編集者のあやふや人生(コラム)

  • 2010年12月25日バカロードその20 北米大陸横断レースへの道 その1 バカの海馬が大騒ぎ
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

     ある思いつきに捕らわれると夜も眠れなくなるほど興奮し、自制が効かなくなる。日々まっとうな生活を送り、畳の上か病院の大部屋で穏やかに息絶える人生でいいではないかと思い、大方の場面ではそのように振る舞ってはいるものの、ときどき全部を御破算にしたくなる。見返りのない破滅志向はバカの極み。昔の人は「バカは死ななきゃ治らない」と言ったが、バカの気配は死をもって対抗しなくてはならないほど強大なのか。
     バカといえば、枝ぶりの良い高い木が目に止まると、登りたいという衝動を抑えられなくなり、こっそり木登りをしている。四十も過ぎて木登りしている男となれば相当な不審人物であり、いつ近隣住民に通報されパトカーに取り囲まれるか知れたものではない。テレビの番組改編期によくやっている衝撃映像集で、煙突や電柱にハダカで登って降りられなくなっているバカな男が写し出され雛壇タレントが突っ込みを入れているが、ぼくは自分自身を見るようで胸が痛む。「バカと煙は高い所に登りたがる」、ここにもバカの慣用句が登場だ。昔の人はみな落語家のような粋な例えをするものである。
     バカの語源は英語の「vagabond」であり、放浪者やら自由人を指す言葉だから実はバカって格好いいんだと自画自賛したり、いやいやサンスクリット語の「婆伽梵」こそが語源でお釈迦様を指す崇高なる存在なのだなどと自分を持ち上げたりする。それもまたバカの証明。
     高校生の頃、ザ・ビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」の映像を繰り返し観ていた。何もない岩の上で太陽を見つめるポール・マッカートニー。毎日丘のうえで笑っている男はバカと思われ誰からも相手にされてないけど、地平線に沈む太陽を見る彼は、世界がぐるぐる回転してることをわかってる・・・ってアンチ天動説な物語。
     これから社会に出て労働者として活躍しなくてはならない高校生の分際で、憧れの対象はサイケデリックでヒッピーカルチャーでデカダンス。こりゃムリだ、資本主義の世界で活躍するのは。・・・と秘かに悩むトロツキスト高校生。
     「大陸を横断する」という夢想に囚われだしたのは30年近い昔。全大陸を自分の脚で横断する・・・その最初のリングがアフリカ大陸横断。1997年に横断を果たし、帰国後日本で少し静養し、すぐ南米大陸の横断に挑むはずだった。しかし二十歳のぼくはアフリカの人びとの生き方に強い影響を受け、日本で実直に生きる道を選んだ。それから20年を経て、齢四十歳を迎えるとバカの虫がふたたび騒ぎだした。平均寿命までの折り返し点ともいえる年齢に達すると、「アレやらないままに死んでもいいのかい?」と焦燥感に苛まれるようになった。尾崎世代のぼくたちは自問自答が大好きなのだ。要するに滑稽。ジャックナイフ時代の千原兄弟「尾崎豊部」のネタに「俺は俺で、お前は俺かい?」というセリフがあるが、尾崎フリークは生涯そんな滑稽を生きている。自問自答するが到達点は見えない。
     中年になって蘇ったバカの衝動、自分でコントロールできるはずもない。
     アメリカ合衆国の西海岸から東海岸まで約5000キロを走る大陸横断レースというものが存在することは薄ボンヤリと知っていた。全大陸横断行の再スタートの場として北米大陸横断レースの出場を考えた。だが、毎年行われていると思いこんでいたこの大会は、7年前・・・2004年を最後に開かれなくなっていた。調べると、北米大陸横断レース自体がこの100年間で8回しか開かれていない希有な存在であるとわかった。
     ならば自分1人で実行するしかない。そう決意し、この数カ月はカメリカ合衆国の道路地図を買いあさり、食糧や水の補給が可能なルート、街を調べていた。
     ところが、だ。偶然なのか運命なのか。スパルタスロンの選手送迎バスでたまたま隣に座った方が「来年、北米横断レースがある」と言いだすから夢を見ている気がした。まさか、このタイミングでレースが復活だなんて! この情報を教えてくれたランナー・越田信さん自身、9年前の伝説的なレース「ラン・アクロス・アメリカ」で北米横断を果たした人物であった。
      
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     北米大陸横断レースは、古いものでは1928年に行われた「インターナショナル・トランス・コンチネンタルフットレース」が記録に残っている。この史上初の大陸横断レースこそ、参加ランナー数、イベント規模、破格の賞金額などすべての点において有史以来、最大規模のレースであった。
     この大会、現在想像しうる地味で質素なウルトラマラソンレースとはかけ離れ、今でも異彩を放っている。要因は、主催者であるチャールズ・C・パイルという人物にある。当時、映画館やスポーツ・エージェントの経営者でとして隆盛を極めていた彼。アメリカンフットボールのリーグ化や北米初のプロテニスツアーを企画するなど斬新なマネジメント手法をスポーツ界に持ち込んだ人物だ。
     そんなプロフェッショナルな興行師が仕掛けただけあって、ロサンゼルスからニューヨークまで5507キロを人間の脚で走るという壮大なレースは、後にも先にもない華やかなイベントとなった。
     毎日ランナーは決められた区間を走りタイムを競う。そのタイムの合算でランキングが決められる。優勝者には2万5000ドル、2位には1万ドル、3位には5000ドルの賞金が与えられる。このタイム積算型レースは、1903年からヨーロッパで始まった大規模な自転車レース「ツール・ド・フランス」のランニング版をイメージしたものだ。当時の2万5000ドルといえば莫大な金額である。1920年代の米国の消費者物価指数は現在の約1%である。推定するに現在であれば3億円ほどの賞金を優勝者に授与したのである。
     ランナーは毎晩、専用にしつらえられたテント村で宿泊をし、テント横ではツアーに同行させた芸人や女優によるステージ・ショーが繰り広げられた。行く先々で住民をショーに招いて興行収入を得る。また、イベントの協賛企業を募り広告収入で稼ぐ。今から80年以上前の企画とは思えないほどの斬新さと手配力が見られる。
     さて肝心の大陸横断レースには199人のランナーが参加し、スタートから3日目までに3分の1のランナーがリタイアしたものの、ゴールのニューヨークには55人が到達した。優勝者は弱冠20歳の若者、アンドリュー・ペインだった。
     イベントの壮大さとは裏腹に、主催者チャールズ・C・パイル氏に旨味のある収益はもたらされなかったようだ。翌年、ニューヨークからロサンゼルスまでの逆コース「リターン」大会を実施すると、彼は二度と大陸横断レースを行うことはなかった。
     パイル氏は、1937年に喜劇女優のエルビア・アルマンと結婚し、1939年にロサンゼルスにて心臓発作で亡くなるまで、ラジオ放送局関連会社の経営をしていた。その波瀾万丈の人生は、演劇「C.C. Pyle and the Bunion Derby」として、トニー賞受賞者のミシェル・クリストファーが脚本を書き、名優ポール・ニューマ
    ンがディレクションし、舞台で演じられた。

     公に参加者を募集してのレースは、大陸横断レース初開催から現在まで82年間でたったの8回しか行われていない。
     「トランス・コンチネンタル」から63年という長い空白期間の後、1992年、ジェシー・デル・ライリーとマイケル・ケニーという2人の若者が主催し、「トランス・アメリカ・フットレース」が開催される。ロサンゼルス・ニューヨーク間4700キロを64日間、1日平均73キロを走るレースだった。
     第1回大会(92年)には、30名が参加し13人が完走した。
     第2回大会(93年)は、13人が参加し6人が完走。日本人ランナー・高石ともやさんが初参戦しみごと完走、記録上残る初めての北米横断日本人ランナーとなる。高石さんは60年全共闘時代を象徴するフォークシンガー、日本のフォーク黎明期を創りあげた人物だ。同時に日本国内で初めて行われたトライアスロンの大会、皆生トライアスロン81の初代優勝者でもあり、100キロ以上走りつづける超長距離ランナーの先駆けとなった。同大会は当初から運営予算に苦しんでいたが、京都に本社がある洋傘・洋品メーカーである「ムーンバット」が大会スポンサーとなり、後方から資金面を支えた。
     第3回大会(94年)では、15人が参加し5人が完走。海宝道義さんと佐藤元彦さん、2人の日本人が完走した。海宝さんは現在も「海宝ロードランニング」を主催し、宮古島遠足やさくら道遠足などのウルトラレースを運営、多くのウルトラランナーを支援している。この大会は、NHKの手で「NHKスペシャル 4700km、夢をかけた人たち〜北米大陸横断マラソン」と題する密着ドキュメンタリー番組が制作された。映像として残る貴重な取材であり、大会の存在が広く一般に知られるきっかけとなった。
     「トランス・アメリカ」最後の大会となった第4回大会(95年)には、14人(日本人6人)がエントリーした。完走者は10名、うち4名が日本人と強さを見せた。古家後伸昭さん、遠藤栄子さん、小野木淳さんが完走。海宝道義さんは2年連続完走の偉業を成し遂げた。レース全行程にわたる記録を完走者・小野木淳さんが「鉄人ドクターのウルトラマラソン記」(新生出版刊)にまとめており、日本語で書かれた北米横断の最も詳しい文献となっている。
     21世紀に入ると2002年および2004年に、アラン・ファース氏による主催で、ロサンゼルス・ニューヨーク間4966.8キロを71日間で走破する「ラン・アクロス・アメリカ」が2度行われた。2002年大会は、11名の出走者のうち9名が日本人、完走した8名中7名が日本人という活躍をみせる。完走者は、阪本真理子さん、越田信さん、貝畑和子さん、下島伸介さん、武石雄二さん、金井靖男さん、西昇治さん。いずれも名だたるジャーニー・ランナーである。2004年の同大会には10名のランナーが出場し6人が完走。日本人は堀口一彦さん、瀬ノ尾敬済さんが完走している。
     90年代から00年代は、世界のウルトラマラソンやアドベンチャー・レースの世界に、日本人ランナーが猛烈に参戦しはじめた時代といえる。「4デザート・レース」「トランス・ヨーロッパ」「スパルタスロン」では、参加数だけでなく優勝者を輩出するなど超長距離への対応と強さも発揮している。00年代に行われた2度の北米横断レースは、その日本人パワーを象徴する大会となった。しかし、この大会を最後に以後7年間、北米横断レースを企画する者は現れなかった。

     そして今回のビッグニュースである。7年の時を経て、北米大陸横断レースが開催されるのだ。
     2011年6月19日にロサンゼルスを出発し、8月25日にニューヨークにゴールする「LA-NY footrace」。大陸東西約5000キロを68日かけて横断する。1日平均70キロ以上の行程である。
     企画したのはフランス人のウルトラランナー、セルジュ・ジラール氏。彼は伝説中の伝説ともいえる存在である。1997年に北米大陸4600キロを53日で走って横断すると、99年にオーストラリア大陸3750キロ、2001年南米大陸5200キロ、2003年アフリカ大陸8300キロ、そして2005年にはユーラシア大陸1万9000キロを走踏した。世界で初めて全5大陸をランニングで横断するという快挙を成し遂げたスーパースターである。
     さてさて、どうしよう。こんなチャンス、2度と巡ってはこないだろう。82年間で8度目ってことは10年に1度あるかないか。自分が70歳まで生きていたとしても、あと2度か3度出くわせればよい確率だ。そんなもん、ないに等しい。
     単独行なら時間の制約はない。だがレースゆえに毎日・・・つまり68回にわたる時間制限=関門がある。ぼく程度のランナーが完走できるレベルの大会ではないことはわかっている。しかし判断に理性のブレーキがかかるはずもない。なんたってぼくはバカなんである。「ゴチャゴチャ言わんとさっさとエントリーしろ!」と海馬がスネアドラムを叩き続ける。ぼくの大脳辺縁系は、佐山サトルと前田日明が暴れていた頃の新日本プロレス道場だ。狂気と正常の境目は限りなく曖昧で、殺伐と愛情と悪戯が混在する。
     さあ行こう、ピーター・フォンダとデニス・ホッパーが明日なき疾走をした道を駆け上がり、モヒカン頭のデ・ニーロが黄色いタクシー流してたあの街へ。

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    【北米大陸横断レースの歴史】
    1928年 International Transcontinental Foot Race I (出走199名/完走55名)
    1929年 International Transcontinental Foot Race II (出走不明/完走19名)
    1992年 Trans-America Footrace I (出走30名/完走13名)
    1993年 Trans-America Footrace II (出走13名/完走6名)
    1994年 Trans-America Footrace III (出走15名/完走5名)
    1995年 Trans-America Footrace IV (出走14名/完走10名)
    2002年 Run Across America I (出走11名/完走8名)
    2004年 Run Across America II (出走10名/完走6名)
    2011年 LA-NY footrace

    現在までにレースを完走したランナーの人数はのべ122名、日本人はわずか15名である。
    上記記録は参加3名以上の公募レースに限る。
  • 2010年11月30日バカロードその19 スパルタスロンへの道 5 スパルタスロン・メモ
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

     アテネからの帰りの飛行機内で書いたメモです。レースの半分も進まずリタイアした人物が書いた今回の気づきと次回への対策です。読まれる方の役に立つ可能性はあまりないので、ごめんなさい。個人的なメモです。



    【宿舎と食事など】

    □大会前々日から大会終了2日後まで、大会サイドの指定するホテルに宿泊する場合、全5泊(リタイア者は6泊)のホテル代金・3食の食事は無料(参加料に含まれる)である。
    参加者が支払う250ユーロ(約3万円)では賄えないほどのサービスは、ランナーに代わって地元の企業スポンサー、個人、自治体が肩代わりしているという。財政危機に瀕するギリシャにおいて、この待遇には本当にありがたいと感謝しなくてはならない。

    □空港から大会指定ホテルのあるエリアには市バス「X96」でグリファダ方面へ。バス代は3.2ユーロ。どこで下車したらいいかは、運転手にでも聞かないとわからない。

    □アテネ市内からなら「Syntagma」駅より市電トラム(1ユーロ)で直行。「Asklipiio Voulas」行きに乗り、受付のあるホテルロンドンなら「Paralia Vergoti」駅で下車徒歩5分、日本人ランナー指定宿舎の「シービューホテル」なら「Kolymvitirio」駅にて下車徒歩1分。

    □日本人の参加比率が高い(今回はエントリー365人中70人が日本人)ためか、日本人だけは全参加者とは別の指定ホテルが用意されている。

    □ホテルはツインもしくはトリプルの相部屋。

    □食事は朝、昼、晩と3食とも提供され、メイン2〜3品に、パン、サラダ、デザート、フルーツ、コーヒーなどをバイキング形式で採る。メインデッシュはギリシャの煮物料理、肉料理、パスタなどが中心。

    □「シービューホテル」には小ぶりだがプールがついている。また、徒歩5分の所に大きなスーパーマーケットがあり、食料や物資調達には苦労しない。

    □大会前日のガイダンス(説明会)は、「ホテルロンドン」にて母国語別のミーティング形式で行われ、日本語でも開催される。その年からのルールやコース等の変更点が説明されるので必ず参加しておくべき。

    □提出を義務づけられてる「健康診断書」は、どんなチェックがされるかと心配したが、ただ係員に手渡すだけで済んだ。

    □ゴールのスパルタ行き荷物は、スタート当日の朝あずけられる。荷物には若干の現金を入れておきたい。スパルタの街には魅力的な市場やカフェ、バーなどが多くあるため。

    □ゴールのスパルタにおけるステージ・花火セレモニー、翌昼のスパルタ市長との昼食会、そしてアテネに帰っての盛大な完走者表彰式と、大会前後はイベント満載である。素晴らしいギリシャ料理やワインが提供される。パーティはラフな格好で参加しても浮くことはないが、正装の方がなおよし。



    【エイドの活用】

    □75カ所あるエイドへの荷物あずけは、スタート前日の朝10時より開始。自分のゼッケンナンバーと預けたいエイドナンバーを書いた荷物を、75個の段ボール箱に放り込んでいくだけ。超簡単。

    □エイドに置く荷物は、わざわざビニル袋に入れる必要はない。例えばボトルや缶詰めにナンバーを大書きしておくだけでも十分OK。

    □エイドで使い終わったものは「無くなってしまう」ことを前提に考える。意図的に盗まれるのか、間違ってゴミ箱に入れられるか、あるいは間違って他の選手に返されるか原因は不明。ライト以外の貴重品はあずけない。

    □エイドにあずける荷物の仕分けは、日本で済ませておきたい。ギリシャ入りしてから気が楽だ。

    □エイドに置くものは最少限に。ヘッドライト、ハンドライト、ビニル雨具、防寒具上下、くつした予備、ワセリン、胃薬、痛み止め薬など。あえて食糧を入れるなら、梅がゆレトルト、ミックスフルーツ缶詰などがよい。硬い物は胃が受けつけなくなる。柔らかく、喉に流し込め、素早くエネルギーに変わるもの。

    □荷物受け取り予定のエイドでは、到着後ほんの数秒で荷物が手渡される。その点のロスタイムは少ないものの、給水のみの利用に比べれば30秒〜1分はよけいに時間を食う。

    □エイドで使い終わったものを返すとき、係員に「フィニッシュ?」と聞かれるが、「イエス」と答えると、ゴミ箱行きになることも。使用後、返却してもらたいければ「トゥ・スパルタ」と念を押したい。



    【レースに対する準備】

    □レース1週間前から牛乳を飲み、胃壁にバリアを作っておく(医学的な根拠はない)。

    □レース中の痙攣防止のため、1週間前から積極的に塩を摂取する(医学的な根拠はない)。

    □和風パスタの素(たらこなど)を持っていくとバイキングの食事に使える。

    □レース中は、直射日光除けのため、使い捨てのアームウォーマーがあった方がいい。途中で捨てるのを前提に、使い古しのくつしたの先をハサミで切ったものでよい。

    □エイドで水分をガブ飲みしないよう、ハンドボトルを手に持って走る方法をとるランナーもいる。

    □シューズは軽く、クッション性のあるものを選択。アスファルトの硬さ対策。今回使用したアシックス・ターサーでは薄すぎた。

    □薄いウエストバックに少なくとも以下を入れる。コース関門時間表、塩、胃薬、応急処置テープ、小銭(冷たいドリンクかアイスを買い体温を下げる)。コース関門時間表は汗やかぶり水で濡れるためビニルに封入しておく。

    □急な登り坂は走らず速歩でいき、心拍数をいったん落とす。



    【練習方法】

    □月に1度以上100キロか、もしくは登りの70〜80キロ走を行う。

    □スパルタスロンを走る格好(シューズ、ウエア、ハンドボトル、持ち物)で、200キロ試走を何本か実行する。

    □登り坂の徒歩スピードをあげる練習をする。1キロ9分で歩く。

    □体重を55キロ以下(身長167センチ)に、体脂肪率10%以下に調整する。

    □スパルタスロンを完走するために達成すべき自己記録は、フル3時間10分以内、100キロ9時間以内、24時間走200キロ以上。このタイムに至らないランナーでも完走を達成している人は少なからずいるが、観察するに常人を超えた精神力と並外れた耐久力を有し、さらに何ごとにも屈しない根性があるとしか思えない。やはり、凡人ランナーとしてはそれなりのスピードを土台にしておかないと、完走はおぼつかない。
  • 2010年11月30日バカロードその18 スパルタスロンへの道 4 巨象とアリ
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

    (前回まで=超長距離走の世界最高レースともいえるスパルタスロン。246キロを36時間以内、完走率30%前後の過酷なレースのスタートが切られた。大舞台の高揚感に飲み込まれ、序盤からぶっ飛ばしたツケは早々にやってきた。脚の故障、痙攣、嘔吐などに見舞われボロボロになっていく)


     スパルタスロンを幾度も完走しているベテランランナーたちは「復活」という言葉を好んでつかう。同宿のランナーとの会話に初めてこの言葉が登場したときは、正確な意味がつかめなかった。
     「復活」とは、100キロ以上走り、精も根も尽き果て、肉体も精神も限界寸前の状態から、再び蘇ることを指す。エイドや道ばたで一定の休息・睡眠をとって「復活」する場合や、歩きを交えながら活動量を抑え「復活」を遂げることもある。246キロ先のゴールに至るまでは、「復活」を4度、5度と繰り返しながら、満身創痍で前進しつづける。
     この言葉、前向きに捕らえれば、どんな苦境に追い込まれても我慢しているうちに必ず光明は見えるって金言。現実に即して考えるならば、「もうダメだ」という状況を何度も乗り越えられる人間的な強さがないと、ゴールには届かないって戒め。

     第一関門であるコリントス(81キロ地点)まで残り20キロ。一度完全に潰れた体力が戻ってきた。キロ8分台まで落ちていたのが6分まで上がっている。これは「復活」に該当するのか。否、なんだろうな。アップダウンの多いアテネからの道をハイペースで走ったことで潰れるべくして潰れ、活動量が低下したため血糖やら乳酸値やら心拍数やらが平静に戻った、それだけのことだ。「復活」という言葉が喚起するドラマチックな物語はない。もっと壮絶で、もっと身体に鞭打たれるべき道のりがコリントスの向こう側には用意されている。
     あるイメージが頭の中を占拠している。巨大な象だ。その象は背丈が高すぎて、ぼくからは太い幹のような脚しか見えない。その足元でうごめく貧相なアリ一匹。スパルタスロンは巨象、ぼくは貧相なアリ。巨象はぼくの存在に気づかない。ぼくは象の足によじ登ろうともがく。勝負にならない戦いだ。

     追い抜き、追い抜かれる際に、ランナーが声を掛けてくれる。
     地元のギリシャ人ランナーが、バテているぼくを見かねたか、ビスケットを取り出し「食べろ」とさしだす。「喉が渇いて食べられないよ」とカサカサの舌を見せると、「ダメだ!食べないと走れないよ」とムリヤリ口に入れられる。自分のために用意した補給食なのにすまないな。そして、かなりのおせっかいだなと呆れる。
     韓国人ランナーを追い越す際に、後ろから「日本人のハートを見せろ!」とエールを贈られる。振り返れば、何やらビビンバ風の丼メシを食べながら走っている。タフで器用な男だ。
     ベテランらしき日本人ランナーが、「練習のつもりで走ればいいから。練習で走ってるペースで行けば間に合うから」と指導してくれる。そうだ、能力以上の走りなんてできっこないんだ。超長距離走に奇跡は絶対に起こらない。日々、朝に夜に練習で走っている自分自身をここで再現する以外に道はないんだ。
     コリントス運河手前の長いだらだら坂にさしかかる。コリントス運河は、ギリシャ本土とペロポネソス半島を隔てる地峡に掘られた人工の運河だ。大げさに考えるならユーラシア大陸本土の文化と、エーゲ海に点在するコロニーのような島社会との境界線とも言える。
     多くのランナーは坂道を歩いている。万策尽きてランニングを中止したのではない。戦略上、登り坂は歩きと決めている選手は多いのだ。このような選手は、歩きといえどジョグペース並みに速く、キロ8分とか9分でぐいぐい前進する。だから、潰れた状態でよろよろ走っていると、歩きに抜かれたりもする。
     丘の頂上からは、人間の手で掘られたとは信じられない長さ6000メートルの運河の切り立った岩壁や、コリントス市街の展望が俯瞰できるが、感慨にひたっている余裕はない。関門閉鎖まで時間がないのだ。「第一関門までいかに力を温存できるかが、完走のポイントだ」と何人もの経験者が教えてくれた。だが、温存どころか出せるものを全部出し切らないと、81キロを越えることすら叶わない。
     コースが市街地の平坦な歩道に変わると、キロ5分台の速いペースに上げる。
     全力、全力、全力。
     ヘバッて動けなくなろうと失神しようと、とりあえずは関門を越えないと話にならない。そこから先に何がはじまるのかは、到達してみなくちゃわからない。
     ゴールゲートにも似た第一関門が見える。スタートから9時間25分。関門閉鎖まで残り5分。やっとこの地に届いたのだ。

     コリントスのエイドには、大きなテント村ができている。
     先着のランナーたちがマットに寝そべりマッサージ師に身体をほぐしてもらっている。彼らは前進をあきらめたのだろうか。立ち上がる気配はない。ここまで来たのに、もったいない・・・と他人事のように思う。
     では、ぼくは前進するのか?
     関門を超えたら胸に去来するものがあるかと想像していたが、ただ真っ白だ。足元定まらず千鳥足で歩いていると、ふいに名前を呼ばれる。顔見知りのランナーだ。スタート地点へと向かうバス車中で席が隣になった中谷さんだ。偶然だが彼も徳島出身なのである。ぼくよりだいぶレベルが上のランナーなのに、どうしてここにいるんだろう? 
     中谷さんは「脚が全部痙攣してしまって、ほとんど歩きでここまできたんです。もう先に進むのは厳しい・・・」と半ば諦めたような口ぶり。それを聞いた瞬間、ぼくの口から意外な言葉が出る。「いけます、いけますって。係の人に止められるまで行きましょう。ぼくはもっと先まで行きますよ!」。偉そうな御託を口走りながら、よくそんなこと言えるな、と自分に呆れる。ほんの数分前まで(もうダメ、はなからレベルが違う世界だ)(初挑戦だし、コリントスまで走って完全燃焼もありってことで)なんて逃げの口実を探していたヘタレ男がだ。中谷さんは「行けるとこまで、行ってみます」と椅子から立ち上がり、脚を引きずりながらコースに戻っていく。歩くのが精いっぱい、本当に具合が悪そうだ。
     中谷さんが去ったあとのベンチに横たわり、樹木と空を仰ぎ見る。夕焼け時には少し早い。薄いあかね色が青空を侵食しはじめている。
     ぼくは、立ち上がれないほど消耗しているのか?
     いや、していない。
     まだ走れる。走れるんだから、もっと先に行かないといけない。
     自分を止めるのは関門の制限時間というルールであって、自分が走るかどうかはルール外の意思の問題だ。
     自ら走るのを放棄するくらいなら、誰かに止められるまで走ろう。
     いや、でもそれって、判断を他人に任せてるってことだろう。自分で決意してやめる方が潔いんではないか。
     いったい潔いのはどっちなのだろうか。
     いや、潔いとか潔くないとか、そんなことどっちでもいいんじゃないか。

     えーい、ややこしい。ありのままの感情はどうなんだ?
     もっとこの先の風景が見たい! ならば走ろう!

     テント村で飲めるだけのドリンクを胃に流し込み、全身にかぶり水をして、ふたたび道路へと飛び出した。夕陽が射すぶどう畑のなかを、1人走り続けた。次のエイドを撤収時間ギリギリに超えた。「いけるぞ、もっと進め!」とエイドのスタッフが背中を押してくれた。
     その次のエイドでは撤収時間を30秒過ぎてしまっていた。係員らしき人に「前に進んでいいか?」と聞くと、黙って目を閉じ、ゴールの方角へと顔を向けた。「見てないから、行っていいよ」という許しだ。

     走りながら、悔しさのあまり泣けてきた。
     これは何に対する悔しさか? 本来のルール上の関門閉鎖まで残された時間と、消えかかったローソクのともしびみたいな体力をてんびんに掛ける。
     事実上、もう完走は無理なのだ。だから悔しいのだ。
     今頃になって自覚する。自分はほんとうに完走したかったのだ。
     完走できないから泣いているのだ。
     決められた時刻に、決められた場所まで達していなければならない。その決めごとに、ぼくの脚はついていけなくなった。
     夕闇が迫る第25エイド。大会係員のおじさんが道路の真ん中に仁王立ちしていた。両腕を拡げて、満面の笑みをたたえて。つまり、これ以上は何がどうあっても進めないよ、という確固たる意思表示である。終わったのか、と思う。たった90キロと少し走っただけで、たった11時間走っただけで、スパルタスロンが終わった。これが自分の力だ。2010年という時間に、ぼくが持ち合わせていたすべての力を使い果たしたのだ。

      □

     「ゴールを見た方がいいよ」と、同じエイドでリタイアしたランナーにアドバイスされた。「何時間見続けていても飽きないから。本当に感動するし、感動だけじゃなくて羨ましさとか、自分が完走できなかった悔しさがごっちゃに入り混じって、絶対この場所に自分も来なくちゃいけないって思うはずだから」。

     翌日、スパルタ市街のメインストリートで、ゴールへと続く500メートルの直線道に立って、帰還するランナーたちを迎えた。
     246キロの苦難を乗り越えたランナーたちは、やせ細って別人の顔をしていた。36時間の間に体重が10キロ以上減少したランナーもいた。ゴールをすると多くの選手はそのまま医療テントに運ばれ、栄養剤の点滴を受ける。さながら野戦病院の様相だ。

     ウイニングランを見守っていて既視感を憶える。これはいつかどこかで見た風景だ。どこだろう?

     選手1人1人を白バイや先導車が誘導する。
     観客の歓声と拍手がランナーをつつむ。
     自転車に乗った街の少年たち何人もが、ランナーを取り囲む。少年たちにとってすべてのランナーが英雄なのだ。
     ランナーは笑い、ランナーは叫ぶ。
     ランナーは全身で歓びを表現し、ランナーはただ泣きじゃくる。
     ふいに既視感の元となる映像が脳裏に蘇る。古いドキュメンタリーフィルムで見たベトナムの街だ。それはベトナム戦争終焉の象徴的な場面として、何度もニュースで流された映像だ。
     南ベトナム解放戦線の兵士たちが、トラックの荷台に何十人と乗って、銃を持った拳を空中に突き上げながらサイゴンに入城するシーン。長い抑圧に耐えたベトナム国民、サイゴン市民にとって、勝利が確約された瞬間、消耗の果ての歓喜の爆発、自由へのおたけび・・・。
     なぜ、競技スポーツのラストシーンと戦争の終焉を重ねてしまうのか。
     スパルタスロンもまた戦争なのだ。
     ランナーは誰かと戦ったわけではない。血を流したのでも、国や家族を守ったのでもない。極限の環境下で自分と戦い、信念を守りきったのだ。1人1人が自ら打ち立てた高くて遠い到達点に立ち向かい、最後まで希望を捨てず、自分の内にある弱さと戦いつづけ、勝利した。それがスパルタロンの完走者なのだ。
     もう理屈抜きでこの場所に還ってこなくちゃ、となっちゃうよねこりゃ。まったく困ったもんだ。
  • 2010年10月29日バカロードその17 スパルタスロンへの道 3 スタート!
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

    (前回まで=超長距離走の世界最高レースともいえるスパルタスロン。246キロを36時間以内、完走率30%前後の過酷なレース。実力をわきまえずエントリーしてしまったバカ男は、毎月500キロを走り込む荒業を課すが、肝心な大会を前に疲労困憊してしまう)
     午前7時。あたりはまだ薄暗い。
     スパルタスロンは、静かにはじまった。 
     号砲は鳴ったのだろうか? 少なくともぼくの耳には届いてはいない。
    国内の大会でありがちな派手なセレモニーも、有名人のあいさつもない。代わりに300余名のランナーたちが発する地の底から湧き上がるような嘶きが空気を揺らす。それは夢の地へと駆け出す嬌声であり、走力の違う仲間と交わす健闘を誓いあう最後の言葉であり、自分にムチ入れる気合いの唸りである。それらが混じり合い、静かだが熱いエネルギーを秘めた塊となる。大きな精神の塊が一群となって坂を下っていく。ぼくはその熱に包まれるように走りだす。
     ギリシャの首都アテネの中心部にそびえる小高い丘・アクロポリスは、平坦な市街地から要塞のごとく70メートルの高さでせり出している。スパルタスロンのスタート地点は、アクロポリスを象徴する世界遺産・パルテノン神殿のたもとだ。市街へと続く急な坂を駆けおりていると、徐々にアテネの街並みがパノラマ映像のように視界を占拠する。今、この目で捉えている広大な土地の地平線よりも遙か遠くまで、ぼくたちは自らの脚で移動するのだ。
     軽い、と感じた。身体が軽い、羽毛布団のようだ。脚は気持ちよく前に振り出され、胴体は直立し、石畳の硬い路面に対して正しく垂直に加重をかけられている。ジョグペースながら、ふつうに走れているという事実に胸が躍る。
     レースを前にして体調は最悪であった。能力をオーバーした距離練習で疲労が蓄積し、朝は布団から立ち上がれず、パンツをはこうとすれば立ちゴケする。職場では1ケタの暗算ができず、旧知の人の名前が出てこない。このままではフルマラソンの距離ですら走れそうにない。最後の賭けだと、日本を発ちアテネに入りレースまでの4日間、受付や荷物預けなどの必要以外は身体を動かすことを止めた。ひたすらベッドに横になり、眠れるだけ眠り、食事を採りつづけた。はたして作戦が功を奏したか。この身体の軽さ、疲労が完全に抜けた状態になっている!
     アクロポリスを取り巻く公園地帯を抜けると、2、3車線の広い車道が縦横に伸びる商業エリアに入る。交通の要衝であろうすべての交差点に警官が立ち、自動車の侵入を遮断する。われわれの走路を確保するために、首都アテネの交通を麻痺させているのだ。たった300余人を走らせるために、いったい何千人、何万人のギリシャ人の協力があるのか。
     四方八方から長押しされるクラクションは、「青信号なのに早く行かせろよ、バカ野郎!」の抗議の表現であり、またランナーへのエールとも受け止められる。ま、現実は抗議8に対し応援2くらいなんだろうけど。
     スタートから10分。すでにランナーの列は1本に長く伸び、集団後方からスタートしたぼくの位置からは、先頭はおろか最後尾も見えないほどだ。実力のある選手、あるいはスタートダッシュをかける選手はキロ4分程度で進んでいるだろう。一方、制限時間ギリギリで関門突破を計りたい前半温存型の選手はキロ7分前後。その思惑の差が、300余人の距離を遠ざける。
     道は思ったより走りづらくない。アスファルトは確かに日本のものより硬い気がする。また、表面が滑らかではなく凹凸があり、砂利が散在しているため、長時間走っているうちに細かな筋肉を使ってしまいそうだ。しかし、それはギリシャの道路事情がどうというよりも、比較対象する日本の道路が整いすぎているだけのこと。
     次第に建物がまばらになり、森林が見える郊外に出ると交通規制が解ける。一般道路ながら道幅は広い。時速100キロくらいの猛スピードで走り去る大型トラックの風圧を感じなから、路肩を走る。ストライドは快調に伸び、次々と前方の選手をとらえ、追い越していく。身体は相変わらず軽い。勾配のある登り坂が1キロも続くが苦にならず、平地のようにキックが効く。下りともなればなおさら身体にキレを感じ、スピードはぐんぐん上がる。
     前ゆくランナーを追い抜きざまに横顔をかいま見れば、とんでもないレベルの選手たちである。日本国内のウルトラやフルマラソンの大会で優勝経験のある方、24時間走や100キロの日本代表となり世界を舞台に活躍している方、そしてスパルタスロンを幾度も完走し、上位入賞経験のある方。どうなってんだ、こりゃ?
     やがて視界の奥にオレンジ色の回転灯を点滅させたパトカーらしきものが見えてくる。まさか、あれは先導車?ってことは先頭集団が見える位置まで来てしまった? ペースを考えずに気の向くままに飛ばしてたらエライことになったぞ。
     スパルタスロンでは1キロ、5キロなどキリのいい地点の距離表示はない。3キロ前後に1度はあるエイドステーションに通算距離を示した看板が出ているが、たとえば12.7キロなどと半端な距離であるため、頭のなかでペース計算できない。だから今現在のペースがつかめない。
     突っ込んでる意識はない。レースの雰囲気をたっぷり味わいながら、気持ちよく超有名ランナーの方々を抜き去るぼく。そして今、スパルタスロンという世界最高の舞台で、先頭の見える位置につけている。も・し・か・し・て・・・ぼく、絶好調なのかーっ! 全盛期の中畑清も真っ青の有頂天気分が大脳を駆けめぐる。
     嗚呼、今までどんな距離のレースに出ても、ロクな結果を残せなかった。そこいらへんの市民ランナーよりよっぽど月間走行距離は多いのに、10キロでも、フルでも、100キロでも、必ず最後には潰れておじいちゃん、おばあちゃんランナーに励まされ、よろめきゴールする。短いのも弱く、長いのも弱く。才能は光らず、努力は実らず、走った距離に裏切られ・・・。
     しかし本日の調子の良さったら何だ? もしかして、ぼくはスパルタスロンを走るために生まれてきたのではないか。適性距離はここにあったか。眠っていたウルトラランナーとしての資質が今覚醒しつつあるのではないか。凡人ランナーとしての凡庸キャリアは、スパルタで戦える肉体とスピリッツを養成するための神が与えし試練だったに違いない!
     ・・・かくしてぼくの未明の暴走劇は加速度を増すのである。要するに勘違い大バカ男。とめどなく溢れ出すアドレナリンに支配された、走る合法ドラッグ患者である。
     漫画家・福本伸行なら、この軽薄ランナーをどのように表現するだろう。

     有頂天・・・・・・
     恥を知らぬ有頂天・・・!


     20キロを1時間30分台半ばで通過。
     フルマラソンの自己ベストくらいの速いペース。つまりは無謀。
     愚か者に、魔の手は静かに忍び寄らない。
     自らをスパルタの申し子とした躁病男に対し、ツケは明白に、一気呵成に、津波のように押し寄せる。
     
     最初の異変は左足甲の骨。不安の種のような小さな鈍痛は、5キロも進まないうちに焼けつくように熱く、ズキズキと血管を脈打ち勢力を拡大。着地するたびに脳天まで稲光が貫く。疲労骨折の経験はないけれど、こういうことなのか? たまらず道端にエスケープし靴下をめくると、紅くブヨブヨと腫れあがった足の甲が現る。靴ヒモをゆるめると少し痛みが引くが、走りだすと靴の中いっぱいに腫れ上がった足が圧迫感で爆発しそう。たまらずまた立ち止まって靴ヒモをゆるめる。これを何度も繰り返し、最終的にはヒモをまったく締めていない状態になる。
     次の変調は右足首。薄いナイフでシュッと切り裂かれたような鋭い痛み。振り返って足首を見ると、シューズの上辺部分のソックスに穴が開き、足首に2センチの裂傷がある。出血がシューズを染めている。ずいぶん走り込んできたけど、こんな場所に靴ズレ起こすなんて一度も経験ない。
     30キロも走らぬうちに至る所に故障を抱え、走りがギクシャクしはじめる。痛みは庇ってはいけない。痛みに耐えて正しいフォームで走らなくてはならない。フォームが崩れると、いろんなパーツが壊れはじめる。そうはわかっていても、レース序盤の故障という事実に平常心を失う。両足をかばいながら走った結果、股関節が痙攣をはじめる。全体の6分の1も進んでないうちに痙攣かよー? これから200キロ以上、どうごまかしながら走るってーの。やがて痙攣は大腿部の裏やふくらはぎにも拡がる。
     塩分が足りないのか。エイドには大会サイドが用意した塩があると聞いたので、日本から持参したアジシオは封印した。が、実際にはエイドに塩は見当たらなかった。いや、あったのかもしれないが見つけられなかった。
     246キロの道程にエイドは全75カ所。平均3キロに1カ所という重厚なサポート体制が敷かれている。しかしレース序盤のエイドに置かれているのは水、コーラ、スポーツドリンクらしき飲料と、ビスケットやクラッカーなどの揚げ菓子。暑さと渇きから揚げ菓子を口にする気分には到底ならない。だが、こいつで塩分を補給しないと、他にミネラルを得る手段がないと気づいたのは後のこと。
     一方、コーラや他の炭酸飲料はスパルタスロン名物の「水割り」である。コーラ20mlに対し水100mlほどを足した超薄味のコーラが提供される。最初の数エイドではこの水割りコーラを飲んでいたが、飲んでも飲んでも喉が渇く。エイドのたびに3カップずつ喉に流し込んでいると、そのうち内臓が受けつけなくなってきた。
     胃のムカムカ感が抑えられなくなり、いっそ吐いてしまえば楽に走れるかと、道端に寄って無理やり吐いてみた。真っ黒な吐瀉物が大量に噴きだす。きっとぜんぶコーラだな、こりゃ。一度吐くとすっきり楽になる。だが、すぐに喉が渇きはじめる。次のエイドで水割りファンタオレンジらしきドリンクを飲む。するとまた吐き気がこみ上げ、飲んだばかりのファンタを全部戻す。今度のゲロはオレンジ色である。飲めば吐き、吐けば渇き、乾けば飲む。ムダで苦しい行為が続く。
     20キロあたりまで大量にかいていた汗が、1粒も流れなくなる。皮膚全体に白い塩が浮く。カラカラに乾いた肌に直射日光が当たると、皮膚の表面がチリチリ焼けるように痛む。汗は重要な体温調節機能である。その機能が完全停止している。苦しい、痛い、気持ち悪い・・・。
     体調悪化とともに思考もネガティブ・スパイラルに入っている。これじゃあダメだ。景色だ、景色を観て心を癒そう。
     永遠に続くかと思う長い坂道を登っては下る。ゆずの「夏色」のサビの部分が、エンドレスで頭の中に響く。やがて広大なエーゲ海が眼下に開ける。どこまでも透明で碧く、高級なゼリースイーツのよう。そういえば小学生の頃、版画家・池田満寿夫がメガホンをとった「エーゲ海に捧ぐ」というエロい映画を観たくて仕方なくて、映画館に忍び込もうとして失敗した。「11PM」で今野雄二あたりが映画の解説やってるの見て静かにコーフンしたっけ。幼少期の記憶ってすごいな。いまだにエーゲ海ってえとエロ映画(本当は芸術大作らしいですが)のエロ場面しか連想されない。その憧れの地を、30年という時空を経て今ゲロ吐きながら走ってるんだな。エロス&ランニング・・・だからどうしたってんだ。痛みをごまかすためにムダに思考を巡らせ、なおさら疲れる。ダメだ〜。
     40キロのタイムは3時間45分。322人中113位で通過(後に確認した公式記録)。だが、このタイムと順位ほどに余裕はない。レース前半の最大の山場である第一関門・港町コリントス(80キロ地点)をクリアする可能性が乏しく思えてくる。80キロを9時間30分以内で入れば関門突破できるコリントスまでは、スタートからキロ6分30秒ペースで進めば問題ないと安直に計算していた。だが、今は手の届かないユートピアのガンダーラ。一度も経験したことのない体調変化がぬらぬらと妖怪のように頭をもたげ、国内レースからイメージする通過タイムや距離と一致しない重いダメージが蓄積している。
     足の甲の腫れはいよいよひどく、痙攣はあちこちに飛び火する。対処方法が見つからない。5分だ、5分だけ休んで、復活に賭けよう。オリーブの巨樹のたもとに横になる。木の幹に両脚を90度にかけて血液を上半身に戻す。
     こんなんで腫れは引くのかよ、この苦しさに耐えながらあと20数時間も走れるものか、と逃げ腰の自分が叫ぶ。そもそもがレベルの違いすぎる舞台なんだよここは、とストライキのシュプレヒコールをあげる。
     何を言ってるんだ?とムカッ腹が立つ。この日のためにどれだけ練習してきたんだ。完走、するんだよな?と本来そうあるべき自分が軌道修正をはかる。
     まぁまぁ、せめて第一関門くらい超えようよ、それができたら自分に合格点をあげるってのはどう?と妥協点をさぐる打算的な仲介役も登場する。どうも〜、コント・ビリー・ミリガンでございます的な独り芝居を繰り広げ、無益に5分が過ぎる。
     立ち上がろう、走ってみよう。少し復活している。遅いけど走れる、スピードをあげても走れる。
     なんか、はじめてサロマを走ったときに似てるなぁと懐かしくなる。走っても走っても関門の閉鎖時間に間に合いそうになくて、それでも全力で走って、最後は80キロで崩れ落ちたっけ。しかしあの頃はフルマラソンすら走り通せる力もないのに100キロに挑戦して、ペースも考えずに突っ込みまくったな。ははは、2年経ってもやってることは同じ、あまり成長してないな。いや、あの頃の方が今よりよっぽどチャレンジしてたな。マタズレ金玉たくし上げて、夢中で走っていたじゃないか。
     工場地帯のなかを貫く一本道がどこまでも伸びている。ギラギラ輝くエーゲ海の太陽に射られながら、ぼくは遠くに見えるランナーの背中を追いかける。完走よりも、関門突破よりも、今この瞬間にできることをやろう。この土地で、全力を出すためにやってきたんだから。先のことを考える思考の余力を削ぎ落とし、前のランナーに食らいつくことだけを考えよう。今のぼくにできそうなことは、それくらいのことだ。       
    (つづく)
  • 2010年09月30日バカロードその16 スパルタスロンへの道 2 連戦連敗の夏
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

    (前回まで=超長距離走の世界最高レースともいえるスパルタスロン。246キロを36時間以内、完走率30%前後の過酷なレース。実力をわきまえずエントリーしてしまったバカ男は、特訓と称して裸足で走りはじめたり、モヤシばかり食べたりと、怪しい方向へと道を踏み外しつつあった)


     スパルタスロンにゴールテープはない。
     レオニダス王の巨大な像の足の甲に触れる。それがゴールの証しである。紀元前480年、たった300名の兵を率い、100万人の軍勢を擁するペルシア軍に戦いを挑んだ(まゆつばな話)英雄レオニダス。そのゴールに直立する像の足元には、「欲しくば獲りに来い」と書いてある。
     なんと短く、誇り高く、人の心を動かす言葉か。
     求めるものは向こうから転がり込んではこない。自分から進んでいかなくてはならない。逆に考えるなら、目標は逃げはしない。レオニダス王は2500年もの間、スパルタに立っている。その場所に、自分の脚で、行けばいいだけのことだ。

     スパルタスロンという大一番に向けて、この夏ぼくは伝説ともいえる快進撃をつづけた・・・というストーリーであるはずだった。
     しかし現実の人生は、司馬遼太郎が描く剣士ほどに波瀾万丈ではなく、スコット・フィッツジェラルドの造り出す主人公のようにお洒落にはいかない。
           □
     6月初夏、今年も北海道の東のさいはてを訪れた。
     「さいはて」と呼ぶと地元の人に失礼なのかなと思う。ヨーロッパ人に日本を極東(ファー・イースト)と呼ばれるのと同様だ。東の極みってどーゆーことよ。お前ら中心に物事を考えるなコノヤロー、となる。いや極東と当て字をしたのは他ならぬ日本人自身か。    
     「さいはて」は漢字で書けば最果て。最も離れた場所って意味。地元民はそんなこと他人に言われたくないだろう。と思いきや、道東(北海道東部)に行くと、あちらこちらの看板に「さいはて」という言葉が踊る。さいはて市場にさいはてラーメン、旅情が観光産業をうるおし金を生むんだから、自ら最果てを名乗るもアリか。
     地元民の思いはともかく、ランナーにとってはこんな果ての地まで向かうことに大きな意味がある。仕事を休み、飛行機を乗り継ぎ、空港からレンタカーやバスで何百キロと移動してでも出場する100キロレース。サロマ湖100キロウルトラマラソンは、他の和気あいあいとしたウルトラ系の大会とは違うガチ勝負の緊張感がある。
     サロマは、ぼくにとって特別なレースだ。はじめて100キロに挑戦したのがおととしのサロマ。80キロの関門を超えて気を失いリタイアした。はじめて100キロを完走できたのも、このサロマ。1年前だ。記録は11時間45分。
     それから1年間に100キロ以上の大会を7本走り、ずいぶん自信をつけた。練習で走る30キロや50キロのペース走の感じなら10時間を切るのはさほど難しいことではなく、今年はうまくいけば9時間も切れると踏んでいた。
     スタートからキロ5分で入る。後半多少ペースダウンしても8時間台を出せるペースだ・・・という目論見は、わずか30キロで瓦解した。前日、開催地である北見市は気温37度を記録。地元テレビのニュース番組は、6月の観測史上、過去最高だと繰り返した。レース当日も、午前中から気温はぐんぐん上昇30度に達し、10キロをすぎると噴き出す汗でシューズが水浸しになった。タッポンタッポンと重くなったシューズを恨みながら、ほどなく強烈な疲労感が襲ってきた。「なぜこんな早くへばるのだ?マジか自分?」と責めてもどうにもならないのがマラソンってヤツである。マラソンはメンタル・スポーツと言われるが、一度へばった身体を精神力で蘇らせられるほど甘い競技でもない。クリーンヒットされヒザから崩れ落ちたボクサーが、根性では立ち上げれないのと同様だ。
     30キロで目標タイムをあきらめ、50キロでサブテンをあきらめ、60キロで自己ベスト更新をあきらめた。エイドで立ち止まらないという自分ルールを捨て、絶対にレース中に歩かないという鉄則も投げ捨てた。その先は、あきらめるモノも捨てるモノも見当たらなくなった。
     72キロのエイドでトイレに入り、お小水の準備にとわがナニを取り出すと、その先っぽが今まで見たことのない色・・・真紫色に変色している。もしかしてインポテンツになるのではないかとの恐怖におののき、「不能か、完走かの二者択一ならどっちを選ぶか」などと下らないテーマについて1時間も考えながら走った。
     やがて何もかもあきらめきったあと、せめて完走だけはという最低レベルの蜘蛛の糸にだけはしがみつき、12時間05分ゴール。よれよれで初完走した去年よりさらに20分も遅い。「サロマは暑すぎた」。それが自分を納得させる唯一の失敗理由だった。要するに、自分のせいじゃないって!

     7月、高知・汗見川清流マラソン。去年まではのんびりした田舎の行事って雰囲気だったが、今年からランナーズチップが導入されたり、木造のゴールゲートやら特産品マーケットなどが用意されたりして、立派なマラソンイベントに変わった。過去の9.7キロという中途半端な距離設定も、きちんと計測されたハーフマラソンの距離になった。中間の折り返し地点までは延々と登り、復路は下るだけ。キツい終盤のほとんどを下っていけるのはラクなコースといえる。最低でも1時間35分で走りたい。夏場にそれくらいのタイムを出しておけば、冬には1時間20分台にもっていける。道路の電光掲示板は朝から気温32度を示している。今日もまた激暑の予感がする。
     蛇行する山道をイーブンペースでゆく。坂道といってもトレイルレースに比べたら平地みたいなもん。登りながらキロ4分30秒でラップを刻んでいる。こりゃ後半の下りで4分10秒くらいまで上げれるから、とんでもないタイムが出るね!なんてウキウキ気分の痛快通り。
     ところが折り返しをUターンすると、身体が自分のもんじゃないような重さ。下り道だよ、楽勝の予定だよ、今からスピードアップするはずだよね。思いとはウラハラに脚には鉛、腕には鉄アレイ、頭は孫悟空を戒める輪っかがハメられたよう。やがてキロ4分台を維持できなくなり、5分30秒に落ち込む。筋肉が収縮を忘れ、タプタプした水袋になったかのよう。重いだけで仕事をしない。残り3キロ、ついに走れなくなり立ち止まる。道路脇に山水が噴きだしているパイプがあり、頭からドゥドゥと水をかぶる。不自然なほど全身びしょ濡れになってゴールするとタイムは1時間49分。服もシューズも着けたまま、水道水をホースで全身に浴びせながら、ハーフマラソンですら「完走」できないのかとうなだれる。
     「汗見川は暑すぎた」。練習のタイムトライアルでは、1000メートルでも、5000メートルでも速くなっている。レースに限って失速するのは「暑すぎるから」。そうに違いないって!

     8月、北海道マラソン。夏場に行われる国内最大規模のフルマラソンの大会だ。おととしまでは制限4時間のシリアスレースだったが、去年から5時間に緩和され多くの市民ランナーが参加できる大会になった。とはいえ実業団選手にとって世界選手権の選考レースであり、札幌の中心街を駆け抜けるコース設定、テレビの生中継もあって、華やかで洗練された大会であることに変わりはない。
     最低でも3時間20分を切りたい。ゆっくり入って、25キロから徐々に上げていき、35キロから全力モードに入る、というレース計画でのぞむ。
     スタートの号砲が鳴る。極限まで脱力し、どこの筋肉にもいっさいの力を入れない、という意識を確認。「これはジョグだ、25キロまではジョグだ」とぶつぶつ唱える。
     息も切れず、沿道の応援に笑顔でこたえ、すがすがしく前に進む。キロ4分40秒前後でラップを刻む。これだけ力を入れずにこのタイムなら上出来。後半にたっぷり余力を残せている、と嬉しくなってくる。ただ両方のヒジから、したたるように汗が落ちていく。この分じゃ2〜3リッターはすぐに流れ出てしまいそうだ。
     20キロ手前で腕時計に表示されたラップタイムを見て、目を疑う。5分42秒で止まっている。距離表示の間違いかと思う。いやしかし日本陸連の主催大会で距離間違いなどあるはずがない。次の1キロは5分22秒、その次も5分41秒。勝負所の25キロのはるか手前で失速開始だ。「またかよ」と思う。サロマ、汗見川、そして北海道。いずれも終盤の勝負ポイントのはるか手前で自滅がはじまり、あとは対処しようがなくなるの繰り返し。
     1キロに6分かかりはじめる。何もかもから逃げだしたくなる倦怠感。水分補給しても胃から喉に逆流する。1キロが本当に遠い。走っても走っても次の1キロの看板が見えてこない。
     40キロ手前で脚がつるかつらぬかの微妙な状態がつづき、この感じから逃げたいと立ち止まって脚の屈伸をすると、そのまま完全に痙攣がはじまった。道路脇の街路樹のたもと、土のうえに座り込む。股関節と両脚と腹筋が痙攣して、どの関節も曲げられない。下半身をピンと伸ばした変な格好で、痙攣よ治まってくれと嘆く。
     ふと見れば、あちらこちらでランナーが倒れていて、大会スタッフが介抱している。担架が運ばれたり、サイレン音も高らかに救急車が近づいてきたり。大会スタッフがこっちに気づきにじり寄ってくる。ヤバイ、このままだと病院連行だ。ムリヤリ笑顔を見せ「ちょっと屈伸してまーす」と元気に挨拶、ヨッコラショッと立つフリをする。
     どんな落ち込んでもせめてサブフォーだけは、と攣ったままの脚で歩きはじめる。歩幅はわずか30センチのよちよち歩き。結局、40キロからの2.195キロに20分以上かかりゴールラインをまたげは記録は4時間05分。さて今回の失敗の言い訳は何にしようと考える。「札幌は暑すぎた」。そろそろこの理由は通用しなくなってきたんじゃないか?

     9月、猛暑はおさまる気配もない。東京で行われる神宮外苑24時間チャレンジは、24時間走世界大会の日本代表を決める重要レースだ。1周1.3キロの周回路を走り、24時間で走破した距離を競う。200キロを越えたら一流どころ。日本代表に選ばれるためには230キロ以上は稼ぎたい。
     しかしぼくときたら、この夏ハーフ、フル、ウルトラと、3本のレースすべてに失敗し、その悪夢を払拭しようと月間500キロを走り込み続け、肉体も精神も疲労困ぱい模様である。何かを達成したトップアスリートでもないのにバーンアウト状態。走る前からヘトヘトなのである。
     再び気温34度の熱帯日和のなか、直射日光を全身に浴びながら、黙々と周回路を走る。いや、やはり走れない。24時間走という競技は、この日に向け1年間きちんと準備をこなしても厳しいものなのだ。走る前からフラフラの人間に何ができようか。10時間もかけて80キロをようやっと過ぎたあたりで、それ以上走る気力が失せ、自ら走路を外れてアスファルトの地面にうつ伏せる。少し眠れば体力も回復するかと睡眠を試みたが、大会テント用の発電機のエンジン音が耳をついて眠れない。ムリにでも寝てしまおうと睡眠導入剤を飲むと、眠れない代わりに、江戸末期の庶民のような「ええじゃないか」的な投げやりで浮かれた気分に満ちてきた。もうこれ以上は走れはしない、ほれでええじゃないか。自分は弱い、そう認めざるを得ない、ほれでええじゃないか、ええじゃないか。
           □
     スパルタスロン出場に向けてこの半年、めいいっぱい走り込んだ。当然、走行距離に見合う実力がつくものだと信じてである。だが夏のレースは4本とも全滅。それもタイムが去年より遅くなったというレベルの失速ではなく、レースを途中棄権するに等しい失敗を重ねたまま、一筋の光も見えぬままギリシャに向かうことになった。
     ひとつだけはっきりしたことがある。現在の実力ではスパルタスロンの時間内完走・・・246キロを36時間以内完走は200%ムリだってこと。
     ならば、ならばである。
     どうせ負け戦なら潔い負け方をしよう。前半自重なんかせず、突っ込んでやろう。後半に力を溜めているうちに、関門の制限時間に引っかかって、不完全燃焼のままオメオメと帰国するくらいなら、無謀な賭けに出てやろう。スタートと同時にフルマラソンのレースのつもりで全力でいこう。あとは野となれ山となれだ。
     誰かに羽交い締めにされて止められない限り、ゴールのレオニダス王を目指して脚を前に繰り出そう。わずか300人で100万人の軍隊に突っ込んでいった(まゆつばですが)英雄の元に歩み寄るレースなのだ。
     「欲しくば獲りに来い」。
     獲りにいってやるさ。全力で。                   
                                             (次回いよいよ本番に突入)
  • 2010年09月03日バカロードその15 スパルタスロンへの道 1 ツァラトゥストラかく走りき
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

     今、ランナーたちの間でベアフット=裸足ってのがキーワードになっていて、ぼくもときどきシューズを脱いで走ってみたりしている。ウルトラマラソン用のブ厚いソールでも100キロ走れば膝バキバキ傷めるのに、裸足なんかで走って大丈夫なのか? そんな疑問をかかえたまま、恐る恐る硬いアスファルトの上に無防備な裸足で踏み出してみた。どれほどの衝撃がカカトや足首、膝を襲うんだ?という危惧は、20メートル先できれいに消えた。衝撃などなかったのだ。
     シューズなら地面から反発力をもらうべくバシバシ叩きつけるところだが、裸足で同じことしても跳ね返るわけもなく、適度にゆるく脚を繰り出してみる。わが足裏は、オッサンの足とは思えぬほどペタペタかわいらしい足音を立て、やわらかく着地する。少しスピードをあげてみる。うほ〜裸足だとカカトってぜんぜん接地しないのね。前足部で着地し、リリースまで一度もカカトをつけない(微妙に触れるけど)。試しにわざとカカトから着地してみるととても走りにくい。全体重を硬いアスファルトに乗せるには、あまりにカカトの骨は小さく、肉は薄い。
     少し頭がこんがらがってくる。3年前にメタボ腹をかかえてランニングをはじめた頃にむさぼり読んだ20冊を上回るランニング教書では、「カカトから着地して、つま先から抜くのが正しいフォームです」との説明がスタンダードであった。有森裕子さんはじめ実績あるランナーたちがそう述べているのはなぜか? 対して「足裏全体で同時に着地すべき」という論調もあるが、カカト着地派が6:4で優勢と思われる。ましてや「つま先から着地しなさい」なんて書いてる本は見たことがない。唯一例外が、最も尊敬すべきマラソンランナー中山竹通さんのインタビュー記事。現役時代には「カカト着地ではテンポが遅れるため、カカト着地の時間を省略し、つま先着地で素早く切り返していた」という主旨のことを述べている。
     ランニングシューズを製造するスポーツメーカーは、新発売シューズではこぞってソール部分のクッションを強化する傾向にある。エアーやゲルや特殊素材をはさみこみ衝撃吸収性をアピールする。オーバープロネーションを補正する角度をつける。そうやってヒザや足首にかかる加重を減らしてケガのリスクを下げ、タイムまでも向上させる、と高らかに謳う。やっぱしカカトから着地するのが正しいのか?
     つま先着地でペタペタと走りながら思索にふける。脚は気持ちよく回転運動をつづけている。ぼくは静かな感動につつまれていた。「人間の脚って、こんなに良くできているのか」と。シューズを履いているときはまるで気にしていなかったが、指先がグイッグイ地表を掴みとる作用を果たす。サバンナの草原を疾走する肉食獣の前脚のように。長らくシューズの中に押し込めてきて(ランニング教書では靴ヒモは強めに締め、指の先っぽから1センチくらいはシューズ内にスペースを空けるように指導されている)、まったく機能を果たしていなかった指先が、シューズから解き放たれたとたん、古代からの記憶を取り戻したがごとく野性の動きを再現する。
     いったい全体、「正しい走り方」って何なんだろう? このようなドシロウト・ランナーの迷いに明快なヒントを与えてくれるのが、アメリカ合衆国においてベアフット・ランニングを爆発的に広めたクリストファー・マクドゥーガル著「BORN TO RUN」だ。チマタで流布されているランニングの常識をゴミ箱にポイする勢いの内容ゆえ、刺激
    が強い。ぼくのように活字情報に毒されすぎて、ランニングフォームがぐちゃぐちゃになってるようなタイプの人なら、激しい迷いに突入する可能性もあるが、恐いもん見たさで読んでみて下さい。
     さて裸足ランニングはまだ日本では市民権を得られていないため、すれ違うウォーカーやジョガーたちの困惑した表情にさらされることになる。彼らは、目の前で起きている事態に、どう判断を下してよいかわからないのだ。笑うでもなく、目で追うでもなく。チラッと視線を送っては、見てはいけないものを見てしまったかのようにササッと目をそらす。一般に、ちょっとイカれた人を目撃したときの反応だ。恥ずかしい、だが対処法はない。黙って恥ずかしさに耐えるか、あるいは誰も歩いてない午前6時頃に走るか。そりゃ、しょうがないよね。ぼくだって裸足で道路を走ってる人見たら、浮気がばれて奥さんから逃げだしてきたんか?って疑うくらい想像力の及ぶ範囲は限られている。
        □
     9月、世界で最も歴史ある超長距離レース「スパルタスロン」が開催される。全世界からつどいし超長距離界のスーパースターたちが、ギリシャの歴史遺産や荒野を舞台に、昼夜にわたる戦いを展開するのだ。
     今年は9月24日から25日にかけて行われる。アテネ市街の著名な遺跡・アクロポリスの丘をスタート地点とし、ゴールは246キロ彼方のスパルタの町。日本では「スパルタ教育」の名で知られる戦士の都市だ。ランナーはフィニッシュの儀式として古代スパルタ王である英雄レオニダスの銅像の脚にタッチ、あるいはキスをする。その後、古代ギリシャの白装束をまとった見目うるわしき女性からエウロタス川のしずくが葉っぱに乗せて、あるいは古代の壺を模した器で与えられる。いずれも、2500年前にこの区間を一昼夜で走りきった戦士が行い、また施された行為の再現なんだろう。
     この大舞台に参戦する。「参戦」といえば勇ましくもカッコいいが、スーパースターたちとマッチアップするほどの走力はない。ドン尻でもいいから完走狙い、制限時間の10秒前でもいいから完走狙い、それに尽きる。自分の体力、知力すべてを動員し、何ごともうまい塩梅で進んだうえに、あと一歩も走れない・・・という所まで追い込みきって、ようやく完走できるか、それでも無理かの当落線上。それがもっかの実力である。
     246キロメートルを36時間以内に走る。この数字だけみれば、走れるような気がしなくもない。単純計算で1キロを8分イーブンで走り切ればいいからだ。楽勝かもしれないな〜、と去年の今頃、つまり何もわかっていない頃には楽観していた。
     出場エントリーにあたって過去のデータを調べた。昨年の2009年大会は、完走者133人に対し、リタイアは187人。完走率41.6%である。大会の出場資格は100キロを10時間30分以内の公式記録か、200キロ以上のレースの完走記録が必要。そんなランナーたちが半数も完走できないのだ。去年はきっと酷暑で落雷も落ちて、暴れ馬が乱入でもしたんだろう。で、昨年参加した方に聞いてみると「去年は涼しかったよ〜」とか。涼しくて4割かよ! 昨年以前も完走率は例年30%〜40%が標準で、酷暑の年は25%を切っている。ややや、完走率25%って何だ〜?
     慣れない英語やギリシャ語と戦いながらエントリーを終えると、レースの詳細が書かれた案内書が郵送されてきた。ずらりと並ぶ細かな数字・・・どうやらエイドステーションのリストである。全行程中、75カ所ものエイドがある。そして各エイドの撤収時間がイコール関門になっているようなのだ。
     このタイムが非常に厳しい。まず入りの19.5キロの関門閉鎖が2時間10分。ここをセイフティーに越えるにはキロ6分を切っていく必要がある。いきなりけっこうなスピードを要求されるのだ。その後、フルマラソンの距離に相当する42.2キロ地点が4時間45分、100キロ関門が12時間45分である。これは後半にスタミナを温存して出せるタイムじゃないぞ! 100キロのレースに出て、12時間で走りきってゴールラインを越えたあとは、ぼくの場合ひん死の重傷レベル、ほとんど動けなくなる。そこから再び立ち上がり、残り146キロを24時間以内で走るエネルギーは残っているのだろうか? 
     この時期、ギリシャのエーゲ海沿いの昼間の気温は40度を超す。コース後半は山岳地帯に突入し、1000メートル級の山越えが2カ所ある。峠では摂氏5度付近まで降下する。うひょひょ、もう無理な気がしてきた。
     この大会に出場するため春から月間500キロを走り込んでいるが、参加選手の多くは800〜1000キロを走っている。1日平均30キロを平然と走れる人たちの完走率が30%〜40%ってわけね。うーん、こりゃ踊るしかないね。
           □
     スパルタスロン出場が決まってからは、体脂肪率を落とすために、1日の食事回数を1回(元々だけど)にし、主食をモヤシ、キュウリ、もずくにしている。徹底的に体重減少をはかる。レース後半のオールアウト(まったく身体が動かなくなる状態)を防ぐために、体重は10グラムでも軽くしたい。気力も及ばぬ極度の疲労は、25万歩にも達する脚の移動によってもたらされる。1歩にかかる体重負担を減らすことが、レース100キロ以降の成否を左右する。
     また、給水をしない練習をしている。過去の超長距離レースでは、水を摂取しすぎて低ナトリウム血症的な症状に襲われ、空ゲロえずきながらオールアウトが定番。今年のサロマ湖100キロでも水5リッター飲みまくり自滅。そんな失敗を繰り返している。体質を根本から変える必要がある。
     一般論はよく知っている。「科学的な」研究によりランニング中の給水の必要性は、スポーツ医学界からも、飲料メーカーの研究室からも提唱されている。練習中の運動部員やマラソンランナーらの熱中症による死亡事故のニュースは毎年絶えない。
     一方、ケニアのトップランナーが集結するエルドレッド近郊のカプサイト・キャンプでは、30キロ程度の練習中なら、ランナーは給水しないという。走行中はおろか、起床してから午前の練習を終えるまで水やスポーツドリンクは採らない。練習を終えた後に、何時間かかけてミルクティー(成分の大半は生乳)2〜3リットルを少しずつ飲む。ぼくたちが日頃耳にするアミノ酸やら電解質やら浸透圧とは無縁の世界で、21世紀初頭のマラソンの歴史が築かれている。フルマラソンの歴代世界10傑のうち2位から10位までの9人はケニア人なのだ。
     20年くらい前までは、日本中の運動部で練習中に水を飲むのは絶対禁止だった。ぼくたち非科学的・根性論世代は、水を飲まず、ウサギ跳びと手押し車をし、監督や先輩から顔面ビンタを食らいながら、根性ってヤツを鍛えられた。こんな「プレイボール・侍ジャイアンツ・がんばれ元気」世代は、どうも「科学」がビジネスと結びついて見えるときは少し疑ってかかるクセがある。いっぽうで非科学的な根性論を無条件で受けて入れてしまう。大学の実験室のトレッドミルや血液検査装置やモーションキャプチャーで計測された科学的データでは計り知れない、突き抜けた境地ってのが人間にはあるはずなんだ。
     20〜30キロを無給水で走るトレーニングをはじめると、後半バテなくなってきた。科学的根拠はむろんない。気のせいなのかもしれない。でもそこが人間のおもしろいとこ。ここぞってときに発揮できるタフさってのは、数値では管理できない何か、体内から噴きだす負のオーラやら、わけのわからないド根性やら、要するに理屈じゃない所から発生するんだ。
     何十年間も運動をせず、ただデブるにまかせていた凡人たるオッサン、ただのスポーツ観戦愛好家だったぼくが、ドキュメンタリー番組でしか観たことのないテレビの向こうの世界・・・スパルタスロンの舞台で戦うには、正常なことをしていては追いつかない。「馬鹿になれ、とことん馬鹿になれ」との猪木師匠のポエムと心中覚悟。力石徹が1日トマト1個で生き、谷口タカオが距離3分の1ノックをしたように、シューズを脱ぎ捨て、水涸れした身体でモヤシをむさぼり、バカ世界に入滅する。
  • 2010年07月31日バカロードその14 一歩足を前に出せば一歩ゴールに近づく 〜日本横断「川の道」フットレース・520キロ参加記〜
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

    (前回まで=東京湾岸を出で、長野県を経由して新潟は日本海へと至る520キロ、国内最長クラスの超長距離フットレースにタウトク編集人が挑戦した6日間の記録。スタートから5日目の昼には394キロを踏破し、第三関門である新潟県津南町の宿「深雪会館」に着いた)

    ゴールへ
    新潟県津南町〜新潟県新潟市 126キロ

     「はい起きて!もう出発するよ!時間だよ!」と身体をぐらんぐらん揺さぶられる。
     布団のなかで「ふぁ、ふぁい。おはよう、ごじゃいまふ」と生返事をする。目を開けると見知らぬ男性が顔をのぞきこんでいる。3秒見つめあう。(この人だれなんだろう・・・知りあいだったかな)。事態がつかめず、ぼーっとしていると「あ、ごめんなさーい。人ちがいでしたー」と男は去っていく。時計を見る。3時間くらい睡眠をとる予定だったが、布団にもぐりこんでから1時間しか経っていない。人ちがいでムリヤリ起こされたわけなんだけど腹は立たない。このレースも5日目、どんな事態も素直に受け入れる素地ができあがっている。あらゆる出来事は偶発的に起こっているものだが、見えざる力によって導かれる必然とも言えるのだ。
     階下に降り、「おはようございまふ」とスタッフに告げる。足元はおぼつかず、ロレツは回っていない。「おはよう」と言ってしまった後で、今が夕方であることに気づく。
     「ぼく、スタートしまふ」と告げると、あちこちに待機していた大会スタッフがガバッと立ち上がる。荷物を持ってくれ、玄関の外まで出てくれる。「じゃあがんばって」と大勢で見送ってくれる。スタッフの皆さんも徹夜態勢でバックアップしてくれているのだ。こんな心温まる大会ってあるだろうか。泣けてくるよな。
     おぼつかない足取りでスタートを切ると、セクシーなチャイナドレスを艶やかにまとった魅惑の女性が、しばらく併走してくれる。これは昨晩から見続けている幻覚なのだろうか。いや幻ではない、大会を初日からサポートしてくださっている美人の方だ。ぼくはフイの2ショットに舞い上がってしてしまい「ふだんは何をなさっている方なのでふか?」などとお見合いの席のような質問をすると、丁寧に答えてくださった。この頃、ぼくの知能指数はIQ30くらいしかない。
     お姉さまは津南の街並みを背景にいつまでも手を振ってくれる。山田洋二監督が撮るロードムービーののワンシーンのような素敵な場面だ。ぼくは、さしずめさすらいの旅に発つ高倉健といった役どころか。いや、武田鉄矢がいいセンか。幻覚でないことを後に証明するために、写真を撮らせてもらう。
     この520キロにもわたる長い旅を、途中3カ所に設けられた宿泊所を境に4つのステージに見立てると、今日と明日が最終ステージである。明日の夜9時までに日本海に対面し、再び折り返して新潟市の温泉施設「ホンマ健康ランド」にたどり着けば、時間内完走の栄誉を手にする。栄誉といっても誰かに誉められるわけでもない。完走者の唯一の証しは「永久ゼッケンナンバー」のホルダーになるってこと。「川の道」が開催され5年、いまだ2ケタナンバーは61番が最大値である。つまり完走者は過去61人しかいないってこと。ゴールまで120キロ、残り30時間。さあ、永久ナンバーめざしてトコトコ走るか!と気合いを入れる。
     津南の山村風景は本当に美しい。河岸段丘の斜面や平地に建つ民家、棚田が立体ジオラマを造りだす。車道脇にはまだ高さ50センチほども残雪がある。津南町は日本を代表する豪雪地帯である。集落中に水の流れる音がささやく。雪融け水が水路を走っているのだ。多くの民家の脇にはコンクリ造りの大きな水槽がある。2メートル四方ほどもあるから小さなプールのよう。釣った山魚を養殖しているのかなと思ったが、雪を溶かすための水溜まりだとわかる。 
     小学校の校庭に見たこともない巨大な桜が咲き乱れ、風に散った花びらが道路をピンク色に染め上げている。「コノ国ハ、本当ニ、ウツクシイ・・・」。ラフカディオ・ハーン目線で日本の原風景を感慨深げに見つめる。この頃、ぼくの知能指数はIQ20くらいしかない。
     夕暮れどきに十日町市に着く。商店街には人間を抽象的に模した彫像があちこちに屹立しているのだが、何やらヒソヒソと話しかけてくるような気がして怖くなって逃げる。長い長い商店街を抜けると、夜のとばりがすっかり落ちていた。
     夜が深くなるにつれ、得体の知れない影に脅かされる。電柱や街灯のたもとに人影が見える。影は見えるのに、近づくとそこには誰もいない。
     背後から足音や呼吸音が近づく。ランナーかと思い話しかけると、真っ黒い影が揺れていて物質はない。
     左隣に長い髪をバサバサ揺らしながら女性がついてくる。右隣を見ても女性がいる。やがて10人くらいの女性に囲まれる。みな青白い顔をしている。明らかにこの世の物ではない。下半身から鳥肌がせり上がってくる。
     これが川の道フットレースを走るランナーの多くが観るという幻覚ってヤツか。幻覚ってこんなリアルなのか。幽霊のようにボーッと浮かび上がっているのではない。確かにぼくは感知している。眼球で捉えているのではなくて、脳みその奧のスクリーンに投影されている。極度の睡眠不足、あるいは痛みや疲労から逃避するために、脳が勝手に暴走をはじめている。
     427.2キロ地点(CP20・新潟県小地谷市魚沼橋)通過。ヘッドランプの瞬きが前後に見える。ああ、近辺にランナーがいるんだと安心する。
     闇からぬぉっと現れた人物。その外見、ランナーというよりはヒットマン、菅原文太のヤクザ映画に出てくるような顔。右手に妖しく青光りするマシーンをたずさえている。また幻覚か?と畏怖するが、博多弁で喋りだすので現実世界の人だとわかる。彼は福岡から来た江口さんという。手元で光り輝くのは、携帯GPSマシンのようだ。江口さんは、「GPS最高ばい!」と嬉しそうに説明してくれる。
    「あと○×キロで小地谷市ばい、GPSでわかるったい」「スタートから400キロ越えたばい」と15分に1回くらいGPSをチェックしている。ちょうどぼくも自力で紙地図を見るのが面倒くさくなっており渡りに船とばかりに「GPSならあとなんキロですか?」と何べんも聞く。すると「あと12キロっちゃね。順調ばい」などと江口さんは答えてくれる。(確かにGPS最高たい!)とぼくも共感しはじめた頃、江口さんが意外な話をはじめる。
     「昨日は危なかったばい。道を10キロも間違ごうて死ぬかと思うたじぇ」
     (んなアホな、そのGPSあかんのんちゃうん?)。共感は醒め、元どおり紙の地図を頼りにする。
              □
     2人で小地谷の街を目指していると、正面からヘッドランプが近づいてくる。変だ、このコースに折り返しなどない。70代の熟年ランナー、渡邉さんだ。「こっちに来たらダメですよ。ゴールはあっちですよ」と説明する。すると「いやー、自分がどこにいるかわからないから、この辺を走り回ってたんだよ、ほほほほ」と笑ってらっしゃる。余裕があるのやらないのやら。道がわからなければ、じっとしていたらいいと思うのだが、大丈夫なんだろうか。いや、今の状況、誰が正常で誰が幻覚の中を走っているのかは、誰も判断できないのである。
     明け方は寒さが厳しい。コンビニで雨合羽を調達する。1枚500円するけど、耐え難い寒さをしのぐには充分である。合羽を上半身に羽織り、コンビニの前に座って休憩していると、1人の客が店に入っていく。しばらくすると店内から「御用だ!御用だ!」と大声がする。
     (ああ、なるほど。さっきの客は強盗だったんだ。岡っ引きが今、悪党を捕まえているんだな)と思う。(岡っ引きがいてくれるなら、強盗が乱入してきても安心だな)と胸をなでおろす。だが、コンビニの中に江口さんを残してきたことに気づき、(強盗の人質になんかなってないだろうな)と心配になる。店の中をのぞき込んでいると、江口さんが出てくる。「強盗が入ったでしょう?大丈夫でしたか」と質問する。江口さんは問いかけには答えず、関係のない話をはじめる。どうやら捕物帖はなかったようだ。(ああそうか、現代に岡っ引きはいないよな)とようやく気づく。もはや自分を正常だなんて断言などできない!
               □
     小地谷市の郊外にある自宅を開放し私設エイドを設けている「和田さん」は、川の道ランナーたちのアイドルだ。和田さんの逸話は少なくない。曰く「和田さんは極度に親切で、よく(何かいるものないか?)と聞いてくれる。つい口走ってしまうとわざわざ買いに行ってくれた」「日本酒が大好きな和田さんは、新潟の地酒をランナーに(飲んでいけばいいよ)とお勧めしてくれる」「先頭集団が和田さん家でへべれけに酔っぱらってしまった」とか。ランナーたちは、和田さんとの再会を楽しみに、終盤の行程を乗り切ろうとする。
     薄ぼんやりと夜が明け始めた頃、和田さん家に着く。1階の車庫ガレージに置かれたテーブルの上には山盛りの食料がある。カップ麺、パン、果物、お菓子、漬け物、キムチ、ちまき、そしてビールに日本酒! あっけに取られていると、和田さんが「何でも食べればいいよ」「温かいもの食べなさい」と、どんどんお薦めしてくれる。噂に違わぬ無類の優しさだ。
     ガレージの裏には仮眠所がしつられられている。5〜6人が一度に横になれるよう、大量の毛布が用意されている。ここで眠れば、制限132時間以内にゴールにたどり着くのは無理かもしれない。でも、これ以上起きているのは不可能だ。今できるのは眠ることだけと毛布にくるまり惰眠を貪る。入眠後30分、先着ランナーの三遊亭楽松さんが起こしてくれる。ゴールまで75キロ。時速5キロで進めばギリギリ間にあう時間だ。和田さんに別れを告げると「これ持っていけばいい」と、リュックに大量のちまきを入れてくれる。先頭ランナーの通過から最後尾のぼくまで、何十時間もこうやってランナーの世話をしてるんだろう。ぼくもいつかこんな風にランナーを応援したいなと思う。
     445.1キロ地点(CP21・新潟県小地谷市越の大橋)からは、楽松さんと江口さんがペースを作り、ぼくが追従する。道中3人。楽松師匠の歩きは速い。時速6キロのハイペースだ。しかも休憩をまったく入れない。ぼくの壊れた足の裏ではペースについていけない。歩きの2人に追いつくために、走りをはさむ。100メートルくらい先行したら、シューズと靴下をぬぎ、足の裏を冷やす。追いつかれたら急いでシューズをはき、追いかける。それを何度か繰り返す。
     457.7キロ地点(CP22・新潟県長岡市)、長岡市は新潟県下第二の都市だけあり、中心市街地も大都会ってフンイキ。商店街を抜けたコンビニの駐車場で休憩を取る。やっと休憩だ、うれしい。ぼくは朝ごはんにアイスクリーム2本を食す。この数日、大会から提供される食事以外はアイスクリームしか採っていない。グロッキーなぼくのかたわらで、楽松師匠がシューズを脱ぎ、足の裏のマメの治療をはじめる。でかい!長さ10センチはあろうか。楽松師匠はそのマメの皮を、ジョキジョキとハサミで切り取っていく。ぼくの足の裏よりよっぽどひどい状態じゃないか。それなのに「痛い」も「つらい」もなく、ひたすらに力強く歩き続けている。ぼくは自分が情けなくなる。そしてこれ以上、脚の遅いぼくのペースに楽松さんをつき合わせてはいけないと思う。
     「ぼく、先に行ってます」と言い残し、できるだけ前進しようと最速スピードで走りだす。ゴールまで60キロちょい。多少の無理をしケガしても、前進さえしつづければ、ゴールできるはずだ。
     走る、走る。前方に「後半ハーフ」の選手が見えてきた。何とか追いつこう、追いつきたい。広いバイパス道に出る。気温がぐんぐん上がる。アスファルトからの輻射熱と自動車の排気。真夏の野球グラウンドのような熱気の中を、猛然と走る。足の裏がドッチボールのようにブヨブヨと膨らんでいる。痛み止めをガブ飲みする。すでに40錠入りの鎮痛剤は残りわずかだ。
     歩道橋の日陰で足を冷やしていると、長岡のコンビニに置き去りにした江口さんが何かに取り憑かれたような猛スピードで走り去っていく。(やばい、置いていかれる!)慌てて後を追いかける。江口さんのペースは速く、遠ざかりそうな背中が視界から失われないよう食らいつく。この大会で何度目かの猛スパートだ。10分も走ってようやく追いつく。
     「おー来たか!どこ行っとったとや?」と江口さん。すごく元気だ。会話もままならなかった昨晩とは別人である。ハーフマラソン並みのハイペースに、ぼくは併走したり後ろにくっついたりしながら負けじと走る。
     江口さん、なぜかムチャクチャ熱い!
     「あんたの走りはなかなかいいばい!」と誉めてくれる。
     「がんがん行くばい!」と自らを奮い立たせている。
     「頭をがんがん冷やせばよかったい!」と氷を頭に乗せる。
     「痛みは慣れるばい、慣れて治すたい!」と激痛に戦いに挑む。
     「最高、最高ばい!」と叫ぶ。
     このオッサン、何者!? こんなバカランナー見たことない、素敵だ! 2人でレースをやってるくらいのデッドヒート。ほんと脚ぼろぼろなのに、完全にバカである。長岡市郊外から三条市までの10キロをこの調子で爆走した。ハイペースで走るのって気持ちいい!
     481.1キロ地点(CP23・新潟県三条市)。昨年出場したサハラマラソンの相棒、男子大学生の山口洋平君から電話が入る。ぼくのゴールを見届けるために、はるばる茨城から夜行バスでやってきたのだ。彼もまた酔狂な男なのである。「どこに行ったら会えますか」と問うので、「ゴール会場からこっちに走ってきたらいつか会えるんちゃう?」と返す。せっかく遠路はるばるやってきたのだ。ゴールでひたすら待っていてもつまらない。ここはひとつラスト40キロくらいを走らせて、思い出のひとつも作ってやろう、というぼくの粋な配慮である。
     新潟市郊外の気の遠くなるような直線ロードの彼方、揺れる陽炎のなかからフラフラになって現れた山口君は、20キロ以上を全力で駆けてきたらしく自爆状態である。明らかに新品の真っ白な肌着シャツを着ている。元々走る気などなかったから、急きょ安物の服を買い求めたのだ。サハラ砂漠を2人で遮二無二走ったときから、ぼくは20歳も年下のこの若者にシンパシーを感じ、尊敬している。
     サハラマラソンの最終日、強烈な岩場、ガレ場の難コース42.2キロを3時間台という信じられないタイムで駆け抜けた彼は、走り終えたあと何時間も立ち上がれなかった。喋ることすらままならないほど衰弱していた。ふだんは陽気でエロいだけの今風の若者が、自らを極限まで追い詰める姿にぼくは打たれた。そして自分自身の中途半端な燃焼ぶりを悔いた。記録や、順位や、完走や・・・走りはじめた目的はそんな所にない。自分の限界を超えたいと思った。だから砂丘をはいあがり、山岳を攀じ登り、数百キロのレースにエントリーする。それなのにぼくは一度もスッカラカンになるまで追い込めない。だから、小学生の校内マラソン大会ですら走りすぎて救急車で運ばれたこのバカ男を尊敬する。いつか彼のように限界をつき破る走りをしたい。
     山口君にペース管理とチョコエクレア補給をしてもらいながら進む。走っても、走っても、ゴールの制限時間に間にあうペースまで上がらない。511.2キロ地点(CP24・新潟市新潟ふるさと村)を越えると、信濃川の土手にあがる。すっかり日は落ち、信濃川の川面に新潟市街の夜景が映る。夜が訪れると再び幻想の世界に入り、ビルの上に大きな赤鬼が座っているのに驚いたり、ぼくの勇姿を見届けるためゴール会場にオバマ大統領が待機しているという情報が入ったりした。なぜかオナラが止まらなくなり50発くらいこいた。尻の括約筋にもエネルギーが行き渡らなくなっている。屁が止まらないまま、ついに日本海に達する。
     516.3キロ地点(CP25・新潟県日本海岸)。
     日本列島の山越えた反対側、東京湾からここまで6日間、長らく対面を夢見つづけた日本海は真っ暗闇の彼方にあり、そこが海かどうかもわからない。闇の向こうから女性の姦しい声が聞こえてくる。「イエーィ!日本海よー!イエーィ!」。(わ、なんだなんだこりゃ)と驚く間もなく、3人の熟女たちが登場し、「イエーィ!サイコー!」と凄いテンションで体当たりされる。肉弾的な勢いに押され、ぼくは後方に尻餅をつき、受け身の取れぬまま、仰向けにすっ転ぶ。熟女たちの歓迎のパワーを受け止める反射神経と筋力はない。これは幻覚ではない、なぜなら倒れて打ったケツが痛い、だからリアルな現実だ。彼女たちは大会スタッフなのだろうか、選手サポーターなのだろうか? とにかく全身全霊で歓迎して下さっているようだ。あるいは酔っ払い?
     この宴を、冷静に見つめている視線に気づく。ずいぶん先に進んでいるはずの江口さんが悠然とチェアに腰掛けお茶している。「江口さん、まったりしてる時間ないっすよ。制限時間ギリですよ」とうながすと、「じゃあ一緒にゴールするたい」と腰をあげる。熟女たちの歓迎で5分ほど時間を使ってしまったため、まったく余裕がない。ゴールまで残り3.7キロ、ハイペースで走らないとタイムオーバーだ! 江口さんは、「けっこう脚にきとるばい」と言いそろりそろり足を進める。 「江口さん!のんびりしてる間ないですよ。マジで時間ギリギリですから!」と急かしても、彼は「もうここまで来たらゴールしたようなもんばい。スタッフにも電話で連絡してあるし、問題ないたい」と全然走ろうとしない。江口さんがあまりに自信満々なので、ぼくも(日本海まで来たらゴールってことにしてくれるんかなぁ)などと思いはじめる。この頃、ぼくの知能指数はIQ10まで急下降し、正常な判断能力はない。
     ところが制限時間まで残り10分を切ったあたりで、江口さんの携帯電話が鳴る。どうやら先にゴールした知人ランナーから(このままじゃ制限時間内ゴールができないよ!)と怒られているようだ。電話を切ったとたん、どんなに急かしても走らなかった江口さんが「間に合わんばい!」と猛スパートをはじめる。
     置き去りにされアゼンとするぼくと相棒・山口君。南無三、追走開始だ。しかし、体力の残り火は少なく、脚はよれよれ。先行する山口君が地図を片手に残りの距離を確認しながら叫ぶ。「このままじゃ、やっぱ間に合わないっす。走ってください!」。ぼくはジョグペースでしか進めない。
     なにやら急速に時間内ゴールするのが嫌になってくる。(ここで時間内完走できんかったら記録上はリタイアってことになるな。そしたら悔しくなって来年も出場せざるを得んようになる。ほの方がええなぁ)なんて考える。来年も走れるって想像すると嬉しさがこみあげニヤニヤ笑いはじめる。「あー、なんかやる気なくしてる。真剣に走ってください!」。振り返った山口君が呆れかえっている。「520キロ走ったけど、最後は熟女に押し倒されてゴールに間に合わんかったとかネタとしておもろいだろ? 今回はほの結末でええわ」。なんと心地よいやる気のなさよ!
     (やっと時間から解放された、ぼくは今、自由だ! さらば川の道よ、また来年会おう)などと感慨にふけりながら新潟の夜景を愛でつつチンタラ走っていると、遠くのビル陰からもの凄い勢いで誰かが近づいてくる。手にはスターウォーズのライトセーバーみたいな赤く光る武器をもっている。男は大声で何やら怒鳴っている。とっさに(わぁ、赤鬼!)とびっくりし、一瞬(殴られるか?)と身構える。
     もちろん殴られはしなかった。どうやら大会関係者のようだ。ライトセイバーかと思った光る物体は誘導棒だった。男性スタッフが大声で叫ぶ。「急いで、急いで! 制限時間迫ってますよ!永久ナンバーがかかってますよ!全力で走って!」。誘導棒でぼくを鞭打つかのように、叱咤激励が入る。その瞬間(全力でいかなければ!)とスイッチが入る。全身の筋肉にゴーサインが入る。100メートルスプリントの勢いで猛スパートをかける。おぅ、まだこれだけ走れる熱量があったんだ。身体が気持ちいいくらい前にすっ跳んでいく。脚が空中でぐるんぐるん回転する。ゴールの白いテープが遠くに見え、スローモーションのように近づいてくる。やっぱし全力疾走は気持ちいい、最高だ。残り1分、残念ながら制限時間に間に合ってしまいそうだけど、でもまぁいいか。来年もまた、出ればいいんだから。
                   □
     520.0キロ地点(ゴール・新潟県「ホンマ健康ランド」)。タイムは131時間58分12秒・・・つまり5日と11時間58分12秒だ。48人の520キロコース出走者のうち時間内完走は31人。もちろんぼくがビリである。
     ゴールテープの真横に「ホンマ健康ランド」の玄関がある。気力やら根性やら魂やらを総動員してゴールしたあとは、もう走れないし、歩けない。だから這っていける距離に宿泊施設を用意してくれてる主催者のはからいが嬉しい。
     「ホンマ健康ランド」の入口フロアには、ともに川の道を走った懐かしい面々が、もう一歩も歩けないと座り込んでいる。出会ってから数日なのに旧知の同級生に再会したような気がする。みな微笑んでいる。完走した人も、リタイアした人も、これ以上出せないという所まで力を振り絞った。だから緩んだ顔の筋肉で力なく笑っているんだと思う。
     巨大な温泉施設である「ホンマ健康ランド」の浴室には、魂が抜けたようなランナーのシカバネがあちこちに転がっている。兵共が夢のあと。ゆっくり眠ってください。お風呂で溺れないように、風邪をひかないように。皆さん、おつかれでした。
                  □
     レースから1カ月が経った。レース前に比べ体脂肪率が16%→10%に落ちた。足の裏のマヒがようやく取れはじめた。夢の中で3日に1度は川の道を走っている。目が覚めるとレース中じゃないことに気づいてがっかりする。苦しくて、痛くて、眠くて仕方がなかったあの世界に、はやく戻りたいとムズムズする。520キロを冗談交じりに駆け抜けていったタフなランナーたちに早く再会したい。これはきっと中毒なのだ。
  • 2010年07月01日バカロードその13 一歩足を前に出せば一歩ゴールに近づく 〜日本横断「川の道」フットレース・520キロ参加記〜
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

    (前回まで=東京湾岸、太平洋を望む荒川河口を出で、長野県を経由して新潟は日本海岸へと至る520キロ、国内最長クラスの超長距離フットレースにタウトク編集人が挑戦した6日間の記録。スタートから265キロを踏破し、第二関門である長野県小諸市に着いたのは3日目の深夜だった)
    第三関門へ
    長野県小諸市〜新潟県津南町 130キロ

     目が覚めると、しごく元気だった。
     なぜぼくは元気なのか?と軽い疑問を抱き、上布団に抱きついたままの格好で記憶をたどる。数時間前、まっすぐ歩けないほどヨレヨレでこの寝床に沈んだはずだ。寝る前はゾンビ状態、寝起きがハッスル状態ということは・・・まずいっ!長時間眠りこんでしもたかっ!と跳ね起きる。
     腕時計に目をやる。デジタル文字は 02:00 と示しているが、しばらく熟慮しないと数字の意味がつかめない。眠りについたのが午前1時だから、引き算すると睡眠1時間。それなのにこの四肢から溢れるやる気マンマンはなんだ? もう少し睡眠を継続するべきか、だが走らずにはいられない高揚感。
     4階にある雑魚寝部屋を抜けだし、2階の選手・スタッフ控室に向かう。エレベーターホールのソファや廊下の長椅子に、2時間前に到着したままの格好でランナー数人がうなだれている。彼らは着替えをする余裕も、仮眠室に移動するエネルギーも切れてしまっているのだ。
     控室の大部屋では、4人のランナーが出発準備をしている。初日にあっさり抜き去られた選手たちと3日ぶりの再会だ。ぼくはスピードに欠けるものの、睡眠を毎日1〜2時間しか取ってないので、前を行くランナーに追いついているって構図。
     選手サポート役のトライアスリート渡辺さんが、浜に打ち上がったマグロのごとく畳の上でゴロ寝している。ぼくの気配に気づいた渡辺さんが、寝ぼけマナコで「朝メシ調達しといたから食べて」とカップ麺とおむすびを差し出す。「小諸グランドキャッスルホテル」内や周辺には深夜到着後に食事できる店がなく、食料調達が必携なのだ。しかし関門クリアすら危ういぼくにコンビニに立ち寄る時間もなかった。朝メシは渡辺さんの温情なのだ。この夜食べた「マルちゃん・ピリ辛ニラとんこつラーメン」の味は、生涯忘れることはないだろう。湯気が鼻腔を刺激し、鼻水とも涙ともつかない液体が顔を濡らす。小腸から吸収されたマルちゃん・ピリ辛ニラとんこつラーメンは、血液に溶けこむと瞬時に全身をかけめぐる。血糖値が一気に上昇し、ジャック・ハンマー(範馬刃牙の腹違いの兄)がステロイドのアンプルを噛み砕き筋肉をバンプアップするがごとく野獣の嘶き! 
     人間、寝んでもどうっちゅうことないんじゃ〜!と嬉しくなって、夜も明けぬ小諸市の街へと走りだす。
     が、ハイテンションは束の間の夢であった。1時間の熟睡効果とマルちゃんラーメンのエナジーは10分ほどで切れ、睡魔がわらわらとやってくる。いよいよ立っていられなくなって信濃国分寺駅前のベンチで30分仮眠する。目覚めても動く気がせずぼーっと座っていると三遊亭楽松さんがやってきた。トラブルが発生しているらしい。宿泊したホテルで脱いであったシューズが無くなったという。おそらく誰かが間違えて履いていったのだろう。予備のシューズを持参していたが新品で足に馴染まない。楽松さんは、シューズの中敷きを何枚か重ね、数百キロの距離を踏み重ねて自分の足に合った状態に「作り」あげてきたのだとか。ショックが大きいようだ。
     楽松さんと別れ、とぼとぼ前進する。それにしても暑い。この日、列島各地で気温25度を超す夏日となる天気予報が出ている。標高500メートルの長野盆地も例外ではない。ガソリンスタンドの前を通るとFMラジオが流れているが、地元ラジオ局のDJは午後には27度にも達しようかという気温の話ばかりして暑さに拍車をかける。だらだら走っていると、264.7キロ地点(CP13・長野県小諸市)から283.5キロ地点(CP14・長野県上田城跡)の間に、全員のランナーに抜かれる。
     上田市街を抜けると川幅と流量を増した千曲川が陽光を浴び、ギラギラと揺れている。山塊をくり貫くように造られた一直線の車道には、天を遮るものはなく日よけとなる陰もない。歩道の幅が狭く、細かな段差があって難儀する。太腿を上げる筋力が衰え、5センチの段差にも脚を引っかけてコケそうになる。脳天にふりそそぐ直射日光は暴力的で、アタマの表面をジリジリと焼く。水道の蛇口を見つけるたびにタオルに水を浸し、頭に巻いて気化熱で涼もうと目論むが、20分もたたないうちにカラカラに乾いてしまう。日焼けした唇がぱんぱんに腫れ、裂傷となって血が流れだす。「リップクリームは必携」とベテランランナーが自慢げに唇に塗りたくっていた光景を思い出したが、時すでに遅し。
     長野市が近づくにつれ車道が6車線に拡がり、自動車の通行量が増える。308.1キロ地点(CP15・長野県長野市篠ノ井橋)前後で、ぞくぞくと後続のランナーに追い越される。後続といっても、520キロレースでぼくより遅いランナーは既にいない。追い越していくのは今朝、長野県小諸市を出発した「後半ハーフ」のランナーだ。川の道フットレースでは、東京〜新潟間520キロを「フル」と呼び、東京から中間点である長野まで265キロを走る部門を「前半ハーフ」、長野〜新潟間255キロを「後半ハーフ」と呼んでいる。ランナーは「フル」「前半ハーフ」「後半ハーフ」いずれかのレースに参加しているのだ。
     255キロなんて、それだけでもたいがいのものだが「ハーフ」扱いである。そこに奥ゆかしさやユーモアを感じ、好感を抱く。「ハーフ」を走るランナーは皆、ヨレヨレのぼくに励ましの言葉を残してゆく。「東京から300キロでしょ、ここまで走ってるだけで凄いですよ!」「私もいずれフルを走りたいです。フルの皆さんを尊敬しますよ、頑張ってください!」。励まされる都度、ぼくはにんまりする。ふだんめったに他人に誉められないから、凄いとか尊敬とか良いこと言われるとアホみたいに嬉しいのである。
     長野市の中心街に入る手前に犀川(さいがわ)にかかる丹波島橋を渡る。この川の最上流域は北アルプス直下の上高地、さらに源流をたどれは孤峰・槍ヶ岳。川の流れは、遠い海を求めて旅しているのではない。水は、より低い位置へと自然に移動しているだけだ。走るってこともそうなのかな、と思う。いまこの瞬間に繰り出す一歩が大事なのだ。立ち止まらず、走り続けることが自分には必要なのだ。だから走っている。
     犀川の奧に連なる山の端に夕陽が落ちる。高層の観光ホテルや官庁のビルが紅く染まっている。321.0キロ地点(CP16)、善光寺の境内に着いた頃には、日はとっぷりと暮れていた。善光寺の門前にずらりと並ぶ土産物店には、信州名物の「おやき」や抹茶ソフトクリームなどスイーツが目白押し、と調査済みである。ところがどうだい、100軒は連なろうかというお店が1軒たりとも開いていないではないか。
     なりふり構わずそこらへんの観光客を問い詰めると、ここら一帯、夜6時になると一斉に店じまいをするのだとか。朝から一日じゅう「善光寺でおやきを食べる」という強い目的意識と高い向上心を抱いて頑張ってきたのに・・・。おやきを食べられないという現実に打ちひしがれながら、石畳の参道を駆けあがる。本堂の賽銭箱にはいつになく張り込み100円玉1枚を投じる。「100円も払うんですから、必ず完走させてください」と費用対効果として大きすぎるお願いを阿弥陀如来様に一方的にリクエストし、きびすを返す。
     おやきにありつけなかったためか、空腹感が暴れだす。今朝からコンビニで買ったアイスクリーム3個しか口にしていない。長野市の繁華街にはチェーンのレストランが煌々と光を放ち、幸せそうに食事をついばむファミリーやカップルの姿が窓ガラス越しに見える。
     できればメシを食いたい。しかしレストランに入り15分も20分も時を消費すれば、70キロ先に待つ第三関門の閉鎖時間に間に合わなくなる。レストランの排気口から漂う香しい匂いは拷問に等しい。テーブルに美食を並べ微笑みあうカップルを、恨みの視線で焼き尽くそうと試みる。
     道沿いに「スポーツエイドジャパン」のステッカーを貼った車が停まっている。スポーツエイドジャパンは、この川の道フットレースの主催者である。遠く長野の地までエイドを設けてくれているのかと驚きつつ、夢中で車に駆け寄り「何か、何か、何でもいいので食べ物をください・・・」と懇願すると、おにぎりを2個もらえた。脱兎のごとくおにぎりを掴み取り、走りながら貪り食う。戦時中に配給をもらう貧乏少年風情である。これで、これで朝までのエネルギーがきっと保つ、と安心する。
     後で知るのだがこの車は主催者のエイドカーではなく、岩手県から来られた女性ランナー・阿部さん個人をサポートする応援車だった。つまりぼくは、阿部さんの食料をかすめ取った蛮民なのでした。そしてこの後もぼくは、阿部さんをサポートする親切なご夫婦からおにぎりを何個もいただき続けることになる。どうも図々しくてすみません。
     336.3キロ地点(CP17・長野市浅野交差点)を右折すると登りがはじまる。長野市街の夜景が眼下に沈んでいく。蛇行する山道に街灯は少ない。深夜0時、人の気配のない道に、ときおり集落が現れる。地図と照らし合わせながら、自分の位置をつかもうと努力する。さっき通過した村に、もう一度入っていく錯覚に捕らわれる。息が上がるほど全力走しているのに、地図を見ると30分前から少しも進んでいない。焦る。苦労が報われないことに落ち込む。完走は無理なのかと諦めそうになる。
     峠道にさしかかると、星のきれいな夜空と光源ひとつない地面との境目が不確かになる。自分の姿も見えない。手脚を前へ前へと繰り出しても、同じ場所でうごめいている様子になる。ふいに奇妙な疑問にとらわれる。
    (あれっ、なぜぼくはこんな所を走っているのだろう?)
     よく考えてみる。これはマラソンレースだ、とても長いレースの途中だ・・・答えを出すまで数分かかる。少し頭がおかしくなっているのだろうか。また別の感情が頭をもたげる。
    (ここはどこなんだろう。なぜ、どこにいるのかわからないんだろう?)
     なかなか解答が出てこない。かろうじて正常を保っている脳みその一部分が返事を寄こす。ここは長野県の山中で、今は新潟に向かっているところだ。
     だんだん疑問レベルが根源的になってくる。
    (ぼくは誰なんだろう。自分の名前は言えるだろうか)
     かろうじて名前は言えたが、現実認知があやふやだ。そして自分が自分であるとは何と不確かなことかと驚く。ぼくは今、自分が誰なんだかピンと来てないんだから。
    (今ぼくがもの凄く走っている理由は、きっと買い物におでかけ中なのだろう)
     そんなわけないのに、そう思う。脳や身体がひたひたと浸されていく。身の上にこんな変化が起こったのは初めてであり戸惑う。
     意識混濁したまま、しかし立ち止まることなく、両脚を繰り返し動かした。峠道を下り飯山市の商店街をゆけば、昭和の香り漂うスナックやパブがならび、妖しの香を漂わせるスナックのお姉さん方が、店の玄関で客を見送っている。こんな古刹建ち並ぶ雪国の小京都にも男と女のラブゲームはあるんだろうね、ぼくも加えてもらえないだろうか。お姉さん、ぼくを誘ってはくれまいか。そしたら走るの中断できるのにな・・・。
     後方から賑やかなランナーの集団が現れる。傷だらけで前進する鈴木お富さんとサポート役の渡辺さん、赤いテンガロンハットをかぶった男前の松崎さん、すり足でナイスピッチを刻む阿部さん、そして阿部さんのサポートカーだ。途中、誰も追い越さなかったのになぜだ? そこでぼくは353.8キロ地点(CP18・長野県飯山駅)のチェックポイントを通過せず300メートルほどショートカットしたことに気づく。大会指定のコースでは、飯山の市街地で何度か交差点を曲がらなくてはいけなかったのに! 頭では理解していたはずになのに、ただ真っ直ぐ走り、いい匂いのするスナックのお姉さんに見とれていた! サポートカーのご夫婦が道を間違えた地点まで車に乗せてくれるという。ありがたい。自分の足で引き返すとなるとタイムロスが大きい。またまたご夫婦には迷惑をかけてしまった。図々しくてすみません。
     道を間違えたことで、半分飛んでいた意識が戻る。1〜2キロ先にはランナーの集団がいる。追いつこう。必死で走ろう。
     第三関門まで40キロ、閉鎖まで残り7時間少々。関門に遅れ、途中リタイアして帰るくらいなら死んだ方がマシだ、と痛切に思う。「死んだ方がマシだ」なんて言葉はその気もないのに使ってしまうフレーズだけど、今は心の底からそう思える。脚が壊れてもいい、心臓が張り裂けてもいい、残り40キロを全力で走りきってやろう。
     リュックのなかの荷物で捨てられる物はすべて捨てる。身につけた防寒具をぜんぶ脱ぎ捨てる。申し訳ないけど100均で買ったものだ、お役目ごくろうさん。極限まで身軽にし、走りに集中する。さらに鎮痛剤を4錠飲む。用法に書いている倍の量だ。痛みが消え失せ速く走れるなら、胃に穴ボコの1つや2つ開いたっていいのだ。
     猛然とピッチをあげる。空中を飛ぶようにストライドを延ばす。眠っていた筋肉が目覚めたのだ。ずっとスローペースだったから速筋は使ってなかったのだ。キロ6分を切るペースで朝もやを切り裂く。遮二無二駆ける。ハーフマラソンの終盤を走っているよう。見通しのいい広い道路の彼方に先行ランナーが見えてくると目標地点にし、さらなるペースアップ! 走っても走ってもまだ走れるぞ。20キロの間に10人ほどのランナーを追い越す。猛然と走るぼくにランナーたちが「何が起こったの?」「ナイスラン!」と叫びながらついてくる。あはは、みんな変だ。黄金連休の間じゅうずっと走ってる人たちはやっぱり変だ。皆、関門に間に合う程度に自重して走っていたのに、このペースに追走してくるなんて、走るのが好きでたまらないんだ、きっと。
     そしてぼくは、1人力尽きた。
     関門まで20キロを残し、オールアウトになった。走っているのか歩いているのか、そのどちらでもなく「漂う」という表現が合っている。気がつくと道路をナナメに横切っていたり、側溝に落ちる寸前だった。見かねたランナーの方が「これ飲むと目が覚めるよ。成分はカフェインです」と大きな錠剤をくれた。飲むとノドから胃にかけてスースーし、少しは意識が戻った。
     走りを再開するとつらくなってきて涙が出てきた。何かに感動しているのではなく、想い出に浸っているのでもない。ただ単につらいからホロホロ泣く。つらくて痛くて我慢できないから喉をつまらせて泣く。こんなのは子供の頃以来だな。
     携帯にメールが届く。昨年サハラマラソンを一緒に走った獨協大生の山口洋平君からだ。添付された画像を開くと、東京から新潟駅前間の高速バスのチケットの写真。「オレ、明日新潟行きまーす♪」と陽気に書いている。そうか、ぶじ新潟の日本海までたどり着けば、そこに待っているのはキュートな女の子・・・じゃなくてむさ苦しい男子大学生なのか。ゴールで熱く抱擁しあう男子2人を想像すると絶望感が深まる。なぜ女子大生でなく男子大生なのかと運命を嘆く。
     長野・新潟の県境を越える。太陽が昇るとアスファルトが焼けるように熱される。シューズのソールを通して熱気が充満し火傷しそうだ。かげろうさえ立ち上りそうな熱気のなか、394.0キロ地点(CP19・新潟県津南町「深雪会館」)の第三関門にたとり着く。関門閉鎖まで17分、最後は潰れたとはいえ20キロの全力疾走がなければ絶対にアウトだった。スタートから98時間、まる4日目である。
     「深雪会館」はJR津南駅前にあるひなびた旅館。玄関はランナーの脱いだ靴で満杯。一段あがった廊下まで靴であふれ返っている。何はさておきメシだ、メシ。大会スタッフの美女軍団が、そこいらへんの高級クラブなど足元にも及ばぬ献身的な接待をしてくれる。まずは冷たいビールを一杯。そして特製カレー、特製親子丼、野菜サラダ、粒あん入りフルーツカクテルと、もりもり食べる。全部でおかわり8杯! 他のランナーの食べ残しまで平らげる。なんて幸せなひとときだ。
     食事を終え、宿のお風呂を覗いてみると、洗い場が2カ所しかない狭い浴室。そういえば目と鼻の先にあるJR津南駅の駅舎に「温泉のある駅」との垂れ幕が掲げられていた。駅周辺の散策も兼ねてぶらっと散歩してみようと思いたち玄関に向かうが、自分のシューズが見当たらない。困ってうろうろしていると大会スタッフの女性に「どこか出かけるの?」と尋ねられる。「ちょっと散歩にと思って靴を探してるんですが、なくて・・・」と答えると、彼女は目をまん丸くして叫ぶ。「これだけ毎日散歩みたいなことしてるのに、まだ散歩し足りないの!?」。うーん、なんかボケ老人あつかいだよね。そして「一日100キロも歩き回ってるんだから、ちょっとは休んだらどう?」と説教される。言われてみればそれもそうだよなーと納得して、宿の風呂に引き返す。鉄成分がたっぷり含まれた赤茶けた湯を愉しみながら「せっかく温泉地に来たんだから土産物店とか散策に行きたいな〜」とまた思う。どうもまだ自分の立場がわかっていないようだ。
     さて日本海のゴールまで残り126キロ、ここまで来りゃあ泣きながらでも爆走するしかないでしょうよ!   (次回につづく)
  • 2010年05月29日バカロードその12一歩足を前に出せば一歩ゴールに近づく〜日本横断「川の道」フットレース・520キロ参加記〜
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18~21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

    (5月、東京湾岸、太平洋を望む荒川河口から出で、長野県の千曲川、新潟県は信濃川という大河を巡って日本海へと至る520キロ、国内最長クラスの超長距離フットレースにタウトク編集人が挑戦した6日間の記録である)
     朝だ。ホテルの窓枠の向こうで夜が白々と明けていく。一睡もできなかった。緊張感よりもコーフンが強すぎて、眠ろうとすればいよいよ目も頭も冴えわたる。6日間もつづく不休のレース前だ、せめて数時間は眠っておきたかった。が、後悔してどうなるもんでもない。こうなりゃ走りながらでも眠るしかない。ハラをくくれ、ハラを!
     JR京葉線、東京駅から5駅目の「葛西臨海公園駅」を下車し改札を抜けると、眼下の駅前広場に「川の道フットレース」の横断幕が掲げられている。スタート1時間前にして30人ほどのランナーの姿が見える。おそるおそる近づくと、みな笑顔で挨拶をしてくれる。優しそうな人たちでよかった、と安心する。
     ランナーたちは出発前の荷造りに忙しい。走るうえで最低限必要な荷物を小さなリュックにまとめ、残りの荷物・・・トランクやザックには名札をつけて大会側が用意したワゴン車に乗せる。この預けた荷物はそれぞれ3つの関門(宿泊施設)とゴールにランナーのペースにあわせて送り届けられる。実にうまく考えられたシステムである。これが関門とゴールそれぞれ4つに荷物を分けるとなると大変な作業だ。
     スタート会場横にはコンビニがあり最後の腹ごしらえができる。また大きめの公衆トイレもある。駅下車30秒のところによくぞこんな理想的なスタート会場が設けられたものだと感心する。
     開始10分ほど前に全員で集合写真を撮影する。撮影をしていると「坂東さん」と声をかけられ、誰だろうとその方角を見やると、何とそこには前年度覇者で女傑の異名を誇る藤原定子さんがいた! (な、なんで藤原さんがぼくの名前なんかご存じなのだろう)と戸惑っていると、藤原さんは「コースの途中から東京スカイツリーが見えるよ!」と教えてくれた。なぜぼくにスカイツリーをご紹介いただけるのだろう。そうか、きっと参加者名簿を見て、はるばる四国からやってきた選手だと知って東京の新名所を教えてくれてるんだ!と気づく。超一流ランナーなのに末端ランナーへの細やかな心遣い、感動である。ぼくはたちまち藤原定子選手のトリコになった。
     520キロレースのスタートは、今まで参加したどの大会よりもランナーたちの優しい笑顔にあふれていた。そこに「レース」という概念はないように感じられた。長い旅路をともにする見知らぬ旅人たちと、何を競うことがあるだろう。新緑のトンネルをゆったりと進む60名余は、大海へと向かう回遊魚の集団のように思えた。誰もが静かに、注意深く、脚を繰り出している。その先にある世界に憧れと畏敬の念を抱きながら。心はおだやかであった。緊張感はなかった。520キロという未知の距離を、この仲間たちと越えていくのだ。
     ・・・そして、これらの穏やかでやさしい感覚がすべて勘違いであったことを、数時間後、ぼくは知ることになるのだ。

    第一関門へ
    東京都荒川河口~埼玉県秩父市 170キロ

     スタートから約1キロはゆっくりと集団走を行い、荒川河口である東京湾岸に達した所でふたたび全員で記念撮影を行う。河口を離れるとすこしピッチが上がるがまだ全力というわけではない。520キロという途方もない距離の一歩目だ、まずはゆっくりと足慣らしをしておこう。すると、再び前年度覇者の藤原定子さんが近づいてこられ、左前方を指さしながら声をかけてくれる。「坂東さん、ほらあれが東京スカイツリー!」。う、う、う。田舎者のぼくは藤原さんのテンションについていけない。というか先月、東京スカイツリーのふもとにあるホテルに宿泊したこともあり実はスカイツリーはあまり珍しくなく、新鮮な驚きっぷりを表現できないのだ。(ごめんなさい藤原さん、ぼくのような者にスカイツリーを紹介してくださったのに・・・)。
     そんなこんなの心理的葛藤を抱えつつ、橋を渡って複雑な道を経由する5キロあたりまでは藤原さんが抑え気味のペースで全体を導いてくれる。5キロをすぎると藤原さんの「あとはフリーで!」の言葉とともに集団がばらけ、6名の先頭集団が形成される。ぼくは先頭集団の後ろにつける。
     宮古島での2レース以来、ウルトラ系レースの序盤で先頭集団に追いすがることが、秘かな楽しみとなっている。そこには超長距離界で名高いランナーたちのナマの走りがある。実業団アスリートや大学駅伝の有名選手とはまた違う、タフな人生を生きるランナーたちがいる。日常の仕事を持ちながら1日に20~30キロもの練習を欠かさない人たち。休暇を工夫し、旅費を工面し、大きな荷物をたずさえて会場にやってくる。テレビカメラも取材記者もいない場所で、驚くべき長距離を淡々と刻む。勝って名誉や賞賛なく、金銭的メリットもない。ただ速く、長く、走るためだけに走る人たち。ぼくはそんなランナーの背中を神々しく見る。
     先頭集団の面々はリラックスしている。もはや馴染みのメンバーなのだろう。会話を交わしながら一定のペースを刻む。時おり1人が抜け出したりもするが、集団は一気には追いかけない。若干ペースをあげ、数分の後には先行ランナーを吸収していく。
     かつてこの大会2連覇を果たした吉岡敦さんや、第1回大会から出場している篠山慎二さん、日本縦断走やピースランなど超長距離ラン界の草分けである落語家・三遊亭楽松さんの走りを間近で見られる。こんな贅沢はないだろう。
     すっかり満足しきると15キロあたりで先頭につけなくなる。集団はキロ5分台後半で進んでいる。ぼくにとっては100キロ走のペースである。これ以上追いかけると潰れてしまうと判断しピッチを落とす。延々とつづく荒川河川敷の道に、暑い日差しが照りつける。季節をひとつ飛ばしでやってきた真夏日和。黄金期間中すべて晴天というウソのような天気予報も出ている。標高2000メートル近い山越えがある川の道フットレース、風雪にさらされることを恐れていたがよい兆候である。
     当レースはじめてのチェックポイント1(CP1・埼玉県戸田市)に出場48人中30番目に入る。35.7キロに4時間14分、非常に遅い。520キロをどのようなペースで走るべきか見当もつかないため、極限までスピードを落としている。が、楽かといえばそうでもない。遅ければ遅いほど行動時間が長いといえる。使い慣れない脚の筋肉に負荷がかかっているのか、身体がずっしり重い。エイドを兼ねたCP1ではソーメン、おにぎり、パン、グレープフルーツなどをいただく。早めにエネルギーに転換してくれればいいが。
     エイドを出ると荒川の堤防上にあがる。今まで続いた河川敷とは大きく違う点がある。水道がないのだ。河川敷には運動公園の施設としてトイレや水飲み場がひんぱんにあった。だが土手の上に水場はもちろんない。迷いに迷ってウォーターリザーバーをリュックに装着してきたが吉と出た。常時1リットル程度の水は所持しておかなければ脱水に陥る可能性もある。
     42キロ付近で私設エイドに迎えられた。「川の道」の特徴のひとつだが、公式エイドと見まごうほどの巨大な私設エイドが出されている。工夫が凝らされた軽食やドリンクのみならず、キンキンに冷えたビールが用意されているからさあ大変。飲みたい!しかし、レース中の乾ききった身体にアルコールなんか入れてフラフラになってしまわないのだろうか。
     そのような疑問は次のひと言で融解した。「ビール、よく冷えてますよ」
     飲むしかない。飲まずにはいられない。一本いただきグビグビあおる。ノドを突き刺すシャープな切れ味、最高だ! 食道と胃壁をつたってなだれこむ。テンションがあがる。暑い日にはビール! この際、理屈は単純なほどよい。
     49.6キロ地点(CP2・埼玉県さいたま市)のエイドではまたまたビールを1本飲む。アルコールが入ると精神的にゆるーい感じになる。緊張感がうすれ、まぁなるようになればよいケセラセラという心境に支配される。飲む前よりもノドの渇きをよけいに感じるので、飲酒と同時にスポーツドリンクを摂取し水分のバランスを取った方がよいですよ、と他のランナーが教えてくれる。周囲のランナーのほとんどがビールをあおりながら走っている。こんな豪快なレース、見たことない!
     ここから約15キロはサイクリングロードをゆく。背の高い菜の花が黄色い回廊をつくる。夕日が射すころには、公共スピーカーから夕暮れの音楽が流れる。川の道フットレースを「日本の原風景をたどる旅」と評した人がいたが、東京湾岸を発ったのが今朝の出来事だとは思えぬ木訥とした田園風景が広がり、夕陽に紅く染められている。
     日没寸前に65.6キロ地点(CP3・埼玉県吉見町)に到達。ここまで9時間24分。相変わらずペースがつかめない。エイドで出されたお汁粉はたとえようのない美味さ。サイの目状に切ったかぼちゃとさつまいもが小倉あんと渾然一体となり甘さが五臓六腑に染み渡る。図々しいのを承知で3杯いただく。名物の豚汁ソーメンもむろん1杯。
     夜のとばりが下りると若干の小雨が落ちはじめる。寒い。リュックから防寒用品を取り出す。今回、防寒具はおおむねホームセンターや100円均一ショップ、そしてイオンの安物衣料品売り場で買いそろえた。婦人用のももひき(最近はレギンスと呼ぶらしいが)を脚に装着し、アームウォーマー代わりに女性のふくらはぎを細く見せる脚絆みたいな物体(こっちは呼び名すら不明)をつけた。それぞれスポーツブランドものであれば3000円も5000円もするものだ。メーカーロゴ入りにこだわらなければ300円程度ですむ。不要になれば躊躇なく捨てられる金額だ。
     74.5キロ地点(CP4・埼玉県鴻巣市)が大会サイドが用意した最終のエイドとなる。温かいカップラーメンで最後の無銭飲食をし、熊谷の繁華街へと突入する。熊谷市街では幅広な大通りの左右にアンダーグラウンドな雰囲気のレコードショップやライブハウスが点在している。ブラブラお店を覗いてまわりたい誘惑にとらわれるが、さすがにレース中でもあり慎まざるをえない。何人かの賢いランナーは、この熊谷市街に仮眠所としてビジネスホテルを予約しているらしい。
     86.7キロ地点(CP5・埼玉県熊谷市)から103.8キロ地点(CP6・埼玉県玉淀駅)までの記憶があまりない。深夜3時35分に東武東上線・玉淀駅に着いたのだが相当な距離を居眠りしながら走っていたと思う。大会前日に眠れなかったのが響いている。徹夜2晩目なのだ。
     玉淀駅で仮眠をとる選手が多いと聞いていたが、駅舎内にベンチは1つしかなく、しかも1人の方が毛布をかぶったまま熟睡されていたので、当然眠るスペースも少なく、アテにしていた仮眠所としては向かないことが判明。がっかりしつつ玉淀駅をあとにする。駅には続々と後続のランナーがやってくるが、寒さをしのぐ居場所もなく、そそくさと次のチェックポイントへと向かう。
     夜明け寸前の朝方がもっとも冷え込みが厳しい。寒さと疲労と寝不足のためまったくスピードが出ない。歩いている方が速いくらいのノロノロ走りをしていると、タオルを頭に巻いた三遊亭楽松さんが猛スピードで追い越していった。三遊亭楽松さんは、超ウルトラマラソンの世界では誰もが知る「走る落語家」である。第1回川の道フットレースがたった4人の勇敢なるランナーたちによって始められたときからのメンバーであり、幾度もの日本縦断、本州縦断ランを実行している。なおかつ三遊亭一門の落語家として高座に上がりつづける話芸のプロである。このようなカリスマの方と同じ道を走られる歓びを与えてくれるのもまた「川の道」である。で、中距離走者のようなスピードで楽松さんはあっという間にぼくの視界から消えていった。
     この頃から体調が悪化し、いよいよ走ることが困難になってきて、スタートから120キロ地点ではじめて歩いてしまう。一度歩いてしまうと気力の維持が困難になる。楽な方に逃げたくなるのだ。少し走ってはつらくなると歩き、また走っては心拍数が上がると歩く。10人ほどの後続ランナーに抜かれ、もう後から追いかけてくる人もいなくなった。眠い。眠すぎて真っすぐ歩けない。地図の縮尺を確認すると1時間に3キロも進んでいない。その事実にガクゼンとする。このままのペースでは、第一関門である170キロ地点の「こまどり荘」に36時間以内にたどり着くのは無理だ。鬱屈した気分。情けなさへのいらだち。「こんなランニングとも言えない歩きのレースをするくらいならリタイヤした方がマシだ!」と自らに毒づく。そして、なかばヤケクソに「リタイアするくらいならいっそ一回寝て、体力が回復するかどうか確かめよう」と決める。いったん眠りこんだら何時間を要するかわからないが、どのみち時速3キロじゃどうしようもないのである。道路ぶちに農作業用のほったて小屋があった。裏側にまわりこむと昇ったばかりの朝日がコンクリートの床に照りつけている。手で触れてみると温かい。身体を横たえれば岩盤浴のように心地良い。ウトウトする間もなく深い眠りの谷に沈んだ。
     汗ばむ暑さに目が覚めると、気力の充実を一瞬で把握できた。「走りたい」という欲求が頭をもたげる。腕時計を見るとたった15分しか眠っていない。しかし実感としては一晩ちゃんと寝たくらいのすっきりした感じである。仮眠とはこれほどまでに精神に効くものか。
     秩父市街まで約10キロ。全力で走ってみようと思う。走りだせば夢遊病者のように歩いていたさっきまでとは別人のように身体が動く。キロ8分ほどのペースでランニングできる。こんなことなら早めに仮眠をとっておくべきだった。
     後方から快調なペースで近づいてくる女性ランナーがいる。鈴木富子さんだ。鈴木さんは「お富さん」の愛称でウルトラマラソン界では知られたお方。昨日行われた大会説明会の会場で、鈴木さんからお声がけいただいた。東京在住ながら徳島市出身である鈴木さんに、同郷からの出場を喜んでいただいたのだ。われながらハイペースで走っているにも関わらず、「膝を痛めている」とやや身体を半身にして走る鈴木さんにまったくついて行けない。さすがである。鈴木さんには伴走者がいる。ロードバイク(自転車)で全行程をサポートする渡辺さんだ。トライアスリートでもある渡辺さんは、まめに行程表と予定到達時刻を見比べ鈴木さんを導いている。しかし520キロの長丁場、ほとんど立ち漕ぎで伴走する渡辺さんの労力はランナーを上回るものだ。
     129.8キロ地点(CP7・埼玉県秩父市)、秩父市街に着くとマクドナルドの看板が見えてくる。無性にクォーターパウンダーを欲する。昨年来から実施してきた「1人箱根駅伝」でも「徳島~松山間200キロ走」でも終盤のキツいときにダブルクォーターパウンダーで息を吹き返したのだ。マクドに飛び込み、財布から千円札を鷲づかみにしながら「クォーターパウンダー、セットで!」と叫ぶ。きっと鬼気迫る表情だったはずだ。するとレジのお姉さんがとても申し訳なさそうな顔で「すみません、クォーターパウンダーは朝9時からになっております」。ううっ、30分早すぎた!仕方なくメガマフィンで代用する。1個で688キロカロリー。これからはじまる山道へのカロリー補給としては充分か。テイクアウトし店舗横の地べたに腰を下ろしてむさぼり食らう。シューズを脱ぐと、足の裏が自分のものとは思えぬほど赤く腫れ上がり、土踏まずが消失している。そして燃えるような熱を発している。わずか130キロの走行でヤワな脚である。残り390キロ、この脚にかかっている。頼むぞ脚!
     秩父市街を抜けると荒川源流へと連なる深い渓谷上を道路が縫っていく。山腹には大小の滝が飛沫をあげ、山桜の幾万の花びらが風に舞う。巨大な岩石をくり貫いた洞門や、ヤマタノオロチが下界へと舞い降りたがごとき大スケールのループ橋を登り詰めていく。この間、秩父市街で追い越された鈴木富子さんと再び同じ道中を進む。鈴木さんの膝の具合は非常に悪化しているようだ。サポーターで硬く固定しているが、身体の傾きは一段と激しくなり、その痛みの強さがうかがい知れる。だがどんなに苦しくても元気で明るさを失わない。後ろ向きな発言もなく、ひたすらに第一関門を目指している。強いランナーとはこういう人のことを言うのだな。
     159.0キロ地点(CP8・埼玉県中津川分岐)を越えると二度目の日没が訪れる。街路灯も乏しい山道。ヘッドランプを装着する。聴こえるのは渓流が岩を打つ水音。ときおり遠くに集落の灯りがまたたく。光が視界に入るたびに「あれがこまどり荘か」と期待するが外れつづける。過去の参加者が何人も道を間違えたというキャンプ場を左手にやり過ごし、そろそろかという所で、大会関係者の方が出迎えにきてくれた。「入口がわかりづらいから迎えに来ましたよ」とのこと。何ともありがたい配慮である。ならば100メートルくらいで着くのかと思えば、そこから1~2キロは歩いた。こんな遠くまで迎えに来てくれたのかと申し訳なくなる。
     午後7時30分。170.2キロ地点(CP9・埼玉県中津川「こまどり荘」)についに到着した。関門閉鎖まで1時間30分残し、ギリギリセーフレベルである。そしてぼくたちが最終ランナーのようだ。
     こまどり荘は想像していたより遙かに大きな宿泊施設であった。施設の中核を成すのは巨大な円形広場を有する宿泊ホール、その周辺に木造のコテージが並んでいる。「川の道」としては、4つのコテージを借り切っており、1棟は食事と荷物渡し、1棟を女性ランナー用宿泊、2棟を男性ランナー用宿泊と決めてある。
     ホールの2階にある風呂場に向かうが、すでに脚の筋肉が限界なのか階段を昇る余力がない。エレベーターがあったのでよかったが、こんなことでは今夜の標高1828メートル三国峠越えが思いやられる。お風呂は脱衣所も浴室も小ぶりで5人も入れば満員御礼である。幸い到着がビリゆえ入浴客も少なくゆったり浸かれたが、上位ランナーは芋洗い状態だったのではないか。天然温泉のお風呂は悶絶するほどの気持ちよさ。人間、生きているうちいろんな快楽に出会うだろうが、これほどの快感って滅多にないぞ。特にシャンプーを足の裏につけて、タイルの角でコリコリこすると、あ~快感で卒倒しそう!
     湯上がりに食事棟に戻り、川の道女性スタッフさんが運営するカウンターバー風レストランへ。最初、どうしていいものがわからずぼーっと座っていたら、隣のランナーの方が「注文しないと出てこないよ」と教えてくれる。なるほど壁には「カレーライス」「シチュー」「フルーツポンチ」などのメニューが掲示されている。カレーをお願いすると小鍋に入ったカレーを温めなおしてくれ熱々で出してくれた。そして冷えたビールを一杯。ウマイ!そしてカレーおかわり!さらに三度目のおかわり!
     胃袋を大量のカレーライスで満たし、仮眠所のコテージへ移動する。2つの二段ベッドを含め7~8人分の布団が敷かれてある。かろうじてベッド1人分が空いていたので横になる。枕元にコンセント口があった。ぬかりなく携帯電話に充電しておこう。就寝は10時。夜中の2時には再出発するから、眠れるのは2~3時間だろう。

    第二関門へ
    埼玉県秩父市~長野県小諸市 95キロ
     あちこちで携帯の目覚まし音が鳴っている。深夜の山越えへと出発するランナーたちの荷造りの音がする。目覚めると夜中の12時ちょうどである。眠りについて2時間。不思議と思考は明瞭である。眠れなくても身体を休めておこうと横になったままいると、数分のうちにコテージ内に1人とり残される。出発深夜2時は遅すぎるのだろうか?
     深夜の峠越えは危険であるため、大会サイドからは複数のランナーで示し合わせ集団で登るよう推奨されている。ぼくを含め深夜2時出発組は、落語家の三遊亭楽松さん、徳島出身の鈴木お富さん、お富さんのサポーターであるトライアスリートの渡辺さん、そしてぼくである。
     2時前に食堂にいったん集まり、再びカレーライスで腹ごしらえし、真夜中の峠越えダート道へ歩み出した。気温は0度近いか。吐く息が白くたなびく。部屋着用に持参していたダウンジャケットをはおり、ありったけの防寒具を身につけるがまだ凍える。
     ラッキーだったのはこの道程、5度の経験がある楽松さんが先導してくれたこと。未知の山道、ぼく1人なら相当ビビリながらの山行となったはずだ。漆黒の闇をヘッドランプの灯りをたよりに進む。楽松さんはおそらくペースを落として歩いてくれているが、それでも速い。夜明けまでは何とか離れないようについていったが、太陽の光が射すと緊張が切れた。いつまでも楽松さんにペースメーカーをさせるわけにもいかない。楽松さん、渡辺さんには先に進んでもらい、鈴木さんと2人で三国峠を目指す。ときおり若干の休憩を入れるのだが、鈴木さんは道路に横たわったかと思うと、数秒でイビキをかき睡眠に入る。豪快である。ふだん東京に住んでいる都会の人が、こんな山奥の森の中で、路上で爆睡である。かっこいい! しかし長時間寝ていると次の関門越えが厳しくなるので3~5分で起こさせてもらう。
     路肩に積雪が見られはじめる。寒いはずだ。川の道は、東京都心部の真夏から中津川渓谷の春桜、そして冬景色の三国峠と、四季をダイナミックな連続絵巻で見せてくれる。
     蛇行する林道をゆく。山腹をいくつも巻くと、右ななめ前方の山稜に人工の建造物が見える。鈴木さんによると峠直下にある公衆トイレらしい。あそこまで行けば登りが終わる! だが1度小さく見えた目標物のトイレは、しばらくの間姿を隠し、われわれを苛立たせる。はやく頂点に着きたいという思いが足の運びを速くさせる。
     午前7時20分、188.5キロ地点(CP10・埼玉・長野県境三国峠)、ついに頂点に到達。と同時に長い埼玉県横断の旅を終え、長野県側へと足を踏み入れる。それにしても埼玉という土地の奥深さには驚かされる。都心に近い位置にはじまり最終的には雪冠を抱く八ヶ岳連峰を見渡すこんなに場所まで「埼玉」なのである。お見それしました。
     峠を越えると一気の下りだ。さっきまでのダート道とうって変わって長野県側の道はアスファルト舗装がされており走りやすい。飛ばしすぎて膝を傷めないよう慎重に進む。ここで時間を稼いでおきたい。出発が遅かったため今夜12時に締め切られる関門まで時間的余裕がない状態なのだ。
     峠のヘアピン道を1時間も下れば千曲川の源流に取りつく。山林はやがて農村の風景へと移ろい、畑作業をする農家の方々から「頑張れ」と声援をもらう。小さな集落に入ったところで、ヤマザキショップ脇の駐車場に私設エイドを出していてくれた。たっぷりのソーメンとかつおぶしをのせた冷や奴をいただく。こんな見ず知らずの人間のために、たくさんの食材やら飲み物を用意してもらって、タダで提供してもらって、頭が下がる思いである。
     本格的な朝の到来とともに、わが寝不足の脳みそにもわずかながら正常な判断力が戻ってくる。もう一度、今宵の関門について思いを巡らせる。第二関門である「小諸グランドキャッスルホテル」まで距離は約65キロ。関門閉鎖は深夜12時、そして現在は朝10時。残された時間は14時間である。ということは、毎時休みなく5キロずつ前進して、ようやっと1時間前に関門突破できるってことだ。
     時速5キロ、このふだんならどうということもないペースが、すでに200キロを走った身体に重くのしかかる。まず両方の足の裏は、化け物級の膨張を見せており、靴紐を最大に緩めても中で張り裂けそうなほど。2センチも大きめのサイズを選択したにも関わらずだ。1歩踏み出すごとにズキズキと脳天まで痛みが貫く。15分に一度はシューズとくつしたを脱ぎ捨て、冷たいコンクリートや雪溶け水流れる用水路にヒートアップした足裏はつけないと持たない。熱冷ましの休憩を1時間に4回×3分入れると、あとの時間は時速6~7キロで走り続けないと、関門突破は難しい。このレース、絶対に途中リタイアはしたくない。そのためには徹底した自己管理が必要だ。1時間に5キロという大まかな設定ではなく、12分間に1キロ進むと決めて、意地でもそのペースを守り通す。登り坂では歩きしかできないからペースが落ちるが、仮に1キロ12分以上かかったら次の1キロで取り戻す! そう覚悟を決め果てしない持久戦に入った。
     218.2キロ地点(CP11・長野県南牧村)を越えると、5キロにも及ぶ下り坂がはじまる。ここで時間を貯金すべく、今まで封印していた痛み止めの錠剤を服用する。痛み止めはクセになるし、飲めば飲むほど効かなくなってくるので使用を控えていた。だがここにきて針山の上を行くに等しい激痛と、それでもスピードが要される事態に、ついに使用に踏み切る。カラカラに乾いた身体に鎮痛剤が一気にしゅみこむ。痛みが秒単位で消え失せていく。ケミカルとはまことに恐ろしい。そして人間の感覚とはこうも簡単に薬品でコントロールできるものなのか。痛みがなくなった脚を思い存分つかって下り坂を猛ダッシュする。ストライド全開だ。気持ちいい、だがこの気持ちよさの反動はあとから必ずやってくる。「毎度こんにちは、激痛ですよ」と無遠慮に顔を見せる。鎮痛剤が切れた後は、効く前の何割かは痛みが増している。痛みは脳から送られる危険信号である。信号を無視して身体を酷使するわけだから、その代償は大きい。
     残り時間との戦い、痛みとの戦いがつづく。緩いアップダウンの続く単調な道を速いピッチで走っては、脚が限界に達すると裸足になって冷ます。もはや景色は頭に入らない。ときおり千曲川の両岸に観光地らしきホテル街や土産店が現れるが、それがどこの街でどんな観光名所があるのかなどと考える余裕はない。走っても走っても距離が縮まらない。
     佐久市の巨大なバイパス道に入った頃に自分のいる位置を見失う。どこかの交差点で小諸市方面に左折しなければならないのだが、今自分がどこにいるのかわからない。ガソリンスタンドがあったので事務所で道をたずねると若いお兄ちゃんが親切に、何度も曲がり角の場所を説明してくれた。
     前方にランナーが見える。若い男性だ。長い木の枝を2本つえにして歩いているが、ほとんど進んでいない。声をかけると「半月板をやってしまいました。時速2キロくらいでしか進めてません」と痛々しい。残り10キロ、関門閉鎖まで2時間。とても間に合いそうにないが、ぼくにはどうすることもできない。「頑張って」という以外にかけられる言葉が見当たらない。
     さらにもう1人、女性ランナーが歩道に立ちすくんでいる。体調がとても悪いようだ。「ホテルまで残り500メートルくらいですか?」と尋ねられる。「いえ、まだ7~8キロありますよ」と答える。彼女もまた自分の居場所を見失っているのかも知れない。背中に力が入らないようであり、直立してのランニングができない。両手につえをつき、なんとか自分の身体を支えながら、それでも走ろうとするが、真っ直ぐ走れず車道に蛇行していってしまう。夜間だが車の通りの多い道である。万一の事故が起こっては、フットレースもクソもない。彼女と相談をし、背中の荷物を預からせてもらう。まず身体的負担を減らし、ぼくが先に関門であるホテルまで走って、大会関係者に状況を説明することにする。
     257.0地点(CP12・長野県佐久市)から関門までの記憶はない。夢中で走った。脚の痛みは完全に忘れた。一刻もはやく大会関係者に報告しないと、事故が起こってからでは遅い。心拍数の限界いっぱいまでスピードをあげ、小諸市街を縫い、駅ターミナルを右手に通り過ぎ小諸グランドキャッスルホテルに着く。深夜23時38分。
     大会スタッフに女性ランナーからあずかった荷物を託し、様子を見に行ってもらうようお願いする。彼女自身がリタイヤをしたわけではない。もしうまくいけば時間内にホテルに着くかもしれない。体調が悪化しているならスタッフが助けてくれるだろう。それだけ考えると、精神の緊張が切れた。もうヘトヘトなのである。
     「お風呂が12時で終わってしまうので、今のうちに入ってしまってください」とスタッフにうながされ風呂場に向かう。大きな浴室には誰もいない。水風呂があるので足を冷やしたかったが、終了時刻まで時間がないので一瞬浸けただけ。関門は12時だからギリギリにゴールするランナーもいるのに、12時にお風呂を閉めるなんて殺生だな・・・と思う。この頃からあまり複雑な思考ができなくなり、身勝手な考え方がはじまっている。
     明日・・・いや数時間後の出発のために準備をする手がなかなか動かない。あずけてあった大型ザックの中から明日必要なものを取り出そうとするのだが、頭が整理できないから荷物もまとまらない。同じ物を入れたり出したりする。風呂場の脱衣所の地べたに座り準備を整え終わるまで30分もかかった。ホテルの清掃スタッフが早く出て行ってもらいたい風に横目でチラチラ見る。
     よろよろとした足取りで雑魚寝部屋に向かう。男性の寝室は3部屋。1部屋に10人前後が寝ている。1つ目の部屋に入ると爆音ともいえるイビキが響きわたっていたので回避し、2つ目の部屋で横になる。ここもまたイビキと歯ぎしりの饗宴だが、意外に不快に感じないことが不思議だった。さぞかし大変だったんだろうな、と優しい気持ちに満たされる。やがてイビキを子守歌代わりに深い深い眠りに落ちていく。それは睡眠というよりは気絶に近かった。(つづく)
  • 2010年04月28日バカロードその11 最長520キロレース
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

     とゆーわけで、日本列島つづうらうら行楽たけなわの黄金週間に、520キロをぶっ通しで走るウルトラマラソン・レースに出場する。
     ひと言に520キロと申し上げても、どれっくらいのスケールなのか自分自身ピンときていない。フルマラソンの42.195キロなら「とても長いですよ」と他人に説明できる。徳島県庁を起点に由岐や脇町まで2本の脚で移動すると考えれば、なるほど納得のいく遠さだ。レース中めいっぱいのスピードで押していくと、28キロあたりで残り15キロが「永遠か!」と感じるときがあるしね。
     ましてやウルトラマラソンの100キロなんて、途方もなく彼方にフィニッシュ会場がありすぎて、70キロまで達しないと距離の持つ意味が理解できない。1キロ6分で走り続けたら10時間かかる・・・頭の中で理解可能な100キロとはそのような把握の仕方でしかない。つまり空間の広がりではなく、自分の実働時間と疲労度の記憶である。「これくらい痛くて身体が動かなくなるのが100キロ」という感覚だけは明瞭なのだ。
     さて520キロともなると、あらゆる想像の範囲を超えてしまい、長いのか短いのか、ツラいのか楽しいのか想いが及ばない。フルマラソンがハーフマラソンの倍キツいのではないように、520キロが100キロの5倍大変なのではないだろう。きっと何十倍ものダメージが押し寄せるのだ。でも、まだ走っていない現段階では「何十倍」ってどんなもんだかわからない。
     ともかく、そのような意味不明な長距離レースに挑戦するわけだ。
     「日本横断・川の道フットレース」は、東京・長野・新潟間の520キロメートルを制限時間132時間のうちに走りきる日本最長級のウルトラマラソンだ。制限時間132時間といっても、520キロという距離と同様つかみどころのない数字だ。5日間と半日と聞いて何となくわかる。
     4月30日朝9時に東京湾岸の葛西臨海公園を出発し、初日は荒川沿いの河川敷を遡上する。都心を抜けしばらく埼玉の市街地を走り、徐々に奥秩父の山岳地帯へと足を踏み入れる。最初の関門である170キロ地点(埼玉県秩父市)を36時間以内に越えなくてはならない。
     関門には、ランナーのために宿泊施設が用意されている。「こまどり荘」という山荘風の宿は、小ぶりだがお風呂を備え、食事も提供される。雑魚寝ながら布団が敷かれた仮眠所もある。ここでランナーは2時間以上の休憩が義務づけられる。関門チェック後、2時間は出発してはならないのだ。全行程のうち、このような関門+宿泊施設が3カ所ある。1カ所につき2時間、合計6時間は強制的に休憩させる算段。つまり最低でも6時間の仮眠がとれる。といっても1週間近いレースで睡眠が合計6時間なんて化け物は存在しない。各宿で3〜4時間は眠らなければ体力が回復しないと想定する。
     「こまどり荘」を出ると埼玉・長野県境をめざし山深い中津川林道を登る。標高1828メートルの三国峠越えは試練となる。深夜ならば気温は0度前後まで下がり、凍てつく。クマを筆頭に野生動物も多く現れるという。すでに脚に障害が発生していたとしたら、そうとう悲しい思いをしながら、闇夜の深い森を彷徨わねばならない。野性のシカやイノシシが突進してきたらどうしよう。どうしようもないと思うけど・・・。ここがレース前半の山場だ。
     第二関門は265キロ地点(長野県小諸市)。制限時間は63時間、つまり2日と15時間だ。宿泊施設は「小諸グランドキャッスルホテル」。市街地にあるシティホテルで、展望のいい湯量豊富な天然温泉がある。265キロも走った直後に天然温泉なんかに浸かったら気絶してしまわないだろうか。用心しながら足の指先からそろーっと入ろうと思う。
     出発から320キロ付近で長野市の市街地に駆け下り(駆けられる脚が残っておればの話)、ありがたくも信州善光寺本堂をお参りし(こういったプチ・イベント感に主催者の温かさというか粋なはからいを感じる)、いよいよ新潟県境、信濃川の最上流域をめざす。
     最後の関門は394キロ地点(新潟県津南町)。制限98時間以内に「深雪会館」を目指す。純和風の素朴な駅前旅館だ。ここまで4日間で約400キロを走るってんだから1日平均100キロペース。4日続けて100キロレースをやるって考えればいいか。
     最終関門をクリアすると、あとは信濃川沿いを日本海目指しひたすら北上する。レース終盤は日本海の情景をとにかく渇望しつづけるだろう。日本海に対面し長い苦難の旅を終えることができるからだ。疲労の極で波音の幻聴など聴きはしまいか。きっと一日中幻聴が鳴り響くんだろね。i-podいらずのイージー・リスニングサービスだと前向きに捉えよう。
     ゴールは新潟市、フィニッシュ地点は「ホンマ健康ランド」という24時間営業の大型クアハウスである。11種類のお風呂が疲れた・・・いや壊れたランナーの心身を癒してくれる。過去の参加者のレポートを読むと、極度の疲労から温泉の湯舟で溺れそうになったり、用を済ませたとたんトイレの入口の床で眠りこんだりと、一見ほのぼのとした修羅場が展開されている。
     フィニッシュテープが用意される最後の時刻は5月5日夜9時。昨年は50人が出走し、38人が完走した。この大会に出場するには過去に120キロ以上のウルトラマラソン完走経験が必要であるから、それなりの強者である。そんなランナーでも4人に1人の比率で途中リタイアする厳しさだ。足の裏、ヒザ、股関節、そして全身の筋肉、そのすべてに確実に故障が発生する。心身健康な状態で走れる可能性は0.1%もない。血尿、幻覚、幻聴、意識混濁は異常事態ではなく、乗り越えるべき山のひとつにすぎない。
     凡庸な中年男子がこのような超過酷な環境に放り込まれたとき、どれほどブザマな軟弱ハートをさらけ出し、いかなる歴史的ヘマをやらかすのか。そのサディスティック・リポートは次回をおっ楽しみに〜。(つづく)
  • 2010年04月05日バカロードその10 脳みそが人魂 〜宮古島、2日連続100キロ〜
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

    (前回の話=沖縄・宮古島で100キロマラソン×2日連続の初日。10キロ過ぎまで先頭集団につくが、あえなく引き離されたあげく、暗闇に道を失い途方にくれる)
     正規コースに戻るまであと何キロあるんだろう? 暗闇のなかを夢中で脚を回転させているんだけど、走っても走っても前に進んでいる気がしない。明確な目標地点もなく速いレースペースで走るって行為は、こんなわけわからん状態なんだな。
     思考回路が奇妙にねじれている。数分前まで絶好調で走っていたハイな気分の残渣が体内にある。脳内麻薬であるエンドルフィンの分泌がストップしてない。一方で、二度とシリアス・レースには加われないという哀しみがひたひたと満ちてゆく。引き返しながらも、いまだにこの道が本当に間違っているのかどうか疑っている。ひたすら真っ直ぐ走ってきたのに、どこに曲がり角があったってぇの? 記憶不明瞭で思い出せない。パッパッと思考がうまく切り替わらない。
     いま、ふつうの人なら何を考えるのか、考えてみることにする。考えるべきは、ゴールまでの80数キロを何を支えに走ろうか、だ。2日連続100キロをこなすためにやってきたんだから、何時間かかっても走るべきだ、と人間として正しく思うことにする。しかし「思うことにする」と「思う」は違う。まったくそうは思えないのである。やっぱダメだ〜。
     やがて、前方にランナーの長い列が見えてくる。腕時計を見る。30分以上も迷走していたようだ。道を誤った地点が判明した。ぼくは正規コースの県道を直進せず、三叉路をゆるやかにカーブして「砂山ビーチ」へと向かう道に入ってしまったのだ。砂山ビーチは宮古島随一の観光地であり、大型バスも通れる立派な道が続いている。明るいオレンジの街灯の列は、県道沿いにではなく、砂山ビーチへと連なっている。視力が極端に悪いぼくは、三叉路に設けられた看板に気づかず、街灯の照明にだけ気を取られて前進したのだ。
     夜が水平線の底から白く変わっていく。モノクロだった宮古島の輪郭がじわじわと着色される。景色が明瞭になっていくとともに、レースを失敗したという現実感がしのび寄る。両脚に重い濡れ雑巾が巻きついているよう。全身のどの筋肉にも力が入らない。意識しないと正しいフォームを維持できない。気を抜くとゼンマイ仕掛けの人形のようにギクシャクとしか走れない。
     今日は負け犬だワンワン、とつぶやいてみる。ワンワンワワン、ニャンニャンニャニャン。理屈では説明できない敗北感と罪悪と幻滅に苛まれ、ワンワンワン、ニャンニャンニャンと声を出して感情を抑える。ぼくは、こんな遠くの島まで来て、いったい何をやってるんだろう? 
     スタートからわずか20キロも進まない場所で、ぼくは走るのを止めた。
         □
     翌早朝5時。2日連続の2日目。「宮古島100kmワイドーマラソン」のスタート会場は華やかなイルミネーションに彩られている。開会イベントを仕切るDJが弁舌なめらかにランナーを鼓舞する。五輪ランナーの有森裕子氏が芸能人はだしの達者な挨拶をする。昨日の「宮古島ウルトラ遠足」の和気あいあいとした会場風景とは別天地である。
     定刻スタート。拡声器を積んだ先導車が先頭ランナーを誘導する。道路の要所には目映い投光機が配置されている。道沿いの体育館やグラウンドなど公共施設の照明が点灯されている。道に迷わないよう、あらゆる交差点にスタッフが配置されている。夜明け前ながらとても走りやすい。
     つまり「宮古島ワイドー」は極めて管理レベルの高いマラソン大会であり、ランナーによる自己管理型の「宮古島ウルトラ遠足」と対象を成すのだ。本来あるべきマラソンレースの姿とは、どちらなのだろうか。大会の多くは地方自治体が主催している。そこでは事故は許されないし、一定以上の安全が担保されていなければならない。道路規制を行い、巨大なエイドが設けられ、Tシャツやらパンフやらお弁当やら前夜祭やらと、莫大な物資を消費する。税金を投入しているだけあり、次年度も大会が続くかどうかは経済効果で計られたりする。その状況にランナーたちは慣れ、もっと便利に、もっと豊かにとリクエストをする。本来、シューズとウエアと小銭さえあれば、どんな道でも遠くまで走っていけるのにね。
     ・・・いつになく真面目なことを考えながら走っていると、前にいるランナーが5人だけになっていた。1人が独走し、4人が横一列で走っている。彼らのナンバーカードは「1」「3」「5」。若い奇数ナンバーは昨年の男子優勝者、準優勝者らに与えられたものである。7時間30分でゴールできるトップレベルのランナーたちだ。そんなのについていってどうするんだ? しかし、またしても有頂天気分が舞い降りる。先頭集団にいることのエクスタシーが理性を狂わせる。ぼくは本当に愚かで、学習力に乏しい人間なのだ。
     10キロを46分で通過。対岸にあるはずの来間島は闇の彼方に姿を見せない。来間大橋1690メートルを渡り、島内で折り返す。15キロ地点で6位、20キロは10位。キロ4分台の後半で進むが、順位を徐々に下げていく。むろん自らの実力をわきまえない自爆走だ。フルマラソンの自己ベストのペースより早いんである。
     明らかなオーバーペースがたたり30キロでハンガーノックがやってきた。同時に体調が悪化していく。間断なく吐き気に襲われては、空ゲロを何度も吐く。腹がグルグルと鳴りはじめ、漏らしそうになる。漏れる、もう漏れる・・・という大波・小波が大腸に押し寄せては引く。暴発寸前の腹を抱え、尻の括約筋に神経とエネルギーを集中させながら走る。トイレを見つけるたびに飛び込み、便意を解放する。
     30キロでこんな苦しくて、あと70キロも走れるだろうか。この苦しさが収まることなどあるのだろうか。後半もっと増していくのではないか。「市民ランナーはマラソンを楽しまなくっちゃ!」というごく一般的な命題が、呪いの言葉のようにコダマする。この苦しみを耐えきって100キロ完走できたら、後に残る大きな経験値になるんだろうか。
     リタイアの誘惑に支配される。もし今、収容車がやってきて係員に「ゴールまで乗っていった方がいいですよ」と甘く誘惑されたら、即座ににじり寄りそうだ。
     長さ1425メートルの海上橋・池間大橋を渡り、島をぐるっと一周する途中、小高い丘のうえに42.195キロ地点を表示する看板があった。通過タイムは3時間58分45秒、サブフォー達成だ。誰も見ていないことを確認し、ヤッター!と小さくバンザイをしてみる。ゲロ腹&ゲリ腹でも4時間切れるんだという点を高く自己評価し、満足感に包まれる。フルならここでゴールして、大の字になって寝ころんで、豚汁とかコカコーラとか好きなだけ飲んで休憩できるのにな、とさみしく思う。
     50キロの通過は4時間49分。サブテン(10時間切り)は相当あやしい状況になってきた。すでにキロ6分ペースが守れていない。計算上はアウトである。
     中間点に荷物受け取り大エイドがある。主催者から支給された大きな荷物袋の中には、エクレアを3個入れてある。地べたに腰をおろし、靴を脱ぎ、熱くなった足の裏を地面にべったり着けて冷やす。そのまま後方に寝ころがって、曇天の空と対峙しながら、エクレア3個を口につめこみ喉に流し込む。「足を冷やす」「寝ころぶ」「カロリー補給する」。すべての行動を同時に行い、時間短縮をはかる。この大エイドでの休憩は3分以内。それ以上休むと、二度と立ち上がれない気がするから。喉から胃までの食道が3個のエクレアでつながると、脚を大きく天に振り上げて反動で起き上がる。明るい兆しの見えない後半戦のはじまりだ。
     フルマラソンで言う「30キロから押していく」粘りとはほど遠い、「あるがまま」を受け入れざるを得ない状態。今、出力できるエネルギーはこれ以上も以下もなく、走るスピードもただ繰り出す脚の運びにまかせるだけ。
     55キロからは1人旅となった。前にも後ろにもランナーは見えない。メリハリのないゆるい登り坂と、だらだらした下り坂がエンドレスで繰り返される。さとうきび畑や牧草地のなかを、ギラギラ南洋の日に焼かれ、強い横風にあおられる。イソップ寓話の旅人のようである。あの話はどんな結末だったっけ。北風と太陽が旅人のコートを脱がせる勝負をして、太陽が勝ったって話だったよな。そこからどんな教訓が得られるんだっけ? 太陽を神と崇め、ありがたがる習性はラテン語文化圏だけじゃなくて世界共通だから、だから、それでどうした、うー。思考力が低下しているので、こんな無意味な自問自答をひたすら唱える。
     100キロレースの後半・・・ぼくの場合70キロあたりから、理解可能な苦しさの範囲を通り越してしまい、何が何だかわからなくなる。肉体と外界の境界線があいまいになり、いま走っているという感覚がなくなる。地上から160センチあたりの位置を、ぼくの脳みそというか意識だけがふわふわと空中を浮遊しながら前進する。存在としては、人魂(ひとだま)みたいなもんである。
     毎度こんな精神状態に投入すると、ウルトラマラソンは果たしてスポーツと呼ぶべきカテゴリーに属するのかどうか、検討が必要ではないかと思う。息を止めて水深数十メートルから百メートル以上も潜るフリーダイビングや、厳冬期の高山で岩壁登攀を行うアルパインクライミングを、「スポーツ」と称すれば腰の座りが悪いのと同様に、「ウルトラマラソンってスポーツですか?」と問われれば返答に迷う。
     そこには極限の競技性がある。最も重要な局面では、生命を賭したり、肉体の大きな損傷も覚悟のうえで挑む。それってスポーツなんだろうか?
     一方で、競技性とは正反対の、ただひたすら自分の内面を見つめる行為も伴う。宗教的には内観や瞑想という精神状態に似ている。一流のアスリートがある瞬間入る研ぎ澄まされたコンセントレーションの世界ではなく、脱力し、心拍数を落とした状態での意識の解脱。「今すぐ逃げ出したい」ほどの苦しい状態が6時間も7時間も続くと、意図せず自然入水してしまうスキゾイドの世界。これまたスポーツとは言い難い心象風景。
     で、この度は・・・・・・60キロまでは肉体的苦痛に苛まれ、60キロからは人魂たる無心の境地にひたりながらゴールに近づいていった。今日もまた捕らえどころのないウルトラマラソンの世界に没した。前半も中盤も後半も自分をコントロールできず、心の整理のつかないままにゴール会場が迫ってきやがる。
     11時間05分17秒。ゴールゲートの下で自分としては最もカッコイイと思われるガッツポーズを撮影用にキメる。やれやれ現世に到着だ。
     あと何べん100キロレースをこなせば、あやふやなこの世界の中核にたどりつけるのだろうか。
  • 2010年03月09日バカロードその9 有頂天バカは闇夜に懺悔する 〜宮古島、2日連続100キロ〜
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

     沖縄県・宮古島は世界で唯一の「100キロウルトラマラソンが2日連続で開催される島」である。あるいは「世界で一番早く・・・つまり1月に100キロウルトラマラソンが開催される場所」とも称されている。

     本当に世界で唯一かつ一番早いのかどうか確かめたわけではない。そのような評判があるので、そうなのかなと思っている。その辺はアバウトでよい。新年早々、徳島から1300キロも離れた南の島へ出かける理由は、100キロレースを連チャンで走れるから、という以外にない。
     四国や関西から宮古島に直行する航空路線はない。関西3空港かあるいは高松空港から那覇を経由し宮古島に入る。早期予約割引の航空券なら片道都合1万7000円台である。
     夜も明けぬ松茂とくとくターミナルにバイクで向かえば鼻ももげんばかりの寒さ。しかし高速バスの乗り場って、駐車場難の徳島駅前か、徳島市内から遠い松茂か、なんでこんな選択肢しかないのか悲しい。もっとほどよい場所に1停留所つくってくれ! バスターミナル駅が帰路にあるってのも意味不明である。ふつう徳島から出て行く方向にターミナル作るだろうに。
     とブツクサ文句をたれながら早朝の高速バスで発ち、神戸空港より出でて那覇空港に降り立てば気温は20度。初夏とも言える温かさである。さっそく空港売店で「塩ちんすこうアイス」を食すと悶絶するほど美味。那覇から宮古島へは空路50分を要する。宮古島は、本州はおろか、沖縄本島よりも台湾本土に近い位置にあるのだ。
     到着後は予約していたレンタカーを運転する。レンタル料1日3000円、けっこうボロボロの軽自動車だけど特に支障はない。空港を出ると木訥とした南洋の島のイメージが覆される。広い3車線道を自動車が行きかい、ファミマやモスなどチェーンストアの看板が目立つ。マックスバリュの広大な駐車場には数百のマイカーが並ぶ。林立する高層マンションやリゾートホテル。目抜き通りにはオシャレなショップ、カフェ、土産物店が居並ぶ。うーぬ、これではある意味、徳島より都会ではないか。
     島の至るところで道路の改良工事が行われている。島じゅうの幹線道路に広い歩道を増設している模様だ。青い海を遙か見渡せば、視界の彼方までつづく「伊良部大橋」の建設が行われている。宮古島と群島をなす伊良部島へと伸びる全長3540メートルの「通行料金を徴収しない橋としては日本最長」の橋は、総工費320億円をかけて2012年に完成する長大橋だ。農漁業を主産業とし人口わずか6800人の伊良部島に320億円かけて橋を架ける所作は、島人たちには悲願であっても、部外者にはバベルの塔の建築に思える。宮古島にはすでに2本の長大橋があり、1本は人口800人の池間島へ1425メートルの橋が、も一本は人口200人の来間島まで1690メートルの橋がででんと架かっている。こゆうのを見ると我が国の財政難ってのが信じがたくもあるが、そこは大人の事情があるのだろう。とかく、公共や民間のお金が投じられやすい島だってことは、盛んな土音が示している。
     宿泊は沖縄の離島に多いゲストハウスタイプの宿にした。ドミトリー(大部屋)なら1ベッド1500円〜1800円。シングルルームでも2500円前後が相場。コンセプトはバックパッカー向けではあるが、外国にある貧乏宿とは似ても非なるもので、とても清潔かつオシャレな造りである。ゲストハウスを経営する若者の多くはナイチャー(本土から移住してきた人)、運営するのは旅行中に住み着いたアルバイトスタッフたち中心だから、ここに泊まっても地元経済に貢献はできないかも知れない。たぶんゲストハウスじゃなくて「民宿」と銘打っている宿が地元経営なんだろう。

     さて肝心のウルトラマラソンだが、初日は宮古島100kmウルトラ遠足(とおあし)、2日目は宮古島100kmワイドーマラソンである。2連戦とはいうものの両大会が意図的に連戦を企画しているのではない。主催者が異なる別々の大会なのだ。「ウルトラ遠足」の主催者は、90年代にトランス・アメリカ・フットレース4700キロを2年続けて完走した偉大なウルトラランナー・海宝道義さん。「ワイドーマラソン」は地元新聞社・沖縄タイムス社と宮古島市役所が主催し、地元陸協、警察署、自衛隊なども協力体制をとっている。
     宮古島の人に「100キロマラソンに出るためにやって来ました」と告げると、ほぼ100%「ワイドーですね」との返事。「ワイドーの日はボランティアやってます」「1日道路で応援してる」との人もいた。ところが、前日に行われる「ウルトラ遠足」は驚くほど知られていない。両方の大会に出ると説明をしても「?」という鈍い反応である。「ウルトラ遠足」は、700人もの島外からのランナーつまり観光客を誘致している大会にも関わらず、島民はほとんど無関心なのである。参加者724人のうち沖縄県民の出場はわずか13人であることも感心の薄さを物語る。一方の「ワイドーマラソン」は100キロと50キロの部にエントリーした539人中145人が沖縄県民。つまり、沖縄県外のよそ者ランナーには「ウルトラ遠足」が好まれ、宮古島市民や沖縄県民には「ワイドーマラソン」の認知が高いという、奇妙なギャップがある。島に滞在しておれば自然とわかるが、地元のケーブルテレビや新聞で大きく報道されるのは「ワイドーマラソン」の方だけ。
     このことは大会運営自体にも影響を及ぼしている。両大会ともほぼ同じコースを走るのだが、「ウルトラ遠足」は基本的には歩道を走ることが義務づけられている。かたや「ワイドーマラソン」は車道上を走るコースが少なからずある。また、走った後でわかったが、道路の誘導員や、エイドの数、市民の応援などは「ワイドー」が圧倒的に充実している。主催者の挨拶も、どーも双方が微妙に対立しているような雰囲気を漂わせている。うーん、きっと大人な事情があるのだろう。長年、開催するなかでボタンの掛け違えもあったんだろう。
     しかしこれ以上、両者の運営のインサイドストーリーを詮索しても、前向きな何かを知ることはできないんだろう。島の施設や道路を借りて、楽しませてもらってる余所者ランナーとしては、精いっぱい走り、走ったあとは島で飲み食いし、お金を落とす。地元へのお返しはそれくらいしかできない。
     両大会の性格を簡単にまとめれば、こんなとこだろうか。
    □宮古島100kmウルトラ遠足=ランナーは記録を求めるのではなく、島の自然やランナー、島人との交流を主眼に走る。また走るうえにおいては、自己責任原則で道を選び進み、日の出前・日没後用としてヘッドランプなど照明具を用意する(このあたりはトレイルランのレースと同じだ)。参加者は経験豊富な成熟したウルトラランナーが多い。
    □宮古島100kmワイドーマラソン=島あげての大会運営と応援。100キロレースにも関わらず2.5キロおきにエイドが配置され、荷物受け取りエイドも2カ所という充実ぶり。日の出前も多数の投光機や誘導員によって道に迷うこともなく安心して走れる。
     どちらを好むかは、そのランナーの気質による。いずれも素晴らしい大会であることは間違いない。

     初日「宮古島100kmウルトラ遠足」のスタート時間は午前5時。スタート地点である宮古島東急リゾート(ホテル)の前庭には、午前4時頃にはランナーが集まりはじめ旧知の顔見知りとの再会を楽しんでいる。この独特のフレンドリーなムードを好んで毎年参加するランナーが多いという。昨年、レースの真っ最中にプロポーズし、今大会後に結婚式を挙げるというカップルがウエディングドレスとタキシードの出で立ちで登場し盛り上がっている。また、世界のウルトラランニング史上最年少の参加者・8歳と9歳の少年の出場が話題となっている。ランニング歴の短いぼくにも、各地の大会で知り合った人、声をかけあった人が少なからずおり、スタート前までは挨拶に近況報告にと忙しいくらいであった。
     スタート位置に並びあたりを見渡すと、ランニング専門誌で見かける有名ランナーの顔が見える。2009年のスパルタスロンで4位に入賞した松下剛大さんや、日本山岳耐久レースを5回制し100キロトラックレースの世界最高記録を持つ櫻井教美さんがいる。こんな世界レベルのトップランナーと同じコースを走れるだけで感無量である。
     夜も明けぬ5時、レースがはじまる。なんとしても10時間を切りたいという以外はノープランだったため、脚が出るままに気持ちよく前に進む。不思議なくらい身体が軽い。かつて感じたことがないくらい快適に前方に引っ張られる感覚。5分も経たないうちに間に100人は抜いただろうか。気がつくと、自分と周囲にいるランナーより前には誰もいないことに気がついた。
     (あれっ、これってもしかして・・・先頭集団ってやつ?)。まさかまさかと慌てたが、縦長の集団にいるランナーの顔ぶれを見て、ここが先頭だと確信に変わった。(わー、松下さんに櫻井さん、こんな人たちとぼくは一緒に集団走をしている!)。やばい、抑えようとしても溢れ出すアドレナリン。例えるならば、路上でダンスを踊っていてふと周りに気配を感じたらEXILEのメンバーに囲まれてました状態。冷静に踊れったって無理ムリむり。
     10人ほどの集団は10キロを47分ほどのタイムで走る。腕時計のラップタイムを見て、自分がここに紛れ込んでいる理由がわかった。100キロを7時間台前半で走れるトップランナーたちは、街灯がなく真っ暗で段差のある歩道で、転倒しないように自重して走っていたのだ。一方のぼくときたら、テンション上がるにまかせてビュンビュン飛ばしているのだ。慎重を期してゆっくり走るトップランナーたちと、ひとりで浮かれきっている全速力バカランナー1名の先頭集団というわけだ。
     12キロあたりで集団のペースがあがり、ついていけなくなった。ズルズルと一人遅れはじめ、前方の集団は暗い闇に消えていく。さすがに自力が違う。
     やがてぼくは、後方から追いついてきたバラけ気味の第二集団の先頭を走ることになる。キロ4分40秒ほどのペースで、しかし快調に脚は進む。これはスパルタスロン参加資格記録の10時間30分切りはおろか、軽く9時間台を出せるペースである。「生涯初の先頭集団」を10キロほど経験した際に放出されたアドレナリンの効果が相変わらず続いているのか。自分のスピードに酔いしれながら気分は宙を舞う、舞う、舞っている・・・・・・。
     そんな有頂天のさなか、突如異変がぼくを襲う。(ん? 道がない。道がなくなってしもたー!!!)。
     自分の行く手から突如として道が消えたのである。正確に述べるならば、光源ひとつない漆黒の細い砂地の道はあるのだが、こんな道が正規コースであるはずがない! 振り返ると、ヘッドランプの列が5個、10個と近づいてくる。続々とランナーが近づいてくる。
     ヤバイ、やってしまった、どこかで道を間違えたうえ、大勢のランナーを道連れにしてしまった。しかも、その犯罪の責任者は、第二集団のアタマを走っていたぼくにある。
     追いついてきたランナーの皆さんに道がなくなったことを伝える。そして謝る。謝る以外に術がない。ランナーたちはぼくに怒りをぶつけもせず、

    「あちゃーやっちまった!」
    「これが噂の路頭に迷うってヤツね」
    「毎年、集団で道に迷うって聞いたけど、まさか自分がね」
     などと口々に言い、さっときびすを返していく。
     本来のコースに戻る長い帰り道の途中でも「これで100キロレースが110キロレースになるな〜」などと笑い飛ばしながらスタスタゆく。
     一方のぼくは、さっきまでの勢いは完全に失せ、ドストエフスキーの世界感を体現するよな陰鬱でふさぎ込んだ精神状態に突入。調子に乗りすぎたのである。このランナーの皆さん方は、道など間違えなければ確実に上位入賞する人たちだ。12キロ地点までヒトケタ順位から20位あたりを快走していたランナーたちを、舞い上がったバカランナーであるぼくが悪夢の蟻地獄へと引きずり込んだのだ。
     正規のコースに戻るまで3キロ近い距離があった。往復で6キロのオーバーランである。タイムロスよりも、余計に体力を使ったことよりも、自分のあまりにもマヌケな心理状態の推移が、戦意を喪失させた。やがてひどい頭痛に襲われはじめ、おなかがピーピー鳴りだし、うんこをもらしそうになる。宮古島100キロ2連走は、開始からたったの1時間で暗雲に包まれたのである。                                       (懺悔は次回につづく)
  • 2010年02月03日バカロードその8 風車に挑むバカ
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

     サブスリー。自己記録の更新を励みに走る市民ランナーにとって、その言葉は陶酔するほどの憧れ。どんなに頑張っても手の届かない存在。ファンランナーでもなく、かといって研ぎ澄まされたアスリートでもない自分とは、明らかに一線を画す世界。
    「自己ベストは2時間50分チョイです」なんてランナーに出会った日には、畏れおののき、鶏ササミ肉のような太腿の筋肉をしげしげと見つめ、頬ずりナメナメしたい欲望を押しとどめるのに必死。
     フルマラソンを3時間以内で走れるランナーは、全マラソン完走者のうち5%程度とされる。20人に1人しか到達できない選ばれし民の領域だ。
     ・・・と思っていた。
     2年前、6時間近くかけて精根尽き果てフルマラソンを完走したときには、自分が3時間台はおろか4時間台で走れることすら想像できなかった。村上春樹の著書「走ることについて語るときに僕の語ること」を5回読み直し、市民ランナーとして心情の同化を試みるが、フルを3時間31分台で走る小説家はファンタジーの世界の住人に変わりなかった。テレビ番組「ごきげんブランニュ」でサロマ湖100キロウルトラマラソンに挑戦した大平サブロー師匠の涙の完走劇を感動をもって見つめながら、しかし100キロという途方もない距離を12時間18分で走る師は、庶民とは別次元のアスリートだと理解した。特別な心肺能力と特別な脚力を与えられた凄い人たちだ、と。
     2年間毎日こつこつと走り、あちこちのレースに参戦しているうちに、彼らが特別なランナーではないことがわかった。
     レースでドン尻近くを走っていると、中間地点を折り返してくる上位のランナーとすれ違う。こっちはのろのろ走っているから彼らをよく観察できる。
     フルを2時間30分で走るトップグループの選手は、弓で弾かれた矢のごとく空中を滑空している。大腿部や上腕にムダな体脂肪は一片もついていない。ランニングシャツで隠された胴回りだって、必要かつ最小限の筋肉で覆われているだろう。エネルギーをロスする効率の悪い要素はランニングフォームから一切除外されている。地面を激しく鞭打つような足音。野性の草食動物がサバンナを疾走するような美しさだ。どれだけ走り込み、鍛え抜けばこうなれるのだろう。
     やがてサブスリーを狙うランナーの一群が現れる。二・三十台中心のトップグループに比べると、世代はぐっと幅広くなり五・六十代と見受けられる熟年ランナーがいる。2時間30分台の集団と明らかに違うのは、定型の「美しいフォーム」を逸脱したランナーが少なからずいる点だ。身体を斜めによじり、あるいは首を傾け、激しく前傾したり、腕を左右非対称に猛烈に振りながら走る人がいる。印象的なのは表情だ。30キロ地点を走る彼らの顔は、苦しみに満ちている。限界、まさに自分の限界ギリギリまで力を振り絞りながら、キロ4分15秒ペースを維持するために顔をゆがめ、息をあらげる。
     サブスリー集団が通り過ぎるとランナーはまばらになる。しばらく単独走がつづき、サブ3・5を目標とするあたりでぐっと人の厚みが増す。目標設定タイムが後になるほどに、表情は落ち着きを取り戻していく。彼らはつっこみすぎす、自重しすぎず、42キロという距離を理想的に走りきる「最良なる自分」を見つけるために黙々と行をこなしている印象だ。今まで失敗したレースから得た教訓を頭の中で呪文のように唱えながら走る。飛ばしたい欲望に耐え、休みたい欲望に耐え。
     どんどんと人間の塊が大きくなっていき、サブフォー狙いの大集団がやってくる。キロ設定5分40秒を守るために、人垣の後方で遮二無二食らいついている人もおれば、ラン仲間と談笑しながらレースを楽しんでいる人もいる。このあたりからは、壁を乗り越えようと苦悶するランナーと、ランニングを心から楽しむエンジョイランナーが入り混じりはじめる。
     先頭集団の通過から1時間ほどの間に、とても丁寧に、そして緻密に分類された博物館の展示物のように、階層化された人間絵巻が展開される。体型は徐々に重みを増す。ショート丈のレーシングパンツがロングスパッツに変わり、ミドル丈のトランクスやランスカになる。厳しい表情は春の雪融けのように緩んでいく。
     そして気づかされるのである。サブスリーランナーが特別な運動能力を与えられているのではないと。より自分を追い込み、3時間という長い長い時間(それは日常過ぎていく時間の感覚とは明らかに違う)、一定の苦しみに耐え抜いた人が得られる称号なんだと。設定タイムより遅れた10秒を取り戻すために、どれほどの努力を要するのか。風呂上がりに缶ビール片手にボーッと眺めるTVCM1本15秒とは明らかに異なる時間の価値。レース中の10秒の重みといったら!
     やがてモーレツに自分に腹が立ちはじめる。サブスリーなんて無縁の世界と決めこみ、ガス欠だの膝が痛いだのと理由をつけてジョグペースで走っている自分にだ。般若顔で2時間59分を狙うオッチャンランナーの苦しさを数値化すれば、ぼくの
    「こんなツラいこと二度としたくない」欲求など屁でもない。
     ぼくは、まだ何も努力してないではないか。やれるかどうかの検討に入るのは、やるべきことをやった後の話だ。
     サブスリーを狙おう。できる、何ごともできると思いこむことがスタートだ。できるかどうかわからない、ではダメだ。大いなる勘違いでいいのだ。巨大な風車に戦いを挑んだドン・キホーテになるのだ。ゆくぞサンチョ・パンサ!高らかに鉦を鳴らせ!世の中、勘違いしたもん勝ちだ!
     毎日の1本1本の練習にテーマを持とう。目的のない練習、ランニングはしてはならない・・・この教訓は、瀬古利彦著「マラソンの神髄」の受け売りである。瀬古さんは駅伝やマラソン中継の実況席でいつも素っ頓狂なことを言っているヘンなおじさんと一般に思われており、実際そうなのだが、決してそうではないのだ! キリスト、アッラー、ブッダに並び立たせたいほどの神様・仏様・瀬古様なのだ。
     瀬古さんへの深い愛についてはいつの日か語るとして、ぼくは今まで日々ダラダラと長時間走っていただけで、追い込みトレーニングが根本的に欠如していた。トレーニングに充てられるのは1日に1〜2時間。限られた時間で、自分をマックス追い込む方法を考え、実行しはじめた。
    □週3回、200m〜1000mのインターバルを決めた本数やる。
    □週末は20〜30キロのペース走。設定4分30秒〜4分45秒。
    □つなぎのジョグ+ウォーキングは、サブスリーできるフォームへの矯正を考えて行う。
    □月1回の10000mタイムトライアルで38分をめざす(今は42分。あと3分半縮める)
    □補強運動の徹底。特に腹筋・背筋の補強を毎日各100回×2セット以上。また、体幹および身体の側面の細かな筋肉を増強させる。
    □体重を63キロ→55キロ以下まで絞る。体脂肪率9%以下にする。
     現状、けっこう重い体重を背負って(身長167センチ、体重63キロ、体脂肪率16%)、フル3時間30分まで達した。もっと追い込み、さらに絞り込めば3時間切れるのではないか。いや絶対に切れる!
     商売をやるくらい真剣にランニングを突き詰めればいいのだ。商売は結果がすべて。結果を出すためには、綿密に計画を立て、攻め所を見つけ徹底的に攻める。 経営計画を時系列で設定するように、ランニングの目標にもタイムリミットを設けよう。2010年内に3つの目標を達成する。
    目標 フル3時間を切る。
    目標 100キロ10時間を切る。
    目標 スパルタスロン(246キロ)に出場し、時間内完走(36時間)する。
     できなければまた来年・・・は許されない。もしできなければオカマになる。オカマになって世界を制す。ケツ掘られたくないのなら、死ぬ気で走れ自分!
  • 2010年01月10日バカロードその7 2日連続フル
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

     6月からの6カ月で、18本のレースに出た。うちフル7本、100キロ以上5本。
     会社勤めをしながら極限まで脚を酷使する目的は果たせつつあるのだろうか?
     左膝の内側に剣山がはさまっているよな痛み、両方のハムストリングは紙ヤスリでガリガリこすられる違和感。日常歩くのも支障がある状態まで持っていけた。夜は寝床につくと3秒で睡眠に入り、朝は身体が布団にへばりつくような鈍い疲労感で目覚める。うーん、しんどい。確かにしんどいのだが、だからといって、これが1000キロ、2000キロ、5000キロ続けて走る大陸横断の予備トレになっているかといえば、はなはだ疑問である。甘すぎるんじゃないですかな、これは。モハメド・アリと決闘するのに、蝶々を相手にシャドウボクシングして疲労困憊してるレベルの話。もっと追い込みたい。
     追い込み計画その1として2日連続のフルマラソンに挑む。といっても毎日70キロ〜100キロ走るのが日常の超長距離フットレースの世界では、「だからどしたん?」レベルのお話。しかし、ぼくにとっては未知の領域。むろん2日連続を前提に、ゆっくり走るのでは意味がない。初日、2日目ともに自己ベスト目指して全力走。それで身体がどう反応するかを確かめたい。
     ・・・要するにバカである。そんなことやったって、就職難の若者が溢れかえる世の中のためにも、飢餓に瀕したアフリカの少年少女に対しても、1ミリの貢献もできない。誰のためにも何のためにもならない。しかし、そもそも走ってる意味なんていくら考えてもわからないんだし、やるんなら自分を追い込む。それだけ。今日を全力で生きている人間だけが、10年後も全力でいられる。

    【初日・つくばマラソン】
     左膝がぶくぶくと浮腫み、真っ直ぐに脚をスイングできない状態。しかし、スタート直後はアドレナリンの分泌が激しいのか、痛みが消えて一瞬絶好調な気がする。それどころか身体が軽く、宙に浮く感覚にとらわれる。直前まで最悪コンディションだと感じていたのがウソのよう。軽い、軽すぎてフフフンと笑える。
     5キロ23分11秒、上出来だ。ふつうに走っていられるだけありがたい。先月の「淀川市民マラソン」ではスタート後500メートルで膝の激痛がやってきて、残り41.695キロずっと地獄を見つづけた。痛みを感じず走れるのは、こんな楽しいことなんだ。
     10キロ46分14秒。ちょっと速すぎるか?でもまあいいか。どうせそのうち膝痛悪魔がやってきて、「さあ地獄の饗宴のはじまりだ」と高らかに宣言するのだ。気持ちよく走っていられる時間を素直に味わおう。12キロで呼吸が荒くなってきた。はやくも心拍数が上昇しはじめたらしい。今日もここまでなのか?とネガティブスパイラルに陥る寸前、エイドの「あんぱん」に出くわす。1個を4分の1にカットしてくれたあんぱんを口に含む。「わっ、これ美味い!」。ジューシーな粒あんが薄皮の生地に包まれている。だいたいマラソン大会で提供されるパンなんてパサパサの不味いのが常道。こんな美味しい粒あんぱん初体験! 粒あんが五臓六腑にしゅみわたり猛烈に吸収されはじめた頃、意識はふたたび鮮明になり、体がすっ飛ぶように前に引っ張られだした。粒あん1/4個に、わが肉体は何とすなおな反応!
     ハーフは1時間40分05秒。速くもないが、遅くもない。ハーフを超えても疲労感なし。ケガが幸いしていつもの自爆走ができなかったからだろう。だが24キロの表示を超えると急に脚に体重が乗らなくなってきた。心肺にダメージはない。呼吸もいまだ平静。にも関わらず脚が前に出ない。ストライドが10センチは縮まっているだろう。1キロのラップが5分20秒台に落ちた。もう終わったのか? いや、終わらせてはならない。これからだ、これからが勝負なのだ。ここまで脚の痛みを感じさせずに走らせてくれたマラソンの神様の慈悲に応えるのは今からだ。よし、行け。ここから耐えられるスピリッツを養うために練習してきたんだろ。地面に体重が乗らないってことはフォームが崩れているからだ。身体にシャープさがなくなっても、フォームだけは維持しよう。
     30キロのパネル通過をきっかけに、全力走に切り替えた。500メートルごとに1段階、もう1段階と踏み脚に力を込める。もう潰れても大丈夫だ。潰れたままゴールまでたどり着ける距離だ、無茶していこう。1キロラップが4分台に戻る。おもしろいように前のランナーを抜いていく。今まで走ったフルのレースは、すべて30キロから大失速していたが、今日は違う。苦しくても攻めの姿勢を崩さない、あきらめない、自分から心を折ってしまわない。
     残り2キロの表示で視野が狭くなってきた。色彩もセピアがかってきた。よし、これでいい。たっぷり追いこめた証明だ。あと2キロなら、目をつむっていても沿道の声援に導かれて前進できる。フィニッシュ会場の400メートルトラック上に躍り込む。ゴールゲートはすぐそこに見えるのに、もがいても、もがいても近づかない。400メートルってこんなに遠いんだ、トラックを走る中距離ランナーは毎日大変だな、と変なことに感心したりする。
     3時間30分21秒、フィニッシュテープを切る。自己ベストを3分縮めた。「先に進んでください」と係員が叫び続けている。ゴールを終えたランナーの列にしたがい歩く。空気の壁が邪魔して前に進みにくい。歩くために必要なエネルギーすら枯渇しているようだ。シューズに装着したRCチップを外そうと下をうつむくと、股間から膝まで内ももがべっとり血まみれである。ウエアがこすれて股ズレになり、さらに表皮が5センチ×3センチほども剥けて大出血しているのだ。しかし、その痛みをまるで感じない。全身の痛点にブロックをかけた状態で走っていたのだ。この麻痺状態が解けたときが地獄だなと、ぼーっとした頭で思う。
     これが今のすべてなのだ。これ以上は出せないという所まで出し切ったのだ。そして思う。きっと、まだまだ速くなれる。

    【2日目・福知山マラソン】
     スタートの直前まで、「今日もいける」と思っていた。
     昨日フルを走った疲れはない。膝は痛いがいつものことである。2日続けて自己ベスト、絶対出せる。
     そう信じられたのは、スタートしてわずか10秒だった。全身に重油がつめこまれたような感じ。前に進みたいのに、体内で重油がちゃぷちゃぷ揺れて、後ろに引き戻そうとする。急な下り坂を駆けおりているのに、トレッドミルの上で脚をバタバタ回転させてるような静止感。
     1キロのラップをチェックして目まいがする。7分もかかっている。ゆっくり走っているつもりはないのだ。息も絶え絶え、汗みどろ。アゴの先から汗がしたたり落ちている。これだけ消耗してキロ7分? 周囲のランナーは、みな楽しそうに会話をしている。そうかキロ7分の世界はこうなのか。ずいぶん楽しそうじゃないか。おしゃべりしている人たちにスイスイ追い越される。ハーハーあえいでいるのは、ぼく一人である。体力のない中年オヤジが間違えて大会にエントリーしてしまいました風情だ。走っても、走っても、ダメだ。10キロ手前にしてキロ8分まで落ちる。この状態、100キロマラソンの70キロすぎの身体反応と似ている。自己流で分析するに、まだ運動に使えるカロリーは残っているのに、脳みそが「これ以上走るとロクなことないから、走るの止めときなさい」と全筋肉に指令を発している。身体防衛のための正常な脳の働きとの戦いなのだ。
     10キロ1時間16分54秒。ハーフ2時間50分56秒。歩きに等しいタイムで、関門閉鎖5分前にギリギリ通過する。1万人ものマンモス大会なのに周囲にいるランナーはちらほら。大半のランナーはすでに歩いている。歩く誘惑にかられるが、それだけはイカンと言い聞かせる。
     70歳代とおぼしき高齢ランナーが腰を折り曲げて、下をうつむいて、脚を引きずりながら、それでも歩かずに走っている。視覚障害を持ったランナーが息を荒げながら坂を登っている。伴走ランナーが「キロ7分半でいけば関門超えられるから」と励ます。5キロ先の関門をクリアしようと、必死にチャレンジしている人たちがいる。それぞれが肉体的に与えられた条件のなかで、今この瞬間できる最高のランニングをしようと奮闘している。鼻の奥がツーンとなる。理屈ぬきでカッコイイと思う。ぼくは、こんなランナーになりたいのだ。こんなランナーを目指したいのだ。力があるのに出し惜しみして、できない理屈を考えて、今の自分はベストじゃないけどいつか自分のやりたいことができるなんて、そんな考え方じゃない。今できることを格好つけずに、バカと評されても、必死にやる。ランニングも生き方もそうでありたい。
     キロ9分の脚に力がこもる。持ち上がらない左脚が、アスファルトをズルズルとこする。格好悪いけどこれが今の精一杯。ラップタイムは8分、7分、6分と上がっていき、30キロからはキロ5分で押していく。スタートからの苦闘で汗は5リッターも流れただろう。汗とともに疲労や痛みも流れ落ちたかのようだ。2日間に起こった感情の起伏、歓び、痛み、葛藤が、1カ月ほども遡った過去の記憶のように感じられる。それだけ濃縮された2日間だったのだろう。
     ランナーたちは最後の急峻な坂道を駆け上がる。夕陽がランナーの影を長くしている。ゴールゲートへと続く直線道路は、5時間の苦闘が喜びに変わるウイニングランの舞台だ。テープの向こうで喜びが爆発している。ランナーは、フィニッシュラインを超えた瞬間に今日起こったすべての苦しみをすっかり忘れ、次のレースのことを考えて笑うのだ。そんなヘンな人たちなのだ。
     記録5時間22分19秒、あーへばった! そして思う。きっと、まだまだ速くなれる。
  • 2009年12月04日バカロードその6 自爆走
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

     大学駅伝の有力校、駒澤大学のエースに宇賀地強(うがち・つよし)という長距離ランナーがいる。この小柄な若者の走りには見る者の脳みそを鷲掴みにして、ぐらんぐらんと揺さぶる何かがある。
     宇賀地強の走法は、ストライドの限界まで振りだした脚で地面を強く叩き、蹴り脚は尻でバウンドするまで跳ね上げる。それでいて「ストライド走法」という呼称が似つかわしくないほどに猛烈に早いピッチを刻む。激しい全身運動が生み出した推進力が、その体を滑空させる。長距離走者の走り方ではない。最近走るのが大好きになった中学生の、800メートル全力走のようなガムシャラさである。にも関わらず、彼の走りには独特の哀愁が漂っている。情熱たぎるマグマ状のエネルギーではなく、沈む夕陽に向かって夢中で駆けていくようなペーソスが滲んでいるのだ。現在大学4年生の彼がまだ1年生だった頃は、そういった雰囲気は持ちあわせていなかった。昨年の箱根で、レギュラー部員の持ちタイムで他校を圧し本命視されながら大崩れした駒澤大は、以来、出雲、全日本と、主要な大学駅伝大会すべてで精神面のモロさからボロボロと下位に沈んだ。そんな悲運な母校の責任を一身に背負っているからか。いや、ぼくはそんな単純なサイドストーリーに共鳴しているのではない。
     彼は、ただ走っている姿が感動的なのである。上体を揺らしながら1センチでも前にと顔をゆがめる彼には、どこかの瞬間で残りエネルギーがゼロに達し、ヒモの切れた操り人形がそのままの勢いで路上をバラバラと転がっていくような、壮絶な最後をイメージさせられる。純粋に理想の走りを追求するためだけに自らを限界以上に追い込んでしまう破滅的な走りが、胸に突き刺さるのだ。走るだけでこれほど何かを感じさせてくれるランナーはそうはいない。
     いてもたってもいられなくなる。天気のいい日曜の昼間、テレビの前で寝っころがってハーゲンダッツをペロペロ舐めながら駅伝眺めている自分が許せなくなるのである。だから宇賀地くんの試合を見たあとは、必ず全力疾走する。むろん宇賀地くんのような実力はないから2000メートルあたりでひっくり返る。
     どんなマラソンの教科書にも、イーブンペースと前半自重の重要さが語られている。オーバーペースは30キロ過ぎの壁を招き、必ずや潰れると。でもぼくは今この瞬間、自分が出しうる最速のスピードで走りたい。後半に足を残そうとかペースを維持しようとか一切考えずに、ツっこみにツっこんで、脚もちぎれんばかりに攻めて、あえぎにあえいでゴールに飛び込みたい。「いったん爆死してから、どれだけ耐えきれるか」、それが自分を認められるかどうかの絶対ラインだ。 
     世界がどんなに革命的なテクノロジーで覆い尽くされようと、ぼくはアナログな価値観しか持てない。自分の足で移動し、痛みや苦しみの感覚が伴ってないと、そこに至ったという記憶さえ不確かなのである。このごろ何度も同じ映画を再生している。中学生の頃から繰り返し観ているアメリカンニューシネマ。「俺たちに明日はない」「タクシードライバー」「ファイブ・イージー・ピーセス」「明日に向かって撃て!」。あてどなく放浪し、無謀に攻めこみ、奔放に逃げ、最後はマシンガンで蜂の巣にされる自爆的な生きざまへの憧憬。2年前にランニングをはじめるまでは、完全に喪失していたデカダンスへの渇望。
     秋のレースシーズンに突入し、「四万十ウルトラ」「阿波吉野川」「淀川市民」「南阿波サンライン黒潮」と週1ペースでレースに出、今のところ全レース爆死している。100キロレースなら10キロ×10本の意識で、フルマラソンなら5キロ×8本のタイムトライアルのつもりで押していく。毎レース、中間点を手前にして鉛の手かせ足かせがハマり、ハムストリングがピキピキと音をあげ、痙攣が「毎度、おじゃまします!」とやってくる。やがて仮装したドラえもんやらタイガーマスクやらに抜かれ、おしゃべりしながらファンランしてるランスカのギャルに左右から追い越される屈辱を舐める。脳内イメージは宇賀地強、現実はグチャグチャに負けるためにひた走る中年市民ランナー。
     でもいつか「その日」が来る気がしている。自爆ペースでツッこんで、そのままの勢いを維持し、中盤からはさらに加速し、背中に翼が生えたような超感覚につつまれ、風を切ってゴールゲートをくぐる瞬間が訪れると。熱量を全部使い切って、フィールドの枯れた芝生の上で2時間くらいピクリとも動けなくなるほど消耗しつくす。箱根の選手たちのような命を切り刻むレースがきっとできると信じ、今シーズン全レース自爆を誓う。
       □
    【超長距離レースの誘い】
     踏破距離200キロを超える超長距離レースのシーズンは、4月にはじまり5月と9月にピークを迎える。だいぶ先のことだと思っていたら、おっと!エントリーの時期に突入しつつあるではないか。「スパルタスロン」や「ウルトラ・トレイル・デュ・モンブラン」など日本でも著名なレースは参加枠や実績による選考もあり困難だが、他にも楽しそうな大会はある。今ならよりどりみどり、どのバカロードに足を踏み入れようか、悩ましくも喜ばしい状況である。
    □川の道フットレース
     知る人ぞ知る超長距離ロードレース。4月〜5月の黄金週間中に、東京湾から新潟県の日本海側まで522キロを制限135時間で走る。途中3カ所で休憩(仮眠や入浴ができる)を採ることが義務づけられているのがユニーク。
    □本州縦断フットレース
     青森駅前から下関駅前まで1521キロを制限540時間で走りきる。今年は5月〜6月に開催されたが、来年はランナー自身がスタート日を決めるという変則的なものになるみたい。
    □トランスジャパンアルプスレース
     日本海側の富山湾から太平洋岸の駿河湾まで、北ア・中央ア・南アと日本アルプスの主要な山岳地帯を8日間かけて踏破する425キロの究極トレイルランニング。参加者個人が主催者という位置づけ。山と長距離走のエキスパートだけが参加を許される世界最過酷と呼ぶべき大会。2年に1回開催。
    □トランス・ヨーロッパ・フットレース
     毎回コースは異なるが約5000キロを60〜70日かけて走破するロングジャーニー。公民館などで寝泊まりしながら、毎日平均70キロ前進。荷物30キロまでは大会側が次のチェックポイントまで搬送してくれ、簡単な食事も提供される。今年は4月〜6月にかけて開催され、イタリア南端の岬からノルウェー最北端の岬までの欧州縦断コースだった。アメリカ合衆国を東西に横断する「トランス・アメリカ・フットレース」が消滅した今、大陸横断系として最も食指をそそる大会である。
  • 2009年11月08日バカロードその5 スカンピン侍でござる
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

    【神宮外苑24時間チャレンジ】
     「場ちがい」という体験をしたことがありましょうか。、「肩のこらないカジュアルなパーティです」と書かれた案内状を真に受けて普段着で会場に行ったら、全員がフォーマルスーツで決めていて「マジかよ!」と悪寒が背筋を貫くような、嬉しくないひとときです。

     「神宮外苑24時間チャレンジ」の会場にやる気満々、鼻息もバフバフはせ参じたぼくは、受付でもらった選手リストに目を落とすにつけ、自分の存在が完全に場ちがいであることを認めざるを得なくなり、急転直下のしょんぼりとしたムードに包まれた。リストには各ランナーの自己ベストタイムが併記されている。なんと、8割程度の選手がフルマラソンで2時間台、100キロマラソンで8時間台以内の実績がある。100キロ6時間台の鬼ランナーまでいる。フルマラソン3時間33分と書かれたぼくのプロフィールが名簿から完全に浮き上がり、逆に目立っているではないか。オオカミの集団にまぎれこんだ子羊か、あるいはヒクソン・グレイシー道場に殴り込み血祭りにあった安生洋二か。かなうならば植木等ばりに「およびでない・・・こりゃまた失礼しました〜」と舞台から引けて、一刻も早く徳島にUターンしたい気分である。恐る恐る控えテントに近づくと、全身にぜい肉のカケラも付着していない研ぎ澄まされた方々が、去年のスパルタスロンの話題で盛り上がっていらっしゃる。ちなみにスパルタスロンとは246キロを36時間以内に走る世界最高峰のウルトラマラソンの大会であり、ぼくがどう逆立ちしてもローラースケートを履いても完走すらおぼつかない偉大なる大会である。つまりスパルタスロンで上位に食い込むようなレベルの皆さんが、いまここに集結してらっしゃる。 (やっぱし、いのかな〜)と思いつつ、なるべく他人と目をあわさないように伏し目がちに着替えていると、1人の選手に話しかけられる。「徳島からいらしてるんでしょ? 同じ四国からですヨロシク!」という愛媛ご出身のランナーのお方。柔和な表情でリラックスした雰囲気。(あ、やっと仲間ができたかな)とひと安心したが、この方もスパルタスロンを完走され、ウルトラマラソンの優勝経験もある超A級ランナーと判明。「来年、スパルタ一緒に行きましょう!同じ宿で長期過ごすからランナー同士のつながりも強くなって、楽しいですよ!」と優しく誘っていただく言葉に、「もごもご」と歯切れ悪く返事する。(あのう、ごめんなさい。ぼくただの場ちがいな人です)と心でお詫びする。ふつうの市民ランナーなんて、この会場にいるわけないか、と再び落ち込みスタートラインにとぼとぼ歩く。
     スタート5分前にランナー49人は公園周回路の歩道上に並ぶ。定刻9時に号砲。いきなり周りのランナーたちが猛スパートをはじめ、ぼくは置き去りにされる。ちょちょちょちょ、ちょっと待ってー!と追いすがる。先頭集団の入りは明らかにキロ3分台である。あのーみなさーん!今から24時間走るんですよね? じっくり入ったりしないわけですかぁ。それともそのペースでも抑えめですかぁ、と心で叫びながらついていき、取り残される羞恥心からぼくもキロ4分台で入ってしまう。明らかなるオーバーペース、「オマエはすでに終わっている」状態である。
     それから30キロあたりまではキロ5分30秒ペースで走る。が、先頭集団に何度も周回遅れにされる。こっちだってサブフォーペースなんですけど一応・・・。彼らはまるで中距離走者みたいに速く、気持ちよいほどガンガンぶち抜いてくれる。もーどうでもいいや、走れるだけ走ろ、とふっ切れる。笑うくらいの実力差にすがすがしさを取り戻す。
     50キロに達したのはスタートから6時間後。このままのペースを維持できれば200キロをマークできる計算だ(そんなわけないのだが)。先頭を行く選手は100キロを7時間台後半でカバー。24時間走のアジア最高記録(274キロ)を上まわるペースを刻んでいる。やがてにわかに天空かき曇り、東京名物のゲリラ豪雨状態に。小川のせせらぎの中をいくように、神宮外苑の舗道上をジャブジャブと靴を濡らし進む。
     1.3キロの周回路をぐるんぐるんと24時間まわり続ける。そこには何かしら哲学的な意味あいが必要なのではないか、と思索する。天気のよい日にさわやかな高原や海辺の道をタッタカゆく、という理想的なランニングのイメージとは対極の位置にある競技会である。場所は都心部、コンクリート建造物の谷間。特に視線を向けるべき自然の造形もなく、かといって近未来的都市の景観があるわけでもない。同じ道をひたすら10周、20周、50周、100周と周回を重ねる。ましてや夜間ともなると、信号や街頭の灯り以外は目に映るものすらなくなる。心はおのずと内省的になる。
     到達点のない距離と果てしない時間のなかで、ただ脚を前に出しつづける。遅いけれど少しは前進する。人間の生涯なんてそんなものではないかと思う。自分がある日フイに死んだとしても世の中はうまく回りつづける。今やっていることに重大な意味があると信じて、寝る間も惜しんで取り組んでいたとしても、自分がある日消失霧散したあとも、世界は変わらず同じ時を刻み続ける。他人にとって価値があるのかないのか不明な仕事に夢を抱き、目標をつくり、ひたすら走り続ける。自分が今どこを走っているのか、何のために走っているのかもわからず、全力で四肢をもがき、疲れ果ててトボトボ歩く。24時間というひたすら長い競技時間を、休むことなく、眠ることもなく、湿気った重い空気をかきわけ走る。そういう行為こそ、人生を例えるにふさわしい営みなんではないかと思うのだ。
     草木も地下鉄も眠る深夜、遅れてきたランナーズハイに突入する。出だしの頃は、「フルマラソン1回分走ったのに残り20時間もあるんだよね」「10時間走ったけど、24時間から10時間引いたら14時間(暗算があまりできなくなる)。あと14時間ってけっこう長いよね」などと当たり散らせない思いを噛みしめていたが、12時間つまり半分を超えてからはお気楽さが充満してきた。「あとたったの8時間しか走らせてもらえないのか、さみしいもんだね」なんてメランコリックにもなる。自分の能力では抗しがたき状況に晒されると、流れに身を任せるしかない。先のことはともかく、今この瞬間にやれるだけのことをやろう、との刹那的ポジティブマインド。びしょ濡れのナメクジの歩みのようにヌラヌラと、荷役ロバのようにヒヒヒンと笑って。
     夜が明けると見物のお客さんが増え、孤独なムードは華やいだものに変わる。見ず知らずのぼくにも沿道の左右から応援の声がかかる。引きずっていた脚から痛みが消え、正しいストライドに戻る。徐々にスピードが増し、最後の1周は心臓も壊れちまえのペース、キロ4分台。何十周と追い抜かれたトップクラスの選手をはじめて追い越す。なんだまだ限界じゃなかったんじゃねーの。まだまだ走れるじゃないか。
     結果は139キロ。49人中27位。どうなんだろね、微妙だね。
     優勝した井上真悟選手は29歳。大雨の悪コンディションの中、今シーズン世界最高記録の258キロをマークした。背筋をピンと伸ばした孤高の走りは背後から見ていても心洗われた。超長距離走のジャンルで、まさに世界のトップに立つ人物だ。ふだんはジュニア陸上クラブの指導はじめ様々な社会貢献活動に勤しむ素晴らしい好青年である。共通の知人がいたため、フィニッシュ後にお話ができた。自己紹介すると、ぼくのことを知っていてくれた。「あ!サハラマラソンで下ネタばかりしゃべっていたという方ですね」・・・嗚呼、若き王者の歩む道との何たる遠さよ!


    【信越五岳トレイルランニングレース100km】
     「神宮24時間チャレンジ」と2週連続の100キロ級レースである。大会2日前にして、疲れがまったく脱けない。これは歳か、アラフォーの性か。凡人たるオッサンがアスリートのマネごとをしている報いか。スーパー銭湯でマッサージ椅子にもみしだかれても、狂ったようにサウナと水風呂を往復してもダメ。ついにはケミカル頼み、ユンケルとリポDゴールドを2日間で20本ガブ飲みしたが、飲み過ぎは当然身体によくありませんな。お小水が黄金色に輝くばかり。
     信越五岳トレイルランニングレースは、トレイルラン文化を日本に根付かせようと精力的に活動しているトレイルランナー・石川弘樹さんがプロデュースする大会であり、今までにない先進的な思想が導入されている。元来、孤独でストイックな山岳レースのイメージが強い日本のトレイルランの大会に対し、信越五岳トレイルは家族や友人が応援できるポイントをいくつも設けたり、ラスト34キロを「ペーサー」と呼ばれる仲間の併走を認めるなど、ランナーとランナーを支える人たちが一体となってレースを作りあげる。全8カ所もあるエイドの充実も珍しい。たとえば国内最高峰の大会であるハセツネ(日本山岳耐久レース)のエイド1カ所とは、大きく異なる。ハセツネは登山家を鍛える目的で始められた山岳レースだから、途中補給なんて考えは主旨に一致しない。頂上を落とす最終アタック隊を横から助けてくれる場面なんてないですからね。対して信越五岳トレイルは、石川弘樹さんが長期遠征したアメリカや世界各地での経験を元に、誰もが市民マラソンのような気軽な感覚で森や山のトレイルロードを楽しく駆ける、というライフスタイルを競技に取り入れたものだ。
     拠点となる長野市へは徳島からだとアクセス不便に感じるが、高速バス1本で行ける新神戸駅から新幹線で名古屋駅、特急しなの号に乗り換えて長野駅へ、とタイミングよく乗り継げば6時間。JR長野駅前には主催者が用意した無料バスが待機し、1時間かけてスタートの斑尾(まだらお)高原へ運んでくれる。地元市民や自治体とトレイルランナーの協働という観点から、大会前後は地元の宿泊施設での滞在が義務づけられる。参加者からの異論も少しはあったが、今どきの厳しい財政状況のなか地元自治体や商工会らが人を出し、準備に汗を流し、予算も捻出して走らせてくれるのだから、「お金は落としたくないけど支援だけしてくれ」というのは虫が良すぎる。その恩義の大きさにふさわしいお返しはできないが、せめて宿代、食事代、土産代くらいは経済貢献するとしよう。
     夜がしらじらと明け始めた午前5時30分がスタート時間。初開催の大会だけあってランナーのお祭りムードも最高潮だ。前夜のパーティー会場では「100キロという旅を楽しんで」と説明してくれた石川選手が、ランナーたちの浮かれ気分がシリアスさに欠けると判断したか、スタート台から拡声器で「これはレースですよー!周りとの戦い、自分との戦いでーす!」と引き締めにやっきになっていたのが微笑ましい。
     走りだしの高原ロードは細かなアップダウンの繰り返し。驚いたのは足元の柔らかさ。樹木の堆積物からなる土面や、走路を覆う芝草によって脚への衝撃が少ない。まさにフカフカの雲上を走る気分なのである。ガレ場やぬかるみが当然のトレイルレースにあって快適すぎるサプライズだ。コースは、しだいに深い森の中へとランナーを誘う。左右に蛇行するシングルトラックの細いトレイル。木立がぐんぐん迫ってきては後方へと流れていく。開けたアスファルト道では味わえないスピード感に心躍る。走っている間は、あまり複雑なことは考えない。だから、山を走るってのはこんなに気持ちのいいものなんだと、すなおに感動する。
     新潟と長野にまたがる5つの山岳地帯を結んで設計されたコースは、更にさまざまな局面を用意してくれていた。ダブルトラックの走りやすい林道、木の根が縦横に張りだした急峻な登りや下り、瀑音とどろく河川を眼下に伸びる土手道、満開のコスモス畑、牛が草をはむ牧場地帯、湿地帯の木道、そして神秘的な戸隠神社の境内へ・・・。つぎつぎとタイプの異なる道が現れては、回転舞台が転換するように目を楽しませ、適切な走りのテクニックを要求する。飽きることのない仕掛けに笑いが込み上げてくる。やー、バカみたいに楽しいなこりゃ。
     ラスト10キロは標高1840メートルの峠へと続く飯綱山への登り。登山道に取り付いたのは深夜12時、制限時間まで4時間を残しての10キロである。最後の最後に最高の美肉を用意してくれたものじゃ!などと余裕をかましていたら、次第に霧が深くたちこめヘッドランプの光が映し出すのは乳白色の空気ばかりで足元おぼつかず。険しい登山道は半ロッククライミング状態となり、吹きつける雨に木の根も岩もアイスバーンのごとく滑る。10分に1回ペースですっ転んではケツも腰も打ちまくり。最後に何たる仕打ちじゃ〜と半泣き&全身ドロまみれになって4時間近くもがき苦しんで山を脱する。ラスト2.6キロは平坦な林道、足も折れんばかりにキロ4分ペースの猛ダッシュを試みた。神宮外苑24時間走に続いての「なんだまだ限界じゃねーのラストスパート」である。しかし、22時間の制限時間にどう計算しても2分届かない。22時間も走ったのに公式記録上はDNF(did not finish)なんだよね〜ガックシ。
     制限時間オーバーゆえにてっきりフィニッシュ会場も撤収準備に入っているだろうと思い最後の角を曲がると、何ということでしょう! 多くの先着ランナーたちが花道をつくって待っていてくれた。「おかえりなさい!」「ナイスラン!」と声がかかる。そしてフィニッシュゲートの真正面に少女漫画の主人公ばりのキラキラ笑顔で立っているのは、かの石川弘樹選手(34歳・美形)ではないか。背景に薔薇の花びらが舞ってますよ! うひょー、最高のクライマックスだね。ぼくがミーハー女子ならこのまま彼の胸の中に顔をうずめて、ぽっぺをスリスリしちゃうトコだね。
     しかし自分はオッサンであるという自覚を胸に、自制に努める。石川選手に「来年もぜひ来てください!」と声をかけてもらい、がっちりアスリートっぽく握手を交わす。当代きっての美青年カリスマランナーと、当代きってのバカランナーの人生がここで初めて電撃的にクロスし、化学反応を起こし激しくスパークしあったわけだ!(単に握手してもらっただけです)
     撤収作業のはじまった会場を眺めているうちに、徐々に我に返る。全身ドロまみれのボロ雑巾。どこもかしこも痛くて動くたびに悲鳴をあげそうだ。だけど気分はすがすがしい。2週つづけての100キロレース。ハンガーノック状態で悶え苦しむのは望みどおりの沙汰だ。大都会のド真ん中や、大自然のド真ん中を、理屈・屁理屈はさておき、ひたすら猛進する。それぞれのカテゴリーに若き超一流の選手がいて、競技者としての強いハートと高い社会的使命を背負った、輝かしい姿を目の当たりにした。そして、それぞれのカテゴリーにおいて超五流のぼくは、今日もまた地味にエントリー料を振り込み、大会案内がポストに入っているだけで一日幸せ気分になり、過酷なレースの最後尾をよろよろ走りつづける。美しくもなく、栄光もなく、寝不足気味のスカンピンで。
  • 2009年10月08日バカロードその4 ヒーロー熱中症
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

     強くなるためにはどうしたらいい?と男なら生涯に10回は考える。そして実際に強くなろうと努力したことも2へんくらいはある。矢吹丈がノーガード戦法を披露すると、教室の後ろでツレ相手に両腕をだらりと下げ「どこからでも打ってこいや」とアゴをつきだし、そのままストレートを鼻っ柱にくらって涙するバカ。
     「侍ジャンアンツ」番場蛮のハイジャンプ魔球をわが物とするために片足スクワット100回を課してこむら返りをおこすアホウ。ジャッキー・チェンが老師に鍛えられるシーンを好み、鉄棒に逆さまにぶら下がり腹筋しようとして首から落ちて意識を失うトンマ。ロッキー・バルボアがお馴染みテーマソングにのって片手腕立て伏せを左右交互におこなえば、翌日の部活前にはみな片手腕立て伏せをやっている単細胞。
     こうやって男は、規格外のトレーニングによって自身の肉体がハガネのように強靱に鍛えられていく・・・なんて奇跡はわが身には決して起こらないと薄々気づいた頃に大人になる。
     強さへの渇望、無敵の存在への憧憬をいつか失くしたまま幾年月が流れたか。今、ぼくは再び強くなろうとしている。プロレスの業界用語で「トンパチ」ってのがある。常識はずれの大暴走、シッチャカメッチャカな行動をするレスラーを指す隠語だ。日々これ無事に生きることに価値があると信じて数十年。そんなぼくの脳みそが、どーしようもないトンパチ菌に侵略されている。これは悪い病気だ。「強くなれるなら、どんなことでもやってやるぞオラーッ」ってチョーノみたいに毎朝、紀伊水道に昇る朝日に向かって叫んでいるわけだ。どこまで走っても倒れないタフネス、何万キロカロリー消費して、身体がバラバラに千切れるくらい痛くてもタップしない強さだ。
     今年の大一番である「神宮外苑24時間チャレンジ」が目の前に迫っている。この大会は、日本で唯一の24時間走のIAU(国際ウルトラランナーズ協会)公認大会であり、2010年5月にフランスで行われる「IAU 24時間走ワールドチャレンジ」の日本代表選考会でもあるのだ。要するに、日本中からウルトラマラソンの超人たちが
    集まり、日本代表の座を競うのだ。代表選手を決定する過程は厳密に定められてるんだけど、はしょって説明すれば、24時間で220キロ以上走れば選ばれる可能性が高い。
     朝9時にスタートし、翌朝9時まで不眠不休。食ったまま走り、寝たまま走り、1キロ平均6分ペースで立ち止まらずに走り続けられたランナーが日本代表の栄冠を手にする。トップクラスの選手はフルマラソン2時間20〜30分台の記録を持ち、練習量も月間800キロ〜1000キロとスケールが違う。その怪物ランナーたちの末席に加えてもらった凡人ランナー1名がぼくである。しかし一本のスタートラインに等しく並び、気の遠くなるほど長丁場の戦いに挑むって点では同じ。必死の覚悟で挑むのだ。しかし「必死」って言葉はすごいね。必ず死ぬ、って書くんだもんね。人はよく「必死にやります」って言うけど「必ず死んでやります」って宣言してるんだよね、サムライ・スピリッツだね。
     この夏は、「神宮外苑24時間チャレンジ」に向けてわがチキンハートをハガネに鍛え直すため、毎週のように大会に出まくった。
    【やれやれな神戸24時間マラソン】 神戸総合運動公園内の一周2キロの周回路を24時間走る大会。浴衣姿でいちゃつくカップルの群れのなかをつっ走り、滝がごとしのゲリラ豪雨に打たれて新品のミュージックプレーヤーを犠牲にする。この果てしなき孤高感、エレファントカシマシの「明日に向かって走れ」を熱唱せざるをえない。70キロ走ったころ公園の道は激雨で濁流と化し、走行困難となって大会中止。控室テント(
    といってもブルーシート1枚張ってるだけ)が吹っ飛ばされないようシートを棒で押さえつづけた真夜中午前3時。神戸まで来てぼくは何やってんだろう、やれやれ。と村上春樹なら文末に記すと思われる。
    【ヒーローになれるトライアスロン中島大会】 「中島」は愛媛県松山市の三津浜港からフェリーで1時間の瀬戸内の島。選手500人ほぼ全員が前日から島に入り、民家にホームステイしたり公民館に宿泊する。ぼくは公民館にザコ寝したが、清潔なシーツと布団が用意され、中学校の寮の浴室(ピンク色した女子浴室)も貸してくれた。前夜祭では食べきれないほどの料理が振る舞われる。炭水化物メシのみならず刺身やサザエと海の幸も満載、ビール飲み放題。「みかんとトライアスロンの島」とうたい24年もの歴史を経た大会だけあって、島民の意気込みは並々ならぬもの。島出身の選手によると、島の子どもたちは物心ついた頃からトライアスロンを見て育ち、幼き彼らにとってトライアスリートはスーパーヒーローなんだとか。そんな心温まる談話を聞いたもんだから、沿道の子どもたちの前を走るときは、劇画ヒーローのような男前の顔をしようと努力。爽やかに片手をあげ「やーどうも、ボクたち、ありがとう」なんて挨拶をバイクとランの間じゅうやってたもんだから、通常の倍ヘバった。
    【ぐでんぐでんの北海道マラソン】 今シーズン初のフルマラソンは、前夜に焼酎1ボトルをストレートで飲み干すという暴挙を犯し自滅。当日の朝、目覚めると体中からアルコール臭漂っている。こりゃマズい、いざアルコールを抜かん!と籠もったサウナ30分が更に災い。水分・塩分両方抜けたため20キロで両脚が攣り、泣きたい気分になり、いっそ泣いて同情を買おうと涙腺を拡げてみたが絞り出す水分もなく、ただ変な顔をして走った。枯れ果てフィニッシュ3時間49分。反省、二度とこんな愚挙はしません。
    【野獣走の眉山】 眉山の山中を獣のように走る。ひたすら走る。眉山はトレイル練習の最高のゲレンデ。すぐ山に取りつけて、いきなりシングルトラックの山道に入り、快適なアップダウンがある。特に徳島市名東町の地蔵院から阿波おどり会館までの東西眉山横断コースの往復は、2時間ほどの追い込みに最適だ。痩せた尾根上の縦走路は、北に佐古、南に八万の街並みを見下ろす格好で「徳島の屋根を走ってる」って気分にさせてくれる。登山者優先を大原則としつつ、ビュンビュン飛ばせて心肺に刺激入れを行える理想の道である。
    【詩人になれる田宮】 徳島市陸上競技場は市民ランナーの練習場として最適。学生が練習していない時間帯ならトラックを独り占めして、使用料は100円ポッキリ。今どき100円でできるレジャーなんて馬券、舟券1枚分。4円パチンコ球なら25個。それぞれ一瞬で露と化す。かたや陸上競技場に100円払えばイヤってほど遊べるのだ。観客も選手もいない競技場を疾走する切なさはユーミンの「ノーサイド」的哀愁に満ちており、これ読んでるあなたが詩人なら名曲のひとつも紬ぎ出せるはず。あいにく才能に乏しいぼくは、無人のトラックをドタドタ走り、芝生の観客席に仰向けに倒れて、ガス欠になった2009とくしまマラソンを思い出して後悔の涙をほろほろ流すだけ。
          □
     8月の月間走行距離は500キロ。劇画的イマージュの世界では今ごろサイボーグ並みの強い心臓と脚力を手にしているはずだが、走れば走るほどに疲労蓄積、筋肉崩壊、骨密度低下、寝ちがえ筋ちがえは日常茶飯。中年男子の本性があばき出されるばかり。本気度100パーセントの「神宮外苑24時間チャレンジ」まであと1週間。はたして矢吹丈のように真っ白な灰になり、番場蛮のオヤジがごとく鯨の腹を突き破って生き伸び、トンパチ王・橋本真也が叫んだ「小川、俺ごと刈れ!」ほどの生命の熱量を発生させられるだろーか?する!
  • 2009年09月02日バカロードその3 嵐の不眠不休
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

     サラミやら生ハムやらチョコやら食糧を適当に袋につめこんだものと、トレイルシューズ2足、さらに敷き布団と掛け布団、枕を車の後部に投げ入れて、出発準備とも言えない雑な用意をして徳島を発ったのは深夜12時だ。
     高速道路を東へ東へとひた走り、名古屋の湾岸道路にさしかかった辺りで夜が明けた。曇天模様の天候は、独立峰・御嶽山へとつながる木曽谷に入るともろくも崩れ、叩きつけるような雨は、ワイパーを最速にしても容赦なく視界を奪う。長野県王滝村が近づけばいちだんと雨足は強まり、V字谷を刻む激流の轟音が地を揺らす。
     こんな嵐の中、大会は開かれるのだろうか?とガスで見えない山影を仰ぎながら何度も考える。こんな遠方まで徹夜でやって来たのに中止になったらシラけるな、という思い。一方で中止になってくれたら土砂降りの山中を100キロも彷徨わずに済む、という淡い期待。ここに来て弱気が顔をもたげている。
     朝9時ごろにメイン会場である松原スポーツ公園に到着すると、降りしきる雨の中、大会関係者が意気揚々と会場設営を行っている。中止を検討する気配も、天気を気にする不穏な空気もない。悪天など織り込み済みといった余裕が感じられる。誰ひとりとして雨に打たれることを気にしていない。そーか、そういうものなのか。
     中止の可能性ゼロとわかれば腹も座る。車の後部に布団を広げてスタート時間まで眠ることにした。「OSJおんたけウルトラトレイル100キロ」のスタートは深夜12時である。ふだんなら「おやすみなさい」って時間に最もテンションを上げておかねばならん。体内時計を一度メチャクチャに破壊しておく必要がある。そのために、大会前夜はあえて徹夜で運転をした。そしてスタート時刻直前まで睡眠をとっておくって作戦である。
     ところが真っ昼間からなかなか寝つけるものではない。アウトドアスポーツの聖地と呼ばれる王滝村に自分は在り、昨年日本のトレイル界「三強」と謳われる鏑木、石川、相馬3選手が名レースを展開した「おんたけウルトラ」の世界に数時間後に入るのかと思えば、興奮が睡眠をさまたげるのである。おまけに一転、天は晴れ渡り、強烈な日射しが車を焼きはじめた。蒸される車内で汗をだらだら流し、割れんばかりに鳴る昆虫の嘶きに耳を刺激されては一睡もならない。
     ついに眠れないままに夜を迎えた。40時間ほど起きっぱなしの状態で、20時間リミットの徹夜レースに挑むのだ。人間いったい何時間睡眠なしで活動をつづけられるのか。確かそんなバカなことに挑戦してギネスブックに載った人もいた(帰ってから調べたら11日間連続で起きていたらしい)。こうなりゃあとは野となれ山となれ。走っているうちに眠くなれば、そのまま寝てしまえばいいと割り切った。
     スタート会場のグラウンドには約600人のトレイルランナーが集結している。はるばる全国各地からこんな山奧に集まり、真夜中に100キロ走ろうかという集団である。「メタボ予防でちょっとエントリーしてみました」風情はいない。山岳レースに向かう独特のルックスは壮観である。バックパックから前面へと伸びたハイドレーションのチューブや、スカウターを思わせるサングラスは甲冑で武装した武士のたたずまいである。膝や足首に念入りに施されたテーピングはアンドロイドを思わせる。鍛え込まれた細くて鋭い筋肉に覆われた下肢が夜間照明に浮かび上がる。まさに山を自在に駆け回るカモシカのごとしキレの良さ。
     どことなくロードのマラソン大会と雰囲気が違うのは脱緊張感か。達成すべき何かを背負ったロードランナーの思い詰めた表情とは違い、トレイルランナーには「なすがままに」という達観がある。あるいは「今さらジタバタしてもどうしようもない」くらいの抗しがたき領域に足を踏み入れる無心か。その一つの表れと覚しきは、会場横の仮設トイレに行列がまったくできないこと。トレイルランナーは出発前にウンコをしないのである。これは新鮮な驚きだ。ベストタイムを出すために100グラムでも重しを減らさんときばってみるロードランナーとは心の置き所が違うようだ。

     定刻、深夜12時スタート。目映いばかりの仮設照明で照らし出されていたグラウンドを100メートルも後にすれば、真っ暗な街路、そして漆黒の林道へ。500余人のランナーが着けたヘッドランプの灯りが、地面に数百の白い弧を描き、上下動に併せて小刻みに揺れる。バックパックに装着した熊よけの鈴がいっせいに鳴り響く。「チリン、チリン、チリン・・・・・・」何百もの鈴の音が谷筋に反響する。LEDランプの青白い光と、豆球のオレンジがかった光が、蛇行する林道の流れに沿って左右にうねる。この世のものとは思えない異界への集団行のようである。ふと(死んだあとって、こんな具合なんだろうか?)と思う。似たような時間に絶命した世界中の人びとが、行列をつくって黄泉の国へと走っているのだ。これが死後直後の世界だと仮定するなら、意外に三途の川行きも怖いもんじゃない。大勢が同じ境遇にあり、同一方向に疾走する。それは自然なことのように感じ、暗闇は恐れるべき対象ではない。
     ぼくが装着していたヘッドランプは「ペツル イーライト」。キャップの先端にクリップで留められるタイプだ。重量27グラムと軽さを優先して選択したが、あくまでエマジェンシー用。不安定な浮き石や、深い車のわだち、崩壊した路肩が連続する林道をハイスピードで走るには充分な光量がない。併走するランナーのヘッドランプの光をアテにしながら15キロの間に標高差700メートルを登る。
     午前5時には白々と夜が明け、薄明かりのなか再び峠越えに入ったあたりで天候にわかに急変し、土砂降りの雨にみまわれる。数千本の樹木を叩く雨音は、ふだん街で聴くそれとはまるで違う。1粒1粒が打ち鳴らす葉との衝突音が何百万個もの共鳴となり、轟となって空気をざわめかす。葉先を経由して滝のようにしたたり落ちる水は、林道を都合のいい通り道としてたちまち渓流に変える。ランナーは足元でシブキをあげて流れ下る水とも戦わなくてはならない。
     40キロ地点にある第一関門は制限7時間。1時間の余裕を残して関門にさしかかる手前あたりで、前方から続々とランナーが降りてくる。コースに折り返し点はない。不思議に思い、なぜ?と話しかけると「自主リタイアです」と笑いながらグッドラックと手を振る。天候が悪すぎて危険と判断したのか、気が乗らなかったか。このあけっけらかんとした執着のなさ、潔さはトレイルランナーの特徴か。
     関門はエイドステーションも兼ねている。唯一の休息所であるテント下のブルーシートは水たまりのないスペースを探すのも困難だが、幾人ものランナーが毛布にくるまり精魂尽き果てたと爆睡している。いったん横になると二度と立ち上がれない気がしたので、ずぶ濡れのシューズと靴下の水気だけ取ることにする。水と泥にまみれたシューズは乾燥時の倍ほど重く鉛の足カセをぶらさげたよう。靴下を脱ぐと、白蝋化しシワくちゃになった土左衛門のような足が出てきた。これが自分の足かい? まるで水死体の皮膚じゃないか。水中に3時間、4時間と居続けたらこうなるんだろうか。見てはいけないものを見てしまった気がして、すぐさま靴下をはき直し、立ち上がった。エイドのあちこちからリタイアの相談をする声が聞こえる。甘い誘惑を断ち切るべし。水を2リッター補給し再出発する。すでにロードの100キロを走りきったくらいの疲労度、そして脚の痛みがある。中間点もほど遠いというのに。
     ここに来てもはや崖崩れは日常茶飯、土砂や岩石が道を覆う。山側の渓流は瀑布となり、谷側の道は数百メートル下まで崩れ落ちている。路面を覆う鋭利なれき岩や不安定な砂岩が一歩ごとに足の裏を刺し、痛みに耐えんとすればうめき声が漏れる。それにしても苦しい。いわゆるガス欠の苦しみから生じる「心が折れた」状態ではなく、純粋なる肉体のダメージが強烈だ。これはレースというよりは修行に近いぞ。我は千日廻峰に挑む修行僧なるぞ! 標高地図を見れば、全行程に現れる登りは700メートル1本、300メートル1本、200メートル4本、100メートル10本。累積標高差は約2600メートル。急峻な峠道はない代わりに、眉山程度の標高差の登り降りを、1日中繰り返しているに等しい。
     こんな過酷な道をヒョイヒョイ駆けぬけていくトレイルランナーとは何者か? あの風を切るように走るさまは何だ? 急傾斜の下り道でも空中を舞うように、軸脚に体重を乗せきらないうちに次の歩みに移動できるのはなぜか?
     第二関門は70キロ地点、制限10時間。関門の横に併設されたエイドステーションには豊富な食糧があるとの説明を受けていたが、制限ギリランナーが到着した頃には先行ランナーに食べ尽くされていた。パンもおにぎりもバナナもないが、地元特産の塩漬けキュウリがかろうじて残っており、餓えた腹に染み込めば、鳥肌が立つほどおいしい。教訓「トレランの大会ではエイドをアテにしてはならない。自給自足分の食糧のオマケと考える」。
     第二関門前後からペースの似通った選手たちの顔ぶれが固定しはじめ、抜きつ抜かれつ併走しつつ、声をかけあうようになる。制限20時間ギリギリで走っている集団だから、たいていがどこか故障を抱えている。「痛い、痛い」と叫びながら、痛みを忘れるためにムダ話に花を咲せる。高い心拍数で走ってないから会話に不自由はない。激痛に耐え、嵐に打たれという極限状態を共に走るランナーたちは、一瞬で旧知の仲のようになる。誰に対しても、どんな言葉を用いても説明し難い「この感じ」を共有しあえる同志ってわけだ。
     しかしトレイルランナーの感性はおもしろい。道が平坦になると「あ〜あ、こんな所まで来て、フラット道走らせるんかよ〜」とくだを巻き。下り道が続けば「あとちょっと頑張ろう!登りになったら休憩できるから」。深い水たまりに躊躇なく足をつっこみ「シューズをいったん全部水につけてしまえば気にならないよ!」。ああこの人たちはマゾなのだ、と感じ入る。痛めつけられないと許せないのだ。SMクラブの女王様に優しくされたら「金返せよ」と叫びたくなる心理と同じだ。いたぶられたいのだ。山や嵐や自分との戦いに。
     二度目の夜が訪れる。まる二日睡眠をとらず20時間近く走り続けたにしては異様に元気である。フィニッシュ会場の灯火が遠くに瞬くと、なにやら不思議な感覚に満たされる。ゴールしたくない気分なのである。なんだか寂しい、もう少し走っていたい、あと20キロくらい走りたい・・・。周囲のランナーに共感を求めると「アンタどんだけマゾよ?」と一喝される。そりゃそうだね、もう充分かもね。
     光り輝くフィニッシュゲートをくぐれば待ちかまえたカメラの放列から目映いほどのストロボがたかれる。ほぼ最終ランナーだけどスーパースター並みの扱いだこりゃ。長い人生、こんな日もあっていいかもね。19時間49分、全身の筋肉を動員し、エネルギーを使い切った爽快感でいっぱいだ。この1週間、ジョギングもできないほど悪化していたヒザや腰の痛みが今は消し飛んだようだ。走り続ければ身体が痛みに順応するのだろう。人体って笑っちゃうくらい素直な造りだね。
     「2009OSJおんたけウルトラトレイル100キロ」は、林道の崩落のため迂回路を利用し全行程103キロとなった。589人のエントリーのうち200人がリタイアあるいは関門閉鎖にあい、389人が完走した。完走率は66%である。
     そしてぼくは、フィニッシュ会場で帰る足をなくして途方に暮れていた尼崎市在住の大学生君を拾い、無限の可能性を秘めた若者の渇望感ある話に心打たれつつ早朝に自宅まで送り届け(またまた徹夜です)、足かけ三夜四日間にわたる不眠不休の旅を終えた。もうこれが限界だ・・・眠い、眠りたい。11日間不眠記録を打ち立てたイギリス人のおじさんはすごいね。ずっとビリヤードしてただけらしいんだけど。
  • 2009年08月07日バカロードその2 バカの迷宮
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

     小学生の頃、自分が大人になったら高倉健になると決めていた。日本の男の正しき姿とは健さんであり、大人になるとは健さんになることだと心得た。切った張ったの修羅を生き、悔いた涙の刻んだ皺が、右のほおに陰影を描く。惚れた女を待てば幾年月、流れ流され辿り着いた場末の酒場のカウンターの隅で、イカを肴にぬるい酒を手酌で飲む・・・。今は子どものぼくだけど、いつか大人になれば哀愁という名のコートを身にまとうのだ、と。
     あるいは高校生の頃、ハードボイルド小説や映画に凝りはじめると、パチーノやデニーロや松田優作的な、ジャックナイフや日活コルトを胸元に忍ばせて、触るものみな傷つける男に憧れた。鋼のように鍛えた身体には1ミリの脂肪もなく、餓えた目はギラギラぬめり、脂汗がグリスのように鈍く光る。理性のたがが外れた獣のように金や暴力や女を直情的に求める。社会のルールに一切くみせず、自分自身の内側に抱えたルールに従い生きる。きっと自分は映画「太陽を盗んだ男」のジュリーのような大人になる。なるはずだと信じた。

     さて現実といえばこうだ。オッサンとの呼称が適切な年齢となったぼくは、餓えも渇きも濡れもせず、経年とともに渇望感を失い、「特になーんにも欲しくない」との心境に達しつつある。かつて夢見たストイック・ヒーローズとは対極の感性である。
     たとえば食事。何を食べても心から美味しいと思えてしまう。よく冷えたコカコーラを飲むと悶絶寸前、「この世のモノか!」との雄叫びを抑えるのに必死である。神を信じないぼくも、コカコーラの原型が誕生した合衆国はジョージア州に向かって、感謝の祈りを捧げようかという気にさせる。何度も会社破綻しながら再建を繰り返し今日に至った宿命のライバル・ペプシコーラを育んだノースカロライナ州にも併せてひざまずきたい。方角に大差はないからね。
     近ごろはキュウリとトマトが安いでしょう? 500円も出せば食べきれないくらい買える。調理をせずキュウリ3本、トマト3個、生でかじって晩ごはんは終わりである。たまに「アジシオ」をふりかけると舌先が痺れるほど美味しい。こんなにシャブ中毒者並みに味を鋭敏に感じるのは五感異常ではないか。試しにポン酢やらナンプラーやらを舐めてみると、冷蔵庫の扉にもたれ掛からなくてはならないほど旨い。
     食物のみならず、服装も、物欲も、あらゆる低次欲求がそうだ。風呂に浸かっても、布団に入っても、怖いくらい快感を得られる。アブラハム・マズローが唱えた五段階欲求でいうところの生理的欲求が混乱している。あるいは度が過ぎるほど高い。無我の境地を求めて荒行を果たしたすえの無欲ではない。ちょっとアタマがいかれているのである。ハートチップルを肴に第3のビールを飲んだだけで「これ以上の幸福が訪れたらどうしよう?」と怖くなる。客観的に自己診断するならば、不安神経症の逆の症状である。あえて「幸福神経症」と名づけておこう。現状への度を超えた恍惚感と、満足しすぎる性向に対する不安。「選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり」フランスの詩人、ポール・マリー・ヴェルレーヌの言葉を用いてU設立の心境を吐露した前田アキラ兄さん状態? この傾向、2年前にランニングを始めてから加速度的に高まっている気がしてならない。
     
     100キロという途方もない距離を10時間前後で走りきるウルトラマラソンという競技は、この「恍惚と不安」が波状的に訪れる。まずウルトラランナーとは、基本的状況としては幸福このうえない存在なのである。100キロもの距離を走り通すことのできる健康な肉体を所有しているという点。交通が遮断された道路の真ん中を堂々と闊歩する横暴さ。数キロおきに用意された食べ放題の果実、ドリンク、炭水化物類。美しい風景、沿道の応援、ランナー同士に芽生える友情。このような幸福な状況を前にしても、10時間のうちに10万歩以上の地面の踏みしめにより、全身の関節は悲鳴を上げ、筋肉は収縮を拒否し、心拍は限界値付近で打ち鳴らされる。フルマラソンの30キロ以降に感じるグリコーゲン枯渇の苦しさを通り越して、「痛み」が全身を襲う。しかしだ。そのような状況下でも、基本的には恍惚のベース上にある競技であることをランナーは自覚している。80キロを超えてウルトラマラソンの最も苦しいとされるラスト20キロにさしかかっても多くのランナーは笑っているし、激痛に顔をゆがめながらもキャッキャと嬌声をあげている。そうそう、痛みすなわち愉悦なんです。果てしなきドMです。
     6月下旬に北海道で開催されたサロマ湖100キロウルトラマラソンに参加し、11時間45分で完走した。タイムはまあ平凡なのだけど、学ぶべきポイントがたくさんあった。40キロあたりでマタズレが悪化し、内股の生皮がむきだしとなり出血。その程度の痛みで真剣にリタイアを考えるほど物理的苦痛に弱いってわかったこと。80キロ過ぎると、歩いている人に抜かされるくらい脚が長距離対応できてなかったこと。これらは練習を強化すれば解決する。
     それとは別次元の問題に気づく。最近、めばえている逆説的な感情である。そもそも自分はなぜ走りはじめたのか。能力の限界を超えるリミットアウトを課すべく超長距離走にチャレンジしたのではなかったか。それは半ば苦行の意味があった。ところがこれが面白くて仕方がないのである。それは美人でボインで知的なおねえさんとのデートを翌日に控えたり、レンタル中が続いた「ターミネーター・サラ・コナー・クロニクルズ」のDVDをついに借りてバイクをすっ飛ばして帰るときと同様の、楽しい所作なのである。克服すべき対象でも、困難な壁でもない。より速く、より遠くを追求すれば、フィジカル面では苦痛を感じるのだろうが、それとて快楽と恍惚の俎上にある。楽しいことをやり続けることに意味はあるのだろうか? それは人格の再形成に好影響を与えうるのか。・・・どうも思考の迷宮に入っている。
     幸福と不幸の境界線が急低下しているのだ。最低限の衣食住と移動手段があればそれ以上に何が必要なんだと。水と食糧とテントと防寒具と国民健康保険カードがあれば、もう言うことないのだと。歳をとるごとに「もっとこうあらねばならない」という建設的な現状否定を失っているのである。これは、会社を経営する者としては致命的な指向なんじゃないかと思うのである。・・・こんなことを考えながら、霧でな〜んにも見えない乳白色のサロマ湖畔を、マタズレのキンタマ抱えて走り続けた初夏であった。
  • 2009年07月27日バカロードその1 レッツ大陸横断
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩まんとする、か?)

     大陸横断。
     この甘美な響きよ。縦断でも、ナナメ横断でもなく、大陸横断。地球上でいちばん巨大な物体である大陸。そのド真ん中に、自分の足で一本の横線を描く。 そこにどんな危険が潜んでようと、この誘惑には抗しがたい。マラリア原虫を宿したハマダラ蚊がキンキン襲ってこようと、山賊に大ナタで頭蓋骨をコナゴナに砕かれようと、大陸横断の甘い蜜にぼくは酔う。

     少し昔話をしよう。東京・神田の三省堂書店の話。
     今をさかのぼること24年。18歳のぼくは10トントラックの荷台で尾崎豊の「はじまりさえ歌えない」を鼻歌に運送会社で深夜の荷運びをし、早朝に仕事を終えると原チャに飛び乗りガラ空きの都内を走りながらジェットヘルの奧で尾崎豊の「Driving ALL Night」を熱唱し、ダンキンドーナツに飛び込んで甘いクリームに満たされたドーナツ2個を喉
    に流し込み尾崎豊の「ドーナツショップ」を口ずさむ・・というくらしを営んでいた。要するに一日中、尾崎ばかり歌っていた。 
     尾崎とともに1日の労働を終え、尾崎とともに朝メシを食い終わると、神田の三省堂書店に立ち寄る。目的地は1階のいちばん奧の地図コーナー。そこには世界中の地図が無数に並べられている。店頭の小さな平台スペースを大手出版社が熾烈な奪いあいをする本の街・神田の老舗書店である。なぜ1階の一等地の広大な面積を地図売り場が占めているのか。そして、いったい東京に人口が何千万人いるからといって、誰がブルキナファソの砂漠の交易路やザイールの密林地帯のケモノ道が記された青焼き地図が必要だというのか。現代社会における平均的な市民生活にはトンと関係のない何千種類もの地図が、静かに旅立ちの日を待っている。
     ぼくは地図一枚買うのに何日もここに通いつめた。ドーナツを買う金もギリギリの極貧生活者には、1枚2000円以上する地図を買うにはそれなりの勇気が必要だったからだ。何度かに分けて、仏ミシュラン製のアフリカ大陸の北半分と南半分の道路地図を2枚、そしてどこかの国の軍隊が作成したと覚しきジャングル戦用の詳細図を5枚買った。その地図を持ってアフリカ大陸徒歩横断の旅に出かけた。
         □
     24年後の現在の話をしよう。再びぼくは東京・神田は三省堂書店に向かった。地下鉄・神保町駅の階段を駆け上がるときに耳の奧で鳴ったのは尾崎ではなくてYUIの「Laugh away」だ。基本路線は同じだ、きっと。
     店内の棚のレイアウトは24年前と寸分と違わない。あの頃の映像が焼きつけられた網膜が移植されたがごとし。奧へ奧へと進むと、色あせた地球儀や無数の言語で彩られた地図の群れ。変わらなければ衰退するのが商売というものだが、この一角には変化の兆しもない。誰の意思も及ばない緩衝地帯か、あるいは不可侵協定締結エリアか。アマゾンドットコムやらイーベイやら、インターネット上をどのようなキーワードで検索しても引っかからない世界中の地図が、ここには変わらず鎮座している。
     どうひいき目に見ても普通の客はいない。つまり、有給休暇を取って南の島へバカンスに出かけよっか♪とか、卒業旅行はユーレイルパスで世界遺産を見て回ろっか♪とか、そんなルンルンで希望に満ちた雰囲気はない。堂々と床にアグラをかき、数百枚の航空機操縦用の地図を恐るべき猛スピードで検索するヒゲ面の男は、国際的ジャーナリストもしくは国際的テロリストに違いない。ペルシャ語で書かれたカラコルムの山岳地図に目を落とし、深いため息をつく土汚れたザックを背負った青年は、いかにも生活苦の真っ直中にいる風体である。今からK2北壁を登り、友と結ばれたザイルが切れる悲運の人生を歩みかねない深刻さだ。
     そんな明日なき疾走状態の人びとが並ぶ列に、ぼくは大きな息をひとつついて、そっと足を踏み出した。記念すべきドロップアウトの瞬間である。「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と述べたのは宇宙飛行士のニール・アームストロングだが、かたや東京の片隅で小心に震えるオッサンは「バカ道への一歩」を刻んだのである。ファンファーレが鳴り、くす玉の1コでも割れてほしい。
     アメリカ合衆国の地図をあさる。全米50州、ならびに北米広域の地図だけで、ざっと300種類を超すラインナップだ。選んでいるだけで脂汗がにじむ。落ち着け、落ち着くのだ。自分が大陸を走っている姿を想像しろ。アメリカの田舎の旧道のホコリっぽい地ベタに座り込んで、地図を開いて地平線に目をやるイメージ。ギラつく太陽に焼かれて色あせ、荒野で砂塵にまみれ、ぼくの汗がしゅみこんでボロボロにふやけた地図だ。頭蓋骨の奧で奥田民生の「無限の風」が鳴る。新大陸にふさわしいミュージック・・・ジャズもR&Bもブルースも知らないから、肝心な場面ではJ−POPSに救いを求める。長い旅の相棒となる地図をフィーリングで3枚選んだ。これでミソギは終わり。
     さあ行こう、5000キロという途方もない距離へ。北米大陸横断をめざしバカに輪をかけたバカ練習、略してバカ練をはじめよう。

     バカと呼ばれることを本望とし、バカになるために生きよう。
     常識と非常識という選択肢があるならば非常識を選ぼう。安定と不安定の分かれ道に立ったなら、迷わず不安定の道に進もう。ぐっすり眠れる夜に満たされた気分に浸るより、眠れない夜に一人興奮しよう。お金があるより、お金がない方が強いのだと言い切れるようになろう。
     価値なんかないと思われることを、ひたすらやり続けて価値を生み出そう。 夕暮れが近づいて大人に注意されても、河原で小石を夢中で積み上げつづける少年のような、必死さとイラ立ちをたたえて生きていこう。真っ直ぐな道があれば、どこまでも走っていこう。そこに叩きつけられる情熱があるなら、走り続けよう。それがぼくのバカロードだ。バカが走るバカロードなのだ。
  • 2009年06月09日熱砂に汗がしゅみこむのだ サハラマラソン完結
    砂漠で知りえた全ノウハウ

    文=坂東良晃(タウトク編集人)

     砂漠から一路徳島に帰還すると、たくさんの方・・・主におじさま世代から「サハラに出るにはどうすればいい?」とのお問い合せを受けた。メタボリックランナーこと私めがヨロヨロながらも完走したという事実は、「マジでやれば人はメタボすら超越できる」とのメッセージとなり天駆けめぐり、何人かの熟年おじさまのハートをノックしたってことなのかな。サハラマラソンに出場する日本人ランナーは毎年10人前後、つまり1億2000万人中たったの10人だ。1200万人に1人の天文学的稀少価値のある酔狂な人の群れに、いつか徳島出身ランナーがたくさん参戦すると楽しいだろうな。
     さて半年にわたって連載した「サハラマラソン編」も今回を締めとしよう。ラストは、ぼくが知り得た砂漠レースのノウハウをメモとして残したい。砂漠という特殊環境で超・長距離を走る場面では、各ランナーの過去の経験や、個々の体質によって対策が180度異なる。トレーニング、装備、食料・・・あるランナーにとってベストな選択が、別のランナーにとっては最悪の結果につながる。だからこれから書くことは今から走る方へのアドバイスではない。あくまでぼく個人の経験に基づいて感じた「も1回走るなら、こうしよう」という淡い思いにすぎない。

    【大会全般の流れ・重要だと思ったこと】
    □パリの空港集合まで
     全選手はフランス・パリの「オルリー空港」に集まり、主催者によりチャーターされた3機の飛行機に分乗し、モロッコに入国する。今回は早朝4時集合で、公共電車・バスが動いておらず、タクシーを利用するしかなかった。パリ市内からオルリー空港まではメータータクシー利用で4000〜5000円かかる。乗用車型タクシーなら3人乗れるので、ワリカンすれば1000円チョイですむ。
    □砂漠をめざすバスにおける放尿
     モロッコのワルザザード空港に到着後、入国手続きを済ませると、選手は1機あたり7台ほどの大型バスに分乗し、サハラ砂漠の中に設営されたスタート地点を目指す。毎年スタート地点は異なっているが、バス移動は7〜8時間程度と見ておく。今からどこに向かうかは選手には知らされない。フランス語と英語で書かれた「ロードブック」というレース行程表をここで渡されるが、それを見てもやっぱりどこに向かっているのかわからない。トイレ休憩は2時間おきくらいにあり、男女とも遮るものがない砂漠の平原に放尿・脱糞する。日本人以外の女性は何の躊躇もなく、何ひとつ隠すことなく堂々と原っぱでトイレをすませている。自由です。
    □野宿時の風よけ
     初日からいきなり野宿だが、これはたいへん楽しいものだから心配には及ばない。砂漠に設営された大型テントは1張りで最大8人がザコ寝する。テント・・・と言ってもあくまで砂漠の民仕様の天幕。大きな毛布を地面に敷き、さらに巨大な一枚布を天井がわりにしているだけで、入口のフタはない。したがって風は抜け放題だ。風の強い日は、木製の支柱を外して天幕を地面に近くにセッティングし、外気を遮断するよう努めたい。
    □スタート好位置の確保
     毎朝9時前後に1日のレースがスタートする。上位を狙うなら開始30分ほど前からスタート地点に向かい、ラインに近い位置をキープするべし。砂漠で前方のランナーを追い抜くのはひと苦労。追い越し時には、踏み跡のない深い砂地や、浮き石だらけの瓦礫のうえを走らざるを得なくなり、必要以上に体力の消耗を強いられるのだ。
    □水の摂取と必要分量
     1.5リッター入りのペットボトルの水が毎日3〜4度にわけて支給される。容量にして1日トータルで7〜9リッターだが、いくら汗をかいても、これほどの水は飲めない。トップグループの選手は受けとった水をそのまま置いていったり、大半を捨てている。レース中はだいたい距離8〜15キロの間で必ず1度は補給される。その区間を自分が何時間何分で走れるかというペースを見きわめ、その時間内に飲める水の量を計算し、最少限に調整したい。ぼくの場合は700ml以上は腹に入らなかった。ペットボトルから移し替えるために、選手はスクイズボトルを3本、4本と持っていたが、そんなにたくさんのスクイズボトルが必要なのか極めて疑問。ペットボトルそのものを持って走れば、水を移し替える手間も省ける。移し替えをしなければ、CP(チェックポイント)と呼ばれるエイドで足を止めずに済む。休まなければ、休憩中の先行ランナーを30人くらい一気に追い越せるだろう。
    □ゲートル(シューズカバー)とマメ
     これは最も神経を使う用具だ。靴の中への砂の侵入を防ぐためのゲートルは、選手の80%以上が着けている。ベテラン選手は、ゲートル下部を固定するマジックテープを、靴底ではなくやや上部(布の部分)につけている。ビギナーランナーは靴底のラバー部分につけている。もちろんベテラン選手のつけ方がよいのである。ラバー部分には凹凸があり、そこから砂の侵入を許してしまうのだ。ぼく自身はゲートルをつけなかった。蒸れそうな気がしたし、慣れてないことをあまりやりたくなかったからだ。結果としてマメは1コもできなかったが、容赦ない砂の侵入を許した。靴ヒモは、日本のレースに出るときみたいに締めつけない方がいい。血液の流れを滞らせないようにし、シューズの中で足を固定しないことが、マメ防止の最善策だと思う。
    □ロングスパッツを使用すべきか
     日本人選手のロングスパッツ着用率が約70%と非常に高かった。一方で、欧州の選手は、ショートパンツか膝上までのスパッツが大半であった。直射日光による皮膚表面温度の上昇を考えれば、黒いロングスパッツは熱吸収率が高く不利に思えるのだが・・・。しかし、ぼく自身一度もスパッツをはいたことがなく、筋力や関節のサポートなど、利点を確かめたわけではない。だから主観的評価は下せない。
    □バックパックの種類
     レース中は、前傾姿勢をとる場面がたいへん多い。特に砂丘越えでは、足首まで潜る柔らかい砂を強く踏みしめつつ体重を前に乗せていかないと、登っていけない。通常のザックを背負って走るスタイルでは、重心が身体の中心からやや後方に移行する。平地を走る分には問題ないが、崩れる砂山を登る際には非情なる前傾姿勢を求められ、体重を支える大腿部の筋力を一気に消耗してしまう。
     ほとんどの欧州の選手が使っている「Raid Light」というメーカーの砂漠レース用に開発されたバックパックが最適である。このバックパックは、体背面だけでなく体前面にも荷室やドリンクホルダーがあり、うまく前方に重心が寄るよう設計されている。日本に専門店はないが「Raid Light」で検索すると仏語、英語の通販サイトにアクセスできる。
    □エネルギーとやる気を引っ張り出す食糧
     欧州選手はタンパク質の摂取を積極的に行っていた。ハム、肉のくんせい、サラミソーセージなど高カロリーな肉類を多く食し、ナッツ、チーズ類など重量や体積に対して高カロリーなものを厳選し携行していた。対して日本人選手は米やラーメンなど炭水化物の乾燥食料が中心で、やや穀類に栄養源を求めすぎている気がした。乾燥米は、そのカロリーや栄養素に対して重く、またかさばる。ラーメンは毎日は食べられない。行動食にも向かない。日本での事前準備の際に、どうしても登山用品店などで携行食糧を買ってしまいがちだが、砂漠レースと登山はもちろん根本から競技が異なるものである。登山用の食糧は向かないという印象だ。
     ぼくは食糧の大半をチョコレートにした。チョコが大好きで、モチベーションをあげるためにそうしたが、朝から晩まで食べているうちに、3日目くらいから見るのも嫌になってきた。やはり単品ではなく、味や食感、栄養素に変化のある食べ物を持って行きたい。

    【荷物の軽量化=持っていったけど、持つ必要がなかったもの】
     上位を目指すランナーも、完走を目標とするウォーカーも、荷物が軽いに越したことはない。特に重すぎる荷物は、激烈な痛みをともなうマメの出来具合に大きく影響していると推察する。大会ルールとしてスタート地点での荷物重量が下限6.5kgに設定されている。今大会では全選手に対する重量チェックはなかったが、抜き打ちで検査される場合もある。初日のレース前日の公式チェック時に水、食料を多めに持ち、6.5kgギリギリに抑える。チェック終了後からスタート号砲までの間半日で水・食糧を消費して5kgでスタートする。毎日300gずつ食べて減らし、最終日には3kg以下に荷物を減らす。これでずんぶんラクなレースが展開できると思う。

     また、用意していった装備品のなかでも、ほとんど使用しなかったモノがある。使わないモノを1週間も運び続けるのはまったくのムダだ。
    □石鹸は不要。極度の乾燥からか汗が流れ落ちないため、あまり衣類につかない。体臭は、日を増すごとに誰もが臭くなってくるので相対的に気にならない。
    □トイレットペーパーはほぼ不要。大便は、支給された水でチョロチョロ流しながら手で洗うのが一番。
    □ウレタンマットは不要。地元の砂漠の民が組み立ててくれたテントには分厚い絨毯が敷かれている。絨毯下の小石をどけて寝床を整えれば快適に眠れる。
    □スリッパ、サンダル類は不要。キャンプ地で外を歩くときは、レースシューズのヒモをゆるめて履けばいい。それで何の問題もない。
    □ヘッドライトを使用する場面は非常に少ないため、スペア電池は1回分もあればよい。ぼくはスペアすら使わなかった。
    □ウエアは、レース用シャツ2枚、パンツ2枚。これでOK。
    □夜間睡眠時に着用する防寒用の長そで、長スボンのウインドブレーカーは、登山用具コーナーで売っている最軽量のナイロンやポリエステル素材のウェアを選ぶ。スポーツ用のジャージはどんな軽量タイプといえど重い。
    □靴下は2枚でこと足りる。3枚はいらない。薄手のものがよい。水洗いして干しておけば1時間もしないうちにカラカラに渇く。
    □紙類、お札(お金)は重い、そして不要。レース中にお金を使う場面はない(例外は国際電話・国際ファックスを使用する場合のみ)。
    □歯ブラシは先だけポキッと折り、柄の部分は捨てる。歯磨きチューブの分量は、きっちり7日分だけ持って行く。トラベル用の小さめのチューブなら3分の1くらいまで減らしておけばよい。
    □コッヘル(小鍋)の持参についてはよく吟味したい。自分にとって本当に毎日熱湯が必要かどうかを疑ってみる。鍋を持っていない選手も少なからずいた。
    □塩は、大会サイドからうんざりするほどの量の錠剤をくれるので、持参する必要なし。
    □ヘッドランプは超小型のものでよし。クリップ型で、帽子のツバにつけられるような軽量型もある。
    □その他、ナイフ、鏡、寝袋などの大会指定必携品は、極限までその重量を減らす努力をする。

    【効果的な練習方法】
     筆者は、平坦な海岸の砂浜を走る練習を続けたが、実際の砂丘には平坦路はほとんどなかった。5〜10メートル程度の砂のコブが30回、40回と際限なく現れる。日本で練習する際は、急な傾斜で、なおかつ乾燥して崩れやすい砂地を見つけ、走りこなしておくことが本番に役に立つ。海辺なら、堤防に向かって砂が吹きだまっている所があるはずだ。そこを何十回と往復したり直登する。
     また、荷物を背負ったうえでの100km走は効果がある。初日〜3日目までの短い区間(30km〜40km)でいくらランキングをあげても、オーバーナイト区間(80〜90km)で遅れると1時間、2時間と大差がつき、総合ランキングも一気に下がってしまう。上下に揺れつづける10kgほどの荷物を背負ったまま走る90kmは、空身の150kmに等しい。以下の練習を週一回程度、半年間続ければ、砂漠用の脚が作られるはずだ。
    □8kgのバックパックを背負い、上り下りが連続する急な坂道を3時間走る。
    □8kgのバックパックを背負い、傾斜のある砂浜を2時間走る。
    □5kgのバックパックを背負い、100kmロードを走る。
    □日本の最も暑い7〜8月にかけて、空身で80〜100kmロード走を2〜3本入れる。
    □5日間連続50km走を行う。3日走って疲労困ぱいした後の4日目、5日目の50kmがトレーニング価値が高い。お勤めの方はちょつとムリですね。

     なにはともあれ。1年チョイの歳月をかけて挑んだ砂漠レースが終わった。大っきなお祭りが終わった寂しさにいまだ胸キュン状態だが、感傷にひたっているガラではない。今の自分の力では絶対にたどり着けない場所をひたすら目指すのである。ってことで次号より当コーナーは更にバカさ加減を増幅してゆく新シリーズに突入します。無意味な行動を全力でやりつづけることに意味を見いだしたい!という禅問答にもならぬ欲望を胸に抱き、トコトコと地味にあてどなき地を求めさすらいます。ご期待ください。目指すは地平線!ってそりゃゴールはないってことか。


  • 2009年04月30日熱砂に汗がしゅみこむのだ サハラ、目に映ったもの
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

     レースは終わった。
     5日間を表現するにふさわしい言葉があるだろうか、否。
     サハラ砂漠で繰り広げられたランナーたちの戦いを、ひとつひとつ描写するには、あまりにぼくの文章力はとぼしい。

    sahara002 sahara001 sahara007 sahara005 sahara004 sahara006 sahara008 sahara003
     たとえば、足の皮フを破りながら、応急処置の人口皮膜を貼り付けただけの足の裏で、砂漠の熱い砂を何万回と踏み続けるランナーの痛みや心情や、それを乗り越えていく魂。ぼくはそれを表現するにふさわしい言葉を持たない。
     重篤な病を克服するために、あるいは家族にチャレンジする背を見せるために、自らの勇気を最大限に試す場所としてこのレースを選び、何年もの準備期間とトレーニングを積んで集まってきた人びとの偉大さに対し、頭をひれふすしかない。
     「過酷な砂漠を走り、自分と戦うレース」としか認識せず挑んだサハラマラソンに、想像もしない大きな熱い熱風の塊をガツンとぶつけられた。レースの詳細を日記風に記録することも・・・やめにしとこう。何をどう書こうと、現実に目に映った人間のドラマ、感情、エネルギーの爆発に対しては陳腐のものでしかない。

     日本に帰り、温かい布団の上に寝ころぶと、苛立ち、いや怒りに近い感情に支配される。もっといいレースができたのではないか。限界ギリギリの走りなんて程遠かったのではないか、という後悔だ。レース3日目、91キロの長丁場ステージの途中でぼくは、完全なるハンガーノック(枯渇)を迎え、意識を失った。失神なのか睡眠なのかわからない。目を覚ましたときには、おそらく200人以上のランナーに抜かれていた。再び走ろうとしても、身体のなかに燃せるべき原資が感じられなかった。そしてゴールまでの残り30キロを歩いた。後ろからぼくを追い抜いていく多くのランナーが救いの手を差しのべてくれた。結局、歩きにつきあってくれた2人の日本人ランナーの力を借りてゴールまでたどりついた。走りはじめて19時間近く経った早朝4時だった。
     今思う。あれは本当に「枯渇」だったのかと。ハンガーノックを理由に自分を許したのではないかと。肉体へのダメージを理由に、ぼくは走るべき場面で歩き、歩くべき場面で立ち止まった。それが悔しくてならない。

     高い壁に挑戦する人びと、人生を謳歌する偉大な人びとに出逢えた。そして、限界まで追求できなかった自分の弱さに絶望した。それがサハラ砂漠での5日間だった。観客として感動し、ランナーとして、人間としてへこたれた。何も終わっていない、何の満足も達成感もない。これからがはじまりである。

    第24回サハラマラソン
    開催地/北アフリカ・モロッコ
    開催日/3月30日〜4月3日
    出走者/39カ国・807人

    各ステージおよび総合成績
    ステージ1 33km 4時間31分40秒 278位/807人
    ステージ2 36km 4時間48分00秒 177位/805人
    ステージ3 91km 18時間48分50秒 401位/797人
    ステージ4 42km 5時間06分13秒 206位/774人
    -------------------------------------------------
    総合   202km 33時間14分43秒 310位/807人

  • 2009年03月17日熱砂に汗がしゅみこむのだ サハラマラソン参戦30日前「全装備」
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

     さてと、ぼちぼち旅支度である。サハラ旅に必要なすべての道具を押し入れから引っ張り出し、床いっぱいに広げてみる。小さなバックパックにこんだけの物が詰め込めるとはまさに魔法。荷物の真ん中に寝っころぶ。実際に使うか使わないかはさておき、イザって時に生命を救ってくれるモノどもに囲まれると、癒しのエーテルの海に漂う心境。
    児童文学「エルマーのぼうけん」導入部に登場する挿絵・・・エルマー少年がキスリングザックにいろんな荷物を詰め込んでいく場面は永遠のマイ・フェイバリット・シーンであるが、誰にも内緒で極秘に冒険の旅の計画を思いついてしまった少年のように無言で興奮している。天井を見つめて瞑想する。70年代、二十代半ばでサハラ砂漠横断7000キロを試みマリで渇死した青年冒険家・上温湯隆が、ほとばしる全情熱を焼きつけた砂の聖地への入城は目の前なんだよね。20年ぶりのバック・トゥ・ジ・アフリカは、ニーチェの提唱する永劫回帰を実践する旅なのかもね。遠くまでいくことは回帰することだと老子先生は説いたよね。人生は転がる石のようだねライク・ア・ローリンストーン。
     少し我に返ろう。以下はこの半年でコツコツと集めたサハラマラソン全装備だ。こんな情報が誰の役に立つというのか。誰の役にも立たない。メディアは消費者に役立つ情報ばかりを提供しすぎなのだ。少しはウンコちゃんのような無益な情報を出しやがれ。ぼくのクソ情報はインターネットより遅く、世界を網羅することもなく、地球のどこかの裸電球かがやく四畳半一間に届く。そして、情熱の吹き出し口が見つからず爆発寸前になっている若者の心に、静かに火の粉をふりかけるのだ。引火して、発火して、爆発しやがれ、である。

    【バックパック】OSPREY「EXOS 34」
     アウトドアショップ「ジョイン」店頭でこのバックパックと対面したぼくは、瞬時に恋に落ちた。脳天にピカガラと稲妻が落ちたのである。性能はさておき、黄土色のこいつと赤褐色のサハラと、ぼくとの三角関係を夢想すると興奮が止まず、早く店頭から拉致したいという衝動を抑えられなくなった。理由はない。一目惚れである。
     レースの成否はバックパックにかかる。身体の密着度合いからしても、シューズとともに肉体の一部として扱うべき存在だ。バックパック選びに失敗すれば肩・首・腰と痛みが広がり、最終的にはレースから逃避するかせぬかの葛藤に追い込まれる。
     ぼくがバックパックに求める最大要素は、ベルトを自分の感性のままに調整できるかどうかだ。バックパックは3つの点で支えられている。右肩、左肩、腰である。その各支点にかかる負荷は3つのベルトでコントロールする。ショルダーハーネスと呼ばれる両肩のベルトを緩め、ウエストベルトを締めたら荷物の90%ほどの重量が腰にかかる。その逆もできる。平常時では背中全体に重量を分散させるが、数分単位で主たる加重の場所を変える。走りながら、指一本ミリ単位の操作でコントロールできるベルトが理想だ。
     半年前にアドベンチャー・レース用に特化した「グレゴリー・アドベントプロ」というザックを仕入れ、練習を重ねていた。しかし登山用ザックとの「締め方の違い」に慣れなかった。そんな現妻との相性もあったのだろう。意のままに加重を操れるOSPREY「EXOS 34」との出会いは運命だと思えた。レース1カ月前にしてのバックパック変更だが、吉凶はやってみないとわからん。
     重量は910グラム。背中とザックの間に空間が設けられているので、汗がザック内に染み込まない。10キログラムの荷物を入れ全力で走ってみると、身体とのフィット感がすぐれている反面、やや背中でバウンドする傾向がある。それも愛嬌と受け止めよう。とにかく恋に勝るものはない。こいつと心中すると決めた。

    【シューズ】サロモン「XTウィング」
     大きく左右に張り出たアウトソールによって、岩・ガラ場のエッヂを確実に捕捉する。頑丈で大がかりなソールと引き替えに軽量さは失われ、片足390グラムと重量感がある。
     他のシューズと一線を画しているのは「クイックレースシステム」と呼ばれる独特の靴ヒモ。幅1ミリ未満の細く頑丈な1本のヒモがリング状にシューズに張り巡らされており、指1本で締める・緩めるを調整できる点である。砂漠の連続ランでは、足の裏や甲が大きく腫れあがるという。そんな状況変化に対応してくれそうだ。ぼくの平時の足裏のサイズは26センチだが、腫れを見越して28センチを選んだ。
     また、サハラでは靴内部に侵入した細かな砂がやすりとなって足裏をこすり、ためにマメができてたいそう苦しむと言う。「XTウィング」は、砂を通しにくい形状のメッシュ素材で覆われている。が、きっとマメについてぼくは他人よりも耐性がある。三度にわたる千キロを超える徒歩旅行をこなすうちに痛みに慣れてしまった。火であぶったピン先で挿して水分を飛ばし、鉄のようにテーピングすれば痛点はなくなる。問題ない。

    【ボトル&ボトルホルダー】モンベル「アジャスタブル ボトルホルダー」
     主催者から支給されるペットボトルの水を、常時1.5〜4.5リットル保持しながら走るためには、バランスの良いパッキングが求められる。背中に10キロの荷を背負い、身体の前面にウォーターボトルを数本装着して、前後のバランスを取る。欧米のバックパックメーカーは、ザックに装着するさまざまなアタッチメントを開発しているが、日本では入手困難だ。ようやく見つけたのがコレ。背面のマジックテープを使い、バックパックのショルダーハーネス(肩ベルト)に装着できる。1リットルのボトルが入るので左右で2キロ分の水を体前面に保管できる。

    【ウエストボトル】ネイサン「ランニングウエストバッグ Xトレイナーミューテーション」
     500〜650mlのボトルを横置きに収納。サイドには148mlのゼリーチューブをセットできるホルダーがついている。横揺れ、縦揺れの少ない秀作である。

    【ウォーターリザーバー】モンベル「オメガリザーバー 2.0L」
     3つのボトルホルダーに加え、バックパック内には2リットルのウォーターリザーバーをセットする。水の入った袋につながるホースを肩口から胸元に伸ばし、走りながら水補給できる。ホースの先の吸引部分は奥歯で軽く噛めば、勝手にリザーバーから水が押し出されてくる。このオメガリザーバーの利点は大開口部にある。大人の腕も入る巨大な給水口からは手をつっこんで水洗いできる。年がら年中清掃する必要もないが、スポーツドリンクを使う場合は炎天下だと腐るので、洗浄が必要なのである。また吸水口上部にフックがついており、バックパックの上ブタあたりから吊り下げることができる。こんなちょっとしたアイテムが、実戦での使いやすさにつながる。前面のボトル+背面のリザーバーで合計4.5リットルの水を身にまとう。

    【シュラフ(寝袋)】モンベル「U.L.アルパイン ダウンハガー#5」
     重量わずか475グラム、世界最軽量クラスのダウンシェラフだ。軽さだけを主眼に置いて選択した。サハラ砂漠の夜の気温は摂氏10度前後。仮に5度まで下がっても必ずしも寝袋が必要とは言えないが、大会主催者から「必携品」に指定されているため、持たざるを得ない。U.L.アルパイン ダウンハガーは末尾の数字が大きくなるほど軽量化していく。さすがに#5
    にもなると中のグースダウンもまばら。太陽に透かすと向こうがスケスケ。だが僅か475グラムに文句を言ってはいけない。夜露と夜風がしのげればいい、と考えておく。

    【ダウンジャケット】ムーンストーン「ルシードリッジダウンジャケット」
     グースダウン93%、わずか250グラムの超軽量。格子状の縫製がされているためダウンの偏りができない。ランのあと日没から睡眠までの時間帯に使用する。睡眠時はシュラフと併用して快眠をむさぼる。

    【帽子】Kappa「バンダナキャップ」
     砂漠の強烈な日射しから頭部を守る。おでこに布をあてがい、後頭部の布をまわしてマジックテープで留め、頭頂部から首筋まで布で覆う。大きめの三角頭巾みたいなものだ。うらめしや〜。

    【サングラス】アディダス「a150」
     直射日光や砂からの反射光から眼球を守る。

    【主食1】尾西食品「ごはんシリーズ」
     「白飯」「五目ごはん」「わかめごはん」「梅わかめごはん」「赤飯」「山菜おこわ」「炊込みおこわ」の7種類のアルファ米シリーズと、「白がゆ」「梅がゆ」の乾燥粥シリーズがある。1袋100グラムで300〜400キロカロリーの熱量がある。いずれも熱湯を袋に注ぎ、封を閉じて15分程度待つ、というだけの簡素さ。保存食とは思えないほどの美味で、袋の封を開けるタイミングさえ間違えなければ炊きたてごはんのようなふっくら感を再現できる。実験的に試食している段階でやみつきになり、1週間連続で主食扱いとなった。湯が沸かせないときは冷水を入れても1時間で食べられる柔らかさに戻る。袋のまま食べられるので食器いらず、しかも各袋に1本ずつスプーンが付いているという至れり尽くせり感。サバイバルの最高のお友だちだ。

    【主食2】レガー「岳食シリーズ」
     登山家に愛用されるレガーのアルファ米シリーズは、尾西食品の和風シリーズに対しオシャレ感漂う洋風メニューで種類も多彩。「野菜コンソメリゾット」「トマトリゾット」「チーズリゾット」「サーモンリゾット」「きのこリゾット」「ビーフカレー&ライス」「ガーリックリゾット」「サーモンピラフ」「カレーピラフ」「ポーク&ガーリックピラフ」「チキン&やさいがゆ」「おぞうに」「おしるこ」。うむ、これじゃあふだんの食生活よりグレードが高くなるじゃないか。重さは1食80グラムほど、カロリーは300キロカロリー前後。主催者サイドから7日間で1万4000キロカロリー分の食料携帯を義務づけられているから、単純計算でこれら乾燥食料を47袋バックパックに詰めないといけない。1食90グラム平均として総重量4.2キログラム。けっこうな重さである。荷物を軽量化させるため、初日、2日で大量に食ってしまおうと思っている(甘いかな?)。

    【その他食料】
     丼のもと、雑炊のもとなど乾燥食料を多数。顆粒状のコーヒー12本、アクエリアス6袋など。

    【コッヘル】
     食器はこの1コだけ。火の元は砂漠の風に舞う小枝にライターで着火。至ってシンプルで原始的な食生活を営みます。

    【ナイフ】ビクトリノックス「オフィサーナイフ 91mm スタンタード・スパルタンPD」
     暑い国ではナイフ1本と食料・水があれば、何はなくとも生命は維持できる。使い慣れたナイフは、缶切りからスプーン、緊急時のメスの代用まで、あらゆる生活小道具の役割を果たしてくれる。

    【アルミ製のサバイバルシート】
     表が金色、裏が銀色のアルミ蒸着シート。負傷などで体温が低下したときは金色を外向きに身体をくるみ体温保持、銀色を外側にすると高温・炎天下時の日よけ・断熱効果が期待できる。たぶん薄いシュラフだけだと夜は寒いので、こいつを簀巻き状態にする予定。
     
    【懐中電灯・スペア電池】サウスフィールド「SF LEDヘッドランプ 」
     キセノンライトとLEDライトが組み合わされている。LEDは3段階の強弱調整ができ、さらにキセノンライトは集光散光調節ができる。レースの4〜5日目には、昼夜をかけて最長80キロを走るノンストップステージがある。電池消費を避けたうえで、ルートを迷わず確実に辿るために、数パターンの光のオプションは役立ちそうだ。単四乾電池3本を加えても150グラムと軽い。

    【コンパス】シルバ「Ranger3」
     砂漠に道はない。地形と方角確認はランナーの最低限の務め。

    【警告用のホイッスル】A&F「エマージェンシーホイッスル」
     プラスチック製の笛の表面にはSOSモールスコードが刻印されている。8グラムという身軽さながら、思いっクソ吹けば相当やかましい音が出る。砂漠のど真ん中で、ひとりぼっちでこの笛をピーピー吹いているような、もの悲しい結末にはしたくないもんだな。

    【シグナル用の鏡】 完全に道を見失った際に、日光を反射させて自らの存在を捜索者に知らしめるもの。命がけの地味な行動だ。

    【時計】セイコー「スーパーランナーズ」
     サハラマラソンがレースである限り、より速く、よりよい成績でゴールをめざし走るのは定めである。マイペースで走るのならレースに出る必要なんてないんだからさ。時間の管理を託すのは、この相棒をおいて他にはない。オーソドックス・イズ・ベスト、スタンダード・イズ・ベストの代表格だ。

    【カメラ】オリンパス「防水デジタルカメラ μ1030SW (ミュー) 」
     砂の侵入の心配が一切ない防塵設計。汗と脂でドロドロの手でつかむもよし、水洗いもよし。高さ2メートルから落下させた耐衝撃実験も念入りに行われたマニアックなコンパクトカメラだ。「XDピクチャーカード 2GB」と 「リチウムイオン充電池 LI-42B」の予備を1本ずつ持って行いく。

    【毒素抽出用のスネークポンプ】ドクターヘッセル「インセクト ポイズン リムーバー」
     サソリや毒虫に刺され、咬まれた場合の応急処置に使用する。刺されたら2分以内にこのマシンを傷口に押し当て、皮膚の表面をカップ内にバキュームし、毒液を体外に出す。せっかく入手した珍品ながら、なるべくなら恩恵に預かりたくはないものです。

    【ワセリン】健栄製薬「日本薬局方 白色ワセリン 60グラム」
     股間に塗り股ズレを予防する。あるいは男性の大事な部分・・・つまりマラに塗りたくる。歩幅70センチとして230キロメートルを走り切るには、32万8000回という途方もない回数、脚を前方に繰り出さなければならない。その回数こすられるマラ君の労苦たるや想像を絶する。せめてワセリンという名の愛で包んでやりたいのである。

    【その他薬品】 
     絆創膏20枚、鎮痛薬20錠、医療用固定テープ2巻など。

    【消毒剤・液】第一三共ヘルスケア「マキロンS 30ml」
     大会サイドからの携帯指定品。マキロンS30mlにしたのは、ドラッグストアに置いてある殺菌消毒剤でこれが一番軽量であったという理由。

    【安全ピン10本】
     大会サイドからの携帯指定品。ナンバーカードを留めるためだと思われるが、安全ピンは思いがけず役立つ。特に足マメの処理には欠かせない。

    【その他】
     心電図、健康診断書、パリ往復航空券、パスポート、ライター、タオル
    【大会サイドからの提供品】
     発煙筒、固形の塩、照明スティック 

      
    遠足準備にいそしめば、夜がしらじらと明ける。今宵は目が冴えて眠れない。眠れない夜は1日分得した気分だ。バックパックかついで夜明けの海岸に走りに行こう。無駄なことに汗を流し、無駄なことに命を張ろう。道を踏み外してからが人生のはじまりさ。どうせ死ぬまでのお祭りよ。暴れまくって生きてやろう。
  • 2009年03月03日熱砂に汗がしゅみこむのだ サハラマラソン参戦3カ月前「走る意味」
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

     走るという行為には、それ自体に純粋な意味がある。振りだした脚で思いきり地面を叩き、これでもかと心臓を打ち鳴らし、呼吸を荒げ、苦しさに顔をゆがめる。その行為そのものに意味がある。
     競技大会でいい成績を残すことや、特定の距離で自己ベストを出すといった目標・・・過去の自分よりもレベルアップした今の自分を数値で確認することは、マラソンに取り組むうえで大きな動機づけとなる。しかし、そういった知的な目標・・・ストップウォッチや心拍計、あるいはGPSやフットポッドを動員して綿密にレースペースや体調を管理するという、とても都会的で自己管理型の目標とは違う「走る動機」が、身体のどこかに宿されている気がする。

     十代の頃、ぼくは走っていた。
     陸上部員でもなく、市民ランナーでもないのに、毎日走っていた。「何キロ走った」「何分で走った」という数値目標はなく、ただ走っていた。漫才部と格闘技研究会と新聞部に所属していた高校生の頃も走っていたし、高校を卒業し今でいうフリーター、当時はプータローと呼ばれる生活に入ってからも走っていた。
     早朝新聞配達をしていた頃は昼間に走り、夜勤の運送屋で稼ぎながら明け方に走り、昼に土建屋を手伝いつつ夜中に走った。肉体労働をし、同年代のサラリーマンよりたくさん金をもらいながら空き時間を見つけて走った。給料にほとんど手をつけないので何カ月か経つと金が貯まる。頃合いを見て銀行で全額下ろし、長い旅に出る。

     十八歳。北海道から東京まで1400キロを走り、歩いた。
     十九歳。北海道から鹿児島まで2500キロを走り、歩いた。
     二十歳。ケニアからカメルーンまで5500キロを走り、歩いた。

     今でいうところの超長距離走というジャンルなのだろうか。ぼくの場合は競技や記録づくりの意味合いはない。スポーツではなく、冒険旅行でもない。他人のやらないことをやってやろうとの野心もなく、ただ無我夢中で移動していた。自分がいったい何を目指し、何をやっていたのか、当時はよくわからなかった。とにかく自分の脚でどこまで行けるのかを知りたかった。アスファルトや土を踏みつけながら、何物にも頼らず遠くに行きたかった。率直に述べれば「他にやることがなかった」のであり、「処理に困るほどのエネルギーの持っていき場がそこだった」のである。
     想像を絶するほど遠くまで行けば何か答えが見つかるのではないか、という確信・・・いや信仰めいた思いがあった。小田実や植村直己や藤原新也や沢木耕太郎がおこなった二十代の旅。旅という熱波が、無力で非生産的な青年期の若者の内面に語るべき言葉を溢れさせたように、ぼくにもそんなマジックが働くのではないかという希望的観測。
     走り、移動し、旅を続けた4年間。答えは、長くさまよったアフリカの熱帯雨林地帯にあった。ジャングルの中でめぐり逢った人びとは、生まれてから一度も自分の集落やコミュニティを出ない。半径数キロの行動範囲の中で一生を終える。ところが、生まれて初めて遭遇する外国人・・・ぼくに対して警戒もせず、充分な施しを与えてくれる。皆おおらかで、親切で、心配性で、明るく、人間味に溢れている。生活に余分な装飾はなく、人生を揺るがすファンタジーもない。実直に生き、ふところ深く人を受け止める。
     「今ここに存在しない自分」を求めて旅してる自分は何だろか?と考え込む。シャングリラやらガンダーラやら「機械の身体をタダでもらえる星」なんてあるわけない。アフリカの人たちに比べて、ぼくはなんて陳腐なんだ、ああ陳腐な人生だね! そして走ることをやめた。生まれた場所に戻り、プータローを引退した。マジメに働いた。 

     四十歳を目前にして、再び走りはじめた。
     社会に出て20年、ぼくは本をつくって生きてきた。「いっしょに本をつくろう」とたくさんの若者に声をかけた。若者たちは本をつくることで生活の糧を得、社会のしくみを学んだ。
     「お前は何のために経営をしているのか?」と問われたら、昔は答えられなかったと思う。今は「若い人を雇うためだ」と断言できる。企業活動の本質は、職場づくりだ。いい職場があってはじめて世間に評価されるモノが作れ、誰かの役に立つサービスが提供できる。いい職場であるためには、そこに働く人たちが他者の意思ではなく自分自身の考え方によって行動する必要がある。自立した考えを持ち、揺るぎない意志をもとに行動する人である。
     会社を創業したころ二十代だったメンバーがベテランとなり、本づくりの中心にある。ぼくに代わって彼らが若者の育成に汗を流し、問題や危機に即断対処している。前向きな提案は全員にメールで送り、否認がない限り実行できる。経営者や上司の承認など待つ必要はない。変えたい者がルールを変えられる。モノをつくる会社で最も尊重されるべきは現場である。働く時間も、休日も、商品企画も、すべて自分で決め、誰の指図も受けない。誰かにやらされるのではなく、自分の意思でやる。そのような考え方の基盤をつくった。安定経営よりも若者の採用を最優先し、若者がパワーを発揮できる場所を用意することに全力を注ぐ。そんなチームづくりが完成に近づいたのだ。
     では次の20年は何をすべきか?と考えたとき、心象風景が一気に20年前へと遡る。高校を卒業して社会にポッと飛び出し、いったい何をやっていいかわからず、ただガムシャラに走っていた頃と何一つ変わらない心の地図が蘇るのだ。
     あの頃考えていたこと・・・人として生まれ、社会的生物として生きていくには経済活動か、もしくは奉仕活動を行い、人のためになることをしなくちゃいけない。独立した一個人としては、他人に迷惑をかけない程度の最低限の収入を得て、目的をやり遂げるための原資を所有しなくてはならない。・・・そんな青二才でモラトリアムな高校生レベルの事しか頭に浮かばないのである、四十にもなって! 人の集団づくりに懸けてきた自分が、いつしか組織に頼り、1人では何もできない大人になっちまってんの?
     「今から何をなすべきか?」と問うてもレーニンは答えてくれない。瞑想しても滝に打たれても解脱など起こらない。地上のどこにもその解答はなく、自分の内側に存在している。だから走ることを再開したのだ。走るという行為を通じて、身体の表面から余分な物を削り取っていき、その核心に近づく。実際のランニングだって、突き詰めれば無駄を削ぎ落とす作業なんである。前方への推進力を阻害する要因をフォームからなくし、最大酸素摂取量を向上させるため脂肪を落とす。速くなればなるほどランニングシューズのソールを薄く、ウエアを軽くして、裸に近づいていく。
     同じことを脳みその中でやってみる。走りながら考える。それは静止した状態の思考とは明らかに違う。オフィスで頭をひねっていても決してたどり着かない結論に、ランニング中に一瞬で到達するときがある。太古から何万年間も獲物を追っかけ回していた人類の子孫なんだから、走るという動的状態において脳みそがベストエフォートを得ようと活発化するに違いない。獲物追っかけている途中に、10コもの選択肢があってアレコレと迷っている狩人なら、たちまち敵に食い殺されてしまう。走り出したら、頭に浮かぶ選択肢は2つか3つ。そして判断は速攻。人の中の野性がそうさせるのだ。
     ぼくはきっと、これからの20年に対して、とてもシンプルな答えを導き出すために走っている。イーブンペースは大無視して、ハンガーノックよ枯渇よこんにちは。チギられ、もだえ苦しみ、自分の核にたどりつけ!
  • 2009年01月29日熱砂に汗がしゅみこむのだ サハラマラソン参戦4カ月半前「追い込みの記録1」
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

    (これまで=アフリカ・サハラ砂漠を230キロ走る「世界一過酷なレース」にエントリーしたタウトク編集人。メタボリックかつアラフォーの二重苦をものともせず、ひたすらに走るのだ)
     12月は「もう死ぬー」というくらい自分ってヤツを追い込む、そう決めた。「ここいら辺でちょいと一休みを」と身体が訴えても知らない。ランニング教本に書いてある「適度な休息と回復期を与えることで能力が向上する」との科学的アプローチは完全無視する。
     それくらい追い込まないとサハラに立つ資格を得られないと思う。物事がおもしろいと感じられるかどうかは、1点集中して本気で立ち向かっているかどうかによる。仕事でも道楽でもテキトーに手を抜いて取り組んでも何もおもしろくない。ヒィヒィとノドの奥を鳴らしながら、やれそうにもない事に食らいついていく。そうやってはじめて人生はおもしろみを増していく。

    【3日間で2本のフルマラソン】
     12月21日に山口県で行われる防府読売マラソン、その2日後に開かれる兵庫県の加古川マラソンに出場を申し込んだ。中1日をはさんでのフルマラソン2本は、1週間連続で走るサハラマラソンには及ばぬとも、連チャンレースが肉体に与える影響を試すには絶好である。
     防府読売マラソンは実業団の若手選手の試金石といった色合いのある大会。昨年までは制限3時間でファンランナーの出場は望べくもなかったが、今年より4時間に緩和され一般市民ランナーにも間口が広げられた。といってもテレビの生中継が入り、実業団トップクラスの選手が凌ぎを削るという点では、緊張感は失われてはいないだろう。
     冷たい雨が止まぬ曇天のなか会場入りすると、市民マラソンとは別次元の大会であることを実感する。防府市陸上競技場のトラックをウォーミングアップする選手たちのランニングフォームの美しいこと、そして風を切るように走るさま。明らかにキロ3分チョイのペースで走っている。もちろんぼくの全力疾走より早い、早いに決まっとる! 「う、こんな人たちと走るのか。スタート直後に1人置いてけぼりを食らうんちゃうんか」・・・場違いな場所に足を踏み入れた恐怖心か、あるいは極上の美肉を目の前にした高揚感からか(範馬勇次郎が憑依する混乱ぶり)、得体の知れぬ鳥肌を全身におっ立てながらスタート集団の最後尾に並ぶ。
     号砲とともに飛び出せば、かつて経験した事のないハイスピードの群れの中。「行けるところまで行ったる!」とのプランとも言えぬレースプランにしたがいキロ4分45秒平均で進む。10キロを47分、ハーフを1時間44分台で通過。目標である3時間30分切りを充分狙える。けっしてオーバーペースではない。呼吸は深く、グリコーゲンの貯蔵に余裕はあり、気分も平常である。しかしながら12月の雨は体温を著しく下げ、手袋の内側の指先が凍りつくようである。誤って深い水たまりに何度か踏み入れたため、足指先の感覚は痛みからマヒへと移行する。
     30キロ。変化は一瞬のうちにやってきた。予期せぬ客が「来ちゃったの」って感じである。身体のどこにも力が入らない。明瞭であった意識が遠のいていく。自滅の理由は何だろう、と自問自答する。無理なペースではなかった。それなりに自重もしていた。おそらくは悪天時の練習が足りなかったのだろう。雨天練習は欠かさぬもののウインドブレーカーを2重に着こみ、フードを被って、防寒対策をしたうえでだ。レース用の薄いランパン・ランシャツは、ほぼ素っ裸みたいなものである。水しぶきと横風を受けながら2時間、3時間と走った経験は一度もない。「雨の日もヘッチャラ」との根拠なき自信はもろくも崩れ去り、大後悔へと転じる。濡れ雑巾のように重い身体をズルズルとひきずり、制限時間いっぱいでゴールに入った。3時間59分22秒。自分をまったくコントロールできなかった大失敗レースである。真っ黒にとぐろを巻いた雨雲を背後に従えながら、涙目で防府の街をあとにした。

     翌日は全身に重い疲労感があり、朝起き上がるのに困難を極めた。ハムストリングは悲鳴をあげ、ヒザ関節の軟骨はコラーゲンを失いガリゴリ痛み、足の甲の皮膚の内側には甲殻生物がはいずりまわっているような違和感がある。あと24時間で疲労を除去しなくてはならない。超すっぱい「メダリスト」をガブ飲みし、カロリー補給を促すためにセコイヤチョコレートを10本一気食い。酸味と甘みの波状攻撃を受け、胃腸がもんどりを打つ。   
     加古川マラソン当日は午前4時に目が覚める。1時間ほどしか眠れていないが仕方がない。大会前日はこんなものである。問題は別にある。「今から42キロ走るぞ!」と準備体勢に入ろうとする身体を、脳ミソが拒絶している。体温が上がって来ず、たまらなく寒い。うーマジで寒い。さらにわが脳ミソ君は、なるべく走らなくてすむよう理論武装をはじめる。「無理して走ったらヒザ痛が深刻化するのでは?」「こんな状態で完走できるはずない。加古川までの交通費がムダになるのでは?」「そもそも3日で2レースなんてどんな論理的根拠のあるトレーニングなのですか?」。うむ、それぞれ一理ある。いや、一理などない! などと布団の中で2時間もジタバタ葛藤し、最後は「3日に2本に意味などない! あるわけ
    ない! やると決めたからやるだけだ!」と暴力的に結論づけて、布団から這い出す。
     フルマラソンを1回走った程度のダメージでネを上げていては、サハラマラソンなんてとてもじゃない。サハラは連日フルマラソン程度の距離を、気温40度、荷物15キロ、足元は砂という劣悪環境の中で1週間休みなく走り続けるのである。とにかく自分に負けてはいけない。スタートラインに着く前にギブアップしているようでは、単なるヘタレである。
     さあジャージを着ろ!乳首にバンドエイドを貼れ!股間にワセリンを濡れ!と命令を下しながら家を飛び出し、夜も明けぬ真っ暗な松茂とくとくターミナルから高速バスに乗りこんだ。高速舞子で降り、JR神戸線の快速電車に乗り換える。加古川駅前のショッピングセンターでウンコを済ませ、大会が用意した無料シャトルバスに乗り河川敷の会場に向かう。松茂から加古川まで高速バス・電車・ウンコの時間を合算しても2時間足らずで到着。加古川ってこんなご近所だったのか。
     防府読売とは異なり会場は市民マラソン大会らしい華やかな雰囲気。スタートラインから数百メートル続くランナーの集団は独特の高揚感と興奮を放っている。走りはじめたものの、やはり脚は重く、ストライドが伸びない。キロ5分30秒で精いっぱい。ジョグ並みのペースなのに、2キロも進めば息は荒く、アゴの先から汗がしたたり落ちる。さらに10キロ手前でヒザ痛が再燃し、エネルギーが枯渇しはじめる。2日前に使い切ったグリコーゲンは当然補充されていない。だけどあきらめるわけにはいかない。我慢だ、とにかく我慢である。
     15キロ地点で大会サイドが用意した「4時間」のナンバーカードをつけたペースメーカーに追いつかれる。ペースメーカーは50人ほどの大集団を引っ張っている。この集団から落ちないように走り切ればいいのだ、と頭を切り換える。ハーフ通過は1時間58分39秒、ボロボロのタイムである。23キロ地点で無性に尿意をもよおす。枯れたエネルギーを補給しようとスポーツドリンクを必要以上にガブ飲みしたためだ。コースを離れ、用を足す間に1分ロスする。「4時間集団」ははるか前方へと走り去ってしまった。追いかけよう。キロ10秒ずつ詰めれば5キロ程度で追いつけるはずだ。ペースを5分10秒まで上げる。しかし集団は遠い。追いつけるようで追いつけない。追いつきたい、どうしても追いつき、追い越したい。食らいつけ、あきらめるな。33キロの折り返し地点を過ぎると強烈な向かい風に襲われる。残り10キロ、身体の疲労感はすでに抜け、足の痛みを感じなくなっている。今の自分ができるベストをしよう。身体に軽さはない。スピードも目いっぱいだ。しかしこれ以上は走れないなんて思うな。今走らずして、いつ走るというのか。今全力を出さずしていつ出すのか。走りにリズムが出てきた。「飛ぶように走れ」と自分を鼓舞する。前のランナーをどんどん追い越していく。向かい風を気持ちよく後ろに置き去りにする。
     ゴール、3時間57分32秒。自慢できるようなタイムではないけれど、初めて納得いく走りができた。自分で自分を認められる走りとは、タイムではなく、むろん順位でもない。どうしようもなく苦しく、心が折れる寸前という場面で、粘って、粘って、耐えきれたかどうかなんだろう、きっと。
     ・・・とレース後、一瞬の満足感にひたったわけだが、2度のフルを走ってみて長ロング走に耐えられる脚が全然できていないのではないか?という疑念が湧き上がった。練習でいくら50キロを走っても現れない疲労感や痛みが本番のレースでは続々と襲ってくる。やはり、疲れがすっかり抜けきった良いコンディションでいくら距離を稼いでも意味がないのではないかと思う。この2本のレースのダメージが回復しきらないうちに更なるロング走を試みるべきだろう。
     仕事が休みに入る年末まで1週間あったので、その間はハーフのタイムトライアルなどを連日行い、「ヘトヘト」の状態をキープした。食事をなるべく採らず、エネルギーの枯渇状態を維持した。そして、かねてからチャレンジしようと企んでいた「1人箱根駅伝」を実行した。

    (つづく)
  • 2009年01月29日熱砂に汗がしゅみこむのだ サハラマラソン参戦4カ月前「追い込みの記録2」
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

    【一人箱根駅伝 140キロ走】
     駅伝とは不思議な存在である。まず、世界のどこでも認められていない日本ローカルの競技方法である。いくつか国際大会が存在するといってもあくまで日本の陸連などが主催する、他国の選手を日本に招聘してのイベントに過ぎない。
     ましてや年始の風物詩とも言える箱根駅伝に至っては全国大会ですらない。関東学連が主催する関東地区の大学生による地域ローカル大会である。だがその大会に賭ける選手・関係者の強烈な思いと情熱が、ふだんスポーツ観戦などしない視聴者や沿道の観客を巻き込み、歓喜の渦を作り上げるのだ。箱根駅伝は敗者の物語である。本人もチームも観客も、誰もが納得する結果を出せる選手はほんの一握りだろう。襷をつなげなかった選手は地に崩れ落ち、シード権を失う原因となった自分を激しく責める。優勝を果たせなかった2位校のアンカーは、詫びの標として両手を合わせてゴールに入る。18〜22歳の今どきの若者が、何と純日本人的な行動を見せるのか。純粋さと、鍛錬と、絶望と。そして再起と。そんな物語を日本人はこよなく愛するのだ。
     去年の正月までは温いコタツに足を突っ込んでボーッと箱根駅伝中継を眺めていたメタボかつアラフォーなぼくが、たまたまランナーのはしくれとなった。もしかしたら自分の脚で、あの箱根路を走ることができたりして・・・なんて思いに取り憑かれた。大手町−箱根間の往路108キロというのもサハラ・トレーニングとしては最適な距離である。これはもうやるしかない。
     東京行きの高速バスを利用し、12月29日早朝6時に浜松町に着く。そこからJR東京駅まで山手線で移動し、箱根駅伝のスタート地点である大手町・読売新聞東京本社前まで10分ほど歩く。まだ完全に夜も明け切らぬ午前7時に出発。左手に高層ビルが林立する丸の内再開発エリア、右手に皇居を望みながら日比谷通りを南下する。帰省シーズンに入った早朝の都心部は人影もまばらで、空気がすがすがしい。小ジャレたカラー煉瓦敷きの歩道は車道2車線分ほどもあり、とても走りやすい。視界には次々と東京の観光名所が現れる。東京駅、日比谷公会堂、内幸町のプリンスホテル、東京タワー、芝増上寺。首を右に左に回しているうちに目まいがしてくるほど。しかし都心部という言葉がイメージさせるハイソサエティな風景は1時間も走るうちに徐々になくなり、庶民的な商店がガード下の軒を連ねる下町的ムードにとってかわる。駅伝中継の名場面でもある蒲田踏切を踏みしめ、川崎との境界である六郷橋の上からは、河川敷の野原にいくつものバラックが建ち並ぶ自由区が見渡せる。ホームレスのおじさんたちがアルミ缶の仕分けと自転車の修理に精を出す。東京丸の内から川崎バラックへと続く道には、人間社会の聖と俗、頂点と底辺が博物館の展示のように示されているのだ。
     鶴見中継所の位置がよくわからないまま横浜駅前に達すれば30キロ地点。80年代の名作映画「夜明けのランナー」は、青年・渡辺徹が東京から横浜までを一晩かけて走るってストーリーだったか。ここはすでに各校のエースが激突する「花の二区」の山場。選手たちは終始トップスピードで駆け抜けている印象が強かったが、権太坂や遊行寺の坂は思いのほか傾斜が強く、またこの坂に終わりはあるのかと切なさが増すほどに長い。こんな過酷な道でエースたちは鍔迫り合いをしているのだ。
     強い浜風が強敵だとされる三区は、湘南海岸と平行する国道134号線を行く平坦路。ふと気がつけば国道わきの防砂林の向こうにたくさんのジョガーの姿が見える。何ごとかと思い海辺に足を向ければ、よく整備されたランニングロードが海岸線に沿ってゆるやかに蛇行し、数百人のジョガーが朝練にいそしんでいるのだ。眼前には陽光を受け眩しくきらめく湘南の海。遠ざかる江ノ島はかすみの彼方、水平線の手前にシャチの背のごとく立つえぼし岩、そして行く手には白富士。まさに永谷園のお茶漬けカードよろしくの東海道五十三次絵巻である。
     当然、口をついて出るのは弥次喜多コンビの膝栗毛の名ゼリフ・・・ではなくサザンオールスターズである。ファーストアルバム「熱い胸さわぎ」から「10ナンバーズ・からっと」「タイニイ・バブルス」「ステレオ太陽族」「NUDE MAN」「綺麗」「人気者でいこう」そして2枚組アルバム「KAMAKURA」へと続く初期サザンの名曲メドレーが脳内ノンストップで流れる。思い出すのは小学・中学・高校時代に、なけなしの小遣いをポケットにしのばせ阿南市役所横のミヤコレコードにLPレコードを買いに出かけた興奮の時だ。マスターCDやダウンロードファイルから違法コピーなどできない牧歌的な時代には、音源を入手するために1カ月の小遣いに匹敵するレコード盤を購入するしかすべはない。払った対価以上に聴き尽くさないともったいないから、レコード盤の溝がすり切れ音が飛びまくるまで何百回となくリプレイした。だから十代の頃に聴いた音楽は身体のすべての細胞まで染み渡り、曲と曲の合間の無音地帯をレコード針がこする音まで記憶している。辻堂、江ノ島、茅ヶ崎、袖ヶ浜・・・地名と風景とサザンが完璧にリンクし、その歌が流れていた時代の青春回想シーンが相まって(その大半は失恋の物語である)、鼻の奥を甘酸っぱくツンと刺激される。まことに悠長な駅伝模倣ランナーである。
     小田原市のメガネスーパー本社前を起点に、いよいよ「山の五区」箱根の登りに突入である。箱根駅伝中もっともドラマチックな場面が生み出される運命の山である。「山の神」と呼ばれた順天大・今井正人が3年続けて逆転劇を演じて見せ、2009年は東洋大の怪物・柏原竜二が今井の記録への挑戦に名乗りを上げた場所である。
     大勢の観光客で賑わう箱根湯本の温泉街を抜けると、坂の傾斜は増し、蛇行する道は妥協なく登りつづける。登山鉄道がスイッチバック方式でしか進めないほどの急傾斜。わかりやすく表現するなら眉山の八万口からの登り坂が15キロ連続しているようなもの。こんな化け物坂を、選手たちはフルスロットルで登り詰めていくのである。テレビ中継の画面からは決して伝わらない極端な傾斜角の険しさを実感できただけでもここまで来た甲斐がある。この五区においてぼくは、「絶対に歩かない」ことを自らに課した。たとえ歩きに等しいスピードまで落ちてしまっても、箱根ランナーの2倍の時間がかかったとしても、やはり走り続けなければ選手の労苦の100分の1もわからない気がするのだ。
     国道1号線の最高地点874メートルの峠を越えると、あとは猛烈な下りに転じる。はるか眼下に芦ノ湖の青い湖面が見える。重いバックパックを背負っているので飛ぶようには走れないが、下り坂は心拍数が上がらないので気持ちよく前進できる。2日後に行われる箱根駅伝を前に、テレビ中継のスタッフが慌ただしく準備に奔走している。彼らに正月はないのだろう。路傍には選手を勇気づける応援のノボリが数百とはためいている。選手より一足先に、その言葉の数々に励まされる役得を享受する。やがて往路のゴールゲートが見える。東京・大手町から108キロ離れた終着地点の眼前には、純白の雪のベールをまとった美しい冬富士が屹立している。ここをゴールと決めていたがもっと走りたい、もっと富士山に近づきたいという欲求を抑えられない。休憩もそこそこに「もっと遠くまで走ってみよう」とバックパックを背負い直す。目的地を定めず、富士の威容がより大きくなる方向へとキックを効かす。峠道をゼエゼエ登り、空中に身体を投げ出すようにスピーディに下り、そしてまたヨタヨタと登る。走る意味を考えながら、自分の行きたい場所はどこかと考えながら、ひたすら走る。
  • 2009年01月03日熱砂に汗がしゅみこむのだ サハラマラソン参戦5カ月前「長い長い季節をどこまでも走ろう」
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

    (前回まで=アフリカ・サハラ砂漠を230キロ走るレース出場を決意したタウトク編集人。古本詰め込んだバックパックを背負って今日も砂浜をひた走る)
     歳をとると1年がアッという間に過ぎ去る・・・と大人は語る。自分が若者と呼ばれる年齢の頃は、その意味がわからなかった。ひと夏ですら永遠のように感じた。地獄と呼ばれる野球部の夏練習がはじまると、心から夏の終わりが近づくことを願ったが、日めくりカレンダーの進行は遅々としていた。夏の盛りはどこまでも右上がりで、太陽は地面に黒々とした影を焼きつけつづる。
     秋の先には冬が訪れ、その向こうに春という節目が設定されていて、自分にとって重要な人が遠くに去ってしまったり、二度と会えなくなるかも知れない。そんな先々のドラマを想像するのは無茶だ!と反論したくなるほど、季節の変化はゆったりとしていた。
     いつから時間の流れに加速がつきはじめたのか。世の中の大半の人と価値観を共有できないと知ってからか。自分の能力を遙かに超えるようなチャレンジをしなくなってからか。何かを成し遂げるために生きているのではなく、生きていくために何をやるか選択するようになったからか。
     三十路に突入すると、「1年はアッという間」をイヤってほど実感する。七草セットがスーパーに並ぶを見て正月の終わりを知り、桜舞う交差点に春のあはれを覚え、お盆には海にクラゲが出るから泳いではいかん!と若者を注意しているうちに、もう大みそか格闘技特番のカード発表なんだもんな。
     今感じている1年という時間を帯グラフ化すれば、中学生の頃の夏休み分くらいの幅しかない。この分じゃあ、かりに平均寿命まで生きたとしても、残り数十年はジェットコースターに乗ってるみたいに猛然とつき進んでしまうのか。
     ・・・そんな思いがカンペキに覆された1年であった。アシックスのランニングシューズを買ってから季節がひとめぐりした。新品シューズの底をドタドタと鳴らし、わが身体は何と重力の影響をモロに受けるのかと絶望した1年前が、まるで5年くらい昔の出来事に思える。

     「走る」ことが目的ではなかったのだ。
     2年前、休暇を利用してヒマラヤ・トレッキングにでかけた。18歳のときにエベレスト・ベースキャンプを旅して以来、20年ぶりのヒマラヤだった。十代の記憶は時を経ても鮮明で、脳内イメージの自分自身・・・つまり身体に余分な脂肪がついてない冒険大好き少年が、飛ぶような勢いで山を駆け上がり、岩場をピョンピョンとトラバースして遊んでいた記憶とのギャップの激しさに打ちひしがれた。
     現実世界にある肉体は、鉄球の足枷をはめられた罪人のごとく重く、標高差わずか数百メートルの峠を越えるのに心拍数はレッドゾーンに達し、汗が暴力的に吹き出す。現地の少年ポーター(荷運び)が50キログラムもある荷物を背負って口笛吹きながらサンダルで歩く背後を、ゼエゼエと青い息をはきながら追いすがる劣等感。縦走がダメならと、手頃な岩を見つけてフリークライミングを試みる。立派なホールドだらけの壁を2メートルも登れずズルズルずり落ちる。厚生労働省が流行らせた例の言葉が耳の奧でこだまする・・・「われメタボリックオヤジかな」。
     心にメラメラと紅蓮の炎が燃える。キスリングに重りを詰め込んで六甲全山を風のように駆け抜けた孤高の登山家・加藤文太郎のように心身を研ぎ澄まし、再アタックしてやる! 薄めの酸素と淡い気圧の高山病アタマで、唇を青黒く腫らしながら、分をわきまえぬ決意をするに至ったのである。
     帰国すると、基礎体力を回復させるために眉山を登りはじめた。1年間に100回以上登頂した(よくも飽きずに!)。やることのひとつにランニングを加えたのが1年前である。朝、眉山まで出かける時間がないときに、どちらかと言えば仕方なくである。あくまで登山のサブ練のつもりであった。
     多くのビギナー・市民ランナーがそうであるように、最初は500メートルも走れなかった。血液は心臓からスムーズにポンピングされず、汗が轟の滝ほどもゴーゴーと流れ落ち、目まいと吐き気と便意が同時に襲ってくる。そんな生理現象にもがき苦しむぼくの横を、熟年ランナーの集団がキャッキャと黄色い声をあげながら駆け抜けていく。明らかに10歳、いや20歳以上は歳上である。圧倒的な力量差だが、不思議と嫌な気分はしない。あんな風に軽々と走れるようになりたいと願い、鈍重な脚に力を込めた。

     走る距離を少しずつ伸ばし、やがて10キロを歩かず走り切れるようになった。タイム計測すると1時間21分かかった。一般的にはものすごくスローなタイムなのだが、まごうことなく全力疾走であった。完走できたのが嬉しく、そしてなんとなく誇らしかった。走り終えた吉野川グラウンドのラグビー場で大の字になり、すがすがしい気分で青空を長い間見ていた。
     秋には、ハーフマラソンの大会に出場した。牟岐町の南阿波サンライン黒潮マラソンだ。ほとんどが登り坂のこのコースで、折り返しを過ぎたあたりで思考は停止し、残り5キロで距離感覚を失った。腕を振り、脚をいくら前に繰り出しても、身体はぜんぜん進まない。ゴール寸前まで70歳台のおじいさんとデッドヒートを繰り広げた。タイムは2時間22分。最後尾に近い位置だが、21キロも続けて走ったわが身を愛おしく思えた。
     初めてのフルマラソンは春の東京・荒川市民マラソン。30キロ過ぎから脚に痙攣が起こり、やがて腰から下全部の筋肉が岩石のように硬直し、包丁を突き立てられるような激痛に襲われた。こんな辛いこと二度としたくないし、早く終わってくれないかな・・・ばかり考えてゴールによろよろたどり着けば5時間25分。さっきまで半泣きだったのに、終わったとたん「これは納得いかない」と自分を許せない気持ちになった。「練習が足りなさすぎる。もっと練習すれば、もっと走れるはずだ」。
     再起戦であるとくしまマラソンはやけに楽しかった。長い間生きてきて、こんなに「人に応援してもらった」のは初めてだ。よほどの人気プロスポーツ選手じゃなければ、ふつうに生きていて全身に声援を浴びる経験なんてめったにない。走っても走ってもその先には沿道の励ましが連なっていた。それまでぼくは「楽しいから走る」という多くの市民ランナーの気持ちがよくわからなかった。マラソンは鍛錬であり、鍛錬というからには苦しみを乗り越えてこそ価値があり、楽しむ余地などありはしないのである。だが、とくしまマラソンは掛け値なく楽しく、42キロが終わりに近づくほどに「もっと続けばいいのに」とさみしい気持ちが加速するのだった。
     この間まで500メートルも続けて走れなかったメタボリックランナーが、100キロという気の遠くなる距離にも挑戦した。初夏の北海道で開かれたサロマ湖100キロウルトラマラソンだ。80キロ関門を越えると同時に心肺・筋肉すべての限界に達してしまい、意識を失ってしまった。よく「ぶっ倒れるまでやってやるぜ」と啖呵を切ることがあるが、本当にのびてしまったのは人生初の経験である。ゴール寸前で無念の涙を飲んだランナーたちを収容した救護バスでは、全員が身体のどこかを押さえ「痛タタタ!」と叫んでいる。ところが次の瞬間には「来年は絶対完走しよう!」と気勢をあげているのだ。ランナーという種族は、どこまでも前向きで明るいのだと知る。

     そんな長い長い、少年時代の夏のような1年がすぎた。レースのたびに失敗し、がっかりしながらも、少しずつ強くなっている。10キロのタイムは初計測の半分にまで縮まり、超長距離の練習をこなしているうちに42.195キロを短いとすら感じるようになった。そしてまだまだ能力の限界にぶつかる瞬間は、だいぶ先にある気がしているのである。
     生活もずいぶん変化した。生活っていうより心境か。限界ギリギリまで心拍数を上げたり、激痛をこらえて脚を引きずり走ったり、緊張のあまり朝まで眠れなかったり。こういうのって何十年も忘れていた感覚だ。野球を必死にやっていた十代の頃、ネクストバッターズサークルでひとり武者震いしてた上ずった興奮と集中。あるいは土埃舞うグラウンドのライトとレフトの間を何十回も、喉から心臓が飛び出しそうなくらい球を追いかけ走りまくったあの頃の「感じ」である。自分の中に、こんな素朴でストレートな緊張感やひたむきさが残っているなんて、驚きだったのだ。
     ときおり飛ぶように走っている、と感じる時がある。周囲から見ればドタバタ走っている鈍重なジョガーなんだろうが、内的感覚ではまさに「羽根が生えて空を飛んでいる」感じ。たぶん10キロのタイムを1分ほど縮める程度の能力アップを果たしたときに、身体が軽くて浮くような感覚・・・恍惚感に近いものを得られるんだろう。
     今は1000メートルのタイムを1秒でも縮めようと、あらゆる努力をしている。そうやって少しずつ自分の限界を超えていって、その先に何が見えるのかを知りたいと欲が出てきた。自己ベストタイムを出せる年齢的なピークは限られているのだろうけど、「ベストラン」は70歳代でも80歳代でもできる。キツいと感じた時に笑えって耐えられる余裕とか、暑い夏も寒い冬もコツコツ鍛錬を積み上げていく辛抱とか、病気になっても折れてしまわない心の強さとか。そういう総合的な人間の厚みをランニングは補強してくれる予感がする。
     強い風に向かい、太陽に焼かれ、雨に打たれて走る。景色が流れていく。空と、雲と、草木と、アルファルトの道路と。
     どこまでも走っていけそうな気がする。もっと実現困難なものにチャレンジしたい、という欲望で心がいっぱいになる。いまの自分ではとてもやれなさそうなモノ、そういう目標が脳裏をかすめると心にボッと火が灯り、やがて自分でも制御できないくらい熱い塊になって吹き上がる。
     そんなこんなで北風に短パンをパタパタ揺らせながら、まだ見ぬサハラ砂漠めざして走り込み中なのだ。
  • 2008年11月26日熱砂に汗がしゅみこむのだ サハラマラソン参戦6カ月前「くたばるまで走ろう!」
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

    (前回まで=砂漠を230キロ走るサハラマラソン出場を決意したタウトク編集人は、大会説明書を取り寄せ熟読、レースの過酷さにびびりまくる。しかしやるしかないのだ!とデカ荷物背負って砂浜を走りはじめた)
     バックパックにセットした重量を、8kgから1kgずつ増やしていく。1kgずつの重量調整が難しい。ビニル袋に米をつめこんだり、バーベルを放り込んでみたが背中でゴロゴロと動き、落ち着きが悪い。目についた物をあれこれヘルスメーターで計るうち、「図説世界の歴史(創元社刊)」シリーズが1冊あたり1kg弱だと判明。うむ、これを1巻からじょじょに積み増していけばよいのか。人類の誕生から文明の衝突まで、世界の歴史を知的に時にシニカルに見つめたこの名著を背に、人類発祥の地アフリカを目指すわけである。
     10月に入ると重しは12kgを超えた。登山の荷物としては軽々の部類だが、走るとなると上下動がそのまま縦方向の負荷となる。このワッサワッサ状態で5時間、10時間と砂漠を走り続けるのは困難だ。ランニングフォーム自体を見直さなくちゃいけない。試行錯誤をへて最も単純なアイデアに行き着いた。忍者のようにサッサッサッとスリ足気味に、水平方向に身体を移動するような意識で脚を運んでみる。加重のベクトルを、縦方向から前方向へ変えてやるのである。うん、これはサロマ湖で見た熟練のウルトラマラソンランナーの走り方だ。このフォームをサハラ1.0型と呼ぶことにしよう。
     練習を開始した9月頃のように、100歩進んではゼイゼイあえぎ、1000歩前進してゲロゲロレベルは克服した。それでも10キロも走れば息も絶え絶えだ。マジで230キロも走れる日が来るのだろうか? 
     ランニングフォーム以上に気になるのがご近所の視線だ。平日の朝から大きな荷物を背負い、あらぬ方向へと小走りで駆けてゆく奇異な男を、ご近所の方々はどのような思いで見つめているのか。その外見、アスリートにはほど遠く、しょぼくれたメタボおやじ風情である。やがて2時間ほど経つと、生気のない表情でオエーッとえずきながら帰ってくる。「毎日荷物をかついだあやしい人が近所をウロウロしています、バラバラ死体を少しずつ海に捨てているのでは・・・」などと110番に通報されはしまいか。

     荷物をかつぐ「重量対策」と平行し、週末には「長距離対策」に取り組みはじめた。7日間続けて毎日フルマラソン程度の距離を走るサハラマラソンに適応するため、50〜100キロの長距離を余裕で走りきる脚力と心肺能力を身につける修行である。
     まずは50キロからはじめる。50キロといってもどこまで行けば50キロなんだろう? とりあえず遠くまで行ってみるかと、JR徳島駅から適当に汽車に乗り、降り立った駅から走ることを思い立つ。なぜそのような「片道走行」をするのか。家から出発して25キロ地点で折り返して帰ってくる往復コースを何度が走ろうとしたのだが、どうも自分にゆるい性格が災いして完走できない。20キロ地点で「今日はフルの距離を走るんでええか」と考えたり、10キロ地点で「今日はうんこまけそうだから帰ろうか」とか、何かと理由をつけて距離を短くしてしまう。片道コースなら、しかも最初から遠くまで行ってしまえば走って帰るしかないのだから、完走せざるを得ない。
     汽車の出発時間も調べずに徳島駅に出かけたので、待ち時間が長い。ヒマをもてあまし「JR時刻表」を眺めていると、おおっ駅名の横に「営業キロ」という数字が並んでいるではないか。徳島駅を起点とした線路の延伸距離である。ならば、鉄道とほぼ平行して走る国道なら、この距離と変わりがないだろう。徳島線で西へゆくなら貞光駅、牟岐線で南に向かうなら日和佐駅がほぼ50キロ地点にあたる。また高徳線で北上する方法もある。ってなことで、3連チャンで国道50キロ走をやってみた。

    【JR貞光駅→徳島駅/50キロ】
     国道192号線を東へ向かうコース。大型トラックはじめ交通量が多く、歩道が激狭なとこも多くてランニングには向いていない。きっと国道を離れて吉野川の堤防上をコース取りすれば壮快なんだろう。今度やってみよっと。良い点であり同時に難点なのは、この国道沿い、自販機がめったやたらに多い。水分枯渇した状態で、コカコーラやダイドーのロゴが目に入ると、全身の毛が総立ちになる。が、欲に負けてはならない。これは砂漠耐久レースの練習なのである。脱水症状への耐性を身につけなくちゃいけないわけで、ブルブル禁断症状出しながら自販機をやりすごす。そんなときは、プラスティック・オノ・バンドの「冷たい七面鳥」を歌う。

    【JR讃岐津田駅→徳島駅/50キロ】
     讃岐津田から徳島方面へ向けて走りだすと、謎の数字が書かれた黄色いプラスチック性の物体が道ばたに連続して現れる。しばらくして気づくのだが、100メートルおきに徳島市への距離表示がなされているのだ。いや、こんな遠く離れた街からごくろうさまです。ラップタイムを取るのに非常に便利です。香川県内を20キロ走ると徳島との県境に達し、そこからは青い瀬戸内海を眺めながらの長〜い海沿いのシーサイトアベニュー。北灘のこのあたりは自転車のロードレーサーや長距離ランナーの練習場所になっているのか、何十人ものアスリートとすれ違う。うーむ、徳島に長いこと住んでいても知らない事って多いな。それにしても、北灘って1コの市町村くらい広大ですよね。

    【JR日和佐駅→徳島駅/50キロ】
     「道の駅日和佐」から国道55号線を北上する。くねくねアップダウンの峠道を20キロばかし進むと、橘町以降は市街地に。この地域・・・県南の人はやたらと話しかけてくる。「どこいっきょん?」「あれまーどしたん」「これ飲みだ〜、食べだ〜」と忙しい。子供はへんてこランナーの姿を肴に「どこいっきょんな、おっちゃーん! オッサーン!」などと下品に盛り上がっているし、野良犬は(多分ぼくが荷物を持っているという理由だけで)3キロも後をついてくるし、もはやフンイキ的に日本じゃないですね。県南はラテンです、いやインドです。で、ペースを上げることができないまま日はとっぷりと暮れ、眉山の灯火を案内にゴールを目指すのである。
     それぞれのコースおもしろかったのだが、やっぱ国道はマラソン練習には向いてないね。そもそも日本の道は、歩行者や自転車のためには造られてないから、自動車との距離が近すぎて危ない。風圧直撃、タイヤが跳ねたドロ水直撃である。来月からは走りやすい田舎道を探そう。

    【とくしまマラソンコース/42.195キロ】
     バックパック8kg+アミノバリュー2000mlを背負って「とくしまマラソン」のコースを走ってみた。鷲の門までバイクで行き、数寄屋橋の隣にあるキレイめの公衆トイレで用を足し準備完了。吉野川堤防上の道路は歩道がないうえに背丈の高い雑草が生い茂っており、走るスペースなし。ジョガーが1人いるだけで車が対向できずノロノロ運転、渋滞の元。ランニングするなら、北岸だと堤防と平行した下の道、南岸なら堤防上に交通量ほぼゼロの道がある。そこなら自動車を気にしないでいい。西条大橋を越えると、アスファルト上に小さく「折り返し」の標しがペイントされているので見逃さずにUターン。
     さてゴールは、感動のとくしまマラソン再現とばかりに田宮の陸上競技場内にさっそうと踊りこみたい所だが、トラックを走ると100円いるそうなので、正門玄関の前でフィニッシュってことにしよう。ここから鷲の門までは3キロほど距離があるが、しんどいときは徳島市営バスの「田宮運動公園口」から循環路線・右回りのバスを待てばよい。200円でスタート地点まで運んでくれる。下車停留所は「中徳島町二」か「公園前」だ。バスは休日の昼なら30分置きにやってくる。なかなか便利である。

     このように週末ごとに汽車やバスに乗って遠方へ出かけ、トコトコと帰ってくる習慣がついた。9月頃は50キロという距離を前にすると気が遠くなっていたが、今では「ちょっと長め」にしか感じなくなってきた。これは基礎体力がついたのか、あるいは鈍感になったのか。
     慣れというのは怖い。「追い込み」のつもりで練習してるのに、途中でウトウトと眠ってしまう。走りながら寝るクセは危険だってわかってるんだけど、入眠する魔の刻は自分では気づけないのである。車のクラクションなどの大きな物音で「わーっ」と目が覚めて、走りながら爆睡していた事実にア然としているのだ。これは一種の病気なのだろうか。病気なんだとしたら何科の先生に見てもらったらいいのだろう。茂木健一郎さんかな、茂木さんは医者ちゃうか・・・。本番の砂漠レースの途中で眠ってしまい道にはぐれて遭難しないだろうか、心配だ。
     そんなこんなで、どうも自分を追い込めてない印象の10月を過ごす。想像するにサハラマラソンってのは走力・体力の戦いというより、精神力のタフさがポイントなんである。喉も皮膚もカラカラに乾いて、空腹の五臓六腑を慰めながら、ズルむけになった足裏と荷物が食い込んだ肩に激痛を走らせながら、どこまで心折れないかの勝負なのだ。だから月間何百キロ走ったという走行距離に意味があるのではなくて、今の自分が到達していないレベルの苦しい練習を、逃げたい気持ちを抑えて、身体と心にストレス与えて無理させられるか、なんだと思う。
     特訓はじめて早くも慣れが生じてダレダレになっている。これではイカン!ってことで、曽田正人の漫画を続けざまに読む。「シャカリキ!」「め組の大吾」「昴」「capeta」。ううぬ、これでイメトレ完了、精神力充填完了である。漫画の主人公たちのように限界を突き破るのである。遠くにある何かの目標に向けて頑張るのではない。今という瞬間に、自分の出せる限界以上の力を、リミッター振り切って出せているかどうか。人生の価値はそこにあり、それを確かめるためのサハラなんである。
     もっと追い込もう。心拍数の上限いっぱいで走るのは本番マラソンレースがいい。11月、12月にフルマラソンのレースに4本エントリーした。さらに100キロ走を何本か入れる。くたばるまで走ろう! 脚がイッてもたらハイそれまでよ! (つづく)
  • 2008年10月29日熱砂に汗がしゅみこむのだ サハラマラソン参戦7カ月前「肉体いじめる」
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

     砂漠を230キロ、7日間かけて走るレースがある。世界で最も過酷なマラソン、とも呼ばれる。
     「過酷」といっても、無人の荒野を1人でゆく冒険の旅ではない。そこには主催者も医療スタッフもいてレースを管理している。食糧補給はないが、生きていくのに必要なミネラルウォーターは毎日支給される。脱水で失神して救護班の世話になったら失格にはなるけど、とりあえず救命処置はしてくれる。だから、生命の危機と戦うほどの過酷さではないのだ、そーだそれほど過酷じゃないんだ!と、我が身に言い聞かせながら、ペン先をぷるぷる震わせながら参加申込書にサインをした。
     来年の春、アフリカのサハラ砂漠で行われる「サハラマラソン」に出場するのだ。

     ってことで当コラムは、今後半年にわたって、執筆者の私めがサハラマラソンに向けて準備をすすめていく模様を、ドキュメンタリータッチで連載してゆきます。今まで自分のことはさておき、他人の悪口ばっかり書いてきた当コラム欄ですが、そのような過去の悪行の数々を反省し、傷つけた人たちに深くコウベを垂れつつ、口と文字だけで生きてきた自分が「何ほざいても、どんな理屈も通らない世界」をめざし、肉体をひたすらムチ打ち、真人間になっていく過程をお見せします。
     そして、どんな意味不明なことでもアホみたいに一生懸命やってみて、そんな人間でも生きていける余地を世の中は残してくれていて、なかなかどうして居心地の悪い場所じゃないってことを、十代、二十代の読者の皆さんに見てもらおうと思うのである。

     ではまず基本説明から。「サハラマラソン」とはどんなもんなのか。
     サハラマラソンは、モロッコの南部に広がるサハラ砂漠で開催される長距離マラソン大会だ。サハラ砂漠は北アフリカの面積の大半、東西6000キロメートルほどの広大な地域を占めているから、このマラソン大会はサハラの最北西端あたりで行われるイベントだと思っていい。
     全行程は約230キロ。これを7つのステージに区切り、初日から3日目までは毎日30〜40キロ、4日目と5日目は夜通しで走る80キロ、6日目は42.195キロ、最終日に17キロを走ってゴールする。毎日のタイムが正確に計測され、その合計タイムで優勝者や順位が決まる。この複数日タイム合算方式は、自動車レースのパリ・ダカール・ラリーや自転車レースのツール・ド・フランスなんかと似ている。ヨーロッパ人って、こんなん好きよね(サハラマラソンの主催者はフランスの会社です)。
     コースは毎年変更され、ランナーは事前に知ることはできない。大会の前々日に主催者から渡される「ロードブック」というコース地図を読んで、はじめて7日間の行程を知る。賞金マッチでもある同大会において、大会経験者と初出場者との有利不利の差を少なくするための工夫だ。ちなみに優勝賞金は5000ユーロだから、だいたい80万円くらい。ぼくには関係のないことですが。
     ランナーは1週間分の食料と寝床を自分で用意し、そのすべてをバックパックに背負って走る。スピードを優先させるため荷物は不要、という選択肢はない。最低6.5kgの荷物を持たなくてはならないのが規則。さらに1日につき最低2000キロカロリー分、7日間で1万4000キロカロリー分の食料を用意していないとペナルティーを課される。1日じゅう砂漠を走ってんだから2000キロカロリーでも少ないんだけどね。
     また、砂漠で生活するための最低限の用具の携行が義務づけられている。自分自身で準備すべき物は以下だ。
      バックパック
      寝袋
      懐中電灯・スペア電池
      安全ピン10本
      精度の高いコンパス
      ライター
      ナイフ
      強力な消毒剤・液
      解毒剤
      毒素抽出用のスネークポンプ
      警告用のホイッスル
      シグナル用の鏡
      アルミ製のサバイバルシート
     こりゃマラソン大会の持ち物っていうよりも金鉱脈を探しにいく荒くれ者たちの革袋の中身じゃな。さらに主催者からは次のサバイバルセットが支給される。
      緊急用の発煙筒
      固形の塩
      照明スティック
     要するに砂漠ではいつでも道を失う可能性があるし、毒蛇に嚼まれたりもするけど、一次的には自分でどうにかしなさい、発煙筒を炊いて鏡をピカピカ空に反射させていたら、後で助けには行きます・・・って大会サイドからのメッセージである。これらを全部まとめると食料控えめにしても10kg前後の重量となり、さらに主催者がくれる水も持たなくてはならない。ミネラルウォーターは1日約12リットル分が提供される。
     昨年の記録では、参加者は世界32カ国から801人。うち日本人は10人である。801人のうち95人が女性だ。選手たちは3月27日にフランス・パリに集合し、チャーター便でモロッコに向かう(ここまでは豪華)。そこからバスに乗り込み10時間近くかけて砂漠の中に設営されたビバーク・野営地点に向かう(いきなり貧しい感じ)。翌日には医療チェック・荷物チェックが行われ、合格する必要がある。3月29日にスタートし、ゴールにたどり着くのは7日後の4月4日だ。
     砂漠といってもコースは平坦ではなく、瓦礫状の石に覆われた山や、巨大な砂丘が行く手をさえぎる。昼間は35度〜50度の灼熱、夜になると10度近くまで下がる。宿泊地、といっても主催者が用意しているのは壁のないふきさらしの天幕。そこに毎晩ザコ寝ってわけだ。
     大まかな説明は以上。まあ細かなルールなど今から考えても仕方がない。灼熱の砂地を230キロ走り通す体力がなければお話にならない。コレ書いてる今は9月、レースまでわずか7カ月しかない。さっさと砂漠レースに耐えうる肉体づくりに取り組まなくてはならない。考えたトレーニング方法は主に2つ。

    □その一・重量対策。10kg以上のバックパックを背負い、柔らかい砂地を走りまくる。
    □その二.長距離対策。50〜100キロメートルの長距離を余裕こいて走りきる脚力と心肺能力を身につける。

     まずは重量対策だ。50リットルの登山用のザックにテントやら米やら荷物を適当に詰め込んで10kgにし、ランニングを開始した。走りだしてわかったのは、体がすごく前傾になるってことだ。あたり前なんだけど、重量物を背中にくっつけているから後ろに反り返れば倒れてしまう。荷物とのバランスをはかるため、体が勝手に前傾のポジションを選択する。その姿勢では、空身で走っているより遙かに背面の筋肉を使うことがわかる。特に大腿部の後ろ、ハムストリングスと呼ばれる筋肉をモーレツに動員している。
     肩にかかる負荷は、ウエストベルトをきつめに絞ることで軽減される。しかし、ウエストベルトを強く締めたまま、酷暑の砂漠を走り続けられるかどうか疑問がある。もっと重量全体を身体のあちこちに散らす方法があるのではないか。これは課題だ。
     自宅の近くに海岸があるので、そのまま砂浜に走り出してみる。
     乾燥した砂地では、足が10センチほど砂にめりこみ、アスファルト走の3倍以上のエネルギーを消耗する。波打ち際の硬く湿った砂の上なら道路を走る負荷と変わりないから、つい楽な方を走ろうとする誘惑にかられるが、それではトレーニングにならない。あえてアップダウンのある砂地をひたすら走る。3キロも走れば、道路を10キロ走ったくらいの消耗である。うー、やっぱしキツいな。
     沖では南からの低気圧が運ぶ波に乗ってサーファーたちが気持ちよさそうにターンを切る。あるいは砂浜では季節外れのビキニパンツをケツに食い込ませた男女がキャッキャとじゃれあっている。嗚呼それに比べて、運ぶ理由もない荷物を肩に食い込ませて、砂塵を舞い上げながらゼエゼエあえぐ毎日ってどうよ。人生の選択を間違えたか、究極の自虐プレイか、いっそマゾヒスティック・ミカ・バンドでも結成するか!? (つづく)
  • 2008年10月02日雑誌をつくろう その11「求人広告のおまけコラム」
    文=坂東良晃(タウトク編集人)

     やりたいことが、うんざりするほどある。「うんざり」ってのは良くないか。しかし「うんざり」なのである。物事の進ちょくの遅さにだ。
     作りたい雑誌が無限にある。しかしぜっんぜん手がつけられてない。いま手元にはじゅくじゅくに熟し切った企画書が5本、そのいずれもが「スタート!」の合図が鳴ればそくざにスプリントに移れる段階にある。いや、そんなスマートな比喩は適していない。相手に飛びかかる寸前の土佐犬が、親方に首根っこを押さえられている状態だ。ぼくは毎晩のように憤懣やるかたなく、ウーウー唸りながら布団に潜り込んで苛立ちと戦っているのだ。時計じかけのオレンジ寸前だ。
     なぜ飛び出せないか。理由は1つ、メンツである。メンツといっても「俺のメンツが立たねぇ」の方ではなくて、「メンツが足りない」のメンツである。1本の商業誌を創刊するには少なくとも10名前後のスタッフが必要だ。しかもよほど個性的で、風変わりで、性格の異なる人材を組み合わせる必要がある。暴れ馬も必要、ギャガーも必要、クソ真面目も、ドヤンキーも、熱血漢も、ヲタクも必要。だが、四方八方を尽くしても10人ものバカおもしろい人は集まらない。

     雑誌は人間が作る。作り手である人間の考え方や人格がモロに製品に表れてしまう。
     たとえば自動車や薬品などの製品には絶対的な規格が存在し、厳然と管理すべき製造工程がある。その規律を守り通す営み、そして創意工夫によってレベルアップを図るのは、コンピューターでもなく製造ラインでもない。紛れもなく人間である。しかし、製造過程に関わるスタッフが、おのおの独自の判断で商品を作り変えることは許されない。
     その点、雑誌はちがう。「規格」というものがなく、完成品に至るまでのマニュアルも法則もない。現場に立つ1人1人が現場で判断し、結果をつみあげていく。これは入場料を取って観客に見せるプロスポーツの試合や演劇など舞台のイメージに近い。サッカーや野球の試合は、どのようなゲームメイクをするか事前にプランがある。しかしいったん試合がはじまれば、その流れや結果を誰もコントロールできない。秒刻みで展開が変わり、そのたびに判断の選択肢が何万通りも発生するためだ。ゆえに想像だにしないストーリーが組み上がり、時に観客の心を揺さぶるドラマが生まれる。
     雑誌は印刷物という点では工業製品の一種だが、中身は人間の思いの集合体である。毎日、何人もの人に会い、積み重ねてきた生き方、物の見方を聞き取る。その記事が締切寸前に大量に仕上がってくる。そこには何百もの人の営みが記されている。鳥肌の立つような人生、予期せぬ物語、熱くて真っ直ぐな思い・・・その瞬間あらかじめ想定した雑誌のコンセプトなんて吹っ飛んでしまうのだ。特定の思想にのっとって誰かがコントロールすることは不可能な製品、それが雑誌なんである。
     そしてどんなに情熱を注いで生産しても、月刊誌なら1カ月後にはその商品は無に帰し、ふたたび新しいモノをゼロから作り直す。月刊誌は1年に12回、隔週刊誌なら24回、新製品を製造する。この短いサイクルもまた一般の商業製品とは異なる。作っても、作っても、いつも新製品を作り続けている。そんな仕事である。

     もとい。
     来年どうしてもやりたい仕事が数本ある。これはどうしてもやらなくてはならない。何年間も手がつけられないままに耐えてきたことだ。来年挑戦できないと暴発が起こる。1人で暴動を起こしてやる。
     だがぼくが「やりたい〜!」と手足をバタバタ振ってタダこねても、人材がいなければ何一つとして日の目は見ない。「こんなおもしろい雑誌があればいい」なんて夢想などいくらでも描けるが、それを現実に変換できる人材はめったに現れない。
     おもしろい人間でなければ、おもしろい雑誌は作れない。研修やトレーニングでは「おもしろい」という個性は肉づけできない。アイデアや仕掛けや言葉は天からは降ってこない。人間の内面から溢れだすものだ。だから、根っからおもしろい人の登場を日々待ち焦がれている。
     ってことで、徳島で雑誌を作りたい人、ぜひ当社の求人広告をお読み下さい。