編集者のあやふや人生(コラム)

  • 2020年02月06日バカロードその140 おけけとぼくの旅2~日本徒歩縦断2700キロ~

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで="アフリカ大陸徒歩横断"を目論む十九歳のぼくは、その試金石として北海道宗谷岬から鹿児島県佐多岬まで日本列島を縦断する二千七百キロの歩き旅をくわだてる。ところが居候をしていた牧場で、一匹の子犬"おけけ"を貰い受けたことから事態は思わぬ方向へ)

     絶世の美女がぼくを覗き込んでいる。
     長いまつげはしっとり濡れ、ぽってりした唇にタヒチアンレッドの口紅が光る。怪しの微笑みを頬に浮かべると、ぼくの耳たぶを舌で愛撫する。骨盤あたりからゾクゾクと悪寒にも似た快感が押し寄せる。大胆に開いたカクテルドレスの胸元に、豊満なバストが揺れる。張り出した腰が、軟体動物のようにくねくねと動き、ぼくの下半身にぴったり密着して圧力を増していく。耳の穴の奥深くまで、タラコ色をした舌がチロチロ侵入してくる。
     ああ、もうダメなんです・・・耐えられません。あああ、やめてくださいよう。
     一瞬、銀色の光が視界を占拠する。ゆるやかに瞼を開け、網膜に飛び込んでくる光量をコントロールする。甘美な記憶を失わないよう、ゆっくりと、そっとだ。
     ぼくの湿った鼻の先っちょには、確かにつぶらな瞳の女の子がいる。彼女は、ぼくの顔じゅうをペロペロと無邪気に舐め回している。
     正体はこいつか! あぁ願わくば夢の続きを・・・再びぼくは惰眠を貪る。
         □
     干し草の中で眠る幸福感といったら、たとえようもない。夏の間、トラクターによって何重にも巻き取られた巨大な干し草ロールの中心の方で、乾ききらない牧草は冬の間じゅう静かに発酵し、表面に微熱を運んでくる。
     毎日が野宿の貧乏旅行者にとって、夜の闇にまぎれて忍びこむ農家の干し草小屋は、天国そのものだ。鉄道駅の凍ったプラスチックのベンチや、工事現場の埃っぽいプレハブ小屋や、すきま風吹きすさぶバスの待合所に比べれば、チクチク肌を刺す牧草は、一流ホテルのふかふかのダブルベッドに等しい。冷え切った身体に温かさの芯が灯れば、睡魔が訪れる。その寸前の悦びといったらない。
     同行者一名。
     といっても、そいつはぼくの背負った赤いリュックの中で、一日の大半を過ごしている。
     名は「おけけ」という。
     白毛で、まるまる太った雑種のメス犬だ。生後およそ二カ月。アイヌ犬の血を多少なりとも引いているのか、体に不釣り合いなほど大きな耳をピンと立て、未知の世界からの情報を懸命に採取しようとしている。
     この旅は、ぼくの旅であり、おけけの旅でもある。
         □
     三日前、ぼくと子犬のおけけは、日本徒歩縦断の出発地点となる北海道宗谷岬にいた。
     オホーツク海の波濤うちよせ、凍てつくシベリアの大地より吹く北風は頬を切り・・・という哀愁演歌の世界を想像し、鈍行列車とバスを乗り継いでやってきたわけだが、現実はそうでもなかった。原色ギラギラの看板を掲げた土産物屋が建ち並び、「さいはて音頭」といった類いの安っぽい民謡がスピーカーより虚空へと放たれている。ツーリング客らはブオンブオンとエンジンを空吹かしし、団体旅行客は酔っ払った赤ら顔をして時間の潰し方がわからぬ様子であたりを徘徊する。日本のほとんどの観光名所に等しく、ここも風情などないのであった。
     (さておけけよ、ここがぼくたちの旅立ちの場所だよ)と振り返ると、さっきまでそこらの芝生の上で寝転がっていた子犬がいない。あたりを見回すと、派手な洋服を身にまとった女子大生らしき集団が、輪になっておけけに群がっている。
    「いやーん、かわいい~」
    「まだ子犬だねー。あーん、わたしにも抱っこさせてェん」
     おそるおそる近づくと、
    「すみませーん。この子にカマボコあげていいですか~」
     とお姉さんの一人。
    「ど、どどどうぞ」とぼく。
    「この子と一緒に旅してるんだぁ。どこまで行くの?」
    「鹿児島まで歩いていきます」
    「えー、すっご~い。ウエムラさんみたーい」と一同(注釈/1980年代、国民栄誉賞を受賞した探検家・植村直己は女子大生にも知られるほどメジャーな存在であった)。
    「いっしょに写真撮らせてもらっていいですかァ~」
     と求められたので、
    「はは、どうぞ」
     とうろたえながら返事する。
     おけけとぼくは、激しく煽情的な香水の匂いを放つ四人の女子大生と、代わる代わる記念撮影をした。いちばん美人のお姉さんは、ポーズをとるときぼくの腕をガシッと掴んで「ピースピース」と言った。ぼくのヒジのあたりが、お姉さんの柔らかい乳房にギュッと押しつけられ、(ああ、時よ永遠なれ!)と心のなかで叫んだ。
     華やかな撮影会が終わると、自らリュックにもぐりこんだおけけをヨイショと背負い、「日本最北端の地」のモニュメントを離れ歩きはじめる。
    「頑張ってぇ~ん」
    「東京まで来たら連絡してね~!」
    「おけけちゃんファイトぉーん」
     お姉さんグループが、悩ましげな黄色い声で見送ってくれる。実にしまりのなく、しかし幸福な旅立ちである。とにかく鹿児島めざして出発だ、おけけよ!
         □
    日記/九月十六日。
     歩きはじめて三日目だ。農家の物置小屋で寝ていたら、小学生のガキに発見されて睡眠を妨害される。朝から十五キロ以上歩いても、自販機の影すら見えない。水道も川もない、街も現れない。ノドの乾き、空腹感でもだえ苦しみ、ついついおけけ用に買ってあった牛乳を半分飲んでしまう。
     振老(ふらおい)という牧場しかない一本道をふらふら歩いていたら、車が横づけに停まりビールをくれた。ビールを飲むともっとふらふらした。
     午後二時。天塩町(てしおちょう)着。スーパーで買った巻き寿司をおけけと山分けする。
     午後九時。遠別(えんべつ)という街の「居酒屋のぶちゃん」にて、みそラーメンとごはんをタダで食べさせてもらう。「道向かいの運送屋の詰め所のカギが開いてるからそこで寝ろ!」と大将にアドバイスを受ける。電気の消えた運送店に無断でしのびこみ、床に段ボールを敷いて寝る。
     今日は四十五キロを歩く。歩くのは苦痛じゃない。明日からは五十キロを目標に歩こう。

    日記/九月十八日。
     ここまでリュックにほとんど一日中こもっていたおけけが、「歩きたい」という顔をして這い出してくるようになった。
     広大なひまわり畑の中を突っ切って豊岬(とよさき)に着くと、雨が降りだした。えらく寒くて、お腹をすかせたおけけに冷たい牛乳をやると、カタカタ震えだした。
     やがて強風となり、叩きつけるような雨が来た。雨宿りする場所もなく、びしょ濡れで歩きつづけた。
     夕方、海沿いの崖の上にある「第二栄」というバス停の小屋に逃げ込むと、壁いっぱいに落書きがされていた。自転車で日本一周中の人が二人、徒歩で日本縦断の人が二人。バイクやリヤカーやいろんな野宿旅行者がこのバス停で夜を明かしたのだな、と思うと勇気が湧いてくる。
     外は大風、バス停の薄っぺらなトタンとベニヤ板の壁を叩く。荒れ狂う海の波音が地響きとなって伝わる。寒い、けれど眠れないほどじゃない。たくさんの夢を持った若者たちが過ごしたこのバス停は優しさに包まれている。
     おけけが頭の横でションベンしたせいで髪の毛が濡れる。嵐のため三十一・七キロしか歩けなかった。

    日記/九月二十一日。
     雄冬岬(おふゆみさき)の手前で高い峠を越える。朝からおけけはまったく歩こうとしない。歩古丹(あゆみこたん)という打ち棄てられた集落をボーッと歩いていたら、目の前にマムシが! あと一メートルまで迫っていた。
     午後三時、雄冬の漁港着。札幌まで百キロを切った。おけけは一日中眠ってばかりだ。どこか具合が悪いのだろうか。
     夕方六時。野宿をするためバス停の小屋に入ると、自転車旅行中のオッサンが先客にいた。オッサンはロレツが回っておらず、意味不明のことを口走りつづけている。「じ、人類は進化すると、男はみんなホモになるんだ。ホ、ホモってどう思うキミ」とか「コカインは、イ、インドではコークって言うんだって」とかデンジャーな発言が多く、朝までヒヤヒヤしてよく眠れなかった。三十四・四キロ歩く。

    日記/九月二十九日。
     あと五十キロで函館だ。森町という街で、商店のおばさんが牛乳をくれる。ちょうど高校の登校時間と重なってしまって、女子高生に囲まれてキャアキャアと騒がれ、おけけとぼくは困ってしまう。
     駒ヶ岳山麓にさしかかると、たこ焼き店から顔をのぞかせた美人のお姉さんが「今朝、車からキミたちを見かけたよ」と言って、たこ焼きとかつおぶしをくれる。さらにはドライブインの店員さんが「おーい」と追いかけてきて、紙に包んだホットケーキを手渡してくれる。「わたし犬好きなんですよ、ホッホッホ」と笑って去っていく。
     その先では、道沿いの雑貨店の前でウンコ座りしていたヤンキー風の兄貴がこっちを睨みつけてくるので、殴られるのかと思いビクビク前を素通りしたら、後ろから「おい少年、ホットドッグ食べない?」とお店にお金を払い「犬の分も」と2個買ってくれる。そして「頑張りな」とおけけの頭を撫でてくれる。
     夜中の十二時、ついに函館着。四十九キロ歩く。
     ここからは青函連絡船に乗って青森に上陸するのだ。
         □
     おけけは行く先々で人気者になった。リュックから首だけを出して、あたりをキョロキョロ見まわしている彼女は、道ゆく人たちの目に愛らしく映るようなのである。
     小学校の下校時間ともなれば、大変な騒ぎになってしまう。物珍しい旅行者とチビ犬のコンビは、小学生にしてみたら、とてもやり過ごしてはおけない存在であるようだ。子供たちは好奇の視線を浴びせながら、ぼくらの後ろを二十人もの大行列をなしてついてきてしまう。ハーメルンの笛吹き男になったようである。
     一方で、おばあさん世代にはよく説教された。
     「こんな産まれて間もないこっこ犬を連れて歩いてかわいそうでしょ!」
     と言うのである。
     ぼくは返す言葉もなく「ごめんなさい」と謝るしかない。何べんも謝った。
     そのうちぼくは、自分がこの子犬の従者であるような錯覚に陥りはじめた。
     知らぬ間に、旅の主導権を完全におけけに握られているのだ。この旅は、アフリカ大陸を歩いて横断するための前哨戦であり鍛錬の場として企画した。しかし今のぼくは、いかにおけけ様につつがなく旅していただけるか、おなかは空いていないか、機嫌をそこねるような事をしてないのか・・・そのような心配ばかりしながら歩いているのである。
     おけけの態度も、なんとなくエラそうになってきたような気がするのだ。(つづく)
     

  • 2020年01月07日バカロードその139 おけけとぼくの旅1~日本徒歩縦断2700キロ~

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

     北海道の東のはじっこの方、根釧台地の真ん中あたりにある小さな田舎町の牧場で、ぼくは十八歳の夏を過ごした。
     春に入学した東京の大学には、入学式に出て以来、一度も足を踏み入れてない。金がないので他人の部屋に居候し、毎日ぶらぶらしていた。有り金あわせて四千円を切り、いよいよ食費にも事欠くに至って、さすがに働かないとマズいだろうという正常な判断をするようになった。
     

     コンビニで立ち読みした求人情報誌に「住み込み、三食付き、往復交通費支給」という夢のようなアルバイトを見つけ、その場で連絡先の電話番号を暗記し、店を飛び出して公衆電話に手持ちの十円玉をすべて投入して、採用してもらう約束を取りつけた。勤め先は、北海道の名も知らぬ町だった。
     東京から釧路行きのフェリーで船中2泊した。北海道が近づくと海面は黒みを増し、港湾の風景はグレーがかっていて色彩に乏しく感じられた。釧路港でタラップを降りると、これからの職場となる牧場のおじさんが迎えに来てくれていた。うながされるがままに年季が入ったライトバンに乗り込むと、車内には青臭い草の匂いと、動物の香りが充満していた。
     はじめて目にする道東の風景は、うねりのある牧草地が空と地面の境界までつづく緑一色の世界であった。牧草以外に目に映るものと言えば、1キロくらいの間隔で現れる牧場の看板と、土くれ道の先にあるエンジ色の屋根をした家。その周りを牛小屋だと思われる長ったらしい建物や、鉛筆を逆さにしたようなトンガリ屋根の倉庫が囲っている。興味深げに眺めていると、「あれはサイロっていうんだぁ」とおじさんが説明をはじめる。サイロというのは、中が空洞になった円筒形の倉庫で、底が井戸のように掘り込まれている。夏に刈っておいた青草を上から放り込んで、積み重ねておくとやがて発酵する。発酵した草はサイレージと言って栄養価が高く、冬の間じゅう乳牛に食べさせるのさー、と。
     1時間ほどかけて到着したのは、乳牛を百頭ほど飼育する酪農農家だった。無口で無骨だけど焼酎を呑むととたんに陽気になるおじさんと、小さくて丸々と肥えていて甘い物が大好きなおばさんが営んでいる。
     冗談好きのおばさんは、初対面のぼくに「あれー、女の子かと思ったよぉー、今度おばさんがお化粧してあげるからね、ホホホホ」と執拗に化粧と女装を迫ってきた。僕に女の子的な要素はなく、単にロン毛なだけだが、髪の毛を三つ編みにしたがるので勝手にさせておいた。無職で、三つ編みで、牛の乳搾りをする十八歳になるなんて、高校生だった3カ月前には想像もつかない展開である。
     牧場の仕事は「3日もしないうちに、自分には無理ですと帰ってしまう学生さんがいっぱいいる」そうだ。ハードでタフなのは確かだが、ぼくにはすべての作業が楽しく感じられた。
     起床は朝4時。ビニルヤッケとジャージのスボン、長靴、ニット帽がこの仕事の正装だ。まず牛舎に出て、夜中の間にたまった百頭分のウンチを掃除する。野球グラウンドを慣らすときに使う「トンボ」という道具があるが、それに似た鉄製のかき棒で、牛の周囲にこんもり山となったウンチを糞尿溝に落とす。オシッコがはねて湿った「敷ワラ」も捨てる。自動糞尿掃除マシンの電源を入れると、100メートル以上にも及ぶコンベアが動きだし、溝に落としたすべてのウンチを牛舎外へと運び出してくれる。
     牛のエサは9割が干し草だ。一年前の夏に刈り、ロール状に丸めておいた牧草を、農業用のフォーク(悪魔のイラストに登場する三つ槍のアレそのもの)に大量に絡め取り、ズルズルと引きずっては、牛の口元に置いていく。
     干し草の上には「配合飼料」と呼ばれる物をスコップでふりかける。乾燥させたトウモロコシやさまざまな穀物、魚粉を混ぜた栄養食で、牛は目をむいて喜ぶ。飼料タンクの下に一輪車のネコ車を設置し、山盛りいっぱいに積んでから牛に配ってまわる。油断していると、食欲旺盛な牛がアゴでネコ車を引き寄せ、派手にひっくり返してしまうので用心する。
     ウンコ掃除とエサやりの次に、もっとも大切な作業である搾乳にとりかかる。まずは人肌よりも熱めのお湯をバケツに汲み、湯に浸したタオルで牛の乳房をきれいに拭いていく。夜中に腹ばいになっているうちについた汚れをぬぐうとともに、湯で乳房を刺激することで、母牛は条件反射的にオッパイを分泌しようとする。半日分の牛乳をためこんで膨らんでいる乳腺が、さらに張りを増し、乳首から白いミルクがぽたぽたと垂れはじめる。
     牛乳を収獲するには、ミルカーと呼ばれる吸引口が4コあるタコ足状の道具を使う。ミルカーを、人の頭上50センチほどの位置に張り巡らされたミルクパイプに接続すると、仔牛が乳首を吸うようなリズムで拍動をしはじめる。それを母牛の4本の乳首にスポスポと吸いつかせると、勢いよく乳がほとばしりだす。
     1人の搾り手は、同時に5台ほどのミルカーと、乳房を拭うためのバケツを移動させながら、牛舎の隅から順に搾乳していく。
     牛ごとにオッパイの容量が違い、乳房が大きいほどかかる時間は長い。また、4つの乳房それぞれに個性があり、乳を放出し終えるまでに時間差がある。搾り終えると同時に、ミルカーの吸引口を外さないと、乳房にダメージを与えてしまう。外すのが遅れて「空搾り」になったり、早すぎてミルクを残しすぎると、乳房炎という病気にかかる。
     この作業をうまくこなすために、毎日飽きるほど牛たちの乳房を眺めて、個体差を頭に叩き込んだ。大根のように巨大なの、小ぶりでチャーミングなの、4本がバラバラの方向を向いているの、ばあさんみたいに皺くちゃなの。牛ごとに搾乳の好き嫌いもある。「早く搾ってよ」とモウモウせがむのが大半だが、後ろ足で人間を蹴飛ばして嫌がるのもいる。
     朝に晩にと、牛の乳ばかり観察していると、夢の中までオッパイ一色になる。ピンク色の何百という乳房に圧し潰されそうになり、窒息しかけて跳び起きたりした。
     朝の牛舎仕事が済むと、今朝搾ったばかりの牛乳と一緒に朝メシを腹にかきこみ、屋外の仕事にでかける。冬の間に雪の重みで倒壊した放牧場の囲いを修復したり、トラクターに乗って牧草地に肥料を蒔いたり、冬場のエサを確保するための牧草をサイロに詰めたりする。
     北海道の最果てとも言える道東では、一年のうち七、八カ月も続く冬場を乗り切るために、夏が最盛期のわずか二カ月ほどの間に、集中的に働くのである。朝4時から夜7時頃まで、食事の時間を除いて動きっぱなしだ。その労働が、一年間の牛乳の品質や収穫量となって表れる。
     牧草の刈り入れが始まるまでの期間、ぼくは放牧場を有刺鉄線で囲う作業を一人で進めていた。一年の大半を牛舎で暮らす牛たちだが、夏の間だけ牧場に放たれ、柔らかい若草がある場所を移動していくのだ。
     牛は、その鈍重な印象とはかけ離れたジャンプ力がある。人間の肩の高さの位置で、有刺鉄線をたるみなく張っておかないと、飛び越えて外に出てしまう。逃げ出しても、行くあてはないので、その辺をうろつく。何年かに一度、脱走した牛たちが、鉄道の線路上や住宅街に群れをなして歩いてきてしまい、騒動を起こすことがあるそうだ。
     牧場は一辺が数キロメートルもあって、はじっこまで見通せない。地平線まで届くかと思うほどのバカっ広い土地に5メートルおきに鉄の支柱を打ち込み、その間に有刺鉄線を張っていく。まるまる一日かけても端までたどり着かない。つくづく北海道は広いのである。
     見渡すかぎり草の緑と、空の青の二色構成だ。人の気配はまるでなく、自分のたてる足音以外に音もなく、どこかの惑星に置き去りにされたような不安感につきまとわれる。
        □
     自衛隊の演習地に近いこの町では、市街地を貫く幹線道路を、カーキ色をした輸送トラックや機動車が平然と走っていて、周囲の朴訥とした農村風景と違和感がはなはだしい。
     夜の牛舎の仕事を終えると午後7時をまわっている。たいていの日は、疲れてすぐ寝床に入るのだが、ときおり街の若い衆に誘われて夜の街にでかけた。
     夜の街といっても、むろん大げさなものではない。鉄道駅から延びるメイン道路と、それに交差する何本かのだだっ広い通りに、スナックやバーが何軒か立ち並ぶ飲み屋街だ。目立った産業といえば酪農しかなさそうなこの街に、夜の店が軒を連ねているのは自衛隊の基地や宿舎が近いためだ。
     どこの店も、カウンターの隅にコートの襟を立てた細川俊之が座ってそうな何の変哲もない内装。申しわけ程度にしつらえられた安い家具のテーブル席。レーザーディスクか8トラのカラオケマシンが置いてある。たいてい二十代から三十歳前後の女性が1人か2人で接客をしているが、客もカウンターの中に入って酒を作ったりしているので、誰が経営者なのかわからない。
     オレンジがかった薄ぼんやりとした照明の下に集まる人たちは、この街で生まれ育った未婚の女性と、それに自衛官が大半であった。アルコールが回ってくると、決まって語られるのは恋物語。誰もかれもが、自らのラブストーリーを甘く感傷的にしゃべる。
     将来を誓いながら任期切れとともに街を去っていった自衛官を恨むでもなく。家庭持ちだと知りながら刹那の恋に身を焼いたり。いずれ街を去る日が来る自衛官や、農家のアルバイト学生と、地元の若者たちの恋は期限付きの恋だ。戻るべき場所のある「内地」の人間とは対象的に、この街で生まれた女性たちは、恋人が去ったあとも待ちつづける。あるいは後を追いかけて街を出る。ハッピィエンドのない鎌田敏夫の脚本のような、あるいは藤圭子が吐露する怨歌のような話は、果てることがない。
     初対面のぼくに彼女らは饒舌だった。いつかこの地を去る「東京の学生さん」は、秘めたる想いを吐き出す相手として最適なのかも知れない。
     酪農アルバイトは、夏が過ぎると無用となる。牧草の刈り入れ期が終わり、短い夏がいっぺんに秋にとって代わられると、朝夕の牛舎の仕事以外はやることがなくなる。住み込みとしては、夏と同額の賃金と三食を提供してもらうのが心苦しくなってくる。
     ぼくは町をあとにし、東京までの1600kmを二十数日かけて走った。十代のうちにアフリカ大陸の赤道直下を歩いて横断する計画を立てていた。実現させるためには強い脚を作っておく必要があった。
          □
     その冬から春にかけては、シベリア抑留所の強制労働なみにキツいと評判の、東京湾の埋め立て地にある運送会社で働いた。深夜勤務で12時間、ぶっとおしで重い荷物を10トントラックから下ろし、また積み込んだ。4割増し賃金の土日も働き、月給は40万円を超えた。
     会社のロッカー室の床でボロ毛布にくるまり寝て、白めし無料の社員食堂で梅干しと福神漬けで食事を済ませたら、生活費はいっさいかからない。半年で200万円ほど貯めた。そしてアフリカへの最後のトレーニングのため、日本最北端の宗谷岬から、九州南端の鹿児島・佐多岬まで約2700kmを走ることにし、夏を前に再び北海道へと向かった。
     宗谷岬への道中、去年世話になった牧場に「ちょっと挨拶するだけ」のつもりで訪問した。ところが、発酵した牧草や、牛の糞尿の匂いを嗅いでいるうちに、たまらない気持ちになった。金を得るために運送会社に缶詰めで働いた東京での日々に比べて、この場所で過ごした夏の数カ月は、なんとおおらかで豊かだったか。
     「しばらく家にいて、たくさん食べて、太ってから行けばいいんだ」とおばさんは言う。
     「鹿児島まで歩くなんてバカなことはやめて、冬が来るまでここで働きなさい」とおじさんは言う。
     甘い言葉に誘われて、来週には来週にはと出発を先延ばしにしているうちに、三カ月も居着いてしまう。このルーズさが、日本縦断行をあらぬ事態へと向かわせる。
     牧場には二匹の飼い犬がいた。いちおう毎日エサを与えているから「飼い犬」なんだろうけど、鎖につながれた都会のペット犬とは違い、勝手気ままに野山を駆け回り、年中泥だらけで、見た目は野犬と大差ない。夜だってどこで寝ているのかわからない。牧場の飼い犬だから、いざとなれば牛を追ったりするのかと思えば、牛が怖いらしくて近寄らない。
     しかし「アタシらは飼い犬」という意識はあり、大声で名前を呼ぶと、遠方から全速力で駆けつける。人懐っこいカワイイやつらである。
     ところが一年ぶりに再会した二匹は、ずいぶん様子が違った。名前を呼んでも気だるそうなトロンとした瞳で無表情にぼくを一瞥し、どこかへ去っていく。おばさんによると、一匹は歳をとってお婆さんになったから、もう一匹は「誰かにヤラれちゃった」ということだ。つまりお腹に子供がいるのである。
     ある日を境にぷっつり姿を見せなくなった母犬は、数日後に牧草地の隅っこの盛り土に掘った穴ぐらから、意気揚々と登場した。遅れて三匹の子犬も這い出してきた。土にまみれて真っ黒だが、三匹とも白犬だ。
     さてここからの展開は、この街を覆う幾百の恋物語ほどにはロマンチックなものではなく、ペットを飼う家庭ならよくあるお話だ。「今でも二匹飼ってるから、これ以上はねぇ、残念だけど」ってわけで、家族みなで四方八方に頼んでまわり、ひと月かけて二匹の貰い手は見つかった。しかし、三匹のうちいちばん臆病で、人見知りし、もこもこ毛深いという理由で「おけけ」と名づけたメス犬が残ってしまった。引き取り手のないおけけは、牛舎を遊び場にして、牛の敷きワラの上をころころ転げ回って遊んでいる。このままでは「良くない判断」の方に傾いていきそうである。
     ふだんのぼくは、道ばたで雨に濡れる捨て犬、捨て猫を抱きあげてやるような慈悲の心は持たない。それなのにこの無邪気に遊ぶ仔犬を生かしたいという柄にもない感情が湧いている。
     盛夏をすぎた北海道はとたんに秋の匂いを濃くし、万物が生き生きと栄えた夢のような季節が終わったことを伝える。ひと夏の間に何十センチと伸びた牧草は勢いを失い、牛舎の牛たちは「外に出たい」と鳴くのをやめた。朝には息が白くたなびき、冷え込みが強くなってきた。
     出発のときが迫っているのだ。十月の声を聞かないうちに旅立たないと、豪雪の東北や北陸で雪に閉じ込められてしまう。
     おけけは・・・連れていく。とりあえずの場当たり的な措置。しかし他の方法がない。生後1、2カ月の仔犬にはいい迷惑だ。毎日50km以上、狭いリュックのなかで揺られ、あるいは硬いアルファルトの上を歩かされる。
     何も知らないおけけは、仰向けになって腹を見せ、手足をバタバタと振っている。(つづく)

  • 2019年11月06日バカロードその138 史上最長のレース3「限界って何なん?」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=「四国一周おおもりオールナイトマラニック」は、四国4県をめぐる総距離785km、制限時間8日間のノンストップレース。愛媛県宇和島市を出発し6日目、517km地点徳島・高知県境の四ツ足峠を前にして落雷と土砂降りの巣に突入する)

    【6日目/徳島県那賀町木頭502km~高知県境・四ツ足峠517km】
     四方を山に囲まれた狭い空に、トグロを巻いた漆黒の雲が次から次へと押し寄せては、10倍速の早送りビデオみたいな猛スピードで千切れ去っていきます。稲妻が一瞬フラッシュして視界を真っ白にし、直後に雷鳴がバアァァーンと空気を震わせます。
     人家がほとんどない山峡の、那賀川の激流音がたえまなく聴こえる河畔に、ポツンと一軒だけ建つ新聞販売店。その軒先に逃げ込んでから1時間近く経っています。
     雨具や長ズボンは持ちあわせておらず、短パン、Tシャツの薄着です。雨や風が容赦なく横殴りに吹きつけます。店先で無人セルフ販売していたデイリー新聞を購入し、新聞紙を全身に巻きつけ、体育座りをして寒さに耐えます。ぱっと見、即身仏のミイラですよこれは。ザ・マミーです。
     ドロドロ雲に切れ間が生じないかと空を睨んでいても好転の気配なく、日没が近づいており谷底は薄暗さが増していきます。雨避けのないこんな場所で、身体の動きを止めたまま、夜を越すのは無謀です。土砂降りでも前進するしかありません。
     せめてものインスタント防寒具として、すでにびしょ濡れになっている黒い新聞を何回か折りたたみ、胴回りに巻きつけました。そして叩きつける雨の下へと飛び出しました。
        □
     雨をはじき飛ばす勢いで駆けます。15km先の四ツ足峠(標高660m)までは雨宿りできる場所なんてないだろうと決め込んでいたものの、次々と集落が現れては、雨よけにうってつけなバス停小屋や車庫が目に止まります。さっさと前進して、ここで休憩しておればよかったです。
     ゆずの産地で有名な北川集落は、峠へと至る最後の村です。北川にさしかかる頃に日没しましたが、幸運なことに雨足が弱まってきました。この先の山中で暴風雨に攻められ続けたら、前進も後退もできなくなります。
     蛇行する峠道は、深い霧に満たされていました。濃い密度で漂う霧の粒がヘッドランプの光をさえぎり、10メートル先も見通せません。長さ1857mの四ツ足峠トンネルの中央部に白線が引かれた県境ラインがありました。トンネルを抜けると「べふ峡温泉 これより3km」という魅惑の看板が浮かびあがります。ときおり現れるこの看板が、冷え切った身体に熱量を与えます。温泉にさえたどり着けば、浴槽に満々と湛えられた、とろりとした天然湯に身をゆだね、鼻先まで温ったまれるんだ。そして死に体に等しい体力を回復させて、前向きな気持ちでゴールに向かい直すのだ。消耗しきった両脚に力がみなぎります。
     べふ峡温泉の入浴札止めが夜9時30分となっているので、間に合わせるべく下り坂をキロ5分のハイペースで駆け降ります。息が上がります。脚に衝撃が届きます。気持ち的には箱根6区のランナーです。峠道を下り終えると、霧雨のベールの向こうに温泉施設の照明灯が見えてきました。
     夜9時15分。入浴終了時刻の15分前です。受付カウンターで入浴券を買おうとすると、係のお兄さんから「今から入浴されるとすると、10分ほどで出ていただかないといけない」と事務的に伝えられます。9時30分は札止めではなく、日帰り入浴客が利用できる最終時刻とのこと。
     「チョト待てチョト待てお兄サン♪ 捨て猫のように濡れそぼったミーを見て! ほら、かすかに震えてるでしょ。きっと宿泊客はも少し遅くまで入浴してるんだから、ここはひとつルールをゆるめてみて!」
     というモンスター客的発言は、喉の奥に押し留めます。いつか、あの時代の浜田省吾のように、純白のメルセデスに乗って最高の女とベッドでドンペリニオン舐めるくらいサクセスしたら、この温泉宿のいちばん値の張る部屋に泊まって、湯舟のヘリからザブザブ湯を溢れさせながら浸かりまくって、べふ峡温泉を見返してやる!と無駄に発奮します。
     お兄さんからは「高知市方面に向かっていくと、この先は何十キロも何もないですよ」と助言をいただきます。ううむ、それくらいで絶望はせぬぞ。ジャーニーランの最中に、地元の方に道を尋ねる場面では、この類のアドバイスはよく受けるものです。「ここから先は何もないよ」と。それって時速60キロのドライバー目線なんですよ。運転席から眺めたら「何もない」という認識であっても、ドン亀ランナーのスピード感なら、集落のない無人地帯といえども、休憩できるベンチや自販機は点在しているものです。

    【7日目/四ツ足峠517km~高知市高知城599km】
     温泉滞在わずか3分で、奥物部渓谷に沿って伸びる道へと再び走りだします。夜の霧雨はいっそう冷たく感じられます。
     そして温泉お兄さんの情報が脚色のない事実だったとわかるまでには、常夜灯のない漆黒の闇とトンネルが繰り返す無人の道を20kmほど進まねばなりませんでした。途中、掘っ立て小屋は2つありました。壊れた壁の隙間からヘッドランプの光をかざして中を覗き込むと、足の踏み場もないガラクタの山。何年間も人の手が加えられてないのは明らかです。一面に埃が積もっており、横になれそうなスペースはありません。こんな「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」みたいな小屋には一刻足りとも滞在できません。
     深夜0時を過ぎる頃には、衰弱ぶりがいっそうひどくなってきました。雨に濡れたシャツやランパンは、谷底に充満する湿気のためかいつまでも乾くことがありません。凍てつく風が、氷のようにカチコチの皮膚の表面から、奪いようのない体温を更にもぎ取ろうとします。血液や内臓までフリーザー漬けになっているようです。脳みそが活動を停止させようと睡魔の波状攻撃を仕掛けてきます。歩きながら夢を見ては、ハッと目覚めると車道の真ん中を歩いていて、アブナイ状態にあることを自覚します。1時間に2kmも進まなくなっています。歩いても歩いても、どこにもたどり着かない気がしてきます。
     ようやく小さな集落が現れます。村人の休憩所のような小屋の壁に、大きめの段ボール箱が畳まれた格好で立てかけられていました。ちょっと拝借して、箱を組みたてると、人間が座って入れるほどの広さでした。中に入って上ブタを閉め、箱の底で猫のように丸くなります。温泉を出てから5、6時間というもの腰を下ろせる場所すらなく深く安堵します。五十歳も過ぎて、路ばたの泥だらけの箱の中で、安心した気持ちになるなんて、安部公房の「箱男」レベルのシュールさです。この先の人生を暗示しているかのようです。
         □
     どんなに長い夜もいつかは明けるものです。朝方には人の匂いがする下界へと近づいてきました。香美市物部町(542km)の広々とした公共パーキングにログハウス風の公衆トイレがあり、その前の木製ベンチに温かそうな朝の光が差しています。ベンチに横になった瞬間、眠り込んでしまいました。
     目覚めると時計が2時間も進んでいます。完走可能なペースから、まる24時間遅れてしまいました。スマホでレース状況を確認すると、完走ペースで進んでいる方々は、56km先の高知市で仮眠を終え、愛媛県境を目指して走りだしていました。もうこの辺りであきらめた方がいいのだろう、と思いました。どんなに頑張っても、決められた最終時刻までにはゴールの松山市にはたどり着けそうにありません。
     黄金連休真っただ中の「やなせたかし記念館」(554km)には、駐車場に列ができるほど大勢の観光客で賑わっています。国道沿いに設けられた食堂には屋外に東屋がしつらえられています。食券で買い求めるメニューは、朝の和定食と洋食の二択でした。五月の爽やかな風が吹き抜ける東屋の下で、旅館の朝ごはんのような充実した朝定食をついばみます。心はすっかり戦線離脱モードになりました。シューズとソックスを脱ぐと、ほぼ全部の指の腹に水ぶくれができています。ジャーニーランに慣れたここ数年は、何百キロと走ってもマメができることはなかったのですが、今回はよほど走り方がヒドかったのでしょう。
     主催者の河内さんにリタイアする旨の電話を入れると「すぐに行く」と返事があり、数分後に飛んできてくれました。
     次のチェックポイントである高知城(599km)まであと45kmなので「そこまで走って終わりにします」と告げます。巡回車に預けてあった荷物を高知駅のコインロッカーに入れておくよう、河内さんが段取りをしてくれます。スタートしてからここまで7日間、お世話になりっ放しです。何のへんてつもない四国の道に、難攻不落のテーマと世界を創ってくれてありがとう。
     リタイアを宣言してしまうと、走る気力は露ほども残っていませんでした・・・と続けたい所ですが、さっきまでの「あと200km以上ある」という重圧が「あと45kmしか走らなくていい」に代わると、脚がガンガン回りだしました。キロ6分を切る猛烈ペースで爆走がはじまりました。羽毛のように軽くなった身体が空中に浮かびます。
     そんな自分にあきれ返ります。ついさっきまでの真夜中は「マジで限界やし」「もう一歩も進めんし」と何百回も口に出して(誰も聞いてないのでけっこうな大声で叫んでました)いた割に、限界なんてどこにも来てなかったのです。治るまで何週間もかかるだろうと思っていた両足裏の激痛は、今は蚊に刺されたほどにも感じません。
     「限界は脳が決める」とはマラソン業界で当たり前のように流布されている金言です。人間の脳は、肉体の限界のはるか手前の段階で、さっさと危険シグナルを出して身体活動を停止させようとするそうなのです。
     「なんだよ。こんなペースで走れるなら、半日後には先頭集団に追いつけたんじゃね?」とアドレナリンの海に浮かぶ脳が調子よく考えます。
     路面電車の終点である後免駅を経て、桂浜へと向かいます。リタイア申告後の30kmを3時間でカバーし(600kmを前に、100kmサブテンペース!)、太平洋岸に延びる黒潮ロードに達すると、踵を返して高知市へと向かう通行量の多い道にさしかかりました。そして、ふいに全細胞から燃料が切れました。身体のどこにも力が入りません。浮遊霊のごとくふわふわと左右に揺れます。
     脳とはややこしい物体です。「本当は限界が来ていたのに、快楽物質やら闘争ホルモンやらを放出して、限界なんてないんだと思い込ませた。けど、脳内ドーピングが尽きるとやっぱし限界だった」のややこしい三段論法攻めです。
     夕暮れの頃に、路面電車が行き交う高知市の繁華街に入りました。交差点で赤信号に当たるたびに歩道のコンクリートブロックに腰を掛けます。ロダンの「考える人」のポーズで地面を見つめますが、考える能力はゼロです。信号が青に変わっても動けません。また赤になり青になってもそのままです。
     座り込んでいる僕に「だいぶお疲れのようですが、大丈夫ですか」と声をかけてくれた人は、六十年輩の男性です。仕立てのいいスーツを着ています。黄金週間中なのに会社帰りなのでしょうか。
     通りがかりのお方に余計な心配をかけないように、膝に両手をあてがってオリャと立ち上がります。スーツの紳士が並んで歩いてくれます。7日前のスタートから、ここに至るまでの経緯を話しながら、1kmほどの道のりをともにします。
     足元もおぼつかない得体の知れない人間に声を掛けて、終始へんてこりんな身の上話にふむふむと耳を傾けてくれる。高知にはずいぶん親切な人がいるものです。企業か役所の管理職然とした紳士は、僕が今晩の宿を確保できているのかどうかを憂慮しつつ、去り際に「私もジョギング再開しようかな」と小さくつぶやき、革靴の底を鳴らして颯爽と帯屋町(中心商店街)方面へと消えていきました。
     夜8時すぎ、白く光る高知城下の天守閣のたもとに着きました。お堀端に点々と灯された紅いボンボリが、冥界への誘いに思えます。愛媛県宇和島市よりここまで599km、パンツをはいたまま脱糞したり、デイリー新聞巻きつけてミイラになったりと、哀れな出来事がありましたが、終わってみれば楽しい旅でした。
     標高44メートルの天守へは、無料貸出していた杖にすがりつきながら石段を登り、膝をカクカク震わせながら下ります。脳の安全ストッパーによる擬似的な限界じゃなくて、ホンモノの限界がきてます。ここから先186kmなんて、とてもじゃないけど進めません。
          □
     「四国一周おおもりオールナイトマラニック」は2019年4月から5月にかけて開催されました。12名の出場者のうち4名の方が、8日間の制限時間内に全行程785kmを完走されました。この強き4人に対しては、称賛を超えて憧れを抱きます。リタイアされた方々も精魂尽きるまで粘られたと聞きました。
     今後このレースは2年に1度開催されるようですが、確かな情報ではありません。またいつか出てみようかな。とても完走は無理かな。
     そして。この大会への参戦を願いながら急逝された大森信也さん、そっちでもまだ走っておられるのでしょうか。完走して大森さんにいい所を見せないといけないのに、いつものごとくダメダメっぷりを発揮してしまいました。天国からいつもの優しい目で笑いかけてくれているようでいて、キリッと真剣な目に変わって「完走するまで挑戦すればいいさ!」と励まされそうでもいてヤバいな・・・。

  • 2019年10月15日バカロードその137 史上最長のレース2「救いの紙」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=「四国おおもりオールナイトマラニック」は、四国4県をめぐる総距離785km、制限時間8日間のノンストップレース。愛媛県宇和島市を出発し3日目の夜、290km地点の観音寺市に入ったものの、疲労と睡眠不足の果てに理性が崩壊しはじめ、ウンチとオシッコを同時に漏らしてしまう・・・何なんだろねこの説明。すみません)

    【4日目/観音寺市290km~三頭峠358km】
     丸亀駅前の安ホテルで早朝起床。始発電車に乗って、昨夜走るのを中止した観音寺駅へ引き返します。アタマが錯乱した挙げ句、ウンチを漏らした道の駅ことひき近くの公衆トイレに戻り戦線に復帰します。
     他のランナーの居場所情報がメールで届きました。先頭を行く選手は、すでに60kmも先にいて、徳島県境を目前にしています。昨夜時点では10~15kmほどの差だったのに、ホテルで寝て電車移動している間に、途方もない距離を開けられてしまいました。
     大会ルールでは、先頭選手から100km以上離されると、巡回している主催者の車に乗せられ、100km先まで強制ワープさせられる事になっています。今夜は睡眠時間をゼロにして前を追っかけないと、たちまち100kmくらいの差はついてしまいそうです。
     善通寺市を経て、丸亀国際ハーフで何度も訪れたことのある陸上競技場より方向転換し、丸亀市中心部へと続く直線道路に出ます。
     視界のいちばん奥に、こんもりと緑に覆われた丘と、頂にある白い天守閣が見え隠れしはじめます。ようやく丸亀城にやってきた・・・と、感慨にふけっていると油断が生じました。アスファルトのほんのわずかな亀裂につま先が引っ掛かり、スピードを乗せて走っていたため派手にすっ転びました。受け身は取れたものの、膝頭がざっくり切れ、血がしたたり落ちています。パカッと開いた傷口には、油ぎったアスファルトの欠片が何個もめり込んでいて、水洗いとか消毒をした方がいいんだろうけど、見るのも触るのも怖いので、何もなかったことにして、何もしないことに決めました。
     「高さ日本一の石垣」を謳う丸亀城(316km地点)の城壁は、四段の石垣を立体的に重ねています。そのため見た目の高度感は抜群ですが、天守閣のある広場は標高66mとそう高くはありません。観光客で溢れてそうな正面入口はパスして、南側の裏口っぽい門から入城し、スロープ坂を登るとあっけなく本丸広場に達しました。見晴らしはいいけど、のんびりしていられる時間はありません。すぐに踵を返し、次のチェックポイントである金刀比羅宮へと向かいます。
     丸亀から琴平まではわずか14kmと至近距離です。ふだん車で移動しているとわからないものですが、自分の脚で走ればそれぞれの街の距離感がつかめます。2つの街を結ぶ広いバイパス道には、車道を何本も取れそうな幅広の歩道が続きます。歩行者の足に優しいクッション性のある路面が採用されており助かりますが、ふだん誰も歩いてなさそうな場所に、謎めいた公共投資です。
     金刀比羅宮では本宮までの785段の石段を登ります。こんぴらさんに何か願い事をしたいわけじゃないですよ。それがこの大会のオキテです。とにかく山の上にある史跡にはすべて登るべし!なのです。
     めでたくと言うか生憎と言うか、本日は令和元年の初日とあって、人波が石段を埋め尽くしています。肩が触れあうほどの密集度です。参拝客たちは手にしたソフトクリームをぺろぺろ舐め回し、袋入りのレモネードをちゅうちゅう啜って、令和初日の浮き立つ気持ちをスイーツに投影しています。一方の僕は、石段を真っ直ぐ登れる筋力が太腿に残っておらず、右に左にとふらついては通行者に眉をしかめられます。本宮にたどりつくと賽銭箱の前には100人ほどの行列ができていて、神頼みするテーマもないので参拝はあきらめます。
     展望台からは、琴平の街とその背後にこれから向かう阿讃山脈の屏風のような連なりが見えます。西の空がオレンジ色に色づいています。さてさて、28km先の徳島県境・三頭峠(標高479m)トンネルを目指しますかぁと石段を駆け下ります。
     観光客でごった返す表参道とアーケード街を抜けると、石畳の門前街を歩く人は誰もいなくなりました。歩き参拝客が中心だった昭和の頃までは、この道もさぞや賑わっていたんだろうな。
     コースは馴染み深い国道438号線に合流し、讃岐まんのう公園前から美合渓谷へとさしかかります。日はとっぷり暮れています。当初予定では県境手前の「道の駅エピアみかど」の温泉で身体を洗い、畳敷の大広間で仮眠をとる計画でしたが、とうに営業時間は終わっています。山峡の寒さがひたひたと迫り、自販機でホットコーヒーを2本買ってシャツの腹の所でくるみ、トイレの隅にうずくまってコーヒー熱で体温を上げようと試みますが、いっこうに暖かくはなりません。
     深夜12時近く、県境の三頭トンネルを抜けて徳島県に入りました。スタートから358km、4日目の一日が終わりました。

    【5日目/三頭峠358km~那賀町もみじ川温泉466km】
     日付が変わっても、今夜は眠ることは許されません。寝たら(たぶん)強制ワープ対象となり、完走の夢は潰えます。またまた情報が入り、先頭をゆくランナーらは徳島市に入っているとのこと。昨日の朝方と変わらず60kmの差です。ただし先行選手たちは、徳島市内のネットカフェやスーパー銭湯で仮眠を取る予定だとか。距離を詰めるには彼らが寝ている今夜しかありません。
     もはや脚に力はなく、三頭峠の長い坂を重力の惰性のままに下っていると、闇の中から3人の人影が現れました。顔見知りのウルトラランナーの方々です。当大会のコースを車で逆走しながら、選手たちを応援しているのだそう。1時間に1人くらいしかやってこないはずのランナーを探しながらです。徳島市内からこんな遠い山中まで、ありがたやです。車の荷台からたくさんの手づくり料理を出してくれます。冷めないように保温してくれていた塩おむすびが美味しい! 昨日一日、ひとかけらの食料も口にすることなく走っていたことに気づきました。たくさん運動しても、案外お腹って空かないもんなんですね。
     さて、2日前からどの選手とも遭遇しませんでしたが、ついに目撃しました。しかしその人は、三頭峠を下りきった所にあるコインランドリーのベンチで死体のように倒れていました。顔はジャージで覆われていて見えないし、起こすわけにもいきません。窓の外から覗き込んだだけで通り過ぎます。そして、脇町の中心商店街のコインランドリーでも別の選手が丸まって眠っていました。
     ジャーニーランでは、夜中に1時間ほどの仮眠を取るのはよくある事です。しかし体力に余裕があって惰眠を貪っている人と、限界の極致にある人では醸し出す雰囲気が違います。このお2人は、ちょっと再生不能なくらい衰弱しているように見えました(実際そのあとでリタイアされたようです)。
     阿波市から岩津橋を通って吉野川を渡り国道192号線へと移ります。次のチェックポイント徳島城跡までわずか35kmほどなのに、果てしなく遠く感じます。強烈な睡魔がやってきては、堤防の草むらで仰向けになったり(草がびしょびしょで最悪)、三角座りをして歩道のガードレールに背中を預けます(自転車のオッサンがびっくり)が、寒気が強くて眠れません。
     川島、鴨島あたりの記憶は飛んでいます。眠りながら走っていたんだと思います。長い夜がようやく明けると、石井町のバス停のベンチに朝の光が射し込んでいました。暖ったかそうでつい腰をかけると、そのままのポーズで眠ってしまいました。「いけるでー」という声で目を覚ますと、乳母車を押したおばあさんがこちらを見つめています。死んでいるのかと思ったそうです。たいそう身の上を心配してくれました。
     寒い夜が終われば、元気は復活します。車が激しく行き交う国道192号線の上に5月の澄んだ青空が広がっていて、鮎喰川の奥にはなだらかな稜線を描く眉山が優しく横たわっています。沿道の並木は若々しい新緑の葉を湛え、太陽の光をかざすと瑞々しいグリーンを輝かせます。嫌ってほど見知っているはずの徳島が、400km走るという行為を経ると初めて訪れた街のように感じられ、まるで違った様子で目に写ります。
     正午すぎに徳島城公園(414km)に着き、お城の近くにある職場に停めてあったバイクに乗って自宅に戻ります。途中、吉野家に寄り道して、牛丼特盛をテイクアウトします。家に着くやいなやシャツやパンツやシューズやリュックをドバドバ洗濯機に放り込み、シャワーを無心に浴びて、ヘッドランプの電池を入れ替えたりこまごまと出発に必要な準備をし、洗ったウエアをベランダに干したら、牛丼特盛をビールで流し込んで、布団に潜り込みます。3時間眠ってから徳島城に戻り、夕方4時には走りを再開しました。
     かちどき橋から論田、小松島を経て立江の旧街道に入ったあたりで日没。無性に塩気が欲しくなり、灯りの点いた商店に飛び込んでサッポロポテトや駄菓子を3袋買い、バリバリかじりながら走ります。
     加茂谷橋を渡って那賀川を越え、旧鷲敷へと山越えする峠道にさしかかると冷たい強風が正面から吹きつけだして、寒くて寒くて心が折れてきます。街灯のないくねくね夜道は果てることなく続きますが、もちろん終わりはあります。国道195号線に突き当り、道の駅わじき(446km)からは民家が点在しはじめました。丹生谷の底は冷気に満ちていて、これだけ人の気配のある場所なのにどこにも休憩できそうな場所が見当たらないことが、辛さに拍車をかけます。期待した旧鷲敷の市街地にも暖を取れる場所はなく・・・コンビニの休憩スペースは終了し、コインランドリーは施錠され、バス停は吹きっさらしと空振りが続き、あっけなく商店街は終わりを告げました。そしてまた街灯のない森の中の道がはじまります。

    【6日目/もみじ川温泉466km~四ツ足峠517km】
     5回めの夜明けは、朝霧もやる川口ダム湖の奥にようやく見えたもみじ川温泉(466km)前で迎えました。ここも予定では入浴して仮眠を取るポイントとして設定していましたが、開館前で利用できません。あらかじめ組み立てた予定と、実際の行程が後ろに半日ずれてしまっているために、あちこちの温泉施設への到着はことごとく営業時間外で、昼間に睡眠を取りながら進むという甘い目論見は外れっ放しです。
     旧上那賀町の中心街は、那賀川が刻む深い谷の上辺にへばりつくように高層の病院や集合住宅が建っています。街外れの商店に入ると、こんな山の中の店であるにも関わらず、ハマチやブリなど海獲れの魚が保冷氷の上にずらっと並んでいます。
     値札ラベルに自家製と書かれた白身魚の握り寿司と焼き鳥を選びました。レジをしてくれるおばちゃんが「これも持っていきよー」とお菓子やドーナツをポイポイと袋に放り込んでくれます。四ツ足峠まで走っていくと言うと「(木頭の)北川まで車で行くんも遠いのに気の毒な・・・」と気をもみ、店の外まで出て見送ってくれました。
     道ばたに座り込んでつまんだ白身魚寿司の分厚く弾力に富んだネタは、甘みに溢れ、柚子酢がキュッと効いていて、脳内快楽物質が爆発するほどの美味さです。わが人生でこれ以上の鮨を食ったことがあるだろうか? ないと思います。
     木頭の歩危峡の手前で、大会主催者の河内さんが車で追いついてくれ、ガスコンロにフライパンを乗せて肉入り焼きそばを作ってくれました。先頭から最後尾まで120km以上は開いているとのこと。その間にいるすべてのランナーの世話を焼きながら、前へ後ろへと移動しているようです。ほとんど眠ってないんだろうな、瞼をぽてっと腫らしています。それでも40kmほど後ろにいる最後尾ランナーが「ぜんぜんあきらめる気がないんよー」と愉快げに話してくれます。どうやら、先頭から100km離されたら強制ワープルールはご愛嬌だったらしく、「本人があきらめないかぎり収容せず走らせる」という方針のようです。いや、それどころか「○○さんからリタイアするって電話があったけど、まだアカン、もっと走ってみてって断った」と、リタイアすら認めない方針のようである。うーむ、怖い。
            □
     木頭の商店街(502km)を抜け、高知県境の四ツ足峠へと続くだらだら坂を登っていると、ゴロゴロと絵本の効果音のような雷鳴が近づいてきます。小雨がポツポツと地面に黒点を描きはじめます。灰色の雲が低空まで降りてきて、狭い空を絵巻物のように通り過ぎます。数分後、小雨は一気に滝雨と化しました。強雨のことを「滝のよう」と比喩する事は多いですが、実際は本物の滝ほどではありません。しかしこの雨は本当に滝みたいです。アスファルトに叩きつけられた大粒の雨は王冠を作って跳ね上がり、地表を白い霧状に覆っていきます。枝分かれした稲光が上から左右から空を切り裂くと、数秒後にはドーンという落雷音が森と地面を揺らします。
     全身びしょ濡れなのは仕方ないとして、日没が迫っている今、この荒れまくりの天候のなかを、15キロも彼方の四ツ足峠へと足を踏み入れるべきなのか。この先に雨宿りできる集落があるかどうかもわかりません。
     深く刻まれた谷あいの、那賀川の激流が立てる轟音の縁に、一軒の新聞販売店の建物が見えてきました。地獄の底で、天から垂らされた蜘蛛の糸のように思えました。軒先に逃げ込みます。雨を直接浴びないだけでずいぶん助けられます。でも強い風を遮ってくれる壁や屋根はなく、横殴りに降り込む雨のために乾いた床面はありません。活動を停止すると急速に寒さが増し、がたがた震えがやってきます。
     軒下にある新聞スタンドに何紙かの新聞が差され、料金を小銭箱に入れると購入できるようになっています。新聞紙一枚でも防寒の足しになるものがほしい・・・。販売している4紙のうち一番分厚いページ数のデイリー新聞を選び、代金を箱に入れます。新聞の束を3つに分け、ひとつをシャツの中に入れて胴回りに巻きつけます。別の束を肩から蓑のように被り、下半身にもスカート状に巻きつけてみます。壁に背中をぴったりつけて三角座りになり、ひたすら雨が降り止むのを待ちます。
     通り雨であることを願って空を見上げますが、稲妻と雷鳴はますますひどく、軒先から垂れる雨粒が風にあおられて吹きかかり、身体に巻きつけた新聞紙を濡らしていきます。それでも短パン、半袖シャツにそのまま風雨が当たるよりはよほどマシです。
     だんだんと夜の帳が下りてきます。空を覆う雲はますますドス黒く、叩きつける雨音に谷底は支配され、誰に助けを求めるわけでもないんだけど、スマホが圧倒的な「圏外」を示していることが絶望感を高めます。誰も見てない、誰も知らない場所で、デイリー新聞にくるまりながら、なすすべもなく追い込まれている自分って何なんだろ。 (つづく)

  • 2019年09月11日バカロードその136 史上最長のレース1「理性のタガ」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

     「四国おおもりオールナイトマラニック」は、今年の黄金連休に初めて開催されました。四国4県をめぐる総距離785km、制限時間8日間のノンストップレースは、国内ウルトラレース史上最長距離だと思われます。
     結末を最初に言ってしまうのはレース紀行文としてバカポンタンですが、785kmには程遠い599km地点でギブアップしました。事実を先に明かしておけば、今後の出場(2年に1度開催との噂)を検討している方にいらぬ期待を抱かせずにすみます。参考資料とはなりませんのであしからずです。

     ゴールまで残した距離は186km。あとちょっとな気もしますが、もうどんなに頑張ってもムリぃー!って感じで撤退しました。だから、当レースのうち最も過酷で、ハイライトシーンとなるはずの最終盤186km分の説明はありません。あらかじめご了承ください。
        □
    【1日目/宇和島市スタート~大佐礼峠106km】
     レースの起点は愛媛県の宇和島市です。徳島からの高速バスを松山市駅で降り、宇和島市行きの路線バスに乗りかえます。松山市駅での乗り継ぎ時間が1分しかなくて、停車場から乗車場まで全力ダッシュしてギリ間に合いました。徳島から宇和島まで乗車5時間、四国の真反対側まで大横断したと考えれば、かかる時間も短く感じられます。
     宇和島駅前の安宿で一泊。翌朝、大会ボランティアの方が乗用車で迎えにきてくれました。スタート地点となる津島町岩松という街は、駅から南へ14kmほど下った所にあります。
     タイムスリップ感のある商店街の一角が出発会場となっています。松山城下をゴールとする全行程785kmに挑戦する12人と、330km地点の金刀比羅宮をゴールとする方々がにこやかに談笑しています。緊張感なく「ぼちぼちいきましょか」という感じでスタートを切りました。
     ゆっくり進むつもりでしたが、皆さんのペースが速くて置いていかれないようついていきます。キロ6分ペースです。おーい、今から785kmも走るのにこんな調子で行くんですかあ、と心で叫びます。いやはや、この先が思いやられます。朝、送迎してくれた宇和島市街までの14kmを1時間半ほどで帰ってきてしまいました。
     1つめのチェックポイントである宇和島城の急階段を登ります。天守の標高は74m。自然石造りの石段は急峻で、駆け上がれはしません。このレースでは、四国内の現存天守や城跡のある八城(宇和島、大洲、松山、今治、川之江、丸亀、徳島、高知)の天守閣の前でスマホ撮影し、主催者にメールで画像を送信したり、フェイスブックにアップして通過を証明します。あと、6時間おきに自分のいる位置を送信する義務があります。行方知れずにならないためですね。
     1コ目のお城の登り下りで、すでに太ももは悲鳴をあげています。宇和島市街を抜けると、宇和海のヘリに出ます。峠と入江を繰り返すリアス式海岸をエッサホイサと登り降りします。ってーか、このコース設定、ひたすら坂道一択です。鳥坂峠(49km地点、標高315m)の手前で、道路工事中のおじさんに話しかけられ「気をつけて行ってこいよ!」とチャーミングな笑顔で見送られました。黄金連休のさなか、ごくろうさまです。笑ったおじさん、前歯が2本しかなかったです。
     次なる目標地点の大洲城(58km地点)までは、久保さんという強いランナーの方と並走しました。走ることが本当に好きで、ジャーニーランをこよなく楽しんでいるのが伝わってくる人です。「痛い、寒い、眠い」とブツブツ文句たれっぱなしの僕とは、精神のステージが何段も違います。8日後、久保さんはこの大会4人しかいない完走者の1人となりました。やっぱし大切なのは「心」なのです。侍ハードラー・為末大の著書でも読んで、人生を一からやり直したいです。
     家々の外壁に水害の爪痕が残る大洲市街を抜け、標高25mの大洲城を登ります。宇和島城と違って足腰にやさしいスロープ状の坂でした。
     日がとっぷり暮れた頃に、女子旅の聖地とされるレトロタウン内子(70km)の旧街道を抜けます。その後、指定されたコースは四国の外周ではなくなぜか内陸へ内陸へと向かいます。
     谷間の底にある「道の駅 小田の郷せせらぎ」に着いたのは夜8時すぎ。ここまでの90kmに10時間30分ほどかかりました。あれこれ道草したり、道ばたに座り込んでお菓子を食べたりしてた割には、早い到着となりました。
     道の駅で到着を待ち構えてくれていたレース主催者の河内さんのワゴン車に5分ほど乗せられ、古民家を改装した宿泊施設「京の森」に運ばれます。ここでは食事や仮眠室を用意してくれています。宿のご主人に「薪で沸かした」という温かいシャワーを薦められ、遠慮なく使わせてもらいました。畳の部屋でちょっとだけ仮眠しようと試みましたが、初日の夜ということもあり、眠りに落ちるほど衰弱してなくて、目が冴えわたっていて眠れません。ありがたくカップ麺と河内さんお手製の焼き鳥を堪能した後に、深夜の峠道へと踵を返しました。
        □
    【2日目/大佐礼峠106km~今治市201km】
     標高556mの大佐礼峠(106km地点)は、霧雨やガスに覆われて真っ白です。急坂すぎて歩きだしてしまいました。歩きだと距離が稼げなくなります。1時間に3、4kmしか進みません。走れている時は体調も気分も良かったのに、ずどんと重い疲労がのしかかってきます。峠道を下りきって海沿いの双海町(125km地点)に出た頃には、ふらふらになってました。毎度そうなんですが、2晩以上の徹夜レースでは初日の夜越えがいちばん苦しく感じます。何日間もぶっ通しで走るという異常な世界に慣れる前の「ふだんの自分」と、幻覚や幻聴をBGM代わりにしてしまう「イカれた自分」との境界線の手前にいるからです。
     伊予市街手前で標高差100mほどの峠道にさしかかります。ゆるい登りですが走る気力が湧かず、ひたすら歩きます。伊予市から松山城まで15kmほどが果てしなく遠く感じられます。
     松山城(151km地点)に着いたのはお昼前。ここまで26時間もかかっています。遅いです。ゴールデンウィーク真っ盛りの松山城は、観光客の人波が途切れません。標高132mの天守まではリフトやロープウェイのゴンドラを仰ぎ見る格好で坂道を行きます。足をぶらぶらさせて暇そうにリフトに乗っている観光客を睨みつけながらヒイコラ登ります。天守前の広場に着くと、売店でいよかんソフトクリームを買い、木陰のベンチに寝そべったままナメナメします。とても行儀が悪いです。
     松山市街からは50km先の今治市へと北上します。「愛媛マラソン」のコースをなぞる広いバイパス道に出ると、雨足が強くなってきました。荷物を最小限にするため雨具や防寒具は持ち合わせていません。コンビニでビニル傘を買い、差したまま走ります。500円のビニル傘は想定外に大きく頑丈な作りで、風をはらむと身体ごと持っていかれそうになります。
     吹きっさらしの伊予灘沿いに出ると風雨をさえぎる物なく、傘をナナメ差しにして踏ん張ります。スタートから200km地点の今治市街に着くまで、雨は降り止みませんでした。今治港の近くに1泊3500円の安宿が確保できたので、今夜は天井のある所で安眠できます。
     夜8時すぎに宿にチェックインしました。服を来たままシャワーを浴び、髪の毛でたてたシャンプーの泡をシャツとパンツになすりつけ、入浴と洗濯を同時に済ませます。ウェア類は手絞りした後でバスタオルで三重にくるみ、青竹踏みの要領でコネコネと足踏みすると水気が9割方取れます。人力脱水した服は、浴室のポールにポイッと掛けておけば、出発前には乾いているはずです。
     それから食事を取ろうとしましたが、フロントで聞くと徒歩圏内の飲食店はすべて閉まっていて、ドラッグストアが1軒あるだけとのこと。選択の余地なくドラッグストアに入ると、弁当やおにぎりなどごはん物はぜんぶ売り切れていました。仕方なくカップ麺とカップ焼きそばを買い込み、粗挽きウインナーを乗せてむさぼり食いました。
     起きたらすぐ走りを再開できるよう準備を整えてベッドに寝転ぶと、30秒で意識が失くなりました。
        □ 
    【3日目/今治市201km~観音寺市290km】
     目覚めると真夜中の2時すぎです。瞬きしたくらいの時間感覚ですが、就寝から6時間も経っています。熟睡したのか頭はスッキリしています。午前3時にホテルを出て、チェックポイントの今治城に向かいます。今治城は海に近い平坦な場所にあり、お堀に架かる橋を渡ったら天守がすぐそこにありました。今までのお城とは違って階段がなく楽ちんです。
     国道195号線を伊予小松まで24kmほど南下していくうちに夜が明けました。国道11号線につきあたり、香川県方面へと左折します。ひたすら西へ西へと進んでいくと、国道から100mほど南側に遍路道が並行している様子が見え隠れしはじめました。車の通行量が多い国道を離れ、遍路道に移動します。風情のある旧街道は、ふだんはたくさんのお遍路さんが歩いているのでしょうが、雨模様だからか人の姿はほとんど見えません。しょぼ降る雨に濡れた庭木や門塀が静逸な空気を湛えています。
     新居浜市を過ぎ、三島川之江地区の郊外にさしかかると雰囲気が一変します。大王製紙など大工場群の奇々怪々な配管や、高さ200mもある高い煙突が、左右を圧します。激しく行き交う大型トラックは、深い道路の轍にたまった雨水を跳ね上げ、容赦なくバッシャーンと大量の泥水を浴びせかけます。文句を述べる筋合いはありません。運転手さんは平成最後の1日にも関わらず働いている勤労者であって、こっちはフラフラほっつき走っている気楽な徘徊者です。
     日没間近の川之江城(273km地点)の天守からの下り坂にさしかかると、雨がジャンジャン降りになってきました。傘では太刀打ちできない雨量で、カッパを調達して着てみましたが効果はありません。頭から爪先までびしょ濡れです。うー寒い、5月なのにこんなに寒いとは。凍った手足の指先がピリピリ痺れ、腕を抱え込んで懸命に脚を動かしても体温が戻りません。
     緻密に計算したペースよりも3時間ほど遅れています。今夜は50km先の丸亀駅前にビジネスホテルを取っています。深夜11時頃に着く予定だったのですが、このままだと深夜2時を過ぎてしまいそう。
     夜10時頃に、香川県観音寺市街に入りました。ところが撮影ポイントの「道の駅ことひき」にたどり着けないのです。地図では確かにこの辺りにあるはずなのに、見あたりません。道の駅のような目立つ施設が、道路沿いに現れないとはどういうことなんだ? その時は気づいていなかったけど、道の駅が見つけられない時点で、僕のアタマは少しおかしくなっていたのかも知れません。
     パラパラと降りやまない雨が、手に持った紙地図をボロボロにしていきます。同じ道をぐるぐる回っていると、自転車に乗った青年が通りかかりました。
     「この辺に道の駅ってないですか?」と尋ねると、「あっちだと思う」と案内してくれます。さっき通ったばかりの道を500mほど戻りますが、道の駅はありません。親切な青年は、雨に濡れるのも構わずスマホを取り出し地図検索してくれてます。そして「こっちかな」と行ったり戻ったりし、僕は彼の自転車に離されないようダッシュを繰り返します。
     (自分で探した方が早いんだろうな。でも、もういいですって言えんし・・・)と葛藤がはじまります。同じ道を3往復いったり来たりしているうちに、アタマが軽くパニックを起こし始めました。とにかくこの状況から一刻も早く逃げだしたくなり「あっ、ここ前に来たことあります。思い出しました、たぶんこっちです」と青年にウソをつき、お礼を述べまくって、自転車の後を追いかけるのを止めました。
     結局のところ、自分のスマホで位置検索すれば、無理なく道の駅にたどり着けたのです。スタートからここまで3日間、頑なに紙地図オンリーで来たので、GPSを頼るのに抵抗あったんです。いつもながら無意味で無価値なこだわりです。深夜の「道の駅ことひき」は照明一つ着いておらず真っ暗で、松並木の奥にひっそり佇んでいました。
     なんだかドッと疲れが押し寄せてきました。
     さっき感じた小さなパニックの点が、インクの染みのように脳の中に広がっていき、異変が起こりはじめました。
     説明が難しいんですが、極端な自暴自棄というか、淀みに浮かぶうたかた的な「あらゆることがどうでもいい」という液体状の感情が、頭蓋骨の内側に満ちているのです。
     その様子を冷静に観察している自分もいます。「今の自分はヤバい。何をしでかすかわからない。とりあえず今夜は走るのを中断した方がいい」と真っ当な方の自分が判断し、行動を止めさせようとします。
     しかしヤバい方の僕は、かすかな尿意と便意を人質のように捉え、暴走をはじめました。
     公衆トイレに入ると、3メートル先に洋便器があるにも関わらず、「便器までいって座るん面倒くさい、パンツ下ろすん面倒くさい」との圧倒的な自我に支配されます。そして、パンツをはいたまま、やらかしてしまったのです。放尿と脱糞を同時に!
     理性のタガが完全に外れています。一世風靡セピア調のリズムで「ええじゃないかええじゃないか」という奇妙なお囃子が耳の奥で鳴っています。
     いつか自分が「老人」と呼ばれる年齢になり、ズボンをはいたままウンチを漏らす日常を過ごす時も来るでしょう。ヘルパーさんに「ごめんよごめんよ」と侘びながら、泣く泣く漏らすのかなと想像していましたが、意外に攻めの思考回路の果てに漏らすんだなあ。何事も実際やってみないとわからんもんだな・・・と冷静な方の僕が納得しています。 たった290km走っただけで、僕はあっけなく壊れてしまってるんだな。 (つづく)

  • 2019年08月21日バカロードその135 16歳の逃走その8 最後の夏のリアル

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

     ささくれだった流木、打ち棄てられたコンドームの包装箱、焦げた安花火はヤンキーたちの夜遊びの残渣だ。何物も動く気配のない海開き前の海水浴場。脇の小道をずうっと北の端まで自転車を漕いでいくと、1メートル大の岩が縦横に積み重なる小さな岬につきあたる。岬の背びれをなすのは高さ5メートルほどの岩壁で、タプタプと静かに波打つ海へと舳先を伸ばしている。

     屏風岩のなかで最も垂直に近く、ところどころがオーバーハング状になった一枚の壁に、ぼくはヤモリのようにへばりつき、身動きが取れなくなっていた。
     ほぼ万策は尽きていた。あと右腕が5センチ長ければ、愚かなぼくの体重を支えて余りある立派なホールドに指先が触れる。しかし、身体じゅうの骨と関節を軋ませても、その2センチほどの出っ張りは、下界の苦闘をあざ笑うかのように、天空の方・・・そっぽを向いている。
     握力は秒単位で失せつつある。足元から地面までは4メートルはある。滑落すれば、ヘタすりゃ足首はポキンだ。しかし、このまま干からびたヤモリのごとくズルズル落ちていくよりは、いさぎよく岩を蹴り、飛び立って、大地に大腿骨の一本も捧げよう。
     そう決意した瞬間、60キロの体重を支えていた両の腕は、あっけなく岩から解き放たれた。重力に逆らい拘束されていた身体は、一瞬のうちに自由になった。「ヒョー」という声にもならない息が気管からもれた。宙に浮き、鳥の視界を手にした。そのとき、目に飛び込んできたのは、赤茶けた地上の砂礫ではなく、6月の青い海だった。
     着地と同時にキナ臭さが口の奥に充満した。足首に痛みがあるが、骨折したときの鋭痛はない。しかしブザマなものだ。自分の実力をわきまえてないと、いずれヒドい目に遭うかもな、と舌打ちする。
     足首の熱を冷まそうと、フナムシやヤツデを追い散らしながら水辺まで歩いていき、岩に腰掛けて足を投げだし海にひたすと、ピリリと冷たい刺激が頭の先まで伝わった。
         □
     高校二年の春。シロウト登山の果てに、雪まだ深い剣山で迷走する事態に至ったぼくはいたく反省し、なけなしの小遣いをはたいて登山用具を買い揃え、ロッククライミングやボッカ練習(20kgほどの荷物を背負い急斜面を登る)、緊急露営のシミュレーションに精を出していた。
     某海岸の北側の縁に連なる岩場は、フリークライミングのゲレンデとしては悪くない。クライマーの目に触れてこなかったか、ハーケンやボルトなどの登攀具が打ち込まれた跡がない。過去に誰も登ったことのないルートを初登するのは気持ちの良いものだ。
         □
     海原には幾艘もの小型漁船が浮かび、水平線に薄ぼんやりと伊島の背骨が見える。目前には、海面から20メートルほど迫り出した小島がある。垂直の崖は、船を着岸できる場所を与えず、人間の干渉を拒絶している。むき出しとなった茶褐色の岩場の上部に、こんもりと松の森をたたえている。確か「007ゴールドフィンガー」にもこんなミステリアスな形の島が登場したはずだ。
     滑落直後のぼくは、自虐的な気分に傾倒しつつあり、そのアポロチョコ型をした小島の頂上に立ちたいという欲望から逃れられなくなった。島まで目測で三~四百メートル。波は穏やかだが、潮の流れがあるかもしれない。小島の手前には、ゴジラの背に似たギザギサの岩礁が、ぼくを島へ誘うように数個、列をなしている。
     人目を気にしながら・・・といっても周囲には人っ子ひとりいないのだが、自殺志願者と勘違いされないように堂々とハーネスのTシャツを脱ぎ捨て(ぼくは18歳になるまでヘインズをハーネスと読み間違えていた)、体育の授業用の青い短パンの腰紐をビッチリ締め直した。
     海水は冷たく、老人が行水するみたいにちびりちびりと心臓のあたりにかけ水をしながら沖へと進んだ。波しぶきが顔を濡らすまでは背伸びして歩き、いよいよ足の指先が海底に届かなくなると、クロールで泳ぎだした。
     波は立っていないが、うねりは想像以上に大きい。海水を飲み込んでは激しくむせ、鼻の奥がキューンと痛んだ。頭の奥でビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」が静かに流れる。誰にも相手にされない「馬鹿な男」は、毎日丘の上に立って、世界が回転しているようすを見つめているって寓話。
     正面に島を補足しながらクロールを繰り返し、うねりの上下動に身をまかせていると、不思議と真夏の海を泳いでいるような温かい感触に全身が包まれていった。息継ぎのたびに、空の青が目に染みた。
     島はなかなか近づいてこず、見た目以上に距離があることを知る。ガタガタ震えるほど体温が下がる頃になっても、手前の岩礁にたどりつくのが精一杯であった。
     それから夏が来るまでに、ぼくは何度もその小島を目指し、到達できずに力つきては、途中で引き返した。
     ぼくは何を目指していたのだろう。
            □
     夏前には同級生たちの進路希望は大筋かたまり、彼らは模試結果の志望校判定に一喜一憂したり、就職先を決めるために進路指導室に入り浸ったりしていた。
     ぼくは、自分が何がしたいのかよくわからなかった。何カ月か先に自分は高校生ではなくなり、社会に出るためのいずれかのレールに乗るのだという実感が、いつまで経っても得られなかった。
     その夏は特に暑かった。ジリジリと照りつける太陽には、地上のあらゆる物を溶かそうという邪悪な意思があるように思えた。蒸しかえる空気には、自分の進路を決められない17歳を、さらに怠惰な気分にさせる微粒子が含まれているようだった。
     徳島大学前の小さな山道具屋「リュックサック」で、イタリア製の登山靴を1万6千円もの大枚をはたいて買った。氷雪登攀用のアイゼンが装着できる本気のヤツだ。毎朝、靴底ブ厚いそいつをボコボコ鳴らしながら、高校までの片道9キロの道を走るのを日課にした。摂氏30度を超える炎天下、木陰のない堤防上の砂利道を、砂塵を上げながら走った。もうもうと舞う砂煙を鼻の奥まで吸いこみ、奥歯でジャリジャリと砂を噛みしめた。

     その夏から逃げ出すために、ぼくは走り続けていた。

     夏休みに入ってすぐ、鈍行列車を乗り継いで、北アルプスへ出かけた。
     阿南駅発の始発に乗りこみ、高松港より宇高連絡船を経由して本州に渡り、宇野駅から何度も列車を乗り換えた。岐阜県の高山駅に着いたのは深夜に近かった。旅程が1日で収まり「青春18きっぷ」の1枚分で済んだので、片道二千円の安旅だ。駅舎のベンチで夜をあかし、朝一番のバスで今回の登山基地となる「新穂高」へと向かった。
     7月下旬という夏山の最盛期にも関わらず、新穂高のバス停から槍ヶ岳へと伸びる登山道に人の気配はなかった。初めて登る三千メートル級の岩峰へと続く道を、黙々と、少しの休憩もとらずに、ひたすら歩いた。いくつかの沢を渡り、そのたびに冷たい山水をガブ飲みし、シャツが濡れるのも構わずに大げさに顔を洗った。
     標高二千メートルを超えると、確かにそこは不穏な熱気と排気ガスまみれの下界とは別天地であった。天を圧する岩峰の連なりの下で、矮小なぼくの存在など、苔むす花崗岩の下に住むアオガエルにも劣るのであった。
     稜線にわずかに現れた白いガスの影は、みるみるうちに巨大なビルディングほどの塊に化けると、下降気流に押されて斜面を駆け下り、数分後にはぼくを覆い尽くし、視界を白く塗り替えた。自分のつま先より先は白一色の世界。これが山岳小説によく出てくるホワイトアウトってやつだな。
     ガスに切れ目が生じ、その奥に槍ヶ岳の威容が浮かんだとき、その感動的な光景に見とれるほどの余裕を、ぼくは失くしていた。広大なカールを描く、モレーン状のガレ場に迷い込み、無数の小さな岩のカケラに足下をすくわれて、このまま蟻地獄のように谷底まで滑り落ちていくのではないかとアセっていた。落石雪崩を起こさないよう、自分が滑落しないよう、蟻の歩みで高度を稼いでいった。
     頂上に近い「肩の小屋」に着くと、山小屋やテントサイトが密集する狭い空間に、数百人もの登山客がひしめきあっていた。ここまでの道でほとんど登山客の姿を見かけなかったのに、みな反対側のルートから登って来たのか。
     親子連れで訪れたのだろうか、子供たちが歓声を上げながらそこらじゅうを走りまわっている。かたや酔っぱらいとおぼしき大学生グループが、猥談に花を咲かせている。ここは下界そのものであった。
     山小屋の受付で場所代を払い、テントエリアの隅に一人用のツェルト(簡易テント)を張った。日没近くになってもテントの外は騒がしかった。山小屋で売っていた何百円もする缶ビールを飲み、ポケットに押し込んでいた「キャメル」の煙草を吸った。両方ともあまり美味しくはなかった。
     翌日は奥穂高岳まで三千メートルの稜線を縦走し、穂高岳山荘前でテント泊をした。明け方、生まれて初めて見る雲海と、朝日に染まる残雪が美しかった。次の日には前穂高岳を経由して、上高地までの長い下り坂を駆けるように下山した。雄大な北アルプスの景観はただ後ろに過ぎ去るためのものであった。眼下に近づきつつある上高地からは、吹き上がる風に混じって、しきりに人間の匂いが届けられた。
     上高地の絵葉書によく登場する河童橋を渡り終えると世界は一変した。四六時中、何十台もの観光バスが発着を繰り返し、女子大生や婦人のグループ・・・なぜか圧倒的に女性客が多いのだが、短い滞在時間を惜しむかのように、せわしなく立ち振る舞っていた。谷川のせせらぎに手を浸したり、山の冷涼な空気を胸いっぱいに吸い込んだり、絵ハガキに向かってひと夏の自己証明をしたためようとしていた。彼女たちとすれ違うたびに、強烈な香水と化粧の匂いがした。
     路線バスで高山駅前に戻り、明朝の始発電車の時間まで、駅のベンチで再び野宿をすることにした。ザックを枕代わりにドカッと横になると、単独行の緊張感がゆるみ、ものの数分後には眠りについた。
     どれくらい眠っていたのだろう。瞳の奥にかすかな刺激が伝わって、ぼくは目覚めた。眼の前にある物体が、現実の物であるのか、夢の続きを見ているのか、しばらくは判別できなかった。現実であるとするならば、あまりに唐突で理解しがたい光景であるし、夢だとするならばかなりの悪夢である。
     ぼくの頭上には、確かにエレクトした性器(ルビ・ペニス)があった。現実と夢との境界から脱けだす時間は、5秒もあれば十分だった。ぼくの顔の上で、自らの性器を愛撫する薄汚れたオッサン・・・ヒゲ面の奥の黄色い口蓋からは、規則的に嗚咽が漏れている。
     こうやってぼくの青春は、わけのわからないオッサンの精液(スペルマ)に汚されていくのか。ふりはらいたい物は山ほどあった。受験勉強もせず、北アルプスまでのこのこやってきて、いったいぼくは何から逃げ出そうとしていたのだろうと考えると、生温かい虚脱感が動脈を駆けるのだ。逃げ出せる場所なんてどこにもないのに。50センチの至近距離にあるオッサンの臭気漂うポコチンが、高校生最後の夏のリアルなんだ。 (つづく)

  • 2019年07月09日バカロードその134 16歳の逃走その7 天上界の落とし物

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前回まで=高校2年生の春。あてどなき旅に出た「ぼく」は、150km走ってたどり着いた夜の高知でアル・パチーノ似の男性に犯されそうになる。その後も、道なき山林を駆け上がったり、野宿を繰り返しては、混迷を極めつつある青春に戸惑っていたのだった。そして、まだ雪深き剣山の山中へと足を踏み入れたのだった)

     標高千メートルを超すと積雪の深さはさらに増していき、背丈ほどにもなった。ぼくは雪を両手でつかみ、カブガブかじりながらガムシャラに歩きつづけた。ときおり粉雪が舞うが、天候は崩れるか崩れないかのギリギリの線をいったりきたりした。雪が、登山道の境界を消しているが、前日歩いたと思われる登山者の踏跡をトレースすれば、膝までもぐる心配はない。
     それにしても、さっきから気分の高揚が抑えられない。
     「自分がどうなってしまうか、わからない」
     そうゆう状況が、たまらなく興奮をかきたてる。予定調和のない世界。1時間後の自分が、今の自分ではない可能性を秘めた世界。冒険とはそうでなくちゃならない。安全が確保された旅なんてつまらない。
     道のわきに、雪面が黄金色に輝く不思議な光景を見た。手に取ってみたが、なぜ雪がこんな色をしているのかわからない。ザラメ質のその部分に光が射すとキラキラ光って、天上界からの落とし物のように思えた。
             □
     その冬ぼくは、零下を超える寒い夜を利用して、綿シャツいっちょうで家のベランダで朝まで過ごす、という耐寒訓練に取り組んだ。
     これがけっこう厳しい。手足の指とか、おなかとか、股間とか、冷えると眠れなくなる部分から体温は奪われていく。そんなときは、背中と尻以外から体温が逃げないように、だんご虫のように丸くなってベランダに転がるのだ。そんな「ベランダにおけるだんご虫訓練」に順応すると、夜中に自宅から5キロほど離れた岩場にでかけるようになった。そこは、高さ30メートルほどの垂直の岩が屏風状に連なっていて、ロッククライマーらの練習場にもなっている。
     ぼくは高校からの下校途中によく立ち寄って、フリークライミングの真似ごとに興じていた。岩場の上部には、空中に1メートルほど張り出したテラス(岩棚)があり、昼間なら山すそを蛇行する桑野川や、その背景に瑞々しく輝く水田地帯、一年じゅう緑の絶えない丹生谷の山々が遠くまで見とおせる。岩登りの合間にテラスに腰かけて、おだやかな田園風景を眺めていると、いつまでも飽きなかった。
     深夜、ヘッドランプの弱々しい光を頼りに、小さな岩の出っ張りに体を押し上げ、ツェルト(緊急露営用テント)をバサッとかぶって眠るのは、ほんとうに幸せな時であった。かすかな街の灯りと、満天
    にチカチカ輝く星々、山と風がふれあうさみしげな音・・・。凍てつく岩肌は肌を刺すが、体温が少しずつ岩に伝わるにつれ、苦痛は薄れていく。
     ぼくが、なぜそんなことを始めたかというと、加藤文太郎という昭和初期を代表する一風変わった登山家に夢中になっていたからだ。
     作家・新田次郎の傑作「孤高の人」の主人公である加藤文太郎は、一日に百キロ以上を歩く駿脚の主で、山行はいつも単独で行った。真夜中でも平気な顔をして道なき道を歩き、疲れたら雪上にゴロンと横たわり、そのまま眠ってしまうといった、山の常識をまるで無視したかのような登山をする型破りな男だった。
     ぼくは、その上下二巻の長い小説を、夏休みの間に繰り返し読んだ。
     そして、加藤文太郎の「孤高ぶり」に少しでも近づきたいという思いがどんどん強くなっていった。
             □
     ふいに眼の前が開け、灰色のコンクリート壁が現れた。三階建ての大きな建物は、国民宿舎剣山荘であった。ということはここは標高千五百メートル、ようやく登山基地である「見の越」にたどり着いたのだ。
     安堵感がドッと押しよせ、そのまま後ろに倒れそうになったが、そう休んでいる暇はない。太陽は雲の向こうで西の山の縁に傾きつつある。風も強くなりはじめている。風避けできる寝床を確保する必要がある。建物の中にもぐりこめる所はないかと全部のドアや窓を押したり引いたりしてみたが、どれもきっちり鍵がかかっている。
     陽の当たらない建物の陰の部分に、雪が2メートル以上積もっている。ぼくは、旅に出る前にテレビ番組で見た、北極圏で暮らす先住民イヌイットたちの簡易住居を思い出し「アレだ!」と叫んだ。彼らは固く圧縮した雪をブロック状に切り出して組み立て、イグルーというかまくら状の寝床を作っていた。
     眼の前にあるのはふかふかの軟雪で、イグルーは無理としても、雪洞なら掘れるんじゃないか。雪に囲われた穴ぐらは一見寒そうに思えるが、外気がマイナス10度くらいでも、内部はマイナス2~5度に保たれ暖かいのである、とナレーターの久米明か誰かが説明していたではないか。
     ちょうど手頃なスコップが落ちていたので、横穴を掘ってみた。ものの10分ほどで体を横倒しにしても収まるほどの穴が完成した。ぼくはお手製の寝室に大満足し、空にしたザックをマットレス代わりに床に敷き、入口にはTシャツで風避けのノレンを垂らし、寝床を整えた。
     雪洞にもぐりこみ、ごろんと横になって目を閉じると、雪深き北米マッキンリー山や南極大陸の極点をめざす冒険家の仲間入りを果たしたような気分になった。そして「友よ、ぼくはあと一日でピークに立つだろう」などとドキュメンタリー番組に出てくる人みたいなセリフをつぶやいたりした。
     胃がキュルキュル鳴っている。そういえば朝から何も食べてない。貞光駅前の商店で買ったサバの缶詰を取り出し、ナイフの先端でフタをこじ開けて食べる。氷のように冷たいサバの塊が胃に落ちると、そのまま体温に代わっていく。
     しかし、そのままの格好でいられたのはほんの数分だった。寒い・・・恐ろしく寒いのである。山登りを終えた直後は汗ばむほど暑く感じていたが、今はすっかり汗が冷え体温は急下降している。
     雪洞の内部が外より暖かいと言っても、しょせんは上も下も周り全部が雪なのである。熱源となるコンロも持ってはいない。ひと冬かけた「ベランダにおけるだんご虫訓練」に自信を深めていたのだが・・・やはり、いきなりの極地体験はレベルアップしすぎなのか。打ちひしがれて雪洞をもぞもぞ這い出し、新たな寝場所を探す。
     2階のベランダ部分は頭上にひさしがあり、三方を壁に囲われていて、次なる寝床に最適だと思えた。建物のわきにある焼却炉に、シーズン中に使っていたとおぼしき宿泊客用の浴衣が何十枚も押し込まれているのを見つけた。それをぜんぶ取り出して、寝袋の中に詰め込んだ。富岡西高登山部の部室よりこっそり失敬してきた寝袋はたいへんな粗悪品で、素材は羽毛ではなく綿を詰め込んだもので、年期が入りすぎてへたっており、布切れ程度の厚みしかない。ボロ浴衣を利用して保温効果を高めるべし。
     さらに持ち合わせたありったけの衣類を身につける。「職人の店」で買った靴下が半ダース残っていたので、両手と両脚に3枚ずつ重ねてはく。そして空のザックに足を突っ込んだ。
     夕陽が閃光を数秒だけ放ち、山の端に消えてゆくと、あたりは徐々に闇に覆われていった。
     気温がさらに下がりはじめる。寝袋から出ている顔の表面が凍りつくように痛い。頭までもぐりこんで、寝袋の口ヒモをきつく閉じた。
     夜はひたすら長く、かすかな光源もない暗闇の中で、強風がワサワサと森を揺らす音に、身を縮こませた。やるべきことは何もない。体温を逃さないよう、身動きせずにじっと朝を待つしかない。
     時間が恐ろしく長く感じられた。
     遠く、遠く、遥か遠くに、犬の遠吠えを聴いた気がした。浴衣を詰め込んだ寝袋越しにかすかに聴こえたもので、気のせいだと思った。こんな標高千五百メートルの、雪に覆われた山中に犬がいるはずがない。
     それよりも、いよいよ自分が追い込まれて幻聴でも聴こえだしたのかと、そっちの方を恐れた。しかし耳をすますと、遠吠えが耳鳴りのように断続的に鳴りつづけている。
     それは幻ではなかった。鳴き声は少しずつ音量を増し、はっきりと聴き取れるようになった。それは一匹ではない。十匹以上の大集団であり、どうやら一直線にこちらに向かっているようだと気づいたときには、逃げ出す余地もないほど咆哮は近づいていた。
     そういえば、サバ缶の残り汁を雪洞の前に捨てたが、その匂いにつられてこっちを目指してるんじゃないだろうな。
     不安は的中した。飢えに耐えかねたうなり声、激しい慟哭はついに階下までやってきた。それは何十分も、何時間も収まることがなかった。いや、その時のぼくには時間を把握する能力など失せていたにちがいない。
     カメラマンの藤原新也がインドで撮った「人肉を食らう犬」の写真が、鮮明に脳裏に浮かぶ。野に伏して犬に自らの死肉を与える屍。そして人肉を食らうことで生の悦びを享受する犬ども。写真は崇高このうえないものであった。そこには万物の無常と、輪廻転生の美しさが表現されていた。
     しかし、それは遠いインド亜大陸のおとぎ話としての美であって、いざ自分がボロ寝袋のなかで、無抵抗なイモムシのように犬に食いちぎられるのなんて最低の結末なんである。
     寝袋から出る。かたわらにあった物干し竿をたぐりよせる。野犬どもが階段をつたい2階までやってきたら、この物干し竿で戦う。たとえ腕を食いちぎられ、目玉をえぐられても、最後まで戦い抜いてやる。
     冷え切った体に、燃えるような体温が戻りはじめる。
             □
     長い長い夜が終わった。
     朝日の放熱を受けた紺色の寝袋は、サウナスーツのように暖かく、まどろみのなか寝返りを何度も打ちながら、ぬくもりの快感をむさぼった。何時間もそうしていたかったが、破裂寸前まで膨らんだ膀胱が許さなかった。昨夜は、寒さと恐怖で小便すらできなかった。
     雪洞を掘った階下の庭一面に、たくさんの犬の足跡があり、雪面には犬の足の裏から流れ出した赤々とした血がこびりついていた。
     ぼくは、太陽に向かってスボンとパンツを下ろし、思いっきり遠くまで勢いよく小便を飛ばした。めくるめく快感が全身をかけめぐる。そして、朝日にキラキラと輝く飛沫は、純白の雪を黄金色に染めていった。
     む、むむむむむむむむ。
     これは昨日見たあの「天上界の落とし物」じゃないか! ショックはひたすら大きいのであった。  (つづく)

  • 2019年04月25日バカロードその133 2018スパルタスロン7「女神は消え、オジサンが待つ」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=毎年9月、地中海に面したギリシャで行われる総距離246.8km、制限36時間の超長距離マラソンレース・スパルタスロン。8年連続リタイアをしている僕は、9回目のチャレンジの真っ最中。コース最大の難所であるサンガス山を下って2日目の朝を迎え、スタートから200kmを越える。土砂降りの台風をふっ飛ばすために、覚えたての怪しいギリシャ語「ハラヘッタ!」を操り出しながら、地元のオバチャンたちのウケを狙ってひた走る)

    【195km~226km/テゲア~英雄記念碑】
     赤茶けた岩盤がむき出しになった切り通しの道を、正面から吹きつける風の圧力をかき分けて、歩幅を狭くして登っていく。
     高原を貫く一本道は、濁った空と台地の境目のいちばん奥まで続いている。数百メートルおきにポツポツと等間隔に並ぶランナーの背中が、突風にあおられ左右に揺さぶられている。身体を斜めにして耐え、蟻の歩みで進んでいる。
     こちらはキロ8分の鈍亀ペースだが、前の選手たちは半ば走るのを諦めている人もいて、距離が詰まってくる。追い越しざまに声をかけ、顔をのぞきこむと反応はさまざまである。「寒い・・・」と両腕を抱えこんで震えている人、「残り全部を歩いても完走できそうだな、フォーッ!」と雄叫びを挙げる人、「5分走って、5分歩くのを繰り返しているんだが、君も一緒にどうだい?」と誘ってくる学者風な人。人間模様がさまざまで飽きない。
     奇妙な格好の人がいる。銀色の断熱マットを細長くハサミで断裁し、両腕と両脚にぐるぐるに巻きつけ、ガムテープで貼りつけている。「関節を動かしやすいように工夫したんだ。最高に温ったかいんだぜ!」と自慢げに見せびらかしてくる。まるで甲冑をまとった古墳時代の埴輪だよ。関節可動域の広さを自慢しているが、カクカクして実に走りにくそうである。この制限時間の厳しいレース中に、いったいどこでそんな細かい工作やってたんだ?
     1人のランナーが僕の戦歴を尋ねる。「今まで8連敗していて、1回も完走したことないよ!」と告げると「ギョッ」と一瞬明らかにビビり、表情にわかにかき曇る。全戦全敗の選手に追いつかれたってことは、自分は今ヤバい状況に陥っているのではないか?と疑心暗鬼に囚われているのがありあり。
     僕は安心させようと努めて陽気にふるまう。
     「ノープロブレム! 関門より2時間も余裕があるし、100%完走できるよ。保証します!」
     言葉は羽毛のように軽く、疑念まみれのランナーの不安をいっそう強める。それまで歩いていた彼らは急に走りだす。
     その様子が面白くてサディステックな欲望が高まる。追いついた選手にいちいち「8戦全敗」をアピールすると「オウ・・・」と絶句し、自分の身を案じはじめる。ははは、大丈夫だってば。
     ゴールまで40kmを残し、僕は完走を確信している。隣り合ったランナーとたわいもない会話を交わしながら軽快に前進する。四肢に力がみなぎっていて、疲労感のカケラもない。この先で潰れる可能性はまったくない。
     どんなに努力しても9年間たどり着けなかった2日めの舞台。毎年のように死に体となって、吐瀉物のカスがこびりついた青白い顔をして道端に倒れ、クッソークッソーと空を睨み続けた。そんな黒歴史の走馬灯はもう回転しない。

    【226km~247km/英雄記念碑~スパルタ】
     高台の頂点にある226km地点のヒーローズモニュメント(英雄記念碑)が、最後の大エイドである。昼の1時39分に到着。スタートから30時間39分を経過。
     空気は白く霞んでいて、どこに記念碑があるのか見あたらない。大エイドといっても掘っ建て小屋にオバチャンとオネエサンが2人いるだけだ。台風で他のスタッフは撤収したのかな。スパルタ市街まで距離は21km、標高差522mを下るのみ。ゴール関門の36時間に対し5時間21分を残しているので、残りすべてを時速4kmで歩いても間に合う計算。
     もっかの最大の関心事は、防寒用にまとっている蛍光イエロー色をした派手なゴミ袋のこと。袋の底に開けた穴から首だけ出して、ドラミちゃん的なほのぼのした格好で走っているわけだが、このスタイルでゴールまで行くべきなのか。スパルタ市街のメインストリートを駆け抜ける情景は、僕にとって一世一代の花舞台である。くだんの道を凱旋パレードする夢を描いて、中年以降の人生すべてを賭けてきたのだ。このゴミ袋には大変お世話になった。ゴミ袋なしでは低体温症に陥ったかもしれない。だけどあの場所に、黄色いゴミ袋をかぶったまま行くのはヤダ!!!
     他の選手はどうするのだろう。僕と同じく、選手おのおのゴミ袋や雨ガッパを不細工に身体に巻きつけている。「ゴールする時に、そのゴミ袋どうするの? 手前で脱ぐの? そのまま行くの?」と尋ねてみる。すると「そんなこと今は考えてない」「寒くてそれどころじゃない」とブ然としている。みな、もっと神聖な気持ちで走っているようです。ゴメンナサイ。
     下り坂にさしかかると、風がいななきをあげながら攻めてくる。横殴りの暴風はさらに威力を増し、前後左右どころか上から下からと全球的に風向きを変える。山腹に当たった風が舌をなめずるように下から吹き上げてきては、身体を地面から浮きあがらせる。破壊された看板や折れた樹木の枝が、高速回転しながら道路を横断する。時にはこっちを直撃せんと飛んできてはかすめ去る。
     道路のすぐ脇の崖が崩れて、岩石や土砂が路上に散乱している。片側車線を通行止めにしてショベルカーが岩をどけている。つい今しがた起きたばかりの土砂崩れのようだ。岩が直撃していたら死んでたぞ。
     大嵐も土砂崩れも、すべてが愉快な出来事に思える。下り坂をキロ5分台のペースで疾走する。自分の力で走っているのではない。巨大なクレーンゲームのアームが天から降りてきて、僕の頭を無造作につかんで、前に前にと運んでくれる。お気楽な自動推進マシンみたい。

     こんな楽しい時間なら永遠に続いてほしい。
     それなのに走れば走るほどゴールに近づいてしまう。
     夢のような時間がどんどん残り少なくなる。
     ゴールになんか着かなくていいのに。

     長い坂道を下りきったらあと5km。最後から2つ手前のエイドは、机やコップを道に出せる状況にないのか、両手にペットボトルを握りしめた1人のお兄さんが、洗濯機にかき回されるように暴風にいたぶられながら、笑顔で待ってくれていた。
     ゴールまで残り2kmにある最終エイドは、多くのランナーが荷物預けをする場所だ。ウイニングラン用にと自国の国旗やチームフラッグを荷物袋から取り出して、マントのように羽織ってビクトリーロードへと向かう。しかし本来エイドがあるべき場所には、荷物かゴミかわからない残骸が道路に散らばっているだけだ。
     この最終エイドはまた、ラスト2kmの道のりを選手を取り囲んで並走する何十人もの自転車の少年少女たちや、選手を先導するパトカーや白バイの警官が待機している場所でもある。もちろん本日は、少年少女も警察官も誰もいない。あたりを見回すと、100mくらい離れた家の軒下で少年3人がこっちを眺めている。手を上げると、少年たちはハニカミながら手を振ってくれる。1年に1度のお祭り騒ぎが水に流されて、さぞかしがっかりしてるのだろう。
     ついにスパルタの市街地に入る。道路の両側には、5階建てほどの中層の集合住宅が連なっている。上階のベランダから身を乗り出して「ブラボー」と声をかけ、口笛を鳴らしてくれる家族がいる。歓迎してくれる人を1人たりとも見逃すまじとキョロキョロ眺め回して、見つけるたびに「エフハリスト!(ありがとう!)」と叫びながら街路をゆく。
     沿道にいた母親と3人の子どもがつぶらな瞳でこちらを見つめている。年長の女の子の肩を母親がツンとつついて合図すると、女の子が紙コップを持って近づいてくる。差し出された飲み物を口に含むと、何のへんてつもない水だった。ただの水なんだけど、砂糖水のように甘く感じる。
     今から交差点を2回右折すると、最後の直線道路へと出る。どれほど長い間、この舞台に自分が立つことを願い続けたか。角を曲がったその先には、万雷の拍手と称賛のシャワーがある・・・のは例年のお話で、雨は変わらずジャンジャン降り、道路が小川と化している今は、人影もまばらに違いない。
     走路を外れて建物の陰に隠れ、重ね着したウインドブレーカーやジャージのズボンをいそいそと脱いで、ウエストベルトのお尻のトコにはさむ。頭からかぶっていた黄色いゴミ袋は、少し手前でゴミ箱に捨てた。最後くらいは正装を整えよう。といっても3年前にこの大会でもらった参加賞の白シャツと短パンなんだけどね。できる範囲でカッコよくフィナーレを迎えよう。
        □
     最後の角を曲がる。
     まっすぐに伸びる500メートルの道が、放射線構図の最奥に控えるレオニダス像へと続く。
     そこは、「人影はまばら」という予想を凌駕して、神隠しにあったように無人なのだった。
     247km走ってきたのに、誰もおらん・・・。笑いがこみ上げてきて、大爆笑してしまう。
     水に浸った車道にジャバジャバ足を突っ込みながら、ゴールへとひた走る。目抜き通りにひしめき合うカフェやショップでは、道から溢れ出した雨水がフロアまで浸入していて、営業を休止しているようだ。店の奥のカウンター席の向こうで、何人かでかたまって避難している人たちが、かすかに「ブラボ・・・」と口を動かしてくれる。お祭り騒ぎしてる状況じゃないですよね。
     日本人の方2人が、雨中の道路に飛び出して来られて、並走をはじめてくれる。ほっ、これで1人ぼっちじゃなくなった。1人は10年前に僕をこのレースに誘った方。「スパルタスロンって楽しいよ! 来てみたら?」とピクニックに出かけるような気軽さで、この道に僕を引っぱり込んだ。そこからドロ沼の中年人生がはじまった。道端にゲロをゲーゲー吐きながら涙ながらに「楽しいなんて絶対ウソだ」と恨みつづけて9年め、今ようやく「楽しいよ!」の言葉が真実だってわかった。ヘンテコで豊かな人生の舞台に導いてくれて感謝しかない。
     1人は脚に重い負傷をし、今回はギリシャまでやったきたにも関わらずスタートラインに立つことが叶わなかった方。痛くて着地もままならないはずなのに、全力疾走の僕と同じスピードで並走し、すぶ濡れになって写真を撮ってくれている。「また怪我するし、そんなに走ったらアカン!」と叫ぶが聞き入れられない。
     先導してくれる2人の足が、水びたしの路面を打って白波を立てる。なぜだか僕は、そればかり眺めていた。ふと気づけば、レオニダス像が眼の前に大きく立ちはだかっている。
     最後の花道をあっという間に駆け抜けてしまった。感傷にひたる余地なく、8度のリタイアシーンを回想することもなく、フィナーレの地に着いちゃった。
     スパルタスロンは、この銅像の足にタッチした瞬間がゴールなのだ。ぼくは9年間、レオニダス像には一歩たりとも、いや10m以内にも寄りつかなかった。像の台座へのアプローチとなる大理石造りの5段の階段すら登らなかった。この像に近づき、触れていいのは、完走するときだけと決めていた。
     初めて階段を登る。バージンロードをしずしずと歩く、けがれなき新婦の心境ってこんなの? たったの5段なのにずいぶん遠くて高い階段だったわ。
     台座に刻印されているのはレオニダス王の「奪りにきたらよかろう」の言葉(※)。ついに、やってきましたよ。
     銅像の真下に立ち、見上げる。遠目にしか眺めたことなかったけど、実物は想像していたよりデカい。レオニダス王の左足に触れる。へぇー、銅像の足って台座からはみ出してるんだ。彫像士、芸が細かいね。
     足首に抱きつき、足の甲の部分に頬ずりする。先着の選手がここにチューをしたり、祈りのポースを決めてデコをすりつけるのは定番。汗と脂と雑菌だらけなんだろな。ぼくのデコの脂もすりつけてやるオラオラ。
     空気は冷たく、銅像は濡れそぼっているのに、レオニダス王の足は温かくてボリュームがあった。僕を見下ろす彼の目は、父のような優しさに溢れていた。                  

    --------------------------

    (※)「奪りに来たらよかろう」

     レオニダス王が戦死を遂げた「テルモピューレ峠の戦い」において、死の数日前に放った言葉である。
     ギリシャの征服を目論むペルシャ王が、二十万人軍勢をずらりと並べ、たった一万人しかいない貧弱ギリシャ連合軍・・・なおかつ最前線に立ったスパルタ兵わずか三百人に対して、こんな伝令を出した。
     「そっちが武器を差し出したら戦闘なしで許してやるよ、占拠はするけどな」
     無血講和を申し込んだペルシャ王に返したのが、次のレオニダス王の伝説的ゼリフ。
     「(武器が欲しいなら、そっちが)奪りに来たらよかろう」
     まさに「喧嘩買ってやるよ! 二十万人VS三百人でもなっ!」な男気マックスな返答。全員討ち死にするとわかっていて、息子(家系を受け継ぐ跡取り)のいるオジサン兵士だけを三百人選び、その三百人でペルシャ兵1万人ほどをなぎ倒し、だけど結局ひとり残らず玉砕しちゃったスパルタの男たち。彼らの勇敢さを象徴する言葉なんである。
     その言葉は2500年後の今に伝わり、スパルタスロンに挑む選手たちに「完走するのが夢か? 欲しくば獲りに来い」に変換され、ゴールをめざす合言葉となっている。

    --------------------------

     ぼーっとしてたら次にゴールする選手の邪魔になる。さっさとゴール後のセレモニーに入ろうか。例年なら、ギリシャ神話の女神の格好をした美女たちが3人ほど待ち構えていて、完走者にそれぞれ記念品を贈呈してくれる。暴風雨のため本日は女神も撤収。もこもこのフリースを着た丸顔のオッチャンがひとり、記念品セットを両腕に抱えこんで、満面のほほえみを湛えて待ち構えている。オリーブを編んだ冠を頭にポンと無造作に載せてくれ、完走記念盾をひょいと渡され、そしてエウロタス川の水が入った水差しから水をもらう。エウロタス川の水を飲まされる理由は、これまた故事に基づく。アテナイ国よりはるばる250kmを徹夜で走り、援軍を頼みにはせ参じた伝令兵に、スパルタ国は助けを断ったあげく、川の水だけ飲ませて返したという逸話に従ってのもの。
     2500年後の今、郊外を流れるエウロタス川は、生活排水がドボトボ流れ込んでいる雰囲気大ありだが、まさかホントに史実に従って、あの水を汲んでるんだろうか。さすがに胃腸強靭なランナーとてお腹を下しそうだし、きっと中身はミネラルウォーターにしてくれてるって。そう信じることにして、ゴクゴクと喉を潤す。
          □
     さてさて感動・・・あったのだろうか。嗚咽したり、涙を流したりはなかったな。
     ただ楽しくて、ただ楽しかった。それだけで十分だ。
     人生はなかなか思いどおりにはいかない。ほぼ上手くいかない。
     スパルタスロンもまた、吐いて、倒れて、絶望しての繰り返しだった。走ることなんて仕事じゃないし、ただの趣味なはずなのに、気がつけば人生の多くの時間と熱量をこんなのに費やしてしまった。上位で完走できるならまだしも、半分の距離(123kmエイド)まで進むのに7年もかかり、都合8回失敗してやっと1回うまくいった。それだけのことだ。でもそれで十分だ。
     スパルタスロン246.8km、33時間22分04秒。
     夕方4時すぎ、大嵐の中、ほぼ人知れずゴール。   (つづく)
     

  • 2019年04月08日バカロードその132 2018スパルタスロン6「戦士っぽくなりたくて」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=毎年9月、地中海に面したギリシャで行われる総距離246.8km、制限36時間の超長距離マラソンレース・スパルタスロン。8年連続リタイア中の僕は、9回目の挑戦の途上にある。スタートから20時間、コース最大の難所であるサンガス山越えを果たす。地中海性台風メディケーンはますます接近し、冷たい雨と風が強くなってくる)

    【171km~195km/ネスタニ~テゲア】
     171.5km地点のネスタニ村に朝5時24分に到着する。関門閉鎖は7時30分だから2時間の貯金を依然キープしている。曲がりくねった狭い街路は、戦乱の時代、外敵の侵入を遅らせる工夫の名残か。夜明け前の薄暗い道ながら、両側に連なる家並みの様子がこれまでの街とは違う。山越えしたサンガス山の北方の村は白いモルタル塗りの壁が多かったが、山の南側にあたるネスタニ村の家々は、石造りの壁とえんじ色の柱や瓦が組まれ頑強な造りだ。
     スパルタスロンのコースはいくつもの街や村を訪ねながら進んでいく。ひとつの街に滞在するのは通過に要するわずか5分や10分で、立ち止まりすらしない場合もある。しかし沿道から「ブラボーブラボー」と声を掛けてくれる人や、そっと肩に手を触れて体温を伝えてくれる人がいる。そんな一瞬のふれあいが積み重なっていくと、街をあとにするときの寂しさが増してくる。
     レースに要するのは最長36時間、つまり1日半。その短い時間に、半年ほどもかけて旅するバックパッカーの郷愁をぎゅうぎゅうに濃縮しているかのよう。
     ネスタニ村の大エイドもまた、オレンジ色の煌々とした照明に包まれ、エイドスタッフは「陽気な野戦病院」といった雰囲気で右へ左へと慌ただしい。ピットインしたランナーたちを即座に椅子に座らせ、取り囲んで世話を焼いている。ミルクと蜂蜜入りの熱い紅茶をハンドボトルに詰めてもらい、ポケットに入り切らないほどのチョコウエハースをもらう。
     街の中心にある広場を突っ切ると街並みは途切れ、郊外に出る。しらじらとした朝を迎えると、行き交うサポート車のテールランプや、ランナーたちのヘッドランプの連なりが風景から消え、賑やかに感じていた夜道は、寂寥感のある平原のなかの一本道にとって代わられる。
     低く垂れ込めた乳白色の雲。むき出しになった石灰質の白い石が転がる荒れ地に、背の低い灌木がまばらに生えている。
     国土の大半をこんな乾いた土くれに覆われたギリシャという場所で、僕たちが今まんぜんと享受している民主主義の原型が形づくられたなんて不思議でならない。市民が権力者を交代させられる権限を持ったり、人を支配するルールを変更できたり、あるいは階層階級に関係なく職業を自由に選べたり・・・羅列するだけで数千ページの歴史書になるだろうギリシャ人発明の現代に通じる思想。その多くは2500年前のアテナイ国(今のアテネ)で芽生えた発想だ。
     そして今、僕が走っている道も、2500年前のアテナイ国とスパルタ国との戦時協定をめぐる逸話をたどっている。スパルタスロンに参加したすべてのランナーが目指すゴール地点は、2500年前にスパルタ国を率いたレオニダス王の像である。ギリシャを侵略し植民地化しようと東方から押し寄せたペルシャ軍勢20万人に対し、たった300名のスパルタ兵士を率いて敵を狭小谷に誘いこみ、数日間を圧倒しながらも、最後は戦死した映画「300」の主人公のお方。
     2500年前の勇猛かつ賢明なるおじさまたちよ、東洋の島国に住むちっぽけな人間の人生に影響を与えすぎだよ。
     再び大滝選手と並走する。昨晩は眠気に苛まれていた大滝さんだが、夜明けとともに生気を取り戻し、ペースがどんどん上がる。バッテリーをオフにしていたGPSを起動させると、キロ6分ちょいで走っている。いやいや180km走った果てのキロ6分ペースは世界レベルですって。いつもの僕なら、180kmといえばとうの昔に潰れてボロ歩きしている距離だ。こんなペースについていけることが奇跡。人間の体って、エネルギー残量が枯渇したようでも、どこかに着火源が残っている。あきらめたり絶望することがあっても、夜が明ければ一からやり直せる回復力があるんだ。

    【195km~226km/テゲア~英雄記念碑】
     朝8時42分、195km地点のテゲアに到着する。ここまで25時間42分、大滝さんに引っ張ってもらったおかげで関門閉鎖まで2時間28分と貯金が増えた。
     雨足が強くなっている。濡れて重くなったシャツを手絞りしようとエイドテントの下に逃げ込むと、雨垂れが横風にあおられシャバシャバ吹きつけてきて余計に寒い。
     エイドのお姉さんにゴミ袋を1枚めぐんでもらう。袋の底にギリギリ頭が出せるほどの穴を1コ分だけ破き、蓑(みの)のようにして被る。腕を出すと寒いし、腕と首用に穴を3つ空けると保温効果がなくなりそうなので、ゴミ袋から顔だけ出す奇妙な格好で道へと飛び出す。
     日本で売っているゴミ袋はたいていが乳白色だが、もらったギリシャ製のは真っ黄色で、縛りヒモがピンク色と派手である。黄色い袋から首だけ出していると、ファッションとしては漫画「キングダム」の幼き頃の河了貂そのものである。つまり間が抜けているのだが、他に寒さをしのぐ方法がないので仕方がない。
     20時間もぶっ通しで雨に打たれていると、体内で生産できる熱量に対して、濡れた皮膚から奪われる熱の方が明らかに多いマイナス消費。ちょっとでも行動を止めれば奥歯がガチガチと鳴りはじめる。雪が積もっているわけでも気温が零下なわけでもないのに、とにかく寒い。古代中国であった「水拷問」ってこんな感じ? ただの水滴を頭から長時間垂らされると、いずれ正気を失うというアレ。
     この寒さに耐えるには、走りつづけるしかない。座って休憩すればたちまち凍えるから前に進むしかない。
     唯一、暴風雨を避けられるのが、道ばたのプレハブ小舎やガソリンスタンドにおよそ3kmおきに設けられたエイドだ。
     エイドに駆け込んで、デタラメなギリシャ語(※)で食べ物をリクエストする。いの一番に告げるのは「ピナオ!」(腹へった)だ。ギリシャ語を口走る外国人選手なんてまずいない。エイドで待ち構えているオッチャンオバチャンたちは、一瞬キョトンとするが、もう一度「腹へった」と告げると爆笑が起こる。「この人、ギリシャ語しゃべってるよ! ぷっぷっぷー」ってな感じ。
     「それじゃあアンタは何が欲しいんだい?」と聞かれる。食パンを指さして「デュオ パラカロ!」(2枚ください!)と叫ぶ。そうしたらまたウケる。オッチャンオバチャンたちが手に手にパンを2枚ずつ持って、僕にくれようとする。
     すると、その様子を見ていた別のオバチャンが「皆で2枚ずつあげたら、この子は腹いっぱいになって走れなくなるわよ(翻訳は想像)、ワッハッハ」と笑い、他の皆さんも「ワハハハ!」と腹を叩く。風速30mの風にふっ飛ばされそうなプレハブ小屋で、大笑いしている状況がなんとも楽しい。
     例年であればこの道は、木陰ひとつない乾いた土地を、カンカン照りにさらされた灼熱地獄に苛まれ、延々とつづく嫌らしい登り坂を一歩一歩這い上がっていくという、ランナーを苦しめる最後の障壁にあたる場所なのだ。
     本当のところこの辺りって、勝算なき戦いに挑むスパルタ兵士的な切なさを醸し出したいクライマックス場面なんだよ。それなのに今の僕は「次のエイドでどのギリシャ語しゃべったらウケるかなー」などと邪念まみれで先を急いでいる。     (つづく)

    ---------------------------------------
    (※)デタラメなギリシャ語

     街々で出会う人たちやエイドでお世話してくれる方々には、なるべくギリシャ語で話しかけようと思う・・・とはいうものの五十路の中年にギリシャ語をインプットできる脳の空きスペースがない。この1年というもの「旅の指さし会話帳ギリシア」(情報センター出版局刊)を買って自宅トイレに置き、声を出して練習したが、からっきしだった。
     ちょっともマスターできないまま日本を発つ日が来てしまったので、レース時に着用する白いアームカバーに油性マジックで必要と思われるギリシャ語を書いた。エイドで使う言葉は限られているので30語ほどに絞った。

    エイドで使えるギリシャ語(誰の参考になるってーの?)

    □差し迫った欲求の訴え
    腹ぺこです(ピナオ)
    腹いっぱいです(エフォガ) 
    水(ネロ)、氷(パゴス)、熱い飲み物(ゼスト)
    ~ください(パラカロ)

    □同情を誘って優しくされる
    眠い(ニスタゾ)
    寒い(リゴス)
    疲れた(クラズメノス)

    □軽口叩いてウケ狙い
    美しい(オレア)
    友だち(フィロス)
    めでたい(エフハリティメノス)

    □一応の礼儀として
    美味しいです(ノスティモ)
    ありがとう(エフハリスト)
    こんにちわ(ヤーサス)
    すみません(パラカロ)

    □念のため基本
    1(エナ)、2(ディオ)、3(トリオ)
    はい(ネー)、いいえ(オヒ)
    日本人の男(ヤポネズス)
    勝ち(ニキ)、負け(イッタ)

  • 2019年04月08日バカロードその131 16歳の逃走その6 無力な虫として

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前回まで=高校2年生の春、あてどなき旅に出たぼくは、150km走ってたどり着いた夜の高知でアル・パチーノ似の男性に犯されそうになったり、こんぴらさんの背後の山を泥まみれになって登りながら、混迷を極めつつある青春に戸惑っていたのだった)

     アメリカの公民権運動活動家・マルコムX。20代の頃は過激なアジテーターであり黒人至上主義の標榜者であったが、彼が凶弾に倒れる1年前、聖地メッカに巡礼し、人種や民族を超越した人間愛に触れ、それまでの暴力革命路線からの方向転換を計った。
     アルバム「サージェント・ペパーズ」を発表した後のビートルズ4人。インド人宗教家マハリシ・ヨギを師事し、インド亜大陸へ旅立った。すでに富も名声も手にしていた彼らが欲したのは超越的な瞑想、そしてドラッグがもたらす幻想。深い精神の旅は「アクロス・ザ・ユニバース」を生みだす。
     日本の若き冒険家・上温湯隆。23歳のときにサハラ砂漠八千キロ横断の旅に、ラクダのサーハビーとともに出発し、還らぬ人となった。熱砂のなか墓標となった彼の魂は、ぼくの心に旅の遺伝子を撒いた。
     心のヒーローたちは常に旅を欲し、旅は人の根源的な存在の意味を旅人に問いかける。
     旅立ちはいつも衝動的でありながら、その人間にとって最もふさわしい時期に、ふさわしい場所へと、得体の知れない巨大なエネルギーによって導く。あらかじめ細胞の奥の、そのまた奥の塩基配列にプログラムされているかのように。
     16歳の春休み、ぼくはいてもたってもいられなくなり旅に出た。そして四国の東半分を、ただ無秩序に這いずりまわっていたのである。
          □
     国鉄貞光駅で汽車を下り、駅前のバスの営業所で剣山方面へと向かうバスを探した。
     一九八三年の冬はやたらと寒く、春の訪れは遠かった。窓口の人に聞くと、剣山の登山基地である見ノ越へは、まだ山開き前ということでバスは通じていなかった。この時期の終点は「つづろお堂」というバス停であるらしい。とりあえずそこまでバスで行って、あとは地道に頂上を目指せばいいか、とたかをくくる。
     なぜに剣山(※)に向かうのか、それは自分にもよくわからない。そもそもこの旅自体が、まったく意味不明なのである。阿南の家を飛び出してから1週間というもの、自分の欲するがままに走り、登り、野宿をし・・・を繰り返している。

      (※)剣山・つるぎさんは標高1955m。西日本では愛媛県の石鎚山に次いで2番めの高峰。

     バスの出発まではいくぶん時間があったので、食料の調達にかかる。剣山山頂アタックには1、2泊の行程が必要だと思われる。
     駅の近くにあった商店で、サバの缶詰2個とチョコレート、缶ジュース、みかん1袋10個入り、それにポリ袋20枚を買い揃える。チョコはカロリー価の高そうな分厚いのを選んだ。食料一式をザックにしまうと、いやがうえにも登山気分が盛り上がってくる。
     バス停に戻ると、しわくちゃの老婆がベンチに腰掛け、太陽の方に向かって目を細めている。どうやらこの老婆も「つづろお堂」方面のバスを待っているようだ。
     同志を得たような気持ちがした。見知らぬ土地で、同じ方向を目指す者がふたり。たとえそれがアンアンやノンノを片手に旅する美人女子大生でなく、齢八十を超えようかというオババでもよいではないか。
     ぼくは、旅する青年らしい爽やかな笑顔をたたえながら、老婆に接触を試みる。
     「あのぉ、おばあさんも一宇の方に行っきょんですか?」
     すると、さっきまで日だまりの猫のようにやすらかな表情をしていた老婆の目に、鋭い光が走る。
     「にいさんは剣山いっきょんけ?」
     魚市場の床に横たわる冷凍マグロの目玉のような、灰色の眼球に射すくめられたぼくは、
     「は、はい」とたじろく。
     「今は、雪で雪でじゃわよ」
     「は、は、はい」とぼくは慌てる。
     ぼくの背負っている赤いリュックを睨みながら、老婆は続ける。
     「まだ、山しょらんでよ」(山開きしてないという意味か?)
     老婆は目を細め、遠くの山峰を仰ぎ見てつぶやく。
     「は、は、は、はい」と気持ちが後ずさりする。
     ぼくの前途には、急速に暗雲がたれこめはじめたような気がした。
         □
     ゴウゴウと低いエンジン音を唸らせながら、バスは曲がりくねった道をローギアで登り続ける。一宇の村役場前のバス停で乗客のほとんどが下りてしまい、いつしか20人乗りの小型バスの中は、ぼくと運転手だけになってしまった。
     ルームミラーでちらちらとこっちを注視していた運転手が、ぼくを運転席近くの席に手招きする。そして、
     「ぼくよ、山登るんか? まだ雪ようけ積もっとうぞ」
     と神妙な顔つきでのたまう。またもや不安になったぼくは「ムゴムゴ」と口の中でくぐもった返事をする。
     五万分の一登山マップによると、終点の「つづろお堂」は標高六百メートルのところにあり、そこから千メートルの標高差をもって登山道が見ノ越の国民宿舎へと伸びている。順調にいけば約3時間の行程か。
     ぼく一人を終点で下ろしたバスは、けたたましいエンジン音を残し、来た道を引き返していった。
     運転手に教えてもらったとおり車道をしばらく歩くと、板切れで作った「登山口」の道しるべがあった。そこから小さな集落を抜けると、雑木林の奥へと山道が続いていた。
     最初から階段状のきつい急傾斜である。5分も歩かないうちに息はゼエゼエとあがり、リュックと背中の間を汗が濡らす。やがて周辺の樹木に純白の雪がつき、道にも積もりはじめる。高度を上げていくにつれ、登山道と山腹の境界を雪があいまいにする。
     幸い木々には数十メートル間隔で赤い紐が巻かれており、それをたどって行けば道を外さずにすむだろう、と考える。
     ナイロン製のスポーツシューズは雪を踏むとたちどころに濡れる。靴下の中へと侵入した水分は体温を奪い、足の指先が割れそうなくらい痛い。いったん腰を下ろして乾いた靴下にとりかえ、二重にしたポリ袋に足を突っ込んだうえで、シューズをはき直す。雪は足首の高さを超え、容赦なく靴の中に侵入してくるが、ポリ袋を巻きつけてからは冷たさを感じずにすむ。
     やがて踏み跡のある登山道と合流する。楕円形の足跡が点々と上部へと続いている。木を曲げて麻で固定した「輪かん」の跡だろう。おそらく前日につけられたものだ。
     急勾配の山道は1時間ほどでだらだら坂に変わり、雑木林を抜けると風景が開けた。急に光量が増したので、目が慣れるまでに少し時間がかかる。薄ぼんやりとした白い山の風景に焦点があったとき、ぼくは思わず、あっと声をあげそうになった。
     それは、何ということもない、ごくあたりまえの山の景色だった。
     深い谷の両側から山ひだが谷底へとすべりこみ、尾根すじの連なりの向こうには、陰鬱な黒い雲が幾層にも重なっている。雲のすきまから挿す一筋の光が、かろうじて風景に彩色をなしているが、数百メートル下まで続く深い谷底は限りなく暗く、死を予感させるに十分であった。
     こんなにも広い空間に、生命の気配はまるでなく、風景のパノラマの中で、呼吸し、瞬きし、鼓動を打つ生命体は、ぼくだけなのだ。巨大な山塊にぴったりと張りついたぼくは、名もなき昆虫のようだ。    (つづく)
     

  • 2019年04月08日バカロードその130 16歳の逃走その5 その先には何もない

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=高校2年生の春休み、ぼくは3日間走り続けて真夜中の高知駅にたどり着いた。駅で野宿していたぼくに声をかけたのは黒シャツの男。いつ果てるとも知らぬ長い夜は、男の哀しい物語とともに夜明けを迎え、ぼくは虚無的な心を抱えて再び旅を再開する)

     黄色い太陽に揺らめく高知の街を、ただ呆然と歩き回り、結局、高知駅に戻ってきた。アノできごとはここから始まった。
     段ボール箱にくるまって寝ていたぼくは、黒シャツ男アル・パチーノにさらわれた。「ブローニュの森」という名のバーは、全裸の男たちが身をくねらせ、男女が唇を吸い合う怪しの空間。耽美な江戸川乱歩的奇譚世界を経由して、霧雨に覆われた街をタクシーに乗せられ、アル・パチーノの根城へと向かった。大人の性の凶暴と哀愁を知らされた幻想のような一夜を過ごした。
     そのできごとすべてが、深夜0時すぎから10時間ほどの間に起こったこととは思えなかった。ぼくを貫く地軸のS極とN極は、一晩で逆転した。男と出会う前のぼくと、今のぼくは別人である。頭の上から成層圏まで続く大気の重さが、ずっしりのしかかっているようだ。
     春休み中にも関わらず、高知駅前の広場には制服を着た女子高校生がさんざめいている。黒目がちな彼女たちとすれ違うと、柑橘系の南国の香りがした。ぼくと同じ15、16歳のはずの彼女たちが、なんだか眩しくて、すごく遠い存在に思えた。同じ空間にいるのに、ぼくだけ別の次元の住人のようだ。
     あってないような元々の予定は、更に狂いが生じていて、走って四国一周をするのなら足摺岬へと足を向けるべきなのだが、もはやどうでもよくなっていた。
     目的をもって旅する意味などあるだろうか。そんなしごく真っ当で、論理に逸脱のない時間が、ぼくに必要だろうか。アメリカン・ニューシネマに描かれる哀しい主人公たちのように終着点のない疾走をしたい。「明日に向かって撃て」のブッチ・キャシディ&サンダンス・キッド、あるいは「俺たちに明日はない」のボニー・パーカー&クラウド・バロウ、そして「タクシー・ドライバー」のトラヴィス・ビックル。陰りのあるヒーローたちは衝動的に生き、砂漠の砂をジャリジャリと踏みしめて、湿度ゼロパーセントの乾いた死を選びとる。
     春休みはまだ一週間もある。
     改札口の上に掲げられた時刻表を見上げる。行く先は自分で選ばないでおこう。いちばん最初に出発する列車に乗るのだ。各駅停車の琴平行きが5分後に出る。あわてて切符を買い、列車にすべりこむ。
     旧式のディーゼル車はゆるやかに発車し、ガタゴトと呑気に市街地を抜けていく。3分おきに頻繁に停まる駅々で、乗客は徐々に降りていくが、誰も乗ってはこない。穏やかな田園風景の中をしばらく進んだのちに、山岳地帯に入る。急峻な崖が迫る大歩危峡にさしかかる頃には、乗客はほとんどおらず、車内には口をおっ広げて眠りこけている老夫婦とぼくだけになった。
     満を持してリュックからハーモニカを取り出す。長さ10センチほどのフェンダー製の小さなハーモニカは、実家のある阿南市から東新町の楽器店「仁木文化堂」まで汽車に乗って遠征し、買い求めたものだ。旅といえばボブ・ディランであり、ボブ・ディランといえばハーモニカはセットである。
     唇にあてがい、息を吹き込む。「ヒュー、ブー」と情けない音が漏れる。イメージどおりに吹けないものかとしばらく悪戦苦闘してみたが、どうにも吹けない。ぼくはボブ・ディランの歌を知らず、ハーモニカの吹き方もぜんぜんわからないのだった。
     (まあ旅を続けるうちに、吹けるようになるだろう)とていねいにリュックにしまいこんだ。
           □
     琴平駅のプラットホームは、夕日色に覆われていた。
     駅前の広場にある地図を眺めれば、この地を訪れた人すべてが金刀比羅宮を目指す前提にあるようだ。あと何時間かで日が暮れそうだが、このまま金刀比羅宮を目指すことにする。長い参道にさしかかると、ほとんどの土産物店や飲食店が店じまいの支度の最中であったり、シャッターを下ろしていたりで見るべきものはなく、本宮へと続く石畳を寄り道せず歩く。
     商店街のつきあたりから石段が始まる。一段飛ばしで駆け上がってみる。百段ほどで息が荒くなるが、そのうち心臓の鼓動と呼吸の調子が合って、ペースを徐々に上げていく。足の裏を覆い尽くしていたマメは、昨日一晩で皮膚が固まり、160km走ったダメージは消えている。快調だ、どこまで走り続けられるか試したい。
     やがて日は落ち、風景が淡い藍色に覆われる。階段を登る人も下る人も、誰もいない。水銀灯や灯籠に灯りがともり、振り返ると木立の合間から、琴平の街の光が眼下に拡がりはじめる。
     石段が尽きた先に、立派な本宮が現れる。てっきり本宮は山頂にあるものと思いこんでいたのだが、そこは山の中腹だった。境内の後ろには、黒くて深い森の影が迫っている。
     中途半端な場所で引き返すのは気持ちが悪い。いちばん高いところまで行きたくなる。本宮を右に回り込むと、奥社に向かって細い参道が延びていて、行ける所まで進み切ると、急な斜面に山道が森の奥へと延びていた。そこからは光源ひとつなく、真っ暗闇となる。荒れだした山道はかすかな踏み跡へと変わり、やがて踏み跡を見失うと、松やクヌギの根が縦横に張った雑木林に迷い込む。
     枯れ葉が堆積した湿った山腹を、ただがむしゃらに上へ上へと登る。木のつるに行く手を阻まれ、根っこに足をとられて何度も転倒する。ぐっしょり濡れたスボン、尻もちをついたケツのあたりは泥まみれ。尖った木の枝に傷つけられた腕を舐めると血の味がする。それでも、自分より上に黒々とした山の端の気配がある限り、登ることはやめない。
     今、自分はどこにいるのだろう。この山の名前も高さも知らない。行く手に頂上という着地点があるのか、そこにいつたどりつけるのか、見当もつかない。こんなのはメチャクチャだ。それなのに後戻りする気はまるで起こらない。この先にはたぶん何もないのに、どこに行こうとしているのだろう。 (つづく)
     

  • 2019年03月07日バカロードその129 2018スパルタスロン5「嵐をこじあけろ!」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=毎年9月、地中海に面したギリシャで行われる総距離246.8km、制限36時間の超長距離マラソンレース・スパルタスロン。8年連続リタイア中の僕は、9回目の挑戦の途上にある。100km地点を10時間29分でクリアしたものの、標高を増していく道は、稲妻が降り注ぐ嵐の巣へと向かっているようだった)

    【123km~159km/ネメア~マウンテンベース】
     第二関門ネメアでは、風雨を避けて小さな教会に逃げ込む。雨水を吸って重くなった衣類を手絞りし、ウインドブレーカーを羽織る。股ずれ防止のため股間にたっぷり「馬の油」を塗り足す。休憩時間は徹底的にカットする方針だが、冷え切った指先がもたつき15分を費やしてしまう。
     関門閉鎖の2時間前である夜9時にエイドを飛び出すと、雨はいっそうじゃんじゃん降り。天気もこれだけ荒れると「いつか良くなるかも」という淡い期待を抱かなくてすむ。何年も語り継がれそうな悪天候下で、ゴールまでの残り124kmをどう凌いでいくか、そこに意識を集中しよう。
     (走っている最中は知る由もなかったが、この夜から翌日にかけてギリシャのペロポネソス半島、つまり僕たちが今いる場所全域を、メディケーンと呼ばれる地中海性台風「ゾルバ」が襲っていた。風速33~38メートルの暴風雨。海岸線の街々は、海からの高波で洪水となり、土石流にも見舞われるなど大規模な被害を出していた)
     高台にあるネメア市街から坂を駆け下る。3kmおきにあるエイドでは、巻き上げる風に吹き飛ばされそうな天幕の下で、スタッフたちがかいがいしく選手の面倒を見ている。ハンドボトルに熱いコーヒーを継ぎ足してもらうと、シャツの腹のあたりに抱えこみ、両手の指先を温める。
     並走した東欧の選手が、たどたどしい英語で話しかけてくる。
     「昼間は涼しかったので今年は楽だと思わされたが、やはりスパルタスロンは甘くない。絶対に楽な道など用意されてはいない。克服する価値のある大きな壁が用意されている。それこそがスパルタスロンなのだ」。
     人は困難に直面すると、哲学を語りたくなるのだろうか。(ふーん、僕も他の選手に同じことを言ってみよ)と思う。
             □
     ガレた大石小石が10kmほど続く未舗装道に入る。このあたりから日本人ランナーの大滝雅之さんと並走する。大滝さんは2000年のスパルタスロン優勝者であり、48時間走ではアジア最高記録(426.448㎞)を持つ大人物。ウルトラランナーなら誰もが憧れ、尊敬する存在だ。レース後の表彰パーティの席で見かけたことがあるのだが、大滝さんとのツーショット写真を撮りたいと、世界各国の選手がテーブルを訪ねてくる。印象的なのは、大滝さんを前にしたヨーロッパ選手たちのゆるみ切ってデレデレになった顔。スーパースターに出会った少年のような表情を見せるのだ。
     僕にとっては雲の上の存在、いや地球の重力圏より上の存在である大滝さんと同じ位置を走っている事実に、有頂天メーターがレッドゾーンに向かう。いやいや、ここで舞い上がってはならぬ。尊敬すべき選手とつい並走してしまったがために、無理してついていき潰れる・・・という大馬鹿を過去に何度もやらかしている。
     幸いかな、水たまりだらけのガレ場ではスピードは上がらない。ゆっくりペースで進みながら、大滝さんからは20年ほど前のスパルタスロンの様子や、生きる伝説とも言えるスコット・ジュレク(※)とシノギを削ったレースのエピソードを聞かせてもらう。深夜に訪れた突然の約得。夢見心地にも度が過ぎるってもんです。こりゃ全然、眠くなりそうにねーぞ!

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    (※スコット・ジュレク=スパルタスロン3連覇、ウエスタンステイツ7連覇を果たしたウルトラマラソン界の超偉人。かの「BORN TO RUN」の登場人物でもあり、著書「EAT&RUN 100マイルを走る僕の旅」「NORTH 北へ―アパラチアン・トレイルを踏破して見つけた僕の道」は日本語訳版も出版された名著)

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         □
     ダート道が舗装道に変わると、スピードを増した大滝さんについていけるはずもなく、安定のノロノロペースに戻る。
     幹線道路を外れ、急坂を登る。人口300人ほどの小さな田舎の村・リルケア(148.3km)への入口だ。迷路のように入り組んだ道を、アスファルトの路面に黄色く塗装された「→SP」に従って進む。「→SP」の矢印はゴールであるスパルタの方向を示し、247kmの全行程にわたってランナーが道に迷わないよう路面に刻みこまれている。
    左右を民家に挟まれたメインストリートの細道の奥に、煌々と灯された光が見えると、飛び交う人々の声が耳に届く。この村のエイドステーションは建物の1階を開放しており、村じゅうの人が集まっているのではないかと思うほど賑わっている。
     オジサンに「座れ座れ」と椅子に招かれると、中学生ほどの年頃の素朴な女の子が近寄ってきて「何が欲しいですか? コーヒー、紅茶、スープ、フルーツ、パン、チョコレート・・・」と尋ねる。「紅茶をください」と頼むと、「何を入れますか? 砂糖、ミルク、蜂蜜・・・混ぜることもできます」。「それじゃミルクと蜂蜜をミックスで」。すると「ミルクと蜂蜜は、スプーンで何杯ずつ入れますか?」と確認し、「3杯ずつですね」とメモをとっている。「コレに入れてね」とハンドボトルを手渡すと「うん」と深くうなずき踵を返す。
     エイドの奥の方を眺めていると、場を仕切っているベテランお姉さんが「あの選手に声かけてきなさい」「あのランナーにコレを持っていきなさい」と少年少女たちにテキパキ指示を出している。
     こうやって一年に一度、148km彼方のアテネから走ってきた汗と泥にまみれた異国人たちを迎え入れ、世話を焼き、100km先のゴールへと送り出すという、真夜中の儀式が受け継がれていってるんだな。
     素朴な少女が戻ってくる。ボトルの縁いっぱいに注がれた熱々の紅茶を、こぼれないように胸の前で両手で支え、ソロソロとした歩みで近づく。
     沸騰しそうなくらい熱い紅茶。ボトルのキャップをきつく閉め、タオルでぐるぐる巻く。1時間くらいはカイロ代わりになるだろう。
     エイドを後にする。村の出口にある石組みの教会では、深夜1時にも関わらず、塔の最上部にある鐘を鳴らし続け、ランナーを送り出してくれる。
     厳しく凍てついた山登りの道が始まるが、心は温かいままだ。
                 □
     サンガス山(標高1062m)の登山基地へと続く、5kmほどの長いつづら折りの登りがはじまる。このダラダラ坂は、古来よりランナーを苦しめるポイントとされる。150kmを越えて体力消耗著しく、睡魔にも襲われがちな時間帯である。関門ギリギリ通過でさしかかったランナーには、挽回を阻む壁となる。
     この坂道を、下から上まで全部走り切るんだと決めていた。昨年、僕を葬り去ったサンガス山への挑戦権を得るために、強気で攻めていきたいと思ったのだ。
     高度を上げていくと、霧の深さが増す。ヘッドランプの光は、霧に邪魔されて遠くまで届かない。前を行く選手たちのヘッドランプが、周囲の濡れた空気を白く輝かせて、蛍がゆらゆらと群れ飛んでいるよう。
     多くの選手は歩いている。前にいる選手の蛍の灯を追いかけ、追い越していく。数百メートル前に、ものすごく蛇行している選手がいる。道路の右側は切れ落ちた断崖でガードレールなどない。その選手、路肩にふらふらと近づき「あわや!」と思わせると、うまい具合にターンする。さすが歴戦のツワモノ、寝ぼけていても危機回避できるんだな・・・と感心はするものの、ヒヤヒヤしてお尻の穴がキュッとなる。
     話しかけて目を覚まさせようと追いつくと、顔見知りの日本人ランナーだった。
     「藤田さあああん! むちゃくちゃ蛇行してますよぉ!」と声をかける。
     藤田勝美さんはスパルタスロンや関西夢グレートラン、川の道フットレースなど難易度の高い超ロングレースを上位で完走する強者だ。それでいて周囲の人には気さくに声を掛け、ウルトラを愉しんでいることが伝わる走りをする素晴らしいランナーである。
     半寝状態の藤田さんから返ってきたのは謎な言葉である。
     「ああ坂東さん・・・坂東さんはゆで玉子が好きでしょ?」
     (ゆで玉子? ゆで玉子を僕にくれようとしてるのかな? でも他人の食料もらえんしなー)と思い、「おなか空いてないですから、いいですよ」と遠慮する。
     すると藤田さんは「徳島の坂東さん、ゆで玉子好きでしょ」と繰り返す。
     ははーん。これはバンドウ違いだわ。
     「それって板東英二のこと(※)でしょ。僕は野球の板東英二じゃないですよ。モノマネならできますけど」と、「バァンドゥです」のモノマネをして2人の違いを納得させようとする。
     「ああ、そうですよね・・・板東英二・・・眠い。私はそこのエイドで寝ていきます」とテントの方へと消えていった。はたして理解してもらえたのだろうか。
     再び一人ぼっちになる。会話の余勢で「バァンドゥです」を叫んでいると眠気が飛んでいく。
     深い谷底から吹き上げる強風が雨を舞い上げトグロを巻き、四方八方から水責めにしようとする。僕は板東英二のモノマネで徹底抗戦する。

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    ※今さら説明するのも何だが、板東英二とは徳島商業高校の大エースにして、60年間破られていない甲子園の奪三振記録の現保持者(1試合25奪三振、1大会83奪三振)。終戦後、満州からの引き揚げ組だった幼い頃の板東少年は、腹が減りすぎて鶏小舎から玉子を盗んだが、火をつけると見つかって酷い目にあうので、生のままの玉子をすすって生き延びた。その経験から、火を通したゆで玉子に憧れ、今でも大好物だというお話し。
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         □
    【159km~171km/マウンテンベース~ネスタニ】
     サンガス山の登山口にあるエイドはマウンテンベース(159.5km)と呼ばれ、標高767mの位置にある。手前のリルケア村から標高差500mほどを登り、深夜2時55分にマウンテンベースに着く。スタートからここまで19時間55分。多く選手はこのテントサイトで山登りの身支度を整える。
     トラックの荷台から荷物を受け取り、防寒具を身につけていく。ムダに時間を費したくない。動かない脳みそをできるだけ回転させて、効率を追求する。まずはハンドボトルをスタッフに渡し、ホットコーヒーをお願いする。その間に長ズボンをはき、ネックウォーマーで首と耳を覆う。手袋を着け、使い捨てカイロの封を破り、1個ずつ手袋の中に放り込む。ボトルに満たされたコーヒーが届けられるといざ出発。所要3分くらいかな。F1カーのピットインみたいに効率良よくね?と自画自賛。
     テントを出ると、身体を打つ雨の冷たさが増している。去年はここから始まるサンガス登山の最中に、横殴りの風と雨に打たれ、低体温症に陥って命からがらリタイアした。弱くて情けない一年前の自分より少しはマシになってるってとこ証明しないとね。
     暗闇の奥に控える山塊は、雨の幕で姿を消している。登山道のあちこちに蛍光色の簡易照明が点けられているが、首と腰を反り返らせて見上げても先は見通せない。崖側に滑り落ちないように、浮石で足首をグネらせないように、慎重に登っていく。スピードはどうでもいい。ゴールまでまだ87kmある。つまらないケガをして苦境に追い込まれたくない。
     ・・・レースの1カ前、遠方から徳島を訪れ練習会を開いてくれた友がいる。スパルタスロン全勝無敗の彼は、ちっとも完走できない僕を案じて、完走へとつながるいろんな秘訣を伝授してくれた。そして30kmをゆっくりとジョグした。途中、徳島市南佐古の諏訪神社の石段を経て、眉山山頂まで山道を登った。急峻な尾根道だが、標高差は270mに過ぎない。サンガス山への麓からの標高差も295mと似たようなもの。「サンガスなんてコレと同じくらいですよね」とカラ元気を出しながら、時間にして30分ほどで眉山を登り切る。うん、実に大したことない。防寒対策さえきちんとやっておけば、恐れるほどの存在じゃない。そうイメージづけられた。
     (サンガスなんて大したことない)と何度も心で繰り返す。
      雨は強いが、風がピタリと止んでいる。寒さのあまり意識が飛び、眠りに落ちる寸前までいってしまった去年よりコンディション良好だ。一歩ずつ石段を踏みしめる。休むことなくジリジリと高度を上げていく。
     体感でいうと去年の10分の1くらいの時間で頂上に着いてしまう。こんなにあっけないモノだっけ。たったこれだけの登りを、去年は永遠に終わらないと感じた。本当に遭難しかけていたんだな。
     急傾斜の登りに対して、下りは車でも通行できるほどの緩い道だ。しかし大きめの浮き石が多く、ガレ場が苦手な僕は走れない。僕以外の全選手が駆け下りていく。たった2kmの下り道で20人ほどの選手に追い抜かされる。情けないけどまあいいや。山を越えてまだ身体は動いている。上出来の部類だ。
     麓の村、サンガス村(165km)のエイドに着く。去年、低体温症になった僕をすっ裸にして乾布摩擦してくれたオジサンに礼を言おうと決めていたのだが、エイドを見回すと似たような歳と格好のオジサンがたくさんいてどのオジサンだかわからない。たしかハゲていたはずだが・・・ハゲの人もたくさんいる。うーん記憶が曖昧すぎる。山越えをすませてヤレヤレと休憩中のランナーがどっさりいて、オジサンたちはみな忙しそうで、話しかけられないままエイドを後にする。
            □
     サンガス村のエイドから先は、一度も踏みしめたことのない道だ。単純に、嬉しくてたまらない。毎年のように完走するランナーたちを心から尊敬するし、羨ましくてたまらない。だけど、リタイアしか知らない僕にも密やかな楽しみがある。毎年、少しずつ距離を伸ばし「自己最長不到距離」より先の世界へと進む。その歓びは、何にも代えがたい。初めて見る景色、初めて踏みしめる道がそこにはあり、未知の街や人との出会いがある。
     リタイアした場所で何時間も過ごしたり、収容車の移動中にあちこちの村に降り立つので(エイドごとに最終ランナーが来るまで待ち続けます)、コース上のいろんな街や村を知り、さらに愛着が増していく。リタイア常習者でしか知りえないギリシャの田舎旅を通じて、僕はますますこの国を好きになっている。
     100km付近から何度も追い越し、追い越されてしているヨーロッパ人の女性ランナーが話しかける。深夜4時というのに元気まんまんで、エネルギーに満ち溢れているようす。
     「お互いここまで調子よく来てるわね。あなたは何回目なの?」
     「今まで8回出て1度も完走したことないんですよ」
     「あきらめないハートをリスペクトするわ! ちなみに私は過去4回とも完走してるの!」
     そして彼女は瞳をらんらんと輝かせて、
     「ここまで絶対イケそうなペースで来てるじゃない? 今年は勝者になれるわね!」
     と覗き込んでくるので「メイビー(きっとね)」と何気なく答える。
     すると彼女が突然叫ぶ。
     「ノットメイビー! You can do it!」(きっとじゃダメよ! 絶対できるんだから!)
     あまりの剣幕に圧倒されて返事できずにまごついていると、彼女の声量が増していく。
     「You can do it!」
     「You can do it!」
     「You can do it!」
     夜明けもまだ遠い漆黒の深夜4時。地面に叩きつける滝雨が道じゅうに水の王冠をつくる。弱気な僕を絶対に許さないと炎と化すオランダ人のお姉さん。
     追い詰められた僕は「Yes.I can do it・・・」と小声で返す。
     すると彼女はとても満足した表情を浮かべ、
     「オッケー! あなたとはこの先でまた会えるわね」と猛スピードで滝雨の向こうへと走り去っていく。
     あの・・・やっぱスパルタ完走するにはお姉さんくらいの気合いがいるんですね。勉強になります。   (つづく)

  • 2019年03月07日バカロードその128 2018スパルタスロン4「稲妻に突っこめ! 」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=毎年9月、地中海に面したギリシャで行われる総距離246.8km、制限36時間の超長距離マラソンレース・スパルタスロン。何度挑戦しても完走できず、8年連続リタイア中である僕は、大エイドを素通りする荒技で戦局の打開をくわだてる)

    【80km~123km/コリントス~ネメア】 
     80km地点の第1関門・コリントスを越える。ここからはヨーロッパ大陸本土を離れ、ペロポネソス半島内陸への旅のはじまりだ。「ペロポネソス半島」とは言うものの、大陸側と半島をかろうじてくっつけているのは幅5キロの地峡で、その中央を南北の海をつなぐために120年前に掘削された運河が貫いている。大運河によって大陸と半島は完全に分断されたため、実質は「島」なのである。
     ペロポネソス半島の面積は2万1500平方キロあり、四国の1万8800平方キロよりも広大で、点在する街々は4000年以上の歴史を有する。大会のコース上からは、世界遺産に認定された城跡や城壁の残骸が眺められるが、目立って観光開発されてはおらず、手厚く保護される様子もなく、太陽と風雨にさらされている。
     オリーブ畑やぶどう畑のあいだを縫う小道を、西へ西へと向かう。道の延長線上にハゲ山が屹立している。この辺りでは唯一観光客がやってくる古代コリントス遺跡を山すそに抱くハゲ山だ。その鋭角さは「未知との遭遇」のデビルズタワーほどではないにせよ、行く手を指し示すには十分な威圧感を放っている。
     80kmまで維持していたキロ6分ペースはガックリと落ちてキロ7分台になっているが、折り込み済みの下降ラインといえる。ここから先はペースの維持よりも、潰れないことが最重要課題となる。自らに課した次なるお題は「100kmの計測ポイントを、体力を充分に余らせて、鼻歌をうたって余裕で超える」である。
     過去、幾度も100から110kmの間でいったん潰れるという愚行を繰り返している。潰れたまま回復せず時間切れになったこともあれば、立て直してまた戦線復帰したこともある。どっちにしろ、こんな序盤で潰れているようでは、困難さを増す先々の道のりを突破できるはずがない。自戒の意を込めて、周囲に人がいないことを充分に確認したうえで「僕は潰れましぇーん!」と二度、三度叫んでみる。何度叫んでも武田鉄矢に寄っていかない。中年男の殺気を感じたか、ぶどう畑の番犬が駆けてきてワンワンと吠えつく。
     100kmちょうどの所にある街・アソスを10時間29分で越える。関門閉鎖は12時間25分だから、2時間近くの貯金を稼いでいる。ここから102km地点の街・ゼブゴラシオまでは民家が点在していて、なぜかパステルピンクやクリームイエローやスカイブルー色をしたかわゆい外壁ペイントで飾られている。それぞれのお家の前に、子どもたちがノートとサインペンを持って、ランナーがやってくるのを待ち構えている。リクエストにすべて応じ、差し出されたノートに「オバケのQ太郎」を書きまくる。あらゆる漫画キャラクターのなかでいちばん速く描けるのでQ太郎。15匹ほどのQ太郎を描く。子どもたちは、このサイン集をどうするのだろうか。月曜日に教室で見せっこするのだろうか。ギリシャ語が話せたら聞いてみたいものだ。
     スリナリ(109.8km)という山麓の街から、13.5km先の第二関門ネメアまでは、標高差300mほどの山道の登りがはじまる。いつもの年ならフラフラになってるこの辺りに、100km過ぎても潰れずにやって来れたぞ!
     午後7時、日没が近い。紫色に陰った空に、漆黒の雲がニョキニョキと峰をなす。鋭利な稲妻が右から左へと雲を切り裂く。1秒、2秒、3秒、4秒、5秒と数えた後に、遅れて雷音がゴロゴロゴロ。音速は秒速340mだから2kmくらい向こうか。近くではないけど、これから向かう方に雷の巣がある。レース前、他のランナーらが天気予報をスマホでチェックしながら「初日の夜中、半島の中央部はサンダーストームって出ている」と沸き立っていたのを思い出す。天気予報なんて当たらなくていいのに、的中してしまった。
     1粒の雨が頬に触れる。アスファルトに黒い水玉の染みがつく。それがドシャバシャの滝雨に変わるまで、たいして時間はかからなかった。というよりは、もともと大雨が降っている雨雲の制圧圏に、われわれが突っ込んでいっているのだ。
     左の山側から右の谷側へと、赤土まみれの茶濁した水流が道を横切る。シューズを濡らすまじと飛び石を伝ったりしていたが、そのうち道全体が川になり、迂回する手段がなくなる。途方に暮れれている時間はない。やむなしと流れに足を突っ込んでジャバジャバ突っ切る。
     今から凍える山に向かうというのに、足元はびちょ濡れかぁ。替えのシューズも用意してないしな。先を憂いながらも、ちょっとした救いを発見する。今回履いているのはホカオネオネ製の3年ほど前のモデル「トレーサー」。トレイル用シュースの開発メーカーが造ったロード用商品だ。かかと部分の厚みが4センチもあるのに片足217グラムと軽量。廃盤となった今では、アマゾンで7万円という手の届かない値段がついていて二度と入手できない最後のトレーサー君は、濁流に突っ込んだ後でも数歩走れば水がすべて切れる。シューズの中でタプタプと水が遊ぶ感覚がなく、重さが増すこともない。相棒トレーサー君、僕をゴールまで運んでくれ。
          □
     第二関門は、古代都市ネメアに設けられている。ここまでの123kmを13時間44分でカバーし、関門閉鎖の夜11時まで2時間16分の猶予を得た。
     テラコッタの煉瓦屋根と白壁づくりの小ぶりな教会。その前の広場が大エイドとなっている・・・はずだったが、やむことのない大雨のために、屋外エイドは撤収されている。ふだんは立ち入れない教会の中へと誘導される。狭い教会の礼拝堂は、街のボランティアの人びとや選手たちで立錐の余地もない。ごった返す人をかき分け奥に進み、暖を取れる場所を探してみるが、床もまたビチョビチョで座れない。荷物預けしてあった防寒用のウインドブレーカーを羽織り、気休めにソックスを脱いで手絞りする。
     ひと息ついて辺りを見渡すと、本来はマッサージを施すために用意された3台の簡易ベッドに選手が裸で寝かされていて、1人につきスタッフ3人がかりでバスタオルでゴシゴシ体をこすっている。低体温症に陥った選手の体温を上げようとしているのだ。かたわらでは濡れた床に座り込み、銀色の救護シートにくるまったまま微動だにしない選手がいる。野戦病院ってこんなトコだろか? 今から寒さも嵐もひどくなる山に向かうというのに、ここで低体温症になっているようでは先には進めない。
     動きを止めていると寒気が増してくる。こりゃ休憩していても体力メーターを減らすだけだ。震えながらでもゴールに近づこう。エイヤッと教会の外に出たものの激さぶーい! そうそう、山岳エリアに突入する前に、熱源になる食い物を腹に入れとかなきゃね。屋外テントに手つかずのまま山積みされた紙容器入りのピラフをもらう。雨でずぶ濡れになった水っぽいピラフをガシガシかきこむ。
     道路へと飛びだすと、垂直の雨が脳天に叩きつける。すぐに喉の奥が苦しくなってくる。早食いしたピラフが食道につっかえている。その場飛びをして、胃に落とそうと試みるが全然ダメ。胸が熱くなって爆発しそうになり、たまらず全部のピラフをブハーッと吐き戻してしまう。
     民家の前で吐くのはしのびなかったが、門塀の前の排水溝をゴウゴウと雨水が流れていて、そこへ正確に吐瀉する。放流された稚魚のように流れに乗って去っていく白い米粒たちを、ぼくは呆然と見送る。補給すべきカロリーなしで、嵐の山に向かわざるをえなくなった。(つづく)

  • 2019年01月24日バカロードその127 2018スパルタスロン3「スタート! 」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)
    (前号まで=毎年9月、地中海に面したギリシャで行われる総距離246.8km、制限36時間の超長距離マラソンレース・スパルタスロン。僕は何度挑戦しても完走できず、8年連続リタイア中である)

     バスの車窓に雨粒が斜めに走る。夜明け前のアテネの街は、昼間の賑わいとは打って変わって、深い夜の底に沈んでいる。日本のように24時間営業の店はなく、オフィスビルに非常灯が点いていないので、夜の深さが際立っている。

     連なるビルとビルの谷間から、急坂が一方向へと延びている。381人のランナーを乗せたバスの連なりが、6車線の幹線道路を外れ、その狭い石畳の急坂を上っていく。やがて家々の隙間や、こんもりとした森の木々の奥に、オレンジ色にライトアップされたパルテノン神殿が浮かび上がる。
     停車したバスを降りると、ランナーたちは誰の案内を受けるでもなく、ゆるい傾斜の階段を、パルテノン神殿の方へといざなわれる。階段を上り詰めると、アーチ状の石組みが連続するイロド・アティコス音楽堂の壁が立ちはだかる。この音楽堂を、遺跡と呼んでいいのだろうか。建立されたのは紀元161年というから、日本なら卑弥呼が誕生する以前の弥生時代まっさかり。だが2018年の今でも現役で使用されているので「遺跡」とは言い難い。われわれの祖先が高床式住居を発明し稲作を始めた頃、ギリシャ人たちは、音楽や朗読、演劇を観るために五千人もの観客を収容する劇場を造っていたのである。
     スパルタスロンは、毎年9月最終週の金曜朝7時に、このイロド・アティコス音楽堂前の広場からスタートを切る。バスが到着してスタートまでの30分ほどの時間を、多くの選手らは古い仲間との邂逅の時にあて、また記念撮影の求めに応じる。
     僕は何となく1人になりたくて、人だかりのしているスタートラインとは反対側の、音楽堂の壁の前にあるベンチに座る。その辺りには、混雑を避けた選手たちがポツポツといる。似たような心持ちなのだろう。しょぼ降る雨の暗い空を仰いだり、ベンチに腰掛けたまま地面の一点を睨んでいたり。
     1人のランナーが音楽堂の壁に正対し、雨に濡れた石組みに額をつけて何かを祈っている。それはとても敬虔で美しい姿に見えた。彼の背中には燃えるような思いや達成欲は匂い立たず、ただ聖なる物に対峙したときに人が見せる無私で無欲な心がある・・・ように思えた。このスパルタスロンにすべてを懸け、長い距離を毎日毎日走り、ギリギリの節制をし、努力を積み重ねてきた人だけが醸し出せる蜃気楼のようなゆらぎ。
     彼がその場所から離れると、すかさず僕はその壁に近づき、同じポーズをとってみる。(うほほー、これマジでカッコよくない? こんな劇的な僕の姿、誰か気づいてくれんかな。ふふふ、もう何人かに見られてるかも・・・)。と、充分にタメを作り、戦いに挑む戦士的な切ない表情をつくって後ろを振り返ったが、そこには誰もいなかった。スタートまであまり時間がなくなっていたのだ。大慌てでホテルの朝食会場からくすねてきたバナナと食パンを水とともに胃に流し込み、いそいそと人だかりの中に割り込んでいった。
         □
    【0km~80km/アテネ~コリントス】 
     雨足が強まっている。出だしの2kmはアクロポリスの丘からアテネ市街へと石畳の坂を下る。磨かれたような石組みに足を取られ、すっ転んでケガするトンマは許されない。
     今年は正月からロクなことがなかった。新年早々ひいたおみくじは「凶」、その2週間後にバイク事故して骨折7カ所。コルセット巻いて出場した小江戸大江戸マラニックでも大転倒し血まみれ。もうこれ以上はヘマできない。慎重に慎重を期してソロソロ足を運ぶ。大半の選手に追い越され、定位置の最後尾近くに落ちるが、それはどうでもよい。僕にとってのスパルタスロンは、周りの選手との競争ではない。1年間をこの一瞬のためだけに費やしてきた自分に対する清算なのだ。
     試されるのは走力だけではない。「この程度の実力しかない自分」という頼りない駒を、どう制御し使いこなすか。その気持ちのありようと戦略が正しいかを試す場所だ。
     大切なのは、とにかくゆっくり走ること。「今、自分ができる最も遅い走り方」で進むことを徹底する。序盤の80kmまでは、それよりほかは何も考えなくていい。
     降りやまない小雨が、道路の轍に水たまりをつくる。うかつに足を突っ込んで、シューズを水で濡らしたくない。脚の裏がふやけて皮と肉がズレる原因となるからだ。だけど地面にばかり気を取られたくもない。そのため集団の後ろに取りつく。水たまりがあれば集団が割れて教えてくれる。先行するランナーの着地跡を、機械のように追えばいいのだ。
     ひたすらキロ6分ペースを刻む。だが無理して6分に合わせようとはしない。ペース調整のためにエンジンを吹かしたり、ブレーキを踏んだりすると疲れるだけだ。6分15秒でも5分45秒でも、トータルで辻褄が合っていたらいい。
     全身の力を抜き、半分眠るような意識で、消費カロリーゼロで前方に体を推進させる。危険な兆候の現れは、同じ調子で走っているつもりなのに、自然とキロ6分30秒、7分とペースが落ちてきたときだが、その気配は微塵もない。
     調子が良いとも思えないが、悪くもない。速く走ってはいないが、遅すぎるとも言えない。何ごとも中庸が大事。いや、ここはギリシャだからアリストテレス先生の「メソテース」が大事。
          □
     スパルタスロンは体水分量のコントロールが重要だ。完走する選手らは、エイドごと(※)に300~500mLの水分を摂る。補給エイドが74カ所あるから単純計算すると247kmの間に20リットル前後の水を飲む。それでもゴール後には体重は激減している。1日半で体重が10kg落ちた選手もいる。
     僕は、片手にハンドボトル(SIMPLE HYDRATION 350mL、2376円)を持ち、エイドごとに満タンにする。3~5km先のエイドまで持ち応えるよう、1度に口に含むのは10mL程度にし、愛おしむようにチュパチュパすする。ガブ飲みは厳禁だ。水分の過剰な摂取は胃酸の濃度を下げ、消化能力を落とす。すると食べたものが胃に留まり嘔吐の原因となる。嘔吐が始まるとエネルギーを取り込めなくなり、ハンガーノックを起こして体が活動停止する。こうなると気力ではどうにもならない。
     ハンドボトル「SIMPLE HYDRATION」は口径が5センチ以上あり、ブロック氷を労せず放り込める。例年、気温35度前後となるスパルタスロンでは、エイドでボトルに補給した氷水を全身に塗りたくり、また断続的に飲み込んで内臓を冷やし続ける作業が必務である。
     そしてこのボトル、人さし指や短パンの腰ゴムに引っかかるよう、フック型の形状をしているのも良い。僕は、さらに握力を必要としないよう、左右の手首にパンツ用の替えゴム(ダイソーで100円)を三重巻きにしている。ゴム紐にボトルを挟むと、指で握らなくてすむ。走るために不必要なエネルギーは、握力とて使いたくない。最近は、トレラン用に開発された手のひらにフィットするバンド状のボトルキーパーがあるが、位置が固定されすぎて自由が効かない。パンツのゴム紐なら、キツく締めたり緩めたりが自在で、なおかつ軽量さに秀でる。

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    (※)スパルタスロンには全行程247kmの間に74カ所のエイドが設けられている。平均すれば3kmに1カ所もの高頻度であり、こういった長丁場レースとしては異例のサポート体制が整えられている。各エイドには水、スポーツドリンク、コーラなどの飲料があり、クラッカーや食パン、チョコレート、フルーツ類などの食料も用意されている。エイド間の距離が近いため、ランナーは荷物を背負うことなく、空身で走れる。
     更には、これらエイドのほぼ全てに、ランナーはあらかじめ自分で用意した荷物を置ける。ビニル袋や紙袋に、自分好みの補給食や飲料、防寒具などを詰め込む。袋の表面に自分のゼッケンナンバーと、置きたいエイドナンバーをマジック書きしておくと、そのエイドまで輸送してもらえる。
     ギリシャを旅する多くの旅行者が感じるだろうギリシャ人のテキトーさ大雑把さを考えると、この濃密なランナーへのサービスが、問題なく機能していることは奇跡としか思えない。
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     フルマラソンと同距離にあるメガラ(42.2km)を4時間10分で通過。この地点に3時間台で来ないことが、完走への1つめの大条件としていたので、ひとまず合格。今日は調子がいいと勘違いしたり、晴れ舞台に舞い上がってしまって、実力以上に速く入ることは、百害あって一利もない。とにかく遅く走ることで、先々まで体調を維持し、心の余裕度「まだ本気の自分の1%も出してないよ」を保ちつづけるべし。
     45kmすぎから、エーゲ海へと突き出した岬を登り、入江へと下る海岸道路の連続となる。急な登り坂では、ヨーロッパや南米の選手たちは大股で歩いているが、僕はぜんぶ走ることにする。歩くのが遅い僕は、登りを歩いてしまうとキロ12分まで落ちてしまう。どんなにノロノロペースでも、走っている限りキロ7分で進める。1kmで5分の差は大きい。それに急登の歩きは、支脚の筋肉を使うので想像以上に体力を消耗する。走っている方がラクなのだ。
     正午を過ぎると雨は上がり、雲の合間に青空が見えだすが、気温は低いまま。たぶん20度くらい? 適度にそよ風も吹きはじめ、体表面の火照りを取ってくれる。ギリシャ神話の神々が「オマエ、9年間もしつこく来てキモいし、今年完走して引退しやがれ」と、稀にみる最適コンディションを用意してくれたとしか思えない。ふだんは紺碧色をしたエーゲ海もどんよりと灰色に濁っているが、この冴えない光景ですら、ぼくの目には「ご歓迎」のしるしに映る。
     70km地点で海岸通りを離れて大きな車道に出る。ここから始まる2kmの長い登り坂で10人ほどを追い越し、なんとなく今日は調子がいい日なのだと実感する。
     1つめの大エイド(※)、コリントス(80km)に8時間09分で入る。ここまで完ペキにキロ6分を維持している。スピードを要する序盤の終点となるコリントス(9時間30分で関門閉鎖)では、多くのランナーが軽食を取ったりマッサージを受けるなどして、5分~15分ほどを休憩に充てている。一方僕は、ハンドボトルに水を注いでもらうだけにし、滞在10秒でエイドを後にする。

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    (※)大エイドとは、コリントス(80km)、ネメア(123km)、リルケア(148km)、マウンテンベース(159km)、ネスタニ(171km)、テゲア(195km)、ヒーローズモニュメント(223km)を指す。
     「大エイド」は僕が便宜上使っている名称で、ヨーロッパの選手にはカットオフポイント(関門)と呼ばれている。これらの街や場所には計測マットが敷かれており、ほぼ厳密に、関門時間に間に合わなかった選手に対してレース終了が宣告される。「ほぼ厳密に」というのは、100%厳密ではないということだ。ここはギリシャである。レースを運営しているのは、心おおらかで感情豊かなギリシャ人だ。何秒かあるいは何分か遅れてしまっても、ランナーが不屈の闘志を見せれば「ゴー!ゴー!」と通してくれた例は枚挙にいとまがない。「スパルタスリート」とは、どうなっても諦めない、どんな状態に陥っても前進する人物に冠されるべき名だ。それは関門閉鎖というルールすら乗り越えてしまう。
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     今回、このエイド戦略で思い切った手を打った。74カ所あるエイドには食べ物を置かないと決めたのだ(※補給一覧)。そして大エイドには荷物自体を置かない。ただし荒天の予報が出ていたため、ネメア(123km)に雨具、マウンテンベース(159km)に防寒具のみ用意した。
     大エイドでは、何かと用を足す理由が作れてしまう。腰を下ろし、食事をし、シューズ紐の調整をし、マッサージをしてもらい・・・いずれも次のセクションに進むための重要な準備だと、自分に対して言いわけを作れてしまう。だが実際は、ただ休みたいだけなのだ。そして時計の針は10分、20分と容赦なく進んでいく。大エイドで費やした10分を縮めるためには、1kmにつき30秒速く走ったとしても、それを20kmも続けなくてはならない。それほど頑張ってようやくチャラ。ならば休憩や食事は歩きながらでもいいから、一歩でも前に進みたい。何なら立ち小便だって歩きながらしたい。
     大エイドにはパスタ、ピラフ、ヨーグルトなど、炭水化物や糖質を摂取できるよう準備されている。夜間にさしかかると一般エイドでも温かいコーンスープやヌードルスープがある。いずれも歩きながら飲み食いできるよう紙の器に入れてくれている。
     だから僕は、大エイドで費やす時間をカットし、食事・嘔吐・小用などは可能な限り移動しながら済ませると決めた。
     とにかく前に。立ち止まることなく前に。それを36時間繰り返せたら、きっとゴールに指の先が届くはずなのだ。

     (つづく)

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    (※補給一覧)
    今回、一般エイド10カ所、大エイド2カ所に置いたのは以下。
    ・粉状のクエン酸(メダリスト)、BCAA(アミノバリュー)、経口補水液(OS-1)
    ・緑茶パック
    ・鎮痛剤(イブ)、カフェイン錠剤(エスタロンモカ)
    ・ヘッドランプ
    ・雨具と防寒具(ウインドブレーカー、ゴアテックスのジャケット、ネックウォーマー、長ズボン、手袋、カイロ2個)

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  • 2018年12月21日バカロードその126 2018スパルタスロン2 0勝8敗、勝算なし。後がなくなった人がやるのは・・・

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=毎年9月下旬、地中海に面したギリシャで行われる総距離246.8km、制限36時間の超長距離マラソンレース・スパルタスロン。何度挑戦しても完走できず、8年連続リタイア中である)

     50代に足を踏み入れると、老化の加速度がぐんと増した。元からの極度の近眼に老眼が混じりはじめて、遠くも近くもカスミがかかったように白い。米びつの米を床一面にひっくり返したり、料理を載せた盆を流し台に中途半端に置き、空中一回転させて台無しにするくらいはフツー。頭のキレが鈍いのは仕方ないとして、小便のキレの悪さは許しがたい。いつ果てるともしらずチョロチョロとこぼれ、ナニを振りに振って慎重にパンツにしまっても、そのあとチョロっと漏れるコイツが憎い。
     こんな調子では、体力が激落ちしてくのは確実で、スパルタスロン完走なんて一生ムリだろねと認識するのはそう遠い日ではない。そもそも参加資格の100kmを10時間以内だって僕には難関であり、毎年サブテンを続けられるとはとうてい思えない。つまりスパルタ完走どころか出場だって危ういのである。
     こんな風に途方に暮れるばかりで、打開策はまったく見つからない。
     1年をスパルタを中心に廻しはじめて何年経ったか。スパルタのために練習し、体重を減らし、レースに出て参加資格を取る。メシを食うのも、うんこするのも全部スパルタのため。他人の目にはヤバイ人としか映らない謎な特訓もやった。全速力で10km走ってカルピスソーダを一気飲みして嘔吐する「ゲロ吐き慣れ特訓」に、寝落ち対策には徹夜ラン中に「安全ピンで乳首を刺す、涙がでるまで往復ビンタする、キロ4分半で絶叫走りする」など。
     ただの趣味にこんなに追い込まれてる中年、自分の目にもやっぱしヤバイ人。
          □
     今年は参加する大会を減らした。走りすぎると慢性疲労が抜けないのである。レースに出ると、まともにジョグ再開できるまで3週間はかかるので練習不足になる。レース後に体重が3~5kg増えてしまう珍現象も悩みのタネだ。元の体重に戻すのにひと苦労する。
     3月小江戸大江戸204km、5月は出雲市まで個人ジャーニーラン250km、6月柴又100kmとサロマ湖100km、7月みちのく津軽188km、8月神戸24時間走145km。脈絡なさげな並びだが、目的はひとつだけ。序盤の100kmをキロ6分~6分30秒で走れる平坦なコース設定の大会ばかり選んだ。スパルタスロンの0~100kmを、十分な余力を残したうえで10時間台で入れるよう、身体を慣らしていくのだ。ってことで序盤に峠越えがあったり、スタートすぐに夜間走になる大会は除外した。
     みちのく津軽と神戸24時間走は、例年気温が33~38度とクソ暑くなる大会。コース上に日陰が少なく直射日光にさらされっ放しなので、暑熱順化にほどよい。ついでに職場のデスクをエアコンのない倉庫に移した。夏には室内が32~33度になる。南側の壁の近くはもっと暑い。澱んだ空気の中で脂汗を流しながら仕事して、スパルタ本番の35度前後を「爽やか~♪」と勘違いする作戦。
     毎日の練習量は12km~20kmまでに抑え、とにかく老化しつつある身体をいたわる。速く走ると本当に疲れてしまうのでペースはキロ6分30秒~7分で。「そのまま100km~120kmまで持続できる」よう頭の中にイメージを繰り返し描き、空中で遊脚を休めながら、着地のたびにフニャフニャ脱力する。
     基礎スピードが全面的に枯れてしまうとマズイので、ジョグのラスト1kmだけ4分00秒~10秒まで上げて日課の練習はおしまい。
     さて食べる方。生物学者・福岡伸一の著書に「体を構成する分子は、半年も経てばすっかり食べたものと入れ替わる」という話があって、それ以来、めちゃめちゃメシを食うようになった。
     ごはんはドンブリに山盛り2杯以上、水は1日2リットル。腹十二分目になるまでたくさん炭水化物と水を摂る。米をたっぷり食らうと、翌日は脚の回転がくるくる軽い。アイスクリームは1日5本~10本。レギュラーはセンタンの白くまマルチとパピコ大人のあずき。これをヨーグルトに浸しながらしゃぶる。糖質と炭水化物が小腸の絨毛から血管に取りこまれ、全身を駆け巡るとしあわせ感で満たされ、ミトコンドリアがプルプルもだえて脂肪が燃焼していく。糖質喰らいダイエットばんざい!
     水はスパルタスロンのエイドで出してくれるヨーロッパの硬水にあわせ、evianやcontrexなどの超硬水を箱買いしガブ飲み。「硬水に慣れるため」っていうより、ペットボトルのラベルに書いてあるアルプスやピレネーの取水地の説明を読んでいると、内なる気合いが高まってくるのだ。
     もうね、いろんな作戦と特訓やり尽くして、方法が見えなくなってるんですよ。人はあとがなくなったら爆食いに走るんっス。ぜんぶの細胞に取って代わる白くまアイス頼みだから! (つづく) 

  • 2018年12月21日バカロードその125 2018スパルタスロン1 0勝8敗、勝算なし。

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

     スパルタスロンとは毎年9月下旬、地中海に面したギリシャで行われる総距離246.8km、制限36時間の超長距離マラソンレースである。
     スタート地点を首都アテネの中心部にあるアクロポリスという遺跡直下とし、ゴールを古代戦闘国家として繁栄したスパルタ市に置く。

     今でもわが国で使われる「スパルタ教育」「スパルタ指導」など厳しいしつけを意味する言葉は、2500年前に都市国家スパルタで行われた幼児教育や軍事鍛錬をルーツとする。たとえば産まれた直後の男児をワインで洗い、痙攣を起こした子は強い兵士になる見込みがないと、実の親が崖から投げ落として殺すほどであった。7歳には軍人としての教育がはじまり、生き残ると12歳から30歳までフリチンで生活させられる(理由は不明)。思春期にずっとフリチンとは同情する。
     その厳しさたるや、コンプライアンスに反するとみれば国民から袋叩きに会い、ウケ狙いのバイトテロするだけで個人情報丸はだかにされ、ちょっと浮気すると総人格否定が行われる、現代の日本国に匹敵するハードボイルドな国家だったわけだ。
     2500年の紆余曲折をへて、現代のスパルタ市はワインやオリーブオイルの生産が盛んな、いたって平和な避暑観光地となっている。
     さて僕はこのスパルタスロンに連続8年にわたって参加し、目も当てられないほど惨めなリタイアを繰り返している。その敗戦史をたどってみよう。

    □2010年 1回目/91.0kmリタイア
     荘厳な雰囲気に舞い上がってしまい、入りの20kmをキロ4分台ペースで突っ込むと、50kmすぎから嘔吐がはじまる。猛烈な直射日光にアブられ、汗が止まり皮膚がチリチリ焼ける。87kmエイドでスイカを食べすぎて気持ち悪くなり、ゴールへの意欲を失ってチンタラ歩いているうちに関門アウト。

    □2011年 2回目/83.4kmリタイア
     スタート前に右足甲を疲労骨折しており、歩くだけでもフーフー息が荒い。鎮痛剤を大量服用して臨んだが、早々に薬が効かなくなる。それでも耐えて走っていたが、ぶどう畑の中で、お散歩中の少女と子犬に追い抜かれたショックから自らゼッケンを外す。

    □2012年 3回目/38.8kmリタイア
     スタート後2時間ほどで気温が40度近くに上昇し、自分でわかるほど蛇行しはじめる。30km少々で道ばたのバス停小舎でうずくまると、目の前が白くなり意識が混濁する。先のエイドまで歩いたが自力で立てなくなり、肩を貸してもらって収容車に運ばれる。車の中で水を2リットル飲むと、体調は元どおり元気になる。

    □2013年 4回目/87.7kmリタイア
     もう二度と暑さには負けない!と決意。8月の月間走行距離1300km、レース5日前にギリシャ入りし、暑熱順化のために100km以上の走り込みを行う。すると疲労が蓄積しすぎたかスタート直後からまったく身体が動かず。もがき苦しんだものの第一関門コリントス(80.0km)を越えるのが精いっぱい。

    □2014年 5回目/112.9kmリタイア
     昨年の失敗を糧に、過度な走り込みを中止し、疲労除去を徹底する。4日前にギリシャに入するとホテルの自室に引きこもり、ベッドの上に横たわったまま1日18時間眠る。食事にも出かけず、日本から持ち込んだアルファ米を食べつづける。するとスタート直後からまったく身体が動かず。はじめて100km計測ラインを突破したが、畑のあぜ道やそこいらへんで何度も仰向け大の字になってグロッキー。しばし星空を眺めて終わり。

    □2015年 6回目/83.4kmリタイア
     またもやひどい熱中症にやられ、60kmすぎに道ばたに座り込む。第一関門コリントス(80.0km)に着いたときは、指先は震えて靴ひもが結べず、口もきけないほど衰弱。第一関門は越えたが、1km進むのに20分以上かかりはじめ、その先にある撤収済みのエイドで自らリタイアを申し出る。

    □2016年 7回目/132.6kmリタイア
     はじめて第二関門ネメア(123.3km)を突破。しかしそこが限界で、嘔吐の連チャンでガス欠に陥る。全身疲労と猛烈な睡魔に抗えず、真夜中のガレ場の道を眠りこけながらフラフラ歩き、イバラの木に突っ込んで大流血。撤収作業をしているエイドにたどり着いた所で、自分からギブアップする。

    □2017年 8回目/164.5kmリタイア
     自ら編み出した「スパルタでやってはならないこと百戒」を唱えながら走る。はじめて第三関門リルケア(148.3km)を突破。その後も調子よく進んでいたが、標高1200mのサンガス山の登り下りで横殴りの暴風雨に遭い、夏山で遭難するおバカな素人登山者のように低体温症になる。瀕死の状態でエイドにたどりつき、全部の服をはぎとられ、おじさんに抱きかかえられてジ・エンド。

     ちょっとずつゴールに近づいてはいるものの、最長到達点からまだ80km以上も残している。その先でランナーを容赦なく襲うという、レース2日目の灼熱の太陽、いつ果てるともない無人の荒野と長い登り坂。課題をいくつも残しながら、完走にはほど遠い所に僕はいる。40代で完膚なきまでの敗戦つづきなのに、50代で勝てる可能性なんてあんの? ねえよ! 体力は落ち、頭にカスミがかかり、尿の切れも一段と悪い。つまり肉体的にはすでにジジイの境地。人生にミラクルというものはあるのだろうか。奇跡の権利カードを生涯3回くらい引けるのなら、そのうち1回を今年のスパルタスロンで使わせてくれ。ギリシャ神話の神々よ、もう後がないのでお願いします。  (つづく) 

  • 2018年12月10日バカロードその124 16歳の逃走その4 黄色い太陽

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=高校2年生の春休み、ぼくは3日間走りつづけて真夜中の高知駅にたどり着いた。段ボールを敷いて野宿していたぼくに声をかけたのはアル・パチーノ似の黒シャツ男。「ブローニュの森」という店へと誘われる。そこでは、全裸の男たちが身をくねらせ、男女が唇を吸い合う、世紀末的な退廃ムード漂う世界が広がっていた)

     男はグラスにバーボンを際限なく注ぎ足し、ナメられまいと熱い塊を喉に詰め込んでいるぼくの視界の中で、壁や照明がぐるんぐるんと回転しはじめた。
     「ブローニュの森」を出ると、まだ夜明けは遠く、霧雨がまとわりつく。階段の下で待機していたタクシーにふたたび乗せられる。男は「ぼくは店をやっているから、朝まで休んでいけばいいよ」とフロントガラスについた雨粒を遠く見つめる。
     タクシーは、小さな喫茶店の前で止まる。木製のドアを開けると照明の消えた喫茶スペース。小ぶりなカウンターに何席かのハイスツール。店の脇から階段が暗く伸びている。
     先に立った男について2階へと上がると、住居スペースらしき部屋がある。奥に二間続きの和室と、窓辺に小さな流し台。手前の部屋にはこたつがあって、奥の部屋との間はふすまで仕切られている。男は天井の蛍光灯、こたつ、テレビ、ビデオデッキ・・・と順に電源を入れていく。
     「おもしろいビデオがあるから観ない?」と言いながら、ぼくの返事に耳を貸すでもなく、デッキに入れっぱなしのビデオテープの再生ボタンを押す。男は、さほどビデオには関心がある風でもなく、流し台に取って返す。冷蔵庫から苺のパックを取り出し、一個ずつヘタをちぎり取り、水でよく洗う。白い皿に盛りつけ、たっぷりの練乳ミルクをかけて、こたつ机の上に置く。
     ぼくはビデオに集中する。
     ブロンドヘアの男性訪問販売員が、きれいに刈り込まれた芝生の庭を通りぬけ、瀟洒な邸宅に近づく。玄関のドアノッカーを叩くと、トビラを開けるのは褐色の肌をした美青年。年の頃は二十歳。広大なリビングルームに通された訪問販売員は、アタッシュケースを広げてセールスを試すが、視線をまっすぐ外さない美青年の魅力に抗することができない。二人は互いのシャツのボタンを外しあって一糸まとわぬ姿となり、肉欲の世界に溺れていく・・・という洋物エロビデオである。
     ぼくがそれを凝視している間、男はドリッパーに熱湯を注ぎ、2杯分淹れたコーヒーを手にこたつに座る。ビデオの感想を聞くでもなく、ビデオデッキの電源を落とす。会話がないまま苺をかじり、濃いコーヒーに黒砂糖を何個か落として飲む。
     しばらくの沈黙の後に、男はぼくに背を向け、おもむろに着替えをはじめる。
     シャツを脱ぐと痩せた背中が現れる。青いくらいの色白で、脂肪の欠片ひとつない。スボンを下ろすと、面積の小さな黒のブリーフをはいた尻が見える。
     スカイブルー色の上下のパジャマを取り出す。洗濯のりが効いていそうなパリッとしたシャツを羽織り、ゆっくりボタンを止めていく。部屋の境のふすまを開けると、奥の間はベッドルームだった。男は、ベッドにするすると潜り込むと、掛け布団を持ち上げて、こう言った。
     「こっちにおいでよ」
     事態は風雲急を告げる。
     人は死に直面した瞬間、目に映る光景がスローモーションとなり、あらゆる記憶が洪水のように脳のスクリーンに投影されるという。そのときのぼくには、確かにそのような現象が起こった。
     ---誘いを断ると、毒蛇のように襲いかかる男。やめてくださいと懇願するぼくにまたがり、衣服をビリビリに引き裂き、上気した瞳で見下ろしながら、若き身体を陵辱していく青パジャマ・・・。
     あるいは。恐怖がリミッターを超えたぼくは、流し台へとあとずさり、手にした包丁を男の下腹部をぬるりと刺す。青パジャマが黒く濡れ、足元に血溜まりが広がっていく。動転したぼくは、裸足のまま高知の闇夜へと飛び出す。パトカーのサイレン音が四方からこだまする街を、ぬめぬめした両手を壁になすりつけながら、路地裏を逃げ惑う・・・。
     それとも。甘美な男の誘惑に敗れ、ベッドへといざなわれたぼくは、押し寄せる快楽の予感にうめき声を漏らす。何かの儀式のように、あらかじめ定められたルートに従って舌を這わしていくアル・パチーノ。目を閉じ、腰を突きだして、十六歳の青春に別れを告げるいたいけな少年の頬につたう涙・・・。
     とにかく数分後の自分は、今の自分ではない。運命の荒波にさらされている。
     勇気ある冒険家ならば、自らの意思で、いずれかの道へ一歩踏み出すだろう。トビラを開ければ、そこには未踏の世界が広がっているのだから。
     だが現実のぼくは、走馬灯に映るドラマチックな演者とはほど遠く、ひたすらビビっているのである。
     「イヤですよ。こっちのこたつで寝ますよう」
     「なに言ってんの? ヘンな子だな。そっちじゃ寒いだろう。こっちで一緒に寝ようぜ」
     「そう言われても困りますって」
     押し問答がつづく。すると男は突如、さっきまでの柔和な仮面を外し、欲望の牙を露わにする。
     「おい、いいかげんにしろよ! 何のために今まで一緒にいたと思ってるんだ!」
     ぼくはその瞬間、理性というものを無くす。心臓の筋繊維が激しく収縮する。半鐘のごく打ち鳴らされ、全身の血管に大量の血が押し出される。手と足の20本の指先が痺れ、視界の奥に稲光がチカチカとまたたく。
     獣のスピードで男の上にのしかかり、パジャマの襟首を両手でつかんで、男の後頭部をベッドに叩きつける。言葉にならない唸り声を上げて、現時点での力の上下関係をはっきりさせる。
     抵抗する力を失った男の目は、気弱な山羊の目のように生気なくひからびていった。
     「ごめんなさい。もう言わないから、別々に寝ていいから、ごめんない」と半ベソをかいている。
     馬乗りにした男から降りたぼくは、こたつの部屋へと戻る。
     男は、天井の蛍光灯を消し、豆電球だけが灯る薄暗い部屋で、自分の過去についてぼそぼそと語り続ける。
     男性しか愛せないと気づいた学生時代のこと。愛した人との最後は、いつも一方通行な思いに支配されていたと思い知らされた日々。学校が春休みや夏休みになる時期に、一人旅の若者をハントするために、夜ごと高知駅へとでかけては声をかけて・・・声が消えていく。
     男は布団にくるまり、眠りについた。
     もう何も起こらなかった。
     夜明けは近く、ぼくはまんじりともせず、白けていく空を窓越しに見つめながら、人生というものについて少し考えた。昨日の夜、この男に出会ってから経った時間を指を折って数えてみる。6時間だ。本当に6時間なのか? 何日分もの時が過ぎ去ったように思える。
     夜が明ける。彼は流し台で顔を洗い、歯を磨き、脱いだパジャマを丁寧にたたむ。二人で部屋を出て、階段を降りる。階下の彼の店ではなく、近くの喫茶店へと歩いていく。モーニングを二人分頼むと、コーヒーにハムエッグがついてくる。「今からどこに行くの?」と聞かれたが、ぼくの頭の中には答えがない。果たしてぼくは、今からどこへ向かうのだろう。
     男の家に戻り、荷物をまとめて出発することにする。今いる場所がどこかわからないので、高知駅の方向を指をさして教えてもらう。
     店の前の道路で、この場にふさわしい別れの言葉が見つからずにいると、男は哀願するような顔になり「最後だからさわらせてくれる?」と言う。もう、これ以上、彼につらく当たることはできなかったので「うん」とうなづく。道ばたで股間をさわらせているのも変なので、店の中に引き返す。男はぼくの股間にそっと手をあてがい、しばらくそのままでいた。仕方がないので、ぼくはその間じゅう、店の白い壁を見つめていた。
     男と別れ歩きだすと、正面から射す太陽の光が黄色かった。
     「アレをやりすぎたら、太陽が黄いろーに見えるんぞ」と教えてくれたのは高校の同級生のカメオ君である。
     確かに、ぼくのマナコに映った太陽は黄色く、いつもより大きく見えた。黄色い太陽はさんさんと光の粒子を地上へと降らせ、街やぼくの輪郭は、その影響を受けてゆらめいていた。 (つづく)
     

  • 2018年12月10日バカロードその123 16歳の逃走その3 ブローニュの森にて

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=16歳のぼくは春休みを利用して「人類史上初」のローラースケートによる四国一周の旅に出た。しかし安物ローラースケートは出発からわずか5kmで車軸が割れタイヤが取れてしまう。仕方ないので、そのまま国道195号線を自分の足で走って高知を目指し、3日後の夜中に高知駅にたどり着く)

     真夜中の高知駅。野宿を決め込み、段ボール箱をつぶした寝床で熟睡していたぼくを起こしたのは、黒ポロシャツの男だった。腹をすかせた少年を案じて、男は虎巻きと缶コーヒーを買ってきてくれた。
     虎巻きを喉につまらせてむせ返るぼくを、心配そうに覗き込む。
     「何か食べないとダメだよ。駅の近くにさ、ウマいメシを食わせる店があるから、連れていってあげるよ」
     断る理由は特にない、と思う。
     今宵の寝床と決めた2階から正面玄関に移動する。男はタクシーを指さし、乗れとポーズする。田舎の高校2年生、めったにタクシーになんか乗らないので、VIP気分で少しうれしい。冷え切った身体に、温かいエアコンの風がブアーッと当たって、いっそう幸福な気分になる。
     路面電車の線路の凹凸が伝える振動。屋台を覆う赤や黄色のシートからこぼれる光。旅に出てからわずか3日間とはいえ、まだかまだかと思い焦がれた高知の街だ。
     知らない街で、知らない男と、行方も知らぬ車に乗ったぼくは、まさに「銀河鉄道999」の星野鉄郎そのものであり、街の灯を銀河の星々に見立てて頭の中で遊んでみる。しかし、隣のシートに座っているのは絶世の美女メーテル、ではなくて高知のアル・パチーノである。痩せぎすで彫りの深い男を、ぼくはアル・パチーノと勝手に名づけた。ゴッドファーザーのマイケル・コルレオーネじゃなくて、「狼たちの午後」のソニー役のアル・パチーノ。
     15分ほど走っただろうか。タクシーは迷路のような裏道に入り、右折左折を繰り返す。ヘッドライトの光の奥に朱色の看板が浮かび上がる。「ブローニュの森」という店名が書いてある。
     タクシーを先に降りた男は、ぼくを振り返りもせず、ビルの外に備えつけられた鉄階段を、カツカツ踵を鳴らしてのぼる。突きあたりのドアを慣れた感じで押し開け、狭い厨房スペースにいる人物と軽い調子で挨拶をかわし、カウンター席に僕を招く。
     これはいわゆるバー、あるいはスナック。マスターらしき人がいるからバーなのか。どっちにせよ16歳の僕としては、初めて立ち入る大人の空間だ。
     ぼくたち以外に客が2人いる。灰色の髪の毛をした四十代後半とおぼしき男性と、シルク生地のシャツを着た三十前後の栗毛の女。女は酔っているようで、首の位置が定まらない。男の腕は女の腰に回され、上半身が隙間なく密着している。
     アル・パチーノが尋ねる。
     「お酒、飲んだことある?」
     あるような、ないような。
     マスターがウイスキー瓶と氷の入ったアイスペールを運ぶ。
     「これバーボン。飲めるかな」
     氷のカケラを頑丈そうなグラスにひとつ落とし、琥珀の液体を注ぐ。
     高校生といえど男児であり、酒ぐらいでビビッていると思われたくない。ロックグラスを鷲掴みにし、一気に流しこむ。たちまち熱い空気の塊が、食道の奥から逆流する。むせ返りそうになるのを、歯と唇を閉めてこらえる。
     男はその様子を見てクックッと笑っている。
        □
     アルコールなんて胃に落としてしまえば、どうってことない。酒の極意を極めつつある頃、店内の照明がすうっーと落ち、アップテンポなバックミュージックが流れだす。店の奥にしつらえられたステージにピンスポットが当たる。ステージといっても幅、奥行きともに2メートルくらいの狭さだが。
     舞台上座の安っぽいカーテンをめくって、2人の男が現れる。
    筋肉質の男と、肥満腹を醜くたるませた男。2人とも薄いビキニパンツ1枚を着けただけで、ほぼ全裸である。
     音楽のリズムに合わせて奇妙な舞いがはじまる。不規則に手脚を交差させ、互いの指先をからませる。こういう振り付けは、何かのダンスカテゴリーに属しているのだろうか。いや、そもそもダンスという部類なのか。素人が当てずっぽうで身体を動かしているようにも見えるし、前衛的な舞踏を演じているようにも見える。
     ステージを凝視している視界の隅で、男は僕のグラスにバーボンをなみなみと注いでいる。
     BGMがサビにさしかかると、2人のダンサーはスパンコールつきの薄手のパンツを、お互いに脱がせあう。股間にむき出しになったのはやけに白っぽい男性器。ロウ細工のように白い。陰毛をぜんぶ剃っているからか。非現実すぎてプラスチック製の人工物のように見えるが、男の動きに合わせて揺れるそれは、やはり肉そのものである。
     筋肉質の男が上半身をくねらせながら、背後から肥満男の腰を両腕で拘束する。円を描くように腰をループさせ、たるんだ尻に非現実的な肉棒を突き立てる。肥満男は後ろにのけ反り、ウーウーと押し殺したような声を漏らす。
     ステージの背後を彩る紫色の間接灯が、ぼくの眼底へしのびこむ。視界は薄ぼんやりとし、目の前に展開されている光景が、違う惑星のできごとのように思える。
     隣の席の男女が背中に両手をからめ、キスしはじめる。他人のキスしている様子を、こんなに間近で見るのは初めてだ。舌と唾液がからむ音が聴こえてきそうなディープキス。
     アル・パチーノの顔が、ぼくの耳元にある。
     「酔った? 興奮してる?」
     ささやく吐息が、耳の奥の神経に届く。彼の手がぼくの股間に伸びる。手のひらがゆっくり収縮する。
     見栄を張って胃を直撃させつづけたアルコール度数45度のバーボンのせいか、それとも16歳の小僧には抵抗のすべもない状況に追い込まれているのか。ぼくはなされるがままになる。
     アメリカンポップなステージミュージックとは真逆の音楽が遠くから聴こえてくる。ビートルズの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」。ランカシャーの道路に空いた4000個の穴を数える男の救いがたい物語、そして退廃。
     耳たぶの横で、男のささやきは止まらない。
    「夜が明けるまでだいぶ時間があるからさ、よかったら俺の家に来ない? 美味しい苺があるよ」
     その瞬間、気づいた。
     ぼくはこの旅から脱けだせない。大人になって、他人に従属したり、社会に迎合したり、組織に組み込まれたりすることがあったとしても、きっとこの旅に出た自分を捨てることはない。
     股間が熱かった。はやく家に帰りたいと思った。                        (つづく)

  • 2018年10月16日バカロードその122 16歳の逃走その2 高校2年、夜の底で

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく) 

    (前号まで=16歳のぼくは春休みを利用して「人類史上初」のローラースケートによる四国一周の旅に出た。しかし安物ローラースケートは出発からわずか5kmで車軸が割れタイヤが取れてしまう。仕方ないので、そのまま国道195号線を自分の足で走って高知を目指すことにした) 

     日が暮れてから何時間たっただろう。昼に家を出てからずっと走っている。いったい今は何時なのか。時計は持っていない。
     上那賀町の中心街(現那賀町小浜あたり)の向こうからは、唯一の光源である街灯がなくなった。
     右側の森の奥からガサガサと獣が動く音がする。左っ側のガードレールの向こうは深く切れ落ちた谷になっている。トンネルが何本か続けて現れる。ゴツゴツと波打つ岩盤の表面にコンクリを吹きつけただけの素掘りのトンネル。薄暗い黄色のランプが灯り、いかにも心霊が手招きして待ってそう。壁に浮き上がった地下水のシミが、人の顔に見えてくる。トンネルの中は外気温より5度は低い。寒さと恐怖で膀胱がキュンと縮まる。
     こわごわ抜けたトンネルの向こう。背の高い木立の間の狭い夜空を、光の粒をぶちまけるがごとく星々が埋め尽くしている。キラキラというよりギラギラと電飾のように主張が激しい。
     木沢村と木頭村への分岐点の手前に、集会所みたいな建物があった。ひさしのある玄関先の地ベタに横たわる。両脚がジンジンと熱い。裸足になった足の裏を、ひんやりとしたコンクリートの床にくっつけると気持ちいい。
     それから安物の寝袋に頭までもぐりこみ、穴から目と鼻と口だけを出す。夜明け間近の空気は肌を刺す冷たさで、吐き出した息はたちまち白い蒸気となる。星の洪水が降り注いできそう。これが野宿というやつなんだな。16歳、初野宿。偉大なる冒険家への一歩となる夜だ。
           □
     目が覚めると、あたり一面が白い。朝もやの奥にうっすらと黄色い橋が浮かんでいる。国道195号と193号を分ける出合橋だ。ここで那賀川と坂州木頭川が合流している。出合橋の上から見下ろす2本の川面はぴたりと静止していて流れを感じさせない。広大な湖にいくつもの小島が浮かんでいるよう。
     木頭村へとつづく狭い一車線の道を走りながら、すっかりこの旅に慣れている自分の心境変化を実感する。昨日は終始、興奮気味であった。初めて自分の足で旅に出て、知らない道を夜中じゅう走り、道ばたで野宿した。人生初体験が怒涛のように押し寄せた。
     しかし旅も2日目になると、心はすっかり大人びており、そうそうの出来事では驚かないぞという冒険家としての自意識が芽生えている。
     何かに追い立てられるように走る必要もない気がして、もっとこの偉大な旅を楽しむべきではないかと考えるほど余裕が生まれている。
     ひと回り厚みを増した自らを表現すべく、道ばたで拾ったエロ漫画本を読書しながら歩くことにする。田舎の道にはけっこうな数のエロ本が落ちているのだ。
     すると道路から一段あがった所にある畑から、野良着姿のお婆さんが興味深げにこっちを見ていたので「こんにちは」と挨拶する。
     「ぼく、どこから来たんえ?」と聞かれる。阿南からですと答えると「遠いのに歩いてきたんえー、勉強しながら偉いでぇ」とひとしきり感心する。エロ漫画を読みながら歩いている様子が勤勉勤労の士・二宮尊徳とカブったのだろうか。
     「いや、まぁそんなとこです」とモゴモゴ返事する。お婆さんが「おにぎり食べへんかえ」と言うので、ほしいです、ほしいです、と懇願する。プラスチックの弁当箱から取り出された、何の変哲もない海苔を巻いたおにぎり。中には、ほっぺたの脇の唾液の出口がキリキリ痛くなるくらい酸っぱい梅干しが入っていた。昨日、同級生の福良くんのお母さんにもらったバナナを食べてからまる1日、何も腹に入れてなかった。
     見ず知らずの村人と出会い、施しを受けながら、歩みを進めるのもまた旅の醍醐味であろう。「テレレレッテッテレー♪」と経験値のあがる効果音が聴こえた。
     大きなおにぎりを食べると、この旅に出てはじめての便意を催してきた。むろん木頭の山奥に公衆トイレなどない。崖側のガードレールをまたいで擁壁を両手両足を使って下り、杉の葉が降り積もった森で脱糞する。「テレレレッテッテレー♪」人生初の野グソでレベル5に昇格である。
     ぐねぐね道を右へ左へと曲がり峠道を登っていく。四ツ足峠トンネルの入口にさしかかると、2回めの日没がやってくる。「虎が出るので気をつけろ」と注意を受けた四ツ足峠トンネルだが、むろん魔物が現れたりはしない。それよりもこんな山奥に2kmもの穴を、戦争が終わって10年しか経たない頃から掘りはじめた土建屋のおじさんたちの熱量に感心する。こっちは走ってるだけでも大変なのに。
     トンネルの真ん中に徳島と高知の県境がある。徳島を脱出するのに、自分の足なら2日もかかってしまうのかと、その広さに改めて驚かされる。
     「十代のカリスマ」と呼ばれるロックシンガーたちは、生まれ育った場所を「こんなちっぽけな街」と歌い、飛び出さなきゃとアオる。だけど、端っこまで自力で到達するにはこんなに苦労しないといけない。しかも先人が原野を拓いて築いた道を使い、山ひだを掘り抜いたトンネルをくぐって。「生まれた街、あまりちっぽけでもないよなあ・・・」。筋斗雲に乗って地の果てまで行ったら釈迦の掌の上だった、みたいな気分。
     トンネルの出口からはひたすら下り坂。テケテケ走っているうちに精も魂も尽き果てたって状態になる。2泊目の寝床は、クワやトンガなどの農機具やコンテナが山積みにされた農作業小舎。バス停も兼ねているみたい。ベンチには座布団が敷いてあって温かい。今夜は熟睡できそうだ。
     ローラースケートを履いて旅に出たのが昨日のこととは思えない。遠い昔の記憶のようだ。
           □
     3日目は何ごともうまくいかなくなった。足の裏がグニョグニョするので、靴下を脱いで覗いてみると直径5センチの水ぶくれができている。いったいこれは何なんだ? 変な虫にでも刺されたのか。この頃のぼくは、長距離を走ればできるマメだと知らなかった。怪しい病気にかかったのかと気分がふさいだ。
     一度目にすると気になる。休憩のたびに裸足になって足の裏を注視する。水ぶくれは1個だけじゃなく指先や指の間に7つも8つもできている。一番大きいのは靴を脱ぐたびに大きさを増し、次第に真っ黒に変色しはじめる。これは血なのだろうか。両足とも水ぶくれだらけで、地面に着地すると稲妻のような痛みが電流となって脳天に届く。それはそれは痛い。
     ここにきて、旅のロマンだの冒険家としての自意識の芽生えなどはどうでもよくなり、歩いても歩いても縮まらない「高知○km」の道路標識を呪いはじめる。
           □
     高知駅にたどり着いたのは夜の10時頃だ。公衆トイレに入って鏡に映った自分を見ると、乾燥しきった髪の毛がボサボサと空中に逆立っている。メガネを外すと、フレームの跡を白く残してデコや頬っぺたが赤黒く変色している。可愛く言えばパンダ、実際んとこはドリフのコントに出てくるホームレスなおじさん顔。
     あまりに薄汚いので風呂に入りたくなり、駅前で立ちタバコをしていたタクシーの運転手に近場の銭湯を教えてもらう。駅のすぐ裏手にある時代がかった銭湯で汗とアカを流す。銭湯を出て、野宿ポイントを探してうろつくが、高知駅の周辺には適当な場所が見当たらず、ボロい駅舎に戻る。
     1階の待合室に、ヌシのように腰掛けているホームレス風情の爺さんを発見。髪の毛ばかりか顔中が白髪で覆われている。何となくこの人の許可が必要な気がして「寝れるとこないですか?」と話しかける。眼光鋭くこっちを見返した仙人爺さんは「君、幾つ?」と問う。「16歳」と答えると「いい場所があるので少年に提供してあげよう」と先に立つ。
     照明の消えた2階への階段を登った先は踊り場になっている。脇の土産物店は営業終了している。ここなら朝まで誰もやってきそうにない。確かにベストポジションである。仙人爺さんは「敷き布団にしろ」と段ボールをくれると、余計な会話は不要だとばかりに、きびすを返して去っていった。
     過去2日の寝床に比べると天国のようだ。寒風は吹きつけないし、夜露に濡れる心配もない。3日ぶりに入った風呂の石鹸の匂いが心地よい。
     眠りに落ちて何時間たったのだろう。数分なのかもしれない。目が醒めると、仰向けに寝ている枕元に人の影がある。両方の膝に肘をつき、しゃがみこんだ姿勢で、こっちの顔を覗き込んでいる。歳の頃は三十代後半。黒いポロシャツによく刈り込んだ短髪の男。
     「大丈夫?」と話しかけられる。
     どの点を確認しているのか不明だが「ダイジョウブです」と答える。
     「どこから来たの」
     「徳島からです」
     「サイクリストなの?」
     「いえ走ってきました」
     「ふーん、変わってるね」
     方言ではなく標準語を使っている。ぼくが晩ごはんを食べていないことを確認すると「ちょっと待ってて」と階段を駆け下りていく。10分もしないうちに戻ってくると、熱い缶コーヒーと和菓子の虎巻きパックを床に置いてくれる。「食べなよ」と言う。
     喉が乾きすぎていて、虎巻きの生地が唾を持っていってしまい、無理に飲み込んだらゲホゲホとむせ返る。喉につまった虎巻きを缶コーヒーで流しこもうとしたら、熱すぎて目を白黒させる。
     「ホントにダイジョウブなの?」
     男はぼくの前髪に人差し指を当てると、髪をかきわけ、手のひらを額に当てる。「熱はないか・・・」。血管が浮くほど痩せた前腕。手首から香水のいい匂いがする。心なしか男の視線が熱い。      (つづく)

  • 2018年10月16日バカロードその121 16歳の逃走その1 暗闇にバナナ抱えて

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)
     人類はいま自分たちを地球の盟主と信じこみ、原油を掘り尽くし、魚を底ざらえし、ミサイルぶっ放したりと、やりたい放題やっている。まとこにヤバい種族に神は智慧の実を喰わせてしまったものである。

     46億年の歴史がある地球で、たかだか10万年生き長らえただけのホモ・サピエンスが覇王気取りなのはおごり以外の何物でもない。それに10万年どころか、近代文明に属する人間が地球のあらましを目撃しだしのは、たかだか500年前からなんである。
     ヨーロッパ人が北米大陸に到達したのは1492年、オーストラリア大陸へは1606年。全大陸の形を大まかにとらえた世界地図が初めて描き上げられたのは1500年代後半から1600年代中盤にかけてのメルカトルやブラウの時代だ。この頃になって人類はようやく、地球全体の土地と海がこんな形になっているという認識を持った。
     それから400年後の1969年、地球以外のよその天体である月にアームストロングとオルドリンが降り立つ。地球の重力圏を離れた星に人間が初上陸するのは、次に火星と大接近する2035年だろうか。
     人類の悪行はとりあえず置いといて、近代史500年は輝かしき探検と冒険の歴史でもある。新大陸発見をメインイベントとして、大陸の先っぽを廻り込める新航路や、運河を掘れる地峡の発見は、西欧型の文化や思考を地球の隅まで拡げるのに役立った。
     経済的利益を求めた探検の時代は、大陸と航路を見つけ終わると徐々に終焉する。すると探検はアドベンチャーと呼ばれだしスポーツ化していく。北極点、南極点、世界最高峰への到達は、名誉と名声を懸けて行われた。これらモンスター級の目標物を攻略すると、人々はバリエーションを競うようになった。無酸素、無補給、無寄港はいいとして、最高齢、最年少、女性初、女性最高齢、少女初・・・と細かくなってくると、値打ちがあるんだかないんだか、よくわからない。
     大雑把に言えることは、ヴァスコ・ダ・ガマも三浦雄一郎もイーロン・マスクも、みな他人に誇れる「人類初」のポジションが魅力に映っているってことだ。
         □
     これら偉業をなしとげる人類の皆さんとはまったく縁遠い、四国の田舎の片隅で、高校2年生の僕は壮大な遠征計画を立てていた。
     ローラースケートによる四国一周、である。自転車で四国一周した人は数えきれないほどいるだろうし、一周に等しい八十八ケ所巡りのお遍路さんは歩きが基本。でも、ローラースケートなら前人未到に違いない・・・というスキマ狙いの着想である。
     草刈りのバイトくらいしかしてない16歳に貯金はあまりないので、一流メーカー物のローラースケートは買えない。そこでチャリ通学途中にある怪しい品揃えのホームセンター・・・戦国武将の鎧甲冑や、中世ヨーロッパの剣、ツキノワグマの剥製に数十万円の値札をつけ堂々と陳列しているような、いわゆるバッタ物屋にて入手した。メイド・インどことも書いていないローラースケートは、2980円とお求めやすい価格であった。
     冬休みが明けると、放課後はローラースケートの練習に充てた。今も当時もローラースケートなんてやっているのは小学生までが相場であって、高校生にもなってシャーシャーと道路を走っているのは恥ずべき行為であったが、「人類史上初の冒険」というお題目が羞恥心を消した。
     特訓3カ月。3学期の終業式を終えて午前中に帰宅すると、あらかじめ用意してあった荷物をリュックに詰め込み、すぐさま家を出た。リュックの中身はこれらだ。
     ・寝袋(1980円)は先ほど説明したバッタ物屋で購入。
      ・ヘッドランプ(3000円くらい)は、徳島大学常三島キャンパス前にあった「リュックサック」という登山用具専門店で購入したちゃんとした登山メーカーのモノ。
     ・防寒用の毛糸の帽子(マネキで買った安物)。
     だけである。こういう長期間の旅に何が必要かは、考えてもよくわからなかったのである。地図すら持ってはいない。
     阿南市内にある自宅からは、国道195号線をひたすら西へ西へといけば高知市に着くだろう、という当てずっぽう。とりあえず道路標識に書いてある「鷲敷」を目指すことにした。
     「ああ、今から僕はどうなってしまうんだろう」などと人生初の冒険旅行に心打ち震えていたのは最初の10分である。出発して1kmもしないうちに登り坂がはじまり、自分に陶酔する余裕はなくなる。ゼエゼエと息は荒く、汗だくになるのだが、ローラースケートはぜんぜん登り坂を進まないどころか、足を休めると後ろに下がっていってしまう。バッタ物屋で買ったローラースケートは片足1キログラム以上はあって鉄ゲタのように重く、着地のたびにガチャガチャとうるさい。
     思えばローラースケートの特訓は、近所の平坦な道をシャカシャカ転がしてただけで、登り坂の練習なんて一度もしていなかった。
     それでも地味に30センチずつ前進し、周囲の景色が山だらけになってきた頃、ふいにローラースケートの底がガリッと音を立てて地面につき刺さり、つんのめってコケそうになる。下を見ると、なんと片側の車輪が取れているではないか。
     ちょちょちょい! 壊れるん早すぎるって! まだ家から5kmも進んでないって!
     外れた車輪を力ずくで車軸にねじ込んでもグラグラしていて、走りだすとすぐに外れてしまう。修理をする工具など用意しておらず、仮に工具があったとしても、車軸からポッキリ割れているので修理しようがない。想定全長1000kmに及ぶ旅は、わずか5kmで頓挫したのである。
     壊れたローラースケートを道ばたのバス停に置き去りにし、僕は走りだす。とつぜん「前人未到の偉業」がついえてしまい、どうすればいいかわからなくなり、走るしかなくなったのである。
     旅をやめるという選択肢はなかった。春休みはまだ10日以上ある。目標はないけど、どこかに向かって進むしかない。
     ローラースケートを捨てると身軽になり、苦悶していたさっきまでと打って変わって、坂道をぐんぐん登れる。阿瀬比トンネルを抜けると道は平坦になり、気持ちも落ち着いてきた。旅ってけっこう楽しいんでない?  僕は変わり身が早いのである。
     鷲敷と相生の街を抜けると、すれちがう小学生たちが物珍しそうな顔でこっちを見ては「さようならー」と挨拶してくれる。
     道ばたの田んぼのあぜ道で、おばあさんが中腰のままスボンを膝までおろし、股の間から後方にシャーッとオシッコをはじめる。女の人の立ちション姿は生まれて初めて見た。
     自宅からたった数時間移動しただけで、別の世界にやってきたかのようだ。
     憧れの人たちと自分を重ね合わせる。冒険家・植村直己は犬ぞりで北極点を目指し、22歳の上温湯隆はラクダを引いてサハラ砂漠を横断しようとし、青年藤原新也はカメラ片手にインドを放浪した。そして16歳の僕は今、相生でおばあさんの野ションを見ているのだ。「これが旅というものなんだ」と感動にひたる。
     川口ダム湖を過ぎると、夕暮れに空が燃えていた。
     後ろから脇を通り過ぎた軽自動車が急ブレーキを踏み、路肩で停まった。左右のドアが開くと、高校の同級生の福良くんが顔をのぞかせた。運転席から下りたのはお母さんのようだ。
     わけのわからない旅に出た同級生の心配をして、50kmも車を走らせて探しあててくれたのだ。
     「これ持っていき」とお母さんが差しだした袋には、ジュース2本とお菓子とバナナ1房が入っていた。
     「ほんまにこんなところまで来たんか。死んだらあかんぞ」と福良くんは言う。
     「死なんだろ」と僕は答える。
     福良君とお母さんは長居することなく、車をUターンさせて帰っていった。さみしい気持ちになって車が消えるまで見送った。
     川口ダムから西は民家が少なくなり、完全に日が暮れるとすれ違う人もいなくなる。街灯のない暗い夜道を走っていると、お母さんが去り際に残した言葉が頭にこびりついて離れない。
     「このまま高知に行くんだったら、木頭を越えた所にある四ツ足峠でトンネルに入るんやけど、ほこには虎が出るけん気をつけて」
     意表をついた情報に、ぼくは「トラ?」と聞き返したが、親子はうなずくばかりで何も答えてはくれなかった。
     (日本に虎やおるわけないでえな)と常識ではわかっているのに、頭の中には黄色と白のシマシマ模様で、牙をむいて迫ってくる虎のイメージが、どんどん輪郭を強めていく。
     街灯ひとつない漆黒の国道195号線。
     目を開いても閉じても、なんにも見えない深い闇のなか。僕は虎の恐怖におびえて背中に冷たい汗をかきながら、重いバナナを1房抱えて走り続ける。 (つづく)

    ---------------

    (最近のできごと)7月、みちのく津軽ジャーニーラン(青森県)、188kmの部に出場。初開催から3年目だが、263kmの部と合わせると350名が出場するという、200kmクラスの超長距離レースの大会としては国内最大級の規模に成長している。188kmの部は、弘前駅前公園を朝6時に出発。制限時間は38時間で、翌日の夜20時までに弘前市内の大型ショッピングモールの玄関に用意されたゴール(目立つのでまあまあ恥ずかしい)に戻らなくてはならない。
     レース当日は、早朝から雲のない日本晴れ。コース上に日陰はなく、直射日光がお肌をチリチリ。左右対称の完璧な三角錐を描く岩木山のフチをぐるりと廻り込み、38kmあたりで白神山地の麓にある観光用の遊歩道へ足を踏み入れる。昼には気温33度まで上昇し、決壊したダムのごとく汗がドバドバ濁流となって落ちる。序盤にして暑さにやられ、早くもグロッキー状態。白神の森を抜け出した所でバッタリと仰向けになって天を仰ぐが、寝ていても何も進展しないのでノロノロ起きてまた走りだす。
     55kmでいったん日本海に面した漁港へ出て、すぐに内陸へと再突入する。青い稲穂が揺れるだだっ広い平野を貫く一本道を、太陽に焼かれながら北上する。90km付近から海のように広大な「十三湖」の湖面が右手に。ここはシジミの名産地だけど、シジミ汁を出してくれる有名店は夕方早々に店仕舞いしていて、何にもありつけはしない。
     日がとっぷり落ちた夜8時過ぎ、104kmの大エイド「鯖御殿」に着く。ここは食事スポットでカレーライスや筋子丼など、工夫を凝らした地元グルメを用意してくれている。しかし疲労からか、何も喉を通らない。
     コースの半分を過ぎ、残り78kmしかないので、ぼちぼちお気楽ムードに浸ってもよさそうなもんだが、そうは問屋が卸さない。大エイドを出てからゲロ吐きがはじまると悪戦苦悶。朝から腹に入ったのはメロン2カケとガリガリ君の梨味2本くらいで、ゲロ吐きによって更にエネルギー供給が止まり、ハンガーノックに陥って脚が動かない。人目のつかない道ばたで、潰れたカエルのようにみじめに地に伏しては「5分だけ、10分だけ」と休憩時間を延長しつつ、夜道をさまよう。
     朝日がのぼると灼熱びよりは相変わらずで、木陰のない道にできた黒い自分の影を追いながら、魂の抜けた屍となってふーらふらと進む。
     黒石駅前のレトロな街「中町こみせ通り」は、藩政時代に造られた木造のアーケードが印象的。ここで177km。エイドで黒石名物「つゆ焼きそば」を出してくれ、レース始まって以来の固形物をとると、胃の中でエネルギーが炸裂し、急に足が回転しはじめる。って今ごろ絶好調の波が来るなよ。残り10kmしかないんだよ、手遅れでやんす。
     けっきょく188kmに31時間27分もかかってしまったが(目標は28時間)、参加150人のうち15位と順位はよろし。みなさん暑さに潰れたのでしょう。
     ゴールすると、スタッフの方が「(エイドの食事用に用意していた)筋子が大量に余っていて、白米はないんだけど欲しい?」というので、ショッピングモールのスーパーに駆け込みパック入りの白ごはんとビールを調達。見たこともない巨大な筋子を乗っけて、米に食らいつく。しょっぱい筋子が喉を落ちると、塩分が抜けきった全身の細胞に、血流に乗ってドクドクと運ばれるナトリウム。「塩しびれるー!」と叫ぶ僕を、距離を置いて取り巻いていた子どもたちが、怪訝な目で眺めていた。

  • 2018年09月01日バカロードその120 逃走しよう!

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく) 

     人類は生まれながらにして、できるだけ遠くへと歩いてくように遺伝子にプログラミングされている、と思う。移動を続けながら、野生動物を子どもから育てて飼いならすことを覚え、植物のタネをまいて実を収穫し、食料事情を安定させる方法を発明した。食い物に困らない環境がつくれた土地で定住を決める。いったん決めてはみるんだけど、いつかはその場所から移動をはじめる。

     集団の中でいさかいごとがあって、負けた人たちが追い出されたり、場に溶け込めない風変わりな人間が一人で荒野にさまよい出たり。男女の駆け落ちもあれば、オキテを破った者の逃亡もあるだろう。
     もろもろ理由のいかんを問わず、人類という大きな種族のかたまりは移動に移動を続け、アフリカ中央地溝帯の南のはしっこあたりから南米パタゴニアの隅っこまで、3万5千kmほどの道のりを歩いて旅することになる。
     サルから人間に近づくまでに10タイプくらいのヒト属種がいたけど、とりあえず僕たちの祖先であるホモ・サピエンスは、理由はわからないけど7万年前に、アフリカから北へ北へと歩きはじめた。アフリカから南米まで3万5千kmって途方もない距離なんだけど、7万年を平均すると、1年に500mしか移動してない。原始狩猟時代の先祖は、狩りのために1日20kmも30kmも走って動物を追い詰めたようだから、1年500mなんて距離は、自分が北上・西行したことにすら気づかない微々たる変化だろう。
     ご先祖たちは、それまでの定住地よりも果実がたくさんとれる森や、おいしい肉をぶらさげているヌーやツチブタを追いかけながら、知らず知らずのうちに地中海とベーリング海峡を渡り、その先には荒れ狂う氷の海しかないマゼラン海峡にまで行き着いた。
     厳しい旅で鍛えられた人類は、雨が1滴も降らない砂漠や、大蛇と大サソリがうごめく密林や、凍てつく永久氷床の上と、どんな環境にも適応し、地球という天体の陸地のほとんどを生存拠点とし、種の繁栄を実現した。こうやって、人類は偉業をなし遂げたわけだけど、先頭を切って移動をしつづけた人たちは、誰も「そうしたくて歩いていったわけではない」と思う。
     よその家族の乾燥肉をかっぱらったり、ボスの留守中に嫁とちちくりあったりして、もろもろの悪さをした結果、石をぶつけられて集落から追われ、仕方なく5km先の洞窟で身を潜めて生きながらえた、といった「村八分」型の移動が多かったはずだ。移動の先陣にいたのはハグレ者なのだ。
     集団を統率できる知性と身体能力に富んだ人は、7万年前でも女にモテただろうし、わざわざ集団を離れる理由はないものね。
     だが逆に、長年にわたって少集団の定住が固定化されると、血縁者同士による交配が増え、おのずと健康上の問題が生じて、集団が危機に瀕することもあっただろう。
     つまり人類は、近親交配による絶滅へのリスクヘッジと、酷暑・極環・風土病などの悪環境に適合していく尖兵役を「村から追い出されたヘボいヤツら」に託し、遺伝子を地球の隅々まで運んだことになる。
           □
     前置きが長くなったけど、僕が言いたいことはひとつなのだ。
     「昔っから社会に適合できないバカは、遠くまで歩いていきたくなる」
     これは、ひいひいひいひいひい×3500回の爺さん、婆さんあたりから受け継いだ宿命であり、クセなのである。だから避けようがないのだ。
           □
     さて人類のお話から、僕個人の話に矮小化する。
     僕の逃げグセはひどい。世の中の多くの人が真剣に向き合っている行事に対して、僕はマトモに取り組んだことがない。
     大学には行ったけど1日でやめてしまい、就職活動といえばバイト面接以外は一度もしたことがない。嫌なことを耐えたり、我慢してやるという日本人的な感性を持てない。目上の人を敬ったり支えたり、目下の人を慈しんたり育てたりという道徳心がない。
     今いる場所から逃げだしたい、遠くに逃げたいとばかり考えている。
     精神病理学上はスキゾフレニアってやつ、つまり分裂病だ。昭和のニューアカデミズム用語でカッコよくいえばスキゾキッズ。要するに、閉じられた空間のなかで蓄積された成果や人間関係に自分の位置を見いだすことに価値を感じられず、既存の枠組みから逃走したくてしたくて、理由もなく病的にしたくてたまらない人のこと。
     一方で、社会常識を推測する能力くらいはあるので、地の欲望を解放すると完全に無法者となってしまうのを理解している。だから、ふだんの生活では抑圧に抑圧をつづけている。平日には一般市民らしく行動・言動し、道路や廊下の隅をできるだけ小さくなって歩いている。
     他人にはまず理解してもらえない逃避グセをガス抜きするために、週末にはウルトラマラソンの大会(100km~500kmほどを走る)に出たり、ひとりで数百km先まで走りにでかける。
     これらは逃避の代償行為である。あくまで疑似餌であって、本当のエサではない。
     自分にウソ偽りなく心のおもむくままに行動するのなら、行くあてもなく街を離れ、何の目的もなくさまよい、誰も知らない誰もいないところまで移動しつづける・・・のがあるべき姿である。
     しかし、測位衛星がぐるぐる周回する現代の地球には、誰も知らない場所なんて1ミリもないのである。Google Earthにはチベットの山襞の1枚1枚、グリーンランドの氷河湖の1粒1粒まで詳細に映し出されている。そんな辺境に定住者はいないとしても、人間の目に晒されていない土地はもはやなく、今後もテクノロジーの進化が未知性を引き剥がしていく。
     7万年前、村の決まりを守らずに棍棒で殴られ、土くれしかない不毛の地に追い出されたバカ男は、寂しかっただろうがトキメキもあったと思う。その先には何もなく、自分を抑えるものはなく、誰も知らないだだっ広い荒野が、あるだけなのだから。
     僕はそんな村八分男の、ちょっとしたマネごとをやってみたいのである。 (つづく)
    ---------------------------
    (できごと) 6月、サロマ湖100kmウルトラマラソン(北海道)に出場。9時間切りをめざして序盤50kmを4時間26分08秒で入る。ところが「人は飢餓状態におかれると本来の能力が目覚める」という何かの本に書いてあったことを試すために、スタート時刻前の20時間メシを抜いたせいか、50kmすぎから超絶ハンガーノックになりふらふら。またベスト体重58kgに合わせようと前夜に宿のサウナで2kg絞り、おかげで目まいもひどい。あえなく撃沈し、結果は9時間49分39秒。皆さん、レース前はごはんをしっかり食べましょう。

  • 2018年09月01日バカロードその119 めざせ難関サブナイン! 

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     歳を取るのをありがたがる人って少数派だと思うんだけど、ぼくは老化が進むのって便利だなあと、日々感心している。人体や脳みそには、人間をラクに老けさせていく機能がインプットされているようなのだ。

     老化によるボケは、深刻な認知症ともなれば周囲を混乱に巻き込んでしまうが、一方で老女を可愛らしい乙女に退行させたりして、現世のあらゆる悩みから心を解き放ち、死への恐怖を軽減させてくれる。
     どっちに振れるかは自身ではコントロール不可能な領域なので、なるべく周囲に疎ましがられないようにボケたいと願う。
     他者との介護上の関係性はさておき、個人の脳内だけの変化を分析するに、老化とともにあらゆるものがどうでもよくなってくる。大まかには「衣食住」への執着がなくなる。若かりし頃に大切に思えた、おしゃれな服を着て、おいしいものを食べて、すてきな暮らしを営む・・・ことの値打ちが目減りしていく。
     ほら、農山村で生活してる高齢のご老人いるよね。何十年も前に買ったありあわせの服を着て、食事はわずかな白米に漬物と梅干しがあれば良し、家は多少の雨漏りやムカデの繁殖くらいなら容認。そういう達観状態に近づいていくのである。座って半畳、横になって一畳以上のスペースは、生きてくうえでは本来必要がない。広すぎる家は、掃除が大変なだけである。
     小皿にちょっとだけ盛られた懐石料理や、大皿にちょっとだけ盛られたフランス料理をありがたがる繊細な舌は元々ないが、加齢とともに一層舌の鈍さは増す。一方で、ガリガリ君やパピコのおいしさはこの世の天国に等しい。70円少々の出費で満足しているのだから、それ以上を求める必要がない。
     どんな仕立てのいい服やブランド物を着てようと、見栄えで人の本質は変わらないと経験から学んでいる。肩書きや立場の良し悪しが人の価値とは比例しておらず、どっちかいうと立場が上の人ほど浅ましいことも。人間は、経歴や所属や資産で身を飾りたがるが、しょせんはうたかたの物である。
     必要以上のゼニカネや人様からの評判を溜め込もうと気を尖らせても仕方がない。カネも名誉も、棺桶に入れてあの世に持っていけるものは何もない。他人からいいね!ともてはやされる人を目指すと日々切羽詰まってくるが、ふだんから薄汚いバカ者だと誰からも相手にされていないなら、何かと気楽である。人の価値なんて、スーパー銭湯の脱衣所でスッポンポンのフリチンになったときに「どんだけのものなの?」を示せればいいのだ。
         □
     このように、あらゆる点で年寄りは若者を凌駕しておるのじゃが、唯一難点がある。身体的な能力の低下だ。
     歳を取れば健康上の諸問題が押し寄せてくる。しかし身体のどこかに慢性的な痛みがあっても、若い頃なら「何か深刻な病気のサインか」などと気をもむが、五十も過ぎれば「どうせどこかは痛いし、あと何年かしてあの世に行くまでのことだから」と素直に痛みを受け入れられる。病というものは不思議なもので、あれこれ悩みを深めていると進行が早まるが、気にせず笑っていると知らぬ間に治っていたりする。
     何ごとも、あるがままを受け入れると楽ちんなのだが、唯一、ランナーたる自意識がそれを邪魔する。
     「昔出したタイムで走れなくなった」「あの大会を完走できなくなった」とレースのたびに肉体からダウン提示が出され、ガックリ落ち込んで帰路につく。
     この執着心だけは消しようがない。「今年あの記録を出せなければ、来年からはきっと下降ラインに乗って二度と出せない」という強迫観念に迫られる。仕事がどんなにコケていても大して悩まないのに、ただの趣味で苦悶する。バカである。しかし、こればかりは心が勝手に動くのであって、理知的に対応できない。
    加齢の進むランナーは、「今年が体力のピークかもしれないから、今年だけはタイムに固執したい」「今年がラスト勝負なんだから、全身全霊で向うのだ」と毎年のように強く思っているのである。バカである。
         □
     ぼくもその性から逃れられない。今期前半の最大目標は、100kmマラソンで9時間を切る「サブナイン」としている。自己ベストは9時間40分で、我が身をかえりみず上方修正しすぎの目標値であるが、そうしたいのだから自分でも止めようがない。
     あるウルトラマラソンの情報サイトには(世の中にはどんな狭いジャンルにもマニアがいて、対価を求めない奇特な努力で情報提供をしてくれるのである)、100kmで9時間を切れるのは全ウルトラランナーのうち3%、それが50代以上となると1%を切る、と書かれている。
     そのサイトには統計的根拠が示されていなかったので、自分で調べてみることにした。日本の100kmマラソンの頂点にある大会といえば、6月に北海道で行われるサロマ湖100kmウルトラマラソンであることは多くが認める所だろう。記録表が入手できた2014年から2016年まで3年間のサロマのゴールタイムの分布を調べてみた。

    □男子出走者のべ8430人中
    6時間台 30人(0.4%)
    7時間台 97人(1.2%・8時間未満計1.6%)
    8時間台 293人(3.5%・9時間未満計5.1%)
    9時間台 774人(9.2%・10時間未満計14.3%)
    10時間台 843人(10.0%・11時間未満計24.3%)
    11時間台 1444人(17.1%・12時間未満計41.4%)
    12時間台 2681人(31.8%・13時間未満計73.1%)
    リタイア 2268人(26.9%)

     サブナイン(9時間未満)の比率は5.1%である。また多くの市民ウルトラランナーの目標とするサブテン(10時間未満)は14.3%である。分布率からフルマラソンの難易度に当てはめると、サブナインはフルマラソンの3時間10分切り、サブテンは3時間30分切りに相当しそうだ。ただしサロマ参加者は「100kmを完走できる」というフィルターを通した中級以上のランナーであり、誰でも彼でも出ているフルマラソンの達成率よりはゆるく出ているだろう。
     2017年のサロマでは、55歳以上372人のうちサブナイン達成者はたった3人しかいない。こと55歳以上に限るとサブナイン達成率は0.8%まで下がる。
     (サロマでは年齢刻みが45歳~55歳という区分なので、50歳以上に限定したデータは取れなかった)
         □
     では、ぼくが目標とするサブナインを達成した人々は、どんなペース配分で100kmを走ったのか。
     2017年サロマでは、8時間50分から9時間未満の10分間に24人がゴールしている(左ページ表を参照)。それぞれの選手の10km、フル、50km地点の通過タイムを洗い出してみよう。
     まず10km地点では24人のうち最多の6人が47分台、次いで多い5人が51分台で通過している。

    □10km通過タイム
    最速 44分25秒
    44分台 1人
    45分台 2人
    46分台 1人
    47分台 6人
    48分台 2人
    49分台 3人
    50分台 3人
    51分台 5人
    52分台 1人
    最遅 52分10秒

     100kmを9時間ちょうどでゴールするためのイーブンペースは1km5分24秒、10kmでは54分ジャストである。もちろん100kmの長丁場を同じペースで走りきれる人はいない。後述するが、前半50kmまでに15分から30分ほどの貯金が必要である。中間地点のイーブンタイムは4時間30分。15分の貯金を作るとして4時間15分。これをクリアするためにはキロ5分06秒、10kmを51分で進む必要がある。
     入りの10kmを47分台とした人たちは、サブナインより上の目標を設定し、後半潰れてしまったか、もしくは前半50kmで30分ほどの余裕を得て後半のプレッシャーを抑えようとしたか、どちらかだろうと推測する。
     入りが51分台の方々は、まさにサブナインを出すために理想的なタイム配分をし、計算どおりに最後まで走りきったクレバーな方々だろう。
     次にフルマラソン地点(42.195km)の通過タイムを分析しよう。

    □フル通過タイム
    最速 3時間12分55秒
    3時間10分~14分59秒 1人
    3時間15分~19分59秒 3人
    3時間20分~24分59秒 3人
    3時間25分~29分59秒 13人
    3時間30分~34分59秒 2人
    3時間35分~39分59秒 1人
    3時間40分~44分59秒 1人
    最遅 3時間40分14秒

     タイムにばらつきがあった10km地点に対し、面白いほどの集約が見て取れる。24人のうち半数以上となる13人が3時間25分~29分59秒の5分幅で通過しているのである。
     これはひとつの黄金法則ではないか。
     「サブナインを達成するには、フルをサブ3.5ギリギリで通過すること」
     と言っても残り距離は58kmもある。全力を出してサブ3.5を切っても仕方がない。口笛吹けるくらいの余裕をもって3時間半以内にフル地点を通過しないと、サブナインには至らない。
     24人のうち最も遅い人は3時間40分14秒。これより遅くなってしまえば戦線離脱と言っていい。
     中間点である50km地点も見てみよう。

    □50km通過タイム
    最速 3時間52分31秒
    3時間45分~50分未満 1人
    3時間50分~55分未満 2人
    3時間55分~4時間未満 0人
    4時間00分~05分未満 6人
    4時間05分~10分未満 8人
    4時間10分~15分未満 5人
    4時間15分~20分未満 1人
    4時間20分~25分未満 1人
    最遅 4時間22分33秒

     いったんフル地点で足並みが揃ったものの、わずか7.8km先でバラけている。これは多くの選手が、フル地点での目標値をサブ3.5に設定しており、中間地点までは少しペースを緩める人が出てきたということか。
     24人の平均値は4時間6分29秒である。平均値を元にキロあたりペースを計算してみよう。サブナインランナーたちは、前半50kmをキロ4分56秒、後半50kmをキロ5分47秒でカバーしている。ごく単純にイメージするなら、前半50kmをフルサブ3.5ペース、後半50kmをサブフォーペースで押していければサブナインを達成できる。
     最も遅く通過した4時間22分33秒のランナーは、8時間54分28秒でゴールしている。7分27秒の貯金を中間地点で持ち、最後までほとんど貯金を減らさない(5分32秒)まま100kmに達している。走力的にはこの方がいちばん強いと見る。
         □
     さて、このようなハイペースをぼくが維持できるのかと自問すれば、相当困難である。ぼくはフルマラソンの自己ベストが3時間19分04秒だが、平均すれば3時間25分ほどの実力に過ぎない。
     つまり100kmレースのフル地点を3時間29分前後でいくには、ほぼ全力で前半を突っ込まなければならない。そんなことすればきっと後半は歩くのもやっという所まで潰れるのがオチである。・・・との悲惨な末路を予見しながらも、突破する方法はないものかと模索する。
     3月から練習内容を以下のように変えてみた。
     まずはふだんのジョグペースを上げる。日常の疲労抜き10kmジョグを、今まではキロ6分程度で行っていたものをキロ4分50秒に設定し直す。これにより前半50kmまでのペースを身体に叩き込む。
     キロ4分50秒、つまり10km48分ほどのスピードを懸命に出すのではなく、「極めてゆっくりだよね」との意識でいられるよう走りの巧緻性を高める。口はつむったまま、鼻呼吸を保てる程度の負荷で、イージーに前に推進していくフォームを見つける。
     週に2度、水曜と週末はハーフもしくは30km走(キロ5分)を行い、中間地点までにヘバらない脚を養う。
     さらには、キロ6分ペースの50キロ以上走を月2回。後半タレてストライドが狭くなった時でも、キロ6分をオーバーして自滅しないためのロング走だ。
     勝負レースはサロマ(6/24、北海道)とし、その3週間前の柴又100K(6/3、東京都)にもエントリーする。
     柴又100Kで序盤をキロ5分ペースで入り、何キロ地点で潰れるのか、また潰れた後にどの程度粘れるのか。その時点の能力を確かめたうえで本番のサロマに挑む。
         □
     5月上旬の連休を利用して、徳島市の吉野川河口からから愛媛しまなみ海道経由で、島根の日本海側までのジャーニーランにでかけた。
     来たるべき100kmサブナイン挑戦への足づくりの意味合いが強いので、ふだんの走り旅のようにトロトロしないように自戒する。バックパックを担ぐ負荷を考慮しても、キロ6分台で前進するよう心がける。
     初日は徳島市から西条市まで140km、2日目は尾道市まで100km、3日目三次市まで70km、4日目出雲市まで80km。合計390kmの行程である。
    で、その旅日記を書く予定だったのだが、あえなく徹夜明けの愛媛県境あたりで両足を傷めてしまい、これ以上酷使すると1カ月後の柴又100kmに影響すると判断し、完走をあきらめた。たまには常識で物事を計ることもオトナには必要なのです。105km地点の伊予三島駅から電車でワープした。
     今治駅前から尾道市までは、自転車を車内に積み込める新・直行バス「サイクルエクスプレス」ってのに乗る。今までは因島のバス停乗り継ぎで2時間30分かかっていたこのルートを、1時間20分で尾道駅前まで運んでくれる(片道2250円)。ゴールデンウィーク中の尾道市内にまともな宿が空いているはずはなく、宿泊サイトで唯一予約が取れた旅館に向うと、玄関ドアの取っ手が外れかけ、カウンターまでの通路は物置状態、エレベータはガタガタ横に縦にと揺れるハードボイルドな宿であった。さすが宿泊サイトのユーザー評価ほぼ1つ☆宿である。5月初旬なのに部屋の中には蚊が群れ飛び、耳元でキーンキンと騒いでくれたおかげで一睡もできず、徹夜走のよい練習になる。
     ズルして電車とバス旅を満喫しているうちに足の痛みは治まり、尾道~出雲間150kmはキロ6分~7分ペースを取り戻して走り切る。
     この中国地方を縦断する道には近年「やまなみ街道」あるいは「歴史街道54」「出雲神話街道」「飯石ふれあい農道」などの名称がつけられ(やたらと愛称の多い道です)、しまなみ海道と同様にサイクリスト向けに道路のアスファルト表面に距離表示や方向が示されていて、ジャーニーランナーにとっても快適な道となっている。
     全行程のうち90%程度は歩道が広く取られ、自動車との接触が危惧される場所はない。ほどよい間隔で道の駅が現れ、トイレには暖房が効き、おおむねウォシュレットを装備している。いくつかの道の駅は真夜中でも屋内(道路情報などを提供するフロア)が開放されており、柔らかいソファもあって短時間の仮眠所として最適である。
     何より中国山地越え(標高600m程度)の青葉に覆われた山々や、艶のある瓦屋根の山里の風景が、走りを飽きさせない。予定した390kmのうち255kmしか走れなかったが、100kmレースへの足づくりとしては十分な練習となった。徳島~しまなみ海道・やまなみ街道~日本海のジャーニーラン完走は、次なる課題としておこう。
     さて、あらゆる物事がどうでもよくなってる割に、執念深く他人のリザルト研究に精を出す老化著しいランナーが、天王山決戦の場・サロマにて難関のサブナインを突破できるのでしょうか。

  • 2018年05月17日バカロードその118 花のお江戸を真夜中さんぽ~小江戸大江戸フットレース204km~

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく) 

    (前号まで=埼玉県川越市を起点に、東京都心をジクザグに駆ける「小江戸大江戸フットレース204km」に参戦中。スタートから91km、中継地点である川越・蓮馨寺に戻る)

     花のお江戸の時代。江戸城下を経って山辺の道を京・三条大橋へと向かう中山道六十九次の長い旅のはじまり・・・その最初に現れる宿場町が板橋宿であった。板橋宿から小江戸川越まで北西の方角に伸びる道が、その名を今に残す「川越街道」である。当然のごとく、現在は道路も周辺環境もさま変りし、外食チェーン店やスーパーが立ち並ぶ雑多な郊外ロードと化している。昼間なら中央分離帯あたりに松並木の名残が見えるらしいが、「小江戸大江戸フットレース」のランナーが通過する時間帯は日もとっぷりと暮れている。ヘッドランプの灯りだよりでは、旧街道の趣は見つけられない。
     川越街道がありがたいのは東京都心までひたすら一本道で、道迷いする余地がないこと。ありがたくないのは歩道の整備状態が悪く、路面の亀裂やデコボコが多いこと。二度三度とつま先を引っ掛けては、転倒寸前でこらえる。元は人馬の歩いた街道を、継ぎ足しながら拡げてきた道だから仕方がないですね。
     91km地点の川越エイドから、東京都心の玄関たる池袋までは30km。過去に出場経験のあるランナーは皆「距離はたいしたことないのに、やたらと長く感じられる」と口を揃える。確かに地図をざっと眺めても、ランドマークになりそうなのは「赤衛軍事件」の現場となった自衛隊朝霞駐屯地か、STAP細胞の舞台となった神戸CDBの方じゃない理化学研究所の本所くらいだ。さしたる目標地点がないということは、いちいち「あと○×キロ」なんて暗算を繰り返さなくて済む。
     さして思考を巡らせるテーマもなく、ぼやっと走っていたら、知らず知らずのうちに埼玉と東京の境界を越えていた。都内に入ると、路傍には中層マンションが隙間なく建ち、商店から漏れる灯りが歩道を明るくして走りやすい。これなら転倒の恐怖におびえなくてすむ。
     大会が設定したコースでは、環状6号線・通称山手通りと交わる所で川越街道とはお別れ。交差線を右折し1km進むと、池袋駅西口から西方に伸びる大通りに出る。ここいらは要町(かなめちょう)という地区で、僕が十代の頃に暮らしていた場所だ。月の家賃8千円の木賃アパート暮らしの頃を懐かしみながら散策しようかと思っていたが、さすがに30年以上経ってしまうと、記憶の断片にある風景と重なるものがひとつもない。100グラム20円の鶏皮を買いにいってた肉屋も、1袋15円のパン耳を取り置いてくれてたパン屋も見当たらない。そういえば新左翼の有力セクト「中核派」の拠点ビルもあった。おかげで昭和天皇崩御の頃は物騒な緊張感が張り詰め、アナーキータウンな感じだった。今はこざっぱりとした垢抜けた街並みに変節している。まあ、つまらないと言えばつまらない。
     淡い青春プレイバックの願いは叶わず、128km地点の「成願寺エイド」を目指す。
     西新宿の高層ビル群を奥に、大都会の喧騒の中に成願寺の紅い門がぽっかりと浮かぶ。古代中国の山寺のような、あるいは竜宮城の玄関のようである。
     境内に手水場があったので顔を洗う。汗の塩が結晶となってバリバリ皮膚にへばりついている。石鹸を塗りたくってごしごし擦るときれいさっぱり落ちる。さてエイドはいずこ?と境内をウロチョロしていたら、後からやってきたランナーが「地下にあるよ」と教えてくれる。
     128km地点の到着タイムは16時間26分。時刻は深夜12時を回っている。
     地下室に用意されたエイドスペースは、人いきれに満ちムンムンしている。エイドの世話焼きお兄さん(僕を超長距離の世界に誘った悪い人)が、当エイドの名物だという鹿肉カレーを勧めてくれる。あまり食欲がないので「ちょっとでいいですよ」と申し出てたが、「そんなん言わんと、いっぱい食べなあかん」と小ドンブリの表面張力限界までルウを盛ってくれる。食えるかな?と心配しつつスプーンに乗せ口に運ぶと、得も言われぬおいしさにモンゼツする。臓腑に落ちたカレースパイスに、空腹感が呼び覚まされる。網走刑務所前でカツ丼をかきこむ高倉健ばりにガツガツと平らげる。鹿肉カレーを完食すると更に胃腸にムチが入り、テーブルに山盛りされたサンドイッチやフルーツを両手でバリバリ食らう。鉄を喰え、飢えた狼よ、という尾崎豊の歌詞が脳内にリフレインする。
     成願寺エイドを出れば、深夜の大江戸観光はメインステージを迎える。
     まずは東京都庁前へ。都庁の正面玄関前の路上で、私設エイドの方がテーブル上で「おでん鍋」をコンロでぐつぐつと煮込んでいる。東京は一国の首都であり、警備が厳しそうなイメージするけど、なんとまぁ自由な街なんだなあ。
     新国立劇場や代々木公園を傍らに進むと、キラびやかな街角に出くわす。JR原宿駅前だな。世界のカワイイカルチャーの聖地・竹下通りの一本横を通るコース設定はちょっぴり残念。表参道の通りを六本木本面へと下っていくと、極彩色にギンギンに輝く原宿ゴールドジムが不夜城のよう。深夜2時に筋肉と対話している人々は満ち足りているのか、あるいは孤独なのか。
     地下鉄も止まっているこんな時間帯に、カツカツとヒールを地面に叩きつけて闊歩する女性たちは、どこから来てどこへ向かうのだろう。東京ガールズコレクションのステージから抜け出してきたようなモデル体型とファッションを纏っている。すれ違うたびに、徳島では嗅いだことのない高級げな香水の匂いが押し寄せてくる。鼻をクンクン鳴らしてディオールかクロエか何かしらん匂いを嗅ぎまわり、ヘッドランプをビカビカ光らせて、表参道メインストリートを漂流するワタクシは完全な不審者であります。
     六本木には、マッチョな黒人ボディガードが10人くらいで入口を固めている絵に描いたようなナイトクラブあり。VIPルームでは半グレたちが海老蔵を殴ってたりするのかな。こんな街で暮らしてたら、さぞかし人生観変わるだろうねえ。仕事を終えたらキョーエイとマルヨシセンターとハローズを日替わりで廻っているオラの人生とは違うだ。花の都さ出でみでぇよ。
     東京タワーはオレンジ色の照明がフル点灯していて、美味しそうなキャンディみたい。並走するランナーが「ふだんは日付変わるときに消灯するのにね」と不思議がっている。確かに午前0時に消えないと、島耕作が大町久美子をキューンとさせた、息吹きかけてタワーを消すマジックが使えない(エピソードが古いね)ので困るね。
     東京タワーのふもとでは、賑やかな三人娘さんが私設エイドを構えていた。「おなかペコペコなんで助かります!」と軽食にかじりついていると、「おうどん、どうですか?」と遠慮がちに尋ねられる。もちろんいただきます! 差し出された紙コップには、大きないなり寿司のような物体がポコンと入っている。かじってみると、お揚げの中からうどん麺がニョニョーと出てきた。キツネうどんを球体状にまとめたアイデア料理だ。「今日これ食べてくれた人、はじめてなんですよー!」と皆さん、盛り上がっている。いただき物を食っただけなのに、喜んでもらえて恐縮である。
     次なるお江戸めぐりメニューは皇居一周だ。お堀の傍らに点在する警ら所で、お巡りさんたちが目を光らせているので治安がよろしい。深夜3時なのに、ふつーに女性の市民ランナーが1人でジョギングしている。この人は満ち足りているのか、あるいは孤独なのか。
     皇居の周回路を離れて、箱根駅伝の1区スタート会場の大手町・読売新聞社前から南下する直線道路を逆走する。東京駅を越え、国道1号線の起点であり東海道の始まりでもある日本橋の高架下をくぐる。
     JR山手線内や近辺では、1ブロックごとに歩行者用信号に出くわす。青信号が点滅しはじめるとダッシュし、赤信号に変わるとガードレールや車止めに腰掛けて休憩・・・を繰り返す。が、ダッシュをしても、その1ブロック先の信号で引っかかるので、ムダな努力だとわかる。あきらめて、信号の意思にまかせてのんびり進む。ランナー皆がボヤくように、合わせて1時間以上は信号待ちに費やしている。走っている時間より休憩時間の方が長い。そのためか、ふだんは疲労困憊となる徹夜ランだがぜんぜん疲れない。
     東京スカイツリーのテッペン部分が見え隠れしはじめる。相撲原理主義者・貴乃花の反乱に揺れる両国国技館前では、せっかく訪れたので何か爪痕を残そうと、駅前の大正クラシックな公衆トイレで用を足し、ついでに生ぬるい水道水を飲む。
     スカイツリーのたもとにある156.1km地点「おしなりエイド」に到着したのは朝5時30分。「川の道」やスパルタスロンでお会いした何人ものエイドボランティアの方々が、まぶたが半分落ちかけている僕の目を覚まそうと、元気に話しかけてくれる。気遣いがありがたい。テーブルに盛られた、おむすび、みかん、キウイなどを胃の容量いっぱいまで詰め込む。
     おしなりエイドを出て、東京スカイツリータウンを浅草方面へと回り込むと、街と空の境界線がうっすら白味を帯びている。2日目の朝がやってきた。
     ふだんは観光客でごった返している浅草・浅草寺の境内や仲見世商店街だが、早朝6時すぎだと近所のご老人やバックパッカーの外国人がのんびり散歩しているだけ。雷門通りから本堂までの参道は、群衆の列に並べば何十分もかかるが、軽く駆け足すれば5分もせず抜けてしまう。
     アントニオ猪木がハルク・ホーガンのアックスボンバーを食らってベロ出し失神した蔵前国技館跡地を左手に見ながら、世の中をお騒がせ中の財務官僚を多数輩出する東京大学の赤門前を通過。東大のある本郷から先は「都心」というよりは雑多な下町な雰囲気になる。「月曜から夜ふかし」でおなじみの千円でベロベロに酔っぱらえる立ち呑み街があるJR赤羽駅前へ。「せんベロ」の飲み屋街の見学も楽しみのひとつだったが、大会指定のコースとは駅の反対側にあるようだ。朝からやってる店もあるので、次回はコースを外れてビール1杯くらいは飲みにいくぞと誓う。
     街並みは徐々に郊外の風景へと変化していく。洗濯物がベランダに揺れるファミリータイプのマンションや、鉄工や金属加工の工場の長い門塀が続く。
     「高島平エイド」(178.4km地点)では、大好物の粗挽きウインナーがこんがり焼かれていて、ハムスターのごとく極限まで口につめこんでモグモグしながら先を急ぐ。この2日間でいったい何キロカロリー採ってるんだろうね。1万キロカロリーは軽くいってるはずだが、まだお腹は空いたままだ。満腹中枢こわれてないのかな。
     181kmで荒川南岸の河川敷に降りる。昨日の昼ごろに荒川を離れたから、まる1日ぶり、距離にして150kmぶりの対面だ。草ボーボーで見通しの悪い河川敷の道を進んでいたのだが、左側の土手上の高台に、何人かのランナーの姿が見える。河川が左カーブでRを描いているから、あっちの方がインコースで距離が短いうえに景色も良さそうだ。来年は堤防道路を走るぞ・・・と既に次回参戦のことばかりが頭をよぎる。
     189.9km地点の「秋ヶ瀬エイド」の先で荒川を離れ、ゴールの川越・蓮馨寺へと一直線に伸びるバイパス道に躍り出る。車道との境を植栽やガードレールが仕切っているので、車との接触を気にせず気持ちよく走れる。路傍には川越中心街への距離表示版が1kmごとに設置されている。われわれランナーに、ゴールへのカウントダウンを告げているようだ。
     残り距離が1kmずつ減るたびに、荷物の重さが1kgずつ軽くなってくるように、爽快さが増していく。今朝方からキロ8分のジャーニーランペースを守っていたが、ゴールを間近にして気分の高揚が止められない。キロ7分、6分、5分・・・GPSの表示速度が上がっていく。ラスト3kmはモハメド・ファラーとなって空中を滑空する。
     204.2kmの川越・蓮馨寺にゴールする。ゴールゲート下で記念写真を撮ってもらったら、エイドのお姉さんが「ノンアルがいい?アルコール入り?」と極冷えの缶ビールを手渡してくれる。当然アルコール入りでお願いします。250mLの小さめの缶なのに、半分飲んだら30秒もしないうちに酔いが回って頭がぐるぐる揺れる。ついでに花粉症と眼球の紫外線焼けが手伝ってか、ショボショボと涙が止まらない。これでは完走に感動して泣きじゃくる不気味な中年男・・・と思われやしまいかと周囲の目を警戒する。
     タイムは28時間41分08秒、出走者390人中37位。自分にしてはたいそう立派な順位である。特にラスト60kmで、61位から37位までランキングを上げられたのが嬉しい。後半へろへろが当然の僕には珍現象と言っていい。
     次々にゴールするランナーたちをぼうっと眺めながら酔いが醒めるまで待ち、真っ直ぐ歩けそうになったのでゴール会場にほど近い「川越温泉 湯ゆうらんど」へと歩いていく。レース前にもらった無料入浴券、せっかくなので使っとこう。
     何種類も浴槽のあるバラエティな温泉だが、ハシゴ湯するエネルギーは残ってない。ヒノキ張りで底浅の炭酸泉風呂に寝そべる。ぬるい湯にゆらゆら浮いていると、ものの3分もしないうちに意識が遠ざかっていく。鼻の穴が湯面の下まで落ちて、鼻の奥まで炭酸泉を吸い込んでしまった所で、ブフォフォとむせ返りながら目を覚ます。明日の朝までこのまま浮いていたい・・・と願いながら、2度めの睡眠に突入する。 

  • 2018年05月17日バカロードその117 歩いても走っても 楽しいものは楽しいのです

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく) 

     1月にオートバイで転倒し、骨折あちこち7カ所。走ると骨がズレるとビビらされ、ひたすら歩く。
     早朝12km、職場への通勤往復8km、毎日およそ20kmを4時間かけて。ランニングの練習なら平日は長くても2時間程度だから、倍ほどの時間を体を動かすことに努める。

     ジョギングを再開したのは事故から40日ほどたって。おっかなびっくり5kmだけ。どんなにそろそろペースでも、やっぱし走るのは格別。空を駆けていくシベリアからの野鳥の群れや、海岸に打ち寄せる波濤の頂点でターンを繰り返すサーファーたち・・・目に映る風景の色彩の強さが、以前よりも増したようだ。
     2月の海部川風流マラソンまでは、10kmLSDを3本できただけだった。キロ7分ペースがやっとこさ。もともと42kmをすべて歩いて6時間内完走する腹づもりだったので、駆け足ができたのは大きなアドバンテージである。関門が危うくなっても、ちょこちょこ走って間に合わせられるから。
     マラソン当日。スタートブロックに並ぶと、甘ぼやーんとした幸せ感が心に流れ込んでくる。ランナーは、サブスリーやサブフォーなどの大きな区切りを乗り越えようとしたり、今より若い過去の自分を超えようと自己ベストを目指したりと、最良の時を求めて頑張るものだけど、やっぱりとどのつまりは、理由なんて何でもいいから、ただ走れているだけで幸せなのだ。タイムとか順位とかは後づけの目標なのであって、実のところは広い公園に連れてこられた5歳児のように、目の前の原っぱをテンション高く走り回りたいだけなのだ。
     号砲が鳴る。まぜのおかの管理棟がある丘の上までは、周りの邪魔にならないように端っこをちょこちょこゆく。例年はゼエゼエ息を切らして登る急坂に感じていたが、気負わなければ大した傾斜でないんだなあと知る。坂のテッペンからは重力に逆らわない。着地の衝撃がホネに響くので、前足をそっと地面に置きながら静かに下る。
     何十人と抜かされながらも、周りの速いペースに影響され、そこそこ走れているので気分が良い。4kmの海部川橋を越えて、堤防上の道に出ると足が軽くてくるくるとよく回転する。こりゃ練習の手を抜いたときの「さぼりバネ」って現象なのかな。脚にも心肺にも疲労がない状態。過去データをリセットして、初期化されたパソコンのよう。サクサクと軽快に動く。そのうち鉄ゲタはいたみたいに脚が重くなるのはミエミエですな。今はこの軽快感を満喫するとしよう。
     15kmの折り返し手前で、サブスリーを狙う集団と1kmしか離れてないので嬉しくなる。ハーフ通過が1時間35分、自己ベストが出そうな良いペースだ。マラソンってのは本当に謎めいている。月間400km、500kmと練習しまくっても一向に走力は上がらないのに、10kmジョグ3回でなぜこんなに調子いいのかな。
     大里松原の並木道に入る39kmのちっちゃい坂以降は、思いどおりに脚が動かなくなり、がっくりペースは落ちる。練習不足だから仕方ないよね。
     ゴールタイムは3時間19分06秒。フルマラソン52本目にして初めて3時間20分を切れた。ぜんぜん自己ベストなんて狙ってもなくて、完走できさえすればいいと楽しく走っていたら、素敵なオマケのプレゼントである。しかし、ほぼランニング練習なしで好タイムが出るってのは、どういう身体反応なんだろ。長々とウォーキングを続けたのがプラスになったのだろうか。自分なりに理由を考察してみた。
    ①長時間、体を動かしつづけることに慣れた。
     フルマラソンの30km、35kmでずっしりくる疲労感がやってこなかった。毎日4時間歩いていたため、連続して脚を動かすことに慣れたのかもしれない。
    ②慢性疲労が抜けきって、ダメージゼロの状態でスタートラインについた。
     月間500kmほど走っていると、毎朝が抜けきらない疲労との戦いである。布団から上半身を起こすのすら難儀する。起床後、まともに体を動かせるまで1時間はかかる。走るのをやめて2週間あたりで、この慢性疲労が消失した。
    ③速く歩くために、ウォーキングフォームの巧緻性を考えたことが、走りに好影響を与えた。
     海部川風流マラソンを歩きで完走(6時間)するために、キロ8分30秒から9分で歩けるよう試行錯誤した。速く歩くコツは「一生懸命がんばって歩く」のではなく「正しいフォームで静かに歩く」ことが大事だと知った。要点は、脚をしなやかなムチと考え力をこめないこと。全身の起動ポイントを骨盤の両脇にある股関節だと考えることである。これらは「大転子ウォーキング」(みやすのんき著)に学んだ。この早歩きの動きが、効率よいランニングフォームへと応用できたのかもしれない。
    ④厚底でやわらかいクッションのシューズで歩いていた。
     骨折直後から半月ほどは、地面との着地衝撃が上半身の患部まで響き、ビジネス革靴や薄底のランニングシューズでは歩けなかった。そのため、手持ちのシューズでいちばん靴底のやわらかい「On」のクラウドフライヤーという空気グニョグニョの靴をはいてウォーキングをしていた。薄底シューズは地面からの反力で加速するが、グニョグニョ靴で体を前に持っていくには、効率のよい骨格の移動しかない。これもプラスに働いたのかもしれない。
          □
     いずれにせよ「かもしれない」な想像であって、走る練習なんてしない方がいいという論拠ではない。
     ぼくのタイムがサブスリー達成といったハイレベルな物であれば、原因と結果の因果関係を立証しやすくなるが、3時間20分切り程度なら単に「疲労が抜けただけ」なのかもしれん。この疲労抜け感による好結果が、100kmや250kmの超長距離レースまで波及するのかは、やってみなければわからない。
     何はともあれ、42kmのゴールテープを切れたことが嬉しい。走っている最中の苦しさなんて、走れないことの辛さに比べたら屁でもないと、骨折が教えてくれた。ホネさんありがとう。
          □
     フルマラソンを完走できたことで、翌々週に控えた204kmの長距離レースに出られるメドが立った。100kmを超えるレースは、ランナーの責任感や身の処し方によって大会側に迷惑をかけてしまうことがある。怪我をごまかして出場し、病院沙汰を起こしてしまうのはよろしくない。海部川を完走できないようなら参加を取りやめようと考えていたが、ためらう必要はなくなった。
     「小江戸大江戸200kフットレース」は今年で第8回目を迎える。「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」と謳われる埼玉県川越市をスタート・ゴールの地としている。前半は、荒川沿いを北上しUターンして川越市に戻る91.3キロの「小江戸コース」。後半は東京へと南下し、都心の見所をめぐる112.9キロの「大江戸ナイトランコース」と命名されている。
     ランナーはいずれかのコースを選び参加できる。また、前後半通しの204.2キロ「小江戸大江戸コース」や、204キロを経たのちに更に28.5キロを往復する232.7キロの「小江戸大江戸230kmコース」がある。ちなみに後者は「エキスパートコース」とランナーたちに呼ばれているが正式名称ではない模様。
     204キロの制限時間は36時間。「さくら道国際ネイチャーラン」などいわゆるガチンコ250kmレースの制限時間が36時間であることを考えると、ランナーには優しいタイム設定となっている。
     参加者数は、ぼくが出場する小江戸大江戸204kmに390人。エキスパート233kmに42人、小江戸91kmに66人、大江戸113kmに162人。いずれもエントリー開始から数分で受付終了するほとの人気大会である。
     主催である「NPO法人 小江戸大江戸トレニックワールド」は、超長距離走の歴史を刻んでこられたランナーの方々が運営する団体だ。だから、事前に送付される解読しやすいコースマップはじめ、エイドのサービス内容や、温かくも骨のあるランナーへの声がけなど、何もかもがランナー目線で大会が作り上げられている。
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     スタート会場の川越・蓮馨寺の境内は、旧交を温めあう約500人のランナーの声々が青空に響き渡っている。
     受付票と交換に、大量のおみやげ物が手渡される。デザインセンスのよいTシャツ、川越名物の芋菓子や煎餅やクッキーが何種類も。さらには1kg入のマルトデキストリンや携帯用ゼリー、それにゴール後の温泉無料入浴券まで。お土産でパンパンに膨らんだリュックを、境内の建物の一角にあずける。スタートから91km先、再び蓮馨寺に戻ってきた際に、このデポ荷物から夜間走行用の防寒装備を取り出すのだ。
     スタート時刻は朝8時。といっても一斉に出発するわけではない。ランナーは1人ずつゲートの左右に設置された計測機にリストバンドのチップを「ピッ」とかざしていく。最初のランナーがゲートを通過してから最後尾のランナーまで5分少々かかるようである。いちおう自己記録や順位はネットタイムで計算されるので、我先にと飛びだす必要はない。上位でゴールする一流選手らは、どちらかといえば最後方にいるようだ。人がまばらな最前方で独走するよりは、スタートから何十キロかは前の選手たちを追い越し、声がけしながら進むのが気分的に楽なのだろう。
     小路の両側からたくさんの声援を受け、蔵造りの街並みが続く「川越一番街商店街」の通りに出る。早朝のため店々はシャッターを下ろしているが、古都の雰囲気は十分に味わえる。
     いくつかの信号で止まりながら街を抜けると、のどかな田園地帯に入り、14キロ地点で荒川土手の自転車道にあがる。荒川は埼玉県の秩父山中から流れ出し、東京湾へと注ぐ全長173キロの超大河である。過去、何度も参加した「川の道フットレース」のコースと一部分が重なっており、感傷的な気分にひたる。
     後方から追い上げてきた選手が笑顔も爽やかに話しかけてくれたので、ランニング談義を交わしながら距離を稼ぐ。風景が変化しない土手道なので助かる。最初はフルマラソンを完走するのが目標だったのに、いつの間にやらこんな距離を走ることになって、やれやれ・・・といったウルトラあるあるなお話。10km近くおしゃべりに興じていて、ふとその選手のゼッケンを見ると「00」ゼロゼロ数字が並んでいる。この大会では昨年の成績順にゼッケンナンバーが割り振られる。なんでこんな若いナンバーの人が、ぼくと並走してんの?と聞けば、昨年の204kmの部の優勝者だという。おまけに昨年はさくら道国際ネイチャーでも優勝したという。いやはや油断したぜ。一流ランナー殿をしゃべりで引き止めてしもた。「お邪魔してしまいました。マイペースでいってくださいよ」とお願いすると、いやこのペースで十分だという。そういや超長距離に強いランナーって、序盤にぶっ飛ばすんじゃなくて、キロ5分30秒から6分で20時間~30時間と維持できる人なんだよな。まさにこの御方はそんな方でしょうか。33kmのエイドでお別れしたが、後にリザルト表を見ると2位の選手を2時間以上離しブッチギリで優勝されていた。
     52kmエイドは埼玉県寄居町の浄恩寺の境内にある。小江戸大江戸コースでは、スタート・中間地点・ゴールの蓮馨寺はじめ、東京都内で最初のエイドとなる成願寺(中野区)など、要所のエイドが寺社内に設けられている。そのためコースの大部分で「次は○○寺」と、常にお寺を目指している感覚がある。それが独特の風情を醸し出している、ような気がする。
     エイド間の距離はまちまちだが、平均すれば20kmごと。ちょうどお腹が空いてくる絶妙な間隔である。エイド手前の5kmくらいから「次はナニ食べようか」と到着が待ち遠しくてならない。それぞれ特色のある食べ物が用意されている。うどん、ラーメン、カレー、いなり寿司、粗挽きウインナー、サンドイッチ・・・手づくりの温かみのある料理たち。種類豊富な生フルーツも山盛りになっている。皮ごとポリポリかじられるブドウが甘くて、糖分が全身の細胞に染みわたるようだ。
     コースの最北端にあたる寄居町から大きく反転し、東京都心へと続く国道254号線を南下する。「池袋65km」という標識が現れると、東京までの意外な近さにほっと安堵する。
     なだらかな起伏のある高原状の台地をゆく。周囲に住宅はほとんどなく、大規模な工場群が左右を囲む。自動車メーカーの本田技研の組み立て工場は、美術館のようなアーティスティックな外観をしている。「寄居町」といえばマラソン日本新を出した設楽悠太の出身地であり、「HONDA」といえば彼の所属企業である。(悠太くんは地元企業に就職したのか。いい子だなあ)とか、どーでもいい感想を抱きながら変化に乏しいバイパス道を進む。
     スタートから60kmを経て、右腕が外れ落ちそうな感覚がつきまといはじめる。骨折カ所が右胸の前側(鎖骨)と後ろ側(肋骨3本)にあるため、腕の重量に前後の筋肉が耐えられなくなっているのだ。こうなることを予想して、鎖骨バンド(固定具)を装着しているので、キュッときつく絞り直す。スタート前は、この一見ブラジャー的な外観の鎖骨バンドを着けるかどうか大いに迷ったが、着けておいて正解だった。縛りあげれば、腕の重みをそこそこ緩和してくれるのである。
     80kmを過ぎた頃に夕日が落ちる。ハンドライトを持って川越市郊外の狭い歩道をゆく。歩道の路面は老朽化していて、ひび割れたり隆起している部分が多い。スタートしてから転倒だけはしまいと地面と睨めっこしながらここまで来た。くっつきかけた骨をまた折ったら、整形外科の先生に何とお叱りを受けるやら。事故の翌日からこそこそ走ったせいで、骨の断面が離れてしまったと呆れられた前科があるのだ。
     ところが中間地点の蓮馨寺も近くなり、周りに商店が現れだしたため集中力が散漫になった。凸凹のひどい歩道エリアを脱し、整った路面になったと安心した先にわずかな突起があった。つんのめって立て直せず、今から自分はコケると自覚したので、右の鎖骨とアバラを右腕で守る。右ヒジと右ヒザを地面で痛打。起き上がるとヒザには3カ所裂傷を負い、血がどっくんどっくん流れている。ふくらはぎ用の黒色ゲーターをしていたので、血はゲーターに染み込んでいき大惨事には見えない。痛みよりも、自分のマヌケさに嫌気がさす。
     スタート地点の川越・蓮馨寺に戻る。ここまでの91.3kmに10時間21分31秒かかる。
     荷物置き場は室内休憩所にもなっている。明るい室内でいると、血まみれのヒザがグロくて周りを引かせてしまいそうなので、境内の暗がりにそそくさと移動する。リュックには手袋から目出し帽まで防寒セットをひとまとめにしている。翌朝の東京都心は5度以下まで冷え込むらしい。だけど現時点では季節外れの暑さで、長そでや長ズボンを着込むべきか悩む。この先コンビニはたっぷりあるだろうから、寒けりゃ500円カッパを買えばいいやと、半袖シャツのまま再出発すると決める。
     地べたに座ってごそごそと荷物を引っかきまわしていると、大会代表の太田さんが声をかけてくれる。
     「怪我しているランナーがいるから救急車を呼んだほうがいいと報告があってきてみたら、誰かと思えば坂東君かい」。太田さんはこの大会を創られた方。5年ほど前、スパルタスロンで似たような場所でリタイアし、片田舎町のバーみたいな店でヤケ酒をオゴって頂いた大先輩である。「ぜんぜん大丈夫でえす。血が吹き出しているので派手に見えているだけです」とお詫びする。
     すると今度は、7年前の北米大陸横断レースで70日間サポートをしてくださった、人生の大恩人である菅原さんが現れる。「怪我してるの? 坂東君なら心配ないね」と腰掛け用にとブルーシートをそっと敷いてくれる。
     それからも、いろんなランナーやスタッフの方が心配して見舞ってくれる。何年かぶりに再会した懐かしい顔が多い。小江戸大江戸は、自分自身のランニング史を噛みしめられる、タイムマシンみたいな場所でもあるんだなあ。
     大仁田厚の有刺鉄線デスマッチより大したことないですよ、ブッチャーにフォークで刺されたテリー・ファンクくらいのダメージですよ、と昭和風の軽口を叩きながら、夜の川越街道へと走りだす。さあ今宵は東京観光としゃれこもう、がんばるべっ。 (つづく) 

  • 2018年05月17日バカロードその116 骨折日記

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)   

     マヌケをやらかしてしまった。
     正月早々、凍結したアスファルト道の下り坂で、バイクですっ転んだ。
     危機に瀕したらスローモーションに見えるというけど、ヤバと思った次の瞬間に地面に叩きつけられていた。右半身から地球に激突すると、ペキペキとどこかの骨が裂けたのがわかった。 

     バイクは、ぼくを残して20~30メートル先まで勢いよく滑っていった。「慣性の法則」というめったに使わない言葉が頭をよぎる。
     立ち上がってみると、右腕がぶらーんと垂れ下がったままだ。あらやっちゃった。動かそうと試みると、胸と右肩をつないでいる鎖骨あたりが、千枚通しをザクザク突き刺しまくられるハードプレイ。これは確実に折れてますな。
     周囲を見回すとなんたるラッキーか、「整形外科」の看板を掲げた立派なたたずまいの病院が距離100メートルの所にある。
     腕をぶらぶらさせながら歩いていき、受付のお姉さんに「骨が折れたと思うので診てください」とお願いすると、待ち時間なくレントゲン室前のソファへと招かれる。
     座ってると、分刻みで鎖骨の激痛が増していく。背中を猫みたいに丸めてないと辛い。粘度100%のネバネバした脂汗が顔に吹き出す。グラップラー刃牙の好敵手・花山薫の「握撃」にやられたら、きっとこんな感じに違いない。掴んだだけで相手の骨や筋肉を破壊するヤツね。
     診察室に呼ばれ、医師がレントゲン写真を見せてくれる。鎖骨がグニャっとV字に折れている。すると、どこからともなく満面に笑みを浮かべたおじさんが現れて、「こうやっといたら楽になるんよ」とか何とか言いながら、前ぶれもウォーミングアップもなく、背骨を軸に肩を後ろにぐいいっと反らせた。バキバキバキと音を立てる鎖骨! 突然の攻撃に抵抗しようもない。あううううと為すすべもなく身を任せること3秒。「どうで?」と尋ねられる。
     するとどうだ。さっきまで上半身をヒザに着くまで折り曲げて耐えていた痛みが、バキバキ後は直立していても平気である。荒療治の予告なく、いきなりコトにかかるタイミングといい、こっちを油断させる笑顔といい、これが柔道整復師のテクニックか。再びレントゲン室に戻って撮影。数分前までV字にひん曲がっていた部分が真っすぐになっている。すごいなこのイリュージョン!  
     次に、鎖骨バンドと呼ばれるコルセットを、ぎゅーっと背中を反らすように締められる。折れた骨が重なって短くくっついてしまわないための器具だ。当面は、昼夜問わず睡眠中も外してはいけないらしい。
          □
     いちおう、念のため、ランニングをしていいかと医師にお尋ねすると、ぜったいにダメと禁じられる。当然ですね。
     しかし、駆け足くらいなら骨の断面を刺激して、逆に早く治癒するだろうと独自の解釈をし、事故の翌日から走りはじめる。右手がぶらぶらしてジャマなので、輪っかにしたウエストポーチを首から下げ、前腕を乗っけて走る。
     着地するごとにギュンギュン痛み、1キロ走るのに12分もかかる。
     年末までは絶好調だったのにさあ。キロ4分30~45秒ペースの21.1km走を週3度はこなし、近来マレにみる仕上がりだったのだ。それなのに今や青息吐息でキロ12分。骨折そのものよりこっちがショックだよ。
     この冬は徳島では珍しく積雪が多い。凍結道でコケて怪我したもんだから、薄く雪がついただけの地面が恐くてしょうがない。歩くより遅いペースだから雪を振り切ることができず、体温も上がらず、頭に肩にと雪が降り積もっていく。雪だるまのようになってノロノロ走る。
          □
     裸になって患部を指先で触ると、骨周りの太さが、折れてない方の倍にもなっている。そして折れた骨の先端がぴょこ~んと皮膚を尖らせている。皮膚の表面はタテ20cmほど内出血で紫色に変色している。
     骨折の修復にはこの血が必要なのだ。骨のすき間をまず血が埋め、そこに骨芽細胞が増殖する。細胞に石灰分が沈着し、いったん仮骨をつくる。骨の表面を覆う骨膜がこのとき太さを増す。やがて破骨細胞という本家が登場し、仮骨を吸収して、元どおりの形状に調えていくのだという。なんとよくできた仕組みではないか。
     それと当日はそうでもなかったのに、翌朝から寝床から起き上がる動きをしたり、息を深く吸い込むと、胸部がひどく痛みだした。後にわかるが、みぞおち近くの肋軟骨も折れていた。アバラ骨は、肺に刺さるほどひどく折れてなければ保存療法を行う。つまり放っておくだけだ。
     転倒した日から1週間後にレントゲンを再撮影すると、整復師さんにボキボキッと入れてもらった骨が、大幅にズレていた。ナナメに割れた骨が上下にズレて、かろうじて部分的にくっついている。
     安静に過ごさなければならない最初の1週間で、アホみたいに走ったアホな結果である。そんなに早くランニングを再開させたいなら、手術をして骨を固定したら1週間ほどで復帰できるとのこと。
     しかし手術の工程を聞くほどに、怖さで股間がキューンと縮み上がる。
     ①全身麻酔をして切開し、②細長い金属のプレートを支えにし、③ネジだかボルトだかを骨に7本ぐらいねじ込んで、④1年くらい経ったら再度切開してプレートとネジを取り外す・・・という。ムリです、ムリです。あたしは歯科技工士さんに歯の掃除をしてもらうだけで意識を失いそうになるほどの小心者です。お願いです。手術だけはムリですと、打ち捨てられた仔犬のような目をして診察室から逃げ帰る。
         □
     仕方ない。走るのはあきらめる。かといって、まったく運動をせずには生きていられない。10年以上、少ない日でも10kmは走ってきた。その分の消費カロリーのマイナスがなければ、どんどんデブっていく。
     朝のウォーキングと通勤往復あわせて20km歩くことを日課とする。時間にすると約4時間。ランニングでは絶対に入っていかない住宅街の中や、田んぼの畦道や、漁港や工場地帯をずいずいと歩く。走っていると気づかないきれいな庭を眺めたり、早朝から海苔を乾かしたり、橋脚の土塁を築いたりと、働く人たちを観察するのも楽しい。歩くのもそう悪くない。
     しかしさすがに毎日4時間は長く、時間を持て余しすぎるので、ラジオを聴きながら歩くことにする。
     朝からラジオを聴くなんて何年ぶりだろか。たまたま周波数があった音質の良い放送局の番組を聴き流していると、どうやらNHKのようだ。アナウンサーの男性の喋りが尋常なくうまい。ささいなエピソードを膨らませ、人間心理の微細をとらえたコメントをはさみながら、最終的にはクスッと笑えるオチで締める。軽妙洒脱で、頭の回転早く、クセのあるゲストの投げる変化球を次々と打ち返す。声質は実にシブく、天然のバリトンボイスが耳に心地いい。
     AMラジオの朝の番組の担当というのは、NHKアナウンス部の序列では下の方にいる人なんではないだろうか。それなのにこの才能のきらめき。日本じゅうの皆さん、薄暗いラジオブースの片隅に凄い人がいますよ!と興奮しながら聞き惚れていると、CM明けに「麒麟の川島がお送りしています」と言う。うらぶれた地方局出身で、学閥から外れた若ハゲの実力派アナウンサーと勝手に想像していたら川島かよ~!
     その番組は「すっぴん」といい、朝の8時05分から始まる。月曜から金曜までの帯番組であり、毎日メインパーソナリティが交代する。月曜は劇作家の宮沢章夫、火曜がタレントのユージ、水曜はロックスターのダイヤモンドユカイ、木曜が麒麟の川島明、金曜に作家の高橋源一郎と、おいおい、いったいどういう人選をしてるんだという顔ぶれ。
     朝っぱらからRED WARRIORSのダイヤモンドユカイが、ゲストに招いたBOWWOWの山本恭司と、ビートルズの「Something」をギターと生歌セッションしてる。なんなんだNHKラジオ第1よ、斬新すぎるぞ。
     昭和30~40年生まれ世代にはまさにプレイバック青春。ヤンタン、ヤンリク、パワフル、オールナイト2部から歌うヘッドライトまで徹夜し、鼻ちょうちん作って登校してた深夜放送世代である。あの時代の空気感が、毎朝再現されているとは知らなんだ。
     昨今のメディアは、不倫暴露系の週刊誌がもてはやされたり貶されたり、SNSはしょっちゅう炎上してギスギスが日常。反対にテレビは自主規制だらけでつまんない。そのなかで、いまだにラジオは人間味に溢れていて、そこそこ過激発言もシモネタも許されてるんですね。人生1周まわってラジオ好きに戻りそうだ。
     こんな風に、走れない日々をラジオに慰められた。
         □
     ある日、田んぼの畦道を歩いていて、端っこまで進むと幅50センチほどの狭い用水路に突き当たった。遠回りすればよいものを、何の気なしにエイッと飛び越し着地した瞬間、脳天まで電流が貫いた。
     ううう、骨が外れたー! くっつきかけていた鎖骨がバーンと外れたに違いない。痛さが限度を越して、目の前が暗くなり、吐き気をもよおす。手足の体温が氷みたいに下がり、全身に悪い汗を噴き出しながら、やっとの思いで自宅にたどり着く。
     翌週、おそるおそる撮ったレントゲン写真では、鎖骨は順調にくっついていた。ほっとひと安心。ところが、事故直後に折れた形跡がなかった背骨の脇のアバラ骨がポッキリ折れていて、骨の幅の半分ほどが天地にズレていた。その骨の上下2骨にもヒビが入っていた。
     元々入っていたヒビが、用水路ジャンプでバキンと折れたようだ。新たに3本追加。当初から骨盤の端っこも欠けていたので合計7本。もう骨折にもずいぶん慣れ、どれだけ折れても大したコトのように思わなくなった。
     あまりにあちこち折れすぎているので、骨が弱すぎるのではないかと、骨粗しょう症の検査を命じられる。DXA(デキサ)という最新のX線マシンは、腰椎や大腿骨の頸部の骨密度を正確に測定できるという。結果は同年代の平均値より20%ほども骨密度が低いと判明し、活性型ビタミンD3製剤を処方される。完全にジジイへの階段を登っています。
            □
     利き腕の右手が使えないだけで、今まであたり前にできていた単純作業に苦労する。
     車に乗ろうとしても風で開いたドアを閉められない。左手で洗濯物を持つと、右手で洗濯バサミが開けられない。洗濯物を干すには両手が必要なのだと知る。世の中にあるほとんどのモノが、右利き用に作られているのを実感する。ドアも、押しボタンも、文房具も、調理具も、みーんな右利き用なんだね。左利きの皆さんは慣れっこだろうけど、実に不公平ではあるね。
     一方で、今まで眠っていた左手の技能が飛躍的に向上する。文字を書いたり、箸を使った食事は2週間くらいで慣れてきた。
     左腕の背後に回した際の、手が届く範囲が20センチほど広くなった。コルセットを付け替える際に、左腕で背中の着脱部分を締める。最初は指先が届かず10分間ももたついていたが、一瞬でできるようになった。
     人は、何かを失えば何かを得られるのである。
            □
     困ったのは睡眠だ。左右どちら側とも寝返りをうてば鎖骨の断面がズレてしまう。常に仰向けで、まっすぐ天井を向いてないといけない。
     といってもいったん眠り込んでしまえば、身体は勝手に寝返りをうつ。その瞬間にゴキィと痛みが走り目が覚める。寝返り予防のために、身体の両側にまくらを3個ずつ並べて、身動きをとれないようにする。
     こんなに寝にくそうな体勢にも関わらず、毎晩布団に入った瞬間、コトンと眠りに落ちてしまう。そして夢すら見ないほど朝までぐっすりと深く眠り、目覚めた瞬間から今日やるべきことを考える。
     怪我する前はひどい不眠症体質で、1時間以上続けて眠れなかった。朝起きるとドーンとした重い疲労感から、なかなか起き上がれなかったほどだ。
     怪我して、走るのをやめて、歩きまくって、寝まくったら、何年間もつづいた疲労感が完全に抜け落ちた。
     人は、何かを失えば何かを得られるのである。
         □
     歩きに慣れない頃は1kmに12分かかっていたが、11分、10分と速く歩けるようになり、9分台でもこなせるようになってきた。
     みやすのんき著「驚異の大転子ウォーキング」を参考書にした。著者はサブスリーランナーであり、また漫画家として人体の観察能力に長けていて、ウォーキングの固定概念を完全否定しながら、理にかなった歩き方を指南している。振り出した脚の動きや着地、体重の乗せ方、遊脚の考え方は、そのままランニングに応用できる。
     右半身があまり使えないことが幸いしている。ぼくは元々、ランニング中に左側の腕振りや着地が弱くて、左右バランスの悪い走り方をしていた。この機会に左半身を使えるよう改造するのだ。
     2週間後の海部川風流マラソンにエントリーしている。今回は第10回の記念大会である。第1回大会から皆勤を続けているので、なるべく棄権したくない。歩いてでも完走しよう。海部川マラソンは制限時間が6時間だから、時速7kmペースで歩けば6時間で42km進む。余った195mはちょこちょこ走って縮めればいい。
     時速7kmペースとは、キロ8分34秒ペースである。歩きとしては相当なハイペースだ。試しに早歩きしてみると、どんなに脚を動かしてもキロ8分50秒しか出せない。キロ4分ペースを50kmも続ける競歩の選手たちって、どういう鍛錬をしてるんだろうね。
     練習では1時間に6.5kmしか進めないが、いざレースになれば脳からアドレナリンが出る。運動能力も一時的に上がり、時速7kmに近づくんではないだろうかと淡く期待する。関門に間に合わなさそうな時だけ、ごまかして走ろう。
         □
     骨折は確かに痛いもんだけど、数本の骨と引きかえに、ずいぶんたくさんのモノを得た1カ月であったな。 

  • 2018年03月20日バカロード 北米大陸横断レース

    2011年に出場したLA-NY Footrace(5139km・70日間)の
    様子を掲載した日記と写真です。
    ロサンゼルス~1534km(22日目)
    1534km~3668km(51日目)
    3668km~5139km(70日目)ニューヨーク
    北米大陸横断レース写真

  • 2018年03月06日バカロードその115 夢の祭り あとの祭り

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

    (前号まで=247km、36時間制限のレース・スパルタスロン。7連続リタイアのバカ記録更新を断つべく、自ら考案した百の戒めに緊縛され、キロ6分ペースを厳守しながら最後尾あたりを進む。100kmの計測ラインを11時間01分で越え、関門アウトまでの余裕を1時間24分まで増やす)

     えっほえっほと100kmに到着。波乱はございません。いつもの年なら、この辺までにゲロの噴水を盛大にあげ、路上に倒れて路地裏の少年(浜省)を口ずさみと、一人で大騒ぎしてるのに、今年は水を打ったような静けさである。
     とにかく涼しいんだわね。こんな涼しいのってアリなん?という想定外の低気温、真昼でも30度いってない。おいおい何のためにクソ真夏の昼ひなか、パトカーのおまわりさんに睨まれながら、ほぼ全裸でジョグを重ねて暑熱対策してきたと思ってんだい。スパルタの神様が「今年はラッキーチャンスを与える」とガードを甘くしてくれた? んなわけないし。絶対どこかに落とし穴がある。物事がうまくいくなんてことは、わが身に起こるはずがない。
     警戒レベル100%でそろそろと進んでいたら、ほらきたよ。日が暮れて、山の辺の街を縫って標高を上げていく坂道で、第一弾のバテがやってきた。呼吸器はゼーゼー、ぐにゃつく太もも、気力も湧いてこんね。念のため戦意を喪失してないか自分に問いかけてみると「戦意はある」と心が応える。ならばただの体調不良だ。路上でフラついていても衰弱が増してくだけなので「7分間だけ寝る」と決める。
     道ばたの廃屋の前の空地でねっころぶ。夜の空気は透明で、またたく星々が降り注いできそう。朝までゴロ寝したい気分です。いやいや何言ってんのオレ。関門までの余裕時間が30分まで目減りしてるんだよ。
     地面から体を引きはがしコース上に帰還する。さて7分間レストの効果はいかに。うーむ、さして体調は変わらない。千鳥足で右に左によろけていると、後方から顔見知りの選手がやってきて「どしたの? 眠いんじゃないの?」とカフェインの錠剤を恵んでくれる。ふむ、オレは眠いのだろうか?
     カフェイン服用からものの15分。急にやる気が満ちてきては、足取りも確かにザクサクと坂道を登りはじめる。恐るべし薬物効果。ちっちゃい粒を2つ飲んだだけで、精神状態まで真逆に豹変するなんて。助かるけど、生理機能が単純すぎて、なんか怖いです。
     スタート地点から135km、自己最長地点をあっさりクリアする。今までどしてこんな所でくたばってたんだろ。並走したベテラン選手が「この先にあるマランドレニ村は楽しいよ」と教えてくれる。楽しいって何だろか? 長い下り坂をテケテケと重力のおもむくままに下っていくと、キラキラ輝く集落が下界に見え隠れしはじめる。ははん、アレが楽しいマランドレニ村っぽいですね。
     深夜1時をまわっているというのに、エイドは大賑わいを見せている。民家の広い前庭に、テーブルや椅子がずらりと並べられ、たくさんの村人がワイングラス片手に赤ら顔でなんやかんやと語りあっている。こりゃエイドっていうより居酒屋だねえ。ランナー用に用意された食パンに、チューブ入のギリシャ蜂蜜をべたべたに塗りたくってかじる(あとで土産物屋で同じ蜂蜜の値段を見たら500円だった。高級品なのだ)。酔っぱらいの村人グループが「ここに座って酒を飲めい」と椅子を指さす。うわー、関門まで余裕があればアルコール補給したいとこだが、おっちゃん、ぼくには時間の貯金がビタ一文ないんですよ。
     後ろ髪ひかれまくりながらエイドを離れる。ギリシャ人の人生の楽しみ方はおおらかで良い。この国に住んだわけじゃないので本質なんてわかんないけど、店や工場は潰れまくってるのに、暗い顔して電車に乗ってる人はいない。ダメで元々なんだから、ダメでもゼロなんだから、マイナスになんかなりゃしない・・・なんて達観してる風でもある。
     スパルタスロンの最大の魅力は、ギリシャの田舎町に暮らす人びとの助けをもらいながら、自分自身も酒の肴になり、小さな村にとって年に一度の一夜限りのお祭りの装置になることなんだ。エイドに陣取る世話焼きのおばちゃんたち、酔っぱらってデコ突き合わせて議論してるおっちゃんたち、ノートとペンを持ってランナーの間を駆け回りサインを集める少年少女たち。選手に対して過剰なくらい面倒見が良くて、人種の壁などみじんも感じさせず、ヒーロー扱いしてくれる。ぼくたちの走りが、彼らに何かのささやかな楽しみをもたらせてたらいいなと思う。
        □
     深夜3時、リルケアという小さな集落の入口には、馬糞らしき物体が道にたくさん落ちていて、夜目が効かずふんづけてしまう。ヌルヌルした靴底だと急坂ですべってしまい難儀する。
     リルケア村はアテネから148km、ちょうど20時間が経った。村の郊外からは、いよいよ標高差960mを登りつめていく山岳エリアに入る。永く憧れつづけたサンガス山のすぐそばまでやってきたのだ。
     ヘアピンカーブがつづく舗装道路を、6回、7回と折り返しながら高度を稼いでいく。振り返るとはるか眼下に20個ほどのヘッドランプの光が、道路のうねりのままに連なっている。自分より後方にたくさんの選手がいるという事実にホッと安堵する。
     行く手には、山岳地帯を縫う高速道路のオレンジの照明だけがあり、その背後にあるはずのサンガス山の姿はまるで見えない。だが、闇の奥には明確に巨人の威容を感じとれる。標高1100mのサンガス山は、無論ヒマラヤやヨーロッパアルプスといった巨大な山塊ではない。地理的には平凡な岩山にすぎない。しかし、何百、何千というスパルタ挑戦者をはね返してきた歴史と、障壁となって立ち塞がる存在感の圧が、吹き下ろしの風となって押し寄せる。
     岩山の麓までの10kmあまりの長い登りを、一歩たりとも歩かず、立ち止まることなく走りきる。アドレナリンが大放出されているのか、サンガス山が近づくにつれ好調さが増す。
     159.5km、岩山の麓のエイドに着く。ここには防寒具をあずけている。防水性のあるウインドブレーカー、長ズボンのジャージ、もこもこの手袋、耳まで隠せる毛糸の帽子、ホッカイロ2個。
     しかし長い坂道を走りつめたせいか、身体は発熱しており汗をたっぷりかいている。設定タイムどおり進めば、山越えに擁するのは1時間30分程度である。過去に読んだ多くのランナーの走行記には「サンガス山を警戒していたが、意外とあっけなく終わった」「すんなり頂上に達して拍子抜けした」などの記述が見られた。
     (よーし。体調はいいし、この山越えでタイムに貯金を作るか)と欲を出す。
     (防寒着を着込む時間がもったいないし、着衣の重量を増やさずに、一気に登って下ってやろう)と戦闘的な気分になる。
     スタートからこの地に至るまで、用心に用心を重ねた。自分の力を一切信用せず、物ごとを全てネガティブにとらえ最悪の事態に備えてきた。しかし、ついにオフェンシブな精神状態になった、「オレはやれる子だ!」と。
     それがすべての間違いの元であると気づかされるまで、そう時間はかからなかった。
          □
     山道へと続く小さなゲートを越え、未舗装の石ころ道に入る。浮き石がたまにあるが注意しておれば事故にはつながらない。山腹の巻き道が谷側にざっくり崩れ落ちて、えぐり取られている部分もあるが、大会側が崖側にテープを張ってくれているので、滑落の危険性はない。居眠りさえしなければ問題はない。
     ゴツゴツの岩の道は、10メートル進んではUターンを繰り返すジグザグの登り。この道を駆け上がる走力があれば良かったが、ダメージゼロの状態でも歩くしかない不安定な階段状である。歩けばおのずと運動量が落ちる。さっきまでのアプローチ道でかいた汗が冷えてくる。標高が上がるにつれ、風も強くなってくる。冷気を含んだ風が体温を奪う。せめてシャツやパンツが乾いていたらと思うが、湿度が高いのか汗が乾くことはない。
     10回、20回と折り返した崖の先にいた大会スタッフが「頂上まであと400メートルだ」と教えてくれる。400メートルが距離を示すのか、標高差なのかわからないが、(もう少しなんだな)と心の救いになる。さらに何度か折り返すと、達磨のように厚着で膨れた2人目の大会スタッフがいて「あと700メートルだ、がんばれ」と言う。相変わらず標高差なのか距離なのかわからないが、どっちにしろ遠ざかってるじゃないか!  こんな小さなことに激しく精神ダメージを受ける。
     (いつ頂上に着くんじゃ? あっけなく着いて拍子抜け・・・という情報は何だったんだ?)
     壁のような山腹を見上げる。目を凝らしても、安全確保のための小さな照明光がポツポツと続いているだけで、その上部は霧がかかっているのか頂上まで見通せない。
     辺りにまとわりついていた霧雨が、はっきりとした雨に変わる。寒い。防寒具を着けなかったことを後悔する。警戒を怠ったぼくの甘さを攻めたてるように、むき出しの皮膚を氷漬けにしていく。
     気が遠くなるくらい歩いてようやく山のテッペンに着く。遮るものを失った場所には暴風が容赦なく吹きつけている。雨筋が真横に走り、雨つぶてが痛いほど顔に叩きつけてくる。
     山頂エイドのテントに逃げ込む。テントといってもほとんど吹きさらしで、暖を取れる場所ではない。
     エイドのおばさんに頼み、ハンドポトルにブラックコーヒーを入れてもらう。待ち時間に椅子に座っていると、体温は下がる一方。一刻も早く山を降りないと、身体が動かなくなりそうだ。コーヒーを注いでもらったらすぐにテントを出る。背中から雨がバシバシ当たり、一瞬で頭から脚の爪先までびしょ濡れになる。
     ボトルをシャツのお腹のあたりでくるむ。触ると火傷しそうな熱湯だ。貴重な熱源を逃がさないように両手で包む。しかし熱湯コーヒーは、ほんの数分で冷え切ってしまい、カイロの役目を果たさなくなる。
     つづら折れの下り坂をターンすると、真正面から雨と風が襲ってくる。ガチガチガチと鳴りだした奥歯の震えは前歯に伝播し、手にも脚にも広がっていく。
     後ろからランナーが次々に追い越していく。20人くらいいる。関門時間ギリギリで進む最終集団なのだろう。泥濘んだ土道を水しぶきをあげて走るさまは勇猛果敢だ。ヘッドランプの光の輪の先に、上半身裸のヨーロッパ系の選手が浮かび上がる。プロレスラーのような分厚い胸板。獣のような雄叫びをあげ、飛び跳ねながら駆けていく。このすっ裸男の登場が、精神的ダメージを壊滅的なものにする。
     (こっちは凍え死にそうなのに、裸でも平気な人間がいるとは。こいつらとはタフさも理性も、何から何まで全部違ってる)と絶望する。
     全身がひどく震えているのに、生暖かい感覚がしのび寄り、眠気が思考を鈍くする。これってニュース番組によく出てくる、無防備な軽装で夏山に入り、ちょっとした天候変化で遭難して迷惑をかけるドシロウト登山者と同んなじ?  ぼくは今、最も恥ずべき存在に片足がかかっている。
     山の麓にサンガス村が見えてくると、嘘のように風がやむ。といっても身体の震えはなおひどく、手も脚も思うように動かせない。村の中にエイドがあるはずだが、いくら歩いても到着しない。
     民家の駐車場を使った小さなエイドに着いたのは早朝の6時すぎ。山中で行き倒れにならず、人に迷惑をかけなかったことだけを安堵する。
     椅子に腰掛けたままガタガタが止まらず、喋るのも困難なぼくの様子を見たエイドのおっちゃんが、ぐっしょり濡れたシューズ、ソックス、シャツと、パンツ以外のすべてを脱がし、乾いたタオルで全身を拭いてくれる。ひと通り拭き終わったら、大きな毛布でくるんでくれ、ゴシゴシ摩擦して温めようとしてくれる。しかし冷え切った体はまったく発熱しない。
     ぼくが最終走者かと思っていたが、後からエイドに入ってくるランナーがいる。飲み物をコップに注いでもらおうとするが、手の震えがひどくて、うまくコップを構えられない。ぼくと大差ないくらい衰弱しているようなのに、彼はまだレースを諦めていない。エイドを離れ、ゴールの方向へと消えていく。ぼくにはもう、その気力はない。
     164.5km、ゴールまで残り82km。8連敗が確定した。
     素っ裸のまま収容車に放り込まれ、街に着くまでの3時間、震えっぱなしであった。運転手がゴミ袋でぐるぐる巻きにしてくれたが、温かさは戻らないままであった。
     山を彷徨っていたのは、何十分間なんだろうか。2時間はかかっていないと思う。そんな短時間のうちに、絶好調な状態から低体温症で行き倒れる寸前まで追い込まれるなんて、人生と同様に一寸先はわからない。
          □
     レースから3カ月が経った。ゴールまで82キロも残しておいて言うのもなんだが、ツメが甘すぎるのである。なんで防寒具つけんかったかなー。
     サンガス山にさしかかるまでは、汗をかくほど暑かったのである。アプローチの登り坂をぜんぶ走りきれたことで、調子がいいと判断してしまった。実力どおりにフラフラでたどり着いていたなら、山麓エイドに用意してあった防寒具をまとったはずだから、違う結果になっていたかも知れない。もっと寒い年ならば雪まで降り積もるというサンガス山を、甘く見た結果だ。
     考えてもすべて後の祭り、アフター・ザ・フェスティバルである。
     悔やんでもどうしようもない失敗はさておき、収穫はたくさんあった。
     大塚製薬の経口補水液OS-1は圧倒的に効いた。嘔吐や脱水症状に陥らなかったのは8年目で初めてだ。粉状のOS-1をハンドボトルの水に溶かしながら、ちびりちびり飲んだ成果である。
     マタズレ対策として、古バスタオルを幅20センチほどに細長く断ち、腹に巻いたのも功を奏した。上半身の滝汗が下半身に流れ落ちるのをダムとなって防いだ。ランニングパンツは乾いたまま。ランパンの股間が濡れてない限りマタズレにはならない。
     緑茶パックをボトルに入れ、即席の水出し緑茶を飲みながら走ったのも正解だった。レース中は、エネルギー補給の必要から、糖分の多いドリンクやゼリーを10kmにつき500mLほど摂取せざるを得ないが、累積5リットルもいけば気持ち悪くなってくる。緑茶はそんな口の中をさっぱり洗い流してくれた。
     ふたたび負け惜しみを述べるが、風雨にくじける瞬間までは、ゴールを狙う気力、体力とも十分にあった。そして、今回も過去最長地点から、ゴールまで30キロ近づいた。このペースで前進するなら、あと3年で完走できる。まだあきらめてはいないのですよ。
      

  • 2018年01月20日バカロードその114 酸欠の脳みそに浮かぶこと

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

        昨今、市民マラソン大会の参加料の高騰が続き、ハーフマラソンなら5000円、フルマラソンだと1万円近くかかるようになった。それでも赤字が出ている大会は少なくないそうだが、なんだかんだと無駄な物をいっぱいくっつけるから支出が増えてる気がしてならない。

     読み返しもしない分厚い選手名簿とか、21世紀にあるまじき時代遅れのロゴマーク入りTシャツの配布はやめて、かかる経費分をカットして参加費の値上げをやめてもらいたいものである。スタート会場とゴール会場をループにするだけで、荷物の運送費や、参加者をピストン輸送する経費が不要になるのだが。地元のバス会社にお金を落とすために、無理やりスタート・ゴール会場を離れた場所にしてるのかもしれんね。
     そんな世相に与しない大会もあります。毎年11月に神山町で行われる神山温泉すだちマラソンはとてもよい大会なんである。10kmレースとはいえ参加料金が2000円と良心的で、質のいいタオルやすだちドリンク、神山温泉の入浴半額券をもらえる。2000円の対価としては余りあるサービスで、これ以上の過剰なサービスがないのが良い。
     現行大会になる以前の「神山町マラソン大会」は、鮎喰川上流の下分地区にある中学校の校庭からスタートしていた。たしか受付で500円を支払って、布に数字が書かれたゼッケンをもらった(ゴールしたら汗びちょのゼッケンを返却します)。ゴールラインが近づくと、大会役員のオッチャンが大声でゼッケンナンバーとタイムを読み上げ、それを本部席の方が記録用紙に手書きでメモっていた。パンフレットもお土産も何もないけど、こっちは走るのが目的なんだから、国道を通行止めにして、車道の真ん中を走らせてもらえるだけでありがたや~と満足である。マラソンブーム前夜の大会と言えば、どこもそんな感じだったよねえ。
     そんな牧歌的だった大会も、今やランネットからエントリーできる。返却不要になったナンバーカードの裏にはちゃんと計測チップがついていて、ゴール直後に記録入りの完走証をプリントアウトしてくれる。すごいね、こういった町民マラソン大会にもデジタル化の波が届いているのである。コースは以前と逆向きになり、往路が登り坂で、復路が下り坂にと改良された。後半すごく楽できて、タイムが出やすくなった。

     朝9時の受付時間にあわせて現地へ着くと、スタート会場のすぐ隣の神領小校庭に車を停められた。本部席からの拡声器のアナウンスが聴こえてくるので、慌てて行動する必要がなく助かる。校庭を下った所のトイレ(大)前に待ち人はゼロ。マラソン大会のトイレといえば、足元が尿のしぶきにまみれた仮設ポットン便所というのが相場だが、ここのようにきれいな水洗トイレで用を足せるのは嬉しいことです。
     ぶらぶら土のグラウンドを横断し、これまた行列なしの受付をすませ、更衣室に指定された町民体育館へ。広々とした屋内にランナーの姿は数えるほどで、ゆったり座って準備できる。
     これがマンモス大会だとそうはいかない。ぼくの経験では、関西エリアの大会の更衣所では、アホみたいにデカいシートやマットを狭いスペースに広げて、場所取りに必死な腸内悪玉菌のようなオッサンが多い。今から花見や酒宴でもするんかよ? 場所がなくて困ってる人もいるのにストレッチ始めんなよ。こういう自己チューなヤカラは年寄りランナーに多い。マラソンを始めたばかりの若い人に「ランナーってマナー悪い種族だわ」と呆れられても厚顔無恥だから気にしない。着替えなんて、体育座りする面積だけあれば充分なのに、何考えてるんだかね。
     9時30分になると、地元のスポーツ少年団や、大人と子どものペアの部からスタートしていく。3kmで競われる中学生の部や1.7kmの小学生たちはガチンコな雰囲気だ。何かの駅伝大会の選手をこのレースの結果で決めるらしい。参加者は全部門あわせて620人、人口5500人の神山町としてはけっこう大きな催しなんではないだろうか。7割が町外からの参加者だというから、道の駅や神山温泉でお土産物がたくさん売れたらよいですな。
     青少年たちが走り終えると、いよいよオジサンとオバサンたちの出番である。10kmの出場者は270人、小ぶりなグラウンドは選手でいっぱいになる。最前列にはランパン&ランシャツの駅伝選手風の若者や市民マラソン界のレジェンドたちがずらり。鶏モモ肉のような形状をした太腿からしてレベルが違う。三列目くらいには半そでシャツと短パンの一般市民ランナーが陣取る。頑張る気まんまんのオジサンたちは、その場飛びなどをして筋肉を温めている。五列目からは徐々に長そでシャツやロングタイツ率が高くなる。持ちタイムと着用服の面積は比例しているのだ。
     号砲一発、選手たちはグラウンドの土を蹴り上げて、国道438号線へとなだれを打つ。速い、速い。こっちも周りにつられてダッシュする。キロ4分ペースなのに、グワングワン追い抜かれる。そうそう、これが10kmレースなんだよねぇ。心臓が口から飛び出しそうですよ、ほっほっほ。
     往路は登り、といってもたいした傾斜はない。向かい風が吹いている。それも気になるほどではない。前後に7人のランナーがいて、同じペースを刻んでいる。風貌を盗み見すると二十代や三十代の若者と思われる。彼らはライバルとは言えない。50mくらい前方に「その体型とフォームで、どうしてそのスピードが出るの?」とガムシャラ走りしているオジサン1名を発見。当面はあの人が宗猛で、ぼくが瀬古という設定でいこう。もとい。あの人が村澤で、ぼくが大迫だ。
     ラップタイムは1km4分00秒、2km4分09秒、3km4分08秒とそこそこ。「ゆっくり、大きく」と自分に言い聞かせる。4kmと5kmの途中で急坂があることはわかっている。去年は4分25秒までラップを落としたはずだ。登りでもがいておけばタイムを短縮できる。ゼエゼエと青い息を吐いて4km4分11秒、5km4分11秒と落ち込みを防ぐ。5km通過が20分39秒、悪くない悪くないよーと小出監督調で自分を褒める。ちなみにぼくの10km自己ベストは41分25秒です。
     旧神山町マラソンの思い出がよみがえる下分集落。毎年「粟飯原」という食料品店で光月堂のメロンパンを買ってましたな。下分の先で折り返すと、復路は下り坂にプラス追い風という好条件になった。鮎喰川の清流を左手に見ながら、広々とした一直線の国道を、山と空に吸い込まれるようにスピードを上げて走る。気持ちいいねー。6km3分55秒、7km3分55秒、8km3分55秒と3分台のラップを連チャンする。前から落ちてくる若者ランナーを1人、2人とパスしていくと、自分がデキる人物のような気がしてきて、心肺を追い込んでいても苦しさを感じない。
     スタート直後からずうっと前にいるオジサンランナー(仮想・村澤)が、復路に入って両手両足をバタつかせ苦悶しているが、どうしても距離が縮まらない。「がんばるなあオジサン。がんばれオジサン!」ともらい泣きしそうになる。自分がオッサンになると、同世代の頑張りに涙腺が弱くなるのである。村澤オジサンの更に前に、尊敬する市民ランナーの後ろ姿も見え隠れしはじめた。何とか彼らに追いつきたい、追いすがろう。
     9kmラップ3分56秒。通過タイムは36分20秒・・・と表示された腕時計をチラ見する。4km続けての3分台は明らかにオーバーペースで、頭の中は酸欠。数字の意味する所が入ってこない。
     ラスト1kmを3分39秒で行けば10km39分台というぼくにとっての快挙を達成できるのだが、追い込みすぎの9km地点で、そんな複雑な暗算はできない。とにかく前を行くランナーをとらえようとヒィヒィ嘶きながら走る。
     一周200mもない町民グラウンドへと駆け込む。前に追いつくどころか、後ろから何人かの足音が猛々しく迫ってくる。短距離スパート、不発です。なんとか追手を振り切りゴールラインを越え、記録証のプリンターまでふらーふらーと歩く。プリントアウトされるまでのテケテケテケテケという機械音も待ち遠しく記録証を受け取ると・・・40分04秒なり。はぁー4秒足りんかったか。
     体育館で汗ボトボトのシャツを着替えながら、(4秒って何mなんだろ?)と思う。今なら暗算できますよ。キロ4分なら約17mってとこだ。ラスト1kmで残りタイムを暗算できていたら、ダッシュかまして17mくらい縮められた気がする。めったにないチャンスだったのにとちょっとだけ残念。
          □
     ってな感じでレース直後はたいして悔しくなかったが、日増しにあの4秒が、喉に刺さった棘みたいに鬱陶しくなってきた。しょっちゅうダメダメレースばかりして、反省する態度ゼロなのに、このたびは前向きに悔しがっているのが新鮮である。脳みそを酸欠状態まで追い込んだので、人格に影響したのだろうか。眠っていたスポーツマン魂が呼び起こされたのだろうか。
     悔しい、この悔しさを何にぶつけるのか。答えは簡単だ。インターバルだ。インターバルにぶつけるしかない。速い人はみんなやってるインターバル。すごく好きじゃないインターバル。明日せないかんと考えただけで鬱になり、結局1年に2回くらいしかやらないインターバル。
     しかし、絶対的なスピードを上げるにはインターバルしかない。ジャック・ダニエルズ先生のVDOTの表などをむさぼり読めば、3分40秒で7本まわせたら、10kmで40分を切れるはずだ。
     12月の徳島は、それまでの暖冬日和とは打って変わり、毎日風速10メートル前後の冷たい風が吹き荒れている。風が止む日を待ちきれず、短パン半そでシャツで外に飛び出す。
     1000メートルを7本、アムロ行きまっす!  4本めまで3分45秒、5本めに3分35秒にあげて撃沈。家からずいぶん遠くまで来てしまった。うううっ、同じ場所を往復しておけばよかった。
     氷雨はみぞれに変わり、手足の指先はドライアイスに触れたように痛い。とめどなく流れる鼻水は、手鼻をかんでもかんでもダラタラと糸を垂らす。突風をナナメにした傘で避けながら犬の散歩をするご老人が、短パンでよろよろ歩く怪しい男の姿に足を止める。濡れた柴犬が、不思議そうに黒い瞳をこっちに向ける。
     正面から叩きつける風と雨。腕や足の表面から皮膚感覚がなくなってくる。寒い・・・家までたどり着けるのだろうか。インターバルで酸欠になった頭を、ぐるぐる記憶がまわる。
     あの夜も、ぼくは横殴りの凍った雨のなかを、打ちひしがれながら歩いていた。

     7年連続リタイアという大会の歴史に残りかけの不名誉記録を引っさげて、今年もまたギリシャはアクロポリス神殿から古代戦闘国家スパルタ(今は女子好みの可愛らしい観光の町)までの247km、36時間制限のレースに挑んだ。
     過去7年間の不甲斐なさや反省の蓄積は、あまりに多くの教訓を残しすぎ、決まりごとの多い宗教宗派のように、膨大な禁則事項となって、ぼくの頭を占めている。ギリシャに向かう機内でメモ書きしていると、不眠症も手伝って100項目にも膨れ上がり、走りながら情報処理できる限界をとうに超えてしまった。 以下はメモの一部である。

    ・アホな暴走をしない。
    ・キツい予兆があればペースをキロ1分落とす。
    ・脚の筋肉をいっさい使わない。
    ・無酸素運動をして後半にダメージを残さない。
    ・登り坂は積極的に歩くか、ゆるく走る。
    ・42キロ地点を4時間すぎても構わない。いやむしろ3時間台で行ってはならない。
    ・エイドでコーラを口にしない。
    ・電解質、アミノ酸を摂りつづける。
    ・塩は10キロに1タブレットかじる。
    ・100kmのラインを気力満タン、余裕しゃくしゃくで越える。
    ・どんなにキツくなっても、道ばたで倒れることは絶対しない。歩きつづける。歩いているうちに必ず復活する。
    ・ゴールのことを考えない。次のエイドまでの道のりだけ考える。
    ・残り距離や、残り時間を考えない。次のエイドを越えることだけに集中する。

     要するに、ぼくにとってのスパルタスロンとは、制御できないバカな自分をいかに抑制するかの戦いなのだ。能力以上にスピードを上げたり、序盤にタイムを稼ごうとしたり、乾きに耐えかねて糖質飲料をガブ飲みしたり。嘔吐が止まらないからってレースを放棄したり、眠いからって草むらで熟睡したり。そういう自分を「そうあらぬように」コントロール仕切った先に、そのだいぶ先に、うっすら蜃気楼のようにゴールが浮かびあがる・・・はずだ。
     レースがはじまる。百の戒めを守りに守り、抑制に抑制を重ねる。1km6分~6分10秒ペースを守る。序盤の関門がキツいスパルタスロンではギリギリの最遅ペース。最後尾ランナーにつけた大会車両が見えるが気にしない。
     100kmの計測ラインを11時間01秒で越え、関門アウトまでの余裕を1時間24分まで増やした。気力、体力は満ちている。順調すぎるほど順調。完走を阻害する要素は、たったの1つも見当たらない。100kmから先は、山里と山里をつなぐ傾斜のある道へと入っていく。日没が迫ってきた。山岳エリアへと続く、薄暗く長いアプローチ道を、ぼくは意気揚々と駆けている。その先に、メモ書きした百の戒めではまったく想定外であった嵐が、怒涛のように襲ってくることを、その時はまだ知らないのであった。 (つづく)

  • 2018年01月20日バカロードその113 負けっ放しもまた人生よ

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく) 

      生来の短絡さというか、何をするときも取り掛かる前は「これはうまくいくに違いない」と思い込んでしまう。必ず成功すると確信しているために、リスクヘッジを一切しない。こんな問題、あんな問題が発生した時に、どう対処すべきかという想定ができない。起こってもいないことに用心深く準備するのはおっくうであり、何もしない。

     だからいざ取り掛かると、自分の能力を顧みなかったツケが波状的に押し寄せてくる。それが商売ならば、目論見はことごとく外れ、作ったものは売れ残り、目も当てられない数字が並ぶ。それが人間関係ならば、大切な人ほど去っていき、育てた人にはあんたバカねと呆れられ、人を信じて貸した金はその人とともにどこかへ消えていく。
     歳をとるごとに、持ち前の忘れっぽさに拍車がかかり、失敗しても失敗しても、失敗したことを3日で忘れるので、すぐまた「次はうまくいきそうだ」と未来を夢見て楽しい気分に浸る。そしてまた船を漕ぎ出すと、水漏れがはじまり「あーあ、こんなこと自分にできるはずないのに」と櫂を投げ出してしまう。
     さてランニングにはその人の性格が表れるというが、本当にそうだなぁと思う。特に1日じゅう走っているウルトラマラソンや、何日間もぶっ通しのジャーニーランでは、人間性そのものが噴き出してしまうので、まったく僕にとってはよろしくない。
     暑さ寒さに弱く、痛さ辛さから逃げまわり、「やってはみるけどすぐにあきらめる」という人生の価値観がモロに出てしまう。足を引きずり、シャツやシューズを血染めにし、それでもゴールを目指しているランナーがたくさんいるなかで、僕は足にちょっとだけマメができたくらいでバス停の時刻表をチェックしては、ほどよい時間にリタイアする計画を立てている(200km以上の大会では収容バスは回ってこないので、自力でどこかに帰り着かなくてはなりません)。
     2017年もそろそろ終わりが近づいてきた。今年こそすべてがうまくいくと1月頃には血気盛んに高ぶっていたが、振り返ってみれば、何もかも失敗づくしであった。過去から一切学ぶ姿勢のない自分の軽薄さを、年末の今だからこそ省みようではないか。

    【別府大分毎日マラソン・大分】(2月)
     高校時代の同級生のタイラくん(羽ノ浦のスーパーニコー店長さん・アラフィフ)が、いつもフルマラソンをサブスリーで走っては、全力を出し尽くした果てにゴールで倒れて担架で運ばれるのを見てうらやましくなり、自分も生きているうちに1回だけでもサブスリーに挑戦したいと思って、身の程知らずに別大(べつだい)にエントリーしてしまった。しかし慣れないスピード練習に取り組んだせいでストレスが溜まり、絶食とドカ食いを繰り返しているうちに、ベスト体重58kgで別大に挑むはずが、大会2日前に5kgもオーバーしている。どうしても58kgにしたいものだから、前泊した別府・鉄輪温泉の宿の内湯や、100円で入れる外湯めぐりスポットに2日間で計10度入浴し、皮膚が真っ赤になるほど熱い湯船やサウナで汗を流しまくって4kgを落とした。ベスト58kgより1kg重いが許容範囲に収まった。
     ところが、本番当日を迎えるとスタート直後から体にまったくキレがなく、ぜんぜんスピードが出ない。10kmを45分13秒とサブスリーなんて問題外の遅さ。別大だとこれは最後尾に落ちていくペースだ。案のじょう、最初の折り返しですぐ後方にパトカーや収容バスが迫っているのを知る。
     ハーフを1時間37分26秒。こりゃダメだ。何がダメって喉はカラカラに乾き、汗がまったく出ず、口に猿ぐつわ噛まされたみたいに呼吸ができない。27kmで足がふらつきはじめ、33kmからの1kmに9分かかる。おお、これは箱根駅伝の中継でときおり見かける悲劇的な選手の姿なり。完全に脱水症状である。温泉めぐり10カ所、やり過ぎだったみたいです。
     やがて最後尾の集団に抜かれて、パトカーの拡声器から「はい歩道に上がってください」との指示が飛んでジエンド。サブスリーはおろか3時間30分の制限時間すらクリアできず、収容バスの乗客となった。

    【川の道フットレース・東京~新潟】(5月)
     太平洋岸から日本海までの514kmレース。スタートからわずか110kmあたりで体調がひどく悪化し、両手両足ガタガタ震え、口もきけないほど衰弱した。
     時刻は深夜2時、場所は埼玉県の寄居という田舎町(設楽啓太・悠太の生誕地です)。動いている電車もバスもなく、このまま行き倒れるのかなとモウロウとしていた頃にエイドに着く。気がつくと顔が地面にくっついている。ぼくはどういう状態なの?
     スタッフの方に導かれ、エイド車両の中に誘導される。シートを横倒しにし、ヒーターをフルパワーに入れ、具合が良くなるまでここで寝ろと言う。無言で従い、うわ言をつぶやきながら吐き気に耐え、3時間ほどが経って空が薄っすら白くなる頃には、どうにか車からはい出せるほどには回復していた。
     ほとんど走れない代わりに、休憩を入れずひたすら歩く。200kmを過ぎると両足裏とも真っ赤に腫れあがる象足になり、一歩一歩に激痛が伴うが、やめようかという気分にはならない。いつものことだがビリケツ付近にいると、前からランナーが落ちてくる。皆どこかをひどく故障していて、拾った棒を支えに片足だけで歩いている人や、泣きじゃくっている人など人間模様が慌ただしい。
     四方を山に囲まれた佐久平盆地を貫く真っ直ぐな道。傍らを流れる千曲川のせせらぎに夕陽が反射する。冠雪を抱いた浅間山や、白雪連なる北アルプスの峰々から冷たい風が届く。痛々しく脚を引きずるランナーの背中がセピア色の風景に溶け込んでいく。「川の道」ってどうしてこうも哀愁に満ちてるんだろね。バカなことに必死になってる人間ってやつが素敵だからかな。
     昼と夜が5回ずつやってくる。
     気温30度を超す真昼には、コンビニで買ったアイスを頭や首に巻く。凍える夜には道に落ちているジャンパーやヤッケを何枚も拾っては重ね着する。眠気に耐えられなくなると、公衆便所の温かい便座を抱きしめて15分だけ眠る。
     そうやって最下位のあたりを順調にキープし、ゴール制限時間の132時間に対し、20分ほどの余裕を持って最後の街となる新潟市に入る。日はとっぷりと暮れている。
     ゴールの7km手前で国道を逸れて、信濃川の堤防道路に上がるコース設定だが、そのあたりで住宅街に迷い込む。抜け出そうとしても寝不足からか方向感覚がない。
     いよいよ追い詰められ、最終手段だとスマホのGPSを起動させるとバッテリーの残量が1%しかない。(この地図を目に焼きつけるんだ!)とマナコをカッと見開いた瞬間、ディスプレイは暗転する。網膜に一時保存した地図の残像を頼りに、信濃川の方へと駆けていく。夜の風景の奥に、かすかに横一線に暗い影が見えた。(土手だ!堤防だ!助かった!)。長時間迷っていたようで、時計を見ると残り7kmをキロ6分ペースでカバーしないと間に合わない。
     もう全力で走るしかない。駆ける駆ける、息を切らせて駆ける。510km歩きとおしたズタボロの脚で、この大会最速のスピードを出し、街灯のない土手や河川敷を突っ走る。
     ゴールまで残り1km。前の方からたくさんの人が駆けてくる。地元ランナーや他の選手の応援の方、エイドで助けてくれたスタッフの方もいる。僕の周りを取り囲み、伴走をしてくれる。「きっと間に合いますよ、でも油断するとアウトになるので気を抜かないで。ギリギリですよ」と引っ張ってくれる。
     大きな建物の角を曲がると、直線の向こうの温泉施設の玄関に、ゴールゲートが光り輝いている。もう間に合う、ゆっくりと噛み締めながらゴールしよう。
     131時間58分11秒78。6年前に初完走したときのタイムより100分の22秒速い自己ベスト記録だ。6年間で僕は100分の22秒進歩したってことだ。

    【土佐乃国横断遠足・高知】(5月)
     高知県の室戸岬から足摺岬まで土佐湾をめぐる242kmの道。川の道フットレースの514kmを走り終えてからの中2週間レストは、回復するには短すぎる。走りだした最初の1kmが515km目に感じる。クサビカタビラを纏ったかのように全身が重く、倦怠感がひどい。キロ7分でだましだまし進んでいた脚は、70km付近で反乱を起こす。「これ以上は走りたくないし、歩きたくもない、もう何もしたくない、帰りたい」。
     すっかり嫌になって、高知龍馬空港の滑走路の先の道ばたに寝転んで、夕焼け空に離着陸する飛行機を(きれいだなあ)と下から眺めていると、20分ほどで心変わりが始まる。(せっかく走りだしたわけだし、10km先の桂浜エイドにはカツオの塩タタキがあるし、80km先の四万十町エイドには窪川ポークの生姜焼き定食が待っている。せめてそこまで歩いていこう)と思い直す。あんなに自暴自棄になってたのにさあ、食い物への欲求だけで立ち直れるものなのね。
     この大会、各エイドやゴール後に出してくれる土佐食材を使った料理の味が格別なのである。さらには、道すがらにある売店やファストフード店に、高知でしか食べられないスイーツがあることを僕は知っている。
     20km、30km先のソフトクリームやアイスクリンに誘われながら、2晩の徹夜を経て、3日目の朝に足摺岬に到着する。記録は47時間14分。ゴールすると大会スタッフの車に乗せられ、高台にあるリゾートホテル・足摺テルメのお風呂に送迎してくれる。ほこほこになった湯上がりの体に、土佐清水漁港でその朝水揚げされたばかりのカツオの刺身を生ビールで流し込む。うううっ、リタイアしなくてよかったー。

    【サロマ湖100kmウルトラマラソン・北海道】(6月)
     100kmを9時間未満で走る「サブナイン」は、僕にとって大きな勲章だ。キロ5分24秒イーブンで走り通せば9時間ちょうど。自分の走力だとよっぽど頑張らないと達成できない。理想のペースは最初の50kmを4時間15分で越え、どうやってもスピードが出なくなる後半50kmを4時間45分で耐え忍ぶ前半貯金型だ。
     スタート前から降りしきるオホーツク海の冷たい雨。シューズが濡れるのが嫌で、道路にできた水たまりをよけ、蛇行したりジャンプを繰り返していると、脚がだるだるになる。しかし濡れシューズでキロ5分を維持する方が難しい気がして、忍者のように飛んだり跳ねたりがやめられない。フルマラソン地点を3時間46分で通過、無駄な動きが多いためか予定より10分遅い。
     それほどまでに努力を重ね、乾いたシューズを守り抜いていたまである。ところが、フル地点直後に用意された仮設トイレで用を足そうと駆け寄り、トイレドアの真下の草地を踏みしめた瞬間、左足が「ドボン」、勢い止まらず右足も「ドボン」。草に隠れていて見えなかったが、トイレの周囲が足首まで浸かる深い水たまりになっていたのだ。引っこ抜いたシューズから滝のように水が滴り落ちる。おいおい、なんてトラップだよ。
     意気消沈激しく、急激にスローダウンし50km通過は4時間31分。タプタプ音をたてるシューズに、もうどうにでもなれとヤケクソ気味。プールと化した歩道の真ん中をジャブジャブ直進していたら更にペースダウン。ラスト2kmは意識が飛びかけて歩いてしまい、タイムは9時間45分11秒。
     冷静になってみれば、たかだか靴が濡れた程度のこと。そんな些細なできごとで大きな心理的ダメージを受けるワタクシ本来のダメダメっぷりが全開となったレースであった。

    【みちのく津軽ジャーニーラン・青森】(7月)
     「奥武蔵ウルトラ」や「川の道」の運営で定評のあるスポーツエイド・ジャパンが昨年から始めた大会。250kmと200kmの部があり、200kmの方にエントリーした。
     スタート会場は弘前駅前の公園。小雨パラパラ模様の天気は、スタートから2kmほど先の弘前城に入る頃には土砂降りとなり、一瞬のうちに城内の遊歩道が小川と化す。しばらくたつと空は晴れ渡り、雄大な岩木山の三角錐が正面に現れる。しかし40km地点の白神山地では、アスファルトに雨の王冠が咲くほどの驟雨に見舞われる。
     それからも、雲が切れて晴れる兆し→やっぱし雨→強風が吹いて衣類が乾く→にわか雨→一転カンカン照り、と繰り返しているうちに股間に異変が起こる。マタズレである。マタズレなんてウルトラマラソンにはつきもので、マタが痛い程度のことで泣きが入るような根性なしは大会に出なければよい・・・のが定石であるが、そんなんわかっていても涙が溢れるほど痛いのである。
     グレー色のパンツ表面は股間を中心に赤く血に染まり、その周辺からスソの部分まで乾いた血でドス黒く変色している。脚を交差するたびに、パリパリに乾いたパンツ内側の布地が皮膚をこそぎ落とす。パンツをめくってマタを覗いてみると、縦8センチ、横4センチ幅の皮膚がなくなっていて、ザクロのような真紅の生皮がむきだしになっている。脚を動かし続けているために、傷口がカサブタで閉じられる余地がない。カサブタにならないと血は止まらない。内股から流れ出た血はカカトまで伝い、シューズもえんじ色に血塗られる。
     流血がはじまり5、6時間が経つと、両手の指先にピリピリと痺れがくる。次にグー、パーができなくなり、痺れが両肩まで上がってくる。ほっぺたを触ると感覚がない。頭をゲンコツで叩いても自分の頭じゃないみたい。麻痺が拡がってくると歩くのもままならなくなり、1時間に1.5kmしか進まない。ふらふらしながら103kmエイドのある十三湖の中島に到着し、リタイアを告げる。
     案内された浴室にこもり、シャワーノズルの先からちょろちょろ出した水をおそるおそる股間に当てると叫び声がギャーッと漏れる。痛え、痛すぎる。ナイフで生皮をはがされてるみたいな痛さだ。
     脱いだランニングパンツにシャンプーをすり込みゴシゴシこすると、見たことないほどの量の血液の塊が排水溝へとドロドロ流れていく。パンツを何度絞っても血は止まらない。鮮血にまみれた浴室の床を見つめながら(ああ、リタイヤしてよかった・・・)と心の底から思うのでした。

    【広島長崎リレーマラソン・広島~長崎】(8月)
     本誌10月号~11月号に様子を掲載させてもらったが、広島市から長崎市まで全行程423kmのうち半分の232km(福岡県直方市)までしか進めなかった。いやほんとマジで体力ねえわ。

    【伊都国マラニック・福岡】(9月)
     台風直撃のあおりを食らい、103kmのコースのうち山岳部分をカットして、平地のみの52kmに短縮された。朝5時のスタート時刻はそのまま実施されたので、大半のランナーが昼前にレースを終えた。僕がゴール地点の海辺の民宿に着いたのは午前11時だが、先着ランナーによる飲み会がはじまっていた。昼2時くらいにはテーブルの上に一升瓶やワインボトルが並び、へべれけになってる方も散見される。着座したままゲロを吐いて倒れ、それでも飲みの席に復帰しようとする妖怪も目撃した。
     夕方になるとバーベキューハウスに移動し、生アコースティックギターの伴奏で大会用に創作されたマラソンソングを選手とボランティアスタッフ百数十人で熱唱。九州のランナーらは皆ソラで歌えるほどの有名ソングのようです。炭火焼肉をたらふく食うと、再び和室の大部屋に取って返し、何次回目かの飲み・・・その宴は深夜1時まで続いた。いや、僕がギブアップして寝てしまったのが深夜1時なので、宴席はもっと続いていたのかもしれない。短縮コースながら大嵐のなかを52km走った直後から14時間、酒をぶっ続けで飲むという、恐るべき九州ランナーたちの生態にド肝を抜かれる。
     九州エリアの大会に参加するたびに思い知らされるのだが、この人たちは本当に走るのと飲むのが好きなのだ。
     「お風呂に行こう」と誰かが言いだせば、200kmも彼方の温泉まで山脈を横断していくし、「飲みに行こう」と盛り上がれば徹夜で120km走って他県の飲み屋まで出かける。博多、北九州、熊本といろんな街にウルトラランナーの巣窟たる居酒屋があるのだそうだ。
     これが九州ウルトラランナーたちの日常。毎週末のように練習会と称しては100km以上走り、ゴールを居酒屋か温泉に設定して、底なしで飲み干す。レースともなれば、エイドにビールを仕込み、レースだけど立ち飲み屋に寄り道し、ゴールしたら徹夜で飲み明かす。生命体としてのエネルギー量が凄すぎて圧倒される。悩みの一つや二つはあるんだろうけど、愚痴や不満は酒の肴にはならない。ああ九州って、地上に咲いたウルトラランナーの花園なのかも。

     振り返るとこの1年、まともに走れたことがほとんどなかった。そしてまた人生も同様である。
     欲しい物は手に入らない、願ったことは叶わない、チャレンジしたら失敗する、夢はほとんど実現しない。それは今までずいぶん学んできたので、今さらショックを受けたり落ち込んだりするほどではない。
     連戦連敗が常態だと、恐れるものがなくなる。失敗に慣れると、失敗が怖くなくなるというメリットがある。人はみな失敗を恐れて二の足を踏むものだが、「どうせ失敗するんだから」と気楽に一歩を踏み出せる。だからまた来年もいろいろやってみるとしよう。

     しかし、ゴールテープなんてただの一本の布切れだろうに、走っても走っても届かないもんだね。今や幻のように遠い存在である。だからたまにゴールテープを切ると、輪にかけて何倍も嬉しいのである。リタイア続きだと、そういうお得感もありますね。

  • 2017年11月23日バカロードその112 真夏の遠い道 広島長崎423km 後編

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

    (前号まで=「広島長崎リレーマラソン」に単独で出場した。広島に原爆が投下された8月6日午前8時15分と同時刻に原爆ドーム前で黙祷を捧げ、9時にスタートを切る。

    そして長崎に原爆が落とされた8月9日午前11時までに爆心地に近い浦上天主堂遺壁付近へゴールし、惨禍のあった時刻11時02分に合わせ黙祷を行う。総距離は423km。制限時間は約74時間。単独走者はアーリースタートを選択でき、正式スタート時刻の9時間前、8月6日午前0時にスタートをしてもよい。この場合、制限時間は約83時間に延長される)

     午前0時のアーリースタートの場合、制限時間の83時間内に4晩を越えなくてはならない。奇跡的にゴールまで達しても(13年間で完走者はたった1名)、道半ばで断念しようとも、4度の夜がやって来るのは同じだ。昼間の気温は35度前後になるので、日中に連続走行するのは困難と思われる。多少なりとも気温の下がる夜間をうまく使えるかが肝となる。
     この大会に、公式エイドや荷物預けはない。必要なものはすべて自分で背負い、調達する。休憩所や仮眠所も設けられてはいない。過去の参加者の記録を読むと、コース沿道にあるスーパー銭湯やマンガ喫茶などで、数時間の仮眠を取りながら進んでいる。主催者が用意してくれたルートマップには、コース沿いの温泉施設やビジネスホテルの情報が詳しく記されている。自分でも調べてみたところ、全コース上に日帰り入浴できる施設は10カ所ほどある。しかし、24時間営業しているのは1カ所のみで、他はすべて深夜11時から翌2時までの間に閉館する。深夜2時以降に睡眠を取るなら、マン喫か、あるいはバス停や駅舎か、奮発してビジネスホテル泊りか、という選択となる。
     スタートからゴールまでに通過する県は、広島、山口、福岡、佐賀、長崎の5県。本州と九州を海底の地下道で結ぶ長さ780mの関門人道トンネルは徒歩で抜けられるが、ゲートが開くのは朝6時から夜10時までと限定されている。したがって夜10時以降に関門海峡に着いてしまうと、そこから先には進めない。朝の6時まで待ちぼうけを食う。
     これら諸条件に自分の能力を加味して、完走するための3条件を洗い出した。
    ①本州区間の終点である関門人道トンネル(190km地点)を、スタート翌朝の早朝6時~7時に抜けること。つまり190kmのリミットは約30時間。
    ②九州区間(距離233km)のペースは、仮眠によるロスタイムを含めても時速5kmを下回らないこと。
    ③スーパー銭湯などを利用しての仮眠は1日1回のみ。各所での滞在は2時間から3時間以内に抑えること。
     かつて錚々たるランナーが打ち砕かれてきたこの道を、ぼくが完走できる確率はゼロパーセントだろう。だけど自分の能力の許す限り、一歩でも前に進みたいと思う。
         □
     深夜0時スタートにも関わらず気温はムシムシと暑い。そして地図読みの能力が低いために、何度も道に迷っては正規ルートへの遠回りを繰り返す。夜が明けてからは、脳天をカチ割られそうな太陽の熱波に襲われ、たった60kmしか進んでないのに熱中症に陥る。「南無三!」とばかりに小虫に毛虫に蛾が浮かぶ水たまりに飛び込み、ピンチを救われる。
     水場のない峠道を下り終え、いったん国道2号線に出てしまえば、コンビニが4~5kmおきにあり、熱中症の心配はなくなる。コンビニが現れるたびに、大袋入りのクラッシュアイス(1kg)を買い込む。まずは、タオルに氷をくるんで首筋に巻き、頸動脈を冷やす。お次にひっくり返した帽子に10カケラほど入れ、脳天にこんもりと山盛りに。ハンドボトルには詰められるだけ詰めてドリンクを極冷えに。余った残り半分は、ビニル袋のままリュックに入れて背の部分に当てがう。
     どんなに気温が高くて意識もうろうとしていても、こうやって氷で全身を冷やせばたちまち元気を取り戻すから、体温コントロールはホントに大切である。
     山口県周南市のJR戸田駅あたりが100km地点。夕焼けの色も沈んだ午後7時、スタートから100kmに19時間も要したことになる。そのノロノロペースにア然とする。道中サボッていたわけではない。そこそこ懸命に走っていたにも関わらず、結果として時速5kmしか出ていない。どこでどう時間が消えてしまったのか。コースロスしていた1~2時間に加え、氷を補給するたびにコンビニの前でしばらく座り込んでみたり、洗濯タイムと称して公園のトイレで昼寝したりの累積か。
     このころ並走したベテランランナーの方から「この大会では、コースマップに指定された道を忠実に守らなくてもいいんですよ」というお話を聞く。「道がわからなくなったらとりあえず国道2号線に出てみる」「毎年、同じ道ばかり進むのは飽きるから、道をちょこちょこ変えて走っている」といったハウツーも。(なーんだ、道を間違えた地点に戻ろうとジタバタしていた自分はおバカさんだったのね)と無駄な努力に費やした時間を惜しむとともに、脱力した心境になる。
     すると心にムクムクと邪念が生じる。(あんまし足も動かないし、眠くなってきたし、ここはひとつ一晩きちんと睡眠を取り、心と身体をリセットしてはどうだろう)というもっともらしいサボり案を思いつき、114km地点である防府駅前のスーパーホテルを即座に予約する。3800円で温泉と朝食つきというお得な値段。
     22時30分頃、ホテルにチェックインする。服を着たまま冷水シャワーを浴びつつシャンプーで同時に洗濯する荒業により睡眠時間を1分でも長く確保。ベッドに横たわり、発泡酒をプシュッと空けると、テレビでは世界陸上の女子マラソンのライブ放送中。先頭集団に食らいつこうとしない日本代表選手に対して「何のために代表になったんだ! 潰れてもいいからトップを目指すべきだろう!」とハッパをかける。しかし、かくいうわたくしは歩くより遅いペースで一日を過ごし、徹夜ランを放棄してぬくぬくとベッドに横たわり、淡麗〈生〉でよい気分。女子選手の皆さん、すみません。
     目覚まし時計を午前3時にセットし「明日は絶対に関門海峡まで行くぞ、オー!」と誓って眠りに落ちる。ところが目が覚めると夜はとうに明け、時計は午前6時を示している。ちょうど朝食バイキングのはじまる時間で、どうせ寝坊したなら朝メシもいただこうと食事会場へ。バイキングのおかわりを3回転する。足はダメだが食欲は旺盛なのだ。
     朝7時30分に遅い出発をする。防府市から山口市までの20kmほどはキロ6分台で遅れを取り戻そうと奮闘するが、暑くなるとまたバテバテになり、よちよち走りのペースに戻る。
     もはやコース上で大会参加者の誰とも会わない。ホテルで寝ている間に、単独走ランナーだけでなく、9時間遅れで出発した全リレーチームに置き去りにされたのだろう。ダントツのビリに違いない。(どうせこんなに遅いのなら、ジャーニーランを楽しめばいいさ)という悪魔のささやきが聞こえてくると、その意識をぬぐい去ろうとしても速いペースに戻せない。
     主催者が配布してくれたマップには、赤線と緑線で指定された何本かの道がある。赤線は基本となる推奨コースだが、複数描かれた緑線の道には、過去からのいわれのある旧街道や史跡が点在している。そんな旧街道沿いの街々には、いま生活している住民たちの匂いが溢れている。
     たとえば、JR厚狭駅前(山口県山陽小野田市・160km地点)の古い商店街では、正面から夕陽が差すなかを、嬌声をあげて道をゆく少年たちの服が白ランニングに短パン姿であったりして、昭和の中期頃にタイムスリップしたかのような不思議な感覚に包まれた。
     あるいは宇部市の郊外では、平凡な平屋の民家の駐車場に、レクサスやベンツ、BMWなどの高級車が停まっていることが多く、原油や鉄鋼に比べてセメント産業は安定的に儲かるのかなあ、などと思いを巡らせたりする。
     そうです。気分はとうにレースモードを失い、走り旅を楽しむ熟年ランナーと化してしまっているのです。
     昨晩、発泡酒を飲みながら発案した「明日中に関門海峡を越える」という目標は霧散し、(無理すれば関門トンネルには夜10時までに着くけど、深夜に大都会の北九州市街に入っても寝る場所に困るだろうし、ここはひとつ一晩きちんと睡眠を取り、あえて体力を温存してはどうだろう。どうせ明日から九州に入れば、本気を出す予定なんだから)ともっともな言い訳を編み出す。自分をより楽な道へと誘う理屈は、湯水のごとく湧きだすのである。
     JR長府駅(182km地点)を過ぎた所にあるホテルAZ山口下関店に着いたのは22時過ぎ。朝食つき4800円なり。チェックインをしながら「明日こそ3時起きで頑張るぞ」と決意を強くしていたら、カウンターのお姉さんが「実は、本日は大学生のお客様が多くて、明日の朝食に混雑が予想されるので、食事のスタートを6時に早めさせていただきます」と案内してくれる。
     その言葉に素直に従い、翌朝もまた早起きすることはなく、きっちり朝食バイキングをとり、日が高くなってから出発する。神戸製鋼の大工場地帯の脇を、出勤する作業着やスーツ姿の人びとの合間を縫って走る。工場群を抜けると海辺に出る。狭い水路の反対側の陸地は、ようやっと九州なのだ。正面に関門橋の威容が迫ってくる。走りだして3日目の朝8時30分、関門海峡の地下トンネルをくぐり抜け、九州に上陸する。
     山腹にへばりつくように築かれた門司の古い街並み。斜面を削り取って街を造っているためか、歩道もひどく斜めになっていて着地のたびに足首が痛い。高い煙突やサイロ、道路と工場を隔てる長いコンクリブロックの壁が連なる。小学生の頃、社会科で習った北九州工業地帯ってあたりに入ってきたのかな。
     高層ビルが林立する小倉駅前の大都会ぶりは圧巻だが、都市エリアを抜ければ再び古い街並みに変わる。薄暗い照明の酒屋さんにはカウンターがしつけられ、100円でコップ酒が飲めるようだ。まだ昼前というのに、堂々と営業中である。古い商店街から脇へと伸びる小路には、このような立ち飲み屋があちこちにある。新日鐵住金はじめ世界に名だたる製鉄工場が湾岸に居並ぶこの街ならではの原風景だ。工場の夜勤を終え、駆けつけで一杯やる「クイッー」は、さぞかし労働者の心を癒やすことだろう。
     本日も灼熱びよりが一層増し、陽射しが肌に照りつけて痛い。クラッシュアイスを首筋や帽子に投入しても、すぐに溶けてなくなってしまう。
     JR八幡駅前(214km地点)のロータリーで路上に座り込み、天を仰いでグロッキーになっていたら、散歩していたトラ猫が5メートルくらい離れた所で止まり、興味深げにじーっと見つめている。手招きすると近寄ってきたので、そのまましばらく猫とじゃれあっているうちに戦意が萎んでくる。
     八幡駅から3km先のJR黒崎駅前は、とても興味深い街である。地図を俯瞰すれば駅前から180度の角度に12本もの道路が放射状に配されていて、横道が蜘蛛の糸のように張られている。そのうち何本かの細道にはガールズパブにピンサロにソープにと風俗店が軒を連ねている。いかにも風俗街と思わせながらも、いかがわしいピンク色の看板の間に間には、一般のご家庭人が暮らすマンションが建ち、下校中の小学生たちが闊歩している。ううむ、このような混沌とした場所で幼少期を過ごせば、精神面のバランスが良い大人へと成長するのであろうな。ブレードランナー的世界観の街にはぜひ一泊して後学を深めたい所だが、広島長崎リレーマラソンの主旨に合わないのは明白。後ろ髪を引かれつつ離脱する。
     夜21時30分頃、福岡県直方市の街にさしかかった辺りで、夜道に燦然と輝くホテルAZ直方店のエントランスへと吸い寄せられてしまう。九州で有名なホテルチェーンの「ホテルAZ」は、どんな田舎町の郊外にも必ず1軒はある。店舗の壁にはカラフルな虹の模様が描かれていて「ご休憩しなさい」と旅人を甘く誘ってくるのだ。実に目の毒である。来年からは目をそらして前を通過しよう。ビジネスホテル3泊目である。
     翌朝、ホテルからJR直方駅(232km地点)まで走り、「広島長崎リレーマラソン」のランを終える。参加ランナーは、本日の午前11時までに長崎市の浦上天主堂遺壁に集合するのが、この大会「唯一最大」と言っていいルールなのだ。その時刻に間に合う電車に乗らなくてはならない。
     JR直方駅から長崎駅へと電車移動する。博多駅で乗り換えると、セレモニーのある長崎市への特急電車は満席で、通路や連結部分まで立錐の余地なく、トイレ横の壁にへばりついて2時間近くを過ごす。
     長崎駅前に降り立つと、原爆落下中心地へと向かう凄い数の人の波に圧倒される。数百台の自転車に乗った子供たち、練り歩くデモ団体のシュプレヒコール、拡声器からは政治団体の手前勝手な主張・・・。広島長崎リレーマラソンの諸先輩方の集団とは自然と合流できた。大半のランナー方もまた、午前11時に合わせて423kmをリレー形式で走り続けてきたのだ。
     結局、ぼく自身は全行程の半分程度の232kmしか走れず、広島市を発ってからビジネスホテルに3連泊という、現世にただれた走り旅をやらかしてしまった。必死の思いを携えてこの地にやって来たわけではないのだが、最後の2kmでは、大きな人の渦がつくるエネルギーの塊に運ばれるような、不思議な感覚を味った。自分の足でここまで来られたら、この感覚はずいぶん違ったものになっただろう。

    【今回の反省点と来年の再チャレンジに向けてのメモ】
    ・道に迷ったら、元いた場所に戻ろうとジタバタするのはやめ、方角優先で突破する。
    ・赤信号の待ち時間の多い国道より、旧街道や裏道を選択した方がよい。
    ・背中が熱くなりすぎるリュックはやめ、荷物を削ってウエストバッグにする。
    ・コース一帯のコンビニで売っている竹下製菓(佐賀県)製のアイスは秀逸。特に「ミルクック100円」と「おゴリまっせ70円」は来年も大量投入したい。