編集者のあやふや人生(コラム)

  • 2017年08月19日バカロードその110 暑さ最弱ランナーなりの灼熱対策 その1

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     ウルトラランナーって年がら年じゅう、クソ暑いかクソ寒いなかを走ってるよねぇ。熱中症への意識の高まる昨今では、気温35度を超せば運動部やスポーツイベントは活動中止になるのがふつう。危険度を判断する基準も進化していて、熱中症予防の目的で考案された「WBGT・湿球黒球温度」の値を用いて、より科学的に人体への影響を図ろうと試みられています。

     「WBGT・湿球黒球温度」の算出要素は、気温10%、湿度70%、地面や壁からの輻射熱20%です。この比率、ランナーの皆さんなら納得するよね。大会本部テントの涼し気な日陰に置いてある温度計と、カンカン照りのアスファルト上で感じる暑さはまったくの別物です。
     でもって「WBGT」指数では、31度を超すと「高齢者においては安静状態でも熱中症を発生する危険性が大きい。外出はなるべく避け、涼しい室内に移動する」との指針がある。そうそう、夏の暑さは、お年寄りにとって死にも直結する悪因なのです。
     かく言うわたくし、若者か高齢者かと問われれば、明らかに高齢者の部類に属するお年頃です。猛暑日には冷房の効いた甘味処で白玉あんみつなどをついばんでいたいものですが、いざレースとなれば、いつまでも木陰でグズグズと休憩してはいられません。
     体力充実した中学生や高校生ですら活動休止している酷暑環境で、物忘れがひどくて日々ボーッと過ごしている中年男子が、100km、200kmと走りつづけてよいものでしょうか・・・と疑問を呈しても誰も答えてはくれません。嫌なら走らなければいいのです。誰か怖い人に命令されたわけでもないのに、好きこのんで勝手に走ってるバカにつける薬はありません。
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     アスリート体質のランナーならいざ知らず、気温が35度を超すとなると、凡庸なランナーならば体温調節機能のスペック外です。
     自動車のエンジンには水冷・空冷があって、内燃機関がつくりだした熱を、風や水を使って下げています。人間なら血液や汗が「水冷」にあたります。毛細血管や汗腺は、車の部品でいえばラジエターでしょう。一方「空冷」の役目は皮膚表面が担ってます。
     昭和中期の頃には、自動車が道ばたでエンコして煙をもくもく出してる場面をよく見かけました。エンジンの出す熱を外に放出する機能が低かったんでしょう。現代の車では滅多にありません。
     車に比べて人体はそれほど短期間に進化しません。中年太りの暑がりオヤジが、ある日一念発起してウルトラマラソンを始めたからといって、急に暑さに強くなったりはしません。
     真夏、走ってる最中に深部体温は40度近くまで上がります。そして外気温が35度を超すと、この発生した体温の逃げ場がどこにもなくなります。だから気温35度を超すと大多数のランナーはオーバーヒートします。では、どうすればいいのでしょう。
     そこで昭和40年代製の旧タイプの冷却システムしか持っていない中年男であるわたくしが、真夏のレースを乗り越えるために無駄骨を折りつづけて得た暑熱対策をまとめてみました。
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    ①使える外部手段はすべて使う。最強アイテムはやはり氷。
     体温を最も効率よく下げられるのは言うまでもなく氷です。熱脱離が速く、溶け終わる瞬間まで効果が持続します。
     エイドにブロックアイスを用意してくれている大会が、以前よりは格段に増えています。エイドのないマラニックなら、コース上にあるコンビニで購入します。
     特に頭皮一帯と首まわりは、可能な限り氷を使って冷やし続けるべきです。帽子の中に入れて頭頂部を冷やし、首まわりにはタオルや手ぬぐいで氷を巻いて結びます。その際、後頭部の頚椎部分だけじゃなく、左右のエラの下あたりにある動脈部分に氷があたるように巻きます。この場所を通った血液はそのまま脳内に流入するので、「回復した気分」に達する時間が短いです。しかし実際はいったん熱中症に陥ると肉体全体にわたってダメージを受けています。そうそう簡単には回復しないので、「回復した気分」に過ぎないと理解しておきましょう。
     熱中症対策には、ワキの下や股関節付近の動脈を集中的に冷やすことは常識ですが、ランニング中にワキとマタに氷を挟むのは無理です。動脈にこだわらず、両手に氷の塊を持ち、あらゆる体表面に塗りたくるのがよいです。衣類から露出している顔、腕、太腿に加えて、シャツやパンツにも塗りつけましょう。
     衣類はビショビショに濡らしすぎると、体温の放散が繊維内の水にジャマされ、気化熱の効果が発揮できません。霧吹きスプレーで吹きつけた程度に薄く濡らし、乾ききる前にまた濡らすようにします。これがいちばん体温を下げやすいです。
     いちいち立ち止まって身体に塗っていると、どんどん関門までの余裕時間がなくなるわけだから、すべて走りながらの行為です。
     氷が入手できない場合もあるでしょう。コンビニがない田舎道なら、昔ながらの商店で売っているアイスクリームを活用します。パウチ容器やチューブ入りのクーリッシュやパピコを氷の代わりに使います。
     氷、アイスクリームともになければ、ボトルの水をうまく活用します。頭からジャブジャブ水をかぶってる人がいますが、得策ではありません。ボトルから手のひらに少しずつ受け、体表面に薄く塗りたくります。
     水の持つ気化熱(液体が気体に変わる時に周りから熱を奪う)を最大に利用する最良のツールは「霧吹きスプレー」です。霧吹きだと手持ちの水を減らすことなく、水量に対して最も効率よく皮膚表面の温度を下げられます。といっても、スプレー容器をもって走るのは邪魔くさいと感じる人が大半でしょう。そのときは昭和のプロレスラー・・・ザ・グレート・カブキやグレート・ムタがよくやっていた「毒霧」の要領で、口に含んだ水を霧状にして吹き出し、身体に浴びせかけるテクニックを習得しておきましょう。2、3回練習すればできます。周りにランナーがいるときは迷惑なのでやめといてください。
     ドラッグストアには、アウトドア活動用の涼感・冷感スプレー製品が多く販売されています。使っているランナーも少なくないですが、それら製品の多くは原料のメントールなどに「冷たく感じる」作用があるだけで、実際に体温を下げるわけではありません。ガムを噛んだりミントティーを飲むとスースーするけど、口の中の体温が下がっていないのと原理は同じです。
     だからレース中に冷感スプレーを使用して、熱中症予防バッチリと信じ切っているのに、体温は高いままというのは危険です。高体温状態が10時間以上つづく夏のレース時に、体温調整アイテムと信じて使うのは間違っています。

    ②着衣カラーの影響は大きい。
     「体温を下げる」という点では、衣類やシューズの色も重要です。
     直射日光の下では圧倒的に「白」が有利です。気温50度以上まで上昇するバッドウォーター・ウルトラマラソン(米国カリフォルニア州・217km)や、砂漠を走るアドベンチャーレースでは、全身シルバーや白色で覆われたダボダホのウエアをまとっている選手の姿が見られます。
     色による熱吸収率や太陽光の反射率については、学術的な研究結果を見つけられませんでしたが、ペンキメーカーや外壁施工の企業による自社調べの数値が公開されています。
     そこでは色による違いは顕著です。最も優れた反射色は銀色で反射率90%、つづいて白80%、黄色60%、金色50%、オレンジ30%、赤20%、青10%、黒5%といったところです。銀色のシャツはあまり販売されていませんから(帽子はあります)、安価で簡単に入手できるのは白色のウエアです。

    ③足の裏の熱を外に逃がすには。
     気温が40度付近になる場合、アスファルトの路面温度は50度を超すことはザラです。疲れ果てていても、路上に腰かけられないほどののフライパン状態になっています。地面の高熱はシューズのアウトソール素材を伝わり、内部まで侵入してきます。足裏の体温それ自体も、数十万歩もの着地から高温化しているので、内に外にと熱されて、こもった熱の逃げ場がなくなります。シューズ内の温度が上昇しっぱなしになると、足裏の腫れや水ぶくれの原因となります。ひどい時には、剣山の上を走っているような激痛をもたらします。
     そんなときは迷いなくシューズの指先部分を刃物で切り裂きます。いきなりバッサリ切るのが不安なら、最初は爪先2cmくらいの切れ目でよいでしょう。それでも効果が薄ければ、ざっくりと指全体が露出するように穴を開けます。
     指先を露出させるとシューズ内の通気性が一気に良くなり、足裏全体が冷やされます。
     シューズを切る際に気をつけたいのは、切り目の位置です。地面すれすれの下の方を切ると、つま先で蹴りあげた小石が入り込み、たびたびシューズを脱いで石を落とさなければならなくなります。なるべく爪先のアッパー部分を切りましょう。
     すごく単純なことですが、道路のどちらか側に日陰があるのなら、それを選んで走ることも大事です。道を左右に移動してのランは多少の遠回りではありますが、冷たい日陰の路面で足裏のダメージを軽減させられれば、その貯金は日没後の50km、100km先で生きてきます。

    ④胃薬に頼らない。
     胃薬と一概に言っても、薬品によって患部へのアプローチの方法が違います。ウルトラランナーがよく使うのはH2ブロッカー系です。H2ブロッカーは胃酸の分泌を抑えます。次にスタンダードなのは、胃粘膜を保護して胃酸を中和するタイプ、また胃粘液を増加させて胃粘膜を守るタイプです。ほかには消化を促進したり、胃の痛み自体を抑えるものもあります。
     ウルトラランナーの間では、ロキソニンやボルタレンなど強い鎮痛効果のある錠剤を、用量以上に飲みながら走ることが一般化していて、そういう人は鎮痛剤と胃薬をダブル飲みしています。医者ではないぼくの根拠のない意見ですが、激しい運動中でなおかつ水分枯渇状態で、第一種医薬品や処方薬をダブル飲みするのは、いくらなんでもヤリ過ぎではないかと思います。 
     レース中に嘔吐が止まらなくなり、それでも完走をあきらめたくない場面はいくらでもあるでしょう。ぼくも今までいろんな胃薬を服用しました。H2ブロッカーの代表的な市販薬「ガスター10」を飲んで劇的に吐き気が収まった経験があります。しかし別のレースではまったく効き目がなかったりもしました。おそらく同じ「嘔吐」でも、時と場合によって原因が違うためだと思います。シロウト療法では、どのタイプの胃薬がその時点で最も適切なのかは判断しようがありません。
     また、胃薬の副作用として起こる反応の方が、いっそう肉体にダメージを及ぼす気がしています。たとえば胃酸を抑制する薬を飲むと、食べ物はおろか水分さえも消化吸収しにくくなり、血液などから筋肉へと栄養が供給されなくなってハンガーノック状態に陥ることがあります。そうなってしまうと「こればマズい」と無理にジェルやコーラを飲んでエネルギー切れを脱しようとします。しかし胃はマトモに動いていないので、それらを受けつけず、反射的な反応として吐いて戻そうとします。
     結果、ハンガーノックだけでなく、塩分やミネラル類なども体内に取り込めなくなり、脚ばかりか腹筋や両手指まで攣りはじめます。嘔吐が続くと「吐く」という行為自体に体力が奪われ、精神的にも擦り切れます。この暗黒のスパイラルが繰り返され、戦意が失われていきます。これが、ぼくが暑さに敗れていく典型的な過程です。
     「嘔吐」は症状のひとつに過ぎません。循環器はじめ全身の機能不全による結果が嘔吐となって現れているのであって、胃内容物の逆流はハデな現象のひとつです。やむなく胃薬に頼らざるを得ない状況に陥ったときには、すでに手遅れである場合がほとんどなのです。極度に根性、人間力のあるランナーはコレを乗り越えていきますが・・・。
     冒頭に挙げた「胃薬に頼らない」とは、胃薬を絶対に飲まないという意味ではありません。レース展開として、制限時間や関門までの余裕タイムが3時間、4時間とあるときは胃薬の世話になるのも選択のうちです。ゆっくり効いてくるのを待てるし、急激な副作用にも対応できます。でも3時間もあるのなら、ただ横たわっておれば体力は回復するだろうから、あえて薬を頼らなくてもよいとも言えます。
     大切なのは「胃薬を必要とする状況に自らを追い込まない」ことです。
     そのためには、
    ・残り距離に対して自分がキープできる速度以上にスピードを上げない。
    ・直射日光の下では、さらにスピードを20%以上落とす。
    ・呼吸を荒げたり、心拍をドキドキ鳴らす走り方をしない。
    ・関門を越えるためにスパートを繰り返す状況をつくらない。
    ・氷や水を使い、体温を下げる努力をしつづける。
    ・他人のペースに合わせない。特に知り合いが後ろから追いついてきたときには注意。ペースは追いついてきた人の方が上。並走しているうちは脳に刺激が与えられ楽に感じるが、取り残された後にダメージが出る。
     これらの自己コントロールが必要です。
    (次号につづきます) 
     

  • 2017年08月19日バカロードその109 鶴岡100kmその3 日本でいちばん制限時間の短い100kmレース

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)   

    (前号まで=9月初旬に山形県で行われる鶴岡100kmは、制限時間が11時間以内と厳しいレースだ。ぼくは50kmを5時間12分で通過したものの、気温35度を超す猛暑に見舞われペースはだだ落ち。最後まで粘りきれるだろうか)

     青空には一点の曇りもない。天球のてっぺんに居座る太陽は、自らの威力を示さんばかりに「これでもか」とギラギラを放射している。降り注ぐ光は頭上にのしかかり、質量があるかのごとくズッシンと重い。
     お昼を過ぎると、コースの道ばた何カ所かに、氷ブロックを山盛りにしたバケツが置かれた。大会スタッフの配慮だろう。バケツに手をつっこんで氷を5個、6個とわしづかみにし、パンツの両ポケットに突っ込む。顔や腕や脚やあらゆる皮膚に塗りたくり、口に放り込んでガジガジかじる。内臓を冷やし、皮膚表面も冷やす。体温が1度下がるだけで意識は明瞭になるものだ。身体自体が持っている体温調整力を遥かに超えた環境では、外部要因を徹底的に使うしかない。
     並走した選手が「完走できそうなペースで走ってるのは6、7人らしいよ」と教えてくれる。ぼくはその6、7人に含まれているのだろうか? 周回コースということもあり、自分の順位はさっぱりわからない。このクソ暑さと11時間という制限時間を克服し完走できたら、ちょっとは自信がつくのではないかと考えるとヤル気が湧き出し、つかの間シャキッとなる。が、すぐに太陽に押しつぶされてフニャフニャになる。
     60kmを6時間28分。ランナー同士は、周回の違いで追い抜いたり追い抜かれたりしながら、少しの時間を並走し、言葉を交わし合っている。
     ゼッケンナンバー1番をつけたランナーに何度か追いつく。当大会ではゼッケンの数字が若いほど大会黎明期からの参加者ということになる。1番ならば30年以上前からウルトラマラソンに取り組まれているに違いない。終始マイペースで、ニコニコ笑顔で楽しそうに走られている。わずかな時間を並走するたびに「いい走りをしてますよ」とか「(底の薄い)ターサーでよく走るねぇ」「氷をポケットに入れるのはよいアイデアです」なんて声を掛けてもらう。ベテランランナーからお褒めの言葉をいただくと舞い上がる。「でしょでしょ~」などと調子乗りな返事をしていた。しかし、帰宅してから氏のお名前を検索してみると、おそれ多くも第一回サロマ湖100kmウルトラマラソンの優勝者であった。30年も前に100kmを7時間台で走られているお方に軽口叩いて・・・穴があったら入りたいです。
     8周回目、前方をいくランナーが民家の前で立ち止まる。足元には、庭先から歩道に突き出したパイプがある。パイプの先端からゴウゴウと溢れる地下水は、ポリバケツに注ぎ込まれている。そのランナーは、水が満タン入ったバケツを「エイヤッ」と頭上まで持ち上げ、バッシャーンと全身にかぶった。
     思わず「み、水ごりですか!」と声をかける。修行僧のような荒行の結果、彼のシャツやパンツ、シューズまでびしょ濡れだが、「気持ちいいよ! 君もやってみたらどう!?」と全身で爽快さを表現している。マネしたい、気持ちいいだろうな。だけどタプタプのシューズじゃペースをあげて走れない。(よし、ラスト1周になったら、絶対やってやるど!)と心に誓う。
     80kmラインを8時間51分で通過し、9周目に入る。最終関門とも言える90kmラインは制限時間10時間ちょうど。この1周を69分でいけばクリアできる。
     だが100kmを完走するためには、この10kmを65分でカバーする必要がある。更にラスト一周を64分でまとめ、ギリギリ11時間切りを達成できる。
     80kmラインからペースをぐんと上げキロ6分にする。とにかくタイムの貯金をしたいという意識で頭がいっぱいになる。
     3、4キロはスピードを維持できたが、無理があったのだろう。急に意識が遠のき、立ってるのがやっとこさになる。85kmエイドを過ぎると脚のろれつが回らなくなる。真っ直ぐ走れず蛇行し、この1kmに10分近くかかってしまう。
     こんなんじゃ90km関門すら危うい。90kmから先のことなんか考えても仕方がない。熱中症だろうがスタミナ切れだろうがそんな心配している暇あれば、全力で脚を前後に動かし続けるべきだ。90kmを越えたら、いっかい倒れたっていいんだ。とにかく目の前のボーダーラインを乗り越えるしかない。
     「先のことを考えなくてよい」と自己暗示をかけると、脚がふわふわ動きだす。アラッ、けっきょく病は気のものなのかねぇ。再びキロ6分にペースが上がる。
     89km、9時間55分50秒くらい。のこり1kmを4分ちょいで走れば間に合う! 不可能か?  いや今は可能性の有無などを論じている時ではない。自分が出せる最大出力のスピードで駆けるしかないのだ。
     住宅街を抜け、突き当たった丁字路を最短インコースをとって左折する。90kmラインのある本部テントが見えてくる。よっしゃ出し惜しみなく走りきったぞ、結果はどうだい?
     しかしラインを越したところで主催者の方に「ここまででぇす」と止められる。90kmの記録は10時間1分10秒。ラスト1kmは5分18秒にしか上げられなかった。温情で関門を通してくれないかなと淡い期待を抱いたが、オマケは一切ない模様。ハッキリしていてよいことです。
     リタイア地点がそのまま本部会場というのは切なくもあるが、収容バスを待たなくていいので、便利といえば便利である。着替えカバンを置いてある公民館まで20メートルも移動すればよいのだが、なんとその20メートル先にたどりつけない。公民館の駐車場に尻餅ちをつく。選手にぶっかける用に水道から伸ばされたホースの水を、頭のてっぺんから10分間くらいかけ続けるが、一向に体温が下がらない。
     本部テント脇に置かれた子供用のプールに、氷のブロックが浮べられている。その冷水にタオルを浸し、頭や両脚に巻きつけて何度も取り替えていると、少しずつ正常な意識が戻ってくる。
     後続のランナーたちはそれぞれの周回数を経て、スタート地点へと戻ってくる。若いゼッケンナンバーをつけた60代、70代の伝説的ランナーたちもレースを終える。彼らは着替えもそこそこに、公民館の一室にある食卓を取り囲み、缶ビールで酒盛りをはじめている。大盛りのカレーライスを酒の肴に、日焼け顔なのか酔っ払いなのかわからない赤銅顔で盛り上がっている。灼熱下を11時間走っても尽きない旺盛な食欲。こちとら何一つとして喉を通りませんよ。ウルトラランナーとしての豪快さも内臓のタフさも、とても敵いそうにはありませんです。
         □
     レース終了後間もなく、選手とスタッフ全員は市内随一(と思われる)格式あるホテルで再集合する。マラソン大会の後夜祭といえば体育館で立食ってのが相場だが、鶴岡100kmの閉会式は結婚式の披露宴会場のような立派なホールで行われるのだ。受付で名札をもらってつけるのもパーティみたい。
     指定された円卓の席に着くと、両隣はランナーではなく大会スタッフの方であった。お二人とも20代くらいの若者である。円卓を囲んでランナーとスタッフが交互に座る。全国からやってきた様々な世代のランナーと、鶴岡市という地元に根を張って生きる若者たちが酌をしあう。お世話をする側とされる側の間に仕切りがない。宴会の席の配置ひとつとってもコンセプトが貫かれた素晴らしい大会だと改めて思う。若いスタッフからは、いろんな地元事情を聞かせてもらった。ぬかりなく名物スイーツ情報も教えてもらいメモした。
     やがて選手ひとりひとりの名が呼ばれ、ステージ上に招かれる。100km完走した人も、11時間コース上でがんばった人も、赤ら顔を満足そうに緩めている。
      11時間内に100kmに達したのは5名。ぼくは完走できなかったものの、未完走者のうち最初に90kmラインに到達したという6番目の成績を収められた。関門超えには1分10秒足りなかったわけだけど、われながら実力以上に走り、大変な健闘をしたレースであったな、と自画自賛しておく。
     テーブルには、お腹を満たすに程よい料理が皿を変え何度も届けられる。山形の銘酒はじめお酒は飲み放題だ。好きなだけ走ったあとで、気のすむまで呑める。格別な一日だねぇ。
     愉しい宴席が終わると、ホテル最上階の露天風呂へ移動する。浴槽からは鶴岡市内の夜景が一望できる。仰向けになって浴槽のヘリに後頭部をひっかけ、湯面に身体をぼやーんと浮かべる。今日1日で7リットルは汗かいたな。どの細胞にもアルコールがしみわたっていて心地よい。キッツいけど何から何までよい大会だったな。90kmアウトは来年またチャレンジするための布石としておこう。しかし部屋に帰るのが面倒くさいな・・・このままここでおやすみなさい。

    【酷暑下で100km以上を走る対策について】
     30度を超すと常にレロレロになり、コース上にいるより木陰で昼寝している時間が長くなりがちなぼくですが、鶴岡100kmでは日陰に設置された気温計で35度という酷暑の条件ながらも、最後までタレずに走りきれました。85km地点でふらつきと蛇行を起こしてしまいましたが、これは暑さというよりその直前に能力以上にペースアップしたことが原因です。10分ほど我慢していたら元の体調に戻ったので、長丁場レースなら諦めず、歩きを混じえながら体調の回復を待つべきだという教訓も残しました。何らかの危機的状況に陥っても「このまま際限なく悪化していく」とネガティブに考えなくてよいということです。
     話を脇道にそらしますが、最近は実業団マラソンの選手や指導者からこんな発言がよく聞こえてきます。「夏のマラソンを走りきるには暑熱順化はたいして重要ではない。それよりもスタートラインにつくまでのコンディションづくりが大事だ」。真夏に行われる東京五輪や世界陸上を念頭に置いた発言です。全盛期の瀬古選手が五輪前に過剰な走り込みをして血尿を出し、本番で失敗したというエピソードも効いているのでしょう。
     猛烈な陸上競技ファンのぼくとしては、憧れの選手や有能なコーチ陣らがそう発言していると思わず鵜呑みにしたくなります。「なるほど。暑いところで練習しすぎて疲労困憊になるよりは、まずは体調づくりね」とラクチンな道を選びそうになりますが、ぶるぶると首を振って否定をしなくてはなりません。
     当たり前すぎることですが、彼らとぼくらは同じ「マラソン」という言葉を使ってはいても、実際はまったく別物の競技に取り組んでいます。トップクラスのマラソンランナーはキロ3分ペースで2時間10分の短期決戦をしています。一方、ぼくたちの土俵は主に一昼夜以上の徹夜レースです。ペースは昼間はキロ6分以上、深夜にはキロ10分まで落ちるのが普通です。日中、高温にさらされるのが朝9時から夕方4時までとしても7時間。もちろんその前後も、直射日光を肌に浴びつづけています。昼間に蓄積されたダメージは、日没後の暗闇のなかで襲ってきます。ボロ雑巾のように重く役に立たない脚の筋肉、絶え間ない吐き気と空ゲロ、どのような痛みも感じなくなるほどの強烈な眠気・・・。
     このようなバッドな状態に陥らないために、たくさんの打つ手があります。トップランナーが否定する暑熱順化は、われわれにとっては最も重要なトレーニングです。
     ぼくは人一倍暑さに弱く、またゲロ吐き常習者です。だからこそ、元から暑さに強いランナーよりはノウハウが積み上がっているかもしれません。自分を使って人体実験を繰り返し、灼熱の中でもコト切れない方法を探ってきました。
     8月、9月からのウルトラ&マラニックシーズンがいよいよ開幕します。フルマラソンですらほとんど行われないこの真夏に100km以上のレースがたくさん行われるとは、まったくもって超長距離走者という種族はイカれた人たちです。次号では「暑さ最弱ランナーなりの涙ぐましい暑熱対策」をまとめてみたいと思います。 

  • 2017年07月21日バカロードその108 日本でいちばん制限時間の短い100kmレース・その2

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)


    (前号まで=ときはド真夏、制限11時間という厳しいウルトラマラソン「鶴岡100km」に参加するべく山形県に向かう。空港に降り立つといきなりのピーカン日照り。大会当日は36度まで気温上昇との予報。はて、こんなんで10km✕10周なんてできるものだろうか)

     大会前日は午後3時から全員参加での開会式が行われる。開会式まで特に用事もないので、近隣の温泉場に立ち寄るとする。宿泊していた湯田川温泉から乗った路線バスをいったん鶴岡駅前で降り、湯野浜温泉行きのバスに乗りかえる。市街地を抜け30分ほどで波穏やかな日本海の海辺に出る。コンクリートの護岸が続く海岸ぶちには、時代がかった鉄筋コンクリートの中層ビルの温泉宿が建ち並んでいる。昨夜泊まった湯田川温泉はしんと静まりかえっていたが、この温泉街も観光客らしき人の姿はポツポツ。その代わり、黒いスーツに白ネクタイの披露宴客や、昼から赤ら顔をした宴会客が群れをなして歩きまわっている。
     源泉かけ流しで日帰り入浴のできる旅館を選び、夕方までの時間をつぶそうと試みる。露天風呂でだらだらと過ごすが、湯滝のように降り注ぐお湯は熱く、外気もまた暑く2時間でギブアップ。温泉街に歩き出てはみたが、気温は33度。ちょっとした坂道を登っただけでゼェゼェと息が荒らぐ。団体の酔客たちは大型バスでどこかへと去り、一般観光客がチェックインする時間までも遠く、温泉街には人の気配がない。日光だけがサンサンと降り注く街路は、時が止まったかのようである。強烈な陽射しが、足元に黒々とした影を焼きつける。せっかく風呂に入ったばかりだが、吹きだす汗が止まらずシャツはびしょ濡れである。日陰で猫が2匹、暑さのあまり身体を真っすぐ伸ばして、冷たいアスファルトに身体をなすりつけている。
     外湯をハシゴする気も起こらず、時間をもてあまし、鶴岡市内へと戻るバス待合所のあるロータリー交差点で無益に時を過ごす。何もやることがないと、時計の針はなかなか進まない。
     30分ほどしてやってきた路線バスに乗って鶴岡駅前に戻る。開会会場である公民館「第5学区コミュニティセンター」まで、1kmほどの道のりを裏道を選んでぶらぶらと歩いていく。
     会場の入口では、若い大会スタッフらがきびきびと選手の応対をしている。この大会は、30年以上前から開催されている国内で最も古いウルトラマラソン・レースであるが、数年前に大会の存続が危ぶまれたようである。しかし、歴史ある大会を絶やしてはならないと、地元の若い世代を中心に新たな実行委員会がつくられ、再スタートを切られたもよう。大会を支えているスタッフの皆さんは、みな若々しい。
     ホールにずらりと並べられたパイプ椅子の背には数字の番号が振られていて、自分のゼッケンナンバーの椅子を探して座る。椅子は、最前列からナンバーの若い順に並べられており、古くから大会に参加されている選手ほど前列に陣取るという趣向だ。
     大会の主催者が挨拶される。すごく若い女性(二十代?三十代?)である。ハツラツとした喋り方や身ぶりが印象的で、どっからどう見てもリーダーシップに溢れている。こんな人が中心にいるから、皆ついてくるんだなぁと感心する。
     一方のランナーの顔ぶれは、わが国のウルトラマラソンの歴史をそのままリアル年表にしたかのような偉人的な風貌な方が、一ケタ番号の席からお座りになられている。30年以上も前から100kmという距離を走り、今もなおウルトラランナーとして現役であられる。凄すぎるとしか言いようがない。
     やがてゼッケンの順にマイクが渡され、参加ランナー80数人が一言ずつスピーチをする自己紹介タイムがはじまる。話術達者なランナーたちのトークに笑いが絶えない。ぼくは「エイドに美味しいものがたくさんあると聞きつけてやってきました。1日にアイス10本だけ食べて生きていけるスイーツ中年男子です。美味しいスイーツを楽しみにしてます」といった腑抜けた挨拶をしてしまったが、スタッフの皆さんは「うんうん」と楽しそうに耳を傾けてくれていた。
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     翌朝は朝5時前に、鶴岡駅前のホテル玄関で待ち合わせたランナーと、予約しておいたタクシーに乗り込み、5kmほど離れたスタート会場へ向かう。早朝なので路線バスは動いてないし、大会の送迎バスも用意されてない。これはちょっと不便である。
     スタート会場は、周囲を田んぼに囲まれた「高坂地区」にある公民館。レース開始は朝6時であり、1時間前に着いたが、ランナーはまだ2、3名しか集まっておらず、それらの人も公民館の畳の間で横になって眠っている。1時間前入りは早すぎたようだ。マンモス大会と混同してしまった。
     30分くらい前になって、どやどやと選手が集まりだした。多くの方々は昔からの顔見知りのようである。顔に刻まれた年輪や赤銅色の日焼けが、彼らのランナーとしての年期の入りようを表している。ジャージのスボンを脱げば、運動部の女子高生のようにスラリと伸びた贅肉のない脚があらわになる。顔はおじいさん、脚は女子高生。違和感たっぷりである。よほど走り込まないとこんな脚にはなんないよねぇ。
     6時10分前くらいになって、スタートする駐車場になんとなく皆がやってくる。今から走るんだか、走らないんだかよくわからない気の抜けたムードのなか、主催者の方に「スタートぉ」と言われたとたん、スタートラインから田んぼの方に向かって伸びる草むらと砂利道へと、ダーッと駆けだす選手たち。わぁすげえスピード! てーかこの農道がコースなのかあ。制限時間が11時間しかないんだから、完走するにはそこそこ突っ込まないと無理ってのもわからなくはないけど、だるだるな雰囲気とスタートダッシュの激しさのギャップがすごい。
     戸惑いながら先頭集団の見えるくらいの後方位置でハァハァ息を弾ませて追走する。いきなりのダート道というか農道には軽トラのワダチが2本通っているので、そこをちょこまかと走る。
     農道を抜けると「黄金小学校」という運気の良さそうな名称の小学校グラウンドの脇から住宅街に入る。住宅街の奥に赤い欄干の橋が見えてくる。橋のたもとに噴水状にチョロチョロと水が吹き出している水飲み場がある。壊れているのか、ハナからそういう出しっ放しサービスなのかはわからない。赤茶けた錆シャビの飲み口で、喉が乾いてないとまず口をつける気にならない。が、後にこの水飲み場に何度も助けられることになるのである。
     いったん広い直線の車道に出て、行儀よく歩道を進む。自動車道との立体交差をくぐる。10キロのコース中、2カ所しかない貴重な日陰の場だ。
     その先、民家の庭先にしつらえられたパイプから、ドウドウと歩道に水が流れだしている。水の吹出し口の下にはポリバケツが置かれていて、氷水のように冷たい水がまんまんと湛えられている。遠望できる出羽三山から届けられた雪溶け水なのだろうか。何の目的で水を放出しているのかわからないので1周めは素通りした。後の周回で、前方を行くランナーがここで顔を洗ったり、シャツを浸したりしているのを見て、ああこれは選手も利用してよい水なのだな、と理解してからは水浴びに使うようになった。
     2.6km地点あたり、寿公民館の前に「Aステ」と呼ばれる1つめのエイドがある。たくさんのスタッフが待ち構えてくれているが、序盤はタイムを稼ぐために可能なかぎり足を止めないと心がけていたので、1周めは会釈をして通り過ぎる。けっきょくパスしたのはこの初回だけで、あとの周回では必ず立ち寄り氷を補給しないと、正常な意識を保てないほどの暑さに見舞われる。
     「Aステ」を過ぎると再び田んぼを貫く一本道に入る。農家が何軒かかたまった集落を抜けると、その先もまた一本道。天をさえぎる街路樹や日よけとなる建物はなく、剥き出しの直射日光が注がれる。早朝6時台というのに、すでに肌を焼くような暑さに見舞われている。
     2つめのエイド「Bステ」がある民田公民館は5.2km地点。元々は保育園であった建物を改修したようで、運動場に遊具の跡がある。このBステには、たっぷりの氷プールにドリンクが冷やされていて何度も救われる。開会式でスピーチした「アイスクリームさえあれば生きていける」とのコメントを覚えていてくれたスタッフの方が、ぼくのためにアイスを何本も用意してくれた。本当に嬉しかった。
     日枝神社を目標物として三叉路を左折し、参道を逆に進むと真っ白な鳥居が道路をまたいでいる。鳥居をくぐって広めの車道に出たら、3つめのエイド「Cステ」が現れる。ここがスタートから7.2km地点。
     交通量の多い車道を右折すると、近代的な産直施設「こまぎの里」の前にやってくる。ここのソフトクリームの看板やノボリには本当に苦しめられた。駐車場が広いために、走路から建物が離れているのが救いである。道路脇に建物があったなら誘惑に勝てない。クーラーが効いた建物に立ち寄ってみたり、ソフトクリームを舐めながら木陰で長い休憩を取ってしまったに違いない。
     ソフトクリームをやり過ごしてもなお危機は続く。その先の民家のお庭では、お昼どきからバーベキューにいそしんでいるファミリーがおられ、お肉の焼けるかぐわしい匂いが風に乗って鼻腔をくすぐる。この横を通り過ぎるのもまた荒行であった。
     魔のBBQエリアを抜けると、700mにわたる砂利道に突入。けっきょく10kmの周回コースのうち不整地は、スタート直後のわだちのある農道500m、6km付近にある丸石がゴロゴロ転がる200m、そしてトドメとなる8km付近の700m。3カ所合わせると10kmのうち1400mはダートである。100kmに換算すれば14km分にもなる。脚が痛いの痛くないのは我慢すればよいが、いかんせんスピードが落ちてしまう。キロ6分ペースを維持すべきこのレースで、なかなかの障害物となって現れるのである。
     最後に「藤沢周平生誕の地記念碑」と刻まれた石碑のある住宅街を抜けると、スタート地点の高坂公民館に戻る。ふー、これでようやく一周だ。
            □
     さてさてレース展開はといえば、1周目は速い人についていったので53分、2周めは57分。1周60分を切れたのは最初の2周だけであった。3周目からは気温の上昇に伴い62分、68分、70分・・・どんどんペースが落ちていく。50km通過は5時間12分。2倍すれば10時間24分で完走できそうなもんだが、ペースの落ち込みがひどくて先行き暗澹としてくる。
     後に気象庁のホームページで当日の気温を見ると、朝10時には30度を超しており、昼3時にこの日の最高となる33.1度を記録している。しかしこれは気象庁の観測ポイントのお話。本部テントに設置された気温計は36~37度を示しており、これもまた日陰の気温。直射日光にさらされたコース上は40度を超す猛暑だったと思われる。
     4カ所のエイドでは必ず氷のカケラを大量にもらい、短パンの左右ポケットに詰められるだけ詰める。両手にこぶし大の氷を握り、腕や太ももなど露出した部分やシャツの表面に塗りたくりながら進む。気を抜くと、ふらーっと意識が遠のいていくほどの熱波だが、氷の威力はたいしたもので、ひとしきり全身に塗ると生気を取り戻せる。次のエイドまでの15分~20分に、ポケットの氷はすべて溶けてなくなっている。
     レース環境としては「超難関」であるのは確かなのに、周回を重ねるごとに楽しみが増していく感覚がするのが不思議である。
     この角を曲がればあの風景が見られるとか、あそこまでいけば冷たい水浴びができるとか。
     4カ所のエイドや、分岐道で誘導してくれているスタッフの方の顔も徐々に覚えはじめる。スタッフの皆さんはベテランランナーのことは最初からよくご存知だし、ぼくのような初参加ランナーにも名前を呼んで声を掛けてくれる。エイド各所で「アイス好きのお兄さん、アイス食べて~」と市販のシャーベットアイスを手渡してくれ、そのたびに生き返った。
     (つづく) 

  • 2017年05月29日バカロードその107 瀬戸内行脚後編~日本でいちばん制限時間の短い100kmレース・前編

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)   

    (前号まで=愛媛県のしまなみ海道を舞台に222kmを駆ける瀬戸内行脚。松山市の道後温泉前を出発し、瀬戸内海の3島を徹夜でひとめぐり。再び四国本土に戻った165km地点で爆睡してしまう) 

    【今治市~伊予灘街道~松山市大街道 165km~222km】
     地図に描かれた波方半島は、タージマハルのたまねぎ屋根みたいなトンガリを、瀬戸内海にブスッと突き出している。この半島を外縁に添って北上したのち、伊予灘に面した漁港に突き当たったら海岸通りを南下する。海が見渡せるのは所々で、農耕期を終えた田畑の景観がつづく。
     道ばたに現れた広いため池の水面に、ポッチャンポッチャンと輪っかの波紋が広がっている。鯉がエサに食いついているのかと凝視すれば、後方からゴルフボールが滑空し、ため池に落下している。ゴルフの打ちっ放し場なんだな。水面にプカプカ浮いているボールはどうするんだろ?  おう、回収用のボートも係留されてんなあ。コレって自分の土地をほとんど持たずにゴルフ練習場の商売ができますな、ぬふふ。うまいこと考える人もいるもんだな。
     それにしても眠い・・・。明け方に30分ほど仮眠をとったのが裏目に出ている。走ったままうつらうつらと居眠り。まぶたは重力に抗しきれず落下していくが懸命にこらえる。が、ふと気づけば目をつぶったまま数十、数百メートル進んでいる。異常な危機感を感じてパッと目を開けると、着地した足は用水路のフチすれすれ。踏み外したら大落下のヘドロまみれだ。
     両手で頬をぶってみたり、頭を左右に激しく振って遠心力で目を覚まそうと試みるが、効果はない。眠気覚ましにはピンセットの針で太腿を刺すといい、と聞いたことがあるが、想像しただけでお尻の穴がキュンとなり、自分にはそこまでの覚悟はないと落ち込む。
     ちょっとした峠道のてっぺんに、たこ焼き屋さんの売店が現れる。受け取り窓口だけがあるテイクアウト専門のお店。たこ焼き屋さんなのに、カウンター横の貼り紙には「アイスが名物」と書いてある。値段はダブルが110円でトリプルが160円とある。なぜだかシングルは存在しない。ふつうアイスクリームのトリプルって400円くらいするもんだよねえ、160円でも3倍盛りなのでしょうか。おばちゃんにトリプルを注文すると、高知のアイスクリン的な丸っこい盛りつけでもって3段重ねにしてくれる。シャリシャリアイスが内臓から血液へと吸収され、血糖となって脳内を駆け巡ると、ようやっと眠気から解放される。
     巨大な造船所や石油の精製工場の脇をゆく。高さ50メートルはあろうかという精油塔には配管パイプが複雑怪奇に張り巡らされ、VRゲームのCG画面のよう。工場萌えや写真コンテストの投稿マニアには垂涎の場所らしいです。工場の敷地と道路の間は、ジャンプしたら飛び越えられそうな低い塀しかなく、不穏な意図をもったテロリストなら1人でもどうにかできちゃいそうなくらい開けっぴろげ。わが国はまことに平和です。
     菊間という街を過ぎると、人工的な護岸のうえに築かれた海岸ロードに出る。小さな岬や岩礁がつくる突起を10個くらい越えると、道の駅「風和里」の駐車場に大会スタッフが設けてくれたエイドがあった。ここが200km地点、スタートから31時間ほど経っている。なんぼ走ってもお腹が空かず、常時ハンガーノックという超常現象に悩まされたが、テーブルに並べられた食べ物を見て、ついに食欲が湧く。おにぎりを3個ガツガツ食いし、4個目のおにぎりは味噌汁が入ったコップに混ぜて、胃に流し込む。スタート前夜から40時間ぶりのお食事。残りたったの22kmだからチンタラ走ってもゴールはすぐそこ。終わりも近しと自覚した内臓たちが正常に機能しはじめたんだろうね。わたくしは精細な心の持ち主なのです。
     北条バイパスと呼ばれる長い直線道路に進路をとり、ふたつのトンネルを抜けて、松山市の市街地へと続く坂をくだる。夕暮れどきの街では、自転車のカゴにスーパーで買った食材を山盛り乗せた主婦や、部活や塾の帰りらしい中高生が嬌声かしましく帰路を急いでいる。
     うしろから追いついてきたジョギング中らしき女性ジョガーの方に「222km走られてるんですよね。もう少しでゴールですね」と話しかけられる。いろいろ質問してくれるのだが、寝ぼけた脳には会話に対応できる余白がなく、「徹夜で走るのは健康にとても良くないのです」とか「ゴールしたら生ビール飲もうと思って、ずっと水を飲むのを我慢してしたので、いま脱水症状になっています」などとトンチンカンな受け答えに終始する。もっと夢のあることを語るべきなんだよ、こういう場合は。お姉さんは、手に持っていたペットボトルの飲み物を「冷えてるのでどうぞ」と恵んでくれ、さっそうと夕焼けの街へと駆けていった。お姉さん、格好いいこと言えなくてすみません。
     松山城を取り囲むお堀の周回路から愛媛県庁方面へ。スタート以来ずっと山と島と田んぼのなかにいたので、松山の街が大都会に映る。きれいな服を着たショッピング客やビジネスマンが歩く歩道の隅っこを小さくなって走る。汗と泥まみれのシャツやパンツは、さぞかし異臭を放っているだろう。
     メイン繁華街である大街道の入口へ。むかしラフォーレ原宿松山があった場所には、今はカンデオホテルというモダンなデザインの高層ホテルが建っている。そのホテルの裏側にゴールが用意されている。瀬戸内行脚に参加したランナーたちが最後にたどりつく場所には、ゴールゲートやゴールテープはない。完走タオルやメダルをかけてくれる女子高生もいない。ゴールは居酒屋である。
     トタン壁のスタンドバーのある角を曲がると、換気扇の煙突に「おときち家」と店名が書かれた居酒屋がある。店の前まで行ってもここがゴールであるという表示はない。ガラス扉の向こうに、主催者やスタッフの姿がある。扉を開けると「おー来たなー、おつかれ~」と部活終わりの中学生みたいに迎え入れられる。タイム計測マシンに、ピッと計測チップをかざせばゴール完了である。34時間20分23秒。ふらふらゾンビ走りの時間帯が長かった割には好タイムだと満足する。
     奥に細長くつづくお店のテーブル上には、空になった生ビールのジョッキが何杯分も並んでいる。先着ランナーたちはすでに酒盛りの真っ最中で、既に目が座っている人や、隣の人にからんでいる人もいる。この人たちは走ったままの格好してるけど、お風呂入ったんでしょうかねえ。徹夜で走って、今からまた徹夜で飲まれるのでしょうか。さっそく生ビールいただきます。脱水症状をきたした全身の細胞に、ビールの気泡がしゅみこんでいく。やばい、風呂に行く前に瞬殺ノックアウト喰らいそう。

    【日本でいちばん制限時間の短い100kmレース】
     むちゃむちゃマイナーで、おそろしく大変で、だけどもんのすごく楽しい100kmレースがある、と何度か耳にしたことがある。だけどその大会、ランネットとかスポーツエントリーに載ってるわけではなく、大会のホームページもない。大会名でネット検索すると、過去に参加した人の報告がちらほらヒットするが、3、4人分しか見あたらないので、あまり実体がつかめない。申し込むのってどうすんの?  郵送、電話、それとも紹介?   よくわからなくて、何年か放置したままになっていた。
     一昨年頃に、親しいランナーから「絶対いい大会なので出ておくべき」と強くおすすめを受け、ならばトライしてみるべしと本腰を入れた。
     タイミングよく、公式ホームページも完成しているらしい。少ない情報ながら大会のことを調べてみると、とても興味深い仕様と歴史を秘めていることがわかった。
    ①大会名は「鶴岡100km」。開催地は山形県の鶴岡市。
    ②距離は100kmで、10kmの周回コースを10周する。
    ③制限時間は11時間。最後の1周回にあたる90kmラインは、10時間00分ちょうどに閉鎖される。
    ④参加者数は毎年だいたい70~80人。完走率は10%を軽く切り、年によっては完走者が3~4人しかいないときも。
    ⑤日本で最初に行われた(とぼくが勝手に思いこんでいた)サロマ湖100kmウルトラマラソンの第一回大会(1985年)よりも前から行われている。つまり日本最古のウルトラマラソンの大会であるらしい。
    ⑥南東からの山越え季節風がフェーン現象を起こす庄内平野で、真夏のいちばん暑い盛り、9月上旬に開催される。
    ⑦コースの途中に砂利道がたくさんある。

      うーむ。ますます興味がひかれる。制限11時間というのは、どう考えても国内最短の制限時間である。13時間のサロマ湖でも「短い」部類とされており、12時間台ですら聞いたことがない。9月上旬というド真夏に100kmってのもほぼないし、完走率10%はよほどの過酷さなんだろう。昨年分だけの着順・成績表がネットにアップされているが、実力的には100kmを8時間台の人が10時間かかっていたりと、ふだんのタイムより1時間から1時間30分はタイムが悪くなっている。ということは、ベストタイムが9時間くらいでないと完走がおぼつかないということか。こんな破天荒な大会を30年以上も昔・・・フルマラソンですら「鉄人レース」と思われていた時代より更に前から、東北の一都市で続けられているのがまた凄い。
     公式ホームページにはエントリーフォームがついていて、ネツト経由で申し込めるようになっている。勢い込んで入力し、送信ボタンを押すと、大会主催者の方から折り返し連絡があった。まだエントリーは始まっていないそうで、「今年の大会要項を作成中なので詳細はのちほど。申込みについては受理させていただいております」と丁寧なお返事をいただいた。気がはやって勇み足してしまいました。
            □
     徳島から羽田空港を経由して「おいしい庄内空港」に降り立つ。羽田空港での乗り継ぎに2時間必要だったが、それでも朝に自宅を出たら昼前には日本海の海辺の街に着いている。便利なもんである。
     空港からのバスが着くJR鶴岡駅前には6階建ての大きなデパートがあるが、最近撤退してしまったようで、シャッターが下りたままでしんと静まり返っている。ここは東北地方だというのに、肌を炭火焼きであぶられてるくらい直射日光が痛く、汗がダクダク止まらない。今の気温は34度。大会当日は36度に上がるとの予報。
     冷たいジュースを飲みながらぶらぶら歩道を歩いていると、前から「キャー」っと叫び声が聞こえてくる。顔をあげると、自転車に乗ったご婦人・・・60歳前後でよそ行きの綺麗な洋服を着た女性が、金切声を上げながら、斜め45度方面から歩道を横切り、こっちに向かって突進してこようとしている。(ななな、なんでー?)  ハンドルを握った両手はぐらぐら揺れ、ブレーキレバーを握る気配はない。それなのにペダルを漕いでるから止まるはずもない。バッと飛び退き、すんでの所でかわすと、婦人はそのまま10mくらい先まで進むと、その場所でぐるぐると回転しはじめる。5回転ほどしてスピードが落ちるとようやく地面に足を着き、何事もなかったかのように自転車を押して去っていった。大会を前にご婦人と正面衝突という大惨事は避けられた。なぜか汗はピタリと止まっている。
     大会のスタート会場は、JR鶴岡駅から車で20分の稲作地帯の真ん中にある公民館。当日は早朝3時起きで向かうので、前泊は鶴岡駅前の宿でとるとして、前々泊はせっかくなので観光気分を満喫しよう。駅前から路線バスで30分ほどの所にある湯田川温泉に足を伸ばしてみる。バスに乗り込むと、色あせたシートの布地や、サビの浮いた窓枠のサッシに、昭和の頃からの年期が深く刻まれている。おそらく40年もの?  近頃の公共交通はなんでもピカピカに真新しいのが当たり前になっているが、古い車体を大事に使い続けて何が悪いものか。
     10人ほどの乗客は全員お年寄りで、なおかつおばあさんばかり。これはどこの地方都市でも似たり寄ったりな光景か。
     古めかしいアーケードが歩道のうえに連なる商店街を抜けていく。3、4百メートルおきにある停留所で停まりながら、バスはのんびりと進んでいく。運転手がヘッドホン型のマイクで車内アナウンスをしている。マイクをオフにしないから、乗客との会話が丸聞こえ。ライブ感が満点で飽きない。「こちらおつりでしたー」みたいに、いちいち言葉尻が過去形になっているのが面白い。山形弁、特に庄内弁の特徴であるらしい。
     ほどなく到着した湯田川温泉は、狭い1本の車道の左右に温泉宿が連なっている。バス停で下車して、辺りを見わたしても、観光客はおろか人影がひとつもない。神隠しにあったかのように街は静まり返っていて、側溝を流れる温泉の湯の音だけがチロチロと音色を奏でる。建ち並ぶ温泉旅館の玄関を覗いても、なんとなく薄暗く、照明が消えているような感じ。昼の3時ちょっと前だから、まだ営業は始まっていないのだろうか。観光客向けの土産物店や飲み屋さんは見当たらない。「ひなびた温泉街」っていうのはこういう空気の所を指すのでしょう。
     予約をしていた宿の玄関を開けても誰も出てこない。受付らしき部屋を覗いてみたが、やはり誰もいない。「こんにちわ」と何度か声を掛けたが、人がいる気配はない。手持ちぶさたでぼーっと立っていると、明らかに接客担当ではないおじいさんが、ももひき姿でごぞごぞ現れる。「予約をしている者です」と伝えると、特に返答はなく、部屋の鍵をそっと渡してくれる。部屋は2階のようなので、自分で勝手に上がって部屋を探し、荷物を下ろす。ぼくとしては、いちいち女将が部屋に入ってきて仰々しく挨拶される宿よりは放ったらかしにされる方を好むので、これでよし。
     湯田川温泉には2つの共同浴場「正面の湯」と「田の湯」がある。一寸の休憩ののち1階に降りると、さっきのじいさんとはとは別のおっちゃんがいたので「外湯に入りたいのですが」と告げると、またまた何を説明するでもなく「はいはい」という感じで、鍵がついているらしき物体を手にして玄関を出る。後をついていけばいいのだな。おっちゃんが先導した先にあったのは「正面の湯」。おそらく宿から近いという理由で「田の湯」ではなくこっちが選ばれたのだろう。
     「正面の湯」は木造・入母屋造りの重厚な外観をしている。おっちゃんが鍵を使って入口を開けてくれる。その鍵がないと中に入れない仕組みだ。入口には「外来者は入浴券200円」と書いてある。日帰り入浴客は、近所の商店で入浴券を買って、これまた商店の人に連れてきてもらいドアを開けてもらう・・・というシステムらしい。お客がどっと押し寄せた時はどうするんだろう。宿泊客は入浴無料のようである(どこにもそう書いてないが、200円払えと言われなかったので、きっとそうである)。
     狭い脱衣所で服を脱ぐ。すっ裸のときに入口が開いたら、外から丸見えな気がします。入浴客はぼくひとり。5、6人が浸かれば満杯になる浴槽がひとつだけの浴室は、高窓から外光がさんさんと射し込んでいる。湯口よりこんこんとほとばしる湯は、そのまま浴槽のへりへと贅沢に溢れ出している。湯は無色透明ながら強い温泉臭を放っている。ここの共同浴場の湯は、いっさい加水・加熱していない完璧なかけ流しで、なおかつ「新湯流入量」が全国屈指だとか。確かに10分ほど浸かっているだけで、湯あたりしそうな予感。
     そのうち仕切りの向こうの女湯に、地元のおばさん方らしき数人の声が響きだす。耳をそばだててガールズトークの内容を聞き取ろうとしたが、強烈な方言は、何一つとして意味を理解できない。しかし独特のイントネーションがタイル壁に反響し、安らかな調べとなって耳に心地よい。
     もうひつとの離れた方の共同浴場に入るにはどうしたらいいのだろう。たぶんもう一回宿に戻って、ふたたびおっちゃんに連れていってもらうのが正解なのだろうが、面倒くさくなってしまった。
     湯上がりに温泉街の端から端まで歩く。下駄履きで往復しても15分しかかからない。片道300メートルの温泉街には、食料品を売っている店が2軒あった。1軒は最近改装したっぽいオシャレな古民家カフェ風。もう1軒はどこの田舎町にでもありそうな生活必需品をなんでも売ってる商店。
     田舎商店に入り、アイスクリームの冷蔵庫からカップアイスを取り出すと、カップの周りはびっしり氷の結晶が層をなしている。何年くらい売れてないんだろ? ま、腐るもんでもないしいいか。レジのおばちゃんがアイスを新聞紙でくるんでくれる。はっ、確か子供のころ、近所の商店でも買ったものをばーさんが新聞紙に包んでくれてた気がする。
     その夜は「日本屈指の注入量」の湯が効きすぎたのか、ふだん寝つきが悪いのに、ドーンと深く眠りに落ちた。
     翌日も朝から猛暑の気配がしている。太陽フレアは髪の毛根まで届き、頭皮を焼きつくそうとしている。地面のアスファルトに映った自分の影が濃すぎて、「ドラえもん」の怖い話を思いだす。自分の影をハサミで切り取って、影に宿題や嫌なことをさせる。そのうち影に意識が芽生えて、自分と入れ替わろうとするお話。
     鶴岡駅前へのバスの到着をバス停で待っていると、30歳くらいの女性が歩いてきて隣で立った。夏らしい花模様のワンピースを着て、美しい顔立ちをしている。ほどなくして、1台のスポーツカーがバス停の前で停まる。車の窓からいかつい30代の男が顔を出し、彼女に声をかける。どこまでいくの? 街までなの。よかったら乗ってけばー。顔見知りのようだ。女性はいろいろな理由を並べて断る。バスなんか乗らなくてもさあ、こっちの方が速いから乗っていきなよ。男はあきらめない。押し問答を10回くらい繰り返す。地上のものを焼き尽くさんばかりの太陽の下で、額に汗を浮かべた男は粘り腰を見せつづける。ぼくの頭のなかで天童よしみの「なめたらあかん」のミュージックが「やめたらあっかん」の歌詞でリフレインする。粘れ、ひげヅラ男! もうあとひと押しでワンピースは落ちる。今日は土曜日だ、この女とドライブしたいんだよな。きっと前から狙ってたんだよな。今がチャンスだ、負けたらあかん。
     そのとき、温泉街の端っこの交差点を、路線バスがディーゼルエンジンのうなりをあげて曲がってきた。時間切れだ。男は仕方なくサイドブレーキを下ろし、また飲みに行こうよと誘い文句とためらいを残して去っていった。よく戦ったよサンチョ・パンサ。お前のチャレンジ精神と粘りを、オレは明日のレースで見事に受け継いでやる。
     ぼくはバスの最後部席に座る。サスペンションの効きの悪いレトロなバスが走りだす。前の方の座席で窓辺にほおづえをつく女性。全開に放たれた窓から吹き込む風に、長い髪が揺れる。なんとなくバスじゅうに彼女がつけた柑橘系のフレグランスの香りが漂っている気がした。(つづく) 

  • 2017年05月29日バカロードその106 瀬戸内行脚中編 うつらうつらと島めぐり 

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)   

    (前号まで=愛媛県のしまなみ海道を舞台に222kmを駆ける瀬戸内行脚。松山市の道後温泉前を出発し、今治市まで50km。島々への入口となる来島海峡大橋を渡り、最初の島・大島へと上陸する)

    【今治~大島~伯方島 50km~75km】
     ときおり城郭のようにバカでっかい石垣を組んだ民家が見える。瓦屋根の両はじっこには鯱(シャチ)が踊っている。いったいどんな商売で財を成した人が築いたんだろう。かつて芸予諸島をわが者顔で暴れた海賊・村上水軍の末裔でも住んでるのかな。
     大島の中心市街地は「吉海」という集落、ってよりも立派な街だなこりゃ。瀬戸内海に浮かぶ小さな島というイメージとは掛け離れ、広い駐車場を備えたホームセンターやドラッグストア、コンビニが並ぶ。徳島の田舎町ではお目にかかれない立派なホールや役所がでーんと建っていて、ちょっとしたプチ都会な見栄えである。
     瀬戸の花嫁が小舟に乗って、幼い弟と泣き別れした頃から40年。島々は長大橋とバイパス道でつながれ、外国人観光客たちがママチャリに乗って自撮りにはげむ繁栄の地となっております。
     標高100mほどの田浦峠を越えて、島の北側に出る。花崗岩を切り出す作業場がひんぱんに現れる。道の左右には、一辺が1メートルを超す巨大な石が積み上げられている。やや青みがかったこれらは「大島石」と呼ばれる高級な青御影石で、古くから重要建造物に用いられてきた。大阪・心斎橋の石組みはじめ、京都の四条大橋・七条大橋、東京の赤坂離宮、そして国会議事堂の一部にも使われているという。こういう石で自分の墓石をつくったら墓参りにきた人が誉めてくれるかなぁ、と石材の表面を撫でてみる。
     大島の島内を17km走り、北端に架かる伯方・大島大橋(1230m)を渡ると、次なる島、伯方島が近づいてくる。
     伯方島側の橋のたもとから、くねくね道を下っていく。はるか眼下に島の外周道や、カラー舗装された遊歩道が続くビーチが見える。海岸ぶちに突き当たったら、少しコースを逆走すると「マリンオアシスはかた」という観光拠点が近づく。その駐車場に第二エイドが設けられているのだ。
     スタートから75km、8時間03分で到着。なかなかの好タイムです。
     エイドのスタッフの方が、カップ麺のフタを開け、湯を注ぐ寸前の状態で待機してくれていた。しかし降り注ぐ直射日光は強く、なんなら氷水をかぶりたいくらいで、熱いラーメンは喉を通りそうにない。代わりにみかんをたくさんもらう。
     このエイドには、夜間用の防寒服をあずけている。前年に参加した際、夜中は震えるほど寒かった。ところが、暑さ寒さのつらさは「そうなってみないと実感できない」ものであり、クソ暑さしか感じていない今、かさばる上下ウインドブレーカーを背負って走る気になれない。行き当たりばったりで行こう、いくら寒くっても5時間くらい我慢したら朝が来る・・・と自分に言い聞かせ、荷物袋からヘッドランプだけ取り出しリュックにしまう。  
     
    【伯方島~大三島 75km~110km】
     エイドを飛びだし、伯方島一周の旅へ。この島、しまなみ海道上にある6つの島の中では面積では最も小さな部類だが、人口は7000人と比較的多い。いちばんに栄えた街である木浦地区に近づくと、7階建ての近代的なオフィスビルや高層マンションが。また、広い道路に面して建つ一般住宅は、生け垣で囲った広い庭や、立派な切妻の瓦屋根を備えている。庭には柑橘の樹木が植わり、熟れはじめたばかりの黄緑色の実を揺らしている。
     集落と集落の間は、山の切り通しを抜ける外周道路で結ばれている。集落はたいてい海辺にあるが、漁船が停泊している漁港はなく、魚の加工場や鮮魚店も見あたらない。魚を獲って生計を立てている島ではないようだ。島の東側から北側にかけての沿岸には、造船工場や製塩工場が連なる。有名ブランドとなった「伯方の塩」はこの島や隣の大三島で製造されている。これらの産業がもたらした潤いが、豊かな雰囲気を作りだしてるんだろうか。
     島一周は距離15km、寄り道もせずまじめに走る・・・というか寄り道できるようなスポットないねぇ。
     遠く前方に自動車道の橋脚が見えてきたら再び本道を外れ、次なる大三島との間に架かる大三島橋へのとりつき道路を登っていく。
     大三島橋は全長328mと小ぶりだが、前後の島の斜面が急で、深い瀬戸をまたいでいるため、高度感がたっぷりある。白い鉄骨組みがアーチを描く橋の向こうに、大三島の鬱蒼とした森が横たわる。背後には高い峰々がそびえている。しまなみ海道で最大面積を誇るだけあって、島はあたりを圧するような盟主感を漂わせている。
     橋を渡り終えたら、またまた蛇行しまくった自転車道をたどって海岸線に出る。
     下り坂のつきあたりには狭い海峡があり、正面にデデンと島が浮かんでいる。何という名の島だろうと地図で確認すると、何のことはない、さっきまでいた伯方島ではないか。伯方島を離岸してからずいぶん走った気になっていたのに、ぜんぜん遠ざかってないし・・・と気落ちする。
     しまなみ海道を自らの足で踏破していると、誰しもが自分のいる場所の不確かさを感じるのではないか。
     島と島をつなぐ橋は海面から高い位置にあり、橋へのアクセス道はペアピンカーブだらけのぐねぐね道。時にはループ状になっていて、くるくる回転しているうちに方向感覚が奪われる。
     それに、島の形状が複雑であるゆえに、視覚からの情報もややこしく、錯覚を起こす原因となる。多くの島は、単純な楕円型じゃなくてアメーバ状の角(ツノ)をたくさん突き出してるような形。たくさんの岬のトンガリが海に伸び、さらに隣の島の湾のヘコミと折り重なっている。
     さて今ぼくの目の前で、海峡をまたいで存在している陸地が、これから先に向かう島なのか、さっきまでいた島なのか、あるいは自分がいる島のいっこ先の岬なのか。
     海図がない時代に、海賊が跋扈した理由が何となくわかる。ここは海の迷路なのだ。瀬戸内海の事情を知らずに航海をし、速い潮流と海の迷路に翻弄されているうちに、四方を海賊に取り囲まれたら、なすすべないだろう。
     夜が近づいてきた。薄紅の夕空の向こうに、斜張橋のシルエットが浮かぶ。大三島からさらに広島県寄りの生口島へと渡る多々羅大橋(1480m)だ。今大会では生口島には向かわないので、この橋は眺めるだけ。橋上に連なるオレンジの照明灯、2本の主塔と斜めに張られたケーブルのシンメトリーな姿はアーティスティックである。
     多々羅大橋の下をくぐる。大三島の縁をなぞる道は一周約42km、長い徹夜行のはじまりだ。
     橋脚の向こうにこの島最後のコンビニがある。「最後の」というのはランナーにとって、って意味。ここから先、30kmほどはお店もなく食料調達ができないのである。なにか胃に入れておくべき所だが、お腹は空いていない。昨日の夕方食べたコンビニ弁当を最後に、口にした固形物は溶けてどろどろになったみかんソフトクリーム2個とエイドでもらったみかん3個だけである。人類は進化の過程で、カロリー摂取などしなくとも、あり余る体脂肪を運動エネルギーに変換し、100kmくらいなら軽く走れる高度な能力を手にしたのである。
     人さみしさからコンビニに寄ったものの、取りたてて欲しいものがない。手ぶらで出るのも何だかなと、ガリガリ君レモンスカッシュ味とお茶を買う。走りながらのスイーツ夜食としましょう。
     道路に復帰し、コンビニ袋からガリガリ君を取り出す。パッケージ袋の端っこを口にくわえて破り、ガリガリ君の本体を握ろうとした瞬間、想定外のできことが起こる。
     パッケージとアイス表面の摩擦係数がゼロになっていたのだろう。つるりと滑ったガリガリ君の中身は、つかみそこねた握力の縦方向のベクトルを受け、みごとに発射された。ロケットのように空中を舞うガリガリ君。放たれた勢いは、地上に落ちても衰えず、コンクリートの路面をササーッと滑っていく。そのまま、道路脇の工場に張られた外壁フェンスの下をくぐり、工場の敷地内に入ってしまった。
     ヘッドランプの光をあてると、フェンスから1メートルくらい向こうまで飛んでいったレモン色のガリガリ君が浮かびあがる。フェンス下部と地面との隙間は10センチくらいしかなく、腕をこじ入れてもガリガリ君に届かない。フェンスを乗り越えて侵入しようかとも考えたが、セコムの警報が鳴り響いて、泥棒の疑いをかけられてもレース中だし困る。やむなくフェンスの向こうにガリガリ君を残し、先に進むことにする。たった70円のアイスだったけど、人知れずあそこで静かに溶けていくガリガリ君のこと想うと、さみしい気持ちになる。
     スタートから100km地点を11時間55分で通過する。大三島でいちばん大きな街、宮浦の交差点を過ぎると、大三島の南半分はなーんにもない。何にもない、なんて島の人には失礼な言い草なんだろけど、光っているものといえばポツンポツンとたまに出てくる自販機くらい。
     岬の背骨となる尾根を越え、港のある集落へ下るという何度かの繰り返し。海が近づくたびに、むわっと温かい空気に包まれたり、身震いするような冷気が押し寄せたりする。湾によって海流の水温が違うんだろうか。月明かりも星空もない暗い夜道を、空気の変化だけを確かめながら黙々と走る。
     
    【大三島~今治市 110km~170km】
     大三島の南半分とそこからの復路の記憶が残っていない。四国本土に着くまでの50kmの間、半分眠りながら走っていた、と思われる。脳みそと身体はけっこう便利にできているのだ。
     大三島を一周し、ふたたび伯方島そして大島へと渡りついだ。
     何カ所かのバス停のベンチで5分ずつくらい仮眠をし、コンビニに入ってガリガリ君レモンスカッシュ味を買い(無意識下のリベンジ?)、かじりながら走った場面だけうっすらと覚えている。
     四国本土へと永遠のように延びる来島海峡大橋(4105m)にさしかかった頃に夜が明けてくる。橋を渡り終えると、糸島公園のある高台へと本道を逆走し、165km地点にあたる「来島エイド」に向かう。ここまで来れば、ゴールまで残り57km。あとは海辺の景色でも堪能しながら、ゴール後のジョッキビールなどを思い描き、のんびりウイニングラン気分に浸りたい所だが、立ってられないほどの眠気はますますひどく、心にゆとりが芽生えない。
     たどり着いたエイドで、スタッフの方に「どこか横になれる場所を見つけて寝てきます」と告げると、クッションの良いウレタンマットを貸してくれる。あぁ、今のぼくには高級な羽毛布団に匹敵する良品です。
     公園の芝生の上にマットを広げて大の字になっていたら、パラパラと小雨が降ってくる。いったん撤収。雨よけになる場所はないかと辺りを見まわすと、よい具合にひさしのある自転車駐輪場がある。
     ずるずるマットをひきずって移動し、よっこらしょと横たわる。3秒もあれば眠りに落ちるかと思いきや、いざ安住の地を見つけると、早いこと寝たらさっさと起きて走りださねば・・・という強迫観念が心を圧迫しはじめ、アセッて入眠できない。
     時をもて余し、ごろごろと寝返りを打つ。マットに腹ばいになって背骨を反ると、こわばった背中の筋肉や骨々がミシミシ音を立てて伸びる。あまりの気持ちよさに「う~う~」とうめき声が出る。
     すると、「大丈夫ですか」と女性の声。見上げると掃除道具一式をたずさえたおばさんがこちらを注視している。公園のお掃除をされている方のようだ。「ちょっと眠くて横になっています」と返事するが、ふつう朝っぱらから駐輪場で寝ている人はいない。おばさんは「この人どこか具合が悪くて倒れてるにちがいない」とやや慌てているみたいで、救急車でも呼びかねない雰囲気。これはマズイと気づき、居住まいを正したうえで、「自分は徹夜で走るマラソン大会に出ていまして、倒れているように見えましても、本当は健康状態はすごく良い人間なんです」と懸命に訴え、誤解を解く。安心したおばさんがお掃除に戻っていくと、ぼくもまた安心して眠りに落ちた。
     そのまま何十分、寝込んでしまったのかよくわからない。目覚めると、太陽は高々と昇っている。展望台のある高台から今治市街方面へと下っていたら、前方からモーレツな勢いで駆け上がってくるランナーがいる。地元の市民ランナーが坂道トレーニングしているのかなと思ったが、後方からも続々と派手なシャツ色のランナーの集団がやってくる。これは「伊予灘行脚」の方々だろう。「伊予灘行脚」とは、瀬戸内行脚と同時開催で行われている100kmレースだ。今朝、JR今治駅を出発し、大島、伯方島を経て、ゴール会場はわれわれと同じ松山市中心部というルートを巡る。大会前に主催者の方が「今回の伊予灘行脚には、日本の超長距離界を代表する実力者がたくさん出てくれるよ」と喜んでらっしゃったのを思い出す。
     先頭あたりにいるランナーたちは、ハーフマラソンかと思うような猛スピードで迫ってくる。「さすがわが国の一線級、手抜きなしのガチンコ勝負をやってるんだな」と感心する。ところがすれ違うトップ選手、ぼくの姿を確認すると「イエーイ」なんて言いながら、手に持ったカメラで写真を撮りはじめる。風のように去った後も、あたりの景色をぬかりなくパシャパシャ撮影している模様。あれほどのスピードで100km走破しつつも、当人はレジャー感覚なのかー、とあっけに取られる。サラブレッドと駄馬の違いを思い知らされるが「ぼくはもう170kmも走ってるんだもんね、君たちまだ5kmくらいしか走ってないよね、ふふん」と悔しまぎれにつぶやき、溜飲を下げることにする。(つづく)
  • 2017年04月03日バカロードその105 瀬戸内行脚前編 ひま人ジャーニー

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     「瀬戸内行脚(せとうちあんぎゃ)」は、愛媛の瀬戸内海沿岸を舞台に、走ることをこよなく愛するランナーが集結した超長距離レースである。2014年に初開催され、香川県の高松港から愛媛県松山市間の217kmで行われた。翌年の第2回大会からは、瀬戸内海の島をめぐる現在のコースに変更された。松山市の道後温泉本館前をスタートし、しまなみ海道の起点となる今治市中心部を経由して、3本の長大橋を越えながら大島、伯方島、大三島の3島をおおむね一周していく。復路は、伊予灘沿いを南下し、松山市のド真ん中・大街道で222kmのゴールを迎える。

      □
     制限38時間の徹夜レースなので、前夜はスタート地点の道後温泉界隈で一泊とする。徳島からの高速バスの終点であるJR松山駅前で下車し、駅の真ん前にある温泉施設「喜助の湯」に寄って、ホテルのチェックイン時間までの暇をつぶす。この温泉、最近リニューアルしたらしく、かつての「キスケのゆ」時代のスーパー銭湯的なたたずまいを一新、浴槽のヘリや天井の梁に古木を配した和の趣のある装飾に模様替えしていた。
     浴場で2時間ほどだらだら過ごす。サウナ室の外にある2種類の水風呂のひとつ「しお清泉」ってのが秀逸である。まずはキンキンに冷たい水風呂にザブンとつかって体温を極限まで下げ、お隣りの「しお清泉」に移動する。これがほどよく生ぬるく、塩の成分も手伝ってか身体がぼんやり浮遊する。仰向けにプカプカ浮かんでると、この身に蓄積した汚泥物が塩水に吸収されてくみたい。ゴールした後にも、ぜひ浸かりに来たいものである。
     湯あがりほこほこのまま、市電に乗って道後温泉に向かう。が、途中の「大街道」で衝動的に下車する。商店街の入口にあるデパート、松山三越の地下食品店街の「ハナフル」というスイーツの店に、美味しいフルーツタルトがあるのを思いだしたのだ。
     5年くらい前のことだが、愛媛マラソンの前日にここのフルーツタルトを2ホールまるごと平らげて良いタイムが出た事がある。それ以来、松山市近辺で大会があるときは必ず「ハナフル」でスイーツ・ローディングを行っている。ジンクスかつぎ&好タイム祈願ではあるが、明日どうせ走って脂肪燃焼するんだから、今日くらいは夢のワンホール食いしたってバチは当たらんだろうという気の緩みですな。
     ビスケット状のサクサクしたタルト生地の上に、ゴロゴロと大きくカットされた果物が山盛りになっている。果物たちは艶のある透明のシロップで覆われていて、天井のスポット照明の光を浴びて、宝石のように輝いている。
     溢れる唾液を飲み込みながら、2ホール買いたい誘惑を押し殺し、1ホールを購入。ふたたび市電で道後温泉駅に向かう。終点の駅から、ぶらぶら道後温泉本館まで歩く。本館横の「道後麦酒館」というバーっぽいお店の入口に貼ってあるポスターが、「ビールを片手に、道後のまちを散策してみませんか」などと挑発してくる。素直に従い「坊ちゃんビール」とやらをテイクアウトする。左手にフルーツタルトの箱をぶら下げ、右手にはプラカップの黄金の液体を揺らせながら、土産物街を散策する。どこの観光地も似たようなもので、店頭に飾られてるのはご当地キャラのグッズだらけで風情もなく、困ったものである。愛媛県が推してるのは「みきゃん」。まあこいつは有名だが、「ダークみきゃん」というライバルも幅を利かせているようだ。みきゃん全体に青カビが生えた凶悪な物体という想定らしい。ダークみきゃんTシャツを買うかどうか相当迷ったが、判断はゴール後にすべしと自制した。
     レース前日にこれ以上うだうだするのは止めて、さっさとホテルで寝だめしようっと。予約してある宿は道後温泉本館から20メートルと至近の距離にある。チェックインしたら、コンビニ弁当2個とフルーツタルトをむしゃぶり食い、睡眠薬代わりに抗アレルギー薬の「ザジデン」鼻スプレーをジャンキーのように吸いまくって、強制睡眠に入るとしよう。
     ここで多少の疑念がよぎる。わざわざ道後温泉本館の真横に泊まって、本館のお風呂に行かなくてよいのかという問題である。せっかくなんで行っとこか、でも面倒くせえ。実はわたくし、あんまし本館の浴場、好きじゃないのです。
     つまらない理由なんですけどね。道後温泉本館の浴槽のヘリ、つまり足だけお湯につけて腰掛ける部分が、けっこうな急カーブを描いて丸くカットされているのだ。ヘリが平べったくないもんだから、のんびり座り続けていられない。うたた寝なんてしようものなら、後ろにひっくり返りそうになる。ならば、ちゃんと胸まで湯舟に浸かればよいのだが、浴槽に一歩足を踏み入れた段差の部分もまた、めちゃめちゃ奥行きが狭くて、尻が半分くらいしか乗っからない。コレに座っていても、やはり落ち着かない。この本館が建ったのは明治27年っていうから、昔の庶民は長湯しなかったんだろうか。湯舟でだらだら過ごしたい派のぼくとしては、どうも何か見えざる存在から「次の客のために早くその場所を明け渡しなさい」と急かされている気分になる。
     こういう感情を抱くのはぼくだけなのだろうか、そんなはずはない。観光客はみな不満に思っていて、ネットなんかでは不平不満の炎上コメントが燃えさかっているに違いない。と思っていろんな言葉を駆使して検索してみたが、ついに誰一人として「道後温泉のヘリが丸すぎて、腰掛けが狭すぎる件」について、不満を抱いている人は見あたらなかった。
     心が狭いのは日本全国でぼく一人なのである。
                 □
     瀬戸内行脚のスタートは朝7時。準備万端ととのえて、30分前に集合場所に行ってみる。まだ5人くらいしか参加者はおらず、のんびり荷物整理をしている。30分前なのにほとんどのランナーが姿を見せていないあたりは、さすがベテラン揃いの当レースならではだ。これから一昼夜走るというのに「どの荷物をエイドにあずけようかしら?」なんて、今頃になってゴゾゴソ仕分けしたりしている。そう、ここにいる皆さんは、心の準備もエイドの準備もたいしてせずに200km以上走っちゃう人なのだ。偉大な決意も、決死の覚悟もなく、ニュートラルな心理状態で。
     
    【松山市・道後温泉~今治市・来島海峡大橋たもとへ/0~50km】
      道後温泉本館前で記念撮影したのちに、主催者の合図でスタートする。今回222kmの部に参加するのは34人だが、7時に出発するのは20数人。実績がすごいランナーは2時間後から5時間後にかけて出発するウエーブスタート方式である。
     温泉街の背後にある伊佐爾波神社の脇道から小さな峠道を登り、すぐ下る。突き当たる国道317号線に出るまでは、地元ランナーが先導してくれる。  
     先は長いので、ランナーたちはいたってピクニック的なムードで、ぺちゃくちゃとおしゃべりに余念がない。息も切らさず、笑いながら登り坂をキロ6分台で走る人たちは怖い。250kmのガチレースをメイン種目と考えている方々にとってこの場は「懐かしい人たちとの再会と邂逅の場」くらいな位置づけなんでしょか?
     国道317号線は42km先の今治市へとのびる一本道。しばらく北上し、奥道後の温泉街を越えたあたりから右側の谷深く流れる石手川を渡り、対岸の山道を進む。「白鷺湖」と呼ばれる石手川ダムの湖岸をぐねぐねとフチ取りながら、紅葉の盛りを迎えた森を抜けていく。
      国道にふたたび合流すると、松山市と今治市の境にある水ヶ峠トンネルへ。ここでスタートから21kmくらい。標高は500m、知らぬ間にずいぶん登ったものだ。トンネルを抜けると、今治市街までは延々と坂道を下る。
     玉川ダム湖畔にある自販機で缶コーラを買い水分補給。第一エイドまでの50km間で、水分をとったのはこの250mLだけだった。夏場はラクダのように水を飲むのに、夏を過ぎたとたんに無補給型の体質に変わる。どうせなら夏場に水なしで耐えられるタフネスボディになりたいもんだが、毎年このサイクルを繰り返しているので、春先にはがぶ飲みラクダに戻るだろう。ちなみに本物のラクダは、オアシスのある街に着くと、いっぺんに150リッター分も水を飲むのである。水分を体中の細胞に溜めこんだら、その後は1カ月もの間、飲まず食わずで砂漠を旅するとか。
     今治市郊外の大型店エリアを信号守ってよい子で進み、なんとなく寂れた感の漂う「今治銀座商店街」を尻目に今治市役所前へ。遊歩道を遮るように直径10m近くありそうなドデカい船のスクリューが飾られている。金色ピカピカで太陽光を目映く反射して、日本有数の造船の街をアピールしているもよう。この今治市、タオルの生産量も日本一。製造業の出荷額が年間1兆円を超えるのは、四国の市町村では今治市だけ。われわれはもっと今治の偉大さを知るべきでしょうね。製造業だけじゃなくて、焼き鳥店の店舗数の人口比も日本一の焼き鳥タウンだし、焼き豚玉子めしに、、バリィさんに、岡田監督のFC今治にと名物わんさか。ううむ、本来ならもっと夜中に立ち寄って、肉汁が放つ煙を浴びながら、鳥皮焼きなどをついばみたいものであります。
     市街地からさらに7km北上すると、来島海峡を一望する糸山展望台。ちょうど50km地点の所に第一エイドが用意されている。ここまで4時間57分。荷物を背負ってるわりにはまずまずなペース。なんと先頭で到着である。
     
    【今治市・来島海峡大橋たもと~大島~伯方島 50km~75km】
     タイムの計測機が設置されたエイドに立ち寄ると、「うわあ速いなあ、まだ準備できてないのよ」とスタッフの方が慌てている。お腹はすいてないので、ボトルにスポーツドリンクを補充してもらったら、すぐ出発するとしよう。
     「今、食べ物を買い出しにいってる所なんですよ。ごめんなさいね」
     と気の毒そうにされるので、
     「ぜんぜん平気ですよ。次の島にある道の駅でみかんソフトクリームを食べる予定なんです」
      と言い残しエイドを後にしかけたら、スタッフの方にちょっと待ってと呼び止められ、何やら手渡してくれる。
     100円玉が3個、300円。
     「これでソフトクリーム買って。準備、間に合わなくてごめん」
     「こんなことしてもらって、えーっと、いいんでしょうか」
     遠慮する素振りをしてみる。
     たいした押し問答もなく、「いいから、いいから」という温情をすぐに受け入れ、300円をポケットに仕舞い、来島海峡大橋へと続くループ道路にとりつく。
     (なんか親切にされたなぁ)と束の間うれしくなっていたが、すぐに(このお金はあの人のポケットマネーではないか?)(そもそもボランティアスタッフにお金なんて恵んでもらってよいものか?)と真人間な心が蘇る。引き返すべきか悩んだが、足は勝手に動いているので、すでにエイドは遙か後方。ま、反省してもしょうがねえか。ありがたいこの金でソフトクリーム食うどー!エイエイオー!と気勢をあげる。
     眼下に激流の渦巻く海峡に架かる来島海峡大橋。馬島、武志島という2つの島を橋脚の土台とし、3本の吊り橋が連続する3連橋だ。四国本土側からだと第三大橋1570m、第二大橋1515m、第一大橋960mの順に渡り、あわせて4105mもの海上の道となる。
     しまなみ海道全般に言えるが、これら長大橋はすべて幅広い歩道や自転車道を兼ね備えている。つまり四国から本州側の尾道まで、自転車やウォーキングで旅できるのである。米国の報道チャンネルCNNが選ぶ「世界の7大サイクリングロード」に選ばれるなど世界的な知名度も高まり、莫大な観光資源となっている。なんと今治市管内だけで1年間に10万回以上のレンタサイクル利用があるとか。大鳴門橋や明石海峡大橋も、橋げたの下をちらっと改良して、ランナーとサイクリストが通行できるようにすれば、世界中からツーリストを呼び寄せられそうなもんだけど。しかししまなみ海道は、元は有料だった自転車の通行料を無料化したり、道路にブルーのペイントを施して自転車観光客が道に迷わないようにするなどサポートは万全。あらゆる場所に、自転車ラックがあるのも凄い。形だけマネだけしてもだめかな。
     ・・・と誰に頼まれもしないのに観光行政についてひとしきり思案し、行動に起こす気もなくぽけーっと島を眺めて走るだけのお気楽ランナーです。
     橋を渡りきったら海辺まで下る。大島の玄関口には道の駅「よしうみいきいき館」がある。来島海峡の急流観潮船が出航するここいらの観光の拠点だ。屋外には天幕スペースが設けられ、パッと見た目100人以上の観光客が、七輪コンロで魚や貝をバーベキューしている。香ばしい匂いと、気だるい雰囲気が「おいキミ、昼間からそんなに頑張らなくていいから、ここでビールでも飲んでいけ」と誘ってくる。目の毒、鼻の毒である。なるべくコンロ上の魚たちと目を合わせないようにし、目的の売店へ直行する。
     島みかんソフトクリームの売店は、あえてその存在を隠蔽するかのごとく忍びのたたずまい。あらかじめ知ってないと、素通りするだろうね。第一エイドでもらった300円をありがたく使わせて頂き、みかん&牛乳バニラのミックス味をワッフルコーンで注文。
     このソフト、たいへん絶品なのである。みかん部分はややシャリシャリ感のあるシャーベット状。濃厚な牛乳バニラ部分とともに舐めた瞬間、快感の電流が肩からお尻までピリピリ伝う。
     1個受け取りペロペロねぶったのち、しばし考えたうえで、もう1個分をオーダーする。窓口のお姉さんは「あれ?この人、たった今買ったばかりなのに」と不思議な顔をしているが、そんな対応は慣れたもの。ソフトクリームの両手食いはジャーニーランの最大の悦び。理性ある大人として社会生活では抑圧しているダブル食いの欲求を、解放できるのは今しかないのだ。
     両手にソフトクリームを握りしめ、元気いっぱい島の縦断道路へと駆けだす。たっぷり時間をかけて、ちょっとずつ舐め回してやるぜ!という目論みを抱いていたが、30秒で崩れる。正午過ぎの日射しは強く、ソフトクリームがどんどん溶けだして、ワッフルから手へと流れ落ちていくではないか。雨だれのように手の甲、そして肘へとつたうミルク&みかん。両腕ともべちょべちょだ。被害を食い止めるため、むしゃぶりつく。2個を完食するのに1分。一気食いしたために、おなかが痛くなってくる。ねちょつく手を洗える水道が見あたらないので、仕方なく指をちゅうちゅう舐める。ハァーッ、わたくし瀬戸の島までやってきて、何やってるんでしょうかね。のこり150kmです。(つづく)
  • 2017年04月03日バカロードその104 スパルタスロンその3 輝ける峰へよろよろと 
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
    (前号まで=2500年前のペルシア戦争時、ギリシャ・アテナイ国兵士が援軍を求めてスパルタ国まで駆けたという逸話を元に、247kmを36時間以内に走るレース・スパルタスロン。6度続けてリタイア中のぼくは、7度目の挑戦真っただなか。日中に先を急ぎすぎたためか、110kmを過ぎて夜行軍がはじまると、完全に潰れてしまう。山の村にある小さなレストランで「5分だけ・・・」と床に横にならせてもらうが、フカフカの枕を出されて心は休眠モードに)

     レストランの床で10分寝そべったのちに、魅惑の枕からむりやり頭を引きはがして、夜道に復帰する。幾分か体力が戻ったのか、再びキロ6分台で走れるようになってる。登り坂で先行するランナーをじゃかじゃか追い越す。ところが3kmほどでまたローソクの火が消えるようにエネルギーがぷっつり切れ、生きる屍のようにふらふらと蛇行。
     追いついてきた顔見知りの方々が、ゾンビ状態の僕を見かねて声をかけてくれるのだが、アドバイス通りに身体が動かせないのがもどかしい。
     「どんなに遅くても、脚を動かしてる限りキロ8分でいけます。ゴールまでの距離は縮まっていきます。とにかく脚を動かし続けることが大事です!」
     と励まされたものの、次のエイドでたっぷり休憩してしまう。
     「つらいときは歩数を100まで数え続けてみてください。数字に集中したら、つらさを忘れられますよ」
     やってみたけど頭がモウロウとして数が順番に出てこない。
     「片目をつぶって走ってみたら? 片目にすると脳みそが半分が眠るから、楽に感じるかも」
     試したみたけど、もともと夜目のきかない鳥目体質なので遠近感がつかめなくなって膝ガクガク。
     「ここからはガマン!ガマンをしきった人だけが完走できます」
     忍耐力・・・それは僕に最も欠けているものであります。

    □120kmを通過、14時間34分46秒(この10kmを1時間38分11秒)。
      今いる場所は山の中なのか平原なのか。光源のない真っ暗な空間で、手足をバタつかせてもがく。追い越していくランナーの足元に映るヘッドランプの輪を追いかけてみるが、僕のノロマなペースでは、すがりつける人はいない。
     われながら情けないのは、この不調がどうひいき目に見積もっても、大したことないレベルとしか思えない点である。身体のどこかに耐え難いほどの激痛があるわけでなく、意識を失うくらいの消化器の異変や脱水症を発症しているわけでもない。ただ身体がぐっしょり重い濡れ雑巾のように動かないという、もしかしたら精神力で乗り越えられそうな域の、一般的にはどうってことのない理由で、ずるずると後退しているのである。情けない三唱でも唱えてみますか。
     あー情けない。
     あー情けない。
     あー情けない。
     諦めてるわけじゃないんだよ。序盤ハイペースで入ったおかげで、関門アウトまで50分くらいの貯金がある。この先123kmにある大エイド「ネメア」に着いたら、奇跡的回復が起こるのを信じて30分間眠ってみよう。ずるずるとダメになっていくよりは、肉体を一回リセットする賭けに出てみよう。「さっきまでの絶不調は何だったんだ?」と何ごともなかったように走りだせる可能性だってゼロではない。徹夜走では、好不調のうねりが何度も寄せては返されるのだ
     足元もおぼつかない暗い道の行く手に、小さな光が点となって現れ、白熱灯の光らしく煌々と輝きはじめる。ネメアだ。ついにぼくは自分の足でやってきたのだ。
     この街には過去6年間のうち5度、収容車に乗せられてやってきた。関門が閉じられる深夜11時まで、当地でリタイアしレースを終えるランナーたちを待ち続けたものだ。一方で、ゴールまでの247kmのちょうど中間点となるネメアを、必死の形相で再出発していく生き残りランナーたちは、神々しく見えた。灼熱の道を123km走ってきて、まったく戦意の衰えない選手たち。こちらは戦いの舞台を降りた傍観者。彼らと自分との間に横たわる深くて広い谷間を感じた。
     その場所に、僕はやっと戦いの当事者としてやってこれたのだ。

    □【第二関門ネメア】123kmに到達。15時間10分。
     教会のたもとの広場には、いくつもの投光器がたかれ、闇夜の底を真っ白に浮かび上がらせている。光の向こうにたくさんの人がいる。ランナーの姿よりも、応援の人や大会スタッフの方が多く見える。
     小さな広場の中央へとランナーを導くようにカーペットが敷かれている。ここまでたどり着いたことを称えてくれているかのようだ。カーペット奥には通過タイムの計測器がある。
     夜10時10分着。11時ちょうどの関門閉鎖まで50分の貯金を残している。
     この大エイドのテーブル上にはピラフやパスタなど食料が用意されているが、固形物が喉を通る気がせずパス。
    あずけてあった荷物を受け取る。この街を出ると摂氏5度以下になる標高1200mの峠に向かうため、防寒用具を揃えてある。
    休憩用にパイプ椅子がたくさん並べられているが、椅子だと着替えに手間取るので、どこか地べたに座れる場所を探す。教会の脇に空きスペースを見つけて座り込む。
     荷物袋をひっくり返して、目についた物から順に装着していく。
     新しい電池の入ったヘッドランプに交換。薄いナイロンパーカーを重ね着する。汗で濡れたソックスを新しいのに履きかえる。股間にワセリンを塗りたくる。痛み止めの薬を飲む。迷ったがシューズも代える。雨天になったときの予備なのだが、ここまで履いてきたシューズの底がへたって地面からの突き上げがひどい。同じターサーなんだけど、新品の方が少しはマシだろう。
     シューズの紐をほどいて、タイム計測用のチップを外そうとするが、指先が正確に動かせない。指が震えているわけでもないのに、思ったとおりに動かないのだ。ぼくの行動を周りで見つめていた街の人が近づいてきて、「やってやろうか」と紐をほどくのを手伝ってくれる。さっきまで「たいしてダメージないのになぜ走れないんだよ」と自分を責めていたが、指を動かせないほど消耗がひどいことに気づく。
     真夜中の峠道に挑むフル装備を身につけるまで5分。完了したら、そのまま地べたに仰向けになる。今から最大25分、生体エネルギーをオフにするのだ。寝ころんで1分もしないうちに、靴ひもをほどいてくれた人とは別のおじさんが「大丈夫か?何かしてほしいことはないか?」と尋ねてくれる。「大丈夫です。少し寝たら元気になると思います」と答える。おじさんは床に散乱した僕の荷物を、丁寧に袋に詰め直してくれる。
    足が鬱血しないようにと、パイプ椅子の座面に足を乗っけているのだが、ふいに誰かがふくらはぎを触りだす。ぎょっとして目を開けると、またまた別のおじさんがぼくの脚を撫でている。
     ホ、ホモなのかな。
     と思うが、抵抗する気力も体力もない。
     おじさんは「そのまま寝ていなさい」と言って、ふくらはぎからスネ、ヒザ、土踏まず、そして足の指先を1本ずつ揉みしだいてくれる。マッサージをしてくれているのだ。筋肉が固まってる部分に、おじさんの指が的確にめり込む。おじさん・・・快感です。
    それから20分近く、ぼくの砂埃と汗にまみれた汚い足を、おじさんは優しくもみつづけてくれた。
     弱々しいランナーを再び走らせるために、街じゅうのおじさんたちが何かをやってやろう、助けてやろうと思ってくれているのだ。
     夜10時35分。関門閉鎖まで25分の貯金をもってネメアを出発する。この街にたどり着いたのも初めてなら、次の街へと出発するのも初めてである。今まで見てきたランナーたちのように、たった一人で暗闇の奥にそびえる伝説的な山へと挑むべく、街の灯りを背にして駆けだしていく・・・それは長い間、夢見てきた光景であり、自分にとって輝ける場面であるはずだ。しかし休憩あけの僕といえば、全身から力が失せ、10歩走っては力尽き、民家の前の花壇のヘリでうずくまるばかり。
     続々と日本人ランナーが追いついてくる。よっぽどの事故がないかぎり毎回高い確率で完走しているベテランランナーの方々だ。
     「いっかい潰れてしもうても、時間まだあるから、我慢してるうちに復活するよ」と笑っている人。
     「この辺にいるのはみんな完走する人たちだから、ついてこなあかんよ」と肩を叩いてくれる人。
     ついていきたい。だけどついていけない。どうしようもなく足が動かない。ときどき立ち止まって嘔吐するが、もう吐き出せる物は胃の中に残っていない。
     大股で歩くヨーロッパ人ランナーたちが追い抜いていく。2人1組で大声で話をしながら進んでいる人たちが多い。眠くならないための作戦なのかな。
     道路の端の排水溝のうえに倒れる。道ばたにいたおじさんが、自動車の荷台から毛布を取り出し、かけてくれる。5分ほど寝て、また走りだす。
    そのうち、誰にも遭遇しなくなる。いよいよビリにまで転落してしまったようだ。
     長い下り坂の終点にあるエイドからは舗装された道を離れ、ゴツゴツした石ころだらけの砂利道に入る。極度の疲労は眠気に直結する。猛烈な睡魔がやってきては、一瞬で眠りの世界に落としいれられる。

     □130kmを通過、16時間54分11秒(この10kmを2時間19分25秒)。
     熟睡したまま歩く。当然、前は見えていない。とつぜん顔や腕に鋭い痛みを感じて目が覚める。樹木の中に突っ込んだのだ。木の枝は悪魔のツノのような堅くて鋭いトゲをまとっている。肌が露出してる部分に裂傷を負ったみたいだけど、血が出ているかどうかは真っ暗でわからない。
     トゲトゲの木を迂回すると、幹の向こうに深い谷が切れ落ちていた。悪魔の木は、僕が崖から落ちるのを防いでくれたのだ。
     道ばたの空き地に倒れ込む。見上げれば、天球全体に清んだ星空が広がっている。山の冷たい空気が星がまたたかせる。
     遠くの方からヘッドランプの光が1個近づいてきては、ザグサクと地面を踏みしめる音とともに通り過ぎていく。自分がビリだと思っていたが、後ろにまだ1人いたのか。表情も姿も見えないけど、その人が諦めていないことは伝わってくる。
     戦っている人を傍観者として眺めている自分。もはや自分のなかに戦意がカケラほども残ってないことを自覚する。
     どこかにたどり着かないと凍え死んでしまいそうなので、目標を失ってしまったけど歩く。
     132kmのエイドは、山の中の何にもない場所にあった。このエイドの閉鎖時間に5分オーバーし、到着した。ドリンク類や軽食は撤収されていて、スタッフの村人たちは机やイスを車に積み込む作業の最中だった。遅れてやってきたランナーを気の毒に思ったのか、荷台にしまった荷物の中から1リッター入りの果汁ジュースを取りだし、手渡してくれた。
     スタートから132km、ゴールまで残り115km。ぼくは7度目のリタイアをした。

     いまや、このスパルタスロンの参加者で、7連敗を喫するような弱者は皆無となっている。
     ひと昔前なら、10連敗、12連敗を喰らってる人はゴロゴロいたが、どこにも見あたらない。
     5年ほど前までは選手を募集してもなかなか定員(400人程度)まで集まらなかったので、資格がゆるかったのだ。当時は「200km以上のレースを完走」で良かった。だから、60代、70代で長い距離をトコトコ走るのが好きな方々も多く出場していた。
     募集開始から一瞬で埋まるようになってからは、資格レベルが毎年のように引き上げられ、200kmならば男性29時間以内、女性30時間以内という高水準のタイムを過去2年間のうちに出してないとエントリーできなくなった。
     つまり連敗してしまうような走力の人は出られなくなってしまったのだ。
     最近は20代、30代のスピードのある若手ランナーが出場し、1発で完走を決め、それで卒業・・・というパターンが増えてきた。
     ぼくは100kmサブテンの参加資格をギリギリでクリアしているために、しつこく出場し続けられている。そして「サブテンなのに完走できない」希少種として、華やかな完走パーティの末席で居心地わるく小さくなっている。
     ここいらで打ち止めにしたらよいのかも、とよく思う。
     だけど、毎年少しずつゴールに近づいているという事実が、かすかな希望を抱かせてしまう。今年だって、去年よりは50kmも先に進んだし、過去ベスト記録の113kmよりも5エイド分、前に進んでいるのだ。
     この調子で、1年ごとに前進していけば、あと5年くらいでゴールまで到達するという机上の空論が成り立つ。
     五十路を前にして、去年は5000m、10km、ハーフ、フル、100km、200kmと自己ベストを更新した。つまり自分はまだランナーとしての成長過程にあるような気もする。ここで諦めてしまうのはどうなのかとも思う。
     さすがに7年も出続けていると、この行為はチャレンジなのか惰性なのかが曖昧になってくる。このレースを中心に1年を廻しているので、出なくなった時の喪失感を考えると怖い。走るのをやめてしまって肥満体に戻るのは二度とごめんだし、コーラを痺れるほど美味しく感じなくなるのは寂しい。
     それとは逆に、もしスパルタスロンを完走してしまったら、生き甲斐としてのポジションを維持できるのかどうかも心配である。美しく高い峰も、一度よじ登ってしまえば、色あせて見えることはないのだろうか。
     「完走できないくせに、参加資格は持ちつづけている」という、つかず離れずな状態を維持したいのかもしれない。
     結婚する気配がないのに同棲をだらだら続けている男女みたいなものだろうか。今さら別れて新しい恋をスタートさせるエネルギーはなく、だからといって夫婦になると恋愛感情を失いそうで怖い。惚れた腫れたの微妙な恋人関係がベストだね、みたいな感じ。
    こんなだらけたこと考えてるから完走できないんだろうか。だろうねえフーッ。

  • 2017年01月25日バカロードその103 スパルタスロンその2 フカフカ枕に顔を埋めて

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

    (前号まで=2500年前のペルシア戦争時、ギリシャ・アテナイ国兵士が援軍を求めてスパルタ国まで駆けたという逸話を元に、247kmを36時間以内に走るレース・スパルタスロン。6度続けてリタイア中のぼくは、7度目の挑戦真っ最中。80km関門を8時間17分で通過し、足切り時間まで1時間以上の貯金ができた。ところが急速に体調が悪化し、歩くのがやっとという状況に陥る)

    □【第一関門コリントス】80kmに到達。8時間16分55秒
     ふどう畑を貫く農道はS字カーブを描き、太陽が傾いていく先へと、光を映してまぶしく延びている。ときおり農園の番犬たちが道ばたまで駆け寄ってきてはバウバウと吠えたてる。「ワンワンワン!」と日本語で応酬すると、不思議そうな顔をして、ぼっーとこちらを見つめている。
     体調が戻るまではと歩き始めて30分。「苦しくても一歩でも前に」というカッコいい精神状態ではなく、走るのがツラくて逃げてるだけ。後ろを振り返ればたくさんのランナーが足取りも軽く近づいてくる。追い抜かれざまに見る彼らの横顔と瞳は「いよいよレースはこれからなのだ」という精気に溢れている。仕方なくちょっとだけ走ってみるが、フラ~とめまいがして、また歩く。
     伝統あるこのレースには、いにしえからの参加ランナーたちが口頭伝承する鉄則が多くある。その初級編でかつ重要なひとつは、
     「コリントス(80km地点)を過ぎてからが、本当のスパルタスロンの始まり」である。
     「コリントスまではスピードレース、コリントスからは根性比べ」という人もいる。
     いずれにせよこの247kmの道程において、80km地点をひとつめの局面変化のポイントとするのは、参加者みな異論がない。
    80kmまでは100kmサブテン程度のスピード持久力と酷暑に耐える力を必要とされ、80kmからはどんな困難にも打ち勝ち、道を切り開いていく精神力や自己コントロール力が問われる。
     ああ、それなのにそれなのに。今ぼくは、白目をむいて失神するほどでもない軽微な体調不良を言いわけに、ぶどう畑の一本道をたらたらと歩いている。この局面で最も必要とされる精神力も根性も、ぼくの中にはカケラも見あたりません。
     畑を抜けると、ヤシの木が連なる小さな街に入り、ヤンチャ小僧どもの声援を受ける。街のちょうど真ん中あたりの芝生広場の前にエイドが用意されている。むかし、このエイドで食べたスイカがすごく美味しくて、いっぺんに5切れほども平らげて消化不良をおこし動けなくなったことがある。今年は2切れまでにして、歩きながらちょっとずつ食べようなどと色々考えていたが、エイドの机の上には乾いたお菓子しかなかった。
     
    □90kmを通過、9時間40分04秒(この10kmを1時間23分09秒)。
     高速道路と交差する高架橋を越えると、だらだらと長い坂道がはじまる。オリーブの木々が生い茂る畑の脇で、1度目の壮大な嘔吐をする。喉の奥から噴き出した吐瀉物は、遺跡の多いこの辺りで何世紀前から降り積もったかわからない砂礫を盛大に濡らす。
     ふらつく足で道路に戻るが、目の前が白くかすんで見え、またまた吐き気がして道から離脱、そしてまたゲロの嵐。1kmほどの坂道を登りきるのに何十分もかかった。吐くのに時間をとられすぎて、いっこうに進まない。
     93km地点にある街は、「古代コリントス」と呼ばれる遺跡の縁に栄えた観光の街だ。花々で飾られたツーリスト向けの民宿やカフェが、石畳の広場を中心に軒を連ねている。広場にはたくさんのテーブルが出され、人びとは食事やお酒を楽しんでいる。今から夜中まで長い宴がはじまるのだろうか。長い旅の途中で、ふらりと立ち寄れたらどんなに素敵な街だろう。
     この広場に美味しいスイーツ屋さんがあると聞いていたので、余裕があれば街の人に教えてもらって、ジェラートを両手に持ってなめなめしながら走ろうと考えていたが、その食欲はない。山の端に近くなった夕陽に向かって街を素通りする。
     
    □100kmを通過、11時間06分43秒(この10kmを1時間26分39秒)。
     この10km間に20回くらい吐く。吐きすぎると体内からエネルギー源となる食物や水分が抜けてしまい、四肢に力が入らなくなる。走り出しの1歩目となる太腿が上がらないのだ。
     無理矢理にでも何かを摂取しなければならないのだが、水やコーラは飲んだらムカムカしてすぐ戻してしまうし、エイドの食料はパサパサの固いパンか塩辛いポテチみたいなのしかなく、潤いのない口の中や喉元を通る気がしない。
     100kmの計測ラインらしき所を11時間06分で通過する。歩きまくっているわりにはタイムはいい。計測ラインの向こうにあるエイドの机上にエメラルドグリーン色をした果実を見つけたときには、叫びたくなるくらい嬉しかった。ぶどうだ! しかも何房も、大皿にたっぷり盛られている。ヤッター! やっと口に入れる気にさせるものがあった。
     ぼくはギリシャ産のぶどうが大好きなのである。スーパーや露店の八百屋さんなら200円も出せば買い物袋にずっしりいっぱいになるほど安くて、味といえば日本の高級品種シャインマスカットほどの甘みと酸味を兼ね備えているのだ。皮ごとポリポリ食べられるので、ホテルでテレビ見ながら一晩で2kg分も食べ続けたことがある。
     脱水症状が現れる震える指先でぶどうを一房いただく。
     いや、いただこうとした瞬間、エイドにいたおばさんが「ダメよ!」という感じでぼくの伸ばした手を鋭く制するではないか。
     エッ、なんで?
     「そのぶどう、くれませんか?」と英語で伝え、懇願する表情をして見せる。
     ところがおばさんは、ギリシャ語と大げさな身ぶり手ぶりで、
     「このぶとうを食べたら、あなたの胃が悪くなるに決まってる!だからダメよ!」と言って、ぶどうがたっぷり盛られた大皿を持ち上げて、後ろに隠してしまった。
     なんでーーー。
     今、この瞬間まででーんと並べられていたぶどう。巡りあった瞬間に、なぜ引き離されてしまうのでしょうか。
     ぶどうは完熟してなかったんだろうか。見た目、そのようには見えなかった。
     先行したランナーが口にした途端、腹痛を訴えて七転八倒したのだろうか。いや、食べた瞬間に消化不良を起こしたりはしないだろう。
     おばちゃんが隠した真相を知るすべはない。ギリシャ語で込み入った会話ができるはずもない。絶望的な気持ちでエイドをあとにする。
     
     102km地点にある大きな街ZEVGOLATIO(読み方わからず)は、おとぎ話に登場するような可愛いい街である。曲がりくねった街路の両側には、白壁に茶色いレンガ屋根を乗せた家々が並び、白いひさしの奥には、カフェや一杯飲み屋、雑貨店などがギリシャの田舎町に暮らす人びとの営みをかいま見せる。カリオストロ公の城下町で、ルパンと次元がミートボールスパゲティを食べたお店みたいな、大衆的で賑やかな雰囲気だ。近代化する気のない南ヨーロッパの庶民の街って感じ。老後はここで暮らそう。
     街の中央に三叉路があり、突き当たりのレストラン脇の歩道を占拠して、マッサージスペースつきの大きなエイドが設けられている。あずけてあったヘッドランプを受け取り装着しようとして力尽きて歩道の上に倒れ込む。1分、1分だけでも横になったら、体力は劇的に回復しないだろうかと一縷の望みを託すが効果はない。
     ZEVGOLATIOの街を抜けるまでに、何度となく空き地を見つけては寝込む。倒れているところをレースの救護車両に見つかり、急ブレーキかけて停まった車を降りて駆け寄ってきたお兄さんに「アーユーOK?」と強制終了させられそうになったので、「今ストレッチしてたところなんですよ。元気です!」と嘘をついて難を逃れる。
     ぼくが動くかどうか救護車両の中からずっと見られているので、仕方なく立ち上がり、「さぁやるかー」というポーズをとって、車の脇を駆け抜ける。
     街を抜けて人気のない広い谷筋の道路に出ると、先行したランナーのうち潰れてしまった人が横倒しになっている様子がポツポツ見られる。
     今回初参加という日本人の若いスピードランナー2人が「潰れました。スパルタ舐めてました。マジで厳しいっす」とふらふらになっているので、いちおう先輩ぶって「大丈夫!ここから粘ったらぜったいゴールできる!まだ1時間も余裕あるけんっ!限界と思っても20分休んだら復活するし!ぜったいゴールするぞー!」などと叫びながら3人でチョロチョロと走る。
    午後7時、薄明かりの空はすでに暗く沈み、ランナーたちのかざすヘッドランプの光が路面に揺れている。
     
    □110kmを通過、12時間56分35秒(この10kmを1時間49分52秒)。
     10kmに2時間近くかかりはじめている。空き地を見つけるたびに横になって、2分、3分と休んでるんだから、そりゃ遅くなるに決まってる。こういったコマ切れの休憩を挟んでも一向に回復しそうにないので、思い切って長く休むという賭けに出ることにする。
     行く手には暗い山の影が迫っている。これから10km余り、勾配はさほどではないが長い登りが続くのだ。
    中腹あたりに街の灯りが見える。山の斜面に街が刻まれている。煉瓦造りの家々の合間をくねくね縫ってつづく街路を登っていく。突き当たりの小ぶりなレストランの前にエイドが開かれている。辺りを見回してみるが、身体を横たえて休めそうな場所は見あたらない。
     エイドでお世話をしてくれているスタッフの中に、日本人女性の顔が見える。大会の受付会場や開会式で、主催者の説明をギリシャ語から日本語へと通訳してくれていた方だ。
     「どこか横になれる場所はないですか?」と尋ねると、彼女は「ちょっと待って」と言い残し、背後のレストランに入っていく。すぐに戻ってきた彼女は「お店の床に寝られるそうですが、それでもいいですか?」
     申し分ないし、ありがたい。彼女が「何分したら起こしに来ましょうか?」と確認してくれるので、「5分でお願いします」と答える。
     レストランに入ると、すでに店じまいのあとらしく、店主らしき人と近所のおじさんたちが集まり、おしゃべりをしている。「どこでもいいから寝ていきなさい」と床を示してくれる。
     ぼくはお礼を述べ、手に持った給水ボトルをテーブルに置いたが、フタを閉め忘れていて、エイドで満タンにしたばかりのコーラを真っ白なテーブルクロスの上に盛大にぶちまける。
     店主のおじさんに「こんなことやってしまった。どうしよう。ごめんなさい」と謝ると、「気にするな。とにかく君は早く寝なさい」と言い、びしょびしょになったテーブルクロスを片づけてくれる。我ながら何と迷惑な訪問者でしょうか。
     横たわると、大理石の床はひんやり冷たくて、熱く火照った身体から疲労を取り去ってくれるようだ。シューズとくつしたを脱いで床に押し当てると、気持ちいい。仰向けから腹ばいの姿勢に変えて、頬を床につける。膝から下をばたばた動かして筋肉を緩める。その光景がおもしろいのか、店にいた人や、いつの間にか集まってきた子供たちが周りを取り囲み、写真や動画を撮っているようだ。突然店に入ってきて、床で足をバタバタしている日本人・・・おもしろ動画として世界に発信されることを願います。
     「5分経ちましたけど、起きられますか?」と女性スタッフが起こしに来てくれる。「うー、あと5分」とデキの悪い中学生の朝みたいに延長を申し出る。
     店主のおじさんが「これを使いなさい」と真っ白な枕カバーに包まれた枕を持ってきてくれる。ここまでさんざ地面に直寝してきたので、髪の毛も首筋もドロドロに汚れている。「ぼくはすごく汚いんですよ」と遠慮すると、「気にするな。ゆっくり寝てくれ」と枕を頭の下にすけてくれる。洗濯糊のきいた、良い匂いのするフカフカな枕が、優しくぼくの頭を包んでいく。こんなことされると、ここから動けなくなるよー。    (つづく)
  • 2017年01月25日バカロードその102 スパルタスロンその1 ぬか味噌に首まで浸かって

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     5月から8月にかけて3100km走った。1カ月平均770km。といっても、夜中にのろのろ歩いて稼いだ距離も入ってるからさ。走った距離は裏切らないってことにはならないよね。

     6月には100kmの自己ベストをサロマで更新。9時間40分52秒。完走するのがやっとの頃に比べたら目頭も熱くなる成長ぶりだね!と誰も称えてはくれないので、自分で自分を誉めてやるとしよう。けどまあ、スパルタスロン(ギリシャで開催。247kmを36時間制限)をやっつけるにしては、いかにも見劣りのする記録である。せめて8時間台を出せる走力がほしい。
     9月下旬。6年つづけてリタイアしているスパルタスロンに性懲りもなく出場すべく、ギリシャの首都アテネに降り立った。5連敗あたりまでは「今年こそ完走できる」とフレッシュな希望に胸ときめかせて飛行機のタラップを降りたものだが(ただの通路だったかな)、近ごろは「リタイアした街でお金がなくていつも困るので、今年こそ20ユーロ札を持って走ろう。そしたらバルでビールとか飲みながら収容バスを待てるぞ」などと余計な名案ばかりが浮かんでくる。
     踏まれても蹴られても、もっと殴ってみろよと笑いながら立ち上がれ・・・というのはアントニオ猪木自伝に書かれた金言で、小学生の頃にはそこに蛍光マーカーを引いて、猪木のように生きるべしと固く誓ったものであったが、大人になった今、踏んづけられたままの格好でペシャンコにのびてしまうほど気弱な生き物に成長した。
     
    □スパルタスロン、スタート
     スタート会場であるアクロポリス神殿のふもとで送迎バスを降りると、鳥肌が立つほど寒い。ギリシャ到着以来、連日のように気温は上昇し、昼間には30度を超しはじめていた。レース当日、ひどい猛暑にならなけりゃいいなと願っていたらこの寒さ。神様がめぐんでくれたチャンスかしら。
     そういえば前日にあった説明会では、主催者のおっちゃんが「スタート会場にはバイオトイレがあるので、用はそこで足してくれ」と連呼してたな。去年まではトイレがなかったので、夜陰に乗じて木陰でウンチするってのが定番だった。昼間ともなると何千人という観光客が押し寄せる世界遺産の敷地内で野グソってのはモラル上どうなんかな~、とは思うものの、でもトイレないしな~、みんなやってるしいいか、とブリブリやってた。今朝は便意を催す気配なく、バイオトイレとやらの世話になることはなし。
     スタート時刻の7時となる。だいたいいつ始まるかよくわからない大会なんだけど、ほぼ7時ちょうどにスタートが切られる。どうせなかなか出発しないんでしょとタカを括ってたので、進行が普通すぎて面食らう。
     出走者は400人と、日本国内なら田舎の草レースにも及ばない規模。それなのに一国の首都たるアテネの幹線道路を通行止めにしちゃうんだから、運営スケールとしては東京マラソンと変わらない。走路と交差する左右の道は全部おまわりさんが車を止めている。よりによって金曜日開催なので、アテネ市民の朝の出勤時間とドンピシャ重なっていて、慌てている人も怒っている人もいる。だけどそんなのはお構いなし。
     この国が財政破綻に瀕し、ユーロ追放騒動になったときには「働かないギリシャ人のために、なんで勤勉なドイツ人が払った税金で金融支援しないといかんの」みたいな批判を浴びせられたもんだが、間違いですよ。OECD35カ国の平均労働時間ランキングだと、ギリシャ人は3番目に長時間働く人たちです。自分は働き者だと思いこんでる日本人は15位、ドイツ人は34位です。日本人がモーレツに働いてたのは高度成長時代までね。
     さて、われわれのレースのせいか、あるいは日常的な光景か、一向にやってこない路線バスを待っているバス停の通勤客は、ランナーを応援してくれる人もおれば、苛立ちを隠せない人もいる。じゃましてごめんなさいです。
     
    □10kmを通過、55分58秒。
     沿道のアテネ市民の様子を見学しているうちに10km。調子はいいんだか悪いんだか、今ひとつピンとこない。身体もまた重いような軽いような。
     レース序盤に突っ込んでしまう行為は「スパルタスロン禁物あるある」なので、できるだけスローダウンを心がける。意図せずアドレナリンはドバドバ放出されてるはず。理性でコントロールしないと、脚が勝手にくるくる回転して、あらぬスピードを出してしまう。ピッチ数を減らすために、いろんな歌をうたってみる。最適なのは「川の流れのように」だな。テンポが遅くて、強制的にブレーキングが働く。心が洗われていくから、闘争心も削いでくれる。傍らに広がる工業港やプラント群の情景とはまったく無関係に、美空ひばりの熱唱がアテネの空へ届く。
     
    □20kmを通過、1時間51分36秒(この10kmを55分38秒)。
     コースは一般道から外れ、公園のなかの遊歩道に入る。ここには毎年、100人くらいの小学生が列を成し、わーわー大盛り上がりながら選手たちにハイタッチを求めてくる場所がある。悪ガキが何人かいて、こっちが差し出した手の平を思いっきり殴ってきやがるので、たいていの年は子供が群れる道の反対側を走るのだが、川の流れのように効果で疲労感もないし、いっちょ相手してやろうか。
     予想にたがわずクソガキ数名がバシバシ叩いてきたが、そんなの想定ずみだってーの。ボクサーが敵のパンチをスウェーバックで後方に逃がすテクニックの要領で、暴力的ハイタッチを柳の木のごとく受け流してやったぜハハハ。しかし楽しそうだな、この子たちは。おおかた授業を中断して、応援タイムに充てているのだろう。勉強サボれるからテンションも高いわな。
     
    □30kmを通過、2時間49分35秒(この10kmを57分59秒)。
     小刻みにアップダウンと蛇行を繰り返すエーゲ海沿いの道をゆく。前も後も台湾人ランナーだ。今年はひときわ台湾の選手が多いな。「加油・チャーヨー」(意味はがんばれ)とか声かけてみようかな・・・とか思うけど、何だコイツみたいな反応されたら心にダメージを負うので、結局どの台湾人にも声をかけなかった。近年、台湾では日本以上に超長距離レースが盛んで、500km以上のステージレースや250km級のワンステージレースが頻繁に開催されている。参加料は1万円前後と安いので(日本では5万円前後が当たり前になってきた)、飛行機代や宿代を足しても、日本国内の大会に出るより安あがりだ。主戦場、台湾にしよかしら。
     さて、ここいらの海辺には掘っ立て小屋的な小さなシーフードレストランが点在している。店頭には魚介類が並べられ、300m手前から牡蠣を焼くような匂いが漂ってくる。パブロフの犬的に生ビールをぐびーっといきたい欲求が頭をもたげる。現金持ってくればよかった・・・。ギリシャでは、1ユーロ(110円)コインがあれば缶ビール買ってお釣りが来る。どこの街角にでもあるキオスク(売店)なら、冷蔵庫から自分でパッとビールを取り出して、店員さんに「釣りはいらねぇ」とばかりにコインを差し出せば、時間ロスなく給ビールできる。大会が用意したエイドでボトルに水を入れてもらうよりも時間がかからない。ユーロの小銭をランニングパンツに忍ばせるのは何カ月も前から決めて、準備物リストにメモしてたのに、レース前になってすっかり頭から飛んでいた。あとの祭りである。ビール飲んだらもっと走れるのに。
     
    □40kmを通過、3時間48分13秒(この10kmを58分38秒)。
     フルマラソンの距離にあたる42kmエイドを3時間59分で通過する。さてさて勝負はここからなんだよな。この先から始まるダラダラ長い登り坂は日陰もなく、真昼の太陽に射られて、毎回バテバテになって歩いてしまうのだ。
     スタート直後からずっと「あの坂道を元気に走りきれるよう、体力を温存していこう」と自分に言い聞かせてた。「元気に」というのがポイントで、レース序盤の登り坂を無理して走り切ろうとすると、下肢には乳酸が溜まっていく気がするし、そろそろ汗も枯渇する頃に激しい運動をすると熱中症の玄関をノックするようなもんだし。
     とにかく楽しく、笑いながら、ちょこちょこと登ろう。半分くらいの選手が歩いているから、鈍足走りでもそう順位は落とさない。前方に、七面鳥の肉の塊みたいに巨大な太腿をしたランナーがいる。かつてこのスパルタスロンで優勝を遂げた伝説的なランナーであることを、併走した選手が教えてくれる。走っている姿を見たのは初めてだ。もうそれだけで胸いっぱいになる。あぁなんか幸せかも。
     
    □50kmを通過、4時間52分00秒(この10kmを1時間03分47秒)。
     気温はだいぶ上昇してきたみたいだけど、風がつよく吹いているので、身体に熱がこもっているようには思えない。シャツは汗で濡れてないけど、塩を噴いた跡が年輪のように何重も白く浮かんでいるので、かいた汗は風ですぐに乾いているのだろう。
     エイドで滞在する時間を除けば、だいたいキロ6分ペースを維持できている。3、4kmおきにあるエイドでキューブ状の氷をもらって、ハンドボトルにつめこむのだが、他の選手と行動がダブッたりすると遠慮して譲ってしまう。親切心からじゃなくて、紳士的な振る舞いをしてエエ格好したいだけである。ヨーロッパの選手を見ていると、他人を押しのけてでも我れ先にと補給食や氷を鷲づかみにしている。ここは生きるか死ぬかの戦場。だけど譲り合うことで自分を守ろうとする日本人の悪いサガが出て、20秒、30秒を無駄にしている。もっと野性の本能むき出しにしないとダメだね。
     
    □60kmを通過、5時間55分41秒(この10kmを1時間03分41秒)。
     次のエイドまでの距離が長く感じられだしたってことは、それなりに肉体はダメージを受けているのだろう。ぜんぜん苦しくはないんだけどね。
     ハゲ山だらけのここいらの地域では栄えた部類のアッティキという街の商店街にさしかかる。盛んに自動車が行き来する車道の両側には服屋さんや薬局、何でも屋スーパー、ギリシャ飯屋さんが立ち並んでいる。学校が近くにあるのか下校中にふざけ合ってる子供たちの姿もよく見かける。店の前には石畳や煉瓦畳の歩道が続いているのだが、カフェやレストランでは歩道部分に客席を並べて、暇そうなおじさんたちが昼間からお茶している。歩道を走ろうとするとテーブルとおじさんの間をすり抜けていかないといけない。必然的に車道を進まざるを得ないのだが、路上駐車している車が多くて、その脇を走るときには対向車両と身体との間隔が30cmくらいしかない。けっこうなスピードを出している車のサイドミラーが腕をかすめていきヒヤヒヤものである。平日の真っ昼間から車道をランニングしてる我々のことなんて、ドライバーは歯牙にも掛けてはくれない。スパルタスロンではレース中に起こるアクシデントは選手の自己責任。自動車との接触事故や、野犬に襲われ大流血しリタイアを余儀なくされた選手が毎年何人もいる。といっても死に至るほどの事故は起こっていない。巡回カーが大会指定の病院に連れてってくれて、無料で縫合手術や点滴くらいはしてくれる。
     ギリシャでは全てが大らかに物事が進んでいく。何もかも緻密に計算しないと気が済まない日本人とは正反対で、何となくやってみれば、結果はうまくいくんだというアバウトさが心地いい。ルールが緩いから、細かいことでカリカリしない。昼間から暇そうにうろついてる老人が多いから、無職でも引け目を感じずに済む。やはり老後を過ごすのはこの国か・・・などと無駄なことを考えているうちに第一関門が近づいてきた。
     
    □70kmを通過、7時間00分45秒(この10kmを1時間05分04秒)。
     70kmまではサブテンペースを維持してきたけど、急速にバテがやってきた。てか、この20km間のエイドにアイスキューブがなかったのがバテの原因だ。氷袋には氷の残骸すらなく生ぬるい水だけ。昼間の暑さで溶けてしまったらしい。
     逆に考えるならば、ここまで比較的ラクに来られたのは氷のおかげとも言える。もらった氷は、タオルで包んで首筋に巻いて動脈を冷やす。あるいは頭にかぶった手ぬぐいに押し込んで、頭頂部のヒートアップを防ぐ。脳が暑いと感じるのを誤魔かしてきたのだ。両方のポケットにも何個ずつか忍ばせ、シャツの表面、顔から脚まで全身に氷を塗りたくってきた。ここまで楽に来れたのは、自分の走力の賜物ではなく、氷パワーのおかげ・・・。
     75kmから始まる長い登り坂では、ついに歩いてしまう。傾斜が急なので、歩いても走ってもそうタイムは変わらないし、前後に見えるランナーもだいたい歩いている。だけど負けグセがついている僕には、歩いてしまったことで先行きの暗澹が心に刺しこんできては、いや大丈夫だ、あれだけ練習したんだからと打ち消すなどして、脚を動かすより心のせめぎ合いに忙しい。
     100年以上昔に人間が手掘りで築いたというコリントス運河にさしかかる。台地上から50mも下の海面まで、大型船が通れる幅の溝を、南北に6kmも掘り進めて2つの海をつなげたのだ。パワーショベルもダイナマイトもない時代に・・・。あ、ダイナマイトはあったか。運河に架かる橋の上から、そんな先人たちの土木工事の様子を夢想しながら、ゴツゴツ削り取られた岩肌を眺めていると・・・なにやら行く手に人間がわんさか並んでいる。そしてワーワーと歓声をあげている。
     ツアーバスで来たお登り観光客の集団が、運河を見てテンション高くなってしまったのだろうか。あまり近づきたくないが、彼らは橋の上の道幅1メートルほどの歩道を占拠している。
     いよいよ近づくと、70人ほどの観光客らしき人たちが歩道の左右に並び、頭上で手を取り合って「人間のゲート」あるいは「人間トンネル」的なことをしてくれている。
     ややっ、これはランナーの登場を歓迎する盛り上げアクティビティなのか。あの中をくぐれってことか!?
     不幸なことに前後にランナーはおらず、人間トンネルを組む皆さんの視線と声援は、僕に集中砲火されている。これはかなり恥ずかしい。
     「ブラボーブラボー」「グッジョブ、グッジョブ」「アレーアレー」。どこの国から来たかわからない人びとの大声援を受け、今さら回れ右して引き返すわけにもいかず、人間トンネルの中を腰をかがめて進む。タンクトップのおねえさん方に、キャアキャアと肩だの腕だのを触られる。
     四国の片田舎に生まれ育った平凡な人生において、アイドル歌手の出待ちのような扱いを受ける経験なんて生涯初である。ここはアイドルっぽく振る舞う必要があるだろう。僕は好感度を高めるべく満面の笑顔を振りまき、オーバーアクションもまじえてノリのいい東洋人を装いつつ、人間トンネルをくぐり切った。ふー、アイドルって職業も大変なもんです。穴を抜けたらドッと疲れが出たよ。
     
    □【第一関門コリントス】80kmに到達。8時間16分55秒(この10kmを1時間16分10秒)。
     いつもなら着いたとたん自転車にはねられたカエルのように地に伏せててしまう第一関門に、9時間30分の制限時間に対して1時間10分もの余裕をもって到着する。せっかく貯め込んだ時間の貯金を減らしたくないので、エイドで水分補給だけして、すぐさま再スタートする。多くのランナーはこの大エイドで5分から10分程度は休憩するだろう。僕はその間にぬけぬけと1km先まで進んでやるんだ。
     勢いよく走りだしたものの、関門を越えて心の在りようが変化したのか、急にあちこちが痛みだした。特に足の甲が痛い。シューズの中で足が鬱血してきたのか、スタート前にゆるゆるに結んだはずのシューズひもがキツい。
     高速道路と交差する高架の下に座り、ひもを結びなおす。よしオーケー、走りを再開だと立ち上がったときに、あらっと目まいがして平衡感覚がおかしくなり、コンクリートの壁に手をついて倒れるのを防いだ。アレ?これってダメージ来てんの?
     時間の余裕はたっぷりある。軌道修正のためにいくらかは時間を使える。頭のふらつきが治まるまでは歩いてみよう。ぶどう畑の中の一本道をてくてくと歩き始めたが、さっきまでキロ6分で楽々走っていた自分とは別人のよう。首までぬかみそに浸かってるみたいに身体がずっしり重い。地球の重力が急に3倍になったみたい。やばいな、やばくなってきたかもしれない。(つづく)
  • 2016年12月08日バカロードその101 四国横断ど真ん中編 その3

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

    (前号まで=吉野川河口から愛媛県の宇和島市まで330km。四国の山岳地帯を東西に貫く走り旅にでかけた。出発から270km、深夜の四国カルストからの峠の下りで、道路から崖下へと落下する。奇跡的というかマグレで道路の1m下の突起に着地したのは良かったが、膝頭がソフトボールの球みたいに巨大に腫れてきた) 
     人間の痛覚っておもしろいですよ。200km以上走るレースではよく体験することだけど、からだじゅうアチコチ傷めてるのに、痛みを感じるのって1カ所だけ。いちばん痛い部位だけなんですよね。たとえば転倒して、ぱっくり開いた傷口から血がダラダラ流れているのに、そこより痛い場所が別にあれば、傷口はまったくの無痛なんですよ。
     人間の脳みそって、高性能コンピュータ以上の演算ができるかと思えば、痛覚の情報が届くのは最上位の1カ所のみという鈍さも合わせ持ってるのです。いやこれは逆に、脳みそのテクニックかも知れないですね。全身の痛点からの情報をまともに感受してると、精神が耐えきれないかもしれません。
     さっき道路から転落した時に強打したと思われる左膝は、10分も経たないうちにソフトボール大に腫れ上がり、手で触るとぶにょぶにょと水風船みたいです。見た目は重症なのに、痛みは感じません。手の平や肘も擦りむいて血が滲んでいますが、やっぱし痛くも何ともありません。270km走ってきたダメージによる両足裏の痛みが、もっかのところ脳みそが選ぶ「痛みランキング1位」だからでしょうか。見た目、外傷だらけですが、痛くないんだから平気です。
     そして、どのような激痛をも凌駕する生理的欲求こそ睡眠であることは、あまたの徹夜ランナーに知られています。深夜3時、最大規模の睡魔が襲ってきました。単調な下り坂は足を前に出しておれば、勝手にからだは前に進みます。この努力不要な状態がマズいのです。路面に揺れるヘッドランプの輪が、催眠術効果を倍増させます。
     国道440号に並行して流れる梼原川の対岸に「田野々」という集落が現れました。古い家屋がならぶ街道ぶちには「茶堂」と呼ばれる木造で平屋建ての小さなお堂が立っています。間口は畳を横に並べた2帖分ほどで、板張りの上がりかまち的な空間があります。戸や扉はありません。奥には上下2層の棚があり、石造りの地蔵が20体ほど鎮座しています。地域住民や巡礼客の信仰の場であることは醸し出されるムードでわかりますが、そんなありがたい場所であることはさておき、横になれる空間を見つけてしまったからには、先には進めません。無礼を承知で板張りの間に倒れ込みました。眠い・・・ともかく10分でも眠りに落ちれば、睡魔は消え去るに違いありません。
     休憩なく10時間ほど動きつづけた身体はカッカと熱を放ち、転落した際に打撲したと思われる膝や肘がドクドクと脈を打っています。身体反応が強すぎて、眠りに入れません。その熱さは一転、ものの5分もすると冷え切った生木の床や、吹きっさらしの茶堂を抜けていく夜風に体温を奪われ、寒くて寒くて眠るどころではありません。眠るのはあきらめて、ふたたび夜道にさまよい出ます。
     眠気に加えて、猛烈な空腹感が襲ってきました。最後に食事をとったのはいつだろうと記憶をまさぐれば、昨日の朝9時ごろに道の駅でおむすびを食べたのが最後で、20時間くらい飲み物しかとっていません。
     あと5kmも走れば、この地域では最も大きな街である梼原町の中心部に着きます。夜明け前とはいえ、町役場もあるとこだから、なにかしら食べる物にありつけるはずです。極限の空腹時に無性に恋しくなるのは牛丼でも焼肉でもなく、なぜか日清カップヌードルのプレーン味です。日常生活ではいっさい食べようという気持ちが起こらないのに、ジャーニーランの最中にだけ禁断症状が出るほど欲しくなるのです。
     峠を下り終えると、梼原町の郊外らしきエリアに入りました。コンビニ、コンビニと、夜の町を煌々と照らすお馴染みの看板を待望しましたが見あたりません。そのうち綺麗にブロック舗装された歩道がつづく中心商店街らしき場所に着きました。
     夜明けまぢかの薄紫色した空の下に、街の様子がぼんやり浮かびあがります。歩道には、丸太をログ状に組んだベンチがそこかしこに置かれ、自然石を並べて造った人工の小川がせせらいでいます。道の両側に建ち並ぶ商店や民家のブラウンカラーの板張りの外壁や柱が、和を強調しています。雨樋いや窓サッシの色まで茶色に揃えた徹底ぶりです。住宅の2階や軒下の壁は、漆喰塗りに見せかける効果を狙ってか、オフホワイトに統一されています。高知銀行のATMや、高知の地元スーパーのサニーマートの外壁まで無垢の板張りにしています。「雲の上の町」という魅力的な肩書きで、全国から注目されているだけあります。山林や林業と市民生活とのリンクを官民をあげて表現しているのでしょう。
     その一点の曇りもない街づくりのおかげか、景観を損なう24時間営業のコンビニやコインスナックはついに1軒も現れず、ぼくの空腹は極限にまで達しました。期待した食料にありつけないままオシャレタウンを素通りし、ふたたび何もない山道に突入します。
               □
     高知県と愛媛県境の高研山トンネルを越えると、森林の風景が徐々に平野化してきます。同時に、真夏の日射しが照りつけてきました。ほんの2時間前まで寒さに凍えていたのに、今度は肌をチリチリと焼く太陽フレアの爆撃です。
     ここいらの用水路はとても特徴的です。山水を田んぼに引き込むために、凹状の水路を張り巡らせているのですが、ふつうは地面よりも低い位置に流すところを、ここでは歩行者からみて腰の位置くらいの高さに水路を築いているんです。走りながらでも手の届くところに、透明な水がさらさらと流れています。山から溢れた直後の水は冷やっこく、手ぬぐいを浸しては絞って首に巻いたり、シャツを脱いで洗います。
     ところが、その透んだ水が、上流から運ばれてきた茶濁した水に侵略されていきます。なんだなんだ、土砂崩れでも起こったか? すると、横幅1メートルほどの水路の真ん中を、バシャバシャと荒々しくかき混ぜながら、何やら生き物が泳いでくるではないか。ぐえっ、食用ガエルが暴れてるのかよっ! さっき顔を洗ったばかりなので気味悪いです。
     そうとうデカいカエルです。さぞかしグロいんだろうな。怖いもの見たさで、つい目線を向けてしまいます。ぼくと併走(併泳)している食用ガエルは・・・こいつはカエルじゃねぇ。全身毛むくじゃら、尖ったピンクの鼻、グローブつけてるみたいにでっかい手もピンク色。こりゃモ、モグラじゃ~。どんないきさつからモグラ君は用水路を泳いで下っているのでしょう。水路に落っこちたマヌケなのか、ある日水泳に目覚めたアスリートなのか。モグラ君は、バタつかせた手足で川底の泥を存分にかき混ぜながら、早い水流に乗って用水路の先へと消えていきました。せっかくの清流はドロドロに濁り、洗顔には不向きとなってしまいました。
     田園地帯を貫く一本道には日陰が乏しく、体温は上昇の一途をたどっています。朝10時にして、道路の気温計には32度と表示されています。暑さと空腹と睡眠不足でもうろうとしていると、視界の奥にゆらゆらとカップヌードルの幻影が見えてきました。いや、こんな真っ昼間から幻覚なんてないでしょ。目の錯覚ではありません。本物の日清カップヌードルの自販機が、田舎道の、周囲にほとんど何にもない道ばたに、ズドンと置かれているのであります。ボタンを押すと熱湯が出て、すぐに食べられるあの自販機です。
     一晩中、凍えながらずっと思い焦がれていたカップヌードル・プレーン味が、前ぶれもなく現れたのです。
     「なんちゅうタイミングなん・・・」
     腹は減ったままなのですが、なんせ気温32度かつ日光直撃のさなかで、あつあつのインスタントラーメンなんて食べる気が起こりません。
     自販機の前で呆然と立ちつくしながら、「あんなに食べたかったんだから、どりあえず買ってみるべきではないか」「でも、いま熱湯スープなんて一口たりとも飲めると思えない」と自問自答を繰り返し、お金を入れずにカップヌードルとどん兵衛のボタンを交互に押したりしながら、結論としては食べるのをあきらめて、その場をさみしく立ち去りました。
     出発から315km。国道320号線経由で宇和島市へ向かう最後の街にあたるのが鬼北町(きほくちょう)です。賑やかな道の駅やスーパーがあります。スーパーではアイス売り場に直行し、ガリガリ君2本、クーリッシュ2個、パピコを買いました。パピコは手ぬぐいにくるみ首に巻きつけます。クーリッシュをリュックの両サイドのボトルホルダーに放り込むと、ちょうど腰の位置に当たって気持ちいい。そして両手に1本ずつガリガリ君を持って、かじりながら走ります。5個のアイスクリーム同時投入で一瞬天国が訪れますが、直射日光の猛威はすざまじく、30分後にリュックから取り出したクーリッシュは熱湯化していました。
     鬼北町市街を抜けると、まもなく森の中の一本道に変わります。ゴールまでラスト10km。最後の10kmくらいちゃんと走り切ってやろうと、猛然とラストスパートをかけました。感覚的にはキロ3分50秒くらいのトップスピードですが、GPSの表示はキロ9分55秒。全速力なのにどうゆうことだ。お店のガラス窓に映った自分のフォームを見て納得します。表情はフルマラソンの最後のトラック勝負みたいに全身全霊っぽいですが、歩幅は30センチもないくらいのヨチヨチ走りになっています。すれ違うツーリングのライダーたちが、不思議なものを見るように視線を向けてくれます。競歩の選手と思われてるのかもなー。
     海辺の宇和島市へと標高を下げていくはずなのに、延々と登り坂が続いています。ほんとに海へと向かっているのか不安になってきます。
     宇和島まで残り6kmになって、やっと峠の頂上にたどり着き、下り坂になりましたが、あたりは山、山、山です。巨大なダム湖のほとりをゆきます。見通しのいい場所から下界を俯瞰すると、標高200m以上の高台にいる様子です。宇和島市・・・どこにあるのでしょう?
     道は、出口の見えない長そうなトンネルに吸い込まれます。半目でうつらうつら居眠りしながらトンネルを走り抜けるやいなや、また別のトンネルの入口がパカッ。このトンネルが終われば、いよいよ宇和島市街が眼下にばぁーっと開けるのかなと期待させますが、外に出たとたん3本目のトンネルに突入。トンネル3本連チャン3kmくらいあるでよ!
     そもそもこの道って一般道? 行き交う自動車は、高速道路並のスピードでビュンビュン飛ばしています。市街地を迂回する自動車道路にでも迷い込んでしまったんじゃないか。とっくに市中心部に到着してるほどの距離を稼いでるのに、いまだぼくは闇の中・・・。
     不安がピークになってきた頃、トンネル出口の開口部がふわぁっと光に包まれ、溢れんばかりの光の奥に、折り重なるように高層ビルの壁面が見えてきました。トンネルの向こうは宇和島市街・・・というよりも、街のど真ん中のJR宇和島駅まであと150mというイリュージョンな場所にトンネルの出口があったのです。全国にさまざま都市あれど、こんな唐突でドラマチックに現れる街があるでしょうか。
     今回の走り旅のゴール地点は、四国の西側の海です。JR宇和島駅から海辺の「宇和島新内港」まで1km。広々とした6車線のメインストリートには南国情緒をかもしだす背丈の高いヤシの木が並んでいます。商店街のアーケードの軒下には、ぼくを行く手の海へと導くように何百という赤や黄色の提灯が吊り下げられています。ぼくの到着を、街をあげて歓迎してくれているかのごとく。翌週に行われる真夏の一大イベント「牛鬼」の装飾とはわかっていますが、勝手に盛り上がっておくとします。
      徳島の吉野川河口から330km。徹夜2泊、宿1泊。ついに四国の反対側の宇和海にたどり着きました。といっても、到着した港は、リアス式海岸をなす宇和島湾の奥の奥。護岸が組まれた港の最奥にあって、猫の額ほどの狭い海面は、海というよりも広めのプールといった感じ。ついに海に着いたぜ!と感慨にふけるような風景ではないのですが、ここで終わりとしておきます。
     あと10kmも西へと向かえば、九州へと続く海原を遠望できる岬の先端まで行けるのでしょうけど、その根性は尽きています。
     やれやれ、やっと終わりました。
     公衆トイレの洗い場で、コソコソ服を脱ぎ、臭っさい体を拭いていると、今まで感じていなかった痛み・・・膝やら肘やら肩やら尻やらがズキンズキンと反乱を始めました。青あざ、すり傷、腫れ物だらけです。主には道路から滑落した時のケガです。タオルが触るだけで傷口にしみてヒィヒィ声をあげずにはいられません。
     トイレを出ると、10センチの段差を越えるのにも苦労するダメージです。走ってるときはこの痛みを封印してたんだな。人間の脳みそって良くできてんなあー。
  • 2016年10月25日バカロードその100 四国横断ど真ん中編 その2

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

    (前号まで=吉野川河口から四国西岸の宇和島市まで330km。四国の山岳エリアを貫く国道439号線をたどる走り旅にでかけた。徹夜明けの早朝、ようやく高知県境の京柱峠を登りきった)
     吉野川河口から京柱峠までの125kmに25時間もかかってます。懸命に走っているのに、結果は時速5kmという歩きに等しいペース。酷暑・徹夜・坂道3点セットを克服する鍛錬じゃー、と威勢よく走りだしたものの、これでは練習になってません。イカれた中高年の深夜徘徊です。
     しかし「東祖谷」、長かったです。剣山見ノ越から40kmもの間、ずーっと地名は東祖谷でした。へたすりゃ小さい国くらい広くない?と思って調べたら旧東祖谷山村(228平方キロメートル)の面積は、モナコ公国(2平方キロメートル)やリヒテンシュタン(160平方キロメートル)よりも広いようです。領土の規模からいけば、国王さまが存在したり、世界の隠し財産が集まるタックス・ヘイブンにもなれるスケールってことだね。
     京柱峠から高知県側へと急傾斜の曲がりくねった道を下ります。車幅1.5台分の狭い国道は、山腹の斜面を削って造られ、道の両サイドの狭い空間には器用に街道集落が築かれています。切れ落ちた谷側は土地がないため、鉄骨やコンクリート柱を崖面に立てて、本来は何もない空間に地面を設け、その上に住宅を建てています。反対側の山側は、傾斜角60度といった崖面に家屋分の敷地を捻出するため、ハシゴに等しい急階段をコンクリート擁壁に刻み、道路からはるか上部に、横長の続き間を持つ母屋や農作業小屋を並べています。
     立ってるだけでズズズと滑り落ちそうな斜面を開墾した畑では、腰の曲がった80歳くらいのお婆さんが熱心に野良作業をしています。下界ではバリアフリー住宅が当たり前になりつつありますが、山の暮らしには無縁の概念でしょう。
     人はなぜここまで苦労をして、こんな急傾斜地を住処とし、集落を築いたのでしょうか。
     いや、都市空間が平野部に誕生する前の時代は、大半の人間は山村で暮らしてたんだっけか。山なら飲み水に困らないし、家族を養える程度の鳥獣や木の実、根っ子が確保できるもんね。
     平野では数十年おきに河川が氾濫したり、津波に根こそぎ洗われる壊滅的な大災害に見舞われるけど、山間部には起こらない。ムリヤリこの地にしがみついてるのではなく、下界よりも生命財産を守りやすいから、山の奥の奥まで人は進出したのだろうか。などとNHK時事公論的な、だからどーした的解説をこの地に加えつつ、「コンビニとスーパー銭湯のない街じゃ生きらんねぇよね」という俗人らしい結論に至るのでした。
     京柱峠から18km下りつづけると、三好市と高知市を結ぶ国道32号線にぶつかります。この国道、ふだん車で通るときは、断崖上の細道といった印象ですが、ひなびた国道439号を2日間旅してきた目には、大都市を貫くハイウェイのように立派な道路に映ります。エンジンをフルスロットルにした車が行きかい(実際はゆっくりです)、沿道には洗練された外観のカフェや、デザイナーズ住宅が並びます(実際はふつうです)。
     さて困ったことがあります。山岳地帯でふんだんにもたらされていた山水、沢水、湧き水が、この道には皆無なのです。水がないと、太陽の下で火鉢のように熱くなった皮膚の表面温度を下げる手段がありません。ランニングの最中に汗をかけるのは最初の50kmくらい。体内の水分が枯渇すると汗が止まり、体温は急上昇します。体温を冷ますには、露出した肌や衣類を水で濡らしつづけるしかないのです。
     国道32号に出てわずか11km間で、思考がまとまらくなり、投げやりになったり、視界がぐらぐら揺れたりしました。軽い熱中症です。冷水器並みの冷たい天然水が、山からジャブジャブ提供されてたから、猛暑のなかを走ってこれたんだと実感させられます。
     高知県大豊のインターチェンジあたりから、本山町の早明浦ダム方面へ右折し、再び国道439号に戻ります。蛇行する吉野川に沿う国道もまた蛇行し、ちっとも真っ直ぐ進めません。地図を見ると、吉野川南岸の国道よりも、北岸の田舎道の方がより直線的に早明浦ダムに向かっているみたいなので橋を対岸に渡りました。しかし何のことはない。北岸道路もまた、細かく左右にS字カーブを繰り返しては、ぜんぜん直進できない道でした。
     バイパス道ができるまでは、本山町のメインストリートだったと思われる商店街には、スズランの花のようなレトロな街灯が並んでいます。競技用の人工壁がある吉野クライミングセンター前を通りすぎると、高さ106メートルの偉容が頭上に迫る早明浦ダム前にポンッと出ます。四国最大の水がめです。貯水量3億立方メートルは全国ダムランキング10位です。あの有名な黒部ダムでも2億立方メートルですからスケールの大きさがわかります。このあたりに雨がそこそこ降らないと、四国の東半分が干上がってしまう重要拠点です。ダム壁を後ろにまわりこむと、「さめうら湖」と呼ばれる人造湖が広がっています。
     ダム湖畔に着くと、この旅はじめて目撃するタイプの人たちが大挙して現れました。茶髪のロン毛でヒゲを生やしたおにいさん、エロい丈のショートパンツをはいたおねえさん方が、アイドリングさせた排気量のデカいSUVカーを取り囲んで、大人数でたむろしています。
     この人造湖、アウトドアスポーツの拠点として開発しているらしく、看板によるとジェットスキーにバナナボート、フライボードにスタンドアップパドルボートと若者が好むコンテンツ満載です。
     なるほど、週末の夕暮れどきを男女がキャアキャアと楽しく過ごすには最適な場所ですね。大別すれば彼らとぼくは、同じアウトドアな趣味に興じているわけですが、そのきらびやかさたるや雲泥の差です。なんの因果でぼくは徹夜走なんて地味なことやってるんでしょうか。ぼちぼちモテ系の趣味に変更すべきかもしれません。
      夜6時、宿泊地である「さめうら荘」に着きました。徹夜1泊で175km進みました。ネットで予約できない、つまり電話予約オンリーの「さめうら荘」は、さぞかし廃れた宿ではないかと想像していましたが、ロビーからして宿泊客で溢れかえる、とんでもなく大賑わいな人気宿でした。電話予約の宿、あなどりがたしです。
     清潔な和室の窓からは湖を一望でき、日光の下でよく干されたと思われる布団はフカフカで気持ちいい。洗濯機は無料で使わせてくれ、小ぶりながらもサウナや水風呂つきの大浴場も備わっています。夕食の「さめうら定食」は、地元の郷土料理が満載かと思わせるネーミングながら、メイン料理がなぜかエビフライと意表をついてきました。ここは東西南北、海から最も離れた山中でありますよ。ま、飢えた体には、どうでもいいことです。揚げ物が心地よく染み込んでいきます。これだけのサービスで、夕食つき6000円台とお値打ちの宿です。ネット予約全盛の時代に電話でしかアプローチできない宿にこそ、高い付加価値が秘められているのかもしれません。
           □
     翌朝3時に起床。真っ暗な湖畔からの再スタートです。宇和島まで155km、距離としては半分以上進んでるので、なんとなく気楽になってきました。
     さまざまな表情を見せる国道439号線ですが、ここいらでは北側に石鎚山系、南側に笹ヶ峰など1000m級の連山を削り取るように東西に延びています。道路と並行するのは「どういう原理でこれほどの宝石のような碧色が生まれるの?」ってくらい神秘的ブルーが溶け込んだ仁淀川。その美しさは、今まで旅先で見たどんな「自称・日本一の清流」よりも、頭ふたつ分くらい引き離しています。その神秘的な仁淀ブルーに、汚れきった心が純化されていくのを感じます。・・・と思って感激していましたが、帰宅後に地図を見ると仁淀川ではありませんでした。地蔵寺川という川です。地蔵寺川バンザイ!
     しかし昨日の午後は、暑さと寝不足のダメージでキロ8分でもハアハアあえいでましたが、今はキロ5分台でも鼻歌まじりに走れます。5時間ほど睡眠をとっただけで人間って驚異的に回復するもんです。人間バンザイ!
     30km進んで「633美の里」という道の駅で、おむすびとかき氷をいただきます。「633美」は「むささび」と読ませます。この地で交わる国道194号と国道439号の2つの数字を足すと「633」になり、近辺の森に棲んでいるムササビや、自然の「美しさ」の意味も加えたという、盛り込みすぎて返って難解になってしまったネーミングです。地域の商工会や役場のおじさま方が命名会議で「これしかないろ!」と盛り上がった様子が目に浮かびます。
     通り雨が降りやむと、真夏の日射しが戻ってきました。
     国道沿いに「池川町へようこそ、この先700m中心街↑」と右折をうながす看板が現れたので、素直に指示に従います。美しい仁淀川(ここでも間違えています。安居川という川です)にかかる橋を渡り、対岸の旧街道をゆきます。
     池川の商店街は、店々のたたずまいも看板の文字も、昭和の頃からタイムスリップしたみたいです。カランコロンと扉の音がする時代がかった喫茶店、生活に関わるものなら全て売ってそうな金物屋さん。道ばたには湧き水がとうとうと溢れだし、畳10帖ほどの広い水汲み場が造られています。飲もうと思って覗いてみたら、小魚が群になってうじゃうじゃ泳いでいたので、飲むのをやめました。
     池川の街で最も印象的なのは川辺に居並ぶ旅館群です。砂利石だらけの河原からそのまま石垣を積み上げ、頼りないコンクリの支柱を施した人工の地盤に、古い紡績工場のような木造の旅館が建っています。文豪が長逗留してそうなたたずまい。あるいは「銀河鉄道999」に登場する田舎の星の停車駅にある宿を連想させられます。
     河川敷には、川遊びに興じる家族連れの姿が見えます。雨上がりの猛烈な日射しに射られた肌がチリチリ焼けています。こうなりゃ飛び込むしかない! 服も脱がずにそのままの格好で川にジャブジャブ入ってみました。大の字になって浮かび、流れに身を任せて、川藻のように流されます。体温がガンガン下がっていく。ああこの快感よ永遠なれ・・・しかし水温が冷たすぎて5分もすると痛くて浸かってられなくなりました。一目散に河原にあがり、シャツや靴下を手絞りします。洗濯も兼ねられてよかったな。ずぶ濡れだけど、すぐ乾くだろう。
           □
     仁淀川町の市街地の外れにあるT字路で国道33号にぶつかります。以降は仁淀川の流れに沿って進みます。やっと本物が登場です。でも走ってる際はそこまでに現れた川も仁淀川と思い込んでいたので、特に感慨はありません。
     中津渓谷の温泉へと誘う看板に後ろ髪引かれる交差点を過ぎると、四国カルストの高原へと向かう国道440号と、その南側を迂回する439号に分岐します。距離的には少し遠くなりますが、「坂道練習」の主旨にのっとって、四国カルストを縦断する440号へと進むしかないでしょう。
     仁淀川上流に築かれた大渡ダムの北岸道路あたりで日没です。大渡ダムもまた大きなダムで、貯水量では早明浦ダム、魚梁瀬ダムに次いで四国第3位です。ダムマニアみたいになってきましたが、まあまあ好きくらいです。
     ダム北岸の道には歩道がありません。ドライバーから見て歩行者が死角に入るS字カーブが多く、夜間走には向かない危険な道ですので、この道を走られる方はご注意ください(誰が夜中にこんなとこ走るってえの)。
     ダムの最上部に四国電力の面河第二発電所があって、そこから発電所の裏山に入ります。垂直の壁状に迫る急峻な山です。首が痛くなるくらい見上げた高い位置に、オレンジ色の街灯の連なりが見えています。国道440号です。とほほー、あんなとこまで登るんだよね。
     発電所から国道まで直線距離にして500mしかないのですが、アクセス道は北へ南へとスーパー蛇行し、4kmも遠回りしながら標高差120m分を登っていきます。崖面にショートカット道は見あたりません。階段も生活道もなく、手かがりのないつるっつるの擁壁はロッククライミングも不可能です。
      所用わずか1時間くらいの、このくねくね道の登りで疲労の極に達してしまいました。山腹を登り切って、国道との合流地点に達したときは心底疲れていて、道路の真ん中にへたりこんでしまいました。四国カルスト直下にある地芳峠(標高700m)までは、登り坂が16kmも続くというのに。
     深夜の峠道にはなんにもありません。眠気を覚ましてくれる集落も自販機もありません。街灯はたまにしか現れず、後はひたすら闇で、自動車はやってこず、眠くて眠くてどうしようもありません。仮眠できそうな場所も見あたりません。
     
     唯一、道路縁のコンクリートブロック壁の上部に、階段で行ける二間続きの地蔵堂があり、壁はないものの地蔵さんの前に板間がありました。お堂の脇にゴウゴウと山水が流れ落ち、板間の床は飛沫を浴びてびっしょり濡れています。立っていられないほどの睡魔から寝ころんでみたものの、床は冷たいし水音はうるさいしで眠れそうにありません。信者が寄贈したものと思われる熊のプーさんの大きなぬいぐるみが奉られており、防寒になるかと抱きかかえて眠ろうとしてみたけど、プーさんもジトッと湿っていて、寒さは和らぎません。あきらめてまた走りだしました。
     地芳峠の最高地点は長いトンネルになっています。そこまで行けばトンネルの中で休憩できるだろうと思い、「峠までがんばれ、トンネルの中で横になってやる」とつぶやきながら、ようやく地芳トンネル(長さ2990m)に着きました。
     ところが期待したトンネル内部は、外界よりも遙かに気温が低く、ビュービュー風が吹き荒れています。それに、どういう建築技術なのか、壁面と床面のすべてがビショビショに濡れているのです。トンネルの到る場所から水が溢れ出し、排水溝を勢いよく流れています。地下水を防水壁でブロックするのではなく、トンネルの内側に浸透させて逃がすという、最新型の土木技術なんでしょうか。
     冷水のベールに覆われ、クーラーの吹き出し口にいるようなトンネルは、立ち止まることも許されず、3kmのあいだ歩き通すしかありません。
     
    (※帰宅後調べると、このトンネルは大変な難工事であったらしい。四国カルスト下部にあるこの場所は、掘削段階から1分間に20トンという膨大な湧水が出たり、工事中の崩壊が2度あるなど、大湧水群のなかを掘り進めた。水深約200mの水圧と同じ数値に達し、山岳トンネルであるにも関わらず、海底トンネルに等しい水との戦いを余儀なくされたという。・・・休憩できないくらいでブツクサ言ってすみません。偉大な日本の土木技術者バンザイ!)
     
     深夜2時、冷凍庫トンネルを抜けると、高知県の梼原村に向かって下り坂がはじまりました。下りは居眠りしながら走れるのですが、そのために自分の居場所に自信が持てなくなってきました。ちゃんと宇和島に向かってるのでしょうか。逆走している気がしてなりません。
     ふだんはめったにやらないのだけど、スマートフォンでグーグルマップを開いて、現在地を確かめようとしました。世の中で「やってはいけません」と盛んに警告されている歩きスマホよりもタチの悪い走りスマホです。
     グーグルマップを見ても、やっぱし今どこにいるのかわかりません。坂道を早足で駆け下りながら、スマホを横にしたり逆さまにしたりしていました。
     地図に集中しすぎていました。踏み出した右足の裏がとらえるはずの地面が、そこにありませんでした。
     びっくりする時間もなく。
     体勢を立て直そうとか、自分に何が起こったかとか、考える余地もなく。ただ真っ直ぐに落ちていきました。
     身体ってのは反射的に動くものらしいです。
     スマホを握っていた左手で、落下を食い止めるよう、道路側の路面を掴もうとしました。左の掌と、両脚の裏に「バンッ」という衝撃が突き抜けました。
     道路の端から崖側に落ちたのでした。その場所は、道路の右側に並ぶ側溝を覆うブロックの終点で、前方はガードレールも何もない、切れ落ちた谷になっていました。
     谷底には落ちませんでした。運良く路面から1m下に、着地できるだけの狭い突起があり、そこに直立したまま着地したのです。足が引っかからなければ、10m以上崖を転がったはずです。スマホを持った左手で路面を叩いたため、スマホのディスプレイはバキバキに割れてしまいました。全然もったいないとは思いませんでした。助かったー、生きとったー、ラッキーじゃー、を心で繰り返しました。
     道路に這い上がり、また走りだしました。衝撃で眠気はふっ飛んでます。いっときハイテンションな精神状態になり、調子が出てきたかと思えたのは錯覚でした。全身のあちこちに打撲症状が出てきました。両肘、両膝、お尻、足の裏が痛く、あちこちから血も出ています。いちばんひどいのは左膝で、短時間のうちに目視できるくらい腫れはじめ、ソフトボールを膝にくっつけたみたいに丸く膨らんでいます。ズキンズキンと脳に届くほどの脈を打つ痛みがあります。
     (半月板を割ったんか?走るのやめといた方がいいのか?もっと悪化させたらスパルタスロンに出られなくなる)
     しかし、リタイアを検討しようとしまいと今は深夜3時、そして山の中。エスケープ道もなければ、路線バスも動いていません。たとえ怪我がひどくても、自力で山を下るしかないのです。吉野川河口からここまで270km、ゴールの宇和島まで60km。まだまだ先は長いのです。
     着地するたびに痛む、まん丸でぶよぶよした左膝をときどき触りながら、なぜか思ったのは、(いやしかし、この程度の苦難を乗り越えられないようじゃ、とてもスパルタスロンなんて完走できない。この際、膝が壊れてもいいから、宇和島まで走るぞ。こいつをやっつけた先にしか明日はない!)でした。
     午前3時、痛みを抑制するために脳から放出された快楽物質が、ぼくを怪しい方向へと導きつつあるようです。   (つづく)
  • 2016年09月19日バカロードその99 四国横断ど真ん中編 その1
    bakaroad

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     夏の間に済ませておかなければならないことがある。酷暑・徹夜・坂道が3点セットになった長距離走だ。一年の最大目標であるスパルタスロン(注1)に向けて、この練習は欠かせない。酷暑・徹夜・坂道は、いずれも大の苦手とする要素であり、1つだけでも辛いってのに、スパルタスロンでは3つ首のキングギドラみたいな凶暴さで同時に襲ってくる。

    (注1)スパルタスロン=ギリシャの首都アテネから紀元前には軍事国家として栄えたスパルタまで、2500年前の兵士の逸話に基づき、247kmを36時間制限で走る。今年は50カ国から398名が出場。9月30日~10月1日開催。 
     
     これらはバラバラに練習しても効果をなさない。涼しい季節に坂道練習してもダメ、徹夜を決行しても平坦な道ならムダ、気温35度でも日暮れまでに終了しては意味なし。地獄の3点セットは、同時にこなさなくてはそれに耐えるタフさが身につかない。
     7月、梅雨明けとともにうまい具合に気温が上昇しはじめた。33度前後の気温は、本番で想定される35度から39度には及ばないものの、日本国内で疑似体験するには持ってこいの暑さである。
     スパルタスロンには1200mの岩山越えをはじめ、いつ果てるとも知らぬ舗装道の上り下りがある。その実際の標高差に近い場所と言えば、四国なら与作(よさく)しかない。与作=国道439号線のことである。旅マニアからは「最難関の酷道」と呼ばれ、国道にも関わらず対面通行できない道幅の狭さや、厳しい山岳地帯を越えることで知られている。国道439号線は、数年前に改称された438号線とともに、東は徳島市中心部を起点に、四国の中央山岳エリアを東西に貫き、西は高知県四万十市で終点となる。
     今回の練習走は、徳島市の吉野川河口を出て、まずは剣山の登山基地である標高1410mの見ノ越を目ざす。見ノ越を過ぎると、いったん祖谷川の中流域まで下り、再び高知県境にある標高1100mの京柱峠へと登る。峠から大歩危あたりの河岸まで出て国道32号線を西へ。高知道の大豊インターあたりから早明浦ダム方面へと進路を変える。吉野川河口から早明浦ダム湖畔までは175km。これを1泊徹夜でこなし、湖畔の宿で停滞。
     翌朝再スタートし、高知県中央部を上八川川(かみやかわがわ)、仁淀川に沿って西進。仁淀川上流の大渡ダムからは国道439号を外れ、より標高差を稼げる国道33号線に道を変える。高知・愛媛県境一帯に広がる四国カルストの高原地帯は、標高700mの地芳峠が国道最高地点。「雲のまち」で有名な梼原町へと駆け下り、終着点の四国西岸、宇和海沿いの港湾都市・宇和島市を目指す。早明浦ダムでの再スタートからゴールの宇和島までは155km。徳島市から宇和島市は全行程330kmである。
           □
     朝8時、吉野川河口を出発。経由する道はいつものごとくノープランです。車を避けてしばらく吉野川の堤防下の細道を行きます。四国三郎橋を何となく渡って、鮎喰川との分岐点を過ぎ、鮎喰川南岸の土手道をすすみます。
     朝から気温すでに高く、徳島市名東町の商店街に入ったあたりでバテバテです。15kmしか走ってないんだけど、こんな体力で330kmも先まで行けるのでしょうか。考えても仕方ないので、考えないようにします。ロング・ジャーニーランのコツは「先のことは考えない」、これに尽きます。10kmか20km先にある、楽しいことだけを胸に抱き走るのです。楽しみといっても、自販機が並んでる場所がある・・・程度の質素な喜びです。
     名東のローソンに寄って、氷カップにコーラを注ぎ、さらにパピコを口の中でシェイクして、ジャリジャリになったものを胃に流し込みます。内臓を氷類で冷やすと、そこそこの熱中症状態・・・うわごとを言ってないレベルなら、瞬時に脱することができます。
     一宮、入田と街を越えて徳島市を抜けると、鮎喰川の川面は道路との高度差を増していきます。涼しげな清流を眼下に、生ぬるい汗をだらだら流して坂道を登っていきます。神山の町境からも阿野、広野、鬼籠野とプチな商店街がつづきます。神山なんてあっという間に着くわなとナメていたのに、なかなか神山の中心部に近づきません。神山道の駅にようやく着くとGPSの走行距離は35km。佐那河内村ルートなら神山まで30kmなのに、5kmも余計に遠回りしたとやや後悔。
     道の駅でトイレを借り、シャツを脱いで洗面所で丸洗いします。ジェラート目標でここまで来たものの、暑すぎて吐き気強く、食欲わくはずもなく、シャツ洗濯だけで再出発です。
     神山町の中心部、寄居商店街へと寄り道する分岐手前で、道沿いに設置された太いパイプから、山水がドウドウと溢れ出しています。頭からかぶると、チョー冷たい! 冷水機から出てくる水みたいです。熱中症症状には、頭、首筋、脇の下など動脈が通っている部分を冷やしまくるのが最善の対処です。吐き気もふらつきも嘘のように収まりました。
     元気になると、距離や時間が気にならなくなります。神山町の下分(しもぶん)、上分(かみぶん)と順調に進み、美馬市木屋平との町境にある標高700mの川井峠の登りに差し掛かりました。この道は以前走った際に、ヘアピンカーブの道をショートカットしようとして崖をよじ登り、古木、倒木、イバラに遮られてすり傷だらけ、ヒドい目にあった道です。今日はおとなしく国道をジグザクに登っていきます。
     時刻は夕方4時。吉野川河口からわずか55kmに8時間もかかっています。こんなチンタラペースな自分を責めます。スパルタスロンでは、同程度の距離や坂道ならばキロ6分ペースで突き進む必要があるのです。
     朝からコーラとアイスしか胃に入れてないので腹ぺこです。川井峠の頂上近くに「あら川」という食堂があって美味しい中華そばが食べられるはずです。でも店が開いているかどうかは不明。とりあえず中華そば目標で峠を登っていきます。町境のトンネルを抜けると剣山を望む展望台があり、その向こうに「あら川」が・・・やっぱし閉まってました。看板によると昼の2時で店じまいのようです。食えないとなると更に腹が減ってきました。この先、食堂があるとするなら、木屋平の街まで下った所にある物産館「たぬき家」しかありません。田舎のお店です、夜まで開いているとは思えません。お店は7km先です、急ぐしかない! 峠の下り坂を利用して、猛烈なスピードで駆け下りはじめました。
     「たぬき家」に着くと夕方5時半でした。どうせ閉まっているだろうと半ば諦めていたけど、店内に照明が点いています。おおっ!とドアを開けてみると、無人の客席の奥からお店のおねえさんが「いらっしゃい」と顔を出してくれました。お店は7時までやっているそうです。テーブル席に座るよう勧められたけど、パンツまで汗だくで椅子を汚してしまうのは紳士の振るまいとしてどうかと思い、「暑いので」という言い訳をして、作ってもらったカレーライスを玄関の外に持ち出して、地面に座り込んでむさぼり食いました。空っぽの胃の中に大盛りのカレールウと白米が落ちていき、スパイシーな幸福感に包まれます。
     食事を終える頃には山の端に日が落ちて、薄暗くなっていました。お店のおねえさんに「今から剣山に向かって行くんですけど、熊は出ませんかねえ」とおそるおそる尋ねると、「熊は出んと思うけど、鹿はいっぱいおるでよ~」とのこと。「この間も、運転しよう車に横から鹿が体当たりしてきて、車のボディがべっこりへっこんだわよ」と危険なエピソードをいただきました。店を出ようとすると、おねえさんがモナカアイスを持たせてくれました。「これなら、走りながら食べれるだろ」っと。ありがたやです。
              □
     たぬき家から剣山の登山基地である見ノ越へは24km、と店前の道路に看板がありました。標高350mから1400mまで高度差1000mの登りです。そこそこ平坦な木屋平の谷口から川上あたりの小さな集落をテッテケゆくと、行く手に暗くて巨大な山塊が立ちはだかりはじめます。天を仰ぐほど見上げる高い場所に、Z字を更に上下に潰したような、激ジクザク道が右へ左へと蛇行してる様子が見え隠れしています。あんな所まで今から登るのね、夜中にね・・・と思えばため息のひとつも出てしまうのは仕方ありません。
     山のふもとのコリトリ(垢離取)にさしかかった所で完全に日没しました。ヘッドランプを装着します。「見ノ越まで11km」との看板が現れると、以降は500mおきに距離表示板が設けられています。たまーに現れるオレンジ色の街灯が心を優しくしてくれます。街灯のない所でヘッドランプのスイッチをオフにすれば、地面と空との境界が消え、自分の手も足も見えません。暗闇の中に自分の意識だけが蠢いています。
     標高1000mを超えると、森の奥からキューキュー、ピーピーとの鋭い嘶きが届きはじめました。姿は見えませんがおそらくは鹿です。枝や下草を踏む音がバリバリと移動します。熊でないことを祈りますが、相当な大型獣が存在していることがわかります。
     間近に巨大な生物がいるのに、怖いからといって、目をそらすほどの勇気はありません。踏み音のする方向へとヘッドランプの光を向けると、森の中に黄金色に輝く2つの目だけが浮かび上がます。向こうは向こうで突然浴びせられた光に驚いているのでしょう。じっとこっちを見つめています。やはり鹿です。
     標高1200m。断崖のへりを高巻きする道の向こうには、広大な谷が広がっています。森はいよいよ深まり、金属のパイプに空気を吹き込んだような鋭い鹿の声が、頭の上からも、足の底からも響いてきます。山の斜面全体が反響板となって、鹿の鳴き声を増幅しています。周囲にいるのは頭数にすれば6、7頭なんだろうけど、四方八方を鹿に包囲されて、罠にかかった獲物になった気分です。
     進行方向の路上に何者かがいます。ヘッドランプの光の奥に、また2つの金色の目玉が浮かび上がりました。100mほど離れた場所で、鹿が道路に立ってこっちを見ています。
     光の輪に映し出された鹿は、ほんのわずかな時間、停止した後に、猛然と、真っ直ぐに、こっちに向かって正面から突っ込んできました。100mの距離は、数秒の後には50m、こちらの思考が反応できた頃には30mまで距離が詰まっています。
     「襲われるん?」「突っ込まれるん?」。立ち尽くしたまま何もできません。何かを判断できるほどの時間が与えられていません。
     「やられるんか?」と感じた瞬間、自分の口蓋から、生まれてから一度も出したことのない叫び声が放たれました。
     「%$#&%$%ドグァー」
     この叫喚が届いたかどうか。槍と化した鹿は90度方向転換をし、ガードレールを飛び越えて、谷側の森へと消えていきました。
     野生の鹿の意思なんてわかりっこないけど、明らかに攻撃の意図があった気がします。
     鹿のイメージといえば可愛いバンビちゃん程度の漫画的なキャラでした。しかしいま相対した一頭の鹿は、動物園でオリを隔てて安全な場所から見下していた鹿ではありませんでした。鹿とぼく、両者生身の動物として平等な位置に立ったとき、自分は何にもできないひ弱な存在だと思い知らされました。
     そして強く思ったのです。「もう二度と夜中に剣山なんて来んぞー」
               □
     見ノ越の駐車場に着いたのは夜10時30分。いちおう観光地だし、どこかに横になって休憩できる場所くらいあるのかなと探してみましたが、どこにもありませんでした。どの施設もきっちりシャッター降りてました。戸締まり用心、当たり前ですね。 
     身震いするほどの寒さに、半そでシャツと短パンのみ。自販機でホットコーヒー2個買って、両手の指と、顔の鼻と頬を温めながら、東祖谷方面へと下ります。登ってきた道の木屋平側の谷は、一点の曇りもない澄んだ空気だったのに、峠の反対側はすごい霧に包まれています。ヘッドランプの光は空気中に漂う霧粒に反射するばかりで、5mより先はただ白く写るだけです。崖から落ちないようそろそろ下ります。奥祖谷二重かずら橋のあたりでようやく霧が晴れました。道沿いに水道の蛇口と洗面台があり、石鹸がぶら下がっていました。腕と顔を洗うだけでずいぶんすっきりしました。が、深夜1時頃になると、再び猛烈な眠気にやられ、道の真ん中を意思なくふらつきます。
     東祖谷の名頃集落にさしかかると「かかしの里」という看板がありました。道ばたには、等身大に近い身の丈1mほどの人間の姿格好そのままの案山子が、続々現れにぎやかになってきました。
     公民館のような外観の建物の横を通り過ぎようとすると、窓ガラス越しに何十体という案山子が直立しているのが見えます。引き戸が少し開いていたので、ちょっと失礼して中におじゃましました。入口の土間の向こうは畳敷きの床です。風が当たらず温ったかい・・・横になり、眠ろうと試みますが、脚や身体の内部がジンジンと熱く、それでいて皮膚の表面は氷みたいに冷たくて、全然眠れません。徹夜走のさなかに襲われる睡魔のややこしいのは、走ってるときは寝落ちするほどなのに、いざ眠る体勢をとると、心臓の鼓動早く、全身の興奮おさまらずに目が冴えてしまうとこです。
     20体くらいの案山子に囲まれて、しばらく寝ころんでいたけど、一睡もできそうにないのでまた走りだします。
     菅生、久保と集落を抜け、落合のあたりで夜が明けました。最近テレビ番組などでよく取り上げられる「天空の里」は道路からは見ません。ちょっと高台に登れば、急斜面にへばりつくような落合集落を遠望できるんだろうけど、今は寄り道する気力ゼローです。
     祖谷川と支流が合流する京上という大きめの集落で、祖谷のかずら橋方面への県道と、高知県境にある京柱峠方面へと続く国道439号の分岐が現れます。むろん目指すは京柱峠です。
     京柱峠へは、剣山への登り以上のぐねぐねヘアピンカーブの連続です。見上げれば上部の崖に車道が見えています。直線距離にすれば50mくらいしかない場所に行くために、遠回りを1kmほども強いられるのです。うんざりです、ショートカットするしかありません。地域の住民が使っていると覚しき階段や踏み跡を見つけるたびに、薄暗い森へと入り、傾斜45度を超える崖をよじ登ります。首尾よく近道を見つけられる場合もあれば、根腐れして足場も覚束ない原生林の森で行き止まりになったれりします。迷い道から脱出するために、垂直に近い人工を擁壁をクライミングします。トゲのある葉っぱにすり傷つけられ、皮膚は何やら痒くなり、ヤブ蚊に刺されたりもして最悪ですが、ショートカット命です。
     ようやく本道である車道に出て、枯れ草まみれの汚れた格好で、傾斜のきつい急坂をのろのろ走っていると、軽トラが横づけしてきました。運転手のオッチャンが窓から顔を出し、「ほんな格好でおったらマムシに咬まれるぞ!」と怒鳴っています。ぼくの短パンのことを指摘しているようです。「このズボンしか持ってないもん」と言うと、オッチャンはあきれた顔をしてエンジンをバフーと吹かして去っていきました。マジで怒られたなー、しかし車道におる限りマムシなんて出てこんだろ・・・と思ったけど、その直後に特徴のある三角形の頭部とマダラ模様のマムシらしき蛇が、路上で車に轢かれて死んでいるのを2匹目撃するにいたり、オッチャンの指摘は正しいようだと肝を冷やしました。
     峠道ではロードバイク乗りがたくさん追い抜いていきます。ここはクライマーたちの良い練習場所のようです。朝9時前に、ようやく京柱峠のてっぺんに着きました。高知県側の広大な峰々を見下ろす場所に、一軒の質素な造りの小屋が建っています。噂に聞く峠茶屋です。玄関を覗き込んでみると、年配のご夫婦が下ごしらえをしている様子です。遠慮して店を出ようとすると、「お兄ちゃん、すぐ作ってあげるけん、待っといて」と呼び止められ、畳敷きの部屋に案内されました。客間の壁や天井には、長い旅の途中でこの地を訪れた何百人もの旅人が、画用紙にマジックで描いた言葉やイラストが貼りつけられています。冒険心の果てにこんなマムシだらけの峠を越えた若い旅人や、人生の晩年に漂泊の旅に出た老いた旅人たちの爪痕です。
     この店は、行き交う旅人たちの夢や希望を飲み込み、微熱を発しているかのようです。開け放たれた窓から吹き込む下界からの清涼な風が、その熱を冷ましてくれているようにも思えます。
     おばちゃんがお盆に載せた料理を運んできてくれました。店のメニューは「しし肉うどん」のみ、800円也。よく取れたダシは薄い黄色をしていて、コシのあるうどんの麺がぷよぷよと気持ちよさそうに浮かんでいます。お盆の上にはなぜかクッキーが10枚も添えられています。「走りながら食べなよ~」とおばちゃんが笑っています。
     胃の中は空っぽです。飢えた野豚と化しうどんを2分ほどでかき込みました。「うまかったー!」と礼を述べ、先を急ぐべく店前の広場でリュックを背負っていると、おばちゃんが店を出てきて、よく冷えた缶のリンゴジュースをくれました。なんかよく物をもらえる旅です。  (つづく)
  • 2016年09月08日バカロードその98 四国の先っぽの先っちょまで 後編
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    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)  

    (前回まで=四国のいちばん端っこまで走ってみようと発作的に思いつき、吉野川河口から愛媛県佐田岬の先端まで300km走にでかけた。天気はやや荒れ模様ですが)
     桜三里からの峠道を下りきると東温市の田舎道。追い風に体を運ばれながら、西へ西へと進む。
     いよいよ雨は本降りになり、気まぐれに谷筋を抜ける突風が木の葉やゴミを空中に舞い上げる。

     道沿いに点在する農家の、農機具を納めている納屋やビニールハウスがべろんべろんに崩壊しかけている。風に引っぺがされたタテヨコ1mもある納屋のトタン板が、縦回転で道路を横断する。こんなの突き刺されば血まみれお陀仏だ。
     どこかでゴミ集積箱が壊れたのだろう。空き缶を満載した70リッター入りのポリ袋が何袋も、集団となって車道上をずずーっと移動している。斬新な現代アートみたいだね。避けて通れなくなった自動車が渋滞を起こしはじめたので、仕方なく車道に出て散乱したゴミ袋を拾ってまわる。雷鳴とどろく風雨のなか、傘もささない短パン男がゴミ袋を拾ってまわる。つげ義春の漫画然としたシュールな絵柄である。
     雨降り序盤は、民家の軒先を借りてシャツや靴下を脱いでは手絞りしていたが、すれ違う車のタイヤがはねた泥水を頭からぶっかけられてるうちにどうでもよくなってきた。田んぼから溢れ出した水は、歩道で川となり、避ける余地もないので、ジャブジャブと足を突っ込んで走る。
     吉野川河口から200km。日暮れどきになって、伊予市の市街地にさしかかるとザーザー降りはいっそう強く、50m先が白くかすんで見えない。あらかじめ調べてあったのだが、伊予市の中心部には日帰り入浴できる「天然の湯 いよ温泉」がある。天気予報では、夜半から晴れと出ているので、温泉で雨宿りといたしますか。
     飲食店が立ち並ぶ裏路地っぽい小道に「いよ温泉」はあった。全身びしょ濡れで水滴したたり落ちるため、玄関の外で服を脱いで水気を切る。脱いだ靴に、手前のコンビニで買った新聞紙を丸めて詰めこむ。
     脱衣所のテレビでは、地元のニュース番組が「今日、佐田岬では風速30mの瞬間最大風速を記録した」と報じている。到着日が1日ずれてたら飛ばされてたな。
     浴場には小ぶりながら露天風呂がついている。よし、ここで雨足が弱まるまで待つぞと耐久戦の構えを取る。とはいえ、雨宿りという立派な言い訳があるのでのんびり休憩できていいや、とダラけ気分上々なのだが、こういう時ほど自然は人間の思い通りにはならない。露天風呂に陣取って30分もすると、雨はピタリと止んでしまった。ならば、風呂場でゴロ寝している理由は1つも見あたらない。
     まったく気が進まないが、ボトボトに濡れたシャツとパンツと靴下を身につけ、新聞紙の効果なく水たまりみたいなシューズに足を突っ込んで、夜道を南へと走りだす。
     スマホの電話が鳴る。電話の主は、四国随一、いや日本最強クラスの超長距離ランナーである河内勇人さんである。さくら道国際ネイチャーランやスパルタスロンで上位に食い込む河内さんは、その実力もさることながら、ウルトラ業界での人望が厚い。250kmレースや24時間走を「競技」として真剣に取り組んでいる日本中の変態アスリートたちに慕われている存在である。そして7年前、ぼくをスパルタスロンという人生の泥沼(6連敗中)に引きずりこんだ張本人である。
     伊予市在住の河内さんに、いよ温泉の脱衣所から「徳島から200km走ってきました。佐田岬まで行きます。今、伊予市で雨宿り休憩中」とメールしておいたのだ。ゴールデンウィーク最中の家庭人に連絡するのは不躾だよなとPC宛てに送った。連休明けにでも見て、ウケてくれたらいいな。ところが、即刻電話をもらってしまった。アー、しまったな。
     「今、どこ?」と聞かれたので、「伊予市の中心から2km行ったとこです」と答える。
     「キロ何分で走りよん?」と聞くので、「キロ10分です」と答える。
     「ふーん、わかった」と電話は切れる。
     いったい何がわかったのであろうか。
             □
     街灯のない暗い峠を越え、下りきった所で海岸線に出る。白波がうっすら浮かび、道路下の岸壁に打ちつけている。瀬戸内海の西側一帯を成す伊予灘と呼ばれる海だ。佐田岬へのつけ根へと続く国道378号線は、夕陽の沈む景色の美しさから「夕やけ小やけライン」とも命名されている。
     海と陸の境界線に沿って、遠くまで人工の灯りが続いている。佐田岬の先端は100km向こうだから、ここから見えてはないだろう。
     伊予市街から10kmほど離れたところで、後方から猛烈な勢いでハンドライトの光が近づいてくるのに気づく。まさかというか、やっぱし来たかー。河内さんである。しかもヤル気まんまんな雰囲気である。なんと朝までつき合ってくれると言う。
     ううむ、徹夜走なんて急に始められるもんなの? 夜中に不意に届いたメールに即座に反応して、服を着替えて家を飛び出し、朝まで走ろうなんて思えるもんなの?
     本当に強いランナーって、こういう所から精神の造りが頑丈なのだろうか。きっとそうなのだろう。
     最強ランナーの伴走を受けてダラダラ走は許されず、真面目に走ってはみるものの、既に200kmを超え、なおかつ温泉で弛緩した足の裏はぶよぶよと浮腫んで痛みがひどく、キロ9分ペースでもゼエゼエ言ってます。
     夕やけ小やけラインの沿道には見所が多い。「しずむ夕日が立ちどまる町」というキャッチコピーで街おこしを計る双海、「日本一海に近い駅」として青春18きっぷのポスター写真が印象深い下灘駅、猫の島として一躍ブームとなっている青島への定期船が出ている長浜港、カクレクマノミの研究で世界的な注目を集めた女子高生が通う長浜高校。いずれにせよ、今は深夜1時。どの観光地も街も、寝静まっている。
     河内さんが、超長距離レースを生き残るための秘密特訓を教えてくれる。「無給水で数十キロ走り、走りながら飲み水なしでハンバーガーを飲み込んで、胃を鍛える」とか、「練習でフルマラソンの距離を無給水で走れたらサブスリーできる」とか無給水ネタが多いです。いつも水不足のロバのようにヒーヒー鳴いては、エイドで腹が膨れるほど水を飲むぼくにはできなさそうな課題だ。
     河内さんが背負っていたリュックの中身を見せてくれる。そこには、半年前、肺がんを患い四十代半ばの若さで亡くなられたランナー・白潟道博さんの「さくら道国際ネイチャーラン」の完走証が入っていた。この完走証は、檜の木板に名前やタイムが刻印され、ずっしり重量のあるもので、その面構えから選手たちには「まな板」と呼ばれている。遺族の方より形見分けとして託されたものだ。
     河内さんの計らいとはいえ、天国にいる白潟さんに、ぼくの徹夜走につき合わせてることになる。どうも夜中に急に呼び出してすみません!
     白潟さんと出会ったのは「川の道フットレース」の400km地点だった。潰れ切って、道ばたで倒れていた僕の横を、白潟さんが通りかかった。それからずいぶん長い距離を、励ましの声をかけてもらいながら併走してくれた。ランナーとして超一級の実力者なのに、ぜんぜん偉ぶったりすることなく、鈍足ランナーに対して同じ目線で接する優しい人だった。
     肺がんに罹ったことがわかっても、それでも白潟さんはスパルタスロンを完走した。ステージ4に進み、他の臓器にまでがんが転移したけれど、あちこちの大会に顔を出しては、ランナーたちを励ましていた。
     何度挑戦してもスパルタスロンを完走できないぼくに、「坂東さんが完走したら、自分の事みたいに嬉しくて、たぶん泣くと思う。だから前半は飛ばさず自重するように」と指導してくれたのに、ぼくはまたスタートから突っ込み、潰れ、リタイアした。申し訳ない。
     愛媛県生まれの白潟さんの名前が刻まれた「まな板」とともに、ぼくたちはキロ9分で伊予灘の道を走り続ける。
     夕方まで大嵐だった空は嘘のように晴れわたり、マメ電球くらい明るい星々が瞬いている。
     「あ、流れ星!見た?」と河内さんが目を輝かせている。こんなロマンチックな夜に、海辺を駆け抜けるわれら中年男子・・・どんなもんなんでしょうか。
     夜がしらじらと明けてきた頃に、八幡浜方面と佐田岬方面への分岐点に着く。ぼくは佐田岬へ、河内さんは始発電車の出る八幡浜へと走りだす。
       □
     四国の西岸から九州に向かって手を伸ばすように、東西50kmにわたって伸びる佐田岬。瀬戸内海と太平洋を隔てる天然の防波堤のような造りをしている。
     伊予灘に面した北岸は「鼻」や「崎」と呼ばれる1kmほどの断崖状に削られた岬が、屏風状に続いている。「鼻」と「鼻」に囲まれた湾には、申しわけ程度の小さな防波堤が築かれ、天然の良港を形成している。階段状の斜面にへばりついた住宅は、人ひとりが通れる小径と急階段に隔てられ、パズルを組み合わせるように土地を分割しあっている。
     一方、南岸は宇和海に面し、北岸同様に切れ落ちた崖ではあるものの、その斜面の多くは柑橘類の畑に開かれている。人力ではとても荷出しできそうにない急斜面に、運搬用のモノレールが張り巡らされている。北岸との海流の違いは歴然で、南の海岸沿いには穏やかな砂浜が広がっている。
     陸地部分の南北の直線距離はおおむね3kmほどで、狭い部分では1km幅ほどしかない。その中央部を標高400m級の山々が連なっている。尾根の中腹を、見晴らしよく貫いているのが「佐田岬メロディーライン」と名づけられた国道197号線。左右いずれかに海岸線を遠望しながら、岬の先端へうねうねと続く。
     佐田岬メロディーラインは、伊方町役場のある伊方港の町並みを眼下にしながら徐々に高度をあげていく。人口約1万人という町の規模には不釣り合いな、高層建築の建物がたくさん見える。原発マネーといわれる電源3法の交付金や固定資産税が、この町を豊かにしているのだろうか。
     道路沿いに民家は皆無だが、その代わりに立派な石碑のモニュメントが点在している。いずれも朝日が気持ちよく射す場所に設けられているので、ところどころで石碑にもたれて居眠りをする。きれいに磨き上げられてる石碑もあれば、草むして人々の記憶から忘れ去られようとしている石碑もある。朽ちかけた石碑に刻まれた人の名。この地に根を張り、農地を開墾し、電気や水道を引くために、オリャオリャと議会を仕切って、中央省庁の狸たちと丁々発止やりあったブルドーザーみたいな人がいたんだろうな。
     われわれの電気使いまくりな上等生活も、この名もなき(いや、石碑があるから庶民よりは有名な人でしょう)オッサン方の艱難辛苦のうえにあるのでしょう。
     おっと、時なる人物の石碑も登場したよ。青色発光ダイオードの発明・開発によりノーベル物理学賞を受賞した中村修二さんのだ。「中村修二博士 生誕の地」とある。ううぬ、今どき「生誕」とはどこぞの教祖さまか、アイドルグループの誕生日のことしか言わんと思うが。いつも舌鋒鋭く、小難しそうな中村さんが、この石碑を見てのけ反り、ニヒルに笑ってOKしたのかなと想像する
     中村修二記念碑の横には、古代遺跡を模した感じの建築デザインの、大げさな展望休憩所があり、夜中にはLEDでブルーにライトアップされるとのこと。だだっ広い駐車場に入ってくる車はまばらで、休憩に立ち寄ったサイクリング客たちは、スマホで撮影する場所を探していたが見つからず、日陰に座りこんでぼっーと遠くを見つめている
     2カ所ある道の駅では、たくさんのファミリー客やカップルが、たいして見学する場所がないのか、所在なさげにジェラートを舐めながら、駐車場をぶらついている。
     九州へのフェリー航路がある三崎港が近づく。バイクのツーリング集団や自転車のロードバイクチームが、続々と追い越していく。いちばん近い街である八幡浜から40kmも離れた場所にある港だ。うらぶれた最果ての地の、海鳥ヒュルルといななく港町でも現れるのかと思えば、実際は若者で溢れかえる賑わしい町だった。
     フェリーやバスの待合所や観光案内所を兼ねたターミナルの建物は、白黒の外壁と天然木の柱や梁が組み合わされた都会的な建築物だ。かたわらの芝生の広場では、九州の高校名をプリントしたジャージ姿の部活チームが、いくつもの輪になってお弁当を食べている。ツアーバスから降りたご婦人方の団体は、休憩所のテラス席をキープしようと、持ち物をイスに置くなど抜かりなさを発揮している。
     三崎港から大分の佐賀関港へはフェリーで片道1時間10分、1時間に1本ペースで、1日に26便も行き来している。ここいらに住んでる人にとっては、九州はご近所そのもの、徳島なんて地の果ても果ての存在なんだろう。
                 □
     人の匂いが溢れているのは三崎港のある町まで。そこから岬の先端まで16km間は、交通量はまばらになり、お店も見かけない。グワングワンとうなりを上げる発電用の風車を見上げながら、つんのめるほどの急坂を下る。海っぺりの山すその狭い土地に家屋が並ぶ三崎漁港の集落に入る。
     小ぶりな入り江に造られた漁港には50艘ほどの漁船が係留されている。製氷倉庫の建物3階分の壁いっぱいに巨大な「岬あじ」と「岬さば」の魚の絵が描かれている。漁協の出荷倉庫の前で、フォークリフトが忙しそうに出入りし、さばいた魚の臓物や血の処理をしている。
     陸揚げさけた漁船の向こうに、6階建てのピンクの建物が見えてくる。どうやらそこが今夜泊まる「民宿大岩」のようだが、民宿のイメージとは掛け離れた派手な建物である。
     夕方4時。7km先の佐田岬まで日の沈まないうちに行けそうだ。とりあえず民宿にチェックインし、荷物を部屋に置き、着ていた物をぜんぶ洗濯機に投げ入れ、最上階の展望風呂で猛烈シャワーを浴びて新しいシャツに着替え、空身になって岬先端に向かう。
     道のぐねり方は一段と激しい。次第に山が開け見通しが良くなり、右側の海へと崖がスパッと切れ落ちている。「先っぽに近づいている」という雰囲気が高まってくる。
     5km進むと車道は観光客用のパーキングで行き止まりとなり、そこから岬の端っこにある灯台までは遊歩道が伸びている。遊歩道入口にはコンクリート造りのモニュメントが立っていて「灯台まで1800mです。がんばりましょう!」と書いてある。
     遊歩道の脇に陣取った物売りのおばあちゃんが、「今から行くん?」と尋ねてきたので「うん」と答えると、「今から行くん?」ともういっかい聞かれる。なんだこのばーさん?と思いながら「うん」と二度目の返事をする。
     前方からは、岬見物を終えた観光客がすずなりで歩いてくるが、心なしか顔色が暗い。下をうつむいたままの夫婦に会話はなく、カップルは口汚く罵りあっている。こんな地の果てまでやってきて、仲たがいするなんて最悪の休日じゃないか。ファミリー客の子供たちは元気に駆け回っているが、パパやママの息づかいは荒い。
     小路をジグザクに標高差80m分ほど下って波打ち際までいったん降り、灯台のある小山の長い階段を登る。ちょっとした低山登山レベルの負荷だ。のんびり岬めぐりのお散歩を楽しみましょ、くらいの気持ちで歩きだしたとしたら、いささかハードな道だ。だから復路の人たちの表情、怒りや悲しみに満ちていたのですね。
     佐田岬灯台からは、九州大分の山並みが手が届くほどの近さに見える。直線距離でおよそ10kmしかないとか。四国を横断するってことは、九州まで走るってことなんだなあ。人間の足って1歩は数十センチに過ぎないのに、繰り返せばどこまでも遠くまでいけるんだよなあ・・・とぼんやり思う。
     夕日は水平線近くまで落ちている。徳島だと海から上がる日の出は見えるけど、夕日が海に沈んでく様子は目にしないよな。あー、何となくありがたやありがたや。
     しかし片道1800mの遊歩道なのに、ずいぶん時間かかってしまった。展望台で素朴な思考にふけっていたら、薄暗くなってきた。物売りのばあちゃんが「今から行くん」と二度聞きした理由がわかった。急がないと日が暮れてしまうと親切に教えてくれてたんだな。煙たがってごめんなさい。  

  • 2016年08月04日バカロードその97 四国の先っぽの先っちょまで
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    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     発作的に、四国でいちばん遠いところまで走りたくなりました。悪い発作です。愛媛県の西方に延びる佐田岬(さだみさき)ってとこ。

     その形を地図で眺めてるだけで、自然の妙というか神秘というか、なんでこんな地形になったんだろと想像を巡らせわくわくする。伊予灘と宇和海を隔てるように延びる東西50kmの陸地は、タツノオトシゴのような背びれ、尾びれをまとい、ぐにょぐにょと海を切り裂く。陸地の南北間は、狭い所では1kmにも満たない。標高300mから400mの山岳の連なりが岬の背骨をなす。幅1kmに300mの山って、比率的にすごいな。この細ながーい岬の先っぽの先っちょまで、足でいける限界の所までいってみよう。
     世界がインターネットでどれほど縮まろうと、グーグル・ストリートビューをなぞれば、一日中部屋にこもっていても、どんな道の風景も知った気になれるけど、実際んところ、何十年も住んでる島(四国)の反対側ですら、自分の足でお出かけしたことないのである。世界は広く、四国もまた広いのである。
     吉野川河口からスタートすると距離はちょうど300km。いちおう四国東岸から西岸までの横断っていうおまけをつける。ほんとの四国最東端は阿南の蒲生田岬灯台だから、そっから始めた方がいいんだけどね。誰かにわざわざ蒲生田岬まで車で送ってもらうの気の毒やし。
     GWのまっただ中、急きょ思い立った割に、ほぼ中間地点(140km)にあたる愛媛県西条市駅前のホテルに1室空きを見つけ。そして、ゴールの佐田岬先端から7km手前の、最後の漁港らしき集落にある民宿も予約できた。こちらも最後の1室だった。
            □
     初日。昼3時に吉野川河口をスタート。道は成りゆきまかせ。
     交通量の多い徳鴨線を鴨島のドン突きまで進み、吉野川の堤防道路にあがると、歩行者専用道路みたいなもんで快適。川島城の横を過ぎる頃には、山辺に落ちる夕陽が、吉野川に架かる潜水橋をシルエットにする。そのうち堤防道路は国道192号と合流する。ここから愛媛県まで一本道だから迷う余地なし。
     国道192号線は、旧市町村の街々が10km足らずの間隔で現れるので、夜でもさみしい思いをしなくてよい。川島から山川まで8km、穴吹まで7km、貞光まで11km、半田まで3km、三加茂まで9km、井川まで6km   池田まで7km・・・といった具合。
     日はとっぷり暮れ、おごそかにライトアップされた山川の斜張橋・岩津橋を越すと、歩道がなくなる。路側帯は1人幅くらいと狭い。民家まばらなこの辺りで、夜中にヘッドランプ揺らせてうろついてる人いないよね。対面する大型トラックの運ちゃんたちは大きくハンドルを切って、道幅半分くらいの間隔をあけて通り過ぎる。時おり、ハザードを点滅させて合図してくれる車もいる。ありがとう優しきトラック野郎一番星たち。
     貞光の入口あたりにある「めん処かねか」の駐車場に、うどんの自販機が煌々と輝いている。店の営業時間外だけ稼働しているらしい。全国的にも希少価値の高いレア自販機だ。ところが、うっかりして手前の街のコンビニでカップ麺を食ってしまった、後悔である。今度走るときは、ぜったいここで食べるぞと堅く心に誓う。
     深夜12時を過ぎると、ちょいと眠くなってきたので、JR辻駅の駅舎にある木製のベンチで仮眠を試みるが、ギンギンに蛍光灯が点いていて、虫が顔にたかるので、たまらず離脱。しばらく進むと、道沿いの24時間コインランドリーに、絨毯敷きの座敷スペースがあり、5分だけ横にならせてもらいました。
     深夜3時、80km走ってJR阿波池田駅前の商店街に着く。12時間もかかっとります。ダラダラしすぎです。
     池田ダム湖に架かる橋をわたると、道路と並行する渓流のせせらぎが谷あいに響く。坂を登り切ると、ゆるやかに蛇行する河岸が広く開け、馬路、佐野という順で集落がつづく。
     愛媛との県境ラインが中央を通る境目トンネルは標高300m。愛媛県側にトンネルを抜けると、すっかり夜が明けました。
     夜明けとともに、白装束の巡礼客が前からたくさん歩いてくる。10分に1人くらいの頻度。なかなかの密度です。
     けっこうな若い女性が歩いています。いわゆるお遍路ガールってやつだな。歩きスマホ率が高いね。
     狭い歩道を無言ですれ違うのはどうかなと、「おっはよーございやぁす!」と元気に声をかけると、編み笠を斜め下に向け、無視されてしまう。
     ぬほっ、テンション高すぎて引かれたか。次にやってきた遍路ガールに対しては、自分の中で高感度マックスに引き上げた作り笑顔とともに「おはようごさいます」と自然な挨拶を。するとまた目をそらされ、わが存在を無き者とされた。
     おいおい、オレはオメーら遍路女子をどうこうしようってヨコシマ抱いてるわけじゃねえんだ。ただの朝の挨拶だよ。朝、道で会ったら挨拶しましょうってのは、田舎生まれなら小学生から仕込まれる社会生活の基本なんだ。旅の者どうし、一瞬の心の交流を温めあってもいいじゃねえか。
     その後も、二十代・三十代とおぼしき若い巡礼者に、立て続けにシカトされる。 どうした? 順打ちなら遍路も終盤だよな。皆さん人間不信にでも陥ってるのか? あるいは、朝っぱらからくそ寒い峠道を短パンで走ってる僕は、なにか異常を抱えている人に見えるのか。
     ヤング遍路に比べて、五十代以上のご年配のお遍路さんの愛想のいいこと。挨拶では済まされません。「よい話し相手が来たな」とばかりに捕まってしまいます。
     東から西へ向かうのは、札所を逆順で回る「逆打ち」の進路なので、追い越しざまに逆打ちの方々と話が弾みます。うるう年に逆打ちすると、順打ちの3倍ご利益があるとか。逆打ちは順路を示す看板が乏しく、しょっちゅう道に迷って難易度が高いとか。
     逆打ちの皆さんは、すでに四国遍路を3度、4度とこなしているベテランが多く、先々の道中の情報に長けている。野宿に適したバス停の場所や、お接待の果物やコーヒーが置かれた遍路小屋を教えてくれる。また、家族のことや病のことなど思わぬ打ち明け話もあった。皆、それぞれの想いをもって、四国の山中をさまよっているのです。
     人生の諸先輩方のお話を聞いてるうちに、四国八十八カ所を一気に走って旅したくなってきた。朱印をもらえる納経所が朝7時開きで、夕方5時に閉まってしまうのは難題だけど。行動できるの10時間チョイしかないから、あとの14時間近くは蚊に食われながら野宿かぁ。
             □
     長い坂を下りきったあたりが四国中央市、製紙会社の煙突がニョキニョキと天を衝いています。ちょうど出発から100kmあたりかな。山道は一転、高速道路みたいに整備されたバイパス道に変わります。歩道は立派で走りやすいけど、景色は単調、交差する道路が多くて赤信号で頻繁に足止めをくらって面倒くさい。
     今まですれ違ったお遍路さんたちはどこを歩いてきたのだろう、と観察すると、国道11号線の一本奥を通る「讃岐街道」という旧街道をメインルートとしている模様だ。
     旧街道は、車2台がぎりぎり対向できるセンターラインのない狭い道。だけど、道の片側に広めの路側帯がとられている。道の両側には、古くから続く金物屋や食料品店、昭和40年代の香りがするトタン壁の住宅が並ぶ。
     庭いじりしている老人も、洗濯物を取り込むオバチャンも、別段こちらを気にするそぶりはない。毎日、何十何百人とお遍路さんが歩く道である。街の住人ではない余所者でも、存在感のない空気みたいな存在として景色に馴染んでいるのだろう。
     ただし下校途中の小学生の女の子たちには、この街を荷物しょって走ってる人物が珍しいようだ。ぼくの存在をちらちらと視界に納めながら、5人の女子児童が前後を小走りに駆ける。
     後ろをついてくるのは良いとして、前を走られると、構図としては女子児童を追いかけ回す変態オヤジそのものではないでしょうか。近所の人に通報されまいかと、視線をキョロキョロさせ、よけいに挙動不審者となる。
     JR伊予西条駅が近づくと、田園(小麦畑?)を貫く小川や用水路の水の流れがドウドウと速い。そして、市街地を流れる川とは思えないほど透明である。水底に揺れる背丈のある藻が、環境映像のようにさらさら揺れる。街角のそこかしこから、地下水がシューシューと噴き出している。南方を見渡せば、仙人が隠れていそうな雲の奥に、標高1900m級の連山が、わずか10kmの距離を隔ててそびえ立っている。石鎚山系に降った雨が、急傾斜の山肌を駆け下り、あるいは伏流水となり、平野となったこの地で地上へと溢れているのだ。
     吉野川河口から140km、ちょうど24時間で西条駅前に到着する。宿泊する「エクストールイン西条駅前」は、真新しい大浴場と、品数の多い朝食バイキングつきで5000円。洗濯代、乾燥機代、洗剤まですべて無料なのは走り旅にはありがたいサービスです。
     ホテルに大休憩に入る旨を、尊敬するレジェンドランナーにメールで報告すると、「300kmくらいノンストップで走りなさい。練習にならないでしょ」と怒られる。なんか無理なんすよー。どこかでいっかい洗濯しないと気持ち悪くてねえ。汗や泥でドロドロの服や靴を、3日つづけて着てられるほど野獣系じゃないのです。
     よっしゃ、ふかふかベッドで寝るどー。自分にムチ打ち目覚ましを早朝2時30分にセットする。宿泊はするが、あくまで仮眠である・・・との精神的な逃げ道(言いわけ)を用意する。
     コンビニで調達したクラッシュ氷の大袋をバスタオルで巻いて、両足をアイシングしたまま布団にもぐりこむと一瞬で落ちた。
     朝2時30分、アラームに起こされたが、外は真っ暗だし、羽毛布団はぬくぬくだし、足は筋肉痛だし、5000円払って仮眠ってのはもったいないし・・・と軽やかに出発を断念し、二度寝に入る。朝ご飯の時間にのろのろ起きだし、バイキング用のお皿に山盛りで3回転ほど食べ、さらにカレーライス大盛りで締める。
     ということで普通の観光客と並んで朝8時にチェックアウト。ま、明日の日没までに160km先の佐田岬まで走ればいいんだし。
     西条市から松山市方面へは峠道「桜三里」を越えていく。さっそく朝イチの登りにさしかかると、遠く前方に旅人らしき後ろ姿が見える。走っているのだろうか、なかなか距離が縮まらない。巨大なザックを背負い、明らかに歩いているのに、こちらの走っているペースとそう変わらない。
     時間をかけてやっと追いつく。ぼくの足音に気づき振り返ったその人は、外国人の女性であった。「歩くのなんでそんな早いの?」と話しかけてみる。彼女は、オーストラリアのパースに住んでいて、今は遍路の寺院はじめ四国のあっちこっちを適当に訪ね歩いているとか。行き着いた街で寝るので、野宿をすることもあるが、安くて快適な宿がいっぱい載ってるガイドブックを持ってるので苦労はしてないわ、とのこと。世界中を歩き回ってるらしく、アメリカ合衆国東部のアパラチア山脈に延びる自然道、アパラチアン・トレイル3500kmを踏破したという。そりゃ健脚なわけです。
     「ぼくはいつか走ってオーストラリア横断するよ」と伝えると、「自転車で横断してる人はたくさんいるけど、走ってきた人は知らないわ。途中ほとんど砂漠だから死なないで。もしパースに着いたら私が全部世話をしてあげる」。
     うふふ、四国の山の中にも、すてきな出会いがございますこと。
             □
     左右を峰々で切り取られた狭い空を、どよどよと薄暗い雲が猛スピードで移動している。
     正午を境に突風が吹きはじめる。森の木々が、弦を伸ばしきった弓幹のように激しくしなっている。谷間を抜ける風が舞い上げた枯れ葉や小枝、小さい砂つぶてが、背中からバチバチと叩きつけられる。追い風のおかげて、蹴り足を強く空中に身体を浮かせば、30cmはストライドが伸びる。力を使わずスピードが出て、楽ちんに峠を登れて喜ばしい。
     標高310mの桜三里のてっぺん付近に、屋根のない路線バスの停留所がある。そこに1人の男性が立っている。風圧に抗うように黒い傘をさしている。上下とも黒革をまとい、豹柄シャツが覗く。肩まで伸びるほどの長髪が、荒々しくたなびく。その居住まい、ツイストの鮫島秀樹か、ヴァン・ヘイレンのエドワードか。
     人の気配のない山中で、嵐吹きすさぶ中、ハードロックの王道たるファッションで、マイカーを使わず路線バスを待つ人。ただ者ではない。
     彼は、バスの来る方向から視線を移し、興味津々のまなざしをこっちに向ける。ハードロッカーの瞳は、生き生きとしている。こちらは、舞い上がる枯れ草を衝いて短パンで峠を駆け上がってきた男だ。きっと気になるのだろう。二人で目を見つめ合いながら、互いの生きざまを確かめ合う。会釈もなく、無言でバス停を通り過ぎ、100mほど走って振り返ると、鮫島秀樹の眼は真っ直ぐこちらに向かっていて、「戦えよ」と告げているようだった。アディオス、鮫島! 君が路線バスで向かう今夜のライブ、きっと伝説となるぜ!
     峠の向こう側の街、東温市まで急坂を下る。重信川の河畔道路を追い風に身を任せてぼーっと走っていたら、ふと視界の隅に異物が入る。
     今から着地しようとしている足の真下に存在する黒い岩。いや、これは岩石ではない。岩にしては滑らかな半球を描きすぎている。岩じゃなくて、生き物だぞ! 0.1秒の間にこれだけの観察と判断を瞬時に行い、踏みつけるすんでの所で交わした。しかし空中で無理に横移動させた足の着地に失敗。グキーと足首をひねってしまった。いててー、怪我したぞー。
     落ち着いて地面を見れば、路側帯の真ん中に横たわっているのは、直径30センチほどの亀の甲羅である。死体かとのぞき込んでみると、もぞもぞと動いている。コンニャロ、テメーのせいで足くじいたぞ。いや、泥亀のせいではない。ジャーニーランナーの基本である、下をうつむいて走ることをサボッていた自分のせいだ。路面には穴ボコや突起物、動物の死骸、いろんなアクシデントの種が潜んでいる。半覚醒状態で走り続けるジャーニーランにおいては、一瞬の不注意で骨折、筋断裂を負うことは珍しくない。だから、路面から視線を外してはならないのだ。この捻挫は、クサ亀さんからの警鐘と前向きに受け取るべきであろう。さあ、嵐を衝いて、下をうつむきながら陰気に走るぞ!(つづく)
     
  • 2016年06月09日バカロードその96 今さらまさかのサブスリーへの道?
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
     
     何なんだ?
     古い知り合いが、いっせいにサブスリーを目指しはじめた。
     いったい何が起こったのさ。
     ちょっとそこでゼーハー口呼吸してるお兄さん、あなた去年まで「楽しく走れたら、それでいいじゃない」と言ってたよ。
     おい、ウルトラマラソンにしか興味のなかった五十路のお方。どしてガーミンの心拍計つきGPS買ったり、モモ上げなんかはじめたんだよ。
     
     大会前になるとダイソーでコスプレ衣装あさってたオッサン! なんでミズノのショート丈パンツ履いてるんだー?
     今までの自己記録が3時間03分とか10分切ってる人が目指すのはわかるよ。
     あんたらの自己ベスト知ってるぞ。サブ3・5を達成して涙をぬぐいながらガッツポーズやってたでしょ。わかってると思うけど、キロ4分58秒とキロ4分15秒じゃ、観光牧場でポニーに乗馬してポコポコ散歩してるのと、競馬場でサラブレッド乗りこなしてるくらい違うんだよ。
     ふつうサブスリーに到達する人ってさあ、学生時代に運動をちょこちょこやってた三十歳男子が、腹周りなど気になりだしてジョギングを再開。そのうち闘争本能に火が着いて三十代後半でサブスリーってのが定番でしょう。人間の能力には盛りってもんがあるはずです。
     でもあなたたち既に四十、五十で人生の折り返しコーンをぐるっと回った後でしょう?
     NHKの「ランスマ」で金哲彦さんが「五十歳でサブスリー」を成し遂げたからですか。彼に自分を投影したらだめでしょ、金さんは箱根五区で区間賞をとった早稲田のエース級です。
     それとも俳優で自転車乗りの鶴見辰吾さんが「五十一歳でサブスリー」を目指して、横浜マラソンで入りの10km39分という勇猛な玉砕を遂げたからでしょうか(結果は3時間09分27秒)。これまた鶴見さんと自分を同列に扱ってはなりません。鶴見辰吾といえば、金八先生で杉田かおるを妊娠させた宮沢タモツ君であり、翔んだカップルで薬師丸ひろ子の彼氏だった人であります。そんな青年スターをテレビの前でぼーっと眺めてた坊主頭+趣味はカブト虫の幼虫掘り+オヤツはぼうぜ寿司のぼくたちとは、生きてきた世界が違うんだから。 
     しかし気にしはじめると、書籍も続々と出始めてるナー。
     
      「3時間切り請負人」が教える!
     マラソン目標タイム必達の極意
      /福澤 潔著 SBクリエイティブ刊
     マラソンはゆっくり走れば3時間を切れる!
     49歳のおじさん、2度目のマラソンで2時間58分38秒
      田中猛雄著 SBクリエイティブ刊 
     マラソンは3つのステップで3時間を切れる!
     運動経験のない50歳のおじさんがたった半年で2時間59分
      白方健一著 SBクリエイティブ刊 
     走れ!マンガ家 ひぃこらサブスリー
     運動オンチで85kg 52歳フルマラソン挑戦記!
      みやすのんき著 実業之日本社刊
     
     何この列島挙げての「年とってもサブスリーはめざせますよ」的なグイグイ押してくる感じ。
     年寄りの冷や水だろ、勝手にしやがれとハスに構えながらも、なんとなく情けない気持ちになるのはなぜであろうか。
     サブスリーなんて、元々心拍数が遅くて、体重が58kg以下で、関節の可動域が広く、乳酸のできにくい特殊体質な方々のお話だと思っていたのに、身近な人たちが「俺も、俺も」とダチョウ倶楽部のように皆が手をあげはじめると、自分だけが挑戦もしないうちに無理だと諦めている事が格好悪く感じられ、「ぼ、ぼくも」と恐る恐る挙手せざるをえなくなる。
     フルマラソン8年間で42本、自己ベスト3時間24分04秒。だがコレ出したのは5年も前。以来5年間、19レースに出て3時間30分を切ったことは1度もなく、タイムは限りなく4時間に近づきつつある。いやサブフォーできないときだってある。要するにピークを過ぎて坂を下る一方の中高年。
     それに、今さらサブスリーを目指す理由もこれといってない。歳とってからサブスリー目指す人って、他人に感化されて始めるもんじゃない気がする。それこそ、わが子にパパの挑戦する姿を見せたいだとか、病床にいる大切な人のためにとか、自らの大病を克服する証としてとか。そういう物語性のあるエピソード、自分にはない。
     まあいいか、成りゆきでも。ウルトラマラソンに出たのだってテレビ番組の「ごきブラ」で、大平サブロー師匠がサロマ湖でリタイアした場面を見て、もらい泣きしたからだった。
     そんな矢先にジャーニーラン仲間からメールが届く。
     「別府大分に出ました。脚の怪我が思わしくなく、3時間05分で終わってしまいました」
     えっ、あなたキロ10分ペースで買い食いしながら走る人じゃなかったっけ。怪我して3時間05分なんですか、齢65歳で・・・。     
            □
     というわけで、まず練習に入る前に、サブスリーを達成するには何をしないといけないのかを調査してみた。
     まず、フルマラソンで3時間を切るためには、ハーフマラソンで1時間26分以内の走力が必要である。後半タレない持久力タイプの人でも、最低1時間28分以内でなければならない。
     ハーフでこのタイムを出すには、10kmなら38分30秒以内、5000mなら18分以内でありたい。
     ・・・ということらしい。
     これら数字の並びを見ただけで意識が遠のいていくわけだが、このたびは「無理を承知で目指す」という主旨ゆえに、続けたい。
     とりあえず5000mで18分30秒を出すには、1000mのインターバルを3分35秒×5本(つなぎ200m)ができればよい、とサブスリー先輩に教えてもらった。
     なるほど。ではやってみよう。そして、1000mを3分35秒で走ったところ、1本で心臓爆発して破裂死しそうになりました。こりゃ2本以上やったら生き倒れになってしまう。
     でも、諦めませんからね。インターバル何本目かで白目をむこうが泡を噴こうが、今のところわたくしには失うものは何もありません。
     練習方法を週単位でガラリと変えました。
     タイムの良いエリートな方々が「週末はポイント練習」とか言い合っているのを、かつては何じゃそれ?と思って聞いていましたが、その憧れと嫉妬の入り混じった「ポイント練習」を自分もすることにしました。
     今までの練習といえば、ほぼ毎日が10kmのタイムトライアル。ここで言うタイムトライアルとは、いわゆる極限まで追い込むTTではなくて、その日の精いっぱいの体力と気分で走るTTのことです。具体的には10kmを47分、46分、45分・・・と毎日縮めていき、44分くらいで走った翌日からは疲労困憊でジョクしかできなくなる。疲労が抜けるとまたタイムトライアル、の繰り返し。メリハリもクソもありません。
     サブスリーを目指してからは、ポイント練習は週2回か1回。水曜日と土曜・日曜のどっちかの日です。
     ポイント練習日にやることは3パターン。
     10kmのタイムトライアル。
     5000mのタイムトライアル。
     1000m3分35秒~50秒設定で何本までいけるか。
     今のところ10kmは41分28秒(ハハハ、笑止千万だね)。
     5000mは20分20秒(うんこちゃんだよ)。
     1000mは3分50秒で3本しかいけない(野犬に追い抜かれる)。
     しかし速く走ってみないとわからないってことがありますね。キロ4分でも苦しくない走り方って、なんとなくある気がしてきました。
     イメージ的には、股間の下で脚をバタバタ動かすのではなくて、背骨から脚が生えてるような気持ちで、ゆったりと大きく動かします。するとお腹が引っ込んで、腹筋と背筋を使って太腿を持ち上げる印象がしてきます。お腹の奥にだけ力をこめて、それ以外のパーツには力を込めないように、ダラッと脱力します。ストライドはあまり広げようと頑張らず、胴体の真下に着地して、前方にだけ推進力が向かうように、左右にブレないように気をつけます。着地したら、地面に足の裏を長々とつけないように、チャカチャカ回します。このへんは自転車のロードバイクのペダル回しに似ている気がします。足さばきは、あまり深く考えないように。後ろ足を跳ね上げて、小さくたたんで、前に振り下ろして・・・という風に神経質に考えだすと、うまく走れなくなります。
     ははは、これだけ語っておきながら、速くは走れない自分が情けないす。
             □
     2月上旬・愛媛マラソンに出場。
     とにかく一歩一歩だ。まずは5年以上遠ざかっているサブ3・5を確実にマークするのだ。サブ3・5で「別府大分毎日マラソン」の出場権が得られる。初のサブスリーは2017年2月の別大マラソンで達成するのである、と決めたのである。結末を決めないと、追い込み練習の苦しさから逃げてしまうからだ。到達点はなるべく派手で、後戻りできない場所がいい。
     20km、30kmといった長距離練習を排除し、最長10kmの全力走しかやってない自分に、42kmを最後まで4分58秒でキープできる能力が備わってるのかどうか、想像もできない。
     サブスリーを目指していながら、3時間半すらクリアする自信のないぼくは、ぬぐい去りがたき曇天な気分に陥っていたが、レース1週間前に「ペースメーカーについていってみてはどうか!」とひらめいた瞬間から、雲の隙間に日射しがさしたみたいに、陽気で痛快ウキウキ気分になってきた。深津絵里とつきあってた頃の小沢健二ウキウキモードです。
     自助努力ではなく他人と集団の力を借りて、確実にタイムを出そうという妙案に鼓動が高鳴った。
     ところが大会当日、1万人ものランナーが密集するスタートブロックで、頭をぐるぐる回転してみても、3時間30分のビブスを着けたペースメーカーがどこにも見あたらない。ああ困った、いきなり想定が崩れたよ。
     アタフタしてる間に号砲が鳴り、なんとなく嫌々スタートを切る。他人にすべてを委ねる、という確固たる意思を持っていたのに、その頑強な思いのやり場に困り、糸の切れた凧状態でふわふわ走りだす。
     7kmほどキロ4分50秒くらいでもって重い身体で走ってると、前の方に50人、いや百人以上の人の塊が見えてきた。もしや、これは!そうですサブ3・5狙い集団であります。それにしても集団がデカい。「愛媛マラソン」は、男子は3時間30分、女子4時間を切ると「アスリート・エントリー」という優遇枠にあてはまり、翌年は抽選なしでエントリーできるため、このタイムを目標にしてる人が多いのである。3時間30分でアスリートと呼ばれる気恥ずかしさは、この際気にせんとこう。
     「さあ、いよいよついていくぞ! 俺さまはコバンザメだ、寄生虫だ、ウイルスだ。この大集団を風よけに、一切のタイム計算を他人まかせにし、自分の意思なく、ただついていくのだ!」と固く心に誓う。
     まぶたを落として薄目にし、下界からの情報を遮断する。何も考えないようにし、脳で消費する糖分を省エネモードにする。
     大集団の後方に位置し、先導者たちのペースの上げ下げの影響を受けないようにする。
     こちら、ダテにマラソン中継の録画を点けっぱなしで寝ては睡眠学習の教材にし、百冊あまりのノウハウ本をトイレにこもって読んでいるわけではないのである。走力はイマイチでも、勝利への近道は頭に叩き込んでいるのだ。
     10キロ過ぎの給水所、ぬかりなく集団の左側にポジションを移動。よし給水だ! しかし・・・
     「あれ、あれ、あれえ~」「前の人にコップぜんぶ取られる~」
     そうなのだ。あまりに集団の人数が多いために、集団後方にいると、給水テーブルのコップが短時間のうちに一気になくなってしまうのである。
     勝つためのノウハウ、さっそく敗れたり!である。
     仕方ない。これは集団の前に場所を移動するしかないだろう。
     まだまだ足に余裕があるのでペースをあげ、百人もの集団の先頭に立つ。
     おおっ、何か自分がこの集団を率いているみたいだぞ。
     先ほどまでの「思考を停止する」作戦が一転、やたらとハイテンションに物を考えだした。
     20キロ。キロ4分50秒ペースで余裕を感じてるうちは集団の王たるふるまいを演じていたが、このペースがキツく感じられだす。後方にいる大集団がバタバタバタとたてる激しい足音の洪水が、ぼくを飲み込もうとしている。
     集団はペースが速くなったり、遅くなったりを繰り返している。たぶん給水のたびに、ペースメーカー氏がスピードをゆるめてくれているのだろう。エイドを通過するたびに「距離が開いたな」と安心していると、バタバタタタと帳尻をあわせるように追いついてくる。
     実力不足の逃げ馬のような追いつめられた精神状態に、耐えつづけられなくなった。
     せめて足音の聴こえない所まで逃げるのだ。逃げろー。
     無我夢中で足を回転させる。機を同じくして、五十代風情でややメタボ気味のおじさんランナーが、右横からスパートをかけてきた。「ええっ、こんな太くて、ふくらはぎがタプタプしている人に抜かれるのか! それはないだろっ」と、こちらも速度を上げて抜き返す。見たかコラと得意になっていると、500メートルも進まないうちに先ほどのぜい肉男子が前に出る。
     「もしやこの人、ぼくを意識してない?」「いや、ぜったいしてる」「だって、抜いたあと走路を変えて、ぼくの前を出るんだもの」
     時ならぬライバルの登場に、サブ3・5を純粋無垢に目指す青年ランナーの心根は消え失せた。今ここにあるのはドロドロと燃えたぎる闘争心だけだ。「このくそオヤジー!」と心で叫びながら追い越せば、また逆転される。もはや五輪最終予選会を争うトップランナー2名の様相です。周囲のペースよりいささか速いため(心で感じているほど実際は速くありません)、前を行く選手をどんどん千切っていく。
     燃えたぎる2人の闘争心が、周囲のランナーに火を着けたのか、抜かしたランナーが背後に着いてくる。時ならぬミニ集団ができあがっている。振り返って顔ぶれを見渡すと・・・中年ばかりだ!
     このデッドヒートは30km手前で決着がつきました。ぼくが4分30秒までペースアップすると、メタボおじさんは力尽き、遠く後方へと下がっていったのであります。アディオスおじさん。ひと言も交わさなかったけど、あなたとの戦い、いつまでも忘れはしない。五輪メインスタンドのポールには、ぼくが日の丸を掲げてみせます!
     もともとのレース計画は、30kmまではペースメーカーをストーキングして、30kmの計測ラインが遠くに見えてきたら、そこをスタートラインと思いこむ・・・という腹づもりであった。ライバルの出現で、ストーリーはまったく変わってしまったが、おかけで30km通過が2時間26分と、サブ3・5のイーブンペースより3分も貯金ができた。
     30kmの計測機が「ピッ」とチップの認識音を鳴らす。
     よっしゃこれがスタートの号砲だ。12・195kmのレースのはじまりだ。
     全力疾走。周りの風景なんて、何も目に映らない。目線の先2メートルのぼうっとした世界。
     広いバイパス道路のアスファルトの表面が、太陽の光を乱反射して白く輝いている。
     35km。あの土佐礼子さんが松山大学の学生だった頃、練習コースにしていたというキツい登り坂だ。ここでキロ4分台をカバーするよう猛烈に手足を動かす。なぜだかわからないが「この坂をちゃんと登り切ったら、今日は合格。たとえ3時間半を切っても、この坂に負けたら不合格」との思いが湧きだし、ヒーヒー息を吐き、ケイレン寸前まで太腿を地面に叩きつける。
     40km。スロージョグで疲労抜き練習の日だって、ラスト2kmは全力疾走してきたのだ。毎日やってきたことを、今こそ出そう。
     4分30秒台まであげて、ちゃんとラストスパートできた。タイムは3時間25分21秒。よっしゃ別大マラソン出場権とった!(注釈あり) 少なくともサブスリーへの挑戦権は手にしたってことでいいかなっ!
     マラソン人口のうちわずか2.6%に許された狭き門であるサブスリー。だけど挑む権利は全員にある。ちょっくら1年かけてやってみたいと思います。
     
     
    (注釈)2017年より出場資格が変更される可能性があるとのこと。現在未定です。
  • 2016年06月09日バカロードその95 もしぼくが陸連の偉い人になったら
     文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
     
     陸上競技場に陸上競技を観にいったことがありますか?という唐突な質問からはじめよう。
     ナニ、あるって? あなたはオタクの類です。ふつうは観にいきませんよ。
     国内最高レベルの選手が集結する「日本選手権」、実業団選手のナンバーワンを決める「実業団選手権」ですら観客席はガラガラなんである。一見メインスタンドの客席は半分くらい埋まってるようだけど、飛び交う声援を聞いてると、客の多くが選手の知り合いだとわかる。
     日本選手権なんて入場料たったの1500円で、メインスタンドの最前列で見放題だよ! 実業団のエースと、箱根駅伝のスターと、早熟の天才高校生が、同じステージでガチンコ勝負してんだよ。野球に例えるなら、甲子園や神宮の優勝投手が、プロの4番打者を並べた打線に真っ向勝負するような夢の対決をやりまくってんだ。
     なのに、何万人も収容できるスタジアムはガッラガラ。
     もったいないねぇ。トラックを駆ける福士加代子、言葉で説明するのをためらわせるほどの美しさですよ。ケニアやタンザニアのサバンナで野生動物が疾走する姿を目にして、理屈抜きで心が揺さぶられる感じと同じです。そこでは「しなやかな」とか「宙を駆けるように」とか、どんな言葉を当てはめようとしても陳腐になります。走るために生まれてきたとしか思えない。そうであるがゆえに、逆にモロさまで感じさせる。誰にも理解されない世界で(つまり自分より速い人が誰もいないという意味で)先頭を走り続ける孤独さ、切なさ。
     今は米国オレゴンでワールドクラスの練習を積む大迫傑がまだ早稲田の学生だった頃、2012年日本選手権の10000m決勝で、佐藤悠基にラストの直線で交わされ五輪出場を逃し、トラックに這いつくばって地面を拳で殴りつけ、絶叫した声は、今でも耳の奥にこびりついている。
     これはユーチューブやテレビ中継では感じとれない。
     どんなスポーツであれ、プロ競技者を生で観れば、そのスピード感に圧倒されるものだ。そして、選手の感情を伝える息づかいや表情が、競技場という同じ空気の塊の中に存在していることに夢見心地となる。むろん球技も格闘技も、生観戦は至高の時だが、陸上競技の「速く走る」「高く、遠くに跳ぶ」「遠くに投げる」といった原始的な欲求から生まれる躍動は、テレビ画面を通すよりも、生で観ることが価値をもつ。
     一般道を使う駅伝やフルマラソンの大会では、沿道からトップランナーを観戦することはできる。だけどキロ3分ペースで走ってくる選手を、人垣かきわけ目にできるのは一瞬。100mを18秒ペースだから、視界に入るのが10m幅だとして、通過タイムは1.8秒。まばたきしてる間に通り過ぎてしまう。ましてや集団できたら、誰が誰なんだかわからないうちにドドドッだ。
     陸上競技は、レースのはじまりから結末まで、そのすべてを目撃できる陸上競技場で観るのがイチバンなのだ。
          □
     さて、長年の疑問なのであるが、市民ランナーやジョガーは国内に2450万人もいるそうなのだが、プロ(実業団)の競技観戦を楽しみにしている人に会ったことがない。
     不思議な現象である。草野球をやってる人は、絶対にプロ野球やメジャーリーグの試合を観てるし、社会人サッカーの選手は、Jリーグや欧州リーグのテレビ観戦は欠かさないだろう。
     草野球プレーヤーにとって、一日の仕事を終えて自宅に帰り、発泡酒のプルリングをプシュッと開けて、好きなプロ野球チームの試合や、ダルビッシュやイチローの登場シーンを観ることは、日々のくらしのなかで最も幸せな時間帯のひとつではないかと思う。
     ゴルフもテニスもバスケもバレーもラグビーも卓球も、すべからくアマチュアプレーヤーはプロに憧れ、自分の実力をよくわきまえながらも、そのスポーツジャンルのトップクラスに在る選手の一挙手一投足が気になるものだ。技術のヒントが欲しいし、試合後の発言には耳をそばだてたい。ライバルとの物語の行く末を知りたいし、怪物と呼ばれる選手の逸話が好き。一流選手が身につけているウエアやギアは、市販されていて手の届く価格なら、わが物にしたい。
     ファンというのは、そういうものだ。
     ところが他のスポーツでは普遍的な、アマチュアプレーヤーがプロ選手の動向や試合を気にするという態度が、アマチュア陸上界にはない。
     川内優輝、高橋尚子、野口みずきら人気選手はいるけど、彼らはジャンルを超えた国民的タレントであり、マラソンに興味のない人にだって知られた存在だ。
     市民ランナーのうちどれ程の人が、プレス工業を辞めて1人で走ってる梶原有高選手の行く末を心配しているだろう。ダイハツの吉本ひかり選手の復活を信じ、宮田佳菜代選手の所属するユタカ技研の部員が大量離脱したことを気にしている人はマレだ。日体大記録会の1日70本以上あるリザルトを丹念に読み込み、ゲーレン・ラップやウィルソン・キプサングのレース速報に心踊らせているジョガーは少ない。
     なぜアマチュアランナーは、プロの試合に興味を持たないのだろう。箱根駅伝の中継は視聴率30%近くを稼ぎ、マラソンの五輪選考会は大騒動を巻き起こして注目されるのに、そこへ至る重要な過程であるトラックレースは、見向きもされない。
     箱根駅伝中継の合間に流れる選手の絆ドキュメントには涙腺をゆるめただろうに、その後の彼らの人生には興味を示さない。なぜなんだろうか。
           □
     似たような状況に置かれてるスポーツはある。要するに、特定の試合・・・五輪予選や本戦などビッグマッチだけが注目され、ふだんの試合会場は閑古鳥が鳴いているようなジャンルだ。なでしこリーグは試合の半分が観客数1000人を切っているし、年末年始ならドームが満杯になる総合格闘技やプロレス興行は、地方都市だとタダ券ばらまきと選手の手売りチケット以外は売れない。遡れば、Jリーグ前身の日本サッカーリーグだって観客席ガラガラの試合、よくありました。
     その状況から脱したスポーツと、変わらず低迷しているスポーツの差はなんだろう。もったいぶって言うほどのことではない。たった1人の有能なプロデューサーの登場が、劇的にジャンルを動かすのである。
     ドスのきいた掛け声が飛ぶ男臭い空手の大会を、最高のショービジネス「K1」に変えた元正道会館の石井和義氏。サッカースタジアムの客席に、若い女性や子供、地域住民を導いたJリーグの川淵三郎氏。コンプレックスの塊だった一人のアゴの長い若者に世界最強と名乗らせ、金曜夜8時の視聴率を独占した元新日本プロレスの新間寿氏。
     競技全体をプロデュースできる手腕に長けたプロの商売人が1人現れたら、閑古鳥舞う客席は熱狂が取って代わるのだ。
     この役回りには、そのジャンルで現役時代にトップを張った人や、競技の指導者として実績を上げた人は向かない。組織をマネジメントしたり流行を創りあげたりする能力は、自分の身体をコントロールする能力や他者の才能を伸ばすコーチング力とは別物だからだ。
     ジャニー喜多川氏や秋元康氏がアイドル出身である必要はない。歌手出身じゃないから、ステージ上からではなく、客席側から商品のアイデアが生まれる。 観客の目線で商品価値を見定め、観客が何を欲しているかを考える。
     日の目を見ない良質なコンテンツや優良なキャラクターを世間に浸透させ、爆発的に人気を呼ぶには、カリスマ的プロデューサーの存在が欠かせない。このような人材が、陸上競技界には不在である。今は、青山学院の原晋監督がその位置に納まろうと意識的に大言壮語を発している。うつけ者は潰してしまわず、まつりあげて仕事をどんどんしてもらえばいい。
     陸上競技の面白さは抜群である、と全スポーツ観戦マニアのぼくが断言する。選手個々のキャラクターや、幼い頃からのストーリーなどの優良コンテンツ(物語)にも事欠かない。ジュニア競技チームからはじまる優秀な選手育成システムができあがっていて、2450万人という膨大な数のアマチュア競技者がいる。
     「日本選手権」を観に5万人が集まる要素は、他のスポーツに比べれば遙かに整っている。有能な仕掛け人さえいれば、可能だ。
         □
     さて何やらエラそうに書いているわけだが、「お前は何様だ」と問われれば「熱心なファンだ」と答えよう。何しろ熱心なファンは最強なのだ。ほら、阪神ファンの誰しもが、外野席や赤ちょうちんの店でタイガースの監督になる権利を有しとるでしょう? ファンとは、全競技団体、全アスリートの頂点に立つ権利を持っているのである。脳みその中は自由なフィールドが広がっていますからね。
     ・・・というわけで、誰に頼まれることなく勝手に陸上界の未来を案じる私めが、もし自分が陸上界のプロデューサーになったらどんな改革に取り組むかをご説明さしあげたい。
     
     
    【着手①】日本選手権をド派手にする
     
     PRIDE GRANDPRIXの場内アナウンスで有名な女優レニー・ハートが選手呼び出しを担当。
     「フロォム、サアイタマァー、シターラァァァァァァァァ、ユウゥゥゥゥゥタァァァァァ!」(埼玉出身、設楽悠太入場!)
     オープニングや競技の合間には、モモクロや三代目J Soulら派手目のパフォーマンスを入れる。
     ナニ、ふざけんなって?
     そんなの他のスポーツじゃあたり前にやってることだ。アメリカ 最大のスポーツイベント「スーパーボウル」には時の全米ナンバーワンのミュージシャンがスタジアム全体をエンタテイメントの極致とするし、世界最大のスポーツビジネス「ツール・ド・フランス」では、選手の集団が来る何時間も前から商業カーが街を練り走り、沿道をお祭り気分に塗りかえていく。
     今、陸上競技大会を仕切ってる人は、「客を楽しませよう」という視点がないんだ。陸上競技のおもしろさに気づいてない層を、ムリヤリにでも競技場に引っ張って来ようって浅ましさに欠ける。
     ものはついでだ。テレビ中継の放映権をNHKから民放に移行しちまえ。
     日本選手権は国内最高峰の舞台であるにも関わらず、NHKの番組づくりが地味すぎてまったく盛り上がってないからさ。
     進行役としては、フジテレビの青嶋達也(サッカー、競馬、自転車競技のアナウンスで有名)や、NHKの小野塚康之(高校野球中継でおなじみ)レベルの人材にアナウンスをつとめてもらおう。ただ進行するだけの役目じゃなくて、情熱がないとな。
     古舘伊知郎や松岡修造をフィールドリポーターにして、「盛りあげ役」を担ってもらおう。織田裕二はNGですよ。
     競技解説は、真面目すぎな現役コーチ陣ではなく、お茶の間エンタテイメントを理解している人材を選ぶ。
     増田明美は恋愛とスイーツネタを散りばめ、為末大が哲学的すぎで視聴者を置き去りにする難解解説を。
    爆弾発言を期待して新谷仁美もしくは福士加代子のぶっちゃけトークを。セルジオ越後的な辛口批評は中山竹通にお願いしよう。
     トラック競技とフィールド競技のテレビ中継を混在させてはならない。どちらの競技者、どちらのファンにとっても最悪の進行だ。
     式次第にもどろう。
     表彰式は今みたいに競技の合間に、録音ミュージック流してチョコチョコやるのはダメ。ヒーロー、ヒロインの扱いとして寒々しい。全日程を終え、フィールドをナイターが照らしだす中で優勝者をアナウンスコールし、サッカーW杯みたいに紙吹雪をジャンジャン降らせて盛大に祝うのだ。花火師を本場・大曲から招いて、バンバン六尺玉を打ち上げてやろう。
     新国立競技場でやれば、花火見学の観客で7万人は集まる。入場料1500円でも1億円の興行収入になる。花火代、ミュージシャン出演料、ステージ設営費くらいは、この1億円でまかなえる。
     最初は陸上競技に関心のない客でいいのだ。レースを見せれば、3割の人はファンになりリピートする。それだけの魅力、絶対にあるから。
     
    【着手②】マラソンの代表選考レースは「ワールドマラソンメジャーズ」を指定する。
     
     マラソンにおけるワールドカップの位置づけにある「ワールドマラソンメジャーズ」。現在、ロンドン、シカゴ、ボストン、ベルリン、ニューヨークシティ、東京と、世界6大会が傘下にある。
     結局さ、いくら「日本人で世界と戦える選手を」とか能書きぶっても、男子世界ランキング100傑のうち95人がケニア・エチオピアで占められていて、トップクラスの選手は賞金で稼げるこの6大会にしか出ないのだ。
     日本人って、オリンピックや「世界陸上」が世界一を決める大会って信じこんでるけど、実際んとこ違うよね~。あれは真夏の気温35度のなかで、揺さぶりあっこに最も強い選手をタイネスランナー世界戦だ。ずいぶん特殊なリースです。
     日本人より速いランナーが100人以上は確実に存在するケニア人やエチオピア人、あわせて6人しか出られないしさー。そこで入賞した人が「世界6位のランナーか」って言うと何かが違う。
     ほんとに「世界と戦える選手」見つけ出したいのなら、国内レースで二流どころのエチオピア人選手に誰もついていかず、日本人一番を地味に競うのなんて止めた方がいい。
     日本のマラソンは、円谷・君原・宇佐見の時代からずっと世界と戦ってきたのだよ。カーリングでも、スキーのジャンプ競技も、フィギュアスケート、競泳だって、日本人が世界に挑む姿を見て、たとえ結果が出なかったとしても皆が応援したくなるのである。最初から外国人選手と勝負する気がないなんて、スポーツ選手としてヘンである。
     いや、実際は日本人、世界に行けば十分戦えるのである。ここ数年でも2011シカゴ(五ケ谷7位)、2013ロンドン(赤羽3位)、2013ベルリン(石川末廣7位)、2013ニューヨーク(今井6位)、2015ベルリン(五ケ谷9位)、2015ニューヨーク(川内7位)と上位入賞している。
     むろん福士は凄いよ。2011シカゴ3位、2014ベルリン6位、2015シカゴ4位だ。
     この順位は幾人もの東アフリカ選手を破っての快挙なのだが、我が国ではテレビ中継されることは超レアで、一般に称賛されることはない。JR東日本の五ケ谷宏司は世界と戦える逸材であり、V6の岡田くんに似てるにも関わらず、まったく目立ってない。
     「ワールドマラソンメジャーズ」で世界のトップと競って、そこでどう戦えたかで代表選手を決めるべきである。ワールドクラスの大会で活躍するより国内競技会で勝つことに価値があるなんて、他のスポーツ競技ではありえない現象だ。
     こういう論が出ると「国内選考6大会」のテレビ局の広告収入が減ったり、ひいては陸連の収入源である放映権料が減って、選手の育成費用に影響が・・・という反論が起こるが、要するに「国内6大会」に流れている金を、世界レベルの大会経由に流れを変えるという話なのである。
     「東京マラソン」以外の5大会の放映権を、民放に買わせる。民放が食指を伸ばすのは、企業が宣伝価値があると見なすコンテンツであり、そのためには、世界選手権や五輪の選考レースを「ワールドマラソンメジャーズ」6大会の獲得ポイントや順位で決める必要がある。
     一方、トラックやフィールド競技に目を移すと、国際陸連がやってる「IAAFダイヤモンドリーグ」は、世界10数カ国を転戦する「F1」スタイルを採り入れて成功している。欧州10都市、米国で2回、あとは中国とカタールでやっているのは、財政的に豊かで広告スポンサーが穫れる都市を選んでいるのだろうが、同時にスタジアムはおおむね満席である。欧米では、陸上競技がこんなにもステイタスを誇っているのにと、国内大会のガラガラ観客席と比べてガッカリする。
     さんざ、代表決定システムの話をした後にちゃぶ台ひっくり返すけど、ほんと日本人って、昔っからオリンピックに肩入れしすぎなんだって。ベルリンの壁が壊れる前の東欧諸国じゃあるまいし、今さら国威発揚なんて必要ないんだから。サッカーもラグビーも五輪なんてお祭りであって、競技独自のリーグ戦の方が本戦であり真勝負の場じゃないか。マラソンもそうしましょう。
     
    【着手③】駅伝をグローバル・スポーツにする。
     
     日本生まれの駅伝を世界的な競技へと成長させる。そのためにエキデン・ワールドカップを行う。
     ジュニア、ユース、シニア、男女混合などの部門を設け、各国で予選を行い大陸代表を決める。
     エキデン・ワールドカップ世界大会は、駅伝競技の総本山ともいえる東京大手町~箱根芦ノ湖間で行う。優勝国やMVP選手には1億円の賞金を付与する。ワールドマラソンメジャーズの年間王者ですら賞金は5000万円程度である。トップ選手は個人レースよりもエキデン・レースをメインに考えはじめるだろう。
     駅伝の強みは、「道具がタスキ1本だけ」という点である。ボールも、コートも、高額なスポーツギアも必要がない。つまり、これから発展していくアフリカやアジア・環太平洋地域の小国の人々にも受け入れられやすいスポーツである。
     そして個人競技手はなく、国旗を背負った団体競技であるということも追い風になる。20年、30年スパンでこの競技に本腰を入れてくるであろう発展途上国を有望市場と見なしているわが国の資金潤沢な大手企業・・・ファーストリテイリング、味の素、スズキ自動車、コマツなどにとれば、優勝賞金として1億円、2億円程度を用意するのは容易いものである。広告の費用対効果としては安すぎる。ちなみにソフトバンクが国内男子バスケリーグに拠出するのは4年間125億円である。
     柳井さんや孫さんのポケットマネーで、世界中の若者が夢を見られるのである。 
     
    【着手④】「実業団」という名称をやめる。
     
     そもそも「実業」って何だかよくわからないし、語感が古くさすぎるんだよ。「私の恋人は青年実業家です」なんて昼メロドラマの台詞にあったのは昭和40年代くらいまでじゃないの? 「実業」って言葉の意味もよくわからないし。「虚業」の反対語?
     プロ野球選手やJリーガーのように、球団に対して選手が個人事業主として契約しているのではなく、陸上選手と所属企業は、使用者と従業員という労使関係上にあるのだろう。だからプロ選手とは呼ばれない。
     雇用契約を結んでいるのであれば、「あなた選手として先がないから年度末でクビね」とはいかなくなる。だからプロ契約者より、雇用が守られるという点で選手にメリットが大きい。これは、スポーツ選手を単なる広告塔として扱わない、世界に対して誇れるシステムだと思う。
     だけど、その選手たちが戦う相手は、アフリカやカリブの賞金稼ぎや、スポンサード契約料で生きるプロ中のプロなのである。勝たなければ1円も手にできず、騙し騙されのレースを年中やってる猛者と、月給をもらい雇用が守られているサラリーマン。勝負に持ち込むのは難しいわな。
     でもさ、せめて意識だけでもプロフェッショナルでいようよ。藤原新が「プロランナー」、吉田香織が「市民ランナー」って呼ばれてるのは違和感あるんだよ。雇用が保障されようとされまいと、その世界でメシ食ってたら世間では「プロ」なんだよ。日本のサラリーマンは全員、各々の業界の「プロ」なんだ。だから半分プロ、半分アマみたいなポジション曖昧な「実業団」という名称、やめよう。
     
    【着手⑤】有望なジュニア選手を日本から追い出す。
     
     サッカーのジュニア選手育成には、すでに国境がなくなっている。有望な子供は10歳にも満たない頃から、リーガ・エスパニョーラ(スペイン全国リーグ)チームの下部組織が世界中でスカウティングし、育てている。
     陸上選手も、国内で育てるのではなく、スプリンターはカリブ海や米国、中距離走者は欧州、長距離走者は東アフリカ、投てきや跳躍は北欧・ロシアと、どんどん留学させる。日本のように整った練習環境ではなく、雑草の生えた運動場や、石ころだらけの赤土の道を走る。栄養士が食事管理をするのではなくて、自分の頭で考え、自己管理できる人格を形成させる。
     日本人選手は、大舞台でメンタルが弱すぎる。世界大会に日本料理のコックなんて同行させてはいかん。よその国の選手は、五輪の選手村で公式コンドーム使いまくってアドレナリンをドバトバ出してるんだから。日本人が好むエピソード・・・大会前夜の奇跡のミーティングで選手間の絆が高まって・・・なんて話、甘チャンすぎるよ。話あわないと戦う気がピークにならないなんてキモいよ。
     これからの若い日本人選手はさ、「海外遠征」とは名ばかりの日本人が団体で海外に出かけていって、同じレースに出るやつ・・・たとえば米国の「カージナル招待」とかベルギーの「ナイト・オブ・アスレチクス」とかばかりを選ぶのはやめよう。かつて為末大や朝原宣治が挑んだように、選手単独で欧州の競技会を転戦し、武者修行をさせよう。
     宿や練習場所の確保も、レースのエントリーも自分でやれば大抵のトラブルなんて平っちゃらになり、デコボコに波打ったトラックでもトップスピードで走れるようになる。
     10代の頃から、「この競技でのしあがってやる」「宮殿みたいな豪邸を建てて親を住ませてやる」みたいなガツガツ飢えた連中と、本気のレースをなんべんもさせて強くするのだ。
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     くだらない妄想と笑いたいヤツは笑え。週3は徹夜で朝までスポーツ中継を観てる全スポーツ観戦マニアのぼくが断言する。陸上競技こそ最高に面白いスポーツなんだ。大迫傑が帰国し、モハメド・ファラーやゲーレン・ラップと戦う凱旋レースを満員のスタジアムで見届けたいんだ。最高のショーには、最高の舞台が必要なんだ。
     
     
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    陸上競技場で試合を見よう!
    2016年、主要大会ですよ!
     
    4/2 金栗記念選抜陸上中長距離(熊本)
    4/24 兵庫リレーカーニバル(神戸)
    4/29 織田幹雄記念国際陸上競技大会(広島)
    4/30-5/1 日本選抜陸上和歌山大会(和歌山紀三井寺)
    5/3 静岡国際陸上競技大会(静岡)
    5/7 ゴールデンゲームズinのべおか(宮崎延岡)
    5/8 セイコーゴールデングランプリ陸上(神奈川川崎)
    6/24-26 日本陸上競技選手権大会(毎年転戦、今年は愛知)
    7/10 南部忠平記念陸上(北海道厚別)
    7月に4戦 ホクレンディスタンス(北海道士別、深川、北見、網走)
    9/2-4 日本インカレ(毎年転戦、今年は埼玉熊谷)
    9/23-25 全日本実業団対抗陸上競技選手権大会(毎年転戦。今年は大阪長居)
  • 2016年04月08日バカロードその94 ジンジンと熱く痛むのです
     文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
     
     最近よー転ぶわー。人間ってこんなに転ぶものなのかな。
     反射神経が鈍ってるっていうより、「これすれば、こうなるだろう」という状況予測する能力が乏しくなっている。
     ジョギングの最中に、目の前に迫っている樹木の枝に気づかず、デコを痛打して火花が散り、尻もちKOダウン。
     布団のなかに入れておいた湯たんぽの存在を忘れ、掛け布団を踏んづけたときに楕円形の湯たんぽにグニャリと足首を取られ、そのまま転んで窓サッシで頭を打つ。
     どの転倒の影響かわからないけど、膝裏の十字靱帯を損傷し、右脚のヒザが曲がらなくなった。和式トイレでしゃがめない、畳の間で座布団に座るのがつらい。寝た状態から立ち上がるには、腕で何かを掴んだり支えが必要。バリアフリーって必要ね。パラマウントベッドのテレビコマーシャルを、真剣に見るようになってきた。
     片足曲がらず、日常生活は支障だらけなのに、不思議とジョギングだけはできる。速くは走れないけど、キロ7分より遅ければ痛くない。だから練習は欠かさず行っていたが、知らないうちに患部のヒザをかばっていたようだ。ピキピキと電流が走るような鋭利な痛みが、ふくらはぎと太腿に起こりだした。少しスピードを上げると、「バキッ」と音がしそうなくらいの痛みが爆ぜて、あとは歩くしかなくなる。
     自宅から10kmも離れた場所でふくらはぎに衝撃が起こり、帰り道の10kmを3時間かけて歩いた日は悲しかった。汗が冷えて指先は氷みたいになって、加齢への絶望感ってヤツに苛まれて心も痛む。歳とると筋肉は衰える一方だし、首筋からは加齢臭を漂わせてる気がするし、歯ぐきが下がってると歯科衛生士さんに歯みがき指導されるし。もはや老衰ロードへ一直線って感じかな。
         □
     「神宮外苑24時間チャレンジ」は、例年は秋に行われていたが、旧国立競技場の取り壊し工事の影響もあり、真冬の開催となった。
     足が曲がらなくても、歯根がグラついても、エントリーした大会には参加する。どのみち上位を狙ったり、記録を目指すレベルのランナーではないし、ビリケツでゴールしては独りよがりなエクスタシーを感じているわけだから、足の怪我なんて悲劇の中年ヒーローを目指す(意中の物語ですよ。他人に表現したいものではないですよ)には最適な条件である。
     大会前日、東京は麻布にあるホテルに宿泊する。24時間走の会場である「神宮外苑」まで電車で7分という好立地にあり、都心随一のお洒落タウンにもかかわらず、1泊3000円台で大浴場つきという掘り出し物件である。ところが案内されたお部屋、壁や絨毯がシミだらけ、室内にはすえたカビ臭が漂っている。クローゼットのドアは外れ、蝶つがいの釘がむき出しだ。薄暗い窓辺には、防水シートに覆われた謎の巨大な荷物がドッカンと置かれている。一等地で大浴場つきにして1泊3000円台がリスキーな存在であると、なぜ気づかなかったか馬鹿バカ! 調子に乗って15時早々にチェックインしたので、明朝まで16時間はこの部屋にいなくてはならない。
     壁に浮き上がった黒いシミが心霊に見えてきたので、居たたまれなくなって外出する。
     麻布十番の商店街には、育ちの良さが全身から目映く放たれた大使館員っぽい外国人ファミリー闊歩している。上質の洋服をまとい、高そうなブランド紙袋を手にしたセレブリティな奥様方が、歩道いっぱいに横並びで歩く。さすが金持ち、いっさい道を譲ろうとはしない。いや、市民マラソンの大会で横一列に手をつないでゴールするオバチャンランナーたちと一緒かな。まずは自分ありき・・・ご婦人方の正しい生きざまである。
     一軒のパン屋さんに行列ができている。ふだんの悩みのレベルが高そうな女性たちが群がっている。好奇心には勝てず、列に並ぶ。ここんところ練習でまともに走れずデブりがちなので、炭水化物抜きダイエットをしていたが、レース前日くらい高級パンを食べて、肝細胞にグリコーゲンを満たすのも悪くなかろう。1個400円近くするパンには少女趣味な長ったらしい名前がつけられていた。
     老婆の団体客がロビーにたむろするホテルの部屋に戻り、期待に胸膨らませて食べた高級パンは、特に特徴のない、とりたてて評価の言葉も浮かばないお味であった。どこぞの県道沿いにある産直市で、近所のおばちゃんが焼いた80円のホタパン(蒸しパンのことですよ、若い読者どの)の方が、よっぽどウマいぞな。ふだんの悩みのレベル高い女どもの舌は、どうなっちゃってんでしょ。
     満たされない食事を終え、ホテル地下のボイラー室の横にある酸っぱい臭いのする大浴場で汗を流し、じっとり湿ったシーツにつつまれて、悪夢をたくさん見てはうなされ、朝になっても朝だとは認識できない日射しの当たらない部屋で目覚めたら、いざレース会場へと出陣である。
         □
     24時間のうちにいちばん長距離を走った人が日本チャンピオンとなるこの大会。今年は150人ほどの選手が挑戦する。
     1周1.3kmの周回路を、おおむねキロ5分から6分ペースで刻んでいくのである。世界大会へと進むトップクラスの選手は、250km以上を狙っている。上位20名ほどの強豪選手は200km以上を、またスパルタスロンの参加資格である180kmや、何となくお洒落な響きのある「100マイル」にあたる160kmを最低クリア目標にする選手もいる。
     いずれにせよ、選手間で順番を競い合っているのはトップクラスの5人くらいで、大多数の選手は、自分の能力と、残り時間、積算距離の駆け引きを、脳内で孤独に行いつづける競技である。
     午前11時、レースが始まる。右ヒザが曲がらないためキックが使えず、キロ6分ペースでも息があがる。たちまち最後尾ちかくが定位置となり、エリートランナーたちに何度も周回遅れにされる。
     寒さも手伝って、開始30分もしないうちからお小水がしたくてたまらない。仕方なくコースから30mほど離れた公衆トイレへ離脱。排尿を終えてすっきりレースに集中できるかと思いきや、その後も四六時中、尿意がおさまらない。3~4周(5km)に1回のペースで用を足す。離脱するたびに2分はタイムロスしている。トイレまでの往復60mも一応いそいそと走ってるから休憩にもならない。
     そういや、この冬の夜長は2時間おきに尿意で目覚める頻尿体質が加速化している。加齢への現実を思い知らされる材料が、膀胱にも現れているもようです。
     50kmを5時間03分、100kmを11時間13分で通過する。
     夜も10時を過ぎると、真冬の東京に時ならぬ寒波が押し寄せる。気温は摂氏2度まで下がっている。吐く息が白くたなびき、冷蔵庫、いや冷凍庫に閉じ込められたよう。ランニングシャツの上からウインドブレーカーを2枚重ねて着てもまだ寒く、最終手段だいっ!と普段着用のダウンジャケットまで羽織る。臭くなったらヤダなーと一瞬ためらったが、寒さには勝てません。
     夜も深まり丑三つ時。眠くて眠くてたまらなくなり、かといって仮眠するのを自らに許すほどの甘さはなく、アテもないのに選手テント(走路から20mくらい外れた所に設営されています)にフラフラと吸い寄せられる。
     地面にブルーシートだけを敷いた氷みたいに冷たい床に、精気なく体育座りをしてうつらうつらしていたら、知り合いの選手の方が、こちらの様子を見かねたか「このお薬、試してみる?」と、眠気覚ましの巨大な錠剤を手渡してくれた。
     眠気対策をまったくしていなかったのでラッキー。「助かります!」と、もらった薬をお茶とともに飲み込んだ瞬間、モーレツなサロメチールの空気の塊が、胃の奥から食道、気管へと噴き出してきた。「ゲホゲホゲホッ、これ、むちゃくちゃ強力ですね!オエッ、ゲホーッ」とむせ返りながら感謝を述べると、お薬をくれた方が「え、飲んじゃったの? 今のトローチみたいに舐める薬なんだけど・・・」。
     どうりで錠剤がデカいと思った。呼気もゲップもクールミント臭がすごい。眠気は吹っ飛び、ハイテンションで走路に舞い戻った。
         □
     30年前、現役時代の瀬古利彦が、黄色いジャンパーを着た中村清監督の見守るなか、毎日何十キロと走り込んだ神宮外苑の周回路。その同じ路を、ぼくは走っている。背丈のある樹林の連なり、神宮球場の外壁のコンクリート塊・・・都市景観の谷間深くにこの道はひっそりと在る。ところが今年は少し様子が違っている。1カ所だけバーンと景色が開けていて、新宿方面に林立する高層ビル群の美しい夜景が眺められるのだ。去年までは旧国立競技場がデンと存在していた場所が、解体によって更地になり、だだっ広い空間が突如現れたのだ。深夜、喧噪が収まった都会の夜に映し出される光り瞬く都会の夜景は、今年限りのご褒美だ。
     周回路であるがゆえに、日本のトップクラスの選手の走りを「追い抜かれざまに」背後から眺められる。また、いろんな身体条件や走力レベルを備えたランナーの、「24時間走りきろう」という強烈な意思や魂に触れられる場でもある。
     毎年のように参加している高齢の選手がいる。今年で77歳になるという。スタートから20時間を過ぎた頃には、身体をくの時に傾け、痛々しく走っておられる。話しかけても朦朧とされている時があり、体力のギリギリの所で走り続けていることがわかる。(おそらく仮眠を取らず)ずっとコース上で粘られているのだろう。歩くようなスピードながらも休憩時間なく前進し続けているために、24時間経過後の積算距離は「ええっ」とびっくりさせられるほどに達する。途中で潰れてしまった20代、30代のスピードランナーよりも、結果として上位にランキングされているのだ。1年をこの日のために節制し、目標に向かって全力で頑張る。何があってもあきらめない。そんな77歳に、僕はなれるだろうか。頻尿で、イボ痔もちで、よく蹴躓いて・・・なんて泣き言を並べている自分は恥ずべきだな。
     一方で、レース序盤に先頭集団にいたトップ選手が、明け方ごろから脚を引きずりはじめた。日本代表経験も豊富な凄い方だから、最初に彼を後ろから抜いたときは嬉しかった。「おおっ、あの有名選手を追い越しちゃったぞ」と。しかし、2周、3周と追い越すたびに、彼は片脚を大きく引きずり、時速1kmくらいでしか前に進めなくなっていった。もはや優勝は夢と消え、上位に食い込み日本代表の座を手にする可能性もない。それなのに、彼は時速1kmで何時間も歩きつづけているのだ。全員のランナーに背後から何周も、何周も追い越されながら。
     女子部門のトップクラスの選手が道ばたで嘔吐している。また、かつて実業団に所属したスピードランナーが寒さに凍えている。鍛え抜いた選手たちがベストな体調で挑んでもはね返される24時間走に、ぼく程度の人間が「参加することに意義あり」みたいなやわな精神で臨んでもロクな結果を残せるはずがない。記録は、174kmと平凡なもので終わった。
     優勝したのは、今回も走路から離れず252kmを走り続けた長野県うるぎ村の「村おこしランナー」重見高好選手。レース直後に行われた表彰式では、うるぎ村村長さんの押す車椅子に座ったまま立ち上がれなかったが、周囲に笑顔をふりまかれていた。
           □
     閉会式を終えると、中央線、山手線、羽田モノレールと3本電車を乗り継いで、羽田空港へ向かった。
     中央線の車内は乗客が多く、椅子に座れずに立ったままでいると、急激に気が遠くなりはじめ、窓ガラスの向こうの景色に白い霞がかかりはじめた。「あと数秒で倒れるかもしれない」と思ったときに、電車が次の駅にすべりんだ。停車位置の真正面に、運良くホームの椅子が見えて、ドアが開いた瞬間そこに駆け寄って座ると同時に、視界が真っ暗になった。
     (たぶん)何分かして気がつくと、背後の壁に頭をつけて居眠りするようなポーズになっていた。(ホームに倒れていたら大騒ぎになったなー、何ごともなくてよかったー)と安堵した。
     水分を補給して落ち着きを取り戻し、再び電車に乗ったが、中央線(総武線?)、山手線ともに降りるべき駅を寝過ごした。遠くの駅まで行き、いったん降りて、ホームの階段を登ったり降りたりして乗り継ぎ駅まで帰ってきた。
     羽田空港が終点である羽田モノレールなら、さすがに寝過ごすことはないだろうと安心して寝ていたら、ここでも降りるターミナル駅を間違えた。ターミナル間の無料バスに乗って、搭乗すべき場所にようやく着いた。神宮外苑から羽田まで1時間で着くところを、3時間もかかってしまった。
     搭乗口で眠り込んでも起こしてもらえるよう、アナウンス係のおねえさんの前の椅子を陣取って座ったが、傷めたヒザやマメだらけの足の裏がジンジン熱くて脈を打ち、今度は眠れなくなった。やっと眠れるトコまでたどり着いたのにねぇ。
  • 2016年03月01日バカロードその93 金龍うねる道をぐねぐねいこう

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

    (前回まで=長崎県の橘湾岸スーパーマラニック276kmの2晩目。スタートから30時間が過ぎ、173km地点・小浜温泉エイドでは再出発の時間が迫っていた。残り103km、闇夜の行軍へとランナーたちは歩を進めるのであった)

    ■2晩目の夜から3日目の朝へ(173km~230km)
     夜7時45分。小浜温泉街のはじっこにある南本町公民館の玄関前の狭いスペースは、大勢のランナーたちでごった返している。すでに173kmを走り終え、「中継地点」と呼ばれるこの場所で休憩や仮眠をとっていた人たちは、すっかり精気を取り戻し、エイエイオーと叫ばんばかりに気炎を上げている。
     一方、この地への到着時刻が遅れに遅れ、仮眠時間ゼロのまま再スタートラインの地面にべったり座り込んでいるぼくは、盛り上がるランナーたちを上目遣いに眺めては、(なんでこの人たちは30時間も走りつづけて、こんなにハイテンションなんだ?)と、醒めた視線を送っている。30時間前、長崎市街にてスタートを切った時に120人いたランナーだが、173km地点での生き残り組は60人。既に半分はリタイアしている。
     この「中継地点」では、夜8時再スタート組を第一陣にし、深夜12時まで1時間おきに自分の希望する時間に再スタートできるルールだ。まだレースを続けている60人のうち40人ほどは、夜8時再スタートを選択しているようだ。早い時間にスタートすればするほど、ゴールの制限時間(翌日の夕方5時)までの余裕度が増す。スピードのないランナーが完走を狙うには、この時間に走りだすしかない。
     夜8時きっかりに、ランナーたちは真っ暗な湾岸の夜道へと繰り出した。
     島原半島は、九州本土とは地続きながら、果樹になる重い果実のような形状で、有明海や天草灘に向かって島嶼状の陸地を張り出している。今からこの半島を、反時計回りにぐるりとまわりこみ、半島中央部に連なる山岳地帯の裏側にある島原市を目指すのである。
     島原市は中継地点から57km、全行程の230km地点にある。当コースに詳しいランナーが述べる黄金法則としては「朝7時に島原市中心部の島原城エイドに着いていたら完走できる!」とのことだ。ということは、11時間で57km。時速5kmをキープすれば間に合う。しかし徹夜2晩目の時速5kmは、簡単なようでいて簡単ではない。どこかのバス停で1時間、2時間と眠りこんでしまえば、帳尻をあわせるために時速6km、7kmとペースアップが求められる。だから大事なのは「眠らないこと」。これに尽きる。モーレツな眠気に襲われる前に、少しでも距離を稼ぐべく、1キロ7~8分ペースで最初の10kmを走ることに決める。
     海岸沿いの道路は、急傾斜の崖地にむりやり道を切り開いた格好で、落石や高波避けのために設けられた洞門が繰り返し現れる。コンクリート柱が連続するトンネルに、打ち寄せる波音が静かに響く。歩道をとるほどの道幅がなく、狭い路側帯は路面が傾いている。
     キロ8分ペースでも、集団の中では最速であり、前にいるランナー全員を抜き去る。先頭を走っているという自意識が脳内ドーパミンの放出スイッチを押す。
     (そうだ。オレは夜に強い、徹夜などモノともしない不屈の男なのだ)とよい気分にひたる。バカは高い所と、一番前が好きなのである。ちなみにこの時、先頭を走っていると思ったのは勘違いで、総合1位になった選手が姿すら見えないほど先にいたもようです。
     再スタート直後にアホ走りをしたおかげで、周りに姿が見えるのはウルトラランニング業界では名の知れた強豪ランナーばかりである。この276kmレースの女性最速記録を持っている女傑、総合2位でゴールする熊本の凄玉ランナー。なかでも目を引かれるのが「九州爆走女」という暴走族のような名称のチームに所属する女性軍団だ。この長丁場をアラレちゃんやペコちゃんなどコスプレウエアを身にまといながら、終始速いペースで走っている。彼女たちは、ご当地ではスター軍団のようで、見ず知らずの応援の人に記念撮影をせがまれたり、キャーキャー黄色い声援を送られたりしている。お顔を拝見すると、なかなかの美女揃いである。ついにウルトラランニング業界にも、会いに行けるアイドル的な存在が萌芽しているのだろうか。
     203km地点、「原城」城跡のチェックポイントに着いたのは深夜1時ごろ。
     遠い昔、学生時代に歴史の教科書に蛍光マーカーを引いたか引かぬか、「島原の乱」の根拠地となった場所である。日本有史以来、時の政権に対する謀反としては最大規模のクーデターである。当時わずか16歳であった美少年・天草四郎をリーダーにまつりあげ、幕府に武装闘争を仕掛け、この原城にこもって戦ったわけである。結果として反乱は成功せず、最終的には幕府軍13万人に城を取り囲まれ、籠城して戦ったキリシタン農民一揆軍3万7000人ほぼ全員が打ち殺された・・・とされる。
     この城跡全体に、キリシタンらの怨念が漂っている恐れもあるが、遠い過去からのメッセージを受信できるほどの霊感体質ではないようでよかった。「せっかく観光地に来たのに、真っ暗でなんもわからんどー」などとブーブー文句をわめき散らしながら、城内に設けられたエイドにたどり着く。
     ここのエイドはちょっとしたバイキング形式。器によそってくれた温かい中華粥の上に、何種類もの具材を自分でトッピングできる趣向である。うずら玉子のニンニク漬け、高菜、シャケ、塩昆布、高菜・・・など10種類ほどの総菜がトレイに並べられ、盛り放題なのである。こりゃウメーぞ! トッピングの組み合わせを変えながら3杯おかわりし、ガツガツ食いあさる。真夜中にここまで準備してくれるありがたいボラの方(九州ではボランティアスタッフのことを「ボラ」と呼んでいるみたい。呼び捨てではなく、失礼にも当たらない模様です)に、ペコペコお礼を繰り返す。
     原城を後にし、幹線道路に戻る。国道沿いに点在するバス停は、屋根と柱だけで風がぴゅーぴゅー抜ける吹きっさらし。さして居心地がよいとも思えない待合いベンチに、先行したランナーたちがぐったりと寝込んでいる。ある人は太腿にヒジをつき真っ白に燃え尽きた「あしたのジョー」スタイルで、別の人はベンチに仰向けに寝て腕も脚もだらーんと垂らした失神KO型で。累々たる屍の山を乗り越えていく感じで、前進を続ける。
     前方の暗闇をついて、猛スピードで女性ランナーが駆けてくる。「九州爆走女」の伝説の一角を成す有名ランナーの方だ。なんでスタート地点に向かって走ってるんだろ。「手ぬぐいを落としたので1kmくらい道を逆走しています」とのこと。「高級な手ぬぐいなんですか?」と聞けば、「ううん、普通の。でも人にもらったやつで、気に入ってるの」。ふーん、200km走っても体力があり余っているのだろうか。深夜2時、こちとらダラダラと繰り返される上り下りにうんざりしているってのに。先輩ランナー方からいただいた金言が脳裏にこだまする。
     「初めて参加する人は、この276kmのうち一番キツいのは、最後の2つの山越えだと思っている。でも本当の山場は、徹夜2晩目、再スタートからの60kmの平坦部分だ。リタイアする多くのランナーは、この平坦部分であきらめてしまうのだ」
     なるほど。山岳地帯に突入する前段階の「平坦な道」こそ鬼門なのだな、とあらかじめ警戒させてもらえたのはよいとして、問題はこの60km、実際んところ平坦でも何でもなく、坂道だらけじゃねーか。
     (コレのどこが平坦だってぇのブツブツブツ)
     (ウルトラやってるヤツなんて、坂道登りすぎて頭壊れてんじゃねーのブツブツブツ)
     つけるだけの悪態を闇夜にぶちまけて、負のエネルギーを糖質に変換しながら、朝焼けが東の空を紫に染める島原市へのバイパス道をひた走る。
     
    ■3日目の朝からゴールへ(230km~276km)
     230km地点、島原城の門前にある「島原城エイド」に着いたときは、すっかり夜が明けていた。テント前は、何十人ものランナーでごった返している。3張りほど用意されたテントの下では、汁物の食事を配膳するボランティアスタッフとランナーで賑わっている。われわれより4時間遅れで深夜12時にスタートした後半103km部門の選手たちが、続々と追いついてきているのだ。300人余りが参加する103km部門の実力的にボリュームゾーンの選手たちが、朝7時すぎにこの島原城あたりに集結してきているようだ。
     エイド前の地べたにどっかり腰を下ろし、大会から配布された地図帳をながめる。
     この地図帳、ランナーは携帯することを義務づけられている必携品だが、72ページの大作である。そこに112枚もの地図、17枚の標高高低図が収納されている。年金手帳よりやや大きいコンパクトサイズでポケットに入り、手に持ったまま走っても負担を感じることはない。なんとなく修学旅行前に配られる「旅のしおり」っぽい質感が、郷愁を誘っている。
     さてさて、ふむふむ。このお城を出ればゴールまで残り46km。7kmの間に450mの眉山(まゆやま)峠へ登り、6kmかけて海岸近くまで下る。そして再び14kmの登りを経て、標高740mの雲仙温泉入口の仁田峠へ向かう。道路最高点にあたる峠からゴールまでの20kmは、ほぼ下り基調というわけか。
     お城を後にすると、清流流るる用水路脇に居並ぶ旧の武家屋敷跡を散策しながら土の道を走り、やがて広くてきれいなドライブウェイに出る。眉山(まゆやま)へと続く坂道のはじまりだ。登山道とは違い、勾配を抑えるためにダラダラ傾斜のヘアピンカーブを設けたZ坂を登っていかなくちゃならない。
      山の中腹にあるエイドに名水があると聞かされ楽しみにしていたが、どこから名水が湧いているのやら見つけられなかった。
     眉山峠の最高点に達すると、右手に壮大な火山が見えてくる。雲仙普賢岳の山岳群の片鱗を成す平成新山である。1991年に大規模な火砕流が起こり、44人の死者・行方不明者を出した大災害の現場でもある。頂上全体を覆う荒々しい岩のブロックは、かつて噴き出した溶岩の塊が冷え固まったのだろう。
     ドライブウェイと平成新山の間には広い谷が横たわり、その基底部はカール状になっている。火砕流と土石流が流れ、土砂が堆積してできたものだ。荒涼とした谷底には、幾重もの砂防ダムが連続して造られている。乾ききった月面の土地のような場所ながら、ちらほらと若木が芽吹いている。
     ゆるい下り坂を、たくさんのランナーがびゅんびゅん飛ばしていく。傾斜のきつい登りはすべて歩き、下りで猛然と飛ばしてタイムを稼ぎ、ゴール制限時間の夕方5時に帳尻をあわせる。そんな意図が強く感じられる。
     ところがこちらと来たら、下りはじめてから着地のたびに激痛が足の裏を襲い、登るよりもスピードが出ない。痛み止め薬を飲もうかとも思うが、ゴールまで40kmもあるこの段階では、まだ早すぎる。鎮痛剤に頼るのは、「全力疾走でもしない限り、ゴール関門に間に合わない」という状況に追い込まれた時だ。手前で飲み過ぎてると、肝心な場面で効かなくなってしまう。
     残り時間と距離の暗算をくりかえす。何度計算をやり直しても、「時速5.5kmキープでギリギリ」という結果である。しかし、ここ数時間は時速5kmでしか進んでいない。更に厳しい山越えをもう1つ残している。エイドで休憩したり、歩きを交えたりしていたら、絶対に間に合わない。下りで飛ばせないのだから、登りで時間を稼ぐしかない。一刻の余裕もないのだ。
     かつて土石流が流れ落ちた水無川。その河口近くにある水無川大橋をわたり終えると、徐々に山登りの道へと突入する。14kmつづく登り坂は、ぐねぐねS字カーブの連続で、標高をいくら稼いでもどこまでも木立の中で、景色を遠望できる所はない。同じような風景がいつまでもつづく。
     ゴール時間に間に合わせるには休まず走るという選択肢しかないため、ゼエゼエ息を切らし、ベチョベチョに汗をしたたらせて、峠へと続く単調な道を登り続ける。10人、20人とランナーを追い越していく。誰も走ってはいない。でも彼らはラスト20kmの下りで猛烈に走る計算をしているに違いない。下れないぼくは、今どんなに苦しくても走るしかない。
         □
     14kmの登りを歩くことなく走りきって、標高740mの仁田峠まで登りつめるとラスト20kmである。峠の頂上から2km先の雲仙温泉街まで下っていくと、たくさんの「ふつうの観光客」が土産物街を散策している。久しぶりに遭遇するランナー以外の種族である。当たり前だが、みなきれいな洋服を着て、女性たちはいい匂いのする香水をつけている。自分の泥々に汚れたパンツのお尻や、首に手ぬぐいを巻いた格好が急に恥ずかしくなる。
     温泉街に設けられた大会チェックポイントは「大叫喚地獄」という噴気地帯の最も奥にあるようだ。地中からの噴煙がもうもうと白煙をあげ、鼻をつく硫黄臭漂うなか、登り階段だらけの遊歩道がひたすら長い。
     選手をチェックポイントに導く看板に記された「マラニック」という文字をしげしげと見つめていた小学生くらいの女の子が、「ねぇ、マラニックってなあに」と尋ねてきた。「地獄みたいに長い距離を走らされるピクニックのことなんだよう」とおどろおどろしく言うと、女の子は「ふーん」とうなずき、そばにいたお母さんに「地獄みたいなピクニックしてるんだって」と楽しそうに説明していた。
     温泉街を抜けると、ぐねぐね林道の下り道。気を紛らわすために、ゆずの「夏色」をエンドレスリピートで歌う。ゆっくり下るために。
     後方からたくさんのランナー集団が現れては、抜き去っていく。森を抜け、見通しのいい直線道になると、前後に20人ほどのランナーの姿が見える。脚を引きずって歩いている人もおれば、早くもラストスパートをかけている人もいる。ゴールが近づくにつれ、どんどん人の密度が高まり、ぎゅーっと濃縮されてくる印象だ。この雰囲気、橘湾岸スーパーマラニックの時間差スタートの妙である。ランナー個々の走力に応じて、6段階、12時間にも分けられたウエーブスタート。 雲の上の存在であるトップクラスの選手と、関門時間ぎりぎりで超えてくる人が、ゴールの手前ではひとつの塊になる。「やっとここまで来ましたね」と長旅の終わりの感慨を分かち合える。他の大会にはない橘湾岸スーパーマラニックの持つ世界観である。
     ゴールまで5kmを切ると、1kmごとに残り距離の表示板がつけられている。250km級の大会でははじめてだ。フルマラソンの大会みたいでおもしろい。減っていく数字を横目にしては「あぁ終わってしまうのか」という寂しい気持ちをかき立てられる。そして「お風呂にビールに海の幸に」というゴール後の現世利益を思い浮かべては頬が緩むのを隠せない。しかしやっぱし最大のご褒美は「布団」だな。なんせ50時間以上、眠ってないのです。
     小浜温泉街の裏山を駆け下ると、長い坂道が終わりを告げる。
     20時間前に再スタートを切った場所なのに、何週間かぶりに戻ってきたような帰郷感が灯る。メイン通りから一本奥に入った小路を抜けていく。煉瓦畳の道路の両脇に、格子窓の旅館や商店が並んでいる。いわゆるレトロモダンな街ではなくて、本当に古めかしく、ひなびた空気が漂っている。今度訪れるときは、昔ながらの温泉民宿に泊まるのもよいかな。
     残り1kmの看板が現れる。腕時計を見ると、ゴール関門の17時まで6分しかない。
     さあ、ぶっ飛ばそうか。もはや思い存分走っても怪我することはないだろう。足の痛みを忘れよう。背中にしまい込んだ羽根を広げて、空中を滑空しよう。走れ、走れ、全速力で。腕のGPSが4:05m/kmと指している。2日間、足の速筋なんていっさい使ってなかったから、いくらでもスピードを上げられる。うほほー、やっぱし走るのって楽しいや!
     湯煙立ちのぼる温泉街。夕暮れの橘湾の静かな海。走りつづけてきた湾岸の道程を後ろに置き去りにしながら、最良の気分でラスト500mをスプリントする。
     
  • 2016年03月01日バカロードその92 坂道つづくよどこまでも
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
     
     今年の春に参加し173kmをやっとこさ完走した長崎県の「橘湾岸スーパーマラニック」は、1年に2度、春と秋に開催されている。
     春と秋ではコースが異なっている。春は長崎市街からスタートし、標高100~300m程度の山を15個ほど上り下りして小浜温泉にゴールする173km、秋は小浜温泉を起点に、島原半島の海岸線を半周し、雲仙の山岳地帯を大縦断して温泉に帰ってくる103kmの設定だ。秋のコースは距離は短いものの、真夜中の12時にスタートし、標高480mと750mの山越えがある。100kmロードの自己記録にプラス3~4時間はかかってしまうとのこと。
     さらに当大会では、2年に1度「W部門」というものが開催される。通常の春と秋のコースをいっぺんに全部走りきってしまう276kmの超ロングレースだ。
     この276km部門に参加するには資格が必要である。資格のタイプは「第1優先」から「第6優先」まで分類され、より上位の優先者から参加が認められていく。
     橘湾岸マラニック独得のユニークさはこの優先順位に表れていて、もっとも優遇されるのは過去にこの「W部門」に挑戦して完走できなかった人なのである。当大会では完走した人よりリタイアした人を大事にしているのだ。ランナーを走らせるために大会が存在し(つまり経済効果とか地域おこしなど大人の事情が入らない)、ランナー目線が徹底されたこの大会ならではのルールといえる。
     
    ■昼から夜へ(スタート~45km)
     前夜に宿泊した長崎市街のホテル真正面に、有名なカステラの老舗「文明堂」の本店があった。お土産用にと買い求めたカステラ一本を我慢できず封を開けてしまえば、地に敷きつめられたザラメ糖がたまらなく旨い。一口つまみ、また一口いやしをしてるうちに一本全部食べ切ってしまう。欲望に抗すことのできないダメ人間だと落ち込む。おかげで朝から腹がでっぷり丸い。
     僕のスタート時刻は昼1時である。「僕の」というのは、ランナーによってスタート時刻がバラバラなためである。276km部門のスタート時刻は、10時、13時、16時、18時、20時、22時と6段階に分けられていて、都合12時間もの時差スタートとなっている。
     僕の属する13時スタートは「一般ランナー部門」であると思う。16時なら相当な実力者、20時は少数のエリートランナー、22時は100kmなら7時間台で走るアスリートさんである。このスタート時刻の割り振りは、怪我などの事情がない限り、基本的には主催者が決定する。該当ランナーの同大会における過去の成績や、ネット上で検索できる他大会のタイムで総合判断されている。
     スタート時刻は異なれど、276km先のゴール制限時間は決まっている。2日後の夕方5時だ。したがって10時スタートの人は55時間、22時スタートなら43時間と、スピードのある選手ほど制限時間が厳しくなる仕組みだ。
     今回の総参加者約100人のうち、13時スタートは28人である。
     まず主催者からお話があった。「わけあって次回からはコースを変更するかもしれない。最後となる(かもしれない)コースを完走したと後のち自慢できるよう、たっぷりとこの道を味わってください」。そして「途中で近道を知っていたら、近道を行ってもらってもいいですよ」という凄いローカルルールを述べられた。「ただし、近道はだいたいすごい坂道ですけどね」とのことである。ま、そりゃそうだ。この大会は、コースの大半が曲がりくねった登り坂か下り坂。ヘアピンカーブの車道をショートカットしようと試みれば、そこは荒れ果てた山肌の直登ルートか、急傾斜の階段が待ちかまえているだろう。
     スタート直後から、標高330mの稲佐山の頂上を目指す。10回以上参加のベテランが引っ張る集団にいたので、正規コースを外れガンガン裏道に入っていく。「やったー近道だぁ」と喜んでいたら、延々とつづく階段や、アキレス腱が伸びきってしまいそうな急坂が現れ、ドウドウと汗を流して登るハメに。そして近道の出口には、平坦な正規コースを元気に走ってくるランナーたちと再遭遇。さっきまで同じ位置にいた人たちである。近道、ぜんぜん速くないなー、おまけに階段登らされて脚にダメージ深し。
     稲佐山に登頂したらいったん市街地まで降り、ふたたび標高270mの「あぐりの丘」へ登り、式見漁港という漁村へ下る。
     海岸線の道は平坦ではなく、岬をぐるっと越えるたびに幾つものコブをエッホエッホと登っては下る。そのうちに日は暮れ、長崎湾口にかかる女神大橋にさしかかる頃には、100万ドルの夜景と称される長崎市街の美しい光の連なりを遠望する。スタートから45km、走り旅ははじまったばかり。この先、もっと厳しい山越えが続くことがわかっているので、できるだけ脚の筋力を使わないように、スリスリとももを上げずに走る。
     
    ■夜から朝へ(45km~115km)
     夜6時。長崎市から南の天草灘方面へと25kmほど、海を切り裂くように三角錐を突き出す野母崎半島への旅がはじまる。
     半島といっても過疎地ではなく、郊外のショッピングエリア風情の賑やかな市街地が続く。道路は、長崎市からの帰宅ラッシュの車で大渋滞している。
     凸凹のある歩道をダラダラと登る坂が何キロも続き、たいして走ってないわりに疲労感が増してくる。愛媛から参加された古賀さんという実力のあるランナーの方と30kmほど併走しているが、どうみても僕の方が走力が劣るために、のろのろスピードにつきあってもらっていて申し訳ないなーと身が縮む。
     70km地点の「権現山山頂エイド」は標高200m、岬の突端にある。70kmに9時間かかっている。ゆったりペースで地足が残っていればいいのだが、反対にすごくヘバッている。エイド脇で5分ほど横にならせてもらう。仰向けになったまま、エイドでもらった甘いミカンを6個、口に放り込みつづける。ここら辺りまで来れば繁華街の灯りが届かないため、天球いっぱいに広がるチカチカと瞬く星屑が、手が届くほどに近い。
     次の目標地点は10km先、80km地点の「樺島灯台公園」だ。灯台たもとの樺島漁港に用意されたエイドでは、大会名物の牛スジカレーライスを出してくれるから、多くのランナーがこのカレーを目当てに元気をふりしぼって夜道を駆ける区間だ。
     ところが、この間に僕の体調はいちじるしく悪化し、吐き気がひどく、エイドに着いても何も喉を通らない。魚の集荷場のコンクリートの床に横たわり、鉄骨組みとスレートの屋根裏をぼんやり見つめては、この先つづく真夜中の峠道から目を背けようとする。
     深夜12時。吐き気止めの薬を大量投与し、オエオエえずきながら標高250mの峠越えに向かう。民家も街灯もとぼしい夜道。歩いているのか走っているのかわからないペースでは距離が稼げず、眠さも相まってうんざりしてくる。峠の登りの真ん中あたりで、自動車のハッチを開けて個人エイドをしてくれている方がいた。地獄に仏、いや闇夜に人の優しさが胸にしみる。いったんここらで限界値に到達と、車の脇のアスファルト上に膝から落ちる。すると、打ち上がったフナのようにグロッキーになったランナーが4名、路上に転がっている。いやはや、みなさんお疲れなのですね。ヘトヘトなのは僕だけじゃないのですねと安堵する。
     100km付近にあるエイド「川原老人の家」に着いたのは深夜3時。少し吐き気が治まっており、温かい水ギョウザや漬け物をいただく。奥の広間で横になれるよ、とスタッフの方が案内してくれたので、畳敷きの大広間で横になる。しかし100km程度でこんな疲れてていいのかね。タフさのかけらもないんだよね。
     比較したら不謹慎だけど、アフガニスタンやスーダンの難民の方々は、着の身着のままで、食べ物も乏しいまま、1万kmもの距離を歩いたり走ったりしてドイツやイギリスを目指してるんだよな。アフガンの10歳足らずの少年が、たった1人で野宿をしながらフランスまで歩き、ドーバー海峡トンネルを越えようとしてるドキュメンタリー番組を見たんだ。
     一方、こちら満ち足りた平和なお国で、エイドで美味しい食べ物いただきながら100km、200km走るのにヘバりまくっている・・・情けないねえ。戦火に追われ、破れたズック靴で砂漠を歩き続ける少年を想像しながら、「老人の家」の畳部屋でごろごろする中年男子です。
     当エイド以降は、時速2kmというだらしないペースに終始し、ほとんどの後続ランナーに抜かれ、すっかり朝日が昇りきった後に115km地点の茂木漁港にある仮眠所に着いた。民宿「ナガサキハウスぶらぶら」は、大会が用意してくれた前半戦唯一の仮眠所だ。かつて料理料亭であった立派な日本家屋を部分改装し、若者向けのゲストハウスとして再オープンさせた施設らしい。1階の車庫スペースがランナー用の食事エイドで、あずけてあった荷物の受け渡しを行う。2階のお風呂場でシャワーを使わせてもらい、3階の暖房の効いた大広間で休憩をとる。大広間には座布団や掛毛布があり、15分ほど眠ろうと努力してみたが、朝日のシャワーで睡眠欲は消し飛ばされている。
     「仮眠所」ながら、ここで休憩しているランナーはほとんどいなかった。大半の選手は、軽食をとってそのまま走っていったみたい。みなさん、強いですね。そして僕は弱いです。
     
    ■2日目の朝から2晩目の夜へ(115km~173km)
     2日目になると、自分が今どこにいるとか、何キロ地点を何時間で越えた、なんてのはどうでもよくなってくる。ペースが遅すぎて(今はキロ11分30秒か・・・)なんて管理するのもちょっと馬鹿馬鹿しいし、こんなんじゃダメだと反省してもスピードを上げる脚はない。残りの距離を暗算すれば(あと150kmでゴールか・・・)では展望が開けず、努力して手前に手繰り寄せる気が起きない。時間にも距離にもあらがえないんだから、ストップウォッチもGPSも邪魔なだけだ。ビートルズのレット・イット・ビーを「なすがままに」と翻訳した人、天才だね。状況を変えることはできない、ただなすがままに、ただ目の前に開ける景色を、少しずつスローモーションで後ろに送っていくだけ。
     海辺の堤防道路を離れ、住宅の裏から頼りなく伸びるつづら折れの道をゆく。138km地点にある標高150mの「飯盛峠」のてっぺんエイドに着くと、手づくり感たっぷりの粒あんおはぎが振る舞われる。
     いったん船津漁港まで下り(この「漁港まで下り」というフレーズがほんとに多いです)、トラクターが行き交う農道を140mほど登り、広大なじゃがいも畑を突っ切る。そしたらまたまた下りに下って、のっぺりした内海のようなたたずまいの橘湾岸の道路に出る。
     波のない穏やかな海の対岸には、当大会で「中継地点」と呼ばれている小浜温泉街の高層ビル群(旅館ですね)が霞む。右手には海原深く、なだらかな傾斜を描いて海面まで落ちていく島原半島の緑。いかにも火山の溶岩流や噴出物が積み重なってできた大地だと感じさせる。
     そして、温泉街の背後には急峻な山岳地帯が鋭利な山容を見せつけている。かすみ雲の向こうに身を潜めているのが標高1480mの雲仙岳の三峰五岳だろう。今から、この筋力のカケラもない足で、視界にすら捉えられない島原半島の果てまでぐるっと回り込み、怖っそろしい高さの雲仙岳の横断道路を登って、戻ってくるのかなー?
     いかんいかん、先のことを考えるのはやめとこ。気が遠くなる。
     160kmあたりで日没となり、2度目のヘッドランプを装着。旧国鉄の廃線跡に敷かれた狭い車道や、切り出した石と煉瓦積みのトンネルを抜ける。温泉の繁華街に入ると、中継地点の「小浜温泉エイド」まで残り3kmとなる。側溝の穴や、配水管の出口から、白い湯煙が数十と立ち昇る。道ゆく自動車の中から、あるいは歩道を歩いている人たちから次々と「頑張れ」「ナイスラン」と声をかけられ、ちょっとしたスター気分を満喫する。
     到着予定時刻から遅れに遅れて夜7時、173kmの「小浜温泉エイド」にかりそめのゴール。スタートから30時間たっている。
     
    ■中継地点であたふた
     中継地点「小浜温泉エイド」では、いくつかの決まり事がある。
     ①夜8時までに到着した選手は、再スタートを切ってはならない。
     ②夜8時から12時まで1時間おきに「リスタート」を行う。出発時刻はランナーが自ら決める。
     ③夜12時までに「リスタート」できない選手は失格となる。
     つまり、どんなに早くここに着いても、少なくとも夜8時までは先に進めないってことだ。
     多くのランナーがもくろむのは、お昼から夕方の時間帯でなるべく早めに「小浜温泉エイド」に着き、仮眠時間をたっぷり確保する。よく眠って鋭気を養ったのち、フレッシュな気持ちと再充電された体力で後半戦に臨む・・・という青写真である。
     しかし今はすでに夜7時。再スタートの第一弾が行われる夜8時まで、1時間しか余裕がないのである。
     「夜12時にリスタートできなければ失格」というルールだから、最大5時間の休憩をとっても良さそうなもんだが、現時点で生き残っているランナーの大半が夜8時に再出発するようだ。残り103kmに対し21時間。出だしから徹夜走がつづき、夜明けの後には大きな山越え2カ所が控える。参加経験のあるランナーは口を揃えて、「残り103kmに対し21時間でも余裕はない。キツい」「夜8時リスタートでギリギリ間に合うかどうか」と言う。
     ならば選択肢は夜8時リスタートしかない。
     あと1時間。再出発まで分刻みで用事を済ませなくてはならない。まったくもって、休憩場所のくせに走っている以上に大忙しである。
     まずは、あずけていた荷物を公民館の広間から探し出し、30時間着つづけて汚なくなったウエアをきれいなのに着替える。
     次に、徒歩3分の所にある民宿「小浜荘」に向かい、お風呂で汗を流す。天然温泉湧き出すせっかくの良湯なのに、湯舟につかるのは約2分。洗い場で全身をシャンプーと石鹸まみれにし、後半戦で体臭を放たないよう涙ぐましい努力。
     手ぬぐいで股間をパンパンッとぬぐい、髪の毛を乾かす間もなく公民館に引き返し、走りだす寸前までの装備を整える。ヘッドランプをスペアに交換し、ワセリンを股間に塗りたくり、痛むヒザに湿布を貼り、乳首テープをおニューにし・・・などなど。
     食堂に移動し、ボランティアの方が用意してくれた豚汁におむすびを浸し、流動食的にして喉に流し込む。汁3杯とおむすび3個を胃につめこんで、炭水化物と塩分チャージを速攻完了。
     ここまでで30分。
     「よし、リスタートまで30分眠れるぞ!」と、ガーガーとイビキをかいて眠るランナーたちでぎっしり埋めつくされた薄暗い広間を、かきわけかきわけ横になれるスペースを確保!・・・した瞬間に天井の蛍光灯が点いた。ま、まぶしいよう。ほとんどのランナーがむくむくと起きだし、「さあいよいよ出発だな!」と気合いを入れはじめる。荷物準備のビニル袋のガシャガシャこすれる音がやかましく、寝ぼけた人に足を蹴飛ばされたりして、もはや睡眠どころではない。ということで一睡もできないまま2晩目の徹夜走のスタートラインに向かわざるを得ないのであった。
                                                       (つづく)
  • 2016年03月01日バカロードその91 睡魔をねじふせたい

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

    いまだ一度たりとも克服したという実感を得られない徹夜走。その睡魔との戦いについて、考察を深めてみたい。 200km以上あるいは24時間以上のレースでは、日没から翌日の出まで夜間を走り続ける行為を避けては通れない。200kmオーバーへの挑戦とは、イコール徹夜走に向き合うことに他ならない。

     20年前なら山岳レースなら日本山岳耐久レース、ロードなら萩往還やさくら道など、国内全体でも年間に数百人しか経験することのなかった徹夜走は、現在では100マイル(160km)超のトレランが目標レースとなり、2日間以上を使うロードレースも増えたことで、日本国内だけで数千人規模の「徹夜走」競技人口がいると推察できる。
     100kmまでのウルトラマラソンと200km以上のレースは、根本的に競技の種類が違う。それはフルマラソンと100kmマラソンの関係性をはるかに越えて、違っている。
     足が速い、持久力が優れている、などそれなりに運動能力が反映される100kmに比べて、徹夜という要素が入り込む200kmオーバーでは、肉体も精神も何度となくハチャメチャに壊されたうえで競技を続ける特殊な局面が重点を占める。
     持って生まれた運動センスや、トレーニングによって向上させた心肺能力や脚力を、ランナー全員が一度リセットされ、ゼロのラインから「せーの、ドン」を余儀なくされる。そこからは、苦痛に耐えきる精神力だとか、眠気を吹き飛ばす珍作戦とか、前進しつづける根性だとか、とっても昭和のスポ根漫画な香り漂う、ぼくたち世代が愛してやまない非科学的な世界に突入するのである。
     徹夜走では、自分の持つ弱さが丸裸となり、さらけ出されてしまう。昼間の真人間な時分なら我慢できる痛みや辛さに、まるっきり耐えられなくなる。
     家族の入院つき添いや介護をしたことがある人ならわかると思うが、ふだんは理性的な人でも、闘病生活が続くと幼児並みのタダをこね、わがままを炸裂させはじめる。健康な頃、職場や家族という人間集団のなかで、立場にふさわしい人格を演じたり見栄を張っていた虚像部分のタガが外れてしまうのだ。肉体や心に直接的に起こる危機シグナル・・・痛くて、苦しくて、吐き気がして。不愉快な刺激を受け続けると、人は社会的な仮面などかぶってられる余裕をなくす。不眠で走っていると、そんな入院患者の心理に似た状態に置かれる。
     「眠いよう」「もうやだよう」「帰りたいよう」と平気で口走る。他人がネガティブ発言を聞いてどれほど嫌な気分になるかなんて、想像する余裕をなくす。何よりも自分を甘やかすことを優先し、田んぼのあぜ道やら、他人の家の軒先で平気で横になる。見栄も外聞も捨てると、人間は(ぼくは)こんなにもだらしなくなるのだと知る。
     ふがいない徹夜レースを、何度となく繰り返してきた。
     四十路も盛りになって、これ以上人間性が向上することなどないだろう。我慢強さも清廉さも、十代の頃がいちばん立派であった。では、中年男が既に失ってしまった精神力や根性に頼ることなく、徹夜走を乗り越えられる方法はないだろうか。人は夜になれば眠るものである。この自然の摂理をねじ曲げて、翌朝まで走り続けられる方法などあるのだろうか。
                □
     徹夜走に慣れるために、夜中から朝までの距離走を何度もやってみたが、あまり意味がないことがわかった。スタート時刻を夜に設定すると、朝までぜんぜん眠くならず元気なまま終わってしまう。
     夜間スタートの多いトレランに比べ、ロードレースのほとんどの大会は、早朝5時~7時あたりにスタートし、日中に100km以上を走ったうえで、日没に突入する。とうぜん身体は疲れ切っていて、脳は休息を厳命してくる。昼間に体力を使いすぎていると、睡魔はより威力を増す。
      眠気には周期があり、2時間おきくらいに強烈なのがやってくる。が、その状態は30分程度で去っていくことがある。
     眠ってはいないものの、浅い居眠り状態のレム睡眠と、身体を強制的に休息状態に置こうとするノンレム睡眠的な脳波が交互に繰り返されるのだろうか。
     
     いっそ睡魔に抗わずに寝てしまえとも思う。レースを半ば捨ててしまったときはグースカ野宿をはじめてしまうのだが、これでは「徹夜走の克服」とは言えない。
     250kmを30時間台でゴール制限されているシリアスレースでは、ランナーに睡眠時間を与えてくれるほど関門時間が優しく設定されていない。眠ってしまえばレースはそこで終わりを告げるのだ。
     5分、10分程度の仮眠で収まればいい。しかし爆睡モードに入ると簡単には目が覚めない。わずかな休憩のつもりが、いったん目を閉じ、深い眠りに落ちこむと、瞬きほどの時間を経た感覚なのに、時計のデジタル数字が1時間、2時間と進んでいる。もはや関門時間には間に合わない。「嘘だろ、嘘と言ってくれ」とうろたえる。
     よほどのスピードランナーが昼間にぶっ飛ばして時間の貯金をしてない限り、1時間も眠りこけてしまえば、次の関門には間に合わないようにできている。ぼくたちスローランナーは不眠不休で走り続けるしか選択肢はないのだ。
                    □
     では今までぼくがどのような徹夜対策を立てては実行し、失敗し続けてきたのかを列挙してみよう。そして、お薦め度を☆マークで記してみました。
     
    ①レース前夜に極限まで眠り、寝だめする(☆)
     いかにも素人が思いつきそうなことである。レース前日、遠征先のホテルにチェックイン時刻の午後3時と同時に入り、晩メシ(コンビニや弁当店で既に調達済み)、入浴、明日の走る準備を1時間で終え、午後4時には遮光カーテンをぴっちり閉め、布団にもぐり込む。翌朝の起床時間が午前5時だとすれば、13時間は睡眠を確保できる。翌日からの徹夜レース分の睡眠時間まで、まとめて前倒しで取ってしまうという、寝だめ期待論だ。
     これが上手くいかなのは、人間はだいたい7時間も眠れば、勝手に目が覚めてしまうってこと。首尾よく夕方から眠れても、夜中の12時頃に目覚めてしまい、あとはどんなに頑張って寝ようとしても目が冴えたままで、明け方まで一睡もできなくなる。「もっと寝なくちゃ」と焦れば焦るほど事態は悪化し、夜明けを迎える頃にはヘトヘトになっている。
     また、仮に13時間眠れたとしても、寝だめの効果はほとんどないと実証済みである。翌日の夜には「こんばんわ」と睡魔がやってくる。
     
    ②走りながら眠る(☆☆)
     「走りながら眠る」といっても、熟睡してしまえば倒れるしかない。半覚醒・半睡眠の状態で歩みを止めないってことだ。夜間、このような状態に陥っているランナーは少なくない。左右に蛇行を繰り返し、後ろから見ていると危なっかしくて仕方がないのだが、半覚醒の状態は、酔っぱらいの千鳥足に似ていて、側溝などに落ちそうでいて落ちない。
     むろんスピードは出ないから1時間に4kmも進めばいい方だが、そんなのろのろペースだとしても、日没から明け方にかけての10時間に40kmは前進しているわけで、うたた寝しながらもゴールがそれだけ近づいたという事実は、夜明けのランナーの心を慰める。
     しかし極度の睡魔に襲われたときは時速2kmまで落ち込む。こうなると歩いている方がよっぽど速い。「いっそ30分ちゃんと仮眠して、その後に時速4kmで30分歩いた方がマシではないか」とか、「1時間寝て、次の1時間で4km走れば同じじゃないか」とか、頭の中で暗算を繰り返す。しかし、現実は1時間仮眠しても、次の1時間は時速2kmしか出ないから、寝るだけムダである。そもそも仮眠を取ったからといって、眠気が飛ぶかというと、そうでもない。寝る前よりもっと眠気が増して、体がぜんぜん動かなくなることもある。
     ということで、時間をかけて努力するほどには距離を稼げず、また事故のリスクも高いダメダメ作戦である。
     
    ③ドリンク、ガムに頼る(☆☆☆)
     徹夜ランナーの間で評判のいいドリンク「打破」シリーズは、「眠眠打破」「強強打破」「激強打破」の順にカフェインなどの含有原材料の量が増し、お値段も上がっていく。1本500円もする「激強打破」の原材料を見ると、スッポン、赤マムシにとどまらず、サソリ、蟻、ウミヘビ、馬の心臓・・・とまで書いてあり、もはや牛乳瓶メガネをかけた変態博士が調合したトンデモ薬の様相を呈しているが、常磐薬品という立派な製薬会社で造られているので心配はないと思いたい。原料があまりに刺激的すぎて、水分枯渇した身体に摂取するのが怖く、深夜エイドに何度か置いたものの、いまだにビンのフタを開けていない。
     ハウスウェルネスフーズの「メガシャキ」「ギガシャキ」はコンビニで調達しやすい。「リゲインエナジードリンク2000」はカフェインとアルギニンの含有量が最強クラスだから、「効くかもしれない」というプラシーボも期待できる?
     いずれもそこそこ値段が張り、「ああ眠い」くらいには効くが、走りながら寝落ちするくらいのハイレベルな睡魔には役不足かもしれない。
     もっと格安で原始的な方法としてはガムがある。クロレッツの黒色「シャープミント」を噛む。ひたすらガリガリ噛む! ガムに含まれるメントール系によるすっきり感もあるが、顎を動かしつづけて口角周辺の筋肉を動かし、血流量を増して脳に刺激を与えることで覚醒効果が生まれる、ような気がする。「しゃべり続けていると眠くならない」現象と仕組みはよく似ている。
     
    ④片目ずつ眠る(☆)
     イルカなどの海洋性哺乳類は1日のうちの50%程度の時間を眠っているという。しかも泳ぎながら! 彼らはゆっくり熟睡しているわけではない。常に天敵から身を守る注意を怠らず、また肺呼吸のため時おり海面まで上昇して呼吸しなくてはならない。
     そのために「半球睡眠」という技を編み出した。片目を開け、反対の目をつむる。これを交互に繰り返すことで、視神経と連動している側の脳を半分ずつ眠らせるのだ。
     イルカにできて人間にできないわけがない。いやもとい、イルカがやってる離れ業を人間がマネできるはずがない。この「片眼睡眠」信仰は、徹夜ランナーにはけっこうな信憑性をもって浸透しているのだが、実際にやってみると、辺りに光源がない場合は、片目を閉じても閉じなくても視界に映る光景は真っ暗で変化なく、余計に眠くなってしまうのである。また片目だと、とうぜん遠近感もおかしくなるので、段差につまずいたりして、危なくてしょうがない。鈍足ランナーは海洋生物にはなれないねぇ。
     
    ⑤猛烈に走る(☆☆☆)
     ある時、尊敬するレジェンドランナーの方に質問をした。「夜中にどうしても寝落ちしてしまうんですけど、克服する方法ってないんですか?」。すると、間を置かず答えてくれた。「簡単かんたん。眠くなればキロ4分30秒で走ればいいんだよ」。師曰く「夜中にキロ4分30秒も出せば、苦しくて苦しくて、眠いどころじゃなくなるから、眠気なんて消えてしまうよ」というわけだ。この話を聞いたときは半分冗談かと思っていたが、後にある250kmレースに参加した際に、深夜2時の峠道をワーッと叫びながら爆走するご当人を目撃してからは、信憑性が一気に増した。
     以来、ときどき真似してやってみている。深夜にキロ4分台を出せるスピードはぼくにはないけれど、5分30秒くらいでゼエゼエ息を荒げていると、確かに眠気はふっ飛んでいく。初めてやってみた時は「これか!これだったのか!」と感動に打ち震えたものだが、問題がある。そんなスピードを長く維持できるはずがないのである。息が続かなくなって脚が重くなると、疲労がどっと押し寄せ、ダッシュする前より強烈な睡魔がやってくるのであった。
                  □
     というわけで現時点では、何ら解決策は見いだせていない。なんのハウツーにもならないコラムを詐欺的に読まされた徹夜ランナーの皆さん、ごめんなさい。
     11月から12月にかけて200km以上レースに3本出場している。今回あげたような失敗に懲りず、いろんな試みをやってみるつもりだ。
    ・エスビー本生「生七味」をすする。チューブパックで携帯便利。
    ・よく効く湿布を顔中に貼る。
    ・鼻毛を抜きつづける。
    ・両まぶたを洗濯ばさみで軽くつまむ。
    ・輝度の高いヘッドランプを5個くらい装着し、視野全景を煌々と照らす。
     根性と走力はないけど、創意工夫への意欲とやる気だけはあるのです。
     
     さて人間の意思では抗しがたい睡眠への欲望だが、今の時季なら午前6時にもなり、東の山端や水平線に夜明けの曙がにじみだすと、少しずつ意識も明瞭になってくる。そして体に一条の日射しを浴びると、眠気はたちまち霧散していく。
     たとえ一睡もしていなくても、朝が来れば人は目覚めるのだ。睡眠欲というのは、連続して起きている時間によって左右されるものではないと実感する。睡魔とは、脳の視床下部に組み込まれた24時間周期の体内リズムや、視界が闇に覆われるという無刺激的な環境がもたらすものなのだ。
     一流の催眠術師は、夜明けとともに去っていくのである。皆さん、ジタバタせずに朝を待ちましょう。
  • 2015年12月10日バカロードその90 ジャーニーランへのいざない

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

    自分が使う荷物をすべて背負い、地図を頼りに超長距離を走る行為をジャーニーランと呼んでいる。たった1人で野山に走りにでかけるのも、大人数で同じゴールを目指すのも、ジャーニーランと言える。いつ誰が言いだしたかはわからないが、1980年代に発行されたジェイムズ・E・シャピロの著書「ウルトラマラソン」(森林書房刊)にはこの言葉が登場しているので、少なくとも日本人が使いだす以前から、欧米では存在していたようだ。

     ジャーニーランを集団でおこなう際は、2つの異なるレース形式がある。「ステージ形式」と「ワンステージ形式」だ。毎日特定の場所からゴール会場を目指し(たいていは宿泊施設が指定される)、宿泊を重ねながら前進していくのがステージ形式。かたや200kmを超えるような超長距離を、宿泊所を設けず徹夜で走り続けるのがワンステージ形式である。
     こういった宿泊の有無とは別に、主催する人や参加するランナーの意識の違いによって、のんびり楽しい「走り旅」と、走りを極める「レース」に2分類できる。名所や旧跡をめぐり郷土料理に舌鼓を打ちながら旅を楽しむ「走り旅」は和気あいあいとした雰囲気、それとは逆にタイムや順位を競うスポーツライクな「レース」もある。
     ヨーロッパでは「ステージ形式のレース」がとても盛んだ。フランス人やドイツ人がこの競技形式を好み、両国内では1000kmクラスのステージレースが頻繁に開催されている。サハラ砂漠やヒマラヤ、南極などで行われているアドベンチャー系の大会も、あるいはヨーロッパやアメリカで時おり開催される大陸横断レースも、宿泊しながら総合タイムを競うというステージ形式を採っている。これらエクストリームな大会の主催者にフランス人やドイツ人が多いのも頷ける。競技の幅を広げてみれば、自転車レースの最高峰ツール・ド・フランスは、世界最大規模のステージレースと言える。フランス人のステージレース好きは100年の時を数えて存在し、壮大なスポーツビジネスの市場を創りだしている。
     ぼくはこの毎日宿泊しながら進んでいくステージ形式のジャーニーランが大好きである。
     ワンステージ形式の場合、走力に差のあるランナーとは、スタートラインを超えた先では、ほとんど遭遇する機会はない。たとえば5日間レースなら、先頭と最後尾の選手では、ゴールの時間差が50時間にも及ぶ。距離にすれば200kmだ。鈍足ランナーがゴールする頃には、上位選手はとうの昔にお家に帰宅し、翌朝会社に出勤しているかもしれない。
     一方のステージ形式ならば、どんなに足の速い一流選手も、あるいは60代や70代のベテランランナーで、もはやタイムなど関係なく走り旅を楽しんでいる方ともゴール会場で会える。ともに風呂に浸かり、ビールで乾杯し、町の名物料理を食べ、大部屋で枕を並べて寝る。総合優勝を狙っている人も、足裏に大きなマメを作り歩くのがやっとな人も、翌朝には同じスタートラインに立つ。それぞれが持つ運動能力や年齢、性別といった条件差が、毎日リセットされる。
     ランナーやサポートスタッフ、応援に訪れた人たちが、一大キャラバンを成して、町から町へと移動していく。旅芸人の一座のように、西部開拓時代の幌馬車のように。そんな旅情あふれる流浪感がよいのである。
        □
     現在、国内ではこのステージ形式のジャーニーラン大会は、数えるほどしか行われていない。
     かつては日本でも盛んにジャーニーランの大会が行われていた時代がある。1990年代から2000年代初頭だ。田中義巳さんという自らも超ウルトラランナーでありウルトラトライアスリート(※)でもある氏が、次々と新コースを開拓しては、日本中のジャーニーランナーたちを集め、また育てながら歴史を切り開いていった。
    (※ウルトラトライアスロンとは、トライアスロンのロングディスタンスの3倍、4倍の距離で行われる競技。たとえば1992年にハンガリーで開催された4倍トライアスロンは、スイム15.2km、バイク720km、ラン168.8kmの合計904kmで、ゴールまで4日間を要している)
     1991年には、今や伝説的な大会である「東海道五十三次遠足ジャーニーラン」がスタートした。30余名のランナーが東京・日本橋から京都・三条大橋までの504kmを、6ステージ制で走った。初代のトップランナーは海宝道義さん。アメリカ大陸横断レースを2度完走したスーパースターだ。完走者は12人だった。
     主に旧街道をコースに組み込んだジャーニーランの大会は広がりを見せ、1994年には「フォッサ・マグナ+塩の道ジャーニーラン」、1999年に「中山道六十九次遠足ジャーニーラン」が行われた。
     まだトレイルランという言葉がない時代、当時は「登山マラソン」などと呼ばれていた1993年に、「日本アルプス大縦走チャレンジ」と銘打った壮大な山岳レースも行われている。太平洋側である静岡駅を発ち、南アルプス、中央アルプス、北アルプスの主要尾根80ピークを越えて、日本海側へと達するコース。6名が参加し、完走したのは呼びかけ人である田中義巳さんただ1人であった。
     現在に伝わる「ジャーニーランルール」は、当時の田中さんが考えたコンセプト上にある。骨格となる考え方は、
    ①ジャーニーランには「参加者」はいない。走る人1人ひとりが「主催者」となって、自分を走らせる。
    ②走行中、必要とする荷物はすべて自分で持って走らなければならない。
    ③自分以外の人の助力は、一切受けてはならない。
     である。つまり企画者はイコール主催者ではなく、「こんなことしませんか?」と声をかける人=呼びかけ人である。こう説明をすると「呼びかけ人」は、気楽な存在のように聞こえてしまうなら事実に反してしまう。
     何百kmというコースの下見にはじまり、コース設定、安全確保、大人数となる宿の手配、予想外のトラブルへの対処などなど、大会をうまく成功に導くには生半可ではない努力の積み重ねがある(と想像する)。
     では企画者が主催者ではなく、ランナーが主催者とはどういうことか。重要なポイントは、依存性の排除である。道案内も道しるべもない途方もない距離の道を、ある時は草をかきわけ、また増水した川を渡り、農道や林道のガレ道をゆくコースは、他人に頼っていては絶対にトレースできない。大嵐になって道路が濁流と化す場面もあれば、何十kmものあいだ水場ひとつない無人地帯をゆく場面もある。不測の事態に陥ることは珍しくない。しかしジャーニーランを自らの意思で行うからには、その全ての局面に自分の力と判断だけで立ち向かわなくてはならない。誰も助けには来ないし、他人は何も判断しない。1人で考え1人で行動する。そんな気持ちを持っている人の集まりでなければ、ジャーニーランの大会は破綻してしまうだろう。
     田中義巳さんの思想を受け継ぎ、現在も定期的にジャニーランの大会を企画しているのが御園生維夫(みそのうゆきお)さんだ。
     御園生さんは、1994年に開催された北米横断レース「Trans America Footrace」に大会のサポート役として参加された。そして1996年にランナーとして「東海道五十三次遠足ジャーニーラン」に出場し、そこで得た経験や感動を多くの人に伝えたいと、ジャーニーランの大会を作りはじめた。
     1997年、自らの出身大学がある北海道を舞台に、第1回「トランス・エゾ・ジャーニーラン」を呼びかけた。太平洋に突き出した襟裳岬を起点に、北海道の背骨ともいえる山岳地帯を越えて、オホーツク海を望む日本最北端・宗谷岬の先端をゴールとする、7日間、555kmのステージレースだ。
     22人のランナーが駆けた第1回トランス・エゾは、「誰と競うことなく、自分の思いを宗谷に届ける」というコンセプトや、雄大な北の大地を走り続けるというロマンが評判を呼んだ。翌々年には、NHKドラマ「天使のマラソンシューズ」の題材となり、名優・山崎努、石田あゆみがランナー役、筒井道隆が取材記者、山本未来が大会スタッフという豪華俳優陣によって演じられた。また、ドキュメンタリー番組「ドキュメントにっぽん」も同行取材を行い、こちらは実際のランナーの物語が綴られた。
     2000年大会には、参加人数の増加に応じて宗谷岬→襟裳岬→宗谷岬の往復1105kmとスケールアップした。
                 □
     トランス・エゾ・ジャーニーランは来年2016年夏に第二十回大会を迎える。
     この素晴らしい世界を、もっと多くのランナーに知り、実際に体験してほしいと思う。
     ジャーニーランの世界を作ってきたランナーの多くは、60代中盤から後半の年齢にさしかかっている。70代の方も少なくない。いずれの方も人生経験が豊富で博学博識、本気で走れば適いっこない頑強さを持ち合わせている。ランナーとしても人間としても心から尊敬できる人たちだ。まあ、ただの酔っぱらいも少なくないけど。
     幸せなことにぼくは40代のうちに、この神がかったレジェンドの方々と知り合えた。今30代や20代の若いランナーと、彼ら「生きる伝説」を巡り合わせたい。そしてジャーニーランという文化を後生に伝えていきたい。
      2015年現在、トランス・エゾ・ジャーニーランは、3部門で開催されている。①宗谷岬から襟裳岬までの545km・7日間の「toえりも」。②折り返して北上する555km・7日間の「toそうや」。③全コースを踏破する1100km・14日間の「アルティメイト」だ。
     日程は、毎年お盆の最終日あたりの土曜日に宗谷岬にゴールするように組まれる。
     宿泊する場所は、14日間コースでスタート・ゴールの前後宿泊を含めた15泊の場合、民宿・旅館6カ所、温泉施設6カ所、ペンション1カ所、ホテル1カ所、大学の柔道場1カ所である。そのうち夜食がついているのが7カ所。食事つきでない場合は、宿のレストランを利用したり、ゴール手前にあるコンビニで食料を調達してからゴールに入る。
     11日目の夜、旭川大学の柔道場をお借りして宿泊する日があるが、この夜だけは寝具がないため、選手たちはあらかじめ大学宛に寝袋や独自の寝具を発送しておく。
     1日の平均距離は78.5km。日によって距離は異なり、最も短いのは7日目の53.5km、最長日は12日目の98.3km。コース距離に対して平均時速5.5kmで計算し、ゴールの制限時間が設定される。また距離の長さによって、朝のスタート時間が調整される。最長ステージの日は朝3時スタート、夜22時ゴールという19時間の長丁場だ。
     最終ランナーがゴールに入ると10~15分後に全選手とも参加義務のあるミーティングが行われる。その場で、翌日の行程が記された国土地理院発行の2万5千分の1地図が配布される。呼びかけ人からコース説明が行われるが、ベテランランナーの方から重要な情報が捕捉されることがある。ジャーニーランにおける「重要な情報」とは、「この公園の水道は壊れている」「一昨年あった自販機が、去年は撤去されていた」などである。些細なことに思えるが、水場がないままに20km走ってカラカラに乾いて辿り着いた先で、アテにしていた自販機がなければ、脱水症で倒れてしまいかねない。
     ゴール後は、ミーティング以外にもランナーがすべきことは多い。
     ・入浴(入浴は疲労を除去する重要ポイント。水風呂に長時間浸かったり冷水シャワーでアイシングを念入りに行う)
     ・洗濯(すべての着衣を洗う。背中で蒸れて悪臭を放つ元となるリュックも洗った方がよい)
     ・食事(宿泊所が温泉施設の場合、夜8時頃にはレストランが閉まるため、それ以降に着く選手はゴール手前のコンビニで食料調達の必要がある。ゴール手前といってもその距離10kmの日もあり、弁当片手に10km走るのは大変!)
     ・走行記録の整理(毎日10~20カ所ほどあるチェックポイントの通過時刻やゴール時刻、また積算した総合タイムを自分で計算し、シートに記帳する。そして呼びかけ人に提出する。チェック漏れは完走と認められない)
     ・脚や身体のケア(マメの水抜きと処置、睡眠を取りながらの下肢のアイシング、関節や筋肉のテーピングなど)
     ・朝食の準備(おおむねインスタントラーメンやおにぎりで済ませるが、起きてすぐ食べられるように)
     アレコレの用事を効率よく済ませ、できるだけ睡眠時間を長く確保する。大半のランナーの起床時間は、夜も明けぬ朝3時すぎ。上電灯は点くし、準備のための物音もする。大部屋、相部屋であるため自分だけ長く眠ってはいられない。ベテランのジャーニーランナーらが凄いのは、制限時間3分前とか1分前にボロボロになってゴール会場に現れるにも関わらず、睡眠3時間程度のうちに身体を回復させ、翌朝から元気に走りはじめる所だ。
       □
     ・・・とここまで書いてるうちに、自分はジャーニーランの説明をしているつもりが、本質からずいぶん遠ざかっている気がしてきた。
     細かな説明なんて必要ないのである。怪我への対処、疲労回復のハウツー、装備の軽量化と選択・・・これらはノウハウとして他人に教えられるものではない。自分で走ってみて、自分に最適な方法を見つけていくものだ。自分にとってのベストは、他人にとってのワーストになることもある。ジャーニーランにマニュアルは不要なのだ。
     ジャーニーランの魅力は、自分で発見するものだ。500km、1000km、それ以上の距離を自分の足で移動していくという途方もない行為にあえて挑戦する人は、理由だって動機だってみんなバラバラで、そこに何を見て、何を感じ取るかも全く違うものとなる。
     それぞれの歩みの先に、それぞれの道が伸び、それぞれのジャーニーがある。老いも若きも中高年も、この素晴らしき世界にウエルカム!
      
     
     
    トランス・エゾ・ジャーニーラン日程          
                   
    ステージ 距離 行程 スタート 制限 宿泊 夕食 朝食
    1 75.3 宗谷岬~幌延 5:00 18:00 旅館
    2 82.8 幌延~羽幌 4:30 19:30 温泉    
    3 85.3 羽幌~北竜 4:00 20:00 温泉    
    4 87.7 北竜~栗山 4:00 20:00 温泉  
    5 72.1 栗山~富川 5:00 18:00 ホテル  
    6 84.5 富川 ~浦河 4:00 19:30 民宿  
    7 53.5 浦河~えりも岬  5:30 15:30 民宿  
    8 82.1 えりも岬~忠類 5:00 20:00 温泉    
    9 87.5 忠類~新得 4:00 20:00 温泉
    10 79.8 新得~富良野 5:00 19:00 旅館    
    11 66.9 富良野~旭川 5:00 17:30 大学    
    12 98.3 旭川~美深 3:00 22:00 温泉    
    13 80.8 美深~浜頓別 4:30 19:30 民宿    
    14 60.7 浜頓別~宗谷岬 4:30 16:00 民宿  
     
     
     
    □申込み期間 毎年1月~2月頃
     
    □開催時期 お盆期間を含む前後14日間
     
    □参加分担金
    7日間ステージ「toえりも」「toそうや」ともに5万5000円前後
    14日間ステージ「アルティメイト・ジャーニー」9万5000円前後
    上記に加えて宿泊料金が必要。
     
    □空路アクセスは、往路スタート地点の宗谷岬までは、稚内空港で降りて約20kmを路線バスかレンタカーで。復路スタート地点の襟裳岬までは、新千歳空港か帯広空港を使う。新千歳から180km、帯広から110kmと遠く、高速バスや路線バス、JR鉄道などを乗り継いで向かう。

    □参加資格などの詳細は、ホームページ「のうみそジャニーラン」に掲載されている。
     
     
     
  • 2015年12月10日バカロードその89 6度目の挑戦

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

    (スパルタスロンについて。毎年9月にギリシャで行われ、距離247kmを36時間以内で走るレース。75カ所あるエイド及び大関門すべてに制限時間が設けられている。酷暑、豪雨、山岳地帯の酷寒など厳しい気象条件によって完走率は左右され、20%~60%程度と年によって大きな開きがある) 

     スタートの声は耳に届かなかった。ついさっきまで「3分前!」「1分前!」とカウントダウンコールをしていた大会役員のオジサンが何か合図してくれたはずだが、選手たちの唸り声や雄叫びにかき消されたようだ。

     ギリシャの首都アテネ市街の中心部にある小高い丘の上から、デコボコした石畳の道を350人あまりのランナーが駆け下っていく。1キロ4分台の速いペース・・・これが今から247kmも遠くまでゆく長距離レースの始まりなんだろうか。1年間この瞬間を目指して生きてきたが、いざ始まってみると想像の中の世界を夢遊しているようなフワフワした気分。
     脚が軽い。腰から下に何もついてなくて、上半身だけが勢いよく空中を移動しているみたいな感覚。「ゆっくりだ、100kmまでは体力温存だ」と言い聞かせているのに、身体は前へ前へと進んでいく。
     一国の首都のど真ん中を貫く幹線道路の、左右すべての道の交通を遮断して走るコースゆえに、ギリシャ国内の混乱や公務員のストライキの影響で、うまく安全確保がされてないのではないかと危惧していたが、取り越し苦労であった。例年以上に警察による交通整理はきちんと行われ、長時間にわたって交差点で足止めされているドライバーらからも声援を送られる。
     やがて、長いだらだら坂を登っていきはじめるが、無理にペースを保とうとせず、気楽に走れるピッチを維持する。「速くもなく、遅くもなく」を自分に言い聞かせ、スローペースを貫く。
     3~5kmおきにあるエイドでは、給水コップを2つもらい、両手に持って少しずつ飲みながら走る。42kmのフルマラソン地点までは1歩も立ち止まらないと決めている。朝、左腕に「1分1秒」と油性マジックで書いた。レースのどこかの段階で、関門時間との苦しい戦いになることはわかっている。1分の差が明暗を分ける。どんな場面でも、1分、1秒を粗末に使わないという決意だ。東洋大学陸上部の酒井監督の「その1秒をけずりだせ」をマネしているといえばマネしてます。
    □10kmを通過、51分47秒。
     10kmすぎから長い下り坂に入るが、ここはスピードの出しすぎに要注意である。調子に乗って、脚の筋力を使うべきではない。着地した際に、パンパンッと足音を立てないようそろりそろりと下る。それでもペースは4分50秒台に上がっている。後方から来たランナーにどんどん追い抜かれるが気にせず自分のペースを守る。スパルタスロンは自分以外の誰かと競うような場所ではない。ギリシャの土地や風土、人々の習慣、気候、飲み物や食べ物・・・取り巻く環境の中で、自分の能力を出し切って、247kmの間に自分の身体に起こるさまざまな障害や、内側にある心の弱さを克服し、ゴールへと歩み続ける個人が試される場なのだ。
    □20km通過、1時間43分(この10kmを51分32秒)。
     通過時間が速すぎることに少し戸惑う。(こんな事をやっていたらダメだ、調子に乗るな)と自重をうながす気持ちと、(いや、決して無理してない。調子がいいからそのまま行け)と攻撃的な気持ち。2つの意思の間で揺れる。公園のなかの遊歩道沿いに、地元のヤンチャな小学生、中学生たちが並び、やんやの声援を送ってくれる。毎年この20km前後で「最初のバテ」を感じてガッカリするのだが、今回それはない。疲れひとつ感じていない。
     レース3日前、日本を発つ頃は追い込みの練習と減量で疲労困憊といった状態だったが、ギリシャに入った日の夕方に10kmジョギングし、残りの日は食料の買い出しと大会受付以外は、ひたすらベッドに横たわっていた。60時間ぶっ通しで寝ていたことになる。3時間に1回は食事をした。炭水化物、フルーツ、サプリメントを摂取しつづけた。疲労はすっかり抜け落ち、スタート前夜には走りたくて走りたくて仕方のない競走馬のようないきり立ち方になってきた。おかげで興奮過多に逆ブレし、徹夜レース前というのに目がランランとしてしまい、睡眠薬代わりのアレルギー鼻炎薬を用法の3倍飲んで、ようやく眠りに落ちた。
     3日間の休息と栄養補給は功を奏すのだろうか。出だしは悪くないようだ。
     コースは海添いの工業地帯に入る。急坂ではないが、微妙な上り下りの揺さぶりがはじまる。
     朝の9時にして早くも日射しが強くなっている。気温はいつも以上に低く25度程度だが、雲ひとつない好天は、昼間にかけて強烈な直射日光を浴びせかけてくるだろう。汗をたっぷりかいてシャツが濡れているので、走りながらシャツを脱ぎ、ぞうきん絞りの要領で汗を絞り落とす。ヨーロッパの選手は、上半身裸で走っている人がけっこういる。紫外線のダメージを受けないのだろうか。裸の方が気化熱で体温を下げやすく、有利なのだろうか。一度やってみたい気もするが勇気がない。なんせ半袖から出ている腕の部分だけでも、皮膚の表面がヒリヒリ熱くなっているほどだ。
    □30km通過、2時間40分(この10kmを57分04秒)。
     100kmを10時間で走るサブテンペースに対して20分の余裕を稼いでいる。スパルタスロンを完走するための理想的な展開としては、最初の大きな関門である80kmの「コリントス」に、制限時間の9時間30分に対して1時間程度の余裕を持って入ることだ。つまり8時間30分で通過すればよい。100kmサブテンペースは、この理想的展開を実現する最良のペースと言える。もちろん全力を使い切って余裕を1時間つくっても意味がない。キロ7分台で走り続けられる脚と体力を残したうえで80kmを越える、そしてタイム的にも1時間の貯金がある。そのような理想の型を、今の調子なら手中にできそうだ・・・と思えたのはこの辺りまでだった。
     35kmあたりから、喉の渇きを感じはじめる。今回、ウエストバックと給水ボトルのセットを48km地点のエイドに預けた。スタートから給水ボトルを持つかどうか直前まで迷ったが、50kmまではスピードを優先し、「丸腰」で走ることにした。そのため、手前のエイドでは念入りに、かつ余分めに水を飲んできたが、摂取量以上に汗が流れ落ちてるらしい。
     4kmほどしかないエイド間の距離が、やたらと長く感じられだした。こんな急速に脱水気味になるとは、何やってんだよー。 1年間かけて万全の準備をしてきたはずなのに、「スパルタスロンの克服=まずは脱水症と熱中症予防」という基本中の基本のところで、危機の入口に立ってしまっているのか?
    □40km通過、3時間41分(この10kmを1時間01分01秒)。
     ペースが急速に落ち、キロ6分30秒前後となる。脚はまだ動いているのに、頭がフラフラして、意識が遠くなっていく。
     42.2kmのフルマラソン地点にある計測ポイントを3時間51分で通過。タイムとしてはまったく悪くなく、ここの関門時間4時間45分に対して54分もの貯金があるのに、心の中はまったく余裕がなくなっている。(少し時間をかけてでも、体調を戻す努力をしよう)と思う。
     3kmばかり長い坂が続く。1kmを歩けば10分かかる。登り坂なので走っても7分はかかるだろう。3分を捨てて、この頭がクラクラする状態を除去しよう。遮る木陰のない暑い道を、我慢して歩き続ける。(大丈夫だ、絶対に元に戻るはずだ。これは一時の症状だ)と頭で繰り返す。コップに3杯分の水をたっぷり飲み、坂道を手を振って歩く。ヨーロッパの選手も歩いているが、ストライドの長い彼らは、僕とは違って「歩き」も想定ペースのうちに入れている。彼らは登り坂をキロ7~8分で歩ける。僕はどんなに頑張っても9分~10分かかる。それでも前に進んでいるには違いない。
     1km歩くと少し意識がはっきりしだした。試しに走ってみると、キロ6分台でカバーできるまで回復している。(そうだ、あれだけ練習してきたんだから、身体に6分走が焼きついてるんだ。痛くても吐いても、僕はキロ6分で走れるんだ)。
    □50km通過、4時間57分(この10kmを1時間15分59秒)。 
     GPSが示す距離とタイムだけ見れば、100kmサブテンペースを維持し、十分に安全圏にいるのだが、状況はとても悪い。この10kmに1時間15分かかっていて、止めどなく下降線を描いている。
     海底の岩場まで見通せる透明なエーゲ海の波打ち際。急角度でそそり立つ断崖の下辺に設けられた道路は、右へ左へとくねっては、細かなアップダウンを繰り返す。焼けつく日射しに炙られて、何度も気が遠くなる。このままではまずい。何かの手を打って、半熱中症から脱しないと先行きがない。
     救いは、ほとんどのエイドに氷が置かれていることだ。昔はこんなにサービスよくなかったな。コップに氷を山盛りにし、ガリガリとかじりながら走ると、内臓から血液が冷やされているのか、心持ち精神状態が安定する。その時間帯だけはキロ6分にペースが戻る。しかし効果は2kmくらいしか持たず、再びハァハァとだらしなく喘ぎながら、進まない脚をむりやり動かす。2度、3度と立ち止まっては嘔吐する。
      バテバテで走っているぼくを見かねて、後方から来たランナーがペースを落として併走し、いろんなアドバイスをくれる。
     「背中や靴下に氷を入れてください。熱中症の身体には効きますから」
     「あきらめない、あきらめない。この日のために1年間練習してきたんだから」
      スパルタスロンを走るランナーの多くは、こうやって自分以外のランナーまでゴールに連れていこうとする。決して「優しさ」などという甘い感傷から来るものではない。善人ぶっているわけでもない。「それは、そういうもの」なのだ。
     
    □60km通過、6時間14分(この10kmを1時間17分27秒)。
      66km、ついに道端に倒れ込む・・・のではなく座り込む。倒れていると、大会車両に収容されてしまう可能性があるからだ。たったの、たったの66kmである。日本国内の大会なら、どうということもない距離である。いくら潰れていても、意識が飛ぶようなことはない。なぜ自分はギリシャに来たら走れないのか。なぜ毎年、一片の進歩もみせられず、同じあやまちを繰り返しているのか。
     戦意を喪失して、薄目を明けて、目の前を通り過ぎていくランナーたちを呆然と見つめる。
     ある選手は僕の名前を呼び、起こしてくれようとした。また別の選手は叱咤の言葉を投げかけて僕を奮い立たせようとしてくれた。
     (すぐ行きます、すぐ後を追いかけます)と声を出そうとするが、「うー」としか言えない。立ち上がれない。
     7分近くそこで座り込んでいた。だが、まだあきらめてはいない。
     (どのみち、大きなエイドで10分は休憩する予定だったんだ。その分を前倒しで使っただけだ)
    立ち上がり、走る。ふらふらして足がもつれる。時間がないので、嘔吐は走りながら済ませる。
     
    □70km通過、7時間41分(この10kmを1時間26分33秒)。
     4kmおきにあるエイドが果てしなく遠い。
     毎年、スパルタスロンを完走しているようなベテランの方に、続々と追い越される。皆、足どりも軽く、表情も声も明るい。つまり、このレース前半部分の理想的なペースを彼らはこの距離と時間のバランスで刻んでいるということだ。それなのに、同じ時刻に同じ場所にいるぼくは、もはや墜落寸前である。
     74kmのエイドに着く。この頃には、指の先まで痺れており、また思考能力もゼロに近く、手持ちのハンドボトルのキャップを回して、水を注ぎ、キャップを締める、といった動作ができなくなっていた。
     コップ2杯分の水をもらい、立ち止まることなくエイドを出る。帽子をかぶっているにもかかわらず、脳天があまりに熱いので、片方のコップの水をちょびちょび頭にかけていると、後ろから追いついてきたランナーに「そのお水もらえませんか」と言われる。エイドを発ったばかりなのに、なぜだろうとは思ったが、「次のエイドまでの繋ぎの水なんですけど、よかったらもらえない?」と再度言われる。抵抗できず、コップに入ったお水をほとんどあげてしまう。女性ランナーは「ありがとう!」と去っていった。
     次のエイドは3.5km先だ。そして、1キロに10分以上かかっている今の速度では40分はかかる。ようやく手にした水を、どうして僕は他人にあげてしまったのだろう。親切心で水を提供したわけではない。「欲しい」と強く言われて、抵抗できなかっただけなのだ。とんでもない事をしてしまったと後悔がはじまった。なぜあそこで「ちゃんとエイドで補給してください。これは僕に必要な水です」と言えなかったのか。だが、あの時点で、そんなに複雑な説明と主張をできるほどの思考力がなかったのも確かなのである。そして、それだけ衰弱している自分が既にダメなのだ。
     もう走っているとはいえないゾンビ状態で、それでも「歩いたら間に合わない」という意識だけはあり、つまずいたり、蛇行しながら走る。飲み込む唾もなく、1kmに12分かかっている。汗も出てこない。景色が斜めに見えたりしている。もうこのまま道のうえに倒れるかも知れない・・・。
     道路脇にあるガソリンスタンドから選手が飛び出してきた。北海道からいらした大先輩ランナーだ。両手にペットボトルの水を持っている。「どうぞ、よく冷えてるから、飲んで」と1本手渡してくれた。すいません、すいませんとお礼を述べる。これで死ななくてすむと安堵する。
     今(これを書いている時点)で、自分がいかに弱いのかを自覚するのであるが、僕は500mlの冷たい水を得たことで、あろうことか安心して道路脇の民家の前のタイル地の上に横になってしまうのである。つまり、心が切れてしまったのだ。そのとき、ぼくが自分で何を考えていたのか、まったく思い出せない。少しの間、気を失っていたのかもしれない。もらった水を少しだけ手の平に取り、顔をぬぐったのは覚えている。
     タイルの上で大の字になり、正気に戻ったときには5分が過ぎていた。
     まだ間に合う。4km先のコリントスの関門まで50分ある。立ち上がり、走る。長い長い坂道を必死に走っているのだが、何人ものゆっくり大股で歩いているヨーロッパの選手に追い越される。
     道が平坦になっても、いっこうにスピードを上げられない。先にリタイアした選手が、がんばれがんばれと併走してくれるが、まったくついていけない。また、気が遠くなりながら、ようやく第1関門の目印である壁画のある缶工場が見えてきた。
    □80km通過、9時間19分(この10kmを1時間38分24秒)。
     最初の大きな関門である80kmのコリントスに、関門閉鎖の9分前にたどり着く。
     関門のタイム計測ラインを越えると、大会役員っぽいおじさんが、頭や背中から水をぶっかけてくれる。が、水は生ぬるく、ただびしょ濡れになっただけだった。
     貯金タイムが9分あれば、これからの走り方次第で、いくらでも巻き返せる余地はある。この80km関門を越えた先では、キロ8分から9分程度で制限時間設定がされているからだ。
     というのに僕は、このエイドで身体を横たえることしか考えられなくなっていた。どこか日陰で倒れられる場所をと見渡したが、エイドの周囲には砂利か土の地面しかない。びしょ濡れのシャツで横になるとドロドロになりそうなので、エイド預けの荷物を置いているビニールシートの上に倒れ込む。
     他の選手の応援に来ていた方が心配をしてのぞき込んでいる。「飲み物は?食べ物は?」と必要なモノを尋ねてくれるが、うまく返事ができない。「氷を・・・」とだけ言えた。すぐに氷入りの水をコップに入れて持ってきてくれたが、口に持っていく余力がなく、腹の上でコップを両手で支える。少しでも体温を下げなければという意識だけあって、氷水をピチャピチャと胸や腹にかける。
     もう立ち上がれそうにないのだが、「絶対に前に進まなくてはいけない」という気持ちはある。
     びしょ濡れになった重い靴を、交換用のシューズに換えるために上半身を起こし、靴ひもについたタイム計測用のチップを外そうとしてみたが、指が思うように動かず、靴ひもがもつれたりして、計測チップが外れない。時間がどんどん経っていく。見かねた応援の方が、靴ひもを外し、チップをつけ直してくれる。
     関門閉鎖まで残り1分。立ち上がり、エイドを出る。ふらふらして、走れない。
     4、5人の選手に抜かれたあとは、前にも後ろにも誰も見えなくなった。夕暮れのぶどう畑のなかの細い道を、感情とぼしく歩きつづける。
     84kmのエイドに着いたときは、すでに撤収の片付けが終わりかけで、ギリシャ人のスタッフの皆さんは帰り支度をしていた。閉鎖時間をすでに10分は過ぎている。
     スパルタスロンでは、全コース中6カ所ある大きな関門以外のエイドでは、多少時間制限を過ぎていても、スタッフの方が「行け、行け」と見逃してくれる場合がある。たとえ10分遅れようと、前に進む意思があるランナーには「行きなさい」と大目に見てくれることもあるのだ。
     エイドの係員に止められることはなかったが、僕は自分でリタイアを申告した。レースに出発する前、最も尊敬するランナーの方からメールをいただいた。「絶対に自分からゼッケンを外さないでください」と書いてくれていたのに、僕はパイプ椅子に腰かけて、自分の手でゼッケンを取った。
                 □
     スパルタスロンで6連続リタイアという、どうしようもない記録を作ってしまった。これだけ弱いと、もはや参加する資格などないと言えるだろう。僕よりも遙かに肉体的なハンデを背負った人や、年齢を重ねた人も完走している。一方で、数多くのエリートランナーがリタイアをしている。
     このレースに懸ける思いの強い人がゴールをしている。次々と襲ってくるマイナス要因を「リタイアする理由」として捉えず、その時点で自分に残された能力を信じ、走るのを止めなかった人がゴールをしている。それは嫌というほどわかっていて、「そっち側」の人間になりたいと願い、走り続けているのだがダメだ。
      走りにはその人の人生観や人間性が表れるという。そんなのは過剰な思い入れから生まれた押しつけがましい格言のように思っていた。でも、このスパルタに来て、いろんな人の走りを見ていると、本当にそうなのかもしれないと思える。ならば、1度もゴールに立てず、ばかりかこのレースの半ばまでも達することのできない僕は、どんな人間なのだろうか。負けても負けても、また負ける。負け続けたままいくのだろうか。それでは情けなさすぎる。
     
  • 2015年09月18日バカロードその88 熱中症患者のうわごと

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     5年間挑戦してはリタイアつづきのスパルタスロン(毎年9月にギリシャで開催。247km、制限36時間)も、今年で出られるのが最後になりそうな雲行きだ。まず参加資格が恐ろしくレベルアップしてしまった。以下は、2016年以降大会のルールである。

     参加者は過去2年以内に、以下の条件のうち1つを充たさなければならない。
     □100kmレース=男性10時間、女性10時間30分以内。
     □24時間走=男性180km、女性170km以上。
     □48時間走=男性280km、女性260km以上。
     □200~220kmのノンストップレース=男性28時間、女性29時間以内。
     □220km超のノンストップレース=男性41時間、女性43時間以内。
     □100マイル(161km)レース=男性22時間30分、女性24時間以内。
     □スパルタスロン=36時間以内に完走。
     □スパルタスロン=172km地点(ネスタニ)に24時間30分以内に到達。
     スパルタスロンを毎年完走できるレベルの人ならば、これらの記録は簡単に出せるレベルである。
     しかし、ぼくにとっては100km10時間以内(1回だけマグレで出した)も、24時間走180km以上(1度も達成したことない)も、他の項目も、すべて自分の能力を超えている。完走の難易度に比して参加資格がゆるすぎる、と言われてきたスパルタスロンも、いよいよレースにふさわしい実力を求められるようになったということだろう。
     さらに、長ったらしい新ルールブックの最終行には、強烈な一文が添えられているのである。
     
     「過去5回出場して1度もゴールできなかったランナーは出場できない」
     
     つまり5回リタイアした未完走者は、100kmや200kmでどんなに良いタイムを出そうと、参加資格を失うのだ。今後、ぼくがスパルタスロンに出場するには、「今年完走する」という唯一無二の条件をクリアするしかない。リタイアすれば永久にお別れ。しかし完走さえすれば、あの場所に還れるのだ。
          □
     昨今ギリシャといえば、EU全体を、はては世界経済を大混乱に陥れている元凶とされている。人口わずか1千万人、GDPの規模は日本の都道府県なら広島県相当の小さな国が、これだけ世間を騒がせているのは、なんとなく痛快である。
     主な批判の口上としては、「働きもせず、公務員だらけで、年金をたくさんとって、贅沢な暮らしをしている人たちが、借りた金を返さないために、その穴埋めにドイツ人やフランス人が払った税金が使われている」というものだ。
     対する反論としては「元々腐敗した政権に、担保を明らかにしないまま金を貸しこみ、リターンの見込みなく資本を投下しつづけたEUの金持ち国こそが悪い」とか、「ドイツらの競争力の強い商品が、統一通貨ユーロの導入によって比較安値となり、南欧の浪費型諸国で大量に売りさばいて大儲けしやがったツケに過ぎない」である。
     5年続きでギリシャに通いつめているぼくは、ドイツ人よりはギリシャ人目線で物事を見てしまう。
     そりゃあ彼らは、決められた時間に何かをはじめたりはしない。電車やバスへの無賃乗車は常習で、それをとがめる人はいない。平日からビーチでは脂肪たっぷりの老人がゴロゴロ寝転がっていて、カフェの席に陣取ると日が暮れるまでそのままいる。ことあるごとに分不相応な豪華パーティを催したがる。公共交通のストは日常茶飯で、そのたびに経済活動は大混乱している。
     でも、それが彼らの人生のありようなんである。
     日本人のように、約束の5分前に訪問して応接室の壁を見つめて待機したり、エスカレーターを片側空けて駆け足で登ったり、3分おきの完璧ダイヤで地下鉄を運行したりはしないのである。
     だけど、有史以来ギリシャ人が生みだした数々のアイデアのおかげで、そんなぼくらの便利で豊かな生活が成り立っていることは忘れてはならない。
     数学も天文学も建築学も、近代社会を文明たらしめている礎は、ギリシャ人が見つけた法則やハウツーを元にしている。われわれが強大な権力者の奴隷にならず、自由に発言しても殺されないことを保障してくれる「民主主義」という途方もない概念だって、ギリシャ人が生みだしたのだ。
     世界の共通言語としてのアルファベットの原型も、みんなが青春をかけて取り組んでるスポーツや競技会という考え方も、さらにはオリンピックだってフルマラソンだってギリシャ人が企画したことだ。
     要するに彼らは、規律を守ったり他人を模倣することには価値を置かず、物事をゼロから1にするのに長けた人たちなのだ
     何にもない無の状態から新しい発想を起こすには、常識的な考え方に縛られない環境が必要なのである。世界中から天才が集まっている(らしい)Google社屋の共有スペースに滑り台やらバスタブが配置されていて、開発者の仕事部屋にジャングルを再現したり、(微妙に勘違いした)茶室になってるのと同じ理屈である。ギリシャ人は奔放で無頓着だからこそ、人類と文明を変えるだけの発明をしつづけてきたのだ。そんな人たちに緊縮財政や借金返済を求めても仕方がない。
     ギリシャ人の精神性はきっと何千年も変わらない。責め手側のドイツ人だって、勤勉で改良意欲に溢れ、意思の一致を尊ぶ思考は、先の大戦前から変わらない。日本人のキャラクターは80%くらいドイツ人にかぶってるから、ギリシャ人を理解するのは難問だろう。
     EUを範として、関税障壁を取り除いた広域経済圏づくりが世界の各ブロックで起こっている。物の売買から国境線が外され、人の移動や情報のやりとりに時間差がなくなると、今まで「地の果て」にあった見知らぬ国の人びとが突然隣人と化す。同じ物を食って、同じ服を着ているからって、何千年も受け継がれてきた考え方はそうそう変わらない。「何のために生きるか」「誰のために生きるか」という根本が違う人が隣に住み始めるのだ。
     イスラム国の広報部にSNS上で誘われ、相手が誰とも知らずに嫁ぎに出かけてしまう欧州の女子高生が続発する時代である。世界は極端に狭くなり、異教徒やテロリストが隣人となり、違いを認められない人たちによる殺戮が起こる。
     それは国家間という大きな単位から、子どもたちのいじめまで、人間が関わる社会全体で加速しているように思える。その反作用として、「平和」を声高に叫ぶ人たちがニュース映像に都合よく登場するが、彼らが何の平和を求めているのかは、耳を澄まして聞いてみなくちゃいけない。「他の国では殺し合いをしているけど、自分たちには関係ないことだし、私は平和でいたいのです」という願いであったり、「誰が戦争に巻き込まれようと知りません。私の愛する家族や子どもたちだけは平和を享受する権利があります」という主張ならば危険思想だ。
           □
     命を大事に、地球を大切にというけれど、人間の命なんてそんなに大した意味なんてないんじゃないかと思っている。
     人間は、あたかも地球の覇者のように振る舞っているけれど、人間よりはるかに個体数の多い動物や虫は数え切れないほどいる。細菌やウイルスまで含めれば、どちらさんが地球最大の店子なのかは判断がつかない。
     土砂降りが続くと異常気象だ、猛暑日が続くと温暖化だ、火山が噴火すると大地震が近いと大騒ぎするが、そもそも今の地形は激しい造山活動や大気の変化によって生みだされたものだ。大陸の衝突の果てにせり上がった土地が山岳であり、飲料水はそこで濾し出される。多くの都市住民が快適に暮らしている平野は、河川の氾濫でできたものだ。日本人が愛してやまない温泉は、大陸と海洋プレートの境目に生じ、地震の巣であることとイコールである。マグマ燃えさかる地中から生成された金属元素を調合した薬品で病気を治し、家を建てる。人間がほんの刹那の時間、快適さを享受している場所は、大地震や大噴火以上の破壊的な地球の活動の末のものである。
     地球に生命が誕生したのが40億年前とされるが、その後少なくとも5回は、生命体がほぼ絶滅した気候変動に見舞われている。1回目は大氷河期、2回目も寒冷化、3回目は苛烈な火山活動と乾燥、4回目も火山活動と気温上昇、最後の5回目は寒冷化と巨大隕石の衝突のダブル攻撃。「温暖化」なんて生やさしい状態ではない。地球は、「スノーボールアース」という全球凍結になったり、マグマ煮えたぎる「火球」の状態を繰り返す、宇宙に浮かんでいる土くれのひとつなんである。
     天変地異のたびに生命体は絶滅しながらも、生きながらえた数%の残党の進化によって、今に至っている。人間が進化の最終段階であるはずは、もちろんない。人間が生きやすいかどうかで、地球が異常か正常かを判断するのは、人間中心な考えが過ぎる。
              □
     「人間」という動物に重きを置きすぎる空気が、人間自体を窒息状態にしている。ひとりひとりに生きる価値がある、個性があるというような事を、無理くり押しつけようとするから、呼吸不全が起こっているのだ。
     人間なんて動物の一個体にすぎない。自分が生きながらえるために、何千匹もの魚や家畜を食いちらかして、命を奪いながら生きている勝手な存在なのである。それを「グルメ」とか「食べ歩き」だとか称して盛り上がれる無神経な生き物なのだ。イルカやアザラシを溺愛する割に、マグロやタコには解体ショーや躍り食いという凄惨な仕打ちができる。人間が他の動植物を愛すべきか、殺すべきかの基準は、「知能指数が高い」「哺乳類であるか否か」「顔がかわいい・・つまり擬人化しやすい」などがあるが、これらは人間が人間らしさを異物に見いだせるかどうかの基準で定めたものにすぎない。要するに自己愛である。殺される側には無意味な尺度である。
     内澤旬子というルポライターが書いた「飼い喰い 三匹の豚とわたし」は秀逸である。自ら育てた3匹の豚を、最後には屠畜し食べるという経験を綴っている。誰もが目をそむけて、意識の外に放り出している「他者を殺して、自分は生きている」という事実に正面から向かい合っている。ベジタリアンとてこの性からは逃れられない。予防接種をしたり、虫下しを飲んだりして体内のウイルスや寄生虫を駆逐しているだろうし、害虫駆除が成された都市に住むなら、自分が直接手をかけないだけで、他人に殺傷を代行してもらっている。
     スーパーマーケットで、生命の欠片すら感じさせないように、トレイにラッピングされた肉しか食べたことのない子どもたちには、生き物を殺して食べるという経験を積ませてあげたい。他者を殺してしか、われわれは生きてはいけないのだと学ぶべきだ。それは、他者の命を奪ってまで自分には生きる価値があるのか、という内なる問いかけを発する機会にもなる。
     われわれは、人間が生存するのに邪魔な生物を「害虫」と呼び、また「病原体」とする。だが多くの動植物からすれば、地球という天体最大の「害虫」「病原体」は人間だろう。ただ単に捕食のために食い・食われするのではない。オシャレな服やアクセサリーの原材料として、動物の皮を剥いだり、殺して牙や爪を抜くのは、人間という種族だけだ。
     芸能人がテレビの健康番組に出て、ダイエットのためにお弁当のご飯を半分捨てます、と意気揚々と語る場面をよく見かける。コメンテーター気取りのタレント医師たちも、その行為を称賛する。豊かさは、食い物を捨てることに抵抗のない気質を生みだした。日本は、食料の32%を廃棄している国なのだ。日本人が1年間に捨てている家庭や事業用の食料は1800万トン。発展途上国の年間食料5000万人分にあたる。しかも日本人の食っている食料の半分以上は、外国から輸入したものである。よその国に金を払って食べ物を買い、その3分の1を腐ってもないうちから捨てている。
     一方で、格差と貧困が社会の大きな問題のひとつとされ、実際に独居老人が部屋で餓死している国でもある。
          □
     人間にも人生にも、価値あるものなど求めなくて良い。
     自分が生きている時間を使い切るために、淡々とおつとめを続けるだけでいい。
     便利さも、快楽も、良い暮らしも、求めなければ苦しまなくてよい。他人から、信頼や優しさを得ようとしてあがくから辛いのである。
     dysonがある時代に廊下にぞうきん掛けして、LINEで意思交換ができる時代に絵ハガキをポストに投函する。
     日々労働をし、生産するのも、これと同義だ。進歩を求めず、同じことを淡々と繰り返す。
     走るのなんて、無意味の最たるものである。
     247kmという距離を、36時間で走りきる。気温35度を超す灼熱を、熱中症のままに突き進む。100%無駄なことに、自分のすべてをかけて挑む。なぜそんなことをしたいのか、自分でもわからない。
     ただ、それは、しなくてはならないことだ。
     
  • 2015年09月18日バカロードその87 人生にはすませておかなければ ならないことが、ちょっとだけある サロマ湖100kmウルトラマラソン

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     とかち帯広空港のビルを出ると霧雨が舞っていて、空気が冷やこい。徳島を発つときはうだるような暑さだったが、北海道の東部は初夏を迎えたばかりだ。北海道には北海道の匂いがある。空気の5%くらいに「草」の気配があり、1%は牛フンの香しさが混じる。

     カーラジオからは「尾岱沼えびまつり」のCMが繰り返されている。このお祭りは、サロマ湖100kmウルトラマラソンの日程が重なっているためか、サロマに遠征してレンタカーのハンドルを握るたびに、毎年ほぼおんなじ宣伝文を耳にする。信号のない一本道は、霧雨に白く濁っている。似たような風景、変わらない北海シマエビの宣伝文。時が止まっている気分になる。
     6度目の「サロマ」は、通算25本目の100kmマラソンである。
     強い思いがある。どうしてもサブテンをやり遂げたい。
     サブテンとは100kmを10時間未満で走りきることだ。サブテンは、フルマラソンのサブスリーと並んでランナーにとって勲章である・・・と言われることがあるが、実際はサブスリーほどの難易度ではない。フルマラソンで3時間20分~30分くらいの持ちタイムの人なら、十分に達成できる目標である。フルのサブスリーに匹敵するのは、100kmだとサブ8.5~サブナインくらいだろう。
     だから、やってやれないことはないはずなのだ。
     その割に、ぼくは今まで24回もトライして、一度もクリアしたことがない。惜しいタイムすら出したことがない。10時間台では4回走っているが、10時間を切るか切らぬかの瀬戸際で戦ったことは一度もない。
     キロ6分ペースを維持しながら、10時間走り続ける。そこには卓越した走力は必要ない。スピードを上げずゆっくりと、絶対に潰れることなく、最後まで粘りきった人がサブテンランナーになれる。とてもわかりやすい理屈であり、キロ6分で走るのは難しいわけでもないのに、10時間を耐えることができない。
     とてつもなく高い壁ならあきらめもつくのだろう。「できそうなのにできない」という残尿感が気持ち悪いのである。いとうあさこさんが述べる「イライラする」状態である。
     24回も走ってダメなら、客観的に見れば、もう無理なのかもしれない。だけどこのままあきらめて良いだろうと納得できる度量が備わってない。執念深いのか、ストーカー気質があるのか、すがりつきたい何かがある。
     100kmに挑戦できるのは年に2回くらいだ。このまま歳をとっていけば、基礎体力も落ちてくる。いずれ完走だって難しくなるはずだ。
     チャンスはそう何度もない。死ぬまでに一度も10時間切ってないなんて、嫌だ。
     毎レース、うなだれたままトボトボとゴールゲートを越えるのではなくて、一度は腹の底から湧きだす歓喜の拳を突き上げながら、駆け抜けたい。
             □
     大会前夜は、スタート会場から40km離れた瀬戸瀬温泉という山中の宿をとる。素泊まり3800円ながら、源泉掛け流しの名湯が湧いている。スタート会場周辺の宿は、公式ツアーに全部おさえられていて、けっこうな値段に跳ね上がっているため、ここがサロマに参加する際の定宿になっている。
     宿から20km離れた遠軽市街が、最後の街である。そこから先は自販機すら見かけない。遠軽の大きなスーパーで食料をしこたま買いこむ。天丼、トンカツ、豚汁、カップラーメン、おにぎり3個、アイスキャンデー3本、カップアイス2個。スーパーに隣り合った100円ショップでは、手袋とアームウォーマーを仕入れる。気温が10度を下回っていて、半袖では号砲待ちの時間に身体が冷え切ってしまいそうだ。手袋は園芸作業用のもの、アームウォーマーはご婦人の日よけ用だが気にしない。
     宿へ向かう山道には、路上で野鹿が遊んでいる。携帯電話は圏外で、どこにも連絡は取れない。いちおうテレビはあるけど海外ドラマや映画のチャンネルが4つ映るだけだ。隔絶された山の宿には、何のニュースも入ってこない。世界で何が起きてようと、ここにいる限り、何もわからない。だから食って寝る以外の用事はない。昼の1時から布団に入り、うたた寝をしてはときどき目覚め、買いだめした食料を胃が張り裂けるほど食いつづける。体中にまわれよエネルギー、腸壁から吸収して筋肉と血液に流れ込み、明日1kmでも先まで身体を運んでくれ。
       □
     朝2時に起きて窓を開けると、肌を刺す冷風が吹き込んでくる。
     寒暖差の激しい道東地域の、更にオホーツク海側の6月には、ときおり猛暑日和がやってくる。サロマの大会当日は、過去の気候データを分析すると「すごく寒い」「ふつう」「猛烈に暑い」が、だいたい3分の1ずつの確率でわりふられている。規則性はないので、今年がどうなるかは誰もわからない。暑いときは完走率が極度に落ち込む。気温が28度まで上がった2010年は49%、2014年は55%である。
     むろんランナーにとっては、気温の低い方が都合がよい。今朝の空気の冷たさは、すごく寒い年に当たったとしか思えない。ラッキーである。
     スタート会場までの40kmの道のりを40分ほどで移動する。会場の周りはランナーをピストン輸送する大型バスで渋滞する場合があるから、前日に調べておいた裏道を経由する。4時前にはすでに多くのランナーの姿があり混雑ムードだが、駐車スペースはスムーズに見つけられた。
     スタートブロックに入ったのは4時30分。参加者3600人の最後尾だと号砲から5分くらいかかるはずだ。グロスタイムで10時間を切ろうとするなら5分のロスはなくしたい。なるべく前からスタートすべく30分前に並ぶ。「一般の部」の10列目あたりに陣取れたが、スタートラインに近いブロックは陸連登録と10回完走のサロマンブルー選手ら900人に割り当てられている。多少のロスタイムは仕方がない。
     5時号砲。スタートラインまで、およそ1分かかる。
     最初の1kmは人で混み合い、とろとろしか進まず6分半かかる。1kmを過ぎるとランナーは適度にばらけ、同じペースの集団のなかでスムーズに進みだした。
     まずは42kmまで、サブフォーペースであるキロ5分40秒前後で、無理せずゆっくりいこう。決して気持ちよく走ってはいけない。徳島を発ってからの2日間は休足日に充てたので、脚は軽く動くはずだが、気分で突っ走ることを今は許さない。
     「脚から力を抜こう」
     「腕にも胴体にも力を入れない」
     「呼吸は平常時と同じくらいの浅さで」
     と自分に言い聞かせる。
     身体のどこかに力を入れたら必ずツケが後半にやってくる。序盤で10秒、20秒を稼ごうという欲が、後半の1分、2分を失うことにつながる。前半の努力は、後半には結びつかない。前半いかに手を抜くかが、後半の粘り強さを生みだす。
     少なくとも50kmまでは、脚にも心肺にもいっさい負担がないレベルを維持する。50kmを過ぎても、「10kmを全力疾走できる」程度の余力を残しつづけておく。きっとどこかで、10時間を切るために帳尻をあわせなくてはならない場面がくる。そのいちばん大事な瞬間まで、脚は取っておくのだ。
     2km以降はキロ5分30秒で安定する。「速くもなく、遅くもなく」のペースである。瞼を落とし、目を薄く開いて、半分眠るような気持ちを保つ。「これは速すぎないか」「これは遅すぎないか」と自問を繰り返し、そのどちらでもないことを確認する。脚の脱力具合をチェックし、筋肉を使っているようなら一度力を緩め、前傾姿勢に戻して、骨格の傾斜で推進する。鼻呼吸だけで酸素をまかなえる程度の負荷をキープしているかも確かめる。
     地球を離陸した直後の宇宙ロケットの操縦士のように、ランナーもまた運行管理に忙しいのである。
            □
     10kmを56分02秒で通過する。号砲1分のロスを差し引けば、イーブンペースを保ってる。身体がやや重く感じるのは、寝起きウンコが出なかったからだ。昨日だけで、試合前のグラップラー刃牙なみに食って3kg以上増量したはずだ。できるものなら体外に排出しておきたかったが、便意ゼロゆえにどうしようもない。3kg分の炭水化物と糖分はすべて吸収して、肉体に蓄えられていると受け止めよう。消費していけば身体も軽くなる。
     18kmあたりから、第1折り返し地点の三里番屋からの復路をゆくランナーとすれ違いだす。先頭に現れた能城選手は当大会を2連覇中であり世界大会4位の大物。併走するワイナイナ選手は五輪2大会連続メダリスト。2人は、ウルトラマラソンとは思えない恐ろしいスピードで風を切っていく。
     続いて第2グループがやってくる。10人ほどの大集団が成形されている。その集団を先頭で引っ張っているのが同郷・徳島の石川佳彦選手だ。二十代中盤の若さにして100km日本代表の座を懸け、ハードトレーニングを行ってきた。声を掛けようかなと思うが、刃のような集中と鬼気迫る表情に、かけるにふさわしい言葉も見つからず、ただ見送る。
     競技レベルが違いすぎて一緒くたにしてはいけないが、ぼくなんかより遙かに厳しい条件や目標設定のなかで真剣に戦っている人を見ると、ちょっとやそっと辛くなったくらいじゃ音をあげられないなと思う。
     ふと気がつくと、GPSの表示するペースが5分10秒まで上がっている。案のじょう、鼻呼吸が口呼吸にスイッチしている。まずいまずい、石川選手に気圧されて気合いが入ってしまった。次の1kmはちゃんと5分30秒に戻そう。
     20kmを1時間51分01秒。5分30秒ペースを維持。あらためてサブテンという目標はわかりやすくっていいやと独りごちる。10kmにつき1時間がイーブンだから、今どの地点にいようとも、貯金が何分あるかをたやすく暗算できる。レース中にややこしい計算をすると脳の糖分をムダに消費する気がする。だからサブテンは単純明快な目標なのだ。
     30km、2時間47分39秒。まだ息はあがってないし、苦しくない。しかし身体は重いままで、軽快さとはほど遠い。キロ5分30秒が40秒に落ち始める。無理してペースを保つのではなく、自然にタイムを落として、負荷レベルを一定にする。ハートレイトモニターはつけてないけど、きっと心拍数は一定なはずだ。
     広大な牧場、農場地帯を貫く直線道路を、ただ同じ動きを繰り返すあやつり人形のように、「弱い意思」の元に進む。今は「強い意思」をむき出しにする場面ではない。トレッドミルのうえを一定ペースで脚を回転させているだけの、無個性で、無価値な人間として。
        □
     42.195kmを3時間57分48秒。「遅くもなく、速くもなく」という観点からベストな通過時間と言える。
     中間地点である50kmは4時間43分48秒。前半で積み上げた貯金は16分12秒だ。
     50kmを境に、少し無理をしないとキロ6分を維持できない状況になってきた。アップダウンのほとんどないサロマで、唯一登り下りの連続する区間である。一般的には、登り坂ではタイムを落としてでもゆっくりが鉄則だが、前半稼いだ1分2分を失うのをもったいなく感じ、強引に6分をキープする。下り坂は、着地衝撃で脚の筋肉を弱らせてしまわないよう、引力に導かれてタラタラと足を前に出すだけ。
     54.5kmの大レストステーションでは、あずけた荷物袋からエナジードリンクと粒あんを取り出しただけで素通りする。多くのランナーはここで5分程度は休憩する。あえて一歩も立ち止まらないことで「5分のアドバンテージを得た」と気持ちを楽にする。けなげな自分へのご褒美として、粒あんを食べる間の1分間だけ坂道を歩くことを許す。これでもずいぶん脚は休ませられた。
     65kmから背の高い木立のトンネルを進む通称「魔女の森」に入る。全コースのうち日陰があるのはこの3km間だけである。ネーミングの由来は諸説あるが、潰れかけのランナーの耳には「ここら辺でリタイアなさったら・・・」との甘いささやきが森の奥から聴こえてくるらしい。今のぼくには魔女は無縁だ。意識は明瞭、鼻歌もうたえる。今、1kmだけ4分00秒で走ってみろと言われたら、きっと走れる。それだけ脚にも余裕を残している。
     「もしかしたら、今日ほんとうにサブテンできるのかもしれない」と初めて思う。
     いまだキロ5分台でカバーできている。つまり、走れば走るほど貯金ができている状態。60kmを過ぎて貯金を積み上げられるなんて、夢のようである。今まで経験したレースの60km地点なんて、前半つくった貯金をザーザー漏れのザルから垂れ流し、サブテンはおろか完走すらおぼつかないという心理状態に入ってるのが常なのに。
     70kmを6時間46分08秒、貯金は14分。70kmを過ぎると、狭い歩道上が走路となり、微妙な路面の凹凸がダメージを増やす。ガス欠気味なのか、脚があがらなくなっているので、よくつまずく。空を覆っていた雲が切れる。日射しを浴びた腕や頭が熱くなってくる。
     おしるこやソーメンの用意された「サロマ湖鶴雅リゾート」前の大エイドでは、ガス欠の筋肉たちが糖分を欲しているのに、むかつく胃が拒否して受けつけないという、ややこしい葛藤。結果、吐き気の方が優勢勝ちし、補給はあきらめる。
     エネルギーと水分が切れたか、必死でもがいてもキロ6分10~20秒と借金が積み上がりはじめる。
     正念場がやってきやがったな。今まではこの局面であきらめていたが、そうはいきませんからな。タイムを落としてもいい。大潰れしないように粘り続けるんだ。ここで潰れてキロ7分に落ちれば、ものの数km先でサブテンは絶望的になる。粘れ、粘れ。この粘りで勝負が決するんだ。今日サブテンできなけりゃ、二度とチャンスなんか来ない。何千キロと練習してきた結果は、今この瞬間を走っている1kmのタイムを6分20秒にとどめるか、7分まで落としてしまうかの差となって現れるんだ。これから先の20kmのことなんて考えない。今、路上にあるこの1kmを耐えきるんだ。
            □
     
     サロマは80kmから劇的にコースが変化する。ラスト20kmは「ワッカ原生花園」という植物の群棲地帯を往復する。
     あのワッカ原生花園の入口まで潰れずにたどりつくんだ。ラスト20kmで2時間10分残しておけばサブテンにリーチがかかる。どんなにヘタレてようと、最後に振り絞る馬鹿力は残っているはずだ。
     80km、7時間51分07秒。貯金が9分に減った。
     オホーツク海を見下ろす小さな峠のピークへと続く急傾斜の坂。初めて100kmレースというものに挑戦したときに失神リタイアした場所。目に映る景色が黄色くなっていって、視界が狭くなって、ブルーシートに倒れ込んだら意識が飛んで、青や赤の綺麗な小鳥が舞い飛ぶ夢を見たっけな。どんなレースよりも頑張って走って、それでも届かなかった13時間のゴール。そんなぼくのウルトラマラソンの原点のような場所を横目に、今は別の目標を目指して突っ走る。
     89km地点の最終折り返しまでは、常呂町のゴール会場から離れていくコースレイアウトになっている。つまり走れば走るほどゴールは遠ざかるという精神的トラップが仕掛けられている。
     美しいはずの草花の絨毯や、オホーツクの蒼い海原は、何ひとつとして目に映らない。なかなか現れない1kmごとの看板を遠目に探しては、見つけられず落ち込む。足元がふらつきはじめ、6分30秒を切れなくなる。85kmまで来てよう、うまく推し進めてきたのによう、ここでアウトなのかよ・・・と時々あきらめては、やっぱしそんなのは我慢ならないと、ワーッと無茶走りして次の1kmを6分で走る。距離表示板を越えると力尽き、よぼよぼ千鳥足で7分をオーバーしてしまう。でもやっぱり嫌だ。ゴールに着いたら10時間01分とか嫌なんだー。ウオーッと咆吼をあげて6分05秒。
     壊れた脳でインターバル走。酸欠で手足が痺れてきた。そんなとき、原生花園内の
    エイドにスイカが登場した。立ち止まって食っている時間の余裕はゼロ。両手でつかめるだけつかんだ5切れ。走りながら口に押し込む。シャリシャリした歯ごたえの果肉はシャーベットアイスのように甘く、みずみずしさが胃から全身へと広がっていく。糖分が血液の流れに乗って脳まで循環すると、錆びついて動かなくなっていた全部の関節が動きだした!
     90kmの関門を8時間56分29秒。あと10kmを1時間3分30秒でカバーすればいいのだ。1kmあたり6分20秒をキープするんだ。いけるぞ、いける。左右2メートルしか視野のない、足元のアスファルトの灰色しか見えていなかった目に、草花に覆われたコブが襞をなす、ワッカの壮大な光景が飛び込んでくる。すれ違う何百人ものランナーの表情も、崖の下に打ち寄せるオホーツクの白波も、素晴らしくクリアな色彩で見えている。
     「ゴールまで2km」の看板の所で、14分残している。サブテンを確信する。
     やった、ついにやった。一生できないかもと思っていたサブテンを、今から達成するのだ。
     今より、ずいぶん走力があったはずの頃にもできなかったのに。自分がサブテンできる日が来るなんてな。
     腰のあたりでコブシを握り、何度も小さくガッツポーズをとる。
     後ろから追いついてきたランナーが「サブテンいけそうですね」と笑っている。
     「いけますね」と返す。「25回も走って、初めてなんですよ」と言ってみる。
     「それはおめでとうございます」と祝ってくれる。
     「もう確実ですよね」と念を押してみる。
     「穴ボコに足つっこんで怪我しない限り」と注意を与えてくれる。
     「大事にいきましょうか」という。
     「大事にいきましょう」と返してくれる。
     コースを右折すると、ゴールゲートが見えてくる。
     やったなー、と思う。
     初めて自分をコントロールできた。
     きちんと目標に対して真面目に向かいあえた。
     走っていてよかったなーとしみじみ思う。
     生きていると、いろんなことがあるけど、たまにはいいこともあるもんだ。
     十代の頃に観た、イスラエル制作の青春エロ映画の主人公が言った言葉が頭に浮かぶ。
     「エブリ・ドッグ・ハズ・ヒズ・デイ」
     どんなクソ犬にも、彼が輝く日はある。
     9時間58分21秒。
     青空の下のゴールゲートで、初めて、心からコブシを突き上げた。
     
     
     
     
     
     
    筆者・100kmロード記録の変遷(記録はネットタイム)
    大会名 100km記録 前半50km 後半50km
    1 2008 6 サロマ湖 80kmリタイア 6:02:58  -
    2 2009 6 サロマ湖 11:45:18 5:10:01 6:35:17
    3   11 四万十 11:32:46 4:56:46 6:36:00
    4 2010 1 宮古島遠足 15kmリタイア  -  -
    5     宮古島ワイドー 11:05:17 4:49:54 6:15:23
    6   6 サロマ湖 12:02:36 4:56:50 7:05:46
    7 2011 1 宮古島遠足 12:56:46 6:07:52 6:48:54
    8   5 えびす・だいこく 10:52:29 5:06:53 5:45:36
    9 2012 1 宮古島ワイドー 13:51:35 5:41:07 8:10:28
    10   3 小豆島寒霞渓 11:33:37 5:41:53 5:51:44
    11   4 奧熊野いだ天 13:23:15 5:34:15 7:49:00
    12   6 しまなみ海道 12:18:00 5:05:00 7:13:00
    13     隠岐の島 11:48:57 5:30:16 6:18:41
    14     サロマ湖 10:22:14 5:05:19 5:16:55
    15   8 北オホーツク 13:09:05 5:07:45 8:01:20
    16   11 四万十 11:39:03 4:53:21 6:45:42
    17 2013 1 宮古島ワイドー 70kmリタイア 5:47:55  -
    18   3 小豆島寒霞渓 13:23:05 5:38:48 7:44:17
    19   6 しまなみ海道 13:31:00 5:50:00 7:41:00
    20     サロマ湖 11:55:02 4:49:55 7:05:07
    21   10 すずウルトラ 12:16:00 5:26:10 6:49:50
    22 2014 1 宮古島ワイドー 11:26:20 4:59:23 6:26:57
    23   10 四万十 10:27:53 4:40:26 5:47:27
    24 2015 1 宮古島ワイドー 10:47:48 4:48:35 5:59:13
    25   6 サロマ湖 9:57:29 4:42:56 5:14:33
     
     
     
  • 2015年09月18日バカロードその86 時速2キロでどこまでも 土佐乃国横断遠足242kmの3日間

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

      フルマラソンを走る人が特別な人だと思われていたのはずいぶん昔のことのように思える。愛媛マラソンの制限時間が4時間で、高知マラソンの40km関門が3時間10分だった時代だ。あの頃は、並大抵ではないトレーニングを積んだアスリートだけが参加できるのがフルマラソンだった。

     制限時間を7時間とゆるくすることで、マラソンは競技会からお祭りになり、ランパンランシャツはお洒落なワンピースや仮装にとって代わられた。それは、とても素晴らしいことだと思う。野球に、プロ野球や社会人リーグ、草野球や少年野球があるように、陸上競技だってどんなレベルの人も楽しめる場がある方が良いに決まっている。
     30年ほど昔のウルトラマラソン創生期には、浮世離れした鉄人ランナーの集まりであった100kmレースですら、制限時間を13時間から16時間程度にゆるめることで、今はごくふつうの市民ランナーでも十分に完走でき、その達成感を得られるようになった。例えるならば、小便臭いライブハウスで細々とウンコ投げてたアングラなバンドが、武道館でコンサートしてオリジナルグッズを物販するくらいの変化だ。例えがヘタだな。要するにマイノリティがマジョリティ化する過程にある。
     しかし100km経験者の次なる距離的ステップともいえる250kmの世界は、いまだ特別な人向けの世界にある。国内の主要な250km超級の大会である「萩往還」「さくら道」「川の道」「関西夢街道」「沖縄サバイバル」には、疲労骨折なんてかすり傷くらいにしか思わないモノノケたちが顔を揃えている。顔役クラスの世代にはこの世界を造りあげてきたレジェンドたちが居並んでいるし、最近台頭しつつある若い世代のレベルは急上昇し、サブテン、サブスリー級だらけ。彼らは、何百kmという距離を大酒あおりながら千鳥足で走り切れてしまうモンスターズなのだ。なかなかふつうの市民ランナーがちょっかい出せる雰囲気ではないのである。
     そんな異界とも言える250kmの世界を、市民ランナーに門戸開放したのが「土佐乃国横断遠足(とおあし)」だ。
     242kmという距離が長いかどうかは個人の感性にまかせるとして、制限時間がたっぷり60時間とられていることで、自分の走力(フルや100kmのね)を気にせず参加できるのである。なんたって時速4kmで歩き続けたら完走できるんですからね。2日間立ち止まらずに、の机上の空論ですが。
          □
     大会前日のお昼どき、主催者が用意した2台の中型バスが、JR高知駅や高知空港を経由しながら参加選手を拾っていく。鉄道、高速バス、空路などの到着時間に合わせてくれている。
     隣の席に座った参加者の長井さんは、昨年ゴールをともにした方。わずか半月ほど前、高知の県境上を踏破した話を聞かせてくれる。四国の西側である宿毛湾岸を起点に、愛媛県・徳島県との県境ラインに沿って山岳地帯を移動し、太平洋側の東洋町付近まで達する。道なき道というか、登山道もトレイル道もない山中を10日近くかけてビバークを繰り返し、低体温症に何度も陥りながらも全踏破した。
     こりゃ何ていうジャンルの遊びなんだろね。トレイルでも登山でもランでもないな。あえて競技名をつけるなら「トランス四国~人から野獣へ~」かな。長井さんは、「海沿いをぐるっといく土佐乃国横断を完走したら、ほぼ高知県一周だなぁ」と無邪気に喜んでいる。危険でヘンタイな野獣には近づかないようにしておこう。
     2時間ほどで、あたりに村ひとつない深い山中にたたずむ「国立室戸青少年自然の家」に到着。選手全員が参加義務のある大会説明会が行われ、希望すれば1泊2食つき2000円の良心価格で宿泊できる。
     初開催であった昨年の出走者数は21人だったが、今年は43人と倍増している。全員が顔を揃えても「班」くらいの小集団だった去年に比べ、今年は「学級」くらいの賑やかさがある。
     ランナーは、1棟建てのコテージ4棟に別れて宿泊するのだが、人数の都合もあって男性3棟、女性1棟に分けられる。男性は、「21時消灯」「22時半消灯」「24時消灯」とそれぞれ就寝時間が決められた部屋を勝手に選んでよいという画期的なルールであった。誰がこんな素晴らしいシステムを思いついたん? 高知県民って良く言えば何物にもとらわれない、悪く言えばテキトーそうなイメージなのに、細かいことに気が回る一面も持ち合わせているのだな。
     大会前夜の見知らぬ人との同宿相部屋は、「明日からの徹夜レースに備えてすぐ眠りたい人」と、「こんなハレの日には酒でも飲んで騒いでたっぷり起きていたい人」との利害関係が一致せず、両者が不満タラタラというエピソードにこと欠かない。この悩みを一挙に解決する名案である、拍手を送りたい。 
     さてここは酒豪の国・高知県である。24時消灯のコテージでは、日も沈まぬうちから宴会の準備がはじまっている。重そうな生ビールサーバーまで運び込まれている。ぼくだって当然、「明日から徹夜レースとはいえ、俺は酒を断るような無粋な男ではない」と自分の豪傑ぶりを知らしめるために参加する、ほどの勇気はなく、睡眠薬代わりの鼻炎アレルギー薬をたっぷり盛って、他人のことはおかまいなしに20時すぎには眠りにつく。
     眠る前に同じコテージで宿泊した徳島からいらした中川さんが見せてくれた衝撃映像・・・半月前に川の道を完走した証である皮膚がぐちゃぐちゃになった足の裏と、爪が取れまくって変色した足の指が夢に出てきて、激しくうなされる
          □  
     室戸岬の中岡慎太郎像前を朝9時にスタート。ランナーはゼッケン番号順に・・・ではなく自主的にかつ適当に2列に並び、2人ずつ5秒おきにウエーブスタートが切られる。このあたりは規律性は求められていない。
     視界の左半分は紺碧の海、右半分が緑濃い山。ゆるいカーブを描きながら1コ先の岬の先っぽへと道路はつづく。6kmあたりの室戸市街、12kmの吉良川の街を通過するが、歩いている人はほとんど見かけない。のーんびりした時間が流れている。まあ、こっちの人は、こっちの人なりに忙しいのかも知れないけど。印象ね、印象。羽根岬をぐるっとまわり込むと、さらに人の気配のない松林の直線道に入る。
     暑い。列島全体が高気圧に覆われている日和も手伝っているが、南洋に向かって熱吸収効率よさそうな扇型をした高知の地形が、ソーラーパネル的に暑さを増幅させてる気がする。太陽、なんか徳島より眩しいし。 
     1km6分前後のペースなのに、すでにゼーハー息が荒い。軽量ながらもリュックを背負い、ペットボトルのなかで液体が揺れていると、空身ほどスピードが出なくなる。あるいは脳みそが自動ブレーキ装置をかけているのかも知れない。2昼夜走り続けるのだ。今から体力使ってると後で地獄が来るんだよと、脳にも筋肉にも細胞にも知れわたっていて、スピードを出せなくしているに違いない。
     第1エイドは27.9kmの「海辺の自然学校」。氷水でギンギンに冷やされたスポーツドリンクを500ml一気に飲み干し、さらに500mlをペットボトルに補給してもらう。すでに吐き気がしていて固形物を食べる気がしないが、エイドの傍らにかき氷マシンが鎮座しておるではないか。シャリシャリの氷にイチゴ蜜をかけてもらった器を受け取ると、休憩なしで出発する。歩きながらむさぼり食うかき氷が、喉から食道、胃壁へと落ちていくのがわかる。内臓が急激に凍り、体内を循環する血液も冷やされると、ぼーっとしていた思考が機能回復する。
     エイドに長居せず、少しでも先を急ぐのは、とりあえずの目標があるからだ。「日の沈まないうちに83.8kmの桂浜エイドに着く」のである。日没時間は19時だから、9時のスタートからちょうど10時間後である。
     桂浜エイド手前の、浦戸湾を天空高くまたいだ浦戸大橋からの夕景を見たいのだ。というのは外向きの理由で、本当は暗くなってから浦戸大橋をわたるのが怖いからだ。とっぷり日が落ちてから橋を越えた昨年は、誰かに見られているようなねばり気のある視線を感じ、全身の鳥肌が収まらず、背中をドードーと冷たい汗が流れた。というわけで、心霊対策のために、先を急ぐのであった。
     第2エイドの62km「ヤ・シィパーク」までを、ことさら長く感じるのは致し方ない。エイド間が34kmあるのだ。「次のエイドまで」といっても、フルマラソンにちょっと足りないくらいの距離なんだから、長いに決まっている。
     40km地点の大山岬では、海岸線沿いにぐるっと回り込む国道と分岐して、新たに岬をトンネルで貫いたバイパス道が完成している。コースは旧道のまま、変わらない。かつて無数の自動車が行き交った国道は、今では乳母車を押すおばあさんが道をゆっくり横断しているくらい時が止まっている。道沿いには立派な道の駅があるのだが、やはり立ち寄る人も少ない。この施設は今後どうなってしまうのだろう・・・と地元の雇用を心配する善人ぶった感情を抱きつつ、さらに地域貢献ぶってお金を落とすべく自販機でコーラを購入。ただ飲みたいだけですがね。
     長い長い直線道路を淡々と進む。道中、変化に乏しく、見るべきものもない。頭の中はエイドで休憩することしか考えられなくなっている。
     遠く右前方の丘陵に、土佐ロイヤルホテルの高層棟が見えてくる。次のエイドは、あのホテルの更に向こうにあるはずだが、ホテルの輪郭がなかなか大きくならず、うんざりしてくる。イヤ気満々でダラダラ走っていると、後方からテケテケと軽快な足音が響いてくる。60kmも走ってるのに何と元気な人がいるもんだと振り返ると、徳島から参加の佐幸さんである。あの「トランスジャパンアルプスレース2014」・・・北・中央・南アルプス縦走を含め日本海から太平洋まで8日間制限で踏破する伝説的なレースのたった15名しかいない完走者のお1人である。体重に比して、筋力の強さが生みだす軽い走り。神々しいばかりのランニングフォームだ。「ロードは(足の裏の)同じ場所ばかりで着地するのでつらい~」という感じのことをおっしゃっているが、まったく辛そうには見えない。鈍重で心肺能力の低いぼくの持たざるものすべてを持ったような走りで、あっという間に視界の先で点になっていった。うらやましいなー。
     62kmエイド「ヤ・シィパーク」は16時に到着。ここまで7時間、予定より30分遅い。3時間後の日没までに桂浜に着かないぞ。コーラをがぶ飲みし、冷え冷えみかんを2個ポケットに入れ、休憩もそこそこに21km先の桂浜を目指す。
          □
     海上50mの高さまで急傾斜のアーチをつくる浦戸大橋にさしかかった頃、太陽は山の端にひっかかっている。薄暮れの下界には、浦戸湾岸の漁港の連なりや、太平洋へと連なる土佐湾が、ノスタルジックな夕景として浮かんでいる。日中は暑かったけど熱中症や脱水にはなっておらず意識は明瞭であり、おかけで例の心霊現象も起こらなかった。
     桂浜には19時すぎに着いた。せっかく坂本龍馬像のたもとに用意してくれた桂浜エイドだが、龍馬殿の勇姿をおがんでやろという余裕や好奇心は既にない。テント脇のブルーシートの上に敷かれたマットに腰を下ろすが、疲労がどっと押し寄せ、仰向けに寝ころぶ。縦横に枝を張り巡らせた松の木を、薄空を背景に呆然と眺める。まったく自分の「80km足」には、毎度うんざりさせられるぜ。100kmレースでも250km徹夜レースでも、いつもぼくの限界は80kmでやってくる。80kmで潰れたあとは、目標タイムとか、絶対完走とか、スタート前に抱いていた志は消失霧散し、「あと170キロも走らないといけないのか」「何か自分に不慮のトラブルが起こり、やむなくレースを中止できないか」という、ダークサイドな精神に犯されていくのである。
     エイドの方が食事のメニュー表をたずさえ「どれでも召し上がってください」と寝転がったぼくに声をかけてくれる。桂浜エイド名物の鰹のタタキを注文したい所だが、顎に力が入らず、噛み下せそうにない。噛まずに飲み込めそうな豚しゃぶサラダとスープをいただく。ほんとどちらのエイドでも、贅沢な接待を受けております。幻覚でないとするなら、美人のお嬢さんぞろいです。見ず知らずの変なおじさんに優しくしてくれてありがとう、と心で唱える。
     20分ほど横になっていたが、このまま伸びていても体調が戻りそうな気配はなく、ヘッドランプを装着して夜道をふらふら歩きだす。
     松林を抜けると、土佐湾岸沿いに真っ直ぐ伸びる黒潮ラインに出る。なるべくなら陽のあるうちに、視界いっぱいに開けた雄大な太平洋の横を走りたかったが、すでに真っ暗でございます。海沿いの直線道に出て、5個目の信号の角に「ピンクの子豚」という男女がうれしいホテルがあり、そこを確実に右折しなくては道に迷ってしまう。この道沿いには男女が楽しいホテルが点在しているから、他店と間違うわけにはいかない。おのずとランナーは「ピンクの子豚、ピンクの子豚」とつぶやき続けることになる。
     前方の暗闇からキャアキャアと叫ぶ声が聞こえてくる。若者の集団がいる。女性の声が目立っているが、声のけたたましさが尋常ではない。レディースの暴走族だろうか。こちらは武器を持たないしがないオヤジであり、うっぷんを溜めた若者たちに、木刀で殴られたり、竹槍で刺されたりはしないだろうか。Uターンして桂浜に帰ろうか、それも面倒くさいな。危機管理能力乏しく、そのまま近づいていくと、ヘッドランプの光の向こうに、赤やピンクの派手なセーラー服やミニスカの衣装をまとった異様な女性の集団が現れた。色彩のない闇夜に舞い降りた天使・・・にしてはヤイヤイとやかましい。耳をすませば、土佐弁全開でものすごく応援してくれているような雰囲気である。「キャバクラの方でしょうか」とか「コスプレイベントやってるんですか」などといろいろ質問させてもらったが、ほぼ話が噛みあうことはない。最後まで何者の集団なのかわからなかったが、みなさん応援ありがとう。(後に彼女たちは高知ではとても有名な地元アイドルグループの方々だと教えてもらった。いい子たちだね)。エネルギーの放熱を受け、走りに少し元気が戻った。
     高知市を抜け土佐市入口に架かる仁淀川大橋でちょうど100km、ここまで13時間30分。ふー、バテバテでほとんど歩いてるわりには、そんなに遅くないねえ。
     土佐市街に入り夜も11時を過ぎると、眠くて眠くてどうしようもなくなってきた。ふだんなら深夜の2時、3時なんて起きてても全然平気なのに、ジャーニーランの最中は耐え難いほどの眠気に襲われるのが常だ。実力のあるランナーは、レースになると徹夜でも眠くなくなるそうなのだが、ぼくは真逆です。
     眠気に耐えられず、仮眠できそうな場所を探したが、1つも見つからない。コイン精米所の床は鉄板だし、墓石屋さんの屋外展示の椅子は石だし、野宿するには冷たすぎるんだよ。深夜1時にも関わらず、私設エイドを開いてくれていた方が、ワゴン車の後部座席で寝てもいいよと親切に勧めてくれたので、倒れ込んでみた。一瞬で眠れるだろうというアテは外れ、温かい空気のなかにいると、身体がジンジンと火照ってきて呻き声をあげるばかり。
     102kmの土佐市街から20km先の須崎市街まで5時間もかかってしまう。須崎を越えて、海岸線のくねくね登り道に差しかかった頃に夜が明ける。1時間に2kmしか進まなくなってきた。朝日を浴びても眠気がぬぐい去れず朦朧としている。開店前のドライブインの玄関マットの上や、廃屋の前のひさしの下で横になってみるが、やっぱし眠りに落ちない。15分でも仮眠できたら調子が戻るとわかっているのに、悲しい。
     大型バイクで応援に来ていた方に、呼び止められる。コンロで火を沸かし、温かいスープを作ってくれる。傍らに座り込んでいるランナーは、前半もの凄いスピードで追い抜いていった広島からいらした山本さんだ。脚をひどく傷めていて、主催者に電話をかけてリタイアの相談をしたが、てんで相手にしてもらえなかった模様だ。互いに戦意喪失といった風情だが、「150kmの大エイドまでいけばシャワー浴びれるし、ゴロ寝もできるので、もうちょっとだけ進みましょうか。この大会リタイアさせてもらえないみたいだし・・・」というしみじみとしたお話をした。寝ぼけていて、会話の内容は定かではないけど。
          □
     土佐久礼郊外の134km地点で国道56号線を離れ、田舎道に入っていく。三叉路を何度か折れるたびに道は細くなり、山すその遍路道へと導かれていく。
     編み笠を模したような斬新なデザインの東屋があり、木のベンチに毛布が置かれている。もっと早い時間帯に来れていたら、ここで安眠できたのにと残念に思う。東屋の向こうに「へんろ道登り口」の標識があり、急階段が現れる。この道は、添蚯蚓坂・・・「そえみみず坂」という土佐の古道へと続く。高知県西部の遍路道三大難所とされ、ミミズが土の上を這った跡のようにぐねぐね曲がりくねった坂道だから、こんな愛嬌ある名前がついたらしい。
     しかし国道をそのまま進んでも、そこそこキツいこの久礼坂の峠道を、わざわざ山中を遠回りさせて、階段やらトレイルを走らせようとする主催者の、おもしろいイタズラを思いついた子どものような悪だくみ心を想像し、笑いがこみあげてくる。
     長い階段を登ったり下ったりしていたら、遙か上空から名前を呼ぶ声が聞こえる。道中にエイドがあるとは知っていたが、まさかこんな崖にへばりつくような斜面にねえ。階段を登り切ると、東屋の下ではスタッフの皆さんがかいがいしく働いてらっしゃる。隣接する場所に車道などなさそうなのに、クーラーボックスやらコンロやら膨大な物資があるので、どうやって荷物を持ってきたのか尋ねると、「500mくらい下から5往復はした」とのこと。ありがたやー。豚肉でスープをとった「すいとん」を、ドンブリいっぱい振る舞ってくれた。膨大な手間をかけて作ったことでしょう。
     当大会の主催者である田辺さんが、にこにこ笑顔で(いやニヤニヤか)見つめている。ぼくは、「実は足がすごく痛くて、体調もよくないし、1時間に2kmしか進まなくなってるのでゴールは厳しいし、ゴールできても日曜は早めに帰らないと用事があるし・・・」などとリタイアをほのめかせてみたが、まったく相手にしてはくれない。その代わりに、東屋から更に上へと伸びる急階段を指さして、「その階段を登ったら、あとは平坦やけん、頑張って」と優しくアドバイスをくれる。そうか、この山道もそんなに大変じゃないんだなと安心し再出発したが、完全な嘘であった。平坦などころか、ゴツゴツ岩だらけの登山道が延々と登っていた。わはは、本当にゆかいな大会だぞ。
     「そえみみず坂」の終点は国道も通っている標高292mの七子峠頂上であるが、遍路道はいったん標高410mまで登って、292mの七子峠まで下りてくるという、ある意味ムダ骨を折らされる酷道であった。途中で3人のお遍路さんに遭遇し、皆さんに励ましてもらい、お八つをもらったりした。よほどつらそうに見えたに違いない。
     やっとこさ七子峠頂上のアスファルト道に出る。 
     後方からパタパタパタと猛烈な勢いで走ってくるランナーがいる。徳島の椋本さんだ。「今、カフェインとったんです。この日のためにカフェインを2週間抜いてきたんです。カフェインが効いてるうちに走ってしまいます」とテンションが高い。とても追走できないスピードなので「がんばってー」と声をかけると、「今はもう止まれないんです!」と言い残して風のように去っていった。
     水田の中の一本道をとことこ進むと、大会運営車両が停まり水を補給してくれた。大エイドがある「クラインガルテン四万十」まであと少し、エイドで食べさせてもらえる「窪川ポークのしょうが焼きを心の支えにして走っています」とスタッフの方に告げたら、「今年はカツ丼もあるけんね」とお薦めしてくれる。うほっ、カツ丼もいいねえ。カツ丼にすべきか、豚しょうが焼きにすべきか。いっそ2品ともいただこうか。と考えていたら、何やら元気がふつふつと湧いてきて「カツドン!カツドン!カツドン!」と声に出しながら走る。
     すると前方に、さきほど猛然たるスピードで追い越していった椋本さんが、ふらふらになって蛇行している。どうしたんですか?と尋ねると「カフェインが切れたようです」とのこと。カフェイン切れ、はやいなー! 「坂東さんはふだんコーヒーを飲みますか?」と尋ねられたので、飲みますよと答えると、「それは惜しいです。ふだんコーヒーを飲んでなければ、ここぞというときにカフェインが効くんです」とのことである。うーむ、効果の持続性さえ保障されればね。さて、大エイドのシャワーブースが1つしかないことを知っているので、併走するのはやめて、カフェイン切れの椋本さんを置き去りにし、「カツドン!カツドン!カツドン!」と連呼ながら先を急ぐ。
               □
     四万十町の滞在型農園施設「クラインガルテン」に12時30分頃到着。先着したランナーが気をつかってシャワーを3分ですませてくれる。ぼくもシャワーコックをフル出力にして5分で終了。シャワー室を出ると、入浴前にお願いしていたカツ丼と豚しょうが焼定食を即座にテーブルに並べてくれる。ああ、何て美味なんでしょう。胃がぱんぱんに膨れあがるほどいただく。
     奥の仮眠所に入ると、毛布ひっかぶってブーブーいびきかいてる方々がいる。この爆睡メンバーに加われるという幸せに目まいがする。床に敷いたウレタンマットに横になると、得も言われぬ多幸感に包まれる。ああ、やっと眠れる。今から1時間くらいは走るのをサボッていいんだ。あぁこの世の極楽ここにあり・・・と噛みしめていると30秒ほどで気を失う。
     きっかり1時間で目が覚めると、心はやる気に満ちており、「さあ走るか!」とポジティブエンジン全開状態である。つい数時間前まで、わざと側溝に足を踏み外して怪我をしてリタイアする計画を企てていた自分なんて、もはやどこにも存在しない。「やる気!元気!井脇!」と叫んで大エイドを後にする。なんだキロ6分で走れるではないか。人間の限界なんて、99%心理的なものなんだよね。標高240mの片坂の登りを走りきり、「足の痛みなんて踏んで固めてやる」と下りもダッシュする。そのかわり「やる気!元気!井脇!」を復唱しすぎて井脇ノブ子の顔が頭から離れなくなり苦悶する。
     20kmばかり進み、夕方になると冷たい雨が降ってくる。カッパ代わりのエマージェンシーシートが気休めの雨よけになったが、しばらく走れば全身びしょ濡れになった。180kmの土佐佐賀あたりで2度目の夜に突入する。100kmぶりの太平洋とのご対面だが、漆黒の夜にザッパーザッパーと打ちつける波音を聴くだけである。雨の海岸ロードはさみしさに満ちていて、濡れた衣類やシューズが皮膚を冷たくし、バス停の小屋を見つけるたびにもぐり込んでは暖を取る。深夜1時もすぎて土佐入野の商店街に入ると、狭い路側帯の白線を越えずには走れないほど蛇行しているのが自分でもわかった。
     四万十市街に入る手前で、両方の手に木の枝を持って痛々しく前進している山本さんに再会する。70km手前で会ったときはお互い真剣にリタイアする相談をしてたのに、「2人ともやめてないですねぇ、すごいすごい」と喜ぶ。
     午前3時。最終チェックポイント、四万十大橋のたもとへ。エイドにはなぜか漬け物がずらりと並べられていて、青菜や野沢菜や梅干しやらをバリバリとむさぼり食う。コース図によるとここは206km地点で、全行程242kmってことは、引き算すると残り36kmという計算が成り立つのだが、エイドにいらした主催者・田辺さんいわく「少なくともあと40kmはありますね」。なるほど、地図に書いてある数字なんてただの記号に過ぎないのである。われわれはリアルを生きているのだ。目の前には真っすぐな道がゴールへと続いている。血の通った生身の足がストライド50cmずつ前に身体を運んでいくんだ。ジャーニーランとはそういうものだ!うおーっ! 徹夜二晩目には、自分の感情も論理もコントロールできはしないのだ。
          □
     朝日が空を白くしはじめた頃、「四万十川野鳥自然公園」に東屋を見つけ、ベンチで20分ほど眠る。目が覚めて立ち上がると、肛門周辺に、焼けた釘を何本も打ち込まれたような痛みあり。スボンに手をつっこんで恐る恐る撫でてみると、尻の穴の周りが激しくミミズ腫れし、ぼっこりとドーナツ状に隆起している。触った指には血がべっとりついている。これじゃとても走れないと、指先でワセリンを塗りつけると、剥けた表皮が激痛を誘い、悲鳴をあげる。
     右のお尻と左のお尻がこすれ合わないように、股を左右に開いた奇妙な格好で走っていると、昨日大エイドで一瞬遭遇したランナー・中島さんが追いついてこられた。
     中島さんは、川の道フットレース520kmを毎年のように完走している凄い人。ぼくとはレベルが違うために、こちらも4回出ているにも関わらず川の道では顔を合わせる機会はなかった(ぼくは常にビリのあたりを走っております)。しかし競技人口が少なすぎる250km超級の世界だけあって、共通の知人が山のようにいることがわかり、その人物たちのエピソード・・・あの人は少しおかしい、あの人はイカれている、あの人はド変態・・・と愛するランナーたちの逸話を披露しあっているうちにに、肛門の痛みが緩和された。
     一方、足裏の打撲的症状は耐えうる限界をやや超していて、数キロおきに道ばたに座りこんでは、自販機のジュースやコンビニで買ったアイスクリームを、ソックス脱いだ足に押し当てながら、痛点を麻痺させようと試みる。
     そんなノロノロペースにつきあってくれる中島さんは、タバコ休憩という名目のもと、ぼくが立ち上がるのを待っている。うまそうに紫煙をくゆらせる中島さんがかもし出す雰囲気は、地球の滅亡を救っておきながら「やれやれ、ひと仕事おわったな」とタバコ1本分の褒美を自分にあげるヒーローのようである。このような人格の余力分をちらつかせながらジャニーランのいちばん厳しい場面すら遊びなのであるという、達観した人間性をぼくもいつかは放ってみたいものである。
     そんな理想と現実はほど遠く、ラスト5kmには着地するのも困難となる。道ばたの幅の狭い用水路に、山側から流れ出した水がゴーゴーと溢れている。裸足になって両足をひたすと、ドライアイスの塊に足を突っ込んだみたい。頭のてっぺんまで痺れる。いったん真っ赤に変色し、やがて白くなっていく足は蝋人形。もう痛みは感じなくていいのだ。
     後方からどんどんランナーが追いついてきて集団が5人になる。ゴールを目前にし、なにやら皆さん楽しそうである。カフェイン切れから復活を遂げた椋本さんは、「あえて遠回りな遍路道に登って、意外な場所からゴール会場に現れてウケようとしたけど、途中にあったお寺の人に追い返された」という読解不可能なエピソードを話してくれる。
     ゴールまで500mという所で、キャーキャーとやかましい女性たちが前方から駆けてくる。何かよくわからないが、熱心に応援してくれているらしい。ランナー集団を取り囲み、ウイニングランにつき合ってみたい感が溢れている。さて、この黄色い声援はどこかで聞いたぞな。そうだ、2日前の夜、桂浜の海岸線でレディース暴走族と間違えた高知のローカルアイドルさんだ。相変わらず土佐弁全開で、鼓膜を突き破るくらい声がデカい。調子はどうかと尋ねられたので、「肛門が痛い。肛門の周りがドーナツみたいに腫れあがってる」と説明すると、「肛門ドーナツ!きゃははは!かんばれコーモン!コーモン!」とコールをはじめた。「ほくは肛門ではない。ぼくはランナーだ」と説明するが聞く耳を持たず、「肛門さんファイト!オーッ!」と盛り上がっている。
     54時間にわたる苦闘のフィナーレは、派手な肛門コールに包まれ、幕が下りようとしている。ひと足先にゴールテープを切った中島さんが、煙草の吸える場所を探して消えていく。お祭りの時間は、楽しければ楽しいほど、終わりは寂しく感じるものなんだな。
     
     
  • 2015年06月23日バカロードその85 伝説のマラニックは愉快なサディスティック〜長崎橘湾岸スーパーマラニック 春の173km〜

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     高速バスで神戸空港まで行き、昼頃に発つスカイマークの長崎空港便に乗った。神戸から長崎までは空路52分という短い空の旅だ。ふだんは片道6900円ほどの低価格で購入できる路線だが、さすがにGW期間中とあって運賃は1万円ほどになっていた。

     長崎空港から市内中心部の「新地」までは、高速道路を経由するリムジンバスで35分。片道800円で往復だと1200円とお得になる。朝めしつき6000円也のビジネスホテルにチェックインしてベッドに寝ころぶと、足元にある窓に向こうに、霧に包まれた坂道の街が幻想的に映っている。うむ、人生で何度も訪れることもないであろう長崎だから、観光でもせねばなるまい。長崎まで来て街歩きをしないなんて、人間としていかがなものか。などと自分にプレッシャーを与えていたら、だんだん外に出るのがおっくうになってきて、雨も降ってるしさぁと、半分は天気のせいにして、昼の3時からぐうたら寝てしまった。
     目が覚めると時計の針は深夜0時。昼間から8時間も寝てしまったがために、二度と眠りにつけない。腹が減ったが、遠くまで出かけるのも面倒くさく、ホテル横のコンビニでインスタントそばと白めしを買ってきて、お湯を沸かして食べる。そういえば、長崎に行くからと何人かの九州ランナーたちに告げると、ていねいに名物料理や有名店のリストを送ってくれた。おかけで、長崎市内のグルメ情報は頭に入っている。トルコライスに皿うどんにちゃんぽんに、茶碗蒸し(巨大な丼に入ってるらしい)やミルクセーキ(凍ってるらしい)・・・。しかし、深夜1時にビジネスホテルの窓辺で食べているのは日本中どこにでもあるセブンプレミアムの天ぷらそばである。見知らぬ土地を歩いては見聞を広めようという前向きな心を失ったとき、人は老いてゆくのであろうか・・・などと考えつつ、生ぬるいそばをすする。結局朝まで眠れなかったが、8時間寝てるので良しとしておこう。
     長崎港の海辺にある水辺の森公園が、「長崎橘湾岸スーパーマラニック」のスタート地点である。白亜の豪華客船が埠頭にどどんと浮かんでいる。出発を前にしたランナーたちが、再会の時を楽しんでいる。博多弁や長崎弁に熊本弁・・・九州イントネーションがここでは標準語なのだ。初開催から20回を重ねる伝統のマラニックには、走りの奥義を究めたような、ベテラン風情の九州ランナーたちが集結している。使い古され擦り切れたリュックには、「萩往還マラニック」で支給されたネーム入りワッペンがつけられている。このワッペンがついている人は、まあ徹夜走なんてのは屁のカッパという傑物たちである。
     「長崎橘湾岸スーパーマラニック」は、春と秋、年2回開催されている。春は長崎市をスタートし、長崎の海岸線をぐるりと一周して、雲仙のふもとにある小浜温泉までの173kmのコース。秋は、小浜温泉を発って島原半島の南を半周し、雲仙普賢岳近くまで登る山越えを100km。そして、2年に1度「ダブル」と呼ばれる273kmのロング大会が開催され、春・秋の両コースを一度に踏破する。「ダブル」にエントリーするには、主には春・秋の完走実績など参加資格が必要である。
     さて長い走り旅の時間が迫ってきた。スタート時刻は朝10時である。スタートの垂れ幕近くに選手が集まりはじめてはいるが、1分前になっても準備している人がいたりして、緊張感とは無縁のゆらりとした感じで走りだす。
     すでに3時間前には、第1集団が出発している。ランナーの走力によって7時、10時、13時と、3時間おきにスタート時刻をずらしてある。7時スタートは過去の完走記録がゆっくりめの人。13時スタートは100kmサブテンクラスの速い人。中クラスの人と、実力のよくわからない初参加の人は10時はじまりだ。限られた人数のボランティアスタッフによってエイドのサービスをしてくれる際に、先頭と最後尾ランナーの距離が間延びして、1カ所のエイド設置時間が長くなりすぎないための工夫である。
         □
     道がよくわからないので2kmほど集団で進み長崎の繁華街を抜けると、急傾斜の坂道に突入した。標高330mの稲佐山の頂上までは麓から5km。ゆっくり走っていてもゼーゼー息が青く感じられる。さすが伝説のマラニック大会である。出だしからランナーとしての脚力を値踏みされているようだ。一本道なので迷うことはないと独走し、先頭を切って山頂公園に着いたものの、チェックポイントがどこにあるのかさっぱりわからない。
     当大会では、コース中に6カ所のチェックポイントが設けられていて、各ポイントで形状の異なるパンチ穴を専用のシートに打ち込んでいくのだ。たとえゴールをしても、6つとも穴が開いてないと完走とは認められない。
     しばらく探してもチェックポイントが見つからないので、観念してベンチに腰掛け、後続のランナーを待つ。道に迷ったら、ウロウロせずにランナーを待て。これは、今までコースアウトを続けてきたぼくが見いだしたジャーニーランの鉄則である。
     後続の集団がやってきたので、チェックポイントの場所を聞くと、指を1本立てて上空を指す。「なんと?」とうろたえていると、ランナーみなが円筒状の建物に入っていく。螺旋階段をぐるぐる回転しながら建物を4階分ほど登ると屋上に出る。ここにチェックポイントがあるという。見晴らしのいい展望屋上の手すりに、ぷらーんぷらーんとパンチ穴を開けるホッチキス的な文房具が揺れている。
     「うーむ、このコースは1人ではとても走れないぞ」と改めて自戒する。チェックポイントの在りかををあらかじめ知っておかなければ進みようがない。ということで5人ほどの集団の後ろにつかせてもらうことにする。
     10kmばかりを延々と下り、いったん標高0mの長崎市街地に下ると、間髪を容れず270mの山登りに取りかかる。20kmしか進んでない割に太腿はパンパンで乳酸たまりまくりだ。30kmで峠道を下り終え、角力灘沿いに漁港が連なる街路に出る。海辺の道が平坦とは限らない。50〜100m級の小山をいくつも越えていく。そしてカンの鈍いぼくも、薄々気づくのである。「この173km、ほとんど坂道ばっかしかも!」
     長崎港の湾口にかかる女神大橋は長さ1289mの美しい斜張橋。橋の上からは、傾斜地にすり鉢状に広がる長崎市街の様子を遠望できる。ここが45km地点、ちょうど5時間が経過。山をたくさん越えて、かーなり走ったわりに、スタート地点とたいして離れていない場所に戻ってきたことを知り、軽くショックを受ける。
     女神大橋のたもとのエイドでそうめんをいただき、細長い野母崎半島の旅に出る。岬の先端まで片道25km、見通しのいい広いバイパスのような道をゆく。右手の海上に、幾何学的な島影が見えてくる。今は廃墟と化した炭坑の島、軍艦島だ。ふむふむ、あんなちっこい突起物みたいな所にかつては5000人もが住み、高層ビルやらジェットコースターが建てられてたのか。
     野母崎の漁港の街を抜けると、岬の最高地点である標高198mの権現山への急坂へ。山頂にチェックポイントがあると大会の公式マップに示されている。ここまでのノリからして、頂上には展望台か何かがあって、そのてっぺんにパンチ穴開けマシンがあるんだろうなと予想しながら、太腿の筋肉を軋ませて、妥協なく登りも走る。山頂の駐車場にエイドが用意されていたが、チェックポイントは更にその先200mの所だと言う。そして、予想どおり展望台のてっぺんにパンチ穴くんがあった。だいぶこのマラニックのオキテに慣れてきたぞ、ふふん。要するに、コースは最初から最後まで坂道であり、チェックポイントは、山の頂上のそのまた先の、人工的に造られた展望台や灯台の最上階へと階段を登っていけば「ある」のだ。マラニックという言葉が連想させるほど楽しく、るんるんなコースではないのである。いや、ふつうのウルトラマラソンやジャーニーランの大会と比較しても、屈指の難易度を誇るコースなのである。
     今まで参加経験のあるランナーからは「楽しいよ」という話しか聞いてなかった。でもよく考えれば、ジャーニーランナーの「楽しい」は、ふつうの人間の楽しいとは違う。よりサディスティクで、より過酷な物を「楽しい」と思いこむ変態たちなのである。今ごろそんなことに気づいても遅いのである。
           □
     権現山を下ると日が暮れてきた。81kmの樺島灯台公園(標高120m)へは、灯台の照明は遠くに見えているのに、走っても走っても近づかないという印象で、細かなアップダウンの連続にヘバりはじめる。この辺りから走りを楽しむ余裕はなくなり、ひたすら98km地点にある中間エイド「川原老人の家」まで残り何kmだろうかと、そればかりを頭で暗算していた。標高250mの峠をひとつ越え、だらだら坂を下ってようやく川原エイドに着いたのは午後11時である。98kmに13時間かかったことになる。
     川原エイドは、手前の調理場に食事スペースが設けられ、ボランティアの方々が料理をたくさん作ってくれている。奥まった場所には板張りの大広間があり、先着のランナーたちがぐったり寝そべって仮眠をとっている。大会の特別ルールで、この川原エイドをランナーが再出発できるのは、スタート時間の最終組(13時発)の先頭ランナーが到着してからである。先着ランナーは、それまでは待機となる。例年、最終組のトップ選手は深夜0時前後に到着するので、それまで1時間くらいは休憩できる。
     玄関先でほぼ全裸になり、クールミントなウエットティッシュで全身を拭く。このエイドにシャワーはないのである。デポした荷物に入れておいたシャツとパンツに着替え、大広間にごろりと横になる。熱を持った脚がジンジンと痺れ、走りつづけてきた興奮が冷めないからか、まったく仮眠に入れない。広間のあちこちで大イビキをかいているランナーたちはさすがである。こういう場面で、30分でも1時間でも深く眠れたら、朝まで体力が持つことをぼくは知っている。だけど眠れないのだからどうしようもない。
     天井を眺めて葛藤しているうち、深夜0時30分頃に、最終組の先頭ランナーが着いてしまった。このエイドで夜明け近くまで休息を取るという選択肢もあったが、眠気が起こる予兆がない。睡眠を取れないのに留まっていても意味がない。走りを再開することにする。
     街灯のほとんどない暗い峠道をゆく。川原エイドでは眠くなかったのに、走りだすと猛烈な睡魔がやってきた。おまけにすごく寒い。バス停のベンチや公衆便所で寝ようと試みたが、寒すぎて眠りに落ちられない。
     幾つめかの峠道で、立ちションをしようとして道路を外れ、路肩の向こうの森の方に入ろうとしたら、腰の辺りにバリッと鈍い痛みがはしる。何だろうと思って手を当ててみると、ピンと張られた有刺鉄線に身体ごと突っ込んでいたことがわかった。多少は痛かったのだが、眠気の方が勝っていて、大したことはない。そこいらでションベンしてまた走りだす。
     深夜3時頃に、後ろの方から大騒ぎしながらやってくる男女あり。
     「せやから気持ち悪いねんてー、ゲェゲェ」
     「自販あるで。ビックル飲めや。乳酸菌、胃腸にええで」
     「それよりあたしビールがええわ。さっきビール飲んだらスッとしたねん、ゲェゲェ」
     「タコ姐、もう何十?もずーっと文句ばっかり言うとるわぁ」
     何となく懐かしく、耳馴染みのある会話を交わしているのは「明石のタコ姐」と「おっちゃん」だ。「明石のタコ姐」は、当大会の上級者コースである「橘湾ダブル・273km」の女性コース新記録を持つ実力者、「おっちゃん」も超ロング走の世界で名高いスピードランナー。「おっちゃん」という名前は、顔がおっちゃん顔なだけで、実際はそれほどのお年寄りではない。トランスエゾ・ジャーニーランや関スパの名コンビであり、関西を代表するウルトラランナーである御両名は、深夜の漫才を展開しながら、コースをかなり外れた先に光り輝くビールの自販機めがけて突進していった(この辺の漁村は、夜中でもビール自販機が動いている)。真夜中にゲロ吐きながら走って、延々と喋り続けながら、ビール飲んで胃腸障害を治そうとする。凡人には遠く及ばないバイタリティである。
     そしていっそう凡人なぼくは、睡魔にやられて蛇行歩きをし、それでも明け方までに100m級の山を6個越える。
     朝日が射してくると、体温が戻り眠気から解放される。ふと腰元に目をやると、ランニングパンツの右骨盤の前部分があられもなく破れ、布地がドス黒く変色している。破れた穴からなかを覗いてみると、皮膚が10cmにわたってザックリ切れ、深い裂傷を負っている。パンツも皮膚も血まみれだ。あ、夜中に有刺鉄線に突っ込んでいったのって、こんなに激しかったんじゃ。傷はヒリヒリするが、足の裏の痛みの方が勝っていてあまり感じない。大仁田厚みたいでカッコいいなあと思ったりする。寝ぼけているのです。
     130kmを過ぎると本格的に脚が動かなくなり、そこからの150m級の山3つは、ほぼ歩いて登る。今シーズン初めての100?超級レースである。脚ができていないのは明白である。
     海辺から標高150mまでの急傾斜に、じゃがいもを栽培するだんだん畑が層をなす光景は圧巻だ。収穫の最盛期なのか、ベテラン農家のお年寄りがトラクターを操り、タオルを頭に巻いた青年団風がトラックにコンテナを載せ、小学生のお手伝いボーイズがポリバケツに入れたじゃがいもを運ぶ。何百人もの人が収穫作業をしている。蒼天の空、紫紺の海、その横で展開される自然と人間の営み。オゥ、ウツクシイデスネ、と長崎の異人さんになった気分でつぶやく。苦しいながらも景色を楽しむ情緒を取り戻したようだ。ゴールまで残り30kmとなって、心に余裕が生まれたのかもしれない。
     このあたりからは、福岡のトレイルランナーである石田さん(THE BOOMの宮沢和史似の男前)に励まされながら、ゴールを目指す。互いに足の裏を傷めており、下り坂ではヒーヒーうめいている。それぞれの境遇を話し合うことで、激痛を紛らわせながら前進する。1人で走ると頭の中は「痛い、痛い」で支配される。こういう時くらいは、親切なランナーに助けられるのもよしとしよう。
     今朝スタートした80kmや55km部門のランナーたちが追い越していく。長崎、福岡、熊本のランナーたちは、みな陽気である。特に女性ランナーはガンガン走りながらも、大声で喋りまくっている。40〜60km走ってきたはずなのにまるで疲労の色を感じさせない。この近辺のウルトラランナーたちは、「橘湾」から超ロング走をはじめる人も少なくないらしく、坂道だらけの当コースがウルトラの基準になっているため、他の大会に出ると平坦さに驚く・・・という。納得できるお話だ。
           □
     波もなく穏やかな橘湾をなだらかに右カーブした対岸に、ゴール会場のある小浜温泉の大ぶりな建物群が見えてくる。温泉旅館なんだろね。
     ラスト17kmは当大会唯一の平坦な道である。最後だけは楽させてもらえるんだね、鬼にも人の心はあったんだねと感謝していたら甘かった。平坦ロードは、雲ひとつないド晴天の太陽を遮る木立ひとつない海岸道なのであった。熱い直射日光に容赦なく肌が焼かれる。
     小浜温泉の市街地に入ると、至る所から白い蒸気がもうもうと立ち上がっている。旅館から張り出した赤錆びた給湯施設だけでなく、側溝の穴や、用水路の表面からも、硫黄臭のきつい煙があがる。
     ゴールの南本町公民館は、小浜温泉のいちばん南外れにある。街の入口から3kmは走らなければならない。いやいや、もう本当に遠かったです。夕方4時半にゴール。173kmを走ってタイムは30時間28分。「まじめに走ったのか?」と言われそうなくらい時間がかかったが、リタイアせずによく走りきったと思う。それほどコースが厳しかった。そしてぼくの脚が未完成だった。
     ゴール後は、南本町公民館の裏手、徒歩2分のところにある旅館・小浜荘で温泉に浸かれる。1人400円也、小さいながらも露天風呂があって気持ちよかです。
     汗を流して一服したら、いや一服する間もなく、今宵の宿泊先である国民宿舎望洋荘で夜の7時から宴のはじまり。参加者100人超の大宴会である。遠来のランナーの多くは、この宿で宿泊し、酔いつぶれて爆睡する。海の幸たっぷりの食事にお酒は飲み放題。どういう理由だか知らないが、口の周りに黒マジックでヒゲを書いた泥棒スタイルの「明石のタコ姐」と「おっちゃん」名コンビの司会で、初出場ランナー、初完走ランナー、初リタイアランナーが次々に指名され、ステージ前に呼び出されて、挨拶をさせられる。ぼくは、長い歴史を誇る橘湾岸マラニックに「徳島県から初出場」ということで、うやうやしくご紹介頂きスピーチを強いられる。急な指名に困っている若手を肴に、ベテランランナーたちがウハウハ酒を飲む。
     飲み会は一次会、二次会と深夜まで続き、「明日は朝3時半から朝練ね」と告げられて解散。173kmも走った翌日の早朝からまた走るのか?と驚いたが、「朝練」とは飲み会のことを指しているのだとか。きっと冗談だろうと思っていたら、本当に朝3時30分キッカリにビールを半ダースずつ抱えた重鎮たちが談話室に集まりはじめ、蒲鉾をアテに宴会が始まったのには驚いた。タフネスという言葉はこの人たちのためにあるのだ。
     さて、「長崎橘湾岸スーパーマラニック・春の大会」173km部門を完走してしまったがために、2年に1度開催される秋の「橘湾ダブル273km(実測276km)」の参加資格を得てしまった。173kmだけでもヘロヘロなのに、今回のゴール地点からさらに500mと750mの山越えが2つある273kmなんて走れるのだろうか。走れるかどうかはさておき、参加するしか道がないような気がするのは、ぼくが強迫観念の病に罹っているからだろうか。

  • 2015年06月23日バカロードその84 見ノ越まで走ってみた

    =坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     深夜0時、吉野川の河口を走りだす。
     半そでシャツに短パンだと少し寒いけど、走っているうちにあったかくなるだろう。
     荷物は少々。ヘッドランプと現金入りのビニル袋、用事はないけどスマホ。あとペラペラの薄い生地でできたウインドブレーカー。
     目指すは西へ85km、西日本第二の高峰・剣山の登山基地である見ノ越だ。国道438号の1本道を佐那河内村、神山、木屋平を越えて、標高1410mの所をゴールとしよう。

     わざわざ真夜中に走りだすのは、不眠ランの練習。これから夏、秋にかけて徹夜レースの連チャンがお待ちかねなのだ。ぼくは寝不足にほんとに弱くて、徹夜一泊ですぐ衰弱するし、蛇行を繰り返したあげく草むらにダイブして怪我するわ、見えるはずのない心霊に怯えて猛ダッシュして体力を磨り減らすわで、ろくな夜を過ごせない。今年こそは、真夜中でもキロ7分ペースで走れる立派なランナーになりたいぞって決意を新たに、今宵の練習にのぞむのである。ぼくは他人には見せないところで、真面目に物事をとらえているのである。
     さてと走りはじめますか。吉野川大橋、かちどき橋をわたり国道55号線を南下する。最近開通したバイパス道・徳島南環状線を走ってみたくなり、園瀬川を越えて右折する。サッカーのピッチが収まるくらいだだっ広い中央分離帯がある2車線道。歩道もまた10トントラックが通れそうな広さだ。へー、こうやって人類は先祖代々、必要な場所に必要な道を築いてきたわけね。この環状道路がぶじ徳島市郊外を一周するとき、ぼくはまだ生きているのだろうか、とっくにお陀仏になっているのだろうか。
     調子よく走っていると、ふいに緑色の看板が現れる。なんと歩行者通行禁止の表示。おいおいこのバリアフリー時代に本気かよ。全線信号なしの自動車道ならいざしらず、たった今まで「ウオーキングでも犬の散歩でもどーぞどーぞ」とばかりに立派な歩道がついてたのに、突然の通せんぼかよ。
     引き返すのも癪なので車道を外れて側道を前進したら、文化の森(美術館やら博物館が集まってるとこです)の手前で小山にぶつかってしまった。ヘッドランプの白い光が伸びた先に現れたのは無数のお墓。道はなくなり、細い階段が小山の頂上に向けて伸びている。なんの山越えも辞さず、つき進むのみと階段をかけあがると水道局の巨大なタンクがある広場に出る。タンクの反対側に階段を見つけ、降りようとしたが侵入防止の柵で覆われている。ここは立入禁止区域だったのか。テロリストを警戒してるのかな。
     水道タンク山を降りると住宅街に迷い込む。自分がどこにいるんだかわからなくなった。とりあえず車道に復帰せねばと、車のエンジン音のする方に導かれたら、さっきの墓地に戻ってきてしまった。砂漠の遭難者のリングワンデルングってヤツ? ここまだ徳島市内なんですけどー、先が思いやられます。
          □
     18km走って佐那河内村との境界を示す看板を越えたら、行く手に輝く星々の瞬きがハンパない。ほんのちょっと移動しただけで空気ってこれほど澄むものなのかい。
     深夜2時。風が強くなってきて、体温を奪われる。息が白い。手袋持ってないし、指先が氷みたいに冷たくなってきた。佐那河内村の中心部に1軒だけあるコンビニのサンクスに暖を取りに入る。カップヌードルのプレーン味にお湯をかけてフタをし1分待つ。この歳になって、ぼくは初めて気づいたのである。徹夜走のさなか、凍える寒さと、全身を覆う泥のような疲労。心身衰弱状態で食するカップヌードルは、満ち足りた下界で頂くときの100倍ほども美味しく感じられるのである(ただしプレーンのみ)。コツは湯を注いで1分で食べはじめること。ベビースターちっくな麺のパリパリ感を残すがよし。濃密な人工的エキスとチープな味わいのダイスミンチ、ただ塩辛いだけの深みのない味付けが、舌を快楽に焼く。
     ジャーニーラン最大の利点は、何気なく消費するふだんの生活コンテンツが、極限状態においては痺れるほどの快感を伴うと気づかされることだ。150円のカップ麺ひとつにエクスタシーを感じる費用対効果の高さ。真夜中、サンクス佐那河内店の窓辺のバーカウンター風の席で、全身に鳥肌を立ててるオヤジ1名がいるだなんて、レジの方は知る由もない。
     標高200mあたりの府能トンネルの中に佐那河内と神山の境界線が通る。正面から冷たい風が吹きつける。山からの吹き下ろしがこの先60kmも続くのかと暗い気持ちになりかけたが、トンネルを抜けたとたん風はピタリと止み、気温まで少しなま暖かくなった。ひと山越えると、谷あいに漂う空気の質が違うのだな。
     トンネル出口から道の駅「温泉の里神山」までの5kmは下り基調。道の駅には立派なトイレがあり、自販機がたくさん並んでいるので補給に最適。駐車場には、車中泊らしきワンボックスカーが5台ほど停まっている。自分が子どもなら、せっかくの日曜を友達ではなく親と旅行なんてイヤだなあと思う。しかも狭い車のシートを倒して、親と川の字で密着して寝るなんて最悪の週末だ・・・と悪態をつきながら道の駅を去る。車中泊を楽しんでいる幸せファミリーの皆さん、ぼくの心はすさんでいます。
     3km先に再びサンクス登場。うー、また休憩だ。無人地帯を孤独に走るジャーニーランの世界を、コンビニの存在が大きく変えた。いまやどんなに田舎町にいっても、夜中に煌々と照明のともるコンビニがある。かつてジャーニーランナーは、店が閉まってしまう夜に備えて、食料や水をリュックに備蓄し、重い荷物を背負ってエッホエッホと夜道を走っていたものだが、今やその努力とは無縁。コンビニの灯りに誘われる夜光蛾のように、ふらふらと店に立ち寄っては、大休憩タイムに突入。いかんね、こんな厳しさのない練習じゃいかんね。と思いつつ、レンジでチンしてもらった爆弾系の大おにぎりを、再びバーカウンター風の席でむさぼり食うのであった。
          □
     吉野川河口から40kmを5時間かけて走り、神山町下分の集落あたりで夜が明けてきた。空は快晴を予感させ、道は平坦、右に鮎喰川のせせらぎを眺めながらの快調走。なんとなくデジャブを感じていたら、下分の小学校跡が見えてきて、ああこの道むかし走ったなと思いだす。かつて神山町の10kmマラソン大会はここからスタートしていたのだった。あの頃は、参加費500円を受付のおねえさんに払ってゼッケンもらってたなあ。
     下分の集落を越えると坂の傾斜が徐々にキツくなる。神山町上分の川又郵便局あたりからは、10kmの間に標高差500mを登る険しい道。自動車の対向不可能な細い道。谷側は一気に切れ落ちた崖だ。山腹にZ文字を刻んで右へ左へと登っていく。マニアにブームの「酷道」まではいかないけど、こんな細道だと知らずにドライブ気分で来てしまったら初心者ドライバーは泣くわな。
     神山と木屋平との間を塞ぐように構える川井峠は標高730m。昔の行商のおっちゃんたちは、この峠でキツネやタヌキに化かされてフンドシ一丁にされたに違いない。峠の頂上の町境にある川井トンネルを抜けて少し下ると、「剣山眺望四国第一 川井峠」との堂々たる看板が掲げられている。四畳半ほどの小ぶりな展望台からは、五重六重に連なる峰々が見渡せる。たくさん山があってどれが剣山かわからんなーと目を凝らしていたら、ちゃんと金属製のレリーフに図解つきで各峰の位置を示してくれていた。剣山見えたけど・・・遠い。あと30kmくらいなんだが、いっぱい山を越えなくちゃいけないのね、と軽いショック。展望台の向こうに食堂と自販機があった。朝10時30分から営業と書いてある。窓辺からの景色が良さそうだし、お昼に通りかかったら寄っていきたいロケーションである。
     峠の下りに入る。川井峠への登りと同じく、うねうねとくねった道が、ふもとの村に向かって下ってゆく。下り坂は楽なので嬉しいはずなのだが、730mまでエッチラオッチラ稼いだ標高をどんどん削られていくのが切ない。国道438号線は木屋平の中心部は通らない。そのためピットインできるお店は「物産センター たぬき家」の1軒だけだ。ここら辺が盆地の底にあたり標高330mくらい。峠から400mも下ってきた恰好だ。とても残念である。「物産センター たぬき家」には公衆トイレと自販機がある。朝8時なので、まだ観光客向けの食堂は開いていない。そば、うどん、定食などのノボリや看板に書かれたメニュー名が胃腸を刺激するが、ないものはない。この先、見ノ越まで自販機やお店があるかどうかわからないので、500mlのスポーツドリンクを3本買ってリュックに指す。たぬき家の前に「剣山 24km」の標識がある。剣山って表示は、むろん剣山の頂上ではなく標高1410mの見ノ越の駐車場までの距離だろう。
     穏やかな流れの穴吹川の川辺に、平坦で道幅の広い道路が整備されている。街道沿いには住宅が連なっている。なかなか立派な家構えのお家が多い。地元の方には失礼だが、山深い剣山の麓にこんなにたくさんの人が住んでるのかと驚く。かつては葉タバコや養蚕が盛んだったはずだが、今は何で食べてるのだろうか。
     たぬき家から3km先に「車の駅」という小さな建物があり、自販機が3台並んでいる。見ノ越までの最後の自販機であった、と思われる。ここから先、集落に商店らしき建物が2カ所ほどあったが開いていなかった。日中ならば商店で飲み物・食料補給ができるかもしれない。
     中尾山高原への分岐道を右に見て、少し進むと川上集会所という寄合所があり、道向かいに最後の公衆トイレがある。その後は問答無用の激坂に突入だ。先の見通しのきかないカーブが50回、100回と続く。垂直にも思える急峻な崖にへばりついた道がジクザグに走る。今いる場所よりも遙か上空に、これから向かうであろう道のガードレールが見え隠れする。なぜだか道は、剣山とは逆の方向へと伸びている。よっぽと遠回りさせられる模様である。こりゃいい精神修行になるね。
     ヘアピンカーブを越えるたびに風景が開けていく。両手いっぱいに広げても届かないくらい広い谷、眼下にトンビが悠々と舞っている。山肌に差し込まれたパイプから水が吹き出し、無名の滝から溢れた水が道路を濡らす。ラスト20km間は自販機はないけど、水分チャージは問題なし。山水が氷のように冷たいのは、雪解けまもないシーズンだからか。仰ぎ見る剣山の山腹にはまだ雪渓が残っている。
     雲ひとつない晴天、直射日光が眼球を痛めつける。季節はずれの高温で頭がふらつく。道路から降りられる所に小ぶりな滝と、滝壺というにはおこがましい控えめな水溜まりがあったので、パンツいっちょうになって飛び込む。水溜まりに浮かんで、滝の冷水を脳天から浴びていると、脇にマイカーが止まり観光客らしきおじさんがこちらをしげしげと見つめている。滝の水音でよく聞こえないが何か話しかけられている。耳をすますと「何をやってるんですか?」と質問されているようだ。「水浴びでーす!」と大声で返す。おじさんは優しい目でにっこり微笑み、「頑張ってくださいね」と励まし、立ち去っていった。
     ふーむ、水浴びだとは答えたものの、おじさんの発した「何をやっているのか」という根源的な問いに、ついついぼくは自分の人生を重ね合わせて、しばし落ち込むのであった。日曜の真っ昼間に、標高1400mの水溜まりに裸で浮かんでいる私とは? 不眠で走り続けたので非生産的な思考に陥りがちなのだ。元から無意味なことをやっているのはわかっている。
     ふいに道が右折し、小さなトンネルが現れる。穴の向こうはゴール地点の見ノ越である。切り取られた出口の風景は、今まで走ってきた野趣満点の風景とは違う下界的雰囲気に溢れている。マイカーや路線バス、たくさんの観光客やザックを背負った登山客が行き交っている。
     山道に入ってからグダグダになったため、85kmほどの道のりに13時間もかかってしまった。徹夜走の練習にはなったが、坂道の克服はできなかったなと反省。お土産物店の前に、寝そべるにはちょうど良い幅広の木製ベンチがあったので、シューズと靴下を脱ぎ捨てて横になった。5分もしないうちに、照りつける太陽の真下で眠りこけてしまった。

  • 2015年05月11日バカロードその83 脳みそのなかは忙しく走ってるんです

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     とくしまマラソンの朝、夜明け前。たっぷり時間をかけてトイレをすませたあと、体重計に乗る。表示されたデジタル文字に軽いショックを受ける。3週間かけて5kg落とした体重が、3日間で元に戻ってしまった。

     カーボローディングという言葉は蜜の味。
     3日前の木曜日、口に含んだ一かけらのロールケーキの塊が、禁欲生活をつづけてきた理性の堰を一気に破壊した。
     節食に節食を重ねてきた身体・・・調味料を完全拒否し、ワカメ、鶏ササミ、寒天、イカ、エビばかりを食いつづけた。絞り切ってカラカラになったスポンジ状の細胞に、糖分や塩分や水分が怒濤のように染み込んでいく。
     言いわけは用意されている。「減量期間を終え、ぶじ5kg落とした。4日後にはフルマラソンを走るのだ。42kmを走り切るために十分なエネルギー、つまり糖質を今から筋肉と肝臓に蓄える必要があるのだ」。
     近所のキョーエイ(徳島の超有名ローカル系なスーパーです)に出かけ、ハーゲンダッツ「和みあずき」味を全部買い占めた。無性に粒あんと濃いミルクが食べたい。練乳チューブも3本買った。
     それから一晩中食べつつけた。「和みあずき」をお茶碗にほじくり出し、牛乳と練乳をたっぷりかけて7個。翌日の夜も7個食べた。それでも足りなくて、片道10?離れたキョーエイまで買いにでかけた。近所のキョーエイはまわり尽くして在庫切れしてるからだ。土曜日には、ゆめタウン(西日本展開の超有名ショッピングモールです)まで出かけて「和みあずき」を買った。あずきミルク中毒の禁断症状患者がいるとすれば、その該当者はぼくである。
     不思議と米やパンを食べようという気は起こらなかったが、シフォンケーキやプリンやチョコレートと、スイーツを無尽蔵に身体が欲した。夜中は1時間おきに目が覚め、起きると冷蔵庫のスイーツを貪り、粉末量を3倍にした特濃アミノバリューを1リットル、2リットルと飲んだ。体中が砂糖菓子になったようだ。気のせいかオシッコまで甘い匂いがする。
     過食症になる人ってこんな感じ? 全身の姿見に裸をうつしてみると、たったの3日間で腰回りの肉だけでなく、乳房まで発達した気がする。糖分摂取によって、オッパイが膨らむなんてことあるのだろうか。気になって少しもんでみる。変な感じである。
     大会前夜もまたハーゲンダッツを食べ続けた。
              □
     日曜日、朝4時。今さらジタバタしても仕方がない。買っておいたパックの赤飯にアジシオをかけて食べる。これは100kmマラソン世界記録保持者の砂田貴裕さんの著書「マラソンは腹走りでサブ4&サブ3達成」に書いてあったことの請け売りだ。粘り気のある餅米が、レース後半のエネルギーに変わってくれるらしい。
     この1カ月、お風呂とトイレの中では、ランニングのノウハウ本の濫読に努めた。
     「東大式マラソン最速メソッド」 松本翔著
     「マラソン哲学〜日本のレジェンド 12人の提言〜」 陸上競技社編
     「型破り マラソン攻略法」岩本能史著
     「突然、足が速くなる ナンバ走りを体得するためのトレーニング」
     「HOW TO RUN」ポーラ・ラドクリフ著
     「世界一やせる走り方」中野ジェームズ修一著
     先達のすぐれた理論やハウツーがぼくの洗煉された走りを補完する。はずはなく、情報量が多すぎて実践に落とし込むことができず、結局やってみたのは、レース当日朝に赤飯に塩かけて食べるという、たいして努力のいらない1点のみである。
     それぞれの著者が共通して述べているのは、「他人のハウツーに頼らない、自分の身体と対話しながら、自分なりの方法論を見つけよう!」である。自分なりの方法論が見つからず本を買ったのになー。ひとめぐりしてスタート地点のバス停でひとり降ろされた気分である。
     ランニングウエアを着て手荷物をまとめると、今月買ったばかりのおニューのシューズに足を入れる。アディダスのadizero takumi sen boost 3である。
     この5年間、アシックス・ターサーを履きつづけてきたが、遂に浮気をしてやったんだハァハァハァ。なんたって、今年の箱根駅伝では青学のチャラい連中が、インタビューで彼女と別れただの何だのチャラチャラのたまいつつも、驚異的な箱根新記録を叩き出したあのシューズである。といっても、「匠 戦ブースト」はシューズづくりの神様である元アシックスの三村仁司氏の作品だから、三村さんのシューズを履き続けてるって点では変わりない。シューズの裏っ側にべっちょり貼りついた、トゲトゲしてツブツブした引っ掛かりが獰猛な雰囲気を漂わせてやがるぜ。
                  □
     職場からスタート会場の徳島県庁までは歩いていける距離なのだが、「マラソン大会に出ている」という気分の高まりの中にいたいと思い、わざわざバイクに乗って吉野川河川敷まで遠回りし、シャトルバスに乗った。席の周囲にいる人は、その会話から関西圏や四国他県からマイカーでやってきた人である。話しかけられたらどうしよう、と緊張していたが、誰も話しかけてはこなかった。
     バスの最後部座席に座って窓の外を見やり、「すごく遠くからわざわざ徳島に遠征してきた人」の気分になって、旅情にひたったりしてみた。朝日を浴びて輝く新町川と、街の背景を支える眉山を見つめては「きれいな街だね」などとわざと思ってみた。原色づかいのきらびやかなランニングウエアの人びとが何千人も街を歩いているさまは、今日でしか見られない特別な風景だ。
     シャトルバスを降りると、徳島グランヴィリオホテル(徳島の超有名シティホテルです)の前に「更衣室」の看板があるのに気づく。へー、こんな立派な場所でねぇ。マラソン大会の更衣室といえば、ギンギンに床が冷え切って痔が悪化しそうな体育館ってのが相場だけどね。エントランス向こうのロビーの床には、すでに何百人というランナーが腰掛けておしゃべりや着替えに余念がない。奥まった所にあるふだんは披露宴会場になっている豪華な絨毯のお部屋も、ランナーに開放されている。めったにない経験なので、絨毯の床に寝そべってみた。むかし愛した女の披露宴に招かれて泥酔でもしないかぎり、ホテルの床に寝っ転がる機会などないだろう。暖房がたっぷり効いていて、自分の占有スペースも一畳ほどもあり。こんなゴージャスな更衣室は、きっと国内のマラソン大会史上最高ではあるまいか。
     スタート30分前になったので、アミノバイタルゼリーとアミノバリューとバームゼリーを飲み干した。「どれでもいいので効いてくれ」の神頼みだ。指定のブロック位置まではジョックで向かった。目の前を高崎経済大学の川内選手(弟さん)がジョッグしている。足ほそー! 割り箸かゴボウのようである。こんだけ絞り込まないと、それなりのランナーにはなれないのだな、と自分の大根足をしげしげと見つめ直す。
     風が強いことを想定して、アームウォーマーという名の靴下の先っぽを切り落としたものと、手袋をつけていたが、ジョッグしてトイレで気ばっただけでうっすら汗をかいている。ダイレックス購入のアームウォーマー100円と手袋100円也をゴミ箱に捨てる。「都合ふた冬は世話になったね、君たちの恩は忘れないから」と別れを告げて。とくしまマラソンは、スタートブロックの横にまで分別ゴミ箱があってありがたいな。ふつうあんましないよね。ゴミ箱のある最初のエイドまでペットボトルとか持って走るもんなあ。
                  □
     号砲が鳴る。ゆっくりゆっくり走り始める。大切な本日の誓いを復唱する。
     「マラソンは30kmから」「30kmまでは寝て走る」「30kmからよーいドン」
     幾多の偉人ランナーたちが発したマラソンの分水嶺たる30kmをめぐる金言だ。30kmまではジョギング、そこからの12.195kmがマラソンのすべて。
     最初の1km、4分37秒。すごくゆっくり走っているつもりなのに、思ったよりも速い。もっとペースを落とすべきだ。目標は3時間20分切り。キロ4分45秒平均でいいんだから。
     何百人ものランナーにズコズコ抜かれていく。「お前ら全員、ラスト5kmでブチ抜いたるわ!」と遠吠える。
     周囲に影響されてペースが上がらないよう目を閉じる。完全につむると前が見えないので、うっすら薄目を開けて、ほとんど眠っているのに近い精神状態にする。
     10kmを47分23秒。予定のタイムより7秒速いだけ。
     身体は・・・ずいぶん重く感じる。やっぱし3日間で5kg増量の影響は大きいな。腹とオッパイがゆさゆさ揺れている感じが収まらない。後半、汗をかいて絞れてきたら、このオッパイ感は取れるのだろうか。渋井陽子はそんなこと言ってたよな。
     13kmのエイドで塩をとる。後半の痙攣予防のために、塩分摂取は欠かせない。浅い箱に入れてある塩を指ですくい、口に入れる。勢いあまって想像していた量の5倍くらいを含んでしまった。はき出せば良かったのだが、まあいいかと先を急いだ。給水テーブルで水をもらって、いっしょに流し込めばいいんだから。ところがテーブルを横にして左側のランナーと併走状態になってしまい、コップが取れない。いよいよ最後の机になって、ようやっとボランティアの方からもらおうとしたコップが、無情にも手から離れ、地面に落ちていった。
     もう水はない。大量の塩をノドにへばりつかせたまま、次のエイドまで我慢することになった。えずいてはみても、唾がないので吐き出せない。実業団選手じゃないんだからよー、ゆっくり歩いてコップを受け取ればよいだけだったのによー、オレ何やってんだよー。
     走っても走っても次のエイドが現れない。喉はカラカラ、口の周りや目ん玉まで塩が滲みて痛い。15kmあたりからキロ4分50秒台に落ちる。ペースダウンやばいよ、それより水が飲みたいよう。コース表、予習しておけばよかった、
     19kmの手前でやっとエイドが出てきた。この間、6?近くあったのか。スポーツドリンクを2杯、水を2杯、飲み干す。少し走るとポカリスエットのペットボトルを手渡してくれていたので、1本まるまる飲み干す。一気に1リッター近くの水分を採った。腹がズンと重くなる。
     ハーフの通過が1時間41分51秒。予定より2分遅れている。大丈夫、大丈夫。30kmから猛然とスパートする脚はまだ残ってるはずだ。いわゆるネガティブスプリット走りってヤツでしょ。今、マラソンの極意に近づいてんだから。
     24km、折り返しの西条大橋の橋上に出たあたりで、脚の動きが鈍くなってきた。疲労というよりも、水分の採りすぎだ。胃や腸に大量に物を流し込めば、必然的に血液が内臓周辺へと移動してしまい、手足の筋肉に力が入らなくなる。真夏の海水浴のあとの、グテッたした感じ。
     ペースは更に落ち、キロ5分を超えはじめてしまった。5分05秒、5分04秒、5分09秒・・・なんとか粘って、5分ヒトケタ台にとどめたい。これより遅くなると、歯止めが効かなくなる。「もっと遅く走っても許されるのだ」と、脳みその安全装置が稼働する。これ以上の負荷を与えるべきではない、との自然の摂理をねじ曲げてペースを維持するのは、意思の力しかない。
     胃腸がだめなら脚を大きく踏み出そう。太腿に力が入らなければ膝から下のキックで地面を叩こう。下半身が全部使いものにならなくなれば腕振りでカバーしよう。身体のどこかがきつくても、まだ使える部位を総動員して、1km、1kmを粘り続けるのだ。
     30km通過、2時間27分09秒。予定より・・・何分遅れなんだろう? 暗算できなくなっている。本日の心の誓いでは、確かここからレースが始まるということだったな。30kmの計測マットの「ピッ」という音を聴いた瞬間から、キロ4分15秒までペースアップするポジティブイメージを描きながら練習をしてきた、よな。
     しかし現実の肉体は、戦いモードに突入することへの反戦活動シュプレヒコール大合唱中だ。この3カ月、徹底的に鍛え上げたはずの速筋は、舞台に登場しないまま楽屋でお眠り中でしょうか。10kmを41分台で走れるようになったあのスピードスター(自称ね)は、影を潜めたままである。
     まだ見ぬスピードスターに期待はできない。長いおつきあいのある遅筋さんにお願いして、粘ることしかできない。5分09秒、5分04秒、5分13秒、5分12秒、5分21秒・・・アーッ、オレが終わっていくー。必死に脚を漕いでんだけど、うつむき加減で走る足元にちょろちょろ見える歩幅、超せまいです!
     35kmからは、戦闘力がどんどん衰えていくスカウターの向こうのカカロット。止めどなく落ち込んでいくラップタイムを、押し戻せる要素はひとつも見あたらない。キロ5分40秒、5分50秒、そして6分を超え、6分20秒・・・。1kmが5kmにも感じられる。走っても走っても次の看板は見えてこない。皆さん、40kmから41kmの間って5kmくらいありませんでしたかね。
     最後の5kmで全員ブチ抜くどころか、ラストスパートをかける数百人の人びとに虚しく追い越される。みなさん輝いていますね、ぼくはくすんでますね。
     今日もまた大失敗レースをしてしまった。自分史上、最大に追い込んだ練習をしたのにな。追い込みすぎてハーゲンダッツ過食症になったからかな。「努力は必ず報われる」と高橋みなみは言ったけれど、このままムダに終わりそうな努力が、いつか報われる時がくるんだろうか。あきらめたって人生つまらないし、あきらめずに続けてみるしかないね。しかし、走り終わって心に残ったのは二十歳過ぎのアイドル歌手の言葉なのね。ポーラ・ラドクリフも何か良いこと書いてたんだけどなー、思い出せないや。
     どんなにヘバッていても、田宮の陸上競技場のトラック上に出たら100mダッシュする。と決めていたのに、あやつり人形のようにギクシャクとしか動けない。3時間36分58秒、フルマラソンって大変だなー。
     帰宅して体重計に乗ると、朝、測ったときより5kgも減っていた。3週間かけて落とした5kgの体重を、3日間で5kg増量し、3時間半で5kg失う。「弱い牛ほどたくさん汗をかく」とエルドレッド高原のケニア人ランナーは言ってたな。確かである。

  • 2015年05月11日バカロードその82 足のかいてんと完全燃走

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     ひさしぶりにフルマラソンを走るのだ。もとい、フルマラソンにはしょっちゅう出てるんだけど、久しぶりに真剣に走るのだ。
     3月22日のとくしまマラソンで足かけ7年、41本目。

     たくさん出てるわりに記録はさっぱりで、4年前に3時間24分を出してから、自己ベストを更新していない。それどころか4年間、いっぺんも3時間30分を切ってない。走るたびにタイムは遅くなっているけど、特に悔しさも感じなくなっていた。
     だってぼくウルトラランナーだからさー、6分ペースで長く走れたらいいのよ。スピードランナーが500kmで良い記録出せるわけじゃないしぃ、という屁理屈こねてスピードをあげる苦しい練習から目を背けていたのである。
     フルマラソン大会に出るのは、あくまで100?や250?レースのスピード強化が目的。キロ6分の余裕度を増すために、フルではキロ5分くらいで走っておこうかなんて、ロング走の練習みたいな意識でしたね。これも逃げ口上です。
     でもね、このたび珍しく反省したのです。
     ぼくより遙かに強くて24時間走の日本代表になるくらいの方が怪我や内臓疾患と戦いながら走っている姿を見たり、70歳を超えてもまだチャレンジし続けてる大先輩の青年のような夢を聞かせてもらったり。そんな風に長い距離をちゃんと走りきろうという意思のある人は、心肺を追い込むようなキツい練習をキッチリやってるし、何より真剣に走りに向き合ってる。
     いつまでもチンタラ走ってても、そこになんも価値のある物は生みだされないような気がしてきたんだよ。だから2015年、いざ頭を丸めて、日頃の行いを見つめ直し、半生を悔い改めたら、10km走からやり直しだよ! そして遠い昔に出した自己ベスト記録を今年は全部塗りかえるんだ。

     10km 42分17秒(2010年・羽ノ浦マラソン)
     ハーフ 1時間32分43秒(2010年・桜街道夢マラソン)
     フル 3時間24分04秒(2011年・海部川風流マラソン)
     100km 10時間22分14秒(2012年・サロマ湖ウルトラマラソン)

     わざわざ発表するほどのもんではないな。けど鈍足な今となっては、どやってこんなタイムを出せたのか信じられなくもある。昔の練習記録を見つめ直すと、日々の練習で走る10kmのタイムが良い時に、大会でも良い結果が出ていることに気づく。気づくの遅いけど。短距離が速い人が長距離も速い・・・そんな当たり前のことも、いざ自分のこととなると見えなくなるもんである。
     ほんじゃ、とにかく10kmを一生懸命走るって練習に特化してみよう。練習で出した自己ベストは4年前の43分10秒なので、まずはこれを追い抜こう、と決意したのが去年の11月頃。
     はーしかし、キロ4分30秒で走るのってホントに大変です。朝起きてから1時間くらいかけて気合いを徐々に高めて「オラ行くぞ、今日はオラオラ行くぞ」と獰猛な感じにならないと、なかなか4分30秒では走れない。特に最初の1kmはキツいです。
     自分にムチ打ちながら10kmを45分で走ることを基礎練として、慣れるにしたがい45分をゆっくり感じられるように、余裕をもって走れるようにする。
     45分走を1日おきに実施し、間の日は10キロを65分くらいでジョグする。疲労を抜くのが目的なので、脚の筋肉に力を入れないように気をつける。そして週に1度だけ、ほんとの本気で走る。11月からじりじりとタイムを縮め、12月にやっと43分台で走れるようになった。
     レースペースもキロ4分30秒を念頭に置いた。2月には「すもとハーフ」を1時間36分で、1週間後の「海部川」の30キロを2時間22分で通過した。だいたい4分30秒〜40秒でカバーできたのは良かったが、すもとは残り1kmでよれよれになったし、海部では30kmから足と腹と背中が攣りはじめてゴールまで半ば歩くハメになった。まだ42km走りきる脚はできてないようです。
     距離走はこれで止めておいて、再び10kmのスピードをあげる練習に戻した。2月の後半にやっと43分09秒を出し、練習10kmの自己ベストを4年ぶりに1秒だけ更新した。たった1秒だけど、4年前の自分を上回れたのは嬉しいね。人はその気になれば、何歳になっても向上してくのだな。未来は暗くない。
     3月に入ると、10kmまでならキロ4分15秒で走れるようになってきた。練習ベスト更新、42分32秒!

     キロ4分15秒となると、最初は抑えめに・・・なんて考える余地はなくなり、はなから全力疾走だ。サブスリーを出す人ってこのペースを42kmも続けるんだな、信じられない。別次元の凄さだとほとほと感心する。
     実業団や大学生の選手は、すごくゆっくり見えるフォームなのにキロ3分で走っている。彼らとぼくは、同じ人間なのにいったい何が違うのだろうか。
     そこで正月の「ニューイヤー駅伝」の録画を再生し、1区で区間賞をとった大迫傑選手のフォームを研究することにした。いきなり大迫を目指すのかって? あまり気にしないで下さい。野球少年がイチローのマネする程度のたわいもない戯れごとです。
     キロ2分50秒で突っ走る大迫を、真横から捉えたバイクカメラの映像で解析する。ふつうの再生スピードでは足さばきが速すぎて、何が起こっているかわからないので、スロー再生する。大迫は、蹴り脚の回転が他の選手と違う。地面を蹴った一瞬の後には、膝から下の下肢が折りたたまれ、カカトが腰高のお尻に当たる。フトモモの後ろ側とふくらはぎが小さくまとまったまま、体軸よりも前に振り出されると、今度は真っ直ぐに脚が伸び、グーンと引き戻された勢いで地面を強く捉える。世界の頂点を目指す大迫傑、さすがである。これは人間の動きではない。野生動物の持つ自然な美しさだ。獲物を捕らえるためだけについた筋肉。余計なものがひとつもない。ただ速く走るために機能を削ぎ落とした動き。米国オレゴンで修行を積み、ここまで走りの美しさを磨き上げたか・・・とぼくは満足した。なんせ佐久長聖高校2年のつるつる坊主頭の頃からのファンなのだ、俺キモっ!
     大迫くん、きっと恐るべきピッチ数を刻んでいるに違いないな、と再びスロー再生を駆使して歩数をシコシコと数えてみた。わたしはヒマ人なのでしょうか。はい、そうですヒマ人です。
     1分間にきっちり186歩だ。キロ2分50秒ペースで走っている大迫は、1000メートルを527歩でカバーしている。割り算すると1歩のストライドは約190cmと算出される。彼の身長170cmより20cmも長い。股が裂けてしまわないのかしら。着地後しばらくは空中を滑空してるから、こんな歩幅になるのか。
     「大迫、やっぱしハンパないって・・・」と発泡酒を飲みながら唸る。わたしはスポーツ観戦好きの平凡なおじさんなのだ。
                □
     世界の至宝・大迫傑に対して、自分ってどれくらいの歩数で走ってるんだろう、と俄然調味が湧いてきた。実測してみるべく、走りにでかけた。
     ピッチなんてストップウォッチ見ながら自分で「イチ、ニィ、サン」と数えればすむことだけど、新作ガーミン・フォアアスリート220にはピッチ数を計測できる機能がついてることを思い出した。腕なんかガンガン前後に振ってるのに、なんで着地衝撃の回数を数えられるんだろ? 腕ふりの回数を加速度センサーとかジャイロ機能とかで数えてんの? わけわからん技術だが、それ言いだすとGPSだってインターネットだってぼくの頭じゃ理解できないテクノロジーなんだから、深く考えるのはやめておこう。
     キロ4分30秒きっかりで走ると、ガーミンに表示されたわがピッチ数は185歩であった。
     ん、何かオカシくないか。走る芸術・大迫傑とぼくのピッチ数がほぼ一緒。
     「このガーミンめげとんちゃうんか」と、何度か計測し直してみる。途中で短距離ダッシュを入れたり、キロ6分でジョグしてみたり。ところが、スピードを変えてもピッチ数ってたいして変わらないんですねえ。179歩から185歩の間です。不思議です。狐につままれたみたいです。
     仮にぼくの能力が大迫並みだとすれば、わが走りも芸術の部類に属するのだろうか。そんなことはないよな。
     今までぼくは勘違いしていた。足が速い人は当然ピッチ数も多いんだろうと思っていたが、実際は違うみたいだ。
     サブスリーレベルの人でも、5時間で走る人でも、ランナーの実力に関係なく、男性はだいたい180歩から190歩あたりに収まるのである。
     一方、女性のピッチ数は男性よりも更に多くて、185歩から195歩くらい。あの高橋尚子さんや野口みずきさんレベル、つまり世界最高レベルのランナーでも200歩から210歩というから、ピッチ数だけみれば超一流ランナーと市民ランナーで5%程度の違いしかないってことになる。
     それなのに、スピードはキロ3分00秒ペースと6分00秒では倍も違う。つまり速い人と遅い人の差が生じる主たる原因は、ストライド幅の違いということになる。
     も一度自分の走りに戻ってみる。4分30秒の間の歩数は832歩、1000メートルを832歩だから割り算すると歩幅は120cmである。せ・・・狭い。身長くらいの歩幅で軽やかに走ってるイメージだったのに。仮に大迫選手とぼくが、せーのドンって走りだしたら、1歩ごとに70cmも差が開いていくのか。はーっすごい差だ。
     このストライドの差は、なぜ生じているのか。10センチや15センチの違いなら、フォーム改造とか着地方法とか股関節の可動域を広げるとかで、技術的なアプローチがあるのかもしれない。だが70センチもの差は、もっと単純な理由から生まれているはずだ。
     人によるストライド長の違いを数的に視覚化するなら、縦軸に脚の筋力、横軸に体重の軽さという単純な一次関数のグラフが描けるのではないか。ストライドの狭さは、脚力に対して体重が重すぎることに起因していると思う(あくまで想像です)。
     数週間後に迫っている「とくしまマラソン」までに脚力を向上させられるのか。無理だ。だって、もう疲労抜きに入っとかないと、バテバテの過労おじさんでスタートブロックに立つことになる。イチかバチかだ。体重を重めにしておいて、ラスト2週間で一気に落とすという方法を試してみる。フリース重ね着して厚底シューズにパワーアンクル巻いて、合計3kgの重しをつけた状態で距離走をし、本番は軽いシューズとウエアで合計500g程度まで着衣重量を減らす。
     レース2週間前から一気に減量に入り、体重を5kg落とせば、練習のときより7.5kg軽い状態で走れる。短期の体重調整は難しくない。食事を緑黄色野菜と海藻メインにして、塩と砂糖とアルコールを抜けば、翌朝には1.5kgくらい体重が落ちている。1週間もあればマイナス5kgはいくだろう。
     レース3日前の木曜日からは正常な食事に切り替える。肝臓や筋肉中にグリコーゲンやミネラルがなくなればガス欠、脱水になる。食べたものが12時間後にウンコとなって排出されるように、毎日規則正しく同じ時間、夜7時に食事する。朝7時には必ず排便する習慣を徹底して、レース当日はスタート2時間前に大腸を空にする。
     完ぺきだ。練習はよくできているし、減量も脳内プラン段階では完ぺきである。吉野川の土手の上を、美しく滑空するストライド190cmのわたくしが見える。どこかで潰れるのかな、そのままゴールまで飛んでいけるのかな。初めてフルマラソンに挑戦するときみたいにわくわくしてるな。前半、すごい向かい風じゃないといいなー。

      □

     漫画編集者であり、ウルトラマラソンの父ともいえる夜久弘さんがお亡くなりになられた。
     たくさんの著書を通じ、ウルトラマラソンに懸ける人々の姿を描き、世に伝えられた。

     「完全燃走」

     夜久さんにいただいた言葉を胸に、全力で走りたい。

  • 2015年05月11日バカロードその81 枯れ果ててゆこう

    =坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     なんか最近、ちょっと動くたびに、息切れやめまいがする。ここんとこ疲れが抜けたことがない。ポンコツの自転車に乗ってるみたいに身体の節々がギィコギイコと異音をあげる。
     耳鳴りヒューヒュー、汚水パイプを吹き抜ける乾いた風のごとし。

     スーパーに行けば真正面に見えてるはずの野菜の値札がこつぜんと視野から消える。これって緑内障ってヤツ?
     1時間おきに尿意で目覚める頻尿の夜には、薬局の入口に貼っている「夜尿症」という毛筆の字が頭から離れなくなる。
     アキレス腱にカッターでざっくり斬りつけたような鋭利な痛み、ハムストリングには新聞のチラシ広告をパリッと引き裂いた感じの薄い断裂感。
     モーレツな偏頭痛はもはや常習。いままで鎮痛薬100箱は飲んだかしら。宇宙人め、何か秘密のチップでも埋め込みやがったな。
     走れば走るほど健康体から遠ざかっていく。どんどん身体が壊れていく。ふつう健康になっていくはずなのにねえ。
     ロード・トゥ・老人の道にいよいよ足を踏み入れたってことか。自分がまだ若者と呼ばれる部類だって思っていた頃から、ほんの10年ばかりの時が経っただけですよ。人生ってなんと儚い一瞬の夢かって思うね。
     7年前にランニングをはじめる前は身長167cmに対して体重80kgオーバーの肥満体だった。20年間ほとんど運動らしき運動をせず、アイスクリームとチョコレートを主食としてたからまあ当然の報い。
     デブってのは本当に大変なのでした。春夏秋冬という美しい日本の四季を、肌で感じる情緒とは無縁。一年中、朝から晩まで「なんか暑くない?この部屋」と思っている。全身にじっとり汗をかいてるから、下着は常に湿っていて、かいた汗が乾くと服がすえた臭いを放ちはじめる。太めの方とすれ違ったときに「ツーン」と酸っぱい匂いが鼻をついた経験は皆さんあると思いますが、アレは決して風呂に入っていないのではないですよ。デブの名誉のために言っとくけど。汗をかき、乾き、かき、乾き・・・を3サイクルほどすると、シャツは雑菌の繁殖プレートと化し、独得の匂いを放ち始めるのである。ぼくもあの匂いをよくさせてはそよ風に乗せていました。
     デブってるといろんな不都合が起こるのである。たとえば朝目覚めたときに仰向けの状態から上半身を起こすことができない。腹の肉は邪魔だし、腹筋のパワーだけでは上体が垂直に持ち上がらないし。じゃあどうやって起きるのかというと、いったん横を向き、膝を崩して人魚のようなポーズをとり、ヒジや手のひらをつっかえ棒にしながら、じんわり時間をかけて起きてくのだ。
     昼間もけっこう大変です。スーツ姿で椅子に座ってると、ベルトが腹の肉にめり込み、赤くミミズ腫れになったりする。ふくらはぎに食い込んだ靴下のゴム。ボンレスハム状に波打つ肉が痒くてしょうがない。
     すべての行動がおっくうで、離れた場所にある扇風機のスイッチを押すのに棒を使ったりして、できるだけ体を動かさない工夫をする。布団に入った状態で、あらゆる生活用品を手の届くところに配置して、寝たきりでも過ごせる快適空間づくりにいそしむ。
     運動機能的にはとても不便なデブだが、太っていたときは病気らしい病気をしたことがなかった。病院に行ったのも水ぼうそうに罹ったときくらいであった。
     マラソンをはじめると、背中や尻の脂肪は取れ、スーツをサイズダウンのため2回も買い換えた。秋は涼しく、冬は寒いものだと実感した。お風呂の浴槽にもたれると、背骨や尻の骨がタイルにゴツゴツ当たるのが新鮮だった。
     ところが痩せると、次々と身体のあちらこちらが壊れだした。三十代から四十代に突入したという加齢は要因のひとつだろうが、それにしても壊れっぷりがひどい。運動量と健康は明らかに反比例している。
     病院の診察カードは財布に収まりきらないので、名刺フォルダに入れてる。総合病院、泌尿器科、循環器科、胃腸科、内科、皮膚科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科、整骨院、街のクリニックのも2枚。カードの蒐集家みたいな気分になって・・・何にもうれしくない。
     病院が好きなわけではない。人並みに、いや人並み外れて病院嫌いである。病院の予約を入れただけで軽いウツになる。待合い所に座ってるだけで心拍数がどんどん速くなってくる。深呼吸をしたり、雄大な自然を思い浮かべたり、人という文字を手に書いて飲み込んでも効き目なし。名前を呼ばれた瞬間に、心臓が破裂しそうになる。
     白衣の医師と何人もの看護師さんに取り囲まれて、小さなくるくる回転する椅子に座らされてると、一刻もはやく逃げ出したくなる。先生の説明なんてまるで頭に入ってないけど、とりあえず聞いてるフリして頷いている。この病院恐怖症を克服するには心療内科に行かねばならない、と考えただけでまた脂汗が噴き出す。
         □
     加齢とともに、肉体の不健全だけでなく、ものぐさ度が加速度的に増しているのも問題だ。一年中、遠征に出かけてる身分で言うのも何だが、外に出かけるのが面倒くさい。同じ姿勢で何時間も過ごしたり、無益に時間待ちをするのが苦痛でならない。飛行機の狭い座席に押し込まれたうえに、隣の香水くさいオバハンに肘掛けを取られたりするとストレスで髪の毛が抜けてく。閉所恐怖症の気もあるので、いつパニックが発症するかもわからない恐怖にビクついている。
     だから、徳島の自宅を出て、できるだけ短時間で大会会場に到着するレースばかりを選ぶようになった。その際、実際の距離は関係がない。北海道だろうと沖縄だろうと、飛行場から降りてすぐの場所に会場があるのなら、自宅から4〜5時間もあれば着くのだ。一見不便そうな印象がする各地の離島開催のレースは、実際はアクセス快適だったりする。到着した空港から、宿や会場がすぐ近くにあることが多く、1日2000円台のボロいレンタカーを借りれば、レース前にうろうろ歩いて脚を消耗しなくてすむ。
     逆に距離のうえでは近い関西圏の大会には全然でなくなった。前日受付が義務づけられ、スタート会場に近いホテルはツアー会社に押さえられてボッタクリ高額。自分で宿をとろうにもずいぶん離れた街にしかない。前日受付会場やゴールした後には、だだっ広いマラソンエキスポ会場をぐるぐると強制収容所の捕虜のように歩かされる。うんざりなのである。お買い物はふだんちゃんとするからさ、大会前日ぐらい休ませて。
     辛抱強く何かを耐えるという精神がなくなってるから、参加者が2000人を越すような大きめの大会はおおむね回避だな。駐車場入口にゼッケン受付に荷物預けにと何かするたびに行列。着替えスペースの場所取りに敗北し、トイレ行列は長蛇すぎてあきらめる。スタートブロックには1時間前に入れってぇ? レース以外でへとへとだよ。ま、マラソン大会に限ったことじゃないんだけどね。アトラクション入場2時間待ちのテーマパークなんて絶対に行けませんな。
         □
     人間って歳をとればとるほど立派になってゆくもんだって思ってたけど、自分が四十を超えてわかったのは実際は逆なんだってこと。
     この歳になっても信念らしきものが芽生える兆しはなく、他人の心情をおもんばかる器には穴が開いてザーザー水が漏れてる感じ。若い頃は多少なりともあったはずの、世界の不幸を呪う純真さはとうの昔に消失してる。
     自分が十代とか二十代の頃は、どうして大人たちはこんな身の回り半径50メートルくらいの狭い視野を持てないんだろうかと軽蔑したもんだ。ところが、自分が大人になってみて、視野50メートルどころじゃないな5メートルもねえんじゃないかとガッカリしてる。
     年を追うごとに、世の中に起こるほとんどの出来事から興味を失いつつある自分に気づいて、あ然としてしまうのよ。巷でどんなモノが流行してようが、スマホのアプリが何万ダウンロードされようが、誰が人を殺し、誰が殺されてようが。
     いちばん無くしてしまったのは、「怒り」という感情だな。何に対しても怒らなくなってしまった。世の中は理不尽だらけで、不平等や差別に満ちあふれていて、そういうひとつひとつにムカムカしていたのに、今は平然としていられる。人間が丸くなったってのとはちがいますよ。平和主義者にもなってない。ただ冷酷なだけだ。
     テレビには飢えて痩せ細った難民キャンプの子どもたちが映されてる。伝染病に倒れて路上に放置されてハエにたかられてる人、爆弾の破片を浴びて包帯でぐるぐる巻きにされた戦下の人。他人の不幸を傍観しながら、晩ごはんをもりもり頬張って、ビールをぐびぐび飲んでいる。体制と戦わず、権力に抗さず、弱者に寄り添わず。こんな大人に誰がしたんですかって自分だな。
     国境を飛び越えて社会起業に取り組んでいる若者たちを心から尊敬する。ビデオカメラ1台で戦場に向かうフリージャーナリストに嫉妬する。「どうしてああはなれなかったのか」としばし我が人生をふり返ってみようと試みるが、どこにも分岐点はない。「臆病だから、何もしなかった」というつまらない話に落ち着く。
     「あっち側」では命がけでなにかをやっている人がいて、「こっち側」では死のリスクのない場所で漫然と生きる選択をした自分がいる。あっちとこっちの間にある、飛び越えられない深い断崖。十代の頃なら、用水路をジャンプするくらいの勇気で越えられたような気がする。今は対岸も底も見えないくらい遠いな。
     社会性の欠如はまだ軽傷の部類。自分が着る服とか、他人にどう見られているかといったところにも興味をなくしている。夏も冬も同じ服着てるし、10年以上前に買った服ばかりだし。購買意欲のないゆとり世代の若者を見て、経済活動を担う大人たちは困り果ててるけど、わたくしゆとり世代にも及んでないです。
     世捨て人への道一直線。まずいよねえ、これじゃあ。