編集者のあやふや人生(コラム)

  • 2015年02月20日バカロードその80真夜中のひとりごと
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
    初冬。東京で行われた神宮外苑24時間チャレンジ。まもなく解体工事のはじまる国立競技場のたもと、1.3kmの周回路を24時間休みなくぐるぐる走り回る大会だ。24時間走の世界選手権の代表選考会を兼ねた当大会は、超長距離レースではめったに味わえないガチンコ感に溢れている。 
     120人ほど集まった選手の7割ほどはフルでサブスリー、100kmでサブテンの実力を有している。要するに「スピードランナーのくせに200km以上走りたいというド変態」が集まった大会と言える。24時間走の歴代チャンプだけでなく、「さくら道」や「川の道」の王者クラスも参戦。いやーまさにドリームマッチ、年末特番的な華々しい雰囲気だ。
     有名ランナーがどんだけ居ようと、走る時間がまる24時間だろうと、ぼくには関係のないこと。スタートから全力あるのみ!で10km通過45分、42kmが3時間44分。潰れるまでは全力だぁ。果たして50kmあたりで順当に脚動かないモードに突入。ヘバッてからの20時間は長いったらありゃしないね。
     深夜には寝ぼけたまま千鳥足してたら、知らぬまに斜めに走っていたらしく、道路脇の植樹帯に身体ごとつっこんだ。こんもりとした植木に上半身から刺さり、足をバタバタさせてもがくという昭和ギャグ漫画にありそうな図。後ろから来たランナーに「何やってるの?」と不思議そうな顔で質問される。「ちょっと休憩してました」と不自然な嘘をつく。尖った枝が上半身のあちこちに裂傷を負わせたらしく、シャツは血まみれ。いったい何の競技やってんでしょうか、わたしは。
     ひょこひょこ走りで23時間が経過し、ラスト1時間は再び全力疾走に切り替える。思いっきり走るのは楽しい楽しい。狭い走路の脇にたくさんの観客が身を乗りだして応援している。周回ごとに人垣のなかに突っ込んでいくダイブ感。ツール・ド・フランスの山登りステージの光景そのものだ。
     結果、171kmという平凡な記録に終わったが、まあこれでよし。つぎ走るときは、もっとツッこんでやる。負けても負けても挑戦しつづけるのみ。他には選択肢が見あたらない。
         □
     さてさて。
     市民マラソンブームの起爆剤といえる東京マラソンが2007年にはじまり、それまでは走友会に所属する健脚派の晴れ舞台であったフルマラソンが「誰でも参加できる」レベルまでハードルが下がった。練習なんかしなくても、7時間もあれば半分歩いても完走できるわけで、それはそれで休日に42kmも歩くという行為はダイエットにも効果がありそうだし、心の浄化にもつながる。きらびやかなランニングウエアやシューズを大量消費することでスポーツメーカーは潤い、宿泊施設は満室、ピストン輸送するバス会社やTシャツなどグッズを製作会社、パンフレット印刷会社にもお金が回って良いことずくめである。
     昔は水道水しか置いてなかったエイドは、いまや屋台村のごとく充実し、地元の名産に郷土料理にとグルメフェスタ並みのサービスを提供している。フルマラソン大会のサービス過剰は、ウルトラマラソンの大会にも影響を及ぼしている。「よほどの変わり者」の集まりだった世界も、ごく一般的な市民が旅行レジャー感覚で参加するようになった。定員3500人のサロマ湖ウルトラがエントリー開始から1時間で締め切られ、定員2000人の四万十ウルトラに6000人以上の応募がある。手作り感覚の大会は少数となりイベント会社が仕切らないとままならない規模になった。そして、かつては「世捨て人な超人願望者」の集団であったはずの500kmレースなども瞬時にエントリー満杯になる時代とあいなった。
     こんな国民総ウルトラランナー時代にも、あまり人が集まらない超絶厳しーい大会があるのだ(知られてないだけかもしれないけど)。
         □
     沖縄本島一周サバイバルラン。
     那覇市を起点に、沖縄本島の海沿いを時計回りにショートカットなく外辺を一周するコース。400kmという長丁場ながら制限時間はわずか72時間。なおかつ、第1関門である島最北端の辺土岬へは162kmを24時間以内にクリアしなければならない。距離と時間のバランスだけみても、国内屈指の難易度の高さと言えよう。
     そして、途中ランナーをケアするサービスは何もない。
     エイドステーションなし。
     コース途中への荷物輸送なし。
     仮眠所・宿泊施設なし。
     選手は必要な荷物をすべて携帯し400kmを走り通さねばならない。舞台は沖縄とはいえ季節は冬。夜間は防寒服が必要であり、当然ライトや反射板などは必須である。島の北半分は道沿いにコンビニや自販機がほとんどなく、重量のある水分を背負わなくてはならない。
     せめてドロップバッグサービスだけでもあれば空身に近い状態で走れるが、当大会にはない。数kgの荷物を背負うとスピードは落ち、肉体への負担は大きくなる。
     さらに途中リタイアした場合、収容バスに乗るには料金を徴収される。第1関門の162kmからスタート地点帰りは3000円、第2関門の293kmからは2000円。ただでさえリタイアをして心を痛めているところに、更なる現金支払いという仕打ちが下されるのである。なんと厳しい大会か!
     しかしあらためて考えてみたい。本来自己責任において超長距離を走るということは、こういうことなんだろう。
     日本のジャーニーラン文化を1980年代頃よりつくりあげてきたレジェンドたちは、数百?、数千?の道のりを食料自己調達、野宿があたりまえの環境で走ってきたわけである。
     至れり尽くせりの現代のレースは、ランナーに過保護すぎるのだーっ!
     と息巻きながら沖縄入りしたものの、鬼の霍乱とはこのことか。半月前にひいた風邪が治まる兆しなく、熱は38度から下がらず、大量の粘り気のあるドロドロの痰が喉に詰まって気道に空気を通すのに難儀している。鼻のかみすぎで右耳が難聴になり、ほとんど聞こえない。
     鬱屈した気分は前夜になっても晴れない。しかし、超ウルトラなんてどうせ100kmも走れば病人同様。体調が良かろうと悪かろうと10時間もすれば条件は同じ・・・と繰り返し自分に暗示をかける。
     スタート地点の沖縄国際ユースホステルは、那覇市の中心部にある。基本的にランナーは歩道を走るため、集団にならないよう5人ずつ3分おきのウエーブスタートが行われる。お昼の12時に第1陣が出発していった。
     参加者は29人で、多くの人がプレ大会や試走会を経験しており、すでにコースは熟知しているようだ。
     400kmという距離を考えれば、ゆっくりペースで走りはじめたいのが人情ってもんだが、なんせ第1関門の162km・24時間をクリアするにはキロ6分程度で進まないと間に合わないことは感覚上わかっている。案の定、ぼくの属する第6ウェーブの小集団もキロ5分台のハイペースで進んでいく。
     発熱で頭がぼーっとし、体力も落ちているぼくは、集団のペースに合わせるのでギリギリ。10kmもいかないうちに息が激しく荒れはじめ、全身に浮かんだ汗はサラダ油のようにヌルヌルしている。こんな汗、流したことないぞ。これが脂汗ってやつなのか。
     事前に「エイドはないよ」と脅されていたけど、実際は34km地点の「残波岬」の先端に沖縄そばを食べさせてくれる非公式エイドを出してくれていた。しかし4時間02分かけてそこに到達したものの固形物を食べる余力はなく、公園の芝生のうえに倒れ込むことしかできなかった。
     29人の選手のうちぼくの周囲に姿が見えるのは2、3人のみで、残波岬を出てしばらくすると全員に抜かれた。人気のない海辺の道をとぼとぼと走る。体調が良ければきっと感慨もひとしおな沖縄の海に沈む夕陽や、米国文化と琉球色が混沌となったエキゾチックな看板や、そこかしこから漏れ聴こえる沖縄民謡の調べも、何ひとつとして心に届かない。日が暮れて足下が見えにくくなるとペースはキロ8分台に落ち、どう計算しても120km以上先にある第1関門に間に合いそうにない。元よりこの遅れを取り戻そうという気力が湧かない。この時点で完走できる可能性はなくなり、しかし自らリタイアするきっかけもなく、目的を見失ったまま夜道を走りつづける。果たして人は、完走する可能性もないのに何十?も走られるものだろうか。否、である。希望があるから苦しさを乗り越えられるのだ。
         □
     絶望のなかで心はいっそうシニカルかつ虚無的になる。走るという行為はつくづく無益であって、他人を便利にする何物も生産してないなーと自省的な思いにとらわれはじめる。250kmや500kmレースに費やす恐ろしいほどの労力。この分の熱量をそのまま別の労働なりボランティア活動なりに充てれば、おおいに社会の役に立つのにな。生産性の伴う時間を削り取りながら、膨大な時間とエネルギーを自らのエゴイズムに使用している。
     仕事の合間のちょっとした息抜き程度の趣味なら、まだ日常生活にプラス効果はある気がするが、超ウルトラに費やす労力は趣味の域をはなはだしく逸脱していて、脚は壊れてコンドロイチンをガブ飲みしても軟骨の減りに追いつかず、情緒不安定にも陥り不定愁訴な患者となるわと、健康面においては良いことはない。唯一、体重20kg減という大幅ダイエットに成功したが、これも病的と言えなくはない。
     ランナーになる前に比べると、極度の甘党になったな。精魂枯れ果ててたどり着いた自販機やコンビニで飲む高糖度の炭酸飲料の美味しさったらないよな。舌が痺れて脳にぶどう糖混じりの血液の濁流が流れ込むあのドーピング的快楽。日常生活にもその甘味フラッシュバックが残り、仕事中には1時間おきのコーラ摂取が欠かせず、真夜中は頻尿トイレ起床にあわせて2倍に濃くした粉末アミノ酸ドリンクを1リッター飲み干すようになった。完全に糖尿病予備軍である。
     100km、200kmと走り終えた直後、脱水カラカラの身体に流し込む生ビールが、喉から胃に落ちてく悦楽もランナーになって知ったのはプラスポイントと言えるかな。ビールを一段と美味くするため、ゴール手前20kmほどは給水しないくらいである。アルコール分が内臓から周辺細胞へと浸潤していく感覚はステロイド駆けめぐるジャック・ハンマー。この感覚を再現するために、毎日1時間は長風呂して体重を1.5kg落とした直後に、マッサンでおなじみシングルモルトな高度数アルコールを摂取。たちまち脳細胞はパーリーナイト!って絶対身体に悪いよね。
     走っても走っても走るのやっぱ苦手だな。
     ぼくは平静時の心拍数が1分に70回とラット並みに速いのである。高橋尚子さんや前田彩里選手の心拍数が40回以内でマラソンの適性がすごいんですよ、なんて増田明美トークが飛び出すたびにがっかりする。そういうのって後天的な努力じゃどうにもなんないよねぇ。
     血圧は上が170台。降圧剤を飲んで血圧ノートをつけねばならない高血圧症である。他人が「ジョクペースでいきましょう」と楽しくおしゃべりランしてるペースでも、苦しくて苦しくて仕方がない。たまーに併走しながら「笑顔でいきましょう!」なんて爽やかさを強要してくるハイテンションなランナーいるけど、いまいましくて仕方がないな。こっちは吐き気しかしてねーんだから笑顔なんて出せるかよケッ。
     あまりに嫌々走ってる様子を見とがめて、「楽しくないのに何で走るんですか?」って何度か聞かれたことがある。うまく答えられたためしないけど、すごく苦手なことだから走っているんだと思う。
     世は個性尊重の時代だから、「好きなことをやりなさい」「得意なことをやりなさい」と強迫観念のように大人たちは子どもたちに押しつけるけど、そんな特別な才能をもって生まれた人なんて、ほとんどいない。好きなことなんて、実際にやろうとすれば大変すぎてぼくは何にもできやしなかった。
     「自分の足でどこまでも遠くまでいく」。きっと本来ぼくがやりたいことなんだろうけど、走力も根性もないから、苦しさにあえぎながら、毎回断念を繰り返している。好きなことへの適性がない悲運にうなだれるしかない。
     走ることを楽しいと思えないし、いい結果も出せないし、自分に満足できるレースなんて3年に1回くらいしかないけど、ぼくは走ることをやめないし、走り続ける。
     極限環境において人間の本性がむき出しになるのだとしたら、ぼくに元から備わっていて役立ちそうなのは嫌らしいほどの執念深さだけかな。喧嘩の敗北や商売の失敗ってのは、自分でそうジャッジするから負け&失敗なんだと思ってる。だからウルトラマラソンだって100回リタイアしても、敗北は永久には続かない。絶対にいつかうまくやりこなしてみせる。いつかみごとに勝ち切って、負けた分を全部取り返してみせるって思いこんでる。
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     80kmで走るのをあきらめ歩く。一歩でも前にと戦っているのではない。動くのをやめると寒くて凍えるので仕方なく歩いているだけだ。冷たい霧雨が舞い、全身を濡らす。ぼくは荷物を極限まで減らしたため、着ているTシャツと短パン以外は服を持ち合わせていない。街灯ひとつない真っ暗な道の奥にコンビニの灯りがみえる。雨をしのぐために店に入り、カップヌードルを買ってお湯を入れて食べる。信じられないほど美味しい。こうやってまた中毒がひとつ増えるのだ。そういえばもう24時間以上、何も食ってないんだもんな。
     有名な観光地の「美ら海水族館」の手前、スタートからちょうど100kmあたりで明け方近くとなり、首尾良く那覇空港行きの路線バスがやってきたので、何の迷いもなく乗った。
     やっぱり超長距離レースは苦しくて、寒くて、痛い。これが生きるということなのだろう。
     レースも人生もうまくいかないことの繰り返し。でもきっといつかはいいことがあると信じている。
    ※当レースは29人中完走者が4名という、やはり非常に苛烈なものとなりました。来年は過酷を求めるマゾヒスティクなランナーたちが大集合するに違いありません。
  • 2015年02月20日バカロードその79あぶくのごとく沈んだり浮いたり
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
    (前回まで=ギリシャで行われる247km36時間制限の超長距離レース・スパルタスロンに4連敗中のぼくは、今年もしょうこりもなく出場したが、例年どおり50kmあたりから嘔吐をはじめ、105kmあたりで体が動かなくなって道ばたに倒れてしまった)
     
     後方の暗闇からヘッドランプの灯りが揺れながら近づいてくる。現れたのは恩人ともいえる方である。はじめてこのレースに出場した5年前、スパルタスロンという競技のもつ素晴らしさ、完走する価値の高さ、挑戦しつづける意味について教えてくださった。彼についていけなければ完走はできない、と思い立ち上がる。必死で後ろにつこうとするが、やはり体が動かずじりじりと離れされていく。
     110km13時間53分。余裕時間が再びゼロになる。エネルギーを体内に入れないと置かれた状況は変わらない。エイドにあったブドウを20粒ほど無理やり口に押し込み飲みくだすが、しばらく走ると吐き戻してしまった。もうぼくの周りにはランナーはいない。ここ30km間で追い越してきたランナーたちは皆リタイアしたのだろう。
     113kmのエイドに着いたときは、閉鎖時間に対してすでに5分も遅れていた。エイドの裏手にある民家の軒先に倒れ込む。動けない。2、3分そうしていたら、大会役員らしき人が横にしゃがんで話しかけてくる「まだ走るのか?」。
     「まだぼくは走ってもいいんですか?」と聞き返す。「君が走りたいなら」と真剣な顔。「はい、まだ走ります」と答えて立ち上がる。エイドに陣取った20人ばかりのスタッフが、「日本人よ、ストロングだ」と総手の声援と拍手で見送ってくれる。
     勇ましく再出発したものの、つづら折りの急坂の途中で歩くのも困難になる。ここから4km先のエイドまでよろよろと歩いて何時間かかるというのか。立ち止まったまま考えて、それから腰掛けてしばらく考えて、もういっかい道ばたに仰向けになって暗い空をぼうっと眺める。
     もがき苦しむわけでもなく、地を這いずって前進する根性も見せられず、自らギブアップしようとしている。それなのに悔しいとも悲しいとも、特別な感情が湧いてこない。1年間これに懸けてきたのにさ。どうなってんだよ自分。
     立ち上がって、元来た道を引き返す。エイドにたどり着くと、スタッフたちは驚きもせず「よくやった、よくここまで来た」と言う。巨漢のおじさんスタッフが抱擁してくれる。隣にすごい美人おねえさんスタッフがいたのになと残念に思う。
     椅子に腰をかけさせられ、ゼッケンと計測チップを外され、リタイアの署名をする。
     フタが開いたままのクーラーボックスに、飲み物を冷やすためのクラッシュアイスが山盛りになっている。これから片付け作業がはじまるんだろう。両の手のひらいっぱいに氷を取り、ガリガリとかじりつく。死肉にあさりつくハイエナみたいに氷の塊にむしゃぶりつく。枯れ果てた体に染み込んでいく。狂ったようにひたすら貪る。
     見かねたエイドのおじさんが、ぼくの肩を優しく抱いて「その氷はあまりきれくないからペットボトルの水にしときなさい」と止めてくれる。ぼくは氷の塊を決して手放そうとせず、いつまでも虫のようにかじり続ける。
              □
     レースが終わってしまった。1年間、この日に懸けてきたのに。
    奥田民生が熱唱する「I'M A LOSER」が頭骨の中でわんわん反響している。枝にぶらさがった瑞々しい果実をもぎとろうと、何度ジャンプして手を伸ばしても空振りする。届かない。何にも届かない。かすりもしない。そんな映像が頭の中で繰り返される。負け、負け、負け、負け、負け。スパルタスロン5連敗、弱すぎる。
     元々、スポーツマンにあるまじき陰鬱な空気をまき散らしているタチだが、帰国後はさらに拍車がかかった。ものぐさがひどくなり、外出先でズボンのチャックが2cmくらい開いていてもキッチリ閉めようと思えない。職場ではだいたいボーッとしている割に、発作的にろくでもない事を思いつき、現状打破な行動をおっぱじめてうさんくさい目で見られる。部下には役立たず扱いされ、居場所をなくして片隅で小さくなっている。家に帰ればタタミ二畳分のスペースから移動する気力がなく、布団に横になったまま入院患者の要領でビールを口の脇からずるずるすする。
     日課であった朝のランニングにでかけなくなった。朝起きて、ランニングウエアに着替えて、外に飛び出すのは、それなりの気力が必要なのだ。
     1年365日、毎日2時間前後は走っていたから、走るのをやめると時間を持てあます。ここ何年も、仕事と走ること以外やってなかった。酒も博奕も社交も、いったん遠ざかれば元にはもどれない。
     暇を持て余し、お菓子づくりなぞをはじめてみた。調理道具や型を買いそろえ、小麦粉や米粉をこねこねし、オーブンの焼きあがりを待つ。素材の調合比率や、泡立て方、温度を細かく変えていき、有名ケーキ店並みの柔らかくて食感のいいスポンジ生地を焼けないか試行錯誤する。台所の床は粉まみれになり、オーブンは2度白煙をあげた。
     ランニングをしている頃は毎日ヘトヘトで布団にもぐり込んでいたが、走らなくなると寝つきが悪く、夜が恐ろしく長い。夜長の閑に耐えられず口径の大きい天体望遠鏡を買いこんで星の観察をはじめる。月面のクレーター、木星の縞模様、土星の輪、著名な星雲と、ビギナーらしく順に観察していく。文化系な趣味を持てた悦びにひたろうと、エスプレッソマシンでコーヒーなんぞ淹れて、マグカップ片手にベランダで小一時間を過ごしてみたりするが寒くてすぐ撤収。
     過去を清算するには断捨離に限ると、家の大そうじに取りかかり、「棺おけに入れなくていいもの」という観点でモノをゴミ袋に詰め込みだすと、押し入れが空っぽになった。ハードルあげすぎだなこりゃ。
     いろんな方面に手を伸ばしてみるが、何かが足りない。何か、というか走るのが足りない。ランニングをやめてわかったのは、走るという行為は趣味ではないってことだ。他に代替が効かないのだ。走ることに充てていた1日のうち2時間を、写経をしたり野鳥を観察して過ごしても、ああ今日ぼくは何かをやったぞ、一日を精いっぱい生きたぞ、という感じを得られないのだ。走るのが大好きなわけでもなく、走ってすがすがしい気持ちになるわけでもないのに。
     そもそもなんで自分は走ってたんだろう。目標タイムをクリアしたり、順番が何番だとか、難易度の高いレースを完走するだとか、それはそれでひとつの努力目標にはなるけど、そのために走りだしたわけじゃないよな。ランナーが100人いたら100通りの走る意味が存在している。ぼくは、その瞬間、瞬間で全力ってもんを出したいから走りだしたんだよな。ただ今という時間を、つっ走りたかった。心臓を打ち鳴らし、地面を蹴って、前に向かって突き進んでいくのだ。レースをうまくマネジメントしたいのではない。余裕をもって後半ビルドアップしたいのでもない。ヘバッてもいい。ひっくり返るまで追い込みたかったのだ。
     いつしかそんな原点を忘れて、名のあるレースに完走したいがために、「自重、自重」ばかり考えて、でも結局たいした走力ないからリタイアの繰り返し。スタートラインからリタイアするまで1度も本気で走る場面なく、不完全燃焼な排気ガスをブスブス煙らせて、収容バスの乗客になる。ほんとつまらないことを何年もやってた。
     体重80kg以上あったデブな頃、10kmを1時間20分以上かかってゴールして、芝生の上で仰向けに寝ころんだ時の満足感、今でも強烈に残っている。水色の空の色がきれかったな。
     人間以外の動物ってきっと時間の観念はないよね。「明日までには獲物を3羽つかまえておこう」とか「生きているうちに子孫を10子は残そう」なんてビジョンを持たない。今ハラが減っている、だから目の前に現れた獲物を食う。無性にヤリたい気分、だから生殖する。きっと今という点の時間でしか生きていない。人間だけが未来のことを考える。そして夢を見たり、絶望したりする。でも実際、先のことなんか小指の先ほどもわからないんだ。今やるべきことをやってないのに、未来なんてないんだ。動物のように刹那で生きていたい。この瞬間を全力で走るという単純な理屈だけに貫かれて。
     そして、また走りはじめた。
        □
     四万十川ウルトラマラソン。 もーね、メチャクチャ走ってやろうかと思ったんだ。スタートのピストル鳴ったら小学生のかけっこの勢いでぶっ飛ばすんだ。オープニングアクトをバラードから入るインディーズバンドなんてクソだろ。3キロ先で倒れてもいいから、今最大限のエネルギーを放出するんだ。前半抑えて後半は落とさないようキープなんてセオリーはゴミ箱にポイだ。キロ何分ペースとかどーでもいい。息を切らしてただ走れ。
     四万十ウルトラは15kmから21kmの間に600mの標高差の峠を越える。青い息を吐きながら峠の頂上まで全力で登る。死んでも歩かないぞ。峠の先には急激な下りが10km待っている。着地衝撃なんて知ったことか。地球が重力というアドバンテージをくれてるんだ、ありがたく受け取るぞ。パンパン足音を打ち鳴らして、出せるだけのスピードを出すんだ。
     50kmを4時間40分で通過。ふくらはぎがぴくぴくケイレンしている。攣るんなら攣ればいいさ。いけるところまでいくぞ。
     61km、唯一の大エイド・カヌー館では1秒たりとも立ち止まらない。ドロップバッグに入れた手製の「補給物資をガムテープで貼り付けた駅伝風タスキ」を取り出す。輪っか状にしたヒモに、エネルギーバーやゼリー、粒あん、鎮痛剤をガムテープで貼りつけたものだ。こいつを首からぶらさげて、走りながら補給する。マラソン会場によくいる「変なおじさん」風情だが気にはしない。大エイドの誘惑なんて断ち切ってやる。多少休憩をとった方がいいタイムが出るのかも知れない。でも休みたくない。休んで脚を回復させたくない。
     65kmあたりで完全に潰れた。潰れたあとの35kmは長かった。それでもラスト10kmは遮二無二走った。スパルタスロンの参加資格である10時間30分をぎりぎり切る10時間28分でゴールした。ああ、ぼくはまだヤツに挑戦する意思を持ち合わせているのだな。もうやめようとあれだけ思ったのにな。
     ゴールすると立ってられないくらいフラフラだった。汗まみれの服のままブルーシートに横たわり、体育館の天井を眺めながら、アボのことを思った。飼い犬のことじゃないですよ。漫画「worst」に登場するチョイ役のヤンキー高校生。現役高校生最強の男・花木九里虎に、喧嘩を売り続ける桜田朝雄(アボ)という雑魚キャラ。毎回ワンパンチでノされて、たぶん半永久的に勝てっこないのに、しつこくタイマンで挑戦しつづけるアホな男。連戦連敗、でもなぜか精神的にはまったく敗者ではない。ぼくはアボになりたいんだ。
  • 2015年02月20日バカロードその78遠くまで地団駄を踏みにゆくのです
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
    5度目のスパルタスロン(※)なのであった。4連敗中ゆえに、参加回数を口に出すのもはばかられる。できれば人知れず内緒にしておきたいのだが、秘密にしておくほどの重大事でもない。思いつめたオッサン一名の心がささくれ立とうが自律神経がおかしなことになろうが、それでも地球は順調に回転している。
     ギリシャ入りして4日間、ホテルのベッドか海辺に敷いたゴザの上で寝そべりつづけている。4日寝太郎で疲労は完全に抜けおちたとみる。春から3000km以上走り込んでいるわりに、ケガや痛みはどこにもない。苦手とする徹夜走は何度もやった。酷暑にも、暴風雨にも耐えた。
     過去4度、大雑把だったレース中の補給についても、綿密に計画を立て物資を用意した。全25カ所にカロリー補給の食品、ダメージ回復系アミノ酸などのサプリ、さらにあらゆる体調異変に対応できる薬品セットを置いた。これを万全と言わずして何を万全とするのか。今年はダメな要素が見あたらない。今回ダメなら走るのやめる。やめてもいい。やめられるかな。
     朝7時、小雨しょぼ降るパルテノン神殿を後に、アテネの市街地へと石畳の坂を駆け下りていく。調子はどうだ。よくわからない。なんとなく体が重いけど、それは4日間運動を控え、ガツガツと食べ続けたせいだ。この重さは運動エネルギーに化け、しだいに霧散してゆくだろう。体調なんて走ってるうちにどんどん変わる。気にする必要などないのだ、と気にする。
     10km通過1時間01分。設定ペースどおりゆっくり走ってるんだけど、どういうわけか楽だって感じがしない。鼻歌まじりで50kmまで5時間の予定なんだがなぁ。鼻歌出てこんな。
     好調とも不調ともいえない微妙な感じでキロ6分を刻んでいく。「飛ばさない、飛ばさない」と呪文を唱えているのは、実際はそれ以上のスピードを出せないアセりを隠すためである。
     20kmを2時間02分、30kmは3時間05分。設定ペースすら守れない。
     小雨はやがて本降りとなった。排水溝のない路面にあふれ出した水は、川の流れとなって道路を横断する。飛び越えられる幅ではないので、仕方なくシューズをびしょ濡れにして直進する。
     40km4時間11分、50km5時間20分。ひどいタイムじゃないけど問題は余裕のなさだね。案のじょうムカムカと気持ち悪くなってきて1回目の嘔吐。スパルタスロンでのゲロなんて、小粋なイタリア料理屋におけるバースデー客へのサプライズケーキ、あるいはコンサートにおける2回までは続くアンコールに等しい。まさにお約束、驚くには値しないのである。ぼくの虚弱な胃腸は、製薬会社が苦心して開発したあらゆる整腸剤や胃粘膜保護剤、胃酸抑制剤の効能を凌駕して、ゲロの噴霧をギリシャの大地に浴びせかけるのだ。
     60km6時間34分。立体交差の道路の脇に腰かけてゲェゲェとやってるうちに、ほとんどの後続ランナーに抜き去られる。顔見知りの男性ランナーの方が「行こう!スパルタまで行こう!」と声をかけてくださる。「ちょっと3分だけ休憩してるとこです」と嘘をつく。やさしい女性ランナーの方が「私の後ろはもう人はいないわよ」と教えてくれる。
     70km7時間55分。そうとう危険水域に入ってきた。ここからは登り坂がつづくのだ。80kmの大エイドを9時間30分以内に越えないと失格なのである。10km先の関門が果てしなく遠く感じる。また今年もダメなのか。頭を抱えて「あ゛ーーーーっ」と叫ぶ。脳みそをフライパンに入れてぐちゃぐちゃにかきまわして炒めたい。オレなんで毎年こんな苦手なことをやるために、地の果てまでやってきては、吐瀉物と屈辱にまみれては、収容バスの乗客に成り下がっておるのだ? もっと自分が得意なことってなかったっけ? ほら小学校の先生が子どもたちに向かってアドバイスしてくれるじゃないですか。「何か自分の得意なことを見つけなさい」って。オレ、スパルタスロン苦手なんだよマジで。暑いのダメ、徹夜ムリ、内臓虚弱。なんでこんな不得意なことに人生の70%くらいのエネルギー費やしてんだよ。日本に帰ったら得意なジャンルに趣味を変えよう。得意なことってなんだろう・・・はて、考えてもなんも出てこないですな、ハァー。
     ネガティブスピリッツの青い炎をたぎらせていると、その怒りからか、ペースがキロ5分台に戻ってきた。チクショー、チクショーとコウメ太夫をリピートさせて関門になだれ込む。80km9時間27分、第1大エイド・コリントスの関門閉鎖3分前だ。ほぼビリなのに余裕なし子でヒィヒィだ。
     ここまで履いていたアシックス・ターサーを、エイドに預けていたホカ・オネオネというシューズに履き替える。アウトソールが4cmとブ厚く、履くだけで身長が高くなるシークレットブーツの役割も果たす超長距離向けのモテ系シューズだ。いやこの際、モテ系は関係ないか。まわりに誰もランナーいないんだからねえ。シューズ履き替えと計測チップ交換に手間取り、3分を要したため余裕時間ゼロとなる。さっさと出発しないと次の関門がすぐやってくる。スパルタスロンは全75カ所あるエイドすべてに閉鎖時間が設定されている。大半のエイドの優しきスタッフの方々は、数分の遅れを見逃してくれる大らかさを持ち合わせているが、中には時間どおり厳密に通せんぼするギリシャおじさんもいる(正義はおじさんにアリなんだけどね)。つまり、やはり決められた時間をちゃんとクリアしていかなければ完走はできないのである。
     エイドを慌てて飛び出すと、さっきまでのグロッキー状態に反し、ふつうに走れていることに驚く。息は乱れず、脚はさくさく進む。オリーブやオレンジが実る農園のなかの小道を軽快にゆく。単独ビリだったが、遠く前の方にランナーの後ろ姿も見えてきた。いけんじゃない、オレいけんじゃないと本日初のポジティブ思考局面。
     90km10時間49分。過去一度も到達したことのない古代コリントス遺跡のある街に入る。街路は花々で飾られ、カラフルな装飾のカフェが並ぶ、おとぎ話の挿絵のような場所。こうやって知らない街に自分の足で入っていく瞬間がオレ好きなんだー。
     街を抜けてオリーブ畑の細道をイギリス人のベテランランナー的風貌の方と併走していると、彼から「ビートルズを唄おう」という提案があり、数少ないレパートリーの中から「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ(愛こそがすべて)」を選び、2人でけっこうな大声でわーわー歌いながら走る。やがて彼を支援しているサポートカーが横につき、車内の皆さんと大合唱がはじまる。何だこれは、スパルタスロンに楽しい局面なんてあるのかよ。
     調子に乗りはじめれば次々と前をいくランナーを追い越す。うぉーなんか自分がデキる人みたいだ。そうかキロ7分くらいのペースでも順位はどんどん上がっていくんだ。
     100kmを12時間15分、エイド閉鎖10分前に通過。あらかじめ立てた計画より30分遅いけど、とにかく100kmまでたどりついた。前方に影をなす小山にも等しい巨大な岩塊に夕陽が落ちていく。紅色の空が世界を赤く染めていく。いつも収容車のなかから寂しく眺めていた風景を、ランナーとして路上の視点から見ているのだ。それはすごくうれしいことだ。
     商店が軒を連ねる賑やかな街に入る。子どもたちがペンとスケッチブックを手にサインを求めて近づいてくる。スパルタスロンでは珍しくない光景であり、完走経験の豊富なランナーは「たくさんサイン求められて困った」と悩ましい顔をするが、初体験のぼくは書いてみることにする。なんせ他人様からサインを求められるなんて、交通違反のお巡りさんからのを除けば、生涯で初の出来事なのだ。ちゃんと漢字の達筆でしたためてあげる。
     102km、街の中心にデンとカフェが鎮座するこれまた宮崎アニメに登場しそうな街。沿道から「ブラボーブラボー」の声援が届けば、自分が英雄になったみたいな気分にひたる。この街は大型収容バスの起点であり、80kmから102km区間にリタイアした選手を夜まで待っている。毎年ぼくは、街はずれの歩道のうえに腰掛けて、街へと駆け込んでくるランナーたちに拍手を送っていた。ついさっきまで同じ路上にいたはずなのに、力強く走っているランナーたちは生命力にあふれ、まるで別の宇宙で、別の競技をしている手の届かないスーパースターのようだった。いつもぼくはこの街で、名もなきひとりぼっちの観客だった。今は違う、今はヒーローの一味なんだよう。
     エイドに預けていたヘッドランプを装着する。夕陽の薄明かりでかろうじて輪郭が見えていた街は、郊外に出る頃にはとっぷりと闇夜に包まれた。前後にランナーがいないため、コースが合っているのかどうか不安になり、分かれ道のたびに立ち往生しては時間をムダに費やす。ぼくは夜目の効かない鳥目でもある。
     夜の到来にあわせるかのように好調さはなりを潜め、両方の足は大砲の弾を仕込まれたかのごとく、ずっしり重くなる。その変化は急速に起こる。変化が急すぎて対応に苦慮する。原因も、とるべき処置もわからない。この文章を書いてる今ならわかる。嘔吐をはじめたのが50kmあたり。その後7時間むかつきから固形物をとらず、飲んだドリンクもすぐに吐き戻すのがつづいた。議論の余地もなくハンガーノックの典型、脱水症状のはじまりはじまりである。
     前に進む気力はあるのに、動けないのにイラだつ。
     道ばたにひっくり返る。休もう、3分だけだ。まだ時間はあるはずだ。3分の間に回復させるんだ。
     3分が経っても立つ気がしない。4分、5分と時が過ぎていく。おいおい自分よ、「どんなに潰れても一歩でも前に進む」なんてほざいていたのは誰だっけ。客観的に見るところ、失神寸前までも追い込まれてないよね。意識ははっきりしてるし、ロレツも回っている。精神的にはまったく正常。つまり重度の肉体的限界には達していない。それなのになぜぼくは、道ばたに倒れているのでしょうか。 (つづく)
    ※スパルタスロンとは、ギリシャで毎年行われる超長距離レースである。247kmを36時間制限で走る山あり谷ありの過酷な道のり。完走率は暑い年は20%、涼しい年は60%と気候の影響を受ける。
  • 2014年12月19日バカロードその74 ずぶ濡れで泥まみれの夏が過ぎていく 【九州縦断ぬかるみ走】
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     福岡天神から鹿児島市までは最短距離で約300kmだ。うまくいけば徹夜の連走で2日。100kmずつ3分割すれば3日ってところ。
     早朝というかまだ深夜。福岡市・博多天神の繁華街を走りだした。入り組んだ路地には間口の狭い飲み屋がひしめきあっている。看板やメニュー表にはハングル語や中国語が踊る。ねっとりした空気や、歩道にウンコ座りで煙草ふかしながら語りあう店員と客の光景も、何となくアジアの裏路地っぽい。博多からの直線距離なら、東京よりもソウルや上海の方が近いんだからアジア臭も当然なんだろう。
     そんな坩堝な街は、2kmも走らないうちにごく普遍的な郊外型の街にとって代わられ、その市街地も10kmほど進めばあっけなく途切れて、うっそうとした木々に覆われた山道に突入する。深夜3時、街灯のない山峡の山道に渓流の音がゴウゴウとこだまする。右側の深い谷間には、シーズンを終えたはずの蛍の光が数十と瞬いている。
     佐賀県境の脊振峠を越え有明海沿岸へと下る国道385号線をゆく。標高500mの峠で夜が明け、吉野ヶ里の青々とした田園地帯を眼下にする。蛇行する下り坂はやがてだだっ広い平野へ。青稲が風に揺れる水田の1本道には、トラクターが盛んに行き交っている。
     50km走ったあたりで直射日光にヤラれバテはじめる。たった50kmでスタミナ切れかよ・・・ハーァとため息。走れば走るほど弱くなる、を今年も実践か。ぼくの足は、ボロ中古車のように走行距離の限界があるのかもしれない。距離を重ねれば重ねるほどガタが出る。
     体温を冷ますため、コンビニでソフトクリームの乗ったかき氷を2個胃に収める。コンビニを後にし、5kmくらい快調に走ったところで道路標識を見て、自分があらぬ方角に走っていることに気づく。交差点の一角に建つコンビニでよくやっちまう失敗。コンビニ店舗の後ろ側からやってきたにも関わらず、休憩を終えると条件反射的に正面玄関に対して左か右に走りだしてしまうバカ行動。むろん目的地とはぜんぜん別方向。
     コースアウトはなはだしく、楽しみにしていた柳川市の堀割見学もあきらめ、へんてつもない農道を進む。
     大牟田市を経て、85kmほど走って熊本県境を越えたあたりで、カンカン照りの空が黒雲に覆われると、ポツポツと雨が顔を打ちはじめる。やがて本降りになってきたのを言い訳に、100km地点のJR玉名駅で沈没。シティホテル3500円也に逃げ込む。
     2日目は朝から滝雨。島原湾沿いの国道501号線は物流の主要ルートらしく、10トントラックがひっきりなしに猛スピードで通り過ぎる。路肩はほとんどない。道路は山側から流れ込む大量の雨水で川になり、道路のわだち部分は深い水たまりとなる。大型車やスポーツカーが通り過ぎるたびに、バケツの水をザバーッと脳天からぶっかけられたように泥水を浴びる。
     シャツやソックスを脱いでは絞り、を繰り返していたが昼にはあきらめた。足の裏の皮は白くふやけてベロンベロンにめくれあがっている。洋の東西を問わず「水責め」はあまたの拷問のなかで最も苛烈なひとつとされているが、なかなか大した責め苦である。
     大雨は夜になっても勢いは衰えず。早朝から夜中まで泥水を千杯もかぶるという折檻に抵抗するすべはなく、あきらめの先に禅的な無念無想の達観に入る。この状況を苦行とせず、「現実とはそういうものだ」とありのままを受け入れるのだ。この度のジャニーランを精神修行の場とする予定はなかったのだが仕方あるめえ。
     1日がかりで65kmしか進めず、ネットで当日予約した八代市内のとても立派なホテルで泊まる。ウエディングバンケットまで備えた絨毯ふかふかのシティホテルなのに3000円台。当日予約って部屋代が安くなるんですね、勉強になりました。真夜中に全身びしょ濡れで現れた怪しい客に、カウンターの方はたじろいでおられたが、シューズを乾かすためにと古新聞をくれた。やさしい接客です。
     3日目も土砂降り。気温はいちだんと低く、レインコートを着て耐える。住宅街の合間を縫う水路は、茶色の濁流で氾濫寸前である。当然本日もまた車が浴びせる泥水をかぶりっ放しだ。昨日つちかった禅的な境地は二度と訪れず。自分が何と戦っているのか迷走し、終始うんざり気分である。行く先である鹿児島県内で土砂崩れによって鉄道が脱線したというニュースが繰り返されている。美しいはずの八代海や天草諸島の風景は、白い霞に覆われ何も見えはしない。
     九州くんだりまでやってきた目的は、酷暑対策と徹夜走トレーニングだった。しかし日程の大半を寒さに震え、深夜の氷雨からエスケープしてぬくぬくとしたホテルに連泊、って何の練習にもなってねーし。
     鹿児島県境を越えた出水市という鶴が飛来することで名高い街にて力尽きる。3日間かけて前進したのはわずか230km。ドロドロととぐろ巻く暗雲よりもさらにダークサイドな気分がぼくを覆い尽くすのだった。

     
  • 2014年12月19日バカロードその75 ずぶ濡れで泥まみれの夏が過ぎていく 【トランス・エゾ ジャーニーラン】
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     大人になるってのは旅する人になるということだ、と少年の頃は固く信じていた。港、港に女を待たせる星野哲朗演歌ワールドな船乗りさんか、街を終われ世間に隠れ終の棲家を求めてさすらう昭和枯れすすきな訳あり人か、街の外れでキャンプを張り年端もゆかぬ子供たちに怪しい人生観をたれるスナフキン的流浪人か。
     砂と埃にまみれたマントを羽織り、シケモクの紫煙をくゆらせては、身支度品を詰めこんだ寅さんトランクを片手に、街から街へと見知らぬ土地を渡り歩く。そんな18世紀ランボー詩情な大人のありようは、自分が大人になった21世紀には軽るーく絶滅していた。退廃した夜に出会うはずのロシア文学を読む娼婦なんて、安保闘争の終焉とともに消滅した。
     ニッポンという国は、ずいぶん健全で明るい社会になったのである。少年の頃に憧れた日陰者な大人は、本当のアンダーグラウンドへと姿を消してしまいました。
     私は何が言いたいんでしょうか。そう、このコラムはジャーニーランについて書いているのです。越境人も密航もなくなった世の中で、日々どこかの街に宿を求め、次の日には別の街へと移動する。そんなジャーニーランの世界は、子供の頃に夢見た流浪人生の疑似体験の機会を与えてくれる。見知らぬ者が各地から集まり、何十人もの大所帯でキャラバンを組む。同じ釜のメシを食い、フリチンで湯に浸かり、枕を並べて眠る。恋人や旧知の友とでもめったにしない濃密な旅が繰り返される。
     「トランス・エゾ ジャーニーラン」は、日本最北端の宗谷岬から、太平洋岸のえりも岬へ向かい、取って返して宗谷岬へ。約1100kmを14日間かけて走る。その最大の魅力は、キャラバンを構成するメンバーの多彩さだ。ランナーのみならず、彼らを支えるボランティアクルー、走りを見届けるべく合流する家族、ランニングクラブの少年少女たち、身体のケアをしてくれる大学生たち。下は小学生から上は70代まで、異なる年齢や立場の人たちが集団となって移動していく。
     今年の「トランス・エゾ」には、1097kmの宗谷岬→えりも岬往復に8名、541kmの宗谷岬→えりも岬に4名、556kmのえりも岬→宗谷岬に12名、あわせて24名が参加した。各ステージ間の距離は以下。
     1日目.宗谷岬〜幌延 75km
     2日目.幌延〜羽幌 83km
     3日目.羽幌〜北竜 85km
     4日目.北竜〜栗山 88km
     5日目.栗山〜富川 72km
     6日目.富川 〜浦河 84km
     7日目.浦河〜えりも岬 54km
     8日目.えりも岬〜忠類 82km
     9日目.忠類〜新得 88km
     10日目.新得〜富良野 80km
     11日目.富良野〜旭川 67km
     12日目.旭川〜美深 98km
     13日目.美深〜浜頓別 81km
     14日目.浜頓別〜宗谷岬 61km
     カラッカラに晴れているはずの夏の北海道は、ぼくたちの歩調につきまとうように雨雲が天を覆いつくし、この地に降る一年分の雨をまとめて出血大放出しているかのようだった。3日目には豪雨のためコース経路の国道232号線が遮断され、強行突破したランナーの目の前で土石流が道路を横断して海へとなだれ落ちた。
     えりも岬からの復路ではヒグマの気配がぷんぷん感じられた。10日目には廃線上のぬかるみ道に足サイズ40cmはあろうかというヒグマの足跡が点在していた。太平洋岸と内陸部の要衝である十勝国道・狩勝峠の三合目と四合目の間で、ぼくの前方50mの所を、体長2mほどのヒグマが道路を猛スピードで横切って森へと消えた。ちょっとタイミングがずれたら、あの地上最大の肉食獣(ドングリ食だっけ?)とサシで戦う所だったのか。
     13日目、浜頓別市街へと下る丘陵地では、ヒグマ出没の報を受けて警察車両が登場。最終ランナーに併走してヒグマから守ってくれた。ぼくたちは人工物のアスファルトの上にいることで安心しきっているが、実際は野生の臭いが濃く残る北海道の大自然の中に、丸腰でいるのである。
     ステージレースに徹夜走はない。毎日のゴール後には十分な量の食事を採り、大方の宿で良質の温泉に浸かれ、柔らかな布団で身体を休められる。とはいえ、平均79kmを14日間走りつづけることは楽ではない。多くのランナーは足の裏に巨大な血マメをつくり、スネや足首やアキレス腱を空気入れでパンパンに膨らませたように腫らせている。ふだん50km、100kmと走るのがへっちゃらな人たちが、背筋を大きく傾け、テーピングでぐるぐる巻にした脚を引きずりながらゴールを目指すさまは、憂いと切なさに満ちている。
     雨に打たれ、日に焼かれて前へ前へと一歩を出し続ける。ゴールの先には輝ける栄光はない。一般社会の評価に値するような実績にもならない。そもそも夏に1100km走るんだと他人に説明しても、奇異な目で見られるのがオチなので、あまりしゃべらないようにしている。
     14日目、この旅ではじめて訪れた完ぺきな晴天は、オホーツクの海を碧に染め、水平線の上に南樺太・サハリンの島影まで浮かび上がらせた。視界100km以上、天球の丸さまで感じさせる。去年、熱中症に負けて50kmだけ欠けた全行程を、今年はケガまみれながら走りきることができた。奇跡の光景は祝福なのだと独りよがりに解釈しておこう。
     青一色に包まれた宗谷岬の先っぽに設けられた手作りのゴールに、ランナーたちは飛び込んでいく。全ステージを完走した人も、途中でリタイアを余儀なくされた人も、それぞれのゴールを迎える。
     「トランス・エゾ」には完走賞も完走メダルも不要だ。勲章は自分の胸の内側にかけられる。自分を称えられるかどうか、その基準は「どれだけのことができたか」だ。自分が置かれた環境のなかで、不器用にもがき切れたか。長い間自分を苦しめた病気は克服できたのだろうか。怪我を負ったなかでやれる対処は全て尽くせただろうか。年齢とともに全盛期の健脚を失っている自分と正面から向かいあえただろうか。他者から見た評価ではない、自分が自分に対して与える評価だ。
     2014年の今を生きるぼくは、今持ちうる最大の力を振り絞れたのだろうか。
     宗谷丘陵からオホーツクの海へと続く急な下り坂を、青い空と海の境目に向かって駆け下りる。
     
  • 2014年12月19日バカロードその77 あとはどうなってもいい
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     できない理由を並べたら100コは下らない。できる根拠は何ひとつない。でもやらなくてはならない。自分には能力がないからやめとく、と素直に屈服しない。
     やれることだけ選んでやっていてもつまらない。やれそうにない事にぶつかっていくから感情が揺れる。何にもチャレンジしないなら、一日じゅう部屋にこもってゲームでもやっている。でもそんなの2日で飽きる。
     246・8kmを36時間以内に走りきるレース・スパルタスロン。4度の失敗でわかったことがある。生半可な覚悟と準備でははじき返される。次々と襲ってくる障害に打ち勝っていかなければ前に進めない。自分の身体をきちんとコントロールできる知識と理性がないと破綻する。死力を尽くす、を文字どおり実行しなくてはゴールには届かない。
     どんなに秀でた運動能力をもっていても攻略は簡単ではない。たとえば100kmを7時間台、フルマラソンを2時間40分前後の持ちタイムの人たちも次々とリタイアする。逆に、フル3時間台後半の人が、快進撃を見せて上位に食い込むこともある。
     思うに、246・8km×36時間をつかさどる見えざる統治者は、誰に対しても平等に門戸を開けている。持って生まれた運動能力だけでは決まらない。スピードでは計れない。ド根性だけでも突破できない、何か得体の知れない法則がある。だから、ぼくのようなランナーにも1%の可能性は用意されている。壁のどこかに小さな針の穴が空いている。探し当てて、自分の手で通すのだ。
     大事なのは、1つ1つの壁に対して、「まあ何とかなる」「気合いで乗り切れる」とタカをくくらないことだ。「きっとうまくいく」と偶然を頼りにしない。たまたま好不調の波のピークにばっちりハマり、絶好調のうちに走りきれる、なんて可能性はゼロだ。困難をやりすごすことはできない。真正面から対峙し、1コ1コやっつけていくんだ。

                  □
    【トレーニング量を抑え、質を上げる】
     過去の経験から、月間何百km走り込もうと、完走の根拠にはならないとわかっている。レースと近似の環境で250km、36時間走るトレーニングは不可能である。気温が40度近くまで上がり、低湿度で発汗が短時間で気化していく。深夜気温0〜5度まで下がったなかで、標高差1000mの岩場を登って下る。75カ所ある関門時間をクリアするため、まとまった休憩・睡眠は一切とれない。これと同じ条件を揃えることは不可能だ。練習は、より楽な自然環境、より楽なタイム設定、より恵まれた補給物資(たとえば自販機のよく冷えたドリンクなど)のなかで行っている。距離を150km、200kmと稼けば満足感は残るが、スパルタスロン本番ほどの厳しい環境でのものではない。勘違いを起こさないようにしたい。環境の良い日本国内での走り込み実績は、あまたある完走条件のうち10%程度を満たすものだと考えるべきだ。
     直前6カ月の月間走行距離は以下。
     3月 524km
     4月 508km
     5月 654km
     6月 436km
     7月 268km
     8月 1267km
     6カ月で3657km。今年は走行距離を減らし、スピード練習に重きを置いた。大半の日は1日に10kmしか走っていない。1kmを4分30秒で息が上がらないよう、心肺と脚に覚えさせる。それにプラスして月に1〜2度の100〜200km走を実施し、体調が最悪になった状態にメンタルと肉体を慣らす。

    【徹底して眠れば、疲労は抜ける】
     限界を超えてしまわない程度に、そして長引くようなケガをしない程度に、月に500km前後走り込むのは結構むずかしい。疲労を溜めこみすぎてバーンアウトするリスクがある。燃え尽き症候群は肉体の限界を越えて起こるのではなく、多分に精神的な虚脱や、脳からの「これ以上やると健康を害するから止まれ」との指令に反応したものである。実際には肉体の限界を超えたりはしない。とはいえ、バーンアウト状態になると何もかもがおっくうに感じ、朝起きるのもトイレに行くのも嫌になるほどやる気が無くなる。
     無気力に針が振れないようにするには微妙なさじ加減が必要で、「週に何km以上走るとダメ」「スピード練習を何日以上続けるとダメ」といった単純な目安はない。
     実はトレーニング量よりも休息にポイントがある気がしている。これは何日間も連続して80kmを走るジャーニーランの経験から学んだものだが、日中に80km、90kmと長距離を走っても、その夜にたっぷりと食事を取り、熱い風呂に入って冷水で脚をアイシングし、7時間以上熟睡すれば、翌日には疲労感はほとんど残らないのだ(怪我は治らないけど)。
     つまり、どんだけ長距離走り込もうとバーンアウトはしない。燃え尽きないためには、「練習時間」「仕事時間」「お家の用事」以外のすべての時間を、食事・入浴・睡眠にあてるのだ。
     サプリメントは7種類を常用している。主な目的はアミノ酸の補給と、その結果としての疲労除去と筋繊維修復。
     ?NOWスポーツ・Lグルタミン
     ?アサヒ 天然ビール酵母・エビオス錠
     ?森永製菓 ウイダー カルニチン&CLA
     ?アサヒ ディアナチュラ ストロング39種アミノマルチ
     ?興和新薬 QPコーワ・ゴールド
     ?大塚製薬 アミノバリューパウター
     ?味の素 アミノバイタル クエン酸チャージ顆粒
     これら以外もアレコレ試している。多種類を服用していると、どのサプリがどう身体に作用しているのか不明である。すべてが効いている感じもするし、ぜんぶ気休めともいえる。摂取者としてはプラシーボ効果(効いた気になることで実際に体調に好影響が現れる)でも満足だ。結果さえ伴えば、岩塩だろうと鉄サビだろうと何でもしゃぶるぞ。

    【必ずやってくる危機にどう対処するか】
     レースがはじまると、次から次へと体調の異変が起こる。どうコンディションを整えようと逃げる方法はない。気温40度近いなかをハイペースで走って何ともない人もたまにはいるかもしれないが、そんな千人に一人のウルトラマンこそ他ならぬ自分だとは決して思わない。
     大きな体調悪化は4パターンに集約される。
     ?多量の発汗による脱水。体液・血液中のミネラル等のバランスの崩れ。結果としての吐き気、嘔吐、意識混濁、走行停止。または脚部からはじまり全身に起こる痙攣。こむら返り。
     ?の対策=ボトル「シンプルハイドレーション」350mlを常時持ち、3〜4kmおきのエイドで100ml飲んだうえでボトルに350mlの水分を補充。10km換算にすれば約1000mlの水分を体内に取りこめる。汗が引くであろう夜間はこれほど必要ないが、36時間の間に15〜20リッターの水分を摂取する。「シンプルハイドレーション」は、ボトル上部に引っかけがついており、手で持つ際に握力が必要なく、腰に差す場合はウエストベルトやランニングパンツに引っかける要領でざっくり挿すことができる。便利だ。
     ミネラルの喪失には、「大塚製薬 カロリーメイト・ブロック(メープル味、フルーツ味)」で対応。カリウム、鉄、マグネシウム、ビタミン類がバランス良く補給できる。
     ?運動量過多による消化器の活動量減少。胃酸過多のための吐き気、嘔吐。結果として水分、食料を消化吸収できないことによる脱水症状、あるいはカロリーの枯渇。やがて走行停止。
     ?の対策=レース3日前から胃粘膜保護剤「エーザイ・セルベール」を服用。レース中は6〜10時間の間隔で飲む。レース前日になると胃酸分泌を抑制する「第一三共ヘルスケア・ガスター10」を服用。レース中は胃粘膜保護剤とともに飲む。
     50kmを越えた辺りから、消化器官は病人同様となる。いかにごまかし、いかに正常に近い状態をキープできるかが勝負どころだ。過去、あまりに嘔吐が激しいため「吐くのに慣れるバカ練習」に励んだこともあったが、本来の「吐かずに胃腸を正常に保つ努力」に注力すべきと悟った。
     ?身体の連続使用による極度の疲労。夜間に訪れる耐えられないほどの猛烈な眠気。睡眠不足というよりも、過重な体力消耗による脳からの「運動停止サイン」による睡魔。走っていても寝落ちする程だから、当然スピードも出ない。そのまま寝込んでしまえば関門閉鎖時間はすぐやってきてリタイアに。
     ?の対策=これも過去の経験から「寝だめ」に効果がないことがわかっている。レース前日に睡眠薬飲んで12時間眠っておいても、レース中の徹夜時間帯にはフラフラになる。「運動停止サイン」が下りないようにするには、スタートから15時間以上経った時間帯でも、肉体に深刻なダメージを与えず、余裕を残しておくことである。まず、疲労除去に即効性のあるクエン酸「味の素 アミノバイタル クエン酸
    チャージ顆粒」を10kmごとに1本使用。
     筋肉損傷の修復は「VESPA PRO(ベスパプロ)80ml」を。1本700円もする超高級セレブリティ・サプリメントを12本用意した。
     さらに「味の素・アミノバイタル スーパースポーツ100g」、カロリー補給は「パワーバー エナジャイズ」「明治 ザバス ピットインリキッド(ウメ風味、ピーチ風味)」「明治 ザバスピットインゼリーバー(アップル風味)」「井村屋 ちょこっとつぶあん 25g」などを6kmおきに配置。
     ?痛み。予告なく起こる筋肉損傷、関節損傷。足裏の表皮のはがれ(マメのひどいの)。股間の表皮の消失(股ずれのひどいの)。
     ?の対策=耐え難い痛みには鎮痛剤「エスエス製薬・イブA錠」。何度も使用するために第一種指定の鎮痛剤(ボルタレンやロキソニン)は回避。股間の皮膚損傷対策は皮膚保護剤「ユニリーバ・ヴァセリンペトロリュームジェリー」。足裏のマメには「テーピングテープ 非伸縮タイプ」をガチガチに巻きつけて対処する。

    【焦熱対策。気化熱を徹底利用する】
     いつも熱中症でフラフラになっているぼくを気の毒に思ったか、尊敬する理論派先輩ランナー氏が懇切丁寧な長文のアドバイスを送ってくれた。氏の指導は科学的かつアカデミックな内容であり、スパルタスロンを完走するためには、ただ走るという行為をこれだけ突き詰めて考えねばならないのかと衝撃を受けるとともに、無手勝流の非科学トレーニングで完走を目指していた自分が恥ずかしくなった。
     理知と慈愛に満ちたアドバイス内容をごく単純にまとめちゃうと「体温を上げないよう、過度に発汗させないよう、全身を濡らし続ける」である。そのためには皮膚を直射日光にさらさないこと。全身を衣類で覆い、エイドのたびに水分を衣類に含ませ、次のエイドまでの3〜4km間、気化熱による体温冷却を止めることなく続けること、である。
     アドバイスを受けて、体表面を覆うグッズを揃える。頭部は白キャップと首筋を覆うカバーを装着。腕部は白ソックスのつま先部分をカットしたものをアームカバー代わりに。市販の高機能なのは皮膚を圧迫しすぎて辛い。膝下は「C3fit パフォーマンスゲイター白」を着用。これらを水で濡らしつづける。高い気温・低い湿度という条件下
    では、体温上昇のペースに発汗が追いつかず、やがて汗が止まり、表面体温が急上昇して熱中症に陥りがちだ。だが逆に、体表面が常に濡れている状態をキープさえできれば、高温・低湿の条件はプラスに振れる。気化熱がもっとも効果を発揮する環境だからだ。直射日光と戦うのではなく味方につけて、体温をガンガン下げ続けるのだ。

    【シューズは超攻撃的シフトに】
     スタートから80kmまでは、「アシックス・ターサージール(片足重量185g)」を使用。80km関門の閉鎖が9時間30分。100km関門が12時間25分と設定されている。が、しかしこの時間ギリギリに通過したのでは、その後たったひとつのトラブル(たとえば道を1km間違えて引き返す)でリタイアの憂き目にあう。完走を果たすには80kmを8時間30分、100kmを11時間30分以内には通過すべきだ。ためにはそれなりのスピード感が必要であり、序盤はターサーを使う。さすがに薄すぎやしないかとの懸念があったため、トランスエゾ1100kmをターサー1足で走りきった。問題なく80kmまではいけるはずだ。念のため、カカト部分には「SHOE GOO」という補修材をたっぷり盛っておく。これまた気休めだけど。
     80kmの大エイド・コリントスには2足目のシューズを送っておく。レース後半は、「HOKA ONE ONE スティンソンターマック(片足重量320g)」に交換。カカト部のアウトソールが4cm近くあり、荒れたアスファルト道や砂利道からの衝撃を和らげる。
     序盤で短距離用のターサーを使うのは危険とウラハラだが、元来スピードのないぼくは、どこかでリスクを冒す必要がある。クッション性の高いシューズでゆるゆる走っても関門に間に合わせる走力はない。80kmを8時間30分ってほとんど自己ベストのペースみたいなもんだし、残り時間5分、3分と追い込まれたときに、ロングスパートをかけられる余地が必要。ターサーと運命をともに、ターサーと一蓮托生。
                □
     この1年、たくさん走って、たくさん試した。身体に起こる症状に対し、自分の脳でうまくコントロールできるように、脳と身体を分離して走れるよう意識した。
     超長距離レースではリタイアもたくさんした。実感したのは、脳の自動調整システムが優れすぎているという点だ。生命が危機的状況に陥る前に、活動を停止させようとする司令塔としての機能だが、少々性能が良すぎて、いくぶん早めに停止ボタンが作動するようになっている。この停止ボタンを「押さなくていい」と言い聞かせるのは、これまた脳の仕事である。動きを勝手に止めようとする身体に「それはまだ早い。今からエネルギーを補充するからまだ動きなさい」と強制介入するのも脳だ。痛いも辛いも苦しいも脳が感じ、信号を発している。その注意深さ、慎重さといったらゴルゴ13並みである。
     だがしかし、絶対にこの厳しい壁に立ち向かい続けるのだ、絶対にあきらめないのだと、アニマル浜口並みの気合いを注入し続けるのも、自分の脳でしかない。レース前にしてすでに脳内にはさまざまなキャラクターが跋扈し、混乱の極に達している。もう何でもいい。ゴールにさえ行けたら、あとはどうなってもいい。
  • 2014年12月19日バカロードその76 甘いささやきが耳元をくすぐる、脳みその奥でよくない虫がざわつく
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     大陸横断・・・なんと甘美な響きか。そこには冒険と切なさがつまっている。幾多の苦難を乗り越え、何本もの地平線の先へと旅をつづける。
     それが19世紀の北アメリカ西部開拓時代なら、幌馬車に乗りテンガロンハットをかぶった荒くれ野郎の物語かもしれぬし、それが20世紀フラワー・ムーブメントの時代なら、ハーレーを駆って明日なき疾走をはじめたピーター・フォンダとデニス・ホッパーの救いようのない不条理旅のお話かもしれない。
     どんな物語であろうと、砂ぼこり舞う荒野の一本道を、太陽や雲を追いかけながら、ひとりぼっちで移動していく行為は、孤独で寂しい。その先に何があるのかもわからないままに、ただ移動するという非生産的で非効率な時間。
     そんなことはわかっているのに夢想が止まらない。大陸という名の巨大な土の塊、自分の足で端から端まで走り切れないものか? 車輪もエンジンもついていない貧相な2本の脚で、どこまでも走ってはいけないものか。

     ランニングによる北米大陸横断レースついて調べたことがある。
     最も古いものとして、1928年に行われた「インターナショナル・トランス・コンチネンタルフットレース」が記録に残っている。この史上初の大陸横断レースこそ、参加ランナー数、イベント規模、破格の賞金額などすべての点において有史以来、最大規模のレースであった。
     この大会、現在想像しうる地味で質素なウルトラマラソンレースとはかけ離れ、超ド派手なイケイケイベントであった。主催者であるチャールズ・C・パイルという人物は、当時、映画館やスポーツ・エージェントの経営者として隆盛を極めていた。アメリカンフットボールのリーグ化や北米初のプロテニスツアーを企画するなど斬新なマネジメント手法をスポーツ界に持ち込んだ人物だ。
     そんなプロフェッショナルな興行師が仕掛けただけあって、ロサンゼルスからニューヨークまで5507kmを人間の脚で走るという壮大なレースは、後にも先にもない華やかな催しとなった。
     ランナーは、毎日決められた区間を走りタイムを競う。そのタイムの合算でランキングが決められる。優勝者には2万5000ドル、2位には1万ドル、3位には5000ドルの賞金が与えられる。このタイム積算型レースは、1903年からヨーロッパで始まった大規模な自転車レース「ツール・ド・フランス」のランニング版をイメージしたものだ。当時の2万5000ドルといえば莫大な金額である。1920年代の米国の消費者物価指数は現在の約1%である。現在の貨幣価値に換算するなら3億円にもなる賞金が、優勝者に授与されたのである。
     ランナーは毎晩、専用にしつらえられたテント村で宿泊。テント横ではツアーに同行させた芸人や女優によるステージ・ショーが繰り広げられた。行く先々で住民をショーに招いて入場収入を得る。また、イベントの協賛企業を募り広告収入で稼ぐ。今から80年以上前の企画とは思えないほどの斬新さと手配力が見られる。
     イベントの豪奢さはさておき、肝心のレースには世界中から賞金目当ての強者199人が参戦し、ロサンゼルス・ハンティントンビーチに立った。スタートから3日目までに3分の1のランナーがリタイアしたものの、ゴールのニューヨークには55人が到達した。優勝者は弱冠20歳の若者、アンドリュー・ペインだった。
     イベントの壮大さとは裏腹に、主催者チャールズ・C・パイル氏に旨味のある収益はもたらされなかったようだ。翌年、ニューヨークからロサンゼルスまでの逆コース「リターン」大会を実施したものの、彼は二度と大陸横断レースを行うことはなかった。
     パイル氏は、1937年に喜劇女優のエルビア・アルマンと結婚し、1939年にロサンゼルスにて心臓発作で亡くなるまで、ラジオ放送局関連会社の経営をしていた。その波瀾万丈の人生は、演劇「C.C. Pyle and the Bunion Derby」として、トニー賞受賞者のミシェル・クリストファーが脚本を書き、名優ポール・ニューマンがディレクションし、舞台で演じられた。
     公に参加者を募集してのレースは、大陸横断レース初開催から現在までの80余年の間に、たったの9回しか行われていない。
     右記の「トランス・コンチネンタル」から63年という長い空白期間の後、1992年、ジェシー・デル・ライリーとマイケル・ケニーという2人の若者が主催し、「トランスアメリカ・フットレース」が開催される。ロサンゼルス・ニューヨーク間4700kmを64日間、1日平均73キロを走るレースだった。
     第1回大会(92年)には、30名が参加し13人が完走した。
     第2回大会(93年)は、13人が参加し6人が完走。日本人ランナー・高石ともやさんが初参戦しみごと完走。記録上残る初めての北米横断日本人ランナーとなる。高石さんは60年全共闘時代を象徴するフォークシンガーであり、日本のフォーク黎明期を創りあげた人物だ。同時に日本国内で初めて行われたトライアスロンの大会、皆生トライアスロン81の初代優勝者でもあり、100キロ以上走りつづける超長距離ランナーの先駆けとなった。同大会は当初から運営予算に苦しんでいたが、京都に本社がある洋傘・洋品メーカーである「ムーンバット」が大会スポンサーとなり資金面を支えた。
     第3回大会(94年)では、15人が参加し5人が完走。海宝道義さんと佐藤元彦さん、2人の日本人が完走した。海宝さんは現在も「海宝ロードランニング」を主催し、多くのウルトラレースを運営しランナーを支援している。この大会は、NHKが密着取材を行い「NHKスペシャル 4700km、夢をかけた人たち〜北米大陸横断マラソン」と題する密着ドキュメンタリー番組が制作された。映像として残る貴重な素材であり、「トランスアメリカ」の存在が広くランナーの間で認知されるきっかけとなった。
     トランス・アメリカ最後の大会となった第4回大会(95年)には、14人(日本人6人)がエントリーした。完走者は10名、うち4名が日本人と強さを見せた。古家後伸昭さん、遠藤栄子さん、小野木淳さんが完走。海宝道義さんは2年連続完走の偉業を成し遂げた。レース全行程にわたる記録を完走者・小野木淳さんが「鉄人ドクターのウルトラマラソン記」(新生出版刊)にまとめており、日本語で書かれた北米横断の最も詳しい文献となっている。
     21世紀に入ると2002年および2004年に、アラン・ファース氏による主催で、ロサンゼルス・ニューヨーク間4966.8kmを71日間で走破する「ラン・アクロス・アメリカ」が2度行われた。2002年大会は、11名の出走者のうち9名が日本人、完走した8名中7名が日本人という活躍をみせる。完走者は、阪本真理子さん、越田信さん、貝畑和子さん、下島伸介さん、武石雄二さん、金井靖男さん、西昇治さん。いずれも名だたるジャーニー・ランナーである。2004年の同大会には10名のランナーが出場し6人が完走。日本人では堀口一彦さん、瀬ノ尾敬済さんが完走している。
     90年代から00年代は、世界のウルトラマラソンやアドベンチャー・レースの世界に、日本人ランナーが猛烈に参戦しはじめた時代といえる。「4デザート・レース」「トランスヨーロッパ」「スパルタスロン」などでは、日本人の参加数が急増するばかりか、優勝者を輩出するなど超長距離レースへの高い適応能力を証明している。00年代に行われた2度の北米横断レースは、その日本人パワーを象徴する大会となった。

     この大会を最後に、北米横断レースを企画する者は現れなかったが、7年の時を経てフランス人のウルトラランナー、セルジュ・ジラール氏によってロサンゼルス・ニューヨーク間レースが開催される。セルジュ・ジラール氏は、生きる伝説ともいえる存在である。1997年に北米大陸4597kmを53日で走って横断すると、99年にオーストラリア大陸3755km、2001年南米大陸5235km、2003年アフリカ大陸8295km、そして2005年にはユーラシア大陸1万9097kmを走踏した。世界で初めて全5大陸をランニングで横断するという快挙を成し遂げたスーパースターである。
    2011年6月19日にロサンゼルスを出発し、8月27日にニューヨークにゴールした「LA-NY footrace」は、北米横断レースの第1回大会「インターナショナル・トランス・コンチネンタルフットレース」をリスペクトするという主旨も有し、同大会のたどったルートをある程度なぞったものとなった。約5135kmを70日かけて横断、1日平均73キロ以上の行程である。
     16名がスタートラインに立った大会は8名が完走した。越田信さんは日本人で2人目の「北米大陸を2度完走」の偉業を成し遂げた。そして連日連夜にわたって制限時間ギリギリにビリでゴールに飛び込んでは倒れ込み、ぐずぐず泣いてはスタッフやクルーの背中におぶさり運ばれながら、奇跡的な完走を果たした歴代最弱ランナーがぼく、ということになる。
     何度も死ぬかと思った。気温50度の砂漠は焼け死ぬか干涸らび死か。太腿の筋肉がバリッと音を立てて裂けたときは、痛みで気を失いそうになった。毎日毎日が生き地獄だともがき苦しんでいたのに、どうしたものか今では楽しい思い出しか残っていない。人生で使用可能な熱量の総量が決まっているとすれば、その半分くらいをこの70日間で使った。
     そんな「LA-NY footrace」から3年の歳月が流れた。2014年には「オーストラリア大陸横断レース」の開催も噂されたが、実施には至っていない。生ける伝説セルジュ・ジラール氏は、2015年にランニングと手こぎボートによる地球一周4万5000km「ワールドツアー」に出るという。
     ぼくの胃や腸のなかで「横断の虫」がざわつきはじめている。また旅に出たい、荒くれ者や毒虫や自然の猛威のまっただ中にこの身1つで立ちたい。マメだらけの脚をテープでぐるぐる巻きにして、奥歯で砂をジャリっと噛みしめて、目で見える景色の向こう側まで走っていきたい・・・という強迫神経症的な病気。
     地球儀をぐるんぐるん回しながら3コ目の横断すべき大陸を見定め、指でなでなでしている日々。

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    【北米大陸横断レースの歴史】
    1928年 International Transcontinental Foot Race I (出走199名/完走55名)
    1929年 International Transcontinental Foot Race II (出走不明/完走19名)
    1992年 Trans-America Footrace I (出走30名/完走13名)
    1993年 Trans-America Footrace II (出走13名/完走6名)
    1994年 Trans-America Footrace III (出走15名/完走5名)
    1995年 Trans-America Footrace IV (出走14名/完走10名)
    2002年 Run Across America I (出走11名/完走8名)
    2004年 Run Across America II (出走10名/完走6名)
    2011年 LA-NY footrace (出走16名/完走8名)

    この表は、個人単独での徒歩による横断などは除外し、参加3名以上の公募レースに限っている。
    現在までに北米横断レースの完走者数はのべ138名、日本人は17名である。
  • 2014年09月11日バカロードその73 夏にやってみたいろんなこと
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     長距離ランナーの1年は忙しい。先々の予定まで週刻みでびっしり埋まっているという点では総理総裁の上をいくかもしれない。
     だいたいシーズンオフという考え方がない。のべつまくなしに1年中走っている。
     200〜500kmの大会は春と秋に集中していて、その足づくりを目的に100kmを数本入れる。100kmでそれなりのタイムを出すにはスピード持久力が不可欠であり、ために冬期はフルマラソンに連チャンで出場する。フルマラソンを失速なく走りきるには心臓を追い込んでおく必要があり、空いた週に10kmやハーフの大会を差し込む。
     これらの予定をカレンダーに書き込んでいくと、休みなどまったくないことに気づく。
     短いサイクルでガンガンレースに出て、強くなっていくという川内メソッドは中高年には該当しない。脚のダメージを抜くにはフルで1週間、100kmで2週間、200km以上で3週間。これより短い間隔で走りつづけると、「超回復」に至る前に筋肉を酷使してしまうから、どんどん衰弱していく。踏ん張りの効かないぐにょんぐにょんの足で一定のスピードを出そうとすると、体力を著しく消耗する。
     結果、1年中疲労の抜けない精気に乏しい虚弱なオジサンが完成する。
     そんなマーク・ザッカーバーグ並みに忙しい長距離ランナーも、夏の間だけはしばしレースから解放され、練習に没頭できる。7月に突入し、入道雲が高い峰を築く日和になると、ようやくわが国においても酷暑対策に適した練習環境が整う。ベランダに置いた温度計が30度を超えると、気合いが入る。同じ「走る」という行為でも、気温10度と35度では別競技と言っていい。克服すべきポイントがまるで違うからだ。日本ではたった2カ月しかこの灼熱環境が得られない。真夏にどれだけ走り込めたかが、根拠なき自信を高められるかどうかにつながる。そう、高まるのは自信だけであって、競技能力ではない。
         □
    【滝汗と手絞りしやすいシャツ】
     真夏は汗がドバドバ出る。弱い牛ほど汗をよくかくと言うが、ランナーも似たようなものだ。弱いランナーほどよく汗をかく。
     その典型がぼくである。10km走ると体重が2kg落ちている。20kmなら3kg減だ。走り終わって鏡を見ると、明らかに顔の輪郭がほっそりしている。少しうれしい。走る前にはなかった背骨の凹凸が、ゴツゴツと突起を現している。これもうれしい。体重62kgのうちの3kgだから、けっこうな比率である。しかし元メタボオヤジ代表としての歓びにひたっている場合ではない。長距離ランナーは、汗が流れ落ちてスリムになり老廃物もデトックスできてすっきり爽快、と簡単に受け入れてはならない。発汗にともなうデメリットの多さは枚挙を問わない。
     気温が上昇してくる春先のレースから汗かき地獄がはじまる。周りのランナーは誰も汗をかいてない序盤だっちゅうのに、バケツいっぱいの水をぶっかけられたくらい汗を垂れ流している。沿道のおばあさんには「すごい汗かいてるねぇ、暑くて大変やねぇ」と声をかけられる。「いや実はね、おばあさん。ぼくは今すごく汗まみれだけど、これは体質から来ているのであって、ものすごく暑くてバテてるからこうなってるのではないのですよ」と説明したいところだが、タイムに影響するので笑顔をふりまいて通り過ぎる。
     ある尊敬する先輩ランナーから視覚障害者ランナーの伴走練習会に誘われ、勇気をもって参加したい気持ちはやまやまなのに、自分の滝のような汗がガイドロープつたって流れていったり、パートナーにびしょびしょかかって、「うへぇ、こいつキモい」と思われやしないかと心配で、いまだに練習会から逃げている。まったく困った小心者である。
     シューズ内はカッポカッポと馬のひづめのごとく音を鳴らし、ずっしり重くなる。びしょ濡れのランニングパンツが発火点となってはじまる股ずれ吉原炎上。そして「自分はものすごく汗臭いのではないだろうか」との対人恐怖。なるべく他人の風上には立たないなどの配慮にも気を遣う。これでは走るどころではない。
     ランナーなら身体から水分が抜けない体質の方が良いに決まっている。汗とともに失われる希少ミネラル、壊れていく体温の恒常性機能。発汗と共に体調はどんどん悪化していく。
     画期的な汗止め対策はない。「多汗症手術」とネット検索してみたが内容を読んで怖くなってあきらめた。何をせずとも、9月になって秋風が吹き始めると汗はピタッと止まる。ならば夏は汗を100リッターかくものとあきらめ、「汗を絞る」方面に注力することにした。走りながらシャツをやおら脱ぎ、汗を吸って重量の増したシャツを二つ折りにして、ぞうきん絞りの要領でギュギュっと絞り、また着直すという原始的な方法だ。
     ひと夏かけて、所有する数十枚のランニングシャツで実験を試みた。そして、もっとも吸湿力が高く、さらに絞ったときに水分を排出しやすいシャツを見いだした。大会の参加賞でもらったノースフェース社のドライ系シャツだ。イチ、ニのサン絞りで、繊維内に蓄積された水分の9割方が落ちる印象。念のため重量を量ってみた。汗を吸いまくった状態で450gのシャツが、絞り終えると250gに落ちる。つまりシャツを絞るたびに着衣込み体重が200gずつ軽量化を果たしていくのだ。ま、それだけ脱水症状にも近づいてくってことだけど。
         □
    【ジョグを封印する】
     ここで述べる「ジョグ」とは、疲れもせずどこまでも走れそうなペースのこと。キロ6分30秒〜7分あたりだ。このペースだとたくさん距離を稼げるので、自然と月間走行距離も伸びる。20km×25日で500kmだ。疲労もたいして残らない。
     そして危険な罠に陥る。少々ランニングをたしなんでいる方との定番の会話「最近は月間どれくらい走ってるんですか?」トークである。「500kmくらいですよ」と言うとたいてい「すごいですねぇ」と感心される。もちろん相手は心から「凄い・・・こやつは本物だ!」なんて感心しているわけではない。女子が交わす「髪切ったんだけどぉ」「カワイイィ〜!」くらいの意味のないコミュニケーションの潤滑油である。
     ところが、こちとらふだんから誉められ慣れてないから、「500kmも走ってたら無敵ですね」なんて言われると「オレは無敵なのかもしれない」と勘違いがはじまる。そして月間走行距離に裏づけられた絶大なる自信を胸にレースに臨み、早々のうちに実力を露呈してリタイア、を繰り返す。漫然とジョクペースで稼ぐ500kmに意味はないのである。
     今期は、練習を3タイプに分類し、いずれかの練習に特化した。
     1.10kmの全力走(キロ4分30秒前後)
     2.キロ6分の維持走(バテバテ疲労時のみ許す)
     3.100km以上のロング走
     練習の基本は10kmの全力走だ。といっても基本走力がのろいぼくは、夏場ともなると45分を切るので精いっぱい。ラスト2kmでペースアップを開始し、ラスト1kmは3分59秒以内で走る。土手のうえの一本道を、中年男がもたもたと回転の遅い足を懸命に動かし、取り憑かれたように走っている。すれ違う美ジョガーたちが、こちらの鬼気迫る表情を一瞬見ては目を逸らし、通り過ぎる。見てはいけない物を見てしまったかのように。ラスト200mは視野が狭くなり、脳みそが酸欠になって、地面が近づいてきたなと思うとバッタリ倒れる。
     これを月曜から休みなく続けていると、金曜にはフラフラになってくる。いちばんキツいのが朝だ。疲労が溜まりすぎて布団から起き上がれない。若者と中年の最大の違いは、若者=眠ったら体力回復、中年=寝起きが疲労のピーク、という結果に現れる。
     それでも無理に身体を動かして全力走をする。やがて1km走るだけでゼエゼエ呼吸が荒くなり、「ワタクシ、何のためにこんな事をやっているのでしょうか」との俗人的な心が芽生えはじめる。この感じ、超長距離レースの中盤以降に近い。エネルギー切れや脱水を起こした後に人格崩壊がはじまり、リタイアする理由を100個ほど並び立てて投げ売りセールをはじめる頃の。
     長距離ランナーにあるまじきクサレ外道な人格と化した後に、キロ6分台で走れるだけ走り続けるってのが「キロ6分の維持走」。もはやこの歳になって人格を高潔ポジティブなのと入れ替えるのは無理。ダメ人間でもキロ6分台キープできる能力をつける現実的選択をするのだ。
     そして100km以上の長距離走を月に1〜2本を行う。100km以上走るとやってくる悪魔たち・・・極限の疲労や眠気、足の激痛は、50km走や70km走では再現できない。キロ7分ペース×50km走を何本こなしても、200kmレースの練習には少しもならない。苦しさの次元が別物だからだ。
     この3タイプの練習はいずれもとっても苦しくて、「ジョクペースでファンランニング」という場面がない。10km走中心だから、月間走行距離も伸びない。100km以上ロング走を2本入れて、ようやく月間500kmあたりに達する。息も絶え絶えの500kmだ。これでも実力つかんか!と夏空に叫ぶ。こんだけ努力してるんだから、走力ついてくれよ!
         □
    【ウルトラライト・パッキングを極める】
     2日以上かけて100kmを越えて走るときのために、荷物の最軽量化に取り組んだ。
     荷物を持つのが嫌いなのだ。バックパックなんてなければどんなに軽快に走れるだろうか。
     にも関わらず長距離のレース前には、あれも必要、これもイザって時のために持っておこうと、どんどん持参物が増え、最終的には両肩にずっしり食い込むほどに荷が膨らむ。しかし、レースが終わって荷片付けをしていると、実際には使わなかったモノだらけだって気がつく。バックパックの容量の70%は不要品で占められているのだ。
     考え方を変えてしまうことにした。雨が降ったときのためのウインドブレーカー、マメができたときのためのテーピング・・・など「何々が起こったときのための」との予防措置的なブツはすべて除外するのだ。こちとら山岳レースに出るわけじゃない。どんなに長くとも20km以内にはコンビニや自販機がある近代日本の一般道を走っているのである。必要な物は店で入手すればよいのだ。
     思想的には、着ている服とシューズ、現金以外は何もいらない、という所まで追いつめたい所だが、文明人として若干の利便性は確保したい。今のところの極限のウルトラライト・パッキングは以下だ。
     ウエストバック+点滅ホタル
    スマホとスマホ充電コード
     ヘッドランプ
     健康保険証
     電子マネーカード
     現金(自販機用)
     それぞれを小分けする防水用ビニル袋
     ・・・以上だ。
     着替えは持たない。着ている服が臭ってきたら、公衆トイレの個室にこもり全裸になってシャツ、パンツ、ソックスを洗う。手絞りしたらそのまま着て、太陽の下に走りだせばすぐに乾く。ビジネスホテル泊まりなら、チェックイン後すぐにホテル備品の浴衣やパジャマに着替えて、衣類はランドリー室に直行。
     予備の電池や薬品は持たない。必要な場面で少量ずつ買う。歯磨きはあきらめる。これで総重量350グラム。ウエストバックは玄関脇にぶら下げておいて、いつでも旅に出られるようにしておく。この夏は、九州縦断、四国横断、北海道縦断とロング走を繰り返す。
         □
     2014年の夏は、後がない夏である。死ぬ気でやって結果を出さなければならない。世は科学トレーニング全盛だが、ぼくら世代は、幼少期に見た「侍ジャイアンツ」「あしたのジョー」「キャプテン」でもってすくすくとスポーツ脳が細胞分裂した。弓矢をバットで打ち返し、蛇口を針金でぐるぐる巻にし、3分の1の距離ノックでボロボロに。根拠なきハードトレーニングが栄光へと続く唯一の道だと刷り込まれているのである。
     
  • 2014年09月11日バカロードその72 どんな富豪でも味わえないぜいたくな旅なんだな 〜土佐乃国横断遠足242km・後半戦〜
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     田園の一本道をトコトコと進む。このあたり標高200m以上の高台ながら、満々と水を湛えた水田が山あいの台地に広がっている。昼間の温暖な空気と、夜間の冷え込み、寒暖差を利用して栽培される仁井田米(にいだまい)は独特の香りとモチモチ感で知られている。
     走りはじめて2日目の昼。ピーカン青空の下に三角屋根の連なりが見えてくる。153kmの「クラインガルテン四万十」だ。ここは滞在型の農園体験施設であり、牧歌的な雰囲気がヨーロッパの農村を思わせる。
     施設の入口で大会スタッフが大きな身ぶり手ぶりで応援してくれている。前後にはランナーの影は見えない。1時間に1人来るか来ないかのランナーをずっと待ちかまえてくれているのだ。
     到着すると、スタッフの方が「まずはお風呂にしますか、それともお食事になさいますか」と冗談めかして笑う。「食事はこの中から選んでください」と手渡されたA4用紙には、豚の生姜焼き、豚のしゃぶしゃぶ、納豆玉子かけ丼、豚汁など数種類のメニュー名が並んでいる。「いくらでも食べたいだけ注文してくださいよ。何品でもつくりますから」。シャワーを浴びている間に、料理を作っておいてくれるというのだ。
     50kmあたりから吐き続けているので、何も喉を通らないかと思っていたが、メニュー表を眺めているうちに、かすかに食欲が戻ってくる。お言葉に甘えて、生姜焼き、野菜サラダなどをお願いする。ウルトラランニングってのはときどき理解できない現象が起こる。スタートから50kmぽっちでボロボロになったのに、そこから100km走った後には体力が回復してるってね。いったい限界ってなんだろう。肉体の限界ってのは実は死ぬ寸前まで酷使しないと訪れるものではなくて、たいていの「もう限界だ」は脳や心に備わったブレーキ装置なんだろう。
     シャワーブースに入ると、直立した姿勢がつらい。服を着たまま床にベタッと座り、手を伸ばしてシャワーコックをひねる。髪の毛にシャンプーぶっかけて、流れ落ちる泡でシャツ、パンツ、ソックスを洗う。入浴と洗濯をいっぺんにやっつけて時間短縮する技は、アメリカ横断レースの際に先輩ランナーから教わった。ステージレースの最中に、1分でも長く睡眠時間を確保するために有効なテクニックだ。たしか毎日死ぬ思いで走ってたはずなのに、楽しい思い出しか残ってない。
     湯上がりのジャストタイミングでほっかほかの料理ができあがっていた。聞けばお肉は「窪川ポーク」という地元の名産品。味の決め手であるタレに擦り込まれたニンニクも四万十町の特産品だとか。肉厚のポークからは肉汁がじゅわーっとしみ出し、甘い脂肪分が舌上で溶けていく。得も言われぬ美味さとはこのことか。もちろんご飯は、豊潤な香り匂い立つ仁井田米。
     この大エイドには仮眠所も用意されているが、いかんせん到着したのが真昼だったため眠気が起こらず、後ろ髪引かれながらあとにする。出発する際には、ラップでくるんだおむすびや梅干しを持たせてくれた。滞在した1時間の間、何人ものスタッフの方に手厚く面倒をみていただいた。
          □
     ゴールまで残り89km。次の大きな街は46km先の四万十市だ。中村街道と呼ばれる国道56号線を南下し、ループ状の急な下り坂を経て、黒潮町佐賀という土佐湾沿いの街に出る。入り江と岬が複雑に入り組んだ海岸ロードでは、屏風状に繰り返し現れる岬を登り、漁港のある街道へと下る。何度も登り、何度も下る。
     日没後はまた眠気との戦い。暖かかった昨晩とは一転、今夜はひときわ寒く身震いがくる。短パン、半そでシャツではたまらず、コンビニで上下の雨ガッパを仕入れて着込む。しかし通気性のないカッパでは、内側にしたたる汗が衣類を濡らし、外気に冷やされて余計に寒い。奥歯のガチガチが止まらない。
     そういえば以前このあたりを旅したときに、四万十市郊外にあるスーパー銭湯を利用したことがある。そこに着いたら汚れた身なりは気にせず突入しよう。まずは水風呂に飛び込んでアイシングしたら、温かい寝湯で横になって1時間くらいウトウトしようじゃないか。風呂あがりには生ビールをぐいっといくのもよい。名案だ、まさに名案だ。新たな心の拠り所を見いだして、気力体力ふたたび満ちあふれる。
     夜の11時前、樹林帯が開けるとバイパス道の彼方に四万十市の街の光がきらめいている。いくつかの交差点を越えると、前方に「平和の湯」の大きな電飾看板が神々しく現れる。「やっと眠れる、温まれる。ヤッタヤッタァ」とガッツポーズを二度三度。生ビールもよいけど、ソフトクリームや練乳がけのかき氷もいいかも、とスイーツへの欲望もうなぎ登り。
     温泉まで信号をあと3個と迫った頃、キラキラまばゆく輝いていた看板の照明がフッと消える。いったい何が起こったのか・・・は徹夜二日目のボケ頭でもすぐわかる。このタイミングで営業終了時間ってわけかよう。湯の香ただよう温泉駐車場の前をぼうぜんと歩く。忘れていた眠さと寒さが絶望とともにやってきてケタケタ笑っている。
     ここから明け方まであまり記憶がない。半分眠りながら歩いていたと思われる。四万十川のいちばん河口に近い四万十大橋たもとが202km地点。深夜12時、日本一の清流が大地を潤す光景は、真っ暗で見えはしない。橋を渡り終えると、足摺岬の先端にある霊場・金剛福寺までの道しるべが至る所に掲げられている。四国八十八カ所をめぐる遍路道のメインコースに出たんだろうか。
     バス停のベンチに膝かけ用の毛布を見つける。試しに首からかけてみると腹までしか届かない。だが体育座りになると足首まで覆える。体温が毛布に伝わり温かさに包まれると、この旅はじめての本格的眠りに落ちる。次に目覚めた時には、朝もやの奥にモノクロームな海辺の街が薄ぼんやりと佇んでいた。深い深い睡眠は、疲労の粒を鼻の穴から煙のように放出してくれた。ラスト30km、ぼくはまだ走る気力を残している。
     三日目の太陽はやっぱり凶暴で、照りつけられた森の木々は、これ以上の緑はないという濃い緑を放っている。海を隔ててゆるいカーブを描く陸地の果てに足摺岬らしきこんもりした岬が見えてくる。
     コースは車道を離れ、雑木林の細い遍路道をゆく。力強い日射しは枝々に遮られ、木漏れ日となって地面にたくさんの光の輪を描く。 鳥のさえずりと、山肌をつたう清流の音が耳に心地よい。
     ときおり小さな集落が現れる。多くの家は広い庭に菜園を備えている。ビワや柑橘類の果樹がたわわに実をつける様は、家庭菜園と呼ぶには立派すぎる。オレンジ色に熟れたビワの実は、門塀をはみ出して歩道上にせり出している。1個むしり取って味見したい欲望にとらわれる。いや、ゼッケンナンバーをつけて走っている手前、軽犯罪行為は慎まねばなるまい。いい歳したオッサンがくだもの泥棒で起訴されるのも恥ずかしい。
     ふと見ると、足下にビワが落ちている。1個だけではない。道路のあちこちにころりころりと転がっている。熟れすぎて自然落下したものであろう。落ちているものなら食べても犯罪には当たらない(と勝手に解釈する)。
     1個拾って皮をむくと、指先から果汁がしたたり落ちる。果肉を口に含めば、高濃度の砂糖水よりも甘い。出荷用に早摘みされたものではなく、実が落ちる寸前まで太陽光を浴びたビワって、こんなにも美味いのか。落ちているビワを手当たりしだいむさぼり食う。
     急斜面のへりを切り取った道路には、山側の崖からゴウゴウと山水が降り注いでいる。山水をパイプやホースで道沿いまで導いている場所が何カ所もある。お遍路さん用の水場なのだろうか。水の吹き出し口に頭を突っ込み、天然シャワーを浴びる。体温、5度は下がったね。
     足摺岬まで5km、4km、3kmと距離表示の看板がカウントダウンをはじめる。楽しい走り旅が終わろうとしている。
     岬の先端まであと200mに迫ったところで、前方にランナーが見える。足をひきずって、歩くよりも遅いスピードで、それでも走っている。100kmほど手前で追い抜かれた長井さんだ。UTMF、萩往還、そして土佐之国と1カ月の間に3連走している彼は、足の裏半分を覆う巨大マメに悩まされていた。見てるだけでもエグいのに、よくここまで来れたものだ。すごい根性である。
     そして、われわれ以上に不眠不休でランナーを支えてくれた主催者の田辺さんが、ジョン万次郎像の横で、白いゴールテープを持って待っている。観客は、そこら辺の土産物店か観光案内所のおっちゃんとおばちゃんが2人。十分である。
     長井さんのゴールシーンを感慨をもって見届け、いよいよ自分の番だが・・・どうだったかあまり覚えていない。だいたいゴールシーンって、自分以外の人のを見学するのがいちばん良いもんです。
     ゴール後は、ランナー1人1人を車に乗せ、岬の高台にあるリゾートホテル「足摺テルメ」に送ってくれる。汗まみれ泥まみれで入館するには躊躇する建築美のここは、太平洋を一望する立派なスパを備えているのだ。「お風呂から上がったら電話してください。迎えに来ます」。そんなVIP扱いしてもらっていいのかなあと恐縮する。
     宿舎に戻ると、1人に1皿ずつの尾頭つきのタイと刺身の盛り合わせ、山盛りのカレーライスが待ちかまえていた。飲み放題の生ビールを5杯あおったところで、べろんべろんに酩酊。畳敷きのお部屋で大の字になれば、そよ風が頬を撫でる。睡眠不足な脱水症状者だけが味わえる幸せに満たされる。
        □
     100kmを超えるマラニック、ジャーニーラン系の大会といえば「ランナーの自己責任」が徹底されるのが通常である。徹夜続きで公道を走るからには、事故防止や体調管理は誰に頼ることなく自分で対処すべきなのは当然である。大会主催者や世話役の方に依存的な気持ちでいる人は参加する資格がない、とぼくは思う。
     しかしながら「土佐乃国横断遠足」は、大会スタッフの「世話の焼いてくれっぷり」がハンパなかった。ランナーの健康管理や地域色あふれる食事、参加者事情にあわせた大会前後の送迎など、さまざまな場面で人間味溢れる対応をしてもらった。そこには、高知という独特の県民性がバックグラウンドにあると思う。陽気で、開けっぴろげで、酒飲みで、世話好きな土佐人の気質が全開なのだ。
     242kmもの距離を走るのはもちろんラクじゃないけど、「土佐乃国横断遠足」は、競技性とは正反対の、長い走り旅を楽しみたい向きには打ってつけの大会だ。100kmウルトラを経て、「もっと長く走ってみたい」「100kmの先には何があるの」と興味をもった人の初トライの場として大絶賛おすすめします。

  • 2014年07月08日バカロードその70 午前零時の堂々めぐり 〜さくら道国際ネイチャーラン〜
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     真夜中11時。
     岐阜県郡上市にあるひるがの高原へのゆるい登り坂を、ぼくは歩いている。街灯はほとんどなく、ヘッドライトとハンドライトの放つ薄い光の輪だけが、2メートル先の行く手をしめす。
     「ぐえぇぇぇ」と弱々しくえずく。年老いた山羊の断末魔のような喉声。
     胃にエネルギーが満ちているのなら「ギョーッ」っと勢いよくゲロも噴き出そうってもんだが、わが胃をとりまく筋層にもはや収縮する力は残っていない。
     片岡鶴太郎氏の「IEKI吐くまで」のサビ部分が頭の中でオートリバースする。登り坂に入ってから二百リピートはしたか。胃液吐くまで、といっても実際は吐く胃液も残ってないから、酸っぱい気体だけがグエッグエッと込み上げてくるだけ。
     吐く息がかすかな白い蒸気となって立ちのぼる。道路に設置された気温計は1℃と表示されている。寒いのだろうか。寒くないわけないんだろうけど、暑いくらいである。手袋を脱ぎ、オーバージャケットの前ジッパーをはだけている。体感センサーが故障してるのかな。
     口の中がガサガサに乾いている。唾液はひと粒も出てこない。エイドでもらったコーラや水は5分もしないうちに上に戻してしまうから、腸壁から水分を吸収できていない。渓谷の水音が森にこだまする水の惑星のような場所にいて、ぼくの身体はカサカサに乾ききっている。
     午前0時になったから、ピチカートファイブの「きみみたいにきれいな女の子」を口ずさんでみる。少しは思いつめた感が薄れてゆくような・・・だめか。1人ぼっちの女の子の歌だったな。よけい寂しくなってきた。
     乾いた唇の脇がくっついていて、口が開かない。花粉症で鼻が通ってないから、呼吸困難である。口腔内だけじゃなくて喉の奥まで水分が枯れているから、イガイガして気持ち悪い。飲み込むツバがないってのは、けっこう苦痛なのだよ。長距離レースは、「ふだん当然のように存在していて、何のありがたみも感じてないもの」への畏怖を取り戻す場所なんだな。
         □
     「さくら道国際ネイチャーラン」は、超長距離を走る人たちにとって、最も権威がある、晴れの舞台だ。参加するには主催者による書類審査をパスしなくてはならず、外国人ランナーを含めわずか140人しか枠がないため、出場するだけでも大きな価値がある。
     そして、起伏の激しい250kmの難コースを36時間以内に完走できるのは、本当に強いランナーだけだ。
     速く走れるから完走できるわけではなく、長く走れるから完走できるのでもない。痛くても、気持ち悪くても前進を止めない、強いランナーだけが完走できるんだな。
     こんなに大変なコースなのに、毎年の完走率は70%前後をキープしている。審査基準が高いので、そもそも完走できなさそうな人にはお呼びがかからないから、完走率の高さが維持されてる。
     ぼくなんて過去3べんも応募して毎年、落選通知を受け取りつづけ。参加枠が20人増えた今年、ようやく滑り込みで合格したクチ。参加枠が去年までの120人なら、出ることなんて適わなかったんだろうね。
          □
     午前1時。
     スタートから19時間が経った。ゴールの制限時間まで17時間を残している。
     進んだ距離は140km。ゴールまで残り110km。
     数字だけ並べてみるといかにもゴールできそうなんだけど、それほど単純な仕組みで成り立っていないのが250kmレースの奥深さであり、いやらしい所だ。
     110kmを17時間なんてさ、五体満足な状態なら花見でもしながら、時おりスキップをまじえて、恋のおまじないソングでも口ずさみながら、楽勝で走れますよね。
     ところが今、ぼくの両脚は濡れ雑巾のように重く、差し出す1歩のストライドは30cmに満たない。気持ち的には慌ててるのに、1時間に5kmしか進んでいない状況。この鈍牛ペースなら、途中の関門にひっかかるのは時間の問題、ということになる。
     どこに問題があったのだろうか。反省会を開こうヤァヤァヤァ。革命の時代なら自己批判あるいは総括ってとこか。
     大会前、ぼくは5つの戦略を練ったのだった。
    □スタートから106kmの第2チェックポイント(白川エイド)までは寝ながら走る。
    □エイドでは座らない。
    □登り坂では、遅くてもいいから走り続ける。
    □睡魔は走ってぶっ飛ばす。
    □本気を出すのは150kmから。
     さて実際はどうだったか。
    □「さくら道」を走れる歓びに浮かれ、あらんことかスタートから30kmあたりまで暴走した。
    □エイドでは、いきつけの小料理屋におじゃました体で、ゆっくり座して時を過ごした。
    □登り坂では、「後半に向けての筋肉温存」という逃げ口上を思いつき、ほぼ歩いている。
    □波状的にやってくる睡魔に抗う気合いなく、暖かなエイドで5分、10分と過ごしている。
    □いよいよ本気を出すはずの150km手前で、すでに絶望に打ちひしがれている。

     客観分析をすればするほど自分が嫌になってきた。向いてないんだよね、こんなこと。お風呂に首まで浸かりたいよう。布団にくるまってゴロゴロしたいよう。そんなことばかり考えているランナーが、完走なんてできるか? 無理に決まってるじゃない。
     さっきから何人ものランナーに追い越されているんだが、みんな元気そうだ。140km地点で同じ場所にいるってことは、走力としては大差はないのかもしれないのに、彼らはあきらめる気配なんて微塵も感じさせなくて、夜の行軍を楽しんでいるんだもの。
     ぼくに必要なのは精神修行なのかな。写経とか座禅の教室に通ってみようか。滝に打たれて般若心経を唱えたりすると効き目がありそうに思える。すぐあきらめてしまう弱い自分を体外に追い払ってくれる祈祷師とかいないかな。恐山あたりの有名イタコさんに頼めばいくら料金取られるんだろう。
           □
     午前2時。
     標高875mのひるがの分水嶺を越すと下り坂基調になる。本来、下り坂にさしかかればキロ6分台で走って時間を稼ぐべき場面なのだが、さっきから気持ちスパートしてるのに、GPSの表示はキロ9分台しかスピードが出ていない。エッサエッサと早歩きのランナーに追い越されていく。
     長距離に強いってことは、具体的には「暑さなど気温変化に強い」「登り坂・下り坂に強い」「徹夜走に強い」という3大要素があると思うんだけど、ぼくは見事に3つとも弱い。ストレートもフックもアッパーも、決め技を何ひとつ持たずリングにのこのこ上がってしまったボクサーだ。袋叩きにあって当然つったら当然かもしれん。
     長距離走者を襲う代表的なトラブルは、「脚の故障」と「胃をはじめ内臓の不調」が双璧を成しているが、これはほとんど全員のランナーが見舞われる現象であって、あくまで織り込み済みの困難である。痛い・苦しいをリタイアの原因としてるようなら、ハナからこんな場所に来なさんな、と怒られそうなもんである。    
      
     午前4時。
     「スミマセーン、スミマセーン」という声で目が覚める。
     150kmあたりからはじまる平瀬温泉の温泉街を抜ける頃には、歩きながら完全に眠っていた。
     前方のT字路で、韓国人ランナーがこっちに向かって両手をふりながら大声を張り上げている。
     「スミマセーン、道はどっちですかー」
     右方向を指さして「そっちそっちー」と叫んで返す。「ありがとう、あなたガンバッテー」と韓国人は走りだす。レース中、何人かの韓国人ランナーと軽く挨拶をしたけど、皆この大会に向けて簡単な日本語をマスターしてきている。すごいな。
     走り去る彼の背があっという間に小さくなる。次の関門まであまり時間ないものな。君こそガンバッテ、その調子なら間に合うよ。
     知らぬ間に夜が明けている。眼前に白山山系のヒマラヤひだを思わせる急峻な壁が、圧倒的なスケールで迫っている。わぁすごいな。4月も後半だというのに、残雪は汚れもせず白く美しい。
     見はらしのいい庄川沿いの一本道。前にも後ろにも誰一人の存在も確認できなくなる。桜色のフラッグを掲げた大会車両がひんぱんに横を通り過ぎる。ぼくが最終ランナーってことか。遅すぎて迷惑かけてるのかな。
     谷あいのテント1つ造りの小ぶりなエイドステーションにたどりつく。
     関門のある白川郷エイドまで距離は9.5km。残された時間は70分。1km7分で走る脚と気持ちは・・・もう残っていない。
     「ここでリタイアします」と告げる。
     今まで一度も感じなかった空気の冷たさが体の芯まで届き、ガタカダ震えがくる。スタッフの方が、石油ストーブを足下まで寄せ、毛布で身体を覆ってくれる。(ああ、情けないなあ)という後悔の念が押し寄せる。
     「せっかくこんなに世話してもらってるのに、不甲斐ないです」と言う。
     「163kmも走ってきたんでしょ。大したもんだよ」と慰めてくれる。「また来ればいいよ」「ここでエイドやってあげるから」。ううう、すみません。
     ぼくが最終ランナーだと思いこんでいたのに、エイドには続々と後続ランナーが入ってくる。
     顔見知りのランナーに「あれ、やめちゃうんですか。やめなくていいのに」と言われる。
     「はい、もうキロ7分で走れる脚なんてありません」と答える。「それより、今からでも白川郷の関門に間に合うんですか」と聞き返す。
     「わからないけど、きっと大丈夫なんじゃない」とケロッとしている。
     何人かのランナーと、同じような会話をする。誰もが自分のゴールを、完走を信じて疑っていないことに驚く。制限時間ギリギリなのに。今から標高1000m近い山越えが待っているのに。ここからペースアップできる脚を残したこの強い人たちと、弱々しく毛布にくるまるぼくの間には、乗り越えられない川がある。
     今シーズンは月間600〜700kmを走り、苦手なスピード練習もやったのにさ。「身体にいい」とテレビや雑誌やネットで耳にしたサプリメント、飲みに飲んで10種類も常用してるのにさ。玄米に鶏ムネ肉に不飽和脂肪酸オイルにと、一流アスリートみたいな食事してきたのにさ。走れば走るほど弱くなってる気がするさ。
     「僕には明るい未来が見えません!」がリフレインする。誰のセリフだったっけ。ああ、アレだ。新日本プロレスの混乱期に、札幌大会のリング上で若手のリーダー格だったプロレスラー鈴木健三が叫んだ言葉だな。あのとき師であるアントニオ猪木は何と答えたっけ。「テメェで見つけろ」だっけ。そりゃそうだよね。猪木は言葉の天才だね。
     これからどこに走っていくべきか、テメェで見つけるしかねーな。
  • 2014年07月08日バカロードその67 必要とするモノは失われていく
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     マラソンを始めた頃は、スポーツショップに出かけるのが楽しかった。走ること自体もさることながら、ランニングギアを買いそろえていくのが嬉しかった。
     何といってもスポーツショップとは、部活に励む健全青少年たちが集う場所であって、彼らが憧れるマイケル・ジョーダンやデルピエロやサンプラスの等身大パネルが燦然と輝くファンタジーな空間。そしてスポーツ競技とは、選び抜かれし肉体エリートたちがテレビ画面の中で覇を競いあうもの。そんなきらびやかな場と、老成の道を歩むばかりのわが後期高齢人生がクロスするはずなどなかった。
     だが流行事とは恐ろしい。マラソンブームは、出不精なメタボ中年をスポーツショップに誘うほどの夢うつつな幻想を抱かせた。小学生の頃、野球のグローブを買うために初めて足を踏み入れたスポーツ店の神々しさと、専門用品を自分が探しているのだという大人の階段を一段登った感。30余年の時を経て、その陶酔に再び浸れるとは。
    やがてビギナーランナーが誰でも通る道・・・走るたびに自己ベスト更新をし、自分の内に潜む恐るべき可能性に気づき、有頂天な時を迎える。フルマラソンに6時間かかっていた頃には雲上の人しか走れないと思っていたサブフォーを成し遂げ、3時間30分を切り始めてからは、「いよいよ自分はアスリートのはしくれ」「サブスリー達成したらお次は別府だ福岡だ」と夢は右上がりバブル状態、打ち上げ花火は大輪の花をボンボン咲かせた。
     スポーツショップのシューズコーナーといえば、目標タイム別にシューズがディスプレイされている。去年まで履いていた初心者向けでブ厚いソールのが恐ろしく鈍重に感じられ、「フル3時間以内」の棚にあるミズノ・ウェーブエキデン、アシックス・ソーティマジックなどを手に取っては、ああついに箱根の選手と同じ靴を履くまでになったかと鼻の奥をツンとさせる。
     だが、通路を近づいてくるショップスタッフが「そちらは3時間以内の方向けですが、よろしかったでしょうかぁ?」なんて見下してこようもんなら(そんな失礼な店員さんは存在しませんが)、「やいやい、オレ様はこう見えても走歴2年にしてサブスリーまであと○分まで近づいた中年男にしてはまぁまぁの実力者なのだぞ」なんて言い返してやろうかと緊張のバリアをまとう。店員さんは、ただ後ろを通り過ぎるだけで特に相手はしてくれない。
     タイムの向上とともにウエアやギアは軽量化していく。ランニング専門誌に載っている最新アイテムを入手しては、走る用もないのに全身レース仕様に試着しては、姿鏡に向かって横に後ろにとモデル風ポーズを決め、脂肪が消えたシャープなふくらはぎが後方ランナーから見てどんな風に映るかなどとうっとり想像しては、思春期少女の初デートの朝のようなるんるん気分にひたる。
          □
     何もかもが新鮮に感じられた無邪気なビギナー期を経ると、ランニングに対する姿勢や考え方が職人化していく。
     大型スポーツ量販店のポロシャツを着た若いスタッフよりも、明らかに自分の方が知識量でも経験値においても上まわりはじめる。「この前はじめてフルマラソン完走できたんですぅ〜」みたいな初々しい女子店員さんが現れると、「いずれはウルトラマラソンにも挑戦してみてはどうだいグフフ」などとさり気なく自分が長距離やってることを匂わせる。要するに「きゃー!フルでもすごいのに、100キロなんてカッコよくないですかぁ〜」などとヤングな女子に見つめられたい助平イズムを全開にする。
     ウエア&ギアはいよいよ最高機能を追求し、たかだかマラソン1本走るのに1万円を超える高額な機能性タイツをぽいぽいっと買うのも当然といった心境に到る。速く走るためにはどのような投資も惜しまない。だってオレ様はプロだから(プロではない)。一方、ゼェゼェゲェゲェ走ってもタイムは一向に伸びないどん詰まり地帯にさしかかっており、実力のなさを中高年マネーの力でこじ開けようとする卑しさは隠しきれない。
     当時ぼくは、アパレルメーカーWの膝上丈の機能性タイツ(筋力サポートしてくれるやつね)を愛用していたのだが、ある日ショップ内でどれだけ探しても見あたらない。足首まであるロングタイツは何百本と展示されていて、各社がトレンドはそこにあり!と判断したのは明白だが、膝上丈はどこに消えてしまったんだ?
     店員さんを呼びつけ早速メーカーに確認をとらせると、結果は「今年からロング丈だけになったみたいですね」。おいおーい!過去に7枚も購入したこのワシ、つまり約10万円もの大金を膝上丈タイツに投じたロイヤルなお客様であるこのワシに1本の連絡もなしに廃盤かよ。土下座せんかい、責任者出さんかい、と店頭でクレームの嵐を巻き起こすことはなく、「あ、そうなん。どうもありがとう・・・」と寂しくお店をあとにしたのだった。
     ランニングフォームが悪いのか、敏感肌なのか、ぼくは股ズレが悪化するタチだ。内股の皮膚が7センチ四方ほど消失し、ピンク色の生肉が剥き出しになったときは皮が再生するまで何カ月もかかった。あの地獄のヒリヒリは耐え難い。どうにかして股ズレにならないよう、あらゆるタイプのパンツ、タイツを試し、試すたびに血まみれになりつつも、ついにたどり着いたのがメーカーWの膝上丈タイツだったのだ。
     しかし製造中止ではどうしようもない。わざわざメーカー本社に電話して、倉庫に残っている在庫を全部押さえてください、なんて交渉できる剛胆さもない。ぼくは謙虚なのである。声なき消費者は、さみしくお店を立ち去るしかない。以来、機能性タイツは買わなくなってしまった。
        □
     「東京マラソン」以前の市民マラソン大会といえば、多くの参加者がランパン・ランシャツ、女性ランナーならブルマかショートパンツで走っていた。ロングタイツやランスカの登場で、風景はファッショナブルに明るく一変した。それはとても良いことだ。女性のスタンダードウエアが今でもブルマのままなら、マラソンブームは来てなかったね。
     一方、昔カタギの市民ランナーでランパン・ランシャツ派は受難の時代を迎えている。今やスポーツショップ内にランパンがぶら下がってるコーナーを見つけるのは至難のわざ。ようやく発見しても明らかに売れ残り品でSSサイズとOサイズしかなかったりジャイアント馬場風の真っ赤パンツしかない。
     もはや自分好みのランパンを入手しようと思えば、大学や高校の陸上部みたいに部員全員のを業者さんにまとめ発注でもしない限り、手に入らない。チームウエアを共に発注するラン友もおらず、孤独に走る市民ランナーじゃまず無理だ。
     ランニングソックスの愛用品も消えた。アーチサポートタイプで底に滑り止めがついてる有名メーカーMのを長年使っていたが、やっぱし製造中止になった。流血しないパンツ探しとともに靴下探しの漂流がはじまり、2年間ものしっくり来ない時期を経てやっと佐賀県の工場で作っている「イイダ靴下」という会社のソックスが良いな〜とたどり着いた。だが安心していると、いつまた廃盤の憂き目にあうかわからないので油断ならない。
     さらにシューズは・・・と語り始めるとキリがない。絶版シューズの思い出語りなど何の役にも立たないのでカットカット。斬新なコンセプトのシューズは1〜2シーズンで消滅してしまう。ニューバランス製で一番のお気に入りだったジャーニーランナー向けシューズには二度と出会えない。競技人口少なすぎるのね。
     幾度ものメーカーの裏切り(ぼくからの一方的な思いに対する裏切り)と精神的ダメージを経て達した結論は、「ロングセラー製品しか買わない」である。
     100キロまでの大会はアシックスターサー、100キロ超えたらミズノウェーブエアロ。王道すぎてあれこれ悩む余地がない。両方とも無駄な機能がなく、目的に徹している。バージョンアップの度に走りやすく変わる。みんなが履いてるから話題にも加わりやすい。ターサーなんて30年も改訂を重ねている長寿靴だから、ぼくが生きている間に無くなることはないだろう。ひと安心である。
          □
     さて、凡人ランナーの行く末は停滞期から下降期へと向かう。どんなに頑張っても過去に出した記録に追いつきそうにない、よく昔はこんなペースで走れたものだ、あの頃の自分って頑張り屋さんだったんだな・・・と自己ベストタイムが刻まれた完走賞を肴に、呑めない酒に酔いどれる。
     今や、身につけているものもすっかり変わり果てた。
     ウエアを選ぶ基準も様変わりした。かつては、
    ・1グラムでも軽量なもの
    ・熱を放散しやすく、汗切れのよいもの
    ・ストライド、腕ふりを阻害しないカットの深いもの
    ・戦闘的な気分にさせる色づかい
     などであった。
     今はどうだろう。
    ・ゴール会場から自宅までの移動中に異臭を放たないもの
    ・大会参加賞でもらったもの
    ・走ってる途中で捨てても心残りないもの
     である。アームウォーマーや手袋は、百均ショップやドラッグストアのワゴンで売ってる婦人用のを使用。1着100円程度だが、保温性はスポーツ用の2000円のより優れている。ただし汗を吸うとぐっしょり重くなるが、さすればエイドのゴミ箱に捨てる。サイケな配色は気恥ずかしいが、他人が何着て走ってようと気にする人などいない。
     大会記念品のTシャツ、ソックス、帽子はフル活用する。粋がってオシャレウエアで走っていた頃に押し入れにため込んだのが100着はある。一生かけても着つぶせない量だ。大会記念品でショートパンツをくれたことは一度もない(下さい!)ので、パンツだけは自前用意する。内側の縫い目を紙ヤスリで研磨したり、裏表を逆にはいて縫い目の突起物ゼロにすれば、股間に事故は起こらないと経験も積んだので、タンスの奥から古いパンツを引っ張り出しては穴が空くまではいている。
     かつて愛用した相棒ギアのほとんどはスポーツショップから姿を消してしまった。スポーツ用品だけじゃないよね。気がつくと、クルマもバイクも音楽も雑誌も自分好みのモノは過去のものだ。昔を懐古する情緒性もないから、欲しいモノは何もないという霞食って生きる状態。世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり。一休宗純の境地は近いか?
     
  • 2014年07月08日バカロードその68 ポジティブシンキングは止めなさい!
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     採用面接の季節は、不思議な気持ちになる。
     みず知らずの学生さんたち。どこの馬の骨がいかなる魂胆でやっているかもわからない会社にやってきては、ここで働きたいと言う。ぼくがどんな怪しい信仰をもち、空中浮遊ができたり、縛られたり猿ぐつわされるのが大好きな人かもしれないのに、働きたいと言ってくれる。
     ありがたいことである。
     アカの他人様が20余年もの間、手塩にかけて育てた大事なお子さんである。なるべく不幸な目にはあわせたくない。だが残念なことにわが社は、毎日17時に終業しアフターファイブを満喫できる職場ではない。東京は神田神保町界隈の雑居ビルの片隅あたりに入居する、所帯ひもじい零細出版社の経営環境と大差ない。鬼ヅラ上司の罵声を浴びながら、いつ果てるとも知らぬ仕事の山に追われ、風呂に入る時間もなく、すえた体臭の臭いが充満する事務所で真っ白な灰となっていく、ジョ〜! 今どきの社員にやさしい会社とは違うのである。
     面接タイムは、そのような劣悪環境について、ぼくから一方的に説明する時間帯に占められる。自己卑下説明会である。
     ところが学生さんたら「そんなに正直に何でも話してくれる会社って今までなかったです!面白いですね!」などと目を輝かせはじめている。
     おい君、ポジティブシンキングは止めなさい! ぼくは冗談で言っているのではないのだよ。あえて自分を貶めて親しみやすい雰囲気を作ろうなんて人心掌握術はないのだよ。夢見がちな君の誤解を解き、現実というものをお知らせするために、全速力でプレゼンしてるんだ。
            □
     夢見るうるつや就職活動生と、お肌カサカサの枯れ果てた中年社会人の会話は、いささかコントのような情景を描くきらいがある。学生さんの期待する解答を述べてあげられないへそ曲がりな自分を憎しむ。地球上で一番たくさんのありがとうを集める会社にしたい、くらいの大見得を一度くらいは若者の前で切ってもみたくはあるが、後の説明がつづかないのでやめておく。
     そして春になると、憂鬱でこっけいな質疑応答の応酬な日々がつづくのである。こんな感じで。

    Q 新人研修はどんな内容ですか?
    A 研修ありません。仕事は現場で覚えてもらいやす。

    Q 休みはちゃんと取れますか?
    A 仕事をパッパと終わらせた人は休めます。

    Q 社訓ってありますか?
    A 社内は貼り紙禁止なので、ないです。

    Q 会議は多いですか?
    A よほどの事件がない限りしません。

    Q どんな福利厚生がありますか。
    A カップ麺、お菓子、ジュース、食べ放題&飲み放題。

    Q 儲かっていますか。
    A あまり・・・。

    Q 新人歓迎会はありますか。
    A 歓迎してもらえるという前提から間違えています。

    Q 社員はどんな人が多いんですか?
    A 体育会系もしくはヲタクもしくはギャル。

    Q 仕事でいちばん大切なことは何ですか?
    A スピード。

    Q 仕事のどんな点が楽しいですか?
    A ごめん。楽しさは求めてない

    Q どんな社会貢献や地域貢献をしていますか?
    A ごめん。自分たちが生きていくだけでカツカツ。
     
    Q 就職とは何ですか?
    A 自分以外の誰かが作った世界に入ると積極的選択。

    Q 会社って何ですか?
    A カラ箱。

    Q 東京の出版社も受けているのですが・・・。
    A 東京にしとき。悪いこと言わんから。

    Q 将来は文章を書いて生計を立てたいと思っているのですが。
    A (ううっ、困った人が来た)

    Q カメラで風景や友達の表情を撮るのが好きなんですが。
    A (ううっ、また困った人が来た)

    Q 私の思いを雑誌を使って発信したいのですが。
    A ミュージシャンか詩人になってください。

    Q 私が良いと思う徳島の情報を世界中に届けたいのですが。
    A あなたのブログでお願いします。

    Q コミュ障なんですが大丈夫ですか?
    A 初対面から弁舌豊かな人物の方が怪しいです。

    Q 徳島なんて田舎で月刊誌を3誌出している理由は何ですか?
    A 本当は30誌くらい出したいのに商才ないせいで3誌で止まってる段階。

    Q やっぱり好きなことを職業にすべきですか?
    A デスメタルが好きでも地獄の使者にならなくていいし、大山倍達が好きでも猛牛と戦わなくても構わないと思われる。

    Q インターンシップはできますか?
    A 給料払わずに人に命令するのが嫌なのでアルバイトなら受けつけます。

    Q 会社の近くにコンビニはありますか?
    A 自分で探してください。

    Q 大学中退ですが採用試験受けられますか?
    A 義務教育のお務めを終えているなら。

    Q 取材なんて私にできるんでしょうか?
    A 目の前の人に質問30コできたらイケる。

    Q 運転に自信がなくて、遠出とかはできそうにないですが、大丈夫ですか?
    A 無理。

    Q 仕事のストレスはどうやって解消されていますか?
    A サウナ→水風呂→サウナ→水風呂→サウナ→rev.

    Q 小さい会社ならではのいい面って何ですか?
    A テメェ面と向かって失礼だろ。

    Q やっぱり深夜にソファで仮眠するような過酷労働ですか。
    A 深夜にソファで寝られません。「寝るな仕事やれ」と叩き起こされます。

    Q やっぱり地元愛が強い社員さんが多いんですか?
    A それほどでも・・・。

    Q 愛社精神を求められますか?
    A 愛される資格はありません。

    Q 年間どれくらいの量の紙を使用していますか。
    A 約50万キログラム。500トンです。

    Q 再生紙は使っていますか。
    A 使いませんよ。

    Q 地球環境についてどんな姿勢でいらっしゃいますか?
    A それ出版社に聞くぅ〜?

    Q 紙を使った出版業という仕事に将来はあるのでしょうか?
    A そんな千里眼あったらいいね。

    Q 「雑誌が売れなくなった」というニュースをよく見ますがどう思いますか。
    A 出版界全体を憂う立場にはないのです。何も感じません。

    Q 上下関係は厳しいんですか?
    A 反論しなければ怒られるというドSかドMかわからない奇習あり。

    Q 飲みニケーションは盛んですか?
    A 一人酒専門です。

    Q 御社に東京五輪決定の影響はありますか?
    A いちおうトレーニングはじめました。

    Q 社内サークルはありますか?
    A 100キロマラソン部。

    Q 内定式ってあるんですか?
    A そんなんやってる暇ないのでしません。

    Q OB・OG訪問可能ですか。
    A 暇をもてあましている人はいません。

    Q ブラック企業ですか?
    A マルコムX伝記を読みなはれ。

    Q 採用試験が1日だけですが、それでちゃんと人物を見分けられる?
    A 20年連れ添った夫婦でも「アナタがそんな人とは知らなかった」別れたりするよ。

    Q 失礼ながら御社のホームページは貧弱では・・・
    A あ、これね。お金かけたくないのよ。

    Q 保養施設はありますか?
    A 我々は中小企業の「小」の部類に在るんだせ!

    Q 今年の社員旅行はどこに行きますか?
    A 誰一人として行き先知らずのままバスで護送されるらしい。

    Q 仕事のやりがいってありますか。
    A 10年やった後でじんわり感じるものです。

    Q 編集長に必要な能力は?
    A 毒舌と美貌。

    Q 4月から入社しなくてもいいんですか?
    A いつでもどうぞ。むろん労働開始するまでは給料ナシ。

    Q デザイナー志望ですがどんな試験がありますか。
    A ちょちょいと手際を見せてください。それで大体わかります。

    Q 徳島県出身者ではないのですが、入社後何かと苦労しませんか?
    A その気になるならチベットでもコンゴでも働けますよ。何事もあなたしだい。

    Q わが国の少子化について危機感は?
    A 1億2000万人って戦後に増えすぎただけよ。4〜5000万人が程良い。

    Q ソーシャルメディアについてどう思いますか。
    A 専制君主国における市民革命には大いなる武器、OECD加盟国レベルでは無限大の浪費。

    Q 仕事のやりがいって何ですか。
    A 何かな。人によって違いすぎて、まとめるの困難です。

    Q 入社前に勉強しておくべきことはありますか。
    A 文章を猛スピードで書けるようにしておいてください。400字なら30分目安で。

    Q 社風は温かいですか。
    A 粉雪が舞っています。

    Q どんな人物はNGですか。
    A リアルで寡黙、ネットは雄弁。
      会議で寡黙、化粧室は雄弁。
      職場で寡黙、飲み屋は雄弁。

    Q ボランティア経験は評価されますか。
    A どちらかと言うとマイナス。

    Q どうしてマイナスなのですか。ふつうはプラスでは。
    A 商売はボランティアと真反対の位置にあるから、かな。

    Q アルバイト経験は評価されますか。
    A プラスにもマイナスにもなりません。

    Q 本当の採用基準はなんですか?
    A 陽気さ、かな。

    Q ぼくはバカなんですが、採用してもらえますか?
    A 陽気なら。

    Q 社員間の絆を高めるために、何か取り組みはされていますか。
    A 絆は求めていません。

    Q 仕事の楽しい点を教えてください。
    A 似たような質問多いけど・・・仕事に楽しさ求めてない。

    Q 徳島県以外の地域ではビジネス展開しないのですか?
    A 方言が通じないと不安で不安で。

    Q 地方で出版を続けるのは大変なのでは。
    A 競争少ないので大変ではない。

    Q 東京に進出する気はないですか。
    A 雑誌が山のようにある場所より、ない場所でやりたく思います。

    Q 雑誌を作るうえで大事なことはなんですか。
    A 仕事と遊びの混同。

     どんな質問に対してもズバッと魅力的な返事ができる大人になりたい。若者の情熱に火をともすファイティング・スピリッツ溢れるお話がしたい。この人物は既成社会の枠組みや地球の未来を変えてしまう大人物なのではないかと思われたい。少年のような無垢な想いを胸に、無謀な事にたった一人で立ち向かっている素敵なおじさまかも、と憧れられたい。イタリア製の生地で仕立てたスーツを嫌みなく着こなし、ワインの知識をサラッと披露し、首相や大統領につながる女性人脈をベッドで持っていたい。さあ、今宵はレンタルマンガ屋さんに寄って「会長島耕作」でも熟読するとすっか!
  • 2014年07月08日バカロードその71 岬の向こうの岬のそのまた向こうの岬へと〜土佐乃国横断遠足242km・前半戦〜
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

    JR高知駅に着くと、日射しがシャワーのように降り注いでいた。目を細めて空を見上げると、光の七色の粒が散乱している。5月だというのに真夏みたいだ。
     駅前の広場に、大会が用意してくれたマイクロバスがエンジンをかけて待っている。参加ランナーは20人強と少ないので、行列ができるわけでもない。乗り込んだ車中は、マラソンバスというより、どこかの宴会場に向かう送迎バス的なくだけた空気である。
     大会前夜に宿泊する「国立室戸青少年自然の家」までは80kmほどの距離。顔見知りの選手もそうでない人も、わきあいあいとした雰囲気でもって、海辺の道を室戸めざして進んでいく。
     海辺の街道沿いには、古いタイプの商店や食堂が軒を連ねている。通りがかったあちらこちらの街角に、大きな魚の模型が飾りつけられている。魚の種類は街によって違う。カツオやらクジラやら鮎やら。漁港や河川によって地域経済を支える特産魚が違うのだろう。
     やがて国道55号線を山側に折れ、くねくねの山道にはいる。どんだけ人里離れた山奥に連れて行かれるのかと不安になる頃、青少年自然の家が木立の合間に現れる。コンクリート造りの巨大な建造物はアルカトラズ刑務所のような迫力で、「囚われの身」との言葉が頭をよぎる。そう、ここから逃げられはしないのだ。アルカトラズ、もちろん見たことないけど。
     荷をほどく間もなく競技説明会がはじまる。DNSを除くと選手は21人。受付を終えるのに10分もかからない。大会を企画した四万十町、大正・十和スポーツクラブの田辺さんから、走行時の注意点とコースの概要が説明される。
     「第1回 土佐乃国横断遠足」は総距離242kmを60時間制限で行われる。出発は、高知県室戸岬の先端にある中岡慎太郎像の前。中岡は、言わずと知れた維新の志士。陸援隊隊長である。スタートの中岡像、82km地点の高知市桂浜の坂本龍馬像を経由して、ゴール地点である足摺岬のジョン万次郎像へと、明治維新の立役者たちの彫像への到達の時を、ランナーたちは今か今かと恋い焦がれる趣向となっている。
     田辺さんの口調から、コース上の警察署や県警本部との丁寧な折衝を重ねたことが伝わる。一般に、100kmを超える長距離の大会は「レース」ではなく、市民が歩け歩け大会をやっているという主旨というかタテマエを貫く。車道を走ってよいわけではなく、選手はイチ歩行者として歩道を利用する。信号や横断歩道をふだん以上に実直に守る。交通ルール厳守の善良なる市民として立ち居振る舞う。
     とはいえ警察の立場からすれば、ゼッケンとヘッドランプ着けて歩道を走っている集団に、知らんぷりもできない。歩行者としての万全の安全対策を求める。当大会では、日没後は両足首に反射材テープを巻き、所在確認のために携帯電話や充電バッテリーの所持が義務づけられている。
     競技説明会につづいて青少年自然の家のオリエンテーションがあり、施設利用ルールがまとめられたビデオ映像が流される。そう、本来ここは青少年たちが自主自立の精神を養う場所。いかに我々が、いやぼくが人生に疲れ切った中高年であろうと、敷き布団を片付ける際は三つ折りに、掛け布団は四ツ折りにしなくてはならないのだ。
     夕食はバイキング形式で、炊き込みごはんやパスタなど炭水化物豊富でありがたや。コーヒーゼリーのデザートまでついて1泊2食つき2000円也とは涙ホロリである。
     広い食事会場は、赤黒く日焼けした季節はずれのお肌な割に、肉体労働者とも思えぬ痩せ身の中高年たち20余名の周りを、数百名の制服姿の小中学生が取り囲むという見たことのない図式が展開されている。現代の初等教育が抱える諸問題はさまざまにメディアで喧伝されるが、ここ高知においては何の問題もなさそうだ。小学生たちはけたたましく賑やか、おかわり止まらぬ大食らいっぷりで、赤黒い顔したオジサンたちをからかって遊んでいる。うむ、日本の未来は明るいですよ龍馬どの。
         □
     大会当日の朝は6時に起床。昨日教えられたとおりに布団を不器用に畳み、床に掃除機をかけるふりをする。100kmあたりまでのカロリー分を補給するためにバイキング朝食を腹一杯むさぼり喰らう。小学生たちは今朝も元気でやかましい。
     そして再びのほほんムードなバスに乗り込み室戸岬へ。スタート時間の30分前には中岡慎太郎像前に到着。選手の点呼とともに、1人ひとり大会指定の持ち物チェックが行われる。しゃちこばった開会セレモニーはなく、慎太郎像の前で記念撮影を行ったら、静かに242kmの旅が幕を開けた。
     ウエーブスタートながら、21人を3班に分け間隔は30秒おきなので、1班と3班の時間差は1分のみ。辺りを覆っていた松林の樹林帯を抜けると、突き抜けるような高い空と群青の太平洋がひらける。左にゆるく湾曲する土佐湾。四国南岸の緑色の陸地が屏風のように連なる。澄んだ空気の奥に、折り重なって海へなだれ込む岬、その向こうにもまた岬。薄い霞みをかぶった最奥の岬は途方もなく遠いが、よもや足摺のはずはないだろう。ゴールは目に見えるどの岬よりも遠く、そんな地の果てまで自分の脚だけで到達できる可能性を秘めているのだととのロマンにうっとりする。
     自己陶酔中のぼくを、コンクリートの防波堤を歩くよく肥えたトラ猫が何だコイツはと睨みをきかせている。丸石がごろごろ転がる海岸を、海藻採りのオジイチャンやオバアチャンが、白波叩きつける荒れ気味の海に向かって突撃してゆく。ランナーたちは、これからはじまる筋書きなきドラマに浮き立つ心を抑え、朗らかに会話を交わしている。
     5kmも進めば単独走になる。この2カ月で100km超の大会は4本目。脚は重くて引きずり気味だし、足の裏は麻痺していて着地しにくい。はっきり言ってどうしようもない状況なのだが、「どうしようもなくても、どうにかする」ことも人生大事なんだよを走りで証明するのである、との即席テーマを思いつく。はい、あくまで思いつきです。
     大会の公式エイドは27km、60km、82km、153kmの4カ所と限られているが、大会スタッフによる巡回車や、知人ランナーを応援する個人の方たちが、ひんぱんに冷たい飲み物を提供してくれる。街道沿いには自動販売機もたくさんある。重いウォーターボトルを持たずにすむのは楽だ。
     と、水分の補給は十分なれど、50kmも走れば毎度のごとくゲロ吐きがはじまる。もはや年中行事すぎて悲しみもなく、呆れも通り越して、心微動だにせず。義務的に草むらに吐瀉物を放出しては、淡々と走る。
     走っても走っても強さを増すことなく、より弱くなっていく。長距離ランナーとして最も重要な何かを欠いていることに薄々気づきつつ、競技者として高みを目指すでもなく、ファンランナーとして走りを楽しむ余裕もなく、吐き気こみあげる青白い顔で、壊れた機械仕掛けの人形のようにギクシャク走る。
     浦戸湾に架かる浦戸大橋にさしかかる頃に日は暮れヘッドランプを装着。海面高50mの長大橋への登り坂でやけに冷たい汗が背筋をつたい、全身の鳥肌がゾクゾク収まらない。後で知ったのだが、ここは高知市民なら誰もが知る最強心霊スポットだとか。前もって知ってなくて良かった〜。
     スタートから82km、坂本龍馬像のたもとの桂浜エイドでは、心霊の影響もあったかなかったか、かすれ声しか出ないほど消耗しきっていた。
     椅子に座ると腰砕けになり身体が勝手に右に傾いていく。仕方なくウレタンマットに寝ころぶ。仰ぎ見る夜空と森の木々の梢が目玉とともにぐるぐる回る。近くに水族館があるのかオットセイやらアシカの鳴き声がオウッオウッと森にこだましている。おう、ここは現実世界か黄泉の国か。
     大の字に潰れたぼくの脇に、エイドスタッフの方がクーラボックスで即席のテーブルをつくってくれ、カツオのタタキやそうめん汁などの料理を並べてくれる。ありがたく頂こうとするのだが、唾液が枯れていて、いくら噛んでもカツオのタタキが喉に落ちてかない。お茶で流し込む。そんな食べ方はもったいなく、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。スタッフの親切に心から「美味しいです」と返したいのに、そうならない。
     20分ほどひっくり返っていたが、奇跡の復活劇は起こる予兆もなく、のろのろとエイドを後にする。歩いてでも前に進むしかないよね。寝ていてもゴールには1ミリも近づかない。
            □
     高知市に隣接する土佐市街の入口がちょうど100kmにあたる。はや深夜12時、ここまで15時間もかかっている。市街地を抜けると渓流音のする森林帯にさしかかり、細かな登り下りが繰り返される。この大会、高低図をながめると全般にフラットな様子だが、実際は100kmからゴールの242kmまで、コースの9割方が坂道である。いちばん標高のある七子峠で289mだから、大したことないよと油断していたらどっこいである。
     夜中じゅう、大会車両がコースを行き来しては、選手の健康チェックに余念がない。100km超級の大会といえば自己責任原則が当たり前。大会スタッフがここまで選手の面倒を見てくれるなんてね、慣れてなくて何となく気恥ずかしい。
     南国高知の夜は寒さに凍えるほどではないが、道ばたで無防備に眠りに落ちられるほどには暖かくない。徹夜で歩きつづけ、夜明け前に、須崎市街の出口にある公衆トイレの便座に腰掛けたまま5分ほど眠る。さて出発という段になって、太腿やふくらはぎの裏がびっしょり濡れているのに気がづく。何だこりゃ? 腰にぶら下げていた帽子やウエストバックもズブ濡れだ。眠りこけていた時に、便器の水に荷物がどっぷり浸かっているのに気づかなかったのだ。全荷物が水びたし、ズボンも、シューズもトイレのたまり水にまみれ、哀れな気分にひたる。
     どんな眠くても朝日を浴びれば意識も覚醒するものだ。夜明けには少しは走れだせればいいなと淡い期待を抱いていたが、足の裏の痛みが尋常ではなく、歩きに終始する。踏みしめる地面は針の山のごとし。靴下を脱げば灼熱の土踏まずはパンパンに腫れている。走るどころか、続けて歩けるのは3kmが限界。30分おきに靴下を脱ぎ、自販機で買った冷たいドリンクを押し当て、「痛いのは気のせい」とぶつぶつ唱える。
     難所の七子峠を越えると、山あいに開けた高台の水田地帯にさしかかる。冷涼な山水がしぶきをあげて水路を流れる。景色の奥へとゆるやかな勾配で階段状に連なる水田。満々と湛えた水に、空の青が映り込む。午前の太陽が水田にキラキラ反射し、そよ風がさざ波をつくる。澄んだ水鏡のうえで農夫たちが作業をしている。そんな田園風景のなかの一本道を、今大会唯一のドロップバッグを受け取れる153km地点の大エイド「クラインガルテン四万十」めざして走る。走る・・・うぬ、知らぬ間に走れているではないか。風に吹かれて、きらめく光と水の台地を、草原を駆け抜ける少女のように軽快な足どりでウキウキと、オホホホホ。  
    (後半戦につづく)
  • 2014年07月08日バカロードその66 生きるための不必要について
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     そこそこの歳になれば多くの人が経験することだけど、癌告知を受けた。腸壁にできた悪性腫瘍は5段階あるステージの2段階め。切り取る範囲はギリ20mmに収まるから、開腹手術はしなくてもいいという。
     内視鏡手術で取ってみて、組織をタテヨコに細かく刻んで、腸壁の外とかリンパ節まで潜り込んでないか浸潤の深さを確かめるとか・・・というレベルなので余命×年なんて大それた話でもないんだが、癌ホルダーになって気づいたことがある。意外にも自分は死への恐怖心がないってこと。歯医者さんに「今日は歯のお掃除をしましょう」と言われただけで動悸が激しくなり、血圧が上がりすぎて意識が遠のくほどビビリ症な割に、今や死を恐れるどころか興味しんしんでワクワクが止まらないから得体が知れない。
     片道分の燃料だけ積んだプロペラ機のコクピットで敬礼し、青空へと旅立つ青年兵の最期ならば、生命の持つ価値も最大限に高まっているだろうが、こちとら平和日本の凡百たる人生の途上にあるオジサン。よどみに浮かぶうたかたのような無情な存在である。死なんてどのみち万人に訪れるし、1人だけ逃げ切れるはずもないから抵抗する気は起こらない。仮に死期というものがあるのなら、予定された期日をただ淡々と受け入れ、日数を逆算してやるべきことをやればよい、との安らいだ気持ちにすらなる。
     ステージ3以降ともなれば大手術も必要だろうし、抗癌剤治療によって嘔吐したり脱毛したり、全身のあちこちに転移して痛かったり苦しかったりと、今置かれた状況とは一変してしまうだろうから、あくまで死神の姿が見え隠れしてない現段階での心情にすぎないんだけど。
     昔から他人より人生が短く終わる心配よりも、長く生きてしまったときの心配ばかりしている。性格的に他人の温情に触れるのが嫌いで、何か施しを受けてもありがとうのひと言も素直に返せないひねくれた性格だから、余計に老後と呼ばれる年齢まで生存していることを恐れる。ヘルパーさんにおっぱいのひと揉みもサービスせいよとセクハラ戯言の速射砲を浴びせまくり、デイサービスセンターで問題ジジイ扱いされる余生しか想像できない。
     長く生きてこんなことやりたい、あんなことも経験したいという欲がない。商売の都合もあって、半年くらい先までの予定は考える習慣はあるけど、そこから先はいつも空白だ。スティーブ・ジョブスの述べるハングリー精神は野犬並みにあり、愚直さは社会適合できないほど備えているのだが、未来への展望と意欲が決定的にない。
     このような人間が、日本人の平均寿命まで80年生きてしまったなら、時間をもてあましすぎる。あと40年近くものあいだ暇をつぶす方法が見あたらない。
                 □
     西洋医学が普及する前、統計の残る明治後期から1925年あたりまで、日本人の平均寿命は42〜44歳であった。ずいぶん若くして天寿が訪れるものだと平成人なら思うだろうが、これとて人類が共助社会を作り上げた後の話であり、縄文人の遺骨を解析すると10代後半〜30歳で死を迎えた事例が多数を占める。
     哺乳類の寿命は体重の1/4乗に比例する、と生物学者の本川達雄は述べている。成体となった動物は、その体重と心拍数に反比例の関係があり、体重が重いほど脈を打つペースはゆっくりしている。そして、哺乳類は成体の大小にかかわらず、心臓がおよそ15億回脈動すると自然寿命に達するとしている。その論で算すると人間の自然寿命は26歳だという。
     互助システムも医療もない時代には、自然界の他の動物と等しく、病に罹れば死に、怪我をすれば死んだ。それが生物としての自然の姿なのだ。あらゆる動物は天寿の時期を与えられるのに、人間だけが特異ケースとして意図的に寿命を長くすることに成功してきた。その結果が平均寿命80年である。
                □
     人間の生命の維持は、たくさんの殺生のうえに成り立つ。厳格なベジタリアンでない限り、動物や魚の肉、卵を日々摂取する。1日3食、そのうち2食で捕食をすれば、単純に1日2個体と換算しても80年間で6万匹の動物の生命の犠牲を強いている。つまり1人の人間を生かすためには6万匹の生命を奪わねばならない。しらす丼やいくら丼を食えば1食につき1000倍増に換算すべきだけどね。
     それは食物連鎖の普遍的な姿であり、地球上のあらゆる動物が行っている営みであって、特別に人間だけが虐殺王だと卑下する必要はない。アリクイは1日に3万匹の蟻を食わないと生きてられないし、シロナガスクジラは1日に400万匹のオキアミを口ひげで濾し取って養分にしながら、あの図体に成長する。
     しかし一個人に戻り、わが生命に他の動物6万余匹分の生命と釣り合いの取れるほどの価値があるのかと自問すれば、とてもなさそうだとの結論に至る。だから積極的には肉を食べない。動物愛護の信念から生じた考えではないから、ダブルクオーターパウンターも食うし、ミミガーもかじるのだが、肉食は週に1回くらいにしておく。生態系になんの影響も及ばさないけどね。
                □
     荷物は軽量、身軽がいい。
     外を出歩くときはクレジットカード1枚ポケットに忍ばせてたら万事こと足りる。電子マネー決済と交通系の機能がついてればよい。日常生活でもジャーニーランの最中でも、こいつと保険証があれば、生命維持に必要な物資とサービスの98%は調達できる。他人と四六時中つながっている必要については、いくら頭をひねっても思いつかないのでスマホも持たない。Nシステムやら顔認識システムとやらで自分がどこにいるのかを赤の他人に把握されるだけでも嫌なのに、さらに携帯基地局から発信追跡されたりWi-Fi使って位置特定されるのは更にウザい。
     わが国の男性は、若い頃はデイパック、おじさんになるとセカンドバックを携えるのが多数派だが、ぼくはふだんカバンに入れて持ち歩くべきモノが一個も思いつかないのでいつも空身の手ぶらである。
    生きていくのに必要な道具って、広告チラシの裏にリスト書きできる程度のものしかない。ホームレスのおじさんがブルーシートでこさえた住居内に揃えてる生活用具一式があれば、不自由はない。
     何かを収集する癖は子どもの頃からなく、過去の思い出をファイルして時おり回想する感傷的な心も持ち合わせない。流行に無頓着でいられたら20年前の服でも平気で着られるし、いつ大地震が来るかと日々案じなければ食料を備蓄する必要もない。他人によく見られることを願わず、未来の安定を担保しようとしなければ、必要なモノはほぼなくなる。
     今はまだ世捨て人ではないので、バイクやスマホ(固定電話として)を所有しているが、生存に必需なアイテムではない。「職業」から離れた段階で手放すだろう。
    死を迎える頃には、段ボール箱1個分に所有物がまとまっていて、気がついた人に燃えるゴミに出してもらっておしまい、くらいが清々しい。
               □
     春にある「さくら道国際ネイチャーラン」事務局から合格通知が届いた。4度目の応募で初の合格だ。名古屋城から金沢市兼六園までの250kmを36時間制限で走るこの大会は、超長距離ランナーあこがれの大会だ。あこがれるのには理由があって、めったに出場権を手にできないのからである。
     国内選手100人と少々の出場枠は常時有力選手で占められていて、前年にリタイアした人の枠数しか「新人」は参加できない。名うての猛者はめったにリタイアしない。1年にわずか10人出るか出ないかの狭い枠に新参者の実力者が殺到し、過去の実績と持ちタイム上位者から埋まっていく。平凡な過去実績しかないランナーは出る幕がないのである。
     毎年ハードルは上がり続け、今や100kmで8時間台以内、なおかつ萩往還250kmや川の道520kmレベルの大会で上位入賞、あるいはスパルタスロンを33時間台以内で完走、などの実績が必要とも噂される。だから、まずぼくには縁のない大会だと九割五分あきらめつつも、しつこく応募だけはしていた。
     去年、同大会は深夜の山越えエリアにドカ雪が降り、くるぶしまで雪で埋まるほどだった。そのためリタイア数が例年になく増えたという。そんな特殊事情でもなければ、ぼくレベルのランナーには席は回ってこなかっただろう。さくら道国際ネイチャーランの出場権は、250kmを主戦場とするランナーにはまさにプラチナチケットである。1度リタイアすれば翌年と翌々年の出場権がなくなる、とも言われている(主催者の公式見解じゃないですが)。
     3年先に250kmも走れる身体をキープできているかは相当怪しい。だから今回に賭けよう。 半年分の視野しかないぼくにはうってつけの獲物が鼻先にぶら下がったのである。ショートスパンで人生を生きよう。
  • 2014年07月08日バカロードその69 右の道と左の道。この道をゆかば、どうにでもなるさ!
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     さあさ皆さんジャーニーランの季節到来ですよ。春の日ざしは荷物を軽くし、凍える野宿の夜からぼくたちを解き放ってくれます。冬枯れの森を季節の花々が週替わりで彩色しはじめます。
     側道わきの山肌では、誰かが据えつけた建材用パイプ口に雪溶け水が噴き出しています。「あてどなき旅」という言葉が頭から離れません。バックパックに最少限の荷物を詰めこんで、名も知らぬ街や野まで走っていくのです。
     最近は、よほどの山奥に入らない限りコンビニやスーパーがありますから、野宿さえ回避するなら、ほぼ空身で走り旅に出られます。思い立ったらすぐ出発できるよう、バックパックを装備完了状態にしておきたいものです。
     ゆく先定めぬフーテンラン用にぼくが準備している用具はこんなとこです。

    【照明具】
    ハンドランプ(ロードバイクのハンドルバーに取り付けるもの。指にはめて指輪みたいに使うと握力不要で楽ちんなのだ)
    ホタル(背後から迫るクルマ警戒用。大会の参加記念品でもらった派手めのLED点滅の)
    ヘッドランプ(薄暗いのしか持ってないので、夜釣り用のルーメン最強なのに買い換えたい)
    【充電ケーブル】
    ガーミン用、スマホ用
    【薬品】
    鎮痛剤(ロキソニンの大量投下は内科的に危険なので、イヴクイックがほど良い)
    絆創膏(おっぱい用が外れたときの予備として)
    胃腸薬(ガスター10ことH2ブロッカー。市販薬では横綱クラス)
    ワセリン(股間に優しいヴァセリンペトロリュームジェリー100g。持続効果あり)
    【その他】
    ガーミン910XTJ(説明書どおり本当に20時間持つ。重宝してます)
    小さいビニル袋(小銭入れとして、また豪雨時のスマホ防水など用途幅広し)
    安全ピン(1個あれば十分。足のマメをザクザク裂くために)
    現金(最後は金が物を言う。金さえあれば世の中どうにかなる。金がなければ世の中どうにもならない)
    スマホ(特に誰からも連絡ないけどね)
    カード類(健康保険証、電子マネーカード、クレジットカード。カードさえあれば世の中どうにかなる)
    【ふつう持ってそうなのに、持たないもの】
    ハイドレーションパックとか水筒とか(山水か自販機があるってことで)
    雨具(濡れたら濡れたであきらめる)
    着替え(シャツやソックスの替えは、オシャレさを問わなければ山村の古い雑貨店で売ってるので十分)
    地図(適当に走るので)
    コンパス(昼間は太陽の方向、夜は星座の動きで代用する)
    食べ物(最悪お店がずーっと現れなくても、山には果実や木の実がありんす)

     着の身着のままとまではいかないけど、バックパックの総重量は1kg程度に収まります。1kgなら空身とほとんど変わらない。
     荷物にも、行き先にも束縛されない。職場や親戚や檀家やPTAや、あらゆる人間関係から解き放たれて、名刺を持たない無名のフーテンとなる。目的もなく地上を徘徊する、おかしな人物になれる。バス停のベンチで仮眠してたら、お巡りさんの職質も受けることもあるけど、日本人です!と堂々と答えればよい。戸籍票と住民票は間違いなくこの国にある。ぼくたちの自由を抑圧する法はない。
         □
     春うらら。中年徘徊ランナーが眠りから覚める季節は、同時に主要な長距離レースの参加日程を組む時でもある。今年はこんな大会にエントリーした。
    □4月、さくら道国際ネイチャーラン/250km・36時間
     名古屋城から金沢兼六園までの250キロという距離もさることながら、36時間という制限時間の厳しさ、累積標高差4500m、参加選手のレベルの高さと、いずれをとっても国内最高峰の超長距離ロードレースと言える。平凡ランナーにとっては出場すること自体がほとんど無理なハイクオリティー大会だが、今年は参加枠を120人→140人と20人増やしてくれたおかげか、マグレで出られることになった。ありがたやー。
    □5月 川の道フットレース/520km・132時間
     東京葛西臨海公園から長野善光寺を経由し、新潟市へと至る遙かなる道。1740mの三国峠越えはひとつのハイライト。ワンステージレースであるが仮眠所が3カ所設けられているランナー想いの優しい大会。幻覚、幻聴、象足、生爪はがれと、フットレースの醍醐味をフルラインナップで満喫できる。
    □6月 つるぎのめぐみワイルドウォークハードシップ/115km・2日間
     徳島県南部を流れる那賀川河口、海抜ゼロmから西日本第二の高峰・標高1955mの剣山頂上へと向かう。初日はロード、2日目は登山というユニークな趣向。今年初開催。
    □6月 土佐乃国横断遠足/242km・60時間
     高知県の室戸岬から足摺岬まで土佐湾をぐるっと廻る。中岡慎太郎像をスタートし、桂浜の坂本龍馬像を経由して、ジョン万次郎像にてゴールという維新好きにはたまらないコース設定となっている。これまた今年初開催。
    □7月 鳴門海峡・愛媛県佐田岬横断(練習会)/294km
     スパルタスロンの模擬試験として行う。スタート時刻、関門設定を本番同様にする。気温急上昇するスパルタスロンの予行演習は、日本ではクソ暑い夏にしか行えない。練習の総仕上げ。ここでヘバるなら本番は赤信号。
    □8月 トランスエゾフットレース/1100km・14日間
     1日平均78km走るステージレース。真夏の北海道、地平線までつづく1本道をゆるりゆるりと前進する。長期間のステージレースとして、不定期・単発ではなく毎年開催される大会は、国内では稀有な存在。2週間もの間、走ることしか考えなくていいランナーにとっては夢のようなひととき。
    □9月 スパルタスロン/247km・36時間
     ギリシャ・アテネのパルテノン神殿前からスパルタ・レオニダス像まで、2500年前に戦士が駆けた道をたどる。80キロ関門までのスピード、直射日光に焼かれる高温かつ乾燥した気候、1200メートルの岩山越え、徹夜からレース後半の耐久マッチ・・・と超長距離ランナーが持ち合わせるべき全ての要素を高次元で求められる大会。

     これら大会の合間に100kmレースを数本入れ、スピードを養おうって魂胆。
     なーんてね、計画立ててるときだけだよね楽しいのは。頭の中で予定を組み立てたり、飛行機や宿の予約サイトを眺めて、あれやこれやと悩んでいる時間はこよなく愉快。これって鉄ヲタで言うところの「時刻表ヲタ」なんかもね。お楽しみは机上で終わり。
     いざレースに出て走りだすと後悔の荒海。こんな苦しくてつらい事の積み重ね、自分に向いてるわけないし〜。温風乾燥機をほどこした羽毛布団にくるまりたいとか、源泉かけ流しの湯に首まで浸かりたいとか、現世利益の強慾に捕らわれるばかり。
     元々、スピード出して走るのが苦手なうえに、耐久フェーズにも弱い。徹夜ランニング中の走りながらうたた寝は茶飯。明け方まで仮眠処を求めて工事現場のプレハブ小屋や神社の引き戸をガタガタまさぐり、不法侵入を試みる悪だくみに終始。
     こんな自分が名だたる長距離レースに参戦して、人並みに完走を目指すというのは、根本的に方向性を間違っているのかも。
     100kmを7時間や8時間台で走り、24時間走で200kmを軽くクリアするようなランナーたちは、ぼくにとっては皆スーパースターである。ウルトラマラソンをはじめた頃は、彼ら業界のスターたちと肩を並べてスタートラインに立てることが快感だったけど、レースのたびに絶望的リタイアを繰り返してると、「こりゃぼくの居場所じゃないのかも」と切なさに包まれる。
     今年ダメなら競技的なレースからは足を洗おうと毎年のように決意しながらズルズル。チンピラ男に惚れてしまい、殴られ蹴られ金ヅルにされながらも、時折見せる優しさにほだされて、縁を切れない女のサガみたいなもの。もう終わりにしたい、でも愛されたいし、愛してるの私。
     自分の能力、走力はわかっている。場にふさわしくないのも理解しているのだが、もう1年だけやらせてください。「完全にやり切った」と納得できるだけの練習と準備をして、ダメなんだからダメなんだもんと100%自覚したいのです。これ以上のことはできません、細胞の残りひと粒まで絞りきったのです、と確信して終わりたいのです。
     ってことで、シャニムニ練習している。この道をゆくには、熱血スポ根マンガに登場する魔球・必殺技系に類する奇策はないのである。ふり返れば過去5年、奇策奇行に頼りすぎた。20kgの米を背負って崖を登ったり、インターバル走のつなぎにカルピスソーダ一気飲みを入れたり(胃を鍛えようとしたのです)。スピード強化策は箱根ランナーの模写。宇賀地強の空中滑空ラン、大迫傑の異次元の走り、服部翔太のターミネーター顔。中央大学・塩谷潤一のガムシャラ走にはハマりました。もちろん走力の向上には無関係ですけど。
     奇策に頼り失敗すると、また別の奇策があるのではないかと、逃げ道の存在を認めてしまう。だから今シーズンは、よく鍛えられた総務部の経理マンのように、突飛なことをせず、目的を達成するために地道な積み重ねをします。
     あまたのアスリートと同じ土俵に立とうとするなら、練習量を増やすしかない。少なくとも1日20km、レースを含めて1カ月700km以上は走る。これでも甘いと言えば甘いけど、まともな社会生活を送るにはほぼ限界数値。
     よく走り、たくさん食べる。ボウル一杯の野菜をバリバリ食らう。今まであまり摂取しなかった肉もむしゃむしゃ食らう。イミダペプチド鶏ムネ肉ね! アイスクリームとチョコレートのみの偏食生活を悔い改め、よく走れる身体にプラスとなる食材はガンガン胃に放り込む。
     よく走り、よく食べたら、たくさん寝る。時間があればあるだけ眠る。睡眠が深いほど翌日の練習をちゃんとこなせる。天賦の才なき人間が、日々20km、30kmの練習を積み重ねずして、100kmや200kmがこなせるだろうか。無理に決まっておる!
     よく走り、よく食べて、よく寝る。半年間これを繰り返して、それでも結果(スパルタスロン完走)を出せなければ、元のBMI30超級なメタボ中年に戻ろう。なにごとも中途半端はつまらない。絞りきって死ぬか、肥え太って死ぬか。中肉中背はイヤだ〜!
  • 2014年02月10日バカロードその61 矢尽き刀折れても前のめりで
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     夏も盛りの寝苦しい夜、女郎グモの罠にからみ捕られるように、逃れられない性にうなされる。クーラー設定19度、パンツを脱いでフリチンの股間に扇風機の強風をあてがっても、ギリシャの太陽に射すくめられた記憶をひっぺがすことができない。

     
     「スパルタスロン」に出場しだして4年目である。3度挑戦して3連敗。1回目はハーフマラソンの自己ベストをマークするほどの突っ込みを敢行し91キロで玉砕。2回目は足の甲の疲労骨折を鎮痛剤ガブ飲みでごまかしきれず83キロから1歩も前に進めず。3度目は酷暑対策の未熟さをさらけだし、わずか39キロにて脱水症でアウト。いずれも100キロにすら到達できず、リタイア地点が毎年スタートラインに近づいているという将来展望のなさ。距離246.8キロのレースに参加する資格もない低次元な走りを繰り返しているわけである。果たしてこれほどの弱虫ランナーが、世界最高峰のウルトラレースに参加していいものかどうか。
     難関であるから挑みたくなる。なぎ倒されても、はね返されても、挑みたくなる。簡単に受け入れてくれるレースならここまで取り憑かれない。昨年は悪コンディションの中、6度目のトライで初完走を成し遂げた人がいた。9回目にして初めてオリーブの冠を戴いた人もいる。12度つづけてリタイアしている人だっている。だからといって、自分の3度の失敗に免罪符を与える気はない。走力不足、準備不足。問題の核心は自分にあって、いくらでも改良できるんだから。
     何としても完走したいのだ。もう収容バスはこりごりなのだ。惨敗した兵士たちを3キロのエイドごとに一晩じゅうかけて拾っていく地獄バス。車内はランナーたちのゲロの臭い、体臭が充満している。落ち込みすぎてうなだれひと言も発しない人、あるいはやけビールを食らってギャースカ騒ぐ空気読めない人。両者の気持ちは痛いほどわかる。だって全員、死ぬほどゴールに行きたかったんだから。葬祭場に運ばれるような気分の絶望バスには二度と乗りたくない。
     今年は春に内臓疾患を患い、調整の遅れ甚だしかったが、5月からロング走を何本かこなすうちに「走れるかもな」という感触がつかめつつある。特に「川の道フットレース」の265キロと「東京湾一周ジャーニーラン」180キロは、100キロ以降の粘り脚を作るのに役立った。「思うように身体が動かない」「吐き気が収まらない」「足裏のダメージひどすぎて針の山」と感じた状態から、キロ9分以内で進みつづける泥くさ根性トレーニングになった。
     スパルタスロンを完走するために、今やっているのはこんなのだ。
     【走行距離とペース】 5月以降、月間走行500キロ以上はキープしている。去年はキロ6分のジョグを20〜30キロ走が中心だったが、今年は数日おきにキロ5分のペース走(10〜20キロ)を入れた。キロ6分のジョグは心肺機能の維持、フォームの改良、地足を固める、と課題をはっきりさせた。キロ5分のペース走を入れた理由は、スパルタスロン本番ではキロ5分30秒ペースで80キロまで押していく必要があるためだ。涼しくて平坦な道ならばそう難しくないのだが、真夏日和のなか登り下りの連続という条件下で、キロ5分ペースに慣れておくことが、本番でのキロ5分30秒に余裕度を持たせる。
     【酷暑対策と水分摂取】 幸い今年の日本は気温が35度前後まで上がる日が多く、直射日光もカンカンで、絶好の酷暑対策ができている。スパルタスロンが行われる9月下旬、ギリシャは平均気温が35〜36度。暑くなる日は38度を越す。通常の完走率は30%程度だが、気温が上昇した年は20%まで落ちる。首都アテネでは7月現在で38度に達しているから今回も暑くなるのは確実とみておく。
     脱水症に見舞われた去年と同じ轍は踏まない。脱水症状は突然現れる。直前まで何ごともなく走っていたのに、急にふらつき、目まいが起こり、真っ直ぐ走れなくなる。80キロまでは最低でもキロ6分を維持しないと関門に間に合わないから、脱水症にいったん陥るとアウトである。関門閉鎖は、体力の回復を待ってはくれない。
     医学的には体重の3%が減少したら軽度の脱水、3〜6%の喪失で中度、10%以上なら重度とされている。重度になると寒け、意識混濁、痙攣などが起こるという。10%といえば体重60キロ台のぼくの場合6キログラムにあたるが、超長距離レースの直後にはふつうに落ちている範囲である。つまり日常的に重度脱水症のままで走っていることになり、そう特異な現象ではない。だからよほどじゃないと脱水症状など現れないはずだが、ごく短時間(2〜5時間)で6キロ以上汗が流れだし、水分補給が不十分だと、急性的な発症へと追い込まれるのだろう。
     人体が吸収できる水分は主に小腸からで、1時間あたり600〜800mlとされている。走っている最中にはややこしい暗算ができなくなるので、1時間に1000mlは確実に摂取する、と決めておく。1時間はイコール距離10キロメートルに相当するから管理しやすい。しかし1000mlをガブ飲みすると胃が洗われ、逆に胃酸過多になる。エイドに用意されたスポーツドリンクをボトルに移し替え、ちょびちょびと摂取しなくてはならない。胃もたれによる脱力、むかつき、嘔吐を防ぐには、糖濃度の低いドリンクを摂取しなければならない。エイドのたびに濃ゆいコーラやオレンジジュースを飲むと、たちまち嘔吐につながる。
     スパルタスロンでは、3〜5キロごとのエイドごとに関門時間が設定されていて、ぼくの走力だと残り5分〜10分でクリアしていくことになる。道端でゲロを吐くのに2〜3分取られていたら、稼いだ時間を浪費してしまう。嘔吐は避けられないが、回数を減らすために万策を尽くす。
     【体重】 体重を1キロ落とせばゴールタイムが20分縮まる、とまで言う人もいる。あんまし信用してないけど。もちろんこの1キロとは筋肉や体液(汗)の1キロではなく、体脂肪分の1キロである。長距離走において体脂肪は足かせ以上の役割はなく、腹や尻についているだけでスピードを奪い、両脚へのダメージを深める。脂肪が最大のエネルギー貯蔵装置であるとしても、36時間走り続けるには体脂肪率6〜8%分もあれば十分なのであって、それ以上の脂肪はお荷物でしかない。
     春に67キロあった体重は60キロまで落とした。あと2キロ絞れば体脂肪率も8%台になる。それでダイエットは完了だ。それ以上痩せると風邪ひき体質になってしまうし。
     【食事】 ほぼ菜食に切り替えた。「ほぼ」というのは、厳密にではないということだ。人とめし食うときまで神経質に肉や魚を断ったりしない。無性に欲しくなれば我慢せず食べる。といっても月に1回くらい「シャウエッセン」を食べたくなるくらいだから苦労はない。つまり禁欲的かつ思想的なベジタリアンではなく、ただ消化・吸収効率をよくして、長丁場のレースのなかで運動エネルギーにちょろちょろと変換できる身体にしたいだけだ。1日1食は以前から変わらないが、摂取カロリーを減らしている。玄米・麦飯、漬け物、生野菜山盛り(何もかけない)で十分である。食塩も取らない。
     疲労を除去するために、飲み物は果糖系のジュースはやめ、クエン酸飲料を常用している。「メダリスト」「アミノバイタル・クエン酸チャージ」などだ。また、膝の関節痛が出ないように気休めに「グルコサミン」を飲んでいるが、効いているかどうかはよくわからん。
     たくさん走っているわりに、世間の人よりは少食だと思う。たくさん食べて、たくさん飲む、というのがタフネスなランナーの正しき姿みたいな気がするが、特にお腹は空かないし、無理して食べる必要もないと思うので、これでよい。
     【フォーム】 フォームを変えた。スパルタスロンを完走するランナーの多く・・・といっても20時間台で走りきる特別な身体能力を持ったランナーではなく、30時間台後半で絶対にゴールまでたどり着くランナーたちは、下半身で走るのではなく、力強い腕振りで生じた振り子運動を下半身に伝えるような骨格の動きをしている。ちょっと説明が難しいが、上半身のパワーでもって、慣性の法則で全身をグイグイ前に持っていくイメージ。日本のランナーは細身の人が多いが、ヨーロッパの超長距離ランナーはガタイがデカい。胸板が厚く、腹回りもある。腕をたくさん振って、腿を高くあげず、競歩とマラソンの中間の走りをする。なかなかその域にまでは達しないが、今まで腕振りはリズムを取る程度の軽いスイングだったものを、「前へグイグイ」系に切り替えた。
      □
     4年もあれば、もっと違うことできたんじゃないかとも思う。これほどの労力と時間を別のことにかけたら、もっと世のため人のためになったのではないか、としみじみ思いを馳せたりもする。でもぼくは、具合のいいことに世のため人のために生きるほどの器はなく、誰のためにもならないことに時間と熱量を費やすのが得意なのである。そしてこのブ厚く、高い壁を突き破らなければ、一歩も先に進めない気もしているのである。
  • 2014年02月10日バカロードその64 洗濯竿のゴールゲートと一瞬のような夏。トランス・エゾ・ジャーニーラン
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

    【8日目・えりも岬〜忠類82.1km】
     朝5時。えりも岬から宗谷岬までの「toそうや」550kmに新たに参加するランナー10人、中間点であるえりも岬を折り返して復路に挑むアルティメイト1100kmの8人、旅を終えた「toえりも」参加者の2人、そして「のうみそジュニア陸上クラブ」の小・中学生たちとコーチ陣9人、総勢29人の大所帯が岬の突端に集結する。
     キャラバンの人数が倍以上に増え、新喜劇ばりのマシンガントークを繰り広げる関西からの参加者比率が高まったため、テンションの高い賑やかな集団に一新された。
     朝モヤに包まれた乳白色のえりも台地をタンタン駆け下り、荒波打ち寄せる断崖直下の「黄金道路」と呼ばれる海岸道をゆく。30km北上すると最初の大きな街・広尾町手前の道沿いに「フンベの滝」がある。裸足になって滝壺に突撃し、脳天から冷たい水をかぶる。
     後半戦初日は、82kmを11時間と速いペースでカバーしたが、さすが新メンバーたちは元気で、日暮れ前には続々とゴールした。
     コンクリート打ちっ放しのオシャレな宿泊施設「ナウマン温泉ホテル」では、全ランナーの洗濯物を宿の方が洗ってくれるという。野犬の匂い並みの異臭漂う洗濯物、申しわけなく思うがお言葉に甘える。畳敷きの大部屋でランナー全員が布団を並べて雑魚寝。修学旅行みたいで楽しい。

    【9日目・忠類〜新得87.5km】
     昨日、新メンバーに負けちゃいられないと気負って走りすぎたか、ガス欠気味で脚に力が入らない。60kmあたりからトランス・エゾ名物の砂利道走「ジャーリーラン」エリアに突入。砂利石のサイズが大きくて着地のたびに足首をくじきそうで苦戦する。
     ゴール手前10kmは「ヒグマが出る可能性もあり」と説明されたオフロードに突入。道に迷っていた2人のランナーと合流でき助かる。3人でワーワーとかしましく喋りへっちゃら感を装うが、熊の出現を警戒して小さな物音にも過剰反応するへっぴり腰。大阪から参加の縣(あがた)さんは、放っておけば朝から晩まで喋りつづける関西文化の象徴たる人物だが、ゴールを間近にして気分アゲアゲとなり、るぅるーるるるるるぅー♪と「北の国から」を熱唱しはじめる。かつて別の大会で熱中症で潰れているぼくを助けてくれた恩人であり指摘しづらいが、富良野はだいぶ先であり田中邦衛ムードに浸るには早すぎる。「熊よけも兼ねて3人で行こうや!」と名乗り出たのは縣さんだが、1人熱唱しながら先に行ってしまった。森が開けゴールゲートが見えると、その手前で仁王立ちし「みんな集団行動せなあかんでー!」と待っていてくれた。やっぱり楽しい人だ。
     今宵の宿、新得温泉は実業団陸上部の夏合宿の場として活用されているらしく、壁にはたくさんの著名ランナーの色紙が飾られている。温泉は小ぶりながら茶褐色の鉄鉱泉はいかにも身体に効きそう。洗濯物が終わるまで湯船で長々と寝そべっていた。

    【10日目・新得〜富良野79.8km】
     北海道を東西に分ける背骨にあたる山脈の鞍部を越えて、中央の盆地地帯に下る日。
     午前に標高644mの狩勝峠、午後には485mの樹海峠と2つの峠を越える。霧に覆われた狩勝峠を登り切ると、青空が水蒸気のベールを引っぺがし、蒸し暑い夏が戻ってきた。いつ果てるとも知らぬ長い下り坂を、重力にまかせてツッタカ下る。腕のGPSを見ればキロ4分台の猛スピードだ。強く着地してもぜんぜん平気。毎日70〜80kmも走るジャーニーランという一種異常な世界に人体が適応していく様には驚かされる。常識的に考えれば怪我や体調不良がひどくなって、だんだん弱っていくよね。ところが走れば走るほどバカみたいに強くなっていく。
     午後には畑作地帯の農道を行く。水分を補給する場所が見あたらず20kmほど無補給でフラフラになり、ようやく公衆トイレにたどり着いたら、手洗い場の蛇口に「循環水です。この水は飲めません」と貼り紙。「循環水」とは何だろう? 行き倒れるよりマシかと生ぬるい水をごくごく飲む。ウンチを流した水を循環させているのだろうか。まさかそれはないと思うけど。

    【11日目・富良野〜旭川大学66.9km】
     30kmほど走って毎年トランス・エゾを応援してくれている新田農園さんに到着。山のように用意された採れたての野菜や果物をいただく。冷えたスイカは舌を焼くほど甘く、10切、20切と手が止まらず、ゆうにまるまる1個分を胃に収める。
     午後、一大観光地である富良野・美瑛のパッチワークの丘をゆく。といっても、さんざ北海道の大自然を眺めてきた身としては、農場やらお花畑の風景よりも、大型バスで続々乗りつける群衆が物珍しい。無数の観光客がよってたかってスマホで牧草地の撮影をしている。トラクターや牧草ロールが転がる風景がシャッターチャンスのようだ。ロール牧草をラップもせず、ほどよい間隔で放置してあるのは観光撮影用なのだろうか。何となく不自然な風景だが、気にしないでおこう。観光地とはそういうものだ。
     夕刻に旭川大学構内のゴールに着くやいなや近くの銭湯に取って返し、浴槽にドボンと飛び込む。痺れるほどキンキンに冷たい水風呂はアイシングに最適で、続々やってくるトランス・エゾ軍団みなで代わり番こに浸かる。
     夜は旭川大学の柔道場をお借りし、畳の上でゴロ寝する。こういった公共施設を借りて宿泊を重ねていくのはジャーニーランっぽくていい。あらかじめ宅配便で寝袋、エア枕などを送っておいたが、道場内は暑いくらいで寝袋にもぐり込む余地もなく、腹を出して爆睡する。

    【12日目・旭川大学〜美深98.3km】
     ほぼ100kmを走る最長日はスタート時間前倒しで早朝3時。ってことは起床は2時。いやザコ寝用の寝袋を500m離れたコンビニから発送するため更に早起きが必要。ってことで午前1時30分には活動を開始する。もはや翌日なんだか前日なんだかわからない。
     朝から晩まで走ることだけ考えてられるのもあと3日。名残惜しさ高まり、午前3時から驟雨をついて全力で走りだす。ジャーニーランは不思議だ。最初は皆いったんヘロヘロになるのに、何十km、何百km走ってるうちに疲れない身体、傷まない脚ができあがってくる。
     倒木が道をふさぐ塩狩峠の旧道や、荒れ果てた温泉の廃屋のなかを突き進む。本当にこんな場所が正式なコースなのか?という疑問は薄れてきている。トランス・エゾとはそういうものなのだ。
     終盤10kmほどを「のうみそジュニア陸上クラブ」の少年2人が併走してくれる。陸上競技どっぷり漬けの日々を過ごしているのかと思いきや、AKB48ならぱるるの脚がたまらないとか、恋愛系のネトゲの方がリアル恋愛より良いとか、中学生の少年らしい話題は尽きない。大人になると「今どきの若者は」なんて言いがちだが、自分が中学生んときの30年前と考えてることあんまし変わらないのね、と嬉しくなる。
     100kmの長丁場も楽しさあまって短く感じた。あさってには終わりか、あと2カ月くらい続けばいいのに、そしたらもっとランナーとして強くなれるのに、と適わぬ夢想を抱く。

    【13日目・美深〜浜頓別80.8km】
     20km地点の音威子府の街を抜け樹林帯の一本道に入ると、後方からバリバリッと下草を踏みしめる異音が迫ってくる。木々をかき分けて前進しているのか、枝がボキボキ折れている。小動物ではない、巨大獣である。明からにぼくの存在を意識して追いかけてきている。
     牧歌的なお昼に訪れた突然の恐怖展開に悲鳴も出せぬまま、この旅いちばんの全力疾走をし、道の反対側にエスケープする。姿こそ見えないが、大型のエゾシカか、あるいはヒグマか。
     後にサポートカーで現れた大会呼びかけ人の御園生さんに、「大きい動物に追いかけられました!ありゃヒグマじゃないですかね!危機一髪ですよね!」と大コーフンして報告したら、御園生さんは「ヒグマ出ますよ。この辺は、フフフ」とごく当然のごとく微笑む。あ、そうなのね。
     午後、アブの総攻撃を受ける。素手やタオルでバチバチ振り払っても、編隊を組んで襲ってくる。刺されると生半可な痛さじゃない。アブの住みかに人間が足を踏み入れてるわけで、攻撃されるのは当然とも言え、アブ諸君には何の罪もない。だが無慈悲なジェットストリームアタックを浴び続け、30カ所ほども刺されまくればガンジー的無抵抗の精神は霧散し、「殺生やむなし!」と100匹以上はたいて殺す。殺戮につぐ殺戮。きっとどこかでバチが当たるだろうね。

    【最終日・浜頓別〜宗谷岬60.7km】
     10日ぶりに見るオホーツク海は、曇天の下で鈍色にたゆたっている。
     ジャンジャン降りの雨と、身体ごと持っていかれそうな暴風をかき分け、峠道をゆく。のんびり走る旅もいいけれど、ガツガツ走るのは最高。登りは心臓打ち鳴らしてシャカリキに、下りは脚をぐるぐるギャグ漫画みたいに回して。
     北海道の夏は一瞬で過ぎ去った。走れば走るほど時間は短く感じられた。たいくつな授業は長く感じるが、楽しい夏休みの時はすぐ終わる。その短さだ。
     北海道は、太平洋上に居並ぶ日本列島のうちの1島とは信じがたく、大陸のような威厳を誇っていた。丘陵の奥の奥まで続く1本道や、地平線までさえぎるもののない農地。警戒心なく開けっぴろげに話しかけてくる北海道のオバチャンやオッチャンたち。すべてが大陸的なおおらかさをまとっていた。
     走ることが大好きなランナーたちと昼夜をともにできた。一人ひとり、走りはじめたきっかけは違うし、いま走っている理由も違う。人生観や生き方が誰しも違うように。だがここに集まっている人は掛け値なしに走るのが大好きな人たちだ。そんなわれわれを思い存分、走らせてくれるのがトランス・エゾというひとつの明瞭な世界だ。
     宗谷丘陵を駆け下りると、14日間めざしつづけたゴールゲートがある。呼びかけ人である御園生さんが、先頭ランナーの到着時間に先回りして、毎日組み立てたゲートである。2つの脚立と、3本の洗濯竿をタテヨコに配置して組み立てられたゴールは、トランス・エゾの持つプーンと匂い立つような人間くささに溢れている。あのゴールをくぐれば終わってしまうんだな、と寂しさが再びこみ上げる。もはや暴風の類に属する横風はいっそう強くなり、最北端の岬を吹き飛ばしそうな勢いで吹いている。
  • 2014年02月10日バカロードその63 限界と復活と何もない強さ。トランス・エゾ・ジャーニーラン
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

    【3日目・羽幌〜北竜85.3km】
     朝4時スタートというのに、夜明け前から蒸し蒸しと暑さが迫ってくる。
     羽幌の市街地を抜けると、断崖が海へとなだれ込む荒々しい海岸線が視界を占拠する。遠く彼方に霞む緑色の岬が、走ってみると僅か5キロ先だったりして距離感がつかめない。
     海辺の道に日陰はなく、太陽エネルギーの直撃を受ける。コンビニでクラッシュアイスを買い、頭やうなじに押し当てて頭骨内の体温を上げないようにする。脳内の温度が40度を超すと、人間は活動を自動停止すると聞いたからだ。「ガリガリ君」を3本一気食いして内臓まわりの深部体温も下げるよう努める。
     50キロすぎの留萌あたりまで快調に走っていたが、ふいに異変がやってきた。立ち小便をしているとき、指先に触れた小便がアチチ!と指を引っ込めるほど熱い。気のせいかと思い、人さし指にジョロジョロ流してみるとやはり熱湯のようだ。いったい体温は何度まで上がっているのか。
     やがてアゴの先からボトボトボトボトッと見たこともない量の汗がしたたり落ち、両の掌の10本の指先から10列の汗がゲリラ豪雨の軒先みたいにしずくを垂れる。体内に蓄えてある水分がすべて逃げだしていく。これだけ急速に脱水するとヤバい。ペットボトルの水を喉に流し込むと、一瞬の後に盛大な噴水となってゲロ戻しする。身体が水分を受けつけない。
     干からびるほど汗をタレ流してるのに、悪寒激しく鳥肌が立っている。奥歯がカチカチと鳴りだす。あまりの急変ぶりに「これって、死に瀕してる状態?」と怖くなり、公衆トイレの床に大の字になり20分寝る。休めば復活するかととの淡い期待も虚しく、路上に戻るとヒザから力が脱けてしまって走れない。
     残り10キロ。「節度時間」の夜8時まで2時間以上を残しているが、ここから先、時速4キロペースで進めるのだろうか。少し歩いては道ばたにしゃがみ、立ち上がっては畑のあぜ道に寝る、を繰り返す。1時間経っても3キロも進まない。そのうち全員のランナーに追い抜かされる。みな足取りも軽く、元気そうだ。
     残り2キロ。さえぎる物のない直線道路の先に温泉施設「サンフラワーパーク」が見えるはずなのに、歩いても歩いても照明の光粒ひとつ飛び込んでこない。本当にぼくは正しい道を歩いているのだろうか? 行く手には何もないのではなかろうか? 残り時間はほとんどないはずだが、もう時間なんてどうでもいいや。自暴自棄になり、意識も飛び飛びになってきた頃、ようやく温泉の駐車場が現れた。ゴールゲートがうつろな感じで揺れて見えた。いつもなら湧き上がるはずの「ヤッター」も「もう走らなくていいんだ」も感じない。消耗しすぎて、人間としての感情に乏しい。心には暗くて深い穴ボコしか空いてない。よろけながらゴールゲートをくぐると体重を支えるだけの筋力が足になく、アスファルトの地面にうつぶせに崩れ落ちてしまった。

    【4日目・北竜〜栗山87.7km】
     昨晩遅く、へろへろでゴールした後、先着の方が気をきかせて注文してくれてた「いくら丼」を前にして米粒ひとつ喉を通らず、レストランのテーブルに顔を突っ伏したまま動けなくなった。夜の選手ミーティングでは、床に寝たまま吐き気を抑えるので精いっぱい。トランス・エゾ1100キロを2年連続完走を果たした伝説的ランナー「キング」こと田畠さんがそっと氷袋を頭に置いてくれた。ひと晩じゅう洗面所でカラゲロえづき、ろくに眠れないまま夜が明けてしまう。
     朝4時。スタートゲートに立っているのもやっとこさで長丁場の87キロを迎える。絶対に完走はあきらめたくない。時速6キロペースを保ちながら、節度時間まぎわにゴールすべく集団の後方に位置する。だが頭は真っ白、今どこを走っているのかも定かでなく、コースが示された地図を正しく把握する力はない。本来進むべき道を逸れ。3キロ以上も正規ルートを外れてしまう。
     完走ギリギリペースでしか前進する力が残ってないのに20分以上のタイムロス。挽回しようともがくが、ジタバタ焦るばかりで速くは走れない。
     一点の雲もなく晴れわたる空。直射日光が皮膚を焼き尽くさんとばかり容赦なく襲ってくる。30キロつづく直線道路には陽炎が揺れている。やがて前日と同様の熱中症の症状が出てくる。千鳥足、蛇行、50メートル歩いては座り込み、狂犬病の犬みたいにハァハァあえぐ。1キロに15分かかり、20分かかり、1キロという距離が果てしなく遠い。コンビニで買った2リッターの冷水を頭からかぶり、氷を全身になすりつけ、破れかぶれで鎮痛剤を倍飲みする。
     モーター音のうるさい自販機にもたれかかったまま20分が過ぎる。もう何をやっても回復しそうにない。制限時間にも間に合わない。あぁ、ここで自分は断念するのだな、と思う。悔しさや悲しさが押し寄せてくるのかと思えばそんなこともなく、思考力がないからぼーっとして感情の揺らぎがない。
     かろうじて理解している事実。たったの3日で、ぼくはトランス・エゾにノックアウトされた。
     今日の行程50キロ以上を残し、JR砂川駅から鈍行列車を乗り継いで、ゴール地点である栗山町に移動する。温泉施設「サンフラワーパーク」の水風呂につかって体温を下げ、布団にもぐりこんでたっぷり眠ったあと、ゴールゲート前で完走ランナーたちを迎える。夜8時数分前、節度時間ギリギリになって遠くにヘッドランプの光が揺れだす。完走を守っている4人のランナーの姿が見える。力なく笑う顔は日焼けと汗が乾いてこびりついた塩でボロボロなのに、輝いている。こんな風に頑張れなかった自分に地団駄踏むべきなんだろうが、ポカンと空虚な穴にいる。どういう感情なんだろ。野球で例えるなら、0対1で惜敗すれば悔し涙を流すだろうが、0対20の5回コールドで叩き潰されたらベンチの隅で泣くほどのアレもないよなーって感じ。

    【5日目・栗山〜富川72.1km】
     いったんリタイアすると、いっさいのプレッシャーから解放される。追いつめられた感は吹き飛び、鼻歌まじりで楽々走っている。昨日までの潰れっぷりは何だったのか。今や800キロ先のゴールという大目標を失い、今日という1日をせいいっぱい走るだけになった。明日に体力を残すことを考える余地はなく、怪我のリスクを回避するために自重する必要もない。制限時間を気にせず、ただ走るためだけに走る。何とお気楽なことか。リタイアしたくせに自戒の念に乏しく、すがすがしい気持ちでいることが不思議である。
     「戦っている」という局面が1秒もないと、72キロという距離はやたらと短く、1日が楽々と過ぎ去る。
     ゴール地点の宿「ペンション中村亭」は、女性向け風情のおしゃれ宿。夜食に豪勢な牛肉のバーベキューや、地元名産のししゃも料理を振る舞ってくれた。食べても食べてもまだ食い足りず、どんぶりメシを5杯おかわりする。すっかり体力回復してギンギンだ。

    【6日目・富川〜浦河84.0km】
     昼前から土砂降りの雨。路肩がほとんどない太平洋岸の産業道路は通行量が多く、行き交う自動車や大型ダンプカーのタイヤが跳ね上げる泥水をジャブジャブかぶる。シャツもパンツもドロまみれだが汗を洗い流してくれて気持ちよくてたまんね。天を仰いで口を開けてると雨が間断なく降り込んでくるから水分補給いらずで便利だ。
     宿泊所のきれいなホテル「浦河イン」では、支配人さんがアイシング用の氷袋を大量に用意してくれていた。
     夜、「のうみそジュニア陸上クラブ」の少年たち7人が合流する。今大会の「呼びかけ人」である御園生さんの主宰するジュニアランニングクラブの生徒たちだ。小中学生といっても、1500メートルや3000メートルをキロ3分ペースで走ってしまう立派なアスリート揃いである。彼らの目には、「歩いている方が速いだろう」ペースで朝から晩までよろよろ走っている大人たちはどう映るのだろうか。

    【7日目・浦河〜えりも岬53.5km】
     トランス・エゾにおいて「toえりも」と称される往路550キロはこの日でおしまいである。ズル休みした50キロを除外して500キロの距離を走ってきたが、進む時間のテンポが早く、「短いな」という印象が強い。「旅はもう半分も終わってしまった」と郷愁めいた心情に包まれる。
     北海道の最南端、えりも岬に用意されたゴールゲートは、断崖の突端にある。荒々しい波が西側と東側から押し寄せては岩礁でぶつかり合っている。記念碑を背景に観光客が代わる代わる写真撮影している。吉田拓郎のメロディが鼻歌やらアカペラで、あちらこちらから聞こえてくる。日本人ならやっぱしあの唄を歌ってしまうよねえ。えりも岬に限らず「何もない」ということには豊かさがある、と思う。あの名曲は、何も持たない人間の強さや豊かさを歌っているのだろうか。
  • 2014年02月10日バカロードその62 道と太陽と地平線。トランス・エゾ・ジャーニーラン
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     早朝3時に目覚まし時計が鳴る。枕元に置いたメガネを手探りするが見つからない。
     身体がべったり敷き布団にくっついている。磁石に拘束された鉄塊を無理やり引っぺがすように上体を起こす。
     夕べ手洗いして室内干ししてあったランニングシャツやパンツを生乾きのまま着る。独特の汗蒸れした臭いが鼻をつくが、他ならぬ自分の体臭ゆえ不平を漏らす相手はいない。
     最少限に絞り込んだ持ち物を、小さなバックパックに詰めこむ。現金、地図、着替えの衣類、薬品、照明具などである。総重量700グラムほどだ。この荷物で2週間を過ごすのである。人間、生きていくのに大したモノは必要ないってことか。
     起床から身支度を終えるまで10分もあれば事足りる。いつでも走りだせる恰好が整うと、もう一度布団に潜りこむ。スタート時間は午前4時。二度寝の末の寝坊はマズいが、20分でも10分でも活動エネルギーをゼロ状態にして体力を回復させたい。
     3時50分、民宿前のスタートゲートの周辺には、ヘッドランプが照らす淡い円がいくつも揺れている。ランナーたちはサプリメントを飲んだり、地図を眺めたりと、各々が準備にいそしんでいる。カップラーメンをすすりオニギリにパクついてる人もいる。多くの人は快活な声量で会話を交わしているが、昨日のステージで極限まで体力をすり減らしたとおぼしき人は、地面にべったり腰を下ろし、会話のやり取りがままならなかったりする。
     スタートの合図とともに、ランナーたちは夜明け前の街路へと歩きだす。ジャーニーランのスタートで走りだす人はめったにいない。まだ眠っている筋肉に「温まるまでは走らんからな」と納得させるように、傷んだ脚に「そのうち痛みは取れるよな?」と問いかけるように歩く。カップメンを食べ終わらなかったランナーは、麺とスープを掻き込みながら歩く。
     何キロか進むとそれぞれのペースで走りだす。単独走になることもあれば集団をつくることもある。基本、他人のペースには合わせない。自分だけのリズムで、自分が潰れないペースで。そして、気の遠くなるような距離のほとんどを、1人ぼっちで過ごす。
       □
     「トランス・エゾ・ジャーニーラン」は、1997年の初開催以来17回の歴史を刻む、日本で定期開催されている数少ないジャニーラン大会のひとつである。北海道のえりも岬から日本最北端の地・宗谷岬へと、555キロの道のりを太平洋からオホーツク海へと7日間かけて走破する、と聞くだけでゾクゾクするスケールだ。2000年からは宗谷岬からえりも岬、ふたたび宗谷岬へと往復する14日間・1100キロの「アルティメイト」コースも設けられた。
     毎朝のスタート時刻は朝5時を標準とし、その日の走行距離によって調整される。80キロを超える場合は4時30分、4時・・・と早められ、最も長い98キロの日は午前3時スタートとなる。
     毎日、ゴールの最終時刻にあたる「節度時間」が設けられる。コース距離を時速5.5キロで割り、算出されたゴールタイムだ。一般の大会なら関門とか制限時間と呼ばれるところをトランス・エゾでは節度時間と呼ぶ。これは、ゴール地点まで自力走行できなくなったランナーへのメッセージでもある。「どんなに時間が遅くなってもゴールまでたどり着きたい」という自己陶酔の末に1人だけ深夜にゴールして、周囲に迷惑かけるようなマネはすべきではない、という「節度」である。ケガをしたり体調悪化してリタイアすると判断した時点で、列車やバスを使ってゴール地点へと向かう。その悔しさや、無念さ、思い出も含めてジャーニーランってことなんだろう。
     この「節度時間」に象徴されるように、トランス・エゾではランナーが自分のエゴによって勝手な振る舞いをすることは暗黙の了解として許されない。550キロ〜1100キロという長い道のりを、見ず知らずの人間が集まり、キャラバンを組んで街々を巡っていく。ランナーもサポートも肉体的にも精神的にも限界ギリギリで越えていく場面もある。ほんの数人が「自分だけは特別だ」という行動を取り始めたら、キャラバンの雰囲気は悪い方へと向かってしまうだろう。
     自己責任が徹底されたこの大会では、1〜2週間の間に使用するすべての荷物を自分で背負って走る。荷物預けはない。またエイドステーションもない。走行中に必要な飲み物、食べ物は、途中の街々にある商店や自販機で仕入れる。無人地帯が長い場合は、2リッター以上の水を背負うことになる。
     あらかじめ指定された走破コースは、2万5千分の1地図上に破線でライン引きされており、途中、誰のチェックも受けることなく、自分自身の良心に従って忠実にコースをなぞる。
     手厚いエイドや荷物配送サービスなど至れり尽くせりの今どきのマラソン大会に馴染んだ身には、いくぶん厳しく感じるかもしれない。だが、要は「1人ぽっちでふらっと走って旅に出た」と思えばいいのである。1人旅なら、給水サービスやら荷物配送なんてあるはずもなく、宿泊先の最終チェックイン時間を守らなければ部屋をキャンセルされる。予定より遅くなり、間に合わなそうなら路線バスに飛び乗るだろう。誰の力も借りず、自分1人の力と責任で、果てしなく遠い道を走りきる。それがジャーニーランの基本姿勢である。
     こんな風にトランス・エゾは一見厳しい自己責任をランナーに求めていながらも、だけどホントのところは限りなくランナーの視点に立った、走ることが心から好きな人のために考えに考え抜かれた大会なのである。
      □
    【初日・宗谷岬〜幌延75.3km】
     宗谷岬を出発する。海岸線を南下せず背後の丘陵へと駆け上がると、いきなり野生鹿の集団に遭遇する。大自然に突入するの早すぎ!
     いったんオホーツク沿岸に戻ったのち、再びアップダウンのある牧場地帯をゆく。昨夜のミーティングで、「明日は20キロに1カ所の割合でしか自販機や水道がないよ」と経験者ランナーの方々が教えてくれたものの、半信半疑で聞いていた。「ない」といっても、それなりに民家は点在してるだろうし、集落には公民館や学校があり、水道栓があるに違いない。食料は補給できずとも、ここは日本なんだから水くらいはあるはずだ、とタカくくっていたら・・・本当に何もなかった。
     酪農農家の家屋や牛舎は建っているが人影ひとつない。無人のお家に勝手に入れば不法侵入であり、さすがにそれはできない。住民の集会所や災害避難所と書かれた建物にも人の気配はない。ようやく水飲み場を見つけて蛇口をひねっても、1滴の水も出ない。
     道路の下の方に小川らしきせせらぎが何本か現れるが、北海道の川水や沢水は絶対に飲んではならぬと注意されている。キタキツネの糞に混じったエキノコックスという寄生虫の卵が混入している可能性があり、その生水を飲めば人も感染してしまうからだ。エキノコックスは肝臓の中に寄生し、最後は子供の頭くらい巨大化して人間を死に誘う。ってことで枯れ死寸前あろうと、川水だけは飲めない。
     真夏の直射日光の下では、ダラダラ吹き出す汗は止めようがない。10キロ前進するにつき水分が1リットル必要である、と嫌ってほど教えられた一日となった。
     スタート地点から10キロ先にあるコンビニを最後に、ゴールの幌延の街に入るまで60キロ以上、ついに1軒の店にも遭遇しなかった(ラーメン店とコープがあったが2軒とも休んでいた)。2カ所の自販機と、酪農家の私設エイドに助けられ、カラカラに乾燥しきってゴールにたどりついた。
     ゴールはJR幌延駅前の民宿・光栄荘。お宿名物のカツカレーは、ごはんもカレールウもおかわりし放題で、3皿分食べた。
     布団に横になって氷のうで脚を冷やしまくる。カッカッと燃えるような脚の熱を取り、明日の朝までに元どおりに復旧させるのだ。フトモモに載っけた氷の塊を眺めながら「ジャーニーランの世界に戻ってきた」と少しうれしくなる。
    【2日目・幌延〜羽幌82.8km】
     内陸部の広いバイパス道を進み、20キロすぎからオホーツク海沿いの砂利道へと針路をとる。砂利道を行くことを「ジャーリーラン」というのだと教えられた。楽しい響きである。マメができた後なら地獄かもしれないが、今のところ楽しむ余裕がある。
     しばらく進むとコース上にあるはずの橋が橋ゲタごと流失し、道が完全にチギれていた。対岸の道路を巨大なクレーン車が占拠し、作業員の方々が復旧工事に当たっている。大会指定のコースを守らないと「完走」の称号は得られないし、でも道はないし、海を泳ぐってわけにもいかんし・・・と悩んで道を行ったり来たりウロウロしたが、打開策見つからず2キロほど迂回することにした。こんなのはジャーニー・ランでは「よくあること」なのだろう。
     昼前から本格的に暑くなってきて、コンビニで買ったアイスの「パピコ」をタオルで包み、首に巻きつける。涼しくなったのは短時間で、直射日光にあたるとすぐ溶けてしまって、啜ろうと思った時には熱湯パピコになっていた。
     水分の摂取量がハンパなく、50キロに達するまでに6リッター分のジュースを消費した。北海道内の公共施設にはゴミ箱がほとんど置かれていない。公園にも、トイレにも、道の駅にも。ジュースの自動販売機の横に当たり前にあるべきゴミ箱もない。かろうじてコンビニの前には分別ボックスがあるが、ここいらの地域でコンビニは20〜30キロに1軒あるかないか。トランス・エゾでは、ランナーの誰かがゴミを不法投棄した時点で大会を中止にする、という約束事がある。人知れずポイ捨てをしてしまえば、そっと良心を傷める程度の事態では済まされない。
     大量に出る空ペットボトル。こいつらを捨てる場所はない。仕方なくバックパックに6本、ランニングパンツの両ポケットに2本、さらに両手に2本持って、ポットボトルの串刺し状態で走る。初山別という街でアイスを買いに立ち寄った商店の方に涙ながらに廃棄をお願いして、ようやく10本のペットボトルから解放される。
     街のあちこちにゴミ箱があるってのは、本当にありがたいことなんですね。ジャーニーランは、何でもない日常にこそ幸せがあるのだとTHE虎舞竜的な教訓を得られる場でもある。
     本日のゴールは「サンセットプラザほぼろ」という巨大な温泉宿泊施設。だけど大浴場に移動する余力なく、部屋でシャワーを浴びただけで布団にダイブし失神寝する。
  • 2014年02月10日バカロードその65 同じ場所をぐるぐる回る
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     うまくいくことと、うまくいかないことは、だいたい1対9の割合でやってくる。他人から良い連絡を1本受けるためには、悪い連絡を9本処理する必要がある。貸した金が返ってくる確率も10%あたりと思っておけば人間不信だよ、友情より金かよ、なんて臍をかまなくて済む。
     人生とはロクでもないものという前提に立てば、よほどの不幸に巻き込まれても、あぁぼくの人生こんなものかと平静を保てる。不幸な状態をアベレージに設定すると、自販機に取り忘れられた釣り銭がジャラッと指先に当たっただけで幸せな週末を過ごせる。
     世の中全体に清潔で明るくなりすぎたから、目映い光を浴びせかけられて、人の不幸がより強調されている。報道番組に生活保護受給者が登場して、毎日カップ麺かインスタントカレーだけで生活しているんですよ、お先真っ暗ですよとうなだれ、ニュースキャスターと美人女子アナが哀しみと同情と憂いを湛えた目を映像モニタからカメラに移す。いや、カップ麺とインスタントカレーで十分OKだと思うよ。日本製ならなおさら品質高いし・・・とテレビの前でボンカレーもぐもぐ頬張る。
     世界が元々つげ義春の画風のようにモノクロで泥まみれでできていたら、誰もが不幸の基準を低く設定できるのに。きらびやかな街の下には、古くから流れる用水溝がコンクリートでフタされ閉じ込められている。地上の光が届かない暗渠の水面で、ブクブクと泡を立てて呼吸する地下生物のように生きていられたらよい。
         □
     4年越しで挑んだスパルタスロンに4年連続でリタイアした。スパルタスロンとは、ギリシャ国内247kmを36時間リミットで走るレースだ。
     直前8月の月間走行距離は1300km。和製スパルタ親父の星一徹に頭をなでなでされるくらい昭和スポ根漫画的な足づくりを行い、さらにはギリシャの高温乾燥した気候に慣れるため5日前から入国し調整に臨んだ。選手を決して褒めて伸ばそうとはしない宗猛監督にも、意識の高さをプロ並みだと称えられるかもしれない。
     徹夜で走る大会に備え、前日に12時間以上眠るため、導眠副作用の強い花粉アレルギーの薬を激しく鼻吸引し昏倒。
     整腸剤を用量の倍服用して、出せるウンコを全部出し切りすぎて脱腸寸前。
     頼れるものなら神も仏も薬物も何でも頼る、それがオレのスパルタスロンなんだ!オーッ!と気勢を上げる。
     やれることは全部やった。もはや完走を阻害する要素は何ひとつとしてない。ヒクソン・グレイシーに200%勝てると断言した安生洋二に匹敵する自信満々にあふれていた。
     ・・・そして、人生はうまくいかないことが9割の鉄則どおり、またもやリタイアという惨劇に至る。
         □
     スパルタスロンで大コケしてから、世界がチグハグな入れ籠でできているような不穏な心情に陥りだした。不幸への耐性が、異常に弱くなっている。
     ある日、待ちに待った海外ドラマの新シーズンのDVDを入手し、万全なる精神状態でドラマ鑑賞すべく、ハーゲンダッツのホームサイズを帰宅前にスーパーで購入。深夜12時、いよいよ今宵は完徹で天才詐欺師とFBI捜査官の知的駆け引きを満喫しようかと立ち上がり、右手にスプーン、左手に冷凍庫から取りい出したハーゲンダッツを握りしめた瞬間、表面に付着した霜によってツルンと手のひらより滑り、そのまま重力定数のとおりに下方へと加速落下し、右足の小指の先にカップの角から落下した。叫び声すらあげられない衝撃に襲われる。小指が、小指がー。赤、紅、紫へと変色し、いちじく灌腸のように腫れていく。おい小指、折れてるんじゃないの? ほんの1分前まで海外ドラマへの期待感で幸せの極致にいたのに、いまや腫れ上がった小指を氷でぐるぐる巻きにして布団の上で目を閉じて耐えている急展開。こんな不幸があろうか。
     深刻なフラッシュバック現象も現れだした。不眠不休レースの最中に起こる精神の異常が、日常生活においても同様の症状となって表れるのだ。
     猛烈な便意に襲われトイレに駆け込み、便器を前にしてふと思う。パンツを下ろしてからウンコをすべきか、ウンコをしてからパンツを下ろすべきか。二者択一の簡単な答えが導き出せない。落ちつけ、論理的思考を取り戻すのだ。パンツを下ろさないとウンコがパンツに漏れる。ウンコを漏らさないとパンツがウンコにかかる。あー、やっぱしダメだ。そうやって平穏な平日の朝に、パンツを下ろさないまま暴発させること2度。うちの便座をウォッシュレットに換えといてよかった・・・。
     ハーゲンダッツの角で小指を傷め、脱糞したお尻をウォシュレットでやさしく洗う。そんな些細な出来事がひたひたと降り積もり、チグハグな地層となって積み重なる。笑い話で済んでいたことが、済まなくなりつつある。
           □
     11月。「神宮外苑24時間チャレンジ」は1周約1.3kmの円周道路を昼の11時から翌昼11時まで24時間の間に走った距離を競う大会だ。走路は完全にフラットで曲がり角もない。淡々とペースを崩さず距離を刻んでいけばよい。その我慢強さが試される地味な世界は、現代に蘇りりし女工哀史かあゝ野麦峠か。
     スタート直後から、9割方の選手に置き去りにされ、ビリ付近を走る。自分のペースはきっかりキロ6分だから速くはないけど、ゆっくり走ってるわけでもない。つまりぼくにはレベルの高すぎる大会であり、観念して自分の周りをATフィールドで囲って黙々と走るとする。
     2周回ごとにエイドに立ち寄って水分補給していると、おじさんということもあってオシッコが近くなる。1時間に1回のペースでトイレに立ち寄る。最近は夜中も2時間置きに尿意で目覚めるのである。これが老化という哀れなのであろうか。
     公衆トイレは走路から30メートルほど離れているため往復60メートルの距離ロスが生じるので、ホンネとしてはあまり立ち寄りたくないのだが、走っている間はずっと「漏れそう」との思いがあり、首都東京の美しい並木道の真ん中でおもらしするわけにはいかず、おトイレタイムはせめて1時間に1回にとどめておこうと尿意を耐えてぐるぐる走る。
     ちょうど10回のトイレ休憩を経た頃に100km地点を通過、タイムは11時間18分。一般市民ランナーとして決して遅くないタイムなんだけど、トップを競っているアスリートたちは40kmも前方を走っている模様。
     とうの昔に日は暮れ、街灯のオレンジが安らかに揺れる。疲れは感じないが、午前0時を過ぎると睡眠と覚醒の中間くらいの脳波状態になり、うつらうつらと夢を見ながら蛇行走。
     朝5時。スタートから18時間たった頃に、寝落ちしてしまう。歩道上でやれやれと体育座りをし、目をいったん閉じて、また開くと時計が20分進んでいる。まばたきくらいの感覚しかないのにさ、タイムスリップだこりゃと驚いて走路に飛びだす。
     相変わらずトップクラスの選手たちはキロ5分台のスピードで、ヒュンヒュン駆けていく。
     24時間走にゴールはない。その場所まで行けばオシマイというゴールラインはない。人生に寿命という時間制限があるように、24時間走にも時間の終わりだけが決められている。
     24時間走にはリタイアという概念もない。真夜中まで走って、潰れて、選手用テントで倒れていたとしても、それはリタイアではない。競技は継続している。ただ前に向かって進んでいないというだけで、人生は進んでいる。速くも走れず、凡庸で、それでいて今やってることをやめる踏ん切りもつかない人生の路上を、のろのろと走る。そう、こうやってマラソンを人生に例えたがるのも老化現象のひとつである。
     朝10時30分、残り30分ともなると、たくさんの観客が走路脇を埋め尽くし、声援を投げかけてくれる。
     人目もあることだし、最後くらいちゃんと走ろうかなと思いペースをあげる。ラスト2周を全力疾走すると、キロ4分台で走れる。まだぼくは完全にはヘバッてないようだ。なんせ一晩中、エイドで飯ばっかし食ってたしな。スタミナはあり余っている(レース後に体重を測ると2キロ増加していた。24時間も走ったのに太るなんてショックだよ)。
     終了時刻である午前11時になると、合図とともにその場所で立ち止まる。係の方が近づいてきて足下に白いラインを引いてくれる。こんなヘボそうなランナーにも正確な距離測定をしてくれるのだなと思うと、ちょっとしたエリート感が湧き上がる。記録は173km939mであった。やっぱし1m単位まで計測してくれるのね。往復60メートルのトイレに25回も行かなきゃよかった。頻尿にも程がある。
     今日はいい日なのだろうか。少なくとも悪い日ではない。体内にカロリーは残っているし、まだ何かやれる気がする。


  • 2013年10月07日バカロードその59 川の道は迷い道
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     埼玉県寄居町にある東武東上線・玉淀駅は、東京湾岸から100?ちょいの所にある。都市郊外の乾いた空気が、玉淀駅を境に農山村的な濃密な匂いに変わる。
     朝9時に葛西臨海公園をスタートして以来、荒川の広大な河川敷や堤防上をひた走ってきたものの、実際に川面を見る機会といえば4本の橋を渡る場面くらいだったが、玉淀駅以降は深く切りこまれたV字谷の最下部を白波たてて蛇行する荒川を眼下にする。
     多くのランナーは日没後、玉淀駅に着く。遠大な旅路において、玉淀駅ははじめての徹夜走に乗りだす起点ともいえる。
     平野と山地の境界、昼と夜の狭間、100?という数字もキリがいい。第1関門である「こまどり荘」はさらに70?先にあり、なんとはなしに多くのランナーが玉淀駅を1つ目の乗り越えるべき目標として設定している。265?にしろ、520?にしろ、最初の100?をどれくらいの疲労度で走るのかが、そこから続く道程の楽しさ、厳しさを暗示してくれる。

     80?地点の熊谷市街を抜けた頃から体調が悪化し、間断なく吐き気の波が押し寄せてはオェップオェップと空ゲロを口角にもらしながら、走りとも歩きともつかない頼りない前進を続けている。田んぼのあぜ道に寝っ転がったり、トンネルの脇にうずくまったりして奇跡の回復に一縷の望みをたくすのだが、どうやらひとときの体調不良ではなく、リアルに衰弱している。
     この1カ月間に、胃カメラに大腸カメラに内視鏡手術にと都合3度の絶食やら安静を求められ、練習不足から太ももの鶏ササミ筋肉はブヨブヨ脂肪に置き換わり、心臓ポンプは子鼠のように弱々しく拍動する。ベストコンディションでも困難な250?オーバーの道を、こんな病弱ボディでどうやって歩むんだい? と、星ひとつ見えない暗い夜空につぶやく。
     深夜12時過ぎに玉淀駅に着く。100?進むのに15時間もかかっている。ここに立ち寄るランナーへの配慮から、駅舎を開放してくれている。少しでも睡眠を取ろうと待合所のベンチに横たわるが、すぐ脇の自販機の光に誘われてやってきた子虫ども数百匹が、耳の穴、鼻の穴へと飛び込んできては眠りに落ちることを許さない。仮眠を断念し、駅舎をあとにする。打ち寄せる波のごとく睡魔がやってくる。上瞼が地球の重力に引っぱられて落ちる。歩道にある微かな凹凸につま先を引っかけ、受け身を取れないまま虚しくコケる。
     いかに関門時間がゆるい大会だといっても、歩いてばかりでは間に合うはずもない。次第にあきらめの弱虫がぞろ這い出してくる。道路脇を走る線路を見ては“始発電車が動きだす頃にリタイアしようかな”と思い、蛍光灯付きの看板に出くわすと“深夜でも泊めてくれる親切な民宿ではあるまいか”と目を凝らす。
     リタイアする勇気もなく、かといって息を切らせて走る覇気もなく、右に左にと蛇行しながらふらふら歩く。先のことはどうでもよくなり、どこかで眠りたいという欲求だけに心を捕らわれる。いろんな所で仮眠を取ろうとしてみる。公衆トイレの床…タイル地に体温を奪われガタガタ震えだし退散する。お寺のお堂…早起きのお坊さんがいつ現れるかと気になって眠れない。鉄網で囲われたゴミの収集箱…間違えてゴミ収集車に放り込まれたら死ぬ、と考えると怖くなり這い出す。こんな繰り返しでは前進もままならず、1時間に2?しか進んでいない。
     山の端の空が紫色になり夜明けが近いことを知らされる。周囲の景色がうっすら見えだした頃、後方から5人ほどのランナーに次々と抜かされる。みなけっこう速いスピードで走っている。全然ダメージなんてなさそうだ。どこかでたっぷり眠ってきたに違いない。
     テニスコート場があった。フェンス脇にベンチが1脚あり、昇りたての朝日が木々の隙間を縫って座面に一筋射し込んでいる。誘われるように光の下に寝そべる。凍えた夜を直射日光が溶かしていく。温かくなった血液が全身を巡る。2晩目の不眠の夜を越えたら、こんな所に天国があったのだ。安らかな気持ちに包まれる。そして数分で意識がとぎれた。
     目覚めると、ベンチの脇に大きな犬とおじさんが立っていた。「おはようございます」と声をかけられる。ぼくが飛び起きたさまを見て、おじさんと犬は安堵した表情を浮かべ、去っていった。無惨な寝姿を見て、変死体ではないかと心配して覗きこんでいたのか。辺りは早朝の鮮やかな色彩に包まれている。このベンチを発見してから30分が経っている。
     意識はすっきり明瞭だ。不思議なものだ。30分前には廃人だったのに今や走る意欲に満ちている。走ってみよう、走れる、走れる。ウルトラランナーの好きな言葉「つらいのは気のせい」ってのは本当なんだ。どんなにスピードは遅くても、走り続けている限り、関門を超えていける。フットレースとはそういうものだ。あちこちの筋肉を挽肉マシンに通されるくらい痛くても、首が背中のほうにガクンと落ちるほど眠くても、三輪車の女の子に軽々抜かされても、自分でギブアップの声をあげない限りレースを続行する権利はある。
     夜7時、第1関門170?地点の「こまどり荘」に到着。関門閉鎖は夜9時だから2時間の余裕を残している。といっても、ぼくの後ろには1人しかランナーがいないらしい。好んでそうしたいわけでもないが、長距離フットレースでは最後尾あたりを走るのが常だ。
     速攻で風呂に入る。小さな湯舟に首までつかると得も言われぬ快感が全身をかけめぐる。エンドルフィンの無制限バーゲン放出状態である。抑圧に耐えきったあとの解放感は尋常ではない。快感に耐えかねて「うー、うー」とうめき声を上げる。ラスベガスの五つ星ホテルのジャグジーでも、高級風俗店のバスマットの上でも、これほどの快楽を得られることはない。ジャーニーランナーにしかわからない秘密の花園だ。 
     雄叫びをあげながら5分間の湯あみを愉しむ。全身にシャンプーを塗りたくり1分間で体洗いを終了する。刑務所の入浴タイムよりもスピーディである。
     風呂上がりに大会スタッフが用意してくれた食事をいただく。ゆで玉子入りカレーライス、ソーメン、野菜サラダ、フルーツデザート…偏食気味の女性ランナーの分までもらい、お皿とドンブリ7杯をテーブルに積み上げる。飯が終われば睡眠だ。布団に入ると両足裏がジンジンと燃えている。足かけ3日間で30分しか寝ていないため一瞬で意識が遠のく。
     目覚ましをかけて睡眠2時間。95?先のゴール関門まですでに24時間を切っている、急ぐべし。
     深夜11時に再スタート。ヘッドランプとハンドランプを装着し、20?先の三国峠へと続く林道の上りに入る。例年は凍えるほど寒いというが今年は暖かく、用意したダウンジャケットを着用せずにすむ。
     標高743mのこまどり荘から1740mの三国峠まで高度差は約1000m。荒川の支流である中津川に沿って標高を稼いでいく。小石だらけの林道を走るのは無理があり、早足で突き進む。5時間かかって峠のてっぺんに着く頃に、空が白み始める。冠雪を抱く八ヶ岳連峰が、ここが信州という別世界であることを教えてくれる。登ってきた峠の埼玉県側とは、肺の奥まで鋭く刺す空気の匂いや、手ですくってカブ飲みする山水の甘さまで違って感じられる。
     長い峠道を下り終えると千曲川の源流である梓川沿いに出る。街道沿いに川上村の集落が点在し、正面に八ヶ岳の威容がいっそう近づく。高原野菜の一大産地らしく、田畑には用水路が張り巡らされ、透明の水がゴーゴーと滝のような勢いで流れる。手をひたすと冷水器の水ほどに冷たい。シューズを脱いで足をひたす。赤く腫れ上がった足が一瞬にして凍りつく。
     すれ違う登校中の子どもたちが元気よく挨拶してくれる。かと思えば、歩道を連れだって歩く4、5人の外国人のグループと頻繁に遭遇する。どこの国の人だろうか、アジア系の顔立ちをしている。彼らは、ぼくとすれ違う際には立ち止まって気をつけをし、「オハヨウゴザイマス」と深々おじぎをしてくれる。最初は、走りながら返事をしていたが、だんだん自分も同じ態度じゃないと失礼な気がしてきて、都合30人くらいの外国人に直立不動からの斜め30度おじぎ挨拶をする。彼らは、この村のレタス農家が受け入れている外国人研修生らしい。川上村は、総人口に占める外国人の比率が全国一高い自治体なのだという。
     再び眠くなってきたので、梓川沿いの護岸コンクリートの上にゴロリと横になる。もはや誰の目も気にならない。他人にどう思われようと平気である。初日の夜はすごく人目が気になったのに、今なら道ばたで平然と眠れる。人間の羞恥心や道徳心なんて簡単に心から消し去れる。
     雪山から届けられる尖った風がジャージを揺らす。車道をゆくトラクターのエンジンが地響きを立てる。でもぼくは穏やかな眠りに誘われる。なんだかとても幸せだ。
     そうだ、思い出した。ジャーニーランは人生そのものなのだ。タイムを気にし、順位を競って懸命に走るのは序盤だけ。自分の能力やら限界が見えだすと、棒きれのように役立たずになった足を前に前にと何万回も送り出す作業に没頭する。へとへとに疲れては倒れ、路傍の草むらをベッドに熟睡する。道に迷っては途方にくれ、また道を見つけは歓喜する。どこに向かって走っているのかは定かじゃないけど、どこかに向かって走らなくてはならない。そんな人生の縮図の道ばたで、ぼくは眠りに落ちる。 
  • 2013年10月07日バカロードその60 川の道の届かないゴール
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     フルマラソンよりも長い距離を走ることをウルトラマラソンと呼ぶ・・・なんて今さら説明の必要もないけど、100kmよりも遠くまで走る行為を総じてどう呼ぶかは、迷いのあるところである。
     200kmくらい走ったあとに精魂尽き果てのろのろと商店街なぞ歩いていると、地元びとから「よーにいちゃん、ゼッケンつけた人が朝から時々やってくるけど、何やってんの?」と声を掛けられる機会がけっこうある。そんなとき、「ウルトラマラソンです」とは言いにくい。マラソンというからには、走ってないとダメな気がするのだ。右手にご当地サイダー、左手にご当地ソフトクリームを携え、物見遊山気分で未知の土地を歩いている自分を「ランナーです」と自己紹介しにくい。
     かといって地元びとに「ウォーキングの大会なの?」と尋ねられると、少しプライドが傷つく。なんせ2昼夜かけて200km走ったもんですから、歩いて筋力回復させてるトコなんですよ。本来は走ってるんですよ、今はたまたま歩いてるだけでして。商店街アーケード内を走るのも無粋でしょう? なんて地味に心中で反論する。
     他人様に「何をやっているのか」と問われて明瞭に答えるすべを持たないこのジャンル。けっきょく「○○から××まで走ったり歩いたりしてます」と、そのまんまな説明で妥協する。
     あえて日本語化するなら「超長距離走」なんだけど、大会によって主旨も参加者の質も違うから、現実問題としてひとまとめにできそうにもない。250kmを厳しい制限時間のなかで高速で駆け抜ける、スパルタスロンやさくら道ネイチャーに代表される競技性の高い大会もあれば、500kmを時速5キロペースで押していく「川の道」のような耐久的なフットレースもある。
     毎晩、宿泊先を決めて1日70〜100kmを刻んでいく「ステージレース」形式で、旧街道や宿場町を経由して旅と走りを組みあわせる「ジャーニーラン」と呼ばれる世界もある。山野をクロスカントリー走しチェックポイントをめぐる「ロゲイニング」や、地図を片手に街や野山をラン&ウォークする「マラニック」、テント担いで山岳、砂漠、極地を駆ける自炊型の「アドベンチャーレース」もある。1000kmや1週間といった単位でタイムや走破距離を競うガチンコな超ウルトラレースも存在する。
     きっと、これらを総まとめする固有名詞はない。現在60代、70代の齢を迎えた遠くまで走ることを愛する伝説的なランナーの方々が、昭和40年代頃から日本中にたくさんの種まきをし、ユニークな大会をスタートさせてくれた。その歴史に乗っかって、ぼくらは超長距離走を楽しませてもらっている。あちこちの大会に顔を出していると、いまだ現役の「伝説のランナー」たちと走りを共にすることができる。豪快にビールをかっくらいながら100km、200kmとエッホエッホと肩で風切る伝説のオジサンたち。往年の神かがり的な走りではなくマイペースランに努めているのだろうが、それでも彼らの姿を間近で見られるのは幸せである。
     夏は太陽の放射熱に焼かれ、冬は横殴りの風雪に身を震わせ、ブヨブヨに腫れあがらせた「象足」で前進を続ける。それがこの世界。必死でやってるのに、競技名すら定かでない世界。他人と競ってないから「レース」ではなく、勝手気ままに移動してないので「旅」でもない。名無しなのに、全身全霊で打ち込める世界。まったく、ヘンなものに夢中になったものである。
          □
     出発から200km。メイン道路を時々はずれ、裏道の旧道へと回り道などしながら、夕方まで淡々と距離を刻む。長野県南牧村を過ぎると、海尻、海の口、小海・・・と「海」の名を冠する地名や標識が続々と登場する。こんな内陸の高原地帯になぜ「海」かと不思議に思う。1000年以上前に八ヶ岳の大崩落によってこの辺りに造られた巨大な堰き止め湖に由来しているという。その湖もやがて大決壊して、下流の村々に被害を出した。わずか100年ほどの短い期間存在した堰止め湖を「海」と呼んだ習慣が、1000年経った今でも受け継がれているのだなぁと感心する。
     一歩ごとに骨まで衝撃がくる足の裏の弱さも、腸をこねくり回すような持病の腹の痛みも、いったん受け入れてしまえばどうということもない。苦難とは、そうでない幸せな境遇の頃と比較するから苦難として認識してしまうものだ。苦痛のある状態が平時なんだと割り切ってしまえば、脳は意外とすんなり順応する。
     佐久市街にさしかかったあたりで日没し、3度目の夜を迎える。郊外バイパス道の凡庸な風景が連続するため、道に迷うランナーが少なくない場所だが、幸いかなぼくは3年前の経験があり、その時は正確にコースをトレースした。土地勘はある、との自信から記憶に残る建物や交差点を探す。しかし眼前に展開される風景と、記憶の中の淡い映像がなかなか一致しない。見覚えのないファーストフード店、存在するはずのない大型ショッピングセンター、・・・おかしいな。
     3年前も睡眠不足、そして今も睡魔に誘われ中。朦朧とした記憶を、朦朧とした脳でたどれば、結果として至るのは「迷子」なのか。ついに自分がどこにいるのか、わからなくなってしまった。広大なイオンモールの敷地の外周を一周した。次に佐久平駅前から西へ北へと移動しているうちに、気づけば15分前にいた佐久平駅前に戻っている。砂漠のリングワンダリング現象ってヤツである。
     駅前に交番があった。ここはひとつジャーニーランナーたるプライドをかなぐり捨て、国家権力のお世話になろう。お巡りさんにコース地図を見せて、通過しなくてはならない交差点を示す。若いお巡りさんは地図をぐっと睨みつけながら、道路を指でなぞったりし、地名をぶつぶつと暗唱する。そのうち、地図を右にしたり逆さにしたりしはじめる。どうやら土地勘のない新人警官くんのようだ。時はいたずらに過ぎていく。このままではゴール時間に間に合わない。若手お巡りさんの手から地図を取り戻し、「きっと自分でいけると思います」と断り、行く方向も定めず交番を飛び出す。すると、「ちょっと待って!」と年配のベテランお巡りさんが追いかけてくる。そして弁説明瞭な道案内でもって、ぼくの行きたい交差点の場所を教えてくれる。ううっ、知ってるならさっさと教えてよ・・・。
     ベテランお巡りさんの指示にしたがい正規ルートに復帰する。残り1時間で距離8km、問題なくゴールできそうだ。と安心したのは束の間だった。自分は正常だと信じていても、周囲からは異常人格者だと思われてる人は少なくない。明るく礼儀正しいと評判の人が、実は猟奇殺人犯だったって話も珍しくない。自分の立ち位置を客観的に把握するのは、とても難しいのだ。自分が今そういう状態に突入しているとは、自分では気づけない。
     それからも、何度も道を間違えた。曲がり角のたびに、曲がる道を間違えた。方向感覚は失われ、道が登り坂なのか下り坂なのか判別がつかなくなった。地図上に破線で示されたコースを忠実に守って走っているはずなのに、自分の位置を地図上に見つけられない。二次元図面である地図を、現実の空間に照らし合わせて認知する脳の活動領域が眠りに入っている。
     時間はどんどん失われていき、キロ5分で走りつづけてギリギリ間に合うという所まで追いつめられる。260?走った脚でキロ5分なんて走れっこないのだが、それでも全速力で走る。寒いはずなのに額や首筋から汗が猛然と噴き出している。
     コース上に決して現れてはいけない大きな商店街が現れる。黄色やオレンジの街灯がずらりと並ぶ商店街はお祭り会場のようだ。どこなんだ、ここは? しなの鉄道の小諸駅が遠く眼下に見える。ゴール会場は小諸駅に対して低地にある。見当違いの場所へと突っ走ってきたわけだな。
     もはやゴール時間に間に合うかどうかは二の次となり、今という時間を全力で走ることしか考えられなくなった。見えない未来に自分がどうなるかなんて考えても運命は変わらない。この瞬間をどう生きるかが重要なんだ。
     小諸駅に向かって駆け下りる。遠くに懐中電灯を持った出迎えの方が見える。そこがゴールかと思いラストスパートをかけると、彼は「あと500メートル!間に合うから頑張れ!」と励ましながら併走をはじめる。脚のバネを使って、地面にバンバン着地し、空中を飛ぶ。キロ4分00秒ペース、こんなスピードが体内に宿っていたのだ。絶対にゴールしてやる!ぼくはきっとできる! 「川の道フットレース」という強烈な磁場に組み込まれた劇的なクライマックスに向かって、ぼくは疾走する。
     ところがゴール目前にして強大な国家権力が眼前に立ちはだかった。交差点の信号が赤に変わったのだ。そう、フットレースの絶対的なオキテ「交通ルールは厳正厳粛に守らなくてはならない」のである。制限時間残り5秒でゴール!という感動ドラマを演じる手はずだったぼくと、突然の名コーチに名乗りをあげた見ず知らずの出迎えランナーの方は、2人でおとなしく横断歩道の白線の手前に立ち止まり、赤信号を静かに見つめつづけた。車も人もいない暗い夜道なのに、信号が変わるまでむやみやたらと長かった。
     青信号を待って、再スパートをかけた。結局2分だけ間に合わなかった。265?走って60時間と02分。悔しくもなく、やりきった感もなく、しずかに結果を受け入れる。それが2013年という時の断面に、ぼくが出せたすべてだから。
  • 2013年08月22日バカロードその57 努力と結果は結びつきませんよ
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

    最近の若いキャツらはマニュアルがないと何ひとつ行動できんねー!と居酒屋でクダまいておしぼりで脇の下を拭いてるオヤジ世代の一味でありながら、わが走りはトンと自己主張に欠けている。
     体重1キロ痩せたらフルが3分速くなると聞けば絶食に挑み、かんじんのレースで枯渇。本番3日前から炭水化物を大量に採るべしと過剰にバカ食いして大会当日腹をこわす。
    「BORN TO RUN」を真に受けてアスファルトの上を裸足ランして足底筋を痛め治療に半年。人間機関車ザトペックが400メートル×100本インターバルやってたと聞きつければサルマネをして無理がたたり会社を休む。エルドレット高原のケニア人たちは子どもの頃からつま先着地だとの科学者の分析を受け入れバレリーナのごとくつま先で駆け、いいやジャーニーランナーたるものズリ足走法が関節を守るすべだとのベテラン氏の矯正によりカカト足着地に再改良。大会前日のQちゃんマラソン講座で「うで振りをしっかりと!」とアドバイスされたら「ハイッ!」と元気に返事して筋肉痛になるくらい腕を振り、そんなに腕を振ってるとエネルギーロスがひどいよと先輩ランナーに諭され二の腕をピタリと静止する。
     他人の意見にすべて同調し、結果なーんにも身につかないまま中途半端なフォームでぎこちなく走る。
     山と田んぼしかないド田舎で育った四十路男。青春時代の情報源といえば、本屋さんに並ぶ雑誌「ポパイ」に「ホッドトックプレス」に「宝島」。洋モノカルチャー輸入・移植の全盛時代の末期であり、典型的なマニュアル追従の世代なのである。こんなブランド着たらモテモテだよねか、こんなスポーツカー乗ったら女が食いつくゼとか、他人が考えてくれた路線に乗っかって生きていくことを心地よく感じる性分はオッサンになっても治らず、リディアード教本から増田明美の恋愛小説までランニング関連書籍を100冊以上読破するが、モテ男マニュアルが現実社会では役に立たないのと同じく、いっぱい読書したからって脚が速くなるわけもない。
       □
     100キロレースに過去20回ほど出て、潰れずゴールまで走りきれたのは1回こっきり。潰れ率95%のハイアベレージである。
     フルマラソンだと、一流ランナーでも「35キロの壁」が克服すべきポイントとされ、調子よく走ってた選手がボロボロに崩れていく姿が、テレビ中継では視聴者の情緒を刺激する。35キロでダメになったら残り7キロってほんとに長く感じるよね。でも、まあ7キロだから辛くても1時間がまんすりゃいい。
     それに比べてウルトラマラソンの「潰れ」はやっかいだ。70キロでアウトになれば残り30キロ、50キロだとあと50キロもヘロヘロしなくちゃいけない。潰れて歩きが入るとキロ10分すら切れなくなり10キロ前進するのに2時間もかかる。散歩中のオバサンが不思議そうな顔でこっちを見ながら追い越していく。もがき苦しんでも1キロごとの距離表示板は見えてこない。暗い気分が増幅し、徐々に気が遠くなってくる。
         □
     ひとことで「潰れる」と言っても、症状としてはいろいろで原因もまちまちである。
     心肺能力の限界を越え、乳酸処理が間に合わなくなった「もうぜんぜん動けません」枯渇か。
     バテバテ体質がために体重の10%近い水分が流れ落ちてしまった重度脱水症ゾンビか。
     汗かき余波で血糖やら電解質やら失って、脚よ腹よと全身の筋肉が攣りまくって、陸に打ちあがった魚のように道ばたでピクピクしてるヘンなオジサンか。
     数万歩の着地で絹ごし豆腐のように力をなくした筋肉がヒザ関節を支えられずに、カックンカックンと歩むあやつり人形マリオネット状態か。
     胃酸過多だか胃酸ストップだか知らんが胃が暴れはじめて涙目のゲロゲロ。やがて消化管からなんにも吸収できなくなった完全バーンアウト君か。

     いずれにしろ「走りたい」って気力があるにも関わらず、肉体が死びと寸前になった状態を「潰れた」と呼んでいる。
     お金を払った見返りに苦しみや痛みを求めるのは、一般的にはマニアな性癖嗜好の持ち主だとされる。まっとうな社会人たるもの、額に汗して稼いだゼニ使うならば、快楽に変換されないと意味がない。
     それなのにウルトラランナーってやつは、なけなしの貯金から遠征費を5万円も10万円もはたいて、夜も明けぬ午前3時前には起きだしては、汗まみれ血まみれドロまみれに100キロの道のりをゆく。誉められもせず、苦にもされず。首尾よくゴールまでたどりつけたらマシ。たいていは途中でぶっ潰れて、エイドステーションのパイプ椅子の背にグデッともたれかかるか、あるいはブルーシートに大の字グロッキーになって自己存在への大いなる疑問を涌きたたせている。週明け月曜、会社を無理やり休んで、飛行機乗り継いで遠くまでやってきて、オレはいったい何をやっておるのか。こんな所で動けなくなっているブザマなわが身とは何ぞや。
     脳みそは厳しさよりゆるさを求める構造にできていて、一度歩みを止めると元には戻れない。走るのより歩くのが楽、歩くより座るのが楽、座るより寝ころぶのが楽。わざわざ時間と金かけて遠くまで来たんだし、せめて関門に間に合う程度には、と下うつむいて歩く。
     毎度毎度、潰れ状態に陥ってしまうのは、練習不足が原因なんだろうか。「走った距離は裏切らない」って金言は、多くの勤勉なランナーの心の拠り所であるし、やっぱ走行距離が足りないんだろうかね。
     しかしウルトラマラソンにおける練習不足ってどんなんだ。フルマラソンに向けて40キロ走を何本かこなすのは定番メニューだけど、100キロレースの練習に100キロ走をやってる人なんて知らない。こなせても50キロ走とか60キロ走なんだから本番では一発勝負になってしまう。「本番の半分の距離を練習で走れてたら大丈夫」とのありがたい金言もあるが、ボクの場合、練習で50キロ走を楽々こなし万全だと自信を深めていても、本番では必ず潰れる。やっぱ100キロ走りきるには100キロの練習が必要なんだ、きっと。
     このような崇高な結論に至りつつあるボクの横を、レース終盤にも関わらずぺちゃくちゃ余裕でお喋りしながらランナーが追い越していく。こーゆー人に限って「練習なんて特にしてないのよね。レースが練習がわりなのよ」なんてケロッとしている。大会前夜にアルコール・ローディングと称してガバガバ酒を飲んで宴会してる酒豪もおれば、密かにペットボトルにビールやらワインを密造酒よろしく移し替え、レース中に酔っぱらってる人だっている。
     こちとら月間500キロも走って、専門書を100冊も漁り読み、スタート前のウンコのタイミングを見計らって15時間前きっかりにメシ食ったりして超本気の臨戦モードだってのに。これほど気マジメに取り組んでるにも関わらず、「練習なんてしないよ」オジサンたちに笑いながら追い抜かされる屈辱よ。努力なんて、努力なんて・・・何にも報われねーじゃねーかぁぁぁぁ。
     そんな風に身も心もザクザク傷ついたからといって、ウルトラ世界の人びとに慰めてもらおうなんて魂胆は抱くべきではない。さらにひどい仕打ちを食らう可能性がある。女性ランナーなどもってのほかだ。
     「やっぱキツいですよねー。もうボクぜんぜんダメです。つらいですぅ」なんて話しかければ、(ほんとよね。でもここまでよく頑張ったじゃない。もう少しよ。頑張ってるキミ、なかなかステキよ)的な愛あふれる言葉が返ってくるなんて期待してたら大間違い。
     「何言ってんの!レースはここからでしょ!グダクダ弱音吐いてんじゃないわよ!」と一喝され、ぼうぜんと置き去りにされる。特にトレイルの100キロとか、ロードの200キロ以上とか、道のりが険しけりゃ険しいほど、女性ランナーは強くたくましく、弱虫坊やのたわごとなど一顧だにしない。
     巷でブームの熟女といえば、懐が深く、すべてを受け入れてくれる優しさが年下男を夢中にさせてるわけだが、ウルトラ世界の淑女の方々はそうはいかない。痛くても苦しくても歩みを止めず、大地と空の境界線をキリリと睨んで前進する気丈さに溢れている。泣き言なんて受け入れる余地はない。いったい今まで何度、女性ランナーに叱り飛ばされたことか。最近ではクセになって、わざと怒られるよう甘えん坊を装ったりもしている。自分のなかに新種の変態性が芽生えつつある。
     こうやって渋谷系ポップミュージック的甘い甘いカプチーノな雑念にまみれ、自責と悔恨の念に苛まれつつゴールテープを切る。ゴールシーンを撮影してくれるカメラマンが待ち構えてくれているから、少しだけガッツポーズの真似事をする。心がこもってないから拳に力なく、両手をだらしなくあげる。そして今日もまたうまくいかなかったと落ち込みながらソソクサと着替えをし、送迎バスの段差を震えるヒザで登り、職場への言いわけ程度の土産を買ってかの地を後にする。
     「走った距離は裏切らない」は、どうやらウルトラマラソンの世界には通用しない。努力の分量と成果には何の一致も見られない。これは社会の構図と同じ。
     ボクの人生ほどほどにイマイチ、ランニングもやっぱイマイチ。結局、ランナーだろうとサラリーマンだろうと、それを演じてる人物はボクという人間なんだから、びっくりするような結果が飛び出すはずもない。土曜と日曜と月曜をつぶしては、何百キロも遠方の見知らぬ土地までのこのこ出かけ、日々嫌というほど繰り返している失敗やら幻滅を追体験し、「マラソンは人生の縮図である」を実感する。そして火曜日には職場に戻りウルトラマラソンのような制御不能な人生をまたひた走る。どんな練習をしてもうまく走れない。だけど走る。走ってないとダメになりそうだから走っている。
  • 2013年08月22日バカロードその58 川の道に戻る
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     「川の道フットレース」は特別な場所だ。520キロをワンステージで走りきる長大な道のりが生みだす物語は、ある種の哀愁を伴って胸に淡い痛みをもたらす。選手たちも、選手をサポートするスタッフも、ただならぬ思いを秘めてこのレースに参加している。人生を懸けてとか、勝負レースだとか、そういう大げさなものではなくて、静かな波打ち際から水平線に浮かぶ貿易船を眺めるような、茫洋とした感慨が胸に溢れている。
    毎年、4月最終日から5月5日まで6日間かけて行われる「川の道フットレース」。東京湾岸の葛西臨海公園を出発点に、埼玉県を秩父山中へと横断し、長野県の八ヶ岳連峰の山麓を駆け抜け、残雪も残る豪雪地帯の中越地方を経て、新潟市の「ホンマ健康ランド」をゴールとする制限時間132時間の国内最長のワンステージレースである。
     「川の道」の名は、主催者である舘山誠さんがかつて荒川河口から源流域まで走り旅をした際に、荒川がついえる峠の頂から遙か日本海へと連なる千曲川の美しい流れを目にした事に由来する。荒川〜千曲川〜信濃川という大河を結んで太平洋岸から日本海までを自分の足で走り抜く、そのロマンを実現したのが「川の道フットレース」なのだ。
     2005年、4名のランナーによって物語の扉は開けられた。ジャーニーランのパイオニアであり伝説的なランナーであった故・原健次さん、走る落語家あるいは喋るランナー三遊亭楽松さん、幾度もこの大会を制したミスター川の道・篠山慎二さん、そして主催者である舘山誠さんの4人が道を切り開いた。それから9年目を経て、今年は「フル」と呼ばれる520キロに70人、「前半ハーフ」265キロに29人、「後半ハーフ」255キロに42人がエントリーした。総計141人参加という大所帯のレースへと成長した。
      □
     ぼくは3年前に520キロに挑戦し、制限時間の1分前にゴールを果たすという奇跡を起こした。2日目からずっと全ランナーの最後尾、ダントツのビリを走りつづけた。足の遅さをカバーするために仮眠所での睡眠を削り、1日平均睡眠1時間という無謀の果てに手にしたゴールだった。
     風船のようにパンパンに浮腫んだ足の裏は、一歩ごとにぐにゅぐにゅした物を踏んづけて走るような嫌な感覚。四十を過ぎた大のオッサンが「もう嫌だ、痛い、つらい」と人目をはばからず涙を幾度も流した。現実と夢の区別がつかなくなり、4日目の夜、自分の氏名を思い出せなくなった時には戦慄に震えた。
     それでも絶対にゴールまで行くのだ、という一念は最後まで折れることなく、仮眠所ごとに設定された関門時間に遅れそうになる度に炎の猛スパートを何度も繰り返した。132時間走り続けたあとは、「極限まで力を出し切った」という満足感が強烈に残った。
     いつか大きな病に倒れたり、突然の厄難に見舞われたりして、あと5分で自分の命がこと切れるとわかったら、ぼくはきっと「川の道」のことを思い出す。それほど深いクサビを心に打ち込まれた。
      □
     今年、ぼくは「前半ハーフ」265キロにエントリーした。本来は「フル」を走るべきなんだが・・・3年前の怖さがまだ拭い去れない。臆病風に吹かれたのだ。
     言いわけめいた理由はある。昨年あたりから原因不明の体調不良に見まわれ、内臓の痛みや極度の疲労からまともに走れる状態でなくなっていた。3月にその原因の一端と思われる大腸の病変が発見され、4月にサクッと切除した。初期の大腸がんってヤツである。腫瘍を切り取った後の大腸の内壁をクリップと言われるホッチキスみたいな針でパッチンパッチン留められてはいるが、手術後はずいぶん体調が良くなった。気のせいなんだろうけど。
     今年の「川の道」は復帰戦なのである。ふたたび超長距離フットレースの世界に舞い戻るために。練習量、体調ともにベストにはほど遠いけれど、長距離フットレースは「今持っているものを総動員して走る」のが基本なんだ。年齢も、障害も、病気も、運動能力も、人それぞれが持つバックグラウンドをマイナスと捉えずに、ただひたすらゆっくりと走り続けるという行為に昇華できるか。完走の成否と、レースの価値はその一点にかかっている。
      □
     大会前日は、東京都内で宿泊した。神田界隈に宿を探すと御茶ノ水駅近くによい宿があった。オフィス街と神田川に挟まれた閑静な場所かと思いきや、4月に開業したばかりの「御茶ノ水ソラシティ」と「神田淡路町ワテラス」の至近にあって、両スペースが賑やかな音楽イベントなぞを催しており、お祭り騒ぎな空気に包まれていた。
     東京に泊まるときは神田周辺が定番だ。神田界隈は、単純無類なぼくの趣味趣向を満足させるお店がずらりと並んでいる。三省堂を街のヘソに抱く神田神保町の大型書店は新刊のディスプレイひとつとっても書店員のプロフェッショナルを感じさせる。直射日光のあたらない靖国通りの南面には専門性の高い古本・古書店が軒を連ねる。ネットでも入手困難な地図専門店があれば、地方出版物専門書店もある。
     一方、裏道に入れば吉本興業の「神保町花月」があり、若手芸人を中心とした実験的な芝居の公演が毎日組まれている。
     駿河台交差点を隔てて神田小川町にはアウトドアブランドの旗艦店はじめ国内の主要登山・アウトドア専門店が最新アイテムを並べる。少し離れるがプロレス・格闘技の聖地である「後楽園ホール」や、ランナーの聖地である皇居内堀通りは歩いていける距離にある。オタクカルチャーの聖地・秋葉原も目の前だ。つまり神田って場所は、いろんな聖地に囲まれまくり、なんである。
     だが、何をさておき神田に宿をとる最大の理由は、「たいやき神田達磨」という鯛焼き屋さんの存在である。看板メニュー「羽根付き鯛焼き」は鯛焼きの四方に長方形状にバリを残して焼き上げられる。そのバリがクッキーそのものの甘カリッさで鯛焼きの概念を打ち壊している。さらに行列のお客の情況に応じて仕上げ量を調整しているため、作り置きがない。鯛焼き一枚だけの注文だとしても、必ず焼き上がり直後を入手できる。
     しかし鯛焼きひとつ食べたいがために、わざわざ近隣に宿泊する必要などあるだろうか。節度ある大人の判断としてはNGだろう。だがせっかく東京まで出かけたからには2度、3度と焼きたての「羽根付き鯛焼き」を食したいのだ。近場に宿を取れば、外出・小用のたびに調達できるというメリットがある。
      □
     さて、大会前日は日本橋富沢町で行われた説明会に参加し、夕方4時すぎに終了。地下鉄一本で5時には宿に戻れる。翌朝9時のスタート時刻に間に合うギリギリ寸前まで眠れるだけ眠るという方針だ。レース前夜、最低でも12時間以上眠るのである。レースが始まれば、3日間ほぼ睡眠なしで走り続けなくてはならない。寝だめは必須なのだ。
     帰り道、「たいやき神田達磨」にて本日3度目の鯛焼きを購入し、ホテルに戻って熱々のお風呂につかり身体をあたため、たらふくのご飯(おむすび4個とカップ麺とお総菜2パック、そして鯛焼き2尾)を食い、アサヒスーパードライを1缶飲み、念のため睡眠導入剤まで服用してベッドにもぐり込む。
    ところがどうしたものか、目も脳もギラギラと冴え渡り、眠りに入る予兆もない。寝返りを右に左に百回、掛け布団を掛けたり外したり、目を閉じても開いても胸の鼓動は高鳴るばかり。「川の道」への異常なる愛情から、不安と恍惚が交互に押し寄せ、アドレナリンがドクドク溢れる。
     暗闇にマナコを開けているのも退屈で、枕元に置いていた百田尚樹のスポ根青春小説「ボックス!」を読めば興奮に助長。そして一睡もできないままに、窓のカーテンには白々と夜明けのしるしが刻まれた。やばい、やばいよ、こりゃ!
  • 2013年08月22日バカロードその56 冒険心朽ちた中高年男としてのあてどなき走り旅について
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     休みを見つけると、ときどき遠くまで走ってみる。
     いちおうゴール地点は決めておいて、途中の行程はなりゆきまかせ。ルートの下調べはテキトーに、曲がり角にさしかかれば道路標識の矢印を気の向くままに選び、日が落ちて程よい頃に宿に出くわせば飛びこみで泊まり、なければ野宿する。
     ゴールは200キロ先だったり300キロ先だったり。一日に80キロくらい移動するから、休みの日数をかけ算して、自宅から同心円を地図に描けば、ゴール地点の候補が見つかる。小さくてもいいから温泉宿か、もしくはスーパー銭湯のある街を選ぶ。戦い終えたジャニーランナーの異臭は、一般人の鼻孔をツンと刺激するはずだから。
     荷物はなるべく少なめに・・・というかほとんど持たない。わが国では、必要なものは、必要なときに、いずこでも購入できる。よほどの山奥に分け入らないかぎり。
     初日に着るシャツは捨てる前提。二日目以降は、百均ショップで売ってる安シャツに着替えながら進めば洗濯の手間がかからない。ただでさえ狭苦しいわが家の押し入れスペースを圧迫しているのは、マラソン大会の参加賞でいただく新品のTシャツ段ボール箱3個分、軽く100枚以上。これを消費するチャンスである。どう考えてもダサすぎて二回とは着ないと思われるブツを選びに選び抜く。毛書体で「○○マラソン大会」とものすごく大きくプリントされた1枚に目が止まる。これしかない。
     シャツと同様、ベロベロに伸びきりながらも捨てられなかった靴下のつま先をハサミで切り落とし、使い捨てアームカバーとして用いる。こいつも汗が乾いて臭くなったらゴミ箱にポイしてやればいいのだ。
     てな感じの着こなしをしている事実を忘れ、通りがかった商店街のショーウインドーを、ランニングフォームを確認すべくチラ見すれば、超ダサいマラソンシャツにくたびれた靴下を腕に巻き、防寒用のボロタオルを頬っかむりしたコントの泥棒のようなオッサンがガラスに映っている。なんたるファッションセンスか。
     そして結局は、ダサシャツも穴あき靴下もなんとなく捨てるに忍びず、こまめに石けんで手洗いし、最終日まで着続けたあげく、捨てることなく自宅まで着て帰る。「断捨離」が一世風靡する消費社会には、まったく適合できない古い世代である。
     着の身着のままなれど、夜間照明用のヘッドランプとホタル(赤く点滅するやつ)と反射板だけは持っている。これはジャーニーランナーの義務ですね。持ってるのはそれだけかな。あ、あとクレジットカードとゆうちょカードも。ゆうちょカード、ド田舎ではアメックスのブラックカードより威力を発揮します。
        □
     走って旅に出るのはGWや盆休み、大晦日前や正月明けが定番。4日、5日と走ってすごす時間はひたすら冗長。民家の影もない林道とか、観光地どころかお地蔵さんすら現れない田舎の酷道とか。俗世を離れ、もたらされた思索の時を利用して、人生の価値を問い直したり、素晴らしいビジネスのアイデアを閃かせることはない。(なんかたいくつ〜。何か事件でも起こってよ〜)とオネエ的にくねくねしてる時間帯が長い。1日に12時間も走っていると「飽きた」と考えることにも飽きて、無の状態に近づく。良くいえば禅の境地である無念無想、実際は脳みそ空白パッパラパー。
     ヒマに耐えきれず、文庫本を読みながら走ってみたりもするが、物語に夢中になると崖から足を踏み外しそうになる。危険だからおすすめしない。

     ふだんから、身に降りかかる悪い出来事は他人のせいにし、責任は部下に押しつけ、イライラして物にあたるなど短気なタチなのに、よくもまあ何百キロもとろとろと走るなんて気長なことやってるよな、と感心する。学校の授業中10分と席に着いてられないガラ悪のニイチャンが、パチンコ屋なら1日じゅう狭苦しいビニル張りイスに座ってられるのと同じ肉体感覚かな。
     今からの季節、年末年始ジャーニーランはタフさを要求される。単純に寒いですからね。
     峠道にさしかかると、たいてい吹雪かれる。登山靴ならまだしもメッシュ素材のランニングシューズで雪道を走るのは地獄。しじゅう氷水に足先をひたしてるような責め苦が1日つづく。どんなに寒くても、自販機のひとつでも出くわせばホットコーヒーをカイロ代わりに耐え忍べるが、そこは峠道という場所柄、自販機などあるはずもない。降り止まぬ牡丹雪を見上げながら、お堂の軒先にあぐらをかいて、凍傷寸前の足指をもみもみ血流をうながす。
     夜、気温5度を下回ると、野宿しても眠れっこないから、一晩じゅう走りつづける。
     山村にさしかかると、民家の窓のカーテン越しにオレンジ色の温かな照明具の光が透け、テレビのバラエティ番組の効果音の笑い声が漏れる。ガラス一枚向こうには一家団欒のぬくもりがある。こういうシチュエーションが、真冬の走り旅では最も心をゆさぶられる場面である。旅立ちの頃のハイテンションはすでに過去のもの。一刻も早くこの旅を終え、熱い湯船に身を横たえ鼻先まで浸かりたい。ふかふかの布団にもぐりこんだまま、撮りだめしたサイエンス番組や借りてきたハリウッド映画のDVDを観たい。素粒子物理学者がついに解き明かしたという宇宙誕生の瞬間や、アメリカ合衆国を中心に人類が滅亡していく様子を、ぬくぬくと寝ころんで見物するのだ。そんな夢想とも幻覚ともつかないゆるさへの渇望にとらわれる。
     指の10本の爪、凍えて割れそうだ。浸みだしたシャツの汗がバリバリと背中にへばりつく。白い息を蒸気機関車のようにたなびかせる。自動車一台通らない峠道に赤ホタルを点滅させ、下界の暮らしを恋い焦がれる。
     こんな風に朝まで走りつづけることもあれば、運よく宿に出くわす夜もある。
     闇夜の奥に、ホテルの小さな看板の白い灯火がチラチラ揺れる。これは幻か狐火かと疑いながらも、淡い期待に胸躍らせる。
     それが例え1泊1500円のドミトリー部屋でも、湿ったせんべい布団一枚、ナイロン畳の木賃宿でも、朝までご宿泊2980円の壁の染みが幽霊に似たラブホテルでも、屋根があって熱いシャワーが浴びられる家屋であるなら、しあわせこのうえない。
     なんせ比較対象が野宿とか徹夜ランである。吹きすさぶ寒風にさらされることなく、幅狭のバス停ベンチから寝ぼけて転落する心配もない人家の布団で、両の手足を伸ばして眠れるなんて貴族階級待遇でしょ。
     そういや最近、格安で泊まれる宿を見つけ、玄関で旅装をときながら「こんな所に安宿あったんですね」とか「貧乏宿はありがたいもんですね」なんて持ち上げてると、「うちはゲストハウスですよ」と釘を刺された。かつては北海道や沖縄、さらに東京・大阪のドヤ街にしかなかった1泊1000円台の安宿だが、知らぬ間に「ゲストハウス」と名称を変え、全国いたる所、ロードサイドや路地裏に誕生している。多くは20代や30代の若者が経営者や管理人を務め、インテリアはリサイクル家具や貝殻アートやエスニック柄のファブリックでオシャレっぽくしている。ゴミの分別には超厳しくて、夜ごとプチパーティーや週末バーなどもありーので、流行りのシェアハウス的なノリで盛り上がっている。日本経済を末端で支える中高年男としては、そんな若者たちのノリに適合できるはずもなく、寂しい思いをするばかりだが、孤独に耐えきる覚悟さえあれば快適に過ごせなくはない。
        □
     さて中高年男よ、せっかくの連休をつぶし、いろんな切なさや孤独を乗り越えてまで何で走ろうとするんだろうかね。
     強迫観念かな。まとまった休みに、アウトレットパークでタイムセール品を買い漁ったり、テーマパークで着ぐるみキャラとダンスしたり、デパ地下でスイーツ食べ歩いたり、心豊かに過ごすことが怖いんだろうね。すり減った感が欲しいんだ。何かをやったんだって証を得るために、自分を削り取っていく自傷行為をしたいんだ。SM女王様に猿ぐつわされないと満たされない男が、女子大生キャバ嬢と低俗なシモネタトークしてもつまらないのと同じ精神感覚かな。だいぶ病んどりますな。仏門に入る日も近し。
  • 2013年02月28日バカロードその55 自傷行為としての地球一周
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     極端な徘徊老人。
     あるいは3周乗り遅れのフラワームーブメント。
     哲学はなく、ただ衝動あるのみ。
     走って地球一周したい。
        □
     スタート地点は南米最南端。南米最南端という称号がどの地を指すかといえば実ははっきりしない。アルゼンチン領の最南の街「ウシュアイア」か、さらに南方面に10キロ移動し、ビーグル水道を越えたチリ領のナバリノ島にある「カポ・デ・オルノス」という村か。 南米の先っぽのホーン岬は複雑すぎるリアス式海岸で、どこが南のはしっこなんだか特定しようがない。実際行ってみりゃ、わかるんだろうけどね。ビーグル水道といえば進化論のダーウィン先生が乗ってた「軍艦ビーグル号」が名高いけど、200年も昔にこんなとこまで船で来てたんね。
     ホーン岬から太平洋岸を北上し、南北に細長いチリを縦断するとこの国だけで4400キロ。途中で飽きたらアンデス越えしてアマゾンの湿地帯を抜けるか。いずれにせよ南北アメリカ大陸の分水嶺であるパナマ地峡まで8500キロ。パナマ運河にはアメリカ橋って名のでっかい橋が架かっている。この橋の真ん中が南北アメリカ大陸の境界ってことか。
     中米諸国を小刻みにステップアップすると、メキシコ、米国、カナダとたった3国で分割統治する北米大陸入り。いやはや、贅沢な領土支配っぷりだねぇ。アメリカ合衆国はキラびやかなサーフコーストつづく西海岸は避け(そんな気分じゃない)、ルーツ・オブ・アメリカを遡る東海岸か、中西部と五大湖地方を突っ切るド田舎コースか。
     カナダ、アラスカを経て、北米大陸の最西端まで1万9000キロ。凍てつくアラスカ、変化のない風景の毎日を過ごすのは、相当な精神力が必要だろうね。そもそも道がなくて海沿いに小さな村落が点在しているだけ。こりゃ地獄かな。
     北米大陸とユーラシア大陸が最も接近しているのはベーリング海峡。アラスカ州プリンスオブウェールズ岬からシベリア東端のデジニョフ岬までは、直線距離で86キロ。
     ベーリング海峡のほぼ真ん中にダイオミード諸島がある。米国領のリトルダイオミード島と、ロシア領のビッグダイオミード島が東西に並んでいて、その2島を隔てるわずか3.6キロの水道が、北米大陸とユーラシア大陸の中間である。アメリカ合衆国とロシアという2大国の国境と、さらには日付変更線まで通っている。冷戦時代ならここが共産主義と資本主義の思想境界である。人類が設定したいろんなラインが、この狭い海に束となってうねっている。
     日本人のご先祖でもあるモンゴロイドの一群が1万年前にこの海を歩いて渡り、北米大陸を開闢する礎となった。人類は、帆船と六分儀を駆使して大西洋から北米大陸に到達したのではなく、「歩いていった」のである。
     ベーリング海峡は1年のうちで2月のみ全行程が凍結する。2月の気温は氷点下40度。しかし海面は完全氷結しているのではなく、浮遊する流氷の塊が常時移動している。ここを単独徒歩で抜けるのはヒマラヤの7000メートル峰登頂クラスの難易度だ。
     厳冬期の徒歩横断が難しい場合、最も水温があがる真夏に泳いで渡る。米側から36キロメートル泳いでリトル島へ、リトル島は幅2キロちょい。東西世界を隔てる3.6キロを泳いでビック島へ。幅3キロのビック島西海岸から再び35キロメートル泳げばユーラシア大陸到着だ。真夏といえど水温5度、早い海流の中を泳ぎ切れるのか。ボートをチャーターし、サポートをつけるとしても難題であることに変わりはない。厳冬期よりは成功確度は高い? あきらめてカヌーで行くか・・・なんかヤだな。
     ユーラシア大陸の最東端・デニジョフ岬に上陸後は一路シベリアを南下する。大陸横断のルート候補は2つ。中国・チベット自治区を経てヒマラヤ越えをし、ネパール、インドへと下るルートか。あるいは新彊ウイグル自治区からキルギス、タジク、ウズベクを抜ける中央アジアルートか。アルカイダの戦士たちが支配する地域は避けておきたいので、パキスタン北部とイラン南部は迂回したい。ってことは中央アジアルートを選ぶことになるんだろうね。地球一周には「世界の屋根」越えであるチベットルートは諦めたくないけど・・・道半ばで首ちょんぎられるのもイマイチだし悩む。
     文化の坩堝であるアジア最後の地は、ヨーロッパとの境目とされるトルコのボスボラス海峡。海峡をまたぐボスポラス橋は歩行通行が禁止されてるので、ベーリング海峡以来の水泳横断しかないね。幅1キロくらいと吉野川程度、温帯だし国境衛兵もいないから、問題ないか。
     欧州路に入れば、現代科学や哲学、政治・社会制度のほとんどを生み出した地、ギリシャやイタリアに興奮を抑えられないだろう。快適に心滅ぼされ、沈没しないようにしたい。後ろ髪引かれながらユーラシア大陸の最西端はポルトガルのロカ岬を目指す。有名な「ここに地終わり海始まる」の石碑がある場所だ。
     ベーリング海峡からロカ岬まで1万7000キロ。いやはやユーラシアの何たるデカさよ! そして最後の大陸アフリカへと針路を南に向ける。
     ユーラシアとアフリカ、2つの大陸がいちばん接近しているのはジブラルタル海峡。イベリア半島最南端のタリファ岬と、モロッコ間が最も接近しており距離15キロメートル。ジブラルタル海峡を泳いで渡る人はそう珍しくない。2大陸間を泳ぐっていう物語は、冒険心をくすぐるものがあるからね。海流の流れが激しいが、週に2度くらいは「凪」の状態になる。その日がチャンスだ。
     モロッコ上陸後は、この旅においてアラスカ〜シベリア間に匹敵する難易度、サハラ砂漠の縦断が控える。車道の途絶えた砂の海を3000キロ、途方もない道程をゆく。バックパックでは消費する水と食料を背負いきれないため、リヤカーかラクダが必要になる。リヤカーのタイヤは砂地に重く沈み、一方ラクダは気性が荒く、飼い慣らすのは難しい。サハラ砂漠の中央部にあるマリ共和国は、ぼくが最も尊敬する冒険家・上温湯隆が1975年に横断を試み、夢なかばにして22歳の若さで命を落とした墓標の地だ。あえてサハラ越えをせず象牙海岸、奴隷海岸を迂回する安全策もあるが、ぼくは22歳の上温湯隆が朽ちた場所に行きたい。飢えと渇きの中で彼の目に映った世界を、見てみたい。
     砂漠を抜けると一転、世界最大の流域面積を誇るコンゴ川流域の大ジャングル。そして政府の支配及ばぬ無政府地帯が国土の多くを占めるコンゴ人民共和国、アンゴラ、ナミビア。撃たれなきゃいいけど、撃たれないスベなんてあるのかねえ。
     アフリカ大陸は最短ルートを選んでも9500キロ。最も困難で、苦しい旅になる。長い旅の最期の地は南アフリカ共和国の喜望峰・・・といきたい所だが、実際んところ最南端は喜望峰ではなく、アガラス岬という名も知られぬひっそりとした岬なのだ。カツオドリくらいは歓迎の嘶きをあげてくれるかな。ここがぼくにとっての「地終わる」場所だ。
     4つの超大陸がたった2つの海峡、それも合わせて100キロメートルの狭い海でしか隔てられていないのが興味深い。つまり全大陸は、ほぼ連結している。
       □
     地球一周、4万5000キロの旅。1日50キロ走行すれば900日。実走行3年、実際にかかるのは、うまくいって4年ってとこか。
     100%、誰のためにもならない行為。無益で、非生産的で、ただ走るだけ。社会的な意義はない。チャリティーを促さず、社会起業に通じず、偉大なる人類史をたどらない。戦争を肯定し、時の社会制度に準じ、雄弁なカウンターカルチャーを前に言葉を失う。
     ただ無心に自分を傷める、自傷行為である。手間暇のかかる大袈裟なリストカッターだ。エグい思いをしないと、生きている実感を伴わない。身体がフラフラになってないと、生きていることを認められない。途中で破綻しようと、目的地にたどり着こうと、充足感はない。その先に何もないことを知って、頭をうなだれる。
     それでも、やらなければならないリストの最上位にある。いつやれるだろうか。そんなに先のことではない。
  • 2013年01月31日バカロードその54 新崎人生20周年と、平凡な観客に流れた20年という歳月について
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     プロレスにおけるキャラクター設定のことを、コアなファンは「ギミック」と呼ぶ。
     ヤスリで歯を研ぐ銀髪鬼フレッド・ブラッシーのようなわかりやすいギミックもあれば、「あの前座レスラーは、怒らせると何をしでかすかわからない。猪木ですら恐れて近づかない」などとギミックの裏側の真相を喧伝する、という多重のギミックもある。
     タイガー・ジェット・シンが新宿の路上で猪木夫妻を襲撃したのはアングル(シナリオがあった)と言われているが、ブルーザー・ブロディが控え室でレスラーにナイフで刺されて亡くなったのは事実だ。どこまでがフィクションで、どこからがノンフィクションなのか。何十年とプロレスを見続けても、業界関係者から「ここだけの話」を耳打ちされても、ひとつの謎を解けば、また別の疑問が生じ・・・を繰り返すのがプロレス大河物語の姿である。
     20年前、メキシコの国技ともいえるキャラクタープロレス、ルチャ・リブレをベースとしたみちのくプロレスが旗揚げされた。それまでの日本型プロレスの「嘘か真かわからないギミック」ではなく、誰の目から見てもギミックとはっきりわかるキャラクター設定を行った、陽気なプロレスを提供する革新的な団体であった。
     「お遍路」をモチーフにしたプロレスラー・新崎人生は、最初はあいまいな設定だった。「極悪坊主」の異名でコブラクローや凶器攻撃を繰り出すルード(悪役)を演じていた。
     潮目が変わったのは、デビューから1年後の東京・大田区体育館のサスケ戦だ。プロレス巡業を札所巡りになぞらえた新崎の「八十八番札所」目にあたる試合は、東北のローカル団体に過ぎなかったみちのくプロレスが東京の大バコで勝負に出た重要興行のメインイベントとして企画された。
     対するサスケは、その前月まで新日本プロレスが主催する「第1回・スーパーJカップ」に出場し、ライガーやサムライといった当時トップ選手を次々と破り、準優勝をもぎ取っていた。インディー団体のレスラーが、メジャー団体の選手に勝つというのは、当時は「事件」レベルの出来事であり、なおさらサスケの存在が際だった。おまけに各試合ともテレ朝で全国放映され、サスケ人気に拍車をかけた。
     この大田区の戦いで新崎は、それまでのルード(悪役)という立ち位置をかなぐり捨て、惜しみなく自らの持つレスリングテクニックを披露した。対するサスケも「明るく楽しい」ルチャドールとしてではなく、新日本プロレス練習生から這い上がってきた一レスラーとして戦った。試合では新崎の「拝みケブラーダ」も飛び出し、日本のインディープロレス史に残る好勝負となった。
     大田区以降、新崎のレスラー人生は、恐ろしい勢いで動き始める。ふつうのレスラーなら10年、15年かかっても到達しえない階段を、デビューからわずか1、2年のうちに駆け上がってしまうのだ。
     新崎を待ち受けていたのは米国の超メジャー団体・WWF(現在はWWE)との長期契約である。
     新崎以前、日本人レスラーがWWFマットに上がった例といえば、古くはジャイアント馬場やキラー・カーンがあげられる。また藤波辰巳のスポット参戦もあった。だが全日や新日といった国内メジャー団体のプロモートを通さず、フリーに近い選手がWWFの長期出場を勝ち得たのは新崎が初ではなかったか。例外としてマサ斉藤やキム・ドクがいるが彼らは元々、全米サーキットで食っていた選手である。
     この凄さを、実はプロレスファンですら理解していない人が少なくない。当時からWWFはどのプロスポーツにも先んじて、海外マーケットの開拓に熱心で、莫大な売上と利益をたたき出していた。
     具体的な数字で比較してみる。ニューヨーク証券取引所に上場している現在のWWEの売上高は約500億円。香川真司のいるマンチェスターユナイテッドは400億円。イチローの所属するNYヤンキースは340億円。日本国内に目を転じれば読売巨人軍は250億円、Jリーグ最大なら浦和レッズで60億円である。
     つまりWWEは、世界各局へのコンテンツ配信、PPV(ペイ・パー・ビュー)収入、CM収入などで地球最大の経営規模を誇るメジャースポーツ・ビジネス団体といえる。そのトップコンテンダーであるレスラーは、世界最高峰のスポーツプレイヤーということになる。誤解を恐れず言えば、WWEのトップレスラーであるということは、サッカーや野球のビッグクラブのレギュラークラス以上の成功者なのだ。
     残念なのは、日本においてプロレスが優れたスポーツビジネスとして認知されておらず、「筋書きのある八百長」といった低俗な見方しかできない社会環境にあることだ。東アジアと北中米限定の局地的スポーツである野球プレイヤーのイチローよりも、世界110カ国以上で放映されているWWFでトップを張った新崎の方がメジャープレイヤーというべき存在だ。少なくとも世界標準の考え方では。
     米国から帰国後、新崎は団体の垣根を越え、日本のトップレスラーとビッグマッチを戦っていく。東京ドームでグレート・ムタ、両国国技館でハヤブサ、再び東京ドームでジャイアント馬場、愛知県体育館で三沢光晴・・・。スタン・ハンセンやアブドーラ・ザ・ブッチャーとも戦った。新崎の年齢から逆算すれば、彼が小学生の頃にゴールデンタイムのテレビ番組で活躍していた大スターたちと、リング上で相まみえるわけだから、その心中いかなるものだっただろう。
     プロレスラーとして熟練を重ね、「新崎人生」というギミックには着色がなされていく。コミックレスラーとの対戦では「しゃべらないキャラ」をコミカルに利用して笑いをとり、大物レスラーとの大一番ではアスリートライクに戦い興行の大トリを締め、そして全体的には紳士的で物静かな人格者としてリング・ウォッチャーの役割を果たしている。
     万華鏡のようなレスラーの姿に触れると、冒頭に名前をあげたフレッド・ブラッシーと、彼の母親との会話が蘇る。はじめて試合会場に足を運んだフレッドの母親は、対戦相手のオデコに容赦なく噛みつき大流血させる息子に衝撃を受け、思わず問いかける。「いつもの母親思いの優しいおまえと、試合中の狂ったおまえ。どっちが本当のおまえなの?」。ブラッシーはこう答える。「どちらも本当の私ではない」。
        □
     20年の歳月は、プロレスを取り巻く風景を大きく変えた。
     メジャーとインディーの壁は取り払われた。現IWGP王者の逸材レスラーは学生プロレス出身で、一番客を呼べる金の雨を降らすレスラーは「闘龍門」でプロレスを学んだ苦学生。ジュニアヘビーで最も身体能力の高いトンパチ・レスラーはインディーの「DDT」所属である。
     「週刊ファイト」も「週刊ゴング」も廃刊された。神話やら戯曲やらを強引にリングに引っ張りあげ、観念論の世界で戯れ遊ぶプロレス記者たちはもういない。活字プロレスで育った中高年ファンは身の置き場がなくなった。

     だが、格闘技経験ゼロのプロレスオタクの少年が、オリンピックでメダルを獲ったスポーツエリートと戦って勝ってしまう、といった摩訶不思議なプロレス的世界はいまだ健在である。
     20年の間には、リング上で亡くなられたプロレス界の象徴たる名選手もいたし、若くして半身不随となる重傷を負った不世出の天才レスラーもいた。みちのくプロレス創業の頃から新崎とともに戦った早熟のいぶし銀レスラーは、30余歳の若さで旅立った。
     ごく少ない競技人口に対して、これほどまで重大事故が起こる可能性の高いスポーツはないだろう。
     言葉で本気さを訴える際に使う「命がけでやります」ではない。正真正銘の「命がけ」でレスラーたちはトップロープから5メートル下、コンクリートむき出しの場外へと飛ぶ。受け身の取れない状態で後頭部をマットに叩きつけられる。
     三沢光晴やハヤブサ、愚乱・浪花と新崎との試合は、今でも動画投稿サイトで見られる。彼らの戦いは、心に沸き立つものを与えてくれる。この感じはいったい何なんだろうか。オリンピックのような純スポーツで得られる無垢な感動でもなく、徹底的に鍛え込まれたミュージカルを観たときの圧倒でもない。
     薄暗いプロレスのリングが放つ摩訶不思議で人間臭く、不条理のともなった感銘は、プロレスという空間にしか存在しえない。その世界で新崎は20年、今もまだリングに立っている。
        □
     春になるとみちのくプロレスがやってくる。そんな気分を味わえるのは、今年が最後なのだろうか。街角に新崎のポスターが揺れ、興行が終わったあとも、取り外し忘れたポスターが風雨と日光に晒され朽ちていく。天気のいい日、交差点で停まった運転席から、半年前に終わったプロレスポスターを条件反射のように眺める。そんな平凡な観客としての日常も、いつか消えていくのだろう。
     20周年記念大会のポスターに写った新崎は、少し微笑んでいる。これは菅原文太の付き人として役者を目指した青年か、四国遍路を修行して回る荒法師か、世界最大のスポーツビジネスの最前線に君臨した伝説のレスラーか、あるいはラーメンチェーン店のオーナーか。
     「どれも本当の私ではない」と静かに微笑んでいる。
  • 2012年12月26日バカロードその53 海馬パカパカ萎縮中
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     新入社員を18人雇った。人数なんかあんまし考えずに、ヘンテコな学生が来たら「やりたいなら入る?」と言ってたらやけに増えてしまった。でも、まいっか。働く人がいっぱいいたら、本だってたくさん作れるしね。
     取材をしたり記事を書いたりするのは完全家内制手工業だから、少人数で大量生産ってわけにはいかないんだ。たくさん雑誌を作るなら、たくさん人手がいる。マニファクチュア以前の非効率産業の典型みたいな仕事である。
     面接にきてくれた学生さんとは陰鬱な感じでトークする。地獄の底からぬらぬらとはい上がってきたような暗さで。
     ほんまにウチになんか就職するのかい。絶滅危惧種レッドリストの紙媒体ってヤツを扱ってる仕事ですよ。はやりのエコロジーとはまったく真逆の商売ですし。1年間に1500トンも紙資源を使っておるのです。人間関係なんて最悪だしね。デブはデブと罵られ、アイプチはアイプチと容赦なく指摘される。いたわったり、つながったり、共有する感じはないのですよ。
     かくいう私も大のコミュニティ嫌いでね。宴会、接待、法事からソーシャルネットワークまで、人の集まる所をコソコソよけながら路地裏の影の部分を踏んで歩いてます。今どきスマホやタブレット持ってないならクソジジイで済むけど、ケータイすら持ち歩かないんだからクロマニヨン人レベルでしょ。
     毎年の昇給の約束もできないし、ボーナスも確約できないよ。だって来年、会社があるかどうかなんて自信ないから。2年後どころか、しあさって何が起こるのかすら予測する能力ないんです。もしキミに何か秀でた能力があったり、他の素敵な会社から内定もらえそうなら、なるべくウチには就職しない方がいいよ!(キリッ!)
     ふつーこんな説明されたら、就職しないよねぇ。ところが、最近この絶望プレゼンテーションが通用しない。自虐マンガ的におもしろく説明してるんじゃなくて、マジで先のない会社なんだって!ってド迫力でせまっても、耳に入っている様子はない。
     ここまで人を説得できなくてオレ大丈夫なのか、と鬱に入る。
     大手就職サイトのマーケティト・リサーチの資料を読めば、若者の安定志向はずいぶん強まってるらしいけど、そんなタイプの人は現れない。知名度のある会社に就職して、良い報酬を得て、雇用が安定していて・・・という我欲むき出しな人なんてホントに存在してるのかな。ウチみたいな「地方の出版社」なんて究極のニッチで働きたいとやってくる若者だから、激しくバイアスがかかってるけどね。
     学生さんといろいろ話してると、もしかして人類はひとつの進化を遂げようとしているのではないか、と疑うほどの変節が起こっている。
     いわゆる無我の境地ってーの? 藤波辰巳でおなじみの「無我」。
     いい会社に入ったねと持ち上げられたい世間体もなく、たくさん稼いでいい暮らしをしたいって贅沢への欲もない。お金への執着なく、物欲もない。カッコイイ車に乗ったり、高級リゾートで羽を伸ばしたり、ブランド物で身を固めたりする気がハナからない。
     金を使う興味も少なけりゃ、もらう方の興味も少ない。あやしいベンチャーやNPOを名乗る場所でタダ働きしてる学生が少なくない。無給スタッフ、ボランティア、インターンシップ、社内起業メンバー、サポーター・・・いろんな名前で「無給の奉仕者」に甘んじている。この状況、ドラッカーが描いた無給スタッフが活躍する未来社会の序章なんだろうか。
     「お給料はないけど、タダでPC環境使わせてもらってるし、周りもいい先輩ばっかりで、やりたいことをやらせてくれるんですー」と満足気である。キミをタダ働きさせてるぶん会社は利益を得てるよ、と茶を濁すと、「そんなことないですよ。社長さんは『自分は給料を取ってない。社会に貢献さえできればいい』とおっしゃってるので、信用できる人ですぅ」とマザー・テレサみたいな微笑。さすがに大人の口車に簡単に乗せられすぎでは、と心配になり、ワル知恵働く悪党の発想方法や、経営者のいやらしい蓄財方法について可能な限り説明する・・・2時間くらい軟禁して。へんな面接だと思ってるんだろうね。
     彼らは、シェアハウス的な居住空間を求めている。金銭の授受のないフェアな関係。日々変化に富んだイベントがあり、ともに考え問題を解決していく一体感のあるつながり。世俗の垢にまみれてない若者なら、そんなデモクラシー感を社会に求めても仕方ないか。給料もらわなけりゃ、立場的には経営者やら上司とほぼ対等だもんね。対価のない所に義務も責任も発生しない。
     そういうのを夢想だと笑ってしまえばお終いだけど、人口の大半がそういう意識へ移行完了したときには、次なる社会システムができるのかもしれない。競争がなければ生産性は一気に下がるけど、消費と蓄財と長寿に価値を見いださない種族なら、経済は進化する必要がない。実体経済がダダ下がりになればマネーゲームも終了、金融工学の天才たちも失業だ。
     われら人類にも、フラット組織は過去にいくつか存在していた。アメリカ先住民に代表される原始共産制と呼ばれる私有の概念のない資産共有のコミュニティだ。多くの原始的な人間集団でも同様だったはずだが、狩猟時代でしか成り立たないシステムだった。農耕が興り、蓄財の概念が人々に発生すると、たちまち壊れてしまった。
     地球上でほぼ唯一残っている共産主義の残骸は中国共産党だが、「共産」どころか資本主義社会以上の独裁の権化となっている。フラットを追い求めると独裁への逆転現象が起こり、富める者と貧しき者の差は世界最大になるという不思議なおとぎ話を13億人の実験場で見せられている。
       □
     やることのない夜は星を見上げる。
     地球以外の天体に知的生命体がいたとしたら、完全なるフラット組織を作り上げている知性もいるんだろう。どっちかいうと、核弾頭を搭載した大陸間弾道ミサイルを同種族間で向けあって、50年に1度くらいのペースで大量殺戮しあってる知的生命体の方が稀少な存在なんだろな。人間から「欲」という感情が少しずつ目減りしていき、千年くらいかけて賢人化していけば、理想社会に近づいていくのだろうか。 どっちでもいいか。どのみち寿命尽きるまでに、目玉の大きい賢い宇宙人が誘拐してくれる日も来ないだろう。眠い、寝るか。
  • 2012年11月27日バカロードその52 物語は箱根に終わり、箱根にはじまる
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     箱根の季節は、胸のザワつきがおさまらない。
     ハコネ。なんと尊く、気高い響きだろうか。その言葉を耳にするだけで、動悸は高まり、ワキには汗ジミがにじむ。

     年も明けたばかりの2日と3日。正月三ケ日といえば、人びとは新たな年のスタートを迎え、真っ白で浮き立つような心根だろうが、ボクにとっては箱根駅伝こそが長いドラマの終幕にあたる。20校目、最終走者がゴールテープを切った瞬間が1年の終わりであり、はじまりなのだ。
     東京大手町に号砲を聞き、箱根の山を駆け上がっては駆け下り、雪富士が見下ろす芦ノ湖畔を折り返す全長217.9キロを、キロ3分の極限スピードで走り切るのは選ばれし200人の学生ランナーである。
     一方、テレビ中継がはじまる午前7時にあわせ、早朝から真冬の冷水シャワーにて水ごりをし、コタツの上に「陸上競技マガジン増刊・箱根駅伝完全ガイド」を設置し、ハーゲンダッツや粒あん入りの白餅やスーパーカップ濃コクとんこつ味など好みのお八つを取りそろえるなど、万全の体制でテレビの前に陣取るのはボクである。
     オーレオレと叫べるパブリックビューイングもなく、イノキ・イノキと拳を突き上げる体育館もない。駅伝は1人黙って茶の間でテレビと相対する。
     思えば駅伝談義を熱く交わす仲間もおらず、リアルタイム情報といえば陸上競技専門の月刊2誌の号あたり5、6ページの活字リポートや、陸連共通の味気ないデータベースページでリザルトの数字を追いかけるばかり。なんと地味な応援態勢か。
     夏の合宿先に押しかけるような迷惑行為はしたくないし、大学ネーム入りランシャツをネット通販で買って、市民マラソン大会で着てみることも検討してみたが、やはり恥ずかしくて無理だ。
     駅伝ファンはひたすら孤独に、そして無言で数百の数字が並ぶリザルトを見つめ、その行間に選手の雄叫びを聴き取ろうと耳をすますのだ。
     どの大学が優勝するかってことに興味はない。箱根路を走れるランナー、走れないランナー、陸上部員ひとりひとりが過ごす365日の営みにしんみり熱くなる。
     確かに、戦国駅伝と呼ばれて久しい群雄割拠の戦いはおもしろい。昨年までの東洋、駒澤、早稲田の3強時代は、今シーズン初戦となる出雲駅伝を制した青学の台頭によって瓦解し、シード校以上の実力を予選会で見せた日体大、都大路のスターを次々補強する明治を加え、もはや6強の様相を呈している。どの大学が勝っても不思議ではない・・・というような戦況については、ボクよりも専門家の解説が的を得てるだろうからここではしない。キロ4分で1キロ走っただけで死にかけるボクが、キロ3分で20キロ以上も走る若者たちを批評する立場にはない。
     コメンテーターではなく応援者として、ターザン山本が提唱した「活字プロレス」ならぬ「活字駅伝者」としての作法をここに記す。
           □
     まずはファンを名乗る者の最低限の務めとして、選手のデータを頭に叩き込む。個人情報の扱いやかましき昨今、大学陸上部のホームページには部員の顔写真やデータはほとんど掲載されていない。だが恐れる必要はない。日本の出版文化はいまだネットを凌駕している部分も少しはあるのだ。ベースボール・マガジン社の「陸上競技マガジン」が夏前から大学駅伝関連の増刊号を4〜5本、発行してくれるのである。
     これらは、まさに義務教育の指定教科書にあたり、家庭内においては茶の間、トイレ、風呂などに常備し、どこに移動しようと目に触れられるようにする。
     各増刊号の説明をしよう。6月に出る「大学駅伝夏号ルーキーズ」は、新1年生部員中心の編集。主に高校時代に都大路(全国高校駅伝大会)で活躍した5千メートル13分台の選手たちがクローズアップされる。高校生のころ丸ボウズだった選手たちが、やや髪を伸ばし、ちょっと女子大生の視線も意識しているかのような色気づき方をしているのに注目したい。
     続いて上級生のデータも網羅した「大学駅伝完全ガイド夏号」が刊行される。春以降の各地区インカレなどで出した記録が掲載されるから、前年の記録と比較し、トラックシーズン前期にどれだけ力をつけたか把握できる。
     10月、箱根予選会と全日本直前に発行される「大学駅伝完全ガイド秋号」では、今期の重要戦力となる選手がいよいよ抽出される。夏合宿の成果がつかめ、トラックシーズンの総括が行われる。登り調子の叩き上げ選手、故障が癒えずジョグに専念するエリート選手・・・ドラマの布石は打たれつつある。
     そして箱根駅伝直前に出される「箱根駅伝完全ガイド」が最も重要な一冊。この号は秀逸である。出雲、全日本の区間記録がはやばやと記載され、箱根10区間の予想オーダーも立てられる(あんまし当たってないけどね)。さすがに全部員は掲載できないが、各校レギュラークラス20名前後の顔写真と5千メートル、1万メートルのベストタイムが記載される。5千のチーム内ランキング表は繰りかえし見ても飽きない。持ちタイムの上位10人がすんなり箱根10区間を走るかといえば全然そうはならないのである。今年なら5千メートル13分台が10名も並ぶ駒澤は圧巻。だが、いざ勝負の時となれば東洋や青学のように14分台中盤の選手が区間賞レベルの活躍をしてしまうのは学生駅伝独特の魔力か。14分台後半の選手とてノーマークではいられないから、名前とベストタイムを暗唱する。
     箱根終了後には「大学駅伝決算号」が緊急出版される。また、今年は既に「箱根駅伝・強豪校の練習方法」という特別号が発行されている。有力大学のトレーニング方針を詳細に取材しており、具体的な練習メニューがカレンダー形式でまとめられている。インターバルの設定タイムからジョクのペースまで、各大学の監督サン、こんなに事細かく公開してもいいの?と心配してしまう労作だ。
     次に映像だ。テレビ特番は必ず録画してハードディスクがすり切れるほど見なくてはならない。
     テレビの世界では、箱根の放映権を持つ日テレの独壇場である。BS日テレでは9月に「密着!箱根駅伝 試練の夏」、10月に「密着!箱根駅伝 予選会 明かされる真実」、11月「密着!箱根駅伝 飛躍の秋」、12月「密着!箱根駅伝 出場校紹介」と立て続けにドキュメンタリーが放映される。
     このシリーズ、ファン垂涎のお宝映像が多い。各大学の夏合宿・秋合宿に密着取材を行うのだが、映像の強みがモロに出ており、活字メディアでは得られない選手の生の性格が伝わる。合宿所の部屋までカメラが入るため、インタビューの背景に映りこんだポスターやマニアグッズで選手のオタク的趣味が散見できる。合宿所の食事メニューは再生静止して、アスリートメシを研究。選手の全裸肉体が公開される入浴シーンは最大の見せ場だ。一片の脂肪も付着していない上半身にうっとりドキドキ・・・。
     日テレ以外では、全日本の予選会を追ったテレビ朝日の特番は、唯一地方大学にスポットが当たる映像資料として貴重である。
           □
     駅伝シーズン以前の学生の成長過程も一年を通して追いかける。関東インカレ(5月)と日本インカレ(9月)は、関東地区ではテレ朝で深夜枠を持っているものの関西の朝日放送は放映なし。東京神宮の国立競技場に出向いて生観戦するか、リザルト数字読みに徹するか。
     堂々、NHK総合で地上波放送される日本選手権(6月)は、実業団選手に学生トップランナーが勝負を挑む構図がたまらない。佐藤悠基、竹澤、宇賀地、宮脇あたりと学生とのドリームマッチに再びワキに大量汗ジミ! ところが、陸上の長距離レース中継にありがちな「レース序盤はカット」「途中で投てき競技にカメラが切り替わる」が繰り返され、幻滅すること多々である。きっと陸上経験者がテレビクルーにはいねーんだよ、と諦めるしかない。最近レースは、学生をペースメーカーに仕立てた実業団選手がラスト1周でブチ抜くという1つのパターンができあがっている。今年は、設楽啓(東洋)、村澤(東海)、窪田(駒澤)、大迫(早稲田)らが入れかわり引っ張った。本当にそんなんでいいのかよ実業団たちよ。そんなんじゃケニア選手どころか川内優輝とも戦えっこないよ。
     スピード持久力やレース勘を養成するため、学生ランナーが多く出場するレースは数多い。主要なものだけでも、クロスカントリーは千葉国際と福岡国際。トラックレースではグランプリシリーズ、延岡のゴールデンゲームズ、夏のホクレンディスタンス。ロードレースなら日本学生ハーフ、上尾ハーフ、熊日30キロ、神奈川マラソン。定期的に行われる日体大記録会。箱根後には、都道府県対抗駅伝、丸亀ハーフ、びわ湖毎日とつづく。ここんところ有望な学生ランナーがフルマラソンに挑戦しない空白期が続いていたが、昨年、出岐(青学)や平賀(早稲田)らがびわ湖に参戦し、今年も窪田(駒澤)が走るとのウワサもある。もう嬉しくてしょうがないね。
     大学駅伝の物語性を高め、より重厚に楽しむためには、中学・高校時代からの観戦は欠かせない。全中(全日本中学校陸上)、全中駅伝(全国中学駅伝)、都大路(全国高校駅伝)、インターハイ、国体と、一通り押さえておく。すべてテレビ放映はある。番組は、煽りのドキュメントとして、早くから芽を出した天才ランナー中心に編集されがちだが、中・高と周回遅れレベルだった凡庸な選手が、やがて天才を追いつめるシーンにも出会える。それが箱根という舞台だ。
     そんなこんなでファンとしての1年を忙しく過ごし、やがて3大駅伝シーズンの開幕を出雲駅伝(10月)に待ち、箱根駅伝予選会(10月)を経て、全日本大学駅伝(11月)、そして箱根駅伝の本戦(1月)を迎える。
           □
     さてここまで読んだ方は、「なんだコイツ、熱烈ファンぶってる割に、雑誌とテレビを見ているだけじゃないか」と思われるかもしれない。まさにそうなのである。ボクはただ見ているだけなのだ。だってそれ以上にできることなんて何もねー。オッサンが男子大学生にファンレター書いてもキモいもんな。
     ボクは「ハコネ」という小説の読み手なのだ。目まぐるしく展開の変わるプロット、最終回のないネバーエンディングな連続活劇。
     ボウズ頭の俊足な中学生が脚光を浴び、挫折し、復活し、さいごは負ける話だ。自分を律し、後輩を育て、負けに直面した場面で腹の底から言葉を絞り出す予定調和なき世界。青年の成長をささえるのは、ひたすら走るという純粋な行為なのだ。
     箱根駅伝の1区間は約20キロ、時間にすれば約1時間。この1時間に大学入学後の4年間、いや10代から22歳までの青春のすべてを捧げた若者がある一瞬、溶接のアーク光みたいに、直視できないほど輝く。
     陽炎が揺れる熱い夏の午後や、冷たい雨が肌を刺す冬の朝。白いモヤの向こう側の誰も見ていない路上やトラックで、ハァハァと青い息を切らし、足の裏を強く地面に叩きつけ、前へ前へと1ミリでも速く進もうとする、ただそれだけの行為に懸けた若者たちの物語だ。次のページ、めくらずになんていられない。
  • 2012年11月25日バカロードその51 最弱ランナーの証明
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     いつもの朝練習。追い込んでもないふつうのジョグ。500メートルで息があがり、1000メートルでやめたくなる。2キロ、走るのをあきらめて歩く。しばらく歩いて、また走ってみる。キロ7分なのに苦しくて中断する。
     思い切って練習を休んでみるが、休みを2日はさんでも朝起きるとずっしりと重い。走れば疲れも取れるかとランニングシューズはいて飛び出すが、やっぱり2キロ続けて走れない。
     スパルタスロンを想定した練習をはじめて半年、月間500キロ〜700キロ走ってきたが、レース直前の9月はこんな調子で100キロもこなせなかった。
     何が起こっているのだろう。急に身体がジジイ化するわけもない。夏バテ? まさか、そんなヤワじゃない。あるいは流行の新型ウツ? それほど繊細な心の持ち主でもない。
     いろんなことが、わからない。わからないことは考えても仕方ない。
             □
     大会3日前にギリシャ・アテネに入る。空港ターミナルから外に出るとじわーっと暑い。気温は34度と日本の夏と変わりないのだが、直射日光がヒリヒリきつい。日本のお天道さんと何が違うんだろうか。露出した肌が焦げていくのがわかる。
     夜明けから日暮れまで空には雲ひとつ浮かばない。背丈の低いオリーブとミカンの木ばかりのアテネは、日射しを遮る木陰も少ない。宿舎では選手たちが「今年は暑くなるよ」と声をかけあっている。

     アクロポリスの丘にてスタートを切り、長い坂道を下りはじめると身体が軽く感じられて仕方ない。きっとこれは幻想。追い込んだ練習ができなかったから脚が勝手に暴れてるだけ。どんなに快調でもキロ6分以上には上げない。とはいえキロ6分は、ここ1ヵ月出したことないスピード。どこまで持つかはわからない。
     10キロを58分で通過。脈拍、呼吸ともに平常時のように静か。一片の疲れもない。
     20キロ1時間59分。カンペキにキロ6分を守っている、悪くない。顔見知りのランナーが「今年はぶっ飛ばさないんですね?」と追い越していく。2年前は20キロを1時間30分台で入り、みごとに潰れた。同じテツは二度と踏まない。
     30キロ3時間02分。登り坂が入ったので少し遅れたけど想定内だ。無理してペースを守るよりも、身体に同じ負荷をかけつづけることが大事。珍しくイーブンぺースで押しているさまを見た知人ランナーに「完走する気、まんまんじゃないですか」と持ち上げられる。「暴走はやめました。絶対にゴールまで行きますからね」と答える。体調すこぶる良く、余力バロメーターは満タン。この調子で80キロ先の大エイド・コリントスまで行けそうだ。うん、何ひとつ問題は感じられない。

     と、思ったのは10分前。
     異変は急にやってきた。
     32キロのエイドを過ぎた頃だ。
     あれ、あれ、あれ? 脚が動かんぞ。
     練習できなかったツケが回ってきたか。
     まだ全体の10分の1しか走ってないのにな。
     まあしばらく走ってれば、重脚にも慣れてくるだろう。
     しかしキロ6分ピッチで走れない。7分かかりだしたぞ。
     どうしよう。
     イーブンペース作戦で来たので時間貯金が10分しかない。トロトロしてると関門に引っかかる、急がないと。
     35キロ。
     あれ? 今度はフラフラしてきた。
     だめだ、走れない。
     なぜ走れないのか、理由がわからない。
     いっかい落ち着こうと思い、歩いてみる。
     落ち着け、落ち着け。
     これは一時的な現象だ。
     もう一度走りだしたら、またふつうに走れるって。
     やっぱダメだ。
     道ばたのバス停小屋に座り込む。
     おいおい、ここで終わってしまうのか?
     んなアホな。まだ、まったく走ってないんですけど。
     1度も力を込めて走ってないんですけど。
     立ち上がってみるが、頭がぐるんぐるん回る。
     3キロ先にあるエイドまでいけるかどうか自信なくなってきた。
     おーい、まだ35キロだよ〜。
     ふだんなら笑いながら走れる距離だよ〜。

     またたく間に、10分の貯金を使い果たす。
     38.8キロのエイドにたどり着くと制限時間を過ぎていた。
     飲み物を載せていたエイドの机は早くも片づけを終えていて、水をもらうのに難儀した。
     なんとか分けてもらった1.5リッター入りのペットボトルを抱え込み、路上にへたり込む。
     リタイア選手を収容するワゴンカーが道の反対側に停まっている。
     そっちに移動しろと指示されるが、思うように歩けない。
     道を横断する20メートルがやたらと遠い。
     車の後部シートに座ると、頭が重くて首で支えられない。
     グテッとうなだれたまま、ペットボトルの水をちょびちょび飲む。
     数分で1.5リッターの水を飲み干す。
     それでも足りないから500mlボトルの水を飲む。
     さらに水500mlとコーラ3杯を飲む。
     3リッターの水分を吸収すると、意識が正常になってきた。
     車のなかで20分寝ころんでると、元気そのものの体調に戻る。
     体力の限界でも何でもない、ただの脱水症状だったのだ。
     今からやり直せ、と誰か言ってくれないだろうか。きっと軽やかに再スタートできる。
     そんな仮定は立てるだけ空しい。
     いったんリングを降りたボクサーにできるのは、会場を去るだけ。
     3度目のスパルタスロンはあっけなく終わってしまった。
     3年つづけてのリタイアだ。3年は長い。高校生なら入学して卒業するまでだ。

     正午を過ぎると気温はさらに上昇し、温度計は39度を指した。
     有力選手が次々とリタイアし、80キロ関門を越えるまでに45%の選手が脱落した。スタートラインに立った310人のうち、ゴールまで届いたのは72人。完走率は23%だった。日本人参加者70人のうち完走者は13人。完走率は18.5%と歴史的な低さとなった。
             □
     「脱水症でアウト」といっても、それは表面上の現象であって、そこに至る原因があるはずだ。
     練習方法の選択ミス。それに由来する絶対的なスピード不足。
     過去2年、ぼくは80キロのコリントス関門を越えてから力尽きた。80キロを越えると夜間走+山岳越えが控え、キロ8分30秒〜キロ9分で前進する耐久レースとなる。
     自分は、スピードが要求される80キロまではクリアできるが、後の耐久戦に弱いのだと考えた。克服するにはスピードは不要。潰れそうな身体でも前進できる「ゆっくり長く走る」能力が足りないと判断した。ゆえに、キロ6分ペースで距離を伸ばすことばかりに注力した。
     ところがどうだ。あまりにキロ6分にこだわりすぎ、スピードを軽視したため速いペースに対応できなくなった。
     だらだら登り坂が多く、また気温が40度近くになる条件下でキロ6分を維持する肉体的な負荷は、日本国内でおこなう長距離練習や100キロレースならキロ5分ペースに相当する。だから、ふだんはキロ5分の練習を積み、慣れておくことで、スパルタスロンで必要なキロ6分ペースが「とても遅い」と感じる感覚を得ておかなければならなかった。
     そもそも100キロベスト記録が10時間22分のぼくが完走するには奇跡(マグレ)を願うしかない。たまたま異常気象ですごく涼しいとか、自分が自分じゃないほど絶好調だとか。神頼みの領域の話。
     実力で完走を勝ち取ろうとするなら、少なくとも100キロ9時間30分以内、なるべくなら8時間台の走力が必要だ。なおかつそのタイムは過去に出したベスト記録ではダメ。好条件の天候下で出した自己ベスト記録でもダメ。悪天候や起伏の多い山岳コースでも当たり前のように出せる記録、コンスタントに出せているアベレージ記録であるべきだ。
     スパルタスロンでは、80キロの関門を通過する際に1時間以上の貯金(通過タイム8時間30分)を持ったうえで、なおかつ体力的にも相当な余裕を残した状態であらねばならない。まずはその走力を有することが第一資格。その力もないのに、この1年というもの耐久戦向けの練習ばかりしてたのは、お門違いもいいところ。

     帰国後、ランニングをはじめた頃に戻って、短い距離からやり直すことにした。
     500メートル、1000メートルのインターバルやレペティション、3千、5千、1万メートルのタイムトライアルを繰り返す。500メートルの全力走を10本こなすと、とんでもないダメージですね。フルマラソンのタイムを伸ばそうとガチ練習してる人たちは、日々こんなにも追い込んでいるのかと敬服する。
     遅いペースに慣れてしまわないよう、LSDやジョグは封印しよう。月間走行距離を残せば練習を積んだような錯覚に陥るから、練習で長く走るのはやめにしよう。自分への甘えをぬぐい去るため、キロ4分台より遅くは走らない。
     またまた長い1年がはじまる。ここであきらめるという選択肢もあれば、あきらめないという選択肢もあるが、あきらめられそうにはない。ぼくの性格は粘着質で、爽やかさや潔さとは無縁である。何度失敗しようと、うまくいくまであきらめない。うまくいくまでやり続ければ、最後はうまくいく。