行け」
     よせばいいのにヤンキーが応戦する。「うわ怒っとーぞ。おまえらや怖わーないわー」
     最悪だ、最悪だこいつら。レスラーへの尊敬のかけらもない。なんでこんなクソ野郎どもがプロレス会場に来るのだ。
     すると、レスラーのなかで最も小柄な選手が、疾風のような素早さで階段の方へと駆けていく。
     「うわ、こっち来るぞ」とヤンキーどもは全員が逃げだす。
     ぼくは動かない。だってぼくは悪いことなど何もしていないのだ・・・開場前に忍び込んだこと以外は。
     若手レスラーが二階に躍り上がった頃には、こっちはぼく一人である。
     近づいてくるレスラーの顔、プロレス雑誌で見たことがある。若手の山田恵一だ。
     高校アマレスの有名選手からプロレスに転じ、メキシコで修行を積み、骨法など武道格闘技を取り入れたストロングスタイルを極める。そう、後にマスクをかぶり獣神サンダーライガーとなる男である。
     山田は、ぼくから20センチしか離れていない場所に仁王立ちする。そしてぼくのシャツの胸元をつまみあげ、首をぎりりと絞めあげる。キスできそうなくらい顔が近い。身長はぼくと大して変わらない。180センチじゃなくても入団できるのだ。細い一重まぶたの奥の瞳は、プロの看板を背負った圧倒的な自信に満ちている。
     「おいテメエ、レスラーなめんなよ」。かすれた声。ドスの効いた本気のセリフだ。
     だが、ぼくは気がつく。山田の脇がガラ空きになっているのだ。
     (殺るか?)と思う。
     今なら、こいつを投げられる。両脇から腕を差し込み、胸と腹を密着させて、背中の筋肉を総動員して後方にブリッジを決める。フロントスープレックス(反り投げ)である。相手は受け身を取れないまま、脳天から地面に叩きつけられる。下はコンクリートである。まさか高校生ファンが反撃に出るとは想定していない油断しきった山田なら、隙をつける。最強集団と謳われる新日本プロレスの若手のなかでも実力者とされる山田をここで投げ捨て、失神に追いこめば、ぼくは絶対にプロレスラーになれる。
     (殺るか?)
     全身の毛が総毛立ち、手のひらが汗に濡れる。古代から受け継いだ野生の本性である。体中の血管がマグマが脈動するように熱い。
     3秒、いや2秒。実際に流れた2秒の間に、ぼくの脳みそにはドーパミンが大量放出され、3週間分の試行錯誤と混沌と思索が行われた。
     山田は襟首から腕をほどき、ぼくの後頭部をパチンとはたいて「外に出てろ」と言った。そして歌舞伎役者よろしく振り返るとリングまで駆け降りていった。
     ぼくはすなおに体育館の外に出た。結局、山田に殺人投げを試みることはやめた。
     (今、ぼくが山田を完膚なきまでに投げきったら、彼のレスラーとしての未来を奪うだろう。そして最強集団・新日本プロレスの看板に泥を塗ることになる。だから今日のところは自重する。それが大人としての判断だ)
     そしてぼくは体育館の前で2時間くらいぶらぶらし、他の観客と同様に列に並んで正面入口でチケットを切ってもらい入場し、メインイベントが最高潮に達する頃には観客と声を揃えて「イノキコール」をおくった。それがぼくの居る場所。
     2階席からはデビュー前の練習生である山田恵一の様子がよく見えた。観客が投げたカラーテープを片づけたり、ビール瓶に入ったうがい水を運んだり、ロープのたるみを直したりしていた。コーナーポストの下から、先輩の試合を真剣なまなざしで見つめていた。それが彼の居場所。
     すべての試合が終わり、群衆とともに徳島駅に向かう。ポッポ街を歩きながら、ぼくはぼく以上になれる人生最大のチャンスを失ったことに気がついた。未来は自動的には変わらない。自分の手で変えなくてはならないのだ。大きな分岐点は何の前触れもなく目の前にポンと差し出される。その深い谷を飛び越える勇気のある人だけが、未来を変えられるのだ。
     世界は、変わる予感に、まったく満ちてはいなかった。
  • 2012年04月17日バカロードその43 小豆島・寒霞渓ウルトラ遠足(とおあし)100キロ参加記 だからやめられない
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     午前4時、身震いする寒さ。
     夜明けまでは遠い。谷あいの夜の底の一角だけ人工の光が満ちている。気の早いランナーたちが装着したヘッドランプが照らす先。頭を動かすたびに白い輪が壁や地面に揺れる。どこかで熊よけの鈴がチリンチリンと鳴っている。小豆島に熊はいないはずだが山猿対策なんだろか。
     ウルトラマラソンがはじまる直前の独特の空気。張りつめた緊張感はない。自分がどうなってしまうのか想像もつかない100キロという距離。長い長い一日にどんな物語が生まれるのか。なるようにしかならないという無抵抗の境地。
     全ランナーの浮かれたつ気分が溶けあって、気温とはうらはらにムンという熱気が伝わる。
     主催者である海宝(かいほう)道義さんがマイクをとって挨拶をはじめる。
     ・・・中間エイドを50キロではなく41キロ地点に設けたのは、そこまで行く道が過酷であるため。80キロ過ぎに大きな崖崩れがありランナーは1人ずつしか通れない。夜間は危険であるため、遅くなったランナーは崖崩れポイントを迂回するショートカットコースを採る。この大会はタイムレースではない。先導車両はいないため先頭ランナーは自分で道を探す。そして、第一回大会である今大会が、地元の支援を受けて来年以降も続けられるかどうかは、ひとえにランナーの走りにかかっている。−−−
     いつもながら海宝さんには生の力強さが溢れている。どんな困難も笑って乗り越えてしまう明るさを放っている。海宝さんは日本人として初めて北米大陸横断レースを2度完走したウルトラランナーであり、一方で宮古島、しまなみ海道、さくら道などウルトラランナーに高く評価される大会を運営している。大会名に必ず冠される遠足(とおあし)とは、江戸時代に武士を鍛錬するために行われた長距離レースの名称である。
     カウントダウンの掛け声ともに定刻午前5時が訪れ、552人のランナーは先を争うことなく、静かに長旅の幕開けとなるスタートラインを越える。
     直後からはじまる急坂の両サイドには幾十ものロウソクの灯りが点されている。質素だけど、ぜいたくな気持ちにさせられるお見送りである。小さく揺れる炎に導かれ高度を上げていく。
     短いトンネルを抜けると池田港をとりまく商店街に入る。横を走っているのはサハラマラソン完走者の上土井さん。明日行われる京都マラソンの前日受付に間に合わせるため、夕方4時すぎのフェリーで神戸港に向かわなくてはならないと言う。ってことは遅くとも10時間以内でゴールしないといけないってわけか。「100キロの次の日にフルとか、アホですね」と最上級の誉め言葉を贈る。フル2時間50分の実力者はキロ5分でもゆっくりペースらしく楽しく話しかけてくれるが、ぼくは息が切れて返事できない。「早すぎます、早すぎます、こんなペースじゃ後半ツブれてしまう」と歩みを遅くする。
     商店街を抜けると暗闇の山道。いくつも分岐が現れる。道を間違えないため、他のランナーからはぐれないよう気をつける。前方に5人の集団が見えるがペースが速い。だが後ろを振り返るとヘッドランプが1個、見えるか見えないか。必然的に前を追わなくてはならない。標高180メートルの峠をエッチラオッチラ登り、急な下り坂を駆けおりる。北米横断レースで学んだ「脱力下り走」でもって休憩しながら筋力の回復を待つ。「脱力下り走」とは、脚にいっさいの力を込めず、ただ足の裏を前方遠目に振り出して重力の赴くままに坂を下る方法だ。これをやってる間に登り坂で急上昇した心拍数は平静値に戻り、大腿の筋肉から乳酸がすみやかに除去できる(気がしているだけ)。
     ブレーキングの概念がない脱力走は自分の能力以上にスピードが出る。前方の集団を追い越してしまったため目標物がなくなり、道の分岐点では慎重に地面に朱書きされた矢印を追う。ふたたび180メートルまで登ると夜がしらじらと明ける。前にも後ろにもランナーの姿が見えないため道が合っているのか心配になりだした頃、10キロのエイドが現れひと安心する。花粉症で鼻水がたれているぼくを見かねてスタッフの方が「はい、鼻かんでくださいー」とテッシュペーパーをくれる。テーブルの大皿には真っ赤な大粒イチゴが山盛り。いくらでもどうぞ、という言葉に甘え6個ほど口に放り込み、エサをほおばるハムスター的な膨らんだ顔でエイドを出発する。「前に20人くらいしかおらんよ」と聞き、マズいマズいまた暴走気味だとさらにペースを落とす。
     山麓まで快適なダウンヒルを楽しみ、小豆島一の繁華街である土庄の商店街に突入。といってもまだ午前7時前ゆえお店はどこも開いていない。早朝の見知らぬ街を旅人気分で散策ランしたのち、大型リゾートホテルの建ち並ぶ海沿いの国道436号線に出る。干潮時に沖の小島と砂州でつながるエンジェルロードは「恋人たちの聖地」とされ観光新名所だが、あいにく走路からは若干離れている。汗ドロドロのオッサンが1人で訪れる場所でもないから別段気にしない。
     20キロを1時間55分で通過。疲労感はまるでなく、半年ほど悩まされてきた脚の甲の痛みもない。この調子でいけば10時間を切れる・・・わけないかと思いつつ、密かに奇跡を期待する。
     島内放送のスピーカーから大会に関する説明が流れる。「本日、島内を100キロ、ウォーキングする大会が行われています。応援をよろしくお願いします。車の通行にはくれぐれもご注意を」といった内容。そうか、車道じゃなくて歩道を走る建前上、行政的にはウォーキング大会ってことになってるのね。しかしウルトラマラソンの大会ってたいてい人の気配のない田舎道を孤独に走るのが定番だから、島あげての応援態勢ってのが嬉しくも慣れず、背中がむずがゆい。
     20キロすぎから再び山道に入り、細かなアップダウンを繰り返す。ときおりエーゲ海の村落のような風景が現れる。山腹に広がるオリーブ畑、白い風車の塔、さすがギリシャのミノス島と姉妹島を提携してるってだけある。
     32キロでいったん海岸沿いに出ると、すぐにキビスを返し、険しい山岳が連なる島の中央部へと向かう。小豆島随一の景勝地である「寒霞渓」を目指すのだ。だらだらとした登り坂は徐々に斜度を増し、前方に天を衝くがごとくそびえ立つ垂直の絶壁が近づいてくる。併走するランナーと「あのテッペンまで行くんですよねぇウフフ」「きっとそうなんでしょうねぇウフフ」とマゾ感たっぷりに微笑返しする。
     絶壁ばかりに見とれてはいられない。なぜか路上はウンコだらけなのである。鹿の仕業か猿の脱糞か。とにかく恐るべき量のウンコが足の踏み場もないほど転がっている。ランナーにとって命の次に大事なシューズでグニョリと踏んづけないよう細心の注意を払う。
     ロープウェイの山麓駅・紅葉亭に突き当たると、そこからは優雅にロープウェイに乗車し、天空から奇岩が林立する風景を眺められる・・・わけはなく、裏手の遊歩道というか完全なる登山道に入る。ロープウェイ山頂駅まで標高差312メートル。つづら折れを50回、いや100回くらい繰り返して高度を稼ぐ。樹林の陰にちらほら見えるランナーたちの大半は走るのをあきらめ歩きに徹しているが、モーレツな勢いで駆け上がっていく荒武者もいる。生粋のトレイルランナーならタッタカ登れるんだろうけど、こちとら息をゲボゲホ言わせて歩くので精いっぱい。35キロまで10時間切りペースで順調に走っていた頃の淡い夢はいまや露と消え、1キロ16分台まで落ちる。こりゃダメだ〜。
     道のすぐ脇に大猿が腰掛けている。その距離3メートル、逃げるそぶりもなくじっとこちらを見つめている。(こいつら、朝っぱらから何やってんだ?)という上目線の表情だ。ニャロメ!
     40キロの表示とともに樹林帯を抜け、ロープウェイ山頂駅がある観光スポットらしき広場に着く。ようやく41キロの大エイドステーションである。スタート前にあずけた荷物袋からチューブ入りのワセリンを取り出し、股間に塗ろうと試みるが、寒さのためジェル状のワセリンの粘度が増し、どんなに握ってもチューブの穴から出てこない。
     少し休憩をしようかと思ったが、動きを止めていると寒くて仕方がない。エイドに用意されたオニギリを3個口に投げ入れ、スポーツドリンクで流し込みながら、早々に出発する。
     ロープウェイ駅の横に、煉瓦仕立ての豪華な建物がある。美術館かな?と自動ドアの外から覗きこむと公衆トイレだった。噂の冷暖房つきのゴージャス「1億円トイレ」である。これは試さざるを得ないと、1億円分のリッチさを味わいながら存分に用を足す。
     寒霞渓の周遊道路をさらに登る。太もも、おしり、ハムストリング、ふくらはぎ、すべてがパンパンで、ぎこちなく走る。
     車道の両側に残雪がつきはじめ、しだいに積雪量が増していく。気温はいったい何度なんだろう。きっと0度前後なのではないか。標高は700メートル超。瀬戸内海の温暖な気候を想像していた身に寒風が吹きつける。
     45キロのエイドが遠くに見えると、スタッフの方が何ごとか叫んでいる。「焼き鳥ありますよー!」「名物、焼き鳥食べてってくださーい」。近づけば、炭火コンロの上に串に刺さった数種類の焼き鳥がタレの輝きも眩しく焼き上がっているではないか。しかも「ビールもありますよ。一杯いかがですか」と魔のささやき。迷うことなく焼き鳥を右手に、紙コップに満々と注がれたビールを左手に炭火居酒屋気分を満喫する。残雪の中、一気飲みするビールのうまさったらありゃしない! おかわりの誘惑を振りきり、さっきとは別人の元気さでエイドを飛び出す。水分枯渇した五臓六腑にアルコールが染みわたり頭クラクラ。「ゼッコーチョー中畑清です!」と控えめに叫ぶ。中畑清的ハイテンションで前ゆくランナーをガンガン追い越していく。麦ホップ・パワー全開である。
     10キロ以上つづく果てしない下り坂では、またもや秘技「脱力下り走」を投入。脚と循環器を休ませながらキロ5分台でパカパカ下る。
     後方から名前を呼ばれるので振り返れば、昨夏、北米横断レースでサポートクルーをしていただいた浪越保正さんがいた。70日間にわたって、ずっとぼくの走りを支えてくれた恩人と、初めてランナーとして併走できることに感激する。浪越さんは来るべき今夏のトランスヨーロッパ・フットレース2012(デンマーク〜ジブラルタル海峡間4175キロ)に出場される。今年に入ってからも九州縦断や沖縄本島一周を行うなど脚づくりに余念がない。現役のスーパー・ジャーニーランナーについていけるはずもなく、3キロほど併走させてもらい軽く置いていかれる。
     標高差700メートル分を下って内海湾岸の国道に復帰。このあたりには醤油工場が点在し、観光客向けに土産物店やソフトクリーム売り場を開いている。醸造された醤油の香ばしい匂いと「醤油ソフトクリーム」の看板や模型。しまった、小銭をしのばせてくればよかった!と前を通るたびに後悔する。
     60キロからは「二十四の瞳映画村」が先端近くにある田浦岬の海岸線を行く。早くも65キロ地点の折り返しを経てきたトップクラスのランナーとすれ違う。ギリシャで行われているスパルタスロンで何度かお会いした著名ランナーの方々が声をかけてくれる。こんな山岳コース込みの100キロを8時間台から9時間台前半のスピードで走ってるのに、立ち止まって挨拶までしてくれる。もー、圧倒的な力の差である。
     この頃から寒霞渓に登ったダメージが現れはじめ、ストライドが全然伸びなくなりキロ7分台に落ちてしまう。こりゃ9時間台どころか10時間台も厳しい。先はまだ40キロ近くある。ガムシャラに走って6分に戻すか、ツブれないよう7分台でトコトコいくか考えてみるが、選択の余地もなく脚が動かない。岬を往復し70キロを越えると脚はほとんど棒。幹線道路のため交差点が多いのをいいことに、わざと赤信号に引っかかるタイミングで走り、「赤信号だから止まるのは仕方ない。ほなって交通ルール守らないかんし」などと見事な言い訳をつくりながら信号のたびに地べたに尻をついて休憩する。
     75キロの大エイドでは、島の美しいお姉さま方の「食べなさい食べなさい」攻めを全面的に受け入れ、ぜんざい2杯、みそ汁、オニギリ3個、まんじゅう2個、パン、イチゴ5個、はっさく、ほか食料を大量に胃に落とす。
     血糖値急上昇でフラフラさまよい走る姿を見かねたか、地元の方々が何度となく話しかけてくれる。「朝5時から走ってるんでしょう。大変ねえー」「75キロも走ったの。偉いわー。あと25キロがんばって」「小豆島はいいとこよ、美味しいもの食べていって」。
     78キロあたりで疾風を放ちながら追い越していく女性が登場。サロマ、宮古島、サハラといろんなレースで出会っては励ましあうランニング仲間、生稲裕子さんである。「なーんか地元の人と楽しそうに話しして、手ぇふったりして芸能人みたいだね〜」とニカニカ笑い、豊かなつけまつ毛をそよ風になびかせている。「私、ちょっと前からラストスパートに入ってるから、お先に〜」と余裕を見せつけて去っていく。どんどん離れていくド茶髪でドピンク・ウエアな背中を遠くに見送りながら、突如として、猛然とハートに火が着く。
     (うぅ、この人には負けれん。あと22キロ、全力でいったる〜!)
     ギアを全開にしキロ5分ペースに戻す。ゼーゼー唸りながらハーフマラソン的全力疾走を開始。なんだまだ脚は動くじゃないか。やっぱしウルトラは筋肉で走るんじゃなくて気持ちで走るもんなんだな。「うりゃー」と生稲さんを追い越すと、前方のランナーをつぎつぎに捕らえては鮮やかに抜き去る(ま、皆マイペースで走ってるから追い抜くことに価値はないんだけど)。
     瀬戸内海の四国本土側に、象の鼻のように突き出した三都半島をぐるっと一周20キロゆけばゴールなわけだが、ここが最後に用意されたクライマックス。平坦な道はほとんどなく、100メートル程の尾根筋を3度、4度と越えていく。いつ果てるともない急坂を心臓をバクバク収縮させて登りきれば、ヒザをガクガク震わせて下る。今日は一日中こんなことやってるな。苦しいはずなのに、なんとなく楽しい気分に満たされていく。そういや、この半年は脚の故障でまともに走りきれたレースなんて一本もなかった。フルマラソンでは5時間以上かかり、ウルトラは早々にリタイアか、完走してもビリ近くか。脚の痛みなく走れるのは何百日ぶりだろう。
     追いついたランナーと声をかわす。「最後の最後までこんなに登らせやがって」とぷんぷん怒っているオジサンも、「もう脚がぜんぜん動かないです。これがウルトラなんですね」と泣きべそかいてる若者も、なんだか楽しそうである。みんな朝から晩までアホほど走って、身体じゅう傷めて、それで満足してるなんてね。ほんとうに愉快な人たちだ!
     岬が気候の分水嶺になっているのか冷たい風が吹きぬける。最後の小山を越えるとゴール会場の「小豆島ふるさと村」が視界に入る。夕陽が瀬戸内海の海原を薄紅に染めている。フィナーレにふさわしい情景じゃないかと感慨に浸る。だが曲がりくねった道の先を目を凝らし追うと、遠く会場の向こうの山の中腹まで、大回りして走らされるみたいだ。わはは、まだ終わりじゃないのか。サディステック極まりないな!
     やっぱしウルトラマラソンって楽しすぎる。ゴールしてしまうのがもったいないぞー!
     

  • 2011年12月28日バカロードその42 100キロマラソンへの誘い
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     78万人徳島ウルトラマラソンランナーの皆さん、いよいよウルトラのシーズン開幕ですよ!
     ナニ、ちょっと気が早いんじゃないかって? いやいやそんなことありません。100キロレースは5月〜6月に集中しており、エントリーは主に1月から始まります。
    気分的には完全開幕パンパカパンです。6月までに開催される主要100キロレースをあげてみます。

    1月15日 宮古島100kmワイドーマラソン(沖縄)
    3月10日 小豆島・寒霞渓100kmウルトラ遠足(香川・初開催)
    3月24日 伊豆大島ウルトラランニング(東京)
    4月22日 奥熊野いだ天ウルトラマラソン(和歌山)
    4月22日 チャレンジ富士五湖(山梨)
    5月20日 星の郷八ヶ岳野辺山高原100kmウルトラマラソン(長野)
    5月27日 えびす・だいこく100キロマラソン(島根)
    6月02日 しまなみ海道100kmウルトラ遠足(広島・愛媛)
    6月02日 阿蘇カルデラスーパーマラソン(熊本)
    6月10日 飛騨高山ウルトラマラソン(岐阜・初開催)
    6月10日 いわて銀河100kmチャレンジマラソン(岩手)
    6月17日 隠岐の島ウルトラ100km(島根)
    6月24日 サロマ湖100kmウルトラマラソン(北海道)

     ハァハァハァ、よだれがたれてきませんかー! 極上の美肉が何種類も目の前に差し出されてる状況ですよ。あたしを食べてと脂をしたたらせているんです。たまらんたまらん。
     42キロのフルマラソンでもなく、250キロのロングディスタンスでもない。100キロには独自の魅力があります。100キロがどうしてそんなにヨイのか。基本的なとこから押さえていきましょう。
     まず、心拍数をそんなに上げなくてもいいってとこが魅力です。
     フルマラソンに参加するランナーは達成すべき目標タイムを胸に秘めてレースに挑んでいます。自己ベスト記録を目ざすなら心肺を強烈に追い込んだ状態で3時間、4時間と走る必要があります。心拍数だと150〜180拍/分くらいかな。日常生活では経験しないレベルの負荷を心臓にかけてます。重い敷き布団を庭に日干しするくらいの労働では心拍はこんなに上がりません。有酸素と無酸素のボーダーを綱渡りし、息もたえだえ、オノレの限界を超える! フルマラソンにもいろんな楽しみ方あるけど、それなりに走り込んだランナーの42キロという距離への向かい合い方はこうだと思う。
     一方、100キロマラソンの運動負荷は120〜150拍/分で十分です。これより心拍数を上げてしまうと、半分の50キロも行かないうちに潰れてしまいますから。120拍/分程度の強度の運動なら、周囲にいるランナーとチンタラ会話をしながら走り続けられます。このイージーさが良いのです。
     フルのレース中、1キロのペースが3秒遅れるだけでショックを受け、挽回を期して走っているランナーに対して、「そのシューズ超かっこいいですね、おろしたてですか?」とか「次のエイドって、アンパンありましたかね。ぼくは粒あんに目がありませんでねぇ」なんてのん気に話しかけたらひんしゅくです。
     100キロマラソンではフルほど追い詰められた雰囲気がないため、レース中盤以降は周囲のランナーと世間話を交わしながら走る場面が増えてきます。今まで出場したレースの思い出に始まり、ゴール会場に生ビールが売ってるかどうか、愛娘が連れてきたイケ好かない男の話まで、いろんなテーマを語りあい共にゴールを目指します。
     70キロすぎて周りにいるランナーとは、抜きつ抜かれつの関係になります。ここまで同じペースってことは走力的には似通ったものだから、「お先に」と恰好よく先行したつもりでも、何キロか先で「また会いましたね」と追いつかれます。同じ走力のランナーとは、別の大会でも似たような位置を走ることになり、何度か再会を果たすうちに戦友と化していきます。
     市民マラソンブームはウルトラマラソンの世界にも波及していて、最近はメイク直ししながら走ってるギャルやら、ふだんは引きこもっているというニート君もいてバラエティに富んでいます。基本的にはマァ、ハイテンションで元気でユニークな人たちです。住んでる場所も、人生の歩み方も違う、マラソンでもなけりゃ絶対に遭遇することのない人たちと、旧知の仲のようになっていきます。
     そんな100キロでも、一応ランナーたちは目標タイムを設定しています。時間内完走が最初の大きなハードルです。100キロレースの制限時間は長い大会で16時間、いちばん短いサロマでも13時間です。途中、歩きを交えても、諦めなければ達成できるタイム設定です。特別に屈強な身体やスピードを持っていなくても、休まずにトコトコ走り続ければ、誰しもが完走しウルトラランナーという称号を得ることができます。がんばれば達成できる目標だけど、相当がんばらないとゴールまでたどり着かないというスレスレ感が人の情感を強く刺激するのかもしれません。実力のある人は、サブイレブン、サブテン、サブナインと、1時間刻みで目標を上げていきます。10時間を切り9時間台に突入する「サブテン」はウルトラランナーにとって大きな勲章ですが、フルマラソンのサブスリーほどの難関ではありません。キロ6分を淡々と刻んでいけば達成できる記録です。研ぎ澄まされた運動能力がなくても、がまん強さや地足の強さでカバーできます。サブテンをクリアした暁には、まだ達成していないランナーから「サブテンですって、すごい!」と一瞬だけ尊敬してもらえる場面があるのが嬉しいところです。一瞬ね。更にその上の8時間台に突入する「サブナイン」は、一般ランナーには雲上の世界です。フルのサブスリーに匹敵する難易度でしょう。
     100キロのベストタイムを狙いたい時は、コースがほぼ平坦なサロマを目標レースにする人が多いようです。一度サロマで出してしまった記録を、他の大会で塗り替えようとすると大変です。フラットコースの大会は他には思い当たりません。100キロの大会の多くは、コース中に大変な山越えが組み込まれています。標高500メートル級の峠越えや、累積標高1000メートルを超すアップダウンが待ちかまえています。ただでさえ距離が長いのに、見上げるような登り坂や、ヒザが砕けるかという下り坂を走らされるわけですが、ウルトラランナーたちは坂道が好きな人が多いように見受けられます。前方に峠道を発見したら盛り上がっている人が少なからずいます。ぼくも最初は何が楽しいのかわかりませんでしたが、今は坂道が好きです。何か大きな壁を乗り越えたいから、誰に頼まれもしないのにわざわざ100キロなんて走ってるわけで、そんな性癖の持ち主なら、急坂はアンジェリーナ・ジョリーのくちびるぐらい魅力的に見えているのかも知れません。
     100キロの大会では市街地を走ることはほとんどありません。海岸線や山岳地帯や田園の中の細い道を、交通ルールを守って走ります。走るのは車道ではなく歩道部分です。競技にかかる時間が長すぎて、一般車道を通行止めにして行うフルマラソンのようにはいかないからです。当然、交通規制はされてないので車がビュンビュン横を走っています。もし交差点の赤信号に差しかかったなら、行儀よく青信号を待たなくてはなりません。だからあまりアセッてタイムを狙っても仕方ないのです。
     そんなのんびりした100キロマラソンでも、さすがに60キロ、70キロを越えたあたりから身体のあちこちが悲鳴をあげはじめます。壊れやすい部位は、ヒザ、股関節、足首、足の裏あたりでしょうか。ちょっと太めの人は、揺れつづけた腹の脂肪と筋肉のつなぎ目が痛いなんて言いますし、下をうつむいて走る人は首の後ろがカチコチになります。腕ふりを力強く続ける人は二の腕に筋肉痛が起こります。衣類と皮膚がこすれやすい股間、おなか、脇の周辺は、赤く衣擦れし、ヤケドみたいにヒリヒリ痛みます。
     標高の高い場所や吹きさらしの海辺を走るため、気候の変化も激しいです。30度を超す酷暑、残雪を横目に走る酷寒は通常コンディションの範疇です。土砂降りの雨でも身体が浮き上がる大風でも、大会が中止になることは滅多にありません。
     苦しさのあまり何度も走るのを止めようと思い、自分を納得させられるリタイアの理由を考えます。ちょろっと足を踏み外して崖から1、2メートル落ちて、捻挫してみようかなんて危険な考えを抱きはじめたりします。時折、追い越していく選手収容バスの車中に、関門で引っかかったランナーの影を見、羨望のまなざしを送ったりします。収容バスに憧れるあまり、ちょっとペースを落として、わざと関門に引っかかってみようか、なんて悪い心も芽生えます。100キロレースでは、自分の心の奥底にしまわれていたダメな部分がすべて白日の下にさらけ出されるのです。そのたびに「自分はこんなに弱いのか」とガッカリします。それでもあきらめずに走り続けているうち、「自分はこんなに強いのか」と若干見直してみたりもします。
     ゴールしたときの気持ちは、100人おれば100通りの感慨があると思います。ぼく個人としては、毎回ガッカリしながらゴールラインを越えています。専門のカメラマンがゴールシーンを撮影してくれているので、せっかくだしガッツポーズは取りますが、「あーあ、またダメだった」と思いつつ手をだらしなく挙げています。そそくさと前に進むと、地元の女子高生が完走メダルやタオルをかけてくれます。なぜかたいてい可愛い女子高生です。男性ランナーへのサービスなんでしょうね。その辺に空き地を見つけたら「もう走らなくていい」と嬉しくなり地面に倒れます。寝転がっているとすごく気持ちがいいのですが、5分もすれば気持ちよさも薄れ、ついでにレース中の苦しさも忘れ、「次だ次だ次だ、今度こそちゃんと練習して、まともに走りきってやる!」といきり立ちはじめます。そしてヤケ酒がわりの生ビールを探しにいきます。いつだって不完全燃焼、それがぼくの100キロです。
     いつの日か心の底から突き上げるガッツポーズをたずさえてゴールテープを切れる日が来るんでしょうか。今年こそやれる!と根拠なく信じている自分はバカなんでしょうか。日々、大会要項を見比べては目標レースを決める勇気なく、ランネットを閉じたり開いたり。スタート地点やゴール地点に近い安宿を見つけたり、格安で行ける交通手段を探し出したりしてほくそ笑む。そんなこんなで100キロマラソン・シーズンが静かに幕を開けるのでした。
     
  • 2011年12月20日バカロードその41 脱力100キロ
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     大雨・強風注意報発令中。
     島根半島に台風2号が迫っている。
     重量のある雨がパチパチとアスファルトを叩き、ちぎれた黒い雲が真横に吹き飛ばされていく。スタートラインに並んでいるだけで濡れネズミだ。もはや雨よけの手段を考える必要もない。ポリ袋をかぶろうと雨合羽を羽織ろうと、5分もしないうちに滝行の修行僧になるんだから。
     「注意報が警報に変わればその時点で中止とします」と、マイクを持ったずぶ濡れの主催者が説明を繰り返す。

     毎年5月下旬に島根県北部で開催される「えびす・だいこく100キロマラソン」は今年で18回を数える歴史ある大会。
     スタートは日本海沿岸の小さな港町・美保関。青石畳の小路が民家の間をぬう乙女心キュン風情の漁師町だ。コースの前半は入り組んだ海岸線が続く島根半島を大横断する。碧い海原の彼方に隠岐の島を見やり、断崖のヘリを戦々恐々進んだかと思えば、低周波音を唸らせ稼動する島根原発の3つの巨大建屋を直下に見下ろすスペクタクルも用意されている。150メートル級の3つの峠が最大の難所とされているが、それ以外の道が平坦なわけではない。全コースにわたって数十メートルのアップダウンを繰り返し、累積標高差は1750メートルに達する。
     過酷なコースとは裏腹に、この大会が大学スポーツサークルの合宿地のような明朗闊達なムードに包まれているのは「チームリレー」という競技があるためだ。5人以内のメンバーで駅伝のようにタスキをつなぎ100キロを走る。リレーメンバーは何度も交代でき、1人が何キロ担当してもよい。先頭チームなんて、短距離で次々と入れ替わりキロ4分の猛スピードで駆けていく。このリレー参加者たちが大会の雰囲気を華やかにしているのだ。なんせふつうのウルトラの大会ときたら、常軌を逸した走り込みをこなし、鶏ガラ級に肉体を絞り込み、弱音など吐いてたまるかコノヤロー的な紳士淑女が全国から大集結している。それに比べてオシャレなチームシャツを揃えたりなんかした女子大生たちが、黄色い嬌声をあげつつ100キロと戦っている姿なんて、レモンとライムとシロップたっぷりの清涼剤。最近の女子大生なんぞ街で見かけてもアイメイクの濃ゆさに頭痛を催すだけだが、ストイックきわまりないウルトラの舞台なら瑞瑞しさ、光沢感が違う!

     それにしても台風の中、走るのってこんな痛快なのか。
     ぼくだけじゃない。追い越し、追い越されてゆくランナーの多くが、楽しくて仕方がないって表情だ。
     子供の頃、台風が来たら外に出たくてたまらなかった記憶って誰しもあると思う。その場跳びすれば1メートルくらい着地点が違ってしまう抗しがたき自然の圧力。稲妻が空を裂き、遠くの山に雷がドンと落ちる。ドブは溢れかえり、田んぼと道路の境界線がなくなって、茶色い沼地ができる。子供はそんな大自然のパワーを全身で受け止めたい。いや、実は大人になってもたいして変化ないのかも知れない。
     嵐を衝いて外ではしゃぎまわっておれば、ご近所衆に頭イカれてるのかと疑われる。だがマラソンレース中なら暴れ放題だ。峠のてっぺんからイャッホーと叫んで坂を猛ダッシュで下れば「気合い入ってるね!」と誉められる。まったくただアホなだけなのにね。ウルトラマラソンって何て都合のいいスポーツなんだろう! 笑いを抑えられない。完全に笑いながら走っている。世の中いろんな最新レジャーが開発されてるけど、こんな面白いことってあんのかな。

     この100キロには、ひとつのテーマをもって挑んだ。
     「脱力」である。
     身体のどの部分にもいっさい力を入れない。心拍数を上げず、平常の呼吸リズムを維持する。100キロを走り終えても筋肉や心肺にダメージを残さない。そのままのペースで200キロ、300キロと走り続けても絶対に潰れない、との確信を持てるスピードはどこかを探るのだ。
     力を入れず走るってのは、具体的には着地時と蹴り出し時に筋肉を固めないってことだ。大腿部や腹筋などの筋力を動員して身体を前に持っていくのではなく、骨格のバランスによって身体を平行移動させる。重心を心もち前傾に・・・垂直立ちの位置からわずか数度前傾させ、引力に導かれるままに走る。フルマラソンレースのように足底を地面にパンパン叩きつけない。地面からの反発力で前方に飛んでいくのではなく、軽く、そよ風のように路面を撫で、ふわふわ移動する。
     今月スタートする北米横断レースでは「絶対に潰れてはならない」のである。疲労困憊してはならない。その日ゴールできても、翌日起き上がれないのではダメなのだ。毎日80キロ踏破しても、翌朝にはピンピン跳ね起きるくらいの余裕度をキープしなくてはなけない。
     ひとことで「潰れる」と言っても、多様な症状を指しており、原因も結果も異なる。
     心肺能力の限界を越え、乳酸処理が間に合わなくなった「もうぜんぜん動けん」か。
     脱水により体内の鉄分が失われた貧血めまいフラフラ状態か。
     ミネラルが奪われ全身の筋肉が攣りまくってるヘンなオジサンか。
     小腸からのカロリー吸収が運動消費カロリーに追いつかない「ガス欠」か。
     数万歩の歩行の繰り返しによって筋肉損傷が限界を超した針の山ランニングか。
     胃酸の過剰分泌によって嘔吐が止まらず、消化不良で栄養吸収が追いつかない哀しみのゲロゲロか。
     いずれにせよ、どの状況も遠慮したい。1日だけのレースなら根性で乗り切れる。だが連続70日間のステージレースではアウトだ。
     潰れる原因の大もとをたどれば、心拍数の上げすぎなんだと思っている。たとえば1000メートルのインターバルで心拍数をマックスに追い込めば、後半500メートルはとてつもなく長く感じる。脚は鉛を仕込んだように重くなるし、ゴールすれば胃液も出ない空ゲロをオェオェ吐く。だが心拍数さえあげなきゃ100キロといえど、長い距離と感じずにすむ。
     今日はそれを実証できた。潰れることなく、休むことなくキロ6分30秒で淡々と進む。
     出雲大社の門前町である神門通りを駆け下りゴールする。タイムは10時間52分。土砂降りの雨を降らす天に顔を向け、「ショーシャンクの空に」のアンディ・デュフレーン気取り。
     ゴールの後には、江戸時代から営業される歴史ある純和風旅館「日の出館」で休憩できる。超ぬるま湯の岩風呂に身体を浮かせ、湯上がりには大広間でゴロゴロ惰眠を貪れる。まったく、ランナーの幸せポイントを的確についてくるではないか。
     この大会は、自己責任原則をうたってはいるが、実際はスタッフ数も多く、エイドは豊富。曲がり角、分かれ道の交通誘導は丁寧すぎるほどに手厚い。自治体や警察の協力体制も取れている。国道の電光掲示板にはマラソンの告知がされ、コースと並行して走るローカル路線・一畑電車にはゼッケンを見せるとフリー乗車までできる。いつでもリタイアできるって安心感?ありだ。
     参加料は6000円。「大会参加賞は全国一安く?」とパンフにも謳われているが、1万5000円前後が相場のウルトラマラソンにあって、とても潔ぎよく感じる。
     完走証や完走メダルはない。前夜祭・後夜祭などの華美な装飾イベントも催されない。流行りの計測チップもないけど、ちゃんとゴール時間はスタッフが計ってくれる。何の問題もない。本来、ウルトラマラソンの大会はこうあるべきなんだ、という姿勢をきっちり見せてくれる素敵このうえない大会だった。

     さて準備は整った。
     6月19日、午前5時30分。ロサンゼルスの南50キロ、サーファーの聖地ともいえるハンティントン・ビーチの砂浜で、太平洋の海水に片足をひたしたのち、北米大陸横断の旅に出る。5135キロ彼方のニューヨークにたどりつくまで絶対に潰れることはない。
     「道はどんなに険しくとも、笑いながら歩こうぜ」。
     わが人生、ここぞというときは絶対に猪木語録の登場なのだ。
  • 2011年12月20日バカロードその40 なにもない美しい世界
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     最近、春からの採用を約束した学生からこんな質問が出るようになった。「貴社は内定式をしないんですか?」。
     はぁ?内定式とはいったい何ぞや。
     大学を出てないぼくは当然就職活動もしたことないので、この辺の常識が著しく欠落している。学生がそんなに心待ちにしている行事とは何だろうかとさっそく調査にあたった。調査は約15分で終わった。それなりに名前の通った会社では、10月に内定を出した学生を集めて「内定式」ってのをやっているらしい。
     典型的な1日のスケジュールとしては、まず人事部長や社長さんから訓辞が行われ、お返しに学生代表が宣誓文を読み上げる。1人ずつ名前を呼ばれ、代表者印の押された内定書をうやうやしく授与されたりする。そして、ちょっとフランクな雰囲気を演出しながら諸先輩方より就職の心構えなんかが説明され、いよいよ夕方からはメインイベントである懇親会、つまり若手社員と内定者が居酒屋やパーティルームに移動し、会社の金をふんだんに使って飲みニケーションをとるらしい。
     なるほど。しかし、わざわざ遠方から学生さんを呼び寄せて行うイベントとしては双方に大した価値がなさそうなプログラムだ。世の中、工場閉鎖による大量解雇やら派遣切りやら工場海外移転による空洞化やらと雇用情勢はいちだんと厳しさを増すなかで、こんなのん気な催しが行われているわけか、と感心する。
     そんな暇があれば、経営者や管理職は通常業務をこなした方がよさそうだし、学生さんもこの程度の主旨で中途半端な時期に呼びつけられ、前後2日間ほどを拘束されるのはたまったもんじゃないかと思える。それなのに「内定式してほしい」なんてリクエストする学生が少なからずいるのが不思議である。内定式を欲する学生に「どうしてそんなんやりたいの?」と聞くと、集まった学生でmixiやらTwitterやらFacebookのアカウントを交換して、コミュをつくって情報交換などしたいんだとか。
     なるほど、つまりヒマなのか。
     ソーシャルネットワークを使った就職活動「ソー活」花盛りだけど、もー余計に段取りをややこしくしている。採用担当者と学生がネット上でごじゃごじゃ話してる間がありゃ、さっさと採用の結論出してやりゃいいのに、とハタ目には思う。
     ぼくの会社では入社式もしないし、新人研修もしない。そんなの1日やってる時間があれば、さっさと街に出て、記事ネタ集めてきてほしいのである。だが新入社員は「どーしてウチは入社式しないんですか」とか「私の友人が入社した会社は新人研修を半年もしてくれるんですよ」なんて不穏な圧力をかけてくる。ふむ、社内でチンタラ研修ごっこやってるより外に飛び出したい、なんてのは20世紀の労働者思想なのか。あるいは、現代の学生も四季折々のセレモニーを愛する民族的嗜好を受け継いでいるのかな。
     とかく日本人は面倒な手続きを増やし、拘束されることを好む傾向がありますね。たとえば古くから企業や役所にある「承認印」という認可証明の方法。現場や会議で決まったことを書類にまとめ、上司に決済を求める。上司がハンコを押し、そのまた上司に上申する。そのまた上司もハンコを押したり、たまには否認する。大きい会社だと物事を決定するまでにハンコが6つくらいズラリと並ぶ。今は、イントラネット上で承認を行う企業が増えてるんだろうから、ハンコの需要は減ってる。だけどハンコ画像が朱肉に取って変わっても、上司による承認・否認の仕組みが同じなら、かかる手間としては同じことである。
     何かを決める際に、根回しだの、話を通していく順番だの、そういうのに時間と脳みそを使うのはムダだ。物事を速く決定し、実行に移すためには、上席によるOKがないと何かを始められないって決まり事・・・つまり承認印をなくせばいいのである。
     たとえば全社メールなり共有ネットワーク上で現場から企画なり改善点が提案される。1〜2日内に誰からも反論・否定がなければゴーとする。反論・否定は上司でも同僚でも部下でもできる。たったこれだけのことでアイデア出しから決定までの時間が超スピーディになる。建設的ではない反論は自動的にアウトとすればいい。
     意思決定の段取りがシンプルになれば、だらだら長い会議も不要になる。物事を決定する際に、いちいち上司や利害関係者を上座にお呼び立てし、グラフをふんだんに取り入れたページ数のやたら多いプレゼンテーション資料をパワポで用意し、朗々たるご説明をさしあげ、見当外れのご意見を拝聴する手続きが必要ない。
     一般に、会社に就職すると最初に「報告・連絡・相談を徹底しなさい」と教えられるが、ぼくは「大事件以外の報告・連絡・相談はしないでくださいな」とお願いする。部下が無意味な報告にのこのこやってきたら無視をする。恋愛相談ならおもしろいので耳をそばだてる。
     「報連相」にかかる時間と手続きが多すぎるのだ。バカな上司に報告し、相談している時間をショートカットして、自分でグイグイ仕事を進めてけばいい。職場を二周して問題点に気づかないマネージャーなんて役立たずだし、そんな人に限って「報連相」を求める。上の人間はゴチャゴチャ言わず結果責任だけ取ればいいのだ。
     目的集団には「役職」なんてのも必要ない。対外的な「責任の所在としての役職」は必要なんだろうが、少なくとも社内ヒエラルキーを形成する目的としてはいらない。管理しないと人間は秩序だてて行動できない、という観念を捨てればいい。二十代の若手も四十代のベテランも、誰にもコントロールされることなく、自由自在に動いてる方が機能美に溢れている。対人関係上の葛藤処理に費やす膨大な時間と労力をとっぱらい、ただモノを作ることだけに集中している集団だ。
     もっと根本的な疑問だってある。本来、何か社会に必要なプロジェクトを思いつき実行に移したいときに、最も機能的な集団構成は営利法人=企業じゃない気もしている。会社やってる立場で言うのもなんだけどね。経理部門は外注して、あとは仕事やりたい人だけが集まって、てんで勝手にプロジェクトを進めている人的集団にならないかな。昔の任侠のオジサンたちとか共産主義者の地下組織とかアルカイダあたりってそんな感じか。いや、これらは精神的支柱としてカリスマ的人物や強烈な教義が必要ですね。中核いらずの目的集団って何だろ。全員ヘタクソなアマチュア・ロックバンドみたいなもんか。あ、そんでいい気がしてきた。
  • 2011年11月03日バカロードその39 泡沫な時間
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     北米横断レースが終わるとからだと脳の細胞が休眠状態にはいった。食欲、睡眠欲など一次欲求が極度に減退。「欲」が涸れた状態は良くいえば禅の境地。あるいは生存エネルギーの薄い草食男子の究極をいくか。
     36時間、つまり1日半なにも食べないでいると食欲が涌いてくる。主食はアイスクリームとチョコレート。小腹がすいたら生キャベツにアジシオかけてボリボリかじる。炭水化物が足りてなさそうなときは、茹でたパスタにオリーブオイルと塩をかけて食う。最低限、生命を維持するだけの分量を吸収できればいいのである。
     それでも口さみしさはあるので、一日じゅうフリスクやミンティアを舌で転がしている。生半可な清涼感では物足りず刺激度最強のブラックミントかドライハードと決めている。最近気づいたんだけど、フリスクとミンティアって1箱に入ってる粒数は50粒で同じなのだ。値段はフリスクが2倍高いし箱も大きいから、フリスクの粒数が多いとばかり思いこんでいた。オランダ産と日本産の違いなんだろうか。あえてフリスクを選択する理由が見つからなくなっている。
     毎日寝るのがかったるい。なるべく眠らずにすむ方法はないものか。最低生存するために1日3食も摂取する必然性がないのと同様、24時間で1回眠らねばならんもんか疑わしい。ひょっとしてそう信じ込まされてるだけではないか。もの凄く眠くなるまで寝ない、と決め半月間ためしたところ、ぼくには36時間ごとに睡魔が訪れると判明した。だがこれだと一回眠るたびに生活サイクルが半日ずつずれていくので仕事と両立できず困る。当面は眠いのをがまんして48時間に1回睡眠を目指してみよう。
     北米横断のゴールから1カ月もたつのに、まだ走れない。やせ細った筋肉、足の裏のマヒ、全部の関節の痛み。仕方ないので歩いている。10キロを歩くのに3時間かかる。歩くスピードが遅すぎてウォーキングしてるオバチャンに後方からガンガン抜かされる。なかなかの屈辱ではあるが、歩いていないと生きている実感が乏しくなりそうなので歩く。歩けばかろうじて脳が動く。少しは何かやらなければという気も湧く。やりたいことはある。
     コンゴ民主共和国という国がアフリカのど真ん中にある。昔はザイールという国名だった。1人あたりの名目GDPが世界179カ国のうちで堂々179位と最下位をマークしている世界最貧国である。15年前に内戦が始まり2年間で150万人が虐殺された。7年後に停戦されたが、今でも国土の大半の地域は無法地帯のままである。農業従事者が国民の75%とされているが、これは収穫し出荷してビジネスを営む農家じゃなくて、自給自足民を指している。つまり、国民の多くは職業を持たず、収入源がない。
     内戦時には学校や教会は破壊され、戦後は義務教育制度も失われた。教育者や校舎が残った村落はまだマシな方だが、小学校があっても授業を受けるのは有料。およそ月額500円の授業料を用意できる家庭は少なく、初等教育の就学率は50%に満たない。教室は1クラス100人以上の大所帯、土のうえに座っての青空教室だ。
     ぼくは25年前に3カ月、この国に滞在した。天を衝くジャングルの樹木、涸れることなく育つ果実の色彩、桃源郷を想起させる可憐な花々。美しさと豊かさに溢れた国だった。人びとは例外なく優しかった。歩いて旅していたぼくを家庭に招き入れ、寝床と食事を無償で提供してくれた。お礼にと渡そうとしたお金は必ず拒まれた。旅を終え日本に帰国してから、何人かの若者と文通していた。しかし内戦が起こって以降、手紙は来なくなった。国家運営がなされていない状態がつづいたから、郵便物だって届かないのは当然だが、かつての恩人たちが命を失っていないか今でも気にかかっている。次の春、再訪する。自分の目で確かめないまま、人生を終わることはできない。現地に行ってみなくちゃわからないことがある。
     日課の10キロ歩きを終えて自宅に戻ると、玄関にランニングシューズが山と積まれている。ちょっとしたスポーツ店より品揃え豊かである。数えれば60足以上ある。大半のシューズは底のソールのゴムがすり減ってジョギングにも使えない。捨てりゃいいんだが相棒感が伴っていて棄てられない。このまま1年に10足ペースで履きつぶしていけば玄関はパニックに陥る。でもきっと棄てられない。
     職場に出勤すれば社員はみな忙しそうに立ち振る舞っている。仕事は山のようにあるのに、人手が足りなくて困っている。大学4年生のアルバイト氏いわく、まわりの学生の半数は就職が決まってないとか。ならばうちの会社で働かないか声をかけてくれと頼むと、「たぶん働く気はないから無理です」と言う。就職口がないから就職できないんじゃなくて、ハナから定職につく気がないそうなのだ。中小零細企業は人が足りなくて血まなこで探してるのにね。そーか、ニッポンいい国、働かなくても生きていける。職業も小学校もない国土荒廃したコンゴより5階級くらい不幸格付けがランク上位だ。
     そういや数年前、タイの首都バンコクの街角で職を探してる若者がたくさん道端に座ってるの見たな。北部の寒村からあてもなく都会にやってきた若者たちだ。人手がほしい雇い主は周囲をぶらぶら歩いて、元気そうな若者に声をかけて連れてくんだけど、悪いシステムじゃないね。ぼくも徳島駅前で「仕事在りマス」のプラカード持って立ってようかな。
     夜、鳴門市陸上競技場に「全日本実業団対抗陸上競技選手権」を観戦しにいく。出場選手には実業団の実力トップクラスから箱根駅伝のスーパースター級まで揃ってるってのに、観客席に人はパラパラ。この国では、箱根駅伝とフルマラソン中継だけが視聴率30%もの人気を博し、それ以外の長距離ランナーの試合は見向きもされず、CSチャンネルですら放映しないという怪奇現象がある。
     男子1万メートルの最終組、大塚製薬の三岡大樹選手が最下位でゴールした後、息を荒げてトラックの脇に倒れ込む。観客がほとんど立ち去った寂しいスタジアムの端っこで、紙袋を口に当てがい過呼吸を抑えようと喘ぐ昨年の日本インカレ5000メートル王者。この苦しみをいくつもいくつも乗り越えた人にしか手にできない高みがきっとあるんだろう。
          □
     足裏のマヒはとれずグニャグニャした感触、ゴリゴリ音を立ててこすれるヒザ関節に目をそむけつつ、ギリシャで行われるスパルタスロンに向かうことになった。
     日本を発つ2日前にやっと練習で10キロ走れた。タイムは1時間20分。市民マラソンの大会なら間違いなくビリケツ、それが現時点の能力である。一方、スパルタスロンは世界中から化け物級のウルトラランナーが集まる世界最高峰の超長距離レース。にも関わらず完走率は毎年30〜40%程度である。酷暑のなか乾ききった山岳地帯を越え246キロを36時間以内でゴールしなければならない。気候、地形、距離、時間、すべてが鬼的要素を有し、ランナーをことごとく潰していく。
     レース序盤の山場は80キロ地点・コリントスの関門。時間設定が厳しく、そこを越えられるかどうかが最初の壁となる。制限時間は9時間30分ながら、コースの大半が起伏に富み、日本国内の100キロレースを10時間で走るくらいの感覚で突っこむ必要がある。つまりキロ6分か、悪くても6分30秒ペースで押していかないと関門に届かない。
     出発3日前に10キロ走っただけの現在冬眠男の身体は、20キロを過ぎると濡れ雑巾のように重くなった。脚が痛くてどうしようもないので早くも鎮痛剤を投入するが、さっぱり効いてこない。次第に246キロの完走なんて想像のらち外に去り、目の前の1キロを6分台でカバーすることだけに意識集中する。この1キロで潰れるんなら、その先なんてないに等しいんだから。
     80キロ関門が閉鎖される16分前、9時間14分で着くと先着の選手たちはエイドで休憩をとっている。他選手のサポートをしている方々が親切に食料や飲物を提供してくれようとするが、いったん座り込むと二度と立てなくなる気がして、用意されたパイプ椅子の誘惑を振り切りコースに出る。でも、もう脚が動かない。走ることはおろか歩くのもままならない。泣いてもわめいても時速3キロ、それでも前に進めるだけは進みたい。ふどう畑の一本道を、散歩中の5歳くらいの女の子が後ろからやってきて、不思議そうにこっちを見つめる。不審者と思われないよう、弱々しく笑って応える。彼女にヒモを引かれた小型犬がワンワンと鳴き、少女はバイバイと手を振って夕焼けに消えていく。少女と子犬に置き去りにされ、ぼくのスパルタスロンが終わりを告げる。たった83キロしか走れなかった。
     惜しくもなんともない結果だからリタイア後は清々としたもんだったが、帰国してから悔しさが沸々と煮えたぎりだした。来年のスパルタスロンまで12カ月ある。1カ月に最低1本は200キロ以上のレースに出るかロング走をし、来年はぜったいに完走すると決めた。そして狂ったように大会にエントリーしまくる。12月の東海道500キロ、1月は宮古島100キロ。3月には小江戸大江戸200キロ、小豆島寒霞渓100キロ、淡路島一周150キロの3連戦。壊れた脚なんか、ムチャ走りしてるうちに痛覚も消えるだろう。
     人生に残された時間はたっぷりあるようでいて実はない。自分にとって不要な時間は切り捨て、必要なことだけをやる。今はひたすら長距離を走り、おもしろい雑誌をつくり、コンゴ行きの準備をする。ジャングルの中ではリンガラ語しか通じないから、さっさと覚えないとな。それ以外のことは何もしない。満ち足りていると何もはじまらない。必要なのは寝ぼけマナコとグーグー悲鳴をあげる空きっ腹だ。
  • 2011年09月02日バカロードその37 北米大陸横断レース LA-NY 2011 ステージ69(夜)
    主催者ロールさんは全選手・全サポートクルーを前に、こんな話をはじめました。

    良くないニュースです。明日、ニューヨークに大型ハリケーンがやってくるという予報が出ています。
    ゴールのセントラルパークが閉鎖されるため、ゴールとなる場所を変更せざるを得ません。また、地下鉄やバスなと公共交通機関も止まります。ここからが重要なのだけど、マンハッタン島へと通じる唯一歩行者が利用できるジョージワシントン橋が通行不能になる可能性があります。通行止めが公共交通機関に合わせたものなら正午、歩行者は渡るのに時間がかかるため、その30分前の午前11時30分と考えられます。もし橋が閉鎖されたら誰もゴールできないという事態もありえます。
    わたしたちが取れる対策を考えました。
    当初予定していたスタート時刻、朝6時を1時間早めて朝5時とします。スタート地点からジョージワシントン橋まで43キロ。通行止めになる前、なるべく早い時刻に渡ってしまうのです。ランナーはできるだけ急いで橋まで行ってほしい。
    もし1人でも渡れないランナーが出た場合は、平等性を確保するため、橋のたもとへの到着時間を当日のゴールタイムとします。たのため大会スタッフが橋の手前で待機します。
    ゴールは当初予定のセントラルパークからブロードウエイ沿いにある選手指定ホテルの玄関前に変更します。

    ・・・なるほど。この大会らしいフィナーレじゃないか、と思いました。最後の最後の最後まで、まともに終わらせてはくれないのです。「ヘタしたらランナー全員ニューヨークに行けなくなります。完走者ゼロという事態だってあります。橋が渡れなければハドソン川を泳いで渡るという方法もありますが賛成の方はいますか?」と半分ジョーク、半分本気の説明が続いています。どうやら主催者ロールさん、ぼくのゴールを待ってるうちに酒を飲みすぎて酔っぱらっている模様です。
    明日は何が起こるか誰もわからない。なんかわくわくしてきて、今夜は眠れそうにありません。
  • 2011年09月02日バカロードその38 北米大陸横断レース LA-NY 2011 ステージ70(最終日)
    ■8月27日、ステージ70
    距離/56.6キロ

    大型ハリケーン「アイリーン」の直撃により、ニューヨークは今日正午から公共機関が全面ストップ。ニューヨーク市長が緊急記者会見。非常事態宣言を発令。市民30万人に対し避難命令を勧告。すでに高潮が沿岸部を襲いつつある。
    ・・・眠れない夜、テレビでは台風特番の報道番組が続いています。
    問題は、歩行者がニューヨークの中心マンハッタン島へと渡れる唯一の橋、ジョージワシントンブリッジが閉鎖される可能性があるということ。
    ランナーは平均走行速度の遅い順に3組に分けられ、1時間おきの時差スタートが組まれました。もちろんぼくは朝一番にスタートする「スローグループ」です。午前5時にスタートし、午前11時30分にはジョージワシントン橋を渡りはじめておきたい。橋のたもとまで距離43キロを6時間30分以内に走る必要があります。
    7名のランナーが午前5時にスタートしました。そしてスタート直後、全員が曲がり角を間違えあらぬ方向へと走ってしまいました。いきなり5分以上のロスタイムです。深い深い霧をついて、ランナーたちは先を急ぎます。ぼく自身は、後半脚が動かなくなることを想定し、先頭を突っ走りました。15キロほどムチャ走りし、そしてダメージ色濃くなると、のろのろ走りに逆行。次々とランナーに抜かれ、さらに1時間後の「ミドルグループ」選手たちや2時間後スタートのトップランカーたちにも続々抜かれて、定位置のドンケツに後退しました。そんなことを気にしてはいません。橋が渡れたらいいのです。摩天楼が天を衝く、70日間夢に見たマンハッタンに自分の脚で渡れたら文句ないんです。
    午前11時頃には天候が荒れはじめ大粒のシャワー雨に浸かります。景色を白く濁らせる驟雨の中、ゴチャゴチャした街並みの奧に、ジョージワシントン橋の巨大な支柱が見えてきました。
    こんな劇的な場面なのに、ぼくの頭の中には吉本新喜劇の今別府がモノマネする「レインボーブリッジ、封鎖できません!」のフレーズがエンドレスでリピートしはじめます。まったく雰囲気もクソもありません。
    大雨の中、大会スタッフが傘もカッパもなしのびしょ濡れで橋のたもとで待っていてくれました。「橋は閉鎖されてない。行け、行けBANDO!」。

    ハドソン川に架かる長大橋からは、ニューヨークの摩天楼はモヤに霞んで見えません。だからって哀しくはありません。太平洋からここまで自分の脚でやってきた。その事実だけでもうおなかいっぱいです。
    マンハッタン島に降り立ちます。高層ビル群が風をさえぎるのか、風雨が少し収まりました。こんな日和でも、上半身裸の男性ジョガーはたくさんいます。たまたまペースが一緒になった日本人ランナー田中義巳さんと「このジョガーのフルのタイムは3時間09分」「いや15分くらいじゃない?」などと無邪気に予想しあいっこしながら川沿いの公園通りを歩きます。田中さんは日本に初めて「ジャーニーラン」という思想をもたらした大人物。今流行のトレイルランが「ランニング登山」と呼ばれていた時代から日本アルプス全山マラソン大縦走を成し遂げ、東海道500キロを7日連続で走る大会の主催者として「ステージラン」という競技を広く流布させた当ジャンルの伝説的カリスマな方ですが、実際の人物像はとても柔和で、趣味が広く楽しい人です。
    その田中さんの、マンハッタン満喫歩きにもついて行けなくなるほど脚が前に出なくなりました。ゴールまで10キロ。本来は70日間の全行程を振り返り、感動を胸に、きちんと走るべきフィナーレの10キロだというのに、筋肉のどこにも力が入りません。強度のハンガーノックのような症状です。ヒザ関節はカックンカックン抜け、皮膚の表面が麻痺したような感覚。頭にはまったく何も浮かびません。ただ真っ白です。思い出すこともなく、ゴールへの感慨も湧きません。1キロ進むのに15分以上もかかり、夢遊病者のように左右に蛇行しながら歩いています。

    大繁華街ブロードウエイに入ると、摩天楼が左右にそびえ立つ最もニューヨークらしい風景。旅行者らしいカップルがぼくの背中のゼッケンを見て「何かレースをしているの?」と話しかけてきたので、大陸横断レースの事情を話していると「私たちもゴールまで着いていっていい?」とリクエストします。けっこうな雨が降っていて、2人とも傘も持ってなくてびしょ濡れなんだけど大丈夫なのかな。「まだ3キロくらい距離があると思うけど、君たちがそうしたいならぼくは構わないよ」と答える。スペインから旅に来たという2人。女性の友人にサバイバルレースやウルトラマラソンをやってる人がいるらしくて、事情に詳しく質問も的確。アレコレ答えているうちにゴールが近づいてきました。夢遊病的に歩いていたぼくも、彼女にややこしいレースの説明をしてるうちに脳みそも蘇ってきました。
    いよいよラスト200メートルかなって所でカップルの男性にデジカメを渡し、ぼくの後方から追っかけてゴールまでの動画を撮ってもらうことにしました。男性、なにやら張り切りはじめ、にわかカメラマン魂がパチパチ燃えている模様です。

    突然、クラクションを鳴らす連続音やラッパを吹くような音が摩天楼の谷間に響きわたりはじめました。「BANDO!こっちだ!ここがニューヨークだ!」。70日間、ぼくを鼓舞しつづけてくれた大会スタッフの姿が見えた瞬間、熱い気持ちが吹き出しました。朝まで一緒にいた人たちなのに、なぜか懐かしくて、大切な友人に再会したような気持ちになりました。自分がゴールするという歓びではなく、この長い長い戦いを支えてくれた人たちと抱きしめあえる喜びに、胸から喉へと熱い塊が次々と湧き上がってきます。

    ゴールテープがそこに見えます。これで終わりです。
    自分が走りきったという達成感はありません。
    結局、ぼくには何もできませんでした。
    砂漠で倒れたときも、峠道で脚が動かなくなったときも、人に助けられました。
    ゲロを吐きつづけ意識がほとんどなくなっていても、鼻血をたれ流し、足の裏の皮がめくれあがっても、周囲の誰一人として「もうこの辺にしておけよ」「きみには無理だろう」とは言いませんでした。「絶対にゴールに行けるから!」「ニューヨークに行かなくちゃ!」と励ましてくれました。だからここまで来れました。言葉が持つエネルギーが、ぼくをここに運んでくれました。

    ニューヨークに到着してわかったことがあります。ぼくが目指しつづけていたのは、現実に存在するニューヨークという街ではなく、自分の夢や目標のありかを指していたんです。

    ゴールテープを切ると、大会スタッフに腕を取られ、氷と缶ジュースがたっぷり入ったクーラーボックスの上に腰掛けさせられました。「BANDOはスプライトだろ?」と缶のスプライトの栓をシュッと開けて手渡してくれました。砂漠でふらふらになってるとき、彼が何度もやってきては、霧吹きで氷水をかけてくれ、スプライトを飲ませてくれたことを思い出しました。スプライトを一口飲むと、ぐずぐずと泣けてきてクーラーボックスの上で泣き続けました。雨に濡れっ放しで動画撮影してくれてる通りがかりのスペイン人カップルの方を見やると、彼と彼女もなぜか泣いていました。


    記録/10時間02分
  • 2011年08月31日バカロードその36 北米大陸横断レース LA-NY 2011 ステージ69
    ■8月26日、ステージ69
    距離/77.3キロ

    絶望的に身体が走ることを拒否しています。走れるのはあとたった2日。だから走る意思は強くあるのに、鉛の脚はどこまでも重く、視界30メートルの霧のなか、集団から取り残されます。体力、もうとうに限界越してるんでしょう。
    20キロすぎに右足を着地した際、足の裏からスネ、そして頭の先まで電気が流れました。今まで味わったことのない衝撃で、以降は右脚全体に力が入らなくなってしまいました。
    峠道に入り、後ろから股関節を大負傷しているパトリック選手が顔を歪めながら登り坂を駆けてきます。どっちの負傷の度合いがきついのかはわからないけど「怪我人に負けとれん」という気持ちに火がつき、以後25キロ彼と抜きつ抜かれつを繰り返しました。最も尊敬するランナーの彼と、最後にこんな時間が持てたことが嬉しいです。パトリック選手には家族や知人など6人の応援団が車で追走していましたが、ぼくに対しても拍手と声援を送り続けてくれ、また彼の息子さんは信号がある度に、ぼくのためにタイミングよく歩行者用ボタンを押して待っていてくれました。
    やがて脚がダメになりパトリックに置いていかれました。なんとかペースを維持して制限時間の5分前にゴールできるよう走っていました。
    ところがゴールまで残り5キロ地点で道を見失いました。大会指定コース上に、あるべき曲がり角が見つからないのです。いったりきたりしてるうちに時間が過ぎていきます。そこに地元の女性市民ランナーがジョギングで現れたので、早口で事情を説明すると「わかったわ。私が先に行って指定の道路があるかどうか見てきてあげる!」。そして猛スパートて前方に消えました。何分も経たないうちに彼女が引き返して来て「500メートルいけば道があるわ!」。
    道がわかったのはよかった。問題は当初指定より距離が1キロ長いのである。ダッシュしなきゃ時間に間に合わない! 残り5キロ、突然のラストスパートを強いられます。走る、走る。最後まで楽などさせてくれるはずがないじゃないか、この大会が! 必死こいて制限時間鎖3分前にゴールすると、主催者が待っていたので「距離が違〜う!関門アウトになるとこだった!」と訴えると、自信満々の表情で「私たちは完璧じゃない。1キロ、2キロ違うこともある。それがレースよ!ご不満?」と言うので「ぼくはドラマチックになって喜んでるだけだ。1キロどころか5キロ長くたって問題ない!」と虚勢を張りました。

    夜、大会に関係する全メンバーが、ホテルのロビーに集まって、明日に控えるニューヨークのゴールについて主催者ロールさんから説明がありました。それは全てが想定外の話でした。


    NYまで55キロ、あと1日
    記録/13時間26分
  • 2011年08月27日バカロードその35 北米大陸横断レース LA-NY 2011 ステージ68
    8月25日、ステージ68

    距離/82.2キロ

    いつも言ってるセリフなんで信憑性が著しく低いですが、地獄の一日でした。
    このレースの筋書きを書いてるヤツが空の上の方にいるんだとしたら、「もう山場いらんけん穏便に終わらせて…涙」と言いたいです。
    今日、まさに67日間の縮図のような一日になりました。
    朝から足裏の痛みがひどく、まったく走れません。あっという間に周囲からランナーは消え、一人だけの戦いがはじまります。今まで治してきたはずの脚の怪我が次々とぶり返しはじめ、もうそりゃ脚全体が痛みに覆われ、なすすべありません。
    やむなく鎮痛剤を飲もうとランニングパンツのポケットから薬を取り出そうとした時、かつてアレキサンドロ選手がくれたペニー硬貨がすべり落ち、道路に空いた排水溝に消えてしまいました。
    直後に、頭の真上で稲光が走り鼓膜をやぶらんばかりの落雷。そして土砂降り、道は濁流と化します。
    さらに次々とトラブルが起こります。紅い湿疹が全身にできました。マタズレになり、股間が飛び上がるほど痛みます。ごていねいにもマメが今頃できました。いちばん痛みが強い拇指丘のとこです。
    この67日間に起こった痛みが「オレのこと覚えてるか?懐かしいか?あんときゃともに苦しんだよな?忘れないでくれよ」と顔を出しにやってきます。
    確かに記憶ってのは、楽しいことばかり残っていて、苦しいことや辛いことは忘れてしまいがちなもんです。ならば言いたい。ちゃんと覚えてるから(ほんとは忘れとったけど)、君達すっ込んどきなさい!
    ニューヨークに着く2日前にして、あらゆる痛みが憤怒のことく現れた意味を考えました。緊張感の喪失か、本当の限界に達し身体が悲鳴をあげているのか。ブルース・リー師匠なら「考えるな、感じろ」と諭すとこか。ならば考えず、ただ痛みを感じ続けよう。
    ゴール2キロ手前の道路にに、小麦粉の白い文字で「5000キロ突破」と書かれていました。
    関門アウト十数分前にボロボロゴール。そうだ、最初の頃は毎日こうやって残り数分でゴールにたどり着いて、そのまま倒れこんで、人に肩や背中を借りてホテルの部屋まで移動してたな。

    総合2位のパトリック選手が関門閉鎖に間に合わない位置で、まだ走っているます。脚と股関節を怪我し、病院に2時間行き、戻ってきてレースを続けています。身体を引きずるように前進しています。ぼくだけじゃない。みんな戦っています。

    NYまで138キロ、あと2日
    記録/14時間16分
  • 2011年08月27日バカロードその34 北米大陸横断レース LA-NY 2011 ステージ67
    8月24日、ステージ67
    距離/81.4キロ

    今日もいろんな選手と競り合いました。温存の必要がなくなって、みな自由に走りはじめました。今までよりずっとスピード速いです。
    ニューヨークが近づき、下町の熱気、人臭さが強烈になってきました。ゴミが風に舞い、子供は道路で踊り、スパイク・リーの映画に出てくるようなワルな連中がたむろしています。目を充血させた男らが何かをわめき散らしています。昼間から完全に飛んでいます。
    アメリカの下町は、アジアの街の混乱ほど無秩序ではなく、南米の裏通りに満ちた殺気はなく、アフリカのドブ板スラムほどの貧困はありません。世界最大の経済・軍事大国のダウンタウンらしいファッショナブルさと豊かさに満ちています。適度な危険と猥雑さ。なかなか素敵です。
    ニューヨークが近づくほど、レースが終わる実感から遠くなっています。この日々が終わるというイメージができません。
    3日後のニューヨークよりも、明日この腫れあがった足の裏でちゃんと完走できるかどうか、そんな心配事が心を占めています。
    今は安モーテルのベッドの上で、氷袋を足に縛りつけて、5時間後に迫る次のレースのスタートまでに足の腫れを小さくする努力をしています。
    この日々があと3日でプツンと途切れてしまうのだろうか。走らない毎日って、どんなんだったっけ?

    NYまで216キロ?あと3日?ふーむ
    記録/11時間43分
  • 2011年08月25日バカロードその33 北米大陸横断レース LA-NY 2011 ステージ66
    ■8月23日、ステージ66

    距離/43.3キロ
    (走ったのは50.7キロ)

    70日間のうち最も距離の短い今日。選手やスタッフにはリラックスムードが漂っています。
    なぜ43キロという短距離の設定かといえば、午前中にレースを終え、午後は荷物整理や洗濯など、各自がニューヨーク到着の準備を、という主催者の配慮なのです。
    ぼくはたいして準備する用件もないので、今日はゆっくり走り明日からの4戦に向け、体力温存を図ろうという腹積もりでスタートしました。
    選手同士、軽い会話を交わしながら、いつもよりはゆったりペースで進んでいます。そんなほんわかムードの一日が、大会史上最悪、大波乱の一日になるなんて誰が想像できたでしょうか? この大会には、サディストな神が宿っているとしか思えません。
    走りはじめてわずか1キロで異変が起こりました。スピードランナーのイタロー選手(イタリア)が、草むらかきわけ現れ、「前の選手3人が間違えた道を行ってしまった」と主催者兼ランナーのセルジュ選手に伝えました。セルジュ選手は3人を追うべく、血相かえて引き返します。
    でも実はこの3人こそが正しい道を行き、残る11選手が道を間違えたのです。ただ真っ直ぐ進むだけの単純なコースでしたが、非常に緩いカーブの分岐が走路にあり、暗闇も手伝って誰も自分が直線道路から外れたと気づけなかったのです。
    やがて夜が明け、景観が見えはじめてから、ぼくは疑問を抱きはじめました。まず、道路自体が6車線で予定コースに対して広すぎます。また本来あるべき交差点がなく、鉄道高架が現れる距離がずれています。間違えた道を行ったのは3人ではなく、自分たちではないか? しかし自信が持てません。なんせほぼ全員に近いランナーが今この道を走っているのです。
    しかし走れば走るほど「間違いじゃってコレ」が確信に近づいてきます。(前を行ってるランナーを止めんと大変じゃ!)。そこからは自分が出せる最高速度で前の選手を追いました。1キロほど追いかけ、ようやく2人のランナーを止め、間違いの可能性を伝えますが、なかなか信じてもらえません。なんせもう4キロ近く走ってきた道です。
    峠の頂上で立ち往生していると、前方からサポート車が現れ「この道はコースではない」と伝えられました。遥か彼方には、前を行ってたランナーたちが猛烈な勢いで引き返して来るのが見えます。ぼくも踵を返し全速力で正規ルートを目指します。なんせ往復7キロ以上です。制限時間、ヤバい! もう全力でいかないと間に合うかどうかのギリギリ。キロ5分台で飛ばしまくります。ちなみに現在の衰弱した体力におけるキロ5分台は、健康状態のキロ3分台に匹敵する苛烈さです。
    顔ゆがめ、よだれ流し、
    いったん真っ白になった頭で、ゴールまでの平均ペースを計算します。混乱しているので何度計算しても答えが違います。
    必死で、必死であえぎ走りながら、脳裏にはいろんな思いが交差します。
    (65日も完走続けてきて、ニューヨークを目の前にして、道間違いで失格なったらダサすぎるって!)(こんなドラマチック、用意せんでええって!)(こない全力疾走つづけたら、脚まためげるって!)

    大会70日間で、最もゆったりできるはずだった今日、ぼくを含む11人のランナーたちは地獄のような時間との戦いを強いられながらも、なんとかゴールにたどりついたとさ。ほんまにこんなドラマいらんのんよ〜

    NYまで297キロ、あと4日

    記録/7時間14分
  • 2011年08月25日バカロードその32 北米大陸横断レース LA-NY 2011 ステージ61〜ステージ65
    8月18日、ステージ61
    距離/78.8キロ

    遠い昔、地理の教科書に載っていた記憶のあるアパラチア山脈に今日から突入しました。眉山の八万口の急坂を朝から晩まで登り降りしてるみたいです。山地といっても街はあり、けっこう大きな都市も控えています。アパラチア山脈を抜けるまで4日かかる予定です。
    昼過ぎに大きな校舎がある高校の前を通りかかったら、30人くらいのブラスバンド部のメンバーがマーチング音楽を奏で始めました。なんと、ぼくたちランナーの登場を校庭で待ち構え、一人ひとりに演奏してくれてるのです。先頭からビリの選手まで全員が通過するまで3時間はかかったはずです。しかしマーチング音楽にこんなに心を揺さぶられるとは。
    生徒たちの大声援を背に、街を去りました。その後、急峻な峠道に差し掛かったんですが、下の街からは後方のランナーを応援する音楽がいつまでも聴こえてきました。
    そういや昨日は「IラブNY」のTシャツを着たおじさん2人がビデオカメラ持って車から降り立ち、「君はBANDOだろ。君はホントに頑張ってるよ。最高だよ!」ってな感じでチューでもしそうな勢いで迫ってきました。大会のホームページを毎日見ていて、選手のファンになったんだとか。
    最近はテレビ局の撮影部隊がやってきたり、「LAから来たんだって?信じらんねーぜ」なんて応援にやってくる車も多いです。みんなどこから情報得てんでしょうね。

    さて今日も左膝と左脚の裏を傷め、ラスト20キロをほとんど脚引きずりながら歩きました。
    途中、巨大な原子力発電所が道端にありました。ボロっちいフェンスで隔てられてるだけで、誰でも侵入できそうです。アメリカは不思議な国です。

    NYまで657キロ、あと9日

    記録/12時間39分


    ■8月19日、ステージ62
    距離/82.2キロ

    アパラチア山脈の核心部を走る今日は、累積標高差2000メートル。距離も長く、とても厳しい一日です。
    壁のようにそびえ立つ登り坂。こりゃ崖かとつっこみたくなる下り坂。
    下りは時間を稼ぐためにぶっ飛ばして走り、登りは走れる極限までゼーゼー粘り、もう足が前に出ないってくらいスピードが落ちたら後は大股で歩きます。
    前の方でイタリアチームの兄ちゃん2人が大騒ぎしています。大きなクマが道を横切ったんだ!と一眼レフのカメラとビデオカメラ持って、クマが消えた崖を登ろうとしています。彼らはプロのカメラマンなんです。しかし逆襲にあったらどーすんだろね。
    五大陸走破者セルジュ選手の伝説とも言える「走りしょんべん」をついに目撃しました。それは想像を絶する姿でした。例えとして最もふさわしいのは、象の水浴びです。セルジュ選手は自分のを片手で持ち、ブオンブオンと振ります。おしっこは鮮やかな軌跡を描き、左側に撒き散らされます。現在、主催者から立ちしょんのマナーについて厳しく注意されており、ランナーは皆、木陰で用をたすようにしてますが、ぼくとの一騎打ちの最中に伝説の走りしょんべんをしてくれたことは、ぼくを戦う相手と認めてくれたって事でしょう。今後の人生において大きな自信と財産になりました。
    ゴールまで10キロを切ったあたりで、前方の空にもくもくと発達していた巨大な積乱雲に稲妻が走り、雷鳴が地面までバキバキと落ち、土砂降りに襲われました。びしょ濡れでゴールしたら甘いスイカが待っていました。美味しかったです。

    NYまで573キロ、あと8日。東京〜神戸間の距離。けっこう近いね!

    記録/13時間09分


    ■8月20日、ステージ63
    距離/81.6キロ

    今日はベストレースができました。最初から最後まで妥協することなく、登り坂はどんな苦しくても走りきり、下り坂は痛みを理由にスローダウンせず攻めに攻めました。
    これ以上、脚がぶっ壊れることはないだろうし、壊れたって這ってでもゴールするから、全力疾走します。アメリカという土地を、街を走れるのもあと1週間。今を全力で走りたい。
    でも、このレースの残り1週間が、日本で過ごす1週間より価値があるものであってはならないと思います。このレースも必死でやるけど、日本の生活でも、いずれ立つアフリカの土地でも、なりふり構わず必死で生きるんです。
    人は…いやぼくは、基本的には弱く、プレッシャーや苦しみにすぐ押し潰されそうになるけど、逃げ場を絶って、シャニムニ立ち向かう無謀があります。選択肢をなくし、自分にはこれしかやることがないと決めたら、あとはやるだけなんだ。

    けっこう上位でゴールし、消耗しつくしてぼーっとしてたら、後からゴールに入ってきたアレキサンドロ選手がぼくの方に歩みより「いい走りだった!よかったな!」と身体をぶつけるように激しく抱きしめられました。
    ふだん冷静な彼が、こんな熱い行動をするなんて。互いに怪我で苦しみ続けたから、脚を引きずりながら苦闘している姿を嫌というほど見ているから、自分のこと以上に相手の回復を願っているんです。
    しかし男に強く抱きしめられるってこうゆうものなのかー、と少しボーッとしてしまいました。

    NYまで492キロ、あと7日

    記録/11時間19分

    ■8月21日、ステージ64
    距離/74.3キロ

    距離が短いので油断してたら大変な目にあいました。80キロレベル6連戦ですっかり消耗し、体重を支える筋力が脚に残っていません。少し走ると着地と同時にひざがカックンと抜けます。抜けすぎて転倒寸前に至ります。そのうち足首までもカックンしだし、カックンカックンと糸で吊られた操り人形のようになり、危なっかしくてスピードを出せません。
    痩せ細った脚は自分のものとは思えず、二本の不安定な棒をうまく使ってどうにか走る格好に似せている感じです。
    日中の気温も上がり、体力が残ってないのも手伝って、意識遠くふらふらでゴールしました。
    ニューヨークまで1週間。ぼく以外のランナーは、ライバルとの競争を楽しんだり、あるいはスピードを緩めアメリカの街や風景を愛でながら走っている人もいます。
    ゴールまでの数日間をともにするため、ヨーロッパなどから家族や恋人が集まりはじめています。マスコミで報道されているのか、すれ違う車からの応援が一段と多くなってきました。
    大会主催者は、ニューヨーク・セントラルパークでのゴールの方法について、いろんなアイデアを考えているようです。
    フィニッシュに向けて徐々に環境が変わっていくなか、いまだ関門時間と戦い、もがき苦しんでいるのはぼく一人です。

    NYまで412キロ、あと6日。

    記録/12時間24分


    ■8月22日、ステージ65
    距離/78.5キロ

    ひざカックン病は今日は出ない雰囲気です。昨日ろくに走れなかったため、筋力が復活したんでしょう。
    きつい勾配の登りをタンタカ登っていたら、前にランナーが見えてきました。うわっ!総合2位のパトリック選手です。彼はどんな登りでもキロ6分で刻むイーブンペーサーで、最も尊敬するランナーです。がぜん燃えてきました。ペースをあげ忍び寄り、抜き去るときは一気呵成です。「ハロー!」と余裕の挨拶をし、そして逃げに逃げます。
    息もゲロゲロに2キロくらい全力で走り、振り返るとパトリックが笑顔で手を振っています。そして「ハロー!アゲイン」と追い越していきます。ムカつくので再び追走し、こっちは「ハロー!アゲインアゲイン」とブチ抜くと、今度パトリックはTOTOの「ロザーナ」を歌いながら抜くので、ぼくはホール&オーツの「プライベート・アイズ」の鼻唄を奏でてやり返します。抜きあいっこはゲームのようにつづきます。朝の光が降り注ぐ森の中の峠道がキラキラ輝いて見えました。20キロすぎまで粘りましたが、最後は軽くちぎられて終わりました。ランニングは実力どおりの結果しか出ないのです。

    30〜40キロあたりではランキング選手4人が視界に入る数百メートル内に揃いました。レース中盤では珍しいことです。互いに意識しあって、スピードがぐんぐん上がります。とにかく皆、大人と言われる年齢にも関わらず、極端な負けず嫌いで、意地になって相手をちぎろうとします。こんなレース中盤でスパート掛け合ってどうするの?と思いながらもスピードを落とせません。汗みどろになって走りながら思います。「みんなホントにバカだ。そしてぼくはこの男たちが大好きだ!」。

    ゴール7キロ手前くらいから、遠く前方に見え隠れしていた日本人ランナー越田さんにラスト1キロで追いつきました。2人ともやる気のないフリをしながら、明らかにピッチがあがっています。
    しかしラスト500メートルの大きな交差点で信号待ちにかかてしまいました。「ここまで来たら一緒にゴールしようか」と柔和な笑顔で越田さんが言うので、「嫌です!これレースですから」と完全拒否しました。
    すると越田さん「しょうがねえな」と捨てゼリフをはくと、悪人の表情に一変し、猛烈なスピードで走りだします。後ろに着くのがやっとですが逃がしません。ゴールのフラッグが見えてきたラスト150メートル地点で、ぼくはトップスピードに移り、追い越しました。
    ちなみに越田さんを追い越す時は「おい越田!(追い越した)」と声をかけるのが本人いわくマナーだそうですが、今はそんなヒマありません。
    。完全に差し勝ちした、と思った瞬間、もの凄いダッシュで差し返され、完全に競り負けしました。負けたクソー!でも気持ちいいぞー!

    今日は一日中、誰かと競いあってました。走るって行為は子供でもできるほど単純なのに、こんなに楽しく、すばらしいものなんだって思えました。

    NYまで339キロ、あと5日。
    記録/11時間10分

  • 2011年08月24日バカロードその31 北米大陸横断レース LA-NY 2011 ステージ56〜ステージ60
    ■8月13日、ステージ56

    距離/77.6キロ

    朝、広い公園の脇を通過していると、たくさんのランナーらしき人たちがジョグをしています。公園の遊歩道を使って市民マラソン大会が行われる寸前のようです。
    ゴールゲートや大きなデジタル時計も用意され、日本の小ぶりな市民マラソン大会と雰囲気は変わりません。ところが、ひとつだけまったく違う風景があります。男性ランナーの多くが上半身裸なんです。
    そういえば今まで、都市郊外や公園で見かけた男性ランナーたちも、上半身裸でショートパンツ、ってのが一般スタイルでした。ランナーとしてちゃんと造り込まれた筋肉を揺らせて軽快に走ってゆく姿は、同性ながらまばゆく見惚れます。
    日本では真夏のピークでも、公園や河川敷を裸で走るなんて許されない雰囲気です。汗びしょびしょで暑そうなのに、なぜか重ね着しロングスパッツに更に膝丈パンツなど合わせるのが最近の日本の定番になっています。よーわからん傾向。
    アメリカの裸ランナーの気持ちよさそうな姿を見るとうらやましいです。市民マラソンという概念やカルチャーは主にアメリカから輸入されたものだけど、「上半身裸」はオプションとしても輸入時に除外されたみたいです。
    ちなみにぼくは毎年7月に入れば小松海岸を裸で走っています。海だからかまわないでしょ、と思うようにしてます。

    今日は痛い場所が左膝一カ所しかなく、きわめて快調に77キロを走りきれました。
    あと15日でニューヨークに着いてしまうけど、神様仏様、ゴールまでに一度でいいから、たった一日でいいので、痛みのない状態で走れる日をください。そしたら何でも言うこと聞きますから。

    記録/12時間25分

    ■8月14日、ステージ57

    距離/68.6キロ

    今さら何をだけど、こういったレース形式の大会は本来のぼくの旅のスタイルではありません。アフリカ大陸を徒歩横断した時のように、一人ぼっちで、風の吹くままに行く先を決め、現地の風土・言語に溶けこんで旅するのが基本です。
    一方でレース形式の旅は、鍛え込んだアスリートたちが極限の自然環境と時間制限のもと、心身の限界に挑戦し、成し遂げた際に大きな達成感を得るものです。
    ぼくにとってレース形式の大陸横断は、これが最初で最後になるな、と最近実感しています。どうひっくり返してパタパタハタいてみても、ぼくにアスリート的素養はありません。また大勢のキャラバンを組んで人間関係を構築しながら進んでいく旅も、性に合っていません。他人の考えをまず優先すべきだから。
    ぼくは一人で極限を行き、生きるも死ぬも自分が決定づけるという場所にいたいです。
    今回が最初で最後のロング・ステージ・レースです。あと2週間、二度とない時を愉しまなくちゃな。

    今日は実にアメリカらしい街を走りました。コロンバスという巨大な街は中心部に高層ビル群と尖塔のある教会を抱き、その周囲をダウンタウンが取り巻いています。下町には危険で不穏な雰囲気が漂ってますが、そこいらのルードボーイより汚く汗まみれのぼくらにちょっかい出す暇人はいないようです。
    ゴミと廃屋とボロ車だらけの下町から更に郊外に足を延ばせば、瀟洒な邸宅や店が連なり、絵に描いたような(セーターを肩に羽織った紳士が、ブロンドの美しい妻と、風船持った2人の子供)アングロサクソンの中流階級以上の人びとが闊歩しています。人びとは、自分の階層と近い人々で集まり、街を形成します
    アメリカの中規模都市は30キロほどの都市圏を形勢しています。階層社会がつくる同心円を突っ切って移動するぼくたちには、その構造がよく見渡せます。

    今日あらたに左スネを傷めました。現在は、右アキレス腱、左ひざ、両脚の足底筋の痛みに苦しんでいます。あーやっぱ最後の最後まで楽しく走れる日が来るなんてこと、期待してはならんのでしょうね。

    記録/10時間56分


    ■8月15日、ステージ58
    距離/83.3キロ

    スタートから200メートルも進んでない歩道の段差につまづき派手に転倒。腕を擦りむいた。なにやってんだろな。
    今日は一日、よく走りました。バタンキューです。
    尊敬すべき2人の日本人ランナーがいます。一人は日本人として史上2人目となる2度の北米横断レース完走という偉業達成を目前にした越田さん。
    もう一人は、世界中の辺境レースに出て何度も優勝している石原さん。砂漠、ジャングル、ヒマラヤから南極まで世界中が遊び場みたいな人です。
    この2人、異常に負けず嫌いで、2人が近い位置を走ると必ず牽制し、煽りたて、最後はデッドヒートに発展します。誰れーも見てないところで、恐ろしいスピードで抜きつ抜かれつしています。今日は2人の戦いを見学してやろうと後方に着こうとしましたが、こっちはキロ6分で走ってるのにぐんぐん引き離されていきます。既に60キロも走ってるんですよ。しかもゴールまで20キロ以上あるんですよ。まったく何考えてるんでしょう。
    60歳と66歳。研究者と経営者。火のような闘争心を持っています。
    すごいデッドヒートでしたね、と声をかけると「デッドヒートなんてしてない。遊んでやっただけ」と捨てぜりふ。カッコイイ〜。

    NYまで903キロ、あと12日

    記録/12時間49分


    ■8月16日、ステージ59
    距離/88.6キロ

    走りはじめて驚きました。「どこも痛くない!」
    こんな時がやってくるなんて!
    かばう場所がなく、また深刻な体調不良なく走れるのは58日ぶり。つまり大会初日以来です。

    いつもドンケツを顔ゆがめて走っているぼくが、上位グループに混じってタッタカ爽快に走っている姿を目にして、大会スタッフや他国のサポートクルーが何が起こったのか、と驚いています。
    選手たちは「脚が治ってよかったな!」と自分のことのように喜び、背中を叩いてくれます。

    58日間、走ることの大部分を占めていたのは苦痛でした。痛い、つらい、苦しい。そればかりでした。朝が来るのが嫌でした。朝起きて、今から走るって思うだけで吐き気がしました。十時間以上も続く苦痛を思い、言葉を失いました。走ることは、乗り越えるべき苦行でした。

    今感じてること。走ることはこんなに気持ちいいんだ。景色が後ろに流れてくのが速いな。どこもかばわずに走ったらこんなにスピードが出るんだな。ニューヨークに着くまでに、こんな日が来るとは思ってなかった。これが今日だけの出来事なのか、明日には故障が再発するのかわからないけど、今日はしあわせ。明日からも無痛が続いて欲しいなんて贅沢は思わない。
    そういえば数日前に神様仏様にお願いしたところだったな。たった一日だけでも自由な気持ちで走らせてくれたランニングの神様仏様に感謝したい。

    NYまで815キロ、あと11日

    記録/11時間57分


    ■8月17日、ステージ60
    距離/81.0キロ

    今日は不愉快なことがいくつかあり、むしゃくしゃしています。
    素晴らしい人は、人間を中心とした目的や夢を持っています。
    つまらない人は、仕組みを完成させたり、効率をあげること自体を到達点に設定してしまいます。
    何を言いたいのか不明なことを書くのはクソ野郎な行為です。
    今日はぐっすり寝ます。そして明日一生懸命走り、汗まみれになります。それだけでいいはずです。

    NYまで734キロ、あと10日

    記録/12時間15分

  • 2011年08月16日バカロードその30 北米大陸横断レース LA-NY 2011 ステージ51〜ステージ55
    ■8月8日、ステージ51

    距離/67.3キロ

    大会ナンバーワン選手であるライナー(ドイツ)様が、ぼくの怪我を気遣かって話し掛けてくれました。「きっと典型的なシンスプリントですよ。骨折まではまだいかないでしょう。少なくとも3日間は痛みが酷くなり続けづけますが耐えてください。走っている時以外は胴体より脚を高く上げるように横になり、氷で冷やし続けること。大丈夫です。1回克服すれば次はなかなかなりません。強くなります。何といっても、ぼくたちはニューヨークに行かなくちゃね」ぼくよりずいぶん歳下なのに、まるで師のような上下関係です。
    本職が工学系エンジニアである彼は、ぼくの知るかぎり4カ国語を流暢に話し、論理的で冷静で民主的な姿勢の持ち主です。そして各大陸の横断レースをぶっちぎりで勝ち続けています。以前、ふだんはどんな練習しているのか尋ねたことがあります。すると「平日は走りません。長距離を走るのは、まとめた時間のとれる週末の休日だけです」と言うので、何キロくらい?と問うと「200キロくらいです」との返事。こりゃ勝てんて!
    今日は左脚のスネ、足底筋、膝を傷めました。今まで怪我してなかったパーツが、反乱を起こしだしています。
    「今まで黙って耐えに耐えて来たが、これ以上われらを酷使するなら、全部位が蜂起して、城主殿に痛みという地獄を味わわせてやる!」とシュプレヒコールを挙げはじめたようです。
    かといって謀反に対して打てる手立てもなく、明日今大会最長の92キロを迎えます。毎日が正念場なんだけど本当にギリギリの勝負です。これを乗り越えたら、きっと何かがあるはずなんだ、そこには。

    記録/11時間42分


    ■8月9日、ステージ52

    距離/91.4キロ

    走っても走ってもゴールは遠かったです。夜明け前に走りだし、そしてまた日は暮れて、おまけに時刻変更ラインを越えたもんだから1時間進んでしまい。ゴールしたのは夜中の10時前。明日の朝の集合時間まで6時間ちょいしかないって!
    仮眠をとるために入った宿。なんじゃこりゃ! 客室は鉄格子の中、廊下からまる見え。囚人が寝るような薄く狭いベッド、というかベンチ。トイレはドアなし、これまたまる見え、照明は紫…。刑務所をテーマとしたホテルなんだとか。頭イカレてるぜ!この追い詰められた心理状態にダメ押しパンチかよ!

    記録/15時間51分


    ■8月10日、ステージ53

    距離/83.7キロ

    結局3時間しか寝れず、極度の疲労と寝不足で、強い二日酔いのような頭痛がし、吐き気が止まらずカラゲロを繰り返します。今日が最後なのか?と思います。立ってるのも困難なのに80何キロも走れるわけない。
    もうね、ぼくにできることは一つしかないわけです。残された手段に選択肢はないんです。
    やけくそダッシュだ!
    やけのヤンパチ、死ぬ時はドブの中で前向きに倒れろってことだ。
    最初から全力で走ります。真っ暗な下り坂をヘッドランプの光を追いかけて走ります。空には星が1万個も輝いています。
    オレは本当に追い込まれた時だけ強いんだ。少しの苦境には弱いけど、完全に後がなくなれば強いんだ。
    そんでもってぼくはアントニオ猪木の名著「君よ、苦しみの中から立ち上がれ」から引用した名文句を唱え、そして尾崎豊が10代の頃に世に出した3枚のアルバムを全曲熱唱しました。結局ぼくは猪木と尾崎で形成されているのです。
    並走したアレキサンドロ選手が言います。「われわれはレースが始まって以来、ずっと怪我に苦しんできた。毎日が苦しみの連続だった。だがこの経験は深い。より多くの痛みと苦しみを知っていた者が他人の苦しみを理解でき、またヒントとなる言葉も見つけられるだろう」
    (お前何者?)と思いなつつも「君の言葉はいつも重いね。なぜ32歳でそんな考えが持てるの?」と聞きました。彼は説明します。「私は手漕ぎボートに乗って500日以上、太平洋や大西洋の洋上にいた。そこでは考えることしかすることがない。だから私は考える」

    レース中にマクドナルドを1日3回利用するジェームス選手と並んだ時ちょうど、巨大なマクドナルドの看板が現れました。そこには「本物の果物を使ったシェイク」と書かれ、3種類のシェイクの写真がありました。ジェームス選手にどのシェイクが最も美味か尋ねると、流暢すぎる英国英語で詳しく説明してくれますがぼくには半分も理解できません。業を煮やしたかジェームス選手、急に猛スピードで走り去ると、1キロに現れたマクドナルドの店の前で、マック・フルーツシェイクを2種類手に持ち、満面の笑顔で待ってました。
    後半は大失速し、いつものビリになりましたが、今日も生き残りました。いや、生きました。

    記録/13時間52分


    ■8月11日、ステージ54

    距離/73.6キロ

    スタートから脚がまったく上がりません。抽象的な表現ではなく、ホントに脚を持ち上げる力が大腿部の筋肉に残ってないので、地面にある1センチくらいの突起に何度も蹴つまづきます。歩幅は50センチがやっと。それでも必死だから心拍数は上がり息はゼェゼェいってます。制限時間に遅れないためのギリギリペースを保つので精一杯です。
    インディアナ州の州都・
    大都市インディアナポリスの高層ビル群に囲まれたメインストリートを駆け抜けます…そうならカッコいいんだけど、現実は、歩道にある10センチほどの段差すら越えられず、アゴの先から汗を滴らせて苦闘するばかりです。
    スピードが出ない場合、エイドで脚を止めることもできません。つまり一切の休憩は許されなくなります。
    経過時間と移動距離、速度をGPSで測りながら、制限時間アウトの暗い不安に苛まれ続けます。果てしない耐久戦を8時間し、50キロを過ぎた頃、やっと脚の動きが良くなりはじめました。なんぼなんでも遅すぎます。ウォーミングアップの距離として50キロは長すぎです。こんな体質じゃ、日本に帰ってフルマラソンの大会なんか出られやしない。ウォーミングアップ中にゴールテープを切り、いよいよスパート可能って時に、豚汁やうどん交換券持って行列に並ばなくちゃいけない。
    かくして50キロ以降、人が変わったようにタッタカ走りはじめ、今日もぶじ制限時間をクリアできました。


    記録/12時間22分

    ■8月12日、ステージ55

    距離/86.7キロ

    朝、震えるほど寒いです。ここ半月で北緯を500キロ上げてきたけど、蒸し暑さにうんざりしていた数日前とは別天地。白い息たなびかせながら、正面に瞬くオリオン座に向かって走りつづけます。
    夜が明けてから、いくつかの小さな田舎街の商店街を通りました。
    「走って寝て」を繰り返しす今回の旅では、観光はいっさいできない代わり、普通の観光旅行では絶対に訪れない人口数百人の街を訪れられます。もちろん街の喫茶店でひと休みってわけにはいかず、速足で移動しながらの見物です。それでもアメリカの田舎の暮らしぶりや、時間の流れ、人の性格もかいまみられて、愉しいものです。

    午後から両方の足の裏、土踏まず部分が熱くなり、激痛に変わっていきました。尖った岩の上を裸足で踏みしめているようです。
    だけど最近は痛みを恐れないよう考えています。それは身体が外部環境に合わせようと必死に修復しているサインだから。
    痛み、腫れ、化膿、発熱…これらは身体がさまざまな化学反応を起こしながら、弱い部分を強く変形させようと頑張っている過程で生じる産物です。
    「ああ、ご主人殿は毎日80キロを走りたいのだな。じゃあこのパーツをバージョンアップさせなくちゃな」と。
    大会中、どんな大きな怪我をしても、必ず治ってきました。そして二度と同じ場所を傷めることはありません。人間の環境対応力のすごさに驚かざるをえません。
    ロサンゼルス出発から今日で4000キロを越えました。ニューヨークまであと1100キロ余り。東京・博多間の距離くらいかな。ようやく日本人の距離感覚でも理解できる遠さになってきました。嬉しくもあり、少し悲しくもあり。

    記録/14時間38分
  • 2011年08月11日バカロードその29 北米大陸横断レース LA-NY 2011 ステージ46〜ステージ50
    ■8月3日、ステージ46

    距離/88.4キロ

    大会開始以来、2番目に長い距離。今日も生き残りました。しかし、もうへとへと。ゴールしてホテルの部屋に倒れ込み、ベッドに横たわれば、ぴくりとも動けません。足の裏は饅頭をくっつけたように腫れあがり、ジンジン焼けるように熱いです。

    シューズの状態がとても悪いです。そもそもぼくの補修の仕方に問題があります。ミッドソールと呼ばれる靴底の軟らかい部分、衝撃吸収してくれる所をすべて擦り減らし無くしてから、タイヤの切れ端を貼っつけてたんです。
    タイヤ材は高さをかさ上げはしますが、材質としては非常に硬質なんです。これでは、靴底の硬いビジネス革靴を履いて80キロ走っているようなもんです。
    多くのランナーは10足から20足のシューズを大会用に持参しています。底が擦り減れば即新品に交換。
    ぼくはたったの3足。そして3足とも既に靴底の軟らかい部分はなし。タイヤの補修もヘタクソて、時にハイヒールを履いてるような不安定。ナイフで削ったり、ヤスリで磨いたり。チクショー!走りにくいよー。

    記録/14時間09分

    ■8月4日、ステージ47
    距離/72.6キロ

    朝起きると必ず鼻をかみます。大会2日目から45日間続けて出ている鼻血が、朝には2センチ大の血栓となって鼻の穴を完全封鎖するからです。
    今朝も鼻血の塊を出そうと思いっきり鼻をかむと、鼻腔にひっかかる物なく鼻息が空振りしました。45日ぶりに鼻血が止まったんです。ついに自然環境に順応する日が来たのかな。今ごろ遅すぎ?

    朝から調子よく飛ばしていましたが、20キロ過ぎに右脚のスネがズキズキ痛みはじめ、30キロあたりで走行困難な強い痛みになりました。氷をあてがい、強い鎮痛剤を使用限度を無視して飲みましたが、脳天まで突き抜ける痛みは変わりません。骨にヒビが入ったのかと疑うほどです。
    怪我した右脚以外を総動員して前進します。左脚で踏ん張ります。腕を振ります。
    10メートル走っては痛みで止まり、歩きで繋ぎながら、次の走る準備をします。10メートル走り、10メートル歩く。気が遠くなるくらい同じことを繰り返しました。
    ゴールにたどり着けば、もはや10センチの段差も越えられない痛み、筋肉疲労。
    走っても走っても、ぼくは強くなれません。大会初日を除いてまともに走れたことなど一度もありません。
    「数千キロを走る大陸横断レースでは、速いランナーが完走できるとは限らない。最後まで走り続けられたランナーこそが結果として強いランナーに成長してるんだ」と大会開始前にベテランランナーの方が教えてくれました。
    確かに生き残っている選手たちは精神力も肉体の強さも走力も凄いです。それに比べてぼくは、怪我をしてない時はなく、心はもろく、秀でた走力もありません。5000キロも走るんだから、最後の方になると凄く強いランナーになってるかもな、なんて淡い期待を抱いてましたが、まったく逆です。もはや走ることすらままならない身体になっています。明日、ぼくはスタートできるんだろうか。

    記録/12時間9分

    ■8月5日、ステージ48
    距離/76.0キロ

    朝起きたら右脚の痛みが消えている…という淡い期待は叶いませんでした。状態は昨日より悪く、ホテルの階段をなかなか降りることができません。ロクに歩くこともできない人間が、今から数分後から何十キロも走れるんだろか?
    スタートの合図の後、当たり前のようにすべてのランナーが走り去ってしまい、走れないぼくは一人取り残されました。必死に歩きました。歩くだけでは制限時間に間に合いませんが、他に方法が見当たらないので歩きます。暗闇を、ヘッドランプの明かりを頼りに、息が切れるまで必死に歩きます。

    雨が降りだしました。朝から雲が出るのは珍しく、ましてや雨が降るのは初めてです。本降りが3時間も続きました。傷めた患部が冷やされ、少し痛みが引いてきました。峠道の登り坂に差しかかる頃、ひょこひょこ走れるようになってきました。
    何か大きな力を感じざるを得ません。今回の大会では、もうダメだってときに、何度も偶然や自然現象によって救われています。だからって神様仏様の存在を感じるほどの感受性はありません。ただ「まぐれにしてはできすぎている」という出来事が多いなと感じてます。
    ヨロヨロ走ってるぼくを大会スタッフが見つけると、車で併走しながら「ニューヨークに行こう!君にはニューヨークが見えてるだろ!走れ!行けBANDO!」と励ましてくれます。
    でも今のぼくにはニューヨークは見えません。明日どころか今日、どこまで走れるのかもわかりません。10キロ先まで進めているのかすらです。
    本当に本当に疲れきってゴールしました。痛みは右足首まで拡がり、90度のまま動かすことができません。伸ばしても曲げても激痛です。最悪と思っていた今朝よりはるかに悪化しています。ますます明日が見えなくなっています。

    記録/13時間02分

    ■8月6日、ステージ49
    距離/68.3キロ

    今までの怪我は、最初ガツンときて、毎日10パーセントずつ回復していく感じでした。今度の右脚スネの故障は、毎日悪化し続けています。この行き着く先が怖いです。
    なんで50日近く走って今更こんな怪我…と苛立ちます。痛みはすべての精神活動を停止させます。朝3時50分に目覚ましが鳴り起きると、90度のまま動かない足首にがっかりします。スタートラインにつくまでの数十メートルの移動に冷や汗を流します。手摺りがないと階段は昇降できません。
    朝5時にレースが始まり夕方ゴールするまでの十数時間、感情の90パーセントは「痛い」に支配されています。逃れられない痛みに心が鬱屈し、この状況から逃れたいという弱い気持ちが噴出します。「リタイアを宣言して車で搬送してもらい、ホテルのベッドで一日中寝てられたらどれだけ気持ちいいだろう」と何度も思います。
    今日も積極的にレースを組み立てる余裕もなく、ただただ制限時間にギリギリ間に合うペースを守ることだけを求め、走ってるんだか歩いてるんだかわからない奇妙なフォームで、果てのないイバラの道を行きました。
    1キロを10分で進めば何とか制限時間に間に合いますが、キロ10分を維持できません。息を切らし、顔を歪め、脂汗をじっとり滲ませ、必死に食い下がります。
    失格時間の9分前にゴールすると、もう一歩も歩きたくなく、その場に崩れ落ちました。

    記録/11時間51分

    ■8月7日、ステージ50
    距離/87.4キロ

    87キロという距離を、いったい全体どうやって壊れた脚で走り切れるというのでしょうか。
    完全に追い込まれました。今日でぼくのレースが終わるなら、せめて攻めに攻めて終わりたい。破れかぶれでも前を向いて走りたい。怪我を気にして下をうつむいたままの恰好で、ぼくのレースに終止符を打ちたくない。
    不意にある場面が脳裏に浮かびます。「五体不満足」の著者、乙武君があるプロ野球の試合の始球式をする映像です。彼はリリーフカーに乗らず、ベンチから猛ダッシュでマウンドに向かいます。彼がこんなスピードで走れるなんて、という驚きと、四肢の欠けた彼に対して「わーすげー」と素直に驚きを表現できない複雑な気持ち。それから彼はちゃんとグラブをはめ、硬式ボールを首と肩にはさみ、彼が考案したらしいピッチングフォームで、バッターの近くまで球をちゃんと投げ、また走って帰ったのだった。
    記憶は曖昧なんだけど、その映像を見た時の気持ちは「恰好つけやがって」でした。ハンデキャップを逆手にとって誰がどう見ても圧倒されることをサクッとやりやがって。カッコイイね。
    今走りながらぼくは、乙武君の百分の一の努力もしてないことに気づきます。脚がいくら痛いといっても、立ち上がれないほどではないし、足首が曲げられなくても、走るのに障害になるほどじゃない。
    何かあるはずだ。何が方法があるんだ。
    それからいろんな試みをしました。ある特定の足首の角度で、ある脚の踏み出し方ををすれば、痛みが少ないことに気づきました。現在、故障の少ない左脚のキックをロスなく推進力に変える方法も見つけました。
    しかしたったこの程度のことです。ヒントをくれた乙武君に深々とこうべを垂れたいです。
    そして、どんな状況でも、笑って前に進むためにここに来たことを思いだしました。
    人間の身体とは不思議なものです。前向きに克服しようとすれば、「そうか。治したいなら、治してやる」というエネルギーが患部に集まり、腫れ、熱を持ち、膿を出しながら自己治療に入る気がします。
    痛さが度を過ぎて麻痺しているのかどうかわかりませんが、ラスト30キロは久しぶりに痛みから開放され、走れました。
    ゴールした直後、主催者ロールさんやセルジュ選手に怪我の具合を聞かれ「人間の身体は不思議です。あんなに痛かったのがランニングを続けていたら治りました!」と満面の笑顔で説明し、さて椅子から立とうとすると、自力で立てません。激痛をカバーするため必死に走り続けた全筋肉がいっせいに休養に入った模様です。まったく人体ってどんな仕組みでできてるんでしょか。

    記録/14時間50分
  • 2011年08月04日バカロードその28 北米大陸横断レース LA-NY 2011 ステージ41〜ステージ45
    ■7月29日、ステージ41
    距離/71.6キロ

    この大会は「オールド66」と呼ばれる旧ハイウェイ66号線をコースの多くに採用しています。
    街道沿いには家具や服などのアンティークショップや「66」グッズの店、最終的には商品だかゴミだかわからないような骨董品を売っています。
    ここには、アメリカ懐古派というか20世紀中盤のカントリーポップのヒットランキングがそのまま全米チャートだった時代そのままの生活様式を営んでいる人が少なからずいます。彼らは時間が過ぎるのををゆっくり愉しんでいるように見えます。大会の噂を聞きつけ私設エイドを出してくれたりして、選手に興味津々な対応をしてくれます。
    ルート66はLAからシカゴまでの弾丸ルートだったので、ぼくたちはあとしばらくこの懐古派たちが夢うつつに暮らす街々を楽しめそうです。

    ワールドツアーを計画中のセルジュ選手に、四国遍路が培った沿道の文化について説明しているとすごく興味を持ってくれました。セルジュ・ジラールが四国を走る絵柄を想像すると大興奮です(ぼくだけ)。ぜひ来てくれないかな。

    走りながらアイスクリームを買うことを覚えました。てか、自分では買ってなくて他の選手におごってもらってます。明日からは小銭を持ち自腹で買い食いしたいと思います。ちなみにぼく同様甘党のジェームス選手(英国)は、マクドナルドが現れるたびにバニラミルク味のシェイクを買っています。

    右脚のスネを傷めました。40日目を経てはじめて右脚の故障です。今までよく耐えてくれました。
    左脚は下から足首、アキレス腱、ふくらはぎ、膝、大腿と、すべて故障してきました。この左脚くんを支えてきてくれたのが頑丈な右脚くんです。
    右脚くん今までホントにありがとう。明日からは劣等生だった左脚くんが君を支えるよ。

    記録/12時間14分


    ■7月30日、ステージ42
    距離/83.1キロ

    朝から足が軽く快調に飛ばしました。午前中にはロサンゼルスから3000キロ地点を越えました。
    今日は久々に上位に食い込めるなと気分よく走っていると、快晴だった空を、ものの一時間で真っ黒い雨雲が覆い尽くしました。
    稲妻が地上へと光の筋を走らせ、その先では巨木が真っ二つに裂けるような音がします。あるいは爆弾が落ちたような衝撃音が鳴り響きます。
    小犬がひっくり返り、鳥が地面に落ちてくるほどの横殴りの風、そしてシャワー全開レベルの雨。まさに嵐です。それでも雨宿りせず走りつづけました。嵐は一時間くらいで収まりましたが、雨雲が去っても未舗装道には濁流が残っています。
    雨に濡れた服で走り擦れたのか、股ズレの症状がでました。まったく(ため息)3000キロも走って何ともなかったのになぜ今頃?と腹立ちます。股ズレは馬鹿にできません。ひどい場合は皮膚を失い生肉が露出した状態、つまりひどい火傷のようになり、走るのが困難になります。ワセリンをたっぷり塗りましたが、悪化しないことを祈りたい。
    レースはそのまま頑張って5位に食い込みました。ホテルに入りバスタブに横たわると全身に紅い湿疹ができていました。何か食べ物が悪かったんだろうか。明日までに治ればいいけど。


    記録/13時間14分

    ■7月31日、ステージ43
    距離/66.5キロ

    まさか今日、完走が途切れる寸前の深刻な事態に陥るとは想像もしていませんでした。コースは66キロと短距離であり、80キロ以上が続いた数日の疲労を抜く日だとランナーはみな考えている軽い日のはずなんです。

    十数キロ走った頃に異変に気づきました。今朝いったん消えたはずの紅い湿疹が、脚に腹に顔にと全身に現れています。それから2時間ほどで、正常な皮膚が見えなくなるほど広がりました。
    厄介なのは股間です。脚を前に繰り出すたびに、湿疹を発症した皮膚とウエアが擦れ、激しいに痛みに変わっていきます。中間点を過ぎる頃には、燃え盛った焼印を押し当てられる激烈な痛みになりました。
    いわゆる股ズレというヤツとは違います。内腿には紅い湿疹の塊が30センチ以上の幅で皮膚を厚く盛り上げ、象皮病のような模様を刻んでいます。数百の突起が合体したもので、ひとつひとつが神経の痛点をむきだしにしたかのごとく。触ると痛みで気が遠くなります。
    皮膚表面はひどく熱を持ち、体温を上昇させ、頭痛と吐き気を呼び起こします。
    もはゆ走りたくても走れません。後半30キロを歩き通しました。制限時間まで10分を切るスレスレのゴールでした。
    ゴールしてから風呂場に直行しました。水風呂に浸かっているのに皮膚は熱い。内股の皮膚はモンスターのようです。見ているだけで気持ち悪くなり、風呂からはい出てベッドに横になっていると、半死にのぼくより更にゴールが遅かったフィリップ選手(フランス)が、アタッシュケースくらいある巨大なプラスチックケースを持って現れました。彼がおもむろにケースを開くと中には50種類以上の薬が詰め込まれています。
    そうです。お調子者でオカマっぽいフィリップですが、母国フランスでは大きな薬局チェーンの経営者なのです。彼はぼくの股間をしげしげと見つめた後、ケースから飲み薬と塗り薬を出し提供してくれました。
    ああ、この薬が効きますように。明日のスタートラインに立てるかどうかはオカマのフィリップに委ねられた!

    記録/11時間35分


    ■8月1日、ステージ44
    距離/46.8キロ

    朝起きたら大半の湿疹が消えていました。フランスの薬局王フィリップ選手がくれた謎の薬が効いたのです!すごい効き目!
    ところが走り始めてみると、普通ではない精神状態に混乱がはじまります。
    まったくやる気が起こらないんです。やる気どころか、正反対の「やらない気」が異常に強い。
    木陰に居心地よさそうなベンチが置かれてるのを見かけると「あそこで昼過ぎまでうたた寝して、今日で失格になってやろうかコノヤロー」
    牧場で乳牛がのんびり草をはんでいる姿を見て「今から牛の世話でもして牧場主と友達になり、夕方まで忙しくなって走るどころじゃなくしてやろうか!」
    とにかく、やる気のない行動への強烈な指向が脳を支配して拭い去れません。薬局王フィリップ、いったいぼくに何の薬を盛ったのか!
    しかし人間の意識なんて、薬物ひとつでこんな簡単にコントロールされちゃうのかよ。おもしろいけどね。
    その後、真夏日和にガーガー汗を流したら、次第に薬物の影響も薄れていき、ゴールする頃にはまっとうな人物に戻っていました。

    今日から8月に入りました。6月中旬に始まったこのレースも最後の月に突入したわけです。
    ぼちぼちニューヨークへの完走の確信も掴めそうなもんですが、そうは問屋が卸しません。
    8月、行程はゴールが近づくほどに厳しさを増し、80キロ台、90キロ台が連続する地獄のシリーズが始まります。最後の最後まで完走を阻むサディスティックなコース設定がこの大会の特徴です。
    よおし、受けて立ってやろうじゃないの。厳しけりゃ厳しいほど、得る物は多いってもんだ。ぐちゃぐちゃにしてみやがれ。どんと来いコノヤロー!
    …って寝る前にして、異常にやる気が出てきました。はたしてこれは、本来のぼくに由来したやる気なのか、あるいは薬局王フィリップの薬物の副作用の再反動か。なんか相当怪しくてややこしいね。

    記録/7時間47分


    ■8月2日、ステージ45
    距離/48.1キロ

    朝起きると吐き気がして胃の中の物をぜんぶ吐瀉戻しました。まったく何なんだ?いつまで虚弱体質かよ。少しは環境に慣れろっつーの!
    自分にイライラして走りだせばゲロ吐きなど嘘のように脚が軽い。走る前は「今日は500メートルも走れん」と思っていても、いざ走れば平気。そんな経験を何度もしました。いったい疲労感とか体調不良って何だろね。ほとんどが精神状態の影響下にある気がします。
    そういえば全身に現れた紅い湿疹ですが、ランナーのうち少なくとも6人に同様の症状が出ています。3日前の嵐に打たれてからです。あの嵐は何を運んできたのだろう。ちょっとしたミステリーです。スティーブン・キングの小説みたいね。モダンホラーの巨匠キングの物語にはよくトウモロコシ畑が登場するんだけど、日本で本読んでてもピンと来なかったけど、アメリカ走ってわかった。その場所こそがアメリカのリアリティなんね。日本でいう田んぼに揺れる人魂の世界観なんです。どこにでもあって、昼は明るく、夜は影に覆われている。ザワザワ揺れる奥中に何かが潜んでいる…万人が恐怖を感じる家の隣の世界。紅い湿疹が、ぼくたちが怪物に化ける前兆でないことを祈ります。

    で、快調に走りつづけました。
    マルカス選手(ドイツ)はオーストラリア大陸横断レースの完走者であり、ぼくなど足元に及ばぬ実力者なのですが、当レースでは序盤に体調を崩しリタイアを余儀なくされました。それでもランキング外で懸命にレースを続ける姿勢に心打たれます。
    今日は彼に質問を受け、ぼくねアフリカ徒歩横断の体験をずいぶん長時間話しながら走りました。ハイペースな彼に並走して話すのは大変でしたが、すごく楽しかったです。日本では誰からも質問されたり、興味を持たれるない冒険紀行だけど、ここでは興味津々、目を輝かせて聞いてくる連中がいます。同じ次元で難易度や攻略方法、体験談を話し合えるのは嬉しいです。
    あっという間に今日のレースは終わり、明日から続く地獄の25連戦に備え昼から安宿で寝ています。
    こっちのテレビでは地上波でWWE(プロレス)やUFC(総合格闘技)が毎日観られます。派手な演出、ドラマチックな物語と煽り映像、レベルの高い攻防…それに比べて日本のプロレス界の凋落ぶりはどうだ。いい選手はいるのに仕掛け人が不在なんです。遠い国のリングの復興を夢見ながら、浅い眠りに誘われます。

    記録/6時間24分
  • 2011年08月04日バカロードその26北米大陸横断レースLA-NY 2011ステージ前日〜ステージ20
    ■6月18日、レース24時間前

    大陸横断レーススタートまであと一日。
    昨日大会開幕セレモニーがあり、五大陸横断のセルジュ・ジラールはじめヨーロッパ大陸横断の王者ら世界中から超長距離走のスーパースターや冒険家が顔を揃えました。日本人ランナーも、ぼく以外は日本のこの世界を創りあげてきた伝説的な人ばかり。17人のチャレンジャーをサポートするために25台ほどの車がキャラバンの列をなす予定。昔の冒険活劇映画の開幕シーンみたいな世界になりそうです。
    ぼくはもちろん世界のトップに互する力はないので「脚が折れても完走」狙いです。
    今深夜2時なんですが興奮やらなんやらが入りまじって眠れてません。このままスタートラインにつきそうだけど、まあ問題なし。自分の力を全部出して燃え尽きてもまだ魂で前進する。覚悟完了しています。

    ■6月19日、ステージ1
    距離/73.5キロ
    ついに大陸横断レースがはじまりました。全大陸横断を決意し4年目にして、その入口に立ったわけです。
    レース会場に向かう車中で身体が熱く小刻みに揺れています。武者震いなんて自分でもするんだと驚きました。
    スタート直後からトランスヨーロッパ(欧州横断5000キロレース)王者のドイツ人、ライナーが抜け出しました。誰も追い掛けようとしないので、なぜかぼくが追いはじめます。
    完全に立場を見失っています。ライナーはキロ4分台でサクサク逃げていきます。今から5300キロ走るのに何考えとんな。でも、あきらめず追い掛けます。20キロ近くまで追走しましたが、ごく当たり前のようにチギられました。
    しかし100キロ7時間台のスピード選手がゴロゴロ出てるのに、なんでぼくが2位におるん?長いこと生きてると、たまにはいいことが用意されてるのかな。結果的には3位に落ちたが、あー超楽しすぎるんですけどコレ!
    あしたは900メートルの登り、泥道ぬかるみ道の78.7キロ。コケなきゃいいけど。

    記録/8時間12分
    ステージ順位/3位
    総合順位/3位

    ■6月20日、ステージ2
    距離/78.6キロ

    今日も王者のライナー選手に挑戦しました。スタートから逃げるだけ逃げて、どこまでトップでいけるかやってみましたが、あっさり10キロで笑いながら抜かれました。
    30キロからは、標高1200メートル以上まで登るきつい坂が延々つづきます。最後の20キロはトレイルと呼ばれる山道ですが、乾燥しきったハゲ山の砂地を果てしなく登ります。
    すでに街はなく完全な荒野です。直射日光が肌を痛いほど焼きます。
    残り15キロあたりで意識が朦朧としてきました。激しい嘔吐がはじまり、胃の中の物を30回くらいかけてすべて吐きだしました。
    走るどころか、立っているのも難しくなりました。最後の10キロは意識がありません。ゴールであるホテルの玄関で倒れました。
    たった二日走っただけでこのありさま。情けない気分です。
    腹の周りについていた脂肪がきれいに無くなりました。人間って一日でこんな痩せるもんなのね。

    記録/13時間12分

    ■6月21日、ステージ3
    距離/76.3キロ

    ステージ2で脚を痛めたフランス人選手がリタイヤすると主催者から説明がありました。世界中の超長距離の大会を転戦している著名ランナーです。あっけない終わりです。
    今日は、焼けただれた砂漠のような荒野のなかを走ります。アスファルトの表明温度は60度にもなり、熱したフライパンの上を走るようです。風は吹いても熱風で、身体の水分を全部奪い去ろうとするかのようです。
    昨日はじまった嘔吐は更に悪化し、道ばたに50度以上吐きました。といっても何も食べてないので、大半がカラゲロです。吐く度に時間を使うと制限時間に間に合わなくなるので、走りながらゲロします。コーラなど飲んでないのに真っ黒な胃液がでました。胃壁から出血してるんでしょうか。
    中間地点まで行かないうちに、座りこんで嘔吐しつづけ、もう完走なんて絶対無理なのかなと思いました。
    日本チームのサポートをしてくれている方が、熱中症は身体を冷やすしかないと、全身を氷で冷やします。帽子の中、首筋に氷を巻いたタオル、アームカバー…、さらに頭から氷水を間断なくぶっかけます。
    どんなびしょ濡れにしても一瞬て渇きます。
    氷が効いたのか、何とか意識を正常に戻しました。制限時間の8分前ゴールです。
    日本人ランナーの石原さんは数々の砂漠やジャングルなどのアドベンチャーレースに参戦するウルトラランナーです。
    体調悪く、どう考えても制限時間に間に合わない位置を走っていましたが、全力でゴールに駆け込み1分前にクリアしました。が、ゴール後にそのままアスファルトに倒れ動けなくなってしまいました。

    記録/13時間22分

    ■6月22日、ステージ4
    距離/81.9キロ

    連続ステージレースの厳しいとこは、走り終わったあとから翌日のスタート時刻まで極めて時間がないこと。3時間くらいの仮眠がやっとです。
    今日はレース序盤の山場、81.9キロの長丁場のうえ、完全な砂漠気候になります。
    前日までのダメージは仮眠では抜くことができず、宿の部屋では四つん這いで移動しています。
    歩くのもままならないのに、よく走れるなと自分でも思いますが、スタートのコールがあると、よたよた走れるから不思議です。
    今日もまた上に戻しながらです。この3日間、固形物は何も食べていません。ジュースやコーラも受け付けないので、吸収カロリーほぼゼロで、毎日6000キロカロリー分の運動をしています。ぼくの身体はどうなってるんでしょうか。
    序盤のペースをあげられなかったため、残り30キロて、どう考えてもゴール閉鎖時間に間に合わない状況になりました。
    あきらめはしたくないので、一切の停止をせず、走り続けます。氷水を全身にぶっかけながら、必死に前を目指します。
    残り20キロで「こんな苦しいこと初めてだ」と実感しました。残り10キロで意識が飛びはじめました。ゴールまでは失神しないように必死に意識を保ちました。
    制限の4分前にたどりついたゴールで倒れました。
    まだ4日目なのに、弱すぎるとがっかりです。
    今日、日本人ランナー2人がリタイアしました。日本のウルトラマラソンの歴史を作りあげてきた尊敬すべきお2人です。無念です。

    記録/14時間56分

    ■6月23日、ステージ5
    距離/45.6キロ

    ずっとメシを食べられてなかったが、昨晩ようやくインスタントラーメンを一個食べられた。
    今日も気温の上昇著しく50度近い。地面からの輻射熱がひどく、脚を火鉢であぶられているよう。唇は日焼けでタラコ状に腫れボロボロです。
    今日は比較的距離の短い日だが、休火山がはきだした溶岩地帯では、岩つぶてまで運ぶ熱風が正面から吹きつけるそうだ。
    短い距離でも苦闘はかわらない。火事の現場の中にいるような熱風のなか、脚にできた5センチ大のマメの激痛に泣きながら、またもや制限時間をギリキリでクリアした。
    本日、オランダ人の女性ランナーが時間内完走できなかった。欧州横断3000キロなど走る強いランナー。時間内にはたどりつかなかったものの、ゴールラインまで歩いた。ゴールすると周囲の人にささえられなければならないほど衰弱していた。

    記録/7時間56分

    ■6月24日、ステージ6
    距離/64.0キロ

    今日は自分では考えられないほど精神の浮き沈みが激しかったです。残り10キロを走っているあたりで、連日同様に嘔吐を繰り返し、ぐじゃぐじゃになった脚裏の痛み(マメが合体してき超巨大マメになった)に堪えかねて、ついに「ここから逃げ出したい」と心から思いました。ずっと失神しないよう、氷水をかぶっていたけど、もう意識不明で倒れた方がよほど人間として賢明ではないかと思い、倒れやすい場所がないか探しましたが、どの岩も砂も火であぶったように熱く、倒れることも叶いません。
    昨日まではキツくても前向きに走っていましたが、ついにヘタレ根性があらわになってきました。自分にがっかりしながら、今日もまた最終ランナーとして、大会スタッフの大声援を受けてゴールしました。
    15人いたランナーですが、一週間も経たないうちに全ステージクリア者が10人に減っています。サバイバルレースは過酷を極めています。
    走り終えるとその地域の安いホテルに泊まります。部屋の中では、脚の痛みて歩くことも大変。四つん這いも厳しく、逆四つん這い(腹が上)で移動しています。こんなんで明日、スタートラインに立てるんだろうか?

    記録/11時間22分

    ■6月25日、ステージ7
    距離/63.7キロ

    歩けないのに走れるのか? 答えは否だ、ではない。
    明日のことを考えるのはやめよう。今日をいかに生きるかだ。
    両足の巨大なマメは毒々しく化膿し、血と膿が混ざりあって吹き出す。足の裏を地面につけば、針の上に押しつけるよう。一歩ごとにウゥと叫ぶ。
    こんな足で63キロも走れるのか。と疑問をていしていても状況は変わらない。やれること、ぜんぶやろう。
    マメをぐるぐる巻に固くテーピングした。
    スタートから全力で走り、呼吸の苦しさで痛みを飛ばそう。制限時間までの時間を稼ごう。
    スタート前。何人かのランナーは疲労の極限か、あるいは怪我で立っていられない。ぼくは座ったままだ。スタートとともに走りだす。一歩ごとに痛みで叫ぶ。
    だが走れている。つま先がダメなら踵で走ろう。脚がダメなら腕を振ろう。今使えるものを全部動員して今日を生き延びよう。
    脚を止めると二度と走れだせない気がして、30キロ過ぎまでハイピッチで飛ばした。総合2位のパトリック(フランス)をリードした。だが30キロで身体が動かなくなる。今日も酷暑と熱風は尋常ではない。
    一度立ち止まると足裏のの痛みが目覚め、もう歩くこともままならない。ゴールまでの長い長い30キロを足を引きずりなんとか完走する。今日もラストランナーである。ラストだから毎日大声援を受ける。走れもしないランナーがゴールラインを歩いて越える。
    主催者はフランス人で、スタッフもみなフランス人。フランス語で称賛してくれるが、もちろん意味はわからない。けど、何となく相通じている。

    記録/11時間18分

    ■6月26日、ステージ8
    距離/82.0キロ

    前半戦最難関のステージです。距離が長いだけでなく、標高1200メートルの峠までの登り降りを含んだ、ほぼ全ルート坂道です。
    スタート時点から最初の平坦な15キロを飛ばすだけ飛ばし、時間稼ぎするつもりです。
    時間かせぎとは、当大会で設定された「制限時間=距離×時速5.6キロ」に対してのことです。時速5.6キロなんて大したこてないと考えていましたが、このクリアは大変難しいんです。
    走っている最中でも、少なくとも栄養補給のための食事やトイレをしなくてはなりません。その間は停止したりスピードが落ちたりします。その要素含みで時速6キロ=1キロ10分で押し切っていくことを完走の目安とします。1キロを10分より速く走れた分が終盤への貯金となるのです。
    今日はスタートからキロ5分台で入ります。15キロ以降の急激な登りに備えて前半で貯金します。
    峠道に入った30キロまで王者ライナーに続く2番手ですすみました。貯金も1時間以上でき、やっと自分の思いどおりのレースができるかなと感じていたとき異変がおこりました。
    最初は小さな違和感です。左脚のフトモモ前部に紙をカッターで切り裂くような痛みが走りました。走っていたらアチコチ傷めるのが普通です。走っているうちに治るだろうと気にせずいましたが、時が経つごとに痛みが大きくなり、最初の違和感から30分もしないうちに、激痛に変わりました。
    痛いだけなら我慢すればいいんだけど、力を入れることができなくなりました。フトモモ前部の筋肉がまったく動かないのです。つまり左脚を前に出せない。
    「終わったのか?」と思いました。今日の残り距離数は50キロもあり、激しい登りです。この脚でゴールに届くのか?
    しかしあきらめる選択肢はありません。今やれること全部やろう。
    サポートクルーの車まで片脚ケンケンでいき、大量の氷で患部を冷やしました。走ってみました。ダメでした。テーピングもダメでした。
    最後に考えたのは固定してしまうことです。ふくらはぎ用の細い着圧タイツをフトモモまであげ、筋肉をガチガチに固めるのです。
    動いてみました。筋肉が収縮ができないレベルまで締めたので、左脚はただの「棒」としての機能しか果たさなくなりました。しかし歩けなくはありません。
    残り45キロ、歩き通すしかないんです。
    左脚を前に振り出せない、という前提でどうやってゴールに向かうか?
    いろんな動きを試しました。いちばんマシなのは、左脚を単なる杖として考え右脚の力で進んでいくことです。ロクな方法ではありませんが、悩んでいる暇があれば一歩でもゴールに近づく必要があります。前半に作った1時間半の余裕時間を切り崩しながら絶対にゴールにいく!
    マカロニウエスタンの映画の背景にぴったりの、赤い岩峰が林立する広漠たる世界。蝿の羽音以外は無音。そこで息使いも荒々しく、ぼくは片脚で走る作業を繰り返します。

    10時間近く続けました。
    山麓は再び気温45度。途中、手違いから水の補給を受けそこね脱水で意識失いかけました。何もかもが焼けただれた砂漠なのに、寒気がして全身に鳥肌が立ち、地面が顔のすぐ横にある気がしました。

    スタートから15時間という長い一日が終わるころ、ぼくはゴールにたどりつきました。失格9分前でした。精も根も尽き果て、ゴールラインでへなへなと崩れ落ちました。9時間後には翌日のレースがはじまります。明日、自力で立てるのだろうか?

    記録/14時間51分

    ■6月27日、ステージ9
    距離/68.0キロ

    ひどい朝です。一人ではホテルの階段を降りられないので、人に支えてもらいます。
    両足のいずれかを地面につくたびに悲鳴がでるるほど痛いため、結局ずっと悲鳴をあげています。

    また完走の夢が砕かれたランナーが一人。ドイツ人のマルカス選手は、ぼくと走るペースがほぼ同じだったので、何十回となく励ましあいました。おとといのレース中、下痢の症状が悪化し大幅タイムオーバーし完走しました。主催者と全選手協議のうえ「どんな選手でも不慮の事故な体調不良は一度はある。タイムオーバーは一度限り認める」という特例で残りましたが、今日はスタートすることも叶いませんでした。
    9日目、リタイアした選手は6名、残った選手は9名。

    今日は最初から最後まで激しい痛みとの戦いでした。
    また、左脚の膝関節が真っ直ぐのまま曲がらないので、当然スピードも出ません。
    ただ「まだ終わりじゃない」と信じて走り続けました。よたよたでも前進できるのなら可能性はゼロとはいえない。
    途中あまりの痛さに「この痛みは自分の痛みではない。他人の痛みである。ぼくは他人の痛みを自分の痛みとして受けとめられる素晴らしい人物である」という作戦を立てましたが、まるで効き目はありませんでした。

    地平線までつづく長い長い一直線の道を走りつづけ、遠くに今日のゴールが見えてきたとき、ふいに喉がつまり、グエグエと泣きはじめました。今日を生き延びた安堵と、12時間つづいた脚の激痛への何かよくわからない感情です。
    ゴールの広場にたくさんのスタッフや選手が待ってくれているのが見えます。何人かは手前まて走りだして迎えてくれようとしています。
    主催者のロールさんがぼくを支えてくれながらゴールラインをこえました。
    それから用意された一人がけの椅子に座って泣き続けました。
    一人ひとりやってきては「よくやった」「最後まであきらめなかった。お前は強い」と誉めてくれました。
    ただ単に痛いのが嫌で泣いているだけの人物を、よい方向に捉えてくれて嬉しいです。
    最終的には、あまりに泣き続けていて、みなもゴール設備の撤収もあり誰もその場にいなくなりました。
    誰もいなくなった夕焼けの広場で気の済むまで泣きつづけました。

    記録/11時間54分

    ■6月28日、ステージ10
    距離/74.0キロ

    またもやリタイア者が出ました。フランス人のジェラード選手は欧州やアフリカ各地で開催されるレースで幾度も優勝しているトップ選手です。序盤、実力どおり総合2位につけていましたが、スネを怪我してからは、ステッキをついて走る痛々しい姿を見せていました。チャンピオンのプライドを捨て、何がなんでもゴールするという気迫が凄かったが…。ついに歩くことすらままならなくなったようです。
    現在、生き残り選手8人。
    「今日さえ乗り越えればなんとかなる」と毎日思います。明日のことなど考える余裕もないです。
    一日のスタート。ランナーがゴールに向かって走り去っていきます。走れないぼくは必死に歩きます。歩きではどだいゴールの時間に間に合わないのですが、それしかできないから歩きます。
    封印していた痛み止め薬を飲む決断をしました。誰に聞いても、飲んではダメだと言います。一瞬痛みを忘れられても、その後もっと深刻なダメージを背負うからです。
    でももうほかに手がありません。走れなくては今日でぼくのレースが終わってしまうのです。鎮痛剤をのむと10分くらいで皮膚の表面全体に弱い麻酔がかかったような感覚がしはずめます。1キロ10分というペースで走ります。ゆっくり走ってケガを治癒させるのです。
    マラソンの瀬古利彦選手が現役時代、ケガで走れなくなったとき、一日に10時間も歩きつづけてケガを治したというエピソードがあります。それを自分もやってみるのです。
    標高1700メートルへと一人静かに登ります。時間ぎりぎりのペースだから、大会スタッフが車で頻繁に見回りにやってきます。「ゆっくりいけ。必ずゴールできる。周りは関係ない。自分に勝てばいい」などといろんな声をかけてくれます。
    60キロまでほとんど誤差なくキロ10分で走りました。そこからは潰れてペースを落としましたが、8分前にゴールに間に合いました。
    世界で初の五大陸ランニング横断を達成したセルジュ・ジラール選手(フランス)が自ら出迎えてくれました。連日潰れきって、砂漠で道に迷った旅人のようにゴールにたどり着く変なランナーを励ましに来てくれたのです。
    しかし映画スターみたいに男前な顔してるなぁとセルジュ・ジラールを見て思い、ボロ雑巾のようにグチャグチャな自分を省みて悲しみが増幅しました。

    記録/12時間52分

    ■6月29日、ステージ11
    距離/49.4キロ

    スタート前から何やら人気です。どのランナーからも各国サポートクルーからも声がかかります。「調子はどうだ」「君はタフだよ」「ドーナツあげよか」など。どうやら2日前にゴールした際に号泣したことがウケている理由のようです。
    まぁもうどうしようもありません。人前で意気地なしをさらけ出してしまったのだから、何とでも、どうとでも捉えてちょうだい。

    今日もまたケガの治癒を最優先としたキロ10分ペースで進みます。激烈な痛みは2割くらいはマシになっているのが若干の救いです。
    他の選手たちはスタート地点から数百メートル背中を見ただけで、二度とその姿を見ることはありません。ひたすら孤独な作業です。
    休憩を入れたら時間がなくなるので、一切ストップしません。汚い話しですが小便も走りながらします。ツール・ド・フランスの自転車選手なども自転車に乗ったまま用を足すことが知られていますが。まあそんなとこです、

    今日もまた制限時間いっぱいです。ゴールが見えてくると、何やら盛り上がっいます。「BANDO!BANDO!」。うわー名前を連呼されています。恥ずかしいので一瞬ゴールに行くのをためらいましたが、迷っているうちに失格になっては元もこもありません。
    するとゴールから人が走りだしてきました。手前200メートルあたりまで、あちこちの国のクルーや大会スタッフがワーッと出迎えてくれ、両手を握られ捕まえられたお猿のような感じでゴールしました。相変わらず周囲は「BANDO!BANDO!」と全盛期の猪木コール並の盛り上がりです。ぼくの手を握りしめてくれたのはもちろん美女ではなく、ヒゲがぼうぼうのおじさんや、体重100キロくらいある大男です。
    ただ今、ぼくの意図とは大きく掛け離れ、男に人気急上昇中です。

    記録/8時間32分

    ■6月30日、ステージ12
    距離/48.8キロ

    神様というものがいるのだとしたら、ときには心優しき施しをもたらしてくれるのだろうか。

    今日の行程は48.8キロと短いものの、標高2100メートルまで高低差600メートルを登る。うち40キロが不整地の林道です。この地域のトレイルは砂と小石が混じった乾燥したやわ道で、アスファルト道のようにスピードは出せません。

    スタート直後、走ってみました。痛いけど昨日までと違い絶対に走れないって感じはしません。ちょっと前のランナーについていってみよう。つけるぞ。集団の中にいる。何日ぶりだ?
    走れる!走れる!嬉しさで飛び上がりそうになるのを抑え、前の選手を追いかけます。1人、1人と追い越すたびに、顔を見合わせます。「ケガよくなったのかい?」「よかったな。ミラクルが起こったな」と声をかけられます。

    キロ7分台で急峻な登りと下りが連続する林道を駆け抜けます。7分台といえば、体調万全な状態ならいくぶんスローなジョグペースですが、今は背中に羽が生えて地面すれすれに滑空させてくれているようです。
    景色が前から後ろへと流れ去っていきます。ロッキー山脈の核心部へとつづくこの気持ちいいトレイルロードを、ぼくは夢うつつで駆けています。
    ペースは後半になるほど上がり、全力疾走ができることも確認しました。
    あっという間に今日のレースが終わりました。
    ゴールには先着のランナーたちが椅子に座って帰ってくるランナーを眺めています。みな、その脚はボロボロです。包帯にテーピングぐるぐる巻きに杖に。ちょっとした野戦病院です。

    フランスで発行している女性向けランニング情報誌の取材を受けました。記者は見たことないくらいの大変な美人で、取材姿勢もていねいだったので、まじめに答えました。それで、「いつまで取材するんですか?」と尋ねたら「明日には帰ります」というので「おや、短いですね」と感想もらしたら、「たぶんあなたは気づいてなかったと思うけど、私は最初から取材してたのよ。あなたが山の中で絶望している所や、ゴールで泣き崩れた時もそばにいたわ」
    見たこともないほどの美女の存在に、何日間も気付かないなんて、どうかしてるぜ!

    記録/6時間39分

    ■7月1日、ステージ13
    距離/65.5キロ(プラス4キロ)

    スタートから30キロまで調子が出ず、眠くて眠くて仕方がなくて、うたた寝しながら走りました。当然びりです。野グソも2回しました。さすがにウンコを走りながらするテクニックはありませんが、強者になるとできます。技としては「そのままもらして、ペットボトルの水をぶっかけて終わり」と「一瞬立ち止まり半中腰の体勢から後方にぶっ飛ばす」という二種に大別できます。今度やってみます。
    30キロ過ぎてようやく目が覚めてきました。ウォームアップに30キロもかかるとは、だんだん異常体質になりつつあるようです。
    今日も後半ほとんどが山林の登山道や林道をゆきます。尖った小石だらけの道は、足の裏の巨大マメに突き刺さり、脳みそにバリッと電流が流れるくらい痛みます。1000回くらい「ギャア!」と叫びました。
    ゴール地点のフラッグスタッフという街はこの地域最大の都市で、街路も入り組んでおり、大会側から指定されたルート図は曲がり角が10ヶ所もあって複雑を極めました。
    ラスト5キロまで来て、曲がり角を一本間違え、道に迷ってしまいました。街の人にさんざん道を尋ね、間違えた地点を把握するまで結構な距離を走ってしまいました。しかも大会ルールでは間違えた場所まで一旦戻らなければなりません。ショートカット予防の措置です。
    正規ルート上に戻り、間違えポイントまで逆走していると、前方から来た大会車両が停まります。勢いよく車を降りたスタッフのオッチャン(いいフランス人)が目を丸くして「おいBANDO!そっちはゴールじゃない、スタートの方向だ!お前はどこに走っていくんだ?」と大騒ぎするので「ぼくは道を間違えたんだ。だからミスした交差点まで戻っている」と説明すると、オッチャンは「お前何キロも余分に走ってるんだからもういいよ。ここからゴールに行けよ」と実にフランス人的な柔軟な判断を述べるのですが、ぼくはズルしたくないのと、この親切で心配症のオッチャンにいつまでも関わっていると時間がどんどん過ぎ、制限時間が近づいてくるので「イッツ・ルール!」と叫んでオッチャンを振り切りました。
    間違え地点に戻り、再びゴールを目指します。親切な大会スタッフのオッチャン車両が、残り3キロを併走してくれましたが、実は立ちションがしたくて仕方ないのに、オッチャンたちが車の窓全開で「ガンバレ!ガンバレ!」と応援し続けるために立ちションできず困りました。
    で結局余分に4キロ走ってゴールすると、「お前はこんだけ走って、まだ走り足りないのか?」とスタッフたちに呆れかえられました。
    「いや、ぼくは道を間違えてはいない。この街をマーケティングしていたんだ」などの小粋なジョークも用意していましたが、不発に終わりました。

    記録/11時間12分

    ■7月2日、ステージ14
    距離/85.5キロ

    大会はじまって以来の最長距離です。
    スタートからやけに調子よく、5キロほどで先頭をいく王者・ライナー選手の背中が見えてきました。これは挑戦するしかない!
    一気にスパートをかけライナーをかわすと、15キロまで先頭を独走しました。ところが背後に足音がしたかと思うとライナー笑顔で「またあとでね」と余裕のそぶりで置き去りにされました。こっちはキロ5分ジャストで走っているのに、どんなスピード? 連日80キロ近く走ってるステージレースでキロ4分のスピードなんてあり?
    結局、25キロ手前で潰れたため、あとの60キロの長いこと。13時間近くかかり、へろへろでゴールしました。
    主催者ロールさんには「クレイジーBANDO!今朝のあなたは何?あなたの目的は10キロレースでトップになることじゃないてしょ!ニューヨークがゴールってこと忘れないで!」」ときつく叱られました。他の選手たちには「今度はいつライナーに挑戦するんだい?」と笑いながら聞かれました。
    今夜ね宿泊地は小さな集落なため、選手、サポートクルー、大会スタッフ全員での合同キャンプです。といっても公民館の床で雑魚寝です。
    シャワーは水が入った袋を簡易テントの上に吊して浴びる即席仕立てタイプ。
    晩ごはんはパスタ、オリーブの実ライス、鶏の素焼きなどを大会スタッフが作ってくれました。ビールも飲み放題、最高です。

    記録/12時間49分


    ■7月3日、ステージ15
    距離/66.5キロ

    距離は短いものの、600メートルの高低差を一日じゅう登ります。
    昨日85キロ走ったダメージか体調すぐれず、足もまったく動きません。こんなキツい日に、どううまく走りをまとめ、制限時間をクリアするか。その技が大陸横断を達成できるかどうかの鍵を握ります。
    大事なのは、ゆっくりでいいので走りつづけること。急坂も歩かず走る。決して止まらない。
    今日の42キロ地点で、スタートからの通産距離が1000キロを突破しました。1000キロ地点に近づくと、どこからともなく大会スタッフが現れました。1000キロの看板を掲げ、記念撮影が行われました。
    これで全工程の五分の一をやっつけたことになります。たった五分の一なのに、既に満身創痍です。
    2週間止まらない鼻血。
    火傷してケロイド状になった唇。
    左脚は「く」の字の状態から動かなくなっています。真っすぐ延ばせず、曲げられずです。しかし脚一本ダメにしてでもニューヨークまで完走したいです。
    ここらへんの居住者はアングロサクソンではなく、もともと大陸に住んでいた部族がルーツの人々です。
    みな親切で優しい感じがします。農家のトラックを運転するオッチャンが、「ニューヨークまで行くって?何てこったい。君に何かあげなくては」とごそごそ辺りを探し、ドル紙幣を二枚つかんで「これ使って」とくれようとしました。もちろん気持ちだけもらいましたが、日本の田舎と変わらず、アメリカの田舎も人は朴訥でおせっかい焼きの多い、いい場所です。
    ゴールを前にして1キロほど彼方に竜巻が現れました。砂漠の竜巻は黄土色の砂を天空まで運びます。竜巻はみるみるうちに成長し、巨大な柱を文字どおり竜の身体のようによじらせます。
    危ないなと思いつつゴールし、足の裏を氷水でアイシングしていると、竜巻本体が連れてきた砂嵐に襲われました。砂粒が横殴りにバチバチ叩きつけられます。滅多にない経験です。面白いのでそのまま外にいたら、全身まっ茶色の泥人間ができあがりました。

    記録/11時間29分


    ■7月4日、ステージ16
    距離/77.2キロ

    ショックです。左足首を傷めました。着地するたびにアキレス腱に激痛が走ります。
    今日は30キロまで飛ばしたため、制限時間には間に合いましたが、最後7キロは一歩も走れませんでした。いや、走ろうとしましたが、あまりの痛さに走るのをやめ、歩きました。
    明日までに治さなくては、明日でチャレンジが終わってしまいます。今、安モーテルのベッドに横たわって、氷嚢で患部を冷やしまくっています。
    ふと見ると、右足の親指の爪がぐらぐらして取れかかっています。ふだんなら激痛なんだろうけど、他に痛い部位が多過ぎて痛みを感じませんでした。しかし気づいた後は、ズキズキ痛みだしました。発見するんじゃなかったと後悔しても時遅し。

    記録/12時間29分

    ■7月5日、ステージ17
    距離/71.7キロ

    レースを続けられるか、終わりの日となるか、山場の一日。
    左足首に走る痛みで歩行も困難です。だめかもしれない。でも、可能性がゼロではないのなら、やれること全部やる。
    患部はテーピングと圧着タイツでガチガチに固めました。そして強い鎮痛剤を飲みました。
    スタートから20キロは路肩のない悪路です。砂利や草、動物の糞だらけの土の斜面です。
    歩くようなスピードですが走れています。走れる限り光が射しています。
    道ゆく車の多くが手をあげたり、クラクションを鳴らして応援してくれます。街道沿いにはヒッチハイクをする若者が多く、みな気さくに声をかけてくれます。「ニューヨークまで走っていくってぇ!」と映画の中のアメリカ人のように大袈裟に驚き、姿が見えなくなるまで見送ってくれます。
    よぼよぼにしか走れませんが、とにかく前進しています。
    大きな雲が夕立を運んできます。大粒の雨が道を叩きます。通り過ぎた雨雲が大きな虹をかけています。ゴールが近づいてきました。「今日もぼくは生き残った」と取り囲んでくれるスタッフに言うんだろう。
    毎日が紙一重。残る8人は、ぼく以外はこの世界のスターばかり。速く、強く、カッコイイ。多くが企業の支援を受け、またこの世界を生業としているプロです。
    その中で毎日、制限時間ギリギリに、脚をひきずりながら死にかけでゴールに現れるぼくは異質このうえない存在です。
    ハイレベルなランキング上位争いを展開するスター軍国のなかでぼく一人、別の競技を行っているようでもあります。
    しかし、今日もまた生き残りましたた。それだけでいいのです。

    記録/12時間23分


    ■7月6日、ステージ18
    距離/66.4キロ

    はずれかけの親指の爪を見るのが怖いので、テーピングでぐるぐる巻きにしてやりました。これで恐怖シーンを目撃しないですみます。
    今日は、大草原に延びる一本道を、どこまでも走ります。
    今日はひとつの実験的な走り方をしてみました。まず30キロまでをウォームアップ区間として捕らえ決して力を入れない。30~40キロで徐々に速度を上げていきます。40~50キロは我慢のしどころでスピードの維持に努め、50~60キロは呼吸を荒げない程度にベストランニングを心掛け、60キロ以降を翌日に疲労を残さないためのクールダウン区間とします。
    考えたとおりに走り、想像以上に後半スピードアップし、ゴール後も他人に支えられなくても歩けました。
    チームジャパンのサポートクルーの重鎮であり、トランスヨーロッパ(欧州横断レース)を二度も完走している菅原さんが「今日が今までで一番の走りです」と褒めてくれました。いつも「そんな走り方してちゃ完走なんかできっこない」と叱られてばかりなので、ちょっと嬉しかったのでした。コツを掴んだのだろうか。カン違いでなければいいけど。

    記録/10時間15分

    ■7月7日、ステージ19
    距離/64.4キロ

    今日のレースが終わり、小さな街の公民館の床にひっくり返っています。標高2000メートルの高地にも関わらず、直射日光強く、肌は焼けるように熱く、日射病気味になり、今日もまたフラフラでゴールしました。
    全身が熱く、氷をあちこちに挟んで、体温を下げています。
    明日は今までで最長距離の87キロ、あさっては82キロと、80キロ超え2連戦です。
    疲労が極端に翌日に持ち越される分水嶺が75キロあたりです。距離が長いというだけで全身へのダメージが大きいですが、それにも増して睡眠時間がなくなることが疲労の最大原因です。80キロ以上になると走る時間は15時間はかかり、ゴールしてから翌日のスタートまで9時間しかありません。その間にはホテル入り、シャワーと洗濯、夜食など済ませていると、睡眠時間は3~4時間です。これでは前日の疲れが取れるはずもありません。と、なげいてもどうしようもないので頑張るしかねーな。

    記録/10時間31分

    ■7月8日、ステージ20
    距離/87.2キロ

    今日と明日は80キロ以上の2連戦。
    いま左脚は、足首が90度の角度のまま動きません。そして膝も「く」の字の状態で曲げられません。走る機能を失っている左脚で、80キロ2本、乗り越えられるんだろうか。

    長い長い長い一日でした。関門閉鎖15時間30分を破るためにとった作戦は「一度も立ち止まらない」でした。食料補給のエイドはじめ一切足を止めずロスタイムをなくしゴールに向かいます。前に推進する力が右脚にしかない片脚走法では、こんな地味な作戦しか取れません。

    ゴールに着くと日本人の男性が話しかけてくれました。全米バスケットボールリーグNBAの所属チームのスタッフをしており、今日はわざわざ100キロ近く運転して、ぼくたちのレースを見に来てくれたそう。常にコネなしで米国のプロスポーツチームに直談判して働き口を見つけているんだとか。すごいなあ。将来、バスケのボールをドリブルしながら北米横断したいという変な夢を持っている。ぐちゃぐちゃになったぼくの足の裏を見せたても引かなかったので本気なんだろう。若いのにたいしたもんだな。得体の知れないエネルギーを発散してる人は目が違うな。

    記録/14時間58分
  • 2011年08月04日バカロードその27北米大陸横断レースLA-NY 2011ステージ21〜ステージ40
    ■7月9日、ステージ21
    距離/82.6キロ

    朝からくたくたで立ち上がるのも歩くのも必死です。今まではいていたシューズの底のゴムが残り1センチを切ってしまったので、新しいシューズに変えましたが足のサイズが2センチくらい大きくなっており、はいりません。無理にねじ込み走りだしましたが、25キロすぎにいよいよ足が張り裂けそうに痛んだので、元のすりへったシューズに戻しました。
    26キロ地点で大会車両のなかで意識もうろうとしている選手がいました。ジェームス選手(英国)です。熱中症にやられ、動けない状態になっています。大会スタッフが「BANDOが来たぞ。着いていくか?」と尋ねていますが上の空です。着いては来ないだろうと思い走っていると300メートルほど先に進んだ所で、ジェームスが立ち上がり走ろうとしているのが見えます。しばらく様子を見ていると、大量の嘔吐をはじめました。引き返して背中を撫でました。何がなんでもゴールに行きたいという気持ちが伝わります。(こいつを引っ張ってやろう)と思いました。「君はどうしてもニューヨークにいかなくちゃならないんだろ? ぼくのペースは関門ギリギリ通過だけど、必ずゴール出来るから着いてこい」と言って、彼を引っ張ります。嘔吐を繰り返す彼は、まるで大会2日目の自分を見るようです。ロンドン在住の彼のためにビートルズの「一人ぼっちのあいつ」やらなんやら、思いつく限りの英国音楽を歌いながら進みます。彼も死にかけの声て歌います。彼の周りん360度周りながら、全身に霧吹きで氷水をかけながら走ります。徐々に元気を取り戻し、50キ
    ロ近く引っ張った所で充
    分ひとりで走れるようになったので「先に行け」と言うと、「君と一緒に走りたい」というので「ジェームスは、ぼくと違ってトップランカーなんだから少しでも速く行くべきだ。ここからは自分のペースで行ってくれ」と説得し、彼の背中を見送りました。
    ゴールが近づくと、映画「未知との遭遇」に登場するような幻想的な山群に囲まれた巨大な湖が見え、夕日が湖面ばかりか地上全体を紅に染めます。
    今日も長い一日が終わろうとしています。遠くて歓声が聞こえます。ジェームスがゴールしたんだろうな。ほんと毎日いろんなことがあるな。

    記録/14時間12分


    ■7月10日、ステージ22
    距離/62.0キロ

    短いはずの62キロがとても長く感じられました。極度の疲労と寝不足と脚の怪我と…と理由をあげればキリありませんが、結局のところ、心が弱くなっているんでしょう。
    3週間走っています。だけど今はまともに走れもせず、ただその日を生き延びるために、制限時間直前にゴールに間に合うように、ただ淡々と、歩くようなペースで走り続けるだけです。こんな毎日に価値はあるんだろうか? 少しよくわからなくなっています。
    今日の宿はすごいド田舎のカジノホテル。グランドフロアの広大なカジノでは、お年寄りがスロットやルーレットに興じています。アメリカの老後ってこんなん? 日本人のパチンコと大差ないか。
    それにしても疲れました。こんな日は寝るに限ります。

    記録/10時間46分


    ■7月11日、ステージ23
    距離/75.5キロ

    緊張感のある一日を迎えました。ロッキー山脈越えの最高点2783メートルのパロフレチャド峠がゴール地点です。
    今日だけで累積標高差2000メートル近くあり、山の奥に入れば入るほど急な登り坂となって極端なペースダウンが予想されるので、前半から飛ばして時間稼ぎします。
    下り坂はぶっ飛ばし、登り坂ではあえぎながら標高を稼ぎます。
    「こんな所では終われない」と心で何度も繰り返します。ぼくの実力ではタイムオーバーの可能性の方が高い。だから無駄なこと考えず必死に走ることだけに集中しました。
    ここんとこ、走る意味などを考えすぎていささかつまらない心理傾向にありましたが、今日は「走ることに意味などない」とちゃんと実感しました。ただ汗を流して息をあらげて、コンチクショウと前を目指すだけです。誰の役にも立たないことを、自分勝手にやっているだけです。
    でもせめてひとつくらいは自分の立てた目標をやり遂げたい。どんなブザマな恰好でもいいので、ニューヨークまで自分の脚で行きたい。だからこんな所では終われないんだ。
    制限時間まで20分残して峠のてっぺんに着きました。ゴールすると1000マイル(約1600キロ)突破の記念撮影がありました。蟻の歩みのように遅いけど、少しずつ前に進んでいます。

    記録/13時間8分

    ■7月12日、ステージ24
    距離/59.9キロ

    峠の最高地点から一気に下る一日です。標高2700メートルの峠は雪こそないものの、吐く息は真っ白で、凍える寒さです。ほんの数日前まで灼熱の砂漠であえいでいたのが嘘みたいです。
    スタートの合図とともに急傾斜の坂を駆け下ります。足に大きな衝撃が来ます。ところがどこも痛くない! 足裏の麻痺や、関節の可動域が減ってしまった状態は変わりませんが、とにかく痛みがないという事実に小躍りしそうになります。いったい何日ぶりなんだろう。
    ロッキーの懐に抱かれた深い森林を縫うように走ります。天を衝く垂直の岩壁や、美しい青い湖が次々と現れます。小川のせせらぎ音や小鳥のさえずりが耳に心地よいのは、脚に痛みがないからです。
    距離が60キロと短いことも手伝って、あっという間に競技時間が終わりました。
    走ることは本当に楽しい。速く走れなくても、風を切れなくても、走ることは楽しい。

    記録/8時間01分

    ■7月13日、ステージ25
    距離/86.3キロ

    再び80キロ超えのニ連戦です。
    足のサイズが大きくなりすぎて、通常のシューズに足が入らないため、カッターでシューズの前部を切り裂きました。生爪が剥がれかけている右親指と左小指のあたる部分は入念に穴を開けました。これでずいぶん楽になりました。
    スタートから数キロ進んだところで、現在総合2位のパトリック選手(フランス)と並走しました。大柄な選手が多いなか、ぼくよりも小柄な彼ですが、走りの安定度は随一です。独特の腕ふりが特徴のフォームをひそかにマネしていましたが、本人に「あなたのようなランナーにいつかなりたいのでフォームをマネしてます」と告げると、嬉しそうにしてくれました。16社ものスポンサーを確保するプロの超長距離ランナーは、顔は映画俳優みたいだし、立ち振る舞いも気品があって、わが師にしたいです。
    ロッキーの山岳地帯を抜け、コースは再び地平線まで360度開けた広大な牧草地帯に突入しました。山越えしてからの変化は、夕方になると巨大な雲が湧き立ち、雷鳴や稲妻が雲のなかで暴れること。遠く彼方の雨雲が、風向きによって、こっちに接近することが分かると、足早になりつつも嵐の到来を待ち望んでいたりもします。涼しくなるのです。
    ラスト2キロのところで日本人ランナーの越田さんが猛追してきたので、こちらも猛スパートで対応しました。久しぶりにキロ5分のスピードを出して気持ちよかった! しかし80キロ以上も走ったあげく猛ダッシュとは、大人2人で何やってんでしょう。

    記録/13時間19分

    ■7月14日、ステージ26
    距離/88.2キロ

    昨日86キロを走り、睡眠時間足らずで寝不足がひどく、スタートから20キロまでは居眠りしながら走りました。ふらふら蛇行している姿をスタッフ車両に乗った主催者ロールさんに目撃され「道路を走りながら眠るなんて何て人!」と目を丸くされました。
    最近は距離感覚が鈍くなり、88キロといっても長く感じなくなってきました。淡々と距離を刻んでいくだけです。
    今頃だけど、超長距離ステージレースの走り方を少しは理解してきました。脚を上にあげず、地面からの反動を使わない。これは怪我防止のため。疲労を蓄積させないためにも、極限まで筋肉を使わない走り方をしています。
    今日は終盤で強い通り雨に打たれたんですが、不思議な自然現象が起こりました。ぼくの足元から道路上の進行方向へと500メートルくらい、真っ直ぐな虹ができたんです。地面から50センチくらい浮き上がった高さです。
    長いこと生きてても、知らないこと、見たことないものだらけだな、と日々思いを強くするばかり。

    記録/14時間15分

    ■7月15日、ステージ27
    距離/78.9キロ

    急にコース変更が行われ71キロが79キロに延びました。あしたは89キロという過去最長日であり、実質80キロ4連戦となり息つく暇もありません。
    持参したシューズのソールの厚みがとうに1センチより薄くなっているため、車のタイヤの切れ端をうまく靴底の形に合わせて貼り(シューグーという接着剤で貼り合わせます)、ソールの厚みを一センチかさ上げしました。
    ロッキーを越えて気候が変わりました。夏蝉が鳴きはじめました。日本の夏のように湿気のある猛暑で汗が渇きません。
    足首をふたたび痛めました。最近5日ほど飲まずにすんでいた鎮痛剤で対応しました。痛み止めで怪我をごまかしながら運動すると、最終的にはスポーツマンの選手生命が奪われる、とはいいますが、ぼくはプロスポーツマンでもないし、この大会をやり遂げられたらそんでいいので痛み止めを飲みます。
    身体に何が起ころうと、ただニューヨークにたどり着きたいだけです。

    記録/12時間56分

    ■7月16日、ステージ28
    距離/89.8キロ

    80キロの4連戦目は、ほぼ90キロ。気温40度以上の日蔭もない平原を、熱風にさらされ15時間以上走りました。
    半ばで嘔吐がはじまりました。また熱射病の再来です。サポートクルーの皆さんにお願いして、頭と首に氷を大量に巻き、氷水を全身にぶっかけながら、薄れそうになる意識を保ちました。
    朝5時30分にスタートし、ゴールにたどりついたのは夜の9時。
    ゴールラインの上で大の字に倒れました。自力で歩くことはおろか、しゃべる余力さえ残っていません。4時間ほど寝たらすぐ明日のレースの開始です。精神的には地獄です。まるで救いがありません。もう寝ます。

    記録/15時間25分


    ■7月17日、ステージ29
    距離/73.0キロ

    疲労困憊して歩くだけで息があがります。強烈な暑さがダメ押しします。もう走れない。どんな頑張って走っても、スーパーで買い物するおばさんくらいの歩行速度しか出ません。脚の筋肉に残された力はなく、何のでっぱりもない平たい道路につまづいて倒れます。
    ヤケクソです。好きな歌を大声で歌いながら走りました。もう自分の力では何もできはしないんだから。
    昨日から新しく運営スタッフに加わったフランス人の女性が、ゴール近くの数キロを自転車で伴走してくれました。「昨日レースを見たけど、なぜあなたは楽しそうに走ってるの?」と尋ねるので、楽しいはずなどないのになぜそんな質問されるんだろ?と思いよく聞くと、どうやらヤケクソで歌を歌っているのが楽しそうに見えたみたいです。
    それで思いつく限りの洋楽のスタンダードポップスを2人で歌いながら走っていると、スタッフ車両も横づけされて、なぜか主催者ロールさんがビートルズの「イエローサブマリン」を歌いだしました。しばらく合唱してスタッフ車両が去り、いよいよぼくのゴールが迫ってきたら、ゴール付近で待ってくれている人たち皆が「イエローサブマリン」を大合唱しているではありませんか。あー、もうそれ、ぼくのテーマソングでも何でもないんやけど~、と思いながら歌にあわせて阿波踊りのような振り付けでゴールしました。なんか違う…。
    ゴールは地元の学校です。なんと図書室を開放し、臨時のレストランと宿泊室ができています。ランナーたちは書棚と書棚の間に寝袋を敷いて夜の準備をはじめます。
    食事のデザートに手づくりケーキが4種類も出されて感激しました。そろそろアメリカの大味でパサパサなケーキにも慣れてきて、美味しいと感じはじめています。日本に帰って本来に美味しいケーキ食べたら衝撃で死ぬかもしれません。
    しかし、アメリカという国は、冒険とかチャレンジへの大きな理解があると思います。学校や公民館、地域の施設まで、僕たちドロドロに汚れた外国人数十人を快く受け入れてくれます。単なる親切ではなく、ぼくたちの挑戦を讃え、頑張れと熱く励ましてくれます。これがアメリカという国と国民の持っている根本的な強さなんだろうな。

    記録/12時間45分


    ■7月18日、ステージ30
    距離/83.5キロ

    再び80キロ以上。毎日が首の皮一枚でつながっているかいないか。作戦もへったくれもなく、夜明け前から日が沈む頃まで、ひたすら手足を動かし続けるだけ。
    この辺りは酪農や大規模農園が盛んで、北海道の景色を10倍くらい引き伸ばしてメリハリをなくした感じです。直線道路を時速100キロ以上の猛スピードで農業用の巨大な運搬トレーラーが通り過ぎるたびに、物凄い風圧、空気の塊がぶつかってきます。頭を下げ、帽子を押さえ、吹き飛ばされないよう身構えますが、風に身体ごと持っていかれます。脚に踏ん張るだけの筋力がなくなっているから、簡単に一歩二歩と後ろに下がってしまいます。これを一日に何百回と繰り返して、ずいぶん体力を疲弊させられました。
    途中、日本人ランナーの越田さんに追いつくと、何やら奇妙な動きをしています。カニのように横歩きしながらオシッコを放出しているのです。「何ですか、そのテクニックは?」と尋ねると、「この方法なら小便してる間に10メートルは進みます。仮に10回トイレするとしたら100メートル分進んでる。100メートルといえば1分です。関門突破ギリギリの時の1分は大きいよ」とカニ歩き小便しながら教えてくれました。さすが大学の研究者です。実際に使える理論と技術こそが本物のインテリジェンスと言えます。
    日没近くに着いたゴール地点は小さなホテル。このホテルでは経営者夫婦がゴールするランナーを一人ひとり出迎えてくれたうえ、晩ごはんを用意して待っていてくれました。丸鶏をよく煮込んだスープや、たくさんのサラダ、フルーツ、スイーツ…。無料でわれわれ一団、50人近くにふるまってくれたんです。美味しかったー!


    記録/14時間29分

    ■7月19日、ステージ31
    距離/51.5キロ

    奇跡的に短距離な一日。こんな日は「休養日」と位置づけて、できるだけ体力の消耗を押さえたいって考えます。本来は気楽に走れる距離なのに、昨日までの疲労が取れず、また気温も昼には40度を超え暴力的に暑く、ゼエゼエ言いながら走っていました。
    すると200メートルくらい前を走っていたフランス人ランナー・フィリップさんが、なぜか道を逆走してきます。一本道なんで道を間違えるはずもないのに。「何があったんですか?」と聞くと、まるで恋人の誕生日に隠し持ったプレゼントを差し出すかのようなポーズで背中から何かを取り出します。差し出されたのは、スターバックスの500ミリリットル入りアイスクリームです。英語のできないフィリップさんですが意図はわかります。なんせ彼にアイスクリームをもらうのは3度目です。灼熱の太陽の下食べるアイスの衝撃的なうまさったら!
    しかしフィリップさんはなぜぼくにいつもアイスをくれる?他のランナーにはあげてないみたいだし。どうも毎朝、毎夕の挨拶の際も握手やハグが必要以上に熱い気がする。大丈夫かな。
    今日は地元の高校の体育館で泊めでもらいます。シャワー室にトイレがあるんだけど、大の方もトビラなんてついてないんですね。丸出しでウンコするわけです。ドラッグ対策なんかな? こんなん中国の公衆トイレで見て以来だ。奥深しアメリカ!

    記録/7時間58分


    ■7月20日、ステージ32
    距離/76.4キロ

    朝方、走っているとイタリア人ランナーのアレキサンドロに話しかけられた。「ヨシアキという名前の意味は何か」と聞くので、漢字の意味から「グッド・サンシャインという意味だ」と説明し、夜が明けたばかりの地平線に浮かぶオレンジ色の太陽を指さすと、アレキサンドロは「あなたの父上はいい名をあなたに授けた」と微笑みます。顎にたっぷりと髭を湛えキリストのような顔をしているアレキサンドロは、プロの冒険家です。手こぎボートで大平洋や大西洋を単独で横断するなど、陸海で活躍しています。今回もジープ、コダック、オークリーはじめ、多くの大スポンサーの支援を受けています。ぼくが25年前に行った木彫りのカヌーでアフリカのザイール川を500キロ下った話しでしばし盛り上がると「ミスターBANDOなら日本~米国間の手こぎボート横断が可能だろう、私とともに」などとそっちの世界に誘おうとするので、「ぼくは生きた魚が大きらいだから無理」と断ると残念そうにしていました。

    今日も激しい熱波日和。気温は42度。熱風が肌に当たると痛いほどです。
    ゴールまで28キロの所で、アレキサンドロがサポート車の横で寝込んでいます。「低エネルギー症だ。動けない」。サポートクルーも途方に暮れています。
    彼は生き残り組8人のうちの1人です。こんな所で終わってはなりません。「制限時間までは余裕がある。ゆっくり行こう。一緒にニューヨークに行こう」と言い、それから5キロくらい引っ張りました。いつもの堂々としたプロ冒険家の表情は消え、ただの青年として必死にもがき苦しむ彼がいました。

    ゴール手前10キロほどの所で、前を行くランナーが道端に座り込みました。オランダ人の女性ランナー・ジェニーです。駆け寄ると、意識は混沌としており、ふだんの彼女ではありません。唇のわきには泡を吹いています。典型的な熱中症です。「私は絶対ゴールできる」とうわごとのように、しかし意思の強い口調で繰り返します。ぼくは「君はゴールしなくちゃいけない。これを乗り越えたらもっと強くなる。絶対ゴールしよう」と話し掛けます。ジェニーは何度もうなずき、立ち上がり、よろよろと歩きだします。ゴールまでは大会スタッフがつきそうことになりました。
    1人走りながら、(何でそこまでしてみんな走るんだろう)と考えると、喉がつまりました。理由はわかっています。何物にも変えられない、自分だけが自分に与えられる価値があるからです。
    大学のキャンパスが今日のゴールです。西日が木々やランナーの影を長くする頃、ジェニーの姿が木立の向こうに見えました。


    記録/13時間02分


    ■7月21日、ステージ33
    距離/84.3キロ


    気がつくと脚のフトモモ周りがすごく細くなっています。サポートクルーの菅原さんの言葉を借りれば「自分を喰う」状態に突入してるんだそうです。体脂肪を消費し尽くし、さらにエネルギー源を必要とする際に、筋肉を運動エネルギーに変えてしまう…つまり筋肉がどんどん痩せていってしまう。
    痩せ細った脚には、笑うほど力が入りません。スタート直後からドンケツ独走です。少し風が吹くとよろめきます。体重を支える力なく、右に左にふらふら蛇行します。制限時間に間に合うスピードが出ません。今日は84キロの長丁場ですが、20キロあたりから何度も何度も全力疾走を入れ、関門に届くよう粘ります。「粘る」そんなことくらいしか武器がないのです。スピードなく、体力なく、暑さに弱く、坂は登りも下りも遅い。ランナーとして何の取り柄もないぼくには「根性」を源資とする粘りしか切れるカードがないのです。
    15時間近く粘りに粘って、夕暮れの街にたどり着きました。関門10分前です。ギリギリの攻防でした。フトモモはさらに一回り細くなってしまいました。また自分を喰らってしまったのかな。
    今夜は田舎街の消防署のフロアに泊まらせてもらいます。ゴール付近には、地元の主婦の方々が待っていてくれました。かわいい中学生くらいの女の子がミサンガをくれました。彼女らは手料理を大量に作り、差し入れもしてくれました。料理はもちろんですが、ケーキがホントに美味しかったです。宿泊した各地の公共施設では、ときおり食事の提供を受けますが、高い確率でホールケーキが登場します。アメリカの女性はケーキ作りが大好きなんだろうな。

    記録/14時間48分



    ■7月22日、ステージ34
    距離/67.6キロ

    朝、選手たちの表情にリラックスした雰囲気が浮かんでいます。「今日はショートデイ(短距離日)だ。気楽に行こう!」と声をかけあいます。67キロを短いと感じるのも変なもんですが、選手の間では、80キロ以上がキツい、70キロ台なら普通、60キロ台以下は楽勝という感覚があります。
    朝、再びキリスト似の冒険家アレキサンドロと並走する機会がありました。「この大会が終わったら何に挑戦するんだい」と質問すると、すごくおごそかな表情を浮かべ、また十分な「溜め」を作ったうえで「サウスポール」と述べました。サウスポールとは南極点のことです。「ホントに?」と聞き返すと「私はこの毎日の暑さにうんざりしている。寒い場所に行きたいんだ」。
    彼は徒歩単独での南極点到達を目指している。南極の基地数ヶ所による支援や、そもそもの許可認可についても詳しい。こやつ本気である。「問題は許可取得に必要な莫大なコストだが、クリアできると思う。ミスターBANDOにも可能性はある」と、ギラギラした目でこっちを見るので「ぼくは極端な冷え症なので無理むり!」と逃げました。
    今はオクラホマ州内を走ってるんですが、おとといの夜に地元のテレビ局でぼくたちのことがニュース番組で取り上げられたよう。沿道の人たちやすれ違う車のドライバーからすごく声をかけられます。「合衆国横断してるんだって、お前らサイコー!」みたいなノリです。わざわざ引き返して飲み物を手渡してくれたり、カメラやビデオで撮影されたり、やや対応に忙しいですが、地元の理解あっての大会だから、ヨシとしよう。
    去年からオクラホマ州は旱魃に苦しんでいて、雨量の少なさは百数十年ぶりだとか。走っている際に通る多くの橋の上から見る川も大半が干上がっていて無残にひび割れた川底をさらしています。
    当然熱波も狂気じみていて、黒々とした影をアスファルトに描く直射日光には、そのまま自分がまるまる地面に焼き付けられるかと思うほどです。
    短距離日といっても、灼熱地獄はいちだんと厳しく、ひとつも気楽な場面はなく、へとへとでゴールにたどり着きました。

    記録/11時間42分


    ■7月23日、ステージ35
    距離/72.3キロ


    若き冒険家アレキサンドロとの本日の会話。
    彼は「あなたの生涯の目標とは何か」と問う。
    「思いあたることはふたつある。ひとつは自分の足で六大陸を横断すること。だがまだ夢想に過ぎない。困難なユーラシア大陸と南極大陸を実行する能力は今はない」
    「もうひとつは?」
    「アフリカ中央部の国コンゴの寒村に職業技術を習得できる学校を作ること。ただしこっちも10年20年と続けられる資金のビジョンに欠け、ただの夢レベルだ」
    これを聞いたアレキサンドロはかく語りし。
    「今は適わない夢であっても、人は夢を持つことが大切である。このアメリカ横断だって、数年前までは夢に過ぎなかったはずだ。だがわれわれは今こうして途上にいる。豊かな人生とは、適わない夢を見ることから始まるのだ」
    (おいおい、お前、ぼくより10コ以上歳下だろう?)と思う。すると彼は立ち止まり、路上で何かを拾っている。赤銅色の1セント硬貨だ。
    「今日はじめて拾ったコインだ。あなたに差し上げよう。ここから始まる何かがあるかもしれない」。

    セルジュ・ジラール選手(フランス)が制限時間ギリギリでゴールしました。足の裏に重大な怪我をしているそうです。セルジュは世界初の五大陸横断マラソン完走者であり、また365日間の走破距離の世界記録保持者です。彼がレースからリタイアすることなど想像もつきませんが、危機であることは確かです。
    今日はレースがはじまって35日目。つまり全行程70日の半分まで達しました。距離も2500キロを突破しました。
    レース開始以来はじめて体重計測しました。57キロでした。日本を発つ前が65キロだったので8キロ減少しました。

    記録/12時間3分

    ■7月24日、ステージ36
    距離/80.1キロ

    小さな峠を登りきった頂上から見た光景は、地平線まで続く一面の深い緑でした。まさにジャングル。この一カ月というもの砂漠や荒野、牧草地ばかり見てきたので、視界を占拠する緑が新鮮です。干上がった荒地から肥沃な大地にステージが変わったってことでしょう。
    熱されたフライパンの底とか、アスファルトに焼き付けられるだとか、いろんな言葉で暑さを表現してきたけど、比喩にも限界あり。今日は道路の表面のアスファルトが太陽の熱で溶けて、シューズの底にねちゃねちゃへばりつきました。ひどい日焼けで唇やその内側の粘膜がはがれ、血と膿が混じった生肉がむき出しになって痛いです。全身に霧吹きで氷水を一日中吹き付けながら走っています。水が切れて太陽の下そのままいたら数十分で大火傷です。時々冷静になると、正気の沙汰とは思えないことをしています。

    レース終盤、脚を怪我しているセルジュ選手(フランス)と前後しました。身体をよじ曲げ、競歩選手のように必死に腕を振り、制限時間に間に合わせようと苦闘する世界記録保持者の姿に胸が震えました。
    男がいちばんカッコイイのは、見栄えや体裁を取り繕わず、ただ愚直に何かを目指しているときです。ブザマなセルジュ選手は最高の男です。

    記録/13時間34分


    ■7月25日、ステージ37
    距離/61.0キロ

    今日もウンコを4回しました。むろんレース中の話であり、むろん野グソの話です。最近は1日4回が定番です。なにもそんなに小分けにして出さなくてもいいじゃないか、と思われるかも知れませんが、小分けじゃなくて大分けです。毎回、大量にやっこさんが排出されるんです。
    なぜそんなに出るかというと、答えは単純、大量に食べるからです。ぼくたちは一日に約5000キロカロリーを走って消費します。基礎代謝分も足すと6500キロカロリー。理論的にはこれと同量のカロリーを摂取しないとどんどん痩せてしまうのですが、6500キロカロリー分も食えっこありません。そんでもって一カ月で8キログラムも痩せてしまってるわけです。
    痩せてパワーが失われると走れません。6500は無理でも4000くらいは食べます。もうブタが餌に食らいつくように貪ります。その食べカスが野グソとなってアメリカの土壌を肥沃にするのです。
    野グソしても1キロあたりのタイムを落とさないよう前後でスパートをかけます。野グソに要する時間は1分以内です。時間短縮するコツは、漏らす寸前まで我慢し、大爆発させることです。大地を割って噴き出すマグマのごとくです。

    ちなみにヨーロッパの選手は、いわゆる「ウンコ座り」ができません。幼い頃より和式トイレで鍛えられてないためです。あと野グソ姿を見られることへの羞恥心がありません。道端で堂々と中腰で野グソしています。よく内股やシューズに汚物がつかないものだと感心します。

    夜は長距離トラックのドライバーが集まるビュッフェ・レストランで食事しました。体重100キロを超す巨漢たちが食事する横で、最も食事量が多いのが痩せ細ったわれわれランナーたちであることに店内の熱い注目が集まりました。ぼくは煮込みスープを7杯おかわりしました。明日も快弁に違いありません。

    記録/10時間12分



    ■7月26日、ステージ38
    距離/65.7キロ

    朝から3度もコケました。段差などない平坦な道でつまづいてコケました。自分の想像以上に足が上がってないんでしょう。大腿部の筋肉が細くなり、脚を持ち上げられなくなっています。筋肉は負荷をかけたのちに休養をとると「超回復」という再生作業を行い頑丈になっていくとされますが、休養のないこのレースでは筋肉は破壊されるばかりです。今後もどんどん細くなっていくんでしょうか。

    今日のコースを半分くらい過ぎたとき、セルジュ選手のサポートクルーが青ざめた顔で車から下りてきました。「いくら待ってもセルジュが来ない」と途方に暮れています。セルジュ選手はぼくよりずっと前を走っていました。心配ですが、探しに戻っても仕方ありません。しばらくすると後方から来た車がセルジュ選手が2キロ後ろにいると教えてくれました。やがて追い付いてきた彼に「みんなセルジュさんがいなくなったと大騒動してたよ」と声かけると「ぼーっとしていて本来曲がる道を真っ直ぐ進んでしまったんだ」とはにかんでいます。仮にも主催者の彼が、自分で設定したはずの道を間違うなんて、おもしろすぎでしょう。並走しながら彼は来年の夢を語ります。
    「ランニングで地球一周をしたいんだ。パリを出発して中国、日本、インドシナ半島、オーストラリア。そして南米の南端からニューヨークまで行き、アフリカの南端からパリを目指すんだ。18カ月でやるよ」。そう語る彼の表情は、夏休みに洞窟探検を決意した少年のように眩しく無邪気に輝いています。
    「この男になら抱かれていい…」素直にそう思えました。

    話はホモつながりですが、諸事情あって先日よりフィリップ選手が日本チームに加わりました。彼はよく高級アイスクリームをぼくにくれるホモ疑惑のあるフランス男です。今夜ホテルのツインルームでぼくと同室です。つーかブリーフいっちょう、ほぼ全裸の彼が今ぼくの横にいて、この日記を打つ携帯の画面を覗きこんだりして微笑んでいます。今夜ぼくは大丈夫なんでしょうか?

    記録/10時間17分

    ■7月27日、ステージ39
    距離/78.5キロ

    オクラホマ州の境界を越えカンザス州の旅がはじまりました。
    朝から40キロくらい走り、ジョプリンという街にさしかかりました。最初はやたらゴミの多い街だなと不快に感じました。住宅街の半数以上が空き家で、ボロボロの家具や家財道具が家の前に野積みされています。ここはスラム街なのか? 街を美しく維持することが病的なまでに好きなアメリカ人なのに…なんて考えながら走っているぼくの目の前に、突然それは現れました。
    ぼくの立っている交差点から向こうの街が「ない!」。恐ろしい光景が広がっています。あらゆる家が破壊されガレキが散乱しています。木々は幹の途中でもぎとられ、根本から折れた電柱が横たわっています。そこが確かにかつて街であったことは容易に想像できます。こなごなに吹き飛ばされた巨大コンベンションセンター。その広い駐車場が被災者への対応基地になっています。
    竜巻がこの街を襲ったのは二カ月前だそうです。竜巻の傷跡として想像しがちな蛇行する線上の被害ではなく、少なくとも5キロ四方の市街地がまるまる吹き飛ばされています。
    あちこちで復興工事が始まっていますが、被害エリアの大半が手付かずで放置されています。
    砂埃が舞い、住宅建材やゴミが散乱する道を、ただ早足で歩きました。こんな所でレースなどしてる場合じゃないと思い、目を伏せて歩きました。3時間ほどで被災地域を過ぎると、何事もなかったかのように、緑の美しい街に変わりました。あのガレキの街もこうだったんでしょう。
    レースのことはあまり考えられない一日でした。明日の朝、地元の方がわれわれの宿泊所に状況説明に来られ、募金を募るそうです。

    記録/13時間7分


    ■7月28日、ステージ40
    距離/84.9キロ

    朝、主催者ロールさんよりランナーに対するペナルティが課されました。道路の傾斜を嫌い蛇行走行していた選手に対し、危険行為として一週間の出場停止が下されました。厳しい判断に思えますが、当大会は交通事故防止を徹底し、ルールを厳格に、違反者へのペナルティも明確にされています。主催者の決定に不服があれば選手会として意見をまとめ反論もできます。ルールやコースの変更などの最終意思決定は、ランキングに残っている8人の選手の意思で承認・決定されます。このようなデモクラシーが徹底されているのは、文化背景や言語の異なる人たちが集まった大会では欠かせないものです。主催者と選手間にはほどよい緊張関係があり、違いに不満を述べ、意見の擦りあわせが行われます。意思決定は非常に速いです。組織運営の勉強にすごくなっています。

    今日は85キロの長いコース。アスファルトが溶解する暑さは相変わらずです。
    3.2キロ(2マイル)ごとにサポートクルーが用意してくれたエイドで飲み物、食べ物を大量に摂取します。特に水をはじめとする飲料は、自分でも信じられないくらいの量を喉に流しこみます。
    各エイドでは300~500mlを5秒程度で一気に飲み、エイドで手渡された水を次のエイドまでに走りながら300~500ml飲みます。合わせて600ml~1リットルを1エイド間で飲みます。たとえば85キロある今日のコースなら26回エイドがあり、掛け算するとレース中に15リッター以上の飲み物を採っています。子供一人分の体重くらいです。にわかには信じがたい量ですがホントです。

    夕暮れどきにゴールすると、ボウルいっぱいの美味しいスイカが待っていました。手づかみでむさぼり食っているとロールさんが寄ってきて「あと30日でニューヨークだけど、あなたは今どんな気分?」と聞くので「前は早く終わりたい、しか考えられなかったけど、この頃は終わりの日を想像すると淋しい気分になります。ゴールの3日前になればゴールなんてしたくないって叫ぶかもしれない」と答えました。
    するとロールさんが「じゃあいいアイデアがあるわ。ニューヨークに着いたらロサンゼルスに引き返すのよ!NY-LAフットレース2011を企画するわ!」と盛り上がっているので、スイカを持ったまま逃げだしました。

    記録/14時間21分
  • 2011年06月01日バカロードその25 北米大陸横断レースへの道 その6 室戸岬130キロ走
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

     長距離ランナーは黙して走る。
     作家アラン・シリトーが没して1年。
     孤独、怒り、やるせない気持ち。
     半世紀たっても、人の本質は変わらない。

     深夜12時、徳島県庁前の交差点よりスタート。
     小雨ぱらつく雨空、風速は8メートル。強風注意報が出ている。
     国道55号線を南にくだれば、夜間でも照明の明るい沖浜の市街地圏を2キロ少々で脱ける。園瀬川を渡ると手持ちのライトで足元を照らさなければ走れない暗さ。不思議なものだ。ふだんの印象だと市街地がもっと続いている感があるが、自分の脚で移動すると街はあっけないほど小さい。
     小松島ルピアには40分で達する。深夜は信号で止まる回数も少なく、あっという間である。同じ道をクルマで移動すると渋滞などあってけっこう遠くに感じるものだが、ランニングだとすぐそこレベルの距離感。県庁から7キロ少々だしね。クルマだと実際の距離以上に長く感じるのかも知れん。
     赤石トンネルまでは、田んぼの中の直線一本道。さみしくなってきたのでAMラジオをつけると「AKB48のオールナイトニッポン」が始まった。今宵のDJは大島優子、篠田麻里子、柏木由紀が担当らしい。AKBメンバーの名前なんて小野恵令奈以外ほとんど知らんが、この3人なら名前と顔が一致する。ということは豪華競演日に当たったのか、ラッキーだね。しかし、オールナイトなんて聴くの何十年ぶり? 必死こいて聴いていた中学生の頃は、後にオールナイトの第二次黄金期と称された時代で、当時まだ30代のビートたけし、タモリ、中島みゆき、笑福亭鶴光らが、アナーキーで放送コード無視の異様な世界を形づくっていた。
     崇拝の対象であったビートたけしのオールナイトニッポンを拝聴する際は、ラジオの前に正座してた。たけしの金言は、もらさず生徒手帳に書き込んだ。酔っぱらって心をさらけ出す師に、泣きながらラジオにかじりついた。まったく玉音放送じゃないってーの(たけし風ノリツッコミ)。
     そーいやぁ一度、笑福亭鶴光から自宅に電話がかかってきたことがあったけ。が、その日は寝ていて電話を取れず、月曜日に学校で友達に「鶴光の電話、出えよ!」と教えられた。鶴光師匠からの電話を受けたリスナーは、受話器を取った瞬間、「ええか?ええのんか?最高か?」といやらしい言葉で応じるローカルルールがあった。全力で言いたかった。わが青春譜に書き加えられるであろう輝ける瞬間を逃したこと、今でも後悔している。
     時代をへて平成のラジオはAKB。篠田麻里子が韓国で焼肉食べてきましたぁ的などうしようもないグタグタな話を聴きながら、那賀川橋の鉄板仕立ての歩道をぐわんぐわん鳴らして走り、(これ、雨の日にばーさん、すっ転ばぬか)などと余計な心配しながら、橋のたもとの水飲み場でドリンクボトルに水を充填する。
     那賀川南岸の坂をくだると国道55号から逸れ、桑野・新野経由の県道にはいる。右前方にうっすらと、世界に伸びゆく日亜化学の工場群の威容が浮かぶ。新たな研究棟の建設をしているのかクレーンが何基も見える。従業員は7000人もいると聞くが、ちょっとした地方自治体の人口に匹敵する。その割にこの周辺、おでん屋やらキャバレーやらスナックやら青い灯、赤い灯またたく歓楽街ができそうな気配はなし。車通勤が多いから飲み屋は流行らんのか。なら代行送迎サービスとセットで店出そうか、などと空虚な事業計画を立てる暇つぶし。
     深夜3時にJR桑野駅前。駅舎には煌々と蛍光灯がついている。中でひと休みしようと引き戸に手をかけると、ガラス戸の向こうにベンチに横たわっている老人あり。かたわらにはママチャリの前カゴと荷台に山と積まれた遍路用具。野宿でチャリ遍路中ってわけね。齢70以上とおぼしきその顔は太陽に焼かれ赤黒く変色している。薄い綿の布を一枚かぶっただけで、蛾の舞う蛍光灯の下、一夜の暖をとるストイックさ。彼に物欲はあるのだろうか。身体の芯まであたたまる温泉や、ふかふか太陽の匂いのする羽毛布団にくるまる幸福以上の何かを遍路路に見つけたのだろうか。
     ご老人の熟睡を邪魔せぬよう、駅の玄関の地べたコンクリに腰かけ、コカコーラを荒々しくあおる。
     (結局、目ざすべき場所は、あの老人の位置だろう)と思う。そして(今はまだ無理だけど)とつけ加える。
     桑野と新野の町境にある花坂という美しい名の峠道を越えるのは恐い。
     理由がある。十代の頃のトラウマだ。
     この峠道の県道には、旧道である細い脇道が蛇行しながら並行している。街頭もなく真っ暗、通り過ぎる車もないこの場所は、かつてマイカー車中にて男女がまぐわうにほど良い場所とされていた。当時のぼくは生活圏半径5キロ圏内において、誰かが車でエロ行為をはじめると自動的に情報が入るというネットワークを有していた。インターネットなどない時代なのだがね。われわれ悪者どもは、その真っ最中の車にそろりそろり近づき、さんざん見学を楽しんだあと、車のボディを思いっき左右に揺さぶって、男女をパニックに陥れるという遊びに夢中だった。(きっと犯罪です。よい子のみんなはマネしないでね)。ところがある晩から、リーダー格の超暴力的ヤンキーの兄さんが「もう二度とあそこには行かない」と言いだすのである。
     何があったのかと話を聞けば、深夜蛇行道をクルマで走っていると、絶対に人などいるはずのないこの場所に、白装束で全身ぐっしょり濡れた女が立って、紫色の目玉をぎょろぎょろ動かしながら、クルマのボンネットに乗っかってきたというのだ。ふだん恐いもの知らずの超暴力的ヤンキーの兄さんだが、自宅に戻って50度の風呂に浸かったが、それでも寒くて寒くて震えつづけたという。
     その濡れた白装束の女のイメージが頭を離れない。ぼくは全力失踪で峠道を駆け抜ける。汗がヒジの先からしたたり落ちる蒸し暑い初夏の午前4時。暑く感じるはずなのに、背中には悪寒が走り、両腕には鳥肌が立ちっ放しである。
     35キロ走って、国道55号と再合流。ここからの道はうねうねと左右にカーブし、アップダウンがはげしくなる。ときおり通過する車は時速100キロ近くで飛ばしている。ドライバーもまさか丑三つ時の山中で、人が走っているなんて想定して運転してないだろう。存在証明用のハンドライト、足元を照らすヘッドランプ、後方用の赤点滅灯を再確認する。歩道のない場所は必ず右側通行だ。万一、クルマが突っこんできても前方からならゼロコンマ数秒こちらも反応できる。
     恐い。
     こんなにも車を恐いと感じたことはない。
     わずか一週間前、大切な仲間を失ったのだ。
     500キロの超長距離レースの真っ最中に、飲酒居眠り運転のクルマに後ろからノーブレーキで突っこまれ、亡くなった。深夜2時だった。
     ぼくは事故現場から300メートル後方の鉄道駅舎で仮眠をとっていた。救急車とパトカーのサイレンで目覚めた。駆けつけると最悪の事態が起こっていた。救命士2人に心臓マッサージを受ける彼がいた。
     全身に何カ所も照明具を着け、慎重に慎重を期していた彼なのに、このレースに強い思いをもって参加していた彼なのに、その直前まで力強く走っていた彼なのに、何と無惨なことが起こるのか。
     事故のあと、ぼくは茫然自失となり何もできなかった。そしてこれからも何もできない。
     猛スピードでかたわらを通り過ぎるクルマの風圧を感じながら、彼の名前を頭で反芻する。そんなこと、何かやったうちには、もちろん入るはずもない。

     空が白くなってくると、日和佐道路の青い陸橋が遠くにかすむ。
     午前6時に道の駅ひわさ到着。ほぼ50キロに6時間かかった。県庁を出発する頃は、100キロ通過でそれなりのタイム・・・10時間台で走ろうと決めていたが、真正面から吹き続ける風と、予想以上に暗い道に足元をライトで照らしながらの走行で、スピードがあがらない。さらには、この国道沿いに頻繁に現れるお遍路さん用の休憩小屋の誘惑に耐えかねる。
     横になるのに適当な木製のベンチが視界に入ると、「ちょいと一寸休憩でも」の誘いを断ち切れない。そもそもぼくは快楽に溺れたい精神志向性があり、気持ちいいもの、美味しいもの、悪質なものには身体をすりすり擦り寄せてゆく傾向が強い。コンビニが現れる度にエクレアとガリガリ君を補給し、自販機があれば甘さに舌が痺れるジョージアオリジナルをじゅるじゅる啜る。そして、休憩に打ってつけの遍路小屋の連続。これじゃあ一向にタイムが上がらない。
     スタートから65キロ走ってJR牟岐駅前を通り過ぎ、いくつかのトンネルを抜けると別天地にように碧く輝く内妻海岸の海。30、40人ものサーファーたちが波間に漂っている。ここから始まる海岸線ロードは爽快このうえない。真っ暗なバイパス道、変わり映えのしない人工林の山道を走り続けた自分へのご褒美である。心なしか徳島市あたりより日射しも強い。海はゴーギャンが描くタヒチの絵のような濃紺。台風が化けた低気圧が太平洋上のすぐ近くにいるため、波はきれいなチューブを巻いている。トンネルを抜けるたびに季節が少しずつ先に進み、いつしか初夏のサーフシティに放り出されたような錯覚。
     JR海南駅前に午前10時着、ここで80キロジャストだ。待望のスリーエフを目撃。スリーエフは主に関東圏と高知県に展開しているコンビニだが徳島県内では唯一海南店のみ存在しているのである。店内のカウンター横には、お店の厨房で作られた温かいお弁当が並んでおり、大ぶりなオニギリ2個を確保。レジで会計をすませていると、カウンター上にアイススムージーのマシンを発見。シャリシャリの氷ドリンクが縦回転している。さすが季節を先取りした(あるいは一年中?)スリーエフ。スムージーを追加注文し100円を払うと、カウンターのお姉さんがこちらをじっと見つめている。ぼくもお姉さんを見つめ返す。この空気感はなに? 何かがはじまる予感?と鼓動を速めていたら、お姉さんに「スムージーこちらで入れましょうか?」と尋ねられる。ハッと我に返る。そうか、このスムージーはセルフで入れるものなのかと察知する。お姉さんはすでにカウンターから外に出て、「好きなだけご自分で入れてもらえるんですよ」と説明しながら、シャリシャリとカップに入れてくれた。なるほど、スリーエフ業界ではスムージーは自分のお好みで盛るってのが常識なのだ。今日もひとつ賢くなったぜ! どでかいオニギリ2個とスムージー大盛りをたずさえ、店舗の裏の地べたに座り込み爆食する。
     海部川にかかる橋を渡り終えると海部川風流マラソンの5キロ地点あたり。マラソンコースとなる堤防上の道を遠望しながら、今は静かなこの辺り一帯が大観客で埋め尽くされていたのだなと感慨にふける。
     那佐湾の奇景を過ぎると道はゆるい左カーブを描き、いくぶんドラマチックに宍喰の海岸線が近づいてくる。空と海の境界線が不要な一面のブルーに覆われる。沖から大きなうねりが何層もの弧となり押し寄せては白い波濤をたてて崩れる。道沿いの駐車場に無数のピックアップトラックや箱バンが並び、サーファーたちがポリタンクでつくった簡易シャワーで水浴びをしたり、ディレクターチェアに座って眩しそうに太陽を仰いでいる。こんなに若者がたくさんいる光景、なかなか徳島ではお目にかかれない。
     四国をジャーニーランするといつも実感するが、この島はフトコロが深い。アメリカ西海岸のポップカルチャーの象徴であるサーフィン・ビーチを背景に、空海が山岳修行して以来1000年余も受け継がれてきた四国遍路をゆく旅人が金剛杖をついて歩く絵柄。異質な文化が同居する宍喰が持つ得体の知れぬ圧力。四国ってほんとにおもしろい。
     道の駅・宍喰温泉は県庁から88キロ。ここが第一目標地点である。午前11時40分、昼前に着いて何となく幸せ。防波堤上に座ってアイスシャーベットをかじりながらサーファーのライディングをぼーっと眺める。汗が乾くとチリチリと太陽に焼かれ肌が痛い。よっこらしょと腰をあげて、いよいよ高知県境を越えて土佐路に入る準備をする・・・といっても特に何かをするわけでもない。また走りだすだけだ。
     水床トンネルを抜け出すと県境の表示がある。甲浦の漁港をまたいで白浜ホワイトサンドビーチに降りる。生見海岸を過ぎる頃には、照りつける太陽の影ははっきりと黒く、ザワザワと揺れる木立の存在感もまた真夏の到来を予感させる。
     野根の漁港横を真っ直ぐ伸びる道を走っていると、突然フラッシュバックが起こる。
     この道をずいぶん前に走った。あれは何だっけ。今と同じように必死に走っていた感覚が残っている。
     そうだ、あれは高校2年の真冬、大晦日の夜だ。
     ぼくはバイクに乗って1人で室戸岬に向かった。
     クリスマス・イブに、一コ歳上の女の子にフラれたとこだった。ひたすらその女の子のことを考えてバイクを走らせていた。
     バイクと言ってもかっこいいロードバイクじゃなくて、親父のスクーター、ホンダ・スペイシーである。コテコテの商用バイクでしかもゴールドメタリックというイカれた配色。ダサいのはバイクだけじゃない。オカンに「寒いけん、これ着ていけ」と無理矢理着せられた親父の黒い革ジャン(革ジャンレプリカで実はビニジャン)に、軍手2枚重ね。ボトムはパッチの上からジャージ2枚のトリプル重ね、足元はゴム製のオッサン長靴という最強のファッションだ。
     初代ホンダ・スペイシーが当時売りにしていたデジタル液晶文字で表示されるスピードメーターは画期的であった。ぼくはスロットルを目一杯全開にし、最高速度が何キロ出るかひたすら挑戦した。デジタル数字が示した最高記録は、時速91キロ。それ以上は、どんなに身体をかがめて空気抵抗を減らしても、下り坂をかっ飛ばしても出なかった。「100キロ」に届きたかった。もしかしたら、時速100キロを出せたらそのまま何かに激突して死んでもいいやって思っていたかも知れない。男子高校生が、歳上の女の子にフラれるということは、それほど大きな出来事なのであった。
     2011年のぼくが今テケテケ走っているこの道を、1883年のぼくは薄っすら明るくなる日の出まぢかの太平洋を左手に、室戸岬の先っぽで初日の出の瞬間に間に合うか、間に合わないかのスリリングなゲームに賭け、ガムシャラにバイクを飛ばした。
     室戸岬に着いてから、何をしたかは覚えていない。岬では、きっと何もやることがなかったんだろう。日の出に間に合ったのかどうかすら記憶にない。唯一脳裏にある映像は、公衆トイレでオシッコしようとしたら、青く変色したちんちんが1センチくらいまで縮んでいた場面。真冬にジャージ2枚とパッチの重ね着で、片道100キロをぶっ飛ばす行為は、男子高校生の肉体に深刻なダメージを刻んだのだ。あと、帰り道がうんざりするほど遠かったことも覚えている。

     100キロ地点を13時間26分で通過。サロマ湖100キロウルトラマラソンなら制限時間オーバーだな、と少し悔しむ。

     野根の漁村から鯨観光で有名な佐喜浜の街までおよそ13キロの間は完全な無人地帯となる。自販機もなく、水道もなく、休憩ベンチすらない。ただ打ち寄せる荒波と、屏風のように何層にも重なり続く岬の連続だ。あの岬を回り込んだら街があるかも、という期待は何度も裏切られる。遍路客にとっても第23番札所薬王寺から第24番札所最御崎寺への75キロの道は、難所の一つとして数えられる。特にこの野根からの無人地帯は修行的要素をはらんでいると思う。
     佐喜浜港の手前で、前方をゆく1人の歩き遍路客に追いつく。よく見れば、6時間前に牟岐町の駅前で見かけた人だ。どう考えてもおかしいぞ。50キロも後方で会った遍路客とここで再会するはずがない。なんせこっちは走っとるんだから。
     追い越しざまに挨拶を交わし互いに事情を話す。彼は短い休暇を利用し、昨晩名古屋から夜行バスを使って徳島入りし、始発列車で日和佐あたりまで行って、そこから室戸の最御崎寺を目指している。一般的な遍路人なら3日かかる行程をたった1日で高速移動している理由は、「ちょっと鍛え直そうかなーと思って」。元々ロングディスタンスのトライアスリートであり、ウルトラマラソンの経験もある彼は、再びレースの世界に戻ろうかという思いがあり、遍路とトレーニングを兼ねた旅をしているのだ。走りと歩きをミックスさせて、なおかつ休憩なしで日中に80キロ近くを移動している。すごいペースである。
     10キロほど彼と併走するが、眠気に襲われペースについていけない。そういえば諸事情あって一昨日も寝ておらず、60時間つづけて起きている。いよいよ立ってられないほど眠く、同行の彼にペースを合わせてもらうのが気の毒になり、先に進んでもらう。夢うつつ状態でトロトロ走っては、バス停のベンチで5分くらい居眠りしたり、自販機にもたれて眠りこけ、手に持ったジュースをこぼして股間を濡らしたりする。
     ここいらの海辺の民家は、巨大なコンクリート製の防潮壁を築いている。高い物だと道路面から3メートル以上。厚さ1メートルにも及ぶコンクリート壁をくり貫くように外玄関が設けられているが、なぜかドアの配色はオレンジやら朱色やらの極彩色。薄く開いた外玄関の奧には、ごく普通の家屋と庭が見える。アラビアの要塞都市カスバの城壁と、純和風住宅の組み合わせ。日没まぢかのトワイライトゾーンに不思議な御伽草子の世界に迷い込んだよう。
     ラスト10キロくらいはちゃんと走ろうかな、と思う。「岬まで10キロ」の距離表示が現れるが、足に力が入らない。仕方ない、ラスト5キロで本気を出そう。でもやっぱダメだー、夢遊病状態なのだ。室戸岬を白っぽく包む残照が眠気を誘う。店じまいを終えた土産店はシャッターが降り、取り残された観光客やカップルが所在なくうろついている。
     幾つものレースの終幕に等しく、この130キロ走にもゴールの歓喜はない。
     恋に傷つき暴走したアンニュイ高校生の頃も、人生に迷走するオッサンになった今も、求めているのはゴールではない。無謀で、無意味で、素っ頓狂な、ゆくあてのない移動の連続なのだ。
  • 2011年05月16日バカロードその24 北米大陸横断レースへの道 その5 70日間5135キロ
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

     北米大陸横断レースのスタート日まで2カ月を切り、大会の輪郭が徐々に明らかになってきた。現時点で決定していることをまとめてみた
    【スタートとゴール、日程】
     6月19日にカリフォルニア州ロサンゼルスの南部、ハンティントンビーチの海岸よりスタートし、8月27日にニューヨークのセントラル・パークにゴールする。

    【距離】
     総距離は5135キロ。
     70日間、1日の休日もない連続ステージ・レースである。
     最も長く走る日は95.4キロ、最も短い日は42.2キロ。1日平均は73.3キロである。
     80キロ以上を走る日が20日間、うち90キロ以上が4日間。

    【制限時間と失格】
     「時速5.7キロ×コース距離」の計算式で、毎日の制限時間が決定される。
     1日平均12時間52分。最長日は16時間44分である。
     1日の終了地点への到着が制限時間を越えると失格となる。

    【サポートクルーの義務づけ】
     レース開始から13日目、875キロ地点のアリゾナ州フラッグスタッフという街までは、サポートクルーの同行が義務づけられている。
     サポートクルーの主な役割を列記する。サポートカーの手配と運転。数キロおきに選手に食料や水を提供する。必要な物資調達。毎日のゴール・スタート地点と宿泊施設間の送迎。
     14日目以降は、サポートクルーなしでの走行が認められる。その場合ランナーは、主催者が提供するエイドで補給を受ける他は、自らの責任で水や食料を調達する。

    【サポートクルーのいないランナーの荷物預け】
     主催者に依頼することができる。毎日のスタート地点から終了地点まで運んでくれる。荷物の数は1人につき2個まで。費用は100ドル。

    【主催者側のエイド】
     主催物は、約6.4キロごとにエイドを設ける。水やエネルギードリンク、コカコーラ、シリアル、エネルギーバー、塩クラッカーなどが提供される。

    【食事】
     朝食は主催者が提供する。内容は、紅茶、コーヒー、砂糖、パン、ジャム。これらを1つのボックス(弁当箱)にまとめ、毎日のステージ終了後に渡される。朝食以外の食事は、選手が自分自身で調達する。

    【携帯物の義務】
     走行中は必ず1.5リッター以上のウォーターバックあるいはボトルを持たねばならない。
     また、現金10ドル、当日のレースシート(コース表)を携帯しなければならない。
     夜間走行中あるいは視界不良時には、ヘッドライトと蛍光ベストを着用しなければならない。
     宿泊施設のいっさいない地域でキャンプする場合に備え、以下の装備を用意しなければならない。
     テント、寝袋、お椀、皿、カップ、箸。

    【失格時の措置】
     レース開始から7日以内に失格(制限時間オーバーなど)や自己申告リタイアした場合は、大会にとどまることは許されない。近隣の都市に移動し、帰国する。
     レース8日目以降に失格、リタイアした場合は、他のレース参加者に迷惑をかけないよう配慮したうえで、コースを走ることができる。その場合は、ゼッケンを外すとともに、記録測定はされず、順位は表示されない。

    【参加費】
     6500ドルである。日本円で約50〜55万円相当。

    【現在の出場予定者】
     イギリス人2名、フランス人4名、ドイツ人3名、イタリア人1名、オランダ人2名、日本人4名、合計16名。
     男性14名、女性2名である。最年少は31歳、最年長は69歳。

        □

     以上があらましだ。そしてコースの詳細も明らかになった。あらためて行程表をながめると途方もない。
     最初の1000キロは荒野と砂漠をゆく。気温は50度近くまであがり、路面温度は60度にもなる。やがて標高3000メートルのロッキー山脈越えだ。繰り返される数百メートルの登り下りを薄い酸素をゼーゼー吸って粘る。ロッキーの東側には果てしない農地が広がる中部平原地帯。真っ直ぐな1本道が地平線よりもっと向こうまで続く。さらに高温多湿な東部の低地帯で真夏の太陽に焼かれ、ゴール間近の最後のダメ押しは起伏の激しいアパラチア山脈越えが待つ。
     毎日、平均73キロ。1日たりとも休みはない。
     予想するに、スタートから7日目までには何かしらの限界が訪れていると思う。極度の疲労か、深刻な関節の痛みか、免疫低下による病気か。根性とか信念(もともとないけど)は早い段階で消失霧散し頼れるツールではなくなっていて、ギラギラしたものはさっぱり洗い流されて、たわいもない薄っぺらな人間性だけが、ノーガードでむき出しになった状態になるんだろう。「で、ぼくはこんな状態になっちゃいましたが、どうしますか?」と自分に問うことになるはずだ。
     だがきっとやれる気がする。ぼくは、小さい物事にはくよくよと悩むタイプだが(歯医者に行きたくないとか、名刺をうまく渡せないとか)、許容量をこえた難問難題に対峙するととたんに不感症を発症し、さらに誇大妄想狂が加わって、何でもできる気がしはじめる。自分の能力ではできそうもない餌を目の前にすると、尻尾を千切れるくらい振り、よだれをザーザーたれ流す。うふふふ、なんだか楽しいね。
  • 2011年03月31日バカロードその23 北米大陸横断レースへの道 その4 いったりきたり記
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

     長く、遠くまで走りたい。だけど速くも走りたい。しかしながら速く脚を回転させ、より遠くに着地し、心拍を追い込むって作業がホトホト苦手。速いランナーは、なぜあんな優雅でゆったりしたフォームで空気を切り裂いて走れるんだろか? 須磨学園高校の西池和人、エスビー食品の竹澤健介、エチオピアのツェガェ・ケベテ。彼らの映像をコマ送りで見ると、どの瞬間を切り取っても美しい。アフリカの大地を疾駆するトムソンガゼルのように無駄な動きがない。筋肉と骨格と腱の調和がとれている。
     朝起きて、ジャージを着て、軽く流しをはじめたら、身体が空中にヒュンと浮かんで西池和人になっていた・・・という夢は何度も見るのだが、現実の朝は地球の重力に抗しがたく、キロ6分ペースですら守れない。


    【淡路国生みマラソン・ハーフ】
     10月17日。今期マラソンシーズンの開幕戦。日頃ウルトラ向けの練習ばっかしやっているので(というのは言いわけでスピード練習から逃げているだけ)短い距離を心拍マックスで走れるかどうか確認したい。10キロまでは平坦な農道で42分26秒。まぁまぁかな。そこから登り坂に突入して17キロまでひたすら登る。ラスト4キロは激しく下り、登り、再び下ってゴール。ラスト1キロを4分01秒ですっ飛ばせたので後味がよい。
     ふらふらと更衣室に向かっているとゲストランナーの高石ともやさん発見!話しかけてみると、思いがけず「トランス・アメリカ・フットレース」の思い出を堰を切ったように話していただいた。満面笑顔で怒涛の弾丸トーク。次から次へとエピソードが飛び出す。いやマジでパワフルである。高石さんは、日本フォークソング界の草分けであり、日本人として初めて1000キロ級の超ウルトラレースに参戦しはじめた人。存在自体が伝説な人物が、距離わずか50センチの位置にいて、ぼくに話しかけてくれているという事実に目まいを覚える。サインをせがむと、

     もう一歩
     もう一歩
     あたらしい 君の
     夢が かなう

         高石ともや

     と記して下さった。記録・1時間35分48秒。

    【阿波吉野川マラソン・ハーフ】
     10月24日。新たに完成した海岸道路を経由し、マリンピア沖洲の中をあっち行ったりこっち行ったりの新迷路コース。13キロあたりで道を間違え大幅にオーバーラン。Uターンして戻るの恥ずかしかった。それでもタイムはハーフの自己ベスト達成、バンザーイ!と万歳美女軍団と盛り上がっていたら、周囲のガーミン持ってる人たちが「距離が500〜600メートル短いわだ」と語り合っている。ま、そういう細かいことにこだわらないのが阿波吉野川マラソンの良いとこ。最近の市民マラソン大会みたいに洗練される必要はない。走友会のオッチャンたちが、ランシャツ・ランパン・ガニマタで全力走やってるような、昔のままの草レース的な大会であり続けてほしいと思います。記録・1時間31分28秒。

    【関西夢街道スーパーラン・320キロ】
     10月30日。ぼくが出ていいレベルの大会じゃなかった。320キロを56時間以内、不眠不休で走る。一昨年の完走者はわずか6名、完走率が10パーセント台の年もある。出場しているランナーは全国から集まった超ウルトラ、マラニック、ジャーニーランの猛者たち。ぼくなんて末席にいることも許されませぬ。
     コースの難易度は異様に高い。三度ある山岳地帯を迷わず踏破するには、レース前に何度も試走し、道を把握しておかねばならない。なんせ一般的なトレイルの大会のような分岐点の矢印や案内表示はないし、むろん誘導員もいないし。自分で山岳地図を読み、時にはヤブこぎして山道を進む。
     ぼくといえば、スタート直後の六甲山中でさっそく道を失い、崖のフチに達しては絶望し、また迷っては崖で立ちつくすの連続。最終的にはロッククライミングの練習ゲレンデを降り、1時間以上よぶんに山道を走って六甲山から脱した頃には時すでに遅し。60キロ地点の大阪城の制限時間に100%間に合わない。潰れてもいいやとガムシャラに駆けたが(USJの駅前コンコースを全力ダッシュするのは恥ずかしかった)、関門時間を30分オーバーして終了。
     ロード系超長距離走の国内最高峰レースが「さくら道国際ネイチャーラン」だとすれば、「関スパ」はロード、トレイル、地図読みの総合力を問われる日本最高峰レースだと思う。ぼくの実力じゃ当分再挑戦はおあずけですね。修行しなおします。記録・60キロでリタイア。

    【羽ノ浦マラソン・10キロ】
     11月7日。県南に伝説の「フライングロケット兄弟」がいると聞く。号砲と同時に、いや号砲の鳴るちょっと前からいささかフライング気味に100メートルスプリンターのごとく飛び出し、周囲のランナーを唖然とさせるフライングロケット兄弟(実際の兄弟ではない)。その目撃者となるべく羽ノ浦の地をめざした。
     以前から目星をつけておいたそのランナーは、やはりスタートライン上に足を添え、弾丸スタートの予感を周囲にまき散らしていた。号砲と同時に、彼はウサイン・ボルト級の爆発力で、羽ノ浦中学校の裏山に消えていった。今回はフライングなしの正々堂々スタートでちょっと物足りなかったが、県南を代表する有名ランナーの背中を一瞬かいま見られて満足。フライングロケット兄弟のTシャツがあれば入手したいな。55号バイパスを口笛を吹きながら帰った。記録・42分17秒。

    【南阿波サンマラソン・ハーフ】
     11月21日。激坂の代名詞と言えば「阿波サン」。往路の登りは真夏の犬のようにゼエゼエあえぎ、復路の激下り、特にラスト5キロは実力とはかけ離れた異次元のスピードが出せる夢のコース。
     今回は、ラスト2キロを4分10秒平均でカバーし上機嫌。しかしサブスリーランナーって最初から最後までこのペースなのか、いったいどんな心臓しとんだろ。「ちゃんと練習すればサブスリーまでは誰でもいける」と教えてくれた人もいるが、ぼくにはまずムリちゃうか、と最近思っている。ムリだと思っているうちはムリなんだろうな。記録・1時間39分40秒。

    【つくばマラソン・フル】
     11月28日。今シーズンの初フル。今までやったことない「前半自重」ってやつを試してみた。20キロまで4分40秒台で気持ちゆっくり入り、20キロ過ぎたら徐々に本気を出していく、という計画。予定どおり4分45秒平均で20キロまで刻み、さあこれからだってときに両脚に大根ぶら下げたみたいに重くなってきた。24キロからは5分台に落ちる。一度も本気出してないのになんでな!という叫びが心にエンドレス・リピートする。40キロ以降は歩きも同然。わざわざ茨城まで遠征して何やってんだ?と自分を責めても状況は変わらない。
     後半潰れるのはいつものこと。しかし、一度も全力で駆けず、攻めもせず、ずるずる自滅するなんてサイテー。参加費、遠征費をドブに捨てるようなもの。「前半自重や二度とせーへんぞー」と堅くつくば山に誓うのだった。記録・3時間33分41秒。

    【奈良マラソン・フル】
     12月5日。1週間前のつくばマラソンで不甲斐ない走りをし、その晩ヤケ酒ウォッカ70度ガブ飲みしてから呼吸器・循環器ともに不調で、歩道橋の階段を登るだけでハァハァ動悸・息切れがする。さあ走るぞ!という気分にはほど遠いまま奈良入り。どうせ走れないなら、このさい人体実験だと前夜に巨大なドラ焼き(粒あん)を5個摂取し、人智を超えた極端なカーボローディングに有効性があるかどうか試す。
     「スタート直後からブッ飛ばして、いけるトコまでいく」という方針なき方針、4分20秒台で15キロまで維持すると、その後28キロまで不思議と大崩れせず。ドラ焼き(粒あん)の一気食い、効果アリなのか?
     しかしマラソンって不思議。体調万全で臨んだつくばより、死に体の奈良で5分も速くなる。ま、このクラスのランナーなら、体調なんて神経質に気にする程のもんじゃないってことなんだろう。
     今回初開催の奈良マラソンは、前日受付しか認めない商魂溢れる大会。奈良市内のホテルの大半はツアー会社に抑えられ、シングルルームも特別料金でバカ高い。都市型マラソンはみなこんな風な運営になっちゃうんだろうかね。道路を占拠する見返りとしては仕方あるまいか。記録・3時間28分38秒。

    【防府読売マラソン・フル】
     12月19日。サブフォーレベルの市民ランナーが参加できる最高級にガチな雰囲気の大会である。スタート1時間前頃からはじまる選手のウォームアップ走のスピードに金玉縮みあがり、持ちタイム順に陸上トラックに整列するスタート方法に「競技会」の匂いを感じて、お尻のあたりがムズ痒くなる高揚を得られる。
     さてレースは、ハーフを1時間36分で通過し、「こりゃ余裕で3時間10分台出せるな〜」と余裕の金丸ダンスを辺りに見せつけていたら、34キロで失速がはじまり、最後はおなじみヘロヘロで終了。
     中3週間で3本のフルという強行軍を実施したが成果はあった。1本ごとに潰れる位置が6キロずつゴールに近づいている。ってことは、あと2本フルをこなせばゴールテープまで潰れず到達できる。何か明るい展望が開けた気分がし、帰りの新幹線でゼロじゃない方のコカコーラをちびりちびり呑りながら多幸感をむさぼる。マラソンの後に飲むコカコーラってヤバいほど精神に効きませんか? 記録・3時間25分31秒。

    【大麻町ジングルベルマラソン・10キロ】
     12月23日。標高差120メートルを一気に駆け上がり、駆け下りる。クリスマス前ってことで仮装ランナー天国のこの大会。サンタにAKBに大谷焼にといろんな仮装を楽しんでいる。「沿道の応援に背中を押してもらう」ことが仮装をする大目的のひとつだと思うが、この大会は峠道コースゆえ沿道の観客は30人おるかおらんか。仮装ランナーたちはウケを狙うわけでもなく、ただ黙々と仮装する。誰に見られようと見られまいと我は仮装するのだ、という確固たる意思が見える。
     ぼくもいつの日にか仮装をして愛想を振りまきながら走る日が来るのだろうか。ぼくにとっての仮装は、ルビコン川を渡るに等しい後戻りできない世界への一歩だ。
     そーいえば最近スポーツショップに行くと、ふつうのランニング用のシャツやショート丈のランパンがほとんど置かれていない。スピードを追求するには不向きな、ガジャガジャした装飾の服がマラソンウエアコーナーを占拠している。スポーツ用品メーカーも「スポーツ」の要素はこの際、仏壇の奧にしまいこんでおいて、i-podを収納でき、蛍光色で、フードつきのワンピースみたいな美ジョガー向けウエアの開発に勤しんでいるのだろう。どうやらマラソンは別の宇宙のスポーツになりつつある。記録・43分03秒。

    【宮古島ウルトラ遠足100キロ】
     1月15日。早朝5時スタート。道路に街灯はなく、ヘッドランプの光を頼りに走りだす。スタートからキロ4分50秒くらいで走っていると、7キロ地点で第2集団にいることがわかった。さらに200メートルほど彼方に先頭をいく2人が見える。「せっかく宮古島まで来たし、ここはひとつ先頭集団に加わってみるのはどうよ」なんて欲望に火が灯ると、いてもたってもいられなくなり、ペースをあげて9キロ地点で先頭に追いつく。
     この大会は去年も出場し、途中で道を間違えてリタイアした苦い経験がある。当大会には先導車両や誘導スタッフはいない。すべて自己責任である。去年間違えて進んだ道を横目に「ああ、この道で絶望したな。二度とあんな思いはしたくない」と口惜しさを噛みしめる。
     やがて信号のある交差点に差しかかったが、前をゆく2人が直進していく。おかしい、ここは左折すべき道だ。あわてて前のランナーを追いかけ、大声で話しかける。「さっきの交差点、左折だったはずですよ!」。だが彼は止まろうとはしない。「大丈夫ですよ。私は昨日も試走をしたんで、この道で間違いないです」。その自信満々さに気圧されぼくの記憶も不鮮明になる。(ほーか、ぼくの勘違いかもしれんな〜)と思い直す。
     だが走れど走れど道さらに暗く、幾度も現れる分岐点に看板の一つもない。先頭集団3名、ついに立ち往生し会議を始める。「もしかして道、間違えましたかね・・・」。
     コースアウトが判明した後は、本来の海沿いの道を求めて、光源ひとつない寂しいさとうきび畑をゆく。暴風吹きあれる畑道をいくら走っても正規コースに戻れない。焦りも手伝いペースが上がり呼吸が荒い。30分ほども迷走し、正規コース上にあるエイドの灯りが見えると同時に、気持ちが折れた。いまや旧・先頭集団ランナーのガーミンによれば6キロ余分に走ったとのこと。すでに最後尾に近い位置か。
     先頭集団にいるという得意満面のトランス状態から、道に迷った失望、「前について行かなきゃ今ごろ独走」という後悔。そして正規コースに戻り、ややメタボ気味のビッグヒップな奥様ランナーの後塵を拝するに至って、全身が哀しみに満ちる。
     嗚呼、そこから残り84キロの長いこと、ダメージの大きいこと。仕方ない、根性を鍛えるためにあきらめず完走しよう。この程度の苦境は、北米横断レースの際に起こる様々なトラブルに比べれば屁でもないはずだ。風速21メートル、化け物級の風圧に晒される宮古島を、寓話「北風と太陽」の旅人の挿絵のように、とぼとぼと走り続けた。記録・12時間55分。

    【愛媛マラソン・フル】
     2月6日。街のいたる所に大会の告知ポスターが貼られ、テレビやラジオでは前宣伝や特番、CMが流されている。街全体がマラソンを盛り上げよういう気運に溢れている。コースも大胆である。松山県庁のど真ん前をスタート地点にし、名物の路面電車をはじめ車両など交通を遮断して市街中心部を走らせる。ために松山市街や郊外のバイパス道沿いの応援の賑やかさはとくしまマラソンを遙かに上回っている。こんなにも地元は熱心なのに、県外から参加のランナーが5500人中わずか600人強と人気がイマイチなのはなぜだろう。徳島からも44人と少ない。丸亀国際ハーフと同日開催の影響も大きいが、大会の魅力が広く伝わっていないのが原因だろう。
     レース前の秘かな楽しみをひとつ。毎年、大街道にある三越デパート地下食品街の「hanafru」というスイーツの店で、果物が山盛りになったホールタルトを買い、まるごと1個平らげることにしている。今年は1個で足りず2個食べた。両方で3000キロカロリーくらいかな。記録・3時間24分22秒。

    【海部川風流マラソン・フル】
     2月20日。3時間20分を切るって設定タイムで走りはじめたが、最初の2キロを4分11秒、4分09秒でいってしまった。フライングロケット兄弟のマネしてどうするよ。突っこんだ代償は30キロからこんにちわとやってきて、キロ5分台に落ちこむ。そして今回も苦しさに負けて終わった。マラソンは「また今日もダメだった」の繰り返しだ。やった!とガッツポーズで終われた試しがない。これで4本続けて3時間20分台。こんな中途半端な所が上限だなんて思いたくない。もっと粘れるし、もっと耐えれるし、もっと鬼気迫れるはずなのだ。
     東京マラソンで優勝した川内優輝選手のラスト12.195キロを見せられたら、どんな言いわけも通用しない。持って生まれた才能の有無はさておき、自分の持っている力を残り1グラムもないってくらい出しきったかって点で、川内選手のようなハートで挑まないとダメだ。記録・3時間24分06秒。
  • 2011年03月10日バカロードその22 北米大陸横断レースへの道 その3 続・四国横断フットレース思案
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

     吉野川河口から2日かけて160キロ走り高知市に着く。3日目は国道56号線を南下し79キロ先の黒潮町を目指す。早朝4時30分に高知市を発ち、15キロ走って仁淀川大橋を渡る頃に、夜明けを迎える。
     
     道幅が車道ほどもあるカラー煉瓦敷きの歩道を走る。土佐市街を迂回するバイパス道とともに敷設されたものだ。こんな人家のない場所になぜ立派な歩道が必要なのか、なんて健全納税者的な疑念がよぎる。財政破綻寸前の国と地方に無駄なもんを造りつづけるお上と民よ。あー、統一地方選なんて近づいてるけど、また税を蝕む市町会議員に県会議員どもを選挙で選ばなくちゃなんないのかね。地方議員なんてスイスやフランス、北欧みたいに無償ボランティアでいいんだ。少なくとも市民運動出身者は報酬受け取りを拒否しなくちゃいけないし、最低でも期末手当という名のボーナスなんて受け取るべきじゃない。日本じゃ地方議員に4000億円も報酬払ってる。人口3倍、国土面積24倍のアメリカ合衆国は1000億円程度なのにね。
     なんて走りながら義憤に駆られ、地域社会とか国とか人類のことを憂いだりしているが、大したことはない。その場限りの無責任思考である。ヒマに任せて、おっさんたちのサウナ談義をひとりでやってるようなもんだ。
     高知県内の街道沿いにはお弁当屋さんが多い。全国チェーン店ではなく地元の店だ。特徴的なのは店内で飲食できるシステム。売り場カウンターの手前にテーブルとイスが置かれ、早朝からお客さんが弁当を食している。
     たった今包んでもらった弁当を、その場で解いてすぐ食べるのなら、お弁当でなくてもいい気がする。だけど、のり弁280円でサクッと食事できるのは悪くない。唐揚げ弁当なんぞ、揚げたてを一瞬の間も置かず熱々を口にできるのは嬉しい。そういやあ昔、羽ノ浦にもこんなタイプのイートイン弁当屋があったっけか・・・。
     昨日までは、北米横断レースの攻略法など考えながら走っていたが、まあ実際やってみないとよくわからんよな、という結論に達してしまった。見るべき景観もない人工林の山道をひたすら走っていると、考えるべき事案も乏しくなる。
     仕方なく弁当屋のビジネスの原価計算をしたり、ビートルズのホワイト・アルバムを最初から最後まで歌おうとしてレボリューション9あたりでうんざりしたり、加速度的に膨張する宇宙空間とダークエネルギーとダークマターと量子論について持論を展開したり、金城一紀のゾンビーズ3部作をわが手で映画化するなら配役をどうすべきか悩んだりする。そのようにひたすら冗長な空想を繰り返し時間をつぶす。ヒマだ、脳がヒマだ。スティーブン・ホーキング博士のように肉体の大半が活動停止しても、思考だけは猛スピードで疾駆つづける人物はカッコいいわけだが、ぼくは対極にあるようだ。
     はたと気づく。北米横断の最大の敵はこの思考の空白地帯ではないのか。コースの大半は、赤茶けた岩石と砂漠の荒野。店も街もない無人地帯と聞く。その何もなさ加減は高知の山道の比ではない。無人のハイウェイを5000キロ、ハーレーダビッドソンで横断するのはカッコいいが、ぼくはトボトボ交互に足を前に出すだけ。脳みそはその退屈に耐えられるだろうか。
     高知市から37キロで須崎市の繁華街へ。JR土讃線の大間駅に隣接した公衆トイレ・大に入る。しゃがんで用を足す和式だが、その佇まいが尋常ではない。便器は陶器製ではなくて銀色に輝くステンレス、底部の構造は一般的なU字型とは違い、四角い箱型の武骨なもの。ホワイトベースのカタパルトにて発進準備するガンダムな気分だ。高知県に入り同様のトイレに遭遇したのは2度目。これは高知独特のトイレット文化なのだろうか。美術館の展示スペースのようなステンレスの箱にウンチをポロリ落とすと、わが排泄物が文化財のような威厳を放って見えた。
     須崎市の道の駅「かわうその里すさき」でひと休みし、坂道をぐんぐん登れば碧い太平洋を眼下にする。土佐久礼から6キロ続く急勾配の七子坂を標高300メートルぶん登り、七子峠の頂上へ。四万十町と名称を変えた旧窪川市街で日が暮れる。
     66キロ走り、今宵の宿泊所「佐賀温泉・こぶしのさと」まで残り13キロ。夕食のラストオーダーの時間が迫っている。キロ6分ペースで走ってギリ間にあう。ヘアピンカーブが連続する街灯のない真っ暗な峠道を、呼吸は限界アヘアヘ、アゴの先から汗をだくだく滴らせて急ぐ。脚を使いすぎて、明日にダメージを残さないか心配。しかし夜中にさ、いったい何やってんだろね。
     夜8時すぎに宿に到着。元々温泉のあったこの地に昨年オープンしたばかりの「こぶしのさと」は和洋折衷のモダンな建築とインテリアが冴えている。汗まみれの衣類を洗濯機に放り込み、熱い天然温泉が満たされた浴槽にダイブし、頭まで浸かること所要3分。風呂上がりの余韻を愉しむ暇もなく、びしょ濡れ厭わずレストランにダッシュ。
     広々したレストランに客はぼく1人。遅くなったことを詫びるとスタッフの方々は嫌な顔ひとつせず「ごゆっくりお召し上がりください」と微笑む。そんな優しさに甘えてはならんと、一刻も早く食事を終えるべく、脱兎の如く口中に料理を詰め込み咀嚼。喉につかえてむせ返り、ごはん粒を空に飛ばす。山宿ながら地魚の造りは新鮮そのもの、揚げたてのサクサク天麩羅が胃に沁みる。ぼくの到着を待って調理してくれたのだ。
     食後に改めて露天風呂やサウナのある温泉へ。広い浴場を1人で独占する愉悦に意識が遠のく。1泊夕食付き8000円、この旅いちばんの贅沢宿であったが値段以上の価値あり。ふかふか布団と木の香りに包まれた部屋でいつまでも惰眠を貪れたら幸せなのだが、朝4時に出発しなけりゃならないのが悲しい。
        □
     午前4時、行動再開。超長距離ランニング中は2時間も眠ればスッキリするのが不思議だ。これ以上眠るとダメージで起き上がれなくなるって防衛本能から目が覚めるんだと思う。
     気温はマイナス2度、吐く息が産業革命の工場の煙みたいにもうもうと白くたなびく。天気予報は朝から雪だ。足摺岬は80キロ先、雪に閉じこめられないよう先を急ぎたい。
     夜が明けると、リアス式海岸っぽい岬と入り江が連なる。太平洋に張りだした岬の尾根をダラダラと登り、漁村のある入り江に向かって下る。登り下りが、壊れ気味の脚に響く。カラ元気を出すため山本コウタローの「岬めぐり」を口ずさむが、歌声は寒空に虚しく消えていく。
     土佐湾のはるか彼方に足摺岬がうっすらと霞んで見える。50キロ向こうの岬は、切り立った断崖を見せ、行く手の険しさを暗示する。
     やがてミゾレまじりの氷雨がパラパラ音を立てはじめ、一向に止む気配をみせない。防水ジャケットを着ているが、いつしかぐっしょりと氷水が浸透し、身体の芯まで冷やす。気温の寒さには精神的な戦いを挑めるが、重く濡れた衣類の不快感は気分をどんより曇らせる。いよいよ旅人に鞭打つようなヒョウ雨になり、たまらず「道の駅ビオスおおがた」にエスケープする。
     入口脇の物産スペースに、地元の仕出し屋で作られたと覚しきお弁当が並んでいる。美味しそうだ・・・たまらずひとつ購入する。館内にストーブの効いた食堂があるので、女性の店員さんに「ここで弁当を食べていいですか?」と尋ねると、あっさり「ダメです」と拒絶され、「隣の公園管理事務所で食べられます」と指示される。ところが公園管理事務所に行ってみるとドアに鍵がかかっていて中に入れない。年末年始の休館日なのだ。結局どの建物にも入ることができず、雨と風の吹きさらしの中で弁当を食べる。しまった、高知名物のイートイン弁当屋で食うべきだった、と後悔する。身体が冷え切ってガチガチと歯の奧が鳴る。
     四万十川の東岸、堤防上の道路を進めばさえぎる物もなく、雪は横殴りに。地面についた雪は溶けることなく、シャーベット状に一面を凍らせる。今履いているランニングシューズは最新版だけあって底に通気用の穴が開いているのだが、そこから氷水が侵入し、足の裏全体をびしょ濡れにする。シューズの足先は編み目の粗い軽量モデル。風が吹きつけるたびに足先を空気が抜け、体感温度を下げる。やがて指先がじわじわ麻痺し、土踏まずから前半分の感覚がなくなる。次には火傷のような痛みに襲われる。こんな平地でまさか凍傷になるはずもないだろうけど。
     四万十川河口を離れ山道に入る。ときおり小さな集落が現れるが、人の気配はなくゴーストタウンのよう。むろん店や自動販売機もなく、暖をとる場所はない。アイスシャーベットの道を足首まで浸かりながら走る。右脚のスネがひどく腫れている。左のヒザは関節にガリガリこすれる嫌な違和感がある。いよいよ雪強く、気持ちも折れて、小さなお堂の軒先で雨宿りし、無益に時間を潰す。くつ下を脱ぐと、両方の足裏は象の足のように肥大化し、痛みを通り越して感覚もない。残り20キロほどを残し日が沈んでいく。
     歩けるが走れない。情けないがもう走れない。 時速4キロで歩き続ければ5時間で足摺岬の先端まで行ける。しかし、歩いてゴールするんじゃ意味がない。300キロは走れたが320キロは走れない。今日時点のぼくの実力はここまでだ。四国横断は、残り20キロを残しリタイアという結果でよいと判断し、この旅を終える。
     本番である北米大陸横断フットレースでは、走れなくなったらオシマイである。歩きをまじえていては、日々設定される関門時間の突破は望めない。時間をクリアできなければ無情にも失格者である。砂漠の真ん中で荷物をまとめヒッチでもしながら帰るしかない。
     どんなに遅くてもいいから走り続ける・・・それが北米完走を達成する唯一最大の条件だ。本番まで半年ある。あと何度か500キロ走を行い、超長距離に対応できる脚を作りあげなくてはならない。傷まない脚、タフな脚を早くモノにしたい。