編集者のあやふや人生(コラム)

  • 2008年08月28日カッコよく歳をとろう
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

     マラソン話のつづきです。
     レース会場に行くと、いろんな人がいる。それこそオリンピック代表候補や県の記録を持っているトップアスリート級から、デップリとおなかが突き出たメタボ解消目的おじさん、ダイナマイト級のおしりをゆっさゆっさ揺らすビギナーおねえさん、仲間内で嬌声をあげるパワフルおばさん軍団まで多種多彩である。
    そして喜寿、米寿をまぢかにした人生の大先輩方も颯爽とジャージを脱ぎ捨てランニングショーツ姿になる。市民マラソン大会のおもしろさは、こういったさまざまなレベルの人たちが、それこそ何の制約もなく、自分自身でスタートの位置取りをし、号砲一発、平等にレースを競うところだ。
     レース会場では、1万メートルを30分で走る猛者も、1時間30分かけて走りきるファンランナーも、同じ扱いを受ける。受付で大会記念Tシャツや弁当の引換券や入浴券を受け取る。ぬかるんだグラウンドの土の上で、シャツにゼッケンをピン止めし、少ししかない公民館のトイレや、アンモニア臭で涙が出そうな仮説トイレに長い行列を作って待つ。スタート時間の15分前にはぞろぞろと所定の位置につく。レースが開始されると、実力どおりの順番にきれいに並ぶ。実力以上のタイムは出せないし、痙攣や脱水にならない限り実力どおりのタイムが出る。レース後には主催者が用意してくれたお弁当を地ベタに座って食べ、地元の特産品セットなどをもらって帰る。
     何千人も参加するマンモス大会なら、持ちタイムでスタート位置を決められることもあるし、陸連加盟ランナーが最前列へと優遇されることもあるが、そのルールも極めておおらかだ。
     こんな風に年齢も性別も実力も関係なく、同じステージで競い合えるスポーツってあるんだろうか? めったにないんじゃないかと思う。喜寿・米寿クラスの先輩方も、競技のOBとして参加しているのではなく、バリバリの現役ランナーとして参戦しているのだから。
     スタート位置に着くと、ぼくは必ずやることがある。「脚を見る」のである。そこには数百本、数千本のきれいな脚がある。正確に述べると、スタートラインに近い所に並ぶトップランナーほど、美しい脚をしている。そして徐々に後列に下がるほど、その脚の形は「いまいち」になっていく。ランナーたちは自分の実力にあわせて集団の中で位置取りする謙虚さを持ちあわせているのだ。
     たとえばハーフマラソンの大会なら、持ちタイム1時間20分の脚と、1時間50分の脚には、大きな外見的差異が見られる。21.0975キロを1時間20分で走る人の脚は、間違いなく美しく、研ぎ澄まされている。新鮮な鶏のササミのような、健康的なピンク色をした筋繊維がつまっていることを想像させるフトモモ。その下にすらっと伸びる下肢にはムダな肉がいっさいついていない。フクラハギにはキレのある筋肉がこんもりと装備されており、折れそうなくらい細い足首との間を、密度が高そうな堅い腱がつないでいる。草原を腱の力だけで高速で走る草食動物のようなキレイなアキレス腱だ。これらは重量物で負荷をかけて筋繊維を破壊しながら太くする筋トレでは絶対作れないフォルムである。長い長い距離を、来る日も来る日も走り込んだ人だけが持つ、栄光のシルエットである。
     これが持ちタイム1時間50分のレベル(つまりぼくの実力)になると、脚の形がバラバラになってくる。ガリガリに痩せた脚もあれば、ボディビルダーのような巨大な筋肉の塊をフルラハギにぶら下げている人もいる。彼らの総合的な運動能力は推して知るべくもないが、やはりマラソンランナーとしてはまだまだ突き詰めてトレーニングできる余地を残しているってことなんだろう。
     そんな中で、見惚れてしまうのが60代後半からのベテランランナーたちの脚なのである。上半身だけ見れば、いくぶん肉が落ちすぎていたり、あるいはダブついていたり、また皮のたるみが目立ちはじめていたとしても、鍛え込まれた脚は輝きを失わない。
     どれほどの距離をコツコツと走り続ければ、このようなスマートで無駄のない脚をモノにすることができるのか。その物言わぬ努力の様に、無条件に尊敬の念を抱く。黄金の脚をいまだ装着していないぼくには憧れの的なのである。さらには、余分な脂肪やら筋肉やらを削ぎ落としきれていない自分の脚と見比べてみて、「負けた」という劣等感を抱かせる。そして実際レースを走ってみてたら、やっぱし順位でも負かされる。
     脚だけではない。鍛えられた熟年ランナーは背中が違う。背中には肉厚の筋肉がこんもりと盛り上がっている。筋肉をつけるのが最も難しいとされる広背筋が、ごく自然と鍛えられている。何万回と繰り返された腕振りの成果なのだろう。身体の背面が強い人は前傾姿勢で走り続けられるから、ランナーとしても強い。そしてふだんの立ち姿や歩く様も前傾を崩さない。その姿勢がまたイカしている。

     「お年寄りを大事にしよう」という標語がある。だが実際のところ、人は自分がまだ若いって思っているうちは、お年寄りに憧れたりはしない。できるだけ若さをキープしたいと日々願っているし、女性なら実年齢より上に見られることを極度に恐れる。時には、お年寄りの古くて堅すぎる考え方を軽蔑し、うとましく感じたりもする。ぼくもそうである。モーガン・フリーマンやアート・ブレイキーを見て「あんな風に歳をとりたい」と思う瞬間があっても、それは単なる憧憬であり、自分の姿にオーバーラップさせたものではない。だが70代ランナーたちとマラソンレースという同じ土俵で勝負をし、彼らの強さを直接肌で感じると、「こういう風に歳とらなくちゃな」とシンプルに思う。
     レースの前後や、走っている最中に、彼らと話をすることがある。話しかけたり、話しかけられたりする。彼らは例外なく明るく、(苦しさを克服することも含めて)レースを楽しんでおり、そして現状より1歩前に進むことを考えている。それがレースの前半なら、後半に調子を上げていく方法を模索している。それが10月の10kmレースなら、11月の10kmレースでより好タイムを叩き出すことを願っている。それが2008年の大会なら、2009年により満足のいく走りをすることを誓う。
     そうやって現時点の自分よりも、あと少し物事をより良くするためにはどうすればいいか、といつも考えるのだ。そのために練習をし、参加申込み用紙にプロフィールを記入し、何千円かのお金を振り込んで、試合会場に出かける。失敗しても成功しても、素直に結果を受け入れ、反省をし、ビールを飲み、風呂につかったら、またトレーニングをはじめる。 
     この人たちは、言いわけってものをしないんだろうな、と思う。何かうまくいかないことを、世の中のせいにしたり、自分が所属する集団のせいにしない。できないのは自分が悪く、できたなら自分をほめてやる。それだけのことなのだ。

     自分もそう遠くないうちに老後を迎える。そのときにどんな人間でありたいか。そんな疑問に、黄金の脚を持つ彼らがはっきりと答えを見せてくれる。
     綿々としがみつく何かを持たない。現役時代に気に病んだ組織内の立場であったり、社会のなかで形成された対人的人格であったり。あるいは、いずれその所有権をめぐって家族が争うかもしれない預貯金や不動産であったり。自分というアイデンティティを支えるそれら外部的要因に、人生の晩年で執着するのは、いまひとつカッコ悪い。
     熟年ランナーたちの背中と脚が指し示してくれるのは、自分の考え方ひとつ、カラダひとつで何かと渡り合い、あきらめず、突き詰め、楽しくやっていく生き方があるってことだ。
     たまたまマラソンの話になっているから、たまたまランナーの話になっている。だけど、どの世界にも人知れずコツコツと努力をし、節制をしながら一歩前にを実践している人たちはいる。誰に頼ることなく、自分の腕一本で何かと向かい合っている人がいる。人生の晩年はそうでいたい、そうでなくちゃいけない。いや、今からでもそうありたい。「カッコいい」に年寄りも中年も若者もないはずだしな。
  • 2008年07月24日全部の細胞よ、力をくれ! 〜サロマ湖100キロウルトラマラソン〜
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

     すでに50キロを刻んでいた。
     フルマラソン以上の距離を走るのは初めてだ。身体に異常はない。いや、ないわけではない。脚、背中、首、腕・・・ひととおり痛みが巡回し、全身が痛い。揺れつづけている内臓まで痛い。
     「ウルトラマラソンは、痛みがある状態が平常だと思え」という先達の言葉を、繰り返し唱える。ボロボロになってからが始まりだとあらかじめ覚悟してある。だからどのような痛みも苦にはならない。
     問題は体調ではない。レースの設計ミスをやらかしてしまったのだ。ぼくは前半の50キロを、ある言葉をつぶやきながら走った。
    「絶対に本気にならない、レースは55キロから、本気を出すのは70キロから」。
     心拍数をあげず、イーブンペースで関門をクリアしていけばよいと。
     マラソンランナーたちは、意外にこの「本気にならない」ことが難しいと知っている。走っているうちにどうしようもなく気持ちよくなってくる瞬間がある。身体が軽く、足がどんどん前に進む。もしかしたら今日は絶好調かもしれない。あんなに努力したんだから相当な実力が自分にはついたのだろう。そして知らず知らずのうちにトップスピードに達している。だがその至福の時は長くは続かない。2時間後には疲労困憊・ガス欠という巨大なツケがやってくるのだ。
     長いレースを走り切るには自制心が必要である。そのために用意した言葉が、「絶対に本気にならない」であった。しかし過ぎたるは及ばざるがごとしである。念仏のように「本気を出すな」とつぶやいているいちに、自己暗示にかかってしまい、あろうことか走りながら居眠りをしてしまったのである。20キロを過ぎて、気がつくと30キロ地点に達していた。途中の記憶はところどころあるのだが、意識上では一瞬であった。ノンレム睡眠状態でウトウトしながら10キロを走ったのだ。もちろんタイムを激しく落とした。
     昨晩、一睡もしなかったのが悪因である。緊張のためではない。スタート地点に向かうバスの出発時間が午前3時。ふだんはこの時間まで起きているから、寝ようとしても眠れない。そのままスタートを迎え、居眠り走という醜態をさらした。
     アホな判断をもつひとつ。スタート地点で最後尾をあえて選んだのである。2000人を越すこのウルトラランナーたちのなかで、自分は最も経験の浅い、鍛えこまれていないランナーだ。ドンケツからのスタートこそ自分の実力にふさわしい、と。
     スタートの号砲が鳴ってから、最後尾のぼくがスタートラインを越えるまでに2分30秒もの時間がかかった。「2分30秒もの」と、その時は考えなかった。13時間にもおよぶ長丁場のレースである。2分少々の誤差は何でもない・・・こんな大甘な考えが、後々どれほどの後悔を招いたか、その時点では知る由もなかった。

     50キロまでは順調だと思えた。50キロの時間制限も楽々越えることができた。けっこう簡単なんじゃないか、自分も今日からウルトラランナーの仲間入りかよ〜、と気分をよくするほどであった。
     ところがそこから地獄が待っていた。事前に大会パンフレットを読むだけではわからなかった「関門」というハードルである。
     50キロから60キロ=1時間05分
     60キロから70キロ=1時間10分
     70キロから80キロ=1時間15分
     それぞれの距離を、この時間でクリアしていかなければならない。
     ちょっと説明しておくと、10キロを1時間で走ることは、ふだんなら何ということもないのである。ゆっくりと会話しながら走れるスピードだ。レース前、ぼくはそういう意識でしか、この時間設定を見ていなかったのである。しかし50キロを走り終えた「痛みがある状態が平常」な身体には、生半可ではないタイムであるってことに、今ごろ気づいたのである。
     イーブンペースが保てない。
     歩幅が伸びない。
     前傾姿勢がとれない。
     タイムを維持するために必死になる。
     必死になると心拍数があがり、息が荒れる。
     疲労感が急速に増す。

     60キロ。関門の7分前にようやく飛び込む。ひと息つく暇はない。10キロ先の関門閉鎖の時間が迫ってくる。

     走る。
     走る。
     走る。

     息を喘がせ、5センチでも先にと脚を前に送る。だんだんと景色が目に入らなくなってくる。他のランナーたちと交わす言葉もなくなる。
     「明鏡止水」とは正反対の、雑念に心が支配される。レースの後半で、何でこんなスピードマッチのようなハメに陥ってるのだ? スタートラインまでの2分30秒を無駄にしなけりゃよかった。応援の人と会話したりして余裕を見せたっけ。ああ、あの時間を取り戻したい。
     徳島からわざわざ北海道の端っこまでやってきて、完走しなくちゃ何の意味があるっていうのか。この1年、毎朝10キロ走り、週末には20キロ、30キロを踏んだ。大雨に打たれ、向かい風に抑えつけられ、ギラギラ太陽に焼かれても、脚を壊しながら走ってきたではないか。動物性脂肪の食物を断ち、大好きなアイスクリームも食べず、しまりなく太った身体から脂肪分だけで17キロ落とし、マラソンの関連書物を20冊読破した。
     すべてこのサロマ湖の、この100キロレースのためじゃないか。

     70キロ。
     制限時間の2分前に飛び込む。
     1キロごとにタイム管理しなくては、とうてい間に合わなくなってきた。1キロを7分で走る。7分で押していかなければ、次の関門に間に合わない。ふだんなら口笛吹きながらでも走れるスピードなのに、今は必死の形相、一瞬でも心が折れるとアウトだ。
     痛みには負けない。しかし、心肺機能の能力以上のペースで30キロを押していくのは厳しい。レースを止めようなどとはまったく思わないが、「この1キロはすこしペースを落としてもいいんじゃない?」という甘いささやきが聞こえる。そのたびに、自分で自分を鼓舞する。「負けてどうする。今、ペースを落としたらレースを捨てるようなものだ。全力で走れば関門には間に合うじゃないか」

     走る。あえぐ。
     あえぐ。走る。
     走る。あえぐ。

     まるで短距離レースを競っている感じ。この苦行があと何時間つづくのか?
     周囲のランナーたちのペースも落ちている。ある人は脚が痙攣し1歩も進めなくなっている。別のランナーは関門通過をあきらめたかのように道ばたに座り込み、ぼう然とサロマの景色を眺めている。こんなに鍛えた人たちだって苦しいんだ。70キロ走って、まだ全力で走れる自分はたいしたもんじゃないかと、わが身をなぐさるてもやる。
     80キロの関門はスタートからちょうど10時間で閉鎖される。残り2キロ地点で、関門の1分前にクリアできることがわかる。
     大丈夫だ。このペースさえ崩さなければ、手を抜きさえしなければ、80キロを越えられる。80キロの関門を過ぎれば、ひと息つける。80キロから100キロまでは3時間もの時間設定がされている。どんな不格好でも80キロのラインを越せば、完走のお墨付きをもらえるに等しいのだ。
     関門を越えたら5分だけ休憩しよう。連続30キロも全力疾走したのだから、5分くらい身体にご褒美をやってもいい。給水所に用意された冷えたスイカやオレンジをゆっくり食べよう。高校生ボランティアの励ましの声を全身に浴びよう。そしてエネルギーを蓄えたら、またゴールを目指そう。
     とにかくもう大丈夫だ、間に合う。
     残り1キロ。どこまでも続く直線の広い道なのに、関門が見えてこない。おかしいな、と思う。距離表示がおかしいのかな。しかしこの大会は伝統的な大会だし、距離を間違えたりはしないだろう。あと1キロを7分でカバーすればいいのだ。この苦しさをあと7分だけ我慢すればいい。
     コースは広い直線道を折れ、ふいに蛇行した山道に入った。
     そして、それは目の前に突然現れた。想像を超える傾斜の登りの坂道である。
     「うそだろ?」である。この25キロというもの完全に平坦な道だったのである。関門まで1分という計算は、道がフラットであることを前提としていた。こんな登り坂があるなんて、冗談だろ?
     残り何百メートルあるかも定かではないが、登り坂用の自重した走りをしていては間に合わない。そのままのスピードでつっこむ。
     息が続かない。いや続かないでは困る。足も手も、自分のものではないくらいに動かす。今つぶれて一生後悔するくらいなら、このあとどうなってもいいから走りきってやる。身体じゅうの細胞という細胞すべてに残っている力があるなら、少しずつでもいいからエネルギーをくれ! 残りカスもないほどに真っ白に燃えてくれ! 何でもいい、あるものを全部出しきってでも走り続けろ!
     周囲に何があるか、よく見えなくなってきた。
     ただ登り坂があり、ただ走る。
     視界の奧に、黄色い人工物が現れる。黄色い大型時計が刻々と秒数を刻んでいる。
     関門だ、関門があった。
     大勢の人が声も枯れんと叫ぶ。あと1分ですよ!間に合いますよ! そうだ、間に合うのだ。苦しさに妥協してはいけないのだ。力を抜けば、心が折れたら、間に合わないのだ。

     関門を越える。残り38秒。
     直後に黒と黄色の工事用のポールが80キロラインの上に渡される。ああ、関門ってこうやって閉じられるんだな、初めて見た。ポールの向こうで間に合わなかったランナーたちが精根尽きたようにしゃがみこむ。
     道の横にブルーシートがタタミ3畳分ほど引かれている。
     そうだ、ここで5分間休むんだっけ。自分でそう決めたんだから、休んでいいんだっけ。
     ブルーシートに腰を下ろす。そして仰向けに寝ころぶ。

     幾十にも重なる緑の木々が風に揺れる。
     こずえと葉が当たるざわめきが耳に心地良い。
     美しい色彩をほどこした小鳥たちが、何十羽と舞い飛ぶ。
     熱された全身にそよ風がサラサラと触れ、癒してくれる。
     柔らかな羽毛布団のような布地に身体じゅうがつつまれる。
     気持ちいいなあ。
     本当に気持ちいい。

     こんな気分に今までなったことあったっけ。これは普通の気持ちよさの度合いを越してる。快楽?快感? どんな言葉でも言い表せない。ああ、この状態がずっと続けばいいのに・・・。
     突然「大丈夫ですか!? 大丈夫ですか!?」という男性の声、右腕をつかんで揺り動かされる。
     「あっ、眠りこんでしまっていたのか」と目を覚ます。いったい何分間、寝てしまったのだろう。腕のストップウォッチを見ると、関門通過から5分が経っている。走らなくちゃ。もうゆっくり走っても100キロ完走は確実なんだから。そう思い、立ち上がって、走り始める。
     ん? 真っすぐ進まないぞ。アレ、アレ? これヤバイな。大阪国際女子マラソンの福士選手のラストみたいになってる。走るとコケるな。今まで1度も歩かなかったけど、ここまで来たらいいや。早足で歩いてでもゴールを目指そう。
     歩く。
     アレ? やっぱり真っすぐ歩けない。限界越えちまったのか? 確か5分前まで猛スピードで走っていたのに、この激変ぶりは何?
     それから1時間以上、歩いたり、走ったり、座り込んだり、寝ころんだり、ふたたび歩いたりした。しかし、身体の中から湧きだしてくるべきエネルギーが、何も出てこない。「枯渇」という言葉以外に表しようのない状態なのだ。
     天国のように美しい原生花園のお花畑、その向こうで夕陽を受けて目映いほどに光るオホーツクの海、北海道にしか存在し得ないと思わせる空色の絵の具を塗りたくったような青空。そして、ゴールを目指して走り去るランナーたちの「シャッシャッシャッ」という耳慣れた靴底の音。

     80キロ通過タイム9時間59分22秒。
     リタイア地点、はっきりせず。
     ぼくのレースは終わった。

                □

     80キロの関門前後のことを思い出そうとすると、何やらオレンジ色のフィルターがかかったような映像しか頭に浮かばない。ところが通過後ブルーシートに腰を下ろしてからの異様な情景は鮮明である。もし「あの世の入口」があるとしたら、あんな感じなんだろうか。ほんならあれば臨死体験ってヤツ? んなワケないか。
     今となっては「大丈夫ですか!?」と揺すり起こしてくれた男性も、実際に存在したかどうか確信を持てない。どこまでが夢で、どこからが現実なのか、境界があいまいだ。

                □

     人生、悔しいことはいくらでもある。しかし100キロを走りきれなかった悔しさは、身もだえするほどである。この失敗は、世の中のせいにも、身の上のせいにもできない。相手が強すぎたなんて言い訳もない。ケアレスミスも「勝負は時の運」もない。自分の能力不足、練習不足。それしか理由がないのだから。
     もう一度、もう一回チャレンジしたい。
     1日に100回くらい、頭の中で繰り返す。
     アーッ、もう一回走りたい!
  • 2008年07月07日雑誌をつくろう その11「若者が嫌いダーッ!」
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

     若者が嫌いだ!
     もう一度叫ぼう。若者が嫌いダーッ!
     ソクラテスの時代から、オッサンは今どきの若者が嫌いって決まっているのダーッ!
     皆さんは若者が好きだろうか。ぼくは本当に大嫌いです。前途ある若者をバックアップしてやるのが大人の務め・・・だなんて心の底から思っている人なんているのだろうか。「若者には無限の可能性がある」とか「若者には夢がある」とか取りあえず言っておかないと若者ウケしないから、世のオッサンどもは朝礼や会議やミーティングで、さかんに若者を持ち上げてみせる。
    しかし、一転居酒屋の掘りごたつに足を下ろせば、逆の論調に変化するわけである。
    「最近のクソガキは世の中ナメきっとんなー」
    「腹が痛けりゃ病欠、頭痛がしたら病欠、心がしくしく痛んだら病欠、どんだけ貧弱う〜」
    「会社辞めるという連絡を親にさせる。子離れできない親もホイホイ子供の言うこと聞く」
    「研修してもらって当然という顔。課題を出せば泣きが入る。誤認逮捕で留置所に入れられたような絶望的な表情をしやがる」
     こんなしごく真っ当な本音を隠して、職場では若者に理解のあるオッサンを演じる・・・涙ぐましい努力に頭が下がる。
     
     ぼくの部下は全員が若い。平均年齢24歳くらい。今スタッフは50人チョイいる。春には10人も入社してきたからまた増えた。ぼくはこいつらのことが嫌いだ。
    「社員のことを嫌いなんて言っていいの?」との心温かなご心配は無用だ。「ぼくはなるべく嘘をつかない」「ぼくはたいていのことは内緒にできない」と部下に宣言してあるので、好きでもないものを好きというのは約束違反になる。嫌いなんだから、素直に嫌いと言ってよいのだ。
     若者の何が嫌いか? そのすべてが嫌いだと言ってよい。
     若いというだけの理由で、自分には何か特別な才がある、と根拠なく考えているゴウ慢さが嫌いだ。
     仲間うちで「かわいー」「かわいー」と誉めあって、得意気になっている顔が嫌いだ。
     何かというとケータイを取り出して、誰かにメールを送ろうとするのが嫌いだ。
     お肉とジャンクフードばっかり食っているから、おならが臭いのが嫌だ。
     肩からブラヒモ、背中からパンツを見せて、エロカワとか言ってはしゃいでる女どもが嫌いだ。
     ふだんおとなしいのに、酒を飲んだら急に勇ましくなって職場改善とか言いだすヤツが嫌いだ。
     親に生活費を見てもらっているのに、自立しているかのごとき言動をするのが嫌いだ。
     恋愛をつかさどる脳みそがモンスター級に肥大しているのが嫌だ。
     高価な革のコートやブーツをはいて、地球環境とかの心配をしてるのが嫌いだ。
     自らの労働に、法定最低賃金以上の価値があると信じているのが嫌だ。
     たいして可愛くもないのに、自分はそれなりのポジションにいると信じているのが嫌いだ。
     「お金がない」といつも言っている割に、自分の食いたい物や着たい服にはバンバン金をかけるのが嫌いだ。
     なにかちょっとある度にブログやミクシィに書き込むのが嫌いだ。
     誰にも怒られたことがない、誰にもビンタを張られたことがない、ぬくぬくした生い立ちが嫌いだ。

     春という季節が嫌いだ。春には大学を卒業したてのトンデモナイ野郎どもがやってくるからだ。。
     今どきの22歳は、苦労の「く」の字も知らないのが大半を占める。採用面接で「今までで一番苦労した話してみて」とリクエストすると、「大学祭の準備で徹夜が続いたけど、それを克服して、無事お好み焼き店を出せた」みたいな話ばかりだ。
    あるいは「サークルで仲間の意見が合わなかったんだけど、何度も話し合って無事ひとつになれた」みたいな。ほれって苦労話でなくて、楽しく退屈な青春ストーリーだろ。
     自己紹介なんて聞いてしまった日には、金太郎飴がメビウスの輪と化したくらいの無限連鎖が続くのである。
    「私は他人とコミュニケーションをとるのが得意です」
    「私はたくさんの人と出会いたいです。そして出会った人とのキズナを大切にします」
    「今まで築いてきた大切な人とのネットワークを・・・」
     コラーッ!10人中10人が同じこと言うなーっ! オメエら、面接会場に来る前にガストかどこかで打ち合わせしてきたんかーっ?とぼくは暴発寸前に至る。
     なぜ全員が同じ言葉を発するのか。その理由がわからない。一番売れてる面接マニュアル本にそう書いてあるのか。学校の進路指導説明会で就活担当の先生がそう言えとアドバイスするのか。それとも流行りの商業的ミュージシャンが語る愛だキズナだ出会いだ、というセリフを真に受けているのか。全国の大学が「コミュニケーション学科」みたいな謎めいた学科をポコポコ造り出したからか。そーいや、異文化コミュニケーションで名を馳せた語学学校は破綻したか。
     とにもかくにも他人様との過度なコミュニケーションを信奉する全体主義者の党員たちが、どこか知らぬ草むらの奧の工場で大量生産されているような不気味さが背筋に走る。どんな社会でも、それがたとえ理想郷だとしても、意見の一致を見すぎている人間集団は不気味であり危険だ。

     当社には、二十一世紀型の暴君が次々と現れる。入社1週間目にしてこんなリクエストをしてきたヤツがいる。
    「私は他人に叱られて伸びるタイプではなく、誉められると伸びるんですね。昔から○○ちゃんは、誉められたらすごく頑張るよねって皆言ってくれるんです。だから私のいい部分を誉めていただけませんか」と言う。
     そくざに右斜め45度から延髄切りをくらわしてやりたくなるのをグッと堪える。おまえは、小出監督のランニングスクール・小出道場にでも入部して「天才だね」と誉められ続けるがよい!
     ちょっと希望職種を聞いてしまったがために、とんでもない要望を引き出してしまった事もある。
    「そうですね〜、私は事業を統括する仕事をしたいと思います。私は他人に命令されるとやる気がなくなりますし、目的もなく何年も下積みをこなすのはムリです。学生時代のアルバイト先でも、○○さんは人の上に立つと能力を発揮するタイプだねって主任に言われましたし」
     チクショウめ、鼻の穴から指つっこんで目の玉ポンッて出してやろうか!と全身をワナワナ震わせながら耐える。おまえは、アントンハイセル事業でも統括して世界の食糧危機を救うがよい!
     先日は、入社1年目の女性社員が暇そうに横綱あられを食べていたので質問してみた。「来週採用試験があるので聞いておきたいんだけど、今どきの新卒学生はどうして皆同じ志望動機を言うの? 君はなぜウチの会社を選んだんだっけ?」。すると、彼女は横綱あられをバリボリしながら明るく述べる。
    「今どきの学生さんには本音で語る志望動機なんてないんですよ。私がこの会社に就職したんだって、いつまでもキレいでいたいからって理由ですから。ほら、人前に出ている女性は何歳になっても美しさを保てるって言うじゃないですか。ここの会社は取材とかで人前に出る機会が多いだろうなって想像したんですよね」
     おもしろいギャクを言うなあと感心し顔を見つめたら、どうやら真剣そのものである。クソーッ、お前のそのブ厚いファンデ顔を、大谷晋二郎ばりの顔面ウォッシュ攻撃で拭き取ってやろうか!
     あるいは、企画会議に出席して何のアイデアも出さず、居眠り寸前の新入社員が堂々と見解を述べる。
    「こういう会議の場では、もっと意見を言いやすいような雰囲気を作ってほしいんですよね〜。もっと楽しいムード作りをしたら、みんな自由にアイデアを言い合えて、会議が活性化すると思うんですよぉ」
     わかった、今後わが社の会議は、死霊やハゲタカが群れ飛ぶ秘密結社の地下アジトの粛正会議のような雰囲気のなかで行ってやる。

     こんな欲望むきだしの野獣的な連中を、まっとうな社会人に改造するのは至難のわざではないだろうか。何の共通項もないアカの他人が、ある日集まって突然運命共同体になる、それが企業である。特定の思考回路をもって集まる団体・・・宗教法人や政党やNPOやボランティア組織に比べ、営利企業とはほんとマカ不思議な人間集団なのだ。有名企業で給料がいいならその場に集まる理由はわかる。生活の安定であり、企業の看板が自らのアイデンティティの一部となる。しかし我々はその対極みたいなとこにいるしなぁ・・・。そんな不思議ユニットに起こる現象や問題を解決できる処方箋はどこにもない。そして、彼ら以上にバカまる出しで生きてきてしまったぼくは対処のすべを知らない。ただ祈り、ただ怒る。
     さて、こんな連中も夏が過ぎ、落ち葉が道を濡らす頃には、それなりに苦労もし、たどたどしくも社会人敬語を使いはじめ、根回しを知り、そして知らぬ間にぼくよりも全然立派な社会人になっているのである。人間ってやつは、本当にすごいなと思う。
  • 2008年05月29日雑誌をつくろう その10「こんなヤツがいて、タウトクができて」
    派手に立ち回るわけでもなく、真面目で、不器用で。
    仕事への情熱に溢れ、自分を守ることにハナから興味がない。
    そんな本当に強い人が、きっと君の周囲にもいる。

    文=坂東良晃(タウトク編集人)

     その男は、前ぶれもなくフラリとやってきた。アルバイトさせてもらえないか?と言う。今、何をしているのかと問うと、「Tシャツを作っています。明治維新の志士をテーマに」と、サンプルを見せる。「ハァ・・・・・」ぼくには意味がわからない。年齢は25歳だという。25にもなる男がアルバイト希望? しかもいい歳をしてTシャツ作り? それをホームページで販売? ぼくは、その呑気な男をぼうぜんと見つめた。
     どうせ、そこいらへんにいるフリーター崩れなのだろう。責任を嫌い、下積みから逃れ、自分の好きなことを好きなようにやって、それを「自由だ」「権利だ」とはき違えている人。出版をしている会社にはそんな人間ばかり面接にやってくる。気楽な商売だと勘違いしているのだ。この男も、そういう連中の一人なのだろう。
     男は少し変わった経歴を持っていた。国立大学の法学部を出、当時としては大手にあたるゲームメーカーの社員となった。国内勤務もそこそこに中国・上海の支社に配属され、上海の街を歩きながらアーケードゲームの基盤やプリクラマシンを納入するためにゲームセンターへ営業をした。そのため北京語をそこそこ使えるようになった。ところが入社2年目には会社の経営が傾きパチンコメーカーに買収された。彼は混乱する会社に嫌気がさし退職した。
     仕事など簡単に見つかると甘く見ていたのだろう。転職を試みたが、うまくいかなかった。うまくいくはずもない。ゲーム会社に在籍はしたが、食いつぶしの効くゲーム開発者でもプログラマでもない文系の大学出。営業経験があるといっても日本国内でのキャリアはゼロ。つまり日本人相手にモノを売ったことがない。企業に対して中途採用を決断させる材料が何もない25歳である。行くあてを失った彼がやってきたのが、このメディコムという会社だ。
     男はやはり気まぐれであった。いったん入社したものの、数カ月後にはクリエイターを養成するスクールに入学したいと言いだした。ぼくは少々ウンザリした。社会の最前線にいったん立ち、いくらでも自分の能力を使える場はあるというのに、「資格取得」やら「勉強のやり直し」という名目で、あっという間に非労働の環境にピットインしてしまう。「逃げる」という行為から目を逸らし、人生に正当性を与えるために東京や大阪に行きたがるヤツらが多すぎる。
     ゼロから物を生み出すのがクリエイターの本質なら、最ももがき苦しむべき産みの葛藤から逃れ、物を売るために他人に頭を下げることを知らず、金銭を失って震えあがる経験もせず、マッキントッシュの画面をチョコチョコといじるだけのクリエイター気取りが多いこと。こいつもそんなヘタレの一人なんだろう、二度と帰ってくることはないのだろう・・・。

     彼が会社を去ったタイミングで、こっちがズブズブと沈みはじめた。
     原因はぼくだ。高くかけられたハシゴに登り、ずいぶん遠くまで見渡せるものだといい気になっていたら、きれいさっぱりとハシゴを外された。そこは寒風吹きすさぶ厳冬期の岩壁のような場所だった。自分のマヌケさを呪った。呪ったところで何ら状況が好転するわけでもない。やることなすこと失敗した。手をつけたものはことごとくうまくいかなかった。30歳少々のぼくが世の中でできることなどたかが知れている。企業における基礎体力(人、金、技術)も何もないのにあっちこっちに出歩き、大きな風呂敷を広げた。契約書を交わしてもいない約束を履行されるものと信じた。そして人を多く雇い、設備投資をした。約束は果たされず、コケた。会社はひん死の状態になった。
     退却できる場所はどこにもなく、自分にできるたった一つのこと・・・雑誌づくりで状況を脱するしかなかった。生き残り、雇った従業員を解雇しないために、雑誌を作る以外に方法がない。ぼくは3カ月間、自室に引きこもり、ほとんど誰とも会話をせず最初のタウトクのコンセプトを書き続けた。A4用紙に100枚。これでアウトなら逃げ場はない。
     壁ぎわに追い詰められた窮鼠の前に、なぜか彼はふたたび現れた。雑誌を創刊するというのに、誌面をレイアウトできる人材はいなかった。わずかな経験者でも必要だった。エディトリアルデザインの経験ゼロの素人でもである。
     初期コンセプトのタウトクは、雑誌の常識を逸脱した工学デザイン的な考え方で誌面を作ろうとした。デザイナーの感性に依った情緒的な誌面レイアウトは行わず、工場にすえられた旋盤機のコントロールパネルのように、目に迷いがなく理路整然とした配置を雑誌誌面でやりたいと。彼はその考え方に共感してくれた。彼は、誌面デザインを「レイアウト」と呼ばず、「誌面設計」と言い換えた。
     雑誌やデザイン世界には、同じ仕事をしていても、相容れない人がいる。まったくもって共感できないのは、「自己表現」とやらのためにこの世界にいる人だ。彼の思考は正反対であった。読者にどう見てもらうか、どう読んでもらえるか。それに興味が集中していた。
      やがて全ページにわたって誌面レイアウトが同じという、狂気じみた雑誌が組み上がっていった。「オシャレ感」のあるデザインを排除し、全誌面を小さな文字で埋め尽くした。
     「読者が情報誌に求めているのは情報そのものだ、だから誌面は文字情報だけあればいい」とぼくは編集スタッフに向かってカラ元気を発した。実際は経験者不在の寄せ集め集団でもって、商売になる雑誌をつくる唯一の方法がそれだけしかなかった。スタッフは、本来は別のプロジェクトを行うために雇った新卒の20歳や22歳の若者たちだ。本を作ったこともなければ、取材や撮影の経験もない。研修している余裕もないから、1日で教えられるだけ教え現場に放り出した。創刊までの数カ月は、狂ったように取材をし、狂ったように本づくりに取りくんだ。事務所の床に段ボールを敷いて寝た。もうこれ以上仕事できないと、皆が泣きわめいた。誰もが、本ができあがるまでどんな物になるのかわからなかった。真っ暗なコールタールの海をバタフライで泳いでいるような、もがき苦しみ方だった。それでも本は仕上がった。
     創刊号は2万部も印刷した。絶対売れると信じていたが、売れなくても徳島の人たちに読んでもらいたかった。この業界にいる古株には「3000部も売れたらいい方」と指摘された。それが現実の数字となるのなら、売れ残りを配って歩こうと考えていた。しかし、結果はよい方に転んだ。発売当日、書店から売り切れ、追加注文の電話が次々とかかってきた。1週間もたたないうちに100店舗以上で売り切れた。実売部数は1万3171部、驚くほど売れた。いったい何が評価されたのか、実はいまだにわかっていない。ただその日、真っ暗闇の世界を脱したのは確かだった。

      □

     現場復帰とともに彼からはある告知を受けていた。学生時代に左脚の骨にできた腫瘍を切り取り、骨の代用となるつなぎ棒を埋め込んでいるのだと。そして、その腫瘍が肺に転移してしまったのだと。外見からは、そのような重篤な病に蝕まれていることなど微塵も感じなかったが、やがて病状は一進一退を繰り返すようになった。2度にわたって長い入院をし、きつい投薬治療をはじめると頭髪は抜け落ちた。他人に気を遣われるのが嫌だったのか、頭を剃りつるつる坊主にした。以来、坊主アタマは彼のトレードマークとなった。何度入院しても彼はカムバックをし続けた。
     「発症後、平均の余命は5年」だと医者に言われた。しかし発症から5年を過ぎても、最前線でバリバリ働いた。医者も驚嘆するほどの「奇跡的な生存率」に自分が入っていることを自慢した。

     彼が仕上げた仕事を、ぼくはよく否定した。いいものを作ってきても、アラを探して批判する。「これは世に出せるレベルではない」と嫌味たっぷりにこき下ろす。すると彼は一度持ち帰り、次には200%以上のレベルで返してくる。こちらの想像力を上回る結果を出す。ドMなのかもしれない。ドMなのだろう。拒絶されて燃えるタイプなのだ。苦境に立っても前を向いて歩いていける性格なのだ。
     彼は思索家であり、始終難解なロジックを使う。人に考えを説明をしたり説得にかかる時は、そのクセを色濃く出す。禅の開祖が問いかける禅問答か、あるいはソクラテスと弟子プラトンの真理追究の対話か。だが、その言葉には何とも言えないペーソスが溢れ、お笑い哲学者といった風情なのである。時に職業への思いや仕事への情熱が強すぎて、部下がついて来られなくなる場面も多くあった。「雑誌をデザインしたりイラスト描いたりするのが楽しそう」くらいでこの仕事を選ぶ今どきの若者と、仕事に人生を懸けている彼のスタンスの違いは、何万光年もかけ離れて見えた。

     今年1月、再び胸の痛みを訴え、大学病院に行った。帰ってくると表情がなかった。ほんの数日で、これほどまで頬がこけるものかと思うほどやつれていた。肺のレントゲン写真を見せてくれた。真っ黒いネガフィルムのなかに、薄ぼんやりと、ホタルの光のような、タンポポの種子のような腫瘍がいくつも見える。直径30ミリを超えると切開手術が困難と言われる肺ガンだが、彼の肺には30ミリ級の腫瘍がゴロゴロといくつも、いくつもあるのだ。いちばん大きなもので50ミリを超えている。「担当医には生きているのが不思議なくらいと言われました」とテレ笑いをする。ぼくも大げさに笑う。こういうときには笑うしか方法がない。泣くわけにはいかない。「こんな肺して仕事して不死身やなあ〜、ナハハハハ」である。こんな言葉しか出てこない。それがぼくの人間としての限界だ。
     肺と胸膜の間に1リッターもの水がたまり、それが肺や胸部を圧迫し、苦しそうだった。1週間に1度、病院で水抜きをしながら仕事をした。座って作業するのは本当に辛そうに見えたが、「どうせ寝とっても痛いので」と変な言い訳をして仕事を続けた。
     春先には、まだ誰も試したことのない新薬を投与することを考え、再入院の予定を組んでいた。ところが突然「もう治療を受けずに、最後まで働こうと思います」と言いだした。病気のことばかり考えていると本当に気持ちが病人のようになってくる。気持ちが病人になってしまったらダメだ。やりたい仕事のことを考えて、納得いくまで仕事をしたい・・・。コイツ、どれだけ強いんだ?と思う。自分が彼の立場なら、病気からも仕事からもとうの昔に逃げ出している。誰からも同情されるべき立場なんだから、無理して責任を背負いこむような事をしたくない。それがふつうの人間の考え方だ。彼は人間として十分許されてしかるべき弱い部分をまるで出さない。人というものは、こんなにも強くいられるものなのか。
     その後彼は、もういちど病気と戦う道を選んだ。自分の身体はもちろん自分のものだけではない。自分のことを大切に思ってくれている人のためにも入院し、病気と真っ向から対峙する。正しい判断だと思う。

     創刊から今まで5年間・・・1号も欠かすことなく、彼はタウトクのパッケージデザインを続けている。今月号のタウトクの表紙ももちろん彼の仕事だ。病室にマッキントッシュのノートブックを持ち込んで、時に強い抗ガン剤の副作用である吐き気に耐え、腫瘍マーカーの数値やCT画像と睨めっこしながら、彼はタウトクの表紙を作りつづけている。
     こうやって、ぼくたちは必死になって本をつくってきた。そしてこれからも必死に生きていくしかない。

  • 2008年03月29日「失われた熱波が、そこに」みちのくプロレス感傷観戦記
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

     プロレスに感情移入できなくなったのはいつからだろう。
     各団体が明るく楽しいプロレスを標榜するようになったからか。グレーゾーンだった様々なアングル(仕掛け)を、WWEに習って「すべてが演出です」と明示するようになったからか。レスラー自らがブログで、「レスラーといっても実は平凡な気のいい男なんです」と語り出したからか。
     かつてプロレスは暗い世界だった。
     会場自体も薄暗かった。体育館に支払う照明料をケチッていたのかどうかは知らない。非常出口の表示板が煌々と浮き上がる闇の中、マットとレスラーを照らすのは小さなトップライトのみ。頼りなげな白色光の下でレスラーたちは黙々と関節を取り合う。演出といえばリングアナのコールだけ、入場テーマソングのテープすら流さない。
     70年代新日本プロレスの前座は、そのゴツゴツした肉のぶつかり合い、骨のきしみ合いがプロレスそのものであった。前田、魁、木戸、小林、浜田、高野、藤原、小鉄、星野、平田、荒川・・・。どのレスラーもいかつい顔とゴツい胸板と腹を持ち、現在のアンシンメトリーな髪型をした、ホストのような顔をしたスター選手とは程遠い。もちろん試合会場に若い女性の観客などいない。 
     試合は地味だ。組み合い、手四つの力比べからブリッジへ移行、ヘッドロックを外してボディスラムで叩きつけ、ストンピングを入れる。ロープに投げたらショルダースルーかアームホイップ。フィニッシュホールドはボストンクラブかキャメルクラッチ。
     スクワットで鍛えられた発達した大腿筋が、美しい陰影を浮きあがらせる。マットから吹き出したホコリ漂う空中に、飛び散った汗がきらきらと光る。規則的なレスラーの息づかいを、観客は息を潜めて聴く。それがプロレスだった。
     
     今のレスラーはみな明るい。そしてよくしゃべる。鶏のササミを食い、ウエイトトレーニング理論に則った負荷を筋肉にかけ、サンタンライトで全身を黒く焼く。腹回りの体脂肪を削り取り、僧帽筋や大胸筋をバンプアップさせる。
     ドラゲー、ノア、DDTのトップレスラーたちは、その美しい筋肉美を見せつけながら、体操選手のように派手に舞い、マトリクスの主人公ばりに派手にかわす。マイクパフォーマンスは芸人はだしである。観客に伝わるようにゆっくりしゃべり、間も絶妙だ。シリーズの展開の説明を要領よく説明もする。エンタテイメントをなりわいとするプロとして十分に完成されている。
     しかし何も感じられない。ぼくたちは、昔のようにレスラーに人生を投影したり、コンプレックスを共有したり、金言を得ることはない。吹き出さんばかりの情念を背景に、泥臭く戦っていたかつてのレスラーたちとは、何もかもが違う。
     何もプロレスに限ったことではないのだ。ボクシングにしろ、総合にしろ、人生を背負って花道をリングに向かうような重苦しい選手がいなくなっただけのことだ。ロックにしろ、演歌にしろ、生命を削りながらステージに上がる歌い手がいなくなっただけのことだ。

     3月6日、みちのくプロレス徳島大会は、ふいに目の前にポンっとさし出された。いつものみちのくプロレス、何度も目にしたみちプロの大団円を前提としたプロレス・・・心の準備はそれだけ。
     1試合目の相澤孝之と清水義泰戦。3カ月前に阿南大会で見た清水の動きは重く、アンコ型の地味な選手という印象しかない。期待などしていなかったのである。相澤も同期のグリーンボーイである。だが試合は熱かった。練度の低い空中技は使わず、基本的な攻防の繰り返しでありながら、2人の必死さが伝わってくる。歴代の若手に比べれば身体能力は劣るのかもしれない。しかし、みちのくの前座でこんな感情直撃をする若手っていただろうか?
     2試合目の景虎と日向寺塁は、さらに骨太な展開を見せた。派手な技の応酬はなく、ボディシザースやネックロックなど互いに絞め技をきめ合う。ふつうの試合なら「退屈」な部類だったはずだ。しかし気持ちの入りようが尋常ではない。痛みが伝わってくるのである。景虎は、試合時間の大半をボクシング出身の日向寺の打撃を吼えながら受けた。・バトラーツのバチバチを彷彿とさせる展開が続く。本当にこれがみちプロか、というドロ臭さなのである。
     デルフィンや東郷、テリー、TAKAら、団体創設の頃からのメンバーがごそっと脱けた頃のみちのくは、観客としたどう観ていいのかわからなかった。前座では「MICHNOKUレンジャー」や「110.119隊員」あるいはスーパーカー・キャラなどの設定が不明なマスクマンが登場し、反応する術がない。それ以前とて、原人VSウェリントンの時代から、みちプロは前半おちゃらけで折り返し、後半ハイスパート・ルチャの速度をグイグイ上げ、客を温めていく団体ではなかったか。
     そんな時代に比べると、この日のみちプロはまるで別団体のような空気が漂っている。
     そして4試合目である。デビュー戦である拳王(中栄大輔) は、握手を求めたアレクサンダー大塚の手を張り、デビュー戦らしい好勝負を拒絶する意思を表明する。「オオツカーッ」と叫びながらこの世界13年のベテランの顔面に張り手を入れる。掌底、ボディ、ローキックのコンビネーションを幾度となく放つ。大塚の右瞼は大きく腫れ上がり血が一筋流れる。拳王の打撃技を大塚はすべて受け止める。そして、最後は市立体育館の二階席の空気まで鈍く揺らすほどの、重い重い頭突きとジャーマンで拳王を沈める。ドクドクと鮮血があふれる拳王の額に、大塚は白いタオルを巻いてやり、そして抱きしめる。拳王の日本拳法時代の恩師の中川雅文さんがリングに上がる。マイクを手に思いの丈を振り絞る中栄大輔の姿を、中川さんは何とも温かな、慈愛に満ちた表情で見つめる。本当に強い男だけが持つ優しさに溢れた表情である。
     何だ何だこの漢(オトコ)の世界は!鳥肌立つじゃないか!

     プロレスは本来、こうやって感情をぶつけ合う世界だった。どこまでが予定調和でどこからがパプニングなのかはわからない。幾百のストーリーの中に観客は真実を見つけ、心を熱くした。
     わずか20年ほどの間に、プロレスは競技として進化をしすぎた。かつてのフィニッシュホールドは単なるつなぎ技に、トップロープからのボティプレスは1回転半以上に、あらゆる技は雪崩式にアレンジされ、エプロンから場外に首から落とす。観客は、見栄えのいい大技が「いつ出るか」と期待している。レスラーは、頭部や頸椎や膝への大きなダメージを覚悟のうえで、危険な角度で跳ぶ。その覚悟の重さをファンが知り尽くしているわけではない。明るく楽しく、しかし生死や身体の不随に至る事故が表裏一体のアクロバティックな競技、行き着く先はどこなのか・・・。
     こんな風に、時代遅れの古めかしいプロレスファンが郷愁と夢想にひたっている横で、当社の女性社員たちはいつになく興奮気味なのである。聞き耳を立てていると、コメントがいかしている。「景虎ってオトコマエ」「受けて立った大塚がカッコイイ」「野橋と名勝負をできるGAINAは成長した」「プロレスってホンマなんですね・・・」。
     いやいやプロレス初観戦の人間まで解説者気取りでコメントを述べている。そして視点がなかなかシブいではないか。楽しいルチャもいいけど、餓えた男たちの張り裂けそうな思いをガツガツぶつけるような試合を、観客は本能的に待っているのではないか。
     今、生き様を競技に叩きつけるようなスポーツって、ほとんどなくなってしまった。プロレスはいつまでもその頂点にいてほしいのだ。薄暗い田舎町の小さな体育館で、武骨な男たちがゼーゼーとあえぎながら身体を密着させて関節のとりっこをしているような、大人の世界を失いたくないのである。もうそんな世界にお目にかかることはないのかと諦めていたら、その対極に存在しているはずのみちのくプロレスの会場に、その懐かしい原プロレスの匂いを嗅ぐことができた。幸福感に包まれた日曜の午後だったのだ。
  • 2008年02月09日若者よ、荷物を捨てて旅に出よう!
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

    卒業旅行のシーズンである。ぼくはこの季節が好きだ。
    何年もバックパッカーをやっていると、すべての出来事に無感動になる。血まみれの殴り合い、赤線の売春宿の前に立つ少女、道ばたに落ちている死体・・・それが日常となり何にも思わなくなる。世界への不感症状態だ。でも卒業旅行の学生たちは違う。見る物すべてがみずみずしく、いろんなことに悩み、怒り、世界の不平等を呪う。あるいは、恐がり、気勢を張り、自分の存在確認をする。そんな彼らと話をするのが楽しい。
    長逗留している宿には、次から次へと若い学生旅行者がやってくる。旅の予定をこなすために慌ただしく移動する人もおれば、その町を気に入りすぎて動けなくなる人もいる。街の若者と恋に落ちることもあれば失恋に涙もする。あるいは日本で気づかなかった自分の本質とやらに目覚める人もいる。まぁ、とにかく学生旅行者はいろいろなドラマを運んでくれるわけである。ぼくはその話を聞くのが好きなのだ。感じのいいカフェがあるなら、彼らにミルクティーをおごりながら1日に18時間くらい聞いていられる。

    そんな大学生たちも、就職した会社の入社式も近い3月の終わり頃になると帰国の途につきはじめる。ところが中には日本に帰れなくなる人がいるのだ。
    日本に帰るべきなのか、旅をつづけるべきなのか、彼らは例外なく悩む。そして、苦渋の決断をくだす。「旅を続ける」という決断だ。就職の内定をぶっちぎり、卒業証書も受け取らず、親や親戚の怒りを一心に浴びながら、それでも旅を選択する。
    2カ月分ほどの滞在費しか持っていないわけだから、旅の延期を決めた時点で限りなく貧乏になる。いくら旅先の物価が安いといっても、2カ月の予算で1年間も放浪するのは大変である。しかし彼らは工夫をしはじめる。
    デジタルカメラや服を売る。1泊50円のドミトリーベッドを借り、1食20円の屋台で飢えをしのぐ。最後はザックや帰国の片道航空券まで売りさばいて空身になる。
    男ならたまに辺境地にやってくる日本の女子大生ツーリストにたかる方法を覚える(この方法は次号で教えよう)。女なら現地の男や西欧ツーリストに金を払わせる方法をマスターする。まさに現代に蘇ったルンペンプロレタリアートって感じだ。
    日本を出てたった数カ月でこのような悟りの境地に突入できる彼らの変貌ぶりが愉快だ。豊かさに慣れたなまっちょろい日本の若者が、現代で出来うる最大限の「世捨て」じゃないかとぼくは思うのだ。
    世界じゅうの悪名高き「沈没タウン(この情報も次号で教えよう)」には、こんな日本の若者が大量に存在する。そして晴れた日にふわふわと空気中を舞う綿毛のように、あてどなく流浪しているのである。

    さて、今から旅に出る学生旅行者、あるいは若いバックパッカーに提案したいことがある。
    空身で旅しよう。空身の旅ほど自由なことはない。
    空身で旅するならば、いつどこへ行くのだってバックパックという重荷から解放され、きみを束縛するものは何もない。
    旅先での荷づくりは憂ウツな作業だ。移動につぐ移動の旅ならば、毎晩のようにバックパックに詰め込んだ荷物をすべて引っ張り出し、翌朝には丁寧につめ直さなくてはならない。しかし考えてもみよう。15キロもあろうかというその荷物、毎日使っているものなんて何パーセントあるというのか? ほとんど使ってないんじゃないか?

    行きの飛行機の中で一瞬使っただけのアイマスクと空気枕。読み返すことのない海外旅行者保険の説明書。服用せずとも匂いは存在感を放つ正露丸。現地でほぼ役に立たない「地球の歩き方」。繰り返し読めるからと友人に勧められた孟子や孔子の類いの古典文庫本。特定の時間帯しか日本語放送を拾わない短波ラジオ。
    そけだけじゃない。
    洗濯しても乾きが悪くザックの中で蒸れ蒸れになるジーンズ、撮影技術もないのに持ってきてしまった重量感溢れる一眼レフカメラ、貴重なザックの体積のうち25%をしめる寝袋なんて安宿のベッドの上にたまに広げるだけ。
    日本を出国してから帰るまで1度も使わない物のなんと多いこと! そうやって1品1品検証していくと、「特に何もいらないんじゃないか?」という気持ちに至る。旅の生活を快適にするために持参した数々のアイテムが、大きな足カセになっていることに気づく。

    旅の心配事の大半は荷物なのだ。
    デイパックやザックの中に大切なモノが入っていたなら、きみは始終気にかけていなくてはならない。
    観光地や街なかで、かっぱらいやスリを警戒して体の前に荷物を抱えこんでいる旅人は多い。「デイパックはこうやって胸の前で抱え込むのが旅の常識だよ」なんて、古株のツーリストがしたり顔で教えてくれたのかもしれない。
    バスや列車に乗り込んだらイの一番に荷台にチェーンキーでザックをくくりつけ、それでも足りずに盗難されないかと横目でにらむ。寝台列車では眠ったスキにパクられないようザックを枕がわりにする。空港では置き引きに遭わないよう両足で荷物を挟む。ホテルの部屋に荷物を置いて外出するときは貴重品を貴重じゃないように見せかけるサポタージュに忙しい。
    こんなことばかり日がな一日やってると、だんだん自分が小心者に思えてくる。始終誰かを疑っては目をキョロキョロさせる挙動不審者・・・猜疑心の塊のようである。
    それではいけない。24時間リスクに備え緊張の糸を張りめぐらせたゴルゴ13的な旅よりも、ボーッと何も考えずに目に映るものすべてを受け入れたいではないか。それこそが旅というものだろう。
    いっそ荷物を捨ててしまえばよいのだ。あるいは、日本の自宅を出発する時点で手ぶらであればよいのだ。

    最低限持参すべきは3つだ。?お金、?パスポート、?航空券(あるいは乗船券)、この3つがあればいい。
    必要なものがあれば旅先で買えばいいのだ。
    洗剤や石けんにしろ歯みがき粉にしろ、日本の製品よりはるかにコンパクトな物が10円、20円で売られている。
    身のまわりの小物が増えたら、お店でくれるビニル袋に入れておけばいい。旅の持ち物はこれだけ。金目の物が入ってないのは一目瞭然だから、絶対に引ったくりはやってこない。
    病気になれば薬を買い、読書をしたくなれば本を買い、寒ければ服を買う。不必要になれば、古本屋や古着屋に売りにいく。つまり、日本で生活している状態と同じと考えればよい。日本では、何かが起こった時のためにすべての荷物を背負ってなんかいなかったはずだ。

    それでも現金やパスポートを持っていたら不安かも知れない。大丈夫だ。現金・パスポート・航空券を「貴重品の座」から降ろせばよいのだ。
    よくある話だが、日本人旅行者のパスポートへの思いは並々ならぬものがある、ありすぎて困る。大切にしすぎて緊急時に誤った判断をする要因になっている。
    たとえばメキシコでの実話。メキシコの長距離バスは強盗がジャカジャカ乗ってくるので有名だが、あるとき強盗に襲われたバスの最前列に座っていた日本人が、ホールドアップがかかっているにも関わらずウエストポーチに入っている物を渡すのを拒み、そのまま撃たれて死んだ。強盗がポーチのなかをまさぐると、パスポートと航空券が出てきたという。そんな物を守るために命を失うとは、判断のバランスが悪すぎる。
    パスポートなんてお役所が発行する単なる「旅券」である。失くしたら再発行してもらえばいいだけだ。1つしかない命を懸けて守るほどの価値はない。
    現金だってそうだ。一般的な旅行ならカバンの中に20万円くらい持っているだろうか。20万円なら日本で一カ月間、一生懸命働けば稼げるのだから、必死に守る必要などない。強盗に出くわせば「どうぞ、どうぞ、みなさんの未来のためにお使いください」と、笑顔でプレゼントすればよい。
    日本じゃなかなか体験できない、貴重な旅の思い出になる。どうせあなたは帰国後、その強盗体験をバーや居酒屋で100回は話をするだろう。ネタ代として元をとって十分に余りあるではないか。10万円、20万円をケチッて腕一本、目ひとつを失うのは割に合わない。
    その辺の、とっさのデメリット計算が日本人は弱い。銃やナイフで武装した悪党に対して正義感など出してはいけない。よその国の世間はそれほど甘くない。
    つまりだ。現金・パスポート・航空券という「旅の三種の神器」に対して執着心をなくすことで、旅の危険度は一気に減るのである。さらには荷物を持たない空身なら、山賊でも詐欺師でもいつでもいらっしゃいと心に羽が生えたように自由になるのだ。
    あえて何かひとつ携行するとしたら、ナイフを1本持っていくといい。ナイフひとつあれば、ほとんどの身の回りの用が足りる。缶詰を開けることができる。スプーンの代わりになる。化膿した皮膚を焼くこともできる。ネジを締めたり、壊れた鍵をこじ開けたりし、ほとんどの工具の役割をナイフは代わって果たしてくれる。
    ナイフは万能の道具である。ビクトリノックス社のアーミーナイフを持つ旅人は多い。あの赤くて可愛いヤツはオシャレで可愛く多機能だが、実際のところ複雑な機能は必要ない。アーミーナイフはアイテムが多ければ多いほどゴミや脂、果肉なんかが根本に詰まって汚れがひどくなってしまう。それよりも、開いたときに「カチッ」とロックのかかるナイフを選ぶのが肝心だ。ロックされないナイフは、包丁的な用途以外にあまり使えない。工具代わりにすると危険なのだ。しかし話ずれずれですね。

    世界は広い。
    水道水を飲める国、教育が義務化された国、戸籍があり万人に選挙権があり男女の権利が平等な国、人前でサイフを出しても大丈夫な国、女性が夜ひとりで歩いても何も起こらない国、自動販売機が道ばたに置かれている国。
    ぼくたちが生まれたそんな国が、地球上で限りなくマレな存在であるのを知ることは、きみの人生にとって価値のある引き出しのひとつとなる。
    若者よ、荷物を捨てて旅に出よう!


  • 2008年01月09日野宿考2
    つづいて放浪者にとって何がベストな寝具であるかを検証したい。
    (☆☆☆☆☆)段ボール
     野宿者の最強アイテムである段ボール。ぼくはこれ以上の素材にめぐり会ったことがない。その保温力への評価は述べるまでもないが、他の素材にはない「吸湿性」が最大の利点である。いくら寒くとも、人間は呼吸をしたり肌から水分を放出するので、ビニル・ポリエチレン類は湿気が内側に溜まってしまうのである。湿気は不快さをともない、また外気が摂氏0度以下のマイナスであれば、パリパリに凍ってしまう。
    紙製の段ボールにはその不安要素がない。また工作が簡単であり、筒状にして小部屋を作ったり、更にその筒を二重にして防寒性を高めることもできる。ぼくは野宿をする2時間ほど前から、適切な大きさの段ボールを探しはじめる。ショッピングセンターが建ち並ぶ幹線道路では苦労せず見つけられるが、山間部ではなかなか発見できないこともある。そんなときは迷わず村の人に話しかけてみよう。「野宿するので段ボールいただけませんか?」と。けっこう気やすく恵んでくれるし、時には「そんなことせず家に泊まって行きなさい」と招いてくれる親切な人にも出会う。

    (☆☆☆)プチプチ
     保温性は最高級なのだが、吸湿を一切しない。したがって眠りはじめてすぐに体がベトつきはじめるのを感じる。顔まで覆うと呼気の中に含まれる蒸気が全身にまわり不快だ。それ以上に問題なのが、プチプチに覆われた寝姿を誰かに見られたら、変死体だと勘違いされ、通報される恐れがある点。温かいからといって安易に体に巻きつけない方がよいだろう。

    (☆☆☆☆)ブルーシート
     段ボールが見つからないときに活用するのがブルーシートである。プチプチ同様に吸湿性はないが、ブルーシートなりのメリットがある。あの硬い生地のおかけで、簡単に住居スペースが作れるのである。シートを何枚か重ねて敷き布団とし、自分の身体が入るくらいの空間分を三角状にシートを持ち上げ、簡易テントを作ってしまえる。

    (☆☆☆☆☆)古毛布、古布団
     毛布なんてどこで調達できるのよ?と疑問に思われるだろうが、なぜか道ばたによく落ちている。おおかた不法投棄なのだろうが、放浪者にはありがたい。防寒具としてのレベルはもちろん最高クラス。ふつうの人って、こんな快適なものにくるまれて眠っているのかと羨ましくもあり、ふつうの生活が恋しくなり放浪生活を脱したいとのホームシックにも似た思いがよぎる。

    (☆☆☆☆☆)発砲スチロール
    敷き布団の代用品として最高の品質。弾力といい保温性といい非の打ち所なし。体全部をカバーできるほどの面積分を確保するのは難しいが、破片を集めてベッド作りにいそしもう。漁港のある海沿いの街なら集めやすいぞ。

    (☆☆☆☆☆)干し草、ワラ
     酪農が盛んな地域には、干し草が様々な形状で積み上げられている。ブロック状であったりロール状であったりするが、いずれにしてもそのすき間に体を潜りこませ、草の破片で空間を埋めれば、得も言われぬ温かさを確保できる。干し草は、冬場でもその内部で少しずつ発酵が進んでおり、かすかに熱も発生させている。草のコンディションにもよるが大変温かい干し草に遭遇することがある。

     人はどのような状況に立っても、自分が現在置かれている環境が若干でも改善されれば幸福感を得られ、悪化すれば不幸を感じる。職場をうばわれ絶望する人もおれば、「就職しろ」と家族に迫られ親族を殺してしまう人もいる。人間という生物の心の中にはいろいろな不幸が存在するんだけど、「ワラの山を見つけるだけ」で星野ジャパンの選手並みの高揚感を得る幸せな人間もいる(ぼく)。
     人間、もともと何も持っていないってことを前提にすれば、小さな所有で多幸感に満ち、何かを失ってもダメージがない。得ても失ってもこの身ひとつと思えば、無常の人生を生きられる。
  • 2008年01月09日野宿考1
    人は座って半畳、寝て一畳のスペースがあれば生きていける。
    それ以上の財産は、持つほどに苦しいだけのことだ。
    何も所有しないのがいちばん身ぎれいであり、また気楽でよい。
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

     ぼくはわけあって、あちこちを放浪していたことがある。荷物はない。着の身、着のままである。
     晩秋から冬にかけて、放浪者は厳しい季節をむかえる。東南アジアやインドあたりの無宿生活とは天地の差。熱帯では寝床の心配がいらないが、日本の冬野宿はとにかく寒いのである。テントや寝袋を持っておれば、キャンプサイトを探せばよいし、なくても公園や駐車場の片隅を拝借すればよい。というよりもテントがあるなら野宿者ではない。キャンパーは「趣味で寒いところで泊まりたい人」であって、野外で寝るのが好きなだけだ。放浪者は、好きこのんで放浪しているのではない。お金がなく、泊まる場所がないだけなのだ。今回は、放浪時代のぼくの経験を元に、親愛なる徳島の次世代放浪者たちに野宿マニュアルを贈りたい。
     日暮れから夜明けまでの約12時間を過ごす場所、これは放浪者にとって非常に重要である。
     「そんなに寒さが厳しいのなら、温かい昼間に図書館で寝て、夜は身体を動かしていたらいいじゃないか」と、一般市民の方は考えるかもしれない。しかしそれは人間の摂理にもとる行動ではないか。放浪者だって御天道さまを拝みながら生きていたいのである。また昼間の公共施設で眠るというのは、まともな神経の持ち主はできかねる所行だ。暖房が効いた公共施設に無人というシチュエーションはあり得ない。人がざわざわいる場所は気持ちが落ち着かないし、そもそも放浪者を歓迎してくれる雰囲気ではない。図書館や公民館のソファーは快適なのだが、自分の体臭が悪臭となり、周囲の方に迷惑かけていないかと心配になって眠れない。デパートのトイレは眠りに落ちようとしたら「コンコン」と誰かがドアをノックするし、公園のベンチで寝ていると、子供が顔をのぞきに来たり、石を投げつけられたりとイタズラにあう。いやほんと、昼間に心やすらかに横になれる場所ってないんです。だからやはり睡眠をとるのは夜間ということになるのだ。
     さて、野宿生活の基本中の基本とも言える寝床について解説を試みよう。それぞれに一長一短がある。

    (☆)鉄道駅(無人駅、24時間営業の有人駅)で眠る
     チャリダーやライダーの定宿とも言える無人駅だが、睡眠に適しているとは言いがたい。少なくとも入口と改札口の間口2カ所が大きく開いているために、風の通りが良すぎる。自分の体温で周囲の空気を暖めることは不可能であり、寒さに凍えるだろう。また床やベンチが睡眠に向いていない。床はたいていコンクリート造りであり体温を奪う。ベンチにも問題がある。古い駅舎には木製の平らな長椅子に座布団が添え付けられていたりするが、近来は大半の駅で曲面で構成されたプラスチックの1人がけ用の椅子が設けられている。この椅子、人間が横たわると3〜4人分の長さになるが、椅子と椅子の境目が背中や腰に食い込んで痛い。まるで無宿者の存在を拒むがごとき(あたりまえか)責め苦である。この椅子で一夜を過ごせる強者はそうはいない。

    (☆)公園で眠る
     ベストセラー自伝「ホームレス中学生」で紹介され、著名になった公園の遊具で眠る方法だが、おすすめするに値しない。大体において都市部の公園は治安が悪い。深夜を問わずたくさんの人がやってくるのである。犬の散歩、不良、性的倒錯者、酔っぱらい、そしてお巡りさんなどである。いずれも放浪者にとっては敵である。遊具の中に潜んでいても犬はワンワン吼えるし、お巡りさんに出くわせば職務質問にあう。一晩中、誰かに起こされ応対する覚悟がいる。また遊具に使われている素材はみな「冷たい」のだ。コンクリート、鉄、ステンレス、石など、遊具は雨ざらしでも劣化しない素材で作られている。これらはすべて体温を奪う材質である。遊具の定番であるタコ型すべり台や立体迷路は、一時的な雨はしのげるものの、冬の寒さから身を守ってくれくれるものではない。

    (☆☆☆)バス停で眠る 
     徳島の人はピンと来ないだろう。しかし、北陸や東北、北海道などの豪雪地帯ではバス停は一軒家になっている。簡素なプレハブ小屋造りであったり、プチログハウス風であったりするが、いずれも風雪に耐える堅牢さがあり、入口にドアもついている。2畳ほどの狭いスペースを完全密閉できるため、大変温かいのである。バスが運行しない深夜に訪れる人はなく、まさに別荘地を訪れた気分。床材はおおむねベニヤ板などの合板材。天然木よりも保温力に優れている。野宿にうってつけの快適空間なのだ。

    (☆☆☆☆)飯場(はんば)で眠る 
     ここで述べる飯場とは、土木建設現場などの跡地にある使われていないプレハブ小屋のことである。まず述べておくが、いくら使われていなくても他人さまの建造物に勝手にお邪魔するのは不法侵入という犯罪である。ちゃんと許可をいただきましょう(建て前です)。飯場は温かい。バス停以上に「人が休憩する場所」としての装置が整えられている。なかには寝具まで備えられている小屋もある。安眠をむさぼったら、早朝早々に旅立って誰の迷惑にもならないよう心がけよう。

    (☆☆☆☆☆)廃車で眠る
     まず述べておくが、他人さまの自動車に勝手にお邪魔するのは不法侵入たる犯罪であり、ヘタをすれば窃盗の容疑者として疑われる。だが、車ほど心地よく眠れる場所がないのも事実だ。シートはふかふかで体温を奪われるどころか保温効果は高いし、風よけとしてこれ以上の場所はない。郊外の山林地帯の道ばた、空き地には多くの廃車があり、そのなかから比較的新しく、窓ガラスが割れていない車を選べはよい。もちろん大型車ほど寝心地はよく、手足を伸ばして安眠をむさぼることができる。

    (☆なし)その他、寝てはいけない場所
    □橋の下
     夏場には野宿の人気スポットとなる橋の下だが、冬場はブリザードが吹き荒れる。川べりはたいてい猛烈な風が吹いているものであり、橋脚の横は更に風が圧縮され、通り道になっている。雨や雪から逃れるために橋の下で寝ようとしても、風で体温はどんどん奪われ、凍死しかねない。

    □拠点駅の駅前広場やコンコース
     かつては若い旅行者たちの野宿場として、また情報交換の場として人気だったが、近来はどの駅前も美しく整備されすぎた。大理石張りの磨き込まれた床では、落ち着いてオチオチ横にもなることができない。駅前でフォークギターを囲み、肩を組んで「若者よ」を歌った時代は今は昔、いとおかしだ(そんなんしたことないけど)。

    □学校
     人の気配が失せひっそりとした体育倉庫や運動部の部室は、放浪者には魅惑的に映るだろう。しかし今どきの学校には宿直の方もいるし、警備員さんが巡回していたりする。あらぬ疑いをかけられ、しょっぴかれたりしないためにも公共のハコ物への無断侵入は控えよう。

    □道ばた、軒先
     天井のない場所で眠るのは避けるべきだ。温かい夏場ならば満点の星空をサカナに眠りにつくのはダイナミックこの上なく、若い諸君にもお勧めする。しかし、冬場に防寒具なしで道ばたで眠るのは、死と隣り合わせの所行である。疲労困憊して道ばたで寝ようとしたこともあるが、レム睡眠にも入れない。脳が眠ってはいけないと指示を出す。ビバーク(非常時の露営)慣れしたトップクライマー以外は、挑戦しない方がよいだろう。

  • 2007年11月12日雑誌をつくろう そのキュウ「フーテン社員を育てよう」
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

     事件だ事件だ事件だ!社員が恋に落ちたのだ!
     って、また妙なことで大騒ぎをしていると思わないでいただきたい。
     そりゃふつー社員が恋愛しようが別離の道を歩もうが、勝ち組だろうが負け犬だろうが、経営者がいちいちクビをつっこむべきことではない。したがって、怒りにまかせて事務所にフリスクをぶちまけるほどの大騒ぎをする出来事とは言えないだろう。しかし、今回はそーゆーわけにもいかないのである。

     話は少し回り道をする。
     僕の会社では「長期休暇をとってもいいよ♪」制度がある。なぜ「長期休暇制度」とすなおに書かないのか。それは就業規則には記載していない場あたり的ルールだからである。僕から社員に対しては「ロングバケーションとってもいいよ」とやさしく声はかけるものの、大半の社員は(そんなもん取れるんだったら、とっとと取っとるわ。このクソ忙しいのにいつ休めるっちゅーんな、この偽善者でペテン師のクソボケ野郎!)と考えている。
     すると僕は心の中でこう反論する。(忙しいんはオマエらの仕事の段取りがトロいけんじょ。デキる人間は、ちゃんと自己管理して休暇の調整ぐらいできるって、この被害者ヅラしたくそはんがー野郎!)。
     そして社員は笑顔でこう答える。「こんな時代に何週間も休んでいいなんて言ってくれる会社なかなかないです!年度末までには休ませてもらいます!」
     ぼくはこう返答する。「忙しいのに休むことまで強制するみたいでごめんね。たくさん休んでリゾートで骨休みをしてリフレッシュしてきてね」
     されど、すれ違いざまにこう思う。社員(フッ、リゾートとは笑止千万。リフレッシュとはウンコ千万。この強制収容所みたいな会社から脱出できるわけないだろイライラ)。僕(オメー、作り笑いできてないって。イライラぶりが口内炎になって出とうって。寂寥感のある薄ら笑いやめんか!)
     このようにわが社においては、長期休暇のあり方をめぐって労使の激しいせめぎあいが展開されているのである。

     そんな絵に描いた餅的な「長期休暇をとってもいいよ♪」制度だが、たまには活用する社員もいる。その女性社員は、テキトーな僕のリップサービスを耳にすると、我が権利得たりとばかりに興奮し、自由よ、愛しき自由よと「ラ・マルセイエーズ」を口ずさみながら毎年のように世界の辺境地に出かけていく。
     先月は、観光客が1年間に数人しか訪れないような、「地球の歩き方」にも載らない密林生い茂る孤島に行く・・・と言って日本を発ったわけである。
     それなりの責任あるポストにある社員である。彼女の穴を埋めるために、残されたスタッフの仕事はたいへんな量になった。「彼女にステキな休暇を過ごしてもらうために、私たちでちゃんとカバーしなきゃね!」とけなげで献身的な声をかけあいつつ、心では(あのクソ女〜、1年でいちばん忙しい時期に何考えとんじゃー死ねや!)とも思いながら黙々と残された業務を引き継ぎ、彼女の帰国を待ったのだ。
     そして、およそ1カ月がたった。真っ黒に顔面を日焼けし帰ってきたその女は、こともあろうに僕およびスタッフたちの前でとんでもないセリフを吐いたのである。
     「あのう・・・会社を辞めてもいいですか?」
     僕はキレましたね。久しぶりにキレた。手に持ったフリスクの箱を顔面めがけて投げつけた。しかしフリスクは大きく外れ、事務所の壁にあたって大破し、そのツブツブがプリンターやらパソコンの排気口に入ってしまい大変なことになった。そのフリスクが・・・まあフリスクの話はこのへんにしておいて、退社理由を尋ねないわけにはいくまい。すると彼女はこう説明した。
     「あの島に私が足を踏み入れたのは運命です。私は、あの島で生きていきたいんです! あの島の人びとに喜びと感動を与える仕事をしたい!」。と、立派な夢をとうとうと述べる彼女であった。
     しかし僕はその時点で知っていたのである。会社の画像サーバーに、彼女が旅先で撮った写真がすべて保存されていることを。そして愚かにも、そこには地元の美青年との出会いから別れまでのラブラブ写真が大量に写し出されていることを! 要するに彼女は未知なる南洋の孤島で、日本の男など足下におよばぬ慈愛に満ちた、美しい褐色の肌を持つ男と恋に落ち、そして彼が生まれ育った楽園たる島に移住をしたいと願っているわけである。
     困ったものである。社員をやる気にさせるために作った休暇制度を利用して、恋にうつつを抜かすのみならず仕事をほっぽりだして海外移住を計画するとは・・・。休暇の意味がまったくないではないか。
     
     だがしかし、発想を変えてみるのはどうか。生涯に一度あるかないかという運命の出会いは、この休暇制度がなければ生じ得なかった。人生を変えてしまうほどの激しく切ない恋愛のきっかけを提供したのだとしたら、大いなる意義があったと言えるのではないか。
     わかった! 君の南洋恋物語を会社をあげてバックアップしようではないか! さっそく年末にはもう一度会いに行きなさい! 仕事中の彼とのメールもOKだ! ただし業務報告として全社員に転送してくれたまえ! 早くエステに通いなさい! 脱毛は完璧かい? 再び出会う2カ月後のために、その美しさにさらなる磨きをかけておきなさい! 
     ・・・てな感じで経営者として完璧な仕事を僕はこなした。いまや企業経営とは、若者の雇用の場をつくり出すだけではなく、人生全般のサポートをするのが務めなのだ。

        □

     職場ってヤツは、人の人生にたいへん大きな影響を与える。太陽が昇って沈むまでの大半の時間を、人は職場で過ごす。そして、20歳から働きはじめれば60歳まで40年。あるいは定年延長で45年。特別な大企業じゃないかぎり、中小の事業所なら夏休みや盆休みはほんの数日与えられるだけだ。法律で有給休暇数が定められても消化しきれないのが現実。そうやって休みなく40年、45年ひたすら働き続けるのが日本人。それは美しい姿だけれど、これから社会に出て働く世代は、こんな滅私奉公な働き方はできないと思う。
     ドイツやスウェーデンの労働者は、年間に4週間から6週間ほどの休暇をとる。特にスカンジナビア諸国では、夏場の1カ月間は大半の企業や工場が操業停止となり、皆がサマーホリデーに入る。経営側も、生産が完全ストップするのを前提に経営計画を立てる。すいぶんのんびりとしたお国柄のようだが、ドイツやスウェーデンが生産する商品のグレードの高さ、国際競争力の強さは説明の必要もない。つまり「たくさん休んでも、いいものづくりはできる」は証明されている。
     長い間ギモンに思っていることがある。企業は人を1年中拘束できるほどのエラい立場にあるのか?ということである。僕は会社をマネジメントする立場にあり、何十人かの働いてくれる人に労働を求めている。出勤することを義務づけ、こなすべき仕事や目標を作ってもらい、成果を求めている。成果がなければ、給料が払えない。だから、集団としての能力がベストの状態になるように考える。それが経営の最も重要な仕事だ。裏返せば、要するに集団をベストに導いておれさえすれば、個々の行動を制約・束縛する必要などないのである。
     絶対王政の時代ならいざ知らず、中世農奴制の時代もはるか遠く、今は人間が人間を統治する仕組みはすべて解明されているのだ。そして、どんな立場の人も、為政者や統治側の考え方を知ることができる。国家、自治体、企業、学校、政党、投資家、労組、宗教法人・・・。だから働く人が、正当な理由もなく自分以外の人間に、無防備に拘束される時代は終わっているのだ。資本主義の幼年期には、労働から派生した余剰価値は利潤を生み、資本家はしごく簡単に上前をはねることができた。しかしこれからの100年、大衆の知が成熟の度を強めればピンハネは容易ではなくなる。
     企業はニンゲンが作ったモノである。資本を持つ者がカネを投じて作ったモノである。紙きれにハンコを押して法務局に届けを出せば、企業のいっちょうできあがりである。その程度の存在である。給与を支払う側の人間が、受け取る側の人間の人生の多くの歳月をフィックスできるはずないのである・・・本来は。
     ぼくは、その人固有の「やりたいこと」を阻害しない会社を作りたい。仕事と「やりたいこと」が完全に一致している人は、まあよいだろう。しかし、そんな人はなかなかいないと思う。お金儲けにもならない、他人にも認められない、しかし自分は「これやりたい」ってことがあると思う。決死の覚悟で辞表を書いたりしなくても、職場でマジメに働き続けながら「やりたいこと」ができる仕組みを作りたい。
     たとえば3年働いたら1年は好きなことをやっていいとか。あるいは1年のうち10カ月働いたら、2カ月は好きなことやっていいとか。その間、無収入になったら生活できないので、最低限の生活保障を企業がするとか。それくらいの制度がフツーにあったらいいのになあと思う。働くときは全速力で働き、働かないときは趣味に没頭したり、店をはじめたり、大学に入学し直したりする。あるいは、子育てをしたり、世界を旅したり、膨らんだおなかをシェイプアップする。そういうことがフツーにできないものか。財務に余裕のある一流企業ならそうゆう制度は作れそうだが、僕らのような小さな会社でも、やる気になればできるんじゃないか。そんな理想とする会社をあと少しで作れそうな気がするのである。
     さて冒頭に登場した女性社員について。僕は彼女を「恋のために1年間仕事を休んだ強者」という生ける伝説とするために、次なる場あたり的制度を構築中である。その名も「フーテン社員制度」。1年間出勤せず別のことをしていても職場復帰できて、休暇中の生活保障もするという仕組みだ。もちろん帰ってきたら休み中に支払った俸禄分はきれいに稼いで返していただくという場あたり的な約束もするんだけど。
  • 2007年10月16日雑誌をつくろう そのハチ「無精論」
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

    あらゆることが面倒くさい。できることなら何もしたくないが、何もしないのも面倒くさい。平均的な市民として生きていくためには、アレコレしなくてはならない手続きがある。それならば最小限の労力で、最大限の成果を生み出せばいい。

     食べる手間を最小限にする方法。
     できるだけ食べないというのが理想である。食べなければ、消費もせず、洗い物も出さず、ウンコもでないから便所で水洗を使わなくてもよい。事実ぼくは1日1食か、3日で2食くらいしか食べていない。
     だが悲しいかな、生きている限りまったく食べないというわけにもいけない。そこで、極限まで手間のかからない食事方法をたしなんでいる。食事は座って食べるから時間がかかるのである。立って食べればまず1分以内に終わるのだ。立ち飲み、立ち食いは日本の文化でもある。首都東京ではサラリーマンが1分1秒を惜しんで立ち食いそばでカロリー補給をしている。あるいはアフター5の「ワンカップ立ち飲み屋さん」にはOLが群れ、先端のグルメカルチャーなどともてはやされたりもする。
     だからぼくは、自宅での食事は台所の流しの前で立ったまま食べる。お皿をたくさん使うと洗い物や片付けが面倒だから、1枚の皿にすべてのおかずを盛る。決してガサツではない。インドネシアでは、ごはんに惣菜をたくさん盛りつけたものが「ナシチャンプルー」と呼ばれ、国民的料理として庶民に愛されている。
     だが1枚の皿とはいえ洗い物をするのは面倒である。そんなときは、炊飯ジャーのごはんに直接おかずをのせて食べればよいのだ。保温が効いたままのジャーごはんは温かく、食事中も冷めないという利点がある。あるいは炒め物なら、1枚のフライパンですべてを完結させる。まず1品目から調理をはじめ7割ほど仕上がったら隅に寄せていく。空いたスペースで新たな食材を炒める。こうやって時間差で数種のおかずを完成させ、最後に白飯をぶっかけ、フライパンから直接食べるのだ。
     こうやって他品目のメニューを無駄なくつつがなく食べているわけだが、本来食事とは白飯プラス一汁一菜でよいと考える。この豊食の時代にひもじいと思われるかも知れないが、江戸時代以前の日本人は大根汁に麦粥やひえ飯がご馳走だったのであり、労働による消耗が明らかに江戸の農民より少ない現代人であるぼくの体が、それ以上に豪華な食事を必要とする理由がない。
     落語の下りにもよく登場する「隣長屋から流れてくる匂いをおかずにメシを食えばいい」も悪くないと思い、蒲焼きの匂いをかぎながらごはんオンリーで食事をする実験をしたことがあるが、どうも満たされない気分に陥り失敗した。
     総合的に判断して、炊飯ジャーの白飯にカツオブシや漬け物を乗せたものが理想的な晩菜である。調理時間10秒、食事30秒、洗い物ゼロである。

     つぎに入浴について語りたい。ぼくは他人に風呂に入るようなまっとうな生活を送っていないと思われがちだが、実は風呂好きである。1日に3回は水浴びをする。朝のトレーニングの後、夜のトレーニングの後、そして寝る前である。こう書くと1日中遊んでいるようだが、これ以外の時間はずっと仕事をしているので問題はなかろう。
     風呂場では、頭→身体→腕→脚などといちいち順番に洗うのは面倒くさいので、全身を同時に洗う。シャンプーをドバドバ髪の毛にふりかけ、3度ほど手でかき回したらシャワーで流す。その際に身体を伝って流れるシャンプーの成分で全身を洗う。タオルは使わず手のひらでこするだけだ。タオルをしぼったり乾かしたりするのが面倒だからだ。さらには、風呂場を流れるシャンプー廃水を使って床をゴシゴシ掃除する。毎日こすることによって床のぬめり気を取り、カビの発生を防ぐ。服を脱いでから所用1分でこれら作業を終える。
     手を抜きすぎて不潔だなんて思わないでいただきたい。世界の幾多の民族のうち、毎日風呂に入ったりシャワーを浴びたりする人たちが何割いるというのか。おそらく30%もいないだろう。そもそも「湯船」という装置が家庭の浴場に存在し、そこに湯をためて浸かる・・・なんて特種な習慣のある民族は、日本人と欧米のブルジョア階級以外にどれほどいるというのか? いたら教えてほしい。アジア中央部の乾燥地帯に住む人びとは、一生に2度しか身体を洗わないという。産まれたときに身体を洗ううぶ湯と、死んだときに身を清める水だけだ。ぼくが長く旅したアフリカ中央部にももちろん風呂などはなく、バスタイムといえば堰き止めた川に飛び込むだけだ。それが世界の標準と考えれば1日3回、1分ずつと言えど身体を洗う行為は潔癖性にも近い。これは無精とは言えないかもしれないな。

     さてぼくが最も嫌いな作業、着替えについて説明しよう。そもそもぼくは「服」という装置というか記号がニガ手である。どんな服も自分に似合っていると実感できず、気候とか流行とかTPOに合わせて服を選ぶのも無益な気がして身が入らない。「人は見た目が9割」とは言われるが、ハナから自分の印象など9割方悪いものだと決めているから気楽だ。
     できることなら1年中服のない生活・・・ハダカで暮らしたいと思っており、ぶじ年金をいただける年頃まで生きておれば、1カ月5000円もあれば贅沢に暮らせて朝から晩までハダカでいられる南の島に移り住みたいと考えている。しかしわが国の企業人にとってハダカに市民権はない。仕方なく服を着ることにしているが、その労力は極限までカットしたいものである。
     話は横道に逸れるが、頼りない自民党政権で唯一すてきな政策を打ち立てたのがクールビズである。
     日本のような湿気ムンムンな国で、長袖シャツにネクタイを締め、ジャケットを羽織るのが企業人の正装だなんてムチャである。スーツにしろネクタイにしろ起源をたどれば欧州の軍服に行き着く。あるいは現在のフォーマルスタイルの原型を生み出したのは、北海道並みの緯度にあって湿度も気温も低い英仏である。
     日本人は、わが邦の気候風土に合った羽織ハカマが長らく正装だったはずだ。維新の後に「散髪脱刀令」が布告され、身分制度の象徴たるチョンマゲを切り落としザンギリ頭を叩いて文明開化を実感したのは悪いことではない。しかし同時にネクタイや革靴といった西欧文化を導入したのはいただけない。湿った国で革靴などはくから、白癬菌つまり水虫菌が国家的風土病へと立身出世するハメに陥ったのだ。自民党が半袖シャツやノーネクタイを推奨したおかけで、憎むべき着替えの手間が半分になったのはありがたい。一方で民主党の西岡武夫が参院でネクタイ着用を義務づけようとしたが、賛同する者も現れず提案を撤回した。何でも反対すればいいってもんじゃない、よい気味である。
     横道に逸れすぎたようだ。ぼくの着替え方法を説明しよう。これは「洗濯をする→物干し竿に干す→洗濯物を取り込む→アイロンを掛ける→服をたたむ→タンスに収納する→タンスから取り出す→服を着る」という一連の流れを革命的にショートカットする方法である。ぼくは次の段取りしか踏まない。「洗濯をする→物干し竿に干す→服を着る」。つまり、着替えはすべて物干し台(ベランダ)で行うのである。女性には難しい行為だろうが、男だから恥ずかしくもなんともない。フリチンを恥ずかしがるようでは日本男児とは言えぬ。もちろん着衣作業をすばやく混乱なく進行させるために、洗濯物を干す段階で、パンツ、つくした、シャツ、ズボンなどと、種別に分類して干しておくのである。シャツは、できるだけシワにならないようにパンパンと伸ばしておく。形質安定シャツをハンガーに吊しておけば、アイロンが必要なほどのシワは入らない。
     これなら着替えにかける時間は1分程度ですむ。いったんタンスに取り込まないから、直射日光にさらされた服はパリッと乾燥している。そして、洗濯物を取り込みアイロンを掛け服をたたんでタンスに丁寧に入れるという、紳士淑女が30分以上かかる作業をいっさい行わなくてよい。こりゃ最高だ。

     こんな風に生活のあらゆるシーンにおいて、無精道を突き進んでいる。
     便所では、歯を磨きながらウンコをし、ゲーテ格言集を読みながら、思いついたアイデアを白スペースにメモする。ゲーテ以上に便所に合う思想家を知らない。
     ハナクソは少しずつとらず、鼻の穴に濡れタオルをつっこんでグリグリまわし、まとめて1週間分とっておく。
     おにぎりは、握ったものをお皿に並べず、握った瞬間に食べる。
     寝返りを打ったときに枕を移動させるのが面倒くさいから、どの位置に寝返りを打ってもいいように、枕を10個ほど布団のまわりに並べておく。
     酒をちびちび飲んで酔っぱらうのを待つのは時間のムダだから、10キロ走ったあとに凍らせたウォッカを瓶のままラッパ飲みする。3分で酔っぱらう。無粋ではない。シベリア鉄道を旅したときロシア人たちはそうやって晩酌を楽しんでいた。

     1時間の作業を1分に濃縮して時間を余らせても、趣味を謳歌する素養もなく、花宴を愉しむ粋も知らぬ。もめごとを鎮める才もなく、世界から地雷を撤去することもできぬ。人さま並みにこなせることは何もなく、本をつくる以外にやることはなく、やれることもない。人生をしごく単純に構成するために、よぶんなゼイ肉をガリガリ削るように毎日を無精に生きる。
  • 2007年08月13日雑誌をつくろう そのシチ「二十日鼠の毎日」
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

     よく部下に怒られる。こんなにしょっちゅう部下に怒られている人っているんだろうか? いっかい日本じゅうの上司と呼ばれてる人とミーティングしてみたい。「そちらさまも部下の方に怒られてらっしゃるの?」「もちろんですよ、そちらさまもご苦労が絶えない様子で・・・」なんて意気投合し、おでんでも突っつきあう会があれば幸せだろうな。

     先日は、ぼくの方針に異を申し立てた女性社員が、話し合いの席を断つやいなや、ぼくの仕事部屋のすべての蛍光灯のスイッチを「バチバチッ!」と切って、ドアを蹴とばして出ていってしまった。夜だったのでぼくは真っ暗のなかに取り残された。パソコンのモニタだけが鈍く光る暗闇の中で、ボーゼン自失となりながらも「こんな怒りの表現があるのか」と感銘を受けた。言葉で罵るでもなく、手をあげるでもなく、「電力を使って怒りの大きさを表現する」。こんな芸術的かつ具体的な感情表現を文学といわずして何とする。
     また「彼氏ができないのは会社の仕事が忙しすぎるから」との理屈で経営批判を繰り返す社員らのために、仕方なく高年収の人たちとの合コンの場を提供したわけだが、今度は「合コン相手6人中4人が太かった」「口いっぱいに食べ物をモグモグほおばっていた」などと更に口撃の熱を高め、合コン不発のストレス解消のために出かけた二次会の飲み代を請求しようとする。
     いわゆる「飲みニケーション」というものが嫌いである。部下と飲んでもロクなことがないからだ。だいたい酒を飲めば人は本音を出すから嫌いだ。部下の本音といえば日頃のウップンであり、必ずその刃はこちらに向けられる。感情が高ぶると人はみな手が出るわけで、不満爆発のビンタおよび鉄拳ストレートを浴びるという展開になる。両国橋の路上で2回、紺屋町の阿波踊りからくり時計の横で1回、部下に殴り倒されたことがある。酔っぱらっているのであまり痛さは感じないが、翌朝はだいぶ腫れている。
     「人徳」に溢れた人は一目みればわかる。柔和で物腰やわらかく、人を肩書きで判断しない。それでいて決断力があり、困難の伴う仕事を明るい表情でどんどんこなしていく。ぼくなどはその対局にある。いつも追い詰められた感じのニゴリ目で相手を見つめ、「このボケ!こんな簡単な仕事もできんのんかーッ?」と、罵詈雑言を浴びせ、椅子をケトばす。
     そんなペラペラの人格ゆえ人徳なるものとは無縁であり、部下はどんどん離れていってしまう。手塩にかけて育てた部下は、ぼくに三行半をつきつけると東京や関西の誰もが知る一流企業にあっさりと再就職を決めてしまう。なるほど、それなりに優秀だったわけだ。そしてお盆や正月の前には、帰省がてら我が社にひやかしにやってくる。この間も、東京の広告業界とマスコミ業界で働く2人がやってきて、ひとしきり青山とか代官山とかの地名が登場する社内恋愛の話をしたかと思うと、
     「○○のお客はあの仕事、○億で受注しろって言うんですよ〜」
     「マジ、安っ? そんなん蹴ってやったら〜?」
     なんてケタ違いの話を、ありふれた日常会話のようにくりかえす。
     そんな元部下たちの話を、ぼくは封筒の宛名書きをしながら、ボーゼンと聞いているのである。もしも億単位の受注なんて入ったら、ぼくなら神社を借り切って夏祭りを開き、村人たちにタダ酒をふるまって飲めや歌えやと舞い踊るのに・・・。
     だから、昔の部下が来襲するお盆前後の時期は気が重い。

       □

     これまでの10年間、雑誌やフリーペーパーの創刊に10本くらい関わってきた。1年間で1コ。これからの10年も10本くらいの仕事しかできないのだろうか、と思う。ペースが遅くてイライラするが、このサイクルでしか仕事できないんだから、これくらいの能力なんだろう。やりたいことはたくさんあるってのに、実行するのはきわめてスローペースだ。スピードを上げようとしても思い通りにはいかない。企画書は1時間で書けても、それを実行する人を育てるには何年もかかる。
     自分には、商売人に必要な「前向きな欲」が欠けている。お金が少々貯まると「1カ月5万円もあれば生きていけるから、もう働かなくていいか・・・」と勤労意欲が萎える。人に誉められると舞い上がり自分を見失ってロクでもないことを始めてしまう。人間関係に恵まれると他人に頼ってしまい、なんでもうまくいく気になって結果失敗する。お腹がいっぱいになると思考能力はなくなり、時間がたっぷりあるとくだらないことしか考えなくなる。要するに満足するレベルが低すぎて、すぐ精神的に満ち足りてしまうから、自分を飢餓状態に置いておかないと、なにもやる気がしない無気力状態に陥ってしまう。
     商売上の危機を迎えると少しハイになって頭も少し動きだすのだが、年がら年じゅう商売の危機を迎えてるわけにもいかない。いたって平穏無事なときは朝から晩まで仕事のことを考えてもなんにも出てこないから、生きている気がしなくなる。
     そんなときはムリヤリ身体を動かして、脳みそをこじ開ける。
     今は2日に1回くらいのペースで眉山に登っている。早朝に起きて朝8時頃には山頂にいる。眉山には登山道が10本以上あり、日々ルートを変えれば飽きることはない。山中には無数のケモノ道がある。山腹を縦横に歩いていると、深い渓谷や亜熱帯植物生い茂る密林に迷い込む。野生の動物・・・巨大な野ウサギやイタチ、山ネコなどに遭遇し腰を抜かしそうになる。そんな自然林のなかを米袋を30キロ入れたザックを背負って駆け上がる。人工の階段を登るよりも、木の根や岩が不規則に並ぶ山道の方が洞察力が必要だ。階段登りは単調な繰り返し作業だが、山道は一歩一歩瞬発的に判断する。ミスをするとすっ転んでしまう。
     重い荷物を背負って走ると心拍数が急上昇し、末端の毛細血管まで激しく血が流れる。1分間に何十リットルもの血が心臓から送り出され、酸素を取り込んでまた戻ってくる。そのうち、ゲロをはきたくなるくらいの酸欠になる。頭がクラックラになってヘタりこむ。寝転がった直後は、血流がそのままである。しかし身体は運動を行っていないので、脳みそにガンガン余分な血が流れ込む。キーンという金属音の耳鳴りがして、眼球がぐるぐる不安定に動き、急激に脳が回転しはじめる。「これこれ、この状態!」とうれしくなる。次から次へとアイデアが浮かび、それをメモしておく。合成薬物の力を借りずに、自分の体内作用でトリップ状態を作るのである。地味な活動でしょ!
     深夜仕事から帰ると、1日に録画してあるテレビ番組10本くらいを2時間で見る。基本120倍速で見て、気になる場面は10倍速で見る。報道番組やバラエティ番組の多くは文字テロップがつくので、音声なしの早送りでもだいたい内容がわかる。また、部屋の中で移動する先のすべての場所、トイレ、風呂、台所、そして布団の横には1冊ずつ本を置いておき、どの場所でも読書できるようにしてある。眠気におそわれるまでの数時間、情報を詰め込むだけ詰め込み、果てる。
     睡眠はなるべく取らない。長い睡眠には満足感が伴い、脳が壊れてしまった印象がする。眠っている時間ほどもったいないものはないから、長くても2〜3時間にしておく。その代わりに昼間、なるべく居眠りをする。眠くなったら我慢せずに1分から5分ほど座ったまま眠るのである。これは布団で1時間眠るのに匹敵するほどの効果がある(ように思える)。
     心拍数にしろ睡眠にしろ、快適な状態からはなにも出てこない。自分を追い込まないと脳みそが動かない。酸素欠乏の朦朧状態、脱水カラカラの血液ドロドロ状態・・・身体が危険な感じにならないと、脳みそにスイッチが入らないのである。クライマーズハイの寝不足アタマ。全力で走っているつもりだけど、同んなじ場所でハーハーゼィゼィあえいでいるだけのオリの中の二十日鼠みたいな毎日。部下に部屋じゅうの電気を全部を消されても、闇を駆ける回転木馬のようにぐるぐると次につくる雑誌のことを考えているのである。

  • 2007年06月23日巡礼者との旅 後編
    pakistan(前編のお話)世界じゅうの旅人がイランを目指していた。高騰する闇両替相場は、最高級ホテルの宿泊費を1泊500円にまで価値を下げた。旅人たちは「テヘランのヒルトンホテルで再会しよう」を別れの言葉とし、地の果てにパラダイスがあると信じ、ひもじい旅に耐えた。そしてぼくは豪雪のトルコ国境からイランに足を踏み入れたのだったのだったのだ。
    文責=坂東良晃(タウトク編集人)
     イランのあちこちの村で、ぼくは「アヒョー」と奇声を発しながら暴れ回っていた。といっても、どこかの悪漢と戦っているわけではない。子どもたちのリクエストに応じているのである。
     砂嵐のなかから突如現れた黒髪の東洋人に大コーフンした子どもちは、必ず「ブルース・リーやってやって」と激しくせがむのだ。ならばと下段回し蹴りからハイキックの二段蹴り、そして旋風開脚ローリングソバットという大技を繰り出せば、おおいに盛り上がる。さらに野次馬客からひとり生けにえを選び、四の字固めや猪木ばりの卍固めをかける。金縛りにあったかのような東洋の神秘的魔術(プロレス技だけど)に見まわれると、「この男、ただ者ではない」と畏敬の視線が集まる。
     このカラテショウはたいした盛況ぶりで、常に何十人もの村人に取り囲まれやんやの声援をおくられる。演武をしているうち観客の目に「もっと見たい、もっとすごい技はないのか」と期待の炎が点る。 ぼくは悩む。高校の格闘研究会でやってたタイガーマスクの真似事では、収拾がつかなくなってきたのだ。
     カラテショウに新たなエッセンスを加えられないかと、思いをめぐらせ街をほっつき歩いていると、商店の軒先にぶら下がったヌンチャクが目に飛び込む。値段は100円ほど。「ちょっと試しに」と店の前でブンブン振り回していると、わんさか人が集まってきた。得意の「アチョ〜」の雄叫びを入れてみると、割れんばかりの歓声と拍手。これだこれだ、求めていたのわー!
     それから村に着くたびに、ヌンチャク芸を披露することと。乾いた空気を切り裂き、宙に踊るこん棒。トドメの一発をお見舞いして、キメのポーズをとる。見物しているお客さんがどんどんお金をくれる。「お金いらない、ただ見せてるだけ! これはぼくの趣味でありサービスです!」と大声で断わっても、「おもしろかったよ、とっておけよ若者よ」と返却拒否なのである。
     イランで放擲しまくるはずが、豊かさとは縁遠い村人たちからお金を集めてしまってどーすんだ!と自分自身を責める。
     日々お金は集まるのに、使い道はない。旅の連れであるパキスタン人の巡礼者一行は、ぼくに一銭のお金も使わせようともしない。食事を分け与え、乗り物代を出してくれる。遠慮しても断っても、まったく受け入れようとしない。そしてイランの人びとも、若い旅人であるぼくに食物と寝る場所を寄進してくれる。彼らは、自分より貧しい(と思われる)相手には決して金を払わせない。分け与え、奉仕する、そういう精神が全身に染みついているのである。

     この旅のハイライトが近づいている。
     公定レートの20倍もの闇両替で手にしたイラン・リアルの札束で、首都テヘランで思いぞんぶん贅の限りを尽くすのだ。快楽、放蕩、堕落、デカダンス。そんな魅惑の言葉がアタマを駆けめぐる。五つ星ホテルの高層階、給仕が注ぐ豊潤なグラスワインとフルコース、そしてフカフカのベッドで大の字に寝っ転びながら、夜景を絨毯に絶世の美女と・・・生唾を飲み込む。
     巡礼者を乗せた乗り合いバスは、騒音けたたましいテヘランのバスターミナルに滑り込む。タイミングだ、タイミングが重用なのだ。この街に何か重要な用件があるように匂わせて、親切なパキスタン人たちから一気に離脱するのだ。
     バスがプラットホームに着くやいなや、ぼくはイの一番にザックを棚から下ろし、「じゃあこの辺で」と別れを告げる・・・告げるはずだったその寸前、巡礼者のリーダーはこう言い放つ。
     「兄弟、テヘランは巨大な都会だけどアセる心配はないぜ。俺たちの知り合いの所で寝泊まりできる。オマエはついてくればいいだけだ」。そしてガッチリと腕を取られる。ああ、逃げ出せなかった。こんな貧しい旅をしている彼らにさんざお金を払わせて、今さら「ぜいたくな生活を満喫したいからテヘランまでやって来た。ここからは別行動でお願いします」なんて切り出せない。
     長い距離を歩いて到着したのは、巡礼者が泊まる簡易宿泊所であった。建物の地下にある穴蔵のような場所に荷物をおろす。壁も床もむき出しの土。荒いワラで編んだムシロが敷かれている。ボーゼンと立ちつくすぼくに巡礼者たちは「お金の心配はご無用だ。ここは無料さ」と励ましの声をかける。高級リゾートホテルで豪遊計画は、何の因果か真っ暗闇の巡礼者宿。こそこそと抜け出そうとすると「兄弟、どこいくんだ? 食事ならいっしょに行くぜ」。そして、またもや施しを受ける。晩ごはんはフレンチ・フルコースではなく、むろん庶民食堂のシシカバブーである。
     イランには桃源郷がある、そう信じて旅を続けてきた。しかし、今ぼくは首都テヘランのどこの場所にあるとも知れぬ安宿の、さらに地下にある土ムシロの上で、一滴のぶどう酒を口にすることもなく、爆発寸前の欲望を抱えてらんらんとしたマナコで天井を見上げているのだ。

     三千キロもの長い距離を、こうやって巡礼者たちと旅した。
     砂礫と、岩山と、道。どこまでいっても変わらない風景。太陽がぐるっと天空を半周するあいだ、空が砂が接する境界の方に向かって、彼らは1日5度の祈りを捧げる。
     宿場町もない砂漠の真ん中で、ときおりバスが停まると、乗客たちが四方へと散っていく。そのさまは熱砂の風に吹かれるうぶ毛の生えた種子だ。民族衣装の上着のすそをそのままに、彼らは砂漠のアチコチにしゃがみこむ。最初は祈っているのかと思った。しかしその敬虔さは感じない。もっと人間的な、安堵の匂い。ふだんは対立している厳しい自然と人間がなんとなく調和しあった関係。つまり彼らは、しゃがんで用を足しているのだ。イスラムの男たちは夕陽に染まる紅色の世界を、タンポポの種のようにゆらゆらと歩き、乾いた砂にわずかな湿り気を与えるのだ。

     イランの旅を終え、パキスタンに入り、ぼくは相変わらず街角で大道芸カラテショウをやって見せ、いくばくかの収入を得ながら、衣食住のすべてを巡礼者の財布に頼って旅をつづけた。パキスタンとインドの国境近くの大きな工業都市ラホールが、彼らとの別れの街だった、
     巡礼者のリーダーであるチェ・ケバラ似の男前氏は、「オマエに見せたいものがある」と、迎えにきた欧州車に乗りこむ。ピカピカに磨かれたツヤのあるボディの高級輸入車・・・ん?
     野球場ほどの前庭を構える工場群を、車は猛スピードで進む。やがてひときわ立派な工場の門をくぐる。「私のファクトリーを見てくれたまえ」と述べる彼の顔はキリリと引き締まり、長く旅をともにしてきた土くれにまみれの巡礼者のものではない。油断のない笑顔をたたえたビジネスマンの顔である。工場に足を踏み入れると、巨大な印刷輪転機がうなりをあげ、制服をまとった従業員たちがキビキビと働いている。
     (こりゃ、もしかして?)とアセる。
     1カ月間、ともに砂漠で砂まみれになり、虫食いの毛布にくるまり、ムシロのうえで雑魚寝した巡礼男は、巨大な印刷設備をもつ印刷会社の御曹司だったのだ。彼は語りを止めない。「君はゆくゆくは本を出版する会社をしたいと言っていたね。君がいつか日本で大きな会社をつくったら、私の印刷所に発注してくれたまえ。もちろん安くしておくよ。日本に帰ったら安くインクを仕入れられる会社を調べてくれないか、日本のインクは品質がよくてね・・・」
     そうなのだ。彼は大金持ちだったのだ。一生に一度のメッカへの巡礼を極めて質素に、そして貧しき者に施すことを務めとし、いっときの貧者を装っていたのだ。
     「あひゃー!ほんなら気にせんとテヘランで豪遊したいってゆーたらよかった!!」というぼくの心の叫びは、印刷機の轟音にかき消されてゆくのだった。
  • 2007年05月20日巡礼者との旅 前編
    イランと西側諸国との関係が危ういものとなりつつある。
    何も起こらなければいいが、と念じる。
    イランの人たちほど親切で、男気ある人たちをぼくは知らない。

    文責=坂東良晃(タウトク編集人)


    1989年冬はベルリンの壁が崩壊し、ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスクが銃殺刑に処された動乱の年だ。揺れる東西ヨーロッパとはまったく無関係に、冬の深夜、ぼくはトルコとイランの国境にいた。
    信じられないような大雪が降っていた。砂漠に雪が降ることを、ぼくは知らなかった。
    1足100円の革靴は、ソールと革の部分の縫い合わせの糸がほどけ、足の指はみごとに露出していた。指先から凍った雪が侵入し、足を凍らせた。見たことのない巨大な結晶のぼたん雪が、頭や肩に重く降り積もる。
    最後の街から国境までは、膝までのラッセルをしないとたどりつかないような悲惨な状況だ。「こんな思いがけない場所で凍死? ヒマラヤでもアフリカでもなく、単なる国境の街で遭難?」。そんな情けない気持ちで雪をかき分け歩く。

    ぼくは、2年間もイランを目指していたのである。
    80年代後半、あらゆる辺境の旅人がこう叫んでいたのである。「サンクチュアリってのはイランのことだ。すべての旅人はテヘランを目指すべきだ」。そして、突然フニャけたしまらない笑いを浮かべ、夢想の世界にひたりはじめる。よほどの忘れがたい思い出がイランにはあるというわけだ。
    その頃、世界には「桃源郷」と呼ばれる街がいくつか存在した。
    たとえばアフリカ中央部にあるザイールという国の巨大な大河・ザイール川沿いにあるキサンガニという街。そこには1泊100円で宿泊できる美しい西欧建築のホテルがあり、美人の給仕たちが最高のフランス料理を運んでくれ、そして旅人たちと恋に落ちるのだという。さらに。広大なザイール川の中に浮かぶ島には怪しくネオンサイン輝く魅惑の街があり、絶世のアフリカン美女たちが窓辺という窓辺から「こっちにおいで」と手招きをしている、とか。
    あるいは中国とビルマの国境近くにあるガンランパという街。そこでは竹で組まれた高床式の旅籠に1泊50円で泊まれ、毎夜の南国の熟れた果実や、贅沢な肉・野菜料理が20皿も並び、酒は並々と器に注がれ、満足ゆくまで無限に飲食してもよい。エキゾチックなタイ族の美女が月夜に向かって琵琶を奏で、野生の動物たちが遠吠えで合唱する、とか。
    美女を求める者はコスタリカ、モザンビーグ、ベトナムへ向かい、無法地帯を漂流したい者はパンガン、ゴア、カトマンズへ。そこにパラダイスがあると聞けば、貧乏旅行者たちは砂糖水に群がるアリのように、世界中からごそごそ集まるのだ。金はかけない。ヒッチハイクか、キセル(無賃乗車)か、自転車か、徒歩か。贅沢して三等列車の床か、トラックの荷台か・・・。どのような手段を使おうとその街に行きたい、その街に行けばどのような夢も現実となる・・・そんな憧憬の的であったのがイランの首都テヘランだったわけである。

    理由は単純だった。闇両替・・・ブラックマーケットのレートが異常に高騰しているのだ。イラン・リヤルは、米ドルの公定レートに対して、15〜20倍の取引相場にまでなっていた。
    つまり、こういうことだ。米ドルを持っていたら、市場価格の20分の1で値段でモノが買えるのである。しかも元々の物価が高くない国である。だから100円の定食が5円で食え、1000円の中級ホテルに50円で泊まれ、3000円のフルコース料理を150円で堪能でき、1万円のヒルトンホテルにたったの500円で泊まれる。
    ボロ切れのような服をまとった貧乏旅行者といえど、数千円の軍資金さえあれば、王侯貴族のような生活ができる・・・という夢のようなお話。
    「いつかテヘランに着いたら、ヒルトンに泊まって泡まみれのバスタブに浸かり、150円でフレンチ・フルコースを食べよう。そして中東一美しいと評判の国で、綺麗なお姉さんとデートしよう」
    全身ダニ・南京虫に噛まれブツブツ、野生動物にも劣らぬ悪臭を放つ若者たちは、そうやって約束をし別れの時を惜しんだ。そして世界のいろんな場所から、中東の奇跡の街をえっちらおっちら目指したのだった。

    風雪のトルコ・イラン国境に戻ろう。雪だるま状態になったぼくに、1人の男が声をかける。
    「ヘイユー!国境はまだ遠いぞ、そのまま歩いていくつもりか? よかったら俺たちの車に乗れよ」
    男が指をさす方向を見ると、幌もついていないトラックである。荷台には雪まみれになった雪だるま・・・いや人間が乗っている。そしてなぜかこっちを見て笑っている。女性も、子供も、老人もいる。男を見返す。濃いひげが顔中を覆っているが、瞳は街灯を映してキラキラ美しく輝いている。チェ・ゲバラ的美男子だと言える。 彼は再度ぼくに問う。「どこまで行くんだ?」。ぼくは返す「行く先は決めてないけど、インドまで行くつもりだ」。男は誘う「俺たちはパキスタン人だ。メッカに巡礼した帰りだ。いっしょにパキスタンまで行こう!さあ車に乗れ!」。ぼくには選択の余地もない。男に背を押され、トラックの荷台に詰め込まれる。

    国境のイミグレーション、つまり出入国管理事務所は雪に覆われていた。たくさんの旅人が建物の中にいたが、イスラム系の商人や巡礼者はスムーズに通過しているようだった。パキスタン人の家族は、もちろん巡礼者のゲートに向かう。「出口で待ってるぞ」と肩を叩く。旅は道連れということなのか。
    一方で、ヨーロッパからのツーリストは長い長い列を作っていた。ぼくはその最後尾に並ぶ。白人の若者たちがボヤく。「列に並んで1時間はたつけど、全然進まない。英国人なんてトルコ側に追い返されちまったぞ」。イランの国境役人は、旅行者のすべての荷物を開封し、1つ1つの物品について質問を繰り返している。ストーブの熱で全身につもった雪が溶けびしょ濡れになる。進まない列を1分に3歩ずつ前進する。国境を越えるのに一晩かかるか、と覚悟を決めかけたころ、突然ヒゲ面の役人がやってきて、ぼくに話しかける。
    「お前はどこの国から来たのか?」と問う。「日本人です」と答えると、「こっちに来い」と強制的に列から引き離される。瞬時に、この数カ月の間で行った自分の悪事を振り返る。国境警備兵に拘束されるほどの犯罪はしていないはず、いやしている・・・あれがバレてるとヤバい。極度の不安に陥るが拒絶はできない。

    いちばん奥の部屋に連行される。板張りのブタ箱行きを想像していたが、そこはきれいな絨毯がしかれた、いかにも上級役人の部屋であった。大きなテーブルの向こうに、仕立てのいい洋服を着た役人がおり、ぼくに目をやる。
    「あなたは日本人か?」と彼も問う。工作員か何かと勘違いされてるのか? ぼくはパスポートをゴソゴソ取り出す。彼は、パスポートの表紙だけをチラリと一べつし、こう問いかける。
    「あなたは『おしん』と関係はないのか? あなたの出身地は『おしん』が生まれた村とは近いのか、遠いのか?」
    唐突なる質問ぼくは混乱する。「おしん」とは、あのNHK朝の連ドラのおしんのことか?
    彼はやにわにズボンのすそをめくりあげる。ナイフか拳銃でも飛び出すのか?と身構えると、そこにはおしんのイラストがプリントされた「おしん靴下」が燦然と輝いている。どうやらこの国では、おしんがキャクターグッズ化されるほど流行しているのだ。イラン革命から10年、歴史は確かに転がる石のようだ。
    靴下をめくりあげたままで、国境役人は語り続ける。「私は『おしん』を何度も見たよ。どんなに貧しくても、辛くても耐えるおしんの人生は素晴らしい。あのような苦労を日本人は乗り越えて現在にまで成長したのだから、日本という国も評価に値する。日本人はすばらしい民族であり、われわれと感性が似ている。イランへようこそ!」
    少し涙ぐむほどの勢いで、どうやら歓迎をしてくれてるようなのだ。そして、がっちりと握手を求められる。写真を撮ろうじゃないか、なぜならお前の顔は「おしん」にそっくりじゃないか。みんなここに集まれよ。きみは真ん中に座ってくれよ。さあ撮るよ・・・。
    国境役人との謎の記念撮影会が終わると、ぼくは荷物検査もフリーパスのVIP待遇で堂々イランに入国したのである。
    背後から、何人もの役人が「おしーん」「おっしーん」「おすぃーん」と口々に叫んでいる。
    国境の建物を出ると、パキスタン人の巡礼者家族が待ってくれていた。
    「何時間もかかると思ってたのに早いな。いったいどんなテクニックを使ったんだ?」と、一目置いた表情でぼくを見る。おしんの話は内緒にしておこうと思う。

    そして、大雪の中、またしても乗り合いトラックの荷台に詰め込まれ、移動が開始された。雪景色はやがて荒涼とした赤土の平原に変貌し、地平線まで続く砂漠になった。巡礼者たちの旅は過酷だった。無人の砂漠地帯は列車を使ったが、巡礼者同士でボロバスを借りることもあれば、トラックのヒッチをしそのまま荷台で毛布をかぶって寝る夜もある。皮膚という皮膚は、アカと砂が混じった泥質でおおわれた。巡礼者たちは親切で、ぼくを客人として丁重に扱いすべての食事をふるまった。モスリム(イスラム教徒)の人づきあいとは、こんなにも紳士然とし心優しきものなのだろうか。
    しかし、ぼくは彼らと別れるスキを虎視眈々と狙っていたのである。このまま巡礼の旅に巻き込まれてるわけいかないのだ。首都テヘランでは、豪華なリゾートホテルの高層フロアにある、庶民の手の届かないフレンチレストランで、最高の女と最高の食事をする予定なのだ。そのためだけに3万キロ以上も移動しつづけてきたのだから。
    (つづく)
  • 2007年05月06日地の果てまで逃げろ
    「若く見られたい」と必死の形相の人たち。その必死さがすでに若くない。恐い。
    若さにどれほどの価値があるってーのかね。
    無知の痛み、我を知らぬ痛み。若いって痛々さ以外に何がある?
    できれば早く老いたい。一刻も早く老境に達したい。ちょっとぜいたくな望みだね。

    文責=坂東良晃(タウトク編集人)

                  
    春に就職した諸君、もうそろそろ仕事がイヤになった頃じゃない? いやはや世間の風は冷たいでしょう。今までキミの意見に何かと耳を傾けてくれた大人たちが、ぜんぜん何も聞いてくれないでしょ?
    1年前、会社説明会やインターンシップ(職業体験)で、「私たちの仕事はこんなに素晴らしいんですよ〜!」と満面の笑顔で話しかけてくれたオジサンたちが突如一変し、鬼のような表情で「売上だー!ノルマ達成だー!利益だー!突撃とっつげきぃー!」と叫んでいるのを聞いて、「ええっ全然ちがうやん〜、職業体験とかしても意味なくね〜?」なんて思ったりしてるでしょう。
    さんざ苦労して就職活動して、なんでこんなつまんねー会社に入っちまったんだろう、説明会で夢を熱く語っていた社長は、こんなケツの穴の小さい人間だったのかヨ・・・。
    「効率、効率」とスローガン叫ぶわりに、ムダなことを延々やらされてる周囲と自分。
    「意見を述べろ」と言うので思ったことを述べると「方針に従えないのか?」と怒られる。
    それなりに憧れた仕事だったはずなのに、自分じゃなくてもできる単純作業ばかりでうんざり。高校で勉強したことも、大学で研究したことも、自分の趣味も個性も特徴も、何も生かされない。
    飲みニケーションと称して上司や先輩のおもしろくない話を深夜まで聞かされる。仕事のグチ、同僚の悪口、誰かもわからない取引先の噂話、程度の低いエロ話、果てなく続く自分の自慢話。
    やっとお開きかと腰をあげたら「次いこう、次」と誘われ、ブサイクがまとわりつくスナックに連れていかれる。こんなサエない上司に管理され、評価され、査定される。いやはや社会ってまったく大変なトコだ。

    あ〜あ、何もかも捨てて逃げ出したい、なんてふと考えてしまう。
    そんなときに「逃げるな!誰しもそれを乗り越えてきた!困難に立ち向かえ!」なんて前向きに諭してくれるポジティブマインドな友だちや体育会系の先輩がいるかもしれない。でもぼくはこう思う。
    「逃げたきゃ、逃げろ!」
    「人生、一度や二度逃げたくらいは屁でもない」
    「逃げるんなら、とことん逃げろ!」
    目の前のモノから逃げてはいけない、なんてストイックに考える必要はない。昔の偉人たちだって、若い頃はもっともらしい理屈をつけて、世間という鋳型からドロップアウトしたもんである。

    逃走するなら、できるだけ惨敗ムードが漂うような逃げ方をしたいものだ。おすすめなのが船で逃げる方法。大阪南港と神戸港から「新鑑真」という船が中国の上海まで出ている。
    片道2万5千円となかなかリーズナブルなお値段だ。
    1週間に1本出航していて、お昼の便で出発すると、翌々日の朝に上海の街の近くのフェリー乗り場に着く。この船は、古くから貧乏旅をする若者の定番脱出コースとして愛されている。
    かつては魔物が跳梁跋扈する上海の街、港に下りたとたん身ぐるみはがされることもあったが、今はまあまあ安全だ。
    上海からは、北方のシベリアか、西方のチベットか、南方のシンドシナか、コインでも投げて適当に目指せばよい。

    つぎはもっと楽な方法。とりあえずタイの首都バンコクまで飛行機で逃げるお手軽コース。関空から往復チケットで3万円代だから、徳島・東京間の往復運賃より安い。
    バンコクで有名なカオサンロードというエリアは、世界中から逃げ出してきたやる気のない人たちで溢れかえっている。その規模数千人、いや数万人である。ニッポン人の若いのもうじゃうじゃいる。
    これだけ全体にやる気がない人たちを見ていたら、「困難から逃げるのは卑怯者では?」なんて葛藤していた昨日までの自分の誠実さにもらい泣きしそうになる。
    このグータラどもの肩書きは「旅行者」「ツーリスト」「バックパッカー」などであるが、実際は、「親金をむしばむパラサイトくん」「無職が自由だとカン違いしているフーテン野郎」「短期バイトと放浪の繰り返しでも自立してると思い込んでる痛い人」たちである。
    そんな不安定な人たちが、世界一お気楽な場所を求めて集まった、世界一ダレた街がカオサンロードである。昼間からビールを飲み、フーテンたちと会話を楽しみ、1人前50円の安飯を食らう。逃亡当初はそれなりにやる気もあり、いいビーチを探したり、遺跡を見学したりするが、やがてそれもしなくなり、カオサンに戻ってきてはぐだぐだに1日を過ごす。
    観光ビザが切れかけると、隣国への一時出国が必要になり、だんだんアジア一帯の沈没タウンや沈没宿に詳しくなってくる。(「沈没」というのは浮き上がってこれない人たちが巣食う場所のこと)
    日本人が恋しくなると、ピュアな学生旅行者や金持ちツーリストが集まるカオサンに戻り、ナンパしたり、無銭飲食(たかり)を謀ったりする。なんの生産性もない無駄な時間。この街では誰も文句は言わないし、温かく迎えてくれる。逃亡初心者にとってカオサンロードは世界最高の安住の地なのだ。

    だがさすがに半年もいると飽きてくる。腰が落ち着かなくなってくるが、心配はご無用だ。この街には世界中の都市への格安航空券が出回っている。
    便数が多いから空席待ちすることもなく、気が向いたら24時間以内に好きなところに再逃亡できる。行き先によって運命が変わるかもしれないが、旅行目的が「逃亡」であるかぎり、自分の人格に影響を与えるほどの出来事は起こらない。
    □ヒマラヤ・・・トレッキングと称して、世界の尾根が眺められる山村に入れば、堂々とぐうたらできるぞ。
    □インドシナ半島・・・飯がうまく物価も安く遊びの幅も多い。10年はたいくつしなさそう!
    □中国・・・漢民族エリアは生存競争がきつくて落ち着かないが、国境周辺の少数民族エリアには桃源郷が点在している。
    □南洋諸島・・・移動に金がかかるが移動しなければ問題ない。開発されてない島を探し、海辺で寝て地上天国を満喫しよう。
    □南アジア・・・落伍者の殿堂ともいえるインド。1泊2食付で150円くらいの宿はザラ。1年5万円で生きられる。
    □中東・・・紛争地域を除けば逃亡者天国。イスラム教徒は礼儀正しく義理人情にあふれ尊敬できる。反米感情を高めつつうだうだしよう。
    □南米・・・ナンパ天国、出会いの聖地。ダンスとミュージックと格闘技とサッカー漬けで毎日がカルナバルだ!
    □中米・・・世界一の美女の宝庫。北米から降りてきた真面目な旅行者をナンパしながら、スペイン語教室に通い、だらだら過ごそう。
    □アフリカ・・・世界最強の逃亡先。都会はヤバいが田舎は楽園。1年に10万円もあれば充分やっていけるぞ。
    これら行き先のなかから、気に入った街を探し出し、新たな沈没地を探せばいいのである。

        □

    何でも中途半端がいけない。
    マジメに働くなら働く、逃げるなら逃げる。はっきりしよう。世の中の大人たちはみなリングにあがって戦っている。そこはタテマエもへったくれもない生存競争の場だ。戦うのがいやなら素直にリングを降りて、逃亡したほうがいい。リングの隅っこに安全圏を見つけ、ブツクサ文句を言っているのは格好悪い。

    会社を辞めることを恐れる必要はない。ニートになったあとで「自分はいわゆる下流かよ」と気づいてもしょげることはない。そもそもニッポン自体が国家間格差の頂点にいる。
    バングラディシュの首都ダッカでは、街じゅうにスラムが広がっていて、残飯を寄せ集めたぶっかけメシ屋さんや焼きめし屋さんが繁盛している。ほくもこの「残飯定食」を食していたが、さまざまなエキスが渾然一体となって美味なものだ。
    どんな場所でも、どんなに貧しくても、人間はどうにかこうにかやっていくすべを見つけられる。日本の最下流なんていったって、南アジアなら中流の上くらいの生活水準だ。だから安心して下流に生きればいい。

    昔はもっと金持ちと貧乏の差がはげしかった。持ってるヤツと、持ってないヤツの差は歴然としていた。着ている洋服も違うし、ランドセルから取り出すフデバコも違う。貧乏すぎてフロ入れないヤツだっていた。わずか20年前はそうだった。
    ここ数十年でニッポン全体の生活水準が急上昇した。どいつもこいつもケータイもって、美容室でオシャレに髪切って、音楽やりたければギターなんてすぐ買えるし、走り屋やりたければ中古車買って改造できる。
    白人の国以外でこんな国ほとんどない。みんな金持ちになったんだ。もういいじゃねえか、これ以上リッチになる必要はない。

    この数十年ニッポン人は、子どもたちに対して社会教育をほどこさず「あなたの個性を生かしなさい」「好きなこと、やりたいことをやりなさい」「人はみな平等です」「人とのコミュニケーションが大事です」などという甘い幻想教育ばかりをやりすぎたのである。
    戦争を経験したぼくの祖母・祖父の世代の人たちは、そんなことは言わなかった。「はやく働きに出なさい」「親方(上司)に逆らってはいけません」「お金は1円でも大事にしなさい」「世の中に出たら悪いヤツがいっぱいいるからダマされるな」。
    このような教育をほどこしてくれた。こっちの方が世界標準な考え方だと思う。
    人類の歴史上、職業選択の自由なんかほとんどなかったのである。世界の大半の人たちは、生まれたときから定められたレールの上を生きていく。家系で受けつがれた職業につき、生まれ育った街に住み、親が信仰する神に祈る、そうやって一所懸命生きる。
    そして食っていくために朝から夜中まで働く。それが世界標準。


    ニッポン社会の現実の姿にガッカリし、うんざりだ窮屈だと嫌気がさした人は、逃げて逃げて逃げまくればいい。
    大陸の果てまでぐだぐだの旅をして、世界標準のルールを見物したらよい。地の果ての人びとは、自分が抱えた運命と、産まれた国や街の風土のなかで生きている。
    そんな光景を見たら、逃亡者も少しは自分本来の居場所がどこか、考え直すかもしれない。
    社会復帰はそれからでよい。
  • 2007年04月22日落ちているモノを食べる
    文責=坂東良晃(タウトク編集人)

    ぼくは落ちているモノをよく食べる。
    どこかの庭先に夏みかんや柿の木があって、果実が道路に落ちていたら失敬していただく。公道に落ちているものだから、食べてしまってもたぶん窃盗ではないと想像している。窃盗ならごめんなさい、もうしません。
    自分が食べているモノを床や道路に落としても、拾って食べる。あまり汚いと思わないし、捨ててしまうのはもったいない。
    戦中戦後のひもじい時期を知っている方なら、特に何も思わない行為だと思うけど、日常生活でこれをやってしまうと、周囲の人はボー然とした表情でぼくを見つめる。意表をつく行動なのだろう。それは何となくわかる。落ちているモノを拾って食っている人を見かけたことは、もう何年間もない。

    食べた物を落としたら「拾って食べなさい!」と叱るのが、日本のオトン・オカンの正しい姿だと思っている。しかし最近の指導は、「そんなものは食べてはいけません。どんな病原菌やウィルスが付着し、あなたが伝染病になるかわからないのよ」がオーソドックスだ。堆肥(うんこ)で育成した野菜と、と殺した動物の肉をたらふく食べつつも、「落とす」ことには異常に敏感なのが日本型潔癖性である。食物は無菌室で育てるものではない。口に入るまでに人間があちこちの過程で関与しているのだから、多少の付着物など気にしてもしょうがないんだけどね。

    食品のパックに書いてある賞味期限なんてほとんど気にしない。切れていたって腐ってなきゃ食えるし、期限内でも腐ってたら食わない。賞味期限、消費期限などハナから信用していない。たいていの食品には「いつ製造したのか」という情報すら書かれてないからである。
    例えば牛乳ならば、「製造日」とは乳牛から搾乳した瞬間なのか、農家から地元JAに出荷された日なのか。はたまた乳業メーカーの加工工場で加熱処理された時間か、パック詰めされ出荷された日付か、そんなことすら食う側には教えられない。牛乳などまだわかりやすい方で、加工食品なんていったいどの段階が製造日なのか、さっぱりわからん。得体の知れない製造日を起点に、企業論理で決められた賞味期限、消費期限なんてアテにすべきじゃない。消費者は、判断を食品メーカーに依存しすぎなんである。じゃあ何を信用するのかって、自分の五感しかない。匂い、味、舌触り、見た目、それに食品素材の知識、ウィルスや菌への理解、そしてカンである。

    いわゆる「5秒ルール」をまじめに研究したアメリカの理系高校生がいたらしい。5秒ルールってのは、「食べ物を床に落としても5秒以内なら食べても大丈夫!」ってラテン的発想の口頭伝承である。
    その風変わりな高校生クラーク君は、学校内のいろんな床を調べまくり、「乾いた床の大半はバクテリアがいない」ことをつきとめたんだという。しかし、彼はさらに研究を深め、マジで汚れた床なら5秒ルールは適用可能かどうかを検証した。大胆にも大腸菌をあちこちの床にバラまき、グミやお菓子を置いてみたんだと。さすれば、たちまち菌が付着してしまった。つまりこういうことだ。「大腸菌まみれの床に落ちたモノは、5秒以内でも菌に汚染されている」。あたりまえ・・・だよねぇ。ぼくだって便器に落ちた大福もちは食べない。いくら好物でも。

    ぼくは食べ物に執着がない。この10年以上、1日に1食である。無理をしているわけじゃない。メシを抜いてるうちにお腹が空かなくなった。朝と昼は食べない。夜に1回だけ食べる食事は、ごはんにゴマ塩をかけたり、カツオブシをまぶしたりしただけだ。これは「粗食」なのだろうか。ぼく自身は「とてもおいしい」と思って食べているので、ひもじい意識はない。
    基本的には、人間ハラが減ったときにメシを食えばいいと考えている。ハラが減ってもいないのに、ごはんを食べなくてはならない理由が、実のところよくわからない。
    テレビのコメンテーターは「最近の親は、朝食すら作らない人が多い」と嘆く。しかし、ぼくは朝ごはんをほとんど食べたことがない。そもそも早朝からごはんを食べている民族というのも限られてるのではないか。日本じゃ1日3食が標準的な食事回数とされている。ぼくは今まで50カ国ほどフーテン旅行したことがあるが、多くの国では1日2食だった。そして昼も夜も同じモノばかり食べている。キャッサバイモばかり、トウモロコシ粉ばかり、カレーばかり・・・といった具合だ。しかも物心ついた頃から一生を終える日まで、そればっかり食べている。だからといって健康を害した人びとがウヨウヨいるわけでもない。
    日本じゃ、健康生活の定義として「1日に30品目食べましょう」なんてまことしやかに語られる。旧厚生省が言い出したスローガンらしいが、ぜいたくな話だなあと思う。そんな何十品目も食べられる裕福な国って、世界の何パーセントあるってえの? 
    日本でも、江戸時代半ばまでは1日2食が通常であった。明治の西欧化の過程で1日3食が普及した。おかげさまで栄養状態もよくなり、若い世代の疾病も減り、平均寿命も延びた・・・ということなのだろうが、
    逆に見れば、肥満が増え、かつては存在しなかった成人病が増え、人口は爆発し、環境全体にとってはロクでもない影響を与えているんではないか。
    ダイエットの情報番組では、食事回数を減らすと太りやすい体質になります・・・と繰り返し語られる。すばらしいことだなあと思う。少しの食料で太れるなんて効率がいい。「飢餓感を覚えないように、こまめに間食をし、1日に5食くらい食べると太りません」とも解説がつく。そんなに何回も食べてまでも痩せたいのかな。よくわからない理屈だ。

    人間ほど矛盾にみちみちた生き物はない。あい反することを主張し、やりたがるのである。
    環境問題を憂う人は多い。しかし一方で少子化対策・・・子供を産みやすく育てやすい環境づくりに躍起なのである。そもそも、人間が存在すること自体が「反地球環境的」であるから、環境派は人口の減少を喜ばなくちゃならないはずだ。人口減少に歯止めをかけるのは、年金制度を維持するため、あるいは国力や労働力の低下を防ぐってのが理由。どこまでも自己チュ〜。そして、環境破壊の親分と目されるレジ袋を憎み、エコバックをヒーローに仕立てあげ、はやし立てる。レジ袋の製造に使われる原油は1枚20ミリリットル。お買い物に往復2キロほど車に乗れば100ミリリットル以上のガソリンを消費する。わざわざ郊外までガソリン数100cc焚いて買い物に行き、エコバックを使って原油20ccを節約したい人なんてワケわかんねー。ダイエットし、エコバックを使い、1日3回正しくメシを食らう。つまりは、痩せてキレイになり、環境にもやさしくなって、食欲も満たしたい人たちがバクテリア並みに大増殖中なのだ。食わなきゃ、ペットボトルも紙パックもプラスチックトレイも過剰包装も残飯も発生しないし、家畜も死ななくてよいし、痩せるのにね。

    「環境問題に関心があります。それを読者に伝えたい」という入社希望の学生がやたらと多い。ぼくはこう答える。
    「弊社は、1年間にA4用紙換算で1億8000万枚、重さにして約780トンの紙を商品として売買しています。この原料は、主に東南アジア・中国・南米などから買いつけた木材です。これらの原料を製品化するために大量の電力を必要とし、購入・消費しています。生産を終え、売れ残った雑誌は廃棄しています。廃棄とは、主に中国などへの売却を指しています。その紙は再資源化されるけど、その際にも大量の化学溶剤と電力を使用します。つまり弊社は環境破壊会社です。環境破壊会社が、環境問題を読者に問うなんてムリムリムリ!」
    「東洋町の高レベル放射性廃棄物最終処分場の建設反対に協力を」というお願いも多い。ぼくはこう答える。
    「ぼくは消費社会のド真ん中にいます。商品製造の過程で大量の電力を消費しています。電力とは、原子力発電・火力発電・石炭火力発電によって生み出されたものです。このような経済活動のうえに、ぼく自身の生活も成り立っています。朝から晩まで大量の地球資源を使用し、恩恵を預かって生活しているぼくが、原発の製造処理工程に反対する理由も意思もないのでムリムリムリ!」

    人間って、よくわからない生き物なのである。
    燃費の悪い大排気量の車に乗りこんで「海をきれいに」と遠くまで石油をガンガン燃やして訴えに出かけていったり、スローライフな生活をするために山に移住し、軽トラでガンガン山を登り下りしながら、下界の消費社会を憂いだり、公共事業によって海を埋め立てた土地に立派なお家を建て、便利な暮らしを満喫しながら「子孫にきれいな水を!公共事業反対〜!」を叫ぶ。
    そしてぼくは今日も、紙と木材と原油を大量消費しながら、落ちているはっさくを食らって生きる。
  • 2007年04月15日極彩色のカトマンズ
    街を歩いているだけで目眩がしてくるのです。
    0055 0059 0057 0060 0056
  • 2007年04月13日ヒマラヤの長い山街道
    毎日4リットル汗をかき、4リットル水を飲むのです。
    0036 0035 0033 0042
  • 2007年04月05日アンナプルナの谷
    毎日いい天気で午前中と夕方は雲ひとつなし。トレッカーは少なかった。
    0037 0039 0031 0044
     
  • 2007年04月03日そこで、ドツくかどうか
    けっこうスレスレの判断をしている。こいつをドツくか、ドツかないか。
    ドツくリスクはたくさんあるけど、ドツくメリットはほとんどない。
    けど、そんなことはさておき、ドツこうと思うときがある。
    計算なんてしてる時間ないのです。

    文責=坂東良晃(タウトク編集人)

    その日、徳島駅前はつきぬけるような青空と白い雲。
    眉山の緑がゆれ、乾いた風がスッとふきぬける。すがすがしい午前である。クリーニングしたてのパリッとしたシャツに、お気に入りのネクタイ。う〜んこんな日は、「仕事やるぞー」って気になるよね。
    そんな爽快ウキウキ気分で駅前某所を歩いていると、ベンチに大股で座っている二十歳前後の男2人。首や腕からジャラジャラとアクセサリーをぶらさげ、キャップをかぶり、ヒゲをモッサーと生やしている。横幅が狭い商店街の通路いっぱいに足を投げ出している。おばあさんが歩きにくそうに通路の脇を通る。自転車のおじいさんが男の足を避け、よろけて倒れそうになる。
    男の1人が大きな紙くずを地面に捨てた。
    ぼくの頭の中で「ミシッ」となにかがきしむ音がした。口が勝手に動く。「おい、ほれ捨てんな。拾え」と言ってしまっている。あーやってしもたー。当然、若者は逆ギレを起こす。「オッサンコラ、何が言いたいんなコラ」である。おお怖い。
    しかしながら、平日の朝から仕事もしてないヤツにえらそうに言われたので、ぼくは急速に機嫌が悪化していく。紙クズを拾い、片方の男のひざの上にポイッと置く。男はその紙クズを遠くに投げ捨てる。
    ぼくのイライラは頂点に達し、とにかく顔をくっつけてやりたい衝動に駆られる。一方の男の股の間までにじり寄ると、2人は立ち上がり、ぼくの胸ぐらをつかむ。アイロンの入ったシャツがゆがみ、ネクタイの形が無残に崩れる。ぼくはそのまま相手のほうに真っ直ぐ突進する。男の1人はベンチに足を取られ、うしろにひっくり返る。頭突きを何発か入れる。はずみでぼくのメガネが壊れてしまう。何年も愛用しているお気に入りメガネである。
    完全にキレたサラリーマン姿のオッサンというのは不気味なのだろう。男たちは「ここで待っとけよお前コラ」と言って、仲間を呼びに行くそぶりをみせ去った。念のため3分ほどそこで待ったが帰ってこなかった。
    口の中がちょっと切れていて、鉄の味がした。なつかしい感じだ。

    20数年前、ぼくは阿南市の高校に通っていて、駅前でよく乱闘さわぎに巻き込まれた。といっても、たいていは殴られる側である。ほんとよく殴られた。
    校内暴力の全盛期である。路上では知らない者が目が合うだけで火がついた。「ガンを飛ばしたか否か」が、あいさつのはじまりである。ドツきあいは、ドツきあいなりのルールがあり、たいていは頬っぺたか鼻を殴りあいっこする。そのあたりは殴っても派手に血がでるだけで、たいした怪我にはならないからだ。
    ぼくはあんまし殴られるのは好きじゃない。汽車通の女子たちが見ている前で鼻からボタボタ血を流しているのは、かっこわるい。だから、一発目に相手の眉間か、眼球か、股間を殴るのである。このさい暗黙の了解は無視である。
    相手は一瞬動けなくなる。スキをつくり、駅の改札の中に逃げ込む。改札まで追ってきたら、裏の田んぼまで逃げる。これが常套手段である。殴って、逃げる。それだけ。
    当時のドツきあいは、今から思えば健全であった。一戦交える前に、みな自己紹介をしていた。
    「わえは□□の△△やけど、お前、わえのこと知っとんかコラ」である。「われこそ、わしが□□の△△ちゅうことを知っとんかコラ」である。
    かつて日本の武将たちも、果し合いの際は同じく名乗りあったと聞く。「やあやあ、われこそは○○藩は××が末裔、□□なるぞ。主君の名誉と〜」。まあ、当時は田舎のヤンキーたちにも、サムライ魂があったということか。

    十代の頃は、しょっちゅう殴られたり殴ったりしていた。社会に出てからも殴られていた。
    (前職の)土建屋の荒くたい男の世界では、暴力はあいさつみたいなものである。お気に入りのメガネはつぎつぎと壊された。前歯3本は折られてしまい、さし歯になった。口の中の切れた跡があちこちで肉芽となり、今でもモノを噛むときにじゃまくさい。
    暴力によって命の危険にひんしたのは、インドとアフリカだ。インドでは強盗にナイフを突きつけられ、部屋の中に監禁され、何十分間も腹を殴られつづけた。胃を殴られるとゲロをもどす。インドの本職は、どこを殴れば精神的にきついかわかっている。プロには逆らえない。もっていた金を全部とられてしまった。全部といっても2000円くらいだが。
    アフリカでは、カヌーで旅している最中に、周囲を3隻のカヌーに取り囲まれ川の上で組み伏せられた。6人のデカい男たちは、カヌー強盗である。ぼくを川に投げ捨て、ぼくの所有している丸太をくり抜いたカヌー(2500円で購入)を奪おうとした。川岸から百メートル以上離れている。泥水のような川に投げ捨てられたら終わりである。だが相手は、ドツきあいには弱かった。殴りあっているうちに、さっさとあきらめてくれた。そのかわり、敵の右ストレートで前歯をみごとに折られた。近辺に歯医者がなくて、こまった。

    話はさかのぼる。
    恥ずかしい話だが、15の頃、親父を殴ってしまったことがある。自分のやりたいことをどうしても理解してもらえなかった。親父は、ぼくに殴られた肩のあたりの腫れが引かず、しばらく病院に通った。親父もごく普通に鉄拳制裁をする人だったが、ぼくが殴った日から、親父は少しおとなしくなった。
    晩年の親父は十数年間、癒る見込みのない難病と闘っていた。亡くなる寸前まで、親父はぼくに殴られた話をよくしていた。その話をするときは、親父はうれしそうに笑っていた。ぼくはその話をされると頭が上がらなくなる。とても情けなく、恥ずかしい話だからだ。ぼくが小さくなっているのを見て、親父は得意満面になっているのだ。
    病気と闘っている親父はかっこよかった。多発性骨髄腫という病気は、全身の骨が骨折寸前の痛みに襲われる。腫瘍が骨を破るほどである。実際に骨折もした。しかし親父は、絶対痛いといわない。死が近づいているのを悟っても、どこまでも音をあげない。このかっこよさに二十年早くきづいていれば、親父の言うこと全部きいてやったのにね。

    このごろは暴力を見かけることがなくなった。路上でのケンカなんぞ、何年も目にした事がない。学校では、先生がゲンコツで生徒指導すると、ちょっとした事件になる。お店で傍若無人にふるまう子どもを野放しにする親、うんざりするほど見かける。「パチン」と頬を張り、しつけをほどこすことを現代の親はしない。
    周りに人がいる場所、始終監視された場所でのケンカや体罰が影を潜めた分、暴力は、家庭内の老人や幼児や女性に、あるいは学校や職場でのイジメにと、より弱い立場の人に向かっている。
    暴力は匿名性のある場所で栄え、陰湿さを増している。
    ニンゲンは、人間であるがゆえ自らを律することができるが、一方でニンゲンは動物でもあるから、怒りや暴力は抑えることができない。ニンゲンから暴力を奪うことができた国も、時代も、宗教も、今だかつて存在しない。ならば、いろんなサベツ問題と同じく、隠してしまうのではなく、日のあたる場所に引っぱり出してしまいたい。
    スーパーで大暴れするおバカなガキのアタマを一発ポカッと殴って、しつけできない親に恥をかかせる社会でないと、ニッポンの暴力はもっと暗いものになっていく。叱られずに育った若者が大量生産され、傷つきやすいがゆえに社会適合できず、生涯ニート化したり、自殺率世界一の国を作っていく。

    使ってはならない暴力と、使うべき暴力がある。理不尽なことを止めさせるときに体を張れないのは情けない。そういうときは暴力を使う。たとえ自分がお縄をちょうだいしても、ぼくより立派な部下たちがカイシャを運営してくれているので、後のことは心配しないでいいだろう。どうしようもないバカに右ストレート一発くらいお見舞いできないんじゃあ、なんかね・・・イマイチな感じでしょ。
  • 2007年03月29日ネパールの山の村
    きれいな山を一日中ぼーっと見ているのです。
    0017 0020 0021 0028
  • 2007年03月24日最近のカトマンズのようす
    だからどーしたというわけでもない旅の写真たちで御座います。
    ほとんど食べ物の写真ですいません。
    0003 0006 0013 0005
  • 2007年03月24日冬の剣山
    今年の剣山は雪が少なく、気温もマイナス5度くらいと温かく、厳冬期という感じてはなかった。あまりトレーニングができないのも困ったもんである。仕方なく毎日、眉山を四つんばいで駆け上がっているのである。
    tsurugi2 tsurugui1 tsurugi3
  • 2007年03月17日肯定論
    なぜか仏のような澄みきった心根である。
    何もハラがたたない、ありのままの今を受け入れたい気分なんである。
    頭痛薬の飲みすぎだろうか。1週間に30錠は飲みすぎなんだろうねえ。

    文責=坂東良晃(タウトク編集人)

    毎日毎日、報道番組じゃあいろんなことが問題になっている。
    いろんな立場の人が、いろんな発言をし、これではイカーン!と叫ぶ。
    しかしホントにいかんのだろうか。どうでもいいことなんではないか?

    ■ちきゅう温暖化
    地球には4万年〜10万年サイクルで氷河期がやってくる。いちばん最近の氷河期が終わったのは1万年前、現在は間氷期と呼ばれる時代である。
    氷河期と氷河期のあいだにも「小氷期」と呼ばれるプチ氷河期があり、200年前まで北半球は小氷期に襲われていた。小氷期時代には、作物の不作から飢餓や疫病が蔓延し、たくさんの集落があったグリーンランドは壊滅した。あまりろくなことがないらしい。
    このように長い時間をかけて、地球は温まったり冷えたりを繰り返す。次の氷河期がやってくるまでには5万年くらいあるとされる。いったん氷河期に突入すると数万年はつづくので、現在の文明はいったんそこでリセットされる。繁栄を築き上げた生命体が決定的な打撃を与えられるのは、温かい時代よりも凍った時代である。
    熱帯の動植物の繁栄ぶりにくらべ、寒帯のそれはいかにも乏しい。地球の動植物は、気温の高いほうを好むのである。少しでも氷河期の到来を遅らせるために、地球を温めるのも悪くはないよねー。
    それよりも「エコ商品」とかの名目で、どんどん新商品をつくりつづける製造メーカーの矛盾はどうなんだろうね。そっちの方がよっぽど地球資源の枯渇への道をつきすすめてると思われる。

    ■少子高齢化
    狭い国土に人口が密集しすぎているのだ。
    江戸時代3000万人、明治時代初期3500万人、明治後期5000万人、昭和初期7000万人。戦後の異常な出産ブームによって昭和42年には1億人を突破した。1868年からの100年間で、人口は一気に3倍も増加したのだ。
    これを異常繁殖と言わざるして何とする。現在の少子化は、「神の見えざる手」による人口調整機能が働いているのだ。人口が減れば土地の価値が下がり、家が安く買える。職場の近くに住めるから都市部の通勤地獄はなくなる。自動車が減り、交通渋滞がなくなる。昔のような受験地獄とやらもなくなり、求人倍率があがって失業率が低下する。
    人口密度が高すぎると、人間は他人と精神的な距離をとろうと努力する。密集した環境ではコミュニケーション過多になりストレスが増大する。そのため無関心という鎧をまとう。都市の住人、マンション住人に必要な処世術だ。
    このまま少子化が進行し、5000万人程度まで人口が減れば、人間と人間の間に理想的な距離感がうまれる。そこで人口調整機能はいったん収束し、ふただび男女2人が2人の子供を産むという維持型に変化するだろう。
    少子化により、若い世代が年金負担に耐えられないといっても、それは人口維持型社会になるまでのガマンだ。戦後、爆発的な人口増加により国際競争力が高まり、餓えのない立派な国家が作られた。さまざまな社会基盤も整備された。
    現在の若い世代は、ぼくも含めてそのおこぼれを食らって楽ちんに生きている。だから、せめて年金負担する義務ぐらいは背負わせてやればよい。

    ■「下流階級」の増加
    年収300万円=低所得者層などと称されるのは、世界広しといえどニッポンだけである。儲けすぎだ。
    分不相応なブランドものを身につけ、車を生涯に5度ほど買い替え、住宅を1度は買う。つつましやかに一生をおくろうとするならば、そのような消費生活をする必要はない。
    個人的充足感、他人に対する優越感、もっと便利にもっと楽にという欲望がそうさせる。こんな消費者たちがものすごいサイクルで買物をつづけて初めて、今の経済は維持可能型となる。しかしそんな快楽状態は長続きしないだろう。
    欧州やアジアの古い街のように、1回建てた家を500年くらい修繕し続け住む覚悟があれば、生活費だけ稼げれば苦労はしない。
    景気変動など気にしないところまで達観すれば、何も苦労はしない。
    「下流階級」と呼ばれる、社会に無関心で向上心に著しく欠ける人たちの登場は、今の消費社会へのアンチテーゼである。資本のメカニズムが働けば働くほど、富は偏重する。「下流階級」は増大し、やがて新しい革命の火種になる。フランスの暴動はその前兆だ。少しずつしかし加速度を増しながら、その布石が打たれている。

    ■食品不安
    人間が自分の糞尿で育てられない量や品質を農作物に求めはじめた瞬間に、食品は安全性を失ったのである。消費者が安価で美しい野菜を求めるなら、農家は農薬害虫をコントロールし、土壌を化学物質で肥やすしかない。
    安価で、美しく、化学物質で汚染されない食べ物なんて、無理な注文である。消費者はムチャを言いすぎなのである。そのような身勝手な消費者がいる限り、企業の偽装表示は巧妙さを増していくだけだ。自分の排泄物で田畑を肥やす覚悟のある人だけが、安全な食料を口にしてもよい。

    ■敵対的買収
    企業は、人間の労働力や地球資源という本来はお金には変えられないものに対し、ムリヤリ値段をつけて売り買いをしている。それが資本主義というものであり、株式会社を経営する者なら、そういった資本主義の仕組みはわかっておくべきである。
    人や自然に値段がついているのだから、企業の売り買いなど簡単にできるのが自然だ。上場企業ならば自分の会社の価格を万人に公開しているようなもんだ。株券を市場に売りに出すというリスクを犯し、莫大な資金を調達するというメリットをとってきたのだから、今さらいい歳をした老人経営者たちが「会社を買わないでくれ」なーんて、何を言っているのだろうか。
    本当にヘンな人が多いな、特にメディア人には。

    ■寄付されないほっとけない世界の貧しさ
    「ほっとけない世界の貧しさ」を訴え、手首にホワイトバンドを巻くのが去年はやった。
    ホワイトバンドの購入費がほとんど寄付に回されてないと知ってガッカリしたり、文句を言う人がいたが、あのCMのうさんくささを見たんなら、最初から怪しいと思わないといけない。そもそも300円程度払って、きれいにパッケージされた商品を手にし、慈善心を満足させてもらったうえで、更に寄付にまでお金が回ると考えるほうがおかしい。要するに最初から自己満足なんだから、あとでぐぢぐぢ文句は言わないこと。本当に「貧しい人たち(このフレーズ自体、上目線すぎる)」とやらに直接寄付したければ、チャラチャラしたもの買わなくても、いくらでもまっとうな寄付団体はある。

    ■外来品種のペットの放棄
    有史以前より動植物は他の移動する物体・・・風や海流、動植物、人間によって、移動し続けてきた。すべての大陸で繁殖する人間なんてその最たるもの。馬やラクダの背に乗って、アフリカ大陸から全世界に拡散したのが人間だ。ブラックバスなどの外来品種が、ニッポンの湖沼で生態系の上位に立つことによって、希少品種の絶滅が心配されている。
    しかし、なぜ動植物が絶滅寸前の希少品種になったのかといえば、人類がまとう衣類やアクセサリー、食料品として消費されてきたためだ。
    あるいは人間が安全に暮らせる村・都市づくりのために、殺害捕獲され、絶滅に追い込まれてきたのである。多くの動物を肉をむさぼり食いながら、小さな虫や川魚やカニの未来を愁う。それが人間のかかえた矛盾である。

    ■マンション違法建築・偽造建築
    一戸建てを建てる場合なら、多くの施主は時間を惜しんで建設現場を見に行く。基礎工事はちゃんとしてくれているか、間取りは注文どおりか、梁や柱をいいかげんに建てていないか。
    同じ不動産物件であるマンションを買おうとするとき、飼い主はディベロッパーに対してあまりに全幅の信頼を置きすぎであったのだ。「パンフレットに安全設計だと書いてあったから信用した」ではだめなのだ。だってパンレットっていうのは、売り主が勝手に書いて、勝手に印刷したものだ。その内容が正しいかどうかなんて、第三者は誰も認定してないんだからね。相手を信じすぎだ。

    ■個人情報保護
    個人情報など気にしない。へたに貯め込もうとするから自分の情報流出が気になる。金がなければ、何も気にならない。

    ■ニート
    一般的には、働く気がなく、向上心を失ったダラけた人たちのことを指すが、それで食っていけるんならそれでいいんじゃないか。不労所得があり、住む家もあり、特にぜいたくもする気がないのなら、逆になぜ働く必要があるのか?
    ニートが働かないおかげで、働いている人へ富(資産)が徐々に移行するのである。お金持ちが必死に働けば、ますます富がその人に集中してしまう。そりゃ困るよ。
    金持ちの三代目はバカって決まっている。それも「神の見えざる手」によってバランスが計られているのだ。だから親が財を成したお家の息子さん、娘さんはニート化してもらい、働かなくてよろしい。今は食っていけても、50歳になったあたりで悲惨なことになるのは目に見えるが、若いとき楽したのだからそれでよい。
    親の蓄財分が、まじめに働いている人に移行していくのだから、それでいいではないか。

    ■喫煙
    酒がOKでタバコがNG、という理論の根拠がわからない。
    酒を飲んでいる人に殴られたことはあるが、タバコを吸っている人にからまれたことはない。
    酒に溺れて家庭をこわした人は知っているが、タバコに溺れて家庭をこわした人は知らない。
    飲酒運転で人を殺した事例はたくさんなあるが、喫煙運転の問題はあまり聞かない。
    喫煙は、呼吸器や循環器系の病気の確率をあげることは事実だろう。しかし、人間は何かをやるために何かのリスクを選ぶ。
    自動車運転のリスクは年間9000人の死亡事故として現れているが、だからといって運転をやめたりはしない。
    タバコよりも化粧品や食品に含まれている化学物質の方が、長期的には有害ではないと誰が言い切れるか。喫煙者はどうどうと喫煙権を主張しよう!

    ■ふたたび株価上昇
    バブルに熱狂し、はじけて底に沈んだ15年をすっきり忘れ去ってふたたび狂える素敵なニッポン人に乾杯。
  • 2007年03月09日イージーな場所からはじめよう
    なにかをやるのに勇気とかはいらない。
    そんな七面倒くさいことよりも、じぶんがアホであることに気づけばよい。
    多芸多才な人物などそうはいない。普通の人は1コか2コくらいのことしかできない。
    ぼくなんかそれすら満足にできたためしない。だから、その1コのことしかやることねーんだ。
    そんな感じでやっていけばいいのだ。

    文=坂東良晃(タウトク編集人)


    ぼくは昔、ひきこもっていたことがある。
    そんなに長い期間じゃない。はっきり思い出せないが、1年までは長くない。
    ひきこもった理由は、自分でもよくわからない。そのときぼくは18歳であり、とりあえず何をしていいか、わからなくなってしまったのだ。
    学校を辞め、仕事もせず、何もせず、遊ぶお金もなく、日のあたらない部屋でじっとしているのが、もっとも楽ちんな生き方であった。家賃1万2000円のボロアパート部屋にトイレはなく、牛乳パックの中にモヨオしたものを放出していた。食事はほとんどとらず、体脂肪がなくなり、背中で腕が組めた。相当ひどい状態であったことは確かだ。
    自宅ではない都会の片隅のだったため、ほんとうに長い間誰とも話さなかった。部屋から出たときは外の景色がすごく白く見えた。人と話をしはじめたときにはロレツが回らなかった。

    ひきこもり中、かろうじて、かすかに、蜘蛛の糸でつながった程度の細い希望があった。
    アフリカにいってみたいということであった。ぼくは子供の頃からアフリカが好きであった。「アフリカの動物図鑑」という写真集は500回くらいながめても飽きなかった。アフリカにいけば、確かに自分の生きていられるスペースがあるんじゃないかと思っていた。
    「これをやりたい」というような前向きな目標ではなかった。「それくらいしかやることがない」というたったひとつの残された選択肢であった。それ以外に、やることがないのである。だからぼくはアフリカに向かった。アフリカには1年チョイいた。濃密な1年チョイだった。そこで何があったかは長くなるのでまた話させてね。

    そんな感じで10代から20代にかけてバックパッカーを4年間やった。
    バックパッカーとは、何もしないでも構わない気楽な場所を見つめるために、ボロ雑巾のような身なりで、食うや食わずで過酷な移動をしつづけるという、おおきな矛盾をかかえた生物である。
    バックパッカーの一日は長い。
    1泊100円程度のホテルはアジアにはざらにある。特にインドや中近東には、1泊50円を切るような大部屋がある。土の上にムシロをしいただけの宿もあれば、ちゃんとしたシングルベッドをあてがってくれる宿もある。シラミとノミとダニだらけだが。
    朝は眠れるだけ眠り、もうこれ以上マブタを閉じることができない!というトコまで寝る。
    起きればすでに日は高い。のろのろと服を着替え、枕もとのフルーツを食べたり、 ぼーっと天井を見たり、2度読んだ小説の3度目を読みはじめたりする。
    夕方くらいに服を着て、街をぶらぶら散歩する。特に用事もない。あまりに長く同じ街にいるので、いろいろな店の人と顔見知りになっている。新しい店に入るのは面倒くさいので、ほぼ毎日同じ店に入る。お茶と野菜いためを注文して、そのまま店に居座る。誰か知り合いの人が現れたら2時間くらい話しをする。お茶を5杯ほどお代わりしているうちに、深夜になり店じまいとなる。仕方なく部屋に帰り、まどろみが深くなるまでハッパの香に酔う。明け方になってようやく眠くなり、服を着替えることもなく、ごろっと横になり眠る。

    こんな自堕落な生活を、何カ月もつづけるのである。な〜んにも生産もせず、労働もせず、メシを食って、本読んで寝ているだけなのだから存在意義などまったくない。生産せず消費は一人前にするという生態系に入っているのかいないのか不明生物である。
    このように、バックパッカーの生活内容は「ひきこもり」と同然である。「あの人、部屋にひきこもってる」と言えば、大丈夫ですか?と心配されたりするが、 「あの人、世界を旅してるらしい」と言えば、いいねえとうらやましがってくれる人だっている。しかし、両者やってることは大差ない。

    今、ニッポンのひきこもり人口は80万人とも120万人とも言われている。それぞれの人が、それぞれの理由でもってひきこもり、あるいはぼくのようにたいした理由もなく部屋と一体化する人もいるのだろう。
    誰からも同情されるような辛いきっかけもあれば、そんなつまらないことで・・・と舌打ちされるも人もいるのだろう。
    よく社会問題にまつりあげられるひきこもりはニートとともに「GDPを○パーセント引き下げる」などと、勝手に経済予測に組み込まれたりもしている。ひきこもりたちが、GDPに悪影響を与える以外に、どれほど社会に対して負荷を与えているのかは定かでない。
    タダメシ・カラ出張・過剰な退職金などと税をムシバむ役人や議員のオッサンどもや、性的倒錯を隠して教師になるキモ男や、おせっかいこの上ない環境保護運動家とくらべて、どっちが社会的害悪なのか。

    今ぼくの周りにも、部屋から出てこれない人たちが何人かいる。彼らの気持ちはさておき、家族は疲弊する。10代のうちはまだいい。20代、30代、40代と年齢を重ねてくると、親は疲れ、そして老いていく。子供がいる二階の部屋まで食事を運ぶことも重労働になってくる。近所・世間の目も、たいへんな重圧となって家族を刺す。親は、自分亡きあとの子の行く末を案じて、朝に夕に暗澹たる気持ちになる。このような状況は、決して幸せなものではない。

    ひきこもっている人たちが、このタウトクのような「いざ外に出よう」的な情報誌を読む可能性は少ない。しかし、何かの手違いでこの雑誌が手元に届き、このページを読み、奇跡的にこの行まで読み進んでいるとしたら、あと少しだから、最後まで読んでください。
    キミが脱出する場所は、そこの部屋の中じゃない。気楽な場所は、じつはアチコチにたくさんある。意外と楽しく、誰からも干渉されない場所がある。
    蒸し暑い工場の中、鉄くずだらけの作業場の隅、まっすぐな夜の道を走る運転席の中、 単純作業がつづく深夜の構内、コンクリートを型枠に流し込む工事現場・・・。そういった場所では、律儀な人たちがキミにやるべきことを与えてくれる。今日やるべきことをやることだけを考え、なるべくきっちりやる。明日のことは明日考える。あまりしゃべる必要はない。ただもくもくと生きてみる。周囲の人たちは、わりと優しい。

    それから、こういうことする人は少ないかもしれないけど、おすすめします。
    すこしお金がたまったら・・・15万円くらいで十分なんだけど、お金持ちのあまり住んでない国・・・平均的に豊かじゃない国に出かけてみよう。アジアなら、バングラディシュ、ラオス、カンボジア、インド。田舎に行けば、10万円あれば1年くらい余裕で定住できる。
    そして、そこで何カ月か、何年かくらしているうちに、今までとても重要だと考えていたことが、ささいな、つまらない、どうでもいいことだったと気づく日がくる。
    ぼくは旅先で、たくさんの「ニッポンでは生きられない、って主張する人」たちにであった。そんな相当問題アリな人物でも、何年か旅しているうちになんとなく自然と帰れるようになるのだ。不思議なものでね、気持ちが平坦になるんだね。

    ぼくは今、けっこう普通の社会生活をおくっているけど、やっぱしアフリカにでかけていったときと同じで、「これしかやることがない」という 1つの選択肢(選択肢とは言わんか・・・)のなかで生きている。それが「雑誌づくり」ということでコノ文章を書いているわけだが、やることが1つしかないと、とても気楽になる。なんも迷いがないからだ。「あーでもない、こーでもない」と考えることがまったくない。要するにアホの悟りである。

    自分が死ぬまでに選ぶたったひとつの選択肢は、そうそう見つかるもんではない。多くのニッポンの若者は、自分にいろんなことが出来そうであるがゆえに、迷ったり悩んだりしている。実際はいろんなことなどできないのにね。可能性は無限なんかじゃない。超有限だ。
    50歳になっても、70歳になっても、「自分の人生これでいいのかなあ」と迷っているおじさんたちもいる。どっちかいうと、その方が多い。迷ってるほうが一般的だ。
    だから、キミも何年かけてもいいのだ。なにかがひらめくまで部屋ん中で考えるのもいいけど、部屋の外にもイージーな場所はたくさんある。だから、出ようかどうか考え中の人は、外に出たほうがよいとおすすめする。
    気楽な場所で、気楽に考えたら、そのうち答えも見つかるだろ。
  • 2007年03月04日ビーチ漂流記壱 フィリピンのボラカイ島(にまだ着きません)
    shima11年にいっかいぐらい、たまらなくビーチが恋しくなる。
    キラキラ輝く太陽と地上の間には何もなくて、コバルトブルーの海、透過素材のビーチパラソルと椰子の木がつくる影のなかでぐてっと寝そべりながら、極上のミステリーを読み明かす。のどの渇きを覚えた頃に、キンと冷えたビールと甘ったるい南洋の果実が届けられる。
    時計は持たない。時間を知る手かがりは水平線に沈むオレンジ色の夕陽だけ・・・みたいな。そんなイメージが頭に浮かぶと、いくらぬぐってもぬぐい去れない。
    仕事は手につかなくなり、帰宅途中にキョーエイのビール売り場で「コロナビール」をカゴに入れてしまう。こんなメヒコ産瓶ビールの栓をシュワッとあけて飲み干しても、ボクの中の渇きを癒せるものではないが、そんな無駄な抵抗を試みる自分がかわいいと納得させる。
    ビーチにハマッている人間は、ボクの周囲には少なくない。彼女たちはバリに夢中になったり、タイに繰り返し出かけたりする。バリ好きはバリ島にしか興味がない。日本の女性があのような王侯貴族な気分を味わえるのはバリ島をおいて他にないからだ。エステ、スパ、マッサージ、アロマ、雑貨、ダンス、アート、クラブ、マッシュルーム・・・。癒しをビジネスにする手法に満ち溢れた島で、浅黒いバリボーイたちの痺れるような甘い囁きを耳元にうける。あの「もてはやされ感」に陶酔を覚えない人はおかしい、というのはバリマニアの弁である。
    一方のタイに出かける友人は、島を転々としている。サムイ、パンガン、タオ、チャン、クラビ・・・。どの島もいくつかの階層にあわせたサービスがある。金持ちは金持ちなりに、プアーはプアーなりに。彼女たちは地上のどこかに理想の理想郷があると信じる求道者のようでもある。どの島も好き、でもきっともっといい島が私を待ってるに違いないってね。
    じゃあボクはというと、たいした思想もない単なるビーチ好きなのです。

    ボクがビーチリゾートに求める条件は3つしかない。
    1. ビーチに街が隣接していること。
    2. 水が透明であること。
    3. ホテルがオン・ザ・ビーチであること。
    単純なんだけど、この3つの条件を備えているビーチって、ホント少ないんです。
    だいたい主張に矛盾があるというのは自覚している。ビーチに街が隣接し、水が透明なわけないって、世界中のビーチフリークに怒られそうだ。
    あと、ボク的には、ホテルとビーチを隔てた車道が一本あるだけで興ざめなのです。海に出かけるのが気の遠くなるような面倒くささを伴う。ところがホテルがオン・ザ・ビーチに並んでるのってね、あるようでないのです。ものすごい辺境島のボロ・バンガローか、ものすごい開発された島の大資本系ホテルのどっちか。
    ボクは貧乏旅行とラグジュアリーの中間、つまりほどよい心地よさしか求めないから、両方バツ。ああ、中産階級というのはほんと満たされない存在である。でもね、パーフェクトはなくても、「まあまあだな〜」くらいはあっていいと思う。しかし、まあまあの場所すらめったにないのですよ。
    「地球の歩き方リゾート編」とか「るるぶワールドガイド」とかを読みあさって、巻頭カラーページのエメラルドグリーンの海にしばし見とれ、今度こそ理想のビーチにめぐり合えるんだと期待をして訪れても、やっぱり何かが違う。
    それはつまらない理由なんです。
    砂浜に海草がたまりすぎてた、ビーチに大音量のスピーカーが置かれてた、料理のダシが合わなかった、レンタバイクがなかった、モンスーンの時期がずれた・・・その程度のことなんだけど、何かが自分とスイングしていない。いまだに理想のビーチにめぐりあえない自分に、ちょっとイラッとしたりする。

    さて、であります。
    そのような理想のビーチを探し求めるボクの前に、ひとすじの光明が見えたのであります。その島はフィリピンの中央部にあって、「世界のベストビーチ第一位に選ばれた」との白砂ビーチがあるのだそうです。いったいどこの誰がどのような基準で選んだのかは知らないけれど、 (ガイドブックにも、全然情報の出元は書いてない)そのようなウワサだけは確かにある。
    島には飛行場がなく、最寄りの島へ行くのも首都マニラの国際空港で国内線に乗り換えないといけない。うん、この不便さが真のリゾート島には必要なのです。飛行機が直接降り立つ島は、どんどん荒れていくものです。人が増え、自然が処理できる限界以上の排泄物や汚水を人間が生み出せば、おのずと海水は透明さを失っていくのです。
    おまけにお国はフィリピンときた。いまだに北部ルソン島の山中には新人民解放軍がいて、南部ミンダナオ島にはモロ民族解放戦線が陣取り、西のスルー海には海賊がうじゃうじゃいるこの国である。しょっちゅうスーパーマーケットが爆破されているのである。セブ島以外の政情不安定な島なら、旅人に荒らされてない楽園があってしかるべきである。

    フィリピン行きの飛行機は、関空のモノレールの中からして雰囲気が違っていた。
    たまたまフィリピン航空のスッチーやパーサーと同じモノレールに乗ったのだが、いきなり車内でいちゃいちゃしはじめたのである。なんか2人して、髪の毛をこねくり回しあってる! フツーのカップルがやってたら何でもない光景なんだろうけど、タイトスカートの制服姿のスッチーが男性に髪の毛をいじられ腰をくねらせていると、妙にいやらしい!
    てゆーか、どんな教育しとんだこの航空会社は、と人生航路的な怒りに満ちる。搭乗待合ロビーとて普通ではない、1人も普通の人がいない。ダンサー風のラメの入ったパンツスーツのおねえさん、裏社会を知り尽くした感じのレイバン黒サングラスのおにいさん、ホステス風日本語で叫ぶケバいおばさん、200パーセント裏稼業の人間だと目つきで主張するおじさん。あと、昭和の博物館から抜け出してきたようなレトロな日本人のおじいさんが、けっこう多い。
    笠智衆のごとき白シャツにレトロなネクタイをまとっている。うーんタイムスリップ感覚。
    ぼくは今からどこへ行こうとしているのか、不安定な気分。軽いめまいすら覚えるのである。

    マニラ国際空港は、次々と降り立つ国際便と入国管理官の数がアンバランスであり、膨大な人数が入国カウンターで列をなしていた。この混雑ぶり、旅だねって感じがしてうれしい。昔のアジアの国際空港って、みんなこんな雰囲気だったと思う。入国するまでに1時間待ちなんて当たり前。旅人はそうやって鍛えられたものです。今じゃどこの空港も近代化され、ホンポンと入国スタンプを押してもらえるようになった。その点、このフィリピンという国、なかなか悪くないのである。役人が役人らしくふてぶてしい顔をしている。日本みたいに、「公務員はよりよい公共サービスを目指します」なんて押し付けがましいことは言わない。「クソ暑いなか、我慢してスタンプ押してやってるんだぜ」というイラついた顔をしている。これまた旅らしくて趣ぶかい。
    国内線の乗換え口まで歩く。外は灼熱である。気温は軽く35度はあるだろう。日本からわずか3時間少々のフライトで、春先から真夏への移動である。しかも、ミクロネシアあたりの軽々しい夏とは明らかに違う、スモッグに満ちた不穏な空気につつまれている。「TUBE」が歌う夏と、鈴木光司が描写する夏ほどの落差のある暑さ。

    国内線はビーチ行きの飛行機ではないので、地元の商用客の人が大半を占めている。何組かは外国人がいるが、ことごとく白人男に地元女の組み合わせ。日本男と地元女のカップルも2組いる。日本の男性は、1人はハゲ、1人はデブである。 ところが、連れ合いの女性はフィリピンのアイドルかと思わせるほどの美貌とスタイル。 これが資本主義が世界の果てに描いた男女の姿なのかと、しばし自問自答する。
    1時間のフライトののち、ローカルを絵に描いたようなカリボ空港に到着。空港の周りは何もない。ちゃちな果物屋とボロいカフェがあるだけだ。外に出たとたん島の名前を連呼するオヤジが数名。ほいほい着いていくと乗合タクシーのワゴン車がお待ちかね。うん、いいね。ビーチへの道は、このように旅人を自動的に運んでくれなくちゃいけない。
    見わたすかぎりの畑道をワゴン車は時速120キロぐらいでぶっとばす。後ろの席に、先ほどのデブの日本人とアイドル顔のフィリピン女性が乗り込む。デブの日本人は彼女を日本に連れて行きたがっている。彼女はその話を理解しているくせに、微妙にかわそうとしている。デブとアイドルの恋の駆け引きを1時間半ほど強制的に聞かされ、ようやく目的の島へと向かう船着場に到着。タクシーを降りたとたん、屈強な体躯のおにいさんがスッと現れボクの荷物を奪う。
    「カッモーン」とボクを手招きすると、そのままジャブジャブと海の中に入っていく。後を追いかける。港といってもハシケがあるわけじゃなく、海岸沖の砂地にボートが乗り上げているのだ。
    乗船客はみな靴を脱いで、ズボンのスソをまくりあげ、海の中に入っていく。それでも太ももくらいの深さの所に船は停泊してるから、スボンはびしょ濡れになる。 荷物持ちのおにいちゃんは、女性を1人ずつ肩に乗せ、船まで運ぶ。あんまし見たことない光景である。

    エンジンがバリバリっと大音量でかかる。
    舟の胴体の両側に長さ10メートルほどの竹をしたがえたバンカ船は、フィリピン独特の船文化である。竹が波を切りながら、やじろべえのようにバランスを取って進む。30分ほどの船旅の間に夕日はとっぷりと暮れ、海上は漆黒の闇におおわれる。洋上に光るものは何もなく、墨汁のような海に、これまた黒い帆船がたくさん浮かんでいる。
    ここはスルー海、世界遺産の海であり、海賊たちが跋扈する海である。何があっても不思議じゃない。遠くのカンテラの光が近づけば、縞シャツに胸毛をはだけた男たちが船になだれ込み、 荒縄でしばられて金銀財宝を奪われる事だってあるのだ。・・・と、ロマンティックな海洋冒険気分にひたっていたら、隣に座ったフィリピンの男の子がケータイで話をはじめた。エンジン音に負けないように大声で何かをがなりたてている。一方で隣のおばさんもケータイでメールを打ちはじめた。ケータイの電波は、世界遺産の海賊海まで追っかけてくるのである。きっと海の荒くれ者どももケータイで連絡とりあってるんだろうな。さみしいね。
    360度の闇の中に、さらに濃い闇が浮かぶ。そこだけ背景の星が消されているから島影だとわかる。やがて大きな岬を回りこむと、島のフチに沿って白やオレンヂの光が海の星のように瞬いている。人工の照明である。近づくにつれ、その数の多さに圧倒される。数百、数千の白熱電球や蛍光灯、たいまつの炎がゆれている。さまざまな音楽が海風に混じっている。ロック、レゲエ、ポップス、ヴォサノバ。トランスミュージックの繰り返される打ち込みのリズム。
    ときおり人間の叫び声が混じる。煙がもうもうと上がっている。肉や魚を焼くにおいが海上にまで充満している。周囲の暗闇との対比があまりに強烈なため、退廃感がいっそう強まる。ふと「地獄の黙示録」にこんなシーンはなかっただろうか、と思う。こんな孤島で、毎夜どのような宴が繰り広げられているというのか。ここは究極の楽園か、それともまたもや微妙に失敗気味のビーチなのか。
  • 2007年03月04日ビーチ漂流記弐 フィリピンのボラカイ島(天国的砂浜なり)
    shima2岸辺に船が近づくと、船首が海底の砂地につっこむ。この島にも港はない。海上で船は停泊し、旅人たちは船首のタラップから海面におそるおそる足を伸ばす。水深はひざ上くらい。だが波がくれば腰までつかる。スボンはたちまち水浸しになる。しかしそんなことを構っている余裕もない。大またで陸地をめざすしか選択肢はないのである。ビーチ沿いにたくさんのかがり火や電飾が並んでいて視界の隅まで続いている。ろくなアクセスがないこの島の異常なほどの栄えっぷり。ギャップがはなはだしい。
    宿の予約をしていなかったので、最悪ビーチでごろ寝と決めていたが、その心配もないようだ。各ホテルの前に「VACANT ROOM=空き室あり」の表示が出ている。おかげで、いちいちホテルのフロントまでの長いアプローチを歩き、空き室の有無を確認しなくていい。超便利!
    ホテルはバックパッカー向けの安宿から高級リゾートまでそろっている。安宿はツイン1000円くらいからあり、高級リゾートといってもツイン12000円前後でラグジュアリィな部屋に泊まれる。安宿といってもアジアにありがちなあばら家のような場所ではなく大変清潔である。また、安宿と高級リゾートが、ビーチベルトに入り混じって建っており、リゾート島にありがちなビーチ沿いを高級ホテルが独占するという光景はない。ここは、きわめて平等な島なのである。
    ぼくは1泊3600円の中級ホテル「アリスインワンダーランド」にチェックインする。中級といっても、中庭にバーカウンターがあり、脇には小ぶりなプールもついている。 部屋は独立型のバンガローで、ベランダにはハンモックが揺れている。朝ごはんもつく。 入口にはしっかり警備員がいてセキュリティーがよく、これで3600円なら悪くないって感じ。
    宿に荷物を置くと、夜の街をあてどなく歩いてみる。幅1メートルほどの小道が、縦横に走っている。もちろん自動車は通れない。村人たちも、すれ違うときは遠慮がちに脇に寄る。裏道には、いくつかの宿の看板が路上に張り出している。それがなぜか日本の古い温泉地を思い出させる。
    夜が深い。なつかしい闇である。もちろん日本にも夜は訪れるが、昔のようなホントの闇はなくなってしまった。24時間のコンビニが街を明るくし、街灯や信号は一晩じゅう道路を照らしている。便利さと安全性とひきかえに、ぼくたちは街から闇を失ってしまったのだ。夕暮れどきのさみしさや、闇の怖さ、ドキドキする気持ち。動物の本能からくる見えざるものへの畏敬の念を感じる場所がない。だが、この島には確かに心を動かす闇が存在している。民家の窓から暖かい光と、大人や子供たちの嬌声が漏れる。細い小道は、奥へ奥へとつづく。天上に鈍く光る星座の半球を、やしの木々がワサワサとさえぎる。
    そのうち、ふいに賑やかな通りに出くわす。商店街だ。暗闇が一転し、色の氾濫の世界がある。可視光線にある全部の色をぶちまけたかのような、まばゆい世界。熱帯の毒々しい色の魚、南洋のパステルな果実、原色が山盛りとなった香辛料。ピンク色の豚肉が宙にぶらさがっている。何百種類もの女性用ワンピース、電球を色紙で包んだ怪しいデザインランプ。たくさんの人がいる。タトゥー屋にたむろする男、携帯電話を組み立てる若者たち、牛刀で肉を裁つおばさん。アジアのビーチらしくない街の匂いである。どこかの街に似ている気がして記憶をたどる。
    たとえばカトマンズの町中に姿を現す寺社、その周りを取り囲む細い路地。あるいはインド・バラナシのガンガー沿いの迷路のような感じ。それらの街と似ているようではある。だがここには猥雑だけど性的要素はない。そして宗教的なシンボルもない。それゆえに奇妙な軽さがある。旅人が求める浮遊感はかろうじて手に入る。ズッポリのめりこむほどではない適度な無法地帯。1週間程度の有給休暇にはちょうどいい。これなら慣れるのに時間がかからない。ぼくは商店街に心地よい場所はないかと、店を一軒一軒ひやかしはじめる。

    カンカン照りの島は、紺碧に揺れるスルー海の真ん中にあった。世界じゅうのビーチフリークが一生に1度は訪れるというホワイトビーチは、どこがビーチの端っこなのかと思わせるほどにだだっ広く、目がくらむほどの光線をレフ板のようにはね返す。その白砂は、カンペキとはいえない程度のオフホワイトである。
    南北に約4キロメートルつづくビーチは、北側になるほど遠浅になり、砂浜の幅を広げる。干潮時には幅80メートル以上にもなる。あたり一面が白の世界となり、強烈な反射光がアゴの下やひざを焼く。反対に南側は波打ち際へのアプローチが近く、地元のカップルがデートしていたりする。
    より高級リゾート的なムードを求めるなら北側がよいし、気楽に子供たちとビーチサッカーにでも興じたいなら南側がいい。この南北に長い海岸線沿いに、ビーチ通りと呼ばれる白砂の道が伸びる。この道こそが島最大の特徴だと言える。
    ビーチ通り沿いには、延々とレストランやショッピング街がつづいている。ここでは、ビーチサンダルをはいてりゃ(あるいは裸足でも)、裸のままでも食事から航空券予約、 両替、ショッピング、マリンスポーツの手配、エステティックまで、なんでもできてしまうのである。
    タイやインドネシアの島々で、このような環境の島をぼくは知らない。ビーチと街の間には必ず車道があったり、リゾートホテルのプールが独占していたり、ビーチを守るための鉄柵があったりする。たとえば、太平洋で最もメジャーなビーチのひとつバリ島の「クタビーチ」ならば、ビーチ横は車道が通り、ホテルや街に出るためには、騒がしい道を越えなくちゃいけない。だから、生活が何かとわずらわしいものになる。ビーチにでかけるのが一大行事となってしまうのだ。用意するもの・・・ビーチマット、タオル、紫外線ブロック、サンダル、お金、文庫本。 これらを砂浜で盗まれないように用心しながら、波とたわむれる。イマイチである。
    ホワイトビーチならそんな心配はない。海パンいっちょうで裸足のままホテルの部屋からビーチにダッシュできるのである。ホワイトビーチを往復すれば8キロメートル。1時間のジョギングコースにぴったりであることも気に入る。砂浜はほどよく硬く締まっており、楽に走ることができる。ホビーキャット呼ばれる双胴の帆船が、浅瀬に何十艘と停泊している。その帆の鮮やかな色のリズムが、ランニングを飽きさせない。世界じゅうのビーチジョガーに教えたくなるほどの名コースであると断言できる。
  • 2007年03月04日ビーチ漂流記参 フィリピンのボラカイ島(今宵は大火事なり)
    shima3ビーチ通りに立ち並ぶレストランやカフェは100軒を超える。夜ともなると世界中の美食がここに終結って感じの光景が見られる。インド、イタリアン、メキシカン、ジャマイカン、ネパール、ポルトガル、タイめし、中華、和食など、まさに玉石混合、なんでもありのグルメテーマパーク的様相を示している。
    ハングル語が目立つ。コリアンメニューや韓国焼肉の専門店が50メートルに1軒は店を構えている。「モンゴリアンバーベキュー」も人気だ。30種類ほどの食材を、丼に山盛りにして一気に鉄板で焼く。これが正統なモンゴル料理だとはにわかには信じがたいが・・・。
    カフェやカウンターバーが多い。いくつかのカフェは、夜になるとバイキング料理店に変身する。シーフードが10品くらい、野菜サラダや、フルーツ、スープもあって、240円ほどで食べ放題だ。こりゃ安い。
    ビーチに面した店はみな、砂浜にテーブルと椅子を並べキャンドルを灯す。そして、周辺のヤシの木々をライトアップするのである。ヤシの木に囲まれたスペースに1客ずつダイニングテーブルを用意する店もあり、恋人たちは海と星空を2人占めできるという趣向。シーフードや肉を網焼きする白煙がもうもうと立ちのぼる。アコースティックやロックバンドの生演奏を聴かせる店も10軒ほどあり、お金がなくてもビーチに寝っ転がって音楽を聴ける。
    かくして、ビーチ通りは匂いと音楽と光にあふれる。
    物売りの子供たちが、光るアクセサリーを振り回し、通りを闊歩する。誰もかれもが同じ商品を売っている。観光客に声をかけるでもなく、売り子はただ商品を振りまわしているだけ。何やってんだろ。あるいは極彩色のネオンサインの横で、物乞いの女性や子供が、路上に並ぶ。服装はボロきれであり、髪の毛は何年も洗っていない。このような乞食を、この島は排除しないのである。
    おそらく大半のリゾート島なら、彼らのような存在を強引に無いものとするだろう。ぼくの目には「寛容な世界」と映るけど、ごく普通の観光客にとっては、えぐい光景かもしれない。彼らは砂浜にべったりと座り込んでいるだけで、あまり積極的にはモノを求めない。だから収入もほとんどなさそうである。いずれにしても、商売っ気のないのがこの島の住人の特長であり、そんなことで食いぶちにありつけるのだろうかと、逆に心配させられる。

    何日間かホワイトビーチをうろうろしているうちに、理想のバンガローを発見した。「モナリザ・イン」はツイン1泊5600円だが、窓を開けるとすぐそこが海辺である。宿の入口に「セックス目的の旅行者お断り!」との大きな貼り紙がある。何十年も使われている磨きの入った床材が美しい。
    気性の強そうな女性オーナーがホテルの隅々まで管理し、ゴミひとつない状態をキープしていることがわかる。海に面したデッキに重厚なハンモッグが吊るされていて、読書にうってつけだ。迷わずいちばん海に近い部屋にチェックインする。夕暮れどきに、水平線に沈む夕日が窓の障子をオレンジに染める。
    で、出発までの数日をこのお気に入りの宿ですごすうちに、とんでもないことが起こってしまった。いつものようにお昼からジョギングと水泳と筋トレをし、夕刻のまどろみをむさぼっていると、外から絶叫とも悲鳴ともつかない声が聞こえ、目を覚ます。
    ねぼけマナコでドアを開けると、外は戦場のようになっていた。宿の裏側にある市場からオレンジの火柱があがっている。乾いたヤシの木の皮が、巨大な火の粉となって強風にあおられこっちに向かって飛んでくる。その火の塊がバンガローの屋根に落ちると、たちまち屋根が猛火につつまれる。2分としないうちに、右も左も火の海と化した。
    パスポートが入っているザックをつかみ部屋を逃げだすと、あたりは黒煙でつつまれている。目に激痛が走りまぶたを開けることができない。炎が熱風をなり全身をたたく。熱い。
    プロパンガスのボンベに引火したのか、背後で爆発音が連続する。空から爆撃をうけているような感じ。幸いかな一番海に近い部屋だった。目は見えなくなったが、海の方向だけは把握している。
    ぶじホワイトビーチに逃げたら、千人ほどの絶望的な顔をした村人や旅人が立ち尽くしている。火の粉をかぶった人が海に飛び込み、家財道具や店の商品を棚ごと背負った人たちが、白砂の上に荷物を積み上げていく。
    部屋を脱出した5分後には、ぼくのいたバンガローの屋根が発火し、数分で建物全体が崩れ落ちた。村じゅうの人たちが、大声をあげながら海の水をバケツリレーで運び、鎮火させようとしているが、猛火を前にあまりに無力である。
    火はつぎつぎと燃え広がり、島の集落数百軒を焼く大火事となる。
    「タリパパ」と呼ばれる島最大の商店街や、島唯一の市場のすべてを焼き尽くして鎮火するまでに、それからまるまる1日を要した。荷物はみな焼けてしまった。あのとき、村人の叫び声で目が覚めなければ死んでいた。

    人間の生死などどこに境目があるかわからないなと思う。火事から2日たって、まる焼けになった「モナリザ・イン」の女性オーナーに宿代を払いにいった。オーナーは瓦礫の跡片付けをしていた。そしてぼくの姿を見ると懐かしそうに微笑んだ。
    「あんた生きていたんだね。心配したよ。こっちはごらんのとおり何もかもなくしてしまったよ!
    お金も何も残ってないよ! けどあんたが今くれたお金で今夜の食事は豪華にできそうよ、ワッハッハ!」と近所のおばちゃんたちと「ラッキー、ラッキー」と盛り上がっている。黒炭が林立する焼け焦げた愛するホテルを前に、ふつうなら絶望しそうなものだが、前向きに生きる人間の心根というものは凄いものだと胸を打たれる。

    はてさて、「たまの休暇を楽しむサラリーマンによるリゾート島紀行」だったはずのこのリポートは、
    かくして壮絶な幕切れとなったわけです。さて、この島の評価はどうしよう?
    ビーチの環境 ☆☆☆☆☆
    食べ物 ☆☆☆☆
    ホテル関係 ☆☆☆
    街の楽しさ ☆☆☆
    治安 ☆☆☆☆☆
    こんなとこなのかなあ。ぼくとしては、アジアビーチとしては最高評価に近いです。この島は6月から雨季に入るという。といっても、雨がザーザー降りになるわけでもなく、晴れの比率がいくぶん落ちるくらいと考えておいてよさそうだ。
    風はめちゃ強いらしいけど、ウインドサーファーにとっては悪くない環境だ。宿によっては料金が30パーセントほど安くなり、観光客も少なくなって実はねらい目なのだそうだ。・・・とお勧めしすぎるのもどうかと思います。雨季に行ったことないしね。みなさん試してみてください。

  • 2007年02月25日革命児の生き方
    「若さゆえの無謀」というコトバの陳腐さ。
    大人になれば落ち着かなきゃいけないなんて、
    みな信じこまされている。そんなのダマシだ。
    ハゲチャビンのおっちゃんになっても、
    語る夢がある大人はみな無謀なのだ。

    文=坂東良晃(タウトク編集人)


    その男に出会ったのは1987年、アフリカのナイロビという街だ。

    ナイロビのダウンタウンに「リバーハウス」という伝説の宿がある。
    3階建ての古いアパートメントの一角が、貧乏旅行者に開放されている。2階には広い中庭があり、さんさんと太陽光がふりそそいでいる。その周囲をとりまくように部屋が並んでいる。
    そこでは、ごく普通に地元のケニア人が日常生活を営んでいる。会社に出勤する人もいれば、日雇いの仕事を探している兄ちゃんもいる。とはいえ、真っ昼間からヤーマーという幻覚効果のある葉っぱをくちゃくちゃと噛み、恍惚の表情をたれ流しながら口を真っ赤にしてる住人も多く、平均すれば普通ではないのかもしれない。
    夜な夜な地元のディスコに男を釣りに出かける娼婦たちも、何部屋かを借りている。
    彼女たちの多くは、ナイロビ生まれではなく北部の寒村出身である。稼ぎがよいのかどうかは知らないが、美人は1人で部屋を借りているし、娼婦としてはどうなんだろ?というクラスの女性は3人くらいでルームシェアをしている。
    旅人と、下町のオッチャン・オバチャンと、出稼ぎ娼婦が共同生活する不思議な空間。天気のいい日には、クリーニング屋を営むオバチャンがシーツの洗濯をはじめる。中庭いっぱいに何重にも干されたカラフルなシーツが風にそよぐ。その傍らで、ぼくは惰眠をむさぼっている。

    ぼくにはやることがなくなっていた。
    ぼくはそのとき二十歳で、十代の頃からはじめたひとつの大きな旅を終えていた。アフリカ大陸をインド洋岸から大西洋岸まで歩いて旅をした。6千キロを歩くのに1年かかった。
    地図のない密林地帯や、涸れはてた砂と岩だけのサバンナ。厳しい旅であったが、身体の順応は早かった。餓えも、マラリアも、ボウウラの浮いた飲み水も、すぐに身体にしみついてしまった。自分の内面への旅のはずが、酔狂なピクニックになってしまった。大きな徒労感と怠惰が全身をおそっていた。
    これから先、いったい何をすればいい?

    そんなときである。男が宿にあらわれたのは。
    一目見たときから、男はタダモノではない気配を全身から発していた。眼光はヘビのように鋭いが、正面から見れば澄み切っている。四肢の筋肉はシャープな彫物をつくり、研ぎ澄まされたアスリートのようである。ヤクザではあるまいが、身体のあちこちに古傷、生傷がある。
    彼には貧乏旅行者がまとっている「ダルさ」がない。
    旅人たちは、何かを探しにアフリカの辺境にやってきていた。ある者は貧しいスラムの街に、ある者は未踏のジャングルへと、地図のない場所を求め自分さがしをする。壮大なるモラトリアムである。1年、2年とつづく旅。地平線を何本越えようとも、その彼方に求めるものはないことを旅人は知り、都会へと帰る。あるいは、見つからない回答を探しつづけ、漂流人となる。自分と現実の境界線を見失い、狂う。
    しかし、この男には「迷い」がまるでないのである。

    男は名前を聞かれると、「オレは革命児だ」と名乗る。
    他人にアドレス交換を求められると、住所の下に巨大な文字で「革命児」とだけサインをする。それでも郵便物は届くらしい。ヘンである。しかしこの果ての地で、自分を革命児だと名乗るような輩は、珍しいとは言えない。
    要するに、少しオカシイのだろうと想像する。そもそも、いつ後ろから刺されるかも知れないナイロビのダウンタウンに、まともな人間がやってくるはずがない。

    だが、革命児はきわめてマトモな人物であった。革命児は二十三歳という若さに似つかわしくないほど、人間愛にあふれている。困っている人がいると、相手が誰であろうとトコトン世話を焼く。
    ある日、革命児と話をしていると、外から叫び声がする。ケンカか、と思った瞬間、革命児は疾風のごとく外に飛びだしていく。ここは物騒な下町である。ケンカといっても殴り合いじゃすまない。平気でナイフくらいは登場する。集団リンチ、ゴミタメの中で流血、失禁する敗者、そんな風景が日常茶飯だ。ところが、革命児は見ず知らずの地元のあんちゃんのケンカを止めに入る。革命児は、他人の事情を優先する。自分の身を守らない。

    革命児が語る物語はファンタジーにあふれていた。彼が身体に負ったいくつもの傷は、ジンバブエの外人傭兵部隊に入隊したときについたものだ。
    「軍隊に入ったらさあ、最初の日に人の殺し方を教えられるんだ。細い針金を相手の後ろから首に回し、ぐいっと背中でかつくだけでいいなんてね」

    アラーの思想に共感する彼は、どうしてもメッカに巡礼したいと考えていた。彼の父親は日本人としては数人しかいないメッカ巡礼をはたした敬虔なイスラム教徒だという。
    メッカに入るためには、サウジアラビアに入国しなければならない。ところが日本人である革命児には、なかなか入国許可がおりない。彼は、ソマリアにあるサウジ大使館の前で数週間の座り込みをし、日照りと風雨のなかで、暗唱したコーランを滔々と吟じた。大使館員はついに折れ、革命児を認めた。アラビア半島を徒歩で横断し、彼は聖地メッカへの旅を実行した。

    銃撃を受けたこともある。
    社会主義革命を成功させたアフリカ北部の国家・リビア。革命児はカダフィ大佐が作った革命国家を自分の目で見ようとした。当時、旅行者がリビアに入ることは不可能であった。革命児は、砂漠には国境がないと考え、何もないないはずのそこから潜入を試みた。巨大なポリタンクに飲料水を蓄え、ひたすら歩く。しかし、砂漠を行けども行けども鉄条網が張り巡らせれており、国境警備兵がいる。やがて水は涸れ生命のピンチ。強行突破を決意した革命児の足元に、兵士はマシンガンを撃ちこんだ。
    子供の頃にワクワクして読んだ冒険小説のような話を、革命児はいきいきと語る。

    なぜ彼は、自分を「革命児」と称するのか。
    「オレはアフリカに革命を起こすんだ。南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)をぶっつぶすんだ。サベツのない世界に変えてみせる。そのためにオレは生まれてきたのだ」
    傭兵としてのトレーニングも、イスラムの奉仕の思想も、世界を知る無謀な旅も、すべてはその準備のため。
    ぼくは、この言葉を半分信じ、半分疑った。純粋な若者の、理想論だと思った。
    彼ほどの行動力があれば、いずれ必ず南アフリカに入るだろう。そこで抵抗運動をする人々と合流して、珍しい黄色人種の人権活動家として注目を浴びるだろう。でもそれは、若さゆえの熱さ、守るもののない若者だからできる無謀なチャレンジだと、ぼくは思った。
    そう。革命児だって、ぼくと同じようなものだ・・・。彼なりの自分さがしをしてるのだ。

    そんな彼への評価が大間違いであったことがわかった。革命児は本気だったのだ。彼の民衆革命への志は、いまだに途絶えていなかった。
    一冊の本が出版された。
    「我が志アフリカにあり」朝日新聞社刊。
    革命児・島岡強の半生をつづった痛快なノンフィクションである。著者である島岡由美子さんは、ぼくが出合った当時から革命児と旅をともにしていた。顔立ちは、周囲が振り返るほどのものすごい美人。しかも、活発な女性ツーリストとは対極の良家の子女タイプ。上品な物腰も、おっとりとした口調も、日曜に銀座のデパートにお出かけするような感じの洋服も、下町のボロ宿のなかで恐ろしく違和感のある女性であった。
    ケンカの仲裁に飛び出していく革命児を呆然と見送りながら、「いつものことだから、あの人はそういう人だから」と不安そうに微笑んでいた。
    その島岡由美子さんが書き綴った革命児の人生は、鮮烈このうえない。
    タンザニアのザンジバルという島に腰をすえた革命児は、草っぱらに柔道場を開き、たくさんの若者を指導した。そして、世界選手権に出場する選手を育てるまでに至った。一方で漁業や運送業を興し、地元の職のない若者たちの働き口を作り、支援をつづけている。自分以外の誰かのために生きる、その無垢な姿勢は微塵も揺るがない。18年の時が過ぎても、革命児は昔のままの革命児なのだ。
    「島岡強」でインターネット検索すれば、現在の彼の姿も見える。かつての研ぎ澄まされた虎のような顔は、柔和な大人の顔になっているが、荒々しいガキ大将ぶりは健在である。いくつになってもどこまでも戦い続けている革命児。負けちゃいられないと思う。
    そんな革命児のドキュメンタリーが、「スマステ」でも放映された。突然すぎて見逃した、チクショー。誰か録画してない?
  • 2007年02月21日雑誌をつくろう そのロク「どうやら横道にずれてます」
    ヒマラヤのヒライケン語録
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

    nepal2厳冬期、ヒマラヤにのこのこ出かけた。寒すぎ!
    雑誌など長年作っていると、野獣的なカンが鈍くなる。
    たとえば腐った肉を食べるとして、ほどよい甘みのある腐り加減なのか、それとも消化器官に深刻なダメージを与えるほどの腐り方なのか、今の自分はわからない。あるいは、水の匂いを嗅ぎ分けられなくなっている。砂漠やサバンナを歩いていると、極度に身体が乾燥する。わずかな水で生命をつなぐ生活を続けていると、枯れ谷の底に流水が存在しているのかどうか、「水の匂いや動き」を感じられるようになる。動植物や昆虫の知識がなくても、外見を見たり匂いを嗅ぐと、食べられる虫かどうか判断できるようになる。ぼくは10代の後半と20代の前半の多くを、飢えと乾きに悩まされる場所で過ごした。その頃の感覚を完全に失ってしまっている。
    それではいかんのである。
    物事は論理と理性で考えてはならないのである。野獣のカンで危機を察知し、獲物を猛追しなければならないのである。
    社会生活の中で集団行動に慣れすぎると、個としての決断力が鈍る。人と話し合ったり、取引したり、合意したりしてるうちに、判断の50%を他人にゆだねることになってる。
    それもいかんのである。
    密林の奥深くで道を失ったときに、頼る人はいないのである。100%自分の経験とカンによって脱出口を見つけなければならないのである。

    ・・・なんていう得体の知れない心理的葛藤の果てに、ぼくはヒマラヤに向かったのであった。
    ネパールにやってきたのは3回目だ。
    1回目は18歳のとき。ヒマラヤ山中を目的もなくウロウロ歩いていた。調子に乗って雪解け水をガバガバ飲み、高い山に一気に登りすぎて、高山病と赤痢に罹患した。見ず知らずの旅人にまる1日背負われて下山した。ただのハタ迷惑なバカであった。
    2回目は27歳のとき。自転車に乗ってネパールからアフリカまで行こうとした。首都カトマンズで台湾製の21段変速ギアつきの超高級マウンテンバイク(1万円)を購入して、さっそうと走り出した。5キロも走らないうちに変速機のパーツが壊れ、1段変速になった。そのうち右のペダルがポロッとれた。ハンマーでペダルを打ち込んでいると、その衝撃で左のペダルも取れた。そんなボロ自転車でインドまで行ったが、運悪くインドとパキスタンの紛争がはじまり、印パ国境が閉鎖された。前に進めなくなり敗退した。これまたただの時流知らずのバカであった。

    そして3度目は、39歳のオヤジ年齢となったボクである。
    自分の野獣性を目覚めさせる旅である。目的からしてバカだね。18歳の頃のように、昼夜問わず怒涛の峠越えをし、雪渓を雪豹のごとく渡り、クレバスを超然と飛び越え・・・というフリーダムな旅を予定していたが、ネパール観光省に入山申請しようとしたら、「1人では山に入れませんね」と冷たくあしらわれた。かつては旅行者が自由にトレッキング(山歩き)できたんだけど、今はルールが変わったんだと言う。トレッカー(登山客)は必ず地元の旅行会社を通じて政府に入山申請をし、ガイドを最低1名つけなくちゃならない、というわけだ。
    なるほど、そりゃいい国策である。登山客が1人で山に入っても、地元に落とす金なんて微々たるものだ。旅行会社を通せば、いろんなマージンがいろんな業者を潤して、いろんな人が儲かって嬉しいだろう。
    ってことで、ぼくは1人のネパール人青年をガイドとして雇ったのである。
    その彼はやたらと男前で、歌手の平井堅をさらに濃くしたような彫り深な顔立ち。ネパールの最高学府を卒業し、日本語・英語・ヒンドゥー語がペラペラの25歳。低酸素の高地にも強い体力を有し、知的で、控えめで、礼儀正しい。そしてすごく客観的に日本人を見ていて、その観察眼がおもしろい。ヒライケンの登場により、孤独のサバイバルクライミングだったはずの山岳紀行の様相は全然変わってしまい、彼との対話で全編彩られることになったのである。

    んなわけで、ボクの旅行記は以下の数行にまとめ、ヒマラヤのヒライケン君との会話について記したいと思う。
    では旅行記開始。毎日、1000メートル分登ったら1000メートル下るといった峠越えを繰り返した。1日8時間、延々と急階段を上り続けるような登攀路。毎日水を4リッター飲んだが、それでも身体はどんどん痩せてく。(汗って何リッター出るの?)
    4000メートル付近から高山病の症状が出はじめ、万力で締めつけられるような強烈な頭痛と、胃液オンリーのゲロに悩まされた。なぜか鼻血が止まらなくなり、鼻のまわりは凍った鼻血で真っ黒けになった。紫外線が強く、顔の皮膚がべろーんとはがれた。気温はマイナス20度まで下がり凍えたが、山の料理は美味しくカロリー補給ができたので、身体が冷め切ることはなかった。以上で旅行記終了。

    ■ヒマラヤのヒライケン語録1
    ネパールでは裕福な家に生まれない限り、能力があっても、成功する方法は大きく3つなんです。
    一つめは、中東の産油国に出稼ぎに行くこと。
    二つめは、日本の大学の奨学生になって学生ビザで入国し、アルバイトで働きまくること。自動車工場なんか人気ですよ。でも奨学生になるには100万円近い準備金が必要なんです。これはネパールでは途方もない金額で、あちこちから借金しない限り、用意できないですね。
    三つめは、イギリス軍かインド軍の傭兵(雇われ兵)になること。
    ネパールは伝統的にゴルカ兵という優秀な兵士を持っていて、19世紀にイギリスと戦って勝ったことがあるので、今でも英軍からの評価が高いんです。カシミールやアフガニスタンやイラクの最前線にいるのは、ネパール人のような貧しい国の志願兵や傭兵です。政治家にしたら、本国の兵隊じゃないから、もし死んでしまっても自分の国の世論には影響がないから、そうなるんですね。報道ニュースで「これがイギリス軍の前線部隊です」といって、ネパール人が映されることはないですけどね。インド軍よりイギリス軍の方が給料も待遇もいいので、人気ですね。
    この三つのうちどれかの方法で、数年かけてお金を貯めます。目標額は300万円とか500万円とかです。それを資金に、ネパールに戻って会社や商店を持ったり、旅行者相手のホテルを建てたりします。ネパールで何十年働いても、店を出すお金は貯まりません。

    ■ヒマラヤのヒライケン語録2
    日本人の女の子は、声をかけられると、誰にでもついて行くって思われてます。ネパールやインドを旅行してる日本の女の子は、日本であまりモテたことないんでしょう? 日本では「ブサイク」って言うんですよね。だからきっと、こっちのナンパ好きの軽い男に「かわいい」ってホメられたり食事に誘われたりすると、すぐついて行ってしまうんでしょうね。お酒を勧めてもすぐ飲んでしまう。食事代やデート代のお金も払ってくれる。外見はすごくマジメそうに見えるのに、すぐベッドに入ってしまう。ネパールの遊び人からするとすごく都合のいい存在になっている。
    あと、顔がアジア人なのに髪の毛を茶色や金色にして、あまり似合ってないからこっちの人は笑ってる。金髪でヒョウ柄の服を着ているのは「アユ」っていう人のマネをしているんでしょ? この間もタチの悪いナンパ男のバイクの後ろに乗って行ってしまった。髪の毛の色を変えてる女の人は、ナンパされるとすぐついていきますね。

    ■ヒマラヤのヒライケン語録3
    日本人の金銭感覚はヘンですね。
    日本の旅行者の口グセは「お金ない」と「(値段)高いね〜」です。たとえば、山の村でコカコーラの値段が100円と聞くと「高い!」と言います。牛やロバや人力で重い瓶ジュースを何日もかけて運び上げるのだから、運び賃がオンされて何十円かは高くなるんですけどね。それに料理が300円くらいだと、やっぱり「高いね〜」という声があがります。
    でも、私たちみんな知ってるんですよ。日本では学生アルバイトの時給が800円とか、社員の初任給が十数万円とか、1回の食事に1000円くらい払うとか。なんで、そんな物価の国からやってきた人が、ネパールの旅行者向けの値段を「高い」「ぼったくり」なんて言う?
    私の山岳ガイドの仕事は日当1000円です。これもネパールの給料水準と比べたらすごくいい。
    でも、ガイドができる季節は1年の半分くらいだし、その期間中も予定が入るのは半分くらいだから、実際にガイドの収入があるのは、年間で90日〜120日分くらい。だから年収にしたら10万円前後。私は6000メートルを超える高山は案内しないから生命のリスクは少ないけど、それでも毎年キャンプ場や山小屋が雪崩に押しつぶされて死んでいるガイドがいる。私たちは死んでも何の保障もないんです。お金をたっぷり持っていて、何でも「高い高い」と言うメンタリティについて、本当のところが知りたい。

    ■ヒマラヤのヒライケン語録4
    ネパールには、働く気がない日本の若い人がたくさん来ています。何十万円か持っていて、そのお金がなくならないように、できるだけ安い物を食べて、安いホテルに泊まって、何もせずにできるだけ長くいようとする。ネパールの人でも入りたくないような汚い不潔な食堂で、1食10円のごはんを食べてる。それでも「高い」と文句を言っている。お金を使いたくないから、できるだけ外に出かけないようにしたり、食べないようにしてる。なんかよくわからないですね。
    こういう日本の若者は、大学に入学したのに休学したり、卒業したのに仕事してない人ですよね。日本の大学に入るのは凄くお金がかかるんでしょう?どうして何百万円もかけて大学にいって、今からお金を稼げるってときに、働かないんだろう。もったいないですね。そんなにお金がもったいないなら、大学にお金を払ったりせずに、会社を作ったり店を出したりする資金にしたらいいのに。あっ、でも仕事自体をしたくないのでしたか。
    日本人でも中学校や高校を卒業して働いている人は、ネパールまで来て遊んでいる暇ないんでしょう? やっぱりそれなりに裕福な家の人が、旅行に来ているんですよね。
    しかし、なぜ裕福な生まれなのに「お金ないない」と貧乏そうなフリをしているのですか。わからない。
    ネパールの若者は、どうにかして働きたいから日本に潜り込んでいる。
    日本人の若者は、働きたくないからネパールに来てじっーとしている。
    世界はすごくヘンなことになってるし、何となく平等じゃないですね。


    ヒマラヤのヒライケンは、夜ごとに思索し語る。日本人を100人以上ヒマラヤに案内した彼も、いまだ日本人の不思議な行動様式には理解しがたいものがあるようである。
    ヒマラヤでは、旅行者とガイドは厳密に宿泊する場所を分け、主従関係をはっきりさせる習わしのようだが、ぼくはヒライケンの日本人観をうだうだ聞くのがおもしろくて、夜ごと彼の部屋をノックした。酸素が薄いためか炎がか細く揺れるローソク1本の灯火の中で、ぼくは彼の話を聞きながら眠りについた。
    3週間近い同行の旅を終え、ぼくたちは山を降りた。騒音に溢れる首都カトマンズの路上でぼくたちは別れることになった。ヒライケンはぼくに握手を求めながら「ガイドの寝室にやって来るお客さんは初めてなので、最初はホモなんじゃないかと心配しましたよ」と言葉を残し、右手を天につきあげながら、ゆっくりとカトマンズの雑踏の中へと消えていった。
  • 2007年01月05日徳島で雑誌をつくろう そのゴォ「なんのために人は集まるのかな」
    雑誌現場の反カリスマ経営
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

    19歳の社員が突如ボクの仕事部屋にやってきて、「彼氏がほしいんですけどぉ、どーにかなりません〜?」と言う。そういう考え方はおかしい。好きな人ができたときに交際したいと思うべきであって、どうにかして彼氏を見つけようなんて考えはいかん。まじめに恋しなくちゃ!と我ながらいい回答をする。
    ところがそいつはこう反論する。「私はチャラチャラした男のほうが好みなんですぅ〜。まじめな人とか面倒くさーい」。そして、高校時代に本物の恋愛をしたがそのような恋はもう二度とできないかも、といった思い出話を1時間ほど聞かされる。
    25歳の女性社員から、「彼氏ができないのは過酷な労働環境のせいではないか、これは労災だ!」と厳しく問い詰められる。これは真っ向からの経営批判である。仕方がないので、クリスマスに向けて合コンの設定をすることにした。20代のまっとうな男性で彼女のいないのを探すのは困難な仕事だが、どうにか段取りをつけた。
    ところがその後で、「男前じゃないと困ります」「銀行なら○○銀行にしてほしい」などと、ぜいたくなわがままを言い出す。それを甘んじて受け、再度調整に乗り出す。

    「会社を変えよう!ミーティング」ってのをはじめた。
    全社員参加で、「うちの会社のここがダメだ」という話し合いをする。
    とにかくたくさんの不満がでてくる。フツーもっと遠慮するだろーよぉと思うが、新入社員でも会社のことをボロクソに言う。「メールがたくさん来すぎて読めない」「仮眠ソファーが臭い」「トイレでうんこを流さない人がいる」
    まあ好きなだけ言うがいいさ、と思う。
    メール受信の設定を変え、仮眠ソファーのヨダレだらけのシーツをクリーニングに出し、
    トイレのうんこを皆が流すよう厳しく指導した。
    さらには仕事中ノドが乾くので飲み物がいる、と言う。
    ウォーターサーバーを設置しようかと提案すると、水よりジュースがいいとダダをこねる。
    仕方なく購入してみたら、これがまたよく飲む。1カ月で段ボール15箱分だ。
    量販店で2リッター98円の格安のものを選び買って帰ると、文句がでる。
    「緑茶より烏龍茶がよい」「コーヒーの味がまずい」「牛乳もほしい」「豆乳も用意しろ」である。言うことを聞いて、ハイハイとふたたび買い出しに出かける。

    ニートの男性が採用面接にきた。
    この「イカリング」を読んでくれている人だったが、主旨を読み違えている。
    「会社に入っても特にやりたいことはないけど、ニートでも働ける会社なんですよねぇ」と堂々と述べるので、
    「いやそうじゃない。元ニートだろうと元暴走族だろうと経歴は問わないが、、
    仕事を真剣にやろうって決意した人じゃないと採用はできないです」と説明すると、「ニートでも働けるみたいなこと書いていたじゃないか、ニートをバカにするな!」と強く怒られた。ニートにバカにされたのはこっちだ。

    ボクは、この業界では古株なはずだが、威厳というものがまったく備わらない。
    現場の仕事はほとんどやっていないから、自分の仕事ぶりをカッコよく他人に見せることもできない。だから「何をやってるかわからない変なオッサン」になっている。
    頼まれたらリカオーにジュースを買いに行ったり、うんこを流せとたまに怒る人・・・くらいの扱いだ。よくこんな貧弱な経営者で会社がもっているものである。逆に何にもよーしないから、部下が立派なのかも知れない。
    ぼくは雑誌が作れていたら幸せなので、それ以外のことをやりたいという欲望がない。こういう人物が上に存在してしまっては、若いスタッフの可能性を奪ってしまうことになる。野心に溢れてギラギラしたナイフのような人物に経営を交代してもらえないものかと、そればかり考えている。

    年齢を重ねるごとに「企業」という組織形態に違和感をもつようになってきた。
    人間がモノを作るために最も適した集団は、現在の先進諸国が採用している営利法人・株式会社という組織コンセプトがベストなんだろうか?
    とずっと思いつづけているのである。
    資本家がいて労働者がいる。
    使用者がいて労働者がある。
    決定権者がいて、労働現場がある。
    正社員がいて、派遣社員がいて、アルバイトがいて、待遇格差がある。
    利益を出し続けなければ成長はなく、成長なくして昇給はなく、利益を出すために市場に消費をうながす。
    メーカーはモノを生産するために何らかの地球資源を使用し、加工し、廃棄する。
    理路整然たるこれらの流れに、ボクが感じる「なんかちゃう」はどんどん大きくなる。

    人間は、なにかの目的を達成するために、集団を組織しつづけている。
    組織が存在するのは主に2つの理由だ。「思想の共有」と「利益の共有」だ。
    子供たちは、いじめの対象にならないための仲良しグループをあいまいに結成し、お役人やおじさんたちは、利権をわけあうための談合グループをつくる。
    残虐な奪いあいや陵辱が行われないよう、道徳と戒めという拘束を効かせたものが宗教。
    近隣地域からの侵略を防ぐため、民族の生活習慣を犯されないため、人が飢えない構造を作るために組織されるのが国家。
    イスラエルのキブツやコルカタのマザーテレサの家をはじめとする奉仕活動の場、あるいは特殊な目的の秘密結社や、辺境のコミューンは、精神的な充足を得るための組織である。
    役人が管理する自治体や国家が運営する「国営公社」的な組織は、古代中国の宮廷政治の時代から非効率性と腐敗を内在している。
    プロスポーツの球団は事業主の集まりだ。選手一人ひとりが一事業者として参加し、そして戦っている。ユニークな集まりだと思う。(事業者の集団なのにプロ野球に労働組合があるのはヘンだけど)。
    モノを生み出し、価値を生産するために、人間はいろいろなチームをつくってきたのだ。

    かく言う自分も、雑誌をつくるために人を雇用し、組織をつくっている。
    ぼくの目的は何だろうと、ときどき考える。
    うそはいくらでも言える。
    「地域社会に貢献し、お客様に利益をもたらすことで、結果として自社が成長し、従業員が豊かな人生を送ることができる」。
    これはホントなんだろか?誰が聞いてもウソくさいよね。自分の人生の中で、このような神々しい目的を持つほどの衝撃的な出来事にも、天の啓示にも遭遇していない。
    経営者が集まった会合ではすっぺらこっぺら言えても、同級生の前では話せない。「俗人のお前がギャグ言うな!」と相手にもされないだろう。
    ウソいつわりなく、誰に気兼ねすることなく、組織をつくる目的を述べたらどうなるのだろう。

    他人に押しつけられたくないことを、他人に押しつけたくはない。
    他人に管理されたくない。そして行動をマニュアル化されたくない。
    他人の自己保身の影響を受けたくない。他人にウソをつかれたくない。
    やりたい仕事に集中したい。他人に使ってもらえるものを作りたい。
    くだらない人間関係や足の引っ張りあいのために、それをあきらめたくない。
    ・・・深く考えずに述べれば、こんなトコだろうか。
    ならば、逆の組織をつくればいい。
    管理されず、マニュアル化されず、ウソをつかない組織。
    現場がやりたいことをやれ、生産したモノを使ってくれる人のためだけにアイデアを出しあい、権限者が保身のためにそれを止めない組織だ。
    このようなチームを、営利法人あるいは株式会社というカテゴリー内で、つくりあげられるのだろうか。うむむ、難しそうだ。
    しかし大土地所有制度や財閥制度、共産主義国家だって崩壊した。これら制度が存在した時代は、永遠に続くと思われていたはずだ。
    現在の資本主義的社会システムもいずれば人類成熟の一過程となり、100年後には今とまったく違う形態の生産組織が生み出されている。
    財産の相続がなくなって競争が平等化し、人間が本来的にやりたいことを追求し、生活が高次で保障されることで、純粋な知的欲求によってのみモノが生産される。うーん、筒井康隆、星新一のSF小説並みのあり得ない空想社会か。

    こんなことを鼻くそをほじくりながらボーッと考えていたら、再び19歳の彼氏募集中の社員がやってきた。
    「ま、また彼氏ほしいとかゆう相談か?」
    「違いますよ〜、ミスター男子グランプリの中にタイプの男の子がいるんです〜。
    カッコイイって思いません〜? わたしこの子がタイプですぅ〜」
    この話が1時間。